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細川家
は元々足利将軍に仕え、織田に見出され、明智に頼られるも、それを断り、更に転々、豊臣から、徳川に従うに当たり、他ならぬ明智の娘 玉のこの所業は深く 家康の心証を掴んだでしょう。
それ故に、細川忠興は、ガラシャの死の1年後、大坂でキリスト教式の葬儀を営み、涙を流し、 新領地となった小倉
にも、
ガラシャと文通していたグレゴリオ・デ・セスペデス神父を同行させ、教会を建て、ガラシャの命日にはミサをあげてもらうなど、妻をしのび、キリスト教のよき理解者としてふるまった様です。
他方、東軍西軍どちらが勝っても、細川家存続出来るように、二人の間の次男、細川興秋( おきあき)は(玉 の影響か、キリシタンで)大阪冬の陣 夏の陣では (真田家一族にも、その例がありますが・・・)豊臣方について奮戦し、結局切腹させたそうで・・。
時流を読むに敏な家柄
か、 幕府のキリシタン弾圧が強まると一変。セスペデス神父の急死や禁教令を機に迫害に転じ、天草の乱でも、率先弾圧したらしく、ガラシャ夫人の37才の時の死は、それ以上長生きすればするほど辛かった訳で
「 散りぬべき 時知りてこそ
」 だったかも知れませんね!
http://www.geocities.jp/general_sasaki/hosokawa_gracia_ni.html
及び
http://www.be.asahi.com/20060624/W21/20060614TBEH0015A.html
より
深読みすれば、三成のこの事あるを読んでいた忠興が、いざの際は家老に殺害を命じ、自身は切腹せよと指示していたのが正解かも・・・
その方が(自刃を)意図せぬ 伴天連信者 ガラシャ
らしいし、辞世の句も、何となく後で造った、男くさい名句に思えるのですが・・??
(唯でさえ、絶世の美人だった 玉 が 自分の事を、花に例えるほど自意識過剰だったのも不自然なような??)
H氏の郷里にある、 小倉城天守閣 は ガラシア夫人の遺徳の伴天連の影響もあり 、その折、忠興が築いたが、 南蛮造り (唐作り)と呼ばれ、この工事には同行させた、外人宣教師の持つ土木技術を導入し、ローマ法王庁にもその存在を知られていたといいます。・・小倉に教会を建てたらしいが場所他は未確定の筈・・(お勉強しておきます。)
その後、寛永9年(1632年) 細川氏は、肥後国へ移 り、替わって播磨国明石城主であった譜代大名の 小笠原 忠真[ただざね]が小倉城に入り、十五万石を領した。
江戸末期、長州征討戦の慶応2年(1866年)8月1日、小倉藩は、田川郡に撤退する際、小倉城に火を放ち、城内の建物は、ことごとく灰じんに帰した
従って、現在あるのは、昭和34年鉄筋コンクリートで、再建されたものです。
http://burari2161.fc2web.com/kokurajyou.htm より
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