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山田維史 《春の彷徨》コラージュ 2007年1月31日 春の彷徨 ひたぶるにたどる細道 心哀しく、撲てども涙はせきて あわや夕景はかきくらす一面の菜の花畑に たちまちにも黄金とびちる とびちる黄金ひとつ手にとり 空高く、放りつつ放りつつ歩く 一瞬の印象は強けれど 今はそも消えぬ 心哀しく、撲てども涙はせきて ひたぶるにたどる細道、春のさまよい (山田維史 少年詩集「窓なきモナド」より。1965年頃)
Jan 31, 2007
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取り込みわすれていた夕刊を取りに、すでに夜がおりた戸外に出た。ふと空を見上げると月が輝いている。周囲に虹の暈がおぼろにとりまいている。 それを見て、54年前、小学校1年生のときの担任樋口カエ子先生を思い出した。私は絵日記に月の暈を見たことを書いた。すると先生は私の記述につづけて、その科学的な説明を書き加えてくださったのだ。 樋口先生は私にとって最良の先生であった。どうなさっておいでだろう。80歳を越えられたことだろう。お元気だろうか。 ・・・先生、先生がプレゼントしてくださった折畳み式のルーペを今でも大切に持っておりますよ。先生がいつも首にさげていたリボンは、とうの昔にボロボロになって失われ、ルーペに刻まれた「K.Higuchi」というイニシャルも私の手のなかですっかり薄れてしまいましたが、いまでも私はときどき仕事で使っています。 54年前の先生の御年賀状も保存してあります。 先生がおしえて下さった鱗粉転写法による蝶の標本も、油紙につつんで保存箱にはいっております。 私の描く絵のなかにしばしば蝶が登場します。昔、パリで展覧会をした折り、ある評論家が、「ヤマダ・タダミは蝶に先導させて秘教の世界にわれわれを連れてゆく」と書いたものです。・・・先生とすごした1年半という時間が、私の画家としての人生の基盤に豊かによこたわっています。 樋口カエ子先生、お元気ですか?1953年(昭和28)、樋口先生は御自分が使っていたルーペを贈ってくださった。私の宝物である。大切にするあまり、どこかにもぐりこませないように、現在は仕事机の抽出のなか。
Jan 30, 2007
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山田維史 《赤と緑のバロック》コラージュ 2007年1月29日(ボストン美術館蔵・葛飾北斎「鳳凰図屏風」による)
Jan 30, 2007
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たびかさなる企業倫理の乱れを聞くと、私はきわめて単純に、「これらの企業の経営者をはじめとする社員たちは、自分達の家族には自社製品を使わせていないのかしら?」という疑念がおこる。 不二家の経営者一家は、自社のケーキや菓子類を決して食べないのだろうか。でたらめな製品管理、細菌がうようよ、蓋をあければパンドラの匣、蛾が飛び出すしまつ。これではとても自分の子供や孫たちには食べさせられまい。 パロマ工業の経営者も自社製品は決して自宅では使っていないのだろう。火災で一家を殺すわけにはゆくまい。 三菱自動車の経営者は、いったいどこの会社でつくった車に乗っているのだろう。とても自社の車には危険で乗れまいから。 コンピューターは発火するし、洗濯機も火を吹く。建築物はまるでトランプの家、吹けば倒れる。 不思議だ不思議だ。自分が食べることができないもの、自分が使うことができない物をつくって、平然と売り付ける。危険を承知で知らないふりをする。 お前さんの食べている他社製品だって、もしかしたら製品管理でたらめ製品かもしれないですぞ!企業倫理の欠如は、お前さんだけではないかもしれない。自分だけ安全だと思うのはおおまちがい。 不思議だ不思議だ。この幼稚な経営感覚は!山田維史 《青の変奏曲;水温む》コラージュ 2007年1月28日
Jan 28, 2007
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東京は気持よく晴れた一日。散歩がてら近所に買い物に行くと、八百屋に「たらの芽」が出ていた。まさに季節限定の春野菜。福島県の「JA会津いいで」出荷とある。さっそく買う。ラッピングを少し破いて鼻をちかづけてみた。青い香がした。「ああ、春の香だね。味噌和えにしよう。それとも薄い衣をほんの少しつけて、天麩羅にしようか」 「JA会津いいで」というのは喜多方市を中心にする農協とのこと、飯豊山の麓にひろがる野菜の産地である。喜多方市は会津若松市の隣の町で、蔵の町・ラーメンの町として名をあげている。私が会津若松に住んでいた44,5年前は、蔵の町ではあったが、ラーメンで有名になるとは思いもよらなかった。 思い出したことがあるので、ついでだから述べておこう。鈴木清順監督の映画、高橋英樹主演『けんかえれじい』(1966年、日活)は、なかなか面白い作品だが、旧制中学生がたわいもない喧嘩にあけくれるその青春の舞台が喜多方である。なぜ喜多方なのかは分らないが、詮索するほどの理由でもあるまい。とにかく、喜多方なのだ。・・・まあ、それだけを言いたかったのです。 「たらの芽」は、地方によっては「たらん坊」などとも言う。「たら」は、コンピューターのフォントには入っていないが、木ヘンに怱と書く。ウコギのなかまである。茎にも葉にも鋭い棘があるので、「鳥とまらず」という俗称がある。「多羅」と当てて書くこともある。春先に芽を出し、それが3,4cmほどになって若葉を出す寸前に食用にする。昔は山菜として採集していたものだが、現在はどうなのだろう。栽培物なのかもしれない。 物の本によると、タラの木の樹皮は糖尿病に効くとある。煎じて飲むのであろうが、糖尿病に対してどのように効果があるというのだろう。糖尿病は一旦発症してしまうと、完全治癒がむずかしい、あるいは不可能だというから、煎じ薬で治るとも思えない。何にしろ素人療法は危険なので、このブログを読んでの実行はおやめになったほうがよろしかろう。 とりとめもないことを書いた。 鶯にたらの芽のびてしまいけり 虚子 鶯が鳴く頃には、たらの芽を食う時季は過ぎてしまっている。春を心待ちにしている頃の先走りの香りなのである。山田維史 《日射しの中の真直ぐな緑》コラージュ 2007年1月27日
Jan 27, 2007
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夜に入って小雨が降ったが、日中は良く晴れておだやかな日射しにつつまれていた。庭の白桃が固い芽をたくさん出している。緑ばかりで花の少ない我家の小庭で、パッと春の到来を感じさせてくれるのが白桃の花だ。 冬至から1ヵ月を過ぎて、日脚の伸びを実感するようになった。20分ほど長くなっているという。たしか沖縄だったと記憶するが、日本でもっとも早く開花する桜がある。しかし今年はその開花が暖冬のせいで遅れているらしい。気温が暖かいのに何故?、と思うが、春先に咲く花というのはおおむね、寒冷を耐えなければ開花しないのである。 今年もっとも気温が下がったのは北海道の標津岳方面で、氷点下25℃だったそうだ。私は雪国育ちとはいえ、さすがにそんな低温を経験したことはない。氷点下25℃ともなると、樹木が裂ける。バキッと激しい音がとどろく。この音は子供のころに聞いたことがある。山中の森のなかで、突然、バキッ、バキッと破裂音がするのである。はじめて耳にしたときには、いったい何の音かと驚いた。非常な寒さのために、樹幹の中の水分が凍結して体積が膨脹するのである。 このような寒冷地の樹木は、苦難を耐えに耐えて成長するので、年輪が詰まって固い。また一本の樹木さえ、北側と南側では年輪の詰まり具合がことなる。それは丸太の切断面を見れば比較的容易に視認できる。 亡くなった宮大工の西岡常一さんによると、古建築を調べると、建築の東西南北に使用材木の年輪の東西南北を合わせてあるのだそうだ。古建築の強さというのは、材料の自然の理を建築の理としているため、と西岡棟梁は喝破している。人間の知恵とは、そのような理を発見し、それを応用することにほかならない。 「しかるに」と西岡棟梁は嘆いていた。古建築の解体修理にあたって、建築学の権威を誇る大学教授たちが、やれ釘を仕えコンクリートにしろと押し通し、千年保つ建築を数十年の寿命にしてしまった、と。 まったく知恵の働かないことで、学問をして学ならず。日本の文化意識に顕著な二面性の好例である。伝統、伝統と言うわりには、真の知恵には目が向かず、中心が空虚な球体を撫でているようだ。 地の底に在るもろもろや春を待つ たかし山田維史 《赤と黒の夜》コラージュ 2007年1月26日
Jan 26, 2007
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山田維史 《イメージの連鎖;森の出来事》コラージュ 2007年1月25日
Jan 25, 2007
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山田維史 《春待つ椅子》 コラージュ 2007年1月24日
Jan 24, 2007
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山田維史 《雨の鋪道》 コラージュ 2007年1月23日
Jan 23, 2007
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昨夜このブログ日記を書きながら、ニュースを聞こうとラジオのスイッチを入れた。そしてそのまま聞くともなく聞いていた。すると午前3時、NHKで童謡歌手の川田正子・孝子姉妹の特集をはじめた。川田姉妹といえば戦中戦後の数年間、つまり私の幼年時代、その歌声は毎日のようにラジオから流れてきたものである。小学生の正子さんは空襲の最中もNHKに待機して敵機が去るとマイクに向っていたのだという。少女歌手としての川田正子さんが活躍したのは、じつはわずか4年間、中学生になって変声期に入り昭和22年には引退している。その後、芸術大学の声楽科に学ばれてから再び童謡歌手として復帰したそうだが、私の耳に残っているのはやはり少女時代の歌声。私は終戦の3ヵ月前の生まれだから、妹の孝子さんの歌はともかく、正子さんの歌声はレコード録音されたものだったのであろう。その正子さんが急逝されたというニュースに接したのは、ちょうど1年前のことであった。 川田姉妹といっても御存知ない方もあるかもしれない。しかし、正子さんの方は『みかんの花咲く丘』や『里の秋』、あるいは『とんがり帽子』や『蛙の笛』、孝子さんの方は『さくらんぼ大将』や『からすの赤ちゃん』や『ちんから峠』、また『おさるのかごや』があり、そのいずれかは必ずや御存知であろう。私は、幼い頃にラジオから流れてくるのを聞いただけだが、いま挙げたものはすべて歌える。私と同年輩ならばおそらくみなさん歌えるのではあるまいか その川田姉妹の特集番組もほとんど終わりかけるころ、私が52年振りに耳にする歌が流れてきた。あわてて歌詞を書きとめようとしたが、その物語風な童謡は意外にことば数が多く、とても筆記が間に合わない。 「信州信濃の雪とけて お山はとろり春霞み・・・」と始まるその歌、作詞・加藤省吾、作曲・八洲秀章、歌唱・川田孝子・伊藤久男。『一茶と子供』という。一茶というのは、俳人小林一茶のことである。 私はこのタイトルをすっかり忘れていた。 52年振りに耳にしたと言ったけれど、小学校2年生のとき、私はこの『一茶と子供』を文化祭学芸会で舞踊劇としてやらされたのである。長野県の川上第二小学校から福島県南会津の荒海小学校に転校してまもなくのこと。 私は一茶老人を演った。宗匠頭巾をかむり、茶のもんぺ袴、紺絣の袷に袖無しの茶の羽織りを着て、竹杖を持った。これらの衣装は、もんぺ袴を八総鉱山で御近所だった水野さんの小母さんが、他は母がつくってくれた。学芸会の衣装にしては本格的な立派な仕立てだった。担任の弓田先生が感激して、上演に一層気合いを入れられた。この衣装のせいもあり、『一茶と子供』は好評だったようだ。というのは、翌年、3年生のときにこの同じ衣装で、4年生の劇『まねし小僧』に、主演のまねし小僧役で客演することになったからだ。 それはともかく、私はその後、そういう舞踊劇を演ったことは記憶に残ったが、歌のタイトルはすっかり忘れてしまったのだった。歌詞も最初の数節はおぼえていたし、歌えもしたのだが、残り多くがどこかへ消え去ってしまっていた。 ラジオから聞こえてくる歌詞をメモしながら、ああそうだったと、今度は舞台を歩むあしどりが断片的によみがえってきたのだ。 この歌は物語風に子供と老人一茶とのかけあいとして構成されている。 子供が、「とぼとぼ一人おじいさん もしもしどちらへ行きまする」と問うと、一茶老人が「ハイハイ儂かい 儂ならのう 旅から旅の歌読みじゃ・・・」と応える。 私はラジオに耳をかたむけながら、「そうだそうだ、そうだった」と次々に思い出した。しかし、まさか川田孝子さんの歌だったとは。そして一茶のあの声が伊藤久男氏だったとは、たぶん昨夜はじめて知ったことだ。だがその声は52年の時空を超えて、はっきりよみがえってきた。その声を聞いている耳は小学2年生なのに、今ここにある私は61歳であることが、奇妙なズレとなって、私の感覚は、一瞬混乱した。 懐かしいというわけではない。が、なんとなく、長い長いあいだの疑問が氷解したような気分である。 あらためてインターネットで検索してみると、川田姉妹のSP盤レコードの歌声がCDとして復刻出版されていることが分った。『一茶と子供』も含まれている。私はこのCDを購入しようか、それとも穴だらけのボロのような記憶のままにしておこうかと、ちょっと迷っているのである。 それにしても、つくずく歌の力を感じる。52年の遥かな距離をいっきに埋めてしまう力。それはまた、言葉の力でもあるだろう。「お山はとろり春霞み」というフレーズの、「とろり」という副詞。「春の海ひねもすのたりのたりかな」と詠んだ与謝蕪村の、その「のたりのたり」に通じる使い方。気体・液体の形状描写であるとともに、受け取る側の触覚的な感覚をまるごとつつみこんでしまうような表現である。これはおそらく日本語特有の表現なのではあるまいか。私はしばらくのあいだ、『一茶と子供』を52年振りに繰り返し口ずさんだ。荒海小学校文化祭、4年生の『まねし小僧』に客演したとき。中央で腰に小太鼓をぶらさげているのが3年生の私。1954年(昭和29)。『一茶と子供』の写真はない。
Jan 22, 2007
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きのうは大寒。東京は寒い一日だった。街が灰色のまるで靄のような冷たい気におおわれていた。しかし関東近県でも三月初めのような温かい地方もあったという。 ことしは世界中で気候の異変がおこっているらしい。アメリカのコロラド州デンバーあたりは大寒波だそうだ。ところがイギリスのスコットランドではたいそう温かく、例年なら鮭が遡上して産卵する季節なのだが、その産卵が遅れているのだという。 温暖な冬というのは、私のような自由業の暮らしをしている者には結構なことではある。昔のことだが、新しい住まいを探していたとき、東京を出てもいいと思っていたので、不動産屋に頼んであちこちの土地の写真資料などを送ってもらっていた。なかなか気に入った物件がみつからず、そのうち様々な夢想がまじってきた。四季がはっきりしているのもいいな、などと考えて、北国も探索してもらおうと電話した。すると、私より若い担当者が、「それは考え直したほうがいいかもしれません。温暖な東京の暮らしに慣れた人が、年をとってから寒さが厳しい雪国に移住するのはお勧めできません」というのだ。なるほど、たしかにそのとおりに違いない。東京に住んで30年、いまでは40年を過ぎているが、それ以前は雪国に住んでいた。家の周囲の雪掻きもたいへんだが、屋根の雪降ろしはもっとたいへん。東京暮らしで軟弱になった肉体では、年をとらなくてもお手上げになることは、言われてみれば目に見えている。 ・・・そんなわけで、東京暮らしをつづけることとなった。温暖な冬ということを耳目にするたびに、あのときの若い不動産屋氏の説得を思い出すのである。 さて、きょうの日曜日、きのうの寒さは去って、朝から良く晴れあがった。昼食後、私はひとりで外出した。ジャケットを一着誂えようという次第。私のサイズを持っている店に行ったが、既製服のところでふと目に入った一着があった。私の体型はほとんど一定してあまり変化がないのだが、店側にいわせると背筋が反りぎみらしい。また見た目より肩幅があり、やや怒り肩だとも。そのため、若い頃から既製服をほとんど着たことがなかった。しかし、目に入ったジャケットを試着してみると、これがピッタリなのだ。「御痩せになりましたか?」と店員がいうので、「自分では変わっていないと思っているのですがねー」と応え、「これピタリですね。丈もいいでしょう? これを貰うことにします」 たちまち買い物はすんでしまった。ものの15分だ。「なーんだ、標準体型じゃないか」と心中につぶやいた。予算よりずっと安上がりになった。 ウッフッフと、ほくそ笑みながら、よし、古書を見に行こう。 しかし、そうそう都合良く欲しい本が見つかるわけでもなかった。手をのばして頁をパラパラめくるが、いずれも食指がのびない。収穫なしと見限って、ふとレジ脇の棚に目をやった。するとそこに妙なぐあいに展示してある一冊があった。棚にならべているのではなく、薄いプラスチックの袋に入れて、棚に打ち込んだ釘にぶらさげているのである。B6判の30頁そこそこの薄い冊子だ。表紙に小さな欧文活字がならんでいる。 「ウン?」と、目を凝らした。見覚えがあったのだ。で、目を近付けた。 ロベール・デスノス『エロティスム;L'EROTISM』、澁澤龍彦訳。 「やはりそうか」と、思ったのは、この本は私の蔵書にあるのだ。しかも入手にはちょっとした思い出あった。私が購入たのはもう25年ほども昔だが、当時からすでに稀覯本の名を高くしていたので、それを見つけたときはいささかあわててしまった。ちょうど財布には持ち合わせがなく、胸をどきどきさせながら近くの銀行に走ったのだった。たしか5千円だった。薄っぺらなパンフレットのような一冊の値段である。 棚にぶらさげられた『L'EROTISM』は、もし棚にならべては他の本の間に完全に埋没してしまうからそのように展示しているのであって、ぞんざいに扱っているわけではない。なんとなれば、価格は小さくつつましく書かれてはいるが、なんと6万3千円とあった。25年前に私が買った価格の12.6倍である。 店主がちらりと私を見た。私は心のなかで、「持っているんですよ」と応えた。そして店を出たのだった。
Jan 21, 2007
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山田維史 《新しき出発》 コラージュ 2007年1月18日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・私にとって恒例になった季節の節目のコラージュ遊びは、今年最初のシリーズは今日で最終回といたします。一日一点、全部で10作品をつくってみました。なお、全作品をフリーページの「日替りコラージュPart5」に掲載しております。
Jan 18, 2007
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一昨日、1月15日の朝日新聞朝刊に「朝日新聞の字体 一部変わります」というタイトルで1ページにわたる社告的な記事が掲載されていた。 その要旨をのべれば、1946年に内閣告示によって決定された「当用漢字表」以外のいわゆる表外漢字の一部を、伝統的な「康煕(こうき)字典体」に改めることにした、というもの。 「当用漢字表」というのは、やさしい日本語表記をめざして、現在「正字体」もしくは「旧字体」といわれる漢字を、簡略字体に直し、また難しい漢字を使わないように使用漢字を制限したものである。1949年に完成した。 しかし「当用漢字」のみで日本語を十分に表現できるわけではないので、使用制限はしてもそれ以外の漢字も「表外漢字」として認めてきた。朝日新聞はその表外漢字の簡略字体をつくり、それは「朝日字体」として多くのメディアも採用するところとなった。 戦後の10年間、内閣告示をきっかけに日本語表記について様々な議論がもちあがった。なかには拙速で愚劣ともいえる意見もあり、おおいに揺れていた時代だった。漢字を捨てろという意見もあれば、ローマ字表記にしたらどうか等々。小説家の志賀直哉などは、日本語を排してフランス語にせよなどと、バカな意見を恥ずかし気もなく公言していたのである。 漢字字体が再び問題視されるようになったのは、パーソナル・コンピューターの普及によって、難字を簡単に表記できるようになったことと、フォント字体がさらに簡略化されて、それと書籍等との字体の相違により混乱がでてきたためである。2000年、国語審議会は「表外漢字字体表」を答申し、辞書や書籍等が使用している表外漢字字体を追認し、あらためて「康煕字典体」を標準字体とすることとした。これによって04年にはJIS漢字も改正された。 このたびの朝日新聞の字体改正もまた、この答申にそうかたちで決定されたようだ。 難しい漢字を簡略化して、国民の国語力をたかめるという政府の努力は一概に否定はできない。しかし、一方には、文化破壊の危うい一面もあることも否定できまい。学力低下が大きな問題となっているが、じつはその低下を導いてきたともいえるのだ。 このたび朝日新聞が字体を改める表外漢字は、(1)3部首(しめすへん、しょくへん、しんにょう)を含むもの。(2)点画の向き・増減、その他。 例としてあげている、「祀」は改正前は「ネ」へんであった。そもそも「示」へんは、神への供物を盛る台を意味しているので、祓・禊・禧・禮など、神に関わるものは本来的に「示」へんでなければならない。私のコンピューターのデフォルト・フォントはこのように「示」へんになっているけれども、肝心の「神」という字体は改められてはいない。「ネ」へんでは意味がないので、漢字を教え・覚えるときに記憶の拠り所がないということにもなる。「示」へんならば、神への供物台と覚えればよいので、関連文字がなんなく手繰り寄せることができる。簡略化したけれども意味を失ってしまったのだから、学力向上を叫ぶのも笑止ということだろう。 他国の例をもちだすのは気が引けるが、中国が略体字を制度化し、おそらくその政策によって国民の識字率は格段に向上したであろう。しかし、私がある大学関係者から聞いたところによると、自国の、それこそ中国4000年の歴史的文書が読めなくなってしまったというのだ。大学院生クラスの研究者が、日本の専門家に学びに来るのだという。宝の持ち腐れ状態。自国の漢字文化を破壊してしまったと推測できる。 私は、朝日新聞の「康煕字典体」への積極的改正は、当面いろいろな波紋がおきようが、賛成しないではいない。このような正字体への復帰の影響が、パーソナル・コンピューターのデフォルト・フォントにも波及することを望む。というのも、学術的論文を執筆する方なら納得ゆくだろうが、古資料(史料)をそのまま引用するときに従来はいかにも不便だった。非常に高価な特殊漢字のソフトを購入するか、作字するしかなかったからだ。 私の持論なのだが、文化というのは、時の政治の道具ではない。政治というのは「現在」しか視野に入れないものだ。したがって文化行政の眼目は「保護と育成」に限るべきで、「統廃合」などに手を下してはならないのである。 話は変わる。 我が国の最大の漢和辞典といえば、『大漢和辞典』全13巻(大修館刊)。諸橋轍次(1883-1982)が編纂した。約5万字の漢字が収録されている。私はいつも国会図書館にかよって利用するのだが、こんな面白い辞典もない。なにしろ5万の漢字なのだから、ほとんどがかつて見たこともないような漢字が並ぶ。しかも一字一字に詳細な成立過程の説明が付されているのみか、中国古代文献のどこにその文字が出て来るということが記されている。学究とはいかなるものか、圧倒的な力をもって知らされるのである。 ところで、この諸橋轍次博士展がまもなく東京で開催される。渋谷区神宮前4丁目の「表参道・新潟館ネスパス」で。1月27日から2月4日まで。 幻の第1巻『大漢和辞典』も出展されるそうだ。山田維史 《夜明けの街》 コラージュ 2007年1月17日
Jan 17, 2007
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山田維史 《日を同じくして論ずべからず》コラージュ 2007年1月16日【作者注】「日を同じくして論ずべからず」という言葉は、『史記游侠伝』に出てくる。いかに同じように見えようと両者の間には大きな違いがある、という意味である。
Jan 16, 2007
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山田維史 《あなたの空わたしの空》 コラージュ 2007年1月15日
Jan 15, 2007
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我家では7日夕方に門松を取り払った。東京はたいていこの日にそれを行なう。しかし昔は、江戸時代のころもふくめて、今日14日におこなったようだ。地方にはまだ昔ながらに14日に行なうところがあるかもしれない。なぜ7日に繰り上がったか、詳しいことを私は知らないが、もしかすると御用始めや勤務先の正月休みの終了に関連しているかもしれない。 ところで明けて15日は「小正月」と呼ばれる。小豆粥を食したり、繭玉を飾ったりする。小正月はまた「女正月」と言われる。年末から門松払いまでのおよそ3週間、家の女性たちは働き詰めに働く。その慰労のために、この日は一日ゆっくり休んでもらおうというわけだ。しかし、どうも完全休養ができたかどうか。 「細腰を柳でたたく十五日」という古い句がある。 この意味、じつは粥杖と呼ばれた柳の枝で女の腰を叩くと男の子を懐妊するという信仰があった、そのことを指す句である。これ以上のことは述べなくてもお分かりだろう。 柳と懐妊がなぜ結びついたかは不明ながら、おそらく家産を増やすというイメージがあったにちがいない。この日飾る繭玉というのは、柳の枝に繭の大きさほどの餅や団子をつけ、金紙でつくった模造の小判や稲穂やオカメの面などを結びつけるもの。養蚕家や商家ばかりでなく、一般家庭でも家内繁盛の願いをこめて飾った。東京では昔、神田明神社や亀戸天神、妙義神社の社前で売られていたという。明治時代の市井風俗を描いたものに、マントに鳥打帽をかむった男が繭玉を肩にかついでいる絵がある。 銀座の柳は有名だが、これも単なる街路樹という以上の意味がこめられていたかもしれない、と私は考える。現在はほんの一部、すなわち柳通りに復活植樹されている。 また、清酒のことを柳酒もしくは柳樽という。現在でも特別な祝事や結婚式などで、長い胴に長い柄のいわゆる角樽に朱漆をほどこした酒樽をみかけるが、これが柳樽である。酒を贈るかわりに、酒代を贈ることがある。この金を柳代(やなぎしろ)と言った時代があった。 どうも、柳というのはやはり目出たさ、祝儀と結びついているようだ。後日、もうすこし古い文献などを探索してみるのも面白そうだ。 ついでながら、卯の木の杖は魔を払うという信仰もあったようだ。昔の俳句に柳杖と卯杖と対で詠まれることがあった。そして唱歌『夏は来ぬ』でおなじみ、「卯の花の匂う垣根に」と歌われるこの垣根、もしかすると家の周りに魔除けのために廻らせたものかもしれない。 きょうの昼間、私は繭玉のことをふいに思い出したのだった。私が小学生のころまでは、我家でも繭玉を飾っていた。紅白の丸い団子を柳の枝につけ、模造小判なども結びつけた。小学生のころというと八総鉱山に住んでいた当時もふくむわけで、たしかに茶の間の片隅の柱に結わえつけて飾られていたことを思い出す。この祭事はもっと幼年の記憶にもあるけれども、我家は養蚕家とも商家ともまったく縁のない家系である。どうしてこの行事が我家に入ってきたか疑問に思い、母に尋ねてみた。母も小首をかしげていたが、母の子供時代の記憶にもあるので、おそらく母が持ち込んだものだろうということになった。 我家へ伝来の由来はともかく、これが排されてしまったのは、私が中学に入ると同時に親許を離れてしまったからのようだ。柳の枝を探しに出かけたり、飾り付けをする者がいなくなってしまったわけである。 繭玉飾りが取り払われると、紅白の小さな団子は砕いて、油で揚げてアラレにした。揚げ立てに砂糖をまぶして食べるそれは、子供のころの楽しいオヤツだった。 明日は小豆粥ならぬ小豆善哉でもつくろうか。山田維史 《とどかぬ日射し》 コラージュ 2007年1月14日
Jan 14, 2007
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山田維史 《陽のかげり》 コラージュ 2007年1月13日
Jan 13, 2007
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山田維史 《眠りの街にて》 コラージュ 2007年1月12日
Jan 12, 2007
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山田維史 《天と地の黒》 コラージュ 2007年1月11日
Jan 11, 2007
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働く者の基本的な条件を定め、その人権と生活を保障する法律である労働基準法が、現在、柳沢厚生労働大臣のもと厚生労働省によって改悪されようとしている。 もっとも注目すべきは、残業手当ての支給を止めるということだ。残業を廃止するのではない。タダ働きをさせるということである。ゴチャゴチャへ理屈をならべているが、要するに、そういうことだ。 どういう言葉を使っているかというと、「一定の条件を満たした会社員を、労働時間規制からはずし、残業代をなくす」というものである。〈ホワイトカラー・エグゼンプション;white-collar exemption〉などとシャラクサイ呼び方をしている。こんな言葉をつかうこと自体が国民に対して不誠実である。なぜ、「サラリーマンの規制免除」と言わない。こんなシャラクサイ言葉を持出すと痛くない腹をさぐられるだろうし、事実、国民を欺こうという意志が感じられる。 〈ホワイトカラー・エグゼンプション〉というその実体は、なんのことはない、これまで週何時間内と残業時間を規制して、働く者が過酷な労働時間を強制されたり、それによって健康を害したり、家庭生活の幸福を奪うことがないようにしてきた労働基準法を、根幹から破壊して、いわば給金なし時間制限なしに働かせようということだ。 厚生労働省の原案では、「年収が、現状では、900万以上」の会社員と想定されているが、これは将来的には容易に変更される可能性があるばかりではなく、第一、年収が多かろうと少なかろうと、会社員がタダ働きを強制されなければならない理由はいったいどこにあるのだ。労基法にこのような条項をもりこむこと自体が狂気のさたといわなければならない。ホワイトカラーであろうとブルーカラーであろうと、働いてできるだけ多くの収入を得るという、そもそもの働く喜びを奪って、いったい何の人生だというのだ。労働者は奴隷ではないのだ。 働けど貧しい(ワーキング・プア)という国民生活は、国民の発言力が奪われることにつながってゆく。貧しさというのは、強権力に対して抵抗力がないものだ。まったくないというわけではないが、それはむしろ特異例となって現われて来る。たとえ貧しさを自覚するほどではなくとも、たとえば会社という組織のなかで、「お前、コレとコレとコレをやっておけ。それがすんだら、今日中にコレもやれ」と上司にいわれて、「ノー」と断ることはできないだろう。新しい労基法が狙っているのは、その強権的命令を法律が保障しようということである。 その結果は目にみえている。労働者の使い捨てであり、ごくわずかな富める者が大多数の国民を意のままにあやつる社会である。国土が狭い日本では、おそらく想像以上にその状況をつくりだすのが容易だろう。占いや霊感などの流行は、すでにして煽動にのりやすい精神不安が育成されているとみてよい。 いまや日本の政治は、・・・いや、立法も司法も行政も、ことごとく腐敗臭がただよっている。裁判において民意を尊重した判決を下した裁判官が自殺しなければならない国なのだ。ゾッと背筋が寒くなる。そして、議員たちは中央も地方も、ともに国民を食い物にする所業ばかり。 彼等の醜い所業、ヤクザなタカリをやめさせるためには、まず彼等を選挙で落選させて、ただの人に返してやることだ。それしかない。法律が制定され、制度が発足すれば、それをふたたび改めるのは、改悪するよりも困難なものである。山田維史《霧の彼方へ》コラージュ 2007年1月10日
Jan 10, 2007
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9日、防衛庁が防衛省に格上げされた。これにより防衛庁長官は防衛大臣となった。私はこれを、日本がふたたび軍国主義を奉じる国家への準備がととのったのだと見る。 大平洋戦争後、60年間、日本は戦争によって他国の人をひとりも殺さなかった。また自国の人もひとりも殺さなかった。その事実は、国際的に見て、ほとんど唯一の国であった。誇るべき「美しい国」だったのだ。 しかし、いまや、われわれは殺人者の顔を仮面の下にもつ国民となった。愚かな首長と愚かな政治家を選んだ我々は、彼の空虚な幻想によって、血まみれの国旗を「美しい」といわなければならないだろう。 我々は自らの身すぎ世すぎのために、我が子と我が孫たちを美辞麗句の衣で飾り立てて殺すのだ。なに、子供なんてまた産めばいい! 人間などと考えるから心が揺らぐ。道具だよ、道具! 親の子殺しが大はやり、それなら他国に送り込んで殺してもらったほうが気が楽だ。山田維史《日蝕;The Eclips of The Sun》 コラージュ 2007年1月9日
Jan 9, 2007
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8日、成人の日。弟の息子が成人になった。彼がどんな一日を過したか知らないが、大晦日に一家が我家にやってきたとき、弟が成人式のことを知らせてくれたのだが、父親としての感慨があったのだろう。 私は自分の成人の日のことを回想しても特別の思い出があるわけではない。区が主催する式の案内が来たけれど、私は関心もなく出席しなかった。そのころ私はかなりひどいノイローゼに陥っていたのである。大学に行くにも困難なほどで、というのは光が神経を霍乱するので、雨戸をたてて暗い部屋にとじこもっていた。光が薄れる夕方になって、ようやく大学に向うのだが、こんどは蛍光灯の光に苛立った。おそらく殺気立った顔つきをしていたのだろう。犬が怯えたように吠え、あるいは牙を剥いた。 心臓の鼓動に変調を来し、幻覚を見るようになっていた。成人式直前まで、冬休みに両親のもとに帰り、そこで大学病院に行き心臓の検査を受けた。自律神経失調症と診断されたが、それ以外はむしろ大層健康で、特に胸骨が立派だと言われた。何だか知らぬが大量の薬を出され、それを持って東京に帰ってきたのだった。 不眠症にも悩んでいたし、幻覚は消えなかったが、自律神経失調ということは自分の気持のもちかたに係っているのだと思い、大学病院から出された薬をすべて捨ててしまった。 おそらくその決断が回復の起因となったのであろう。私は次第に体調と精神状態をもちなおしていった。じつはその経過に、後年私が画家になるひとつのおおきなきっかけがあった。 成人式に出席しなかったので、後日、区から記念品が届いた。それは写真用アルバム。とても使用する気にはなれない代物だった。リングで製本されたそのアルバムを私はバラバラに壊し、台紙を葉書大にカットした。メモ用紙にしようというわけだった。 が、それは単なるメモにはならなかった。頭に浮んできて眠りをさまたげるイメージを落書のように描き留めたのである。それを10枚20枚と描くうちに、ある日、私は自分の絵が何か特別な意味をもっていると思ったのだ。ただし、如何にもヘタだ。技術が欠如している。「技術さえ身につけば・・・」 子供のころから美術史に詳しかったし、中学1年のときには雑誌から切り抜いた名画を製本して黒いビロード布で装丁して画集を作ったりしていた。芸術全般にとらわれていたので、特に絵画を意識はしていなかった。意識していなかったことに気が付いたのである。 ・・・こうして法学部に籍を置きながら、まるで二足の草鞋をはいたように絵画の技術的な勉強の端緒についたのだった。そうだ、思えば、成人式の貧弱な記念品が根底に横たわっているのだ。何がなんだか分らない20歳の苦悩とともに。
Jan 8, 2007
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夜9時から11時半までテレビ朝日制作のドラマ『白虎隊』を、昨日と今日と二日間にわたって観ていた。普段テレビ・ドラマをまったく見ないのだが、なにしろ私は中学・高校時代を会津若松ですごし、あまつさえ白虎隊の少年たちが学んだ藩校「日新館」の跡地に住んでいたのだから、これは見なければなるまいと思ったのだ。脚本は西舘牧子氏、監督は橋本一氏。 今このときにわざわざ特別番組として「白虎隊」を語ることについて、おそらく西舘氏は苦慮したにちがいない。現代の若者の礼儀知らずを枠組にしての構成は、いささかトンチンカン。会津藩がなぜ後世悲劇といわれるような立場にたたされたかをしっかり描き切っていないので、ドラマが浮ついている。演出もまた演技陣を歴史のなかに押え込むことはできなかったようだ。フワフワ、フワフワとして、観ているこちらの尻が落着かない。首筋が痒くなる。史実はそれなりに細部を押さえているところもあるのだが、脚本家の腕のみせどころのはずのフィクション部分が、まるで御手軽。なんでも会津童子訓をもちだし、しゃべらせれば成立するわけでもなかろう。お題目を物語化しないでドラマもなにもありはすまい。 いっしょに観ていた老母が、「おもしろい?」と私に聞いた。「おもしろくないねー」と応えると、母は、「何を書いてよいのか分らなくなっているみたい」と言ったものだ。まさにそのとおり。 いや、分らなくはない。時代の趨勢のなかで、母親というものは己の心を裏切ってもわが子を戦場に、死地においやるものだということ。その魔性を、魔性といわずに美辞麗句やその他諸々の情況のうちに肯定してしまうのが戦争であり、戦争を引き起こす社会の風だということ。 しかしある意味できわめて現代的なこのテーマを、朱子学やそれに補強された武士道という隷従者の死の美学にまるごと捕らえられていた時代と人間に当てはめようとすると、ドラマツルギーとしては、むしろそのテーマを一身に体現したフィクショナルなキャラクターをひとつ造形し、歴史的人物像と徹底的に対比してみせるべきで、そうでなくてはそれこそフワフワなものになることは最初から目にみえている。 ところがそのような体制批判的な内容を含んだ歴史劇を、日本の脚本家はあまり得手とはしないようだ。 たとえば日本の映画史のなかには数多くの戦争映画があるけれども、おそらく作り手としては心中に反戦厭戦の思想があるのであろうが、できあがってみるとむしろ情緒的で、反戦という、強い意志なくしては語れないものとは距離がある作品になっている。ファシズムとは民衆を情緒的に煽動してゆくものなので、作品を情緒で湿らせることじたい失敗に一歩近づいているのだ。それは思想をキャラクタライズできない、作劇術の弱さのせいではないか、と私は考えている。 『白虎隊』に対する私の不満は、作者の意図は忖度できても、それは作品の出来が良いからではなく、そう読み取ってあげようという観客の親切心だ。作者のためにはあまりよろしからぬ親切心である。 そんなわけでドラマ自体を楽しむことはできなかったが、私個人の思い出をそこ此処に蘇らせてはいた。 日新館の少年たちが水泳の訓練をしている場面があった。その水練場こそ、私が住んでいた所なのだった。私が会津にいた当時、その水練場跡は一部分だけではあったがE家の所有する大きな池として残っていた。私が中学生時代に住んでいたのは父の会社の子弟のための高校生学生寮だったが、その建物がE家と隣り合っていて、池のほとりに建っていた。池には5,60cmもある雷魚や鯉が飼われていた。夜中、寝静まったころに、バシャッと激しい水音をたてて鯉が空中にとびあがることがあった。上級生の誰かが、自室の窓から釣棹をのばしたところ見事に鯉が釣れた。もちろんすぐに池に返しはしたが、Eさんがカンカンに怒ったことは言うまでもない。 池のほとりに形よい楓の大木が茂る築山があった。私は、学校で禁止されていたロケット遊びを、その築山から池をめがけて発射して遊んだ。金属製の鉛筆キャップにセルロイドの砕片を詰め込んだり、やはり金属製の画鋲のうすっぺらな缶の側面四方に小穴を開けてセルロイドを詰めて点火するのである。みごとに飛ぶのだが、危険なことは危険だ。まあ、2,3回ためしてみて止めたけれど、そんな遊びを水練場跡でやっていた。 私はまた、その池の水替えがおこなわれたとき、池の泥のなかから割れた江戸時代の通貨を拾った。「ヤッター!」ってなもんである。もしかしたら白虎隊の少年たちの誰かが落したお金かもしれないではないか。私はそれを丁寧に水洗いしてから接着剤でつなぎ合わせた。それは幼年時代に祖父母からもらった古銭とともに大事に保存され、じつは現在も物置の箱のなかにあるはずだ。 一昨年の7月に40年振りに会津若松を訪ねた。到着したその日の午後、先輩のEさんに同行をお願いして自転車でその水練場跡、すなはち私が住んでいた所に行ってみた。水練場はあとかたもなく埋め立てられ、アパートやその他の建物が建っていた。そこに藩校日新館の水練場があったことを、どうやら会津の人も知る人は少なくなっているらしかった。 藩校日新館が創設されたのは享和3年(1803)、5代藩主松平容頌(かたのぶ)の時代。ときに天明の大飢饉でおおきな痛手を蒙った会津藩は、その再建政策の一環として学問の奨励をはかったのである。この建学精神は、戊辰戦争後に藩が瓦解し、賊軍として悲惨な生活をしいられた会津人が、そこから立ち上がるためには学問によるしかないと、学校設立を実現したことにもつらなっている。現在の会津高校、私の母校である。 日新館は、東西120間(約218.4m)、南北60間(約116.2m)の敷地を有した。そこに孔子を祀る大成殿、学寮、武学寮、天文台、射銃場、水練場などがあった。また後には蘭学所も設けられた。 私の母校の中学校の体育館は大成館と称していたが、それはこの日新館の大成殿にちなんでいた。その市立第三中学校も、日新館の敷地もしくは隣接地にあったためである。 文武両道というけれど、会津藩の教育はまさにそれで、会津の槍術は有名であった。大内流、宝蔵院流、高田流一旨派の各流派が競合して盛んであった。剣術もまた各流派が競合し、一刀流溝口派、直天流、安光流、神道精武流、太子流がおこなわれた。 私の出た会津高校は現在では男女共学であるが、私のころは男子校であった。そしてまさに文武両道というか、体育のなかに剣道と柔道があって、かならずいずれかを選択しなければならなかった。私は小学生のころにほんの少し柔道の経験があったので柔道を選択した。 クラブ活動のなかに剣舞会というのがあったのも、特異なことかもしれない。詩吟にあわせて剣の舞いをするのである。会津高校の剣舞会にはひとつの特権があたえられていた。それは、白虎隊自刃の場である飯盛山の霊前祭における奉納剣舞は、会津高校剣舞会にだけ許されたことだった。 テレビ・ドラマ『白虎隊』にも描かれていたが、戸ノ口が原戦場から雨中の敗退をした少年たちは、洞窟の水路を通って飯盛山に到達する。今どのようになっているか知らないが、私が中学生のころは洞窟の出口が溜め池のようになっていた。おそらく現在でも同じであろう。 夏になると、友人のなかには飯盛山にでかけて、その溜め池で水遊びする者があった。そして水中で古い空薬莢を発見して、得意げに学校に持ってきて見せびらかすのだった。白虎隊の敗走にまつわる薬莢かどうか、当時の私には検証する力もなかったが、とにかくそれが羨ましくてしかたがなかった。そのころから私は歴史的事実に興味をもちはじめていたので、なおのこと「実物」の力に圧倒されたのである。昭和30年代の初めころは、鶴ヶ城の石垣のところどころで、城の屋根瓦の破片を発見することもできたのだった。私はまた上級生に頼んでその父親が所有する城下の古い図面をこっそり借りて、数日がかりで畳半畳ほどもあるのをそっくり写しとったりしたものだ。その図面も資料保存箱のなかに現在でもあるはずだ。 そんなこんなの自分の思い出を、テレビの画面に重ねながら懐かしんでいた。 ところで今や東京のアミューズメント・スポットとなっている御台場が、日新館を設立した会津5代藩主・松平容頌(かたのぶ)が幕府に進言して建設された砲台跡であることを御存知だろうか。砲台跡であることは御存知の方も多いにちがいない。しかし会津藩主の進言によることまでは御存知ないかもしれない。 会津藩は海岸警備をまかされていたのである。初めは安房上総の海岸警備であったが、ついで品川第二砲台に移った。これが御台場である。松平容頌は江川太郎左衛門に発注してヘキサンス砲をつくらせ、この御台場に据えた。 会津藩は早くから洋式砲術の訓練をしていた。にもかかわらず薩長軍の攻勢に壊滅した。その理由は、じつは前述した「会津の槍術」と名をはせたその槍にある、と言ってもよいかもしれない。つまり槍は白兵戦にはむくものの、はじめから銃砲戦で急襲されてはどうにもならなかったわけだ。 そうそう、白虎隊が戸ノ口が原で戦ったその日は、ドラマでも再現されていたが、豪雨であった。同じ日、江戸湾を出港して函館に向った榎本武揚らの軍艦が茨城の沖合いあたりで嵐に遭遇して沈没している。 この両者の遭遇した豪雨について、気象史の分析から同日であったことが解明されたのは、私の記憶に誤りがなければつい近年のことである。東北のある県に在住の旧会津藩士の子孫のお宅の仏壇の下から一通の書き付けが発見された。それはまさに白虎隊の敗走の模様を語るもので、そこに豪雨の記述があったのである。前述したように、落城後、旧会津藩士の多くは賊軍の生き残りとして悲惨な生活を強いられ、戊辰戦争の真実をおおやけに語ることさえ憚らなければならなかった。書き付けが仏壇の下から発見されたというのも、そのことの証明であろう。 というわけで、西舘牧子氏は新証拠にもとづく場面つくりをしていたといえる。それならば、と私はまたぞろ愚痴っぽくなるのだが、白虎隊がなぜ食糧を持たずに戦場におもむかなければならなかったかを、もう1,2シーンつけくわえて説明しておいてほしかった。そうでなければ、今日のドラマではまるで白虎隊が阿呆じゃないですか。西舘氏は、まさか、大平洋戦争時に食糧の現地調達を目論んで兵士たちを戦線に送り込んだバカな日本軍司令部にイメージを重ねあわせたのではあるまい。砲弾の痕もすさまじい会津鶴ヶ城。明治4年(1871)9月22日落城。その後、陸軍省に移管され、明治7年に取り壊された。(私が所蔵する紙焼き写真。昭和20年代に飯盛山で売られていた)
Jan 7, 2007
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山田維史の遊卵画廊をお訪ねくださったお客様が4万人になりました。御愛顧まことにありがとうございます。今後ともどうぞお立ち寄りくださいますようお願い申しあげます。 以下に、お客様のお名前を掲出させていただきます。あるいは洩れている失礼があるかもしれません。なにとぞ御容赦下さいますようお願いします。御芳名帳は、1-a,bから5まであります。そのまま下に繰ってください。なお、この御芳名帳は24時間後に削除させていただきます。山田維史 九拝・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・御芳名帳の掲載は7日午後5時50分をもって終了させていただきました。ありがとうございました。
Jan 6, 2007
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アルベルト・アインシュタインが親日家だったことは良く知られている。1922年(大正11)、改造社の社長・山本実彦の招待に応じて来日している。 さきほど、といっても、もう4時間ほど前のことだが、ちょっとテレビをみたらアインシュタインについて何やらやっていた。番組はほとんど終わりかけていて、詳しくは分らないが、なんでも日本人が好きな偉人のアンケートをとったところ、アインシュタインがトップになったというのであった。 で、前述の来日のときのエピソードに、昼食に天麩羅弁当を出したところ、付け合わせの新橋玉木屋の昆布佃煮が大いに気にいったのだという。 このエピソードは私は知らなかった。 知ったからといってどうということもないのだが、以前このブログで書いたけれど、新橋玉木屋は私も愛顧する佃煮の老舗である。私の作品を写真撮影するスタジオが新橋にあるので、スタジオに行くと、帰りに玉木屋に寄って、秋刀魚まるごと一匹の山椒煮や牛肉の佃煮などをもとめる。もちろんアインシュタインが気にいったという昆布の佃煮も今に変らず売っている。値段も手ごろ、御飯のおかずに良し、酒の肴にもなる。日本酒をやる気のおけない来客に、これらを一品そえるとなかなか喜ばれるのである。 アインシュタイン来日の頃から、現在とまったく同じ場所に店を構えていたかどうかは知らないが、老舗とはいえむしろ小体な店である。しかし店員の教育がゆきとどいていて、品の良い客あしらいをしてくれる。そのあたりに老舗の老舗たるゆえんを感じる。 客あしらいには厳しい目を向ける私なので、・・・つまり、ことば使いもさることながら、客に付き過ぎず離れすぎず、卑屈にならず悠揚迫らぬ店としての態度が、私の良しとするところだ・・・玉木屋での買い物は、なかなか良い時間をすごした気にもなるのである。 テレビ番組によると、アインシュタインは日本の「お辞儀」にいたく感じるところがあったそうだ。昆布の佃煮は弁当に入っていたらしいので、博士自身は玉木屋に行ったのではない。でも、私は初めて聞いたエピソードにつられて、「お辞儀」と玉木屋の客あしらいを結びつけて考えてみたのであった。私が好きな佃煮を博士もお好きだったか!、と子供じみた嬉しさを感じながら・・・。アッハッハ。
Jan 5, 2007
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一月の素描 紙に鉛筆《独楽》 碧梧桐とはよく親しみよく争いたり [後注] たとふれば独楽のはじける如きなり 虚子《雪沓》 雪沓のぎゅうぎゅうとなる山路かな 嘉太櫨《寒椿》 冬椿乏しき花を落しけり 草城《福寿草》 日の障子太鼓の如し福寿草 たかし[注]河東碧梧桐(かわひがしへきごどう):俳人。松山市のひと。正岡子規の俳句革新運動を助け、高浜虚子とは親友にしてライヴァルであった。1873-1937。
Jan 4, 2007
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さて三が日も間もなく15分ほどで終わる。松飾りは7日正月まではおろさないが、明日からはまた一生懸命に仕事をしよう。この三が日、私は近年めずらしくほとんど何もせずに、音楽を聞いたり、テレビを見たり、ときどき勉強のまねごとなどをしてゆっくり過した。皆様はいかがでしたでしょうか。 今年の抱負といっても、3,4件の数カ月先のスケジュールが決まっているだけで、特に確かな目標があるわけではない。とはいえ、社会不安はいや増しとも思え、それに対して黙していることはできない。すくなくとも自作において自らの考えを確かめつつ、意志は表明する必要がある。意志の曖昧さは、ファシズムを助長するだけだ。それは歴史をただしく検証すれば、たちまち明らかになることである。 歴史学というのは不思議な学問である。科学的と情実とをなかなか分つことができない。場合によっては、学問というより、むしろ幻想論になってしまいかねない。特に日本においては、科学的歴史学の出発は遅れに遅れていて、現在でも「歴史観」という一種の恣意的主観に左右されている。歴史学者はそれを恥じとも思わぬらしい。 「歴史観」を否定するのではない。どのような観点に立つかが問題である。まずは批判し、高度な未来理念をつくりだしてゆくものでなくてはなるまい。われわれは常に、過去を乗越えなければならない。捨てて進まなければならない。良き過去などはない、と観念すべきであろう。もどるべき過去はないのである。 しかし、未来は常に霧につつまれていて見えない。理念を据えても、現実にどのように歩んでゆくか、つまり制度(システム)をどのように構築してゆくかが分らない。そのときに、われわれが参考にするのが歴史学の成果なのである。私にいわせれば、そこに戻らないための参考資料ということだ。われわれは過去という屍を超えることによってのみ、未来があるはずである。 そういう屍のひとつを乗り越えるためでもあるが、いま私は女性学を勉強している。といっても単なるフェミニズム論ではなく、生殖学や遺伝子学、また創世記のはじめから女性差別をして現代に至っている宗教の論理構造についてや、それと歩みをともにしている図像についての検証をふくんでいる。 これは、長らく制作している「新アダムとイヴの誕生」シリーズに関わっている。男性としての私が、「新イヴ」を創造しようとするとき、私自身が古い、人間的にはまったく邪悪な文化にがんじ絡みにされていることを感じずにはいない。私のイメージがその邪悪なイメージから自由にならないのである。これは大変なことになっている、と私は思っている。もし私がそこを抜け出すなんらかのヒントがつかめれば、「イメージ」について、いまより深いところへゆけるのではないかと考えるのである。 なんにもせずに、三が日を過しながら、ときどきぼんやりそんなことを思いめぐらしていた。そこらへんに私の抱負らしきものがある。
Jan 3, 2007
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