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イエズス会日本占領計画5●日本史ー戦国物語試み案。●[海外貿易から読む戦国時代]この武光先生の本を読むと、東シナ海で大暴れの倭寇の親玉「王直」が、西欧の異民族征服の秘密兵器である鉄砲を伝えた。という感じですね。そして鉄砲に必要な硝石の輸入に一儲け。http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/eastasia/wanchi.htm王直(おうちょく / ワンチー)がありましたので、利用させていただきます。で、日本は、東アジアの経済発展の影響を受け、戦国時代。しかし、東シナ海を通じ、経済交流は大発展。また、戦士の心を持つ大名が、西欧の異民族征服の秘密兵器「鉄砲」の有益性を捉え、西欧の征服の前に、日本の覇権を確立しょうとする。その大名の名は、無論、織田信長。世界史上に、信長のポジションが明確に示されます。さて、西欧は、アジアを征服にかからんとするが、日本だけは、秘密兵器「鉄砲」を自己で生産、改良し、戦法までの新しく開発する。射撃もうまい。刀鍛冶が、鉄砲鍛冶に商売がえ。日本人のお家芸、特徴である商品改良が働くわけです。とすると、西欧各国も様子を見ますわな。東南アジアにはたくさん日本人も住んでますし。当時の日本人口も1200万人ですから、はるかに、ポルトガル、スペイン、オランダより多いですわな。で、この話は続きます。
2006年03月31日
イエズス会日本占領計画4●日本史ー戦国物語試み案●●日本は、アジアの東のフロンテイア(新天地)であった。ユーラシア大陸の民族移動の中、また、アジア大激動の中、騎馬民族(トルコ、ペルシャなど)、中国、韓などの政治闘争、戦争などで、亡命あるいあhあるいは、移住してくる人間を受け入れていた。ある意味で、昔のアメリカ合衆国である。そのフロンテイアである移住してきた民族は、昔から住んでいた大和民族とひとつの国家とまとまっていった。国家建設の、より、大きなきっかけは、「白村江の敗戦」(663年)である。大和朝廷は、中国の制度を取り入れながら、独自の政治形態、文化を創り始まる。諸民族の連合国家であるゆえに、変化に対する適応能力は高い民族、国家としてまとまっていった。日本の国土は、日本国家のものであったが、支配階級の貴族は、自分たちが都合のよいように法をみづから無効化し、土地を私有化しはじめる。国家財政はこれにより傾き始める。その間も大和政権は、日本の東北への侵略戦争を開始し、その政治範囲を増やしていく。その軍事は、蝦夷討伐のための征夷代将軍に任せれれていた。天皇ー摂政藤原氏の2重構造の権力機構が成立するが。関東ー東国には、渡来人に加えて、天皇につながる源氏、平家の武装開墾団(武士)がが力をつけまじめ、みづからの土地所有権を主張しはじめる。血統のよい「土地私有権の主張者」たちの代表(源頼朝)は、天皇の宗主権はそのまま、みづからの政権を樹立することに成功する。この鎌倉幕府から、江戸幕府まで、征夷大将軍が政権をにぎる長い「将軍の時代」が始まる。この時期、13世紀、人類史上最初の世界大戦であるモンゴル戦争(モンゴル対仏教対イスラム)が起こるが,武士の活躍と天候の影響で、辛くも、世界を一時期支配した「タタールのくびき」からは逃れる。元寇。しかしユーラシア世界は、モンゴル帝国によってはじめて統一される。16世紀のアジアへのスペイン、ポルトガルの攻勢にあたっては、日本史上、最大の変革者、織田信長の時代であり、100年間つづく、戦国時代で、武器能力戦闘能力は世界のトップクラスにあった。織田信長は天下布武をテーマに日本を統一しょうとしていた。宗教的権威など古い日本の旧体制を力づくで滅ぼそうとしていた。当時の最新兵器で、西欧の植民地獲得戦争に需要な秘密兵器である「鉄砲」は、当時の中国海商(倭寇)、王直のたくらみにより、伝来した可能性は高い。(王直は、火薬に必要な硝石の輸入で儲け、本拠地を日本の五島列島に移した)鉄砲は、適応能力の高い日本人によって改良され、戦法も開発された。西欧各国は日本人の戦闘能力が一層あがり、出鼻をくじかれる。1540年くらいから朝鮮の銀市場は混乱を起こしていた。なぜなら、石見銀山(現島根県)で発掘される銀は、一時,世界の1/3をの量を産出するほどの埋蔵量があり。貿易の限界をこえつつあった。中国、欧州においても、日本銀(石見銀山)の名はなりひびくようになっていった。南シナ海では、日本人、中国人、ポルトガル人、イスラム商人など炊く国籍の海賊がいりみだれ、貿易や闘争が繰り返されていた。一種の独立的な協栄圏(海上王国)が存在していた。ハプスブルグスペインは、マニラを押さえ、国王フエリペにちなみ、国名をフイリッピン(1571年から)とした。ポルトガルはマカオをおさえ。オランダは、ジャワを領有し、また、台湾にゼーラジア城を建設した。信長の後を受けた秀吉は、ポルトガル、スペインが、中国大陸を狙っている事にきづき、先手を打って中国、フイリッピン、台湾への侵攻計画を考えていた。日本統一過程で、九州征伐についた秀吉は、長崎がイエズズ会に領有され要塞化が進んでいることや、九州を中心に、キリスト教徒が増えている事に危惧をいだき、キリスト教禁教を宣言する。当時の日本人口1200万人で、公式には約70万人である。(別統計では約300万人いたとう資料も。オランダの人口が1500年100万人1600年200万といわれている。)十字架(クルス)の旗の下に戦っていた秀吉下の大名にも棄教を命令する。朝鮮侵攻は、秀吉の死で、休戦におちいったが、伏見城は、大東亜支配のために根拠地として設けられた城であり、名護屋城(現佐賀県)は、前線基地の城であった。徳川家康によって江戸幕府は成立するが、外国人協力ブレーンとしてスペイン、ポルトガルと世界で覇権を戦っていたイギリス、オランダ人をその政府顧問とした。1637年、元はキリスト教大名小西行長の領地であった島原でキリスト教徒の反乱が起こった。キリスト教徒は、日本各地にのこるキリスト教徒と、マカオ、など外国への支援の密使を贈る。江戸幕府は、対抗するために、スペインとは独立戦争中であるオランダの協力を得て、島原キリスト教反乱軍に対して、江戸幕府と軍事同盟を結んだオランダ船の艦砲射撃を行う。乱の後、1639年鎖国は完成するが、4つの口を用意していた。長崎(オランダ、中国)、松前(蝦夷地)、薩摩(琉球王国)、対馬(李氏朝鮮)自国民の海外渡航は禁止された。このため、東南アジアに当時2万人いたといわれた日本人、そして日本人町は順次消滅していった。1853年、アメリカのペリー艦隊の出現で、日本は新しい時代になる。今までは、中国を文化政治の源と考えてお手本として当地してきたが、この事件以降、アメリカ・イギリスなど西欧国家を手本とする大変換した。鎌倉幕府(1192-1333)室町幕府(1336-1573)江戸幕府(1603-1867)という、鎌倉から始まった武家政治は、自らの武士階級消滅という革命を経て近代国家へと生まれ変わった。新しい渡来人である西欧人から国家体制、経済、文化などを習い、みずからの日本に会うものと消化していく。西洋・日本文化の混合的な国家となる。このように遅れて登場した擬似西欧国家(精神は神国)だったが、世界植民地獲得の時代がおわりつつあり、ナポレオン戦争以後のウイーン体制を保持していた西欧各国もその相互戦争で国力を消耗させた。第1次、第2次世界大戦の30年戦争(1914-1945年)である。ロマノフロシア(1613ー1917)、ハプスブルグオーストリア(1438-1918)、オスマン帝国(1299-1922)、ドイツ帝国(1918)清(1636-1911)などの古い帝国が解体していった。第1次大戦後は東欧で、第2次世界大戦後は、西欧の植民地が独立していった。神としての天皇を中心とする日本帝国であったが、植民地解放のテーマを掲げたが、東南アジア各国の協力は無理強いとなりがちで、西欧やアメリカとの石油資源戦争に、物量、総合戦略能力の差はいかんともしがたく敗北し、アメリカの支配下にはいる。1951年、独立国として復権されるが、世界の覇権国家となったアメリカとの関係調整が、国家戦略の要(軍事同盟、基地貸与など)となり現在にいたる。●無論、キリスト教を無論、批判しているわけではありません。山田もキリスト教系大学をでてます。この元資料、出典本は、ブログに順次あげていきます。
2006年03月30日
イエズス会日本占領計画3●西欧ー戦国物語。「16世紀以降今までの西欧500年戦国史」試み案。●(イエズス会日本占領計画から始めて。とりあえず。色んな本からの簡単なまとめ。要約して書いて見ればこんな感じかなと、)西欧そして世界史は、16世紀以降の500年、狭いユーラシア大陸の西の端でのヨーロッパ半島になる小国群の戦国時代が続いていて、西欧戦国時代の戦場が世界に広がった、という認識はいかがでしょうか。16世紀以降、西欧が、ユーラシア大陸の他エリアに比べて優れていたのは、大砲(攻城砲)の開発と発達(火薬革命)。この「移動する城」に等しい船に載せた大砲で、世界の海を航行し、各地の港湾都市を攻めていって占領、略奪を行う。武力にものをいわせて、各地の特産品を独占、西欧にもってかえり莫大な利益をえる。基本財産の蓄積を行い、いっそう、ほかの民族(非キリスト教徒)に対して仮借ない侵略、略奪行為をくり返す。つまり、戦争のビジネス化を行う。特に異教徒に対して機微いいのは、過去のモンゴル帝国、オスマン帝国、イスラム帝国などに対する恐怖心である。まづ、700年のイスラム帝国のクビキから逃れたスペイン(ハプスブルグ家)はアメリカ大陸で、銀山などを手に入れた、、が、あまりにたくさんの銀をアントウルペンー後、アムステルダムを通じ、西欧に輸入しすぎて、物価があがるという「価格革命」を引き起こした。アメリカ大陸(1492年コロンブス到達)やカリブ海などで、その経営政策から、過酷な労働を課された現地民族が倒れるので、労働力の調達のため、アフリカ人を、現地アフリカ人によって人狩りさせ、奴隷として、アメリカ、カリブ海沿岸ににつれていく。オランダは、そのスペインの領地であったが、スペインの重税にこらえかね反乱を起こす。以下80年の独立戦争(1568から)が勃発する。イギリスは、この独立戦争を助ける。イギリスは、スペインのアメリカ大陸からの銀などを積み込んだ船団を襲わせる事をビジネスとして奨励する。国策となり、拿捕船を捕まえた海軍の軍人は、水兵にいたるまで、プライズとして受け取ることができる法律ができる。(第1次世界大戦まで法律が存在した)ポルトガルは、1時期、スペインと同じ国王(ハプスブルグ家)をいだく事となる。オランダは、ドイツ30年戦争(1618 )後、独立できるが。そのオランダの成功をうらやむイギリスとの戦争が始まる(英蘭戦争)。イギリスは、その地理的影響からドーバー海峡で、世界中から帰っていくオランダ船団を捕獲。財宝と、船自体を奪う。船は、自分の国の船として使用する。あまりに船団を拿捕されたオランダは、内輪もめと、戦略方針の不意位置からイギリスの元につく形となる。フランスは、没落しつつあるスペイン、ポルトガルの占領地区をめぐり、イギリスと、世界各地で獲得戦争を行う。そこに加えて、オーストリア(ハプスブルグ家)、プロシア、ロシア(モンゴル帝国のくびきから独立)など各国が入り乱れ、世界中の資源獲得戦争を行う。戦争を行うためには、資金が必要であり、投資家から資金を調達し、武器、兵士を準備する形の戦争ビジネスが設立されてきて」、産業革命とあいまって、武器の発達を促す、大きな戦争ビジネスに発展していく。世界各地の戦争で資金が必要になったイギリスは、イギリス領アメリカに重税をかける。その重税に怒った植民地人は、イギリスに対して独立戦争を起こす(1775年)(賛成者は約1/3)しかし、武器準備、兵士の不足になげいた政府は、イギリスに敵対する西洋各国の協力を得て対イギリス包囲網を作る。特に宿敵フランスは、軍隊、武器などをアメリカに送り、イギリス軍を打ち破る。しかし、フランスもこの戦いで戦費、武器貸与で、重税をフランス人に課す。これに怒ったフランス人は、啓蒙思想の影響もあり、フランス革命を起こす。(1789)ナポレオンが登場し、国民軍を作ったフランスは、ヨーロッパをほぼ掌中にする。イギリスは、スペインで内乱を起こさながら、対フランス包囲網を作り、ナポレオンを破る。(1815年)その間、アメリカ革命、フランス革命などを見にしたアメリカ大陸の民族は革命を起こし独立を果たしていく。(1804年ハイチから)ヨーロッパでは、内部の旧い体制に対して革命運動がおこていく。戦争ビジネスがより活発化して、産業革命にとまない、「鉄道」「飛行機」「自動車」「蒸気船」などが発達し戦争にも影響をあたえる。分裂状態であったドイツはプロイセンはドイツ帝国として(1870)、イタリアも統一される。(1861)鎖国状態であった日本も武家政権も、中国が西欧国家に敗れるのを目にして(1840年アヘン戦争)、みづからの国家政権を革命変換する。(1868年)ドイツとイギリスの勢力争いは、西洋のほかの国も巻き込み、第1次世界大戦(1914年)と発展する。しかし結果として、ナポレオン戦争以後のウイーン体制は崩壊し、16世紀ころからの帝国が崩壊する。「ロシア帝国」(1917年)「ハプスブルグオーストエア」(1919年)「オスマン」(1923年)であり、西欧も疲弊する。また、動く城であった海軍の戦艦も、航空機、潜水艦の発達により武器としての主役をおりつつあった。第2次大戦では、残る旧い体制「ドイツ」「イタリア」「日本」は遅れて急激に成長し第1次世界大戦で、実力をしめしたアメリカ合衆国にとの、石油を含む資源戦争にやぶれ。第2次大戦後、アメリカの勝ち状態が現出。あとは、スターリンに指導され対戦の勝利者となったソビエトロシアである。第2次世界大戦の地。西欧各国の植民地戦争が勃発し、各地に民族国家ができる。しかしながら、政治経済など旧宗主国の影響かにあるところも多い。●キリスト教西欧国家は、16世紀以降、他の民族に対して武器(大砲ー攻城砲)の力を持って、資源獲得を行い、略奪を繰り返した。戦争をビジネスとしうて」、西欧自国内でだけではなく、世界中で自国利益のたけに現地民を巻きこみ戦争を行う。アメリカは、この西欧の覇権系読者として、キリスト教国家として覇権を持つ。また20世紀初頭から、巨大なる資源と資金を持ってラジオ、電話、映画、テレビなど、世界の先頭を切って「マスコミュニケーションビジネス」を次々に成功させる」。また20世紀半ばからコンピュータコミュニケーション産業も発達させ、特にインターネットに関しては世界の主導的な立場にある、資金、兵器、人材、情報など、現在の世界の中位として立場を確立している。(各部分の資料などは、面白本としてご紹介していきます)
2006年03月29日
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イエズス会日本占領計画2さて「江戸幕府と東アジア」にはいままでと違った説がどんどんでてきます。1.原城の発掘結果から、島原の乱は、あきらかにキリスタン反乱であった(ページ298)指導者は、イエズス会影響下のキリスタンである。2.原城は、廃城ではなく、幕府への届けは、廃城であってが、修復後20年もたっていない城郭建築であった。(ページ299)3、島原から江戸までより、琉球首里の方が近い。江戸と中国ニンポーと同じ距離である。(ページ294)4.籠城した約3万7000人。途中で5-6万人が入城していた。この乱の30年前、慶長15年には、日本のキリスト教徒は約175人・人口の約10パーセントであった。(ページ311)籠城側は、日本全国に援軍を要請した。5.日本が内乱状態になり、本当の援軍が到着する可能性があった。中国にあるポルタガル領マカオがある。当時のポルトガルのアジア最大拠点である。一揆側の援軍本命はポルトガルではなかったか(ページ311)6。オランダはそのスペイン・ポルトガル国王ハプスブルグ・フエりぺ2世(スペイン、ポルトガル国王をかねていた)からの独立80年戦争(1581年から)の最中であった。7.幕府は、オランダ船から原城を攻撃させた。また、同じ時期インド、ゴア沖で、ポルトガルとオランダ艦隊の会戦が行われている。(ページ312)8.乱終了後、首謀者4名の首だけは、長崎出島橋、ポルトガル商館前にさらされた。(橋を渡るのはポルトガル関係者のみ)9.ポルトガル澳門側は、日本征服、アリマ・ナガサキ植民地化は行われなかったが。幕府ーオランダ、一揆ーポルトガルの軍事同盟は明瞭であろう。ポルタガルは日本から放逐され、長崎出島には軍事同盟者としての役割があるオランダが入った。(ページ316)以上、まとめ。ぜひこの本をお読み下さい。
2006年03月28日
●秦氏一族の謎「隠された十字架の国日本」ケン・ジョセフ著 徳間書店。2000年初版。より。(こういう考え方もあるとお考えください。反論は山田あてにはもらっても無理です。いわゆる日本ユダヤ同祖論は明治41年佐伯博士の「太秦を論ず」から始まっています)●1549年のザビエル来訪より前、1000年以上前にキリスト教は,日本には、はいっていた。日本には古くからある種のキリスト教の土台があるので、布教がしやすかったのではないか。当時の日本人口1400万人のうち300万人程度のキリスタンがいて、100万人が殉教、100万人隠れキリスタンに。100万人は海外へ(49ページ、244ページ)●日本は多民族国家である。(93ページ)日本人の先祖も、すべて中近東からた。中近東で離散した人類が色色な経緯で日本へ移民してきた。それゆえ、血液型を調べるとDNA調査や、JCウイルスを調べてみると、他のアジア系に見割れないEU型の遺伝子が見受けられる。特に東北の日本海側にEU型が多い。日本の神話は、旧約聖書を換骨奪胎しやものが多いのではないか。雅楽、越天楽は、ペルシャから伝わった景教の音楽である。●日本には秦氏2万人くらいの集団が、1800年前にやってきた。秦氏は、つまり、渡来人集団でアッシリア、ペルシャの近く。弓月(クンユニ)という中央アジアのキリスト教国(原始キリスト教)であった。当時の日本は、今のアメリカのようなアジアの新天地であった。仏教でないものが、仏教にされた。日本は仏教だけの日本ではない。他民族であり、いろいろな宗教を様子売る日本があった。古代キリスト教徒秦氏が、日本に集まり、キリスト教を日本に伝えた。人々は、仏教の法華経の中に、景教に似たものを見出した。●秦氏は稲荷神社も創建、また八幡神もヤハダ神で、秦一族がつたえたもの。多くの日本の神社創建に秦一族は関与しています。●坂越(さこし)は赤穂にあるが、秦氏が上陸した場所であり、古代にキリスト教会を立てた場所である。(20ページ)大酒(避)神社には、秦氏の族長である秦河勝(はたのかわかつー聖徳太子の部下)は祭られている。雅楽面も残っている。大酒(避)神社はイエスキリストを意味する。●京都の広隆寺は、実は仏教の寺の前は、古代キリスト教の教会である。広隆寺近くにある「蚕の社」の3柱鳥居もキリスト教の三位一体を表す。(24ページ)秦氏の氏社の、大酒(避)神社は、ウズマサ明神を祭っているが、ウズマサ明神は、イエスキリストを意味する。●ケン・ジョセフさんは、時代別に日本の文化を検証していきます。遣唐使は、景況の影響を受けた中国文化を取り入れた。●日本の光明皇后(701-760)も景教の影響を受け、悲田院、施薬院、療病院を作った。奈良東大寺2月堂のお水取りの行法は、景況の儀式ではないか。●聖徳太子の伝説も、馬やどの王子、大工の神様など、聖書の影響を受けた物語の取り込みがされているのではないか。●親鸞の読んだ「世尊布施論」も景況の聖典の影響ではないか。空海も佐伯氏であり、秦一族であり、高野山の儀式の前に十字架をきるしぐさがあるが、これも景教を取り入れたのではないか。●最澄は、旧約聖書。空海は、新約聖書を使った。弥勒とはキリストではないか。以上のような理由のひとつは、仏教は、いろいろな教えを取り込み宗教であり、クリスト教を仏教の一部として取り入れたのではないか。●茶道の蹲も、聖餐式の聖水を取り入れたのではないか。(265ページ)
2006年03月27日
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京都・大酒神社(秦氏の氏社)「〈隠された〉十字架の国・日本」によれば、ページ72、大避神社であり、「大避」とはイエスキリストであると書かれています。[失われた原始キリスト教徒「秦氏」の謎 ムー・スーパー・ミステリー・ブックス飛鳥 昭雄 (著), 三神 たける (著)]この本もお読み下さい。
2006年03月27日
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京都・蚕の社(秦一族の社ー景教の3身1体の社か)京都・蚕の社(秦一族の社ー景教の三身1体の社か)京都太秦は、秦一族が支配していた。その神社には、日本唯一の三柱鳥居。そしてここは「元糺の森」である。秦河勝は聖徳太子の部下。三柱鳥居はキリスト教の三神をあらわし、秦一族は、ユダヤ人景教徒説がある。
2006年03月09日
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