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2008年度日本作品監督は堤幸彦出演は唐沢寿明、豊川悦司、常盤貴子8/30TOHOシネマズ府中でPM6:30の回を観た。話題作だったので、念の為ウェッブリザーブしてギリギリに駆け込んだ。やはり公開初日だったので満席だった。私は「MONSTER以来浦沢さんの大ファンで、もちろんまだ読破してないが「20世紀少年」も大好きで読んでいた。連載中から読んでいたのだが、途中で私事で忙しくなって、先が気になりつつ中断したままになっていた。映画を観てムクムクと読みたくなっている。「MONSTRE」で浦澤漫画に出合って、この人は天才だと驚嘆した。とにかく天才的なストーリーテラーだと思う。多少難を言うと、キャラクターデザインの登場人物、特に老齢の男女の顔が似通っている事。「MONSTER」を読みながら、何度最初の人物紹介を見直した事か(笑)でも娘が言うには、彼は漫画のコマ割りが天才的なのだそうだ。読者が引き込まれるコマ割りがメチャクチャ上手いのだそうだ。だから読んでいてグングン引き込まれる。私はなるほどと納得した。読み始めると時間を忘れて読んでしまう。「MONSTER」はハリウッドで映画化される。「20世紀少年」は無理だろうと思っていた。なぜか理由は書くのを差し控えるが、本当に映画化されると知って驚いた。映画化の企画が立ち上がっても完成しないかもとさえ思っていたが、無事に完成して8/30に公開されると聞いて、よくできたなと思ったし、監督が堤さんなので絶対観たいと思った。監督が堤さんなら映画として大丈夫だろうと言う期待もあったし、製作が日テレで、「デスノート」や「3丁目の夕日」など漫画の映画化も成功させている大丈夫だろうとも思った。まだ公開中なのでネタバレは控えるが、期待した堤ワールドはあんまり感じられなかったが、監督ご自身が原作のファンで、自分の特色を出すことよりも、あくまでも原作原理主義で作る事を心がけたと知り、そう言えば、そこかしこに原作に対するリスペクトを感じられる気がした。でも「ケイゾク」が好きだったので、ちょっと寂しい気もしたが、映画化に当たって原作を愛してリスペクトして下さった事は、原作の大ファンの立場からすれば感謝している。唐沢さんが赤ちゃんをおんぶしてコンビ二のレジに立っている姿を観た時、思わずケンジだと心の中で叫んだ(笑)登場人物全て、出演者もスタッフさんも外貌を含めてキャラ作りは原作に近づけようと頑張られた後は随所に伺えた。今回公開されたPart1は私の既に読み終わっている部分だったので、シーンについても「ああ、こんなシーンあったなぁ」と思う事度々だった。逆に忘れてしまっている部分については、記憶を呼び起こされるほどだった。つまりそれ程原作に忠実だったと言う事。でも逆に言うと、映画ならではの、原作+α、監督の色を加える事で原作を膨らませて発展させる意欲、それが例え原作ファンから批判されるような事になっても、そんな挑戦心を感じさせて欲しかったかなと思ったりもする。原作に忠実に作るなら、原作を超える事はないと思うし、それなら無理に実写化しなくてもアニメでいいじゃんと思うから。でも面白かったですよ。
2008年09月07日
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2008年アメリカ作品。監督はクリストファー・ノーラン出演はクリスチャン・ベール、ヒース・レジャー、ゲイリー・オールドマン、アーロン・エッカート。昨日の(日)、娘が美容院の予約をPM4:30にしたので、時間の合う回をとネットで調べて、珍しく多摩センターのワーナーマイカルでPM6:25の回を観た。やはり急逝したジョーカー役のヒース・レジャーの怪演が話題になっていた為か、ほとんど満席状態だった。劇場に入ると、既に予告編が始まっていたので、予めウェッブリザーブしておいたので、中央より少し後ろの列の真ん中で観れた。昔から「バットマン」のファンでシリーズはほとんど観ていた。当然前作の「バットマンビギンズ」も観ていたから、その続編に当たる今回の「ダークナイト」はもちろん観る予定だった。雑誌の論評でも、とにかくジョーカー役のヒース・レジャーの怪演ぶりが話題になっていたが、私の中にある彼のイメージは、「ブロークバックマウンテン」であり「カサノバ」であったので、その彼があのグロテスクなメイクのジョーカーに扮する事だけでも、意外中の意外であった。しかもあの彼が怪演?雑誌の写真やテレビスポットでも彼の扮するジョーカーは観たけれど、それでもまだ「あの彼が?」とピンと来てなかった。まさかあそこまで凄いとは思ってなかったので、唖然とした。先代のジョーカー役のジャック・ニコルソンが霞んですまう程の物凄さだった。怪演と言うか鬼気迫ると言うか、思わずこんな演技をしてしまったから、若くして亡くなったんじゃないかとさえ思ってしまう程だった。最早あの演技は素晴らしい演技とか、そんな生易しい範疇ではない。なんと形容したら良いのか、言葉が見つからない。故人でもアカデミー賞にノミネートできるのかどうかわからないけれど、もしできるとしたら、当然アカデミー賞の助演男優賞にノミネートされるでしょう。と言うか、申し訳ないけど、今回の「バットマン・ダークナイト」の主人公はジョーカーで主演はヒース・レジャーじゃないかと思うくらいのぶっちぎりの存在感だったので、アカデミー賞の主演男優賞候補でもいいんじゃないかと思うくらいだ。今回の「バットマン」は他のアメコミヒーロー物のような勧善懲悪ではなく、どんな人間にも心の中にある善と悪、心の闇を描いていて、ちょっと哲学的でもあった。作品全体のムードも暗い。もちろんすごい迫力のアクションシーンはたくさんあって、劇場の中で地響きがする程の臨場感であったが、アクション映画やアメコミヒーロー物を観た後の爽快感はなかった。なぜだろう?と考えた。それは多分他のアメコミヒーローのように、主人公自身が特殊能力を持つ超人だったり異星人だったりではなく、あくまでもブルース・ウェインは普通の人間で、バットマンスーツを着用して、様々な武器を使い、いろんな仕込みのあるバットマンカーを乗り回して、悪と戦うヒーローだから、悩みもあり葛藤もあるし、ダメージもある。自分はゴッサム・シティを守る為に、犯罪撲滅の為に、正義の為に戦って来たつもりだったけど、それは自己満足で、実は周りに危害を及ぼす存在だったんじゃないかと悩むバットマンがメインだったからだと思う。そして正義の象徴である地方判事であっても心は弱い。誰でも心の中で光の当たる部分と闇の部分がある。平常心を失うある事がきっかけで、本来は光の当たらない闇の部分が表に出て来る。今度の「ダークナイト」はそれがメインテーマで、そのきっかけを作るのがジョーカーなのだ。ヒース・ジョーカーは極悪非道の限りを尽くす。その極悪非道の中で、バットマンを始め登場人物達の心が揺れ動き、ある人物は心の中の振り子が振り切れてしまう。そんな人間の心の中がメインテーマになっている為に、作品がとても重い。今回の「ダークナイト」は子供には理解できないと思う。そして長尺。だけどその長い上映時間にも関わらず、ずっと見入っていた。ヒース・レジャーのジョーカーは一見の価値あり。しかし今改めて思う。もしヒース・レジャーが仮に健在だったとして、こんなジョーカーを演じてしまったら、この後ジョーカーのイメージを払拭するのが大変。いつまでもこのジョーカーのイメージが付きまとい、普通の役ができないんじゃないかと思う。それくらい一世一代の見事なジョーカーだった。気が付いたらヒースのジョーカーの事しか書いてなかった(笑)クリスチャン・ベール、ごめんなさい。でも今までいろんな俳優が演じて来たバットマンだけど、クリスチャン・ベールのバットマンが一番好きだ。
2008年08月11日
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2008年度アメリカ作品監督はスティーブン・スピルバーグ出演はハリソン・フォード、シャイア・フブーフ、ケイト・ブランシェット、カレン・アレン。公開初日の21日(土)TOHOシネマズ府中PM2:45の回を観た。念の為ウェッブリザーブして、私は午前中仕事を済ませ、休みの娘と待ち合わせて昼食後観た。初日だからか、前の方2列くらい空席だったが後は満席だった。私は1作目の「失われたアーク」のリアル世代なので、あのテーマソングを聴いただけでワクワクして胸が踊る。娘は今回の敵役のケイト・ブランシェットがお気に入りの女優さんだと言う事と、クリスタルスカルやマヤ文明など結構興味があり観たかったらしい。私はよもや「インディー・ジョーンズ」の新作が今頃になって製作されるなど思ってもいなかったので、期待半分、あまりにも年を取り過ぎたハリソン・フォードに目を覆いたくなる有様だったらどうしようかと言う不安半分で、ちょっとドキドキしていた。始まってすぐに、なぜかカタカナでショボク「インディー・ジョーズ」とタイトルが出て、その下に字幕「戸田奈○子」と出た。こんなカタカナのタイトルが出るなんて初めて観たような気がした。字幕が戸田奈○子さん、なんだか嫌な予感がした。なぜなら戸田さんの字幕はあまりにも評判が悪い。と言うわけで最初から、なんだか引き気味なスタートになってしまった(笑)しかし本編が始まると、もうそんな事消し飛んでしまった。「インディー・ジョーンズ」の良い所は、適度にコミカル部分があるって事だ。そのバランスが良いと思う。今回の功労者はなんと言ってもケイト・ブランシェットだと思う。黒髪のボブヘアの女性の悪役で、知的でクール、凛としてミステリアス。スレンダーなボディにツナギの戦闘服を着てかっこいい。金髪の素顔のケイトは微塵もない。素晴らしい変身ぶりだった。アクションもすごい!唯一の若い登場人物のシャイア・フブーフは、いかにも50年代の若者と言う風情で、作品の時代設定を登場人物のせりふ以外で感じさせるキャラクターだった。あの時代はあんな若者が結構いたんじゃないかと思う。アクションはもちろん往年のようなわけには行かないが、ハリソン・フォードが老体に鞭打って頑張っていて感心してしまった。そして前作からちゃんと続いて月日が経っていると言う構成になっているのが良いと思った。別人のごとくふくよかになったマリオンと再会して、ゴチャゴチャと痴話げんかしたりと言う、アクションの合間に入る小ネタが楽しくてうれしかった。こんなエンターテイメント系の作品は理屈をこねずに、楽しんだもん勝ちだと思う。しかしあのクリスタルスカルは、一塊のクリスタルを細工しようとすると、ひび割れて粉々になってしまうのに、どうやってあんな風に細工したのか、本当に謎なのだそうだ。ナスカの地上絵もそうだけど、古代の文明もまだまだ解き明かされてない事がたくさんあるのだと、インディー・ジョーンズを観て改めて思い出した。
2008年06月23日
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2008年度日本作品監督はクァク・ジェヨン出演は綾瀬はるか、小出恵介私の勘違いで5/24に「インディー・ジョーンズ」が公開されたと思い込んでいて、先週の(金)に明日「インディー・ジョーンズ」を観に行こうと娘を誘った。その後で調べたら「インディー・ジョーンズ」は6月の公開だったと判明し、それでは別の作品を観ようと言う事で、娘が珍しくラブコメを観たがったので観る事にした。5/31(土)TOHOシネマズ府中で、「僕の彼女はサイボーグ」PM3:40の回を観た。観始めてすぐに思ったのは、日本であって日本ではないような不思議な風景だなと言う事。監督が韓国人だけど、ロケを始めセットを含め全ての撮影は日本で行われたのだけど、どうも日本と言う感じがしなくて無国籍なムードが漂う不思議な風景だった。しかしラブコメのこのドタバタ感は絶対に日本人の監督では出せないと思う。それは韓国や香港のラブコメを観ていつも感じる事だ。そして韓国と香港でも、同じドタバタ感が微妙に違うのだ。主演の2人も脇役陣も、そして監督以外のスタッフも皆日本人なのに、やはりこのドタバタ感は韓国のラブコメのドタバタ感なのだから興味深い。よく映画は監督の物と言われるが、こう言う事からも改めてそうなのだと思った。やはり監督の感性が作品に行き渡るものなのだ。この作品のキーポイントはキャストにあると思う。この作品の魅力は主演の綾瀬はるかさんと小出恵介さんに尽きると思う。以前はあんまり私の中で印象に残ってなかった綾瀬はるかさん。それなのにドラマの「ホタルのヒカリ」を観た時、「この人いい!!」と俄然気に入ってしまった。職場では有望な若手社員なのに、家では干物女と言われる程、散らかし放題の部屋できたないジャージにきたないTシャツを着た汚れ的な役が、主演の綾瀬はるかさんの扮する役だった。それが惨めっぽさや不潔感が前面に出る事なく、キュートで天然さが上手くブレンドされて、本当に魅力的だった。そして1番のお気に入りのシーンは「どじょうすくい」のメイクをして踊るシーンだ。それも社内のパーティでの余興で踊るのだが、パーティの参加者は自分達の話に夢中で、彼女の「どじょうすくい」を見ているようで見てないシチュエーションで、「どじょうすくい」のあのメイクをして一生懸命踊るシーン。本当に涙が出る程キュートだった。以来私の中で一押しの若手女優だ。今回の「僕の彼女はサイボーグ」でも、キュートでいじらしくて一生懸命な人間の姿をしているけど人間じゃないサイボーグを見事に演じていた。サイボーグだから超人的な力や能力があるのは当たり前だけど、レスラーや女相撲みたいに見るからに力持ちではダメだし、普通の女の子だけど気が強くて、いかにも男の子をぶっ飛ばしそうなイメージがあってもダメだ。とにかくとことんキュートでいじらしくて切なくなくてはいけない。それなのに、驚く程の力や能力がある、なぜならサイボーグだから、と言う感じでないといけない。綾瀬はるかさんはそんな役どころに見事に嵌っていた。本当にキュートでいじらしくて切なくて、ジローが彼女を好きになって行くのと同時に観客も彼女を好きになって行く感じだった。小出恵介さんは初めて観たのはドラマの「おいしいプロポーズ」だった。その時はなんだかピンと来なかったが、次に観た「のだめカンタービレ」でアフロヘアのおかまキャラを演じていて、こんなに器用で演技のできる人なのかと見直したのだった。今回のジロー役を観た瞬間、外貌も雰囲気も「猟奇的な彼女」のチャ・テヒョンによく似てると思った。ちょっとへタレで頼りない平凡な男の子を上手く演じていて、ジローそのものだった。ただあの最後の地震は、ちょっとオーバー過ぎかなとも。日本は地震国で、直近でも阪神大震災や新潟地震などがあったから、あの地震はちょっとリアリティがないかなとも思ったり。でもそこからの展開は、あの地震でないとできない展開なので仕方がないのかなとも思ったけども、なんか釈然としない部分もあったあの地震。娘に聞いたのだけど、あの彼女がジローを救うシーンは、「甲渇機動隊」だとの事だった。他にも「エヴァンゲリオン」を思わせる部分もあって、監督はかなり日本のアニメの影響を受けた「おたく」だと思ったそうだ。あの綾瀬はるかさんのボブヘアは「甲渇機動隊」のヒロインのイメージに重なると、娘が話していた。地震でジローを救うシーンは、観る人が観たら、すぐに「甲渇機動隊」だとわかるそうだ。おたくのうちの娘は、改めて日本のアニメはすごいなと思ったのだそうだ。私はあの地震のシーンで不覚にも泣いてしまった(笑)私は大坪直樹さんの音楽と、エンディングテーマがいいなと思った。
2008年06月03日
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2008年度日本作品監督は及川中出演は前田公輝、飛鳥凛、松山愛里、杉本哲太、川原亜矢子。2月に「ラストコーション」を観たきり、ずっと映画を観れないでいた。先週(日)に午前中高幡不動で新撰組のパレードとパフォーマンスを見物して、娘のお付き合いで、MOVIX昭島で午後4:45の回の「ひぐらしのなく頃に」を観た。実はこの作品について全く興味もなく全く予備知識もなかった。同じくらいの時間帯で他の映画を観ようと思ったが、頃合の良い時間に始まる作品がなく、仕方がないので「ひぐらしのなく頃に」を観る事にした。折角久しぶりの映画なので、できたら自分の観たい作品にしたかったが、仕方がない。原作はコミックマーケットでブレイクした同人ゲームで、その後アニメ化され、今回映画で実写化された。娘はテレビの深夜に放送していたアニメで嵌ったと言っていた。全く予備知識もない私は、作品に置いて行かれるだろうと覚悟していた。まだ上映中なのでネタバレせずに感想を書く。一言で書くと、これは拾い物だった!!全く予備知識のない私でも、置いて行かれる事なく本当に面白かった!!サスペンスと言うよりホラーに近い作品だと思う。それもちょっと横溝作品チックなんだけど、あんなにちょっと笑えるコミックな描写はなく、背中がゾクゾクっとするような怖さがある。本当に怖かったけど面白かった。出演者はメインになる主人公始め、村の分校の女子生徒役も、私は初見の若手の俳優だった。そこにベテランの杉本哲太と川原亜矢子が絡む。まず主人公の前田圭一役に前田公輝。一目観た時には一瞬森山未来かと思ったくらい風貌や雰囲気が似ていたが、彼より背が高い。前田君はこれからグングン来るだろうと思う。個人的にはこれから注目していたい。最近の若手俳優は、小栗旬は個性があると思うが、松山ケンイチ君より下の世代は結構似たような個性の男の子が多いような気がしていた。その中でこの前田君は個性があるし、演技もしっかりしている。個人的には注目の若手ですぞ(笑)その主人公前田圭一が転校して来る、盆地で外界から遮断されたようにある雛見沢村の小さな分校のクラスメートが、岡崎魅音と竜宮レナ達。この村のイメージは白川郷だそうだ。なるほど映像が村の遠景になると、合掌造りの家が点在していた。かつて鬼が住んでいたと言われている村。そこに住む女子生徒達は一見健康そうな普通の女の子に見えるんだけど、普通に話していて、突如威嚇するように強い目線になって有無も言わさぬ口調に変わる。笑ってるんだけど目が笑ってない怖さ(笑)全てが謎めいて曰くありげ。空気が澄んで、ちょっと懐かしさが漂う美しい風景なだけに、ちょっとずつ何かがその裏に潜む妙な物を感じさせ、他所から入って来た者には得体の知れない不気味さを感じさせるのだ。観客は主人公と一緒に主人公と同じように異様さ、不気味さを感じて行く。でも、「ひぐらしのなく頃に」はそれだけではないらしい。作品のエンディングはまだ途中。続編が企画中で、全てはその続編に託される。この横溝作品チックな、でも背中がゾクゾクするような怖い「ひぐらしのなく頃に」是非ご覧あれ。上映館が少ないけど、お勧めです。
2008年05月14日
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2007年中国作品。監督はアン・リー出演はトニー・レオン、タン・ウェイ。最近多忙で映画を観たくても見逃す事が多くて落ち込んでいた。TOHOシネマズのマイレージが溜まっていて、無料で観れる至福の時、何を観ようか迷った。「アメリカギャングスター」にしようか、大好きなジョニデの「スィニー・トッド」にしようかと、TOHOシネマズ府中のHPの上映カレンダーを観ながら散々迷った挙句、やっぱり大好きなアン・リー監督作品で、イ・ビョンホンに出会うまで一番好きな俳優だったトニー・レオンが主演である「ラストコーション」を観ないでどうするかと、「ラストコーション」に決定。今日(日)の午後2:25からの回で、プレミアシートでの上映を観た。座席数が少ないプレミアシートだったが、最前列以外皆埋まっていた。私は行ったのがギリギリだったので、前から2列目の真ん中の座席だったが、飛行機のファーストクラスと同じシートなので、広くてリクライニングなので、ゆったりと寛げた。おまけにこの「ラストコーション」はR18なのでお子ちゃまな観客はいないので、上映中咳払いすら聞こえない静かな場内だった。客層は若い層よりも30代以上で、単独の男性や女性も結構いた。香港や中国の映画は韓流とは全く違って、男性が多いのが特徴だ。予断だけど、イ・ビョンホンの映画は、どちらかと言うとおばちゃんよりも男性に観て欲しい作品が多いので、これから徐々にでも良いので男性の観客が増えて欲しいなと思う。アン・リー監督作品は、「グリーン・デスティ二ー」「ブロークバック・マウンテン」に続いて3本目の鑑賞だ。アン・リー監督はヴェネツィア国際映画祭で、「ブロークバック・マウンテン」に次いで2回目の金獅子賞を受賞した。「ラストコーション」を観て、アン・リー監督はこんな特殊な状況下の愛を描くととても上手いなと思った。「グリーン・デスティ二ー」も「ブロークバック・マウンテン」も、世を忍ぶ’秘愛’が描かれているが、今度の「ラストコーション」も決して世の中に知られてはならない男女の愛が描かれている。時代設定は1942年、場所は日本の占領下の上海。トニー・レオンは汪精衛の親日南京政府の特務機関のリーダーのイー。1万人の中からオーディションで大役を掴んだタン・ウェイは、抗日運動の女スパイワン・チアチー。タン・ウェイはミス・ユニバース世界大会で5位に入った経歴の持ち主で、それからテレビドラマで活躍し、この「ラストコーション」が映画デビュー作だ。タン・ウェイは映画デビュー作とは思えない程のしっかりした演技と存在感があり、そして大胆な濡れ場も演じている。アジアの大スタートニー・レオンを向こうに回して、堂々と渡り合っている。「ラストコーション」はワン・チアチーのキャスティング如何で、成否が決まるだろうと思う程、作品の中でとても比重の大きい役目だ。最初トニーの登場シーンはそんなになくて、ワン・チアチーの部分がほとんど。トニーはよくこの役を引き受けたなと思った。映画を観ながら時々トニーも年を取ったなと思ったけれど、この時代の男性の役はよく似合う。ある1シーン、チアチーが部屋に入ってしばらくして、背後の物音に振り向くとイスに座ったイーがいる。その時のトニーが相変わらず素晴らしく耽美で、心の中で唸ってしまった(笑)時代が違えば、例え不倫だったとしても、2人の行き末は違ったものになっただろう。しかし多分、決して世の中に知られてはならない忍ぶ愛、女は男に正体を隠し下心を持ちながらも、本気で愛してしまったし、2人は燃え上がったのだろうと思う。男も汪精衛の親日南京政府の特務機関のリーダーと言う職業柄、一瞬たりとも緊張を解く事もできず、周囲に気を許す事もないだろう。もしかしたら’S’もどきに、自分の欲望をチアチーにぶつけている時だけが日常を忘れる瞬間だったかも。チアチーもいつのまにか。チアチーがイーの真の自分への愛を悟ったのは、あの指輪の時だろう。妻にさえ買わなかったのに、6カラットのダイヤを自分に。チアチーは愛に殉じ、イーは使命に従う。でもその男も数年後には売国奴として捕まる運命で。時代のうねり、時代に翻弄される2人。出会う時代、出会う場所が違えば・・と、つい思ってしまう。イーの奥さん役の女優さん、初登場の時から、どこかで観たと記憶があった。帰宅してネットで調べたら、「胡同のひまわり」のお母さん役のジョアン・チェンだった。チアチーを抗日運動へ誘うクアン役のワン・リーホンは、レオン・ライの若い頃を彷彿とさせると思った。
2008年02月17日
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2007年度アメリカ作品。監督はマイク・バインダー。出演はアダム・サンドラー、ドン・チードル、リヴ・タイラー。5日午前中仕事、午後娘と待ち合わせて高幡不動尊に初詣、夜8:55の最終の回を立川のシネマシティで観た。ちなみに娘はシネマ2で「魍魎のはこ」を観た。夜最終なのでレイトショー割引で観れるかと思ったが、(土)はなしと言うので規定料金で観た。客入りは半分ってとこ。映画館での映画鑑賞は去年の11月「ALWAYS三丁目の夕日」以来。この「再会の街で」は新聞広告を観て、観たいなと思っていたのだが、ちょうど娘が「魍魎のはこ」を観たいと言うので、時間の合う映画がやってないかと調べたところ、運良く「再会の街で」があったので観れてうれしかった。観たい理由は、新聞広告の簡単な粗筋を読んで興味があったのと、主演が好きなアダム・サンドラーだからだった。アダム・サンドラーは日本未公開の「Mr.ディーズ」を観てからの、ご贔屓のコメディアンだ。彼は「サタデイ・ナイト・ライブ」出身のコメディアンだが、映画の進出後は自分の主演映画の製作、脚本、監督などもこなしている多才な人で、大ヒットもたくさんある。コメディアンなんだけど、最近はシリアスな作品も多い。今回の「再会の街で」も、辛さを克服できず前に進めないでいる男を深い演技で表現していた。彼もこんな演技ができるのだと、演技の幅の広さ、引き出しの多さがわかり、益々彼の作品は見逃せなくなってしまった。ドン・チードルは初見。この作品は去年の東京国際映画祭のコンペ部門に出品されたそうだが、それは全く知らなかった。さて、作品について。まだ上映中なのでネタバレなしで書く。チャーリーのように1度に自分以外の家族全員を亡くすような辛すぎる経験をしてしまったら、どうやったらその辛さが克服できるのかなんて、簡単に回答など見出せない。口に出せるようになったら、第三者にその辛い出来事や自分の気持ちを話せるようになったら、その辛さへの克服ができたのだと思う。その人の性格にもよるだろうけど、チャーリーのように本当に辛い時は口にさえできないと思う。その辛い出来事を頭から追い出して考えたくないし思い出したくないだろうと思う。私の場合はチャーリーのように、それまでの自分の人生からドロップアウトするのではなく、毎日しなければならない事を淡々と済ませて行く事で、自分を前に進ませて行き、その辛い出来事を否応なしに過去へ追いやって、傷口がかさぶたになるのを待つと思う。かさぶたが硬くなるまでは、口にして無理矢理かさぶたを引っ剥がす事はしたくないし、又それを話題にして、無理矢理かさぶたを引っ剥がすような人とは会わないようにするだろう。そして自分の中でもその辛い出来事が過去の出来事として認知できた時、初めて第三者へ自分の気持ちを話すだろうと思う。チャーリーがアランに対して怒ったのはわかる。でもチャーリーは自分の人生からドロップアウトしていて、その辛い出来事から前進できずヨレヨレのままだった。多分チャーリーはその辛い出来事を口にする事で、その辛い事実を認めたくなかっただろうと思う。だからその辛い事実を思い出さずにいられるように、自分の人生からドロップアウトした。チャーリーの場合は辛くても第三者に話し、辛い事実を認める事で前に向かわせる事が必要だったのだろうと思う。でもアランと言う友人と偶然再会できて良かった。チャーリーにとってアランとの再会は幸運だったと思う。アランにとってもチャーリーとの再会は幸運だったと思う。アランは深い悲しみを克服できずにどん底ままドロップアウトしてしまっているチャーリーを見る事で、自分の人生にとって本当に何が大切なのか気づく事ができたから。アランにとって幸運だったのは、本当に大切なものを失ってから気がついたのではなく、失う前に気がついた事だ。チャーリーが最後には再起の兆しが見えたので、本当に良かったと思う。この映画は1人でじっくり観るのも良いけど、大切な人と一緒に観るのはもっと良いと思う。映画を観終わったら、きっと観る前よりも大切な人に優しくなれるだろうと思う。
2008年01月06日
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明けましておめでとうございます。旧年中は大変お世話になりました。本年もどうぞよろしくお願いします。去年は中々映画を観る時間がなかったのですが、今年は去年観れなかった分たくさん観たいと思ってます。今の私は本当に映画を観たくて堪りません。何かお勧め映画があったら教えて下さいね。今年が皆様にとって健康でお幸せな年になりますようにお祈りしております。
2008年01月01日
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今年1年大変お世話になりました。来年もどうかよろしくお願いします。今年は春には引越し、夏には仕事を始めるなど、いろんな変化のあった年でした。私的に多忙な毎日を送る日々となり、従って観た映画の本数が減りました。映画好きと言う部分では残念な1年でしたので、来年は又映画をたくさん観たいと思ってます。実際に今映画を観たくて堪りません。それでは例年通り今年1年で観た邦画洋画ベスト1を選びたいと思います。洋画ベスト1は、「ワールド・トレード・センター」これは改めて書くまでもなく、2001/9/11にあった同時多発テロの映画化で、とても感銘を受けた映画だった。ニコラス・ケージが瓦礫の下敷きになって身動き取れずに、顔しか映らない状態での演技が素晴らしかった。自分以外唯一の生存者の部下1名と、救助隊が来るまで生きて再び一緒に外へ出よう、そして愛する家族と会おうと、お互いを支え合って生き抜こうとする姿に感動した。被害にあった人々を救助する為に瓦礫の中に入っていって、下敷きになってしまった救助隊の人々やその家族達もテロの被害者だと思う。もう2度とテロなどやってはならないと思うが、現実に世界のどこかでテロ活動は行われている。そう思うと怒りを覚える。私の中では文句なく洋画ベスト1。同じ2001/9/11同時多発テロを扱った映画、「united93」も一緒に選びたい。邦画ベスト1は「かもめ食堂」「メゾン・ド・ヒミコ」なども良かったけど、やはりこの「かもめ食堂」が私的には一番。別に大きな事件が起こるわけではないが、出演者の個性や演技、そして強烈な存在感で、グイグイと引っ張って行く。物語はかもめ食堂とそこの女主人を中心に展開して行く。女主人役の小林聡美の飄々として達観したような風情、泰然自若の風情が作品の中でとてもよく生かされていると思った。自分のやり方を相手に押し付けるのではなく、無理もせず、相手が自分に対して変わって行くのを待つと言う生き方は、忍耐力と根気のいる生き方だと思う。そして自分に自信がなければ、中々難しい。でも最後、周囲の人々が変わって行ったように見えるが、その実自分も一緒に変わって行ったのだとわかる。最後、とても清清しい気分になる映画だ。
2007年12月31日
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2007年度アメリカ作品。監督はデビット・フィンチャー。出演はジェイク・ギレンホール、ロバート・ダウニー・Jr、マーク・ラファロ。この作品はずっと観たかった作品だったが、1週間2本観るのがやっとの今の状況なので、TSUTAYAで借りるDVDを2本に絞る時、いつも棚に戻されるのがこの「ゾディアック」だった。今回は「ラブソングができるまで」と「ゾディアック」を借りた。「ラブソングができるまで」は途中でいつの間にか寝てしまった。その後つづけて「ゾディアック」を観たが、これは一瞬でも眠ってしまうと置いて行かれそうと言う感じで、最後まで食い入るように観た。アメリカのいくつもの州に跨って起きた実話の未解決連続殺人事件を映画化している。いろんな州でいくつも殺人事件が起こるので担当警察も違う。だから気をつけて観てないと混乱する。ゾディアックと名乗る犯人から人を殺したと言う声明文が各新聞社へ送りつけられ、その声明文も載せなければ又殺すと言うので、各新聞社は声明文を載せ、警察も新聞社も調査を始める。新聞記者にロバート・ダウニー・Jr、刑事にマーク・ラファロ、暗号好きで最後まで一人食い下がって調査する新聞社の漫画家にジェイク・ギレンホールが扮している。何年もの間にはもちろん有力な容疑者は浮かんで来るんだけど、警察に呼んで事情聴収するだけの証拠がない。それで何年も捜査が続けられる。それでも犯人は捕まらない。何年も経つうちに担当の新聞記者や刑事の人生まで狂って来る。新聞記者は会社を辞め、刑事は担当を外される。残ったのは漫画家だけだった。この漫画家は以前から暗号好きで、犯人が名乗る「ゾディアック」と犯人のマークに興味を持ち、この事件を本にしたくて調査を続けていたのだ。警察や新聞社をあざ笑うかのように殺人事件は続く。映画はただ事件が迷宮入りする過程を描くのではなく、担当の刑事や新聞記者の疲労やストレス、そしていつまで経っても犯人を捕まえられないと言う苛立ちや無力感を描いている。刑事や漫画家にも家庭があり家族がいる。その間でそれぞれの心が揺れる。独身の新聞記者は新聞社を辞めて家に引きこもってしまった。「ゾルディック」を観ていて、犯人が人間ならば、殺される被害者も人間、そして犯人を捕まえようと捜査する刑事も人間、新聞記者も人間なのだと思った。1人の人間によって殺され人生に終止符を打たされた被害者。殺人事件は犯人と被害者に焦点が集まるが、だけどたまたまその事件の担当になって、その事件を捜査する刑事や新聞記者も人生が狂ってしまう事もある。事件が解決すればやり遂げたと言う気持ちになれるだろうけど、その事件が迷宮入りしてしまったら、疲労や無力感で憔悴しきってしまうだろうと思った。特にあいつが犯人だと目星が付いているのに検挙できない時の焦燥感は大変なものだと思う。実話の迷宮入りした事件の「ゾディアック」以前にも、昔この事件をモデルにして「ダーティーハリー」が製作された。映画が公開された時、アンケートを取って、その用紙を入れるように用意された箱の中に捜査官が入って見張っていたと言う嘘のようなエピソードがある。それだけ警察も追い込まれていたのかもしれない。事件は有力な容疑者とされていた人物が、心臓麻痺で死亡してしまい迷宮入りしてしまった。迷宮入りしてしまった殺人事件を映画化すた作品は、観ていて本当に怖い。この「ゾディアック」もとても怖かった。アルファベットを使用した暗号の謎解きは理解するのに大変だったけど、癖になるような面白さがあった。
2007年12月27日
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2005年アメリカ作品。監督ラッセ・ハルストレム。出演はロバート・レッドフォード、ジェニファー・ロペス、モーガン・フリーマン。この作品は「ダイハード4」を借りた時、もう1本借りようとチョイスした作品だった。作品のタイトルも知らない程、作品について何も情報は持ってなかったが、パッケージに書いてある説明やストーリーを読んで、監督が好きなハルストレム監督だと言う事と、メインの出演者3人が大好きな俳優だと知り観たくなった。ロバート・レッドフォードは10代の頃からのファンで、彼の出世作「明日に向って撃て」は私にとっての永遠のベスト1の作品だ。この作品にサンダンス・キッド役で出演していたのがロバート・レッドフォードだった。以来結婚するまで私のベッドの枕元の壁には、サンダンス・キッドの畳1畳分の特大ポスターが貼られていた。彼の出演作は大体観てるし、監督作品も好きで観ている。そんなロバート・レッドフォードがおじいさん役とは、観る前からなんだか長い時の経過を改めて感じてしまったのだけど、久しぶりに見つけた彼の新作映画だし共演者も監督もいいから是非観たいと思った。ハルストレム監督作品は、「サイダーハウス・ルール」と「ショコラ」を観ている。ジョニデファンなのに「ギルバート・グレイブ」は未見。独特の世界観を持つ監督だと思う。私の好きな監督だ。「アンフィニッシュ・ライフ」はワイオミングの田舎町で牧畜を営んでいるアイナー、そのアイナーの息子を過失で死なせてしまった嫁のジーンと息子の忘れ形見の孫グリフ、グレズリーに襲われて体が不自由になってからアイナーの世話を受けながら牧場で暮らしているミッチの4人がメイン。アイナーは今まで過失で息子を死なせた嫁のジーンが許せずに暮らしていた。ジーンは主人を死なせてから後知り合った男と同棲していたが、その男のDVに苦しんで家から娘と逃げ出した。ジーンは逃げ出したもののお金もなくて、自分の事を憎んでいるのを知りながらも、親子で身を寄せる事ができるのはアイナーの所しかなかった。突然ジーンが娘と一緒に着の身着のまま訪問して来て、しばらく寝泊りさせて欲しいと言われて、驚きながらも寝泊りさせる事にした。息子を死なせた嫁は許せないけど、死んだ息子の忘れ形見のたった1人の孫を連れていたからかもしれない。ジェニファー・ロペスは小さな子を持つシングルマザーと言う役どころがよく嵌ると思う。彼女のプライベートは知らないが、多分彼女の中に小さな子供への母性を感じるからかもしれない。ミッチ役のモーガン・フリーマンのいぶし銀の演技力と存在感はいつもの通りだ。ただそこにいるだけで役柄の人生を感じさせてくれる大好きな俳優だ。アイナーはジーン親子に寝泊りする事を許したが、過失で息子を死なせた嫁を決して許し受け入れるつもりもなかったし、許し受け入れられるわけもなかった。だけど孫は違った。ジーンが働きに行っている間、おずおずとアイナーに近づいて来る孫グリフ。そして寡黙で武骨なアイナーは、そんな孫をどう扱って良いか戸惑うが、それでも段々牧場の仕事を手伝わせたりしながら暮らして行く。ミッチは少し離れた位置で、そんな3人を見守って、機会を見つけては3人にそれとなく話す。それがさりげなくて、でも暖かく包容力があってとてもいい。グリフもちゃんと子供目線で大人達を見つめている。このミッチとグリフがアイナーとジーンの潤滑油となり接着剤となる。ロバート・レッドフォードは無精ひげを蓄えて、観るからに武骨な田舎の男と言う感じ。でも心の中にジーンへの怒りや恨みはあるものの、人を拒絶するような冷たさはない。そんなアイナーの人間性を感じ取る事ができたから、グリフも近づいて行く事ができたのだろう。そんなアイナーの人間性は、レッドフォードの監督としての登場人物を冷静にでも優しく見つめている作風に重なると思う。演じる俳優によっては人を拒絶する冷たい人間になってしまうと思うアイナーを、そんな風にならなかったのはロバート・レッドフォードだからだと思う。怒りや恨みはあるけれど拒絶するような冷たさはない。それがアイナーだと思う。ハルストレム監督はいつものように、傷ついた人間が自分の居場所を見つけて再生して行く姿を、ワイオミングの自然をバックに静かに描いている。地味な作品だけどお勧めしたい作品だと思う。
2007年12月21日
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2007年度アメリカ作品。監督はレン・ワイズマン。出演はブルース・ウィリス、ティモシー・オリファント、マギーQ。診たくて仕方がなかったのだが、劇場公開は見逃し先週TSUTAYAで借りて漸く観れた。私はこの「ダイハード」シリーズが大好きで、Part1から全部観ている。一番好きなのがPart2で、空港の上空を旋回していた旅客機が事件解決の報告を受けて次々着陸して来るエンディングが大好きで、何度観てもバックに流れる壮大な「フィンランディア」を聴きながら号泣してしまう。このシリーズが個性的なのは、冴えない現場での叩き上げの刑事が、本人の意思とは全く関係なしに事件に巻き込まれてしまい、今までの経験をフル活用して孤軍奮闘して事件を解決する所だ。如何にもなヒーロー物ではない。よく動けるなぁと思うくらい満身創痍で、孤軍奮闘しながらボヤクぼやく(笑)今回のPart4は家庭崩壊していた。主人公のジョンがヒーローと世間から呼ばれているが、奥さんとは離婚して娘はワシントンの大学に通っていて、父親を嫌っていた。事件は解決し人々を助かって、人々からはヒーローと持て囃されているのに、自分の家庭は崩壊していると言う皮肉。Part4ですごいなと思ったのはブルース・ウィルスとアクションシーン。Part3が政策されてから大分間隔が空いたのに、ブルース・ウィリスのジョン・マクレーンの人物像にブレがなくて、本当にジョン・マクレーンと言う人が数年後戻って来たような気がした。そしてVFXを使用しているのに、とかく重力感や痛みを感じられず緊張感のない派手なだけのこけおどし的アクションシーンの作品も結構ある中、ブルース・ウィルスの汗や痛みや疲労感と上手く融合されて、アクションシーンに臨場感があった。戦闘機との高速道路のアクション、エレベーターのアクションなど面白かった。車で戦闘機を落とすアイデアもすごいと思った。ブルース・ウィリスは様々な作品に出演しているが、個人的にはこのジョン・マクレーンが一番好きだ。しかし返す返す劇場で観れなかったのがとても残念だ。
2007年12月20日
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こちらへお出で下さってる皆様へ今日70,000ヒット達成いたしました。これもこの稚拙な映画レビューのブログにお出で下さっている皆様のお蔭だと、心より感謝しております。本当にどうもありがとうございます。最近、レビューの更新の間隔が開いて、心から反省いたしております。今年に入り、引っ越したり仕事を始めたりで、日常的に多忙になり、今までのように毎週レンタルショップを利用して映画を観る事ができなくなり、ネットレンタルを利用するようになりました。店頭で借りると長くて1週間ですから、早く観なければと時間を遣り繰りして観てましたが、ネットレンタルだと1週間と言う拘束がない分気が緩んでしまいます。そして予約した時には観たかった作品もすぐには届かず、いざ届いた時には皮肉なもので、それ程観たいと思えなかったりして、観るのを1日延ばししてしまう事もあります。映画を大好きな気持ちは全く薄れていないのですが、確実に観る本数が減ってます。でも映画を大好きな私は、しばらく観ないと精神不安定になってしまうので、これからはもっともっと観たいと思います。こんな実情の私ですが、どうかお見捨てなく、よろしくお願いします。 romy♪拝
2007年11月08日
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2007年度日本作品。監督は山崎貴。出演は吉岡秀隆、堤真一、薬師丸ひろ子、小雪、掘北真紀、須賀健太。前作の「ALWAYS三丁目の夕日」が大好きで、続編が製作されると知ってから公開されるのをずっと待っていた。公開される11/3は(土)で仕事が午前中にあるので、帰宅して疲れてなかったら昼食後ウェッブリザーブして観に行こうか、それとも翌週の(水)のレディースデーに観ようか散々迷っていた。疲れていると、いくら大好きな作品でも途中で眠ってしまう危険性もあるので、疲れている時はできるだけ避けたかった。11/3(土)仕事が終わって帰宅してからも散々迷ったが、やっぱり早く観たくて(水)まで待てなかった。ネットでTOHOシネマズ府中の混み具合をチェックすると1時間前でPM15:30の回が残り希少になっていたので、大慌てでリザーブして家を飛び出した。やはり予想通りロビーやチケットカウンターも混雑していたが、私はゆっくりと自販機でチケットを受け取って入場した。こんな時本当にウェッブリザーブシステムは有難い事だ。このシステムがない頃は何時間も前からチケット売り場の前に並んで待ったものだ。それを考えたら、今はこのシステムがあるので、劇場へ行くのもゆっくりでいいし、極楽極楽(笑)席はリザーブしたのがギリギリだったから、前から6列目の右端の方であんまり良い席ではなかったが仕方がない。まだ公開されたばかりなのでネタバレなしの感想を書くが、ついつい書き過ぎになってしまうので、その時にはご容赦下さい。冒頭、まさかあんな始まり方をするとは思わずびっくりだった。最初地震かと思ったが、あんな大きな地震は関東では関東大震災以降ないからなぁと思い直していたら・・・、あぁそう言う事か(笑)しかし、ちょっとシニカルに考えると、作者の現代社会への批判とも受け取れるような気がする。この「三丁目の夕日」に描かれている世界や人々の持つ人情が、次々壊されて無くなってしまった現代への批判、作者の慨嘆が聞こえて来るような気もした。「続三丁目の夕日」の人々は健在だった。茶川竜之介は相変わらず伸び放題のボサボサ頭に無精ひげ黒縁めがねで、風采が上がらない外貌。お向かいの鈴木オートの主人鈴木則文は、相変わらずの単細胞ですぐに髪を逆立てて、真っ赤な顔して怒るが、人を思いやる気持ちも人一倍。その奥さんトモエは、これぞ昭和の奥さんであり母である。働き者で子供の服は皆手作り、ちゃぶ台に並ぶ料理も豪華ではないが、家族を思う心のこもった料理だ。津軽弁のかわいい六ちゃんはすっかり鈴木家の一員だ。鈴木オートの一人息子の一平と茶川家の淳之助も相変わらず昭和の子。たばこやの金さんも、相変わらず町内の事はなんでも知ってる人。ヒロミさん、宅間先生は、相変わらず悲しくて・・・、でも・・・。皆まるで、ずっと生き続けているような自然な存在感。それはきっと観る者へ与える安心感や懐かしさから来るのかも。続編で新登場の人々も上手い具合に作品の世界に馴染んで違和感なかった。前編で段々出来上がって行き最後に完成した東京タワーは、続編では最初から立っていた。あれから4ヶ月の間、まるでずっと三丁目の住人を見守って来たかのように。懐かしかったのが、まだ脱水機能がなくて、2段のローラーの間に衣服を挟んで、ハンドルを回して絞る洗濯機だった。あれ、うちにもあった。時々洋服に付いているボタンが割れたりホックが潰れたりするし、シーツのような大きな物を挟んだり皺を伸ばすのが大変だった。子供も家のお手伝いをよくしていたと思う。大体お母さんが働き者だった。薬師丸さん扮するトモエそのままの雰囲気だった。娘のワンピースをミシンで縫ったり、家族のセーターを手編みしたり、布団を打ち直したり、正月のおせちも皆手作りだった。お父さんは一生懸命働き、文字通り一家の中心だった。近隣の住人は近所の人々の大事は自分の事のように心配するし、逆に慶事は自分の事のように喜ぶ。現代人によってはちょっぴりウザイようにも感じるけども、三丁目の住人達は本来の人間らしさを持っているように思う。だからこそ、観ていて鼻にツーンと来て目頭にジワーと来るんだろう。吉岡君を見ていると、日本でもハリウッドでも子役出身俳優は大人の俳優に転換して行くのが難しい中、しかも「北の家族」の純君のイメージが強いのに、本当に上手く大人の俳優に転換して行けたと思う。その年齢でその年齢がもっとも相応しい適役に恵まれたのが、俳優として幸運だったのは言うまでもない事だろう。「Dr.コトー診療所」しかり、この「ALWAYS三丁目の夕日」しかり。でもその幸運を我が物にするのも、本人の実力があっての事だから。吉岡君だけではなく、他の出演者にとっても「ALWAYS三丁目の夕日」はご自分の代表作になったに違いないと思う。
2007年11月07日
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2006年度アメリカ作品。監督はトニー・スコット。出演はデンゼル・ワシントン、ポーラ・パットン、ヴァル・キルマー。タイトルの「デジャブ」も観る前に読んだ簡単な粗筋も、そんなにピンと来てないまま、とにかく1本は借りて映画を観たいと覗いたレンタル店で選択したDVDだった。選択の理由はプロデューサーが私の大好きな「パイレーツ・オブ・カリビアン」の人だと言う事と、主演がデンゼル・ワシントンと言う事だった。デンゼル・ワシントンは「グローリー」を観てからのファンで、ケビン・クライン主演「遠い夜明け」もとても印象的だった。「トレーニングデー」も好きな作品だ。最近は彼も大分老けたなぁと思っていたが、この作品のアクションや女優さんとの絡みを観ても、まだまだイケルかなと思ったりした(笑)黒人俳優も今はウィル・スミスやジェイミー・フォックスのような勢いのある人達の活躍が目立つから、世代代わりしたかなと思っていたのだけど、デンゼル・ワシントンも頑張ってる。でもここらで、デンゼル・ワシントンらしい硬派な社会派の作品も観たいなと思う。共演のヴァル・キルマーは多分オリバー・ストーンの「ドアーズ」以来だと思う。だから私の頭に残っているヴァル・キルマーは、長髪のジム・モリソンに扮した彼だった。最近の映画の出演者の中に懐かしい俳優の名前を見つけた時、同窓会名簿の中に旧友の名前を見つけた時のような、懐かしさとうれしさが入り混じった気分になる。「この俳優も頑張ってるのね」って(笑)私にとっては随分ご無沙汰のヴァル・キルマーが観れるのも楽しみにしていたのだけど、出て来たヴァル・キルマーを観てびっくりした。でっぷりと中年太りした短髪のFBI捜査官!俄かに信じがたかった(笑)役作りだったかもしれないが、押しも押されぬ中年の’おっさん’!ヴァル・キルマーがこんなになっちゃった!ショックだった(笑)気を取り直して先を観る。まず私には最初から「デジャブ」と言うものがピンと来てなかった。そしてFBIが極秘で開発したと言う「タイムウィンドー映像装置」なるものが、なぜ4日+6時間なのか、どうして過去のものが映像で観れるのか、さっぱりわからなかった。映像装置が現在と4日+6時間前の映像を頻繁に行ったり来たりする辺りは置いて行かれ感があって、映像とFBI捜査官の説明を聞いているだけで、頭がゴチャゴチャ(笑)DVDでゆっくり観てもこの有様なんだから、劇場で観たら更に理解できなかったと思う。アクションは迫力あったけど、最後4日+6時間前に死んだはずのダグが、どうして現在で生きてたのか、よくわからなかった。過去が変わって被害者の彼女は現在では生きているし、又フェリーの爆破事件も未然に防げ乗客は全員無事だった。だから彼女を救う為に死んだダグは現在では生きてないのではないか?4日+6時間前が変われば現在も変わるんじゃないかと思ったので、腑に落ちなかった。
2007年10月28日
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2006年度アメリカ作品。監督はガブリエレ・ムッチーノ。出演はウィル・スミス、ジェイデン・クリストファー・サイア・スミス。これはクリス・ガードナーと言う人物のアメリカン・ドリームの実話だ。今でもアメリカにはホームレスから億万長者にまで上り詰めた、アメリカン・ドリームが存在していると言うのがすごいと思う。もちろん’人並み’以上の「能力とやる気」そして人物との出会い如何でと言う但し書き付きなのは言うまでもない事で、アメリカン・ドリームと一言で言ってもそんな生易しい夢物語ではない。主演のウィル・スミスがこの原作に惚れ込んで、自らプロデューサーもしている力の入れ様だ。息子役のジェイデンはウィル・スミスの実子だが、縁故採用ではなく、スミスの息子とは知られずにオーディションを受けて合格してから、スミスの息子だとわかったのだそうだ。父親の才能を譲り受けたのか、「幸せのちから」全米公開当時アカデミー賞最有力候補と賞賛された父親を向こうに回して、堂々の名演を繰り広げている。子役に有り勝ちな如何にも「かわいく演じてます、どう?上手いでしょう」的な鼻に付く’あざとさ’がない演技で、息子の父親に対する揺ぎ無い信頼と愛情、そして時々父親に対して噴出す不満やイライラなどが、観ていて自然に伝わって来た。手を繋いでトボトボ歩く2人の後姿、バスの中で頭を寄せ合って眠りこける姿など、確かな父親と息子の情愛が溢れている。私はウィル・スミスはマイケル・ベイ監督の「バッドボーイズ」以来、セクシーでかっこいいのでご贔屓の俳優なのだが、もちろん「最後の恋の始め方」も観ているが、正直「幸せのちから」を観るまでこんなに演技のできる俳優とは思ってなかった。いつもウィル・スミスも、黒人俳優達がよくしているように額の生え際を真っ直ぐに刈り込んでいるが、この作品では自然な丸い生え際にして役作りしていた。それだけでも、冴えない一般人の男と言う感じがして来るから不思議(笑)観ていて思ったのは、守りたい物があり、ここからなんとか這い出そうと言うやる気と勇気があると、どんなにキツイ日々でも、信じられない力が沸いて来るのだろうと言う事だ。クリス・ガードナーも株式仲買人の研修期間は無給だとわかっていながら、この研修期間にいい結果を出せば、一流会社の社員になれると言う可能性に賭けた。最初無給だと知らずに応募したのだが、無給だと知って応募するのを躊躇したが、学歴が高卒のクリスにはこの機会を逃しては、今の暮らしから脱出するのは不可能だった。無給の研修期間が終わっても、社員に採用されるとは限らない。そして奥さんに逃げられた父なので、5歳の息子の保育園の送り迎えや世話をしながら、残りの時間でなんとか医療器具を売って生活費を稼がないといけない。息子を迎えに行く時間があるので、一日の研修を他の人よりも早く切り上げなくてはならないだけでも人よりもハンデがある。医療器具は売れない。ついには家賃滞納でアパートを追い出され、安モーテルにも泊まれなくなり、ついには教会にあるホームレス用の宿泊所に泊まる為に、ホームレスの列に並ぶまで追い詰められる。家に帰りたいと泣く息子をなんとか言い聞かせ寝つかせる。息子の寝顔を見ながら、研修の教科書を読んだり、故障した医療器具を修理したり、いったいいつ寝ているのかと言う生活。それでも頑張れたのは息子がいたから。どん底の生活だけど息子だけは絶対に手放したくない。息子と一緒にこのどん底の生活から這い上がる為に頑張る。クリスにとっては息子と一緒にいる事が幸せ。だから息子の存在が力になる。もし息子がいなかったら、クリスはこんなに頑張れなかったと思う。クリスにもし息子がいなかったら、ホームレスから億万長者にまで上り詰める事はできなかったと思う。この作品は一人の男の立身出世物語であると同時に、父と息子の情愛の秀逸な物語でもある。鼻に付くあざとさのない良質なハートウォーミングな作品だと思う。
2007年10月24日
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2007年度アメリカ作品。監督はスコット・ヒックス。出演はキャサリーン・ゼダ=ジョーンズ、アーロン・エッカート、アビゲール・プレスリン。折角仕事の休みの(水)のレディースデーだから、久しぶりに映画を観たいと思い、昨夜いつも行くTOHOシネマズ府中の上映作品の中から、キャサリーン・ゼダ=ジョーンズの「幸せのレシピ」を観る事にした。AM10:10からの朝一の回なので空いているだろうと、いつもするウェッブリザーブをせずに行った。チケット売り場の長い列ができていて、エレベーターを降りた途端後悔した。おばちゃんばかりの列に並びながら、いったいこの人達は何を観るのだろうか?、「HERO」かな?と思っていたら、ほとんど「幸せのレシピ」のスクリーンに吸い込まれて行った。そんなに人気があるのかとびっくりしたが、レディースデーとは言っても平日朝一なのに、客席の半分が埋まっているから、客入りは良いと言って良いと思う。私がこの作品を選んだのは、オリジナル版のドイツ映画の「マーサの幸せのレシピ」を観ていた事と、キャサリーン・ゼダ=ジョーンズが好きだからだ。オリジナル版の「マーサの幸せのレシピ」は良い作品だっただけに、そのリメイクと言う事で今一不安もあったけど、今日は重いシリアスなものよりも軽く観れる作品を観たかった。オリジナル版の物語がわかっていると言う事もあるが、ストーリー展開は先のわかる仕事一途だった女性の恋愛パターンだが、キャスティングが良いから、最後まで楽しむ事ができた。自分で自分を支えながら必死に料理の勉強をして、マンハッタンの一流レストランのシェフになったケイト役に、キャサリーン・ゼダ=ジョーンズにぴったりだった。料理は自分の生きて行く全てだった。レストランの厨房は、ケイトの戦場であり人生そのものであり、自分の全てだった。他のものは自分の人生にはなくて良いものだった。自分の作る料理に確固たる自信を持ち、そのプライドだけが車夫として生きる支えだった。だから自分の料理にイチャモンを付ける客には、数字に裏づけされた自分の料理の完璧さを主張して一歩も譲らない。毎日早朝から判で押したように始まり、店が閉店して深夜に帰宅し、メッセージの入ってない留守電のボタンを押すまで、分刻みの暮らしは料理と共に始まり、料理と共に終わる。ケイトにとっては早朝の卸売り市場とレストランの厨房が生きている証だろう。ケイトにとっては他は必要ない。そんなケイトの生活が2人の人物によって、否応なく狂わされる。最初はケイトにとっては狂わされると言う状況だった。それがあれだけウザイ存在の2人が、段々ケイトの心と生活の中欠く事のできない存在になって行く。そんな展開は在り来たりで先が読めるのだけども、キャスティングがとても良いので、それが魅力になってこのリメイクは成功したのだと思う。ケイトの生活に欠く事のできない人物2人、ニックとゾーイ役のアーロン・エッカートとアビゲール・プレスリンが実に良い。私はニック役のアーロン・エッカートは初見だが、ケイトから見ると心を逆なでするような無神経に見えるが、本当は細やかな神経の持ち主で、人を優しく自然におおらかに包み込むような包容力のある人物だ。観ている私まで、ニックはステキ人だなと思う。そんなニック役にぴったりなのだ。子役のゾーイ役のアピゲール・プレスリンは「リトル・ミス・サンシャイン」の女の子。私はこの作品を観ていないので、この子も初見。ダコタ・ファニングのライバル現るって感じ。健気なゾーイのシーンはやっぱり涙を誘う。ゾーイが着ているキッズファッションがかわいい。うちの娘がまだあれくらいの年の子供なら、絶対に着せたいと思った。「幸せのレシピ」はBGMも大きな比重を負っている。先日急逝したパバロッティが歌うトゥーランドットのアリア「誰も寝てはならぬ」、ラテンの「キエンセラ」など、よく聞く曲が使用されている。レストランの厨房が自分の全てだと言うケイトに向かって、ニックが’一部だ’と言う。やがてケイトにとって厨房は自分の一部で、もっと大切な物があると悟った時、ケイトは生き生きと人生が色づき、料理もおいしくなって初めて完成したのだと思った。人生は一色じゃつまらない。いろんな色に色づけされてるから、人生は楽しいのだと思う。
2007年10月03日
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2005年度アメリカ作品。監督はニキ・カーロ。出演はシャーリーズ・セロン、フランシス・マクドーマンド。この作品はアメリカの実話に基づいている。監督は私は残念ながら未見だが、「くじらの島の少女」の女性監督だ。そのカーロ監督がプロデューサーと「Stand up」の映画化を思い立ち、2人でキャストを話し合った時、主役のジョージー・エイムズ役はシャーリーズ・セロンにしようと決めた。その頃、シャーリーズ・セロンも「くじらの島の少女」を観て、ニキ・カーロ監督と一度仕事がしたいと思って、自分のエージェントに「カーロ監督の次回作が何であろうが、一度会いたい。」と頼んでいた。シャーリーズ・セロンがエージェントにそう頼んでから、なんと5日後にはこの「Stand up」のオファーが来たのだそうだ。まさに、カーロ監督とシャーリーズ・セロンは、一緒に「Stand up」をする運命にあったとしか言えない偶然。舞台となる北ミネソタの古い鉱山の町は、冬は零下になる程極寒の土地で、撮影があった冬は特に記録的大寒波だったそうだ。そんな凍てつく寒さは画面を通してもわかった。「Stand up」を観ていて、凍てつくのは気候だけではなく、そこに暮らす人々の心も保守的で、冷え冷えとしているように思えた。鉱山の仕事は昔から男の仕事だと言う慣習からの思い込み。別に男たちに鉱山の仕事に対するプライドがあるのでもなく、仕事が楽しいわけでもない。ただその鉱山と言う男の世界に、女が介入して来る事で、男の世界が女に侵される恐れを感じていたのだろうと思う。男たちになぜ女性が鉱山で働くのが嫌なのかと聞いても、鉱山は男だけの世界だから、女性が入り込んで来るものじゃないとしか答えられないだろう。とにかく嫌だったんだろう。当の女たちは、ただ鉱山で働きたいだけだ。自分たち女も、鉱山で男たちと同じように働けるし、現に働いているのだから、当然の権利を主張したい。当然の権利は特別な事なんかではない。働く限り、当然認められなければならない権利だった。男の世界だから、それすらも認められてなかった。逆に言えば、認められなくても良かった。なぜなら鉱山が男の世界だからだ。男たちはジョージーたちに露骨な嫌がらせをする。女性たちがこの鉱山から出て行くように、執拗に繰り返し嫌がらせをする。嫌がらせされるのがいやなら、辞めて出て行けって。男たちにとって何か理由が明確にあるわけではなくて、とにかく自分たちの職場に女性がいるのが目障りで仕方がないだけなのだ。つまり男の仕事、男だけの世界に女性が入って来て、自分たちと同じ仕事をしているのが面白くないのだ。だからいびり出してやろうと言うだけ。でも女性たちは辞めない。なぜならその女性たちも鉱山で働いて得る給料で生活している。ジョージーの友人は病気の主人を養っているから、辞めるわけにはいかない。ショージーだって暴力夫と別れて、2人の子供を連れて帰郷して、これから2人の子供を育てて行かなくてはならないから、辞めるわけにはいかんかった。様々な事情を抱えた同僚の女性たちは黙って耐えているだけだった。下手に行動を起こして、その後嫌がらせが悪化して酷くなったらと思うと、今のまま黙って耐えている方が良いと思っていたのだった。彼女達にとっても、後から入って来て、事を荒立て騒ぎを起こすジョージーは迷惑な存在でしかない。その気持ちよくわかる。この作品を観ていて、ずっと「私ならどうするだろうか?」と考え続けた。私は小市民的な所があって、人と争う事を好まず、お互いに嫌な気分になるくらいなら、自分が我慢してしまうと思う。人生平凡でも、私は何より平穏無事が一番いい。でもジョージーは1人で戦った。ジョージーは父親が誰だかわからない長男を生み、シングルマザーになった過去を持ち、その後DVの男と結婚して娘を産み離婚して故郷に舞い戻って来た事で、街中の人々から異性間駅の派手な女性と言う噂のあった。ジョージーと同じ鉱山で働く父親との関係は、昔から冷え冷えとしてコミュニケーションが取れてない。母親は夫の下へ戻れと言うだけ。息子はアイスホッケーチームに入っているが、チームメイトから爪弾きにされ、母親のジョージーの事を嫌う。いよいよ裁判。私がショックだったのは、鉱山側が雇った弁護士が女性だった事。この女性弁護士が女性でありながら、女性の職場での待遇改善の裁判で、ジョージーの戦う企業側の弁護士としてあらゆる手だてを講じて来るのだ。まぁ、自分の弁護士としての職業に性を介在させないと言うのは、プロとして当たり前な事だとは思うけれど、彼女も弁護士をしている中で、きっと今まで自分が女性と言う事で、男性なら味わう事のない嫌な思いもした事があると思うので、ジョージーの待遇改善の裁判にも理解できる部分、共感できる部分があるんじゃないかと思ったりもしたけど、この女性弁護士は最後まで皆無だった。なんだか女性の敵は女性と言う人間関係を見る思いがした。結局その裁判の過程で、ジョージーの長男の父親が誰なのか暴かれる。ジョージーは決して異性関係の派手な女性ではなかった。ただただ、あんな事で自分が子供を身ごもった事が、あまりにも耐え難い衝撃で、両親にさえ打ち明ける事ができなかったんだと思う。でもそんな事は関係なく、養子に出す方が生き易いのに、彼女の中の母性がそれを選択せずにシングルマザーの道を選択し、その後結婚したがDV夫とは離婚、その後もローンで一軒家を購入して、子供2人は母親としてちゃんと育てていた。ジョージーは男前な勇気のある女性だと思うが、何かを変えたいと思うなら、まず自分が一歩足を踏み出しアクションしなくてはならないのだと、ジョージーを通して教えられた。先の結果を思い煩う前に、まず一歩を踏み出すその勇気を持つ事。その勇気を持ち足を一歩踏み出さなくては、何も変わらないと言う事だ。作品の中での裁判の結果や職場での成り行きは、ややご都合主義的のような気がしないではないが、気持ちの良い希望が持てるエンディングで良かった。この作品のヒロインのジョージーの男前な生き方は、シャーリーズ・セロンと言う人の生き様にも、どこか共通する所があるような気がした。
2007年09月18日
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2007年度日本作品。監督は鈴木雅之。出演は木村拓哉、松たか子、松本幸四郎。今日レディースデーで1000円なので、昨夜朝一の回をネット予約して「HERO」を観に行った。場所はTOHOシネマズ府中。チケット売り場のおばちゃん達の行列を見た瞬間、ネット予約しておいて良かったと思った。朝一なのでおばちゃん達がたくさんと学生風の男の子がチラホラって感じの観客層だった。私は悠々とトイレを済ませて発見器でチケットを受け取り、ダイエットコーラを買って劇場へ入場した。客入りはレディースデー朝一の回にしては前1/4が空いているくらいで、それから後ろ3/4は埋まってるのだから、さすが今年最高のメガヒットと予測されている「HERO」だけあるわと、一人合点した。ただ予告編の間中、おばちゃん達の私語で五月蝿い事五月蝿い事(爆)又韓流映画の悪い予感がして来た。ヤレヤレ・・・、全くため息が出るな(泣)しかし本編が始まると、あれ程五月蝿かったおばちゃん達の私語は全く止んで、本当に静か。おばちゃん達も集中して観ているようだ(笑)良かった、これならイライラしないで集中して観れると、心から安堵した(笑)私はドラマの「HERO」は連ドラもSPも全く観てない。と言うか、木村拓哉のドラマも映画も観た事がない。それなのに、2ヶ月ぶりの劇場での映画鑑賞なのに、なぜ「HERO」を選んだのか?それは一重にカメオ出演のイ・ビョンホンが目当てだった。いくらイ・ビョンホンの出演シーンが目当てだと言っても、彼はカメオ出演だから当然出演時間は短いから、それ以外の時間を楽しめなかったらどうしようかと言う不安もあった。何しろドラマを観てないんだから、「HERO」と言うドラマについては判断のしようがない。たった数分の出演時間に過ぎないイ・ビョンホンを観る為に、1000円払って観に行く私も、かなりイタイファンだと、頭の片隅で自嘲気味だった(爆)そして始まった。ファーストシーンから木村拓哉登場の大盤振る舞い(爆)スターさんの主演映画は、最初からバンバン登場させる’大盤振る舞い型’と、出演者のせりふには名前がバンバン登場するのに、当の本人が中々出て来なくて、観客にいつ出て来るのかいつ出て来るのかとジリジリさせる’じらし型’があるが、この「HERO」は大盤振る舞い型だった。感想を一言で書くと面白かった。シナリオとキャストが良いと思った。私はよくできた作品と言うのは、主役はさる事ながら、脇のキャラクターが生き生きとしていて活気がある事と言う持論を持っている。つまりアンサンブルが良くて魅力があると言うのが重要なのだ。脇が生き生きしていると、作品全体に活気が出るからだ。主役が良くても、脇がドヨーンとして活気がない作品は、結局は深みも奥行きもなくて薄っぺらな作品だと思う。そう意味で、この「HERO」は久利生公平を取り巻くアンサンブルが実に生き生きとしていて良かった。それもそのはず、キャストが曲者業師揃い!!このキャストで生き生きしてなかったら、それは演出とシナリオが悪いとしか言いようがないくらいキャストが抜群(笑)しかも放火犯人役には古田新太、テレビのニュースの画面のキャスターには生瀬勝久まで出てるんだから、なんて惜しげもないキャストなんだろうか(爆)これに伊東四郎、阿部サダヲ、竹中直人まで出ていたら、日本映画界の曲者業師勢ぞろいになるな・・・なんて、観ながら思ったりしていた(爆)間に韓国の釜山が挟まって、イ・ビョンホンとぺク・トビンの出演部分も、「HERO」の持つ色やテイストを損なわず、上手い具合に融合していて、ストーリー展開上も不自然さがなかった。カメオ出演で登場シーンがわずかなのにも関わらず、イ・ビョンホンのインパクトのある使い方にも感心して、シナリオが上手くできているなと再三再四思った。まだ公開して間もない作品だからネタバレする訳にはいかないから、これ以上詳しくは書けないのが残念だ。後、面白いなと思ったのがセットだ。検察庁の中のセットが、真ん中にロビーと言うか検事や事務官達が休憩する場所を持って来て、その両側に各検事の部屋が配置されて、外から帰って来た人や検事の部屋から出て来る人が、入れ替わり立ち代り出入りする。法廷シーンも合わせて、まるで舞台劇のような作りになっている。検察庁で仕事に従事する人々は各自がそれぞれ違う事件を扱っているが、一方では検察庁と言う職場の同僚であり仲間であり、ある意味ライバルでもあると言う人間模様がよくわかる。なるほどなと感心した。作品はテンポがとても良かった。そしてシリアスな部分と軽妙でコミカル部分のバランスがうまく融合されて、2時間強の上映時間なのに、ドラマを観ていない私でも観ていて飽きなかった。人間関係は最初は頭の中を整理しながら観ていたが、特別人間関係が入り組んでいるわけでもないから、その内久利生との人間関係はわかって来たので置き去り感は感じなかった。ただ中井貴一と綾瀬はるかの部分はSPを観ていた方が、更に今回の久利生の怒りが伝わって来たんじゃないかと、ちょっと残念だった。久利生は中卒で大検を受けた後司法試験に合格して検事になったんだけど、それは別に可能な事なんだけども、あまりにも設定が極端で、やはり作り物感が否めない。そう言う設定をもっとリアルな物にできなかったのかなと思ったり、でもそこの時点で躓いたら、もう「HERO」と言う作品には入って行けないわけで、この「HERO」を楽しむ為には、そこは目をつぶるしかないか(爆)罪を犯した人間にはそれ相応の罰を受け償わせ、2度と罪を犯さないようにさせないといけない。その罪から逃れる為に、嘘を付いている者がいるなら、見つけ出して嘘で隠した真相を見つけなければならない。一点の疑問もないようにする為には、地べたを這い蹲るようにしてでも探して見つけ出す。そうしなければ被害者の無念は晴らせない。久利生を通じて語られている、作品の中に貫いている思い、現代においては机上の空論なのだろうか?汚職の衆議院議員役はタモリでも良いけども、個人的には鶴瓶も良かったんじゃないかと思う。鶴瓶の方が強欲で狡猾で生臭い悪徳議員の臭いが出たかなと思ったりもした。釜山の全景って初めて観たが、観た瞬間ギリシャかポルトガルのようだと思った。
2007年09月12日
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2005年度中国作品。監督はチャン・ヤン。出演はジョアン・チェン、スン・ハイイン。 監督のチャン・ヤンは、中国の監督のニュージェネレーションを代表する実力派で、代表作には「スパイシー・スープ」「こころの湯」がある。「胡同(フートン)のひまわり」は、北京の胡同に住む、両親と一人息子の3人一家の30年間を時代の移り変わりをバックボーンにして描いている。特に父親と息子の心のすれ違いや葛藤をきめ細かく描いていて胸に迫って来る。これは中国と言わず、どこの国の父親と息子の間にも介在する普遍的な事だと思う。私はチャン・イーモウ監督の庶民を描いた作品が大好きで、彼のそんな作品はほとんど観ているが、「HERO」以後方向性が変わって来て残念に思っていた。しかし中国には若手監督が育っているなと思った。胡同(フートン)は地名だと思っていたが、地名ではなくて北京の碁盤の目のように通っている道路の一本路地に入った地域の事を胡同(フートン)や「巷」と呼ぶとの事。胡同(フートン)は明代の頃からあって、それから現代までそこに住む人々を変えながら存在している。胡同にある住居は四合院と呼ばれて、中庭を取り囲むように四方に建物があって、一番奥が両親、両サイドが息子一家、一番入り口の近くに使用人と建物が割り振られていたそうだ。今は会社が社員の社宅として使っている。しかし2008年に開催される北京オリンピックの為にどんどん取り壊されて、胡同(フートン)のような古い佇まいは消失して行っているそうだ。シャンヤンの母親にように北京の人々は、綺麗で機能的で便利な近代的なアパートに住みたいだろうが、やはり古い町並みと言うのは財産だと思うので、市や国で守っていかないといけないんじゃないかと思う。それは北京だけじゃなくて、日本もね。シャンヤンの母親にはジョアン・チェンが扮していたが、この作品を観ながら「この女優さん、別の作品で観た事あるな」と思ってて、観終わってから調べたら「ラスト・エンペラー」に出ていた女優さんだった。映画出演は中国内に留まらず海外作品まで及び、又リチャード・ギアとウィノナ・ライダーの「オータム・イン・ニューヨーク」の監督もした事と言う才気溢れる女優さんのようだ。父親役のスン・ハイインも何かで観た事あると思ったが、この方はドラマが中心の人のようで、勘違いだったかも。主人公のシャンヤンには9歳をチャン・ファン、19歳をガオ・グー、32歳をワン・ハイデイが演じているが、チャン・ファンとガオ・グーは、この役のオーディションで1万人から選ばれた映画初出演の子役だ。ワン・ハイデイはドラマや映画に出演して、今注目されている若手俳優の一人だそうだ。この3人は、監督が似てる人を選んだとの事で、実に顔や雰囲気が似てて年齢によって変わって行くのに、何も不自然さを感じさせなかった。作品の中で惹かれた女優さんがいた。19歳に成長したシャンヤンの初恋の相手で、池に張った氷の上でフギュアスケートを滑る女の子で、赤の帽子とマフラーがよく似合って、氷の上にそこだけ花が咲いたように輝いて、シャンヤンが好きになるのはわかるような女の子だった。そのチャン・ユエと言う女優さんは本当に女優を目指すまでフィギュアをやっていた人だとの事で、ゆったりと楽しむようにフギュアを滑るシーンは印象的なシーンでいいなと惹かれた。チャン・ツィイーの後継者と言われている女優さんだそうだ。今後注目の中国の女優さんだと思う。一口に30年間と言っても、日本ではこの30年の間には昭和から平成に年号が変わったけども、そこまで社会や庶民を揺るがす程の激動はないと思う。しかし中国は世界一の速さで変化して行っていると言われている。冒頭のシャンヤンが9歳の時には、毛沢東主席が亡くなり、文化大革命が起き、江青など4人組が逮捕され、4人組の統治が終わった。文化大革命後、経済政策も変わり、海外から様々なものが輸入され、人々の生活も近代化されている。この激動期が「胡同(フートン)のひまわり」に描かれている30年間だ。作品の中でこの時代の転換期と交互するように、胡同の人々は大地震に見舞われるが、これは実際にあった地震だ。胡同の建物は倒壊し、仮設の集合施設に身を寄せ合うようにして暮らすようになる。建物は再建され、又元の生活に戻る。しかしその頃、北京にはアパートが建てられて、当選した人々は引っ越して行く。段々住人は少なくなり、建物は取り壊されて行く。9歳のシャンヤンは6年間も幹部学校の強制労働に行っていた父親が帰って来て、それまでも自由気ままに近所の友達と遊び暮らしていた生活が一変する。わずかシャンヤンが3歳の時から強制労働で家を留守にしていた父親が、突然帰宅して来ても、シャンヤンの記憶には父親の存在は残っていない。だから中々懐けず「お父さん」とも呼べない。そんなよく覚えていない父親が、シャンヤンに絵の才能があると見込んで、遊びたい盛りのシャンヤンを家に縛り付けて、強制的に絵を教え込む。友達が遊んでいる姿を尻目に絵を描かなければならないシャンヤンは、絵が大嫌いになる。しかし父親は自身の画家としての夢を託し、厳しく絵を教え続ける。19歳になったシャンヤンに対しても自由にやりたい事を選択する事も初恋さえも禁じた。当然9歳のシャンヤンは友達と遊びたいと、19歳のシャンヤンは自分で本当にしたい事を選択したいといつも反発する。その時の父親の息子へ向ける思いと、その父親の夢を一方的に押し付けられ、自由な意思や選択を禁じられた息子の父親への憎悪と反発が、初恋や家出を絡めて丁寧に描かれている。30年後、シャンヤンは画家となり結婚して、夫婦で倉庫をリフォームして別に住んでいた。別に住んでいても、父親はシャンヤンに子供を作れと、自分の思いを押し付ける。息子は未だに自分を束縛する父親が嫌いだった。シャンヤンと父親は、母親や妻の心配をよそに、30年後も依然として意思の疎通が全くできていない。シャンヤンの両親は新しいアパートを手に入れる為に偽装離婚をして、母親一人アパートに引っ越して、今は父親一人が住んでいる。最後にはシャンヤンが個展を開いて、招待された父親は成長した息子の絵を観て感慨に咽んだ。シャンヤンと父親は初めて握手する。シャンヤンは初めて父親に認められたと思い、父親は自分の託した夢を息子は叶えてくれたと思い、その気持ちが互いに通じ合ったと思う。その後父親は一家で食事をした後、息子へ向けて録音したテープを残して姿を消す。テープには、「自分は父親としてシャンヤンに絵を教える事が愛情だと、責任だと思い、厳しく接して来たが、父親としては間違っていたのはわかっていた。もう自分の父親としての責任は果たした、これからは自由に生きる。」と録音されていて、シャンヤンは初めて父親の気持ちが理解できた。シャンヤンは父親に一方的に押し付けられていたと思っていた絵は、父親の自分への愛情だったと漸くわかった。絵の才能を持つ父と息子が、2人の間に絵を介在させた事で、気持ちはすれ違い、互いに心を閉ざし生きて行かなくてはならなかった。父親は息子への接し方がよくわからず、そうするより仕方がなかった。息子はそんな父親の仕打ちに反発し、父親を嫌った。どこかで2人の関係を修復できなかったのかと思うと悲しい。過ぎた30年間は取り戻す事はできない。結局30年後息子は、あんなに嫌っていた絵を生業にする。テープを聴いて、父親の真意を知り、これからは自由に生きると言う父親の希望を理解するシャンヤン。たぶん30年間も自分に絵を教える事を愛情と思い、それだけの為に生きて来た父親の、初めての自分自身の為の夢を叶えさせてあげようと思ったんじゃないだろうか?ちなみにシャンヤンと言う名前は、シャンヤンが生まれた時四合院の中庭に咲いていたひまわりに因んで名づけられた。父親の届けたひまわりを見て、シャンヤンの父親を思う目が優しかったような気がした。現在、胡同の四合院は次々取り壊されている。父親と息子の関係と言うのは、母親にはわからない微妙な関係性があるような気がする。「胡同(フートン)のひまわり」を観ながら、ふとチェン・カイコー監督の「北京のヴァイオリン」を思い出した。
2007年08月03日
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2005年度イギリス・アメリカ作品。監督はジュリアン・ジャロルド。出演はジョエル・エドカートン、キウェテル・イジョフォー、サラ・ジェーン・ポッリ。この「キンキーブーツ」はサンダンス映画祭でオープニング上映されて大評判になり、イギリスやアメリカで大ヒットした作品である。日本で公開された時予告編やテレビのスポットを観て、監督を始め出演者も知らない人ばかりだったが、面白そうなので観たかった。漸くTSUTAYAで準新作になったので借りる事ができた。感想はただのコメディ仕立てのサクセスストーリーなだけではなく、チャーリーとローラの苦悩や焦りが、充分に描かれているから、笑いつつ感動する作品に仕上がっていると思った。本当の自分を信じて、本当の自分に合った生き方、自分の身の丈に合った生き方を選択する事で、自分に自信が持て、周囲にも受け入れられて信頼される。そこに気がつくまでの焦りや苦悩やもがき。決して順風満帆に成功したのではない。でも観た後、とても爽やかだった。この「キンキーブーツ」は、日本の男性雑誌にも登場する「トリッカーズ」や「チャーチ」と言う靴メーカーがある、中部イングランドのノーサンプトンシャー州の州都のノーサンプトンとロンドンが舞台だ。ノーサンプトンはロンドンから鉄道で1時間の靴作りで有名な地方都市で、そのノーサンプトンにある靴メーカーの実話に基づいている。主人公のチャーリーのモデルになったのは、この実在の靴メーカーのベイトマンの社長のスティーブ・ベイトマンである。倒産寸前の紳士靴の製造工場をキンキーブーツを作る事で再生したサクセスストーリーが、実際にあった。ベイトマンのメーカー名はブルックスで、キンキーブーツのブランド名はディヴァイン。社長のスティーブ・ベイトマンは、ミラノの見本市でキンキーブーツを発表して一大センセーションを巻き起こしたが、この時キンキーブーツを履いてショーに出るモデルが見つからず、自分で脛毛を剃ってキンキーブーツを履いてモデルになったエピソードまである。こんな奇想天外な事が実話だったなんて、本当に「事実は小説より奇なり」である。「キンキーブーツ」は、昔からずっと続いて来たイギリスの高価だけども一生物として履き続ける事ができる、ノーサンプトンの家内制製靴の伝統が、1990年代安価な外国製の靴が入って来て大打撃を受けた。高価でも品質が良くて一生履き続けられる靴よりも、長持ちしないけれども安価な靴の方が好まれる時代に移り変わっていた。それが作品の中の時代背景である。父親の残した靴工場を継ぐ人生を選択したが、父親とは違う自分のやり方で工場を立て直したいのに、工場を再生する方法も従業員の掌握する方法も見つけられないチャーリー。男性として生まれたのに男性として生きる事よりも、ドラッグクイーンとして生きる人生を選択したのに、大きな自分の足に合うセクシーな女らしい靴が見つからないローラ。2人がその探し物を見つける過程が、ローラの歌が挿入されて、とても楽しく観れた。ローラ役のキウェテル・イジョファーがまるで本当のドラッグクイーンのようだった。ローラのオーディションを受ける時に、ただ一人ロン毛のかつらを被って現れて、見事にローラ役を獲得したそうだ。「キンキーブーツ」のキーパーソンとなるドラッグクイーンのローラ。本当の自分になる為にドラッグクイーンを選択したのに、靴が合わないばかりに生き難い事へのフラストレーション。長い間伝統の中に生きて来た従業員が、突如キンキーブーツを作ると言い始めたJrや工場へ出入りするようになったドラッグクイーンに抵抗を感じる。それを緩和する為にローラは無理無理ドラッグクイーンの扮装を止めるが、それは本来の自分を偽る事で、堂々としていられなくて、悩み苦しむ。キウェテル・イジョファーは、そんなローラをまるで本物のドラッグクイーンであるかのように演じきっている。歌唱力もすごい!一方チャーリー役のジョエル・エドガートンは、二言目には「僕のせいじゃない。僕に何ができる?」と言う、線の細い頼りないけど決して悪い人じゃないと言うだめ男に、ぴったりだった。頼りなくて一緒にいるとイラつくけども、決して悪い男じゃないから、放ってはおけない。ジョエル・エドガートンはそんな風情があった。この人も適役だと思う。工場内で起きる古いものと新しいものとのせめぎ合い、今まで生きて来た自分の世界にいない異質なものへの抵抗感、そんな受け入れる側と受け入れられる側の心理描写もうまく描けていたと思った。
2007年08月01日
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2006年度アメリカ作品。監督はオリバー・ストーン。出演はニコラス・ケイジ、マイケル・ぺーニャ。この作品は言うまでもない、2001年9月11日に起こったNYのワールド・トレード・センターに旅客機が飛び込むと言う、同時多発テロの実話を映画化したものだ。監督はオリバー・ストーンだが、実を言うと私は「プラトーン」「7月4日に生まれて」が大好きで、しばらく彼に注目していた事があったが、残念な事に私的には、それ以外の彼の作品は大味だったり、自分の趣味にばかり走ってたり、良いと思った物はなかった。だからこの「ワールド・トレード・センター」もニコラス・ケージと言う私のご贔屓が出演しているが、ストーン監督いつものような作品だろうと全く期待せず、チケットを買って劇場へ観に行く気にもならなかった。しかしDVDのレンタルで、かなり巷からは遅れての鑑賞になったが、劇場で観なかった事を後悔した。彼にしては珍しく焦点を下敷きになった警官2人とその家族に絞ると言うシンプルな構成で、ギュッと引き締まった説得力のある作品に仕上がっていたと思う(かなり偉そうに書いてるなと、自分でも思うけども。)。実在の人の証言が元になっているから、いつもとは違うこのような構成にしたと監督本人も言ってるけども、しれが成功していると思う。でもそう言う構成にすると、今度は出演者の演技力にかなりの比重がかかるから、キャスティングが難しくなり、キャスティングが作品の成否を担うようになる。今回の主役のニコラス・ケイジとマイケル・ぺーニャは、その重責を立派に果たしたと思う。先日観た「United93」は、何機かテロ一味にハイジャックされた旅客機の1機、こちらはそれらの旅客機の2機が飛び込んだビルが舞台となっている。どちらもその日の朝から始まり、やがてテロが起こる。「United93」の冒頭の朝の空港は、いつもの朝と同じ光景だたっと思う。「ワールド・トレード・センター」は、いつものように早朝警察官の主人は、まだ寝ている奥さんをベッドに残し、1人で用意して勤務している警察署へ出かける。電車の中はいつものように勤務先へ出かける人々や学生を乗せてNYの中心部へとひた走る。道路もNYの中心部へと向う車で混雑していた。そして中心部の道路も勤務先へ向う人々で行き交っている。それは昨日、一昨日、毎日繰り返す同じ光景だろう。私も含め人は毎日寸部違わぬように繰り返しの平々凡々な毎日に、何か変化が欲しかったり、何か変わった事をしてみたかったりと言う欲望を感じたりするけども、このいつもと変わらぬ平々凡々な毎日こそが1番大切なのだと、毎日の変わらぬ日々の中での家族を含め周囲の人々が大切か、その大切なものを守る為に支えあい助け合わなくてはいけないと、強く考えさせてくれる。人は助けたり助けられたりしながら生きる。テロリストは自身が信仰する神の為、あるいは自分の国の為、テロリストにとっての正義と言うものがあるが、しかし第三者を巻き込み、多くの犠牲者を出す行為をしている限りにおいては、彼等の正義はない。テロリストによる同時多発テロの為に、どれだけ多くの失われなくても良い命が失われた事だろう。それを考えると、今でも怒りを禁じえない。「ワールド・トレード・センター」を観ていても、ビルで働いている人々、運悪くたまたまそこに居合わせた人々、あるいは被害に会った人々を救助に行った警察官、消防士、レスキュー隊員、多くの命が失われた。そしてその1人ずつそれぞれに人生があり、家族がいる。その1人1人の命と人生が失われ、その家族達は掛け替えのない家族を失った。誰にも他人の命を奪う権利はない。この作品は、そんなワールド・トレード・センターへ救助へ向い、ビルの倒壊による瓦礫の下敷きになって、九死に一生を得て生還した警察官の、ジョン・マクローリンとウィル・ヒメノの証言を元に映画化されているが、ほとんど下敷きになった状態の2人と悲しみに暮れる家族に焦点が当てられている。下敷きになった状態で、薄暗い中で顔も埃だらけ、体は身動きできない、そんな俳優としては、最悪だと思われる条件の下で演技をしなければならなかったニコラス・ケイジとマイケル・ぺーニャは大変だったと思う。これ以上の悪条件での演技は中々ないだろうと思う。しかし2人の演技はリアリティがあって、思わず「死んだらダメよ、頑張って!」と心の中で励ましてしまった。助かったから証言したのに(笑)ウィルが救助された後、ジョンに向って「頑張れ」とずっと励ましてしまった。生きているのが自分達2人だけだとわかった時、声を掛け合って生きようとする姿、パイプを鳴らし救助に来た人に自分達の存在を知らせようとする姿、観ていて胸に迫った。一方、熟年夫婦のジョンの奥さんドナや子供達、ウィルの妊娠中の奥さんや子供達、そしてそれぞれの親達や友人達、それらの人々には、自分を重ね、もし自分の家族がこんな被害にあったとしたら思うと、決して他人事とは思えなかった。今まで語り尽くされた言葉だが、やはりこんな事は2度とあってはならない事だと強く思った。蛇足ながら、冒頭救助へ向う警察官の間で交わされるせりふの中にしきりと出て来る、「1993年~」と言う言葉。私の中で「1993年?」と、その「1993年~」と出て来る度に「?」「?」「?」「?」「?」だった。それで鑑賞後調べてみたら、現ブッシュ大統領の父親が大統領で、その大統領がイギリスなどと一緒にイラクへミサイル攻撃した年だった。同じ1993年にはブッシュ大統領からクリントン大統領へ変わる。作品を鑑賞後1993年には何があったか調べて、あの警察官達が口にする「1993年」の彼等と言うかアメリカ人にとっての重みを感じたりした。ちなみに日本で何があったかと言うと、大きな出来事としては皇太子殿下が小和田雅子さんとのご成婚があった。すっかり忘れてたけど、いろんな事があった年だった。
2007年07月27日
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2006年度日本作品。監督は荻山直子出演は小林聡美、片桐はいり、もたいまさこ。この作品は郡ようこ原作の映画化なんだけど、先に映画の企画があって、それを聞いた郡ようこが一気に書き下ろしたと言う。監督や3人の主要出演者は日本人だが、全編フィンランドのヘルシンキでロケしている。それだけではなく、スタッフも日本とフィンランドの混合で構成されている。荻山直子監督の監督作品では、「バーバー吉野」が有名だ。「かもめ食堂」は去年ミニシアター系で公開されて、ジワジワ人気が上がって大ヒットした。私もずっと観たくて、漸く観た。感想を一言で言うと、私は涙が出る程大好きだ是非DVDを買いたい時間さえゆっくり進んで行くんじゃないかと思う、白夜のフィンランドのヘルシンキのゆったりとして穏やかな風景、清潔な空気、そして最初はとっつき難いけども、一旦受け入れると優しいフィンランドの人々、そしてその中に存在する「かもめ食堂」、全てが魅力的だった。そして一番は小林聡美。穏やかだけども、凛として、健気で、あの独特のムードも相まって、本当に人々を惹きつけホッとさせる存在感。辛い事悲しい事とかいろいろあって、ヘルシンキまで来て、たった1人でかもめ食堂を開いたに違いないけども、たくさん傷ついているだろう心を隠し、淡々と飄々と、食堂にやって来る人々を優しく受け入れる姿が、弥勒菩薩のようで本当に存在感がある。人々が疲れた羽をそっと休めに来るような、店に入って来る人を黙って受け入れてあげる穏やかで優しい母親のような店。本当にヘルシンキにサチエさんのかもめ食堂が実在しているようだ。私も思わずかもめ食堂へ行って、サチエさんが入れるコーヒーを飲んで、おにぎりを食べたいと思った。あのシナモンロール、しょうが焼き、とんかつ、とってもおいしそうだった。あんなにもおいしそうに見えるのは、サチエさんの愛が篭っているから。最初サチエ1人が客が1人もいないかもめ食堂で、コップを磨いていた。この光景観た事あると思ったら、あの食パンのCMだった。あのCMはこの「かもめ食堂」の1シーンを切り取ったようなCMだった。いつもフィンランド人の3人のおばあさんが、客は誰もいない日本人の女性がやっている’かもめ食堂’を訝しがっていた。サチエの背が低い為、子供かと疑っている(笑)やがて1人の客が入って来た。それは日本のアニメおたくのフィンランド人青年トンミだった。コーヒーを注文した後、「ガッチャマン」の主題歌を教えて欲しいと言われたが、最初の部分しか思い出せなかった。店が閉店してからもずっと口ずさむが、、「誰だ!誰だ!誰だ~」の歌い出ししかも出だせなかった。書店で見かけた日本人女性に聞く事にした。それが片桐はいり扮するミドリ。ミドリが知っていて、メモしてもらった。それがミドリとの出会い。ミドリも曰く有り気だけども、サチエは何も聞かず、店で働かせ同居させた。サチエはミドリに素性を全く聞かず、作品の中でも語られない。ミドリはアニメお宅の男の子以外客があまりにも来ないので、イラストを添えたメニューを作ったり、なんとか店の売りにしているおにぎりを工夫しようとするが、アニメお宅の男の子にはメニューは受けたが、おにぎりはさっぱり。それでサチエはシナモンロールを作る事を思いつき、その匂いに釣られて例のおばさん達が入って来た。やはり料理には匂いと言うのが重要なのね。毎日散々訝しがっていたのに、シナモンロールのおいしそうな匂いがしたら、その匂いに誘われて中に入って来た。やがて最初は客として来たマサコも、いつの間にか店を手伝う事になる。サチエはマサコにも何も聞かない。作品全編を通してドラマティックに何か起こるわけではないが、日本人女性が北欧の町で食堂を開く事自体がドラマティックな設定だから、その食堂の日本人達と現地の人々の係わり合いを観ているだけで、様々な事を感じられた。最初は訝しげに見る人、まるで無関心の人、店の前を行き交うそんな人々にいつの間にか受け入れられ、そこでは日本人とかフィンランド人とかの意識はなく、ただ店の料理を食べに来ている常連客と店の主や従業員と言う風情。出て来るのはしょうが焼き、とんかく、さけの塩焼き、それにご飯、そんな日本食を普通に箸やナイフとフォークで食べている。多分おいしいから、食べたいから、客達が来る理由はそんな事だと思う。それがとてもステキなのだ。店の中はサチエの醸し出すムードと同じで、穏やかでやさしい。最後には満席になったかもめ食堂。現地の人々でいっぱいになったかもめ食堂。サチエは特別食堂を繁盛させようとか、肩肘張ってない。ただ自分の思うように、自分のペースを崩さない。サチエの毎日は判で押したように同じリズムで同じ事をして過ごしていると思うけれど、ただ淡々と生きているようで、実は凛としてヘルシンキの地に足を着けて、でも同化するわけでもなく、迎合するわけでもなく、自分から現地の人々に飛び込んで行くわけでもない。ただ現地の人々が食堂を受け入れてくれるのを待つ。サチエの言葉「人は変わって行くものですから」って、サチエ自身の生き方の象徴のような気がした。プールでたった1人で平泳ぎをするのが日課だったサチエが、最後には初めてウォーキングをして、そのサチエを取り囲むように人々が暖かい拍手を贈っていた。平泳ぎをしていたサチエがウォーキングするようになる。それは毎日判を押したように過ごしているサチエ自身も変わって行ったと言う事を、象徴しているような気がした。サチエはヘルシンキの人々に受け入れられたのね。
2007年07月23日
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2006年度韓国作品。監督はイ・ジュンイク。出演はカム・ウソン、チョン・ジニョン、イ・ジュンギ。 この作品は韓国で一昨年の年末に公開されて、同時期に公開されたブロックバスターが動員数を伸ばせずにいるのを尻目に、グングン動員数を伸ばして行き、ついには国民の4人に1人は観たと言われる程のメガヒットとなり、昨年7月に公開された「化け物」に、動員記録を抜かれるまで歴代1位に輝いていた作品だ。それまで韓国の歴代動員記録を作った作品の多くが、南北問題を扱ったブロックバスターだったのに、この「王の男」は大スターが主演しているのでもなく、ブロックバスターでもない作品だったから、何が一般大衆を惹き付けるのか、興行は蓋を空けてみるまではわからない。「王の男」は16世紀初頭挑戦王朝第10代の王ヨンサングン(1494年~1506年)在位期間末期を舞台に、史実とフィクションを融合したエンターテイメント映画だ。観て行くと、時の覇権者に翻弄される芸人がメインと言う事で、チェン・カイコー監督の「覇王別姫(邦題・さらば我が愛)」を思い出すが、この「王の男」の方が描かれた期間が短いと言う事と、描く世界を広げずにメインのチャンセンとコンギルと周囲の芸人達、そして2人の運命を変えてしまうヨンサングン、寵愛を受けているキーセン、重臣に、絞ってシンプルだ韓国でメガヒットしたのはわかるような気がする演出や編集も無駄がないし、出演陣も主役脇役皆、十二分に自分の力を出しているが、だけど個々が主張し過ぎてないから散漫になっていない作品自体にパワーがある全てが私好みだった私は本来、邦画でも洋画でも時代劇はあまり得意分野ではないしかしこの作品は惹き込まれて観たメインのチャンセン役のカム・ウソンとコンギル役のイ・ジュンギ、まさに適役だと思うコンギル役はイ・ジュンギ以外には考えられない彼は「花より美しい男」とキャッチフレーズが付いているが、以外と髭が濃くて、シーンによっては鼻の下が薄っすら青くなっているし、あの容貌に似合わず声も低い。でも本当に「花よりも美しい男」と言うのはぴったりだと思う髪を長くして素のコンギルも女性っぽいが、芝居で女装した時の自然な美しさ、特にキーセンの扮装をした時の美しさは脱帽男性が女装していると言う匂いも感じない黙っていれば女性だと思ってしまうコンギルの幼馴染で芸人としてコンビを組むチャンセン役のカム・ウソンは、私はこの作品が初見だけど、陰影のある演技が素晴らしくて、他の出演作品も是非観たいと思う。チャンセンのコンギルへの愛と嫉妬心、そしてジレンマ、とても強く伝わって来たチャンセン役で、韓国のアカデミー賞と言われている大鐘賞の最優秀主演男優賞を獲得しているそして忘れてはならないヨンサングン役のチョン・ジニョン!2人にとって運命を翻弄する敵役であり、史実としても最悪な覇権者であるヨンサングンを、ただの敵役ではなく、こうなってしまっても仕方がなかったと同情の余地を感じさせる演技には感心した。コンギルが現れるまでヨンサングンの寵愛を独り占めにしていた元キーセンのノクス役のカン・ソンヨンも、憎まれ役を果敢に演じていたと思う。カン・ソンヨンはイ・ビョンホンファンにとっては馴染みのある女優さんである。イ・ビョンホンが主演したドラマ「HappyTogether」で妹役の人だ。他には2人が漢陽の都に行って知り合い、仲間になる芸人3人の1人、チャン・ソギョンはイ・ビョンホンが主演した「夏物語」で、イ・ビョンホン扮するソギョンがジョンインと知り合うスネリ村の村長役で出演していた人だ。他の作品で、イ・ビョンホンの過去の共演者が出ているのを発見するのも楽しいものだ。「王の男」の公式を観ていて興味深かったのは、ヨンサングンがクーデターで王位を失い宮廷を追われた後、後継として11代の王になるのが、「チャングムの誓い」でチャングム達が仕えていた中宗(チュンジュン)だ。中宗はヨンサングンの異母弟にあたる。普通王位に付くと、「祖」や「宗」が付けられるのだが、ヨンサングンはあまりにも凶暴な独裁政治を行なった為、王の「祖」や「宗」を与えられず、「君」と言う王の兄弟と言う名前で呼ばれているそれだけでも、どれだけ酷い王だったかわかると言うものだが、もう少し公式の受け売りをすると、ヨンサングンの母親は側室だったが、正室が亡くなって側室から正室になった。母親は異常に嫉妬心が強くて、他の側室を殺害しただけではなく、王に対しても顔に爪あとを残す程の暴力を働いたそうだその為に王妃の位を剥奪され、王命により服毒自殺をさせられた「王の男」の中で、母親が服毒自殺させられた事をテーマにした芝居を観てショック死する祖母は、ヨンサングンの母親を服毒自殺させた事を企んだ人で、ヨンサングンに対しても幼少期から辛い仕打ちをしたのだそうだヨンサングンは幼少の頃から偏狭で粗暴な性格になったのは、こんな様々な事が原因だったらしい。その上学問を嫌い勉学に励もうとしなかったので、王位の継承者に相応しくないと意見もあったが、1494年に父が亡くなって満18歳で王位に着いた。この極悪非道のヨンサングンの事を頭に入れて観ると、更に「王の男」が面白くなった。ただちょっとよくわからなかった事がある。それはコンギル、最後の方であれ????と、疑問に感じた。今でもあの部分よくわからない。あれはどう言う事なんだろう??? ******************************************************「チャングムの誓い」 「チャングムの誓い」では、チャングムのお父さんは、ヨンサングンのお母さんが服毒自殺をさせられた時に立ち会った武官と言う設定になっている。作品の中のバックグランド。ヨンサングンの父、すなわち9代王が逝去して、ヨンサングンが10代王に即位、そしてヨンサングンの異母弟(中宗)を擁立した敵対勢力がクーデターを起こし、ヨンサングンは王位を剥奪され宮廷を追われ、その後、異母弟の中宗が11代王となる。「チャングムの誓い」は9代王から始まって、10代王のヨンサングンを経て、11代王中宗が王位に着き逝去するまでを、宮廷に仕える女官チャングムをメインに描かれる。「王の男」の最後のクーデターは、「チャングムの誓い」では序盤にある。「チャングムの誓い」の前半のスラッカンの女官の部分は全部フィクションで、後半の医女の部分は史実を膨らませて描いているが、時代背景は史実だ。
2007年06月29日
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2006年度アメリカ作品。監督はデヴィッド・フランケル。出演はメリル・ストリープ、アン・ハサウェイ、スタンリー・トウッチ。ネットレンタルでいつ観れるかわからないので、痺れを切らしてTSUTAYAの店頭で借りて漸く観る事ができた アメリカ本国でも日本でもヒットした作品で、ずっと観たかった。メリル・ストリープは今年のアカデミー賞主演女優賞にノミネートされていたので、ストリープの役作りと演技に注目していた。メリル・ストリープを観たのは「クレイマー・クレイマー」は最初で、彼女の出た作品で1番好きなのは、クリント・イーストウッド監督の「マディソン群の橋」だ。私はハリウッド女優の中でクールビューティと言われる女優さんが苦手で、中でもメリル・ストリープはその代表だった。この「マディソン群の橋」のフランチェスカにキャスティングされた時、ミスキャストと言われていた彼女は、体重をかなり増やして、田舎の中年の女性を見事に演じ切っていた。彼女の役作りや人間臭い演技を観た時、やっぱりすごい女優さんだと初めて好きになった。今回の「プラダを着た悪魔」の彼女は、泣く子も黙るNYのファッション誌のカリスマ編集長ミランダ役だ。この作品の成否を握るのはミランダ役だと思う。主人公のアンディとミランダは丁度合わせ鏡のようになっていて、作品の中でミランダが強烈な悪魔として存在できていなければ、アンディの全てに説得力が出ない。そして職場の雰囲気、部下達のリアクションにリアリティが出ない。メリル・ストリープは惜しくも受賞は逃したが、ノミネートは当然だと思った。カリスマ編集長ならぬ、女優としてのカリスマを十二分に見せ付けたと思う。このミランダはもちろんやり手のカリスマ編集長なんだけども、メリル・ストリープが演じるミランダからはただ泣く子も黙るやり手編集長だけではなく、彼女がここまでに辿り着くまでの人生、そして決して外には見せない現在の1人の女性としての艱難辛苦など、全てをせりふで語る以前に表情や体全身で表現していたと思う。精一杯やり手の冷徹な編集長でいる事が彼女のプライドだと思う。そうする事で彼女の中で全てが共存させられていたのだろうと思った。彼女にとって「ランウェー」のカリスマ編集長でなくなる事は、彼女ではなくなる事、そして双子ちゃんの母としてもいられないのだろう。なぜなら彼女は妻や母である以上に、「ランウェー」の編集長だったから。彼女にとって双子ちゃんに出版前の原稿の段階の「ハリーポッター」を読ませる事が、母親である自分の双子ちゃんへの愛情で、それができるのも出版界の大物だからだ。しかしメリル・ストリープの演じるミランダからは、それと同時に女性の誰もが羨む名誉と地位を手に入れた女性の、一人の女性としての性(さが)や業、埋めようのない心の空洞や孤独を感じられた。カリスマ編集長のミランダにも、自分でもどうにもならない性や業や孤独がある。それを周囲に悟られないでいられるのは、ミランダのプライド。しかしアンディーには見せた。多分それだけミランダの心の中にアンディが入り込んでいて、アンディの事を信頼していたのだろう。もしかしたら将来自分の片腕となり、自分が引退する時には後継者にしようと思っていたかもしれない。しかしアンディはミランダではない。その証拠に新聞社の面接で、編集長がアンディのような女性が、ファッション誌の「ランウェー」でミランダのアシスタントをしていたのを不信に思っていた。アンディがミランダに似ていたのは、私生活を犠牲にして仕事へ突っ走る熱心さや、難題を克服する機転と行動力だと思う。そして潔さ。私生活を犠牲にして仕事へ突っ走りかけていたアンディを、思いとどまらせたのは、ミランダがアンディの反面教師になったからだろう。自分の保身の為に、信頼していた人まで裏切る事を厭わない非人間的な部分。非人間的な人の下でアシスタントとして働けないと言う事だ。私はこの作品を観ながら、アンディがミランダのように「ランウェー」でバリバリ働く姿を観てみたいと思いながらも、パリで携帯を噴水の中に投げ込んだ時ホッとしたりもした。彼氏や親友を失くしてまでも、「ランウェー」でバリバリ働くにはアンディではない。寸での所で思い止まって良かった。 そのアンディ役のアン・ハサウエイは、「プリティ・プリンセス1と2」「ブロークバック・マウンテン」を観た。「プリティ・プリンセス」の時には、正直言ってディズニー映画向きのただのアイドルだと思っていた。主役のアン・ハサウエイよりも、女王役のジュディ・アンドリュースのいぶし銀のベテランの味に惹かれていた。しかし「ブロークバック・マウンテン」でジェイク・ギレンホールの奥さん役の彼女を観た時、彼女は若さがある一時期の、ただかわいいだけのアイドルで終わりたくない、演技のできる女優に成長したいと言う欲心を感じた。この作品でこの役での出演は勇気がいっただろう。でも彼女のこの挑戦は成功したと思う。「プラダを着た悪魔」のアンディ役は上手く演じていたと思う。メリル・ストリープのミランダが秀逸だったから、ミランダに振り回され私生活がめちゃくちゃになるアンディにリアリティが出たと思うが、その振り回されっぷりや悪戦苦闘する姿は、いくら髪を振り乱そうが、彼氏や親友に愛想を付かされそうになろうが、品の良いキュートさが必要以上に惨めさを感じさせないから、観ていてヘビーじゃなく笑っていられる。ファッションの着こなしもセンスが良くて、観ていてとても楽しかった。アンディを影で助ける儲け役のスタンリー・トッチがいいポイントになっていたと思う。スタンリー・トッチは他で観た事あるなと思っていたら、「SHALL we ダンス?」の竹中直人さんの役をやっていた。それと監督が「セックス&シティ」のデヴィット・フランケル監督だから、働く女性の心情を生き生きと描かれたんじゃないかと思う。
2007年06月19日
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2007年度日本作品。監督は水田伸生。出演は阿部サダヲ、堤真一、柴咲コウ。昨日南大沢TOHOシネマズPM8:45のレイトショーを観た。南大沢と言う多摩ニュータウンでも端の方の駅前のシネコンだから、(日)の夜8:00以降なら人はいないだろうと思いきや、シネコンの中は人が多かった周囲のマンションの住人や付近の大学生達が、夕食後レイトショーを観る為に来ているのだろうか。公開2日目とは言え(日)のレイトショーの、若い世代には人気があるが大衆受けするとは思えないクドカン脚本映画なので、客入りは少ないだろうと思ったが、案外人が入っていて半分埋まっていたクドカン脚本、出演は阿部サダヲ、堤真一、柴咲コウと言う売れっ子俳優の出演と言うのも魅力あるのだろうか。現に私もこのキャストならいいかもと惹かれるものはあった脚本のクドカンが以前から結構好きで、映画は「ピンポン」「木更津キャッツアイ」、ドラマも「木更津キャッツアイ」「マンハッタン・ラブストーリー」etcを観ている。クドカン特有の題材の切り口や言葉の使い方、出演者達のクドカン流のノリ、そんなものが受け入れられるかどうかで、好き嫌いが分かれるだろうと思うクドカン作品は観客自らが、彼のノリに乗って彼の世界に遊ぶ感じで観ないと着いて行けないかもしれない。一見バカバカしくて騒々しいのだけど、底には登場人物やその登場人物達が住む地域への愛がある。「舞妓Haaaan!!!」はある事がきっかけで舞妓好きになった男が、自分で舞妓のサイトを作り、究極の夢「舞妓と野球拳をする」事に向って必死になる話しである。冒頭から爆笑しっぱなしだった本当にバカバカしい騒々しさ。しかしそこが良いのだ京都の御茶屋システムの是非、置屋と舞妓さんの関係や日常などが描かれて興味深かった。京都のお茶屋や置屋など、私とは全く縁のない場所なので、こんな映画を観ない限り知りえない事がある。阿部サダヲさんと堤真一さんは血管が切れるんじゃないかと言うくらい、早口の大声で「口角泡を飛ばす」勢いで、せりふをまくし立てる。しかし感心した事に、阿部サダヲさんと堤真一さんご両人の生来の滑舌の良さなのか、舞台で鍛えられてるのか、早口の大声なのに発音がはっきりしていて、ちっとも曖昧だったり不明瞭だったりするせりふが全くないすごいなと思う。序盤に、「一見さんお断り」と言う、宝塚とかパリのムーランルージュとかのレビューを彷彿とさせるショータイムがあって、阿部サダヲさんをメインにして、真矢みきさん達と歌い踊って楽しかった真矢みきさんは宝塚出身だから着物姿でも歌やラインダンスは堂に入ったもの。改めて阿部サダヲさんは器用な人だなと感心した。堤真一さんは「三丁目の夕日」でも鈴木オートの主人を、血管が切れそうな程ハイテンションで演じているが、今回の内藤貴一郎と言う嫌味な役を熱演している。堤真一さんのこんなバカバカしいコメディ演技を初めて観た。生瀬さんや伊東四郎さんは、いつもながら外さない。植木等さんはこの作品が遺作だが、とても良い味を出して存在感があった。カメオで売れっ子俳優さんが出ているのも楽しい豪華キャストだ。舞妓さん役の女優さんは、本物の舞妓さんみたいだった。しかし私は「舞妓Haaaan!!!」の最後「都踊り」の阿部サダヲさんと堤真一さんの○装はいらなかったんじゃないかと思う。だけど娘にそう話すと、クドカンは照れ屋だから、最後はその作品を自分の手で壊してしまうのだそうだ壊さなければ感動で終わるのに、クドカンはそれが照れくさいらしい。又レンタルになったら観たいと思った
2007年06月18日
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2007年度アメリカ作品。監督はゴア・ヴァービンスキー。出演はジョニー・デップ、オーランド・ブルーム、キ-ラ・ナイトレイ。昨日(日)に、TOHOシネマズPM1:45の回を観に行った。(日)の午後混む事必至だから、事前にネットリザーブしておこうと思ったのに、パスワードを忘れてログインできず、やっぱり(日)は止めてレディースデーにしようかと散々迷ったが、どうしても早く観たくて我慢できず昨日観に行った。1時間前に行けば良いかと混み具合をチェックすると、5スクリーン(吹き替え含む)を使用しているのにも関わらず、どのスクリーンも午前中で既にチケットが半分売れていた。早めの昼食を取って、急遽予定より30分早い1時間半前に行く事にした。1時間前でも20分くらい前に到着するのに、1時間半も前に出かけたら、チケットを買ってから50分もロビーでうろついてなくちゃならないのに、既にうんざりしていた私(笑)でもこれも完売の憂き目にあわずに入場する為だから仕方がない。全スクリーンが残り希少になっていたが、30分早めに行ったのが功を奏して、チケットを買え、しかも残り物には福で、真ん中の通路を隔てたすぐ上の列のど真ん中と言う、私にとっては最上の席で観れた。もちろん満席。ミニシアター系好きな癖に、こんな楽しいブロックバスターのエンターテイメント映画も大好きな私。夏休みの子供向け映画だろうとほとんど期待せずに観た「パイレーツ・オブ・カリビアン呪われた海賊達」で、夢中になってしまったジャック・スパロウ船長!「デッドマンズ・チェスト」ももちろん劇場で観た。そして今度の「ワールドエンド」でいよいよシリーズ最終章で、完結編となる。ジャック・スパロウ船長の大ファンである私は、観る前から名残惜しさで寂しい気分になっていた。もう本当に終わっちゃうの?ジョニデだって大のお気に入りで、ジャック・スーパロウ船長をずっと演じ続けていたいと言っていたのに、本当にもうシリーズの新作でジャック・スパロウ船長に会う事はできないの?って、切ない気持ちでいっぱいになっていた。なんだかいい年をして、もう既に観る前から寂しくて、ロビーにいる時から鼻がツーンとして来た(笑)それくらい大好きなキャラクターだった。そして始まった。冒頭部分、東インド会社。高校の世界史の時間に習った、遥か彼方の古ぼけた記憶を呼び起こした。この「パイレーツ・オブ・カリビアン」は巨額の資本を投入して製作しているので、とにかく映像がいい。色彩が美しくてCGが大迫力で本当に素晴らしい。今回は特に衣装、メイク、セット、小道具に至るまで、微に入り細に入り素晴らしかった。お金と時間のかかるCGも、惜しげもない巨額の資本の投入で、大迫力だった。パイレーツと言うくらいだから、海賊船や海の戦闘シーンがふんだんに出て来るが、何度観てもこれがCGかと言うくらいの大迫力だった。ただ物語りが2時間49分と言う長尺で、冒頭部分と後半は良かったけども、どうしても中盤がダルイ。登場人物がゴチャゴチャ出て来て、あっちに行ったりこっちに行ったり、観てて頭の中を整理するのが大変(笑)この部分をもう少しすっきりさせたら良かったんじゃないかと思った。物語の展開上仕方がなかったのだろうけど、なんかちょっとね、中盤を長く感じた(笑)それを通り越したら、大迫力シーンが次々と。そしてアクセントにコミカルテイストも挿入されて、この後半部分はアクション大好きな私としては、瞬きするのももったいないと言う感じで見入ってしまった。本当に登場人物達が生き生きとして、戦闘シーンを展開していた。観ているこちらも3作目となると、登場人物達に愛着が湧くが、演じている俳優達がそれ以上に、自分の扮するキャラクターを心から愛し、この作品を心から愛しているのが伝わって来た。それがとても感動的だった。最早自分の分身と言う感じがした。最初なんだかひ弱だったウィルも、一人前の大人の男に成長した。エリザベスは相変わらずの男勝りの気の強さ、でもすごく色っぽくなった。ジャックは相変わらず飄々として掴みどころのないマイペースの下に、多くの優しさと思いやり、そして正義を隠し持っている。そしてシャイ。エンディングはあれで良かったと思う。気持ちの良い幕切れで良かった。あぁ、でもこれで終わっちゃうのね。本当に続きはないのかなぁ。
2007年05月28日
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2004年度韓国作品。監督はリュ・ジャンハ。出演はチェ・ミンシク、キム・オジュン。このリュ・ジャンハ監督は、ホ・ジノ監督と師弟関係にあり、「8月のクリスマス」では助監督を務め、「春の日は過ぎゆく」では助監督を務めた他に脚本にも参加している。その為か静かに穏やかに展開して行く作風が共通するかも。主演のチェ・ミンシクは「オールドボーイ」や「親切なクムジャさん」のような強烈な個性のある作品が記憶に残るが、この作品もとても素晴らしい演技をしていると思った。改めて彼のすごさを味わったと言う感じだ。地味でコマーシャルベースに乗せ難い作品だと思うけど、とにかく観ているうちに気持ちがほっこりして来て、最後には幸せな、そう春の陽だまりのような暖かい気分になる。本当に地味な作品だけど、私は大好きな作品で、多分今年観た好きな作品の1本に間違いなく挙げる。チェ・ミンシクいいなぁ、好きだなぁ。特に大好きなのは、終盤大会でタクトを振るチェ・ミンシクの一挙手一投足そして表情、もう鳥肌が立つ程、生き生きとして素晴らしい。このシーンを観るだけでも、この作品は観た方が良いとさえ思う程だった。本当になんてステキなの!この作品や主人公イ・ヒョヌに扮したチェ・ミンシクの演技が、韓国でどのような評価を受けたのかわからないが、私なら大鐘賞や青龍賞の主演男優賞を上げる。「オールドボーイ」の彼は良かったけど、この「春が来れば」の彼もいい。生き方が不器用で素直じゃない捨て鉢な中年男が、田舎の中学生や周囲の人々に接しながら、ジワジワ自己再生して行き、今までも傍にあったのに、気がついていたけど素直になれなかった幸せに、漸く手を伸ばす勇気を持つまでを、ナチュラルに実在感たっぷりに演じている。おばあちゃんと2人暮らしの中学生ジェイル役の男の子は、「大統領の理髪師」などに出演して、韓国では天才子役として名高い男の子だそうだが、愛嬌がありながら健気で思いやりのある、早くも味のある存在感を発している。チェ・ミンシクとジェイルの絡みのシーンの数々は、この作品の中で1番重要なポイントになるシーンで大好きだ。イ・ヒョヌはトランペッターとして交響楽団のメンバーになる夢をみていたが、実現しないまま中年になっていた。今は主婦相手の市民講座でクラシックを教えていた。未だに独身で口うるさい母親と2人暮らしだ。毎日気持ちは満たされず、友人に愚痴ったりして、ちょっとした事にも怒りっぽくなっていて、恋人ヨニには新しい相手ができて、その相手と結婚しようと思うとちらつかせても、止める事もできない。デート中もイライラがつのって、粋なる車を交差点で止めて、信号機の監視カメラに石を投げつけて鬱憤晴らしをする有様。そんなある日ヒョヌは母親とマンションへ引っ越した。その夜母親と口げんかして、その勢いで家を出て、カンウォン道サムチョク市の中学の吹奏楽部の指導者になる。寂れた炭鉱町で年々人々が少なくなり、中学の吹奏楽部は部員が少なくなって、今年大会で入賞しなければ廃部になる運命にあった。その部員の中にヒョヌと同じトランペット担当のジェイル、サックス担当のヨンソクがいた。ある日練習に出て来ないジェイルの事をヨンソクに聞くと、お祖母さんが入院していて学校に来れないとの事で、病院に行くとジェイルはお祖母さんに付き添っていた。病院に聞くと、もう退院して良いのだが、入院費が払えないので退院できないと言う。それでヒョヌは通りがかりのクラブで、金の総ラメのジャケットに蝶ネクタイをして、ダンスの伴奏をするバイトをやる事にして、前借の賃金で入院費を払った。ジェイルの古い壊れたトランペットを修理してやるヒョヌ。ジェイルは又練習に出るようになった。今度はヨンソクが出て来ない。聞くと、炭鉱夫の父親が吹奏楽部で練習する代わりに、勉強をして高校へ行くように言って、サックスを吹くのを禁止したと言う。ケニー・Gに憧れ、彼のようになるのが夢だと言うヨンソク。ヒョヌはその事をお父さんに話すが、聞き入れない。それでヒョヌは鉱山の入り口で吹奏楽部で演奏をして炭鉱夫達に音楽を聞かせた。炭鉱夫達は黙って聞く。その炭鉱夫の中にお父さんも混じっていて、それから又ヨンソクが練習に来るようになった。ジェイルのお祖母さんが雪の夜足を滑らせて転んで亡くなった。ジェイルはお祖母さんと一緒に海に遊びに行けなかったのが心残りだと言うので、一緒に行こうと言うと、お祖母さんがいないからいいとジェイルは断る。ヒョヌと部員達は入賞する事を目標にして、一生懸命練習をした。やがて大会の日が来た。コンサートホールでヒョヌはタクトを振り、部員を演奏した。全員もう入賞などどうでも良かった。ここで演奏したと言う事が重要だった。大会が終わって、ヒョヌは指導者を辞ねて町を去った。季節は冬から暖かな春になり、桜が咲いていた。ヒョヌはこの町に来た時とは違う、穏やかな人間に変わっていた。ヒョヌはすぐに彼女のヨニの家の前に行く。彼女は結婚を取りやめ、新しい相手とも別れていた。漸く彼女に素直になれた。彼女に携帯で電話した。ベンチでゴロッと横になったヒョヌの上、春の日差しが降り注ぎ、桜の花びらが舞っていた。ヒョヌにも漸く春が来た。
2007年05月22日
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2005年度日本作品。監督は犬童一心。出演はオダギリジョー、柴咲コウ、西島秀俊。この作品は劇場で観損ねてから、ずっと観たくてネットレンタルで待ち続けていた作品だった。犬童監督は「ジョゼと虎と魚たち」を観てから、結構好きな監督だ。こう言う作風の監督が好きだ。淡々とシーンを繋いで行きながら、作品の世界と監督の作品に込めたメッセージが強烈に伝わって来る。そして犬童監督は俳優の個性や才能を見抜く力が長けているのだろう、キャスティングが素晴らしい。まずこの作品の成否は照雄役のキャスティングだったと思う。犬童監督が一目惚れしたと言う田中さんの存在感がすごかった。この人の本業はダンサーだけど、「たそがれ清兵衛」での少ない出演時間なのに、他を圧する程の存在感は、今も忘れる事ができない。その田中さんが柴咲コウ扮する沙織と母親を捨てて、ゲイバー「ヒミコ」の2代目になり、今はゲイの老人の為に老人ホーム「メゾン・ド・ヒミコ」を経営している照雄役に扮している。「メゾン・ド・ヒミコ」と言う作品にはこの照雄の存在がキーポイントになっていると思う。照雄役のキャスティングの成否が、この作品の鍵を握っていると思う。なぜなら田中さんが扮したからこそ、沙織が憎み存在すら否定していたのに、毎週日曜日にメゾン・ド・ヒミコで働くようになって、照雄やゲイの老人達を受け入れるようになる説得力が出たと思うからだ。店で働く人々に囲まれて立ち姿の美しい事と言ったら、目を見張る程だ。気高く品格のある美しい立ち姿。やはりダンサーだからだろうか?ゲイ達が慕たい憧れる理由がよくわかる。そして余命幾ばくもなくなった年取った現在でも、凛としている。春彦が恋人でも、全く違和感ない。照雄は末期がんで余命幾ばくもなく、ほとんど寝たきりの状態である。そんな照雄を献身的に介護しているのが、照雄の若き美貌の恋人春彦で、オダギリジョーが扮している。照雄の介護をしながら、メゾン・ド・ヒミコを維持している。初登場の雨の中傘をさして立っている姿、照雄のベッドの横に座っている時の横顔など、彼ってこんなにハンサムだったかなと思う程、ハンサムだった。沙織役の柴咲コウは、この役の彼女が今までの中で1番好きかも。どんな理由でかは語られてないが、とにかくすごい借金があって、昼間は塗装会社の事務員をして、夜はコンビニでバイトをしているが、返せる当てがない。やる気も出ずに、ただ惰性で毎日過ごしていると言う感じ。その気だるさがよく出ていた。ある日突然沙織の前に春彦が現れて、沙織の生活に変化が生じる。春彦から忌み嫌っていた照雄の経営するゲイ専用の老人ホームを、毎週日曜日だけ手伝わないかと言われたのだ。破格な日給と多額な遺産目当てに、嫌々ながら働く事にした。強張った顔で、やらなければならない事だけ淡々とやると言う感じが、まさに柴咲コウにぴったりだった。あんな強張った怖い顔していたら、ウロウロされるだけでも不愉快だし、メゾン・ド・ヒミコでメイドのような仕事をされても、うれしくもなんともないだろう。それが段々沙織の方がメゾン・ド・ヒミコで癒されて行く。春彦と老人達と横浜へ遊びに行って、仲間の一人が酔客に絡まれた時の激怒するシーンはすごかった。クラブで皆で踊るシーンは圧巻だった。皆楽しそうだった。メゾン・ド・ヒミコのゲイの老人達。一人一人個性豊かで、陽気に笑う笑顔の裏にそれぞれの辛さや悲しさや孤独がある。ずっとこのままメゾン・ド・ヒミコに居られるのか、あるいは束の間の安住の地なのか、そんな不安な気持ちもあるだろう。仲間の一人の老人が倒れて寝たきりになる。皆はここで面倒をみたいと思うが、結局は身内が引き取りに来る。その老人は、車に乗せられた時には、普通のお爺さんになっていた。これが社会、これが世間体。メゾン・ド・ヒミコの前にはバスが通る道路があり、目の前にバス亭がある。瀟洒な元プチホテルのメゾン・ド・ヒミコは、壁に囲まれて、外界との接点は門である。壁には登下校の中学生にラクガキをされるが、中は面した海の潮騒と燦々と降り注ぐ日差しがあって、時間さえゆっくり過ぎて行くゲイ達の平和な暮らしがあった。しかしその平和な生活は壁に守られているから保たれている。老人達はきっとそれはよくわかっているだろう。だからこそメゾン・ド・ヒミコにいる間は、今までの辛さや悲しさや孤独を忘れて、皆で支え合って暮らそう。辛さや悲しさや孤独を知った人は、人に優しくなる包容力が備わるのだろうか?陽気に笑っているのに、寂しい、悲しい人々。だから身を寄せ合って生きているのだろう。壁に守られて。
2007年05月21日
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2006年度イギリス作品。監督はスティーブ・フリアーズ。出演はヘレン・ミレン、マイケル・ソーン、ジェームス・クロムウェル。昨日レディースデーを利用して、TOHOシネマズ府中PM14:15の回を観た。行くとロビーにはレディースデーと言う事でおばちゃん達がいた。一瞬「今韓流スターの作品を上映しているかな?」と思ったりしたが、入場すると公開して日にちが経っているにも関わらず、結構席が埋まってて顔ぶれはおばちゃん達がほとんどだった。やはりダイアナ元妃の死を扱った作品だからだろうか?と思った。私はヘレン・ミレンと言うイギリスの女優さんが好きで、特に「カレンダーガールズ」が大好きだ。イギリスの俳優さんは男女どちらも、知性と品格があるから好きだ。若いジュード・ロウにしてもどこかインテリジェンスがある。老齢の俳優さんは特に、ピーター・オトゥールからアラン・リンクマン、ヒュー・グラント、女優さんではこのヘレン・ミレン、マギー・スミスなどなど、知性と品格がある。昔からアメリカの俳優にはシェークスピアは演じられないと揶揄する言葉があるそうだが、なんだか頷けるものがあったりする。ハリー・ポッターシリーズで始めて、「ハリー・ポッター炎のゴブレット」を観た時に、若いメインの3人を脇で支えるイギリスの俳優陣の重厚で知的で品のある演技に目を見張った。貫禄のある存在感が、作品全体にどっしりとした重厚感を与えて、さすがのイギリスの俳優陣だった。それで私は又イギリス俳優の重厚な演技を堪能できるだろうと、「クィーン」を観るのを楽しみにしていた。先日観た「スパイダーマン3」はあれやこれや詰め込み過ぎているような気がしたが、この「クィーン」はその逆で内容をダイアナ元妃の死と、その後の女王をメインにした7日間に絞っている。7日間に絞っているので、エリザベス女王とブレア首相の感情の推移と、周囲の人々のリアクションや思惑などが、表面上は静かに、しかし心の中に燃え盛るもつれた感情などが、丁寧に描けていて見応えあった。そして感心したのは映画の構成だ。ダイアナ元妃に関する部分は実際のフィルムを使用して、そこの部分はドキュメントのように挿入して、他の部分は俳優が演じている所がとても良かったと思う。それでとても解かり易くシンプルになったと思う。そして1番好感が持てたのは、過去に女王とダイアナ元妃の間で軋轢があり、今も女王やエジンバラ公や皇太后にはわだかまりが残ったままと言う事を、各々のせりふで観客に思い巡らせ感じ取らせるに留めている事と、女王が最後に決断させるブレアとの話し合いも、はっきりと観客に映像で見せていない事だった。強制的に観客にこのように思えと提示するのではなく、ダイアナ元妃の死に際し女王は多くの苦悩や逡巡があったと言う事だけが描かれている。歴史や伝統を守り次代へと引き継ぐ事で、王制は今まで守られて来た。幾多のアクシデントを乗り越えて今の至る英王室。時にはアクシデントを乗り越える為に強引とも思える大英断もあったと思う。そうやって来たからこそ英王室は今まで続いて来たのだろう。ダイアナ元妃と言うイギリス国民の最高の人気を誇る女性であり、皇太子と離婚したとは言え、未来の国王の母親である女性。ダイアナ・スペンサー嬢が民間人でありながら皇太子と結婚し離婚し、又民間人に戻って交通事故で亡くなった。そう言う女性の葬儀と言う前例を見ない事例で、どう処すべきか、どう処す事がイギリス王室の為に最良なのか、女王と首相それぞれの立場で、国民感情を踏まえて、どう選択すべきか逡巡する。それと平行して、突然母親の死に直面した孫を心配し、幼心が不躾な人間達によって、少しでも傷つかないように、最前線のロンドンから避難させようとする、1人の祖母として当然の孫可愛さもある。その辺りの事がとても丁寧に描かれている。王室の歴史や伝統を守る為に、王室の尊厳や存続を維持する為には、当然だと思い選択した事が裏目に出る。王室を守り次代に引き継ぐ為には国民の支持は不可欠なもので、その国民の支持を取り戻す為には、歴史や伝統や慣習から外れる事も必要なのだと、最後は大英断を下す女王。女王としては苦渋の決断で、最後の最後瀬戸際の薄氷を踏む思いの決断だったのは言うまでもない。女王は国民に対し、いつもの通り毅然としてカメラに向かった。女王とは1人の人間である事は許されない。人間である前に女王でなければならない。でも7日間の女王は、車を運転している姿は1人の人間だったような気がする。カメラに向った凛とした佇まいの女王の心の中には、言うに言われぬ思いがあっただろうと思った。ヘレン・ミレンはこの女王役でアカデミー賞他多くの主演女優賞を受賞しているが、かなり研究して演じきっていると思った。アップになると少し線が女王より太いかなと思ったが、斜に構えた時や歩いている後姿など、驚く程よく似ていると思った。さっきたまたまニュースでブレア首相が辞任すると言っていた。
2007年05月10日
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2007年度アメリカ作品。監督はサム・ライミ。出演はトビー・マグワイア、キルシティン・ダンスト、ジェームス・フランコ。大好きなアメコミヒーロー物で、しかもその中でもお気に入りの「スパイダーマン」の3が公開されたので、混むのを承知で連休後半にネットリザーブして、TOHOシネマズAM11:40の回を観に行った予想通りチケット売り場は長蛇の列ができて大混雑だったが、私はネットリザーブ用の自販機で、すぐにチケットを受け取る事ができたので良かったしかしドリンク売り場も混んでいたので、席に着いたのはギリギリだった「スパイダーマン3」は2つのスクリーンを使ってる為か、予想に反して前列5列くらいは空いていて拍子抜け。あの大混雑はいったい何を観に来ていたんだろうと思ったが、他にアニメや「バベル」などもやってるから、合計するとあんな大混雑になるんだろうと一人合点した。劇場へ映画を観に行ったのは実に2ヶ月ぶりの事で、ドリンクをドリンクホルダーに置いて、シートに腰を落ち着けると、自然に心身ともにリラックスできた。それと同時に心の底からワクワク気分が上昇して来た。私にとって劇場で映画を観る事が、1番のリラクゼーションだわと、本当に実感した。「スパイダーマン3」は最初の部分で、1と2の登場人物やエピソードが紹介されるので、それを観ながら、そう言えばこんな事があったなあんな事があったなとか、この人出てたなあの人出てたなと思い出した。それがいかにも今までのダイジェストを流して、前2作を観てない人にも3を観てわかるように手短に説明しますって感じじゃなくて、でも手短にそして洒落た画面構成になってるのが、最初から心地良かった。しかし手短かだったのはここだけで、後半になって来るに従って「いやに長いなぁ」と思い始めてしまった。サム・ライミ監督はこのPart3で、登場人物達が今まで抱えて来た事やPart3で新たに直面した事など全てに、決着を付け様としたのだろうが、ちょっとあれやこれや詰め込み過ぎたような気がした。もう少し内容をスリムにしても良かったんじゃないだろうか?敵キャラは2人のうちどっちかで良かったんじゃないかな。そしてもう少しピーター、MJ、ハリーの周囲の人々との関わりも含めた近況や現在の心情を丁寧に描いて欲しかったなと思う。これは多分私のこの作品への「もっと」と言う欲だと思う。それくらい敵キャラ2人を1作に詰め込むにはもったいないくらいだった。そしてそれくらいピーターを含めた登場人物達が魅力的だった。メインの登場人物達に絡む周囲の人々の話すせりふが、観ていて心に響いて来るような味わいのあるものだった。本当にシナリオがよくできていて感心してしまった。キャスティングも適材適所でよく生きている。CGも最高!時間も費用も桁外れにかかるCGだけど、ハリウッドの財力と技術を惜しみなくつぎ込んだ「スパイダーマン3」は、CGを観るだけでも見応えある。そしてその中に登場人物の抱える苦悩やダークな部分、そしてそれを克服して行く過程や手助けし見守る人々の人間ドラマもちゃんと描かれている。何よりサム・ライミ監督がスパイダーマンと登場人物達をこよなく愛している事を感じられてうれしかった。PS.ジェームス・フランコってオールバックの横顔が、ジェームス・ディーンによく似ているような気がした。そう言えば、彼ジェームス・ディーンの半生記の映画に出たよね。
2007年05月05日
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2005年度フランス作品。監督はジャック・オーディアール。出演はロマン・デュリス、エマニュエル・ドゥヴォス。久しぶりのフランス映画で楽しみだった。監督や主演男優は知らない人だったが、悪辣な不動産ブローカーの若者がクラシックのコンサートピアニストを目指すと言うプロットに惹かれて観る事にした。主人公28歳のトムは、亡くなったピアニストだった母親と悪徳不動産ブローカーの父親の遺伝子を半々に受け継いでいた。現在はもっぱら悪徳不動産ブローカーとして生活していた。手に入れたアパートに居座るホームレスを追い出す為にねずみを放して嫌がらせして追い出したり、老いた父親に強要されて暴力をふるってお金の取りたてたりの日々だった。上司が奥さんに浮気がばれそうになってて、それのカモフラージュなんかもしていた。その全てが気の進まぬ事で、心は満たされる事なく、ささくれ立っていて、そんな自分に嫌気も差していた。そんな時偶然亡き母のマネージャーと偶然出会い、トムにコンサートピアニストのオーディションを受ける事を勧められ、忘れていたピアノニストへの気持ちが蘇って来て、トムの心も生活も変わって行くのである。最初は弾ける事だけで喜びを感じ、次第に自分の思い通りに弾けなくて癇癪を起こしたり、でも又気を取り直して弾き始めたり、ピアノを習っていた幼少の頃の自分を観ているようだった。それもトムがチャレンジしていたのがバッハだったから。ピアノを習っていた時、副教材としてよくバッハを弾かされ、その難解な旋律に私の小さい指と幼い精神年齢が着いて行けず、退屈で嫌で嫌で堪らなかったのを思い出した。トムは中国人の留学生ミャオリンから指導を受けるが、ミャオリンはフランスへ奨学金留学生として来たばかりでフランス語を全く話せず、おまけに部屋では禁煙と言う事で、トムは最初から癇癪を起こす。更にミャオリンの指導は厳しかった。弾けないと同じ箇所を何度も弾かせて先に進ませなかったり、トムが満足の行く出来栄えに満面の笑みでミャオリンを振り返っても、ミャオリンが渋い顔をしていたり、その度にトムは癇癪を起こす。しかしミャオリンはトムが素晴らしいと認めざるを得ない程のテクニックを持っていて、トムは癇癪を起こしつつも、オーディションに受かる為にはミャオリンに指導してもらわないわけにはいかなかった。ミャオリンに教えてもらう午後2時と夜中自宅で練習する時間以外は不動産ブローカーの時間と言う2重の生活だったが、いつしかトムの頭の中はピアノで占められて、仕事でミスをした。いつも弾いてるつもりで指を動かしイメージトレーニングして、ウォークマンでバッハを聴いていた。不動産ブローカーの時のささくれ立った顔とピアノに向かっている時の顔は全く違う。でもその両面が母親の遺伝子と父親の遺伝子の存在で、不動産ブローカーの時のささくれ立った顔は、父親と父親の職業への嫌悪感であり、ピアノを弾いている時の陶酔した顔は、亡き母親への思慕とピアニストへの憧れの自分の気持ちが出ているのではないだろうか?子供は誰しも父親と母親の遺伝子を受け継ぐが、トムのこの両極端の遺伝子!悪徳不動産ブローカーの父とピアニストの母がどうやって知り合って結婚したのか、作品の中では語られてないが、父親の部屋にはまだ親子3人の写真が飾ってあった所をみると、飲んだくれの救いようのない父親の心に、今でも例えかすかでも、母親への愛情と3人で過ごした日々の思い出が残っているのだろうか?トムは夜中のピアノの練習の合間に有名なピアニストのビデオを観てイメージトレーニングをする。そのピアニストがホロビッツ。あのでかい手ごつい指から奏でられるとは思えない繊細で表現豊かな音色のホロビッツ。初めてテレビで観た時動きが少ないと言うよりも、ほとんど固定してるんじゃないかと言うくらい腕を動かさないのに比べて、ごつい指は猛烈に動いてて衝撃だったのを覚えている。CDから来るイメージとはまるで違う、そのギャップ!トムはホロビッツみたいに弾きたいの?有り得ない(爆)ある日父親は殺される・・・作品は、それから2年後に飛ぶ。トムはプロになったミャオリンのマネージャーになっていた。ミャオリンをコンサート会場に下ろして、駐車場へと向かう途中偶然父親を殺した犯人を見かける。2年後のトムは父親の世界から足を洗って、母親の世界で生きているようだったが、やはり父親の遺伝子はトムの中に潜んでいたのね。犯人の後を付けて行き敵討ち。ピストルを奪い取って銃口を向けるが、引き金を引けば確実に殺す事はできる。しかし引き金を引く事ができない。引き金を引かせなかったのは、母親の遺伝子だろうか?トムは血だらけになりながら、コンサート会場の客席に戻る。席に着いてから、血だらけのままミャオリンのピアノを聴いていた。そのコンサート会場には似つかわしくない血だらけの姿で、ミャオリンの奏でるピアノを聴いて陶酔していた。このギャップはトムなんだ。トムはこのギャップにどう折り合いを付けるのだろう?主人公に扮したロマン・デュリスは、主人公のどちらにも行ききれない混沌とした心の中の苛立ちをよく表現していたと思う。
2007年04月29日
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2006年度アメリカ作品。監督はポール・グリーングラス。出演はJJ・ジョンソン、ゲイリー・コモック、ナンシー・マクダニル。久しく映画を観る時間的余裕がなかったが、やっとレンタルショップで借りて観る事ができた。これは改めて説明する必要がないくらい話題になった作品だが、一応記録の為にも書き残しておこうと思う。言うまでもなく2001・9・11のアメリカ同時多発テロの時に、テロリストにハイジャックされた4機の中で、唯一その目標に達せずに墜落した便名がUnited93便だ。出演者は無名の俳優で、パイロットや客室乗務員や管制官にはその職業を経験した事がある人を起用している。特に管制官役の一部には、事件当時そこに勤務していた管制官が本人役で出演している。空港との無線などには、事件当時の実際の声が一部使用され、United93便の離陸から墜落までの様子を残された資料や証言などを基にして可能な限り再現ドキュメンタリドラマにした。やはりその職業を経験した俳優や、その時そこに勤務していた管制官が本人役に出演していると言う事が演技臭くなくて臨場感を強調できたのではないだろうか?そしてもう1つポイントは無名の俳優を起用していると言う事だ。無名だと言う事はその俳優の別の作品のキャラクターや素のイメージが付いてないから、更にドキュメンタリドラマとしての印象が強くなったと思う。特に管制官が本人役で出演していると言う事は、ご本人にとってはその当時その時間をそのまま再現するのは辛い事だと思うが、とても管制部の雰囲気がナチュラルで現実感があった。無線も一部は実際の物を使用していると言う事も、ドキュメンタリー性を強くするには重要なポイントだったんじゃないかと思った。観た人の意見で管制部のシーンが長すぎると言うようなものがあったが、私個人としては機内と管制部を丁寧に平行して描く事で、どちらの状況もよくわかって、観客にいろいろな事を考えさせる内容になったと思う。観ながら強く思ったのは、何か不測の事態が起きた時に、政府や関係部署に対してよく言われる事だが、その状況に際して「危機管理能力」がもっとあれば、被害は大きく及ばなかったんじゃないかと言う事だ。もちろんいろんな不測な事態に際して、どんな手段を速やかに取るとか、マニュアルがあって普段からシュミレーションを想定して訓練しているだろう。だけどそんなものを遥かに超越した現実に直面したら、そのいろんな関係部署毎に様々な思惑が交錯して、どんどん時間ばかり経過して事態が更に悪化して行くのだと思う。このUnited93便の場合も政府から軍に指令が出ても、軍はもし違っていたらどうするかと言う危惧が働き、様子を観ようと動かなかった。それで時間ばかり経過して行った。そんな時その最前線で事態に直面している人達は、いったい今何が起きようとしているのか、あるいは何が起きているのか、気が動転しているのも手伝って把握するのは困難だろう。やがて何が起きているのか把握できると、今度はいつ救助隊が来るのだろうかとか、犯人を捕まえに来るのだろうかとか、自分達はこれからどうなるのだろうかとか、恐怖心、不安感、そしてモタモタしてないで早く救いに来てと言うジリジリした焦燥感でいっぱいになるだろうと思う。その時までこんな事が起きようとは誰も予想してもいなかっただろう。2001・9・11の朝も、いつもとなんら変わりない朝だっただろう。United93便は40人の乗員乗客を乗せて、朝の離陸ラッシュで30分遅れてしようとしていた。その40人の中にテロリスト達が潜んでいなければ、乗員乗客達はこんな不幸な目に会わずに済んだだろう。人生何が起こるかわからない。こんな時人は何をするか?やはり家族の事、愛する人の事を思い、そして緊急を要する仕事を抱えている人は、そのフォローする為どうするかで頭はフル回転するだろう。乗客たちが自分の携帯や機に備えられている電話で、各々家族に最後の言葉を伝えていた。そして犯人や乗客は、それぞれが信じる神に向かって祈りを捧げていた。犯人達も乗客乗員達も土壇場の瀬戸際。そのシーンを観ている時、ほんとうに息苦しくなる程の緊張感だった。そして最後は墜落。この事に関してはいろんな説がある。しかし言える事は、テロリスト達にも自分達の考える正義があるだろうが、全く関係のない第三者の人々の命を奪う行いをしている限り、彼等には正義はないと言う事だ。あの時ちょうど私はドラマを観ていた。突如場面が切り替わって、国際貿易センタービルに一機の飛行機が突っ込んで行くところが映った。フィクションのドラマを観ていたからだろうか、俄かに現実に起こっている事だとは実感できなかった。いったいどうしたんだろう?と思っていると、ニュースのキャスターが詳しい事は把握できていないながらも、何度も無差別テロがニューヨークで起きたと言っていた。飛行機がビルに突っ込むなんて事が実際にあるのだろうか?と信じ難かったが、本当に現実に起きた事だった。そして次々起こったアメリカ国内でのテロ行為。そして多くの命が失われた。誰にでも生きる権利がある。決して第三者の手で、その生きる権利を奪ってはならない。ついこの前もアメリカの大学で銃の乱射事件があり、多くの命が失われた。もう2度と、そんな恐ろしい事がおきませんようにと祈らずにはいられない。
2007年04月22日
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60000ヒット達成しました。これも一重に、ここにお出で下さっている皆様のおかげでございます。本当にどうもありがとうございます。振り返ってみますと、3月になってから1日に更新したっきり、未だに更新しておりません。本当に反省しております。言い訳になってしまいますが、私事ですが、2週間前に引越しをしました。それで3月に入ってからとても慌しく過ごしておりまして、映画を観る時間がありません。家の中は今も段ボールに囲まれている状態で、テレビは観れるものの、まだDVDデッキの配線は繋いでない状態で、ネットレンタルで届いているDVDは観れてませんし、当然映画館にも行けません。なるべく早く家の中を片付けて、DVDも観たいし、映画館にも行きたいと思ってます。早く更新できるように努力しますので、どうかお見捨てなくよろしくお願いします。 romy♪
2007年03月31日
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2006年度アメリカ作品。監督はビル・ゴンドン。出演はジェイミー・フォックス、ビョンセ・ノウルズ、エディ・マーフィー、ダニー・グローバー、ジェニファー・ハドソン、アニカ・ノニ・ローズ。ずっと観たいと思っていたが中々観れず、やっと先週の(土)に観れるはずだったのに、最終のスタート時間に間に合わず、漸く翌日の(日)のレイトショーに行けた。こんなにグズグズと観れないとなると、この映画とは縁がなかったと諦めの境地になり、DVD待ちするしかないとがっかりしていた。シネマ2で最終PM8:45を観た。客入りは3/4くらい。でも翌日の(月)がアカデミー賞の授賞式だったから、助演男優賞にノミネートされているエディ・マーフィーと助演女優賞にノミネートされているジェニファー・ハドソンを前日に観れるのはラッキーだとワクワクした。都内有数の音響効果と言われているシネマ2でミュージカルを観れるのは幸せな事だと、ミュージカルが苦手な私だけども、そう思った。以前ミュージカルの「シカゴ」や「オペラ座の怪人」をやはりここで観たが、「オペラ座の怪人」の冒頭のパイプオルガンが地響きがしてお腹に響いて来て鳥肌が立つ程感激して、一気に作品の中に引き込まれたのは、はっきりと覚えている。「オペラ座の怪人」の大ファンの娘は、いろいろな劇場で観ているが、最初にシネマ2で観たのがラッキーで、シネマ2で観てなかったらこんなに嵌らなかったと言っていた程だ。「シカゴ」も前列で首が疲れたが、やはりのめり込んで観た。しつこく書くが、私は本当にミュージカルは苦手だ。でも「シカゴ」のような構成なら大丈夫だ。観る前は「ドリームガールズ」がせりふが唐突に歌になるシーンもあったが、なんせ歌のジャンルが好きだったから大丈夫だった。「ドリームガールズ」は1981年に初演され、4年間1522回も上演されたダイアナ・ロスとシュープリームスをモデルにしたバックステージ物のミュージカルである。ミュージカルが苦手の私なのに、昔大好きだったダイアナ・ロスとシュープリームスをモデルにしていると言う事、そして現在好きなビヨンセが出演している事などで、楽曲には期待していたが、やはり興奮した。知らず知らず、指がリズムを刻んでいた。エディ・マーフィーは昔「ビバリーヒルズ・コップ」が大好きだった。あの軽妙洒脱なマシンガントークが癖になる。大好きだった俳優で、大好きだったシリーズは大ヒットしたんだけど、アカデミー賞にノミネートされる事などないジャンルの俳優であり作品だと思っていた。よもや、アカデミー賞にノミネートされる俳優になって戻って来るなんて予想もしてなかった。本当にびっくりだ。「ドリーズガールズ」を観る楽しみや目的は、エディ・マーフィーの演技を観ると言うのも一つだった。あんなに歌える人だとは思ってなかった。ジェミー・フォックスも「コラテラル」「Ray」を観てからファンだった。私的にはなぜこの人はノミネートされなかったんだろう?と言うくらい、損な役どころを上手く演じていたと思う。やっぱりこの俳優は期待を裏切らない人だと思った。そして実際に観て、もう1人好きだった人を発見!なんと大好きなシリーズだった「リーサル・ウエポンシリーズ」のダニー・グローバーが、ベテランマネージャー役で出ているではないか!とってもうれしかった。今年の賞レースで大評判のジェニファー・ハドソンは予想以上の声量と歌唱力で圧倒された。これで新人とは、なんだかんだ言ってもハリウッドは俳優の層は厚いと思う。歌が上手いと言うだけではなくて、この人のキャラがとても良いと思う。愛嬌があってキュートで、観ている人を明るくさせる。役作りで太ったんだと思うけれども、あの豊満な胸と立派なお尻には参った(爆)エフィーの悔しさや焦りや妬み嫉みがよく演じられていたと思った。やはりこの映画は彼女あっての成功だと思う。ビヨンセはよくディーナ役を引き受けたと思う。メインボーカル交代劇までは、メインボーカルはエフィーで、ビヨンセ扮するディーナは脇で、歌のシーンでも芝居部分でも目立っているのはエフィーだ。メインボーカル交代劇後、歌のシーンではセンターに立って歌っているものの、歌い方がいつもと違って控えめで軽く歌っている感じ。芝居部分もエフィーの心の内側に焦点を当てていた。漸くディーナに焦点が合って来るのは後半だった。その頃になって漸く彼女の美貌とスレンダーなスタイルやカリスマ性が前面に出て来た。かっこよく着こなした当時のファッションや、斬新なウィッグやメイクが目を引く。そしてなによりダイアナ・ロスを彷彿とさせる身のこなし。ビヨンセは随分ダイアナ・ロスを研究したんじゃないかと思う。ダイアナ・ロスと違う所は、ディーナは人間味もあり豊かな人格をしている所なんだけど、ビヨンセを観たい人には物足りないと思う。ビヨンセがなぜ受けたのかちょっと不思議だけど、でも誰でもダイアナ・ロスがモデルと思うディーナ役やれるのはビヨンセしかないだろうなとも思う。それくらい美貌とスタイルの良さとカリスマ性がある。そしてビョンセの演技からは、夫カーティスに感じる妻としての苦しみや飢餓感、それと平行してある意味スターであるビヨンセ自身にも通じるものがあるだろう思う、プロデューサーのカーティスとアーティストとしてのディーナの方向性の違いに対する葛藤などが伝わって来た。私が以前からビヨンセが好きだからかもしれないが、今回のディーナの演技にとても好感が持てた。ローレル役のアニカは当時34歳だったそうだが、劇中で18歳と言うせりふがあってびっくりだった。トニー賞の授賞歴もある人気実力のある人のようだ。最初に書いたが、このミュージカルはバックステージ物だから、物語的には予想できる展開だし、そう言う意味では特別新鮮なものはないと思う。だが出演者特にジェニファー・ハドソンと言う新人を起用した事で、彼女の存在が楽曲やその歌唱がとても新鮮なものにしていたと思う。そしてジェイミー・フォックス、ビヨンセ、エディー・マーフィー、アニカ・ノニ・ローズ等、適材適所での好演が作品の奥行きを作り、生き生きとさせたと思う。やはりキャスティングの勝利だと思った。
2007年03月01日
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今朝からwowowで第79回アカデミー賞授賞式の生中継があった。授賞作品と受賞者は以下の通り。・作品賞「ディパテッド」・監督賞マーティン・スコセッシ「ディパーテッド」・主演男優賞フォレスト・ウィッテカー「ラストキング・オブ・スコットランド」・主演女優賞へレン・ミレン「クィーン」・助演男優賞アラン・アーキン「リトル・ミス・サンシャイン」・助演女優賞ジェニファー・ハドソン「ドリームガールズ」今年は香港映画「インファナル・アフェア」のリメイク「ディパーテッド」は作品賞に輝き、その作品のマーティン・スコセッシ監督が監督賞に輝く結果になった。私は観たかったのに観れずにいるので、作品の内容に関しては何も言えないが、観た人は皆リメイク版としてではなく、1本の作品としてちゃんと成立していたと話していた。だから作品性は高かったのだろうと思う。しかし監督自身は今回の作品はリメイクだから、肩の力を抜いて監督したと話して、監督として授賞する気持ちはないような事だった。しかし蓋を開けて観ると、作品賞も監督賞も授賞していた。「いったい今までやって来た事はなんだったのか?」と言ってて(笑)功労賞も含めた選考と言う事もあるそうだからね、監督(笑)だけどそれを知ったら、それはそれで情けながるかしらね(笑)主演男優賞のフォレスト・ウィッテカーはフィルモを観てみるといくつか観てる。どうりで具体的には思い浮かべられなかったけど、どこかで観た事あると思ったわけだ。しかしこの「ラストキング・オブ・スコットランド」はアミン大統領の話で、彼はそのアミン大統領を演じたそうだ。今年はレオナルド・ディカプリオに取らせてあげたかったな。彼はなんかいい俳優になって来たなぁと思うこの頃だ。いい年の取り方をしていると思う。これからが楽しみな俳優になったと思う。主演女優賞のヘレン・ミレンは「カレンダーガール」の人だ。この作品の彼女の役はとても記憶に残っている。最初はご主人を亡くした友人を元気づける為に、病院の待合室のソファーを寄付しようとして、その資金集めの為のカレンダー作りのつもりで、町内会のおばちゃん達がヌードモデルになる。そのおばちゃん達のリーダー格の人物役だった。そのヘレン・ミレンがなんと現エリザベス女王役だ。健在の女王をモデルに映画を製作する事に支障は出なかったのだろうか?クレームが付いたりしなかったのだろうか?助演男優賞のアラン・アーキンもすっかりおじいちゃん役が嵌る年になっている。私が強烈に覚えているのは、オードリー・ヘプバーン主演の「暗くなるまで待って」の凶悪な犯人役だ。ほとんど室内で展開され、終盤は主人公の盲目の人妻との真っ暗な部屋の中での攻防戦になる。ドキドキしながら息を呑んで観た作品だった。助演女優賞のジェニファー・ハドソンはたまたま昨日「ドリームガールズ」を観たばかりで、彼女が順当な所じゃないかと思った。作品に関しては又書く事にするが、とにかくその声量と歌唱力に度肝を抜かれる思いだった。でもだからと言って、ただ迫力があるだけではなくて、キュートで愛嬌がある。観ている人の心を明るくさせる人だと思った。今日も音楽賞の受賞者発表の前の、ジェニファー、ビヨンセなど出演者4人での歌とパフォーマンスは最高だった。そのリズム感、迫力、声量、全てが東洋人には太刀打ちできない領域だと思う。昨日観ていて、本当に圧倒されてしまった。しかしこの音楽賞、すっかり「ドリームガールズ」が授賞するものと思っていたら、なんと「不都合な真実」だった。びっくりだった。菊池凛子さんに関しては、「バベル」を観てないのでなんとも言えないが、今回はあのアカデミー賞にノミネートされただけでも大成功だったと思う。これをステップアップの足がかりに成長して行けば良いと思う。渡辺謙さんがカトリーヌ・ドヌーブと一緒に外国語作品賞の発表をした。フランス映画界を代表する世界の大女優のカトリーヌ・ドヌーブと並んで舞台上に立っても、大柄でどっしりとした渡辺謙さんは全く引けを取らない。世界の映画人が憧れるアカデミー賞の授賞式の舞台でもちっとも臆せず堂々としていられる押し出しの強さは大したものだ。すっかりワールドスター然として、そのシチュエーションに馴染んで見えるのだからすごいの一言だ。「硫黄島からの手紙」は作品賞を授賞できなかったけど、クリント・イーストウッド監督は何度も授賞しているし今年はいいよね。エンニオ・モリコーネが授賞した時、イーストウッド監督が紹介していて、その中にご自身の出世作「夕日のガンマン」と「続夕日のガンマン」が出て来て笑ってしまった。あの頃どれだけの人が、アカデミー賞授賞式の舞台に何度も上がっている大監督の今を想像しただろうか?昔の作品の中のご自分をご覧になって、ご本人はどんな気分だっただろうか?それにしてもノミネートされていた助演男優賞のエディー・マーフィーと主演男優賞にノミネートされていたウィル・スミスに関しては大ヒット作品がたくさんあって大スターなのはわかってるし、私は大好きな俳優だし作品も大好きなんだけど、いくら人気のある大スターで作品が大ヒットしても、アカデミー賞には縁のない俳優さんだと思っていた。それが2人揃ってノミネートされて、感心するやらびっくりするやら(笑)すごいな。
2007年02月26日
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2006年度香港作品。監督はジェイコブ・チャン。出演はアンディ・ラウ、アン・ソンギ、ワン・チーウェン、ファン・ビンビン、チェ・シウォン、ウー・チンロー。昨夜娘と2人で、TOHOシネマズPM9:50からのレイトショーで観た。普通は一般のスクリーンとプレミアシートの両方で上映されている事が多いので、プレミアシートを選択すると通常料金より高い入場料になるのだが、昨日はプレミアシートしか上映してなかったので、レイトショーの通常料金で観れた。得した気分。中には専用のロビーがあって、中に入ると飛行機のファーストクラスのようなゆったりとしたシートで横にドリンクなどを置ける小さなテーブルがある。シートはリクライニングになっていてリラックスして観れる。しかし疲れてたり睡眠不足の時などは、それがアダとなり、ついつい睡魔が襲って来る(笑)昨日は連休の最終日のレイトショーで終わるとPM11:05になる為か、観客は10人くらいだった。この作品は日本の酒見賢一さんが原作で、森秀樹さんのコミックの映画化である。日、中、韓、香の合作で、韓国からはアン・ソンギさんとチェ・シウォンさんが出演している。舞台となる時代は紀元前370年頃で、主人公はアンディ・ラウ扮する墨家の革離である。コミック原作者の森秀樹さんは墨家の事を題材にしようと思ってから、リアリティを出す為に実在の墨家の事を調べたが、中国古代と言う昔の事だから、いろいろ調べたが一向にわからなくて苦労したらしい。それにしても日本人が書いた中国古代の時代劇を、香港で映画化すると言うのは、最近アジアの映画人が、ハリウッドに対抗する為には、国毎ではなくてアジアのいろんな国の監督や俳優が集まって映画を製作しなければならないと言っているが、それを象徴しているような気がした。色を抑えた映像が良いと思った。そして冒頭広大な原野に趙の10万の兵士の大群が攻めて来るシーンはさすがにスケールが大きくて、こんなシーンを撮ったらやっぱり中国映画のスケールはすごいと思った。広大な大陸と大勢の人々、このスケール感には適わないと思う。中国は人件費が安いから、大勢のエキストラを雇えると言う利点がある。今はハリウッドではこんなシーンもCGで作ってしまうけどもね。観終わって思ったのは、戦争と言うのはたくさんの建物が壊れ、その国の積み上げられた歴史や文化が失われ、大勢の人が命を落とし、そこに残るのは空しさだけだと言う事だ。戦争が終わってみると、その後には壊れた建物の残骸と亡くなった人々の屍たちがあるだけで、何も残らない。あるのは空しさだけだ。それは中国古代の戦国時代だけではない。どの時代にも何度も懲りずに繰り返され、今も地球上で戦争が絶えない。戦争がなければ、失われなくても良い歴史や文化、そして失われなくても良い多くの命。そうやって得た勝利で一瞬は栄華を誇っても、その栄華は永遠に続くものではない。その国を勝利に導くのが使命の墨家の革離。あらゆる知識と知恵を駆使して国を勝利に導く革離。勝利した国は勝利に酔い、墨家の革離は去る。「墨功」はそんな革離の梁城での仕事ぶりや梁城の人々との関わりを通して、墨家とはどう言うものなのか、その1人の革離の人間性、心の軌跡が描かれている。紀元前370年頃の戦国時代、趙が燕に侵攻しようとして、手始めに両国の間にある梁城を陥落させ足場にしようとするのは当たり前の事だった。梁城は全住民合わせても4000人足らずで、趙の大軍が攻めて来たら対抗できる訳がない。頼りの綱は墨家の救援部隊だった。しかし到着したのは革離1人だった。そこから革離の頭脳と趙の大軍の勝負が展開されて行く。キャッチコピーとは微妙に違う内容だと思う。なぜならキャッチコピーから考えると、革離が1人で趙の10万人を相手に戦ったように思うけれど、そうじゃない。厳密に言うと革離の頭脳+梁城の兵士や住民4000人vs趙の軍隊10万人だ。革離のアンディ・ラウは私的にはちょっと濃い過ぎだけども、男っぽくて頼り甲斐があってかっこいい。他の人が長髪で髷を結ってるのに、革離だけ丸刈りに髭あり。衣装も時々頭に巻くターバンのような物もよく似合ってる。私は香港ではジャッキーは殿堂入りにさせた上で、好きな俳優はジェット・リーとトニー・レオンで、アンディ・ラウの事は「インファナル・アフェア」まではそんなに興味を持ってなかったのだが、「インファナル・アフェア」を観て、とてもいい俳優になったなぁと思った。そして今回の「墨功」を観て、益々その感を強くした。貫禄や風格まで備えていい俳優になったと思った。そしてやはり韓国俳優として参加しているアン・ソンギさんが実に素晴らしい。「シルミド」の人間味のある隊長役は、貫禄と風格、重厚な演技と存在感で圧倒されてしまった。今回は梁城に攻めて来る趙だ。作品の中のポジションは、10万もの大軍を率いて、4000人のちっぽけな梁城を攻めて来る損な役割りだけども、貫禄風格、味わいある重厚な演技は存在感抜群だった。数々の戦績を誇るコウエンチュウのプライドを守る最後のシーンは感動的な程だった。韓国人俳優や映画界の重鎮だ。韓国からもう1人チェ・シウォン。私はこの人は初見だが、ドラマの「春のワルツ」に出演しているらしい。台湾からはウー・チンロー。アイドルグループの一員として活動しながら、映画に出演しているそうだ。中国からはワン・チーウォンとファン・ビンビン。ワン・チーウォンが出て来た時、前に何かで観た記憶があったが思い出せなかった。後で調べたら「北京のヴァイオリン」の先生役で出ていた。中国の男優は独特の雰囲気があるから、すぐにわかる。ファン・ビンビンは初見。年取ってるのか若いのかよくわからない人だなと思った(笑)女性なのに鎧兜で男性に混じって戦う男勝りだが、革離の事を何くれとなく面倒を見る女性だ。2人はいつしか心を寄せ合う。革離の心に女性への愛が生まれた事が、彼にとって1つの転機になったのかもしれない。大切に思い安否を気遣う人ができて、その人を失って初めて気がつく事感じる事。戦争の悲惨さ空しさだっただろう。勝とうが負けようが、一番大切なのは平和なのだと言う事。革離は身に染みてわかったから、その後人々に平和を説いて諸国を回ったのだろう。
2007年02月13日
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2004年イギリス作品。監督はショーナ・オーバック。出演はジェラルド・バトラー、エミリー・モーティン、ジャック・マケルホーン。改めて説明するまでもなく、あの「オペラ座の怪人」のファントム役のジェラルド・バトラーが主演した作品である。女性監督のジョーナ・オーバックの監督デビュー作で、カンヌ国際映画祭など数々の映画祭に出品されて、いろんな賞を授賞した秀作である。この作品のキャッチコピーが「あなたは守りたい人がいますか?」だ。シチュエーションも守たい相手も「夏物語」とは違うが、「夏物語」を観た後だったので、観ていて、人は守りたい相手がいると一生懸命になれたり、強くなれたりするんだなと思った。「Dear・フランキー」では母親は息子を守って引越しを繰り返し、父親に成りすまして文通をしていた。しかし実は守られていたのは自分だったのだと気付くエンディング。たった10歳の子供なのに、全てに気がついていたのに、気がつかない振りをしていた。気がつかないように振舞う事も含めて、自分を守る為に一生懸命な母親の為すがままに従いながら、実はそうする事でそんな母親を守っていたのだ。母親は息子の自分を守ると言う気持ちが支えになって、一生懸命元気に生きて行けると思っていたからだ。息子は知らぬ間にすっかり成長していた。守っていると思っていたのが、実は守られているのは自分だった。この作品を通して、私も娘に支えられていると思った。この作品は子供がメインの地味な作品だが、とても繊細で優しいいかにも女性監督が監督したと思わせる仕上がりの作品である。主人のドメスティック・バイオレンスから逃れる為に、10歳の息子フランキーと年老いた母親を連れ、あちらこちらへ引越しを繰り返しているリジーにエミリー・モーティン、息子フランキーにはジャック・マケルホーン、フランキーを誤魔化す為に契約した偽りの父親ストレンジャーにジェラルド・バトラー。フランキーに扮したジャック・マケルホーンは、時々大人びた表情を見せながら、静かで情感豊かな大人っぽい演技をしていた。ストレンジャー役のジェラルド・バトラーは、私的には「オペラ座の怪人」とこれと、観たのは2作目。うちの娘は「オペラ座の怪人」が大好きで、ファントムに扮したジェラルド・バトラーのファンだ。そして友人はジェラルド・バトラーの大ファンだ。彼の事になったら、目尻を下げっぱなしだ。この「Dear・フランキー」のストレンジャーは、せりふはそんなに多くないが、優しくて朴訥な感じの役だ。彼はこう言う役柄がよく似合うと思う。母親役のエミリー・モーティマーは最近注目株の女優さんらしいが、多分私は初見。主人の影に怯えながら、息子と実母を連れてあちらこちら引越しを繰り返して生きる母親役なんだけども、普通のイメージから考えれば、一番先に頭に浮かぶのは所帯やつれ。しかしエミリー・モーティマーは所帯やつれが適度に感じられるのは、やはり彼女の可愛さと女らしさがブレンドされるからかも。でもだからこそ、綱渡り的な危なっかしい暮らしの痛々しさや必死さや精一杯さが伝わって来る。息子のフランキーもそんな母親を持っているから、年齢より大人の考えができるようになったのかも。このキャストは適材適所でベストだと思った。フランキーの母親のリジーは、主人のドメスティック・バイオレンスでフランキーの耳が聞こえなくなってから、フランキーを守る為と言う一心で家を出て、フランキーと実母を連れて引越しを繰り返した。リジーはフランキーの父親がいない寂しさとその事への疑問を紛らわせる為、外国航路の船の船員をしていて世界中を旅して回っていると言い含めた父親と、私書箱を通して文通させていた。しかし真相は文通の相手は父親ではなく父親に成りすましたリジーだった。実母にいつまで続ける気かと聞かれても、続けられる限り続けるつもりだった。母子家庭の場合いかに母親の自分が父親の役目をするか悩むと聞いた事がある。子供が息子の場合、特に同性の父親の存在は大切だと思う。しかし父親が又フランキーに危害を加えるかもしれないと言う事と、取られてしまうんじゃないかと言う恐れがあったから、絶対に会わせたくなかった。耳が聞こえなくなったのも、父親の乱暴が原因だったから、これ以上何かされたら、フランキーはトラウマになってしまうかもしれない。それくらいドメスティック・バイオレンスは大変な問題である。だから自分が父親に成りすまして、私書箱を通して文通していたのだ。リンジーの苦肉の策だった。そんな3人はスコットランドのグラスゴーに近い港町へ来た。そこの港に架空のつもりで付けた名前と同じ名前の船が寄港する。息子は何も言わないが、会いたいに違いにないし、船が港に着いてるのに会わないのも変だと思ったリジーは、船員と契約して1日だけ父親代わりに、フランキーと遊んで欲しいと頼むつもりだった。その時出会ったのがある男。それがジェラルド・バトラー扮するストレンジャーだった。事情を話すと快く引き受けてくれた。フランキーが帰宅するとストレンジャーが待っていた。ストレンジャーはフランキーに優しくいろんな事教えたり可愛がった。それはまるで本当の父と息子のようだった。海辺で石の選び方や投げ方を教わって、フランキーは初めて父親とスキンシップしているような気がして、ストレンジャーがくれた投げる石を、そっとポケットに入れるのだった。フランキーとストレンジャーが海辺で語らい遊ぶシーンは、息子には父親が必要なんだと誰にでも感じさせてくれる、とても良い雰囲気のシーンだ。そんなストレンジャーに懐いているフランキーを観て、自分だけのものだったフランキーをストレンジャーに取られるような複雑な気分にもなった。しかしそれと同時に、今まで夫から息子を守る事しかなかった凍てついた心に、温もりが蘇ってくるような気がしていた。時間は瞬く間に経って別れの時間になった。しかしまだ一緒にいたいと言うので、もう1日だけ一緒にいる事になった。フランキーとストレンジャーは2人だけの時間を持ったり、リジーも交えて3人で散歩したり、コミュニティセンターへ行ったり、それは本当の親子のようだった。リジーも久しぶりに女としての自分を取り戻しつつあった。ストレンジャーも好意を持っているようだった。コミュニティセンターでフランキーが一肌脱ぐ。ストレンジャーに誘われてダンスをしているリンジーを、影からそっと見守るフランキー。フランキーは耳は聞こえなかったが、母親の事はよく理解していた。今までフランキーの事しか頭に無かった母親が、ストレンジャーの事を意識していて、ストレンジャーもリジーに好感を持っているのは、傍にいてよくわかっていたのだ。影からそっと見守る時のフランキーの目や表情には泣かされた。その時フランキーには、まだ子供なのに成長した優しさがあった。そして別れの時が来た。フランキーは自分で彫った木製の龍の落とし子をスレンジャーにプレゼントした。それは自分の宝箱に入れて大切にしていたものだった。ストレンジャーは去った。その頃リジーは新聞の尋ね人欄で、元主人の姉が自分を探しているの知る。連絡を取ると元主人は入院して闘病の末、余命幾ばくもない状況で、死ぬ前にフランキーに会いたがっていた。リジーは面会に行き、ベッドで横たわる主人と久しぶりに話した。息も絶え絶えに、フランキーに会わせろと言うが断ると、興奮して悪口雑言怒鳴り散らした。やはり余命幾ばくも無かろうと、息絶え絶えであろうと変わっていなかった。絶対に会わせるつもりはなかった。病院の帰り道郵便局に立ち寄って、私書箱の中を見た。すると父親に宛てたフランキーの手紙が入っていた。中には一緒に写した写真が同封されて、手紙には真実が書かれていた。リジーはその手紙を読んで、初めてフランキーに真実を話した。フランキーは全てを受け止めた。フランキーはいつの間にか大きくたくましく成長していた。リジーは今まで自分が息子を守って生きていると思っていたが、守られていたのは自分だったとわかった。とても感動的なシーンだった。リンジーは病院を訪ねて、元主人に息子の写真と竜の落とし子の絵を見せた。元主人はそれを見て間もなく、穏やかに逝った。私書箱で文通していたフランキーの父親は逝った。これからリジーとフランキーは、一方的にお互いを守るのではなくて、お互いを守り支え合って逞しく生きて行くだろう。そのきっかけを作ってくれたのがストレンジャーだった。最後にこのストレンジャーはある人物によってプレゼントされたと種明かし。この人物もこの港町で知り合った人だった。この港町はリジーとフランキーにとって、長い航海の終わりのたどり着いた港だった。漸く2人が下船する港にたどり着いたのだろうと思った。「夏物語」でもそうだったが、一緒にいた時間の長さではなくて、その人とどれだけ心を通わせ濃度の濃い掛け替えのない時間を過ごしたかが重要なのね。穏やかで品のある作品である。休みの昼下がり、ゆったりと静かに味わって欲しいと思う作品だと思う。
2007年02月11日
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2005年度韓国作品。監督はチョ・グンシク。出演はイ・ビョンホン、スエ、オ・ダルス。本日公開なので午後3:05の回を観に行った。最近周囲に大型シネコンが2つできた為か、興行成績ランキング1位の作品でも満席になる事があんまりなくなったけど、念の為午前中にウェッブ・リザーブを入れておいた。20分前に行ったら、他は空席有りなのに、この「夏物語」だけが満席ランプが付いていたので、リザーブしておいて良かったとホッとした。ちなみに明日の午前中は既に予約だけで満席になっている。全国的にはどうなっているかわからないけど、これは韓流メロとは一線を画す作品なので、是非ご覧になって頂きたいと思う。なぜならこの作品の時代背景には政治が影を落としていて、その時代の大きなうねりの中で翻弄され、別れなければならなかった1組のカップルの話だからである。そこには韓流メロお決まり自動車事故や難病のお涙頂戴はない。この作品には時代の大きなうねりに翻弄された、一組のカップルの心の痛みが突き刺さって来る。日本でも戦前や戦時中にはイデオロギーの弾圧があったし、アメリカでもマッカーシー旋風が吹き荒れた頃には厳しい赤狩りがあった。当時はきっとこの「夏物語」に描かれているようなカップルはいたんじゃないかと思う。そんな事を胸に留めて観ると、一際身近な事として心に痛みを感じる。放送作家をしている教え子が、恩師の元大学教授のユン・ソギョンに、テレビの人探しコーナーへの出演依頼をしに来る所から始まる。それでユン・ソギョンが1人の女性を探して欲しいと依頼する。その女性はソギョンが農村ボランティアで行った農村で出会ったソ・ジョンインだった。そこからソギョンの大学生時代の夏休みが紐解かれていく。イ・ビョンホンは最初に登場する時は60代の初老で、ロマンスグレーの長髪姿だ。表情もあまり動かさずに、せりふも動きも少ない。持ち前のバリトンボイスでゆったりと話し、ゆったりと動く。その姿が初老の教授としての威厳や年輪を感じさせた。心の奥にしまいこんだ悲しみや辛さが、ちょっとした表情や横顔や背中に滲み出ている。放送作家と共に観ていて、思わずこの初老の元教授の過去に何があるのだろう?と思ってしまう。それから一転して映画は69年に遡る。ソギョンは大学生だった。団体行動が苦手で学生運動にもお義理の参加で、勝手気ままに行動する扱い難い存在だ。そのソギョンが農村ボランティアに参加する。思えばその時からソギョンの人生は、それまでとは全く違う方向へ急転していたのだろうと思う。農村ボランティアで行ったスネリ村で出会ったのがジョンインと言う女性だった。大学生時代のソギョンは気まぐれでボランティアにも参加したから、自分勝手に行動していた。だけどビョンホンssi扮するソギョンは、ムラのある性格で扱い難い存在でありながらも、表情や行動がとても人間っぽいと言うか人間臭いと言うか、そう言う部分がソギョンと言う人物の奥行きを増しさせ、魅力的で実在感たっぷりにさせている。横柄で感じが悪かったり、生意気だったり、へタレだったり、おっちょこちょいだったり、愛嬌者だったり、思いやりがあってやさしかったり、男っぽくて頼り甲斐があったり、少年っぽかったり、それはソギョンと言う1人若者だ。それは最早、ユン・ソギョンと言う人がそこにいるような気がした。それくらい演技していると言うのではなく、ソギョンが息をして話して動いている、そんな気がしていた。アドリブを要求すると言うチョ・グンシク監督の演出スタイルの為に、いつも以上にソギョンに成り切り、ソギョンとして生きたからだと思う。演技を上手いと感じると言うより以上に、もうソギョンその人なのだ。実年齢が36歳だから、考えるまでもなく20代の大学生を演じるには不自然さがあるんじゃないかと思うけれど、観ていて何も感じなかった。36歳とか20代とか感じる前に、既にソギョンその人なのだ。年齢の事など、どこかにすっ飛んでしまった。観ていて「甘い人生」のソヌを演じていた同じ人なの???と思ってしまう。まさしく千の顔を持つ俳優だと称された程の人だ。ジョンイン役のスエさんも素晴らしい。もうそこに存在しているだけで、ソギョンが一生忘れる事ができずに、独身を貫いた人だと納得させられる。ビョンホンssiがシナリオを読んでスエさんの事を思い浮かび、他の女優さんが演じるのは考えられないと言っただけの事はある。スエさんがジョンインを演じたからこそ、ソギョンの心が納得できる。2人があの年の夏、スネリ村で出会う運命にあったのなら、ソギョンがもう少し世の中の動きや政治に知識を持っていれば、ソウルへは連れて行かずに、ジョンインと2人でどこか違う村へ行ったんじゃないかと思った。ソギョンがもう少しきちんと世の中の状況判断をできていれば、あの後の2人の運命は変わっていたんじゃないかと思う。あの取調べ室で発したソギョンの一言。そしてそれを聞いたジョンインの表情の変化。賢いジョンインだから、それで全てを察したのだと思う。駅のシーンではもうジョンインは決心していただろう。「今度会った時には、この手を離さないでね」号泣だった。ソギョンは取調べ室のあの自分の一言に、悔いても悔やみきれない自責の念を感じていたのだろう。自分は嘘をついた。そしてどうしてずっと傍にいて、たった1人の愛する女性を守れなかったのだろうと言う自責の念。その人はいつまでも大切な人だった。その思いを引き摺り続けていた。ジョンインはいつも愛するソギョンが心の中に住んでいた。例え一緒にいられなくても、心の中の愛するソギョンがいれば、ソギョンへの愛があれば、幸せに生きて行けた。例え一緒にいられなくても笑顔でいられる。なんと健気。愛って女を強くさせるのだろうか。愛する女を守る為に一緒にいる事を選ぼうとした男。そしてそんな愛する男を守る為別離を選んだ女。もう2度と非人間的な時代になってはならないね。【政治的時代背景の説明】時は69年でアメリカのアポロ11号が月面着陸して、アームストロング船長が月面を歩いた年で、日本では団塊の世代と言われる人達がちょうど大学生の頃で、日本でもベトナム戦争反対や学費値上げ反対などの大学紛争が起こって、学生運動が日本全国至る所で展開していた頃。韓国でも運動の主旨や目的は韓国特有のものであったが、学生運動が起こっていた。時の大統領がパク・チョンヒ大統領だ。この大統領は61年に軍事クーデターを起こして政権を掌握して、63年に軍を退役して韓国の第5代大統領になった人だ。当時憲法で大統領職の3選を禁じていたが、それまでの成果を理由に、3選できるように改憲しようとしていた。パク・チョンヒ大統領は厳しい圧制だったので、自由を求めた大学生などが猛烈な反対運動を起こしていた。主役のソギョンの大学でも3選反対の学生運動をしていた(冒頭に出て来る学内の集会や後半学内の大騒動がそれ)。主役のソギョンが夏休みに参加する農村ボランティアは、農村で農業を手伝いながら農民を啓蒙して行き、農村から変えて行こうと言う主旨で80年代まで行われていた。パク・チョンヒ大統領の功績・「漢江の奇跡」と呼ばれる飛躍的な経済成長・農村の近代化その一方で政治批判の禁止、国民の政治参加や言論の自由を抑圧した。「隠せば罰を受け、申告すれば賞金」と言うスローガンの「国家保安法」があった。共産主義者と見なされると、逮捕取り締まりの対象になって、厳しく処罰されていた。ジョンインが村民から白い目で見られ阻害されていたのは、この「国家保安法」の為で、父親が北朝鮮に渡ってしまったので、「共産主義者の娘」と見なされていたからだ。
2007年01月27日
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2006年度アメリカ作品。監督はソフィア・コッポラ。出演はキルスティン・ダンスト。昨日所用を済ませてcinema2に行くと、スタート時間の6:00までに15分しかなくて、これじゃ食事する時間がないと、8:45の最終に遅らせた。食事をゆっくりと済ませてから、小一時間あるけどロビーのイスに座って待っていた。今日は娘同伴。娘も私と同じでマリー・アントワネットに興味があると言うよりも、ソフィア・コッポラの監督で、主演がキルスティン・ダンストで、BGMがロック系で斬新と言う3点に惹かれたようだ。劇場へ入ると、(日)最終だと言うのに3/4の入りだから、かなり入っている方じゃないかと思う。マリー・アントワネットとは改めて書くまでもなく、オーストリア皇女として生まれ、その後14歳で同盟国のフランス王太子ルイ・オーギュストと政略結婚させられて、フランス革命の時に、コンコルド広場で断頭台の露となった王妃だ。私は昔ベルサイユ宮殿には2回行った事があるが、そのベルサイユ宮殿でロケを許されて撮影している。ヨーロッパの歴史的建造物を観に行って「すごいよね」と思うのは、日本のように歴史的建造物を台無しにするように道路をアスファルトにしたり、建造物をコンクリートにしてしまったりと言う事がない事だ。車の轍、電線、妙な土産物屋など、当時の歴史に邪魔になるようなものはない。行くと同時にタイムスリップするような感覚になる。庭も宮殿内も、そうそうこんな感じだったなと思う事しきり。とても懐かしかった。実際に行った時、寝室のベッドの足元に柵があって、なんの為の柵なのかと不思議だった。この映画を観て、柵の向こう側に人がたくさんいるんだとわかった。就寝する時にルイ・オーギュストとマリー・アントワネットに部下たちが挨拶し終わると、柵に沿ってカーテンが引かれるのを観て、こんな風にする為の仕切りの柵だったんだと納得が行ったけど、こんなんじゃ眠れないなと思った。鏡の間や長い廊下なども作品の中に出て来る。越し入れの時には国境で一軒の建物の中に入り、その中でオーストリアの物は一切捨てて素っ裸になって、頭の先から足の爪の先までフランスの物にチェンジすると言う決まり事があるのを初めて知った。モップと言うペットのパグともお別れ。母親のマリア・テレジアと別れる時よりも、ペットのモップと別れる方が悲しそうでおかしかった。王家の娘として生まれたら、いずれ政略結婚させられる運命にあると達観しているように思えた。馬車の中で侍女に結婚する相手だと、肖像画を見せる。その肖像画の貧粗な事(笑)現地のガイドさんに聞いたり本で読んで知った事だが、このルイ・オーギュスト後のルイ16世は鍵にしか興味がなくて、いつも鍵をいじくり回しているような人だったと言う。その上小男で男性的な魅力など全くない人。それでもマリー・アントワネットは別にがっかりしたような気配もない。割り切っているのかと思ったけど、とても不思議だった。だからフェルゼンと浮気をしたり、贅沢三昧に明け暮れたのねと、半ば池田理代子作「ベルサイユのバラ」と混同させた理解度で納得したりして(笑)こう言う欲求不満解消に食べ物やブランド品の買いあさりをすると言うのは、古今東西いつも変わらない物なんだろうと思った。今でも珍しい事ではないから。キルスティン・ダンストの目のきつさや表情が、高慢な王妃のイメージにぴったりだとは思うが、キルスティン・ダンストはどこをどうとってもアメリカの女の子と言う感じがして、どうしてもヨーロッパの高貴な女性とは思えない。しかもせりふが英語と言うのも、その印象を強くした。しっくり来ないのだ。そしてまるでごぼうのように最初から最後まで一本調子に、最初から最後までぼんやりと描かれていて、観ていて全てがピンと来なかった。でも逆に考えると、起きて寝るまでに間、判で押したようにルイ16世と並んで、ただ黙々と朝食を食べ、洋服や靴を買い、周囲の社交界の人々を招いて夜会を開いたり、夫妻で仮面舞踏会やオペラに出かけたり、そんな繰り返しの単調な刺激のない日々なんだと言う表現なのかなとも思える。贅沢三昧の生活だが、いつも誰かがいて誰かに見られていて自由はない。晩餐会や夜会の話題は社交界の人々の噂話。主人と別に仲が悪いわけではないが、高揚するような楽しい話をするわけでもないし、2人で楽しむ共通の趣味もない。長い間ルイ16世が原因で子供に恵まれず、弟の方に先に男児が誕生してしまった事で、お妃としての義務を果たしていないと、白い目で見られ陰口を叩かれ、悔しくて1人で泣いた日々。でも漸くルイ16世もその気になって(笑)、ちゃんと一男一女をもうけ、お妃としての務めは果たした。そんなこんなでルイ16世に欲求不満でフェルゼンに夢中になったのかと思ったが、作品の中ではルイ16世とそんなに上手く行ってない様子はなさげ。ただ刺激は感じてはなさそうだ(笑)だからと言ってフェルゼンに夢中かと言うと、そんなに夢中な感じも伝わって来ない。ちゃんと洋服、靴、ヘアメイク、お菓子、遊興費、浮気など、お金を使いまくりのシーンは出て来るんだけども。その間にフランスは経済的に破綻して革命が起きるが、民衆が激怒しているシーンも、観ていてそこまでの大騒動にも見えず、宮殿内で怯えている状況もあんまり伝わって来ない。全てがぼんやりと低体温な感じだった。それから母マリア・テレジアは自分がマリー・アントワネットを政略結婚させてたくせに、自分がマリー・アントワネットに負けるのが我慢できなくて、娘に対するライバル心で贅を尽くしたシェンブルーン宮殿を作ったのは有名だが、この作品の中では母と娘は上手くいっているように思えた。最後もマリー・アントワネットは一晩にして真っ白に白髪になったと言われているが、そんなシーンもなかったけど、そこまでの緊迫感もなかった。折角ベルサイユ宮殿でロケしたのに、残念な作品だったと思う。お父さんのルイ15世が天然痘で亡くなった時、思わずチャングムがフランスにいたら治せたのになんて、バカな事が思い浮かんだ(笑)
2007年01月22日
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2006年度韓国作品。監督はチョ・グンシク。出演はイ・ビョンホン、スエ、オ・ダルス。来週(土)に一般公開を控えて、昨日PM6:30から東京厚生年金会館大ホールであった、来日中のイ・ビョンホンssi、スエさん、チョ・グンシク監督と、日本版エンディングテーマの藤井フミヤさんの舞台挨拶付きジャパンプレミアを観に行った。キャパ2000の会場のチケットはそう易々と取れるものではなかったが、幸運な事にチケットを入手して行く事ができた。PM6:30に開演。インタビューとフミヤさんの歌の披露があって、最後にフォトセッションがあって終わり。かれこれ30分以上あって、舞台挨拶としては長いんじゃないかと思った。休憩を挟みいよいよ上映。まだ一般公開前なので、全くネタバレなしにレビューを書くのは難しい。一言で言えば、とても情感溢れる心の熱くなるラブストーリーだった。難病や交通事故がある所謂韓流ラブストーリーではない。普通の若者が出会い、極自然に愛を育み結ばれようとするが・・・。この「・・・」の部分が、昔はどこの国でもあったと思う。自由に考える事を許されなかった時代はどこの国にもあるからだ。普通に男と女が愛し合い、一緒にいたい結ばれたいと思うのは当たり前の事。しかし時代の大きなうねりの中では許されなかったのだ。それがとてもやるせなくて切なくて。そして大きな力の前で、若さ故にどうする事もできなかった未熟さ無力さが悲しい。イ・ビョンホンssiが現在は60歳の大学教授の主人公のソギョン。スエさんがソギョンが農村ボランティアで行く片田舎の村娘ジョンイン。ビョンホンssiは現在36歳で、20代の大学生役は年齢的にかなり開きがあるので、演技的には心配ないが、観ていて年齢的なギャップを少しでも感じると作品の中に入って行けないと言う危惧が、心の片隅にあったのは確か。逆に年取ってからの60代は、ビョンホンssiの演技力に老けメイクをしたら大丈夫だろうと心配はしていなかった。しかし始まってすぐにそんな危惧は消し飛んでしまった。作品の中のビョンホンssiはソギョンとして生き生きと存在していた。ちょっとした表情や動きのコミカルな部分が、一層人間ソギョンにリアリティを出していた。本来人間は完全無欠ではない。間が抜けていたり愚かだったりする。それが未熟な若い頃なら尚更で、ソギョンの行動に、どうしようもなくおかしみがある。そんなソギョンに扮したビョンホンssiは、「甘い人生」の時より更に肩の力が抜けて、まるでそう言う人として実在しているんじゃないかと思うくらい自然で、上手さを感じさせない上手さがあった。36歳の俳優が扮して演じているとは全く思えなかった。観ていると、人間ってこんな行動取ったり表情したりするよねって思う。それがおかしいの。一転60代のソギョンの時は老成して、自責の念、悔恨、悲しさ、辛さの全てを封じ込め、観客に少ない言葉や表情や動きの中に、ジンワリとあの後から現在までのソギョンを感じさせてくれる。横顔や背中に強く伝わって来るものがあった。ジョンイン役のスエさんも最高だった。ソギョンが大学生の時に出会い思い続ける女性だから、作品の中に存在しているだけで、観客に納得させるだけの人でなくてはならない。ジョンイン役のキャスティング如何で、「夏物語」の成否が決まると言っても過言ではないと思う。ビョンホンssiがシナリオを読んで、すぐにジョンイン役はスエさんを思い浮かべて推薦したと言うのは有名な話で、作品を観れば誰でも納得すると思う。ピュアで健気で芯が強い、ジョンインと言う女性そのものだった。こんなにも嵌り役にぴったりの年齢に出会えるのは、本当に俳優として幸運だと思う。まだ映画出演3本目の若手の女優さんだが、感性的で情感豊かで素晴らしい演技力の持ち主だと思う。演技のタイプがビョンホンssiと似ていて、2人が合わさることで作り出す世界が、1+1が3にも4にもなっている。2人は本当に相性が良い。この作品は武者小路実篤の言葉ではないが、「面白うてやがて悲しき」そんな感じ。チョ・グンシク監督は台本通りの演技だとOKせず、アドリブを要求するのだそうだ。主役の2人も慣れるのに大変だったらしい。ビョンホンssiがアドリブと言うのは、完璧に役に成り切っていないと良い効果が出ないと話していたが、その通りだと思う。「夏物語」ではその方法がいい効果を生んで、作品全体に活気が出て生き生きとさせたと思う。私は中盤から最後まで泣きっぱなしだった。最後は号泣だった。人によっては中盤から後半はもっとエピソードを取り入れて、映画の中で説明された方が良かったと思うかもしれない。だけど私は観客に想像する余地が残されている作品が大好きなので、この演出や編集で良かった。説明部分が多い作品は、この作品はこのように観て、このように感動しろと強要されているようで、観ていて居心地が悪い。中盤から後半も個人的にはこれで良いと思う。大好きな作品に出会えて良かった。今もこのレビューを書きながら涙が出て来て困った。一般公開されたら、劇場へ何度も通うだろうと思う。
2007年01月18日
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1997年度ベルギー・フランス・イギリス作品。監督はアラン・ブルリネール。出演はジョルジュ・デュ・フレネ、ジャン=フィリップ・エコフェ。フランス映画は昔、主に高校生の頃、いっぱしに映画通ぶって映画はやっぱりヨーロッパ映画じゃなければとか言いながら、精一杯肩いからせて背伸びして観ていたものだ。しかし今はフランス映画を気楽に観ると言う事が、中々できなくなっている。なぜならメジャーでの上映があんまりないからだ。それはとても悲しい事だ。いい映画や面白い映画もあるのに、残念だ。久しぶりにレンタルDVDで、ベルギー・フランス・イギリス合作の「僕のバラ色の人生」を観た。ある一家の三男坊ルドヴィックがいわゆる性同一性障害だった為、それにまつわり家庭内、学校、近隣で起こる悲喜劇を描いている。ルドヴィックの一家は父親が勤務する会社のボスが住む一角に引っ越して来た、この日は折りしも近隣の人々を招いて、新しく引っ越して来たご挨拶のホームパーティが開かれていた。一人一人子供を紹介して行くが、一人いなかった。そのルドヴィックは母親のドレッサーで口紅を塗り、姉のワンピースを着て、母親のぶかぶかのハイヒールを履いて、遅れて皆の前に出て来た。両親、姉兄もびっくりしていたが、招待客達も驚き戸惑った。父親は三男はふざけて驚かすのが好きだと取り繕って、母親に早く着替えろとせき立てる。それが全ての発端だった。ルドヴィックは男の子にしてはやさしい顔立ちで、長いマッシュルームカットがよく似合った。ルドヴィックはテレビでやっている妖精の番組を観るのが大好きで、自分もその妖精の世界に入って遊んでいる空想をするのが好きだった。そんな彼は今は男の子だけど、大きくなったら女になると思い込んでいた。ルドヴィックは自分が他の人と違っている事を認識するには小さすぎた。そしてその人と違う部分が、他の人には理解し難い感覚なんだと言う事も理解するには小さすぎた。自分が人と違うとも思ってないし、自分の行動が人を困惑させているとも自覚がないのだから、カウンセリングをしても改善して行かない。ルドヴィックは他人に理解できるように説明するには小さすぎた。やがて学校の学芸会で騒動を起こして転校せざるを得なくなったり、スカートを履いて近所の子の誕生日に行った事で、近所から嫌がらせに遭うようになったりして、ルドヴィックにも自分のせいで皆が辛い目に遭ってるとわかるようになる。それでルドヴィックは我慢して髪を短くカットして、遠い学校にも通う。しかし父親はリストラになって、遠い新しい就職口の為に引っ越す事になった。引っ越した町では騒ぎを起こさないように、近隣とも付き合わずに静かに暮らしていた。でもそれは問題が解決したわけではなくて、ルドヴィックが我慢する事で平穏が保たれているだけだ。それはわかっているのだが、両親は我慢させる以外には方法を見出せずにいたのだ。両親はルドヴィックの他の男の子とは違う事の現実を受け入れる事ができない。両親にとって受け入れるには厳しすぎたのだ。でも世の中にはいろんな人がいる。人間には個体差があるし、ルドヴィックの性同一性障害も、生まれ持った個性の1つだと受け入れる以外にはないのだろうと思う。受け入れる事で随分楽になると思う。ルドヴィックのようにやさしい顔立ちで、長めのマッシュルームカットが似合い、外でサッカーをしたり車のおもちゃで遊ぶより、ピンクのワンピースやスカートを履いて、かわいいお人形で遊ぶ方が好きな男の子もいる。逆に大柄で髪もボーイッシュに短くカットした方が似合い、ジーンズにTシャツで外でスポーツをする方が好きな女の子もいる。親は自分の考えを押し付けるんじゃなくて、子供の状況を受け入れる事で、自分もその子や家族も楽になるし幸せになれると思う。特に性同一性障害は先天的に生まれ持っているものだ。そこを理解して受け入れてやる事だと思う。人と違う事に拒否感や恐怖心を持つのは仕方がない事だ。人は異質な存在を受け入れるのは難しい。ルドヴィックはまだ小さいから、男の子として生まれた自分が、女の子の格好をして人形で遊びたいとか男の子と結婚したいとか思う事が特別な事と認識していない。しかし大きくなるにつれ、それを自覚した時悩み苦しむと思う。周りからも白い目で見られたり、中傷されたりして辛い思いをする事もあるだろう。そんな時親や兄弟だけは理解して支えになってやれるようにしないと。それは性同一性障害だけではなくて、他の事でもそうだと思う。現実を、本当の姿を受け入れる。自分と違う人、そして人と違う自分、そんな存在を受け入れる。受け入れる事ができたら、幸せになれる。
2007年01月10日
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2005年度アメリカ作品。監督はゲーリー・デヴィッド・ゴールドバーグ。出演はダイアン・レイン、ジョージ・キューザック、クリストファー・プラマー。年末にネットレンタルで借りていたが、所要に忙殺され観れずにいた年が明けて、皆が出払った後に漸く観たそれでも人が来たり、電話がかかって来たり、細切れでの鑑賞となり中々集中できなかった。だから家でDVDを観るのはフラストレーションを感じる。だから本当は皆が寝静まった夜中の鑑賞が一番良いのだけど、今度は睡魔との闘いで、気がついたら寝ちゃってて、デッキは付けっぱなしになってて、外は明るくなっていた状態になってる事もありやっぱり映画は劇場で観たいものだ。と言うわけで、「理想の恋人com」を観た。この作品を選んだのは、ただ単純に大好きなダイアン・レインとジョン・キューザックが出ているからと言う理由だったダイアン・レインは大人の女性を等身大で、しかも平仮名の「お・ん・な」を表現できるハリウッド女優だと思っている。もうちょっと年代が上がると、スーザン・サランドンと言う女優さんがいるが、この人も等身大の「お・ん・な」が表現できる大好きな女優さんだ。ハリウッド女優で平仮名の「お・ん・な」が表現できる人って少ないと思う。もっとも日本にもそんなに多くないと思うけれど。この人ならきっと等身大でリアリティのある、バツイチ女の心を表現してくれるだろうと期待していた。相手役のジョン・キューザックも好きだこの人もリアリティのある男性を嫌味なく演じてくれるだろう思った。そして期待通りだったダイアンが扮しているのは、8ヶ月前に離婚した後、人生と世の中絶望し極度の男性不信に陥ってて心を閉ざしたまま、幼稚園の先生をしているサラ・ノーランと言う女性だ。つまり精神的な引き篭もり状態なのだ他人、特に男にかかわって、再び傷つくのは真っ平と、スーパーの肉屋がお勧め肉のアドバイスをするのさえウザくて仕方がない。そんなサラを心配した姉妹が、冷蔵庫の中を補充しがてら様子を見に来て、インターネットの出会い系サイトに登録するように盛んに勧める。それすらもウザイ今のサラがそんな事するわけがない。日本では出会い系サイトのいろんな事件が度々報道されているから、そんな事をするのは危険だと言うイメージが一般的だと思うが、アメリカは違うらしい姉妹が勧めるし、クリストファー・プラマーが扮するサラ達の母親が亡くなってから独身を貫いている父親まで、あろう事かあるサイトに登録していろんな女性とデートを繰り返しているぐらいだ皆気楽にアバンチュール(古!)を楽しんでるのか、それくらい皆寂しくて異性との出会いを切望しているのか、どっちかわからないけどもね。それで姉妹が勝手にサラを出会い系サイトに登録してしまった。プロフィールは過大に脚色して、若い頃写した飛び切りきれいに写った写真を、顔だけ当てはめてアップしたこれで様々な男と、いわゆるお見合いする日々が始まった。自分で登録したわけでもないから、別に全く期待していたわかではないが、ろくな男はいなかったただ1人気になる男がいたそれが彼女に捨てられた傷が未だに癒えない、木製のボートを製作販売していている、ジョン・キューザック扮するジェイクだ。ジェイクはグラスファイバー製のボートが主流になって木製のボートの需要がないのに、商売にならない木製のボートに拘って作る続けているような、何をするにしても不器用な男だデートをしても、女性の扱いが上手いわけでもなく、話が面白いわけでもないが、いつも本音で生きているのがわかるから、サラはジェイクには不信感を持たなかった2人はサラの家でベッドイン・・しよとしたが、サラの家にコンドームなんかあるわけがないそれで中断して、ドラッグストアに買いに行くそこが中年入り口くらいの年齢なのね一気呵成に遂げちゃう勢いはなくて、低体温でって感じどこか冷めてると言うか、そんな感じなのと、久しぶりな事だからドタバタとと言う感じが、コミカルにでも2人の状況がよく伝わって来る場面だ以前「恋愛適齢期」と言う、ジャック・ニコルソンとダイアン・キートンのラブコメがあったけど、これのベッドシーンも事前に血圧を測って、正常かどうか確認してから、ゴーそう言う描写でそれとなく、観客に年齢を感じさせる演出が、あざとなくなくて、それでいてコミカルで面白いコンドームを何軒も探し回っている間に、その気が萎えたそう言ったぎこちないリズムでありながら惹かれあって行く2人だがサラにはもう1人気になる男性がいた。その男はサラが勤めている幼稚園の園児の父親だった。別居中の妻がいて離婚寸前で、幼稚園の送り迎えや犬の散歩とかで親しくなって行き、密かに惹かれていたしかしその彼が同僚の先生とデート中の所を目撃したその彼はとんだ浮気者だったサラはジェイクとの関係を大切にしようと思ったしかしジェイクとの間も、誤解が原因で一波乱最後はお決まりのパターンバツイチの女性と女に捨てられた不器用な男の、若くはない男女の恋物語は、主人公の周囲の人間にはじれったくて、本人達のそのおずおずとしたドタバタ加減が、観客には感情移入しやすいし、どこかコミカルで面白い。年頭に観るのは、明るいラブコメもいいんじゃないかと思ったそれもただ明るいだけのラブコメではなくて、生きて行く事で経験する喜怒哀楽をある程度知った年の男女が醸し出す滑稽さや臆病から来る不器用さ、そしてかわいさ、そんなものがとても微笑ましくてクスッと笑わせるのが良い
2007年01月08日
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あけましておめでとうございます。旧年中は大変お世話になりました。本年もどうかよろしくお願いします。今年もいろいろな映画に出会えますように、お祈りしております。
2007年01月01日
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今年一年間大変お世話になりました。今年は今までで一番レビューの更新が少なかった年でした。来年はもっとたくさん大好きな映画を観てレビューを綴って行きたいと思います。皆様にとって来年一年が幸せな年になりますように、お祈りしております。来年もどうかよろしくお願いします。今年一年観た映画のベスト3を選んでみました。改めて選ぼうとすると難しいです。洋画1位、「SPIRIT」私の大好きなジェット・リーが主演した映画だ。敬虔な仏教徒の彼が、暴力では何も解決しないのだと言うメッセージを込めて制作した作品で、寸止めで、相手に絶対に致命傷を負わせない。そして仕返しをしようとする弟子達を止める。ジェット・リーはこの世界を憂いて、この映画にメッセージを込めたのだと思った。マーシャルアーツのアクション映画と言うと、ただ暴力的な映画だと思うかもしれないが、ジェット・リーのソフィスティケートされた武術は、哲学的でさえある。今年観た洋画と言うか海外の作品の中では、文句なくベスト1に選びたい。 2位、ブロークバックマウンテン 3位、ナイロビの蜂邦画 1位、「嫌われ松子の一生」この作品は観ている最中に、もう「傑作だ!」と思った。本来ミュージカルは苦手な私が、ミュージカル仕立ての極彩色の独特の世界に魅せられてしまった。松子の生涯が悲惨を絵に描いたようで、様々な事が全てマイナスに作用してどん底まで落ちる。それでも松子自身は、一瞬、束の間は、世界一幸せだと天にも昇る気持ちになる。中谷美紀さんが美しくピュアで、でもとても憐れで愚かしい松子を熱演している。演出、脚本、映像全てが素晴らしい。 2位、「DEATH NOTE」 3位、「フラガール」
2006年12月31日
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2006年度日本作品。監督は林徹。出演は仲間由紀恵、西島秀俊、井川遥、及川光博、杉田かおる。今年は楽をしようと決めて、さっと大掃除をすませて、後は30日と31日の買出しのみにした昨日は家族が皆夜遅くなると言って出払い、1人になった午後、気分転換に映画を観に行こうと思い立った年末に映画を観るなんて、人生始まって以来の事だ一家の主婦である私が、今年は楽をすると決めたのだから、誰にも臆せず堂々としてれば良いのだけど、どこか後ろめたい気分がするシネマシティのPM2:00の回で、中は若いカップルや友達連れ、中年から高齢夫婦、私みたいに1人の男女、様々な層の人々が来ていて、3/4くらい埋まっていた。「大奥」と言えば、重々しい低音の女性のナレーションと御鈴廊下を思い出す。小さい頃母が観ていたのを、訳もわからず観ていたのが記憶に残る一番最初の「大奥」だ。誰が出ていたのかさっぱり覚えてない。その後これは「大奥」と言うタイトルじゃなかったけど、佐久間良子さんが主演した「お万の方」も、かすかに記憶に残る。確かこの「お万の方」はフジテレビでは瀬戸朝香さんが扮していたと思う。大河では「春日局」は大原麗子さん、フジテレビでは松下由樹さん。昔から様々な女優さんによって演じられて来たが、何度ドラマ化されても、「今更大奥?」と思いつつ、なぜか又観てしまう「大奥」。去年NHKで放送されていた韓国のドラマ「チャングムの癒し」は、やはり時の権力者の王様に仕える女だけの世界であるスラッカンの宮廷料理人として働く女官が前半、後半は王様に仕える医女の話で、女だけの世界の権力争いや嫉妬などが描かれて、「大奥」のような話で面白かった。連ドラがヒットして、その延長上で制作された映画版なので、言わば「踊る大捜査線」と同じだ。ドラマの時の監督や脚本家がそのまま担当し、出演者がそのまま別の役で登場していて、作品としてはほとんど期待してなかった。それでもなぜ観たかと言うと、「大奥」だから。題材は何度も舞台化されている「絵島生島」である。映画を観るまでは詳しくは知らなかったが、大奥に仕える絵島が歌舞伎役者の生島と禁断の恋をするとだけは知っていた。ほとんど期待していなかった為か、予想外に丁寧に繊細に描かれていて感心した。どの俳優も役柄にぴったり嵌っていた。特に高島礼子さんと杉田かおるさんは絶品だったと思う。もう怖い!怖い!杉田かおるさんの目は凄みがあった。宮路と言うもう若くはない、とっくに恋や愛は別の世界の縁のないものとして生きているはずの大奥の女中の役だ。高島礼子さん扮する天英院の謀略の実行犯。使命を受けて実行するのだが、その間に天英院、絵島の恋に嫉妬する女の業は見事だった。これは人生の酸いも甘いも、全て知り尽くした杉田さんだからこそできたと思う。杉田さんをキャスティングしたプロデューサーの敏腕には感服だ。この映画の成功は、絵島役の仲間由紀恵さんの功績はもちろんだけど、杉田さんの功績に負う所大だ。こんなある意味古臭くて(時代劇なんだから古臭くて当然だけど)単純な構図の権力争いは、悪役のキャラと演技が突出していないと盛り上がらない。悪役が生きてこそ、いじめられ役の主役が生きて、観客は感情移入できる。それから高島礼子さんの髪をおろして仏門に入っているはずの天英院のはずなのに、凄まじい’おんな’の性と業、そして唯一の支えにしがみ付こうとする憐れさは、高島さんだからこそ安心して観られる演技だった。本当に杉田さんと高島さんはすごい!蓮浄院役の松下さん、滝川役の浅野さんも加わって、悪役天英院チームは迫力と存在感はぴか一。だからこそいじめられる対象の月光院役の井川遥さん、絵島役の仲間由紀恵さん、小萩役の麻生祐未さん、藤川役の中山忍さんの月光院チームの儚げな美しさが引き立っている。絵島は月光院の信任厚く若くして大奥総取締役に登りつめたから、知性があって美しい仲間由紀恵さんはぴったりだと思った。隙あらば蹴落とそうとする海千山千の食えない年上の女ばかりに囲まれながら、一生懸命月光院を支えながら肩をいからせて、大奥を取り仕切る絵島。体中に見えない鎧兜で防備しているのがよく伝わって来た仲間さんの絵島。その絵島を指示に従って誘惑するはずが、いつの間にかマジになってしまう歌舞伎役者の生島役の西島さんは、テレビの家光役の時はそんなに良いとは思えなかったのだが、この生島は儚げで怪しい色気があって、とても良かった。今のように男女が愛する事に対して、ほとんどハードルがない現代より、簡単に会う事もできない、まして言葉を交わす事など問題外の江戸時代のように枷がある方が、ずっと深く純粋に密度濃く相手を愛せたんじゃないかと思った。最後の絵島の、「命に替えても守りたいものが、そこにあります」と言う言葉は、観ていて切ないけど、凛とした強さを感じさせて説得力があった。このシーンの仲間由紀恵さん、凛とした美しさをたたえていて圧巻だった。あまりにも自信に満ちて凛としているので、胸がジーンとして泣きそうになった。
2006年12月30日
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2005年度アメリカ作品。監督はカーティス・ハンソン。出演はキャメロン・ディアス、トニ・コレット、シャーリー・マクレーン。この作品は公開当初から観たかった作品で、劇場で観損ねたのでレンタルで漸く観れてうれしかった監督は私の大大大好きな「LAコンフィデンシャル」のカーティス・ハンソンだその上にキャメロン・ディアス、トニ・コレット、シャーリー・マクレーンとくれば、絶対に期待いっぱいになるそして昨日半分観て、今日半分観た。DVDだとどうしても、私の最大の楽しみの映画を観ると言う至福の時に、日常の雑事が乱入して来て、途切れ途切れの鑑賞になってしまうやはり劇場で2時間強の時間を、日常の雑事から逃れて、どっぷり作品の世界に浸って鑑賞したいものだ。この作品に出て来る難読症と言う障害は、日本では聞き慣れない障害だが、欧米にはよくある障害の1つで、この障害を克服して俳優として活躍している人には、トム・クルーズ、オーランド・ブルーム、キアヌ・リーブスなどがいるそうだ。簡単に感想を言うと、こんな作品が大好きだと言う事だ最近ハリウッド映画は大味で面白くないと言う人がいるが、そんな事はないと思う。演技の上手い人もいるし、繊細に丁寧に作る監督もいる。主演のキャメロン・ディアスが女優として演技開眼と言うか、かなりの成長を遂げていると思う。演技派のトニ・コレットとシャーリー・マクレーンと、堂々と四つに組んで演技をしている難読症と言う障害があるマギーと言う30歳間近の女性の役で、その難読症の為に勉強もできず、仕事についても、ことごとく長続きしない難読症の障害を持つと言う劣等感が底にあって、その劣等感が膨れ上がって自分に自信が持てず、何をしても中途半端他人より優れているのは外見だけ、特にグラマラスな肢体だけは人並み以上で、お金に困るとそれで稼ぐか姉のお金を失敬と言う生活送っている一方姉のローズは逆に外見にコンプレックスを持っていて、子供の頃から勉強一途で、今は弁護士として成功している日々のストレスの発散は履く事のない高価な靴を買って、クローゼットの奥にしまい込む事だ。その靴達は持ち主のローズには履かれる事はないただ高価でスタイリッシュなブランド物の靴を買う事で終わる外見にコンプレックスのあるローズは、多分洒落た流行の服を着こなし、お洒落な靴を履くのが似合う女性に憧れるから、そんな靴を買うんだけど、でも実際に履いてみる事はしないそれは外見に対するコンプレックスに対峙して克服できない、いえ克服しようとしないからだトニ・コレットは相変わらず実在感のある演技を披露している女性の強がりや脆さを繊細に演じている。それは妹マギーも同じ。姉は外見、妹は内面。そしてそれを象徴しているのが靴。高価な靴を買っても決して履かずに締まってしまうのが姉で、姉の靴を片っ端から履き散らし汚したり壊したりするのが妹。それはまるで合わせ鏡のようだ。合わせ鏡だから2枚がツインであって、どちらが欠けても成り立たない。姉はいくつになっても中途半端で自堕落な妹に迷惑をかけられて、自分の世界からいなくなって欲しいと思いながらも、妹がいないと自分を支えている基盤が崩れて立っていられなくなる妹も姉に頼る。多分お互いにお互いを通してだけでしか、自分の存在を確認できないからだろう。だから合わせ鏡。そんな2人がある事で離れなくてはならなくなる。姉が妹を拒否したからだった。姉妹は実母が亡くなった後に父親が再婚した継母と折り合いが悪くて、マギーは行く当てが無くなっても実家に頼る事はできないし、継母がマギーを受け入れるはずもない。いよいよ困り果てて身を寄せたのが、フロリダの老人ホームに住む祖母エラの元だった。エラに扮するのは、懐かしいシャーリー・マクレーンだ。もう手や胸には老人シミがあって、年齢を感じさせたが、それが逆に年輪を感じさせる。マギー姉妹とエラは音信不通状態だったが、マギーにとってもうエラしか頼れる人はこの世にいなかった。エラは自分の娘であるマギー姉妹達の母親に対して良い母親ではなく、自分が良い母親でなかったから、娘を不幸にしたとずっと自責の念を抱き続けていた。そのエラがマギーに甘やかせずに働いて正当な賃金を稼ぐ事を教える。そこで引退して余生を楽しむ老人達の世話をして生活する日々は、ゆっくりと時間が過ぎて行く穏やかな日々だった。そこで1人の寝たきり老人と知り合った。老人は大学教授だったと言って、マギーに詩の朗読をせがむ。マギーは何度か挫折しながらも、ゆっくり朗読した。終わると詩の解釈をさせた。元教授はA+だと採点した。マギーにとって初めて人から認められた瞬間だった。それから元教授の部屋で詩の朗読をするようになって行く。老人ホームに住む他の老人からも、買い物を頼まれて代行するようになって行く。マギーは初めて人から認められ必要とされて、段々人として成長して行くその過程のキャメロン・ディアスの演技がとても良い自分に自信がなくて自堕落な状況から、少しずつ自信が持てるようになって生き生きとして行く姿を陰影たっぷりに演じる彼女は、観ている人間にも元気を与えるようだ1人の女性の悲しみや心の闇と少しずつ味わう喜びに自信を持って行く表情がとてもステキだまさにマギーは適役だと思う姉ローズは妹に腹を立て、家から出て行かせたものの、逆に自分が立ってられない程自分を見失い、今は弁護士を辞めて犬の散歩代行業をしているそんなローズは同僚だった弁護士と再会して、恋人に発展して行く初めて自分の周りに張り巡らしていた囲いを取って、素直に本来の自分を出せた人だった人は自分を好きになり自分に自信が持てると、人に寛大になれるそれは心に余裕ができて前向きになれるからだと思う。人は誰しも人に認められたいと言う欲望はあると思う。たった1人でも良いから自分を認めてくれる人がいれば、少しずつでも心を開き、精神的な余裕ができ、自信もできるマギーは人生の大先輩である老人達に囲まれて、ゆっくりした時間の流れの中で、元教授に初めて評価されたしかも難読症の為にできなかった詩の朗読でA+をもらったエラの厳しくて暖かい目に見守られながら、真面目に働くようになったし、買い物代行業で老人達の役に立て喜ばれるようになった人に認められ必要とされていると実感できたのだもうマギーは大丈夫尋ねて来た姉とも仲直りして、人肌脱ぐ事までやれるようになったローズはマギーが人肌脱いだ事で幸せになった。最後の方でとても感動的なシーンがある。この作品は姉妹の心の葛藤や軌跡を丁寧に描いている作品だ。私には同性の姉妹はいないが、姉妹を持つ女性には共感する所があるんじゃないかと思う。レンタルショップに返却する前に、もう1度観たいと思う。
2006年12月09日
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2006年度日本作品。監督は天願大介。出演は田中麗奈、チェン・ボーリン、宮地真樹、井川遥、佐藤浩市、岸辺一徳。娘に誘われて、武蔵村山のダイアモンドシティにあるワーナーマイカルむさしのミューのPM8:30のレイトショーへ行った。(日)のレイトショーだったので、2/3くらいの入り。道が渋滞した上に、駐車場も満員で、しばらく待っていたので、予定のPM4:30に遅れた為、仕方がないのでレイトショーにずらして、時間まで夕食を食べたり、中をウィンドーショッピングしたりしていた日産工場の跡地にできただけあって、駐車場も5000台収容で、建物もめちゃくちゃ大きくて、若者が喜びそうなお店がたくさんだ新しいから気持ちは良かったが、うちからは遠いので、これからはわざわざ行く事もないと思ったさてこの「暗いところで待ち合わせ」は乙一の作品の映画化だ。天願大介監督は今村昌平監督のご子息で、今村監督作品の脚本を担当していた。監督作品には「AIKI」がある。映画化する際に、設定を日本人青年を日中ハーフの若者に変えて、チェン・ボーリンを起用した。感想を一言で書くと、静かで良質な作品だと思うせりふも少なくて静かなのだが、静かだから穏やかかと言うとそうではなくて、主人公の盲目の女の子の恐怖や不安と、ハーフの男の子の不信感と不安が、強く伝わって来る盲目の女性と外部から侵入して来た健常者の男性と言う設定は、昔オードリー・ヘプバーンとアラン・アーキンの「暗くなるまで待って」と言う名作サスペンスがあるが、この「暗いところで待ち合わせ」は「暗くなるまで待って」の被害者vs加害者と言う関わりよりも、もう少し設定や2人に通う感情が複雑だ。自宅に見知らぬ者が侵入してくる所はサスペンスタッチなのだが、段々2人の心に宿る感情に光を当てるとラブストーリーになるここが面白い田中麗奈が扮するのは交通事故が原因で、後天的に盲目になった女性ミチル。ミチルは一緒に暮らしていた父が病死をしてから、たった1人で一軒屋に暮らしている。盲目だとは言っても、家事は不自由なくできるから、1人でも暮らせる。大きな美しい目をしていて、一見盲目とはわからないミチルは家の中の事は全部できるが、1人で外へ出かけるのが怖くてできない田中麗奈はノーメイクの素顔で、盲目の女性を繊細に演じているピアノを弾くシーンが何度か出て来るが、アイマスクをして練習したそうだ包丁で切って料理したり食事をしたりする手つきも中々上手いかなり練習したのだと思う日中ハーフのアキヒロ役はチェン・ボーリン。台湾映画の「藍色恋歌」に出演して、一躍脚光を浴びた若手の俳優だそうだ。以前「藍色恋歌」は観たが、彼の顔はほとんど覚えてないだから彼の出演作品は、ほとんど初めてと言って良い。日本人社会に暮らす日中ハーフと言う事で、勝手に周囲の日本人から好奇の目で見られているとか被害者意識が強くて、自分で囲いを作って馴染もうとしない本当はそうじゃなくて、勝手に自分で囲いを作って、周囲を寄せ付けない為、勤め先の印刷会社で、自然と上司や同僚から、変な奴だと得体の知れない奴だとか思われるようになっているだけなのだった日々その悪循環の繰り返しだったアキヒロを語る上で大事な場面が何度か出て来るが、胸にグッと来た職場への行き帰りに利用していた駅のホームのまん前に家に住んでいるのがミチルだった。そんなある日、その駅のホームで事件が起きる。その事件がきっかけになって、ミチルとアキヒロは知り合う。盲目で1人住まいの家に、誰かがいるんじゃないかと思う程怖いものはないだろうそれも誰かがいると確信するまでの、何か変だと疑問に持ち出す時の不安感は、本当に恐怖だろうと思うでもミチルは誰にも相談せずに、そのまま1人で住んでいる家の住人のミチルと侵入者のアキヒロの間に、段々相手を信頼し受け入れるようになって行く世の中に疎外感を感じ、被害者意識から心を閉ざして生きていたアキヒロの事を、ミチルが何も聞かずに自然に受け入れた事から、アキヒロ自身も日本人に対する感情が変わる2人が凸と凹が嵌るように支え合うようになって行く過程が、とてもいいチェン・ボーリンの役がせりふがとても少なくて、ほとんど眼差しと身のこなしで表現する悲しみと怒りと不安が混じった瞳がとても良い互いに負を持つ人間同士が、いつのまにか支え合い必要とする間柄になる頑なだったアキヒロの心を溶かしたのは、何も聞かなくても悪い人じゃないと感じ取る事ができたミチルの無垢な心だった。世の中には悪い人ばかりじゃないと、ミチルに心を開いたアキヒロ外は怖いと思っていたが、アキヒロと一緒なら出かける勇気が持てたミチル自分から相手に向かって一歩踏み出す勇気。自分から外へ向かって一歩踏み出す勇気。その勇気を持つ為に、傍で支えてくれた人。この2人は周囲から見れば、理解に苦しむ間柄かもしれないし、ミチルを無防備な女性だと思われるかもしれないいや、そう思うだろうしかしミチルはある事で、アキヒロは悪い人じゃないと確信していた。それは周囲がどう思うかではなくて、自分がどう思うかなのね。なんだか人間関係の一番基本の事を、思い出させてくれたような気がするとても静かで良質な作品なんだけど、上映館が少ないので、観れる機会が少ないかもしれないでもレンタルでも良いから、是非ご覧になって頂きたい作品である田中麗奈ってこんなに演技の上手な女優さんだったのね見直した
2006年12月04日
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2006年度日本作品。監督は金子修介。出演は藤原竜也、松山ケンイチ、鹿賀丈史、藤村俊二、片瀬那奈。2006年6月に公開されて大ヒットした前編に続き、後編が公開中である。観たい作品は公開早々に観に行くのだが、この作品は珍しく漸く今日TOHOシネマズ府中のPM3:00に観に行った。(土)の午後なので混むだろうと、ネットリザーブして行ったが、さすがに半分くらいの入りだった。TOHOシネマズはシートが座り心地が良くて、傾斜もいい感じで、本当に観やすいからお気に入りだ前編が大ヒットした後、後編が制作される時、大抵前編の大ヒットを当て込んで作るから、多くの場合期待外れに終わる事が多い所がこの『デスノート後編」においては、前編を超えるかもしれないと言うくらい、とてもよくできていたと思うコミック原作の荒唐無稽の内容の実写化に有り勝ちなチャチさが、前編同様後編にも全く感じられなかった。それは主役2人の存在感や演技力もあるが、脇を固める鹿賀丈史や藤村俊二等が、しっかりと演じている事で、作品全体の厚みが出ているのだと思う藤原竜也はちょっと舞台臭さがあるが、若手俳優としては演技や役作りが上手いと思う。利用できるものはなんでも利用する冷徹さ、準備周到の抜かりなさ、ふてぶてしさが怖い前編で「死神よりも死神のような奴だな」と舌を巻かせたライトは、後編では死神に「悪魔のような奴だな」と呆れさせる退屈した死神が、とんでもない物をとんでもない人物に拾わせたものだ。人間って愚かだから、デスノートを使った行為が大衆に支持されると、ドンドンエスカレートして行き、果ては自分を救世主のように勘違いし始める。ライトも自分は犯人を法に変わって裁いているのだから、殺人ではないと言う論理だ。一方警察に協力する天才探偵のLの松山ケンイチは、何度観ても原作コミックにそっくりだ風貌から体つき、ちょっと薄気味悪い雰囲気など、よくこんなに似せる事ができたと感心してしまうあまりにもL役のインパクトが強いから、しばらくはLのイメージが付き纏うだろうと思う。それくらい松山ケンイチ=L、L=松山ケンイチだ。きっと今年の賞レースには名前を連ねるだろうと思う前編に比べると、後編のLは少し飄々としたコミカル風味が加わっていた。若い戸田恵梨香は、前編を観た時、ミサミサのキャラもあるけど、ただのキャピキャピしたアイドル系だと思っていたが、後編ライト、Lに次ぐ重要な役どころをしっかりと演じていて感心した。「デスノート」後編の成功は、前編よりスケールアップさせようとかインパクトを強くしようとかせずに、新たに加わうキャラをそんなに多くせずに、内容も必要以上に拡大しなかったから、最後のゴールに向かって自然に向かって行けた点にあると思う。そしてゴールは原作とは違うようだが、このゴールはとてもよくできていると思った。娘は後編は原作以上の出来上がりだと言った。私も感動とは違うけど、上手く終わらせたと感心しまくりだった。CGで制作された死神は、上手く実写と溶け込んでいたと思うし、実写の中のCGである違和感が、逆に人間界に降りて来た薄気味悪い死神と言う風に感じた。後編これだけの仕上がりにできたのは、シナリオが上手くできていたのだと思う。娘などは、映画のできが良いので、原作コミックのエンディングを、もう1度書き直して欲しいくらいだと話していたくらいだ。ハリウッドとか海外からリメイクオファーが殺到しているらしいが、納得である。
2006年11月18日
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2005年度アメリカ作品。監督はトーマス・カーター。出演はサミュエル・L・ジャクソン、ロブ・ブラウン、リック・ゴンザレス、アシャンティ。この作品は実話で、全米第1位に輝いたヒット作だトーマス・カーター監督の作品には、エディ・マーフィーの「ネゴシエーター」がある。この作品はただ好きなサミュエル・L・ジャクソンが出ていると言う事だけで、ネットレンタルのリストからチョイスした作品だった。後は高校のバスケチームのコーチの話だと言うくらいの予備知識だった。ネットレンタルに予約を入れた時には、今ほどテレビや新聞などで連日連夜、学校の必修教科の問題やいじめの問題が取り上げられていなかった。しかしこのDVDが届いた時には、連日連夜テレビや新聞で取り上げられ、識者、MC、コメンテーター深刻な表情で話す事態になっていたこの作品はどうしようもない不良の巣窟のようなリッチモンド高校のバスケチームのコーチを引き受けたこのバスケチームのOBで、全米代表に選ばれたキャリアの持ち主のカーターが、4勝22敗ダメチームを再生して行く話だメンバーは選手としての自覚など全くなくて、ただバスケが好き・・と言うか、バスケしかできないと言うだけで、良いチームにしようとか良い試合をしようとか、そんな意識などまるでなかったそんなチームが勝てるわけがないのであるカーターはバスケチームの監督になって、まずした事は勉強の成績のノルマを与え、欠席せず、いつも一番前の席に座って授業を受け、試合には白シャツにネクタイ着用すると言う契約だった。ちゃんと契約書を作り、サインをさせた。バスケをしたいのなら、契約を厳守が絶対条件だったその成績のノルマは、大学へバスケ選手として推薦入学できる規定だった。その成績を取っていれば、大学へ進学できる。大学へ進学できれば、選手達の将来も開けると言うわけだ。それは好きなバスケに誇りを持てるように、そして選手である自分に誇り持てるように、自分達のオイラーズを成長させ、自分達を成長させる事だった。したい事をしたいのならば、契約つまりルールを守る。その為には忍耐と努力が必要で、耐えた分だけ努力した分だけ、結果ではなく心の中に確固たる自信と誇りができる決して愛する物を汚してはならない。そして自分も汚してはならない。いつも自分の愛する物に誇りが持てるように、自分に誇りが持てるように、胸を張っていられるように。その為にどうあるべきか、どうするべきか、カーターは選手たちに教えた。もちろん最初は選手達の中に反発し、出て行った者もいる。学校側にも保護者達にも、カーターの存在は余計な仕事を増やす面倒な存在でしかなかった。カーターがコーチしようとしていたのは一見バスケとは、なんの関係もないように思えた。カーターがコーチしようとしていたのは、高校を卒業してからの選手達の一生だった。高校を卒業する前に、バスケを通して選手達に見に付けさせようとしていたのだ。カーターがコーチに就任してから、チームは連勝していた。リッチモンド高校の教師、生徒、保護者、引いては市民達も全員で盛り上がり応援し、選手達を英雄扱いしていた。選手達は調子に乗りすぎ、ハメを外した。その後カーターは教師達から届いた教科の進行表を見て愕然とする。選手達は契約を守らず、契約上規定の単位が取れてなかった。カーターは体育館を封鎖し、試合も出ないと宣言した。教師や保護者は大反対し、マスコミは騒ぎ立て、事態は大きく広がってしまった。だがカーターは毅然として教師や保護者に言った。「選手達は私と契約したのに守らなかった。こんな簡単な契約が守れないのに、大人になって様々な約束事が守れるわけがない。これだけの単位を取得していれば、奨学金をもらえ、大学へ進学できる。私は選手達がちゃんと規定の単位を取得するまでは、体育館を封鎖するし、試合にも出ない。」学校や保護者はカーターに断固抗議し、コーチを解任するとまで言い出す。カーターは解任されるまでもなく、自分はコーチを辞任すると言った。体育館は封鎖を解かれた。しかし選手達が変わった。自分達は勉強して規定の単位を取って、試合に出ると言って勉強を始めた。カーターがコーチとしてやって来た事は、選手達に伝わっていたのだ。そして学校や保護者も変わった。最後はとても爽やかだった現実はこんな簡単な事ではない。でもやっぱり何かを変えなくてはならないと思うし、又変わらなければならないと思う。決して容易い事ではない。でも1つ1つ歩み出さないと。展開の速さ、コーチ役のサミュエル・L・ジャクソンの存在感と明快な演技、個性豊かな選手役の自然な演技に、観始めてドンドン引き込まれていった。演出構成もオーソドックスで解かり易いし、展開もシンプルで予想通りだ。でもとても心が熱くなる。是非お父さんや子供達も一緒にご覧になると良いと思う
2006年11月10日
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