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『地を耕し、人をつなぐ農民、小林節夫の生涯』を読む農民連の「農民」新聞5月25日付に、この本の紹介がありました。私も一応は農夫の端くれなんですが。自然を相手にして、みかん園の草刈りを25年間してきた、ただそれだけの農夫なんです。農業といえば、縄文・弥生の昔から稲作づくりですが、神奈川県の箱根山の溶岩が、相模湾にそそいだ真鶴には、みかん畑で水田はありません。ようするに、農夫の端くれですが、農業のことはちっとも知らないんです。まぁ、お米や野菜を食べながら農業のことは知らない都会の消費者と同じです。なにも農業のことは知らない、ということを自覚して、昨年、「東京農民連」に入会して、あらためて農業のことを学び始めたところです。何しろ草刈りしか知りませんから、このコメ作りを中心とする「農民連」を、疎遠なことがらを、草刈りをしながらどう学ぶか。チンプンカンプンな世界にたいして、疲れた体で、どのように接近していくか。まぁ、そんな時に、この矢吹著『小林節夫の生涯』(合同出版 2025年9月25日)を知った次第でして。これは、戦後の日本の農家がかかえている問題のラフスケッチです。これも、また一つのヒントとして、人間として農産物を食べていながら、しかしちっとも知らない農業です。この機会に、私などの『農業問題入門』を探りたいと思います。
2026年05月29日
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みかんの木の枝が、ついに折れました10月9日のみかん園でのことですが、みかんの果実の重さもあって、ついに枝が折れて、垂れ下がっていました。剪定の仕方にも問題がありますが、こうなってしまっては、枝に沢山みかんがついていますが、この青い実のまま、生育はストップしてしまいました。みかんの木は、基本的には頑丈です。これだけの太さがあれば、たとえ体重の重い大人が登っても、ビクともしないのですが。折れた箇所の断面を見てみると、丈夫なはずの枝が、ボキッと折れてしまったことに納得です。枝の芯の方が枯れています。この個所より下で問題があり、養分を上に送れなくなって、枯れ出していた。枝の周辺はまだ生きてますから、枝先にはそれなりにたくさんの実が着いていましたが。原因は、基幹部分をカミキリムシに加害されたことによります。ミツバチのスムシによる加害とともに、「あぁ~あ」、といったことです。他方、早生みかんの小木は、一足早く成熟が始まっていました。成木の成熟に比べて、小木の方は、少し早い。ここまで色づくと、色づきの進んだ部分は、食べごろになりだしました。なかなか良い色をしています。何個か採って、知人に試食してもらいましたが、「美味しくて、これはいける」、ということでした。今回のミツバチの騒動で、影が薄くなってしまいましたが、いよいよ早生みかんが、小木の方から成熟が始まりだしました。まだ数は少ないのですが、今年のみかんを味見するところまでやってきました。早生みかんの収穫は、11月上旬の文化の日あたりからです。普通温州みかんの方は、12月に入ってからです。いよいよみかんの収穫シーズンの始まりです。
2013年10月10日
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『21世紀日本への期待』(都留重人著 2001年刊)都留重人氏は2006年に亡くなっていたんだそうです。私などにとり都留氏というのは、重視されるべき人であるとともに、謎の人でもあっだったんですが。私にとってのモヤモヤですが、今回、二つの著書により、幾分ですが解けました。一つは『いくつもの岐路を解雇して』(岩波書店 2001年11月刊行)。これは自叙伝なんです。もう一冊は、今回の『21世紀 日本への期待』(岩波書店 2001年11月刊行)。これは、都留氏の遺言であるかの様に、私などは読んでいるんですが。私などの視野に都留重人氏が入ってきたのは、東京都知事候補としてその名前があがった時でした。その時に思ったのは、都留氏というのは公害問題で発言していたことと、マルクス主義の系統のようだけど、国民所得論などわけのわからない近代経済学の問題を論じている、そうした謎の人だったんです。今回、自叙伝をよんでみて、ある程度ですが、分かったことは、第一に、都留氏は、シュンペーター、サムエルソン、レオンチェフなど、世界的に著名な経済学者と直接に懇親のある人だということ。第二に、戦前の軍国主義の日本社会の中で、治安維持法により検挙・投獄の憂き目を体験した人でもあったんですね。第三に、戦後はアメリカ占領下の中で、日本国の経済安定本部のかなめの役割も務めた人だったんですね。たんなる学者ということではなかったんです。まだ、その人の著書をちょこっと読んだくらいですから、四の五の言えるような立場じゃないんですが。ただ、この二冊を読んで感じたことですが、これは一種の遺言なんですね。それだけの思いが込められていることが、それが伝わってきました。「21世紀の日本」に何を提起しているか?その問題ですが。一つは、戦前の軍国主義と決別するとの節度が求められているということ。二つ目には、日米安保体制を解消して、自主的な立場をつくることで、世界に貢献できるとの信念です。三つ目は、経済学の問題です。これが都留氏の専門分野として努力してきたことなんですが。それが私などには、都留氏がどういう点を努力していたのか、なかなか分からなかったんですが。『21世紀 日本への期待』を読んでみると、ここでそのヒントを語られているものと読みました。そこには、国民所得の問題。マルクスの労働価値説が技術革新による将来像について。気候・環境の問題。OECDなど経済のグローバル化の根っこには多国籍企業の欲求がかかわっていること。私などは、不勉強なために、マルクス経済学というと、それは『資本論』。そして『資本論』というと、剰余価値の搾取の理論の解明ということでとらえてきました。しかし、それは大事な部分であるわけですが、それを繰り返しているだけでは、現在の問題を明らかにする上では、それが欠かせない必要条件ではあるんですが、それだけでは生きた現実を解明する上では足りないんですね。利潤追求を第一とする新自由主義が、国民生活にかぶせている諸問題をどの様に打開していくか。そのための探究は、『資本論』の理論を基礎としつつも、より具体的で今日的な諸問題への検討が求められているわけです。私などの頭は、テープレコーダーの様に、同じ基本を繰り返していた。しかし求められているのは、その基本を土台にとて、現実の諸問題と如何に切り結ぶかとの点にあるわけでして。この点では枕詞のようなことを繰り返しているだけでは、不十分だということです。今回、都留重人氏の『21世紀 日本への期待』を読んでみて、これが提起している問題ですが。今の日本の停滞した状況を直視して、それを打開するとはどのようなことが求められているのか。そのためには、現状のどこをかえて、どの様な将来像が求められているのか、そうした流れを促進するにはどの様な努力が必要なのか。都留氏なりに、この問題へ、これまでの努力してきたことの総括をしているんじゃないでしょうか。それは、現代に生きているものとして、心ある誰しもが耳を傾けるべき「遺言」としての性格をもっているんじゃないでしょうか。私などはそう感じたところです。
2022年04月29日
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井上晴丸著『農業問題入門』を読むこの井上氏の論文のもとは、1948年2月に書かれたものだそうです。私などは1950年生まれですから、大体生まれたころに書かれたものです。70年以上も昔の本が、どうして私の手元にあったのか? わかりません。どうしてそんな昔の本が、今どきに、私などの関心の対象になったのか?私などは、神奈川県の真鶴生まれなんですが、箱根山の溶岩が相模湾に流れ込んだ地形ですから、水田はもちろん平野というものがない。山の斜面を利用して、当地でみかんを栽培しだしたのは戦後のことかと思います。日本の農業といえば、お米作りの水田作業が基本だと思います。したがって、私などはお米作りの農業の基本を知らないわけです。「私は農業のことをちっとも知らない」そのことを農民連の「農民」新聞を見ることで、つい最近知りました。農業とは、みかん畑の草刈りとしか知らず、紙面に載る記事は自分とは無縁なことなんですね。しかし、人間、生きていく以上、お米や野菜を、食べてはいるんです。実際に関係していながら、意識の上ではちっとも知らない、これまでそんな自分だったんです。それで、この「農業問題入門」のタイトルにひかれたということもあるんでしょう。とにかく、この本を読みました。農業問題とは何か? 何が問題なのか?私の体感からすると、80歳前後の高齢な農夫が農地を維持しようと頑張っている。自然の摂理ですが自身の体力の低下から、耕作面積は縮小せざるを得ない、この現実があります。その事態を政治も社会も知っていながら、この問題を農家の当事者まかせに放置している。個々人の農家が、こんな問題を背負いきれっこないじゃないですか。どうして、今のこうした事態があるのか。私などが思うには、戦前の小作中心の農業から、敗戦後の農地改革により自作農中心に変わったと思うんです。しかし、その戦後の農地改革から80年の歳月が経過しました。1945年の日本の敗戦とともに民主的社会にかわったように、自作農への転換というのは一つの進歩だったと思うんです。しかし、農家を取り巻くこの戦後の80年の歴史の推移はどうだったのか?このことが問われています。1948年(昭和23年)には農地改革により、小作地の買収・売渡の9割が実施された。井上晴丸氏の論文は1948年2月に書かれたものですから、同時代のものなんですね。私などは、1950年生まれですから、その農地改革による変化とその結果の中で生きてきたわけです。フランス革命がそうしたように、日本では1948年に小作制度から自作農を基本とする農業にかわった。この日本社会の激しい変化の真っただ中で、井上氏のこの「農業問題入門」は書かれているわけです。このその後の80年の日本の農業のあゆみですが、歴史の中で、敗戦直後の農地改革とはいったい何だったのか。それはその後の歴史において、どのような農業問題をていきしているのか、この本は、そのことを問いかけるものとなっていると思います。
2026年05月27日
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雪国でのみかん栽培の経験を紹介します「みかんの木を雪国でも育てられないか」、この挑戦をされた方がいます。冬にはたくさん雪が降りつもる土地柄での経験です。その方がその栽培経験を、3月11日にブログされてました。それはたいへん大事なことと思います。今回は了解を得て、それをそのまま紹介させていただきます。http://plaza.rakuten.co.jp/momotaro1188/diary/201403110000/当方は、関東平野の南部、小田原の近く、真鶴で小さなみかん園を手入れしています。おそらく、この辺がみかんの産地としては北限にあたるとおもいます。「産地」というからには、農協などの農家がかなりのまとまった量を生産・出荷しているということです。個人でなら、みかん栽培をしているケースは、東京の大都会の中でも、ところどころで見かけますし、東京・板橋区でも、稲城市でも、黄色のみかんをたくさんつけた木を見かけることがありますが。みかんの産地としては、湯河原、真鶴、根府川、早川、小田原あたりが北限かと思います。この地域では、みかんを栽培することは、自然に一般的になっていますから、それが特定の自然条件を前提にしていることなどは、あまり意識することなどは少ないのですが。今回の経験は、雪国でもみかん栽培は可能か? それを実際に挑戦された結果ですから、注目したわけです。この2月に、その東京でも、2月8日と14日の二回、まれな大雪が降りました。北国の冬のきびしさのミニ版を経験したわけです。東京・八王子でもかなりの積雪があり、その積雪の様子から、みかん園を心配したのですが。さいわい小田原方面の海沿いは、雪は降ったとしても、大して積もらず、ほどなく解けて消えていました。大事はありませんでした。桃太郎さんのブログを見ての、私なりの勝手な感想ですが、一、北の雪国でもみかん栽培は、絶対的に不可能ではないけれど、だいぶ手間がかかりそうです。鉢植えにしているのは、雪にうもれるのを避けるために、移動できるようにした為でしょう。やはり栽培とすれば、露地栽培が出来ないと、自然に定着したものとは言えないと思います。だとすると極寒と積雪に耐えさせるためには温室栽培となりますが、はたしてそれまでしても、よいみかんができるかどうかは、わかりません。二、仮にうまく実がついたとしても、鳥が味を覚えると、きっと鳥害も発生するかと思います。鳥たちにとっても、食料が乏しくなる時期ですから、かっこうの標的にされてしまいます。人間が収穫をする直前に、美味しくなりつつあるみかんを、勝手についばまれちゃうわけです。関東南部の小田原方面では、1月中旬には果皮の薄いみかんには、防鳥ネットをかけるようにしています。もしかけないと、ヒヨドリやメジロに、美味しくなたところを、ほとんど食べられてしまいます。三、栽培の基本問題ですが、土地柄にあった種類を選ぶことが大事ですが。柑橘類のなかでも、寒さに強い耐寒性のある品種を選ぶということでしょう。桃太郎さんの経験によると、どうやらユズと夏ミカンは、寒さに耐えれそうです。おそらくキンカンもいけるかもしれません。ただ、雪が降る前に収穫できないとダメだという制約があります。四、それと小木のころは、樹木自体をしっかり育てることが大切です。木が大地に根付くまで、果実のほとんどを(全部を)、摘果する必要もあるかと思います。木が小さいうちに果実に全体の栄分が集中すると、木がやせ細って葉を落としてしまい、せっかくの木が、アレヨとアレヨと目前で枯れてしまうからです。一つの経験を成功させるには、1,2回の失敗がつきものですし、いろいろな曲折をへてなんとかものにするには、5年、6年とかかるかとおもいます。みかんの木は、苗木を植えてから、10年くらいは最低でもかかりますから。当方、60代の農夫としては、1本の苗木が生育して、何とかものに出来た頃には、自分自身が、もうこの世にはいないかもしれません。そうであっても、やはり挑戦は、出来るところまで続けるということですが。当方としても、カミキリムシに枯らされた1本を植え替えしようとしています。これは、3月12日に早川の知人から分けていただいた「大津」みかんの苗木です。基幹をボロボロにされてしまった成木があります。しかし、太く育ったみかんの木を簡単に切ることは出来ません。もう一年間は手入れして、来年に植え替えをしようと思っています。従ってこの苗木を、1年間はポットで育てて、来年の植え替えに備えようと思っています。苗木を見て感じるのは、自分としても、植えた木にしても、二度とはない試みだよということ。確実に30年後にはこの世にいないということですが。それでも、一歩でも二歩でも、ベターな状況をつくるためにがんばるということです。
2014年03月15日
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唯物論的歴史観を探る一つの方法社会観、唯物論的歴史観についての学習です。エンゲルスが『フォイエルバッハ論』を雑誌に掲載したのは1886年でした。おそらくマルクスが1883年死去して、遺稿から『ドイツ・イデォロギー』を見つけたのでしょう。当方は、この間に『ドイツ・イデォロギー』を対象に唯物史観を学習してきました。https://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201708240000/今回は、エンゲルスのヨーゼフ・ブロッホ宛の手紙(1890年9月21日)について、です。この手紙はエンゲルスの晩年ころですが、相手のブロッホは20歳の学生だったそうです。以下は、全集37巻からの、ほとんとどがその抜粋なんですが。「この歴史観によれば歴史において最終的に規定的な要因は現実生活の生産と再生産である。それ以上のことをマルクスも私も今までに主張したことはない。もし誰かがこれを歪曲して、経済的要因が唯一の規定的なものだとするなら、先の命題を中身のない、抽象的な、ばかげたから文句に帰ることになります。経済状態は土台です、しかし上部構造の様々な諸要因―階級闘争の政治的諸形態と、闘争の諸結果―たたかいを勝ちとったのちに勝利した階級により確定される等の諸制度―法的形態、はたまたこれらの現実の諸闘争すべての、これに関与した者たちの頭脳への反映、すなわち政治的、法律的、哲学的諸理論、宗教的見解とその教義体系への発展が、歴史的な諸闘争の経過に作用をおよぼし、多くの場合に著しくその形態を規定するのです。それはこれらすべての要因の相互作用であり、そのなかで結局はすべての無数の偶然事(すなわちその相互の内的な関連があまりにもへだたったいるか、またはあまりにも証明不可能であるために、われわれとしてはそのような内的関連が存在しないとみなし、無視することができるようなものごとや事件のことです)をつうじて、必然的なものとして経済的運動が貫徹するのです。そうでなければ、ある任意の歴史上の時代への理論の適用は、簡単な一次方程式をとくよりもやさしいことになるでしょう。 われわれは自身でわれわれの歴史をつくります。しかし第一にそれはきわめて限定された前提と条件のもとでです。それらの前提と条件のうちで結局のところ決定的なものは、経済的なそれです。しかし政治的等の前提や条件も、いやひと人の頭にとりついている伝統でさえも、決定的ではないにせよ、ある役割を果たすのです。・・・ しかし第二に、歴史のつくられ方というのは、多くの個別意志の葛藤のなかから最終結果がいつでも生まれて来るものであり、しかもそれらの個別意志はそれぞれまた多くの特殊な生活条件によってそのような個別意志になっているのです。つまり無数の、たがいに阻害し合う力、すなわち力の平行四辺形の無限の集まりがあり、そのなかから一つの合成力―歴史的結果―が生まれるまであり、それ自身はまた全体にとって無意識に、また無意志にはたらく力の産物とみなすことができるのです。なぜならば、個々の一人ひとりの者がもとめるものは、他のそれぞれの者によってはばまれ、そして出て来るものはだれもがもとめていなかったものということになるのです。こうしてこれまでの歴史は一つの自然過程のように経過していますし、また本質的には同じ運動法則にしたがっています。しかし、個々の意志が―そのそれぞれが体質や外的な、最終的には経済的な事情(それ自身の個人的な事情または一般的・社会的事情)にせまられて、そのもとめるところがきまってきます―その求めることを得られず、溶け合って全体の平均、すなわち共通の合成力が生まれるからといって、個々の意志イコール・ゼロとみなすべしなどとは考えてはなりません。それどころか、個々の意志はそれぞれの合成力に寄与するのであり、そのかぎりでその中に含まれているのです。 お願いしたいのは、どうかこの理論を原典で勉強するようにして、他のものを介さないことにしてください、その方が実際はるかにやさしいのです。マルクスが書いたものでは、ほとんど必ずこの理論がある役割をはたしています。しかしとくに『ボナパルトのブリュメール18日』は、この理論の適用の素晴らしい実例です。『資本論』にも多くの指摘があります。私の著作を上げれば『反デューリング論』と『フォイエルバッハ論』で、この中で私の知る限りで現存のもっとも詳細な史的唯物論の説明をしておきました。 後輩たちが時として過度に経済的側面に比重をおくのには、マルクスと私自身で責任をとらなければならない点も一部にはあります。私たちは、反対者たちにたいして、彼らが否認するこの主要原理を強調しなければならず、そこで、相互作用に関与している他の諸要因をそれなりに評価するだけの時間と場所と機会がかならずしもないということになったのです。しかしひとたび歴史的な一段階の叙述、すなわち実際の適用ということになった時には、ただちに事情は変わり、その場合には思い違いということはありませんでした。しかし残念ながら、主要な諸命題をわがものにすれば、すぐさま新しい理論を理解しおえたと思い、難なくこれを扱えるものと信じることがあまりに多すぎますが、ところがこれはいつもそうとはかぎらぬものです。そしてこの非難を、私は近年の「マルクス主義者」の少なからぬ者たちにたいしてあびせないわけにはいけませんし、じっさいまたみごとな代物におめにかかりもします。」(第37巻P401-404) 若者に対して、これだけ真摯に向き合おうとしている老エンゲルスです。よくぞ丁寧に解説してくれています。今日の総選挙では、政治についても、18歳の新たな選挙権をもつこととなった若者たちに、このくらいの丁寧さで、わかりやすく接することが求められているんでしょうね。またこれは、後世のひとたちにたくした、史的唯物論の理論についての「遺言」でもあるんじゃないでしょうか。なぜか、そんな気がしてきます。したがって、今日、歴史観を学習しようとする人はいるとおもいますが、このエンゲルスの文章、アドバイスそのものを、目にするなどということは、なかなか機会がないとおもいます。それで、かなり引用文が長いものではありますが、かまわずに紹介させていただきました。これを生かしてくれるかどうかはわかりませんが、いかしてほしいものです。
2017年10月11日
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みかんの枯れ枝を切る6月12日、台風5号一過の小田原のみかん園です。今日の仕事の一つは、みかんの木の枯れ枝を切ること。そしてその枝を園外に出すことでした。枯れた枝をそのままにしておくと、菌が広がって、枝枯れが広がってしまうというんです。従って枯れた枝部分を切除して、とりあえずそれをみかん園の外に出すようにしました。これを台風一過の、強い日差しの下で行ったわけですから、厳しいものでした。一段落して、目を周囲に広げると、今回の台風の雨で、雑草が生き生きと繁茂しだしていました。先日草刈りしたばかりなんですが、一雨ごとに繁茂してきます。お隣のみかん園では、草刈り機のエンジン音が響いていました。大体、この時期のみかん園の手入れは、草刈りなんですね。農家の人たちは頑張りますね。この炎天下でも、ご婦人の二人が、日よけのマスクをして、広い畑で、繁茂する雑草を相手に草刈り機をうならせていました。もう完全に汗びっしょりでしたが、炎天下にもかかわらず頑張っていました。私などは新米農夫ですから、広い畑で農家の方と出会うのは貴重なんですね。そうした機会があると、みかん園の手入れについて、日ごろの疑問をぶつけさせてもらって、色々と、あれこれの疑問を教えてもらっています。今回は、キウイの剪定について、教えてもらいました。やたらつるが伸びてしまうのですが、それをどうしているかでしたが。伸びるつる果実に養分が集中しなくなるようで、伸びたつるは切るようにしているとのことでした。お隣のキウイの木の棚ですが、去年はなった実の数が少なかったそうですが、今年は、早くも小さな実がめだっていて、すでにキウイの形になっていました。
2018年06月12日
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みかんの木を枯らすミカンナガタマムシ何故、みかんの木が枯れていくのか。カミキリムシが基幹を加害していたのは、3月26日のブログで紹介しました。しかし、症状からして、原因はカミキリムシだけではないことが見て取れました。(4月9日付ブログ)4月13日に根府川にある農業技術センターを訪ねました。課題は3つ。1、みかん畑に繁茂してくる「雑草」ですが、その主なものの名前を教えてもらうこと。雑草という草はないし、図鑑を見てもそれがなんなのかはっきりわからない。名前を教えてもらおうと、数種類を持ち込みました。2、今回の主題は、カミキリムシとは違う枯らされている木の原因で調査でしたが。さすがに農業技術技術センターです。具体的な説明にくわえて、玄関の横には加害された症状をしめした木が置いてありました。これではっきりしました、ミカンナガタマムシでした。別の件で調べものをしていたら、本日、一つの発見がありました。「防除情報(病害虫情報 号外 第3号)とのニュースが出されていて、ミカンナガタマムシの問題についての注意が発信されていたことを知りました。神奈川県農業技術センター発 令和7年4月16日付でした。このニュースは、私などの周りのみかん園の園主さんたちは知らないと思います。今度行ったときに紹介するつもりです。3、もう一つは、今回の雪・凍害を調査した『農民』新聞の提供でした。もちろん、2月20日付で「大雪・凍害による木に対する管理」は、JAと技術センターでニュース発信しているんですが、あくまで木の管理についての注意です。しかし、柑橘の果実に対する被害というのは、どこも調査しておらず、その後の時間とともにそれぞれの体感として明らかになりつつあるところだと思うんですね。そして、「天災だから仕方がない・・・」と、あきらめ的なんです。私などは、その被害の現場にいるわけですが、その点で被害を様子をリアルに取材した『農民』新聞(4月13日付)の客観的な情報は貴重だと思うんですよ。農家や農業団体、政治の各方面が、被害の実際と向き合って、被害のほどを早くキャッチして、この自然災害に対して、どのような救済策がありうるのか。その対策を探る必要があると思うんです。地球温暖化が指摘されるおり、同じようなことが来年も繰り返さないとは、誰も言えないんです。そうしたことで、今回の小田原行きは、この「農民」新聞コピーを、私と接点のある人たちみんなにとどけました。さらに農協や農業技術センター、小田原市議会議員の人たちと、ひごろ接点は薄いんですが、それでも社会的にかかわる各方面の人たちに対しても、資料として提供して対策を依頼してきました。みかん栽培には、自然災害への対策もあれば、病害虫対策の問題もあるということです。二つの災害が重なって発生したということです。
2026年04月16日
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鰺坂真氏を追悼します哲学者の鰺坂真氏が1月6日に亡くなられたとのこと。「しんぶん赤旗」(1月10日付)に訃報が掲載されました。私などは最近、「弁証法について」学ぼうと、その学習を発信してきているんですが。その学習の中で、哲学者・鰺坂真氏が書いた作品が参考になっていたんです。三つの作品を紹介したいんですが。1、ちょっと古いんですが、最初は、2015年4月22日付のブログです。鰺坂真著『マルクス主義哲学の源流-ドイツ古典哲学の本質とその展開-』(学習の友社 1999年刊)ですが。鰺坂真著『マルクス主義哲学の源流』(学習の友社)を読む | みかんの木を育てる-四季の変化 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)これはドイツ古典哲学の歴史的な発展のなかで、科学的社会主義の哲学がつくられたわけですが、鰺坂氏のこの著作は、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、マルクスの哲学について、そのどれもが難解なものなんですが、鰺坂氏はそれらの原典そのものにあたって検討しているんですね。この努力が私などには参考になったんです。2、二つ目は、これは共著ですが『ヘーゲル論理学入門』(有斐閣新書 1978年刊)2021年5月31日付のブログですが。現代日本の名著と思います-『ヘーゲル論理学入門』(有斐閣新書) 12 | みかんの木を育てる-四季の変化 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)ヘーゲルから弁証法を学ぼうと知ると、『大論理学』と『小論理学』があるじゃないですか。これは『小論理学』を哲学者の数人がまとめられたものですが、なかなかの名著だと思うんですよ。というのはヘーゲルに関しては解説書はいろいろあると思うんですが、ヘーゲルの著作そのものにあたって、検討している著作というのは少ないと思うんです。あれこれのその人流の解釈を述べているものは沢山あるんですが、真摯にその著作そのものにあたって吟味した作品というのは少ないじゃないですか。この点で私などには「入門書」として参考になっているわけです。3、これは「しんぶん赤旗」に掲載された小論ですが。2020年12月18日付のブログで、鰺坂真「ヘーゲル誕生250周年によせて」丁度私などがヘーゲルを学習しているさなかに新聞に掲載されました。哲学学習27 鰺坂真「ヘーゲル生誕250周年によせて」12月15日付 | みかんの木を育てる-四季の変化 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)ヘーゲルの作品から弁証法について学ぼうとすることは、哲学学習の大変基本的で大事なテーマだと思うんですかよ。ところが「なんで今どきヘーゲルなんのか」などとの冷たい壁を感じるようなこともあるんですね。そんな時に、鰺坂さんの小論は、その意義を説かれたものとしてたいへん刺激的に、激励するものとして読ませていただきました。私などの限られた目、接点からの鰺坂真氏の側面でしたが。科学的社会主義の哲学を探究された哲学者として、貴重な貢献をされた方だと、私などは思うんですよ。もっと広い視野から、鰺坂氏の業績の全体像が、紹介されることを期待しているんですが。今を生きるものにとって、それが亡くなった方への感謝であり、何よりの追悼となるんじゃないでしょうか。責任でもあるんじゃないでしょうか。
2022年01月14日
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ミカンの発芽を見るために葉を観察していたら、病害虫の加害の痕跡が残っていました。3月23日ブログに紹介したカイヨウ病もそうでした。その際、カイヨウ病にはエカキムシの加害が影響していることがみてとれました。そのエカキムシに加害された葉はポツポツとみかけます。 (3月21日 20番エカキムシの加害跡)エカキムシの跡というのは、ミカンハモクリガという蛾が飛んできて生み付けた卵がかえった幼虫が、表皮の下をはって食い荒らした跡です。葉に残された跡は、ポツポツとあちこちに見かけます。それだけなら冬場の寒さで死んでしまいますから、心配はないのですが、3月23日に紹介したように、カイヨウ病が関連すると注意が必要でしょう。伊予柑の幼木の葉や、新しく伸びる葉先によくつきやすい。美味しいのでしょう。 (枝先を加害された20番 3月21日)新しい枝葉がエカキムシの好物のようです。こんな枝は、剪定の時に切り取ったら良いかと思います。加害がゼロということはなく、ある程度の加害はやむを得ないし、無視しても良しです。次に気になる葉ですが、タンソ病の跡ではないかと思っていますが・・・。 (タンソ病の跡か、7番の葉)葉の一部が土色に変色しています。おそらくタンソ病ではないかと思っていますが、よくわかりません。もしそうだとすると、これも菌によるもので、果実が木になっているうちに腐敗がおこります。みかんを貯蔵している時にもやはり腐敗をきたします。こうした葉も、数は少ないものの、たまに見かけます。
2009年03月25日
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昨日の続き、小田原・曽我梅林をたずねる6月10日(日)に、昨日紹介しましたが、曽我梅林をたずねました。当方にとって梅は、真鶴のみかん園で、成木を2本と幼木を何本かを栽培しています。そもそも、みかんの木自体の栽培について、四苦八苦してきたわけですから、梅の木の栽培が視野に入ったのは、最近のことです。梅の栽培の知識については、なおのこと、知らなかったのですが。近くに、梅の名所・小田原の曽我梅林があったわけですから、その派生的な周辺での栽培だったわけですから、その「メッカ」をたずねるのは、当たり前のことでした。曽我梅園は、今は梅の収穫で忙しい。6月13日締め切りの、白加賀を中心とした青梅の収穫で大忙しでした。その白加賀の実です。写真をとっていたら、「その木の実をとっていっていい」って、言われたんですね。カメラマン失格です。写真をとらずに、白加賀をとることにしました。見事な梅でしょう。実に見事な梅です。「とっていっていい」とのことで、ナップサックの荷物を整理していたら、「袋が必要なら・・・」と、ビニール袋まで提供していただくことになりました。撮影を中断して、梅の実狩りとあいなったわけです。かえってはかってみたら、3.5キロもありました。さっそく、持ち帰って梅酒造りでした。今年の梅酒づくりの第一号です。2,3人の梅農家の方に話を聞けました。今年は、春先まで寒かったので、早めの梅も、遅めの梅も、一気に大きくなりだした。それが急速だったので、予定していた病害虫の駆除が、栽培の参考にしているJAの栽培カレンダーのようにはいかなくなくなった。このため、潰よう病や黒星病などの被害が多くなってしまった、とのこと。潰よう病の実です。梅の実をよく見ると、こうした病果が多々出ている、というんです。こうした果実が多くては、いくら沢山なっても、商品化率が低いというんです。一見すると、どの木も、見事な梅の実がたくさんついているんですが、農家の人たちの目からすると、きびしいもので、問題が大きいようです。それにしても、立派です。当方で、こんな実がついていたら、天にも昇る心地なんですが。これが、いただいた白加賀、その実の木についていた時の様子です。「こんなの、たいしたことないよ」って言うんですから、すごいものです。さらに、「向かいの木が南高だよ」と聞いて、その木を撮りました。南高は、青梅でよし、少しおいて熟させ梅干し用にしても良いとのことでした。南高の実です。梅雨の時期は、うっとうしく敬遠されがちな時期ですが、梅の栽培にかかわると、まったく違ってみえてきます。まして、近くに曽我梅林があるということは、小田原・曽我と真鶴は、同じ西湘地域ですから、曽我梅林の農家に梅栽培のノウハウを学ぶこと、これも、みかん栽培についで、大きなテーマとなっています。これからが、楽しみです。梅が取り持つ交歓のはじまりです。
2012年06月11日
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甘夏の完全収穫と梅の収穫6月4日は、甘夏の収穫の天王山でした。もちろん梅の収穫もありした。援農の協力者の参加も得て、午前5時発で小田原・早川に行ってきました。そして、ついに本日午後2時30分、この間の懸案だった甘夏の巨木からすべての果実の収穫をやりきりました。これは、完全収穫したあとの甘夏の木です。次の写真は、3カ月前の2月27日の同じ甘夏の木です。この時点では、甘夏の実がたわわになっていました。「5月に入ると、甘夏は美味しくなる」と、当地の農家の人たちは、それぞれに言っていたんですが。まさにその通りでした。5月に入ると、酸味が抜けて、甘さが浮き立ってくるんですね。逆の方向から見た甘夏の木です。右側が甘夏の木で、農道の左端に小田原城が見えてますが、分かるでしょうか。甘夏の収穫作業が終わらないと、なかなかこの景色が目に入らないんですね。今日の主題ですが、この甘夏の収穫だけではなかったんです。今、最盛期に入りつつある梅の収穫があったんです。次の写真がその様子ですが。この梅の木は、「南高」でしょうか、「白加賀」でしょうか。とにかく、枝にたわわに梅の実が着いているのが分かるかと思います。みかんにしても梅にしても、収穫期というのは限られています。その限られた時期に、なにかと忙しい時間を一日さいて、収穫作業を手伝ってくれる-この援農活動が、昔も今も農家にとっては大助かりなんですね。大体、むかしの様に出稼ぎの人たちを頼んで労賃を払うなんて、余裕のある農家は今はどこにもいません。今は、夫婦の家族労働だけで、何とか農業を担っているわけです。草刈りなどの諸般の作業もありますから、収穫するにしてもすでにヘトヘトなのが実情です。今の政治はこの実情を知っていますか。知ってたらTPPの強行推進なんて出来っこありません。もちろん1000人に1人の農家の人は「問題はなし」とするでしょうが、999人の農家は「自由化なんて、何言ってるんだ。とんでもない!」との声をあげてるじゃないですか。それを聞く耳をもたない政治というのは、末期的な痴ほう症状ですね。国民の食料に責任を持つ政治を復活させることが求められていますが、それが実行に移されるまで、何とか援農を募って、農業を維持させていきます。しかし、この政治転換を早くしないと、国民生活に取り返しがきかなくなります。亡国の農政が、まかせてはおけない農政が、この間に続いているわけです。こうした援農は大海の一滴でしかないのですが、ストップ・ザ・「亡国農政」です。
2018年06月04日
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初収穫となった11月2日の富士山です。雲の切れ間から太陽が頂上付近をてらしています。みかんの収穫日よりです。 みかんの収穫に、今回から新しい助っ人が加わりました。 台車です。みかんの実がなると、その重さで枝が垂れ下がり、狭い畑がジャングル状態になります。収穫したみかんを運びだすのは骨の折れる作業でした。 工事現場で一輪車を見かけたので、「これだ」と思いホームセンターにいってみました。何てことはない、一般にこれまでも産地では使われていた様で、コンテナ専用の台車が置いてありました。 この新しい助っ人のおかげで、コンテナを運びだすのが大変助かるようになりました。これまでは20キロ余のコンテナを原始的に体力で運び出していたのです。これで疲れる作業がだいぶ緩和されるようになりました。 梅の木に芽がついていました。 みかん作業が一段落して回りを見たら、冬眠期にあるウメですが、枝にしっかり芽をつけていました。1月の開花にむけて冬を越す芽です。フツウウンシュウミカンの収穫が終わるころには、梅の木には最初の花が開き始めていることでしょう。 しかし、今はみかんの収穫です。
2008年11月03日
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みかんロードになった県道11月5日はみかんの初出荷で真鶴に出かけました。帰り道は神奈川県道740号線、山の中腹を通る旧道をつかいました。小田原から湯河原にかけて、海側の相模湾もきれいですが、反対側の山側は、今、みかんが輝きだしています。山肌のところどころにみかん園がひろがっています。県道ぞいには、地元の農家のみかん即売所があります。 (11月5日)小形のトラックで収穫したみかんを搬入したところでしょう。いまの時期は、極早生のみかんがシーズンを終わって、これから早生みかんにうつっていきところです。きれいに熟したみかんが、輝いて並んでいます。 (11月5日)これは、根府川駅前の販売テントです。みかん箱は各地の箱を利用しているようでいが、なかみは、もちろんこの地で収穫されてもの。みかんを安く提供するため、箱を再利用しているのだそうです。農家の主婦の人が、今日は売り子さんです。きっとご主人が、山でみかんもぎをしているはずです。どの店舗もきれいにされていて、綺麗なみかんが並んでいます。 (11月5日)当方としては、こうした即売所が、価格リサーチの機会となります。この即売所では、5キロ箱は、小粒のSサイズで1100円。中粒のMサイズで1300円、Lサイズの上等品で1800円でした。まぁ、早生の5キロ箱で、現地の持ち帰りで、1300円といったところでしょうか。ふむ、ふむ。なるほど、なるほど。当方もこれを参考にして、値つけをさせていただきます。さぁ、みかんの季節のはじまりです。如何に、美味しいみかんをつくるかの段階から、それが一番美味しいころをみつけて収穫する段階にうつりました。もちろん、如何に美味しいうちに消費者の手元にとどけるか、これが肝腎です。日曜農夫も、これからの11月、12月については、週労働・二日制の休日農夫に作業を切り替えます。さぁ、みかんの季節の始まりです。忙しくも、たのしい時期の到来です。
2011年11月07日
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マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』について12月というのは、みかん作業をしているものにとっては、大忙しとなります。せっかく学習しようとしたことも、ただ通読したままに放置されて、もやもやしたままで、他に移っていってしまうことが、多々あるわけですが。マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』も、そうした一冊でした。新春の課題の一つとして、この宿題を、今度こそ果たそうと思っています。この本は、フランスの政治史を扱ったもので、フランス共和国の大統領ボナパルトが、1851年12月2日にクーデタをおこして立法議会を解散する。1852年12月2日には帝政を復活させて皇帝になったわけですが。マルクスによるとこれは、「1852年2月半ばまでに」(二版の序文)書かれたものだそうです。この作品は、ナポレオン帝政の復活への一連の諸事件の真っただ中で書かれたものなんですね。私などが全体を通して注目する一番のポイントは、唯物史観の問題です。第三版への序文(1885年)で、エンゲルスが書いています。《マルクスこそ歴史の運動の大法則を初めて発見した人だった。その法則によれば、すべての歴史上の闘争は、政治、宗教、哲学、その他のどんなイデォロギー的分野でおこなわれようと、社会的諸階級の闘争の表現にすぎない。これらの階級の存在、したがってまた、彼らの間の衝突は、それ自体、彼らの経済状態の発展程度によって、彼らの生産、およびその生産に条件づけられた交換の仕方によって、条件づけられているのである。 この法則が、ここでもマルクスにフランス第二共和政の歴史を理解する鍵をあたえた。マルクスはここでの歴史によって、自分の法則を試験したのであって、33年たった今でも、この試験に合格したと言わざるを得ない。》と。これはこの作品の全体を吟味した上でいえる評価ですから、結論的なことがらです。さしあたっては、この作品では、こうした歴史法則の問題が問われているとの指摘を確認するくらいなんですが。それにしても重要な提起です。『共産党宣言』が近代史の全体について唯物史観を適用したとすれば、これはもっと具体的なフランスのある時期のこと、しかも同時に進行している時期の事柄ですら。つまり、現在の日本の政治過程についても、この見方を学ぶことが大事だと思うんです。このフランス史へ適用している仕方を、歴史観の適用の仕方を、もし私たちがよく学びとることができるならば、今の社会の動きを見る見方も、それを変えようとする動きかけについても、何がしかの知的な力を与えてくれるんじゃないかと思うからです。そんなことを思いつつ、中身に入っていきます。思うはやすし学ぶは難しです。そんなに簡単に理解させてはくれないのも確かです。これまで、何回か挑戦してきているんですが、前回もそうでしたが、もやもやのうちに他のことに関心が移っていたのも、ギブアップの証ですね。全体は、7つの章からなっています。第一章は、序章とみました。今回は、この章を主題にしますが。ここではいろいろな問題が示唆されていますが、3つ挙げます。一つ、第2節「人間は、自分で自分の歴史をつくる。しかし、自由自在に、自分勝手に選んだ状況のもとで歴史をつくるのではなくて、直接にありあわせる、あたえられた、過去からうけついだ状況のもとでつくるのである。」(P17)私たちは、自分で思うほどには自由ではないということ。では私たちは、現在、どの様な制約のもっているんでしようか。唯物論的歴史観とは、人間の歴史的な続き合いにあること、一定の制約かで、そのもとでの自由をもつということ指摘しているかと思います。二つ、8節「18世紀のブルジョア諸革命の成功から成功へのあわただしく突進するのと違って、19世紀のプロレタリア諸革命は、たえず自分自身を批判して、中途半端さ、弱さ、けちくささを、情け容赦もなく、徹底的に嘲笑する。この革命は、自分の立てた目的が茫漠として巨大なことに驚いて、たえずくりかえして後戻りするが、ついに、絶対に後戻りできない情勢がつくりだされ、諸関係自身がこう叫ぶようになる。ここがロドスだ、ここで跳べ、と」(P23)。日本の近代史は、フランスほどには徹底した性格をもっていません。中途半端さや、弱さを克服することが必要ですし、古今東西の歴史に学ぶのも、そこに意味があると思います。諸関係が、ここで跳ぶことを、避けられなくするということです。三つ、11節「フランス人が言うように、フランス国民は不意打ちを食ったのだ、と。それだけでは十分ではない。3600万人のいち国民が、三人の紳士ペテン師に不意打ちをくわされ、抵抗もせずに捕らわれの身になるなどということが、どうして起こりえたのか、それを説明する仕事は依然としてのこっている。」(P25)ここにマルクスが『ブリュメール18日』を書かなければならない状況が、問題意識が、あったんですね。以上が、3点ですが、これらは、この第一章が序論的な性格をもっていることを示していると思います。次は、第2章にすすみます。
2018年01月09日
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「豆相人車鉄道」、真鶴駅で紹介板をみつけました人の力で押して動かした゛人車鉄道゛をご存知でしょうか。5月4日、真鶴駅で「豆相人車鉄道」の紹介板を見つけました。当方は、馬が客車を引いて走る鉄道馬車は知ってましたが、また人が車を引く人力車も知ってましたが、よもや、人がその力で押して客車を動かした鉄道があったことを、最近知りました。写真にもありますが、「豆相人車鉄道」とは、そうした鉄道でした。「豆相人車鉄道」の「豆相」とは、゛伊豆の国゛と゛相模の国゛を結ぶ鉄道のこと。神奈川県・小田原と静岡県・熱海の間を結んだ人力の鉄道で、全長の距離は25.6キロだったそうです。この「豆相人車鉄道」は、1895(明治28)年から1900(明治33)年にかけて、順次、小田原-熱海間を開通させた民間鉄道だったそうです。熱海の旅館組合の人たちの鉄道への強い要望がつくりだしたものだそうです。私が「豆相人車鉄道」を知ったのは、去年の熱海でのこと。「伊豆の旅」を準備している中で、熱海に住む知人から初めて聞きました。それは、2013年10月3日付で紹介しました。http://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201210030000/じつはこの時、まだ軽便鉄道があったことも知らなかったのですが。明治の日本の近代化にとって鉄道は大事業でした。最初に新橋-横浜間を走ったのは1872(明治5)年でしたが。その後17年をかけて1889(明治22)年に東海道線が開通しました。当初の東海道本線は、国府津駅から御殿場駅を回って沼津駅に出る御殿場ルートでした。当時の小田原駅は、本線から外れた引っ込み線の終点駅。温泉の熱海にいたっては、小田原からテクテク歩いて行くしかすべなしでした。 そこで熱海の旅館組合は、ひとが客車を押す「豆相人車鉄道」まで考えて、お客さんを呼ぼうとしたのだそうです。そして、それを実行しちゃうからすごいですね。「豆相人車鉄道」の全線(熱海-小田原間)開通は1900(明治33)年だそうです。かなり役割を果たしたようですが、なんたって人が客車を押すわけですから。7年後の1907年には軌道を広げて、小型の蒸気機関車が客車を引く「軽便鉄道」への切り替え工事がおこなわれることになったということです。これが軽便鉄道「熱海線」です。「豆相人車鉄道」をひきついだわけです。芥川龍之介に短い作品ですが、『トロッコ』(1922(大正11)年3月)があります。これは、湯河原の吉浜出身の同僚・力石平蔵から資料が提供されたそうですが、人車鉄道から軽便鉄道に切り替えるための1907年の工事のころを回想してかかれています。また、志賀直哉には『真鶴』(1924(大正9)年8月)がありますが、その中には軽便鉄道がでてきます。二つの作品は、真鶴あたりの鉄道が出てきて、かつてのことを回想的に描いていて、題材として重なるものがあます。もしかして志賀直哉は、『トロッコ』に刺激されて、゛私にも似たような体験があるんだが...゛ということで書かれたのかもしれません。さらに、軽便鉄道「熱海線」から、国鉄の東海道本線へ。国の方では、さらに大きな計画が、国鉄・東海道線の熱海ルート計画が動き出します。国鉄の東海道線の熱海ルートのについては、真鶴駅にあったポスターが紹介してくれていました。これは、国鉄の東海道線の進捗をしめしています。 1922(大正11)年に、国鉄の小田原-真鶴間が開通。 1924(大正13)年には、国鉄の真鶴-湯河原間が開通。ローカルな軽便鉄道は自然の地形に沿って走っていましが、同じ区間を新たな国鉄の東海道線は、国策としてトンネル直通などより輸送力を飛躍させ、運賃なども安くなったでしょう。とにかく競争になりませんから、順次切り替えられていくことになったようです。最終的には、1934(昭和9)年12月に丹那トンネルを開通させたことで、現在の熱海-三島ルートを貫通する東海道線が出来上がりました。この丹那トンネルの工事や当時の状況は、以前紹介しましたが、吉村昭著『闇を裂く道』(1987(昭和62)年刊、現在は春文庫)が、詳しくまとめています。http://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201210020000/こうして丹那トンネルが開通した1934(昭和9)年には、軽便鉄道「熱海線」の区間全体が、国鉄に移管され、現在の東海道線となったというわけです。「豆相人車鉄道」から軽便鉄道「熱海線」へ、そして国鉄東海道本線へ。それが最近に話題となったようです。いつ頃か、そして何故か、それはわかりませんが。新たに真鶴駅前に設置されていた案内板や、構内ポスターなどが、それを示しています。鉄道の歴史には、地元の人たちの熱意も大きかったんですね。
2013年05月13日
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急ぎ、鴨長明著『方丈記』を読んでますこれも明日の京都行の準備の一つです。天気が心配されますが、せっかくですから、荒れなければよいのですが。行く先について調べてます。仁和寺にもよる予定になってます。仁和寺については、その説明書きには『方丈記』と『徒然草』が出てきました。今回は、その『方丈記』による仁和寺の紹介です。この著作自体は、全体として13節、ごく短い作品ですが。『方丈記』は以前にも紹介したことがあります。東日本大震災のときに土壌の液状化が問題になりましたが、すでに『方丈記』の中に、液状化の記述があるとの紹介でした。 http://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201104220000/それは、六「大地震」の所でしたが。今回の仁和寺は、五「養和の飢饉」にありました。養和の年号というのは、1181年、1182年です。「仁和寺におられた隆暁(りゅうぎょう)法印という方が、〔この飢饉で〕数えきれないほど死ぬのを悲しんで、死者に出会うたびに額に「阿」の字を書いて、仏縁を結ばせることをなさった。その人数を知ろうと思って、4・5の二か月間、数えてみたら、京都(みやこ)のうち、つまり、一条から南、九条からから北、京極から西、朱雀から東の、道ばたの人の頭は、すべてで42,300あまりもあったという。まして、その前後に死んだ人も多く、また、京の外、河原、白川、西ノ京、その他あちこちの辺鄙な土地などを加えていえば、際限もなかったであろう。ましてや日本全国を調べたら、それこそ大変な数であったと思う。」(講談社文庫 川瀬一馬訳)鴨長明という人は、1155年-1216年・62歳。この作品は、1212年・58歳の時に、したがって晩年にまとめたものだそうです。今回、『方丈記』をざっと駆け足で読んだだけですが、もう一つ、再認識したことがあります。一「序」が、すごいですね。ごく短い文章なんですが、弁証法の思考で表現しています。「行く河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、ひさしくとどまりたる例なし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。(まだまだ続きますが)長明の場合は、「無常観」、滅びることのあわれ、といった心境に帰着していくわけですが、そうであっても、自然や人の変化する様子をとらえて、生き生きと表現しているんですね。新たな創造的な側面、ものごとの生まれる側面については、出てこないのですが。それでも、弁証法の考え方というのが、日本の文学史にはっきりと書かれているわけです。ヘーゲル(1770-1831)が、弁証法の考え方を再発見したのとはまったく別です。それよりもはるか500年以上も以前のこと、まったく世界を異にした日本でのことですから。それにもかかわらず、こうした考え方が出てきているというのは、面白いことですね。
2014年09月06日
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みかんの木の種類は何んなのか?謎が少しずつわかってきました2001年2月から神奈川県真鶴町にあるみかん園を手入れするようになりました。このみかん園は、そもそもは父が1970年ころ定年退職をしてから、その後で植えたものでしたが、当方は当時、東京生活にかわってましたから、そうした状況はまったく知らなかったのですが。そうした状況が変わったのは、2000年にみかん作業中の父が病に倒れたこと、しばらくの闘病生活のあと死去してしまったことによります。そのみかん園が残されました。当方としては、それを放ったらかしのままにしておくわけにもいかずで、そこから当方の休日農夫の生活がはじまりだしました。それまで当方は、みかんについては、送られてきたものをただ食べるだけで、おおよそみかんの木の栽培などということは、まったく無縁の存在だったのですが。数えてみたら、みかんの木は全部で27本ありました。みかんの木だということはわかっても、そのみかんの木の種類が何んなのか、手入れはどうしたら良いのか、などはまったくわからなかったのですが。まず、手探りで2,3年がたつうちに、収穫時期の違いから、そのうちの6本の木が、種類が違っていて、早生みかんの木らしいことがわかってきました。その6本の木はみかんの色づきがひと足早く、収穫の時もはやかったんですね。それらは10月下旬には色づき出すものでした。他の木は、11月下旬から12月にならないと色づかないんです。こうして種類の違う二種のみかんの木があることが分かりましたそして今年、もうすこしわかってきました。早川でみかん農家を引き継いでいる旧友がいるんですが、その人が話していたんです。「昔は、みかんといえばこの辺では一種類しかなかった。この地域では藤中温州しかなかった。みかんといえばこれだった。みんなそれを栽培していた。そのうちに、早生みかんが栽培されるようになり、20年くらい前からは、大津や青島に植えかえてきている」、と。(訂正 当地のみかん史に私の聞き違いがありました。 当地での「昔から植えられていたみかんの木」は、藤中ではなくて、杉山系の普通温州だったそうです。1960年代はこれだったとのこと。その後、早生(宮川早生)みかんや藤中が入って来たのだそうです。藤中は肥料や農薬をそれほど使わなくても収穫できるのだそうです。80年代になると行政や農協が大津、青島を奨励したこともあり、そのころ杉山系や藤中は廃されて、植え替えされて、大津や、青島が多くの比重を占めているようです)当方にとっては、みかん史は耳新しいことばかりで、「藤中温州」の名は、その話で初めて知った名だったんですが。当方のみかんの成木は、樹齢が30年-40年くらいになる太い木でした。1970年ころに植えたとなると、状況があってきます。どうやら、当方のみかん園では、藤中温州と早生みかんの二種類を栽培していたということのようです。そう見て間違いないようです。みかんの木の種類というのは、植えた当人しか、木の種類は分からないんですね。木や果実からだけでは、その木の種類はベテランでも確かには分かりません。今年、この地域のみかんの歴史を聞きかじったことにより、こうしてある程度ですが推測できるようになってきました。「温州みかん」についてインターネットで調べてみると、「〔中生温州〕、11 - 12月頃に収穫される。藤中温州・・・神奈川県湯河原町吉浜在住の藤中さんの農園で昭和初期頃発見された系統で、現在は湯河原町 - 小田原市を中心に早生みかんから晩生みかんへの中継役として育成されている品種である。〔普通温州〕、11月下旬~12月に収穫される。特に遅く出荷される品種(青島や十万など)は晩生温州として区別される。青島温州・・・1978年に枝変わりとして静岡県静岡市の青島平十によって発見された。果実は大きく育ち、浮皮になりにくい。高糖系品種の代表格で、長期間の貯蔵も可能である。特に静岡県において主力品種として多く栽培されている。大津四号・・・1964年に神奈川県足柄下郡湯河原町の大津祐男が十万温州を母体にポン柑を受粉させた珠心胚実生から選抜した系統で、1977年に品種登録(1 - 20号の中から最も早く実を付け、食味が良かった4号を登録)された。普通温州としては早熟で、果実は大きく育ち扁平。青島温州と共に高糖系品種の代表的な品種である。(地元湯河原では4号の他に5号・8号・20号が植えられているが見た目の区別はつかず総称して大津みかんと呼ばれている)」等、紹介されていました。どうやら、この辺にみかんの木の種類の謎を解くヒントがあるようです。当方のみかんを食べた人から、「昔のみかんの形で、味もする」と、何人もの人から感想が寄せられていましたが、それらの感想も話があっているわけです。少しずつですが、みかんの木の種類について、謎が解けてきました。
2013年12月06日
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カミキリムシの被害の痕昨日、6月10日、関東地方も梅雨入りしたことが発表されました。実質的にはすでに梅雨入りしていたということです。6月に入って、そろそろミカンの木はカミキリムシに注意しなければなりません。すでに防虫剤を基幹に塗布したことは紹介しました。 (6月9日)フツウウンシュウミカンの木です。6月7日に地面から70センチ位ですが、白色パウダーに殺虫剤をまぜて塗布しました。JAで入手した「サッチューコート」というカミキリムシ用の防虫剤です。去年の場合ですが、最初は6月14日に枝先に2匹いるのを見つけたのが始まりでした。6月25日にも2匹をみつけ、28日には新しい羽化穴が3か所であけられていました。だいたい毎週行くごとにみつけていました。そうして、6月は5匹、7月には7匹、8月には8匹を駆除しました。たかだか24本くらいのみかん畑です。見逃している方が多いと思いますから、相当なものです。上の木の根元部分をアップしてみました。正面の根は内部から食い荒らされていました。気がついた時は、内部はボロボロでした。その右側の根に黒く穴があいているのがわかりますか。カミキリムシが羽化して出てくる時に開けられた穴です。カミキリムシは外部から飛んでくる成虫と、木の内部から羽化してくる成虫がいます。それが、主に基幹部分の皮の下に卵をうみ付けます。それが幼虫となって、木の内部をトンネルを掘るように食い進んでいきます。木を一周されると、その木は養分を上に送れなくなりますから枯れてしまいます。 (6月9日)この木は主枝が3本あったのですが、見ての通り2本しかありません。手前にあった主枝の1本がみかんが大きくなったころ折れてしまいました。原因は根元をカミキリムシが内部をボロボロに食い荒らしていたため、枝先の重さを支えることが出来なくなって、折れてしまったものでした。カミキリムシの幼虫は2年くらい木の中にいて、5センチくらいになります。その間に、みかんの木を食い荒らすわけです。その後、木の根元に1センチ弱の穴をあけて、羽化して出てきます。羽化穴を見つけても、それは後の祭りです。しかし、それも塞いでいきます。別の幼虫が入り込むことがありますから。おそらく羽化穴が開けられたばかりの木の枝先には、小ぶりの成虫がいるはずです。みかんにはいろいろな害虫がつきますが、木自体を枯らしてしまうまではいたりません。しかし、この点でカミキリムシは違います。たとえ1匹であっても注意が必要です。すでに基幹部分を処理してありますから、カミキリムシはそこには寄りつけれません。だいたい見つけるのは枝先です。危険を感じて飛んで逃げていくこともあります。基幹の近くの地面に、その草むらにいることもあります。根周りを除草しているのは、それを見つけやすくしているためでもあります。これから9月くらいにかけて、みかんの木を守るための、カミキリムシとの攻防戦がはじまっています。
2009年06月11日
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剪定作業で2月11日出かけました。寒の時期が過ぎて、芽吹きの始まる前の、2月ころが剪定の時期でしょうか。最初は幼木の誘引から始りました。今は、伸び過ぎた枝の切り戻しと、密集した箇所をすく作業です。 (2月11日 5番)畑が狭い割にミカンの木が大きくなり過ぎて、枝同士が錯綜してジャングル状況です。太陽の光が差し込まなければ美味しいミカンはできないのですが。密集しているか所をよく見て、1、競合している枝はどれか、2、内向きの枝はないか、3、伸び過ぎた枝は切り戻せないか。こんなことを基準にして手を入れています。なるべく手荒な枝切りは避けて、最小限に枝切りにしたいのですが。ついつい熱中し過ぎで、切り過ぎてしまう傾向があります。しかし、いったん切ってしまった枝は元にはもどりません。慎重が大事です。2月8日に紹介しましたが、手入れを始めた初期に、2004年ころまで無思慮な「剪定」をしていました。樹形を小さくしようと、ただ切り縮めようとしたのです。その為に、今では徒長的な枝が多くなってしまい、切り戻したくても適当な枝がなく、簡単ではありません。競合も多く、高い枝もできてしまっています。当時の枝切りが、いかに「剪定」になっていなかったかを、今にして悟らされます。ミカンの木の樹形を整える作業は、今にいたっても試行錯誤の最中にあります。ミカンの木は、人の手の加え方次第で、手入れ次第で、木の活力の発揮の仕方が違ってきますから、おろそかにできません。ベテランの人の剪定作業をみると、瞬時に簡単に見分けて、短時間に必要な手入れを終わらしていきます。しかし、私などの新米にはそうはいきません。今回から切った小枝はそのまま残しておくようにしました。切った太い枝はじゃまになるので、既に運び出して始末しつつあります。「剪定」だからといって、やたら枝を切り過ぎるのも良くないので、切った小枝の量がどのくらいか、分かるようにしておきたかったからです。日ごろジャングル状況が頭にあるので、熱中すると「あれもじゃま」「これもじゃまだ」と、ついつい切り過ぎて坊主にしてしまいます。多くても15パーセント位までを限度としたいと思っているからです。午前9時から11時までの2時間、時間限定の剪定作業でした。2月中は、まだまだこの作業が続いていきます。
2009年02月11日
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ウンシュウ以外の柑橘3 日向夏、八朔、甘夏5、日向夏日向夏は、去年に引き続いて、今回もよく実をつけてくれています。しかし、はるみを枯らした経験に懲りて、木の上半分を摘果してあります。小木の内は、実をつけることより、木の樹勢の増進させることが第一です。日向夏の収穫は4月下旬から5月中旬、食べごろは4月下旬から5月下旬です。 (1月3日)日向夏については、『必ず鳥に狙われるから、食べられないように網掛けしておいた方がいいよ』と、知人のアドバイスがありました。『清見も同様に』と。確かに農家のみかん園を見ると、袋かけしてあったり、網掛けしてある木を目にします。こうした中・晩柑橘の鳥害対策が、大規模にされています。6、八朔ハッサクの収穫は1月上旬から1月下旬、食べごろは3月中旬から5月上旬。収穫してからしばらくは貯蔵するようにして追熟させると、香りも味も美味しくなる、とのアドバイスがありました。 (1月3日)あれぇ、果実が見当たらない。よくよく見ると、あった、あった。たった一個だけですが、葉の影に果実がついていました。前回は、5,6個はなったのですが。当園では、ハッサクはくぼ地に植えてあります。もう木がいっぱいで、そこしか植えるところが無かったのですが。柑橘類はやはり日当たりが大事なようです。日当たりがあまりよくないハッサクは、結果の方もあまり芳しくないようです。7、甘夏 (1月3日)甘夏の方は日当たりのよい場所に植えられています。八朔も甘夏も、ともに2004年4月に植えたものなんですが。この数年、甘夏の方は毎年コンスタントに果実をつけてくれています。土地柄にあっていたのでしょうか、今回もやはりたくさん果実をつけています。甘夏の収穫は1月上旬から5月上旬だそうで、かなり収穫の時期に幅があります。当方は、『5月になると甘くなるよ』と、近所で栽培している人からドバイスがあり、5月まで我慢するようにしています。食べごろは4月上旬から6月中旬で、やはり少し貯蔵して追熟させるとよいとのこと。遅くまで木につけてあれば、ほとんど同時に食べれますが。昔はウンシュウミカンの他には夏ミカンしかなかったんですが、最近は、柑橘類の種類が増えてるし、夏ミカンは甘夏にすっかりかわっています。今年も美味しい甘夏が期待出来そうです。さて柑橘類の紹介ですが、次回はスダチ、ユズ、カボスを紹介します。収穫の時期は、すでに過ぎてしまったのですが、香酸柑橘類です。
2011年01月07日
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長谷川正安著『世界の憲法を見る』(国民文庫)を読む4月5日、連日ですが、朝は小雨。こんな日こそは、休みにして「姫之湯」行きです。バッグにはいろいろ本を詰め込んだんですが、今日の焦点は、この本でした。1975年3月28日に刊行された当時、購入したものでしたが、なまくらな当方は、この本を40年もほこりを被せて、すっかり色あせさせてしまいました。著者の憲法学者・長谷川正安氏は、1923年-2009年8月13日で、すでに故人となってます。最近、不破哲三氏が『スターリン秘史』(全6巻)を刊行されましたが、スターリンがソ連邦と世界の共産主義運動にどんな遺産を残したか、解明を試みました。長谷川正安氏は、ここで、1970年ころの時点での、ソビエトの憲法観を述べてます。当方は今ごろ読んでるわけですが、氏は疑問を疑問として語っていて、なかなかの見識です。結局、1991年にソ連邦は崩壊していったわけですが。現在のロシアも、民族政策をはじめ、依然としてそのしがらみを引きずっているんですね。それはともかく、今日の姫之湯ですが。箱根・大平台は小雨模様で、すぐ裏手の山でも霞んでいました。下界では桜のシーズンは終わっているかと思いますが、ここ大平台では、今が桜の花の見ごろでした。姫之湯の方によると、『昨日は、あんなに暖かかったのに』『まあ、こんな天気だけど、桜の花でも楽しんでいって』と。休憩室の正面には、大きな桜の木がありました。正面の木がシンボルなんですが、これは、未だつぼみの段階でした。しかし、建物の横の方にある桜は、今が満開でした。さて、当方には、今日、もう一つ宿題がありました。甘夏の味見です。休憩しているときにも、『今日、夏みかん(甘夏)を受け取りました』と、メールが届きました。思うに、甘夏というのは、温州みかんと違って、バクバクと食べれるわけでありません。たくさんは、出荷できるわけではない、と思っているんですが。よせられた感想です。『上品な味じゃないけど、新鮮でおいしかったですよ』『夏みかんは酸っぱい、と前々からの印象があったけど、これは結構甘かったよ』など、うれしい反響が返ってきています。当方としても、念のため、時々に味見をするようにしているんですが、今回の味見では、果皮に傷があっても、完熟しているものは、やはり美味しい。小さめのは酸っぱかった。未だ木に残しておいた方が美味しくなる。ないし少し置くべし。はじから全部を収穫していくのではなく、小さめのは味を確かめるようにして出荷すべき。これが今回試食した感想です。甘夏の収穫は、4月から6月ですから、まだまだ期間があります。今回の結論ですが、「一律に採るのではなく、美味しそうなものから採るべし」ということでした。ということで、明日も、引き続き収穫にいってきます。
2016年04月05日
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小田原の石垣山・一夜城公園での オープニング・セレモニー11月5日(土)小田原の石垣山・一夜城に行ってきました。ここで2つのお店が開店したからです。一つは、今、人気のパティシェの鎧塚俊彦さんが、一夜城の駐車場にレストラン&ショップをオープンしました。 (11月5日)すごい行列が出来ていました。小田原の一夜城の歴史公園に現代の名所が一つ加わったということです。豊臣秀吉が、小田原城の北条氏を包囲した時に、この石垣山に一夜城をつくりました。時代劇にはかなり取り上げられることですが、その一夜城の残された城郭のすぐ脇です。 (11月5日)残念ながら、この行列でしたから、新しい名所は外から眺めただけでした。今度、別な日に来た時に、どんなものが食べれるレストランか、紹介できるかと思います。もう一つは、だんだん園の「HAYAKAWAアグリガーデン」です。だんだん園は、この一夜城のある石垣山にあるみかん園です。一夜城への道の途中にあります。 (11月5日)地元でとれたみかんやその他の即売所、兼休憩所です。この日、山道を登る人、下る人、様々な人が足を止めていました。だんだん園のホームページです。http://www006.upp.so-net.ne.jp/dandanen/こちらは、私の古くからの知人が、頑張っているんです。一番乗りで、創作パン、けんちん汁、もちろんみかんをいただきました。車だったので、ビールが飲めなかったのが残念でしたが。最高の、アウトドアーで解放されたひと時でした。二つのお店の開店、ともに歴史の舞台に出来た、新しい、憩いの名所として、繁盛してくれたらと、私なども応援しているところです。何しろ、いまは一番良い季節です。 (11月5日)このみかんの写真は、当方のみかん園のものですが。こうしたみかん園が道筋に広がっています。
2011年11月05日
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カラスが最初のお客さんでした4月13日(土)、東京・多摩の団地で朝市を開きました。今日の一番のお客さんはカラスでした。カラスは、急接近してくるツバメに対して、しきりに構えをとっていました。土曜の朝の団地は、いたって静かです。向かい側の公園には、明日告示の市議選の掲示板が設置されていました。今日の品物は、1.フキ、2.最後の湘南ゴールド、3.文旦、4.ノビル、5.レモン、6.甘夏でした。やはり、今の時期は、甘夏とフキが中心でした。午前10時には、甘夏とフキを、無人販売の形に切り替えて、本日の朝市を終了してきました。昨日夕方、園主さんから「清見オレンジがあるんだけど・・」との連絡がありました。樹上で完熟させた清見ですから美味しいのは間違いなし。選挙期間と重なりますが、この販売もすすめるようにします。
2019年04月13日
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真鶴のみかん園でのお茶摘み本日、真鶴のみかん園の周辺にあるお茶の木から、茶摘みをしてきました。みかんのコンテナ箱で半分弱、めかた1.6キロの茶葉のお茶摘みでしたが。小田原から湯河原にかけてのみかん園の周辺には、たいがいお茶の木が植えられています。お隣との境界をしめすものでもあり、防風林をかねているのかもしれません。例年では、五月のゴールデンウィークあたりが、茶摘みの時なんですが、ことしは、自然の移り行きが少し早いようです。当方の場合は、みかん園の周辺にお茶の木が30メートルくらいあるだけなんですが。それでも、そのお茶の葉をほっぽりぱなしにしてはもったいないじゃないですか。当地の農協は、期間限定で農家のために製茶工場を稼働させるんです。そこには、先人たちの努力があったからこそ、その共同事業があると思うんですよ。でも、ことしは、少し違うんです。何でも「コロナ」といえばやることの大義が立つとでもいうんでしょうかね。農協の口座を使う人でないと製茶の受付しないと、新たな垣根を付けたんです。農業協同組合ですよ、それが「お上のお達し」ではないけれど、勝手なルールをつくって、それを決定と称して、一般の農家に押しつけてきたんです。私などにとっては、この数年の製茶工場を使わせてもらって、これぞ農業協同組合だと、歴史的事業をたいへん評価してきていたんですが、今回の、突然の藪から棒に、「農協の口座引き落としでないと、茶葉を持ってきても製茶の荷受けはしない」などとのことに、末端の職員とケンカしても始まりませんから、引き下がってきたんですが。農協というのは、そもそもは農家の協同組合として、農家の利便をはかることに、その存立意義があったはずなんですが。最近では、どうもその根本的な基盤が、その立場と精神が、おかしくなっている面があるようです。農政もダメな農政ですが、そんな時にこそ、現場の農家の利便を図るのが協同組合の役割のはずなんですが。どうも、首をひねらざるをえません。まぁ、人間社会、日本の農協社会がどうなっているかは、ともかくとして。今年の自然、お茶の話です。今年のお茶の葉の生育ですが、こと神奈川県の真鶴に関しては、順調です。先日、切り枝の始末で寄ったところ、お茶の葉の生育がすすんでいるのに驚かされました。例年なら、5月のゴールデンウィークあたりが茶摘み時なんですが、それが、もはや茶摘みをすべき時期だと、お茶の木がアピールしてたんですね。例年よりも、今年は1週間早いんです。だいたい農業の作業というのは、自然に合わせるというのが基本です。工場生産の残業とか、夜なべ仕事のように、売れるからといって人間の勝手な都合をもちこんで生産を増やそうったって、農業はそうはいかない。もしも無理して自然に強いれば、必ずしっぺ返しをくらうことになります。今回は、お茶の話でした。私のお茶との出会いを紹介しておきましょう。一つ過去のブログを紹介します。2012年のブログですから、今から10年くらい前になります。もう一度、お茶摘み交流会の様子を紹介します | みかんの木を育てる-四季の変化 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)静岡県藤枝市で開かれた、お茶摘み交流会に参加してきました | みかんの木を育てる-四季の変化 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)お茶の木への対処をどうしたらよいのか。みかんの手入れが少し落ち着いたら、次に出てきた課題がそれでした。お茶の産地へ、研修企画に応募していってきたんです。このじき、静岡の広いお茶畑では、せっせと茶摘みが行われていると思います。「日より続きの今日この頃を、心のどかに摘みつつ唄う、摘めよ、摘めつめ、摘まねばならぬ、摘まにぁ日本の茶にならぬ」この「心のどかに摘みつつ」という点ですが、これは応援歌としての表現で、美辞麗句だとおもいます。はたらき手を励ますための表現だと思うんです。現実はきびしく、単純な手摘みの作業を延々として、限られた時間内におこなわなければならない、それを励ますための歌だと思うんです。それを応援するための歌だとおもうんです。もっとも、今は、機械を使って、効率的に茶摘みをしているでしょうが。手摘みの当方としては、機械化される前の明治・大正のお茶娘の苦労を感じさせられています。それと同じ茶摘みをしているんですから。時代による同じ作業の違いがそこにはあるんですね。「摘まにゃ日本の茶にならぬ」というのは、これは、ごもっともなことなんですが。問題は、茶摘みの仕方が、時代により変わってきているということです。皆が皆、お金があって、機械への投資が出来るわけじゃないんです。手摘みも、私を含めて、今でも小零細農家では普通におこなわれているんです。ということで、今日は、お茶摘みをしてきました。真鶴園で、午前8時から11時まで、1.6キロの茶葉を摘みました。それを農協ではなくて、共同で加工してくれている製茶工場に出してきました。農協も、自分自身の今のあり方を考え直さないと、なにも営利会社じゃないんだから、農家あっての農協なんですから、上位下達で特定の仕方をしないと受け付けないなんて、こんなやりかたでは、その未来はありませんね。「いったい何やってんですかね、この役員の人たちは、雁首揃えて」と言いたくなります。
2021年04月25日
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『ヘーゲル論理学入門』(有斐閣新書)の紹介 12当方は目下、ヘーゲル『大論理学』(岩波書店)に挑戦しています。なぜ、私が今、ヘーゲル『大論理学』か?というと。それは「有だ、本質だ、概念だ」などと、初めからわけのわからない事柄に、私などは、これまで何度も何度も、はね返されちゃってきていたんですが。片や先人たちの高い評価があり、片や私などがあたってみるとチンプンカンプン。そして、一般には、いいかげんで、自分勝手な解説がわんさと山ほどだされている。古典というものは、えてして多くそんなところかもしれませんが。私は、今回の挑戦をはじめたばかりですが。でも、感じるんですね、そこには、人が生み出した大切な遺産があるし、それは、日々の生活の中で生きている問題があるし、人がものごとに対処していく基本的な方法があると思うんです。もちろんそこには、マルクスが指摘しているように観念論の逆立ち問題があるんですが。問題は、この人類の遺産が、名前ばかり有名だけど、生かされていないことです。そうした中で、この難攻不落な大著を読んでいく上で、一冊の本を見つけました。『ヘーゲル論理学入門』(鰺坂・有尾・鈴木編 有斐閣新書 1978年刊 927円)前々から持ってはいたんですが、これまでその中身が理解できていなかったんですね。ヘーゲルという人は、ゴツゴツとしたち密な論理を展開する人ですから、自身が書いた『大論理学』というのは、とくにそうなんです。10数年間でしょうか、ドイツの大学で毎年行われた論理学の講義により、そのたびに何度も何度も補足されたり、それをさらに推敲して本にまとめたものなんです。ですから、私などの哲学の素人が、みかん農夫が挑戦しても、わけのわからないジャングルの中に入っていくようになるのも、途中放棄することになるのも、当然なことなんです。これまでは、そんなところだったんです。今回は、ジャングルの中を、迷路の中をすすむには、大まかにであっても、その章の全体観をつかんでおくことが大事だと。このことも、『哲学史』序論で、ヘーゲル自身がアドバイスしてくれていることなんですが。それで、手探りしていたときに、この本を再発見したという次第です。これは、現代日本の哲学者の人たち努力の成果だと思うんですよ。少なくとも私にとっては、『大論理学』を読みすすんでいく上で欠かせない、現代日本の名著だと思っています。哲学者の努力の成果は、この本だけじゃないんですが。もしも、私などが『大論理学』を終わりまで読み通せたとしたら、いくばくかその中身を理解したとしたら、この本が一助となってくれいるんだと思います。まぁ、せっかくの「人類の遺産」を、宝の持ち腐れにするなどということはしたくありませんから、なんだかんだといろいろ仕事はあったとしても、この『大論理学』を読み通すことを、なんとしてもやりぬくということです。今を生きるものとして、がんばって新しい世界を開くということです。
2021年05月31日
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真鶴町議選の告示・黒岩のり子候補が出発9月21日(火)、神奈川県・真鶴町の町議会議員選挙(定数10議席)が告示されました。日本共産党から黒岩のり子候補が立ち、午前10時から選挙の出発式が行われました。どうして、みかんの栽培ブログに、真鶴町議選・黒岩候補の出発を紹介するかというと。神奈川県・真鶴町は、私などの生まれ故郷なんですね。小田原の高校へ通うようになってから、実質的に真鶴を出てしまったんですが。2000年に父が死去したんですが、その後、残された125坪・27本のみかん園ですが、東京・八王子から真鶴の畑の草刈りに通うようになったんです。左側の家と家の間、奥にあるのが、草刈りに通うみかん園です。ようするに、黒岩さんが、今回、畑からほんのすぐ近くに事務所を構えたんですね。そうした縁もあって、真鶴町には選挙権のない八王子市民の私ですが、街のこうした政りごとに、齢70にして初めて参加しました。だいたい日ごろ、町の人たちのために尽力されている黒岩候補のことですから、それとなく風の便りで、頑張っているのが伝わってくるじゃないですか。ですから、せめて選挙活動に出発する時くらいは、直に応援しようと思い立った次第です。黒岩候補は、1、真鶴駅の通路の南側にもエレベーターの設置を2、コロナ対策をさらにすすめる3、核兵器禁止条約をさらにすすめる、などを公約していました。この第一声には、衆議院の神奈川17区の共産党・山田正候補も応援に来てくれていました。彼とも、縁があるんです。高校時代に一緒だったんですね。彼はバスケット部の一人でした。私は水泳部だったんですが。よもや50年余をへて、こんなところで、こんな形で再開をするとは、縁とは不思議なものですね。私が暮らしていたころは、真鶴町は1万2000人くらいの人口があったんじゃないでしょうか。今は、7000人くらいと、誰かが言ってました。町は漁業、石材業、みかん、観光、それとベッドタウンの町ですが、全国の流れと共通して、ここでも過疎化が進んでいるようです。私も利用させてもらっていた食事処も、2軒がこの間に店じまいしました。こんなきびしい時だからこそ、黒岩議員(候補)が存在しているのは、貴重なんです。町民の暮らしと命をまもる、かけがえのない護民官なんです。町の人というのは、近所や親せき、友人など、いろいろなしがらみがありますから、なかなか町の表には出て来ないんです。支持を表にはしたがら無いんです。だけど昨今の政治は、黙っていると、とんでもない方向に行こうとするじゃないですか。平和や自由が大切だなんだとていってながら、じつは憲法を変えて戦争の出来る国にもってゆく。コロナで命が脅かされているのに、公立病院を民営化して、ベッドを減らそうとしている。桜を見る会や、森友・加計問題がこれだけ問われても、かばいあって真相を明かさない。今政治はヌエ政治で、もっともそうな話で、その実はごまかしで、その実際は安倍・菅の自公政治に流し込んでいる。馬鹿にした話じゃないですか。しかし、今回、9月8日に、四野党の共通政策がまとまったでしょう。これを比べると、自公政治と、この野党の共通政策とでは、赤と白、右と左、天と地、これまでの政治を転換する政策が、対照的な形がはっきりと掲げられました。今、10月の総選挙で、日本は政治の本当に転換していく可能性が出てきたということです。その野党の共同の要とも、下支えともなっている共産党です。こうなると、日本の夜明けは、中央段階での政権合意、選挙協力と、全国各地の地方政治の動向に、路地裏の力にかかってきているということです。全国のどこの選挙でも、この関東平野の隅の方の真鶴町の選挙も、すべて関ヶ原の前哨戦です。真鶴町の町民の良識がどの様な形で示されるか。否応なく、その結果が全国に注視されるところです。しかし、私などは町から外に出て50年余となる浦島太郎ですから、大したことは出来ないんです。そんな私にとって、黒岩さんの活動努力というのは、そんな私自身の願いの代行者なんですね。その結果は、私自身でもあるんですね。これは確かなんです。この真鶴町議選ですが、午前10時の時点では、定数10議席に対して、4名の新人を含めた13名が立候補したというんです。まだ、書類不備のため受付が受理されず、届け直そうとしている人もいるとのことでした。まぁ、だれが、何人出ようとかまわないんですが、だけどこの共産党・黒岩さんの議席だけは、手放しちゃならないと思うんですね。前回は次点者との得票の差が30-40票だったそうです。「黒岩さんは頑張ってきたから、大丈夫」などとの宣伝も他陣営から流されているはずですから、最後まで頑張ってがんばって、真鶴町民の良識が広く結集できるようにしたいですね。そこに、今の瞬間、日本の未来がかかっているわけです。遠方より、私なども応援しています。
2021年09月21日
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レーニンの『大論理学』学習への推測当方は、ヘーゲルの『大論理学』を、今年の3月9日から学習してきました。それは、今、最終盤の章「絶対的理念」の所まで来ているんですが。今回は、その番外編で、なぜレーニンはヘーゲル『論理学』を学習したのか、の問題です。一、ヘーゲルの『大論理学』は、難解な本として有名なんですが。私などが、それを読もうとすると、あれこれ自分勝手な解釈論はそれこそ掃いて捨てるほどあるんですが、難解な著作そのものを真摯に読んで、そのうえでもの申す人というのは、たいへん少ないんです。そうした中で、それを読み進めるうえで参考になっている一冊が、レーニンの『哲学ノート』なんです。『レーニン全集』第38巻には、「ヘーゲルの『論理学』の摘要」(1914年9月-12月執筆)がのっています。そこには『大論理学』だけでなく、『小論理学』『歴史哲学』『哲学史』などの読書ノートが紹介されてます。私などには、それが難解なヘーゲルの著作を読み解いていく上で、参考になったんですが。しかし当然ながら、「いったいなぜ、レーニンは『大論理学』をはじめヘーゲルの著作をよんだのか?」、この疑問が生じてきます。1914年といえば、その年の7月14日から第一次世界大戦が始まったときじゃないですか。社会主義の代表的な先輩たちの多くが、世界戦争の勃発により「祖国防衛」の立場、自国の参戦を擁護する立場に変わっていく。そうした中での政治家です。この流れのなかで「帝国主義戦争反対」の主張や社会主義の立場を掲げることが、いかに困難であったか。それは、戦前の日本史を見れば明らかじゃないでしょうか。反戦平和を明らかにすることは、命がけの主張であり活動だったんですね。そうした中でレーニンは、ヘーゲルの『大論理学』をはじめとする諸著作を学習していた。それが学習ノートとして残されているんです。それが、100年を時を経ての今日、私などのヘーゲル学習の参考になっているんです。「なぜレーニンは、そうした複雑で困難な状況下でヘーゲルを学習したのか?」当然の疑問ですよね。いったいどのような思いで、レーニンは『哲学ノート』にそれが残されているわけですが、ヘーゲルの『論理学』を、本質論を、概念論を、「認識」や「絶対的理念」を読んでいたんでしょうか? この私などの疑問にたいして、つい数日前のことですが、ひらめきがあったんです。それは、この10月6日(水)でしたが、ユーチューブで送られてきた共産党志位委員長の総選挙にあたって訴えた報告に関連しているんです。レーニンの話にもどりますが、私などの推測することなんですが、おそらくですが、レーニンは戦争からの転換するということは、それを推進する政治勢力から政権を変えるしかないとの基本認識があったんじゃないでしょうか。そのために困難な立場をまもって活動して来ていたわけですから。現象からしたら、一人の一介の亡命者ですよ。無にも近い存在だったはずです。ところが、戦争路線を転換させるには、今は無であったとしてもこの政治的な立場しかない、そうした確信を持っていたとおもいます。私などの、まったくの完全な推測ごとなんですが。今回、『大論理学』と『哲学ノート』を学習していて、そこで問題になっていただろう事柄ですが。志位委員長の報告を聞いていて、レーニンの立場と動機ですが、もちろん直接的な言葉では書かれてはいませんが、こんな読み方をしていたんじゃないでしようか。「本質は現象する。帝国主義戦争は終わらざるをえない、しかしどんな形で終わるのか、それはわからない。たとえ今は戦争が燃え盛る火事のようなものであったとしても、どんなに想定しうることと真逆な仮象をもっていたにせよ。戦争反対勢力は徹底して弾圧されていたんですから。それがこれまで様々な角度から検討してきたように、戦争路線は転換しなければならない。そこには社会的変革をふくむ政権交代の可能性がふくまれている。そうした可能性が潜在的にふくまれている。もしもそうした見通しが客観的な真理であるなら、必ず現象して現実に現れることになる。その際、今は主体的には党の組織状況が、戦争と弾圧により、どんなに心もとない状況であったとしても、事物の客観的行程は必ず展開する。そうだとしたら、その間近に迫りつつある政治路線の変更(戦争政策から、国民の悲惨さを救済する平和政策への転換)のもつ政治闘争、社会的変革の可能性をなるべく全面的に展開をみさだめるようにして、それにたいして政治的に組織的にできうる限りそなえなければにらない」まさに、ここにヘーゲルの弁証法を学ぶ必要性が、動機が、あったんじゃないでしょうか。庶民の足元の困難さという目線だけから出発したら、全国的な政治情勢がはらむ中心問題は見えてきません。「そんなの無理だよ、身の回りはそうそう簡単に変わりっこない」との感想をもつことも当たり前かとは思うんですが。それは客観主義的な評論家的態度につうじるわけですが。しかし考えてもみれば、庶民のだれが12月8日に太平洋戦争が勃発するなんて思ったでしょう。まただれが1945年8月15日に第二次世界戦が終わるなんて思ったでしょう。庶民の下世話な目には分からなかったはずです。しかしそれでも戦争終結へのページはめくられたんですね。ほんの一部の人にしか政治的な動きというのは知ることができなかったんですね。それでも政治は動いたんですね。おそらくレーニンの心眼には、どんなに足元は困難であっても、戦争反対と国民生活擁護の政治に転換せざるを得ないとの、政治の焦点をとらえていた。いつ、どのように、転換する客観的な出来事が動くかはわからないけれど、それが必ず社会と政治の表に出て来る。そうした見通しをたてていた。そこにまさにヘーゲルの『論理学』、弁証法を学びとろうとする、欠かせない必死な努力の原因があったんじゃないでしょうか。ヘーゲルは第二巻の本質論では、「本質は必ず現象する」、「現実性は、理性の合理的な諸条件が整えは、具体的現実になる」などの客観的な行程をといています。それは勝手な主観的な主張ではないんです。論理学の弁証法、必然的な論理的・自然的な展開というものを、客観的なものとして、それを主観的概念がとらえうるものとして展開してといているんですから。また、第三巻の概念論では、「絶対的理念」では、諸科学の中に一般的に貫かれている形式(弁証法)を、明らかにしようとしているんですから。アリストテレス曰く「思惟のなかにある思惟」、ヘーゲルは哲学史を古代ギリシァの哲人たちにまでさかのぼって、具体的に探っていたんですからすごいですね。アリストテレスもすごいけれど、さかのぼってそれを見つけ出したヘーゲルもすごい。そうした努力をさぐりつつ、レーニンは今日の具体的な方法として、その可能性を探ったんじゃないでしょうか。山なす本があったとしても、肝腎なものは限られたものですよ、怠けていちゃダメなんです。そんな状態だと、それを教科書風の公式論ですますとか、何でも事柄を細断するような型紙のように扱うとか、万能の打ち出の小づちのような知らないことまで知ったかぶりをするようになる、スターリンや毛沢東のような存在も出てくるわけです。レーニンがイネッサ・アルマンドにあてた手紙にあるように、もあくまで具体的な諸条件の下で、他の諸命題とも関連させて、歴史的に事柄をあつかわねばならない、との結論が出てくるわけです。もどって、レーニンの『哲学ノート』についてですが、ヘーゲル『大論理学』の最終章「絶対的理念」からの書き抜き、それへのコメント、自らの意見ですが、そうしたことを学びとろうとしている、そうした躍動が伝わってくるように思います。ただ、私などが感じてるんですが、あまり一般には、そうした肝腎な側面からの紹介がされてないのが、気になるんですね。じつにもったいないとことだ思うんですが。研究者は怠けているわけじゃないと思いますが、政治家は忙しいとは思いますが、私などの目にはつかないんですね。その肝心な点をつかまなければ、歴史に対する怠慢のそしりをまぬがれないと思います。二、レーニンはそうした宝を引き出したんですが、問題は今の私たちとの関係です。これが、志位報告を聞いての、肝腎なことなんですが。中央政界が、政治的転換の可能性を、政権交代の可能性をもっている。国民的な政治転換の可能性をもっていて、それが10月31日の総選挙で決めることができる。国民の意志がどのように表明するかで、政治的基本をさだめることができる。そうした事態に、今という私たちの状況は置かれているということです。これは客観的な事実だと思うんです。まず、こんな政治的基本の選択が、国民自身の意志に託されるなどということは、日本の憲政史上初めてじゃないですか。つきつめれば戦争か平和かの岐路です。いやもっと命と暮らしの問題です。問題は、レーニンが『大論理学』を学びつつあったときと似ているとおもうんです。しかし、自分自身とその周りをみるに『庶民の日常生活からして、いくら理想的なことを言っても、そんなにうまくは変わりっこないよ』との素朴論があるんですね。長年しみついた、それ以外にはなかったような、経験則があるんですね。客観主義があるんです。だけど、かつて歴史のページが音もなく開いたように、もちろん努力次第ですが、10月31日にはそうした可能性が、今の日本には含まれているというんですね。誰かが私見として言ってるんじゃなくて、社会の客観的な可能性がしめしているということですね。志位さんが提起したのはそうしたことですね。とはいえ、日常生活の織りなしは、そうした中心点と自分たちの日常がどのようにつながっているのか、よくは見えないんですね。そりゃあそうです。1億2000万人分の一ですし、日々のみかん畑の相手は雑草とイノシシでしかないんですから。だけど、そうであっても、それらが中央政界につながっていることはまちがいないんですね。庶民にとっては、ささやかな一歩と思われるかもしれません。だけど、どの様なささやかな一歩であっても、それがつながっているわけです。それが合わされば、政治を変える大きな力になる。自分たちの自然と必然性の流れをつかんで、そこから出てくるところの第一歩をふみだすこと。きっと踏み出さざるを得なくなるということですが。どんなにささやかではあっても、その第一歩の踏み出しが、今や日本の岐路の選択につながっているということですね。「人には人の乳酸菌」じゃないけれど、それぞれの置かれている立場で、どれだけ真摯にこの歴史課題と向き合えれるか、そこに日本の未来がかかっているということですね。ここのところの理論的・実践的な探究が求められているということです。これが『大論理学』の終章「絶対的理念」を通読して、くわえてレーニンの『哲学ノート』での「摘要」を読んでの、私などの感想です。
2021年10月08日
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みかんの花の季節ゴールデンウィークの頃は、みかんの花の季節です。小田原みかん園の、みかんの花です。小田原のみかん畑では、今、みかんの花が咲きだしています。近づいて見ると、つぼみが開花をし出しているんですね。あたりに一帯に、みかんの花の香りが漂っているんですよ。次の写真はレモンの花です。つぼみの外側は紫色なんですが、花びらが開くと内側は白色ですから、白い花となります。柑橘類の大方は、今が開花の時なんです。それと、5月の連休は茶摘みの時でした。真鶴のお茶は、茶摘みして製茶工場に出せたんですが。この石垣山のお茶の木ですが、せっかく茶葉の生育を注視していたんですが、製茶の時期を逃してしまいました。製茶工場がいくつかあるんですが、5月の連休明けには、小口の製茶加工の受付を終了しちゃったんですね。せっかく茶葉が成育したんですが、工場に持ちこむ時が遅すぎて、製茶加工することが出来なくなってしまいました。残念なんですが、まぁ仕方ありません。今回、5月10日の時点でしたが、平塚から見えた富士山です。富士の白雪が、だいぶ少なくなりました。宝永火口の雪も消えてます。この5月10日の時点では、見ての通り五月晴れでした。それで、5月10日は晴れた陽気をつかって、甘夏の収穫をはじめ、いろいろ作業したんですが。しかし、翌々日の12日になると、天気予報は下り坂とのこと。それで、雨の降りだす前に、枯れた切り枝の山を野焼きすることにしました。これはこれで、みかん畑の手入れの後始末として大事な作業なんです。雑草の繁茂の様子が分かると思います。当たりの雑草は、ひと雨降ると人の腰くらいまで繁茂してくるんですよ。冬場の様に、枯れた草に野焼の火が燃え広がるという心配はないんですが。それでも要注意です。野焼の翌日に、今朝のことですが、その野焼きのあとを確認してみました。切り枝の野焼きは、ほとんどが燃え尽きていて、無事に終了していました。しかし、この写真を見てわかるかと思いますが、一雨ごとに雑草が繁茂して来るわけでして、これからその草刈が大仕事なんです。その草刈り作業が、9月まで間、くり返し難行苦行が待ち構えています。みかん園の手入れというのは、とどのつまりはこの草刈り作業なんですね。これに負けたら、みかん園は雑木林に変わってしまいます。さいわいなことに、この5月下旬に、1人の高校時代の古い友人がやってきます。このみかん園の手入れ仕事に挑戦してみるとのことでして、この石垣山のみかん園に出かけて来てくれることになりました。ヘトヘトの体力の限界にある農夫にとって、これはなによりのことで、これからの未来のみかん園の可能性を感じさせてくれる出来事なんです。
2022年05月13日
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蓮舫都知事候補が八王子駅で訴える6月21日(金)夕方、蓮舫都知事候補が八王子駅の北口で訴えました。広い東京です。各地を回っている候補者の話を、直に近くで聞けるなんて機会はなかなかありませんから、出かけてみました。私などは、インターネットの紹介で街頭演説会があるのを知ったんですが、みなさん、どこで、どのようにして知ったのか、とにかく聴衆の集まりが大勢なんです。告示前にひらかれた共同記者会見も紹介されてましたが、私などが感じた「小池知事の空っぽな中身なのに、にこやかなポーズで都民を丸め込もうとしている」との印象でしたが、討論した蓮舫氏は、同じ印象をもっとリアルに、具体性のなさを紹介されてました。もっとも、私の方は、蓮舫氏の話の中身は、明日の新聞の紹介に期待して、候補者の表情をですね、追跡しました。カメラというのは、なかなか難しいんですよ。私の場合は、「下手な鉄砲も、数打てば当たる」式なんですが、それでも難しいんです。ひどい政治を変える戦いです。話し手の率直な真面目さと、聴衆の熱い期待とが、聴衆と話し手が、相互に刺激し合っているんです。この都知事選ならでわの街頭演説会の様子ですね。両者が響きあって、高まっていきました。しかし、私などは思うんです。広い1100万有権者です。候補者が演説するその周りの人たちは、もちろん良い中身ですし、雰囲気は盛り上がるんです。しかし、それを体感できる人たちは、ごく一部なんですね。その演説会の場を離れて、私鉄駅に向かうと、政治選挙はどこえやら、です。ましてや、住んでいる団地にかえると、なおのこと静かなんです。だけど思うんです。この静かさの中にも、今のこの政治的な綱引きが、きっと働いていると。候補者も大変だろうけれど、同時にその裾野の方にいる一人ひとりの意識と行動が大事だと。これから、15日間ですが、そこが問われています。どうやったら、この静かさの中にある政治の綱を感じ取れるかと。自然の流れに任せるんじゃなくて、何かしらちょっとでも、無理のないことで働きかけをつくる、そこが問われています。。大きくは軍拡政治による、利権政治がおしつける国民へのしわ寄せです。このおかしな政治を正すという全国民の仕事ですが、今この時は、その決定的な鍵が、東京都民の一人ひとりにかかっているということです。
2024年06月21日
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フキノトウの季節みかんの収穫、その大仕事をしていると、その忙しさからその対応だけになりがちです。しかし、この時期に、アキタブキの畑にはフキノトウが芽吹いてきています。寒い日々のなかにも、季節が着実に進んでいることを示しています。去年は、収獲のタイミングを逃して、花が咲いたフキノトウを提供することとなってしまいました。それで、過去の記録から、フキの畑の記録を確かめてみました。2023年9月7日のブログにありました。フキとミョウガの畑、今とこの半年間の様子について | みかんの木を育てる-四季の変化 - 楽天ブログいまは亡き知人ですが、みかんの収穫を終えた頃に、1月17日でしたが、「竹を切り払いたいので協力してほしい」とのこと。その時は、ただの荒れた畑でしたから、なんでまた・・・。しかし、ほどなくそこが宝の畑であることを知りました。そのブログをつくったときは、梅雨時のフキ畑は念頭にあったんですが、以前にその様子を見させてもらっていましたから。しかし、その時はフキノトウについては念頭になかったんです。そのあとですが、都会の人のなかには、フキノトウを季節の便りとして、大事にする人がいることを知りました。なんでみかん仕事で忙しい1月17日に、畑の草刈りをしたのか。分かりました。それがフキノトウを採るための、草刈りをする限界だったんです。程なくフキノトウが出てくる。畑が綺麗になっていないと、雑草のなかからフキノトウを見つけて、採るのは難しくなるんです。去年はそのため、花の開いたフキノトウを提供することになったということです。「農家の人は、自然と共に生きる」-そうした姿を感じた経験でした。今年は、タイムリーに、立派なフキノトウを提供しています。すこしですが、学習効果があったということです。
2025年02月12日
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鹿島・松が谷の地域図書館を充実させるために4月18日に開かれた鹿島地域懇談会は予算に見る八王子市政がテーマでしたが、そこで参加者の多くから八王子の図書館を充実させたいとの要望が次々に出されました。次回の懇談会は、5月16日「八王子の図書館を考える」をテーマとすることとなりました。今、その準備をしているところですが。私の手元に、40年前の一冊の本があります。こんな本も参考にしつつ、いくつか聞き取りをして、わかってきたことですが。一、最寄りの由木東出張所内にある図書館ですが、直接にはそれをどう充実させるかが議論のきっかけだったんですが。ところがこれは「図書館」ではなくて「図書室」だったんです。どういうことか。56万都市の八王子は、2019年3月に「八王子市図書館条例」が改正されましたが、それによると、八王子市の図書館というのは、以下の9館だというんです。 本館 八王子市中央図書館 分館 八王子市生涯学習センター図書館 八王子市南大沢図書館 八王子市川口図書館 分室 八王子市由木中央市民センター図書館 八王子市恩方市民センター図書館 八王子市由井市民センターみなみ野図書館 八王子市北野市民センター図書館 八王子市石川市民センター図書館となると私たちの身近かにある由木東出張所の中なある図書館というのは何か?それは「図書館」ではなく「図書室」だというんです。「由木東市民センター地区図書室」とのこと。八王子は広いから、集会所のなどに13か所のこうした「図書室」があるのだそうで、由木東はその一つだそうです。だからこの館内にある図書は見てわかるんですが、八王子全体でどんな書籍があるかはわかりません。ネットワークですが、分館、分室に行って検索しないとわからないわけです。職員の方は二人で、ボランティアであたられているとのこと。由木東図書室の貸し借りは、火、水、木、土曜の午後2時から4時の間は図書室にいるとのこと。あとの時間は出張所の事務室が、午前午前10時から午後6時まで対応するようなしていると。二、おそらく当地の図書館利用者は、近隣の多摩市の便利な図書館が近くにあるわけで、そちらを頼るようになっているかと思います。多摩市中央図書館を検索すると、その中央図書館の機能がユーチューブで紹介されています。また、お隣の日野市の図書館は、もう40年も前ですが、『図書館の誕生-ドキュメント日野市立図書館の20年-』(関千枝子著 日本図書館協会 1986年)どういうわけか、そんな本が手元にあったんです。この図書館づくりに日野市民が、行政とともにどの様に努力してきたかの記録ですが、そこには、どの様な大きな課題があるのかが見えてきます。使いやすく、充実した図書館づくりの成果が、すぐ近くの多摩市にあって、実際に、私などもそれを部分的に利用させてもらっているわけですが。しかし、八王子市民の立場からしたら、どのように自らの八王子市の図書館を充実させていくのか。学園都市、文化都市をうたっているわけですから、ただ『隣の市は便利で素晴らしい』だけですましていたら、遅れた僻地・鹿島松が谷での図書館の行政は、いつまでたっても変わるわけがないと思います。次の懇談会では、置かれた状況を確認しつつ、どの様な一歩が必要か、探りたいと思っています。
2026年05月14日
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ウメシロカイガラムシ対策の結果はどうか6月29日のブログで、ウメシロカイガラムシについて紹介しました。ウメシロカイガラムシが、ウメからお茶の木へ、お茶の木からミカンへと、飛び火して広がりだしていることを紹介しました。6月14日時点のお茶の木です。 (6月14日)白いススのようなものに包まれた核がカイガラムシです。どうやら今年は、うちだけではなく、多くの園で広がっていたようです。JAかながわ西湘「営農経済センターだより」7月号にも、「発生が多かった園では防除」を実施するよう注意がでていました。当方は、6月27日にスブラサイド乳剤を散布しました。カイガラムシ・アブラムシ・カミキリムシ対策をかねていました。ミカンの木から、お茶の木から、全体的に散布しておきました。7月4日のお茶の木です。散布から一週間が過ぎていますが、効果のほどはどうか。 (7月4日)白いススのようなものは残っていますが、その中にいた白い核-ウメシロカイガラムシは、見た限りでは、いなくなっています。繁殖して飛び火し、広がりつつあったのは、どうやら止めれたようです。しかし、まだ十分ではないと思っています。ミカン畑の全体に散布したのですが、部分的に散布が粗くなった所もあったことは確かです。その後の状況を確かめてから、天候が許し次第、もう一度たたくつもりです。
2009年07月10日
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