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「伊豆の旅」の準備、修禅寺とその周辺を歩く
「伊豆の旅」の下見紹介も15回目、そろそろ一区切りとすべき時です。
10月も半ばを過ぎると、そろそろみかんの収穫も始まりだします。
そうなると、行動範囲も、時間も、動けるのは限られてきます。
それで、この10月初めまで、「伊豆の旅」準備に集中したわけです。
ひと休みして、これからの収穫にそなえなければなりません。
さて、今回は、中伊豆の中心にある修禅寺です。
10月6日の西伊豆行きは、まず修善寺を見てからの移動でした。
その修禅寺ですが、駅や街の名は修善寺ですが、お寺は修禅寺でした。
これまではすべて耳でのことでしたから、
この区別をまったく知らなかったのですが。
修禅寺の正面、山門の前です。

古くから修善寺の街は、温泉町であり、門前町だったのでしょう。
この街の道はどこもたいへん狭くて、車社会がはじまる以前のつくりです。
修善寺の小さな街は、徒歩での散策がもっぱらで、車は邪魔になります。
修禅寺の正殿です。歴史と風格が伝わってきます。この右側に宝物館がありました。

この修禅寺から、左の方向に細い路地を500メートルくらい歩いたところに、源範頼(のりより)のお墓があります。

源範頼は、頼朝の弟で、平家追討軍の総大将でした。
源頼朝は、平家を壇ノ浦で滅ぼしたあと、
まず弟の義経を、命に従わなかったとして会うことを拒み、やがて追討します。
その後で、弟の範頼を反逆の疑いありとして修禅寺に蟄居させ、自害させます。
さらに梶原景時ら武士団を派遣して、その家臣13士を殺害しました。
この範頼の墓は、兄弟げんかの結果だったんですね。
権力の集中がからんで、近親者とも相いれなくなり、
なにかの口実をみつけては自害や殺害へと追いやっているんですね。
もし、頼朝がこれを建てたとしたら、またはそれを認めていたとしたら、
殺害を命じた頼朝自身について、自らの罪滅ぼしの意味でもあったのでしょうか。
なかなか和を生かせず、御家人の間での権力闘争の厳しい鎌倉幕府のようです。
いずれにしても鎌倉幕府にとっては、ここは鎮魂の地だったんですね。
ところで、その墓への細い道を歩いていたら、ネコが道の脇で毛づくろいをしていました。

近づいても、まったく人を気にしません。ガラパゴス状態です。
ここだけでなく修善寺の街を歩いていると、
あっちにもネコ、こっちにもネコと、ネコがたくさんいました。
(ゴチャゴチャたぐろしているではなく、チラホラくらいですが)
修善寺の辻辻に、どうしてネコがこんなに目に着くのか・・・

修禅寺の前に川が流れてますが、その反対側を歩いていてわかりました。
この小さな路地は案内プレートがあって、
それが「漱石の道」と名付けられていました。

そういえば、夏目漱石はこの修善寺の地を、療養の場所にしていた。
これだったんですね。
ネコが多いのは、漱石の『吾輩は猫である』の猫をもじっていたんですね。
ただ、これだけのガラパゴス状態というのは、一朝一夕にはできません。
住んでいる人はもちろん、観光客の人たちも、
ずーっと、それぞれがみな、ネコを大事にしてきていたんですね。
こうなると、わたしなども、長年積ん読してあった『吾輩は猫である』について、
この地を案内するためには、
やはり、ほこりを払って読んでおく必要を感じてきました。
この修禅寺の川の対岸には、指月殿がありました。それについては、また次の機会とします。
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