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郷里・真鶴からの旅立ち 自分史(その2)
私は
1950(
昭和
25)
年に神奈川県足柄下郡岩
(
いわ
)
村に生まれました。
今回は、郷里・真鶴からの旅立ちです。
一、〔
学びの経過〕
まず、年月が明確な学びの歩みについて確認してみました。
岩小学校
(1957
年
4
月‐
1963
年
3
月
)
、真鶴中学校
(1963
年
4
月‐
1966
年
3
月
)
、小田原高校
(1966
年
4
月‐
1969
年
3
月
)
です。
1969
年
4
月に法政大学経済学部にすすみました。
当時の岩小学校は、学年全体で
2
クラス・
62
名でした。今は真鶴小学校に統合されて校舎は使われてません。真鶴中学校は学年全体で
5
クラス・
200
人でした。今までに岩小学校の同窓会は、
1998
年
9
月
12
日に
1
回ありました。
35
年ぶりでした。真鶴中学校の同窓会の方は数回開かれています。
問題の「郷里・真鶴からの旅立ち」がいつごろになるのか、ふりかえってみたのですが。
その時々を、前へまえへとすすんできたわけで、それがいつかというと確かではないのですが。
今にして思うのですが、郷里からの旅だちというのは、
1966
年の小田原高校への進学したころになるのではと思っています。
真鶴から小田原までというのは、東海道本線の電車にして駅
3
つ目、乗車時間では
17
分間くらいなんですが。今では、郷里としては岩・真鶴も、小田原も大体同じ地域に見えるんですが。しかし当時としては、小田原高校に通うようになった時が、郷里を出て新たな生活に移りだした時だったんですね。
二、〔小田原高校
(1966
年
4
月‐
1969
年
3
月
)
のころ〕
小田原高校は、主に大学進学を志望する人たちからなる進学校でした。
私などの入学は、確か
510
人中の
170
番台での合格だったと思います。国立系、文科系、理科系などにわかれていき、学年で
9
クラスありました。私の高校生活は、クラブ活動では水泳部で、
3
年間をすごしました。毎日、放課後になるとプールで泳いでいたわけです。
このなかで、 2 年生の後期でしたが、生徒会の役員選挙に立候補しました。
何故、私が立候補したかですが、一般には、高校 2 年生の後期というのは、受験勉強にとって大事な時ですから、あまり生徒会に立候補するような人はいないんですね。大体、私などはそれまでプールで水泳に専念したいたものですから、おおくの学生にとって、「あいつは、一体何者なんだ ? 」といったところだったと思います。
当時をふりかえると、問題は受験校としての校風に対する反発を感じていたんですね。
学校生活は受験が中心になっていて、授業も「この問題は、何年のどこどこの大学入試に出たから大事です」とか、「今時、クラブ活動なんかしている時ではなかろう」とか、そうした風潮があったわけで、それがお互いの壁になっているし、逆立ちしていると感じていたんですね。
当時をみると、全国的なべトナム反戦運動や各地の学園民主化の学生運動などもひろがっていた。それらが背景としてあったと思います。
しかし、私などは、自己の狭い世界でしたから、そうした社会事情も知らないし、そもそもひと前に出て話すなんてこともなかったわけですから、この立候補などということはありえないはずです。いったい何が突き動かしたんでしょうね。
「学園の逆立ちを正そう、壁を破ろう」などと説いたんですね。
当落が問題じゃなくて、問題を提起することが大事だと感じていたんですね。
そして、その結果は、生徒会の副会長に当選しちゃったんですね。
しかし、問題なのはそれからでした。
いまから思えば、受験社会の中で、その矛盾を感じたとしても、国の教育体制自体は、存在しているわけです。この生徒会選挙で提起した問題は何だったのか。いったい何をどうしたらよいのか、肝心な点が、私自身にもよくわかってなかったんですね。素朴な感覚的な抽象論でした。
任期の半年間
(9
月‐
3
月
)
ですが、結局、恒例のクラブの予算編成という仕事をこなしただけで、それ以外には何らこれといってなすこともなく過ぎてしまった。何が問題で、何をなすべきなのか、もやもやとした思いを残して任期を終えてしまったんですね。
三、〔母の死〕
この間にもう一つの問題がおきる。母が
44
歳で亡くなったんですね。
高校
2
年の時でしたが、ガンだったんです。
小田原の病院に入院していたんですが、ある日、授業の途中に「急ぎ、病院へゆくように」と呼び出しがありました。病院には、すでに家族がベッドを囲んでいた。母は、最期の力をふりしぼって、それぞれに言葉を残して、旅立っていきました。私には言葉はなかったんですが。
〔
1967
年
(
昭和
42
年
)11
月
29
日、母・文江、
44
歳にて死去〕
私にとって、身近な人が亡くなるというのは初めてでした。
人の死ということが解らなかったんですね。母は、私などのすることには、あれこれ口出しもせずに、小言もなく、どこか後ろの方で見守ってくれている存在でした。家の外でいろいろ社会活動をしていたようですが、私などの理解の外でした。当たり前な、自然な存在でしたから、それが無くなったことの意味が、すぐにはわからなかったんです。
あとからなんですね、おりふしに、亡くしたものの大切さを、じわじわと感じるようになってきたのは。
44
歳の死というのは若いし、私などはとっくにその歳を越してきてしまいましたが。
しょうがないのですが。
四、〔「歴史研究会」‐学習サークル〕
こんなことで、高校三年のころには、あれこれ問題がかさなって暗中模索だったんですね。なにが問題なのか。時には禅の悟りを探ろうとしたり、キリスト教などの宗教の集まりに顔だししてみたり、ニーチェなど様々な哲学を探ってみたり、何やかやと生き方を探っていたんですね。
もちろん三年生ともなれば進路の問題、受験勉強もありました。
高校三年生の後期でしたが、「歴史研究会」というサークルを作りました。
同じように模索している人たちの
10
人くらいのメンバーでしたが。生徒会などで知り合った人たちです。それぞれ個性ある知人たちで、地域の公民館などをかりて、学習と討論をしていたんですね。
日本の社会状況も、少しずつ見えてくるようになりました。この中で、マルクスの思想やロシア文学なども学習しました。それぞれ個性ある人たちでしたから、いろいろ議論する中で、切磋琢磨しあいました。
今ふりかえると、これは半年くらいの短い期間でした。
それぞれが高校を卒業するとともに、別々の進路に分かれていったわけですから。
私などは「経済学を学びたい」ということで、法政大学の受験をめざした。
幸いも合格できたんですが。
1969
年
4
月からは、東京に新たな生活を移すことになりました。
結果として、この高校時代が、故郷・真鶴からの旅立の時だったと、あとからふりかえってですが感じています。
そして、 1969 年 9 月には、市ヶ谷の法政大学にかようために東京に下宿をしたのですが、これが名実ともに故郷からの旅立ちの時となりました。
http://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201410270000/
〔
10.13
「生い立ち‐私が生まれる前まで
-
」
(
自分史 その
1)
に続く、その
2
です。
いままで自分自身を、このようにふりかえることはなかったのですが、それから時は
40
年以上も前のことですが、一つの自己整理ですね〕
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