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『経哲草稿』15 ヘーゲル弁証法の問題点について
マルクスの『1844年の経済学哲学草稿』のヘーゲル哲学批判の続きです。
問題は唯物弁証法の世界観がどのような努力(検討によって)でつくられたかということです。
エンゲルスは『フォイエルバッハ論』(1886年)において、マルクスが1883年に亡くなったあとですが、こうした内容についてのエッセンスを紹介していますが。
いわば無名の若いころの二人には、この探究過程-世界観の確立過程については、なかなか発表できる機会がなかったんですね。
この主題では、ともに、マルクスとエンゲルスの共作ですが、
1859年の「カール・マルクス『経済学批判』(書評)」と
1876年-78年の『反デューリング論』、この二冊があるんですが。
前者については昨年の2021年9月26日に紹介しました。
ヘーゲル『大論理学』35 マルクスとエンゲルスのアドバイス | みかんの木を育てる-四季の変化 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)
マルクスのヘーゲル哲学批判ですが。
1843年の『法の哲学』(国家論)の批判に次ぐものですが。
ここでマルクス(当時26歳)は、ヘーゲル弁証法そのものを検討しています。
この『経済学・哲学手稿』では、前回に続いて、ヘーゲルの『現象学』の最終章「絶対知」において、冒頭の一節をとおしてヘーゲル弁証法を検討しています。
その一節を8つの文節に区分して検討していますが、前回は第二文節の「自己意識の外化が物性を措定する」について紹介しましたが、今回は第六文節の「他在そのものの中でおのれのもとにある」を検討しています。
岩波文庫『経済学・哲学草稿』(城塚登・田中吉六訳1964年刊)では、P209から215です。
一、どの様な文章が問題なのか。
ヘーゲルが弁証法について述べたものですが、同じことを「序論」では次の様に述べてます。
「学問においては、充実した内容の魂としてみずから運動していく。そのさい、存在者がどう運動していくかというと、それは一方では、みずから自分に対して他であるものとなり、他者に内在するものとなる。他方では、この展開された自分の現存在を自分のうちへとりもどす。一方の運動においては、否定性は区別し現存在を定立するはたらきである。他方の自分に帰る運動においては、否定性は規定された単純性が生ずることである。」(『世界の名著』中央公論社 山本信訳 P130)
このいち文について、マルクスは7ページにわたって問題にしているわけです。
ここに「ヘーゲルのにせの実証主義、見せかけだけの批判主義の根がある」と分析してます。
それはどういうことか。
細かく追跡することは出来ませんが、中心とおもわれる点を紹介します。
二、 『意識がそれの他在そのもののうちにあって自己のもとにある』-
二つの問題の指摘があります。
一つは、「意識が他在そのもののうちにある」、思考におのれの力以上のことをさせている点です。
「思考が他在そのものとなる」と。思考は疎外された対象そのものをとらえれるのか、この点をいってます。それとも対象性という思考なのか、だとすればそれは唯心論ですが。
これはフォイエルバッハが批判している点でもあります。(『将来の哲学の根本命題』第30節)ようするに唯物論か観念論かの問題です。
もう一つは、これが問題なんですが、ヘーゲルの「否定の否定」にある問題です。ヘーゲルの弁証法観にある問題です。これもやはりフォイエルバッハが指摘している問題ですが。「ヘーゲルによれば否定の否定は真の肯定である。結局、最初の出発点に、キリスト教のふところにもどって来る」(同 第21節)。
これはどういうことか。
ヘーゲルは、仮象の現実からその本質をとらえるとしますが、ところがその本質(現実性)からそれの現れたものとして、仮象の現実そのものを現実性であるがごとく是認してしまうとの問題をもっているんです。そうしたことを「他在そのものの中で自己である」といってるんです。
どういうことか。
具体的な例をあげるとすれば、プロイセンの専制国家はヘーゲルにとって現実ではあっても、現実性ではないんです。しかしヘーゲルは政治哲学の中で本質的な政治体制を思考して彼の哲学の中に、頭のなかに理想を描く。次に、その理想の現れたものとしてプロイセンの専制国家を曖昧な言葉で認定するがごとく表明していく。
フォイエルバッハは、宗教と哲学との関係ではヘーゲル哲学の問題点を指摘しているんですが、マルクスは、もっとことがらは一般的なもので、『法の哲学』にも、『論理学』にも、『自然哲学』にも、
「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもの」、ことごとく関連してくる問題だと。
その一つの形が、『止揚』という言葉で、「論理的に」つなげるかのようなごまかしです。
マルクスは『法の哲学』の例をあげてます。『論理学』の例もあげています。
ようするにマルクスは、その根本にはヘーゲルの「否定の否定」のとらえかたに、弁証法というもののとらえ方の問題がある。現実の関連から概念をみちびきだしてくるんじゃなくて、概念がはじめにあって現実はその現れだとするヘーゲルの「概念の弁証法」に、観念論の考え方に原因していると洞察し、それを論証しているんです。
まぁ、私などは、そのように読み取ったんですが、いかがでしょうか。
今回は、ここまでです。
次回は、「ヘーゲル弁証法の肯定的な契機-疎外の規定の内部での-をとらえる」です。
このおかしなヘーゲル弁証法ですが、マルクスはその中な貴重な成果があると示唆してますが、はたしてどうでしょうか。
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