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自閉症関係の映画は結構観てきたので、もういいかなと思っていたのだが、考えてみればほとんどが外国作品だった。一方これは、劇映画とはいえ、まぎれもなく邦画である。自閉症の主人公を演じる俳優さんは、当事者ではないが、なかなか上手い。母親役の加賀まりこさんや、脇を固める役者さんたちも、それぞれいい味を出している。自閉症者はどうしても行動が奇矯である。周りから奇異に思われる。本人はすこぶる真面目なのだが、どうしても周囲から誤解されてしまう。誤解されても、それに反駁できる言語能力をもてない人が多い。都会は面倒だ。狭いところに、人々がひしめき合って暮らしている。忠さんも、誤解がもとで折角入ったグループホームを出なければならなくなった。だが、真相を話したところで、隣家の子どもが悪者になるだけだし、関係者全員が気まずい思いをするだけだろう。その気まずさはいつしかシコリとなり、何かの機会に爆発してしまうかもしれない。それよりは、子どもの家族に恩を売り、失礼、仲良くなり、今住んでいる古民家をグループホームに改造しようとなった時、反対できないように味方につけておいたほうが良い。あいて打算的に書いてしまったが、洋画流に筋を通したって何の解決にもならないどころか、かえってこじらせてしまうのが、日本という社会なのである。梅切らぬバカ 【DVD】
2021.11.30
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原作は『自閉症の僕が飛び跳ねる理由』だけれども、原作者の東田直樹さんの伝記映画ではない。実のところ自閉症者の自伝はたくさんあり、日本人が書いたものもあれば、日本語に翻訳されたものも多い。このブログでもいろいろ紹介しているので、興味のある方は当たってみるといいと思う。ただ著者は圧倒的に女性が多く、男性はわずかであり、日本人の、しかも中学生の著書としては初めてではなかろうか、と思う。だからこそーーその圧倒的なわかりやすさにおいて、彼の本は30ヶ国以上において翻訳され、ベストセラーになり、共感を得たのだ。時代のせいもあるのだろうけれども、これはテンプル・グランディンさんにもドナ・ウィリアムスンさんにもできなかった偉業である。本作に登場する主な自閉症者は5人。知的障害のある方もない方もいるけれども、みな発語は苦手か困難だ。地域的に自閉症者が「悪魔憑き」として忌み嫌われていた国や民族もあり、省みて日本はどうだろうと思う。宗教的偏見こそなかったものの、同調圧力による白い眼は結構強かったのではないか。あるいは現在でも。【中古】【古本】跳びはねる思考 会話のできない自閉症の僕が考えていること イースト・プレス 東田直樹/著【教養 ライトエッセイ 人生論】【中古】 風になる 自閉症の僕が生きていく風景 /東田直樹(著者) 【中古】afb【中古】あるがままに自閉症です 東田直樹の見つめる世界 /エスコア-ル/東田直樹(単行本)【中古】 自閉症の僕の七転び八起き / 東田 直樹 / KADOKAWA/角川学芸出版 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】
2021.05.23
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画面は映画『キッド』の一場面から始まる。聞きなれない言語。アメリカではない。どうもイスラエルらしい。父と息子。息子は自閉症だとすぐわかる。すごいことだ。本当に自閉症になりきっているみたいにこの俳優は上手い。ベースは実話。父は息子を愛してきた。二人でずっと生活してきた。息子は母になつかない。それが原因で別居したのか、どうか。何があったのかは観客の想像に委ねられている。ともあれ、父親もいつまでも若くはない。いつか、別れの日がやってくる。とくに裁判所命令で施設に入所させるように言ってきた場合は。父親は、息子のために定収入まで投げうったのだ。母親は、何をしたのだろう。二人の逃避行は、そのままチャップリンとジョンの逃避行にシンクロする。だが、金はいつまでも続かない。友人や、兄弟も、彼のやっていることに全面的に賛成、というわけでもない。終りの日は、強制的にやってきた。だが、結果的には、それでよかったのだ。夫婦は歩み寄り、息子も成長した。施設の職員もきちんと彼に対応していた。その証が目に見える形で残っていた。父親はさびしくも、安心して旅立つ息子を見送った…
2021.04.24
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『最強のふたり』の監督が贈る、愛と感動の映画。ドキュメンタリーではないが、実話に基づいて制作され、ジョセフ役の青年は本物の自閉症である。また、重度の自閉症を演じる俳優は定型発達であるが、弟がやはり重度の自閉症だという。だがそんなことは此処を見ていただければわかることだ。感想に移ろう。「寄港」は社会に挫折した若者が介護士として働く派遣会社。「正義の声」は、「寄港」の若者たちが働く自閉症ケア施設だ。親の評判も、病院の評判もいい。だが、日本の厚生労働省に当たるフランス厚生省は、この二つの施設に目をつけた。ともに無認可で、無資格にもかかわらず、運営しているという理由で。いかにもお役所らしい考え。洋の東西を問わず、役人が考えることは同じ。でもジョセフの母親は言ったよ、「私が死んだらどうなるの? あの子がまた隔離されるくらいなら、あの子と一緒に死ぬわ」これって親子心中ってことだよね? キリスト教も仏教も自殺を禁止しているけれど、やっぱり人の心に国境はない。お役所の人たちが病院のスタッフに言ったこと。「こういう無認可の施設を野放しにしたら、真似をするものがあとからあとから出て来はしませんか?」「ありえません」即答だった。そうなんだよ。ありえないんだ。どこにそんな物好きがいるものか。重度の自閉症の成人に小突かれながら、彼らの世話をしたい、してもいいと思う人たちがいるものか。面倒だから閉じ込めてしまえ、でポイだ。その結果どうなるか。人間扱いしてもらえなかった彼らの心がどんなに破壊され、傷つけられるか、あなた方に分かるか? それとも彼らは人間ではないというのか? ナチスのように。よろしい。そんなに言うなら閉鎖してもいい。その代わり、全員、引き取ってもらおう。あなた方にそれができるのなら。そう言うと、すごすごと引き下がる役人たちだった。ざまあみろ!ジョセフ役の青年の演技を見るだけでも、この映画は鑑賞の価値がある。「逃げろ!」そして生きろ! 社会につぶされるな!スペシャルズ! 〜政府が潰そうとした自閉症ケア施設を守った男たちの実話〜 [ ヴァンサン・カッセル ]
2020.09.26
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監督の今村彩子さんは聴覚障碍者である。友達のまあちゃんは聴覚過敏者である。まあちゃんはストレートな物言いが好きだ。だから音声言語より手話が好き。ということでまあちゃんは監督の通訳になった。めでたしめでたしとはならないのが映画である。ましてやこれはドキュメンタリー。まあちゃんは実はアスペルガーでうつだった。うつの方はおそらく二次障害だろう。彼女は自分をよく知っている。どうにもならない自分をよく知っている。監督ははじめ、コミュニケーションが苦手なマイノリティ同士ということで「分かり合える」と思っていた。でも現実はそうではなかった。友達なんだけど友達やめるという宣言には、「アスペルガーだから」と理解者ぶるのをやめた、という意味が含まれている。そういうのも全部含めたダイアリームービー、それが本映画である。監督には失礼だと思うのだけれど、これってまんま男女の関係じゃん、と思ってしまった。あるいは国際カップルでもいいや。文化や背景やものの考え方や感じ方が違う人間同士が、それでも絆を大切にするために、本音を話し合い、妥協点を見つけていく過程と結末。見方は人それぞれだろうけど、そんな風に感じた。百聞は一見に如かず。できれば実物を見ていただきたい、そうして違う感想をもっていただきたい、と思う。[書籍のゆうメール同梱は2冊まで]/スタートラインに続く日々[本/雑誌] / 今村彩子/著
2020.09.19
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灘校から東大に進学した著者の、半自伝的小説。半、としたのは主人公の苗字が「ヤダ」だからだ。「嫌だ」を連想させるこの名字を選んだのはおそらく意図的なものだ。つまりそこからしてフィクションなのである。なお、登場人物もみんなこんな感じだ。父親は父親、母親は母親だが、友達や先生の名前はコウ君とか、カタカナで登場する。章立てを見てみよう。最終章を除いてはどれも、「志望」あるいは「絶望」のタイトルで締められている。志望がコロコロ変わったのは、「挫折」を経験したからという理由があるにせよ、やはり中高生だな、という気がした。そうやって少しずつ、自分の向き不向きを見定めていくのだ。もっとも中学生の頃の著者の成績はあまり芳しいものではなかった。ラジオの深夜番組にハマっていたせいもあるが、要領がつかめていなかったせいもある、という。生徒会にも立候補したが、大差で負けた。それも何度も。「物語」としては、『次郎物語』や『太郎物語』をもっと俗っぽくした感じである。著者は自分自身を頭がよくないと繰り返す。だが、いかに受験が要領で、数学が解法を暗記する科目でも、それなりに頭がよくなければ成績は上がらない。本当の頭の良さは確かに「才能」かもしれないが、和田氏がつかんだ要領さえつかめない「頭の悪い」生徒が、全国にはごまんといるのである。けれどもそれがあまり嫌味に聞こえないのは、ヤダ君が不器用で、失敗ばかりしていて、本人が言うように(著者は精神科の医者である)発達障害の気があるからだ。ああ、こんな秀才でもこんな思いをして高校生活を送ったんだな、あんまり自分たちと変わらないじゃん、と読者の共感を呼ぶのだろう。灘校物語【電子書籍】[ 和田 秀樹 ]灘校物語 / 和田秀樹 ワダヒデキ 【本】
2020.03.01
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IQが低い自閉は知的障碍者として扱われ、良くも悪くも進路が決まり、年金がもらえ、福祉の対象になります。ちなみに、税金よりも国債で賄われると考えた方がよく、その分お金廻りがよくなって、社会の景気を下支えします。国の借金は国が返せばいいのであって、国民は税金という形でそれに協力すればいいのです。IQが高い自閉は一般に先生と呼ばれる職業に就きます。学校の先生はその中でも底辺のカーストで、それも小学校や中学校は向かないと思います(どちらかというと勉強を教えてればいい塾講師の方が適職)。作家や画家、弁護士や医者、大学教授といった、一般の人が持っていない特殊技能・能力で世の中を渡ることができます。弁護士で思い出しましたが、検察や裁判官などもIQが高い自閉の牙城です。何しろ法律は絶対なので、それに従っていれば間違いはありませんから(自閉が権威に弱いのはこのためでもあります)。交通課の警察官なんかも適職だと思います。また特殊技能という意味では、技術者や職人も自閉向きです(上記の職掌の人がみな自閉というわけではありません)。自分を守ってくれる特殊技能もなく、福祉のお世話になるにはプライドが高すぎる(当たり前ですが)中間層がもっとも生きづらい。精神保健福祉手帳はあまり役に立ちません。年金も、「この人は働けません」という精神科のお墨付きで雀の涙ほどが交付されるくらい。身体障碍者や知的障碍者に比べて額が低いのは、「精神障碍者怖い」というかつての意識の名残りかもしれません。この層には自分が自閉であることの自覚と、社会と折り合いをつけていくためのスキル、それを身につけるための努力が必要になります。働くにあたっては、障碍に対して理解ある職場を求めると同時に、自分の長所と短所をきちんと把握し、引くときは引く、謙虚な姿勢が大切です。自閉の一人として、就職を目指す中間層の自閉に向けてのつたないメッセージ、ご清聴ありがとうございました。
2018.12.27
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子どもの多くは結婚によって生まれる。結婚の基礎的条件は愛と収入である。高収入の職業はいろいろあるが、専門職と言われるものがある。医者、弁護士等法曹関係、エンジニア、学者、警察官等。地方では高校の先生も入れていいかもしれない。これらの職業には、知的障害のない自閉症の人が、適性上ほかの職業より多い。結婚する人も多い。女性が放っておかないことが多い。自閉症は多因子遺伝で、必ず発現するとは限らないが、遺伝子は受け継がれる。一言でいえば、現代の高度情報化社会においては、自閉症的傾向を持つ人の遺伝子が子孫を残しやすい条件がある。したがって、自閉症の人は増え続けるだろう。その因子があまり濃いと、知的障害を伴うかもしれないが、それもやむを得ないことだ。
2018.04.30
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進路の先生から要望があって図書室に排架することになった一冊。「鉄太」というのは、作中ではもちろん本名だが、鉄道マニアということから、らしい。鈴木姓にしたのは、日本全国どこにでもこんな子どもたちがいますよ、ということなのだろう。鉄太君は特別支援学校を卒業し、障害者枠で雇用された新入社員。マンガで見る限り知的障害はあっても軽度で、発達障害の方がクローズアップされている。それもバリバリの自閉スペクトラム症だ。内容についてはここを見ていただくのが一番いいと思う。とくに、批判はない。とくに批判はないのだけれど、読んでいて、つくづく、日本って本当に集団同調圧力の強い国だなあ、と改めて思ってしまった。この国から、グーグルのような企業文化は逆立ちしても生まれないだろう。まあここでいくら愚痴っても蟷螂之斧。日本の企業文化が変わるわけじゃなし、有益な実用書には違いない。知的障害・発達障害の人たちのための マンガ版ビジネスマナー集 鉄太就職物語 [単行本(ソフトカバー)] [Jul 22、 2015] 中尾 佑次9784863713192【中古】
2017.07.30
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副題を~「『光とともに…』が遺したもの~」という。戸部けい子氏の漫画は、別巻も含めて、先ごろ完結した。光とともに…全15巻 完結セット戸部 けいこ【全巻セット】【中古】中古コミック 02P03Dec16 楽天カード分割光とともに…〜自閉症児を抱えて〜 別巻【電子書籍】[ 戸部けいこ ]本書は、自閉症で知的障害の子どもたちが、ファミリーやボランティアの支援を得ながら、アスリートとしてバスケットボール、フロアホッケー、テニスに生きがいを見出していく物語である。ファミリー、ボランティア、アスリートそれぞれの人間関係のドラマが魅力。詳しくはこちらを参照のこと。チャレンジ!/鳴母ほのか/スペシャルオリンピックス日本・東京【2500円以上送料無料】
2016.12.03
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スウェーデン映画。シモンはアスペルガー症候群。わけあって兄貴と兄貴の彼女と同居することになったけれど、シモンの奇行に耐え切れず、彼女は出て行ってしまった。責任を感じたシモンは、何とか兄貴のために新しい彼女を見つけようとするが…シモンを見ているとまるで自分のようだ。あんなに触覚過敏ではないし、あんなに時間厳守でもないけれども、自分の気持ちはわかるくせに人の気持ちがわからないところなんかそっくりだ。難しい物理や天文学の本を読めるくせに、仕事は清掃業というアンバランスさも。でも本人は不幸じゃない。かつて院卒の掃除夫だった不具にはよくわかる。映画の展開と結末は平凡だ。昔からのア・ボーイ・ミーツ・ア・ガール式でエンドマークまで予想はつく。ただアスペルガーというモチーフは現代的。いわゆる不易流行というのであろう。
2014.08.23
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久々に自閉症者本人が書いた本を読む。今年で二十歳になる著者が、15歳の時に綴ったものだ。自閉症について書かれた本はどうしても外側から観察されたものの方が多い。しかし本当のことを理解するには、内側、つまり当事者本人が語る「肉声」に耳を傾けるのが一番だ。とくに男性の手記は数が少ないので、貴重でもある。また著者が十代ということもあり、文章が子どもっぽくはないがわかりやすく、本書は自閉症の理解に対する格好の入門書になっている。東田さんには文章の才能がある。物語を書くこともできる。本書の巻末には短編小説「側にいるから」が添えられている。彼の本はこれ以外にも何冊か上梓されているので、興味のある方にはぜひ読んでほしいと思う。【送料無料】 自閉症の僕が跳びはねる理由 会話のできない中学生がつづる内なる心 / 東田直樹 【単行本】【送料無料】自閉症の僕が跳びはねる理由(続) [ 東田直樹 ]【1000円以上送料無料】この地球にすんでいる僕の仲間たちへ/東田直樹/東田美紀【100円クーポン配布中!】【送料無料】 きらんきらん / 赤い実 東田直樹の創作童話 / 東田直樹 【単行本】【1000円以上送料無料】自閉症の僕が残してきた言葉たち 小学生までの作品を振り返って/東田直樹【100円クーポン配布中!】【1000円以上送料無料】ヘンテコリン/東田直樹【100円クーポン配布中!】【送料無料】自閉というぼくの世界 [ 東田直樹 ]買取時のポイント10倍!本・ゲーム・DVDなどお売り下さい【中古】afb きかんしゃカンスケ /東田直樹【作】,唐沢睦子【絵】【送料無料】勇気はおいしいはず [ 東田直樹 ]
2012.10.07
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パトグラフィ、とは病跡学、と訳します。もっとわかりやすく言えば精神病理学、とでもいうのでしょうか。ただ病跡学という場合、特定の個人(ここでは「天才」)の生い立ちやら家族関係やら精神心理状態やらを分析して、なぜこの人はこうなったのかを解き明かすという意味合いが強いようです。どこかで聞いたことのある著者名だな、と思ったら、足利事件で菅家さんを「代償性小児性愛者である」と断じた方でした。まあそれは置いておくとしても、先生よほど天才がお好きなようで、『天才の精神分析』なんて本も多数あります。いうまでもなくこの分野の古典はクレッチマーの『天才の心理学』でして、福島先生はそれにフロイトの精神分析を掛け合わせ、さらに日本の天才たちを精神病理学的に分析したところが独自性というか、この分野の権威になられたゆえんでしょう。精神分析学は良くも悪くも物語的です。現在フロイトにはいろいろな立場から批判がでていますが、今それについてここでコメントするのは差し控えましょう。ただ、宮沢賢治との出会いから始まってさまざまな天才たちの足跡を精神病理学的に分析する著者の道筋も、多分に物語的だと思う、と書くにとどめておきます。さらに言うなら、先生がこの本を書かれた当時(1984年)、発達障害という言葉はかけらもありませんでした。天才必ずしも発達障害者ならず、ではありましょうが、従来精神病者乃至精神病質と考えられてきた天才の心理学を、「発達障害」という視点からあらためて分析するのも、有意義なことではないかと思います。大掃除してたら出てきた本ですが、「水とりゾウさん」の中身がこぼれてびしょびしょになっていたので、読了後処分することにしました。処分本No.206。宮沢賢治石川啄木ダーウィンエジソン空海エドガー・アラン・ポーボードレールストリンドベルクスウェーデンボルグ古賀春江(画家)ジャン・ジャック・ルソー(パラノイア)ゴッホゲーテ(双極性障害)夏目漱石フーゴー・ウォルフ(音楽家)シューマンチャイコフスキー(双極性障害、同性愛者)ムンク三島由紀夫ヴィルヘルム・ライヒ(性の解放)アラビアのローレンスモーツァルトドストエフスキー(てんかん)ストラヴィンスキー(音楽家)カフカグスタフ・マーラーレオナルド・ダ・ヴィンチニュートンフロイト芥川龍之介ミケランジェロヴァージニア・ウルフ太宰治川端康成谷崎潤一郎は、どの本を読んでも、やっぱり、出てきませんね(笑)。天才の心理学価格:903円(税込、送料別)
2011.01.10
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自身が発達障害者だというお医者さんが書いた、「大人の」発達障害に関する入門的な本。アスペルガーもADHDも学習障害もひとまとめにして「発達アンバランス症候群」としているところがミソ。こういう本もあるので著者の完全なる独創とはいえませんけれども、卓見だと思います。大人のADHDは治る、とありますが、これは勿論条件付。周囲の人の理解やサポート、適切な職業選択、本人の自助努力、薬物療法などを併用しての話です。なお発達障害には遺伝的要因もありますが、これは筋ジストロフィーのようなはっきりしたものではなく、さまざまな要因が組み合わさって起こる家族性のもので、多因子遺伝だと思われます。つまり組み合わせによって発症したりしなかったりすると。さらに昨今のインターネット普及によるネット依存、ゲーム依存、環境ホルモン、核家族化による虐待や育児放棄、食品添加物などなどが、後天的な「発達障害」を引き起こしている側面もあると考えられます。このあたり、『アスペルガー症候群』と併せて読むと興味深いでしょう。最後に、本書に出てくる発達障害者のリストをあげて終わります。ベートーヴェンモーツァルトレオナルド・ダ・ヴィンチピカソダリ織田信長平賀源内坂本龍馬南方熊楠【送料無料】発達障害に気づかない大人たち
2011.01.07
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『ガイドブック アスペルガー症候群』より廉価で読みやすいアスペルガー症候群の概説書。新しい分、最新の研究の知見が載っているのでこちらの方がお得だと思います。内容については、不具にとっては思い当たること満載なので、あえて書きません。ただ、著者がアスペルガー(周辺者も含む)として挙げたリストには、意外な人物や聞き慣れない名前も混じっていました。なお、本書ではアスペルガーを言語性知能比較優位、高機能自閉症を動作性知能比較優位として両者を区別しています。ビル・ゲイツイェイツ(詩人)フローベールウィトゲンシュタイン(哲学者)アインシュタイントマス・ジェファソン(アメリカ独立宣言起草者・大統領)ダーウィンキルケゴールジョージ・ルーカス本居宣長プルーストチャーチル益川敏英(整理整頓が苦手)野口英世(同上)アンデルセンアラン・チューリング(数学者)宮沢賢治グラハム・ベル三島由紀夫ドナ・ウィリアムス(境界性自閉症)アドルフ・ヒトラー井深大(ソニー創立者)エジソンウォルト・ディズニーテンプル・グランディン西田幾多郎アントニ・ガウディ(建築家)ヒッチコックゴッホユトリロ(画家)アンリ・ルソー(画家)デレック・パラヴァチニ(盲目のピアニスト)ザメンホフ(エスペラント語の作成者)マハトマ・ガンジーブラームスルイス・キャロル嵯峨山登【送料無料】アスペルガー症候群
2011.01.06
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親と現場の先生にとって、また当事者にとって大変参考になる本。そういう意味では必読書といってもいいと思います。脳性マヒの不具が自分のことをアスペルガーだと自己診断したのも、この本がきっかけでした。症候群とあるように、ここには、いわゆる自閉症的アスペルガーのみならず、脳性マヒの後遺症として自閉症的症状を呈した人も含まれています。このことについては、さんざん過去のブログでも書きましたので、ここでは繰り返しません。唯一本書の中で不具に当てはまらないのは「フィクションよりノンフィクションを好む」というところですが、アスペルガーだってフィクションを楽しむことを知っている人はいます。まあそういうことで。ガイドブックアスペルガー症候群
2010.04.03
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年度末の学校は、異動のない先生に限り、一年のうちで唯一年休がとりやすい期間である。まるまる一日年休をとられる先生もおられるが、不具はまだ書類の整理等が残っていたので学校にきた。しかしそれも午前中で大体終わってしまい、残った時間に読んだのが図書館から借りてきた本書である。内容については、うなずくところも多かったし、ヒントもいただいたが、ここで紹介するのはやめにする。こういう本は、結局、そういう児童・生徒の関係者でないとわからないと思うからだ。というより、具体的なA君、Bさんを頭に思い浮かべてこそ、書いてあることが血肉化するものだからだ。出版は平成15年。日本の特殊教育が、ようやく特別支援教育に衣替えしようとする、夜明け前に出された本である。自閉症児の教育と支援
2010.03.29
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論より証拠。以下引用。判断は自己責任で。「自閉症スペクトラムでも高機能の人の多くが、無職でいるか、能力に見合った職を得ていない」世界で最高クラスの頭脳の持ち主や、とりわけ優れた発明・芸術・思想を生み出した人の一部は、自閉症の特質をもっています。たとえばアルバート・アインシュタインとビンセント・バン・ゴッホは、いずれも幼児期に発達上の異常をいくつか示していました。アスペルガー症候群の多くの人は、大学では優れた能力を発揮しますが、卒業後にひとつの仕事を続けていくのが困難です。自閉症スペクトラムの人はしばしば自分の好きな話題に集中しすぎ、その話題について間断なくしゃべりつづけ、もうやめろという他者からの社会的な手がかりを見逃してしまいます。また、過剰な刺激を受けた時や不安になった時はほかの人を無視することもあります。「耳で聞いた情報を正しく理解・認識・処理できない」自閉症スペクトラム障害のある人は、外の世界からくる情報をうまく処理できません。初めての状況に立ち向かうときの不安感は大変なものです。感覚処理にまつわる問題があるため、よくいらいらしたり腹を立てたりします。かんしゃくは、過剰な不安感と苛立ちによってたまったストレスを発散する方法なのです。自分を抑えられなくなりそうだと気づいた時にどうするかを知ることは、人生勉強の中でも重要なことです。できるだけ意見を聞き、あなたのしている仕事に引き込んでください。私たちは、否定的な事柄を指摘する傾向、つまり、けちをつける傾向があります。そういった否定的な事柄は私たちの秩序感覚を乱すからです。もし誰かのいい間違いを正さなければならなくなったら、「これをこんなふうにやれば、もっとうまくいきますよ」などと言いましょう。「さまざまな選択を行う際の基準になる個人的な使命宣言書を作る」「目標を書いた紙を身の回りのあらゆるところに置く」私たち自閉症スペクトラム人間の多くには、具体的で視覚的なものが最も役立ちます。「常に才能を大切にする」「才能こそが仕事を維持する鍵になる」自閉症スペクトラムの人の頭脳は専門的です。ある特定のことは得意でも、ほかのことはそれほど得意ではないでしょう。「自営で働く準備をする」私たち自閉症スペクトラムの人間は、どんなにがんばっても「社交面で正常」にはなりきれないでしょう。私たち自閉症スペクトラムの人間の場合、ソーシャルスキルが完璧になることは決してないので、ほかに強みをもたなければならないのです。高機能自閉症やアスペルガー症候群の人は、ソーシャルスキルでの弱点を埋め合わせるため、仕事で並外れた才能をもっていなければなりません。才能豊かな自閉症スペクトラムの人はたくさんいます。しかし、どういうわけか成長過程でその才能が伸ばされず、報酬をもらえる仕事につながらなかったケースが少なくありません。一般的に、私たちには一度にひとつずつ作業をこなすような仕事が必要なのです。「相手を侮辱せずに否定的な事柄を伝える方法を学ぶ」あなたの同僚が気に入らなかったり、意見が合わなかったりするかもしれません。でも、相手には敬意を示し、意見の相違に寛容にならなければいけません。言い換えれば、自分が接してもらいたいように人に接するということです。指導的地位にある人に異議を述べる方法を知ることは、大切な勉強です。アスペルガー症候群・高機能自閉症の人のハローワーク
2009.03.17
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原題は『読者はうちの子を知っているかもしれない』。不具もADHDからHD(多動)を抜いたADD(注意欠陥)の気があるのでなんとなくわかる本。ああ、自分もこうだったなあ、と。とくに思春期まではホルモンバランス等の関係で二次障害としての反抗挑戦性障害が出やすいお年頃でもあるし。ただ大人になると社会性がついてきてADDだけが残るケースが多いと思う。万一反抗挑戦性障害がいつまでも残るようだと、一線を越えてしまう危険性もある。でもね。頭でいくらわかっていても、目の前にそういう子供がいてダメ出ししちゃうようじゃあ、まずいんだよね。特に一年目は研修で公開授業もあるし、その子との関係がぎくしゃくして学級運営にも支障をきたす可能性があるとなれば…。手のつけられない子それはADHDのせいだった
2008.04.12
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副題は「スロー・ランナーのすすめ」。ちなみに高森と書いて「こうもり」という(ペンネームだ)そうである。偶然だが、不具合も昔自分のことを獣でも鳥でもないこうもりだと規定していた。上野先生や内山先生との対談も面白かったが、当事者(に近い立場の人間)として、また同じ日本人男性の手記及び主張として、大変興味深く読ませていただいた。ただもちろん、全面的に賛同するというわけではない。著者の主張を三つに要約してみよう。一、障害者には障害者のままでいる権利がある。二、障害者が障害者のままで生活条件をノーマル化するのが真のノーマライゼーションである。三、障害者にはゆっくり、ときには回り道しながら発達する権利がある。一見して結構な唱導のようにみえる。気になるのは、理念の運用面において著者が(発達)障害者への治療・教育的アプローチを最小限にとどめるのが望ましい、と主張している点だ。わからなくはない。けれど、例えば全盲の人で光がほしいと思わない者がいるだろうか。脊髄損傷者で前と同じように走りたいと思わない人がいるだろうか。また、ゆっくり成長するのはたしかに障害者の権利だと不具も思う。けれども回り道もほどほどにしないと命にかかわることもある。自分が運よく自殺(未遂)することもなく生きてこれたからといって、著者はあまりに理に走りすぎてはいないだろうか。もっともそれが自閉症的といえば自閉症的ではある。万能細胞に代表される再生医療の進歩とともに、今後ますます障害者の健常化は進むだろう。著者が優生学的進化論を嫌うのはわかるけれど、種としての人類進化のための個体群のバリエーションの維持は、今や遺伝子操作(治療)でも十分可能だ。個人的には、だから、障害者はできるだけ少ない方がいいと不具は思う。不幸だからではない。単に不便だからである。目は見えないより見えたほうがいいし、耳は聞こえないより聞こえたほうがいい。腕は動かないより動いたほうがいいし、足は歩けないより歩けたほうがいい。難病だって治らないより治ったほうがよくはないだろうか?もっとも学習障害や高機能自閉症等については、アインシュタインやエジソンの例もあるし、早急かつ一方的に治療教育の対象とすべきではないという「こうもり」さんの言い分もわからないではないのだけれど。アスペルガー当事者が語る特別支援教育
2008.03.25
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ご自身がLDであることを言明されている著者による、一般の人にもわかりやすく解説されたこの手の本の入門書。チャーチルやトム・クルーズ、日本人では窓際のトットちゃんや岡本太郎は有名だけれど、ケネディやリンドバーグ、アガサ・クリスティまでLDだった(可能性がある)とは知らなかった。なお、ジョナサン・ケラーマンによるドクター・アレックス・シリーズのミステリー小説に、この種の障害をもつ人が多く登場しているそうな。
2008.03.24
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自閉症者は圧倒的に男性に多い。だが言語能力の問題なのか、自伝的手記を書いた自閉症者は圧倒的に女性だ。本ブログにおいても、これが初めて紹介する男性自閉症者の自伝になる。紹介が遅れた理由は他にもある。この種の本はたいてい図書館で調達するのだが、なぜかこの自伝だけがハンディキャップコーナーではなく医学コーナーにあったので最近まで気がつかなかったのである。これは著者が自閉症という診断を受ける前、10代から20代にかけて精神病院に入院させられていたせいだろうか? よくわからないが、手記の内容そのものはまぎれもなく自閉症者的である。興味深いのは、男性なのに性欲をまったく感じないという告白と、おやすみ前にテディベアを抱いて寝るという習慣だ。しかもそのくまさんは友達や知人からの贈り物でなければならないという。彼にとってはなによりもそれが親愛の情の証、ハグの代用品なのだろう。巻末の「詩集」については…残念ながらあまり心動かされなかった。英語で読めばわからないが、翻訳の過程で詩作品に欠かせない調べとひびきの大部分が失われてしまって、のこったのは意味の残骸だけのように感じてしまった。もっともこれは訳者の不手際ではない。詩の翻訳はそもそも詩人にしかできないものなのだから。ぼくとクマと自閉症の仲間たち
2008.03.23
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名字が違うので気がつかなかったが、著者は『ぼくのアスペルガー症候群』を書いたケネス・ホール君のお母さんである。こういう「人とはちょっと変わった子」を育てるのには、愛情だけでなく根気と工夫が必要なんだなあということを実感させられる本。巻末の「アスペルガー星からのレポート」が興味深いので全文を引用したい。アスペルガー星人はまったく異なった進化を遂げており、人間の残酷さと欺瞞がもたらす私たちの世界の元凶がまったくみられない。人々は個性、パーソナルスペース、プライバシー、束縛されないことを非常に尊重している。社会集団を組織したりリーダーに従うといった集団行動は事実上存在しない。その影響は広範囲に及び、そのため戦争のようなものはまったく存在しない。住人は、公明正大であることに神経をとがらせる傾向がある。この星の法律は明確な道徳を基準にして作られており、計画な規則が事細かに決められている。高度に進化したコンピュータテクノロジーによって、コミュニケーションはとても容易になっている。人々が目的を持って集まるのは、共通の趣味といった特定の理由がある時に限られる。そのような場では、世間話は無用である。この星への訪問者は、この星の人たち独特のそっけなさと単刀直入なふるまいに違和感を感じるが、慣れればさわやかなものである。そのため、この星には隠し事もなければ虚栄もない。人の地位によって扱いが違うこともない。お世辞や皮肉抜きに歯に衣着せず率直に話し、人は皆ありのままに生きている。感情も素直に表現するので、何のわだかまりもない。従って、うらみ、敵意、憤慨、偽善、心理的な゛かけひき″が存在する余地がない。この星のユーモアは二つに分類されるが、そのどちらも非道徳的なものや残忍なものではない。一つはお決まりのどたばた劇のような単純明快なもので、もう一つは巧妙な言葉遊びに基づく哲学的なものである。それぞれの家や街角には、この星の人たちによくみられる並はずれた感覚に対処するために緊張をほぐすカプセルが置かれている。このカプセルは、刺激的な感覚環境を使う人に完全に合わせて(自分に合う光・色・締めつけ感・音のレベルなどを選んで)コントロールできるようになっている。しかし、アスペルガー星の最も目立った特徴は、子どもらしさとその価値観が非常に尊重されていることである。この星の住人は、(不思議に思う感覚、何にも制約されない素直さ、妥協なく明晰に道徳的な事柄を見る)子ども時代の素晴らしい特質を失うことなく大人になる。アスペルガー症候群の子育て200のヒント
2008.03.07
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不具は学生のころ「癲癇気質」的な性格の固さをもっていたが、整理整頓が苦手だったので「これは違う」ということにされてしまった。今ならば、性格の固さと注意の転導性(注意散漫、不注意、注意欠陥)は脳性まひの二次障害だと優等生的に答えることもできる。もちろんイギリスのように脳性まひとアスペルガー症候群の重複を認める国でならば自分はアスペルガーだと主張してもいいし、アスペルガーには注意欠陥多動性障害が随伴することもあるから、ADHDもあります、と言ってもいいだろうと思う。問題なのは肩書きではない。有効な処方箋である。ところで、ADHDは自閉症の仲間と違って社会性の障害ではないので、多動性は成長するつれてうすれ、注意欠陥だけが残る場合が多い。これを大人のADD(注意欠陥障害)と呼ぶ。本書はそういう、大人になったADDの人たちがどのように職を得、社会に適応していけばよいかを、当事者が自分の経験から語った指南書である。著者は大人の注意欠陥障害を「見てすぐわかるADD」「内面だけで混乱しているADD」「枠組にたよっているADD」の三つに分類する。最後のなどはアスペルガーじゃないかと個人的には思うのだけれど、問題なのは肩書きではない。有効な処方箋なのだ。いずれにしろ障害者が社会に出て失敗しない(成功する)コツは、・おのれを知り、工夫を重ねる・障害を仕事ができない言い訳にしない・どうしてもできないことは人にまかせる勇気と覚悟をもつことだと思う。巻末の「(自分の中の)ADDとうまくつきあうコツ」全101条はなかなか有用なので、コピーさせていただいた。片づけられない人のための仕事の本
2008.03.06
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原題は『ガラスのこちら側の人生』。著者はジェシーと同じ受動型の自閉症者だが、高機能で自分で文章をつづることができる。自閉症者の自伝はこのブログでもいろいろ紹介してきたけれど、本書はその中でもかなり読みやすい部類だろう。こころみに何節か引用してみよう。勉強はあんなに楽しかったのに、現場での仕事はあんなにみじめな失敗に終わったのは、なぜなのだろう?そう。不具もかつて同じ挫折を経験したことがある。文字は、襲いかかってくる心配がない。書きことばは形が定まっている。指のあいだのペンは、形があって、触ることができる。ペンは私といっしょに動き、私の痛みや陶酔を示す記号たちが、勝手に自ら開示するのを助けてくれる。ことばはペンを通して、私の苦しみを紙の上に表し、私の精神に投げ返してくれる。紙の上でなら、何でも目で確かめることができる。書きことばは私に語りかけ、私が生の謎を解くのを助けてくれる。ペンをカーソルに、紙をパソコンの画面に置き換えれば、不具がこんなに長くブログを続けている理由になる。相手の顔が見えないならば、話しことばを聞きとることは、どれほどやさしくなるだろう。顔がなければ、ことばは純粋で、表情や身ぶりに歪められることもない。紙の上のことばはまさにそのとおり。でも、ネットの上のことばはそうではないということを、不具は苦い経験を通して学んだ。お互いによく「成長」したね。本当によく生き延びてきたね。…かくいうこのブログの主が本当に自閉圏の住民かどうか、正直言ってよくわからない。そうだと思うときもあるし、非言語性学習障害じゃないかと思うこともある。今までいろいろ紹介してきた自伝の著者がそれぞれ経験とともに成長してある者は自閉的傾向が「目立たなく」なっていったように、自分もまた「青い目の太郎冠者」くらいにはなれたのかもしれない。ということで、最後に、この本の翻訳者でもあるニキ・リンコさんの「文化単位としての自閉スペクトル」からの引用をもって今日の日記の〆とする。失った年月をとりもどすことはできない。しかし、失った誇りをとりもどすことはできるはずだ。「こだわり」に深い喜びを見いだす自閉者として。繰り返しの興奮を知る自閉者として。ことばの意味、内容のみならず、音声に、リズムに、韻に、字面に、フォントに、ロゴタイプに表情を読み取る自閉者として。耳から聞いた音声を忠実になぞり、記憶の中の音声とユニゾンする快感に震える自閉者として。具体例を枚挙する心の昂ぶりを知る自閉者として。細部を自在に拡大し、そこに意味を見いだせる自閉者として。外界の時間軸と無関係に記憶を再生する自閉者として。失った誇り、奪われていた誇りを今からとりもどそうという自閉者にとって、診断名など、診断の正当性など、何だというのだろう。非言語LDなのかアスペルガーなのか。カナー自閉なのかアスペルガーなのか、PDD-NOSなのか。ADDなのかアスペルガーなのか。「自閉」なのか「自閉傾向」なのか、「学習障害」なのか、さらには「正常」なのか。アスペルガーなのか、分裂病型人格障害なのか、分裂病質人格障害なのか、あるいは正常なのか。診断基準の変化につれて、論者によって、診断者の出身校や所属学派によって、受診時の環境や体調によって左右される線引きなど、私たちの誇りのよりどころとしての自閉の概念とは別の次元の問題ではないのか。DSM-4に定められたアスペルガー障害の診断基準には、次の一文が含まれている。「C.その障害は社会的、職業的、または他の重要な領域における機能の臨床的に著しい障害を引き起こしている」たしかに、これは「臨床的には」必要な、それどころか重要な項目だろう。正常な生活を送ることができているのに「障害」と決めつけることはできない。しかし、何をもって「著しい」というのかを、誰が決められるというのだろう。あるいは、表面的には社会生活・職業生活を送ることができているものの、無理に無理を重ね、その日その日を生き延びることに精いっぱいという者の水面下の疲労困憊を、診断基準で測ることができるだろうか。周囲で何が起こっているのかわけもわからず、しかしその困惑を周囲に悟られないよう、万事わかっているふりをして調子を合わせ、作り笑いを浮かべ、常に綱渡りを続けている者の慢性化した不安を、診断基準ですくい上げることができるだろうか。これは、診断の場に求めるべき性質のものではない。自分が何者なのかを知り、自分の第一言語をとり戻し、自国の文化を再発見し、そして失った誇りをとり戻すという営みは、診断とは独立であって然るべきではないのか。「診断基準を満たさない」と言われようと、「正常」と言われようと、それは非自閉者の論理、非自閉者の価値観で自分の価値を測らねばならないという宣告でもなければ、自閉者の文化、自閉者の下位社会からの追放を意味するのでもない。臨床家には臨床家の論理があり、目的があり、規準がある。それは文化、価値観、誇り、嗜好、魂のありかたとは別の問題なのだ。必要があれば、診断を求めるのもよい。必要がないと思えば、求めなくともよい。実用的見地からは必要がなくても、心のよりどころとして求めるのもよい。純粋に知的興味から求めるのもよい。しかしいずれにせよ、診断を、魂の問題と混同してはならない。診断によって、アイデンティティを、文化を、価値観を、所属集団を左右される必要はない。DSMもICDもなかったはるか昔から、自閉者は存在した。診断結果が何であろうと、診断名が何であろうと、私たちの魂は、私たちの誇りは、私たちの文化は、私たち自閉者のものなのだから。私の障害、私の個性。
2008.02.28
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翻訳者は『俺ルール!』のニキ・リンコさん。読んだ限りでは著者の人生は翻訳者とよく似ている。のみならず彼女が抱える「独り言」「感覚過敏」「手足の協調運動」「堅苦しい思考」「人の言葉の実用的な意味がよくわからない」「耳で聞いてもよくわからない」という問題は、程度の差こそあれ不具にも同じようにみられるものだ。違うのは彼女には三人の娘がいて、お互いに愛し愛されているということ。それに末っ子がアスペルガーだということぐらい。娘の診断によって自分の「障害」を自覚して本のタイトルがこうなったらしい。「仲間」としては本文もさることながら、巻末のハウツー編の方が興味深い。不具は男性だからそうでもないのだが、普段着に適当な服を選ぶのに通販カタログを活用するというアイディアはなかなか秀逸だと思う。自分だって、スーツがなかったらコーディネートだけでも一苦労するのは目に見えているのだから。そういえば、子供の頃から伝記の類が大好きだった不具でした。アスペルガー的人生
2008.02.27
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原題から「自閉は急に止まれない」という副題に続きます。表紙および裏表紙にある、ドン・キホーテに扮した著者が風車に立ち向かって行く絵もたいへん象徴的です。読んで大笑いすること確実ですが、なんだか自分のことを書かれているような気がしました。もちろん、不具の場合はこれほどではなかった(と思います)ですけれどね。たとえば、・「高いところにあがっちゃいけない」といわれ、でも学校の音楽室は4階にあったから、音楽の時間の前は廊下で腕をつねって自分に罰を与えながら階段を上ったとか、・高いところに上って電柱工事をしているおじさんを「悪い人だ」と思い込み、交番まで通報に行ってしまったとか、・お母さんとの買い物で、「動いたら車にひかれるよ」といわれ、彫像のように立っていたが、背中が痒くてたまらなくなり、命がけで体を掻いたとか、・「制服を勝手にアレンジしたりするような子は不良だ」といわれ、自分が通っている学校以外の制服も「制服」だと気がつかなかったので、街を歩いている子のほとんどが不良に見えて怖かったとか。そういうことはありませんでしたよ、不具は。別のエピソードはありますが…えへん、うほん、おほん。それはともかく。こうした自閉症児の勝手な思い込みは、仏教のあるお話を思い出させます。ここに一頭の象がいます。ある盲人は、その脚に触って、「これが象だ」と思いました。ある盲人は、その鼻に触って、「これが象だ」と思いました。ある盲人は、その牙に触って、「これが象だ」と思いました。ある盲人は、その耳に触って、「これが象だ」と思いました。ある盲人は、その尾に触って、「これが象だ」と思いました。ある盲人は、…こんな具合です。自閉症児は、全体を統括するのがとても苦手なのです。だから、自分が知覚した部分部分に非常にこだわります。しかも、わからないからそれを自分流に解釈します。だから、自閉症児に何かを選ばせるときに・まず「選んでください」と大枠を提示する・選択肢は○つですと全体の見通しを持たせる・選択肢ごとに長所と短所をそれぞれわかりやすく説明する・どれにするかたずねるという方法などは、なるほどなあと思って読んでしまいました。昔話。高校生のころ、不具はノートがとれなくて苦労しました。断片断片の情報はわかっても、全体像がつかめなかったのです。大学に入ってワープロを使えるようになれなかったら、どうなっていたことでしょう。これなら、メモをぶち込んで編集さえすれば安心なんですけれどね。おかげさまで最近ではひとさまの文章までチェックさせていただいております俺ルール!
2008.02.24
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本書では知的障害と重複する低機能児からアスペルガー症候群まで、一つの「連続体」すなわち「スペクトル」として自閉性障害を捉えています。ここではとりあえず我が身に思い当たる事項を列挙したいと思います。・子供の頃近所の犬に吠えられて恐怖症になった。・何かにつけよく癇癪を起こした。・外で遊ぶのが嫌いで室内ゲームを好んだ。・新しい言葉を覚えるとTPOも弁えず使用して誤解された。・住所を聞かれると県名から番地名まで機械的に答えた。・授業中よく「知ってるよ」と口にして先生をさえぎった。・中学生になりオセロを覚えると、負けるのを異常に嫌がり、癇癪を起こすようになった。・高校では興味がないことに対して徹底的にこれを迫害し、教師にも公言してはばからなかった。・ちょっとした批判にもむきになって反発した。・クラスメイトの冗談が理解できなかった。また逆にこちらが真面目に言っているのに「ふざけている」ととられることもあった。・教師にほめられても腹がたって逆に反抗的になった。・とめどなく議論のための議論をするのが好きだった。本人はゲームのつもりだったので、周りの顰蹙にも気付かなかった。・大学生になると制服がないので服装に無頓着になり、何日も同じ恰好をして気にならなかった。まだありますが、これくらいにしておきます。いや~振り返ってみると学生時代だけでも自閉的要素満載の問題児でしたね。ローナさんご自身もまた自閉症児の母親ですが、本書はその副題にもあるとおり、自閉症児の診断・教育・予後と将来に関する見事な「親と専門家のためのガイドブック」になっています。自閉症スペクトル
2008.02.15
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アメリカでは学習障害といえばディスレクシア、つまり読字障害を第一に考えるらしい。少なくとも著者の定義によれば、日本で学習障害の範疇に含まれる書字障害、算数障害は彼女の基準では「非言語的学習障害」ということになる。ところで日本では非言語性学習障害(LD)はアスペルガー症候群と殆ど同じだという臨床医が少なくない。高機能自閉症とアスペルガー症候群もほとんど同じだという意見もあるくらいである。こうした「分類基準の違い」は医療の専門家にとっては意味があることかもしれないが、現場の先生にとってはあまり関係ない。教育的・心理的アプローチが同じなら、名前はどうでもいいのだ。もちろん保護者や本人のことを考えると、高機能自閉症よりアスペルガーが、アスペルガーより非言語性LDの方が当事者に受け入れやすいということはあるかもしれない。ただ、それだけの話である。著者の厳密な障害区分にもかかわらず、「ラベルは違ってもアプローチは同じであってよい」ということを証明してしまったような奇妙な一冊。アスペルガー症候群と非言語性学習障害
2008.02.14
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ニキさんのテレビによるこの世界の解読講座から始まって、都合5人のアスペルガーの方の講演集。中には既婚者もおられますが、それぞれに「社交性」「体調管理と感覚異常」「情報収集と整理・実行機能」「金銭感覚」等の問題を抱えられていて、これから進学・就職・結婚を考える若いアスペルガーの方必読の一冊です。自閉症スペクトラム青年期・成人期のサクセスガイド
2008.02.13
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アメリカ在住の仲本さんの息子、トニー君はいわゆる自閉症。アメリカの特別支援教育は日本より進んでいるというけれど、あれだけ借金があって教育予算も削られているだろうに、何で? という疑問に答える「突撃」取材本でした。一言でいえば、・アメリカは多民族国家だから(今は)それぞれの違いを認める文化的風土がある。・価値観が違う人を納得させるために障害児教育にも科学的根拠が求められる。・教育を受けさせたほうが国や自治体のためにもなるという視点・論点が必要である。・教育予算は取り合いになるから自己主張して勝ち取らなければならない。ということになるのでしょうか。教員に対する人件費とか、お金は日本のほうがかけていますし、特例子会社のような制度はアメリカにはないようなので、この国にはこの国のやり方があるとは思うのですが、かの国の「いいとこ取り」ができればいいね、というニキさんの主張には賛成です。自閉っ子、深読みしなけりゃうまくいく
2008.02.12
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自閉症者は、インプットした情報をまとめあげて世間に通用する一般的な概念を形成することが苦手である。しばしば俺ルールで生きて行こうとする。わがままのように見えるが脳の機能障害であり、情報の統合ができないという意味では統合失調症に似ている。ただ違うのは幻覚も妄想も伴わず、人格の崩壊もみられないという点である。一方自閉症者は脳の構造上世界を適切に認知する能力の欠陥がある。それがパーソナリティの問題を引き起こし、結果として起こる対人関係上の障害が自閉症の問題の本質であると著者は説く。世界の神話や物語のなかに自閉症の伝説が見られるという指摘は大変興味深かった。大学のとき「アヴェロンの野性児」は自閉症だったといった先生がいたが、おそらく本書を読まれたのだろう。院では反対する先生もおられたが、失礼ながら「狼に育てられた子」と混同されたのではないかと思う。また発達障害者だったと言われるアンデルセンは、自身の分身のような作品を多く書いている。「人魚姫」「醜いアヒルの子」、それに感覚過敏のお姫様のお話は、まるで自閉症の対人関係を象徴するようである。シャーロック・ホームズが高機能自閉症だったという「指摘」には思わず笑ってしまった。
2008.02.11
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抱腹絶倒しながら読んだ。もちろん紙の上だから笑えるのであって、ご当人を前にしていたら神妙に聞いていただろう。だいいち身につまされて他人事とは思えない話も少なくなかった。五感の異常はそれほどでもなかった。耳と皮膚が鋭敏だったくらいだ。冷たいシャワーは痛かったし、マッサージチェアは拷問道具以外の何物でもなかった。シャツは縫い目がごわごわするので、高校までよく裏返しに着ていた。自他の境界線が曖昧な時もあった。ふと気がつくとここに意識がある。けれどもこの身体がなぜここにあるのかわからない(゚ω゚?)この手や足は本当に自分のものだろうか。そんな感覚である。自分が死ねば世界が終わるような感覚もなかなかなくならなかった。だから世界が書き割りのように見えてしまう感じは理解できる。頭では自分が死のうと死ぬまいと相変わらず世界が存在するとわかっていても、見ている景色そのものが顔のない(鏡を見なければわからない)自分の夢であるような気がしてならなかった。精神病者の妄想ではない。要するに自閉症者にとって、この混沌とした世界そのものが謎なのだ。謎だから何とか自分なりに世界が説明できる理由を捜しだそうとする。ところがそれがとんでもない見当違いだったりして混乱に拍車をかける。社会に出る前は不具の身体の障害のこともあり、ある程度大目にみてもらえた。だが健常者と一緒に働くようになった最初の職場はしんどかった。だから「知らずに失敗すると『わざとでしょう』と叱られ、本当のことを言うと『嘘をついた』と叱られ、ふつうにしていると『わざとらしい』と笑われ、まじめな発言は『へたな冗談』と軽蔑される」というニキさんの述懐はよくわかる。もちろんアジャストした今の職場ではそんなことはないのだけれど。なおこの対談集のもう一方、藤家さんはどうやら不具と同郷らしい。自閉症だったと気がつくまで悩みに悩み多重人格障害を患ったあたりはドナ・ウィリアムスンに似ている。「定型発達」の人にも自閉っ子にもオススメの一冊。自閉っ子、こういう風にできてます!
2008.02.09
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スウェーデン版『変光星』及び『平行線』。いや家庭が崩壊してしまっているという意味ではこちらの方がもっと悲惨かもしれない。もっともグニラは自閉症特有の認知感覚で、我が身に降りかかってこない以上、父がどうなろうと母がどうなろうと「無関心」なのだけれど。機能不全家族という意味では不具の家もそうだった。ただこんなに「悲惨」ではなかったし、脳性まひという目に見える障害を抱えていたから親はそちらのほうにかかりきりで、我が子に自閉的傾向があるなどとは思ってもいなかったに違いない。今説明しても、おそらく理解してもらえないだろう。体に障害があったのはある意味では幸せだった。自分が「普通」でないことは体を見ればわかったし、いじめられるのをすべて障害のせいにできたから。では体が不自由でなければいじめられなかっただろうか? わからない。もし自分の自閉的傾向が脳性まひに付随して起こった随伴障害なら、いじめられなかったかもしれないという推定はなりたつ。けれど、もしこの「自閉症」が脳性まひとは関係なく独立した障害であったなら…養護学校の小学部では確かにいじめられなかった。不具は「頭がよかった」し、「お山の大将」だったから。けれども「大将」ではあっても「リーダー」ではなかった。またそういう器でもなかった。むしろ一人超然としているのが好きだったし、そうすることもできた。そういう意味では、一般学校に通わなければならなかった森口さんやグニラと比べて「幸運だった」といえるかもしれない。今思えば嫌な子だった。小学部一年の時、同級生に「名前負けだね」と言って先生にぶたれたこともある。けれども本人は悪気がないのである。覚えたての言葉を使ってみたかっただけなのだ。自分の感情は理解できても、ほかの人は自分と違う感じ方、考え方をするかもしれないということに気が付かない。不具よりはるかに知能指数が低い子よりも、社会性という点では劣っていたにもかかわらず、昂然とそっくり返っていたのである。「自分は障害者ではない」。一方で人の言葉は真に受ける、隠された意図や社交辞令に気が付かない、馬鹿正直であるという「純粋さ」もあった。人からもそういわれるので自分でもそう思っていた。もっともそれは表面的なことだけで、「純粋な人間」というのがいかなるものかという概念も本当にはわかっていなかったのだけれど。高校では多少のいじめはあった。けれども2年次に進学クラスに編入してからはぴたりとやんだ。グニラと同じくある特定の科目以外はぜんぜん勉強ができなかったにもかかわらず、そのクラスにいるというだけでちょっかいがなくなったのである。そういう意味でも不具は幸運だった。大学は「人種のるつぼ」と呼ばれバンカラで聞こえた校風だったのでこれまた不具という異分子もさほど目立たなかった。さらに進学した某県のT大大学院も障害児教育専門のコースだったので、自分が排除されているとは感じなかった(それでも、ある後輩の女の子を「中世的な美人だね」と誉めたら「中性的」と勘違いして喜ばれたので、「違うよ。歴史的な意味での中世だよ」と訂正したら途端に場の空気が凍りついてしまったことがある)。しかし…考えてみればあたりまえのことなのだ。学校というのは、将来の労働者養成教習所である。最低9年間の義務教育とその後の任意継続教育期間を経て、質の高い労働者を世の中に送り出すための機関なのである。さらにお金を払っているのは利用者(の保護者)であり、学校側はお金をきちんと払ってくれて単位を落としさえしなければ後は何も言わない。社会に出たら違う。社会は働くことに対する対価として労働者に賃金を与える。賃金に見合った働きができなければ、雇うに足りずと首を切られる。不具にはこうしたことがよくわかっていなかった。後年ハローワークに通うようになってからも、職場は自分から掴み取るものではなく、与えられるものという感覚が抜けなかったのである。「おまえ、やる気があるのか」「はい、あります」うそではなかった。やる気はあった。ただ仕事ができなかった。どうすれば仕事ができるようになるのかもわからなかった。しかし上司は「俺を馬鹿にしている」と思ったらしい。当時は某国会議員の学歴詐称問題がマスコミをにぎわせていた頃で、「学歴詐欺師」とまで言われた。けれども不具にはわけがわかっていなかった。どうやら自分には肢体不自由以外にも深刻な「障害」があるらしい、と気が付いたのは首になってからである。同時に、大学院時代の友人の「おまえは非言語性LDだ」「自閉的傾向がある」という文言も思い出していた。「ああ、やっぱり俺は障害者だったのだ」。長い長い試行錯誤の時期が続き、ようやく次の職場を見つけたとき、不具は35歳を越えてしまっていた。脳性まひには感謝している。おかげで森口さんやグニラのような目に遭わずにすんだ。また自閉症者はたいてい右脳人間だが、不具の場合右脳に損傷があるので自閉症的カメラ・アイが発達せずに過剰補償がはたらき言語人間=アスペルガー類似症状ですんだ、といえるかもしれないからだ。本の感想がどうして回想記になってしまうのか?疑問に思われる方は、ぜひ本書を手にとって見てください。ずっと「普通」になりたかった。
2008.02.07
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「構造化」と言われてもピンとこない方のためのヴィジュアル本。個人で買うには高いので図書館で借りて読むのをお奨めします。自閉症児のための絵で見る構造化
2008.02.04
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ディスレクシアは学習障害の真部分集合。書いてあることは入門編なのでたいして覚書の必要もないが、LD者のリストが面白い。アスぺルガーで登場したアインシュタインはここでも人気者だ。一体彼はどっちだったのだろう(笑)一方、日本人では「窓際のトットちゃん」や「芸術は爆発だ」の人がLDに当たると言われれば、なるほどと思う。ところで、LD者の資質を社会的に生かすためには義務教育や高校での支援もさることながら、大学受験及び頑固な大学教授殿の理解を得ることが何より大切ではないか。LD(学習障害)とディスレクシア(読み書き障害)
2008.02.03
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『変光星』の続編。けれど森口さんのこの本の、なんとクララ・パークさんの続編と色彩の異なることだろう。森口さんは明らかにジェシーより知的能力は高いのに、年もそんなにかわらないのに。『平行線』は『変光星』の悲しいアナグラムになっている。読みながら、昔知り合ったある人のことを強く意識せざるを得なかった。おそらくあの人もまた同じ障害を抱えていたのだろう。社会性に問題があり、コミュニケーションのあり方に問題があり、強い固執性があった。そうしてはっきりと自覚してはいなかったが、不具もまたそうだった。二人の間には短い間友情が芽生えたけれど、双方の抱えている問題、とくに「相手の言葉を文字通り間に受けてしまう」障害のせいで、二人の関係は破綻した。そういえば「王子様と薔薇の悲恋」を描いたサン=テグジュペリはその著書の中でこう言った。「大切なものは、目には見えない」そう、まさにこの点にこそ、自閉性障害の核心がある。非自閉症者から見れば彼らの障害は「目に見えない」ものであるゆえに理解に苦しみ、自閉症者から見れば誰もがこの世界で暮らしていくための不文律にしている「目に見えない」前提条件が(誰も説明してくれないので)さっぱり理解できない。だからこの本は著者の悲痛な叫びにもかかわらず、泣き笑い、とでも言えばいいのだろうか、とんちんかんなユーモアに満ちている。一方で、世間は森口さんが語る大検、通信性高校、カウンセリングのあり方、フリー・スクール、不登校、インフォームド・コンセント…そういったことには耳を傾けようともしないのだ。彼女が通常のレールからはみだした結果として「精神科」に通っている(通わされている)というだけで。医者はカウンセリングで彼女を救おうともせず、ただ薬だけを与えた。それも規定の三倍もの量を。その結果森口さんにどのような副作用が生じたかについては、とてもここで語るに忍びない。そうして残念ながらこのような傾向は、今なお日本のほとんどの精神病院で変わっていない。アメリカと日本の風土の違いといってしまえばそれまでかもしれない。けれども、それではあんまりではなかろうか。今のご時世でも、KYと言って空気の読めない人間を日本の社会は排除する。「察し」の文化は尊重するとしても、たとえそれが「目に見えない」障害のせいだとしても人は糾弾されなければならないのだろうか。太宰治の『浦島さん』ではないが、忘れることは幸せである。過去の亡霊から解放されることができたら、自閉症者はどんなにか救われるだろう。おそらくそれゆえにこそ、森口さんもこの二冊の本を執筆しなければならなかった。…余談だが、不具もまたこうして書くことをやめられないのは、忘れてしまうためでもある。日々の突発的な出来事へのこだわりから解放され、「ネットを開けばいつでも見られる。忘れてしまって大丈夫」と自分に言い聞かせ、いつもと変わらぬ日常に帰るためでもある。
2008.02.01
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『自閉症児エリーの記録』の続編。特筆しておかなければならないことがいくつかある。まずこの本で著者はすでにベッテルハイムを見限っているということ。また、前著のエリーというのが実は仮名で、本名はジェシーであったこと。ジェシーは自分が自閉症だと知っていて、郵便局の仕分け係をしながら、アーティストとしても収入を得ていること(本書の表紙は彼女の絵である)。最後にジェシーは家族や職場や地域の人々から愛されていて、この本には写真まで掲載されてあること。要するに、これは勝利の本なのだ。ジェシーの障害はおそらく『レインマン』と同じくらい重い。それでも彼女と彼女の家族は見事に「社会的不利」を克服し現在にいたっている。何よりもこの本は自閉症者と非自閉症者が相互に歩み寄った偉大なる成果の記録である。ABAよりもTEACCHプログラムよりもまず先に、家族と周囲の人々の愛と理解と洞察がなければ発達障害者は救われない。平行して現在『変光星』の続編を読んでいるが、こちらのほうは読んでいて大変つらい。森口さんは不具と同世代であるだけでなく、昔の自分のことを思い起こさせるからでもある。…多分不具は日本で自閉症(アスペルガー)やADHDと診断されることはないだろう。せいぜい脳性まひの二次障害としての知覚障害と診断されるくらいがオチだろう。それはそれでいい。あえて声高に主張するつもりもない。診断はそれによって処方箋を得るための手段である。自閉症者やADHD者に有効な心理・教育プログラムが自分にも有効ならば、それでいいのだ。…
2008.01.30
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もう一冊明石書店の本。これも挑発的な内容です。著者は夫と三人の子供すべてが自閉症またはADHDと診断された女性です。そこから多分この二つの障害の遺伝的側面と関連性に注目されたのでしょう。不具もまたADHDの注意欠陥性と外言、および自閉症的な固執性と自己刺激行動という課題を抱えているので大変興味深く読みました。実行機能に問題があり、身辺整理が苦手で癇癪を起こしやすいというのは確かに両者に共通した特徴です。また、社会性に問題がある点もそうです。違いはだから、リタリンが効くか効かないか、言葉の意味をどこまで理解しているかくらいでしょうか。リタリンが効かなければ、あるいは効いていても成長にともなって他に行動上の問題が出てくるようであればアスぺルガーの可能性を教育現場では考えた方がいいのかもしれません。何しろ精神科医には自閉症の原因を親の子育てのせいにした前科がありますから。世間体も見えない障壁です。自閉症と言われるよりADHDという診断の方が安心できるので、親の感情を考えた医師の誤診が増えるのだ、と著者はいいます。これもわかりますが、真実から目をそらすことは本人にとっても周囲にとっても不幸な結果を招きます。不具ももう少し早く自分の中の見えない障害に気がついていれば、損なわずにすんだ人間関係が多々あります。そうして一度失った友情は、二度と戻っては来ないのです。発達障害を背負う不具の仲間が余計な回り道をしないためにも、本書は関係者必読の書といえるでしょう。ADHDと自閉症の関連がわかる本
2008.01.23
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著者はイギリスの自閉症の専門家です。書いてあることの大半は類書にも載っており、さほど目新しいものは…と思っていたら、「自閉症にともなってダウン症や脳性まひ等の診断名がつくこともある」とあるではありませんか。日本では考えにくいことですが、おそらくイギリスではそうなのでしょう。青年期以降のダウン症者の心理的な落ち込みも、それで説明できるケースがあるのかもしれません。脳性まひに関しては当事者なので実感できます。・非言語性および言語性コミュニケーションの理解と使用・他の子ども、おとなとかかわる能力である、社会的行動の理解・柔軟に思考し行動する能力これらすべてに問題があれば広義の自閉症と考えていいそうですが、不具はまさにこの定義に当てはまります。ただ文部科学省の定義では除外されてしまうのですけれど。脳性まひだけでも生まれてこの方嫌な思いをしてきたのに、この上自閉症なんて、という感想もなくはありません。ただ脳性まひの二次障害として発達障害によく似た認知上の問題を抱えていることは自覚していましたので、さほど抵抗はありませんでした。ラベル貼りを烙印であるかのように嫌う人もいます。気持ちはわかりますが、要はそれによって当事者が利益を得るかどうかです。不具の場合、自閉症だとしてもかなり高機能であり、自分である程度対策を練ることができるのでかえって有益だと思いました。なお本書には自閉症児への治療教育的なアプローチとして、日本の生活訓練法が紹介されています。
2008.01.23
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副題は「ロボット研究の進化と自閉症児の発達」です。著者は「特定の療法への批判を目的とするものではない」とわざわざ断っていますが、自閉症児への治療教育的アプローチとしての応用行動分析批判として読むとなかなか面白いものがあります。ただTEACCHプログラム批判としては的外れでしょう。なぜなら、不具の理解するところではTEACCHプログラムの「構造化」とは、自閉症者への個別的バリアフリーを実現するための哲学であるからです。ここにも書評がありますので、ご参考までに。
2008.01.21
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ある日本人高機能自閉症(アスぺルガー)女性の中学卒業までの回想記。変光星という題名には、小学校から父親の都合で転校を繰り返した経歴と、自閉症という個性をもってしまった我が身への思いがこめられている。身につまされて一気に読んだ。同世代ということもあるが、「人のいうことを真に受けてしまう」自閉症の特性がもろにでていて、他人事とは思えなかった。自閉症が親のしつけのせいにされていた時代、森口さんの学校生活はわずかな例外を除いて日々戦争だった。とくに中学に進学してからのいじめは執拗かつ巧妙だった。彼女に才能がなかったら、ここまでひどいことにはならなかったかもしれない。だがその素質と才野のために森口さんは嫉妬され、その精神を擦り減らされてしまったのだということがひしひしと伝わってくる。不具も小学部六年のとき担任の先生から地元の中学への進学をすすめられたことがあった。けれどもどうしても嫌だった。いじめで有名だったからである。いっそテンカンの発作が起きてなにもかもおじゃんになればいいと思っていたら、何年かぶりに本当に発作が起きてことなきを得た経緯がある。その代わり、薬の服用期間がのびてしまったのだが…。中学部には森口さんの小学校のときのように思想的に偏向した先生がいた。今日不具の思想的立場が右よりなのは、あるいはその反動かもしれないと思ってみたりもする。当時から養護学校は問題教師の吹き溜まりだったとはいえ、いやしくも公立学校の先生なら個人的な良心より中立性を重んじるべきだったろうに、と今振り返ってみて思う。それにしても中学時代彼女をいじめた同級生達や辛くあたった先生方は、この本を読んでどういう感想をもっただろうか? 是非おうかがいしたいものである。変光星
2008.01.17
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『ひとりぼっちのエリー』の改題・新装版。自閉症がまだ親の子育てに問題があるとされていた時代の貴重な一里塚。著者がベッテルハイムに希望をもつのはどうかと思うけれど、我が子を評価し教育するその手腕には舌をまく。もちろんクララは謙遜するけれど、なかなかこういう風にできるものではない。専門家はなるほどスペシャリストかもしれないが、こと我が子に関しては母親こそが専門家なんだ、という当たり前のことに気付かせられた本でもある。なお、自閉症は親の子育てとは関係ないが、遺伝的側面を無視することはできない。両親がもっている因子の受け継がれ方いかんによって自閉症児が生まれるケースもあるからだ。初期の自閉症研究者は、それを環境因子と誤解したにすぎないと思う。自閉症児エリーの記録新版
2008.01.16
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いわゆるTEACCHについて、日本で一番わかりやすくかつ親しみやすく書かれた本。自閉症というのは「目に見えない」障害だけれども、だからこそ目に見える「構造化」としてのバリアフリーが必要なんだ、点字が盲人の文化であり、手話がろう者の文化であるように、自閉症の人にも「文化」がある、われわれにも文化がある。必要なのは異文化交流のための手立てである、という哲学はとてもいいと思う。事例を読みながら例によって昔のことを思い出していた。フラッシュバックは自分にもあった。突然何の前触れもなく過去のいやな出来事が頭に浮かび、パニックになるのだ。たぶん軽い癲癇の発作だったのだろう。音楽は嫌いではないがロックなど「怒り」をテーマにしたものは聞くに堪えない。ホラー映画も同じだ。映画と現実の区別が(頭ではわかっていても)つかないので、みんなが鑑賞している間、押入れの中でじっと耐えていたこともある。食べ物を残すのも嫌いだった。「残してはいけません」と教えられたからだ。高校時代、勉強合宿でほかの人の残り物まで食べていた。「偉いだろう」と内心得意だったのだが、周囲の評価は「食いしん坊」だった。そんなものだ。だから、自分は「アスペルガー」ではないけれども、自分が人からどのように見られているかわからない、あるいは無関心だという彼らの心理に共感する。何かをしなければならないのに、今でも体が動かないときがある。そういうときはひとつの動作を終えるごとに頭の中で数を数えていく。だいたい100まで数え終わらないうちに当面しなければならないことが終わる。終わるとまた別の「しなければならないこと」がある。また数を数え始める…そんな具合である。それでも不具は、「自閉症」ではないのだ。…
2008.01.11
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『我、自閉症に生まれて』の続編。脳性まひがそうであるように、自閉症の症状も人さまざまだ。著者によれば自閉症者はまず視覚で考えるのだという――「動物がそうであるように」。だが中には目や耳など感覚器官が鋭敏過ぎるために世界を正しく認知できず、混乱してしまう人も少なくないそうだ。ドナ・ウィリアムスンもその一人であり、彼女の場合は触覚や味覚にも問題があった。不具もまた脳性まひなので、患側の耳掃除などは痛みに慣れるまで大変だったことを思い出す。人にさわるのは好きだったが、自分の体にさわられるのは嫌いだった。乾布摩擦を覚えなかったら皮膚は鋭敏なままだったかもしれない。また盲児でもないのに目をぐりぐりと押さえるのが好きで、それもまぶたに浮かぶ万華鏡のような世界に陶酔せんがためだった。今やって見るとぜんぜんそんなことはない。あのころは癲癇の発作を起こしていたせいだろうか?アスペルガー児と同じように社会性にも問題があった。昔は養護学校育ちのせいだと思っていたが、高次脳機能障害だったのかもしれない。うるさい級友を黙らせようとしてうるさい! と叫んだら逆に自分が先生に怒られてしまい、何で? と思ったこともあった。その他例をあげればきりがない。勉強ができるというだけで結構まともだと思っていたが、障害をもっている他の友達の方が社会性という点では上だった。まして普通高校に進学したら…くどいようだが、不具は自閉症ではない。しかし脳性まひも一種の発達障害であり、一次的にせよ二次的にせよ認知上の問題を抱えていることが少なくないのだ。著者の経験がまんざら異様にも聞こえないのは、そのせいかもしれない、とも思う。薬のことはよくわからないが、自閉症に効く特効薬がないのは確かだ。それでも組み合わせによっては症状を緩和するのに役立つこともあり、ここに挙げられたリストと注意書きは貴重なものかもしれない。著者によれば、論理的に思考する高機能自閉症者にとって宗教的対立は理解できず、また天国や地獄の概念より輪廻転生の方が論理的だと考えることが多いらしい。そういえばケネス君も同じようなことを言っていた。二人とも知能指数が英才級というのも共通点だ。アインシュタインもまたアスペルガーだった、と著者はまた言う。そうかもしれないと読んでみて思った。もっともゴッホについてはどうだろうか。可能性は否定しないが統合失調症だったのかもしれない。最後にまた自分のことに還る。不具もまた作業記憶が不十分だ。そのことは以前の職場で嫌というほど思い知らされた。学歴詐欺と言われたこともある。自分の中の発達障害を自覚していなかったし、対策も立てられなかったからだ。契約満了で更新してもらえなかったのもそのせいだったのだろうと今にして思う。だから現在の職場でははじめから自分専用のマニュアルを作り、日々それを更新することで対処してきた。仕事の型を作り、かつ変化に対応するためにはそれしかなかったのだ。出勤する前に読む。着いてからまた読む。職場で注意される。またマニュアルを更新する。その繰り返しだった。今度また転職すれば一からやり直さなければならない。何しろ耳で聞いただけでは、注意事項も絶対に覚えられないのだから。…
2008.01.09
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県立図書館の開き初め。「自閉症」で調べたらこんな本があったので1Fの児童館へ行ってみました。中にはカウンターのお姉さんと、先客が3人。みな幼稚園から小学校低学年くらいの児童です。いきなりおおきな大人の男の人が入ってきたので子供たちは好奇心をあらわにしてこちらをちらちら見ています。カウンターで件の本を注文すると、中の一人が寄ってきました。不具はにこっと笑いかけてカードを出し、お姉さんに本の場所をたずねました。どうやら倉庫のようです。取ってこられるまでの間、おとなしく椅子に座って待つことにしました。児童館の椅子は机の高さに比例して低くなっています。いい年をした大人が一人で入ってくる場所ではないのです。子供たちはあいかわらずこちらをちらちら見つめています。よっぽど声をかけようかとも思いましたが、反応がこわくてやめました。お姉さんが本を持ってきました。さっそくすわったまま本を開きます。大きくてうすっぺらな本ですが、中身は悪くありません。自閉症についてこれほどかみくだいてわかりやすく書かれた本はおそらく日本にはないでしょう。ただ絵はおせじにも上手とはいえませんでした。どうせならやなせたかしさんに描いてもらったらよかったのに、これで定価1300円とは高いなと思いましたが、ただで読めるのですから文句も言えません。読み終えるのに時間は5分もかかりませんでした。帰り際、カウンターをちらとのぞくと子供たちが例の本について「これなあに?」とお姉さんにたずねているところでした。あの子たちはこの本を手にとって見たでしょうか?どうせなら。やなせたかしさんに描いてもらったらよかったのに…(笑)
2008.01.04
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世界で初めて書かれた自閉症者の自伝。家族の愛に支えられて節目節目で文字通り「扉」を開きつつ成長していくテンプルの物語を読みながら、まるで自分のことのように追体験していた。もちろん不具は自閉症ではない。ただの脳性麻痺である。高校では変人と呼ばれ、大学では宇宙人と呼ばれ、大学院では友人から自閉症の気があるとか非言語性学習障害だとか言われた。今の言葉に訳していえば要するにアスペルガーくさいということだ。もちろん不具はアスペルガーではない。脳性麻痺の二次的認知障害としてそのような傾向が認められるというだけだ。さらにいえば成人ADHD者によくみられる不注意優位の症状を自覚しているが、だからといって不具が注意欠陥多動性症候群だというわけでもない。昔、ドナ・ウィリアムスンの『自閉症だった私へ』を薦めた時、友人から「こんなの自閉症じゃない」と言われた経験は前にも書いた。当時アスペルガー症候群という概念はまだ日本の研究現場には定着していなかったから、それも無理からぬことではあったろう。友人はこの本を読んだだろうか。読んでなお「こんなの自閉症じゃない」というだろうか。不具はそれでも構わないと思う。定義うんぬんは二次的な問題にすぎない。書物は有益であればそれでいいのであり、自閉症に関心のない人にとってもこの本を読むことによって得られるものは決して小さくないだろう、と信じられるからである。
2008.01.02
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以前も少し紹介しましたが、自閉症児を主人公にした漫画で、この分野では山本おさむさんの『どんぐりの家』と並んで重要な作品だと思います。第1巻は乳幼児期編として独立・完結しています。第2巻から第10巻までが小学生編で、便宜的に低学年編と高学年編に分かれていますが、低学年編は第2巻だけなので、第10巻までをまとめて第2部と考えていいでしょう。通して読むのが一番いいのですが、エピソードはそれぞれ連続性を保ちながらゆるやかに独立していますので、拾い読みしても十分楽しめますし役に立ちます。連載が長期にわたり、作者の関心も自閉症から軽度発達障害へと広がりを見せてきたようで、予算の都合上飛び飛びに購入されるなら次の巻がお薦めです。自閉症児とその教育について…第3巻、第4巻、第7巻。高機能自閉症児について…第7巻。学習障害、注意欠陥多動性障害について…第9巻。いずれも、予備知識がない方がヴィジュアル的にそれぞれの障害について理解できるように工夫されています。ついでに、現代の教育現場(小学校)が抱える親側、教師側のさまざまな問題についても。問題、と言いました。そう、この物語にはさまざまな親や教師がでてきます。中にはあまり好感が持てない人もいますが、どんなに「嫌な人」でもたいていその裏側まで描かれており、基本的に「人を憎めない」漫画になっているのが特徴です。どうしても好きになれないのは主要人物では片倉絵里ちゃんの父(DV夫)くらいでしょうか。その他詳しいキャラクターについては、こちらをご参照ください。
2007.12.22
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10歳のアスペルガー児が口述筆記やワープロを含めて「書いた」本。小学生といっても読字力や数学能力は高校生並なので、子供の本を読んでいるという感じはあんまりしない。大きな活字でルビつきなので、学習障害の子や弱視の子にも読みやすい本だと思う。身体障害児向けの『五体不満足』を高機能自閉症児向けに書き直したような手記。宗教や戦争や世界平和についての考察は、大人が呼んでも舌を巻く。いったいどっちがまともな人間なんでしょうね。
2007.12.11
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院生の頃新刊で購入したのでもう15歳になる本だが、今読んでも内容は全然古びていない。著者の仮説に対しては人によって異論があるかもしれないが、自閉症者を宇宙人としてとらえるのではなく、健常者と地続きの住民として受けとめる姿勢に好感がもてる本である。
2007.10.10
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