狎鴎亭的横濱生活

狎鴎亭的横濱生活

May 3, 2007
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母は逝ってしまいました。
2月26日でした。63歳でした。

私はその前の日の夜に会ったのが最期だった。
母はもうあまり頑張れないだろうと思っていた私は、それまで一日おきに夜病院に行っていたけど、明日も来ようと思ってた。

いつものように仕事をしていて、午前中の仕事が終わり、休憩に入ろうとした矢先だった。
「Galoさんに外線です」
と事務から。
とってもいやな予感。
いつもだったら、幼稚園から「ホパリ君がお熱です~」と言われる電話じゃないかとビクビクするんだけど、その日はちょっと違ってた。

「お姉さんですか?」
という義妹からの電話。
母が午前中から徐脈になってきていて、とうとう心拍が確認できない。今は心肺装置をつけているが、弟もすぐ行かれない遠い場所にいて、どうしたらいいかという電話だった。

心肺装置?延命はしないっていうことだったけど、何が着いてるんだろう?
という看護婦的な疑問と一緒に、母がとうとうダメなんだという目の前がクラクラするような現実が混ざって、私も混乱した。

「私が行くまで待ってもらえるのかな?ここから急いでも30分はかかると思うけど」
「もちろん大丈夫だと思います」
義妹の声はちょっとほっとしたようだった。

義妹の話から、私の想像では、今もまだ母の心臓は心肺装置で動いていて、もう回復の見込みはないからはずしてもいいかという事だと思っていた。
まだ間に合う。
最期に絶対母の手を握り、一言言いたいことがあるのだ。

電話を切って、ただ事ではないと感じた同僚は「どうした?」と聞いてきた。
「母が・・・」言葉が続かない。
「早く帰んなさい!後は大丈夫だから、早く!」
やっと体が動いた。

ロッカーで着替えながらパパに電話する。
「原チャリで行くの?一度こっちに帰って車で行ったほうがいいんじゃない?」
と私の心配をするパパ。
「間に合わないの!今行かないと間に合わないよ!」
私の声は震えてたと思う。

勤め先は横浜の真ん中。母のいる病院は横浜のはずれのほうだけど、スクーターで行けば、混んでいる16号も何とかなる。
あせる気持ちを何とか抑えて、事故しちゃだめと言い聞かせながら、飛ばした。
「待ってて、まだ待ってて!ここまで頑張ったんだから、もうちょっとだけ頑張ってて!」と
心の中で母にお願いし続けた。

多分30分もかからなかったかも知れない。
病院に着いた。

母の病室だけドアが閉まっている。
母を見た。

もう生きていない。

呼吸の途中で途絶えてしまった、そのままの顔で。

母についていたモニターはフラットのまま、時々振動で波を弱く作る。

医師が来た。「11時45分死亡確認をしました。ご愁傷様です。」

よくわからない妹はモニターの事を私に言っていたようだ。
すでにかなり前から心拍はなかったみたいだった。

もう一度母を見た。
母はまだ目を開けたまま、最期の呼吸を吸ったところで、時は止まっていた。
母は最期の最期まで生き抜いたのだ。

この半年ほどは母の最後の戦いだった。
ずっと痔からだと思っていた出血が実は直腸癌だったとわかり、貧血がどんどん進んでいた。
そしてほとんど飲み込むように食べていた食事もどんどんむせるようになり、11月には誤飲性肺炎になってしまった。
「肺が真っ白」と言われるほどひどい肺炎を起こし、先生も弟にシビアな話をしていたようだ。
食事は取れなくなり、点滴だけの毎日。
しかも「延命」をしないので、高カロリー輸液ではなく、ただの水分と電解質だけの点滴。

今までなかった褥そうもでき始めた。
貧血と栄養不足のせいで、褥そうはあっという間に悪くなっていった。
癌と褥そうは見るのも忍びないほどの様子になり、
母が痛みを訴えないのが不思議なほどだった。
実際そのずっと前から痛みが出始めたらモルヒネを使うという承諾書を弟からもらっていたようだが、
幸いにも母にはその痛みは訪れなかった。
最後に与えられた神様からの慈悲かなと思った。

肺炎は奇跡的に治った。
元気な頃やばいくらいにベビースモーカーだった母の肺はあくまでも元気だったようだ。
そして63歳の誕生日。
食事も飲み物も口にできず、たったわずかな動きも自分でできず、とうとう目の筋肉も麻痺してしまって、自由にものを見ることもできなくなった母に、それでも意識だけはしっかりある母に、「生きる」ということはどんなことだったんだろう。
その後も肺炎にまたなり、これでもかというほどのチャレンジに受けてたった。

肺炎になってからは、二人部屋に移り、母の担当だった看護師さんは「いつでも来れるときに来ていいよ」と言ってくれた。
言葉に甘え、それまで週末にしかいけなかった私は、仕事を終えてから、夕食を済ませ、そして病院に通うという毎日を続けた。
その時の母は、すでに泣くこともできず、笑うこともできず、文句でうなることもできない。
私が話してもこちらを向くことすらできない母だった。
だけど、子供の話、イパリの話をすると母の表情が和らいだ。
時々こちらを一生懸命見ようとした。
私は夢中で子供たちの話をした。

亡くなる1週間前くらいからは母の体に紫斑ができ始めた。
ああ、とうとう母の体が悲鳴を上げ始めたんだ。
もうこれ以上頑張れないよ、と訴えているようだった。
それでも母は一生懸命呼吸をしている。
自分の力で。

亡くなってから、葬儀はあっという間だった。
そこにはもう何年もあっていない、親戚と父親も来た。
父は母の顔を撫でながら泣いていた。元気な母に最後に会ってからどれくらい経っていたんだろう。
今の母を見てどんな気持ちになったんだろう。
母の病院の人たちお通夜に来てくれた。本当にお世話になった。
私の勤め先の人たちもほとんどの人たちが来てくれた。
これには本当に感激だった。これで辞められないなと思ったくらいだ。

葬儀が終わってしばらくすると桜が咲き始めた。
あっという間に満開になって、家の前の桜並木がアーチを作るように桜でいっぱいになった。
仕事に行くスクーターに乗りながら、それを見ていると、
「あっちゃん、ほら見て!桜がきれいね~。ここでコーヒー飲みたい位ね。」
母の声が聞こえる。
幻聴かと思った。
でも母が言ったのだ。
昔の懐かしい母の声。

それで思った。
母がいなくなって私はとっても寂しくて悲しいんだけど、母は今が幸せなのかも、と。
もう体から離れた魂はどこにでも行けるし、苦しいものはすべて残してきてしまったはず。
母はやっと自由になれたんだ。





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Last updated  May 3, 2007 10:36:30 AM
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