草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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草加の爺(じじ)

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2026年02月04日
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東宮大進(東宮房・皇太子の御用万端を執り行う役所の三等官である判官・じょう)季房(すえふ

さ)をば常陸の国に流して、長沼駿河の守に預けらる。

       藤房を常陸の国に 流す
          左衛門佐局 との別離

 中納言藤房をば同国に流し、小田民部大輔に預けられた。

 左遷遠流の悲しみは、いずれも劣らぬ涙ではるが、殊にこの卿の心の中を推量するのも猶哀れで

ある。

 近来、中宮の御方に、左衛門佐局(自分の局を持つ女房)と言う容色が世に勝れた女房がおわしま

しけり。去りぬる元亨(げんこう)の頃であったが、主上が北山殿(中宮禧子の父、西園寺實兼の邸)

に行幸なされ御賀の舞があった時に、堂下の立部(楽人、唐代の楽人に立部と坐部があり、堂上は

坐し堂下は立つ)が袖を翻して、梨園(俳優)の弟子に曲を奏せさせた。

 繁弦急管(弦楽器や笛・笙などの調子が急な事)いずれも金玉の声玲瓏なり(金や玉のような響き

が明朗である)。

 この女房が琵琶の役に召され、青海波を弾じたが、間関たる(鳥の声が和らいで滑らかな様)鶯

の語りは花の下になめらかで、幽咽せる泉の流れは氷の底に悩んでいる。

 適怨清和節に随って移る。四弦一聲如裂帛(はくをさくがごとく)撥(はら)っては復挑(かか)げ

る。一曲の清音(せいいん)梁上に燕飛び、水中に魚が躍るばかりである。

 中納言は仄かにこれを見給いしより、人に知られず思いを染めてける心の色は日に添いて深くの

みなりゆくとも、言い知らすべき便りもないので、心に込めて歎き明し思い暮らして、三年(みと

せ)を過ごし給いけるこそ久しいのだった。

 如何なる人目の紛れであったか、露のかごと(怨みごと、ここは浅い契りの事)を結ばれたのか、

一夜の夢の幻(うつつ)に定かではない枕の契りを交わしなされたのだった。

 その次の夜のことであったが、主上が俄かに笠置に落ちさせなされたので、藤房は衣冠を脱いで

戎衣に替えて供奉(ぐぶ)致そうとなさったのだが、この女房に廻り逢う末の契りも知り難くて、一

夜の夢の面影も名残があり、今一度見もし見られたいと思われたので、かの女房が住んでいる西の

對に行って見給うに、時しもこそあれ今朝、中宮の召しが有って北山殿に参り給うと申したので、

中納言は鬢の髪を少し切って歌を書き留めて置かれたのだ。

      黒髪の 乱れん世まで ながらへば これをいまはの 形見とも見よ

 この女房が立ち帰って、形見の髪と歌とを見て、読んでは泣き、泣きては読む。千度(ちたび)百

廻り巻返せども心が乱れて詮方もなし。懸る涙に文字が消えて、いとど思いに堪えかねたのだ。

 せめてその人の所在をだに知るならば、虎が臥す野辺、鯨が寄せる浜辺であろうがあこがれるべ

き心地がしたのだが、その行く末がいずことも聞き定めず、また逢うべき世もいさ知らないのであ

まりの思いに堪えかねて、

     書きおきし 君が文章(たまづさ) 身に副(そ)へて 後の世あでの 形見とやせん

 先の歌に一首を書きそえて、形見の髪を袖に入れ、大井川(保津川)の深い淵に身を投げたのは哀

れであるよ。

 君の一日の恩の為に、妾の百年の身を誤った。とは、この様な事を言うのであろうよ。

        按察大納言公敏(きみとし)等の 処刑

 按察大納言公敏卿は、上総の国、東南院僧正聖尋(しょうじん)は下総の国、峯僧正俊雅は対馬の

国と聞こえたが、俄かにその議を改めて、長門の国へと流されなされた。

 第四の宮は但馬の国に流され奉りて、その国の守護大田判官に預けられた。

         八歳宮 御歌の事
     第九の宮と中御門宣明との問答 その御和歌が人々を感動せしめたること

 第九の宮(恒良親王か)は未だ幼稚におわしますので、中御門中納言宣明卿に預けられて、都のう

ちにぞ御座ありけり。

 この宮は今年八歳にならせられけるが、常の人よりも御心様がさかさかしくおわしましければ、

常は、主上は既に人も通わない隠岐の国とやらに流されなされた上は、我一人が都の内に留まりて

もどうしようか。哀れ我も主上がいらっしゃる国の辺りに流して遣わせかし。

 せめては他所ながらも御行く末を承(うけたま)わらん。と、かき口説き(繰り返し言い)打ち萎れ

て、御涙は更にせき合えない。

 さても君が押し込められなされている白河(京都の鴨川以東、東山との間の地域」は京に近い所

と聞くが、宣明はどうして我を具足して御所(かしこ)には参らぬのだ、と仰せありければ、御涙を

抑えながら、皇居が程近き所にてだに候わば、御伴仕りて参ずることは仔細あるまじく候が、白河

(福島県にある)と申し候は都から数百里を経て下る道で御座いまする。されば能因法師が、

    都をば 霞とともに いでしかど 秋風ぞ吹く 白川の関

と詠んで候し歌で道が遠い事、人を通さぬ事を思し知りなされよ。と、申されると、宮は御涙を抑

えなされて、暫くも仰せ出だされることもなし。

 ややあってから、さては宣明は我を具足して参らじと思えるゆえに、かように申すのであるな。

白川の関を詠んだのは全く洛陽(らくよう、中国周の都の名)渭水(ゐすい、洛陽の近くを流れる

川)に白川ではない、この関は奥州の名所である。近来、津守國夏がこれを本歌として詠んだ歌

に、

  東路(あづまじ)の 関までゆかぬ 白川も 日数經(ひかずへ)ぬれば 秋風ぞ吹く

又、最勝寺の懸かりの桜が枯れたのを、植え替えると言うので、藤原雅經(まさつね)朝臣、

   馴れなれて 見しは名残の 春ぞとも など白川の 花の下陰(したかげ)

 これは皆名は同じであるが所は変わっている證歌(証拠になる歌)である。

 よしや、今は心に込めて言い出ださない、と宣明を恨んで仰せられ、その後には垣絶えて恋しい

とだに仰せられずに、萬に物憂い御気色にて中門(宸殿・正殿と外門の間にある門」に御立なされ

る折節には遠寺の晩鐘が幽かに聞こえければ、

    つくづくと 思い暮らして 入相(いりあひ)の 鐘を聞くにも 君ぞ恋しき

 情が中に動いて言葉が外(ほか)に顕れた。

 御歌のおさおさしさ(大人びた事)があわれに聞こえたので、その頃京中の僧俗男女がこれを畳

紙・扇に書付けて、これこそは八歳の宮が詠じられた御歌であるよと、翫(もたあそ)ばぬ者はいま

かった。





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最終更新日  2026年02月04日 14時54分11秒
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