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2026年02月06日
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一宮 並びに 妙法院二品(にほん)親王 の御事
          尊良親王 土佐に遷させられる

 三月八日一宮中務卿親王をば、佐々木大夫判官時信を路次(ろし、途中)の御警固にて、土佐の畑

に流し奉る。

 今まではたとい秋刑(しゅうけい、厳しい刑罰、秋が草木を枯らす如く厳正な意)の下に死して

龍門原上(りゅうもんげんじょう、墓地の苔の下に)の苔に埋められても都の辺りでともかくもせ

めてならばやと、天を仰ぎ地に伏して、御祈念ありけり。しかし、昨日既に先帝をも流し奉ると警

固の武士共が申し合っているのを御聞き召されて、御祈念の御頼みも無くいと心細く思召す所に武

士共が数多く参りて、中門に御輿を差し寄せたので、抑え兼ねたる御涙の中に、

    せきとむる 柵(しがらみ)ぞなき 泪川(涙が覇) いかに流るる 憂き身なるらん

       尊澄法親王、讃岐に遷させらる
           尊良親王と 和歌の御贈答

 同(おなじき)日、妙法院二品親王をも長井左近大夫将監高廣を御警固にて、讃岐の国に流し奉

る。

 昨日は主上御遷幸の由を承り、今日は一の宮が流されさせ給いぬと聞し召されて御心を傷(いた)

ましめ給いける。憂き名も替わらぬ同じ道に、しかも別かれて赴き給いぬる御心の中こそ悲しけ

れ。

 初めの内こそは別々(べちべち)にて御下り在りけるが、十一日の暮程には、一の宮も妙法院も諸

共に兵庫に着かせ給いたれば、一の宮はこれより御舟に召して土佐の畑に御下り為される由を聞こ

えければ御文を参らせ給いけるに、

    今までは おなじ宿りを 尋ね来て 跡なき波と 聞くぞ悲しき

 一の宮の御返事、

    明日よりは 跡亡き波に 迷うとも 通う心よ 知るべともなれ

         配所への ご到着

 配所は同じ四国と聞いているので、せめては同じ国にてあって欲しい。

 事問い(物を言う)風の便(たより)にも、憂きを慰める一筋とも念じて、思召しけるも叶わ出一之

宮はたゆたう波に漕がれ行く。身を浮舟に任せつつ、土佐の畑へ赴かせ給えば、有井三郎左衛門尉

の舘の傍らに一室を構えて置き奉る。

 かの畑と申すのは、南は山の側で高く、北は海辺でさがっている。松の下露扉(とぼそ)にかかっ

て、いとど御袖の泪を添え、磯打つ波の音が枕の下に聞こえて、夢でなければ故郷に通えない、そ

の夢路さえも遠くなってしまった。

 妙法院は此処から引き別かれて、備前の国までは陸地を経て、児嶋の吹上から舟を召して、讃岐

の宅間に着かせ給う。

 ここも海辺に近い所であるから、毒霧(どくむ、体に害のある霧)御身を侵して瘴海(しょうか

い、熱病をもたらす海の気)の気が凄まじく淋しい。

 漁歌牧笛(ぎょかぼくてき、漁夫の歌う歌や、牛飼いの吹く笛)の夕べの声、嶺雲海月の秋の色

凡て耳に触れて、眼(まなこ)を遮ることの、哀れを催し、御涙を添える媒(なかだち)とならな

いと言う事ないのだった。

       御醍醐天皇を 隠岐国に 遷し奉らんとす

 先皇(せんこう、後醍醐天皇)を承久の例に任せ、隠岐の国に流し参らすべしと、定まりける。

 臣として君をないがしろにし奉ることは、関東もさすがに恐れある事と思いけん、この為に後伏

見院の第一の御子(おこ)を御位に就け奉りて、先帝の御遷幸の宣旨(せんじ、公文書の一つ、勅宣

を伝宣する事で、詔勅が表向きであるのに対して内輪の者)をなさるべきとぞ計らい申しける。

 天下の事においては、今は重祚(ちょうそ、再び位に就く事)の望みがあるべくもないので、遷幸

以前に先帝をば法皇に成したてまつるべしとて、香染め(丁子を濃く煎じ出してその汁で染めたも

の。薄紅に黄を帯びたもの)の着物を武家から調進したのだが、御法体の御事はしばらくは御ある

まじき由を仰せられて、袞龍(こんりゅう、天子の礼服)を御脱ぎなさらない。

 毎朝の御行水をめされて、仮の皇居を清めて、石灰の壇(清涼殿の東廂の南遇にあって石灰を固

めて築いた壇。天皇が毎朝皇大神宮・内宮と豊受大神・外宮を遥拝する所)の壇に准えて、太神宮

の御拝があったので、天には二つの日はないけれど、国に二人の王がおわします心地がして、武家

も持て扱いてぞ(処置に苦しむ意、当惑して、持てあまして)覚えたのだ。

 これも叡慮に憑(たのみ)思召すことありける故である。

        俊明極(しゅんみんき) 参内の事
           俊明極との御法談 天皇に対する俊明極の予言

 去りぬる元亨元年の春頃に、元朝から俊明極と言う得智の(知徳の高い)禅師が来朝した。

 天子が直接に異朝の僧と相看のことは前々(さきさき)には更になかったが、この君は禅の宗旨に

傾(かたむ)きなされて、諸方参徳の(諸方面で徳智の僧の話を聞く事)御志が御有りであられたので

御法談の為にこの禅師を禁中にぞ召されたのだ。

 事の儀式が余りに微々(びび、佐々やか)であるのは吾が朝の恥であるとて、三公公卿も出仕の装

いを正して、蘭臺(らんだい、弁官の唐名)金馬(きんば、朝廷に仕える学士)も守禦の備えを厳しく

した。

 夜半に蝋燭を立てて禅師が参内された。

 主上は紫宸殿に出御なされて、玉座に席を進めなされた。禅師は三拝の礼を終えて、香を拈じて

萬歳(ばんせい)を祝した。

 時に、勅問があって曰く、山に架け橋を懸けて、海を航海して得々(とくとく)として参られた。

和尚は何を以て済度利生いつかと。

 禅師が答えて言う、仏法緊要の所を以て度生(どせい)せん。

 重ねて曰く、正當恁麼の時は如何(まさにこれはどうであるか)、と。

 答て曰く、天上に星あり、皆北に拱(きょう、手を組み合わせて北に向かって礼拝する)する。人

間は水として東に朝せずということなし、と。

 御法談が終わって、禅師拝揖(はいゆう、手をこまねいて上下し、或いは左右にする礼)して退

出さる。

 翌日に、別當の實世卿を勅使にして禅師の號を下せた。

 時に禅師は勅使に向って、この君は亢龍(こうりゅう、あまり高く上り詰めた龍は下降の悔いが

ある)悔いありと言えども再び帝位を足偏の戔(ふま)せ給うべき御相が有る、とぞ申されける。

 今は君は武臣の為に囚われて亢龍の悔いに会わせらておられるが、かの禅師が相したまいける事

であるから、再び九五(天子の位)の帝位を足偏の戔(ふ)ませられる事は疑いなしと、思召すに依っ

て法體の御事は暫くあるまじき由を、強いて仰せいだされたのだ。





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最終更新日  2026年02月06日 08時12分58秒
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