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2026年02月09日
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中宮 御歎きの事     

 中宮 六波羅の御所に 行啓 天皇との御対面 その御和歌 三月七日、既に先帝は隠岐国に遷

され給うと聞こえければ、中宮(禧子)は夜に紛れて六波羅の御所に行啓ならせ給う。中門に御車を

差し寄せたれば、主上が出御なされて御車の簾を掲げられた。 君は中宮を都に留め置き奉りて、

旅泊の波、長汀の月に足偏の令足偏お倂(さすらい)給わんずる行く末の事を思召し連ね、中宮は又

主上を遠外にはるばると想像(おもいやり)奉りて、何の頼みと言ってない、明けぬ長夜の心が迷っ

て長襟(ながいものおもい)になるだろうと共に語りつくさせ給ったので、秋の夜の千夜(地よ

夜に準えるとも、なお言葉が残って夜が明けるであろうから、御心の中の憂き程は、その言の葉も

及ばないので、なかなか言い出でなさる一節もない。 ただ御泪にのみかきくれて、つれなく見え

た有明月も傾くほどになってしまった。夜が既に開けようとするので、中宮は御車を廻らして還御

なされたのだが、御泪の中に、   

    このうえの 思ひはあらじ つれなさの 命をされば いつを限りぞ 

とばかり聞こえて、臥し沈ませ給いながら、帰り車の別れ路に廻り逢う世の憑(たの)みない、御心

の中こそ悲しけれ。          

             先帝 遷幸の事            

 讃岐国への 御出発 明ければ三月七日、千葉介貞胤(さだたね)、小山五郎左衛門、佐々木佐渡

判官入道道誉等、五百余騎で路次を警固し仕りて、先帝を隠岐国に遷し奉る。 供奉の人とては、

一条頭大夫(とうだいぶ)行房、六条少将忠顯、御假借(介錯の当て字、お世話する人)は三位殿御局

ばかり。 その外は皆、甲冑を鎧(よろい)て弓箭を帯した武士共、前後左右に打ち囲み奉りて、七

条通りを西に、東の洞院通りを南に下って、御車をきしませれば、京中の貴賤男女が小路に立ち並

んで、正しく一天の主を下として流し奉る事の浅ましさよ。武家の運命も今に尽きるだろうよ。と

ぞ、憚る所なく言う声が巷に満ちて、ただ赤子が母を慕うが如くに鳴き悲しみけらば、聞くに哀れ

を催して警固の武士も皆鎧の袖を濡らしたのだ。      道中における御感懐 見尾の湊に御

到着 桜井の関を過ぎさせ給いける時に、八幡を伏し拝み、御輿を舁き据えさせて、二度(ふたた

び)帝都に還幸の事をぞ御祈念有りけり。 八幡大菩薩と申すのは、應神天皇(仲哀天皇の皇子)が

應化(おうげ)百王鎮護の御誓いが新であるので、天子行在の外までも定めて擁護(おうご)の御眦

(まなじり)をぞ廻らすらんと頼もしくこそ思召す。 湊川を過ぎさせなさる時に、福原の京を御覧

ぜなされても、平相国清盛が四海を掌に握って、平安京をこの卑湿の地に遷したので、幾程も無く

滅んだのも、ひとえに上を犯さんとせし奢りの末、果たして天の為に罰せられたのであるよ。と、

思し召し慰める端とはなりにける。 印南野(いなの)を御覧じて、須磨の浦を過ぎさせ給えば、昔

に源氏の大将が朧月夜に名を立ててこの裏に流され、三年の秋を送ったのだが、波はただここ元に

立ち寄る心地がして、涙が落ちるとも覚えないのに、枕は浮くばかりになりにけりと、旅寝の秋を

悲しんだのも理なりと思召さる。 明石の浦の朝霧に遠くなり行く淡路島、寄り来る浪も高砂の、

尾上の松に吹く嵐、迹に幾重の山坂を杉坂越えて美作(みまさか)や、久米の佐羅山さらさらに今は

あるべき時ではないのに、雲間の山に雪見えて、遥かに遠い峯がある。 御警固の武士を召して、

山の名をお尋ねあるに、

 これは伯耆の大山(第千)と申す山で御座います。と、申されければ暫く御輿を留めさせなされ

て、内證甚深の法施(ほうせ、仏に法文を献唱sること。心中に深く悟り深く信じ奉ったの意)を

奉らせ給う。

 或る時は、鶏唱抹過茅店月、或る時は馬蹄蹈破板橋霜(鶏の暁を告げる声で起き、田舎家に照る

月光を踏んで通り過ぎ馬の蹄で板橋に置く霜を力強く踏んで行って)、航路に日を極めたので都を

御出でなされて十三日と言うのに、出雲の見尾の湊に着かせ給う。

 ここで御船を艤(ふなよそい)して、渡海の順風をぞ待たれける。

       備後三郎高徳(たかのり)が事 付 呉越軍の事
     高徳の計画ならず 院庄において櫻樹を削
って詩を題し志を述べる

 その頃、備前の国に児島備後三郎高徳と言う者がいた。

 主上が笠置にござありし時に味方に参じて義兵をあげたが、事をいまだ成さぬ先に笠置も落とさ

れ、楠も自害したと聞こえたので、力を失って黙(裳だ)したのだが、主上が隠岐国に遷されさせ給

うと聞いて、二心のない一族共を集めて、評定したのは、志士仁人は生を求めて、以て仁を害

することなく。身を殺して仁をなす、と言った。

 されば昔、衛の懿公が北狄の為に殺されてありしを見て、その臣に弘演と言う者がこれを見るに

忍びずに自ら腹をかき切って、懿公の肝を己の胸の中に収めて、先君の恩を死後に報じてから失せ

たのだった。

 義を見てせざるは勇なきなり。いざや臨幸の路次(ろし)に参り会い、君を奪い取り奉りてから大

軍を起こし、たとえ屍(かばね)を戦場に晒すとも、名をば子孫に伝えよう、と申しければ、心有る

一族共は皆この義に同じた。

 さらば路次の難所に相待って、その隙を伺うべし。とて、備前と播磨との境にある舟坂山の嶺に

隠れ臥して、今か今かと待ち設けていた。

 臨幸が余りに遅かったので、人を走らせてこれを見に遣った所、警護の武士は山陽道を経ずに、

播磨の今宿(いまじゅく)から山陰道にかかり臨幸を為し奉りしかば、高徳の支度が相違したのだ。

 さらば美作(みまさか)の杉坂こそ究竟(くっきょう、最上の)の深山である。

 これにて待ち奉らんとて三石(みついし)の山から筋違いに、道もない山の雲を凌いで、杉坂に着

いた所で主上は早くも院の庄に入らせ給いぬと申しける間、力なくこれより散々になってしまった

が、せめてもこの所存を上聞に達したと思っている間に、微服潜行(卑しい服装をして、忍んでい

く)して時分を伺いけるに、しかるべき隙もなくて主上が御座有る宿の庭に大いなる桜の木がある

のを押し削って、大文字で一句の詩をぞ書きつけたのだ。

  天莫空句践、時非無范蠡。(天は姑蘇城に幽囚された越王句践のような囚われの後醍醐天皇を

空しく殺しなされてはいけない。時に越王を助け参らせて会稽の恥を雪(そそ)いだ范蠡・はんれい

のような忠臣がいないわけでもない)





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最終更新日  2026年02月09日 10時52分32秒
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