全6件 (6件中 1-6件目)
1
こんにちは。前回からの投稿の続きです。45歳で本格的な更年期に突入しました。詳しくは医療体験談のカテゴリーを見ていただければと思います。更年期についてはまた別の記事にしようと思います。言葉で表現すると「人生で最大のピンチ」または「自分史の暗黒時代」になります。大体普通の状態に回復するまでに5年ほどかかりました。2010年代後半は世間を賑わせた事件事故について思い出せるものはありません。2010年代前半と違っていたのは誰かといると関わることで精神的にしんどくなってしまうため必要な人間関係以外はほぼ切って引きこもりで過ごしました。一人で出来ることといったら読書や調べ物、好きなことを勉強することくらい。この時期に一人でいる事が当たり前になってものすごく寂しいということがなくなりました。もう2度と更年期はごめんです。主人や子供達にも迷惑をかけました💧苦しく辛い日々が幸いし今では何をしてもあの頃を思うと幸せを感じます。そして時代は2020年、例の流行病感染症の時を迎えます。これを書くとどんどん脱線していくのでまた別の機会に。それではまとめに入りましょう。私にとっての「失われた40年」とは何だったのか?比較的貧乏な家庭で育ったので基準があの子供時代何もないのが普通うちは高度経済成長の恩恵はほとんど受けていません。これって何も失われていません。もともとないんですから😅現代より希望はありました。自由も今よりあったかもしれない。もし物が不足する時代が来ても耕す畑や米があればやっていけると思います。そして手に職だと思って看護師になり、他の人より恵まれた環境で働けていると知りました。「看護師っていいよね。」と言われることもよくありました。「何がいいの?夜勤がなかったら薄給だよ?仕事は汚いしきついよ?」「原因不明の感染症の患者さんが来たら真っ先に感染するよ?治療法ないんだよ?」「事故で逃げたくても患者さん置いて逃げられないよ?それで死ぬかもよ?」愚痴ればキリがありませんが、国家資格なので一回辞めても転職や復職も可能女性一人でも生きていけるなどメリットの方が大きいと思います。化粧品も医療と繋がっています。化粧品も薬もありとあらゆる化学薬品の原材料は「石油」です。その利権を持っている人たちは医療も金融も化粧品業界そのほかも同じです。コロナ禍で陰謀論や都市伝説に足を踏み入れたところ世の中の出来事は全て裏で繋がっていることを知りました。当然医療も社会の闇と繋がっています。陰謀論ではなく、それが事実と知った時、「私は悪魔に魂を売った人達の手先として働いていたのか」と衝撃が走り看護師には2度と戻らない決意をしたのでした。日本にとっての「失われた40年」とはある人達に「洗脳」されていた年月であり日本人としての誇りを教育によって奪われ家族との絆を無くすように画策され口にする食事に毒性の高い添加物を「安心安全」だといって病気になるために食べさせられ日本にはお金がないといって騙し高い税金を払わせられ病院の薬でさらに新たな病気にさせられた年月なのではないでしょうか?これからも洗脳され続けていくのかはどれだけの人がこの事に気がついて自らの行動を変えていくのかにかかっています。このブログでも書籍で何回か紹介した内海聡さん、吉野敏行さんなど自らの高い能力を日本人のために使っている方々の下に集まり、私達が持っている権利と自由をこれ以上奪われないように日々頑張るしかありません。私は、このブログで書籍や映画の紹介などでどなたかが社会の闇に気がついてくれたらと思い記事を投稿しています。これで年末年始に「失われた40年」をアラカン女性が振り返ってみたは終わりです。
2025.01.06
コメント(2)
こんにちは。今年、もうじきアラカンになります。若くて元気だと思っていた実家の両親が少しずつ衰えが見え介護も視野に入ってきました。この数年間でこれからの生き方を考えなくては・・。だから今、この40年を振り返るのはいいタイミングです。2010年前半の事件事故はもういうまでもありません。2011年311の東北大震災、この一択です。当日は2歳になったばかりの娘を車に乗せて帰宅途中でした。運転中の車内で揺れを感じるとFMの番組出演者さんが揺れに耐えるのに必死で私達リスナーに安全を語りかけるのがやっとでした。帰宅してすぐにテレビをつけてしばらくしたら海から真っ黒な津波が来る映像が流れてきました。家が、車がゆっくりと、しかし確実に黒い津波に飲み込まれていく様子は今も忘れることができません。そして震災直後、津波による福島第一原発の非常用電源が壊滅し原発の臨界事故の模様が常にテレビの報道となりました。当時、政府は原発事故に関して「直ちに問題はない」を繰り返していましたが本当は問題があり過ぎて公的に説明できなかったとコロナ禍でノンフィクション書籍「死の淵を見た男」を読んで知りました。放射線被害は食品に関しては他人事ではないと食品検査で安全と宣言されている通販サイトに変えたりしばらくの間不安は消えませんでした。小さい娘の育児に追われて当時の記憶はこれくらいしかありません。今のように社会の闇に気がついていないため医療に関してのわずかな疑問も薄れていきました。ただ、下の息子を妊娠する前にあることがきっかけで日常生活から消えた物がありました。(詳しくは医療体験談内の「更年期で難を逃れた話」を読んでいただけたらと思います。)それがその後に社会の闇に気がつくきっかけになったことは当時知る由もありません。上の娘が幼稚園に入園した年に息子を出産。世の中は、一般的にスマホの普及が進み私の周りの園ママのほとんどがガラケーからスマホに機種交換していました。遅れて私もスマホを手にして生活が次第に変わります。今ではスマホは一人一台は当たり前で、パソコン不要でインターネットを使うことも、動画を見ることも音楽鑑賞や仕事の作業もありとあらゆる事が一台で済むという当時としては本当に画期的でした。でも、子育てにはお金がかかります。毎日の食費や日々成長する子供の洋服代はバカになりません。スマホにして便利にはなりましたが月々のインターネット通信代が重くのしかかるようになりました。ある時インスタを眺めていたら「SNSは個人の経済格差が丸見えだなあ」とふと思いました。生活の都合のいいところだけ切り取って自分をよく見せる事に疑問を持つようになります。それでも娘の幼稚園生活や下の息子の育児などネタには事欠かなかったためブログ、ツイッターなど一通り発信して楽しんでいました。けれど、それも私の更年期の到来で終わりを告げることになります。当然ですが、晩婚に高齢出産後の育児は子供が小さいうちから更年期が始まってしまうと誰も教えてくれませんでした💧年齢は45歳になっていました。次回に続きます。
2025.01.05
コメント(0)
こんにちは。年末から「失われた40年」というテーマで投稿しています。イギリスから帰国して日本が大きく変わったということもなく、初めて見る芸人さんなどをテレビでよく観ていました。当時は、「家庭を持つ」ということが次の目標になっていてちょうどジャガー横田さんが不妊治療後に妊娠・高齢出産の報道がテレビの話題としてよく上がっていました。「まだ、大丈夫だよね?」不安は特にありませんでしたが、高齢出産になるであろう覚悟はありました。いやいや、そんな事を考える前にまずは「結婚する相手」でしょう😂30代後半の女性が婚活するといったら駆け込むのはもう「結婚相談所」しかありません。友人知人に声をかけて、紹介してもらったりしましたが「短期決戦」でなければと田舎では大手の相談所に入会しました。今回も婚活がテーマではないので当時の婚活のリアルはまたの機会になります。軽めのお見合いパーティーではなくしっかり釣書があってなおかつ、男性は源泉徴収票などの提出書類によりちゃんとした出所がわかる人だけでお見合いで一人紹介する毎に発生する料金も当日の食事代も成婚したら、支払うお金もほとんどが男性です。そう、ここでも経済格差が如実に現れます。男性は女性ほど年齢は問われず、経済力が一番重要です。一方女性は・・・年齢が若ければ若い程お見合い相手を選ぶことが可能で30歳を過ぎると条件をつけ過ぎるとお見合いをする機会自体が減っていきます。相談所のベテランスタッフから特別な説明は受けなくても何となく理解できたので幅広くということで紹介されたお見合いは出来る限り受けました。ただし、出来たら自営業の人で(長く働ける人)子供を大事にしてくれる人可能なら💧同じ年の男性がいいなあと思っていました。出産年齢ギリギリになってしまうという焦りがないといったら嘘になりますが今の旦那さんを紹介して頂き子供二人にも恵まれ山こえ谷をこえいろいろな事がありましたが幸せに暮らしています。高齢出産・育児などもまたの機会で投稿します。そして2000年代後半の出来事というとリーマンショックが後半最大の出来事でしょうか。こちらについては映画・ノンフィクションのカテゴリーで投稿していますので観ていただけると嬉しいです。リーマンショックの余波は主人も私も特に実感として受けることはありませんでした。当時は、銀行は詐欺紛いな事もする機関とは夢にも思いませんでした。今ならはっきり言います。「泥棒なども平気でする」所です。続きは次回の投稿になります。
2025.01.05
コメント(0)
こんにちは。前回からの投稿の続きです。2000年代前半の世の中で起こった事件事故といったらアメリカで起こった911の同時多発テロ一択でしょうか?それで、化粧品販売の売り上げが落ちたり急にお客さんの来店が無くなったなどの影響は出ませんでした。ただし、私は当時次にやりたい事を「海外語学留学」に決めて実行すべく計画中でした。初めはアメリカを目指していました。が、テロが起こった直後の映像をテレビで見たところで選択肢から一瞬で消えました。結局、イギリスに決めて渡英します。2003年ごろの話です。留学中のネタは山のようにありますが、こちらの投稿とは趣旨が違ってくるのでまたの機会にします。確か当時1ポンド約200円くらいの時期でした。現地の物価は体感的には「安くはない」という感じ。スタバのショートが99ペンスだったのでレートが高い時は一杯250円くらい。それでもまあまあのお値段だったのですから今の物価高騰は日本もよその国も異常です。看護師時代に貯めたお金と足りない分は実家の両親からの仕送りでやりくりしていたので、使わないようにやりくりはしていました。今振り返るともう少し節約して上手くお金を使えたのにと思います。ヨーロッパではEUの加盟国が増えてイギリスへの入国が以前と比べて簡単になり、トルコなど東欧からの「移民」が増えた時期です。語学留学後は、現地で働ける語学試験をクリアしたら看護師としてイギリスで働いてみたいと思っていました。当時は、語学試験の一つIELSというアメリカでいうところのTOEFLのような試験で基準以上のスコアで現地の病院で実習が出来て、最終スコアを取ったら働くことが可能というものでした。頑張って実習が可能なスコアを取得したところで学生ビザがの期限が近づき、延長しようかどうしようかと思っていたところロンドンの地下鉄でもテロ爆発事件が起きました。それまでも、人種差別や自国で暮らしていれば当たり前のことが出来ないもどかしさや、目に見えないストレス、我慢や孤独などがあり、テロによってイギリスでの生活の悪い部分に目が行くようになりました。それが怖かったというよりは、「ここも私の居場所ではないな・・・。」というのが正直なところです。「やはり帰ろう」自分探しは出来なかったけれど20代に経験せずに通り越してきたいろいろはイギリスでやり切ったと思いました。30歳を過ぎてやりたい事をやろうと決めて行動していましたが何だかいつも中途半端でダメな自分、どうしてダメなのか自分自身ではわかっているのに見つめない自分。当時の自分に、私はこう声をかけたいと思います。「やりたい事があるのはわかるよ。そんなことしてたら人生短いよ?家庭を持ちたいならもう遅いかもよ?ねえ、大丈夫?」帰国時は35歳を過ぎていました。次回に続きます。
2025.01.04
コメント(0)
こんにちは。皆さん、初詣は行かれましたか?私はこれから参拝客が少なくなってきたら子供とお参りしてこようと思います。さて、前回からの続きです。2000年秋に転職して大手化粧品会社の美容部員となりました。時代は小泉総理大臣下で派遣が認められ、派遣、契約社員の割合が多くなっていました。保険証も出るし、交通費も制服も支給。社員さんとそれ程差がないと思っていました。でも、働いた時間数が減ればお給料が都度下がり有給はあってないような物で化粧品の販売員の勤務実態はブラックです。私はそこら辺よくわかっていなかったので、求人欄に契約社員募集の掲載を見た時に「これだ!」と思ったのです。最初は頑張れば社員になれると充実した日々を送っていましたが、仕事にも慣れて、いろいろな事が見え始めたある日のことです。商品が入荷してきて個数や種類を確認しながら商品棚に収納しようと伝票を見ていた時のことです。来客がほぼゼロの日で伝票の左端の欄から右端の欄の隅々まで眺めていたら・・。原材料から仕入れ値卸値などの価格までたどり着くのに価格差がものすごく、例えば5000円の化粧水だったら原価1500円に利益や手数料が乗った状態で販売されます。売った個数や歩合制で販売員の手元にはお金が行くわけではないのでこれを見た時に、販売員のお給料が何故薄給なのかがうっすら見えて興醒めし、結局丸2年間勤めて退社しました。「やりがい搾取」とはよく言ったもので若くて希望や夢を持って契約社員として入社した女の子でも日に日に目の輝きを失って退社していく姿を見て、当時は高額な商品を販売することの難しさを感じていました。看護師は国家資格、資格をもった人しか看護師として働けません。「資格がない職業は厳しい・・。」その時に自分が高校の頃に選択した進路が正しかったと確信しました。(ただし、その選択には裏がある事は知る由もありません。)もちろんすごい売り上げを叩き出している美容部員さんたちのお給料は高かったと思います。(詳しいところは分かりませんが、当時は年棒制だったようです)すぐに辞めなかったのは、お金ではなく、いろんな経験をしたかったというのもあります。あとはあまりに短期間だと履歴書に書くにしても次回面接時に突っ込まれるのが面倒でした💧そして、次にどうしたいのか考えてから辞めようと画策していました。看護師に戻る気は起こりません。けれど2000年代前半にまた看護師時代に抱いた疑問がよぎります。ガンが4人に1人から3人に1人とガンになる確率が増えました。理由がはっきりせず気になっても、しかし日々の忙しさの中で社会に対しての疑問が薄れていく。結局わからないまま時はすぎていきました。世の中の女性がキレイになりたい欲を最大限利用し一番儲けているのは今も昔も化粧品会社ではありません。そんなことを知るよしもなく、コスメや美容商品にお金を注ぎ込んでいた自分自身が今となっては滑稽です。当時は30代前半、まだ若いと思っていたのでいい言葉を使えば「自分探し」のために次にやってみたいことを実行すべく2000年前半に化粧品会社を退社。次に目指したのは海外でした。続きは次回の投稿です。
2025.01.03
コメント(0)
年が明けました。時は2025年、皆さんのこの一年が実りあるものになりますように。前回の投稿の続きです。1970年代はまだ年齢が低く大きなニュースなども記憶にありません。人々は子供から大人まで、ドラマや歌番組にアニメなどテレビに釘付け(今思えば洗脳されていたとも気づかずに)1980年代は特に印象に残っていることとして・・当時は1985年の日航機123便墜落事故やチェルノブイリ原発事故、プラザ合意が世間を賑わせました。特に123便の飛行機事故はお盆で部活動が休みになったところで起こり、テレビ報道は全て事故関連になってしまったことを覚えています。ただ、時代はまだ好景気でバブル崩壊の予兆はまだ感じることなく高校・短大を卒業しました。1991年に看護師資格を取得。看護師は新卒後に就職した病院で経験を積めば求人には困らない職種なので転職も簡単に出来て世の中がバブル崩壊後の不景気になった時も逆風は受けませんでした。新卒後に就職した大学病院から地元の病院に転職して数年立った頃大学病院の同期だった看護師仲間から「三交代が二交代制になってお給料が減ったからよその病院で休みの日はバイトをしている」と聞きました。1990年後半から多少医療職も影響は受けていたように思います。その友人はバイトしていた病院で看護の手技や技術を磨き最後まで生き残って現在は看護師長になっています。三交代勤務の激務で世の中の流れにはかなり疎くなっていました。それでも、医療に関してだけですが、時折感じる社会に対しての疑問がありました。それは、「医学は年々進歩していると言われているのに何故病気になる人は減らないどころか増えているのか?このままだと病院はパンクしてしまうし患者さんの家族は疲弊してしまう。」この疑問は解決することはありませんでした。90年代の印象に残るニュース事件事故としては従軍慰安婦問題薬害エイズ問題地下鉄サリン事件阪神淡路大震災東海村の臨界事故こうしてみると重大事件がいくつも並びます。これらのニュースを見たときに感じていたことは、「何を今更言っているのか?私達は原爆を落とされて、大空襲で大都市は壊滅しあなたたちよりひどい目に遭っている。結局お金が欲しいだけではないのか?」「エイズなど原因不明の感染症や臨界事故、災害地震時にもし医療従事者として遭遇していたら自分は患者さんのために逃げられないし最後は命を落とすかもしれない」などと考えていました。例えば東海村の臨界事故で運び込まれた患者さんから被爆して治療が必要になった医療従事者の方がいたと新聞で知りました。あとは針刺事故等でで、エイズ感染になってしまう危険も一般の方より高いのです。その後、私自身は、地元の病院に30歳まで勤務したところで職の人間関係や仕事に対しての意欲の減退、燃え尽き症候群のようになって10年目で退職。2000年春のことです。看護師時代の事はまたいつか投稿しようと思います。当時は「一度きりの人生だから看護師以外のこともやってみたい」と化粧品会社の美容部員に転職しました。続きは次回の投稿で。
2025.01.01
コメント(0)
全6件 (6件中 1-6件目)
1