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絲山秋子
なんて小説家は知らないかな?冬休みの図書館当番をしていて 「袋小路の男」(講談社)
を見つけて読みました。おもしろかったです。ほかにも、すでに借りている人が数人いて、ふーんと思いました。図書館の本で、ぼくが借りようと思って手続きする本は誰も借りていない本がほとんどだから、借りている人がいる本と出合うのは何となく嬉しい。
「沖で待つ」(文藝春秋社)
という作品で 2006年
、 芥川賞
を取った作家です。この受賞作 「沖で待つ」
は読んだ記憶があるような、ないような、あやふやな所が我ながら情けないのですが、文庫本になっていないから読んでいないだろうと思います。でもこの作家の作品は 「ニート」(角川書店)、「逃亡くそたわけ」(講談社文庫)、「海と仙人」(新潮文庫)
と何となく読み続けています。ああそうだ 「イッツ・オンリー・トーク」(文春文庫)
というのもありました。
どの作品も 「高校生が読んで面白いかなあ?」
、と、まあ、そんなふうに考えるとちょっと考え込んでしまいます。だいたい出てくるのは頼りないダメ男と、エキセントリックな独身女です。
エキセントリックという言葉は、英語の語感ではほめ言葉にならないと聞いたことがあります。ちょっと困った人という感じでしょうか。
その感じが一番ハッキリしているのは 「逃亡くそたわけ」
という作品の主人公です。福岡の病院から脱走した二人組が主人公です。一人はうまれ故郷の名古屋を毛嫌いしていて、実務的には優秀だが、頼りなくて、元エリートサラリーマンで、自動車オタクでポルシェにあこがれている男で、 通称「なごやん」
といいます。変わっているといえば言えないこともないが、ありがちといえばありがちなダメぶりです。
珍道中の相方は女性で、自殺未遂のせいで入院させられた女子大生です。この人は、運転免許も持っていないのに自動車の運転をしたがるかと思えば、いきなり隣に駐車してあるヤクザの持ち物とおぼしき高級車にぶつけてしまうような、実に世話の焼けるタイプです。
で、小説の中で彼女を苦しめているのが 「亜麻布二十エレは上衣一着に値する」
という謎の言葉ですね。この言葉が幻聴として聴こえてくると、生きていることが嫌になるというわけなのですが、 通称「花ちゃん」
という女性です。
読んでみようかという人のために、まあ、大きなお世話なのですが、少し解説すると、 「亜麻布二十エレは上衣一着に値する」
というのは、 カール・マルクス
の 「資本論」(岩波文庫)
のなかの言葉だったと思います。
ただの布地が出来上がった服と同じ価値体系で交換されるのは不思議なことだと誰も考えなかったのに、 マルクス
は考えたんですね。ぼくは三十年前に資本論を読んだのですが、内容は全くわかりませんでした。でも、そのことは不思議でした。で、そういうことを疑うことがあるコトをおぼえました。
さて、この交換過程の行き着く先というか、出発点というかにあるのは 「貨幣」
ですね。現代という時代は、それを疑わなくなってしまった時代なのですが、働くことのみならず、食べること、着ること、人を愛することにいたるまで、お金で帳尻を合わせることが出来るなんて、本当は、どこかおかしなことなんじゃないか?お金では交換しきれないものが残ってしまうということはないのだろうか。もし、あるなら、それはどうなるのか。 「亜麻布二十エレは上衣一着に値する」
に苦しむ 「花ちゃん」
はそういうことに納得がいかない人なんですね。
ここまで、解説というか、おしゃべりすると、貨幣と同じように怪しい働きをする人間の発明が言葉だということに気づく人もいるかもしれませんね。「愛している」とささやかれると心が揺れてしまうのはなぜか、思い出がいつも美しくなるのはなぜか。言葉は、ややこしい現実をわかりやすい何かと交換して説明してしまう。それって、どっか、ヘンじゃないか?
絲山秋子
はどうもそのあたりにいらだつ作家のようですね。だから、彼女の小説において、おこりつつある何事かは、たとえば 「愛」
とか 「友情」
いう言葉で説明されることはないですね。で、出来事と言葉を交換することをためらったり、いらだったりする主人公はエキセントリックで中途半端です。でもね、旅の終わりに、ダメ男「なごやん」が叫ぶ「くそたわけ」という言葉は、あらゆる交換を拒絶して爽快なのです。そういう意味で、なかなかな作品だと思うのですが、読んでみる気になりましたか?
たとえば、さっき読んだと書いた 「袋小路の男」
という本の中に収めてある三つの小説のうち、 「袋小路の男」「小田切孝の言い分」
という二つの小説は、いわゆる恋愛小説なのですが、ちっとも恋愛小説ではありません。同じ関係を男の側と女の側から描いて、二つの話にした感じで、変な男と困った女の奇妙な関係が淡々と続くだけです。まぁ、高校生向けとはいえないですねえ。
三つめの 「アーリオ オーリオ」
という小説は 中三の少女
と 叔父さん
の話です。叔父さんと宇宙の話なんかしているのは受験勉強の邪魔だとしかられた少女が叔父さんに出した最後の手紙には
「私が死んでしまっても、世界はこのままなんでしょうか。宇宙もずっとあるんでしょうか。」
と書かれています。現実の生活の 「終わり」
に気づくと、現実は揺らぎ始めます。自分がいつどこで生きているのかなんて、わかりきっていることだったのに。何万光年という宇宙の時間の、一体どこに私たちはさまよっているのだろう。そんな問いに、ふと取り付かれて小説は終わります。
出来事と言葉を交換しない小説。 「愛」
や、 「やさしさ」
や、 「人間だもの」
という言葉が、人間とどんなにかけ離れているか、そして、いつの間にか人間をどんなに苦しめるか。 絲山秋子
のセンスはなかなかだと思うんですがね。どうです、読んでみませんか?( S
)
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