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日本を代表する鉄道アーチ橋梁の遺構を巡ってみました。いずれも建設に当たった当時の方々の大変な努力と熱意が今の私たちにも脈々と伝わってくる素晴らしい産業遺産です。今もし同じ橋梁を重機を使って建設しようとしても簡単にはいかないぞという先人の気迫が迫ってきます。1.旧信越本線碓井峠 第三アーチ橋(通称メガネ橋)標高956mの碓井峠を越えて、信越本線を横川駅と軽井沢駅で結ぶために明治25年(1893年)に220万個のレンガを積み上げて建設され、昭和38年(1963年)に信越本線が新線に置き換えられるまで碓井峠の急勾配を上がる象徴的な橋梁として使われました。日本最大の鉄道アーチ橋です。写真左の坂道を歩いて登ると橋梁の上に出て渡ることができます。補強を施す前の当初の橋梁設計図です。コスト・工期を抑える意味もあってか、かなり柱は細くてスマートだったことが分かります。竣工直後の関東大震災で橋梁に亀裂が入ったため、レンガを最終300万個まで増やして急遽補強されました。確かに支柱部分やアーチ下部分は補強でかなり太くなっているのが、分かります。力強い印象でこれはこれで美しいですね。それにしても、この威容を形作るために300万個のレンガをここまで運び込んだとは、ただそれだけでも感嘆するばかりです。アーチ橋の上は通行でき、直下の登り口から上ることもできますが、お薦めは国道18号線を軽井沢方面に行って、途中の熊ノ平駐車場から旧熊平駅跡に上がり、あとは旧信越本線跡の第5トンネルなどを通って東に約2kmほど歩いてアーチ橋の上に出るルートです。当時の雰囲気が堪能できます。写真は旧熊平駅跡付近の景色です。信越本線の旧線線路跡と一番古いアプト式の線路撤去後の「アプトの道」が並行しています。国道18号線の熊ノ平駐車場から上るルート以外に、このパンフ通り、横川駅の「鉄道文化むら」からもアーチ橋へは旧信越本線跡が「アプトの道」として整備されていますが、上りで約4km歩くので健脚でなければ大変厳しいと思います。旧熊平駅跡からアプトを道を東方向に歩くと、最古の旧信越本線跡の第5トンネルなどの隧道を通り抜けます。かってアプト式線路が敷設されていたトンネル内は綺麗に整備されて舗装されているので、「探検」に付き物の長靴やヘッドランプは必要ありません。小さな子供さんでもOKです。アプトの道の途中にあった道標です。右が東方向、左が西方向です。第三アーチ橋の上から国道18号線を見下ろせます。熊ノ平駐車場と第三アーチ橋の往復は1時間半を見込んでください。2.旧戸井線 アーチ橋梁戸井線は津軽海峡防備を目的として、昭和12年(1932年)に現在のJR五稜郭駅から旧戸井町までの29.2kmを結ぶ予定で着工されましたが、戦況悪化に伴う資材不足のため昭和18年(1938年)に工事が中断され、ほぼ90%が完成したまま一度も使われることなく廃止された不運の鉄道路線です。なぜここに砲台を設けようとしたのか、その理由が分かります。青函トンネルのルートとしても検討されました。地質の問題で廃案になったそうですが。旧戸井線最大の遺構が全長52mの8連コンクリートアーチ橋で正式名は「汐首岬第一陸橋」と言います。アーチ橋の右端に見えるのは「汐首岬灯台」で元々は「汐首岬砲台」を建設予定でした。当時の工事中の写真をかなり探しましたが、軍事機密であったせいか見当たりません。砲台の近くにこんな目立つ橋梁があっては、敵艦に反撃されてすぐに破壊されそうです。ドイツ軍ならナバロンの要塞のような地下砲台か列車砲を準備したことでしょう。空撮写真です。アーチ橋の左側は津波避難場所になっていますが、民家の庭からしか階段がないので、部外者は侵入できません。また、右側は汐首岬灯台として海上保安庁の管理下にあり、立ち入ることはできないのと支柱だけの橋梁部分があるためアーチ橋には渡れません。第一陸橋の東側に第2陸橋の遺構もあり、こちらは津波避難場所として階段が設置され、上まで登っていくことが可能です。20年ほど前までは全貌が観れましたが、次第に草木に埋もれつつあります。避難階段を上ったところはまさに旧戸井線跡です。西側の汐首方向になります。前日の雨でトンネル付近はかなりぬかるんでおり、長靴を履いてトンネル内に入りました。入口付近に堆積した土砂をかき分けて中に入ると、天井に穴が開いて崩落の兆候があり、路面は漏水でぬかるんでいました。そのため、トンネルを通過することは断念しました。トンネルと反対方向の旧戸井線跡です。東方向で未完に終わった瀬戸東から戸井町までの区間になります。確かに山際の道床は造成されていますが、正面の尾根を貫くトンネルは掘削されておらず、谷間の橋梁も掛けられていません。3.旧士幌線 タウシュベツ橋梁旧国鉄士幌線の糠平駅と幌加駅間に掛けられたコンクリート造りのアーチ橋ですが、1937年に建設されてから1955年に糠平ダムが完成すると士幌線が人造の糠平湖を大きく迂回する形で路線変更になったため、結局18年間しか使われませんでした。人造の業平湖ができる以前は士幌線は第三音更川橋梁辺りから音更川を離れてまっすぐ幌加駅を目指して北上していました。糠平駅も東側にあったのを水没するため、現在の上士幌町鉄道資料館の場所に移設されました。建設中のタウシュベツ橋梁です。セメント以外の材料は現地調達でした。竣工直後のタウシュベツ橋梁で、名前の通り白樺の原生林に囲まれていました。ダム水没時に原生林は伐採され、現在切り株のみ残っています。タウシュベツ橋梁の北側の士幌線跡を歩いていくと橋梁に出ます。糠平ダム建設後はダムの貯水で冬季は水没と氷結でセメントが激しく劣化しました。タウシュベツ川の上流側は特に雪解け水に洗われて橋梁外壁のセメントが損壊し、中の詰石が流失した状態になっています。タウシュベツ川の下流側からの綺麗なメガネ橋に写った希少な姿です。水量と天気と風に影響され、中々このような姿は観れません。士幌線は南から北に向けて、写真では奥から手前方向に勾配になっていたので、タウシュベツ橋梁は南側ほどダム湖に水没するので損傷が激しくなっています。詳しくは別稿「タウシュベツ橋梁 来春崩落近づく この8年間の変貌」をご覧ください。https://plaza.rakuten.co.jp/smorimoto0296/diary/202404150000/2024年7月には外壁セメントが目の前で水音を立てて落下するのを初めて目の当たりにしました。残念ですが、来春2-3月ころにはつながっているアーチの一部が崩落すると個人的に予測します。ブログの閲覧数もお蔭さまで36,000件を超えて、ぜひ他のテーマもご笑覧下さい。https://plaza.rakuten.co.jp/smorimoto0296/diaryall/
2024.07.12
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タウシュベツ橋梁はJRのポスターにもなったので、ご存知の方も多いと思います。旧国鉄士幌線の糠平駅と幌加駅間に掛けられたコンクリート造りのアーチ橋ですが、1937年に建設されてから1955年に糠平ダムが完成すると士幌線が人造の糠平湖を大きく迂回する形で路線変更になったため、結局18年間しか使われませんでした。人造の糠平湖ができる以前は、士幌線は第三音更川橋梁辺りから音更川を離れてまっすぐ幌加駅を目指して北上していました。糠平駅も東側にあったのを水没するため、現在の上士幌町鉄道資料館の場所に移設されました。私が1972年に初めてバイクで訪れた時は軽トラックが廃線になったこの橋梁の上を往来し、釣り人が橋に座って釣りをしていました。冬季は糠平湖の水位上昇で水没するとは聞いていましたが、殆ど注目されることのない単なる廃線遺構という感じでした。その後、2017年から毎年訪れていますが、元々コンクリートの外皮の中に石を詰め込んだような簡便な構造であったうえに水没時の凍結の繰り返しで劣化が激しく、恐らく数年のうちにアーチの一部が完全に崩落して連なった姿は観れなくなると思います。地元の方々も保存のための補強計画を検討したことがありますが、数億円の工費が掛かるため、このまま放置して崩れ行く成り行きに任せるようです。雄大な景色の中に取り残されたようなアーチ橋の姿はまるで古代遺跡を思わせるだけに誠に寂しい限りです。写真を経年順に掲載しますので、崩落が進む状況を見ていただくとともに、時期や水量で橋の姿が変幻万化するのをじっくりご覧下さい。私の客観的な予測ですが、2025年2-3月前後の融雪期にアーチ外壁のセメントがついに完全に崩落してアーチが切れると思います。なお、現在立ち入りが制限されており、近くで観る場合は糠平温泉郷の東大雪ガイドセンター主催で朝6時や夕方4時ころに集合の2時間ほどのツアーがありますので、それに参加されるのがお薦めです。1937年(昭和12年)ころに建設中のタウシュベツ橋梁です。セメント以外の原材料は現地調達でした。工事中のタウシュベツ橋梁です。「タウシュ」とはアイヌ語で白樺、「ベツ」は川を意味します。竣工直後のタウシュベツ橋梁です。当時は原生林が迫っていましたが、1955年(昭和30年)の糠平ダム人造湖建設に際して伐採されて現在の景色になったようです。2017年7月まだツアーの存在を知らなかったので、対岸の展望台から遠景を観るだけでした。2018年8月ガイドツアーを主催する「ひがし大雪自然ガイドセンター」代表の川田様。この地に移り住んで30年以上のベテランで、タウシュベツ橋梁のまさに生き証人でもあります。やはり詳しい方の説明を聞きながら、現地を訪れるのがベストと思います。http://www.guidecentre.jp/初めてツアーに参加し、施錠されたゲートを通って、旧士幌線跡を通りながら橋梁に行きました。30年ぶりに変わり果てた姿を近くで見て、軽トラが走っていた昔を俄かに思い出せませんでした。崩落は2003年9月の十勝沖地震が大きな始まりだったようです。一番真ん中の大きな側壁の崩落です。2018年当時もアーチの一部が崩れてはいますが、まだアーチ橋の柱の下に崩れたコンクリートや石が堆積するところまでには至っていませんでした。2019年8月 糠平湖の水位が余り下がっておらず、アーチ橋が綺麗に水面に映っています。時期と水位と風の状況でなかなか見れません。宮崎駿のアニメ作品に出て来そうな何とも幻想的な眺めです。橋の向こうから仙人が歩いてきてもおかしくありません。崩落部分も前年から殆ど変化がないようでした。それにしても古代の遺跡にしか見えません。橋の上面はどんどん浸食が進み、詰石が減って鉄筋がむき出しになりつつありました。2020年8月この年は春先まで糠平湖の水位が高かったのか、流木が旧士幌線跡の奥まで押し寄せていました。この年から橋梁に近づき過ぎないよう、ロープが全周囲に張られるようになりました。橋の下流側のセメント壁は川の流れにさらされないので崩落は相対的に少ないです。橋梁は向こうの糠平駅側に向かって下っているので、下り側ほど水没、氷結の度合いが大きく崩落も激しくなっています。橋桁部分にクラックが入っています。橋の上端の鉄筋もかなり露出して見えるようになりました。崩落が進み、橋梁の柱の下に残骸が堆積しているのが観られるようになりました。腐った鉄筋が橋から柳にように垂れているのがはっきり分かります。近くで観ると、コンクリートの外側だけが残っているかのように見え始めました。2020年10月2020年の2か月後に再訪するとすっかり紅葉して寒いくらいでした。ここはツアーの集合場所がある糠平公園ですが、昔ここに下の写真のような「大雪グランドホテル」という大きなホテルがあり、2003年に放漫経営による倒産後も惨めな姿を13年間あまり晒していたようですが結局、国立公園の景観を保持する目的で国費により解体、整備され、現在に至っています。この旧士幌線跡に沿って林を抜けると橋梁が現れます。夏の姿とは全く異なる風情です。夏の農業用水需要が終わって、糠平ダムが貯水時期に入ります。「こんな手すりのような鉄筋はなかったのになあ」と年々進む鉄筋の露出に驚かされました。2021年9月この年は数位が高く、ツアーには参加せずに対岸の展望台から遠景を観るに留めました。崩落が冬に進まないことを祈りながら・・・。2022年9月訪れたのが例年より遅く9月下旬でしたので、秋というか冬の足音を感じる気配がありました。寂寥感が胸に迫ってきます。橋梁の下り側(写真では向こう側)ほど、水没、氷結の度合いが大きいので、崩落が激しいことがはっきり分かります。中央の大きな崩落跡は2003年9月の十勝沖地震によるものです。2023年8月この綺麗なアーチの影がなくなると思うと切ないです。橋梁の上流側に広がる雄大な自然です。このような風景は北海道しか味わえません。何度も訪れる理由です。岸辺と接続する橋梁部分が崩落してなくなっていて驚きました。下に崩落破片が堆積しているのが見えます。もはやよじ登って渡るのも困難になってきています。もちろん、立ち入り禁止ですが。お付き合い願っている糠平郵便局の局長さんから分けていただいた記念切手シートです。このような形でタウシュベツ橋梁のことがより広く伝わり、沢山の方々のこころの中に残るといいですね。2024年6月今回初めて17時集合の夕方ツアーに参加し、夕日を浴びるタウシュベツ橋梁を観ることができました。6月終わりで農業用水の需要が本格化する前だったので、ダムの水位はそれほど下がっていません。橋梁外壁のセメントの崩落はさらに進み、内部の詰石がすべて流失している箇所が増え、残された外壁が外側に膨らんでいる箇所も出てきました。見学中にもバラバラとセメント片が崩落する水音を初めて聞いて、ガイドの川田様も驚くほどでした。アーチが辛うじてつながって見えるのも、これが最後になるような予感がしました。夕暮れの中にアーチがメガネ橋のように浮かび上がって、非常に綺麗でした。ガイドツアーに参加せずに直接ゲートの鍵を借りて訪れる方法もありますが、上記のように実際には鍵の受け渡し場所と時間に制限があり、空きも少ないので行き慣れたリピーター向きと感じます。以上のように毎年確実に劣化が進んでいます。訪れるたびに私は古代遺跡の中に一人取り残されたような錯覚に陥ります。このまま崩れるのがいいのか、それが自然の輪廻かも知れませんが。
2024.04.15
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ハワイ Hawaii・・、何とも甘味でロマンチックな響きがある反面、今さらハワイかよと思われる方もいらっしゃると思います。実は私も一時そう感じていました。JALPAKでの家族旅行2回、学生時代のアメリカ横断旅行、新婚旅行、ビジネスマンとしての語学留学やアメリカ出張など、10回以上訪れ、これを最後にとコロナ前に初めてお正月を過ごしました。「常夏のハワイ」などと昔のイメージが消えず、暖かいかと思っていたら非常に寒く、震えながらディナーショーを観ていました。ヒルトンやJALのサービスの悪さも重なって、後味の悪い旅行でした。71歳ですので海外旅行とは言ってもあと何回も10日間くらい足を延ばすような機会は限られます。女房と相談し、「最後のハワイ」として今度は真夏にセレブのように豪華に過ごそうということになりました。もちろん、本当のセレブの方々は20億円オーバーのプライベートジェットに乗って、カハラやダイヤモンドヘッドの別荘で・・ということになるんでしょうが。それでも旅行に際して、ハワイの話をするとDEEP HAWAIIに精通した方々が思いのほか、沢山いらっしゃって色々教えていただき、現地での出会い!も含め、本当に感謝しています。結局昨年8月に夢が実現できましたが、円安もあって二人で400万円近く使いました。さすがに遊んだという完全燃焼の気分になりました。Lulu likerの皆さんには豪華旅行の次はコンドミニアムとABCマートなどで日常のハワイを満喫することをお薦めいただいているので、ヨーロッパ旅行はイタリアくらいにしておき、代わりにハワイにもう一度行きたいと考えています。お薦め情報がございましたら、コメント欄でご教示いただけると嬉しいです。どうかよろしくお願いいたします。なお、こんな形でブログをするとは思っていなかったので、写真が僅かしかありませんが、どうぞハワイの風と香りを浴びてください。Mahalo!ルルライカ―の方に強くお薦めいただいた通り、ホテルはやっぱり、ロイヤルハワイアンとハレクアニで決まりです。円安とハイシーズン、ダイヤモンドヘッド・オーシャンビューとは言え、素泊まりで1泊20万円はさすがです。プロのLulu likerから頂いた写真を追加します。ロイヤルハワイアンのマイタイバーです。この落ち着いた何とも言えない雰囲気。戸外の風景とのコントラストが最高です。ルルライカ―の方に教えていただいたロイヤルハワイアンのマイタイバーはハレクアニのハウス・ウィズアウトキーより緩やかな時間の流れを感じさせる雰囲気で癒されます。その方のお薦めはコナビールのロングボートです。確かにハワイの味を感じます。コナコーヒーと同じですね。ここは残念ながら自宅のベランダ。マイタイバーと思って全部飲んでしまいました。プロのLulu likerから頂いた写真を追加します。プロのLulu likerから頂いた写真を追加します。こちらは先述のハウス・ウィズアウトキー。ハレクアニですから、けっして悪いはずがありません。ハレクアニのロビー。華美でないのが素敵。ハワイでフランス料理のフルコースか?と日本からムール・レストランを予約する時に少し迷いましたが、一晩くらいあってもいいのが分かりました。素晴らしい。濃縮した、いい時間でした。プロのLulu likerから頂いた写真を追加します。プロのLulu likerから頂いた写真を追加します。このフラは本当にうまかった。波間に漂っているような・・・。日本でもフラの愛好家が老いのも頷けます。定番ですみません。甘いもの好きなので、エッグスン・シングスは外せないかと。ベテランガイドさんのサービス精神には仰天しましたが、横で見ているだけでもハラハラしました。ナベサダのレコードジャケットにもなりました。風と波の音だけ。何日もたたずんでいたい。別に観光地ではなく、普通の臨海公園です。葛西や須磨のような・・・。大違い(笑)昔「私は貝になりたい」という映画がありましたが、「私はカメになりたい」。ビショップ博物館へは往復シティバスを利用しましたが、ダウンタウンや市民の皆さんと会話できて「普段のハワイ」をちょぴり感じ取れました。残っている宝物の少なさが何となくハワイ王朝のもの悲しい歴史を感じさせます。外に出た時の太陽の明るさとのギャップが何とも言えないです。ギャングのTボーン、ニューヨークのピータールーガーを思い出しました。A5和牛もいいですが、牛にかぶりついているような香ばしさが異次元の魅力です。チーフズ・ルアウのショーとハレクアニのフラディナーは高くてもそれだけの価値はあります。20-30年前はヒルトンでも素晴らしいディナーショーが観れたのですが、今は見る影もない。見慣れたポリネシアンセンターのショーとは格が違いました。動画を掲載できないのが残念ですが、高いだけにこのタヒチアンショーやファイアダンスも圧巻でした。ここまで来れば、色々言わずにやはり最上のシートを予約したいですね。次回はハワイ通の方に教えていただいたノースショアのタートルベイリゾートのオーシャンバンガローで過ごしてみたいです。「日常のハワイ」と言いながら、真逆の世界かも知れません(笑)Mahalo!
2024.04.03
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北海道の苫前(とままえ)の三毛別(さんけべつ)六線沢で大正4年(1915年)に起こった史上最悪の羆(ヒグマ)による7人の惨殺事件をご存知の方は多いかも知れません。苫前郷土資料館に事件の展示があるほか、「復元現地」も現在の苫前町三渓に整備され、次第に観光地化されてきたので訪れた方もあるでしょう。ただ、最近では綿密な資料や現地調査もせずに、安易に他のネット記事を無断転用したような記事や表面的な観光地訪問記も増えていますので、私なりに突き止めた真相をまとめてみたいと思います。事件は大正4年12月9日、北海道天塩(てしお)山地の苫前村六線沢で34歳の太田(内縁 阿部)マユという開拓民の女性と6歳の男子(養子予定)が小屋でヒグマに襲われたことから始まりました。女性は惨殺されて山林まで引き去られ、熊の習性から獲物として一旦雪中に埋められたうえ、最後には頭蓋骨と手足を残して「完膚なまでに」食殺されたと当時の新聞は報じています。襲撃したヒグマはさらに翌日夜に何と二人の通夜の席上に乱入し、集まっていた6人を襲いました。そして続けて300mほど離れた隣家に集団で避難中の男性1人と女性、子供の計10人を襲ったのです。この現場には斎藤タケという妊婦の女性も居て、隠れていた俵の影からヒグマに引きずり出されて「腹破れんでくれ」「のど喰ってくれ」と胎児の命乞いをしたのですが、上半身を食殺され、胎児は体外に出されていたそうです。警察や軍隊など200名余りの討伐隊が結成されましたが、何度か追い詰めたにも関わらず、ヒグマを手負いにしながら撃ちそこなってしまい、結局は事件6日目の12月14日に一人で熊撃ちをしていた山本兵吉というマタギが漸く至近距離から撃ち殺しました。この巨大羆は11月から六線沢に出没して入植小屋にあった干しトウモロコシを獲ったり、事件の数日前には旭川や天塩で女性3人を食殺した同一個体ではないかと言われています。事件は添付写真解説のように映画化されたほか、ドキュメンタリー小説や漫画でも描かれました。しかし、実際の事件現場が現在のどこなのか、現状はどうなっているのかはよく分かりません。この疑問がずっと頭に残っていて、何度も現地調査を繰り返すうち、漸くその全容を解明することができました。添付写真の最後に一応地図を添付しましたが、現在の復元現地に至る道道1049号線と地図に示した当時の農道は大きく異なっており、三毛別川も改修が行われて蛇行が少なくなっています。復元現地周辺は現在も居住者無人地帯で道路も砂利道であり、写真の国有林林道は立入り禁止です。実際の事件現場を探すには1049号線から外れて草木、クマザサの中を踏み進む必要があり、全て自己責任にてお願いいたします。熊の被害に遭われても一切責任は負いかねますので、悪しからずご了承下さい。これらの著作は旭川営林局技官の木村盛武氏が昭和39年(1964年)に執筆された「獣害史最大の惨劇苫前羆事件」や事件関係者本人などへの取材をベースに書かれていて、いずれも真摯な力作です。木村様の著書は初版が1994年、吉村様の著書は1982年で、いずれも重版を重ねています。漫画も1998年初版と古く、漫画は漫画でリアル感があって、一読の価値があります。留萌からサロベツ原野に向けて北上する国道239号線沿いに苫前町庁舎があり、その前にヒグマの看板が立っています。苫前町庁舎の国道を隔てた反対側に東へ入っていくと苫前郷土資料館があります。ご高齢の親切なオバサンが案内におられましたが、最後にお会いしたのが2019年で現在もいらっしゃるかは分かりません。三毛別羆事件の発生経過など、基本情報を収集できます。惨劇が繰り広げられた入植者の小屋を再現する展示があります。成人男性と男の子がいるので、12月10日に明景家を襲ったシーンと思われます。何度か訪問していると、入場者からの指摘で照明が暗くされたことに気づきました。現在の苫前町は海岸沿いにありますが、本州からの入植者による苫前地区の開拓は海岸線から三毛別川を辿って山間部の原野を南東に進む形で進められました。昭和26年の入植農家の風景ですが、事件のあった大正4年ころと比べると小屋も一部板壁になって、徐々に住環境は改善されているように見えます。本州からの集団入植は明治43年頃から始まりましたが、収穫量にも格差が出始めていて、写真の農家は広い窓が付いた板壁のしっかりした作りで比較的成功者のように見えます。いずれにせよ、事件が起こった三毛別六線沢地区の15軒の入植農家は事件翌年春には1軒を除いて全家離村し、昭和21年に大阪から入植した6軒の入植者も昭和45年を最後に全員離農し、現在は無人地帯になっています。三毛別羆事件で射殺された羆の写真は残されていませんが、当時の新聞には体長2.7m、体重380kgとあります。三渓地区ではその後も大きなヒグマが射殺されており、こちらは昭和32年の実際の写真です。昭和55年(1980年)に三国連太郎の主演により「熊嵐(クマアラシ)」という題名でTV映画化されており、そのビデオは郷土歴史館で観ることができます。1時間前後だったと思います。また、1990年にはこの事件をオマージュにして、家族を羆に殺された娘がマタギになって復讐するという別のストーリで真田広之主演の「リメインズ 美しき勇者たち」という映画が制作されています。復元現場は苫前町から道道1049号線を通って小一時間かかり、かなり山の奥地になります。三毛別三渓地区を過ぎて三毛別六線沢地区に入り、終点に復元現地があります。その先は国有林林道になっており、立ち入り禁止です。道道1049号線は「ベアロード」と名付けられ、何とも場違いな可愛いいクマのキャラクターの書かれた看板があります。三渓地区に入ると途中には三毛別事件で羆が最終的に射殺された現場があり、「射止橋(ウチドメバシ)」という地名が忘れていた不気味さを思い起こさせます。射止橋は元々、木橋で三毛別川のもっと下流側(右側)の旧農道にあったそうで、現在のコンクリート橋は三代目です。実際のヒグマの射殺現場は右前方に山際が見える山林の中腹標高150m当たりの滝の沢というところです。以前は歩道が多少整備されて木製の記念碑も建てられていたそうですが、現在はクマザサが一面に茂っており、危険なので探索は断念しました。さらに道道1049号線が砂利道に変わる復元現場の手前あたりに、三渓神社があって慰霊碑が建立されています。道を挟んだ向かい側の少し戻ったところに三渓小学校(現在、廃校。当時の三毛別分教場)があり、事件後、六線沢の農民は全員避難していました。事件による死亡者がこの慰霊碑では斉藤タケが身ごもっていた胎児を含め7名になっていますが、頭部を噛まれて重傷を負い、2年8か月後に後遺症で亡くなった明景梅吉は含まれていません。ネット記事などで死亡者が6名ー8名とばらつきがあるのはこのためです。また、12月9日に太田家の小屋で食殺された内縁の妻、阿部マユは太田姓になって死後入籍したようです。一緒に死亡した養子予定だった蓮見幹雄は太田姓にはなっていません。観光客向けに国有林を切り開いて整備された三毛別羆事件の「復元現場」ですが、実際の惨殺現場ではありません。事件に巻き込まれた開拓農家15軒があった三毛別六線沢地区は復元現場の奥にも広がっています。当時の新聞報道が正しければ、身長183cm、体重94kgの私より、身長で1.5倍、体重で4倍になるので、復元現場のヒグマ像は実際より大きすぎると思われます。ただ、襲い掛かるのを見れば、これくらいの凄まじい恐怖を巻き起こす印象だったでしょう。羆が襲ったのは、開拓小屋の外に干されていたトウモロコシを狙ったのがきっかけと言われています。復元現場に建てられた入植小屋の内部。壁はワラを巻いただけでヒグマはカンタンに侵入できます。中で焚火を焚いていたとはいえ、このような簡素な小屋で激寒の冬を過ごしたとは信じられません。ヒグマは火を全く恐れなかったようです。復現現場を越えてさらに奥に進みます。ここからの国有林林道は立ち入り禁止です。もし、進む場合はあくまで自己責任になります。この先に斉藤石五郎家、金子富蔵家の小屋跡があります。ヒグマの足跡です。クマザサやハスが倒されているところは熊が食べた跡なので、見た場合は引き返した方がいいと思います。12月9日に2人が食殺された太田三郎家跡です。三毛別川の支流である御料川のほとりにあります。12月10日に5人が惨殺された明景安太郎家の跡です。右下に三毛別川が流れています。水がいかに大切だったかは小屋の立地で分かります。私が探索時に使っている刃渡り30cmのナタと熊鈴です。ナタは常時手に持って、熊に対する防御だけでなく、クマザサやハスを切り裂きながら歩く時に非常に役立ちます。切り株などでケガをしないよう、手袋と底の厚い靴も必要です。熊スプレーは5m以内に近づいて噴射しないと効果がありませんが、安全バンドやピンを外す余裕や噴射時間が約7秒前後であること、風上に立って噴射しないと万一自分が噴射を被ると目が開けていられなくなることなども考えておく必要があり、私はいざという時に使えそうにないので、所持しておりません。この地図は当時の農道と三毛別川です。事件のあった翌年春には図の上のほうにある辻橋蔵家を除き、開拓農家は全員離村しました。その後、昭和21年になって大阪から難波開拓団の6軒が入植しましたが、昭和45年には全て離農しました。現在、この三毛別六線沢地区は居住者無人地域になっており、一部ある畑は三毛別三渓地区からの通い作です。現在の道道1049号線は昭和38年に国有林開発計画に基づく縦貫道路として、農道よりさらに右側(東側)を通るルートで整備されており、三毛別川も当時のようには蛇行しておらず、現在はかなり改修されています。むやみな立入りを控えていただくために、上記地図には敢えて現在の道道1049号線と三毛別川は書いておりません。現場探索は完全な自己責任でお願いします。
2024.03.11
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北海道の大自然により深く触れるだけでなく、地元で力強く生き抜いていらっしゃる方々と会話する機会にもなるので、JRのトロッコ列車や廃線跡などを活用したトロッコに乗って楽しまれることをお薦めします。さあ、出発進行!まずはJRのトロッコ列車から・・運行日や本数が限られているので出発駅に戻ってくるプランをお考えになる時は、観光案内所か切符売り場で戻りの予定時刻までにどこまで行って帰って来れるか、教えてもらうようにしましょう。■釧路湿原ノロッコ列車釧路湿原の中を走行し、ガイド案内もあります。途中で鹿や天然記念物のオジロワシを見かけることもあり、風雨でカヌーが運行できない代わりに楽しむ手段としても利用できます。釧路駅から塘路駅までを折り返し運転しています。塘路駅から釧路駅の帰路は最後尾の客車に運転席が付いていて、後押しする機関車を制御できるようになっています。■富良野ノロッコトレイン富良野と美瑛を結ぶ季節列車で、ハーブ園に臨時停車するようになっています。車内が開放的なだけでなく、ローカル線特有の大きな揺れがトロッコ気分を高揚させてくれます。■トロッコ王国美深廃線となった旧美幸線の一部を活用して復活させたエンジントロッコ路線で年間1万人以上の乗客があり、国土交通大臣賞まで受賞した地域振興のモデルとも言えます。今まで4回行きましたが、旧美幸線をそのまま走っているような錯覚に浸れます。詳しくはこちらをご覧下さい。https://www.torokkobihuka.com/宗谷本線の美深駅から終点の仁宇布駅までの旧美幸線の一部を使って地元の方々で運営されています。立派な堂々とした車庫や受付事務所も全て新たに建てられたものです。トロッコはエンジン駆動で運転免許が必要ですが、操作は至ってカンタン。ペダル式のブレーキにバイク同様のスロットルを回すと速度を調整できます。行き届いた車庫内のトロッコ保管整備スペース。旧美深線の枕木なども定期的に保守されており、カーブ、鉄橋、踏切ありの本格派です。本線は単線なので、折り返し地点がループになっていて、スタッフが待機。定時で4-5台ずつまとめて出発するトロッコが往路から全車到着するのを待ってポイント操作で復路に進みます。すべてが本格的なんです。脱帽!廃止された美深線は日本一の国鉄赤字路線として有名でした。しかし、上記新聞記事のように町長が先頭に立った廃止反対運動が根強く、廃線後も地域の活性化に繋げようという地元の強い意志が現在のトロッコ王国を生んでいます。元々、美幸線(びこう)と命名されたように現在の終点仁宇布駅からオホーツク海に面した北見枝幸駅まで延伸される予定で、道床や橋梁の工事も一部着工されていました。写真の道床もその名残です。最新のHPを拝見すると、今は仮設テントではなく、別棟の食堂も建てられたようです。お薦めの美味しい豚丼。訪れるたびに食べています。■三笠トロッコ鉄道廃線となった幌内線の一部を利用してクロフォード鉄道記念公園と三笠鉄道記念館を結ぶ路線3.8kmで運営されています。展望トロッコと運転体験トロッコの2種類があり、豊富な車両を揃えてかなり本気で組織だった法人運営がなされています。頑張れ!詳しくはこちらをご覧下さい。https://www.mt-railway.jp/沿線の景観の素晴らしさは爽快感に満ちて、トロッコ王国美深とまさに双璧です。三笠鉄道記念館に直接接続していますので、記念館の屋外展示車両の横を通り、鉄道マニアにはたまらない独特の雰囲気が味わえます。三笠クロフォード鉄道記念公園(旧幌内太駅)で、園内に三笠トロッコ鉄道の乗車受付コーナーや鉄道グッズショップがあります。■丸瀬布自然公園いこいの森オホーツク海にほど近い遠軽町にある森林公園で、園内には北海道遺産の旧森林鉄道の蒸気機関車「雨宮21号」が走り、キャンプ場も整備されているので、鉄道ファンだけでなく家族で楽しめます。https://engaru.jp/tourism/page.php?id=431雨宮21号はこの中にいますが、日曜運行のため対面はかないませんでした。■ひがし大雪高原鉄道旧士幌線の糠平駅周辺の路盤に新たに線路を敷設して足漕ぎトロッコを運営されていて、地元の方々も運営支援されていましたが、現在、残念ながら休業しているようです。何とか復活させてほしいものです。詳しくはこちらをご覧下さい。https://kamishihoro.info/sg_detail.php?id=561987年(昭和62年)に士幌線が廃止される直前の糠平駅です。士幌線が廃止されたあとの糠平駅です。レール、枕木は撤去され、駅舎は解体されて、今もある鉄道記念館が建てられていただけでした。士幌線が廃線になって10年後の糠平駅跡です。国鉄関係者や地元の方々の努力によって、簡易レールと枕木が敷設されました。同じ地点から撮影した現在の糠平駅跡です。上の写真とは反対側から撮った現在の姿です。保存されている車掌車の位置は廃線当時から変わっていません。線路はすべて敷設しなおしたもので、カーブも短い直線(緩曲線)を繋いでありご苦労が偲ばれます。糠平駅跡には上士幌町が維持運営する鉄道資料館があり、旧士幌線の資料、写真、美品が数多く展示されていて、当時を偲ぶことができます。急坂路線だったため、登りの難所に加え、貨車の下り暴走事故もあったようです。近くには、あまりにも有名なあのタウシュベツ橋梁もありますので、ひがし大雪自然ガイドセンターのツアーに参加するのがお薦めです。(http://www.guidecentre.jp/)来春にもアーチは崩落するのではないかと私は感じています。別稿「タウシュベツ橋梁 来春崩落近づく この8年間の変貌」もご覧ください。https://plaza.rakuten.co.jp/smorimoto0296/diary/202404150000/■森のトロッコ エコレール札幌市の個人の方が地元に住み込みながら旧士幌線の廃線跡に心血を注いで復活させた本格的な木製軌道です。木のぬくもりのある足漕ぎトロッコと鉄張りレールが大きな特徴です。上士幌町から廃線跡地の貸与を受けて敷設されたコースは約500mで、整備保守も行き届いており、転車台操作と運転体験を通じて旧士幌線を彷彿させる鉄道の旅を手軽に楽しめます。ハイシーズンには奥様も運営を援助され、最近ではトイレの設置や延伸計画も精力的に進めておられます。詳しくはこちらをご覧下さい。https://kamishihoro.info/sg_detail.php?id=9当時の士幌線は単線でした。線路が撤去された同じ廃線跡に新たに木製の鉄張りレールが敷設されています。画像が縦に入らなくて見にくいですが、ご家族連れやペット連れでも気楽に楽しんでいただけます。5歳児以上であれば、ペダルに届くので足漕ぎも可能です。折り返し地点の転車台も5歳児以上でしたら一人でできます。見事に敷設されたこの線路を見つめていると士幌線の汽笛が聞こえてきそうです。営業運転に至る前に地道な保守作業が欠かせません。厳しい自然環境で腐食が避けられないので定期的に線路と枕木が交換され、道床の敷石も入れ替えられています。色の違いで皆さまにも分かると思います。また、4月から5月に掛けての連休から毎年営業が始められていますが、このようにまだ雪は溶けていないので除雪作業が必要になります。札幌在住のオーナーの奥様も駆けつけて協力されています。場所は大雪山道路の三ノ沢駐車場横にあって、予約なしでエコレールを利用できます。三ノ沢駐車場からは三ノ沢橋梁の遺構を見学できます。駐車場に停められたワゴンの屋根看板が目印です。ぜひ、気軽に立ち寄ってみて下さい。4月末の連休から11月初めまでが例年の営業期間で、水曜が定休、営業時間は9:30からで最終受付は16:00(6-9月は16:30)です。詳しくはHPでご確認下さい。三の沢橋梁の当時の姿です。三の沢橋梁の現在の姿です。■狩勝(かりかち)高原エコトロッコ鉄道旧狩勝線の新内(にいない)駅構内で800mのレールがみごとに敷設され、電車、機関車を模して綺麗に製作された軌道自転車(エコトロッコ)でポイントや転車台、信号、踏切のある本格的な運転体験が楽しめます。鉄道マニアの方が奥様とともに清水町に移住して健気に運営保守されています。詳しくはこちらをご覧下さい。http://ecotorocco.jp/横にはNPO法人の旧狩勝線を楽しむ会が維持している蒸気機関車9600とブルートレインの客車が保存されています。以前は宿泊もできたようですが、現在は期間限定でイベントを開催しています。https://www.karikachi.org/オーナー作成の地図です。位置関係がよく分かります。当時の根室本線 新内駅の風景です。狩勝峠を登ってきて新得方面に向かう列車です。同じ方向で撮った最近の風景です。受付管理事務所です。この日は休業日でした。後日伺ってオーナーご夫婦とお会いできました。とても丁寧に解説いただけます。オーナーがシステムエンジニアだけに信号機も電子制御の本格派です。実車の雰囲気をうまく取り込んだ素晴らしい仕上がりのトロッコです。かなり凝った転車台。キハ82系のほか、EF65のトロッコもあり、保存されたブルートレイン客車ともよくマッチ。これら足漕ぎトロッコ群のほかに電動のナロータイプ電車も製作されていて、以前元気に活躍していましたが車輪故障のため現在修理中です。再会の機会をお楽しみに。最寄りのJR新得駅近くにある国道38号線沿いのSL広場にはD51蒸気機関車が保存展示され、旧狩勝線の廃線跡がエコトロッコのある旧新内駅まで「狩勝ポッポの道」として、10kmほどの遊歩道、サイクリングロードが整備されていますので、立ち寄られるといいでしょう。トンネルが付け替えられて廃止となった旧狩勝線は国道38号線沿いにあり、現在も様々な遺構が残っています。残された遺構の中でも「狩勝信号所」は規模としても最大です。国道38号線の狩勝峠展望台を過ぎて落合・トマム方面に行く途中の地点から土手を下って現地を見学することができます。詳しくはエコトロッコ鉄道のオーナーにご案内してもらうようにしてください。「狩勝信号所跡」には写真左の国道38号線の道路脇から土手を水路に沿って下っていきます。下る途中で小さな川を渡ったり、トンネル周辺は湿地帯を歩くので、長靴に履き替えるほうが無難です。落合方向に見た狩勝信号所の全景です。鉄道遺跡として新得町の方々と思われますが、保存の手入れが行き届いています。新内駅方向に見た信号所の景色で、保線員の官舎跡も確認できます。信号所の東端(新内駅方向)には狩勝トンネルの落合側隧道があります。急勾配でSLの排気煙が溜まり運転手の死亡事故まで発生した難所でした。また、エコトロッコやSL列車に隣接して、周辺の乗馬をゆっくり楽しめるカフェもあります。ジャックさんというヤンジーが経営されていて、自家製のプリンも美味しいです。色んなサイトで紹介されていますので、一度ご覧ください。https://www.tokachi-brand.jp/shop/tougenoterrace/https://twitter.com/wvsjack0212ジャックさんは元々帯広出身で乗馬好きが高じて、現在15頭余りの馬を育てて調教されています。生き物相手ですから、好きでないとできない大変な仕事です。乗馬クラブの整地された運動場で乗るのとは全く別次元の楽しさがあります。川の中を渡ったり、急な土手を上り下りしたり、本来の馬と人間と自然の関係を実感できる貴重な機会です。狩勝高原のこの辺りだけで、ちょっとしたアドベンチャーを楽しむことができます。写真や資料を整理し、関係者の方々に教えていただきながら、今後追加更新していきますので、お楽しみに。
2024.03.06
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晴れの写真ばかりで投稿すると勘違いする方が増えるので、雨の北海道、今にも泣きだしそうな北海道の写真も入れておきます。「遠路はるばる来たのになんだ、この天気は・・」と怒らずに、これも北海道と楽しみましょう。大自然は人間を接待しているわけではないので、私たちがお邪魔している感覚で接したいものです。まず、晴れてほしいNo1スポットから・・・ここはバイカーの聖地。上から3枚目の日には、一人旅のバイカーが居て、寝袋を出しながら「明日晴れるのを待って出発します」と健気な一言。次に岬も基本的に風が強く天気が悪いことが多いです。積丹ブルーに出会えたら、感謝。しかし、喜ぶのはまだ早い。岬までは環境保護で時期によって立ち入り制限があり、岬まで行ければ大感謝。納沙布岬、ここもバイカーには人気のスポット。根室からも風蓮湖からも結構の距離があるので、やっとたどり着いてこの天気ではさすがに気の毒。ラーメン屋の気のいいオバサンと話すと元気が出ますよ。襟裳岬。森進一さんの仰る通り、風が強くて何もないのは確かですが、3回行って3回とも晴れでした。釧路港。霧の街で有名なので、晴天への期待値は元々低いと思いますが、市内も含めガスに見え隠れする景色がまた味わい深いと感じる街でもあります。と言って、負け惜しみ・・・港町ブルース、最後の締めくくり。は・・・稚内港。なぜか、最果て感があまりしない街。そう言えば、5回行って、一度も雨なし。釧路の「霧」と言えば、布施明さんの・・・駐車場のオジサンには要注意!「摩周湖、見えてるんですか?」→「は~い」クルマを停めて展望台に上がって行ったら、1枚目の写真の有様。「さっき、見えてるって言ったじゃないの。全然見えなかった」→「少し前まで見えてたのになぁ」次に見晴らしの良さで有名な・・次は山に・・・大雪山に6回行って、一番天気が悪かったのは4枚の写真のうち、1枚目の曇り空。なぜか雨に降られたことはありません。ただ、大自然は恐るべし。10月中旬でも冬の訪れが早く、正直怖ったです。夏タイヤだったこともあり早々と退散。ニセコパノラマラインですが、素晴らしい絶景も全く見えず残念。この2024年7月にリベンジできました。また、写真を整理して追加します。雨空での写真はあまり撮らないので探すのが大変(笑)。
2024.03.06
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北海道編 (rakuten.co.jp)https://plaza.rakuten.co.jp/smorimoto0296/diary/202402260005/)が好評のようで沢山閲覧いただいているので、今まで日本列島を走りまわった中で印象に残っている痛快ロードをまとめてみたいと思います。写真や資料の整理があるので、五月雨式に更新追加していきますので、よろしくお願いいたします。まずは南の九州から順に始めて北上しましょう。■日南フェニックスロード宮崎県の日向灘沿いを都井岬から日南市を経由して宮崎まで続いていますが、特に青島以北の宮崎市寄りではヤシの並木になっていて南国ムードがたまらないです。■阿蘇パノラマライン北海道以外で惚れ惚れする雄大な景色を楽しめるのは阿蘇山くらいではないでしょうか。阿蘇カルデラの中岳火口までは西側、北側、南側から3ルートでアプローチでき、それぞれが草原あり、ワインディングありで異なる赴きが堪能できます。■えびのスカイライン宮崎と鹿児島にまたがるえびの高原を通る山岳道路で霧島連山を走り抜ける爽快さが印象的。■湯布院日田往還道路別府と湯布院を結ぶ県道11号線で風光明媚なワインディングが続きます。■桜島展望道路錦江湾を横目で見ながら桜島御岳を正面に見据えて走る登山ロードで噴火口に向かって一直線の道路が最高に気持ちいい。終点からはフェリーで鹿児島市内に入れます。■やまなみハイウェイくじゅう連山を駆け抜ける痛快ロードです。久住山が正面にそびえるストレートもいいし、豊かな森を抜けて湯布院に至る終盤下りのコースはしっとり癒されて九州No1ではないかと感じます。■大山環状道路大山環状道路という1本道があるわけでなく、走りやすいスカイラインとハードで怪しげな森林道路が幾重にも繋がって、大山の色々な表情を堪能できます。木材満載の大型トラックとの対向すれ違いとガス欠に注意。■しまなみ海道言わずと知れた定番コースで遠くから眺めると圧倒的なスケール感がありますが、橋を渡っている最中は橋桁が高くて海面が見下ろせるわけではないので、自転車で走るような爽快感はありません。何度か途中でクルマから降りて、雄大な景色を楽しみたい。■鷹羽山スカイライン瀬戸内海や工場群を見渡せる観光道路で、鷹羽山公園への20kmほどの登り道として現在は無料化されています。峠道ならではのアップダウンや豊かなカーブが続き、走りは走りでそれなりに楽しいですが、展望台から水島コンビナートの夜景や瀬戸内海の絶景を満喫する目的でゆったりドライブする価値があります。■祖谷渓谷県道32号線大歩危、小歩危で有名な深い谷間を走る山岳コースです。昔、平家の落人がよくここまで逃げ延びたかと驚くほどの深い谷と急な斜面の山間に部落が見えます。急坂にクルマを停めることが多いのでドアの開閉に気を付けて下さい。■伊吹山ドライブウェイ名神高速 関ケ原ICから約2kmの有料道路起点から標高1260mの山頂駐車場まで標高差1000mを一気に駆け上がるダイナミックなワインディングコース。山頂からの琵琶湖を眺める眺望も最高です。ただ、11月下旬から4月下旬まで積雪凍結による閉鎖期間が長いのと、秋の紅葉シーズンなどは観光客が多いので、事前に計画を立てて走り込みに行きたいです。年に2-3回は行く。走る醍醐味を味わえる関西ではベストコースのひとつです。■伊勢志摩パールロード正確には伊勢パールロードと伊勢志摩スカイラインに分かれますが、リアス式の入り組んだ海岸線を走るワインディングコースと朝熊山の頂上近くまで駆け上がる山岳道路の両面を楽しめます。新名神から接続する伊勢道路は覆面パトが多いのでご注意。一度、サービスエリアに入って、また追いかけてくるなど、芸が細かい(笑)。■三方五湖レインボーライン伊勢志摩と同じくリアス式海岸の美しい景観を楽しめますが、山頂公園がある観光道路で家族連れのクルマも多いので、走るには早朝を狙いたい。■京都周山街道昔、若狭で獲れた鯖などの魚介類を京都まで運んだ鯖街道と言われた歴史ある街道で道幅も広くないので優雅な里山ドライブを楽しみたいです。ワインディングロードを抜ける途中で歴史的建造物として保存されている茅葺き屋根の集落もあり、長い山路が終わって小浜の日本海が見えるとほっとします。■大台ケ原ドライブウェイ山深い和歌山の標高1400-1600mのワインディングロードで、深い森林地帯を切り進む雰囲気がなんとも言えません。途中、山際が切れて視界が広がり大峰山脈のパノラマが楽しめます。ただ、雨が多くて有名な地域なので天気予報を余り当てにせず、朝早めに行って早めに帰るのが賢明。■信貴生駒スカイライン手軽に楽しめる尾根伝いのワインディングロードですが、道幅が基本的に狭いので対向バイクのセンターラインオーバーに注意したい。調子に乗ると思わぬ冷や汗をかくことがあります。■青山高原道路風力発電の風車が林立する、風変わりな景観を楽しめる高原道路ですが、三重県のど真ん中にあって、アクセスが悪いので時間にゆとりを持って訪れたい。県道512号線を東に進んで行くと、やがて狭く険しい舗装林道になるのでスポーツカーはUターンしたほうがよいでしょう。■高野龍神スカイライン関西最高のハイスピードワインディングコースで、ヘアピン、高速コーナー、逆バンク、アップダウンなど多彩なコースが含まれる40数kmのロングドライブは走りごたえが十分。年に4-5回は行く。終点の龍神温泉での日帰り入浴も楽しみ。中間地点にある「ごまさん(護摩山)スカイタワー」の駐車場で休憩して、集中力が落ちないようにしたい。鹿やタヌキの飛び出し、落石、枝折れも稀にあり、事故を起こすとJAFが来てくれるまで2時間以上、大病院まで3時間は掛かります。クルマかバイクに跳ねられて死んでいた鹿。掲載するか、迷いましたが、彼らの領域に割り込んでドライブを楽しんでいることを自戒し、皆さまにもご理解を深めていただくために敢えて掲載しました。この鹿は道路管理事務所に電話して引き上げていただきました。合掌。■鈴鹿スカイライン滋賀県と三重県を鈴鹿山脈を越えて結ぶ山岳道路で、関西では龍神スカイラインに次ぐベストコース。滋賀県側が緩やかな登りの高速コーナーであるのに対し、三重県側は傾斜の激しいワインディングコースで、全く違った走りを楽しめる点が特に素晴らしく、さらに上り下りでは大きく走行感が異なるので、ぜひ往復することをお薦めします。11月に入ると里山は紅葉シーズンなのに、コース最高地点の標高800mの武平峠トンネルでは積雪のこともあるので注意。時間の余裕を持って鈴鹿サーキット走行前後に立ち寄るのもよく、走り切ったあとは湯の山温泉の日帰り入浴が楽しみ。■御嶽スカイラインあまり知られていませんが、信仰登山で有名な標高3067mの御嶽山7合目まで一気に駆け上がれるコーナリング天国です。御岳湖湖畔から中高速コーナーが始まり、王滝村を通過して標高が上がり始めると路面が整備された道幅の広いコーナーが増えてさらにダイナミックな走行が楽しめます。最後にスキー場が見えるとタイトコーナーの連続になります。走りごたえは十分で、疲れたら途中の滝や修験道などで、ひと休み。■八ヶ岳高原ライン牧歌的な風景が広がる八ヶ岳南麓を走る爽やかな高原コースで、起伏が少なく見通しの効く中高速コーナー中心なので、走りやすいです。時折、サルも見かけ、野辺山や清里ものどかな雰囲気に浸れます。■白山ホワイトロード(旧白山スーパー林道)中部日本で間違いなく、No1の極上山岳ロード。岐阜県と石川県を跨いで標高600-1450mを通過する総延長約30kmのコースで山肌を縫うようにタイトコーナーの連続を走ります。アップダウンもあるので緊張感があり、雄大な景色はクルマを停めて眺めるほかありませんが、バイク通行禁止のため、対向に余り気を使わなくてもよいのが何より嬉しい。豪雪地帯のため、通行期間が6月から11月初めとかなり限定されますが、絶対お勧めします。■飛騨せせらぎ街道高山から郡山に向かう標高差700mの山岳道路ですが、全体にゆっくり山を渓流に沿って下っていく感じで、まさに「せせらぎの道」がピッタリ。紅葉の名所でもあるので秋の観光シーズンに行くなら早朝を狙いたいです。■南アルプスエコーライン(しらびそ峠)日本秘境百選にも選ばれている飯田から南信濃に至る遠山郷の下栗の里が出発点。しらびそ高原までの標高800-1000mの林道です。道幅は狭いですが路面状況はそれほど悪くないので、458でも走破できました。しらびそ高原のロッジで「これで来られたんですか!」とかなり驚かれましたが。山頂からの雄大な眺めは素晴らしいですが、どこかオドロオドロしい雰囲気が漂っていて、折角苦労して上がってきたのにそそくさとその場を立ち去りたい気持ちに駆られました。■志賀草津道路長野と群馬を繋ぐ山岳コースで、途中には日本国道最高地点2,172mもあり、中部日本で3本の指に入ると断言できます。活火山の白根山の活動で枝道は通行制限がありますが、全体的には爽快に走れる中高速コースでTVCFに何度も登場する素晴らしい景色を楽しめます。■ビーナスライン茅野から美ヶ原、白樺湖、霧ヶ峰に至る20kmの標高1400-2000mを通る観光道路で、中低速のコーナーが連続するので多彩なコーナリングが味わえます。運がよければ、美ヶ原高原で雲海を楽しめるかも。■富士山スカイライン富士山の南麓を走る山岳道路で、富士宮市から森林の中のクルージングを楽しめる周遊区間とタイトコーナーが連続する急坂の登山区間から構成され、登山区間は標高1460mの富士宮2合目から終点の標高2380mの新5合目まで13kmを駆け上がるので、痛快感は半端ないです。■西伊豆スカイライン修善寺近くの戸田峠と船原峠を結び、多彩なワインディングとアップダウンに富んだコースです。箱根ターンパイクや芦ノ湖スカイラインに比べて通行量は少なく、影は薄いですが、換言すればそれだけ穴場でもあります。急カーブと起伏が重なり、前の道筋が見えにくいことがあるので、一度下見を兼ねて軽く流してから、本格的に走るのがいいかも知れません。■伊豆スカイライン伊豆半島の東側を熱海峠と天城高原を結んで南北に走る定番中の定番コース。説明の必要はないでしょう。熱海峠から亀石峠までを中心に30年近くに亘って延べ100回以上は往復しました。見通しがいいので、走りやすいのが最大の魅力です。■箱根ターンパイク泣く子も黙る本州No1の中高速コースで、有力雑誌の試乗コースにも盛んに出てきます。私は小田原料金所から入って4kmの御所の入パーキングを起点として、終点の大観までで愛車の走行タイムを定点計測していますが、トルクがないクルマはスピードが出ませんし、登り、下りとも操安性の優劣が如実に試される素晴らしいコースです。フェアレディZ432やハコスカGTR、73RS、Z1、CB750K0などの旧車、バイクを含め、延べ200回以上は走りました。愛車の歴代記録としては、しばらくの間、RUF BTR3.4が最速タイムを誇っていましたが、下りであの非力なNSXが軽さと操安性で記録を更新し、ポルシェ得意の登りでも4秒差まで迫りました。当時の国産車出力280馬力規制がなければ、破っていたかも知れません。このトルク不足とレジェンドのような乗用車チックなメーターパネル、リアのオーバーハングが好きになれず、NSXは納車後11か月で売ってしまいましたが。なお、今までで登りで5分を切ったのはピスタだけですが、296GTBアセットフィオラノならばさらに5秒は短縮されることになると予感します。■芦ノ湖スカイライン箱根ターンパイクとセットで走る定番コースで、これも説明の必要はないでしょう。アップダウンとワインディングの組み合わせで、ターンパイクとは全く異なるFun to driveを味わえます。山伏峠のレストハウスの手前で走行中の助手席窓から鳥が飛び込んできたり、遊覧ヘリコプターと競争したり、某有名雑誌社の試乗ポルシェ大破場面に遭遇したりと色々思い出の多いコースです。■箱根スカイライン私は厚木小田原道路を経てターンパイクに入り、芦ノ湖スカイラインから箱根スカイラインの終点で長尾峠を通って御殿場に出ていますので、短いコースですが必ず通ります。急なワイディングカーブが連続するので、スピードは出ませんが緊張感はあります。注意すべきは冬季に北向きの日陰になるコーナーの凍結が溶けにくいので、調子に乗って北上していくと突然、コーナー進入時に横滑りでガードレールに激突する危険があることです。私もRUF BTR3.4でやっちゃいました。修理代550万円。■磐梯吾妻スカイライン圧倒的な自然のスケール感に包まれながら、火山活動で露出した山肌の中をハイスピードで走ると不思議な心地よさを感じます。標高が上がるまでは豊かな森林地帯なので、途中からの景色の変化にも驚かされます。東北では八幡平アスピーテラインに次ぐベストコースと思います。■八幡平アスピーテラインアスピーテとはなだらかな盾状火山のことらしいですが、自然の起伏に逆らわず、のびやかなアップダウンの中を大小のカーブが連続するので、運転していて非常に楽しいコースです。上りも下りも堪能できて間違いなく、東北No1と思います。標高的には山岳道路ですが、走っているとそのような感じはせず、高原サーキットのような印象です。2024/7/3 再訪して往復してきましたが、やはり上りも下りも楽しめます。アドレナリンが一番出るのは北側の松尾八幡平ICからの上りのほうがより高速コーナーでしょうか。ともかく上りでの加速が問題なので、トルク勝負になりますが、296GTBの天井知らずのトルクの太さにはある種怖いモノを感じます。左側は東北自動車道の鹿角八幡平IC、右側は松尾八幡平ICに接続します。■鳥海ブルーライン山形と秋田にまたがる鳥海山の山裾を縫うように走る緩やかなワインディングが素晴らしいです。コーナーの合間に見える日本海のブルーが印象的。それにしても、山形県は一般道路の路面状態がよくないです。2024/7/4再訪しましたが、一面ガスが漂い、結局走行は断念しました。■八甲田・十和田ゴールドライン青森市から八甲田を抜けて十和田湖に至るコースで、奥入瀬渓谷の森閑の中をクルマでゆったり走る気分は最高です。八甲田の豊かな森とともに自然の奥深さを実感させてくれるので、また来たくなる道です。2024/7/2再訪し、3往復しましたが、木漏れ日の中をゆったりと流すもよし、早朝に高低差のある軽いワインディングを中速で飛ばすのもよし、素晴らしいドライブでした。■津軽岩木スカイラインつづら折りの69個の連続カーブで有名な岩木山8合目までの登山道路です。空撮写真では見事なS字カーブが綺麗に連なっていますが、実際はあまり路面状態のよくないきついカーブの連続という印象です。スピードは出ないので、バイクの方が面白いかも知れません。これほど綺麗にワイディングが連なっているのは他にないでしょう。全日本痛快ロードもいよいよ最後になりました・・・・■龍泊ライン秋田から豊かな田園風景を抜けると荒々しい海岸線に景色が一変し、まさに東北という感じがする多彩なコースです。竜飛岬に行き着くと石川さゆりの津軽海峡冬景色を再生して聞ける記念碑があり、極上の最果て感が味わえます。帰路を焦って青函トンネル記念館の体験坑道に入るのを忘れ、今でも心残りです。以上、日本全国痛快ロード巡りの長いお付き合い、どうもお疲れさまでした。
2024.03.02
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北海道を最近11年間で8回行って走り回った末に心に残っている痛快ロードです。定番あり、穴場あり、探すのも楽しみですから、所在地は詳しく書きません。いつも天気がいいわけじゃない。土砂降りで何も見えなくても大自然に感謝。まず最初は、定番中の定番 サロベツ原野。冬は日本海からの強風で雪が横殴りに降る絶景地。防雪トンネルで納得。牧草ロールが存分に見れる。一巻き300kg、近くで見る価値あり。これまた定番 美瑛ジェットコースター道路 外せない。道が直線だけに地球の起伏を体感する。観光客が多いので、9時前か15時以降に走りたい。これまた定番 斜里町「天に続く道」 外せない。登りより下りがインパクトあり。斜里町はスピード違反取締りのメッカ。バイクで1日に2回捕まったことがある。ご注意!定番続きですが、これも外せない 標津ミルキーロード 「しべつ」と読める人は北海道ライカ―!大雪山道路 季節と天気の違いで風景が激変し、何度走っても飽きない。地元高校生が自転車で登っていたのにはただびっくり。最高!本州ではありえない。2024年の最新情報としては、路面の荒れが激しくなってきたのと、鹿との遭遇が多くなってきたので、センターライン寄りで走ることをお勧めします。コーヒーやケーキ、ソフトクリームの美味しい三国峠のカフェ。大雪道路ではあの有名な松見橋とともに絶対お立ち寄りお薦めスポットです!センスのいい落ち着いた雰囲気がいいです。行かれたら、武田様ご夫婦によろしくね。奥様は英語も堪能でインバウンド客が随分増えました。応援したくなる「北の家族」です!超有名になってしまった「松見橋」ですが、この撮影ポイントである「深緑橋」で路上駐車する車両が増えたため、手前に駐車場が新設されました。撮影者用に新設された駐車場です。いやはや・・・。これまた、超有名な「三股山荘」。士幌線終点の十勝三股駅があったところにある素敵なレストラン。行かれたら、ご家族の田中様によろしくね。奥様はご当地出身の筋金入り。ご主人も士幌線廃止後に代行バスの運転手をされていたとか。娘様は今や一家の大黒柱。こちらもまさに応援したくなる「北の家族」です!宗谷丘陵 道に迷いやすいが、穴場多し。エゾ鹿の群れと並走したこともあります。鹿は縄張り意識が強いので、入ってくるエイリアンを排除します。鹿が並走してきた時はスピードを落として前を抜かせてあげてください。遠別開拓農道 進入路が分かりにくく、時間を掛けられるリピーター向き。彼方に利尻富士が見えます。開陽台周辺広域農道 目標物が全くないので、ナビでもいい道、いい撮影スポットを探すのが大変。リピーター向き、普通の方はまず、開陽台に晴れ間到着が目標。ともかく、晴れていないと・・・サロマ湖原生花園進入路 南湖岸の展望台に上って浮かれてしまい、見落としがちな絶景短路サロマ湖展望台からの眺め。原生花園は写真に写る細長い砂州の根元辺りになります。知床自然保護路 ビジターセンターから直進でカムイワッカの滝へ。遊覧船で見上げるのもいいが、滝を上から見下ろすのもいい。キタキツネ、エゾ鹿と頻繁に出会える地道で自然と触れ合える知床の常連向きコースだが、通行制限が厳しく期間・時間帯限定なので注意。知床遊覧船からのカムイワッカの滝。クルマで行ったのは雲が掛かっている辺りです。知床道路 峠は霧の名所、羅臼岳がこれだけ綺麗に見えたのは6回行って2回だけ。太平洋シーサードライン ガス欠に注意。北海道ではメーター半分で給油が鉄則です。この辺りの「ホクレン」給油所はハイオクを売っていない場合があります。襟裳岬まで一気に飽きるまで走る。長い長い海岸線。やっと着きました。森進一さん、おっしゃる通り、風が強くて何もない。猿払村エスサカ線 進入路分かりにくいが価値あり。寝転がって空を見るのがお薦め。生きててよかった!宗谷村「白い道」ホタテの貝殻を敷き詰めた農道。長い道や貝殻を撒いたすぐの「真っ白い道」はなかなか探しにくい。十勝平野一般農道 目標物がなく、自分でもここには二度と行けません。半日のんびり走り回ろう。この交通安全旗の波とホクレン、セイコーマートは北海道を走るうえで三種の神器です。以下、北海道で会った「仲間たち」、向こうは迷惑がってますが・・・・。絶対、エサをやらないでネ。近すぎて置物のように見えるかも知れませんが、ここまで接近して撮影するのは至難の技です。知床の秋 孤高の雄鹿。宗谷丘陵の主である家族。娘の2頭も随分成長しました。鹿は女系家族です。お母さんが見張り番で尾が白い4尾はその年に生まれた子供たち。オスは1年たつと群れを離れます。こちらは二人家族ですが、恐らく近くに他の子供たちがいるはず。まだ若いですが、こちらは独り立ちした2歳くらいの雄です。知床公園内の鹿は全て個体識別マークが付けられています。交尾期に入った3歳くらいの雄です。こちらは家族の群れから離れたばかりの雄と思います。風下から静かに近づいて撮影成功。ご存知とは思いますが、寄生虫のサキノコックスを媒介しているので、直接触ったり、細長い灰白色の糞を触ったりしないようにしましょう。目が合いました。ずっと見られていたとは・・。非常に珍しい親子連れのスナップ。ひとたび、観光客がエサを与えるとこうやって道に出てきておねだりをします。クルマに轢かれたり、飢え死する原因になるので、絶対エサは与えないでネ。人間のペットではありません。彼らだって、腹ペコ、必死で生きてます!こちらも残念なおねだり組。身勝手な人間が彼らの縄張りを侵していることを忘れないようにしましょう。野生のリスは沢山いますが、動きが素早く警戒心が強いので中々撮影できません。慌ててスマホを出しても後の祭り。この時は他の被写体を撮影中に偶然撮れました。8回も北海道に来ていて、写真はわずかこの1枚のみです。今後も追加情報で更新していきますので、よろしくお願いいたします。
2024.02.26
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北海道の開拓に関わった多くの人々の足跡をたどる旅。センチメンタルジャニー・・・切なく悲しい思いもありますが、元の大自然に戻ろうとしている大きな摂理も感じます。1.万字炭鉱を支えた国鉄万字線旧国鉄万字線の終点 万字炭山駅。駅前からガードレールの横を炭鉱住宅方面に歩いていた学校帰りの女学生。今、どこで何をしているだろうか。万字炭山駅の駅舎は廃線後、民間宿泊施設に転用されたが、その後、解体されて今はない。木も生い茂り、山の稜線が分かりにくいので、同じ駅前通りかと疑ってしまうことが何度かあった。万字炭山駅 フォームでの最終出発列車のお別れ式地元の利用者の方々が再会し、まるで同窓会のような雰囲気だったと伝えられている。最終列車が岩見沢に向けて万字炭山駅を出発。変わらないのは山の形だけだ。廃線最終列車が岩見沢から、ここ万字炭山駅に到着して40年近く経った。反対側、西にある万字駅側からの景色。下の写真の万字線終点の貯炭施設(ホッパー)は草に埋もれて見えない。採掘した石炭を貯めておき、貨車に積み込む貯炭施設(ホッパー)。今では土砂に埋まりつつあるが、ここに線路が敷かれていて万字線の本当の終点であった。終点の手前に炭山駅が設けられ、人間をついでに運んでいたとも言える。万字炭山駅の近く、道道の右側には万字小学校があった。当時は奥に炭住が並んでいたが、廃坑後に道が途中から右カーブに付け替えられており、左手前の労働組合事務所の空き地でやっと当時写真と同一場所であることが分かった。探すのに30分かかった。万字小学校の昭和19年卒業生が廃校後に集まって校歌を歌った様子が目に浮かぶ。初めて見た時、涙なしには読めなかった。この校舎も今は無い。この記念碑は閉校まもなく建立されており、卒業生の万巻の想いが込められていると思うと切ない。万字小学校の近くには今も炭住が残っている。住んでいるお年寄りに聞くと、「ここからは離れない」と遠くを見る視線で返答された。裏手の山との位置関係から、恐らく上の現存写真と同じ炭住と思われる。現在駐車場になっているところにも炭住があと2棟並んでいた。万字炭山駅のひとつ手前に万字駅があった。現在駅舎は簡易郵便局になっている。現役時代の万字駅。写真のせいか、私たちの夢の中に浮かんでいるように見える。駅舎を通って裏から階段を降りるとホームになっていた。階段には防雪屋根が付いていたが、今はない。この状態でも地元の方が草刈をなさったようで、前年に訪れた時は草が生い茂り、とても踏み込めなかった。万字駅のホーム跡。立ち木も成長して、自然に戻ろうとしている。前年訪れた時はハスの葉と雑草に隠れて分からなかった。前年訪れた時の状態。万字駅構内で左側がホーム、駅舎になり、本線、引込み線も入れて4本の線路が敷かれていた。立ち木が徐々に迫ってきて、開拓前の自然に戻ろうとしている。前年訪れた時の写真は、この昔の万字駅写真のちょうど機関車の位置に立って、右側方向を見た感じ。駅舎からの階段もはっきり見える。当時の万字線沿線の写真を基に現在地を探すのは相当大変だった。ほぼ写真と同じ地点と思われる。万字駅と終点の万字炭山駅を結ぶ旧道沿いに沢山の商店が並んで万字銀座と呼ばれていた。当時の写真は見当たらないが、余りの変わりように想像のしようがない。現状だけお伝えする。万字銀座沿いには金融機関もあったようだ。この道をさらにまっすぐ東に進むと、本来万字炭山駅の前(先出の写真参照)に出るが、土砂崩れで通行止めになっていた。万字線の朝日駅の駅舎も保存されている。奥の山側に朝日炭山があった。左が朝日炭山の貯炭所。この線路を向こう方向に進むと終点の万字炭山駅に繋がっていた。朝日炭山の廃坑跡を求めて熊におびえながら、クマザサの中に分け入る。廃坑跡があった。坑道口を探す。さらに分け入ると朝日炭山の坑道口があった。どの廃墟を同じであるが、わざわざたどり着いたのに、早々と立ち去りたくなるのはなぜだろうか。廃線後はバスに代替されたが、バスの運行は過疎化に伴い、民間から岩見沢市に移管され、さらに現在は無料のコミュニティバス(ワンボックスカー)に代わっている。万字交通センターは駅跡ではないが、バスターミナルとして設けられた。ここにあったと思われる踏切が保存されている。奥の土手が万字線の廃線跡になる。2.シューパロ湖の湖底に消えた大夕張炭鉱 鹿島地区石狩平野の農業用水を確保するため、既にあった「大夕張ダム」や大夕張炭鉱の鹿島地区をも飲み込んで「夕張シューパロダム」は夕張川上流に2015年に竣工した。ダムによって出来たシューパロ湖は何度も訪れていたが、満水状態で失われた鹿島地区を垣間見ることはできなかった。ただ、ダム建設に伴って高台に付け替えられた国道452号線沿いの展望台に並んだ閉校記念碑に切なさを感じていた。しかし、そのうち稀な渇水期に訪問することができ、ダムの管理事務所や地元の方々にお聞きして出現した鹿島地区を観ることができた。これは姿を現した旧国道452号線である。国道の先は渇水期でもまだ湖底に沈んでいる。曲がった速度制限標識がわずかに人の気配を感じさせる。こみ上げてくる圧倒的な寂寥感。30分ほど立ち尽くしていた。一番高くて向こうにあるのが、現国道452線。そこからは渇水期でなければ、湖面しか見えない。2番目の錆びた鉄橋が旧大夕張鉄道路線。私が立っている一番手前の地点「あかしばし」が旧国道452線。次の写真のように大夕張鉄道線と旧国道452号線は通常期には水没している。通常期の現国道452線からの眺め。2枚前の写真にあるトラス橋上部が顔を出している程度で、他の人工物は多くの人々の思い出ととともにシューパロ湖に水没している。同じ現国道452号線からの眺めであるが、満水時は全てが飲み込まれている。湖底に街があったとは俄かに信じられない。大夕張駅 駅舎大夕張駅駅前通り 山の形でかろうじて跡地が分かった。探すのに1時間近く徘徊。大夕張駅駅前通り 上から約30年ごとの風景の推移。MOBILのガソリンスタンド看板が悲しい。大夕張駅前通り。駅舎に向かって右(北)に行く。ここも探し当てるのに苦労した地点。当時の面影は全くない。3.帯広から大雪山を目指した士幌線跡。かって帯広の北にある士幌町から大雪山の中腹まで、国鉄士幌線が通っていた。急勾配と音更川(おとふけ)を渡る橋梁の数々で有名だった。蒸気機関車9600の煙の濃さが急勾配を偲ばせる。第五音更川橋梁の今昔比較。橋梁の上には大きな立ち木さえある。第五音更川橋梁を渡って、士幌線の線路は東大雪山系を上り続けていた。音更川のさらに上流には数々の橋梁が続いていた。これは三の沢橋梁。現在の三の沢橋梁。通常は夏草が生い茂っていて、来訪者の立ち入りをためらわせる。冬の足音を感じる10月中旬に再訪した時には、姿を綺麗に見せてくれた。橋梁とともに士幌線のトンネルも数多く残されている。夏は雑草で覆われている。立入禁止のトンネル内部は上士幌町の努力で比較的綺麗に整備された状態だった。他の廃線跡ではトンネルの天井一部が崩落したり、湧出した地下水が溜まっていたり、コウモリが飛び出てきたりで、ノスタルジーよりも非常に不気味な雰囲気が漂い、危険な状態であることが多い。終点の十勝三股駅には洞爺丸台風による大雪山の倒木を切り出すために2000人余りが居住し、活況を呈していた。同じ場所であるが、当時の面影は全くない。当時の駅周辺の地図であるが、現在、中央のシミが付いた地点に三股山荘という有名なレストランがあり、その家族3人と近くの幌加温泉のおばあさん一人の人口4名の地域になっている。家族3人で営む「三股山荘」の全景。士幌線に関しては、追って別稿で詳しくお伝えしたい。終点の十勝三股駅のひとつ南にあった幌加駅も林業の伐採で栄えたが、当時の駅舎、製材所、貯木場などはすべてなく、ホームと線路の一部が有形保存物として残っているだけである。さらにひとつ南には糠平駅があり、温泉郷だったため、士幌線が廃止される時も一旦ここまでの運行は続き、糠平駅から十勝三股駅までは代行バスに切り替えられた経緯がある。この写真は士幌線が全面廃止される1987年(昭和62年)直前の糠平駅である。約35年後の2024年7月にほぼ同じ場所から撮影した現在の景色である。廃線後にレールと枕木が全て撤去された1990年(昭和65年)の糠平駅跡。駅舎は撤去されたが、現在の鉄道資料館の建物はすでに設置されている。その後、当時の姿を偲ぶために再度簡易レールと枕木が敷設された1995年(平成7年)頃の糠平駅跡。2024年7月現在の糠平駅跡。同じ場所に残された車掌車がまさに歴史の生き証人である。廃線跡に一部線路が敷設し直されて、最近までトロッコ運行がされていたが、現在は休止状態にある。この糠平地区でも過疎化が進み、小学校の廃校が今も続いている。昔話ではない・・・2018年に大雪山道路を走っていたら、手を振ってくれたので翌朝訪れた糠平小学校の先生と生徒たち翌年2019年に再訪したら、糠平小学校は上士幌小学校に統合されて廃校になっていた。生徒たちにも会えなかった。2024年7月現在の状態。職員室や校舎は全て撤去されていた。残念。1939年(昭和14年)の糠平駅開業に合わせて開校された当時の建物で、1955年(昭和30年)の糠平ダムによる水没を免れて移設された築85年の歴史があった。アスベスト建材を多用していて転用が困難なこともあり、上士幌町の判断で2023年に取り壊れたとのことだった。単に無くなった廃校跡を観るのとは違い、現在進行形で過疎化が進むのを目撃するのはつらい。2019年には校舎は校章が付いたまま、廃校後も残されていた。その時は何だかほっとして、「どこの廃校も同じ現象だ。すぐには取り壊さず、人々の記憶が薄れるのにつれて10数年、20年後に解体されている。」と書いたが、そのような感傷ははかなく消えた。2024年7月現在。跡形もない。運動場への坂の途中に石碑がひっそり残されていた。2024年7月。運動場に行ったら、鉄棒やブランコなど遊具は撤去されていたが、子だもたちの代わりにエゾ鹿の親子がのんびり座っていた。やがてここも草原となって元の開拓前の自然に返るのだろう。廃校後も小学校の看板はそのままにしてある。地元の人々の思いが伝わる。2024年7月現在もこの看板だけは残されていた。1955年(昭和30年)の糠平ダム建設に伴い、移設された「新」糠平駅から糠平温泉郷に向かう観光路風景。帯広から2時間はかかったはずだが、かなりの賑わいがあった。2024年7月のほぼ同じ地点から撮影した糠平温泉郷の姿。道路は大きく整備されたが、写真左手前の中村屋など共同トイレ形式の老舗温泉宿も一部残っている。4.羽幌炭鉱良質石炭採掘を期待された近代化炭鉱の羽幌炭鉱も政府の石炭政策の変更により、莫大な埋蔵量を残したまま、結局閉山に追い込まれた。他の炭鉱によく見られる平屋の炭住ではなく、高層化されたアパートになっているのが近代化炭鉱の証だが、今となっては短命に終わった羽幌炭鉱の象徴とも言える。アパートの室内を訪れると、ちょっと前まで住んでいた人々の声が聞こえるようだった。当時の週刊誌や漫画が残された部屋もあったが、せつなすぎて撮るのを止めた。アパートの近くには羽幌炭鉱の増産計画に対応して僅か閉山4年前に新設された太陽小学校の校舎も残っていた。ここは閉山後に休暇村に転用され、映画「幸せの黄色いハンカチ」のロケにも使われたが、現在は全くの廃墟になっている。廃校後に保養施設に転用されたが、それもかなわなかった。残された羆のはく製だけが妙にリアル感があった。校舎右側にあった円形屋根の体育館は積雪で倒壊した。何度も訪れる間にも風化が進む。炭鉱から少し離れたところに、羽幌町立の曙小学校の校舎も残っていた。同じ場所から撮られた初代校舎の風景。残された廃校の中を訪れる。羽幌炭鉱の急な閉山決定で、曙小学校の閉校も急だったようだ。平成2年3月16日が卒業式と閉校式だったことが分かる。早めの式典日程が人々の急な転出を想像させる。全校集会が繰返し開催されていたのも頷ける。ついさっきまでいたような・・・全てをそのまま残して神隠しにあったような羽幌曙小学校の生徒たち。片付けると自分たちがここで生きてきた思い出が消え去ってしまうと思ったのだろうか。残された校歌の「鉱脈 鉱脈」の文字と神棚がせつなさを誘う。 5.夕張炭鉱と夕張市 南北に伸びた鉱脈で全盛を誇った北炭夕張炭鉱。夕張炭鉱とともにあった夕張市にかって沢山住んでいた人々はどこに消えてしまったのか。規模が大きかっただけに凋落のギャップが非常に大きい。閉山後も観覧車やジェットコースターのある遊園地「アドベンチャーファミリー」や映画の祭典「ゆうばりキネマ祭」で街の再興を図ったが、それも潰えた。ともかく人影を見ない不思議な街角が圧倒的な寂寥感で迫って来る。神輿の歓声が聞こえてくる。ここも山の稜線がないと、昔の写真の場所が一体どこなのか全く分からなかった。本町通りの山手側に歓楽街があり、夜のネオンが眩しかった。夜のとばりで分かりにくいが同一地点である。夕張本町交差点。ここが銀座で言えば4丁目に当たるが、当時の賑わいを感じさせるものは何もない。細々と営業している洋品店や散髪店で聞いてみたが、意外なことに元の住民はほとんどいなくなったようで「昔のことはよく分からない。」と言われた。1960年ごろの絵葉書に観る夕張本町通り。現在の夕張本町通り。右下がりの山の稜線だけが微かに同じ場所だったことをうかがわせる。次の写真にある「丸丹おかむら百貨店」は上掲の絵葉書では左のガラス張りのビルで、撮影方向は反対になる。昔、「丸丹おかむら」百貨店があり、開店前に人々が並ぶほどの盛況だった。現在あるホテルシューパロも夕張線廃線で風前の灯か。偶然、私の取引先にここで結婚式を挙げた北銀出身の部長がおられたが、奥様が夕張本町商店街のご出身にも関わらず、写真を見せても昔のことになると口が重かった。その姿を見ていると、父が太平洋戦争での従軍のことを全く話さなかったのを思い出した。ジープの車列が年代を感じさせる。昔の写真は正月風景のようだが、このあふれる人波と現在の静寂のギャップには驚かざるを得ない。一旦、ゆうばりキネマ祭などで街の再生を願った残影も見られる。キネマイベントの中心地点だった。幸せの黄色いハンカチがなびいていた。町中に和洋映画の看板が掲げられ、かすれていく看板に再興を願った人々の想いが見え隠れする。夕張線(正式には石勝線夕張支線)は2019年4月に廃線となった。「立入禁止」の看板は私には昔の夕張へは立入禁止と言われているように感じられた。
2024.02.26
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北海道、いいですね!中学生の時に家族で7-8日間の団体バスツアーに参加して以来、今までバイク自走で2回、飛行機レンタカーで3回、フェリーマイカーで7回行っています。今年も6月に行ってきました。自然と人間の割合が関西では20:80、東京では5:95くらいですが、北海道では99:1なので、人間の小ささと自然の雄大さ、怖さを体感できる唯一の場所ではないでしょうか。一番印象に残っている写真を添付します。上から順に、1.糠平の古代遺跡とも言えるタウシュベツ橋梁、2.大雪山のおどろおどろしい原生林の中に舞い降りた人工物、三国峠松見橋、3.どこまでも続く直線路と荒涼とした景色に圧倒されるサロベツ原野、4.ダム建設でシューパロ湖に水没した大夕張炭鉱鹿島地区の国道旧452号線、5.屈斜路湖から釧路湿原まで大自然に溶け込んだ釧路川4時間半のカヌーツアー北海道はちっぽけな人間が自然の中にお邪魔する場所です。当然、季節、天候により出会える自然の姿は千差万別。ここに掲げた写真は6-10月に何度も訪れて撮影した中で最良のスナップを選んだもので、全く景色が見えないなんてざらです。それも自然の姿であり、私たちの都合のいいようには接してくれません。それが北海道!ほかに別稿で沢山の北海道シリーズを投稿していますので、ぜひご笑覧ください。タウシュベツ橋梁詳しくは別稿「タウシュベツ橋梁来春崩落近づく」をご覧ください。https://plaza.rakuten.co.jp/smorimoto0296/diary/202404150000/三国峠松見橋詳しくは「北海道 痛快ロードを快走」もご覧ください。https://plaza.rakuten.co.jp/smorimoto0296/diary/202402260005/サロベツ原野詳しくは「北海道 痛快ロードを快走」もご覧ください。https://plaza.rakuten.co.jp/smorimoto0296/diary/202402260005/大夕張 シューパロ湖詳しくは別稿の「北海道今昔物語」をご覧ください。https://plaza.rakuten.co.jp/smorimoto0296/diary/202402260004/釧路湿原
2024.02.09
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