7月
8月
9月
10月
11月
12月
全2件 (2件中 1-2件目)
1
(1)のつづきレイモンド・チャンドラーの文章スタイルはヘミングウェイのそれとも違うし、ハメットのそれとも違っている。ヘミングウェイが「前提的にあるもの」とし、ハメットが「とくになくともかまわないもの」とし自我の存在場所に、チャンドラーは「仮説」という新たな概念を持ち込んだのだ。それがまさに小説家としてのチャンドラーの創造的な部分であり、オリジナルな部分である。村上は、こうした文学手法をチャンドラー一人の功績にするつもりはない。その水源として、ヘミングウェイやハメットを挙げている。そして、重要なのは、それらの作家が、「近代文学」の核心に位置し、最後には桎梏となって現れる「自我」に対して意識的な距離をとっていたという事実である。チャンドラーはなぜそのような手法をとったのか? 目的はただひとつ、彼自身の語るべきフィクションを、より自発的で、よりカラフルで、より説得力のある物語として立ち上がらせるためである。この現実の世界においては、それがたとえどのような世界であれ、フィリップ・マーロウというような人物は実在し得ない。…〔略〕…もしマーロウをよりリアルな自我を持つよりリアルな人物――たとえばヘミングウェイの小説におけるニックのような存在――として、小説の中に持ち込まなくてはならなかったとしたら、チャンドラーの小説は今あるような自在な存在感を、おそらく獲得していなかったはずだ。「この現実の世界においては、それがどのような世界であれ」というくだりは、村上の良い読者であれば、どこかで聞いてはいないだろうか?とにかく、その手法は、小説をより「リアル」にするためのものである。我々は文学に、それ以上の何を望むというのだ?そのような彼のやり方はいわゆる「本格小説=純文学」の世界に何かしらの影響を与えただろうか? 間違いなく与えたはずだ。個人的なことを言わせていただけるなら、少なくとも僕はずいぶん影響を受けた。彼に差し出された皿を前にして、「そうか、なるほど、こういう風な書き方もありなんだ」と思わず膝を打たされた。…〔略〕…その新しさを言葉で的確に表現することはとてもむずかしいのだが、その陸影のほのかな接近を身のうちに自然に感じるのはそれほどむずかしいことではない。なぜなら書き手の無意識的な雄弁性をもっとも鋭く理解するのは、いうまでもなく、読み手の無意識的な理解力であるからだ。そして、私見では、この『ロング・グッバイ』の翻訳によって、村上は、それをさらに意識化=深化させたのだ。チャンドラーは僕にとって最初から大事な意味を持つ作家であったし、その重みは今でも変わらない。小説というものを書き始めるにあたって、僕はチャンドラーの作品から多くのものごとを学んだ。技法的な部分でも具体的に学ぶべきことは多々あった(なにしろ彼は名にしおう名文家だから、学ぶべきことは実に数多くある)。しかし僕が彼から学んだ本当に大事なことは、むしろ目に見えない部分である。緻密な仮説ディテイルの注意深い集積を通して、世界の実相にまっすぐに切り込んでいくという、そのストイックなまでの前衛性である。その切り込みのひとつひとつの素早い挙動と、道筋の無意識的な確かさである。重ねて言うが、この「あとがき」は、非常に重要な文学論であるので、ぜひ全文読んでほしいものだが、このいくらかの引用からだけでも、『1Q84』の構造を読み解くヒントにならないだろうか。そして、さらに、他の作家に比べて、なぜ村上春樹はおもしろいのか(ここでおもしろさは、売上部数において測っていることにする)、という問いへの回答のヒントにならないだろうか。ともかく、やっと『1Q84』へ書評を書くための準備が整ったわけである。ちなみに、「技法的な部分でも具体的に学ぶべきことは多々あった」というところを村上は(当然ながら)深く語りたがらないが、今回の『1Q84』において利用されていることを一つだけ指摘しておけば、キャラクターによる「要約的振り返り」とでも言えるような手法である。フィリップ・マーロウは、しばしば、事件のことを振り返り、要約するのであるが、それは新たな事実=場面を立ち上がらせ、次の展開に生きるように工夫されている。『1Q84』では、ご存じのように、複数の選ばれたキャラクターたちが、その作業を行っている。そこには、要約とともに推理が付きものであり、読者の疑問を整理し(あるいは誘導し)、そして新たな要素が(比較的自然に)加わっていく。それが強力に物語の展開を支えているといってよいだろう。最後に、全く異なる分野――政治学――の書物から引用したいと思う。ホッブズが『リヴァイアサン』で「神」を「正義」におきかえたとき、かれは「正義」が政治学にとって神学における「神」に相当すると主張したのではないのか。ホッブズによって用いられている存在論的証明は、『リヴァイアサン』の読者を説得するためのレトリックである以前に、まずは正義の実在に対するホッブズ自身の信仰告白であり、さらにいえば、政治学者としてのかれの自己規定の行為であったと考えられなければならない。政治学者であるかぎり、たんなる秩序でなく正義にかなった秩序が、それも「たんに観念として」だけ存在するのではなくまさしく「現実存在」することを、みずからの発話行為によって例示しなければならないのである。中金聡『政治の生理学』(勁草書房、2000年)からの引用。もちろん村上をホッブズに匹敵すると言うつもりはないが、いくつかの単語を置き換えれば、文学における村上の実践もまた、この引用文のような性格を持っていると言えないだろうか。これを村上批判者たちへの、小生なりの今のところの回答としたいと思う。
2010.04.25
コメント(0)
実は『1Q84(BOOK3)』の書評を書こうとPCに向かっていたのだが、書評のための予備的問題としての文体論の部分が思いの他膨らんでしまったので、独立して先に記すことにした。以前、「村上春樹と文体論」で書いたことの問題が、『1Q84(BOOK3)』の書評を書くために引用した文章のなかで、実は解決されていることに気付いたことも、本稿を独立させた重要な理由のひとつである。その文章とは、村上訳によるレイモンド・チャンドラー『ロング・グッバイ』の「訳者あとがき」である。(小生は、その文章を、「村上春樹と文体論」を書いた1ヶ月後に読んでいたのだが、その関連性に最近まで気づいていなかった。『ロング・グッバイ』自体が面白すぎたということもあるだろう。)というわけで、付け足しの部分を終えて、本論に入ろう。(ところで、4/25付の朝日新聞で斎藤環が『1Q84(BOOK3)』の書評を書いているが、それに対する応答も多少意識して記すつもりだ。)■『1Q84』へ影響した作品?2007年3月に、村上訳の『ロング・グッバイ』が刊行された。時期的にみても、この翻訳が『1Q84』に影響を与えた可能性は否定できない。その「訳者あとがき」で、村上は『1Q84』読解のヒントを示してくれている。この「あとがき」は、村上の文学論の断片を示してくれるもので、村上ファン(アンチファン含む)は一読するべきである。そして、その「文学論」はなかなか重厚であり、細かく引用するのには馴染まないのだが、全文を引用する紙幅はないので、誤解を恐れつつ(笑)、いくつか引用しよう。(もちろん、本当は全文を読んでほしい、そしてその際には『ロング・グッバイ』本文を先に読むべきだ。)最初にこの小説を読んだとき、その文体の「普通でなさ」に僕はまさに仰天してしまった。こんなのがありなのか、と。〔下線部、原典では傍点:以下同様〕おそらく、この「普通でなさ」の正体を丹念に翻訳する中で見定めたことこそが、斎藤環が驚いた「村上の文体の“復活”」に寄与しているのだろうと思われる。こんなのがありなのか、と驚いた若き村上の直感が、表層的な「文体」ではなく、近代文学の存立のあり方と関わっている<文体>に向けられていたことは間違いない。斎藤は、“復活”の理由を「身体性」に求めるのであるが、では、どうすればその「身体性」が手に入るのか、という問いに対しては、(もちろん)答えていない。だが、村上にならって、我々もチャンドラーの文体の秘密へと思考を進めれば、そこには、確実に「近代文学」への「距離のパトス」とも呼ぶべき、深い方法論が存在していることに気づくはずだ。ジョイス・キャロル・オーツのこの表現〔引用者注:「自意識を抜きにした雄弁」〕は、チャンドラーの文体の魅力(のある側面)を的確に表している。多くの小説家は意図的に、自己意識について語ろうとする。あるいは様々な手法を用いて、自己意識と外界の関わり方を描こうとする。それがいわゆる「近代文学」の基本的な成り立ち方である。我々は人間の自我の作動状況がどのように有効に文学的に表象されているか――具体的にであれ抽象的にであれ――によって、その文学作品の価値を決定しようとする傾向を持っている。しかしチャンドラーはそうではない。文章的にはきわめて雄弁であるものの、人の意識を描こうというつもりは彼にはほとんどないようだ。村上の「近代文学」論とも言える重要な箇所である。そして、そう言われてみれば、村上を好まない人々が、今や袋小路に迷い込んでいる「私小説」なるものが好きな人たちと見事に一致することに気づいてしまう。そして、そういう人は、袋小路に迷い込んでいることに気づいていないか、あるいは、その打破の仕方において村上に異議があるか、のどちらかであろう。(しかし、後者だとして、彼らは何を提示してくれるのだろう?)自我をまったく反映しない個人的所見や対応などどこにもない(はずだ)。そしてその所見にはもちろんひとつの一貫性がある。にもかかわらず、フィリップ・マーロウ〔引用者注:『ロング・グッバイ』の主人公〕はそのような自分の所見や対応の具象的なあり方に正確に綿密に固執することによって、またその一貫性を様式的なまでに美しく維持することによって、むしろ自我の実相をどこかべつの場所に巧妙に隠匿しているのではあるまいかという疑いを、我々は、あくまで漠然とではあるが、しかし避けがたく抱いてしまうことになる。何故なら一貫性というものは、自我のあくまで一機能に過ぎないわけなのだから。村上は、この引用箇所の前において、『ロング・グッバイ』で描かれているものは、主人公「フィリップ・マーロウの目で切り取られていく世界の光景」だと述べている。『ロング・グッバイ』における論理の一貫性(と我々が感じるもの)は、「自我」に担保されるではなく、世界=場面に担保されている、ということなのだろう。そうして考えると、『1Q84』が正確にそうした性格を持った小説であることに、我々は気づくのではなかろうか。それほどの深い逆説性は、生身の人間にはなかなか見いだしがたいものだ。そしてそのような逆説性についてより深く考えていくと、フィリップ・マーロウという存在は、生身の人間というよりはむしろ純粋仮説として、あるいは純粋仮説の受け皿として、設定されているのではあるまいかという結論に――少なくとも僕はということだが――行き着かざるを得なくなってくる。そしてそういう見方をとった方が、チャンドラーの小説をめぐるいろんなものごとがより理解しやすくなってくるのだ。そう、そして(そのような読み方をする読者なら、ということだが)、『1Q84』についても、いろんなものごとがより理解しやすくなってくる、と言ってよいのではなかろうか。とりあえず結論を急いで、とても簡単な言い方をするなら、フィリップ・マーロウという存在を確立し、自我意識というくびきに代わる有効な「仮説システム」を雄弁に立ち上げることによって、チャンドラーは近代文学のおちいりがちな袋小路を脱するためのルートを、ミステリというサブ・ジャンルの中で個人的に発見し、その普遍的な可能性を世界に提示することに成功した、ということになるのかもしれない。このキャラクターの確立こそ、斎藤が「身体性」と呼ぶものと関係している。すなわち、自我意識の「狭さ」を超えて存在する「現実」は、「深い逆説性」を含みこんだ「仮説としての身体」においてのみ表現可能なのである。(そして、BOOK1,2の書評において、小生が『キャラクターズ』について言及したことも、ここに関係している。)ここにおける「近代文学のおちいりがちな袋小路」とは、まさに、「作家の自我意識の限界」のことであり、ある個人作家の目を通して見られるものしか(可能性としても)作品に表現し切れない、ということである。卑小な例だが、歴史物語の主人公たちが、いいように作家のレベルにまで矮小されてしまう、といった事態は、この典型的なものと言えよう。つづく
2010.04.25
コメント(0)
全2件 (2件中 1-2件目)
1

![]()