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いよいよデューイに手を付け出すわけだけれども、当初の予定とはちょっと変えることにした。俺は、すぐに方針を変える。寝返りもする。そう、柔軟なわけだ。■集中学習と分散学習、全体法と部分法認知心理学の知に与ろう(といっても、ただの受け売りだけれども)。心理学の学習概念において、時間間隔を置かずに学習することを集中学習といい、時間間隔を置いて学習することを分散学習というらしい。さらに、はじめから終わりまでまるごと学習することを全体法といい、部分に分割して部分ごとに学習することを部分法というらしい。集中学習よりも分散学習が、部分法よりも全体法が、一般的に効率的だと言われているようだ。(以上、ちょっと中途半端だがこちら参照。)たしかに、受験社会を生きた人間にとっては、なんとなく理解できる結論ではある。概念理解を必要とする勉強では、積み上げ式より上塗り式の勉強の方が明らかに効果的だったように感じる。というわけで、デューイ『民主主義と教育』に関しても、まずはさらっと上塗りするのを目指し、一度目は適当にちょっとずつ纏めていくという方法を採ることにする。一度、読み切って、また戻ってこよう。■第一章生命〔ライフ〕に必要なものとしての教育『民主主義と教育』には各章ごとに要約がついているので、一度目の読解においては、要約を読んでいくだけにする。【要約】生存を続けようと努力することは生命の本質そのものである。この存続は、不断の更新によってのみ確保されうるのであるから、生活は自己更新の過程である。教育と社会的生命との関係は、栄養摂取や生殖と生理的生命との関係に等しい。この教育は、まず第一に通信〔コミュニケーション〕による伝達にある。通信とは経験が皆の共有の所有物になるまで経験を分かちあって行く過程である。通信はその過程に参加する双方の当事者の性向を修正する。人間の共同生活のあらゆる様式の奥深い意義は、それが経験の質を改良するために貢献することにあるのだが、そのことがもっとも容易に認められるのは未成熟者を扱う場合である。すなわち、あらゆる社会制度は事実上教育的であるけれども、その教育的効果は、まず年長者と年少者の共同生活との関連において、共同生活の目的の重要な部分となるのである。社会がいっそう複雑な構造や資産をもつようになるにしたがって、制度的〔フォーマル〕なつまり意図的な学習の必要性が増大する。制度的な教授や訓練の範囲が拡大するにつれて、直接的な共同生活において獲得される経験と学校において獲得されるものとの間の好ましからざる裂け目が生み出される危険が生ずる。この危険は、この二、三世紀の間における知識および技術の専門的な様式の急速な進歩のゆえに、今日、これまでになく大きなものとなっているのである。読みにくいな。ちょっと纏めてみると、生存を続けようと努力するのはライフの本質。→不断の更新によってのみ確保される。→ライフは自己更新の過程。「教育→社会的生命」ってのが「栄養摂取/生殖→生理的生命」と等しい関係。教育⇒コミュニケーションによる伝達(経験を皆の共有の所有物にする過程)→参加する双方の当事者の性向を修正。人間の共同生活のあらゆる様式の奥深い意義は、経験の質の改良に貢献することにある(未成熟者を扱う場合に容易に認められる)。あらゆる社会制度は事実上教育的。→その効果は、年長者と年少者の共同生活における目的の重要部分。〔教育効果こそ共同生活の目的だということか〕社会の複雑化 → フォーマルな教育(意図的な教育)の必要性増大 → 結果、共同生活の直接的経験とフォーマルな伝達との裂け目の危険(この二、三世紀の間における知識と技術の専門的な様式の急速な進歩のゆえ)。ってなわけで、教育は社会的ライフにとって必要であるらしい。そして、教育ってのはコミュニケーションによって行われ、それは参加する当事者の性向を修正するもののようだ。このコミュニケーションによって成立する共同体の奥深い意義は、経験の質の改良にあり、それは年長者から年少者への伝達にあるらしい。社会の複雑化がフォーマルな教育を必要とするが、その結果、共同生活と教育とが同一であるということを無視し、教育の概念を読み書き能力の習得と同一視する(矮小化する)ことになってしまう。だからこそ、フォーマルな教育とインフォーマルな教育の正しい均衡を保持する方法こそ、教育哲学が取り組むべき課題である。ということらしいな。繰り返しただけだな、俺。しかし、読みにくい文章だ。
2006.01.31
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どこかの国の大学入試センターなるところの事業部長が「(トラブルがあったと)手を挙げた受験生は、すべて再テストにすることを決めていた。性善説に立っている」とのたまったらしいが(参照)、問題は、そういうことではないだろう。はじめてのこと、渡された機器が不具合なのかどうか判断するのも大変だ。もしかすると自分の体調がおかしいのではないか、そういう場合に手を挙げていいものだろうか、迷惑ではないか?と考えて、手を挙げなかった者もいただろう。こうした「性善説」的素質を持った人の存在が、事業部長殿の頭からは捨象されているらしい。性善説かどうかよりも、ここでは、自己主張の強さが問題になっている。それに、自社の社員が決して使用しないというくらい故障のしやすいパソコンバ○オを作っているような会社の製品を受注すること自体がおかしいんじゃないかと個人的には思う(笑)。そもそも「性善説」とか「性悪説」なる語を持ち出して、しかも本来の意味もわからないままに、自分の言訳用のために使用する輩が多くて辟易する。「俺は性悪説だから、~だと思う」みたいなことを言う。こうした「思考停止くん」に使用されると、これらの語もかなわんだろう(ちなみに、「人間は性善説か性悪説か」という議論がしょうもないうんこ議論であるということについては、ばかばかしいのでわざわざ触れない)。そもそも、孟子も荀子もそれほど異なることを言っておらず、この両者にあっては、共通点こそ重要じゃなかろうか。だが、門外漢が儒教を語れるはずもないので、今回はこれらの語が簡単に使われている現状の用語法に触れつつも、もうちょっと根本から考えてみることにしようかと思う。ちなみに、性善説、性悪説の該当箇所をキータイプするのが面倒なので、WEB上に転がっていたページを紹介する。参照のこと。「デューイは?」って?いや、デューイ読んでて思ったことを、予備的問題として語るってわけです。大学なんかのゼミでも、成員に前提知識の共有がある程度ないと、盛り上がらんでしょう?というわけで、性善説=性悪説批判。■端緒と矯正性善説・性悪説の該当箇所をお読み頂けばわかると思うが、孟子の言っているのは「善の端緒」としての「感情」である。それに対し、荀子の言っているのは「矯正」である。「社会化」と言ってよいかもしれない。では、孟子は、「性善説」ってのが「人は良いことをするはずだ」ってことを言ってるんだろうか?そう読めるかね?孟子が言ってるのはあくまでも「端緒」であるし、さらには、実は大変規範的な書き方をしているように俺には感じられる。つまり、孟子の方が、荀子以上に、「人間はこうあらねばならぬ」という倫理規範を述べているように思える。「いたたまれない感情をもたぬ者は、人間ではない。羞恥の感情をもたぬ者も、人間ではない。謙遜の感情をもたぬ者も、人間ではない。善いことを善いとし、悪いことを悪いとする是非の感情をもたぬ者も、人間ではない」と孟子がいうとき、そこには、皆持っているという確信というよりは、「お前、持ってるよな?」とヤクザに迫られているような強迫を感じる。ところで、純粋に論理として読めば、荀子の論は破綻している。「必ず先生の教える規範の感化や礼儀に導かれて、はじめてお互いに譲りあうようになり、礼儀の形式や道理にかなうようになり、世の中が平和に治まるのである」と述べるが、ではそもそもその「先生」は誰から規範を教わったのですか?と。「先生の先生」とか言うなや(笑)。まあ、よくある纏め方になって恐縮だが、別に孟子が規範的でないわけじゃないし、荀子が「善の端緒」を否定しているわけでもない(そうだとすれば、論理破綻しちゃう)わけで、これらは力点の置き方が違うだけで、どちらも社会には、善が必要だと言いたいだけなわけだ。■善悪って何よ?さて、孟荀に対する俺の考えは、以上のようなことなんだが、現代におけるこれらの語の用語法を混乱させてる理由はもっと別のところにあると思われる。それは、これらの語がおバカな議論に使用されるとき、ほとんどの場合、善悪の存在が勝手に(ステレオタイプ的に)前提されているということだ。つまり、そこが「性善説=性悪説」議論の破れ目なわけだ。そして、このことは孟荀にも共通している大前提であって、彼らは実体的に善悪があるかのように語っている。まるで、善悪は誰でもわかっていることであるかのように。しかし、恐らく孟子と荀子が同じことを語るのに、力点の置き方が変わってしまったわけは、彼らが皆にわかる普遍的なものだと信じている「善悪」が実は、両者においてずれているからではないかと思う。というわけで、こう聞きたい。善悪って何なのよ?まあ、もちろん、孟荀の場合、孔子以来の徳目を曖昧に指すのであろうが、問題は、ある行為を誰が徳と判断するかである。こうなると、もはや孟荀は何も言っていないに等しいし、そもそも、孟子と荀子を性善説と性悪説で比べること自体おかしいことになってくる。最初に比べたのは誰なのよ?(江戸期かね?誰か知ってたら教えてください。)こういう難しい問題というかどうでもいい問題は措いといて、もっと現代における議論に資するような方向へ向かうとしましょう。面倒臭いので結論を急げば、善悪を決めるのは、ズバリ法である。法律ではない。法。いつも書いてる法。共同体における法こそが、善悪を決める。つまり、「社会化」という作用と分けて考えられるはずがないのである。これをわからず、人間は良いことするはずだとか、人間は悪いことをするはずだ、という議論をする意味がわからない。その前提こそが実は危ういわけだ。ちなみに、何かの規制を議論する場合にこれらの語が出てくるケースがあるが、それもまたおかしい。そこでは、人は信頼できる/できないという議論が、性善説/性悪説の議論として語られているように思われる。全く関係が無い議論と言わざるをえない。まあ、いろんなところで指摘されてる通りで、判断基準を共同体(社会)に求めておきながら、生まれつきの性質を論じるというこの「性善説/性悪説」論争自体成り立たないっていうのは、その通りである。■社会契約さて、以上で終わりでもいいんだが、現代においては様々な概念が混乱しているため、ちょっと蛇足。何となしに、性悪説=ホッブズの自然状態、性善説=ルソーの自然状態、というふうに、纏められたりする。で、まあ、そこだけ取れば間違ってるともいえない。だけれども、ホッブズが「性悪説」で人間を捉えていたとか、ルソーは「性善説」で人間を捉えていたとかなってくると、ちょっと待てと言いたくなる。なぜか、社会契約を論理のスタートとして考える人間が多いんだけども、社会契約は批判原理としての価値が大きい。現代において契約論を復活させたロールズが適切に述べているように、これは現行の制度や法規が、正義に適ったものであるかどうかを測り、修正する原理となるための思考ツールである。社会はこうであるはずだ、という論とは一線を画している。まあ、結局俺は、性善説でも性悪説でもいいんだけど、その大前提たる「法」について、考える必要をまあ訴え続けたいわけだ。そんなわけで、デューイ『民主主義と教育』が待っている。俺を待っている。たぶん。
2006.01.28
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仕事の合間の現実逃避(汗)。デューイを読むと言ってから、いろいろと頭の中で整理されてきたこともあるので、覚書的に(デューイ自体はいつになるやら・・・汗)。で、仕事の方は多少は力まなきゃならなくて、こういうときの俺は現実逃避する。しかし、昔から、何かに追われるのが嫌いで、つまりかなりの反啓蒙主義者で(笑)、自分を何かが強制し出したら、スパッとやめるようにしている。多くの場合、自分を強制するのは自分であって、自分が自分に無理強いするようなら、それは自分にとって悪だと考えている。そういうわけで、足踏堂などと名乗る。まあ、そうしたことにも絡むんだけど。覚書。「自由への予備的問題(3)――リバタリアニズムとコミュニタリアニズムという双子」「阿部和重『インディヴィジュアル・プロジェクション』の絶対に不毛なプロジェクト」「個人主義=国家主義批判――国家主義に対して個人主義を据えれば足りる??」まあ、実はまったく同じことに三つの題をつけただけなんだけど、なんだか頭のなかで整理された気がしてる。デューイの合間にでも・・・。じゃ、仕事するか。
2006.01.27
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また、約束違いですが(笑)ただし、はじめて、本業論というか、仕事論というかを書きましょうか。■企業におけるメンタルヘルス問題日本における会社人事(あるいは労働環境)の昨今の問題として、自律神経失調症や鬱等のメンタルヘルス問題がある。メンタルケアサービスを提供している会社の取締役の話では、就労者の自殺割合から考えて、5000人規模の企業体であれば、確実に年間ひとりは自殺者がいるということだ(5000人規模の会社への営業では、「自殺されたりする方なんかいませんか?」と切り込めば一発だという)。そして、多くの場合人事が問題としているのは、仕事ができる人間ほどこうしたメンタルヘルスを害しやすいということである。つまり、仕事のできる人間に仕事が集中し、それを抱えた人間がひとりで悩み、メンタルヘルスを害するというパターンである。そうしたできる人間がメンタルヘルスを害すると、抱えていた仕事は周りには処理できず滞り、また本人も休職を繰り返したりするようになるため、企業の経済性にとっても大きな打撃となるわけだ。■職場環境特性さて、少しずつ核心に迫りたいのだが、メンタルヘルスを害する職場というのは、それでも偏りがある。ITやコンサル等に多いといえる。あるいは、急速に伸びている新興企業や、さらには官庁・自衛隊にも多いと聞く。そうした情報を総合すれば、ある種当然ではあるのだが、仕事のシステムが出来上がっていない職場に多いということがわかるだろう。すなわち、仕事がとにかくこなせそうな人間のところに集まり、できる人間ほど負荷が大きくなり、しかしその一方で、暇をしている人間もいるという職場におきやすい現象であることは言うまでもない。つまるところ、仕事の交通整理ができていない、あるいは、それをする人間がいない無法地帯である。そうした無法地帯というのは、ホッブズの見た「自然状態」に近いのかもしれない。■頑張り屋さんの功罪さて、ここにきていつものように、ホッブズなんかが出てきてしまったので、今回の問題の考察も、そうした線にのってみてみようか。もし無法地帯であることが、メンタルヘルスの問題であるならば、法を作っていくことができないこと自体が問題だといえる。そして、法の問題とは、その共同体を構成する成員ひとりひとりの問題であるはずだ(俺の法に関する理解は「自由への予備的問題(2)」を参照)。つまり、俺の理解から言えば、法というのは個的状況からの具体的主張から生まれる。今回の問題の例で言えば、自分の仕事が回らなくなってきたならば、それを放棄する、あるいは、自分には不可能だと主張することこそ、法をつくる行為である。組織は、そうした主張が生じた時点で、はじめて改善策を考え、より各成員に負担の少ない方法を探ろうとするだろう。組織はそうした繰り返し(失敗と改善とでも言おうか)におけるダイナミズムによってしか鍛えられていかないはずだ。組織の状況によっては、そうしたことを言う人間は責められるだろう。しかし、その叱責を恐れて抱え込むとすれば、それは自分への不誠実だけでなく、組織を善くしていくという責任も放棄しているのである(イェーリング『権利の闘争』を見よ)。自分に「仕事ができない奴」というレッテルを貼られるのを恐れるあまり、無理な頑張りをし、他の者もまた同じ問題を抱え続けざるを得ないような職場環境が維持されるのを助長するのは、実はその組織に対する罪である。本当に仕事ができる人間というのは、仕事の平準化ができる人間である。自分がそこを離れたときに、「普通」の人間が後任として就いても、無理なく仕事ができるように環境を整えておける人間である。頑張り屋さんというのは、多くの場合、自分の仕事に対する責任は持っているかもしれないが、組織に対する責任をも持っていることを忘れがちである。組織というのは、「普通」の人たちが作っていくものであり、そうした組織が強い組織だと言えると、経験から俺は思う。■蛇足的に――権利もう何度も書いたことだけれども、権利の歴史も同じなのである。構造的差別を受けて、無理な努力をしている人間が、その不正を訴えないで、自分だけ頑張ればいい、苦労すればいいって考えているとしたら、彼は倫理的には認められるにしても、権利の歴史においては、重大な犯罪を犯していることになる。その不正を見出して、訴えているから、次の世代の権利が生きてくるのだ。そして、これこそが、法を作る営為なのである。頑張り屋さんは、仕事ができるできないのレベルで考えるんじゃなく、今後組織として、そうした仕事が他者にも回る可能性のあることを、もっと真剣に考えるべきなのである。無理なものは無理というのが、その大切な方策だ。無理をしないってのは、責任を放棄することではない。責任を負うからこそ、無理をしないというのが、人間社会の大切な生き方の倫理だと、俺は本気で思っている。他者への責任というのは、その共同体への責任であり、俺はそれをして自由の倫理だと思っているわけだ。▼言訳というか・・・次回からは、デューイ『民主主義と教育』にいきます!仕事は今日も徹夜かも・・・。いつ書けるんだろ(笑)。
2006.01.26
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デューイ『民主主義と教育』について読み進めるといっておきながら、更新できていないが、これには言訳があって、一つは、どうしようもなく仕事に追われてしまっていることと、もう一つは佐伯啓思をちょっとじっくり読み出してしまったことによる(決して立派な言訳になっていないけれど)。佐伯についてはまた書くでしょう、いつか。ひとこと述べておけば、不器用だなぁと思う。頭が不器用だ。あと、昨今のマスコミに通じる態度が感じられもする。しかし、マスコミは酷いな。ライブドア事件で号外出すわけだが、その基準は何だ? ジャーナリズムが無い。矜持がない。あるのは理念無く数字を追うことだけ。君らがライブドアを批判的に書けるのかね。同じ態度に感じるが。だいたい、何かを批判する立場の奴らには、自分の立ち位置をはっきりさせずに、自分は火の粉を被らないところから批判する奴が多い。しかし、ちゃんと自分の足元を見てからもの言えよな。だけれども、なんだか、多くの指摘があるように、自民党による比較衡量があったのかもしれないな。ヒューザーの政治癒着疑惑にニュース性で勝てるのはライブドアくらいしかないからな。堀江応援の責任論くらい見込んでただろう。しかし、あのタイミングの強制捜査と、かなり速いスパンでの逮捕っていうのは、あやしい。別に待てたはずだと思うのだけれども。矜持のないマスコミは、政治に踊らされる。もう死んでくださいと俺が言うまでもなく、死んでいる。『エルサレムのアイヒマン』で言及された「悪の陳腐さ」を思い出す。凡庸なアイヒマンは、組織での自己保身と出世欲のためだけに、先頭にたってユダヤ人を大量に殺戮した。そこにはユダヤ人に対する燃えるような敵意や悪意があったわけではない。あったのはただの陳腐さだった。矜持のない陳腐さは、もっとも巨悪に手を貸す結果になる。この国のマスコミは、集団化されたアイヒマンだ。陳腐さが怖い。蛇足としりつつ付け足せば、その記事をありがたがる人間たちも同様であることは言うまでもない。君たちの名は、アイヒマンズ。自分の身から出ていない悪意で人を殺す人たちだ。
2006.01.25
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はじめて(と言っていいと思うが)、(今年は)教育について書き出そうと思う。何を隠そう、俺の生涯の職業テーマは教育である。どのような仕事・プロジェクトであっても、この教育という観点を忘れたことはなかった。そして、年の初めだから書いておくが、近いうちにまた教育について本格的に学びたいという希望を持っている。というか、もう完全にそのつもりだ。というわけで、このブログもそうした方向性に付き合わされることになるだろう。前回もちょっと書いたが、そうした希望とは別に(いや<身体>的には完全に一致するのだが)、今年は個人的に飛躍の年になりそうで、つまりは多忙ということになりそうで、更新についてはどうなるかわからない。しかし、その際も、計画だった更新になるように努めるつもりである。■ナショナリズムをてきとーに考えてみたところで、どうでもいいことだけれど、ブログ休暇中に戯れに(つまり方法論を無視して)考えたことをちょこっと。沈黙というのは怖いもので、脳内言語体系にしっかりと位置づけられなかった思考の沈殿物たちというのは、民主制下における代表されなかった弱者層のように鬱憤を溜め、「俺を生み出してくれ、俺を自由にしてくれ」と騒ぎ出す。昨年末からのブログ休暇は、ある種の代表されない<ことば>たちを少しナショナリスティックにしているようだ。ところで、年初の旅において、ナショナリズムについて戯考した。温泉地へ向かうバスのなかで地図を広げると細かな市に分かれている(当然のことだけれど)。その名付けという明治期における権力機制を少し横に置いておくにしても、それぞれが特色を主張するのが見て取れた。言うなれば、市同士のナショナリスティックな緊張関係を見て取れる気がした。例えば、「この市からは福沢諭吉を輩出している」だとか、そういうものだ。言うまでもなく、隣の市と比較されたうえでのアピールのカタチを取っている。都道府県の(脳内)地図を広げると市ごとのナショナリスティックな緊張関係があり、国の(脳内)地図を広げると県ごとのナショナリスティックな緊張関係があり、(脳内)地球儀を回せば、国ごとのナショナリスティックな緊張関係があって、欧米に行ったことがある人なら、アジアやヨーロッパといった地域ごとのナショナリスティックな緊張関係を持つはずだ。ここには、全く論理的でないアナロジーが潜んでいる。本当なら皆、自分を誇りたい。しかし自分を誇れない奴は、例えば、肉親を誇ったりする。「私の子はね、~なんですよ」と。そして、それもできなくなると、「うちの村からは○○が出た」とも言う。大学で上京して、出身県の高校を高校野球で応援し、アメリカに行くと「イチローは誇りだ」とか言う。相手よりも自分が<距離的に>近いものなら、自分が誇ってもいいと勘違いしている奴らであるわけだ。ちょっとした結論を宣言しよう。【自分への自信の無さがナショナリズムを生む】【ナショナリズムは、相手と自分と誇るもの、三者の<距離感>がすべてである】言えることはひとつだ。「でも、お前じゃないだろ」ナショナリズムというのは、結局、自分の責任が及ばないものでさえも、自分のものとして誇ってしまう態度である。自尊心を痛く傷つけられている者に生じ易いというは、こういう機制があるからだろう。一生懸命に「民族」とかいう虚構(妄想)を持ち出したがるのも、そうした本当の目的が明白になるのが怖いからでしかない。ただ、まあ、ナショナリズムについては逃れうるものなのかどうかよくわからないので、これからも考え続けないといけないだろうとは思っている。※上で「言語共同体」という意味でのナショナル性について語ったのではないことは理解を求めておきたい。リベラリズムから派生するこうしたナショナリズムを俺は即座に否定するわけではない。だが、実際問題として、ナショナル性を、そうした<境界>よりも、地図上の<名前>から無自覚に演繹してしまう奴らは多いわけで、現代の政治状況においては、こうした語り方が特に不当というものではないと個人的には考えている。■というわけで教育次回から、俺はちょっとストイックに教育について考えていくことにする。もったいぶってもしょうがないので書くと、ジョン・デューイ『民主主義と教育』(岩波文庫)を一章ずつ読んで行く。今回は「序」ということで、ここでは、『民主主義と教育』の「序」からそのまま引こう。本書は、民主的社会にこめられている諸理念を見出し、明示し、それらを教育という事業の諸問題に応用しようとした一つの努力の表明である。その論議は、この観点から見た公教育の建設的な目標や方法の指摘を含み、また、認識や道徳の発達に関する諸説で、過去の社会情況において定式化されたものでありながら、今なお有名無実の民主的社会において効力をもっており、民主的理想の十分な実現を阻んでいるものについての批判的評価も含んでいる。一読すれば明らかなように、ここに述べた哲学は、民主主義の発展を、科学における実験的方法の発達や、生物学における進化論の諸観念や、産業機構の再編成と結びつけて考え、そして、これらの発展が指示する教育の教材や方法の変化を示そうとするものである。社会に内在したうえで諸理念を見出し、そこから現状を批判的に逆照射するという方法論が語られている。明日からが楽しみだ。
2006.01.20
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なんだか久しぶりなので、どうやって書いていいかわからず、ちょっと怖い。根っからの人見知りの俺は、ブランクの後には、いつも新鮮なる緊張を感じる。そう、かわいいヤツなわけだ。ちなみに、俺を知っている(名前や外見などの情報を知っている;あるいは、俺の声を聞いたことがある)人のなかには、俺が社交的だと勘違いしている人が多いが、集団のなかで話題を整理したり、中心になったりするのは、その場にその必要があるからであって、俺は決して好んでやっていない。相当無理をしている。また、このブログをご覧の皆様には、俺は毒舌に映っているかもしれないが、リアルな俺(身体までセットの俺)はかなり礼儀正しく、とても柔和だという評価で一致している。(自分で書くと本当に笑えるな。)さて、というわけで、年末年始休んでいたので、旧年中ブログ上で発見できた優れたサイトの皆様にお礼申し上げる。勝手に学ばせて頂いている。ありがとうございました。今年も勝手に学ばせて頂く。宜しくお願い致します。■今年はどうも個人的に大飛躍の年になる気がしているなんだか勝手にそう思っている。たぶんそうなる。■今年ここまで今年初めての誕生日を迎え、歳をひとつ重ねた。今年初めての風邪をひいた。今年初めての旅行に行き、今年初めての温泉に浸かった。今年初めての碁を打ち、今年初めての酒を飲んだ。■「Stop The Koizumi」について俺は「Stop The Koizumi」というブロガー同盟に参加している。俺の参加スタンスは今の政治の方向性にNOという一言につきる。だが、政治に比較的無関心な層は、俺から見ると大変グロテスクな政治状況なのに、この最悪方向への変化に対して何だか曖昧な期待をしているようだ。だから俺は、できることの一つとして、結社の自由を行使して、表現の自由に力を与える方向を求めているわけだ。ブログの内容なんてどうでもいい。NOというシンボルが俺のような弱者の政治的発言だ。皆で掲げれば力を持つ。人が集まると権力関係が生じ、そこを曖昧にしておくと、大抵歪みが出てくるものだ。権力は元来遍在しているものなので、大切なのはそれをignore(「無視」というか「見て見ぬ振り」)することではなく、制御できるようにすることだと俺は考えている。ただし、力(意思決定権)のある側には、そうした関係性における責任もより多くあるということだけは述べておかねばなるまい。今年、小泉が変わるとき、この同盟の名目上の終わりが来るかもしれないが、そうなるとさらに終わり方が重要だろうと思う。小泉以後が酷い道をたどらないためにも、いや、たどったときのためにこそ、今やらねばなるまい。俺は参院選の勝ち負けも大切だと思うが、それよりも、間違った流れを変えるチャンスというのは、やはりこうした豊穣な言説の積み重なりがあるからだと思っている。私見では、この同盟は、(こう言ってよければ)近代型戦略とポストモダン戦略のどちらの戦略を採るかについて、迷っている。しかも無自覚に。つまり、既存の政党のような「カタチから入り、一つの意思を求める」方向性と、ネグり=ハートの「マルチチュード」のような非主体的連帯との差異をあまり自覚しきれていないし、時に揺れ動いているように感じる。俺はどちらでもいい。ただ、俺のスタンスははっきりと後者だ。俺は<境界>をもたないよう努めている。■民営化より民主化政治(というか、現状)に対する不満は皆持っていて、それをどうにかしなければいけない(どうにかしてほしい)とも思っている。だが、一般人にはその方策がわからない。だから、半ば詐欺的な「民営化」という語に期待してしまう。しかし、中身を見れば、より問題を隠蔽するものだし、より責任を不明確にするものだし、より国民の手から遠くなるものであることはすぐにわかるはずだ。大切なのは、国民の生活にかかわることは、いつでも国民の監視と制御のもとに置かれるということのはずであり、うまくいかなくなったから民間に勝手にやらせようって論理がおかしいのは誰でもわかるはずだ。民営化全般を俺は言ってるんじゃないことは判ってもらえると思う。大切なのは、何を民営化するかについてのちゃんとした議論だ。規制の緩和が盲目的に進むというのは、安全に配慮して作ってきたルールを一気に考えもせずに壊すのと同じであるわけだ。刑務所や軍隊組織までが民営化されているアメリカのような、金儲けのための戦争を起こすように働きかける勢力が存在する状況は決していいとは思えまい。ここでも、社会的弱者が損をする。権利の歴史もそうだ。経済活動の自由の暴力性が暴かれてきたからこそ、歴史的に認められてきた精神の自由や社会権などは、そうした意味で、公正を求める人間が作り上げてきたルールだ。それを「努力した人が報われる社会にする」などといった嘘八百の言葉で壊そうというのはどういうことだ。こうした歴史的成果としての規制を取り去ろうとする新自由主義を黙って見過ごせるはずが無い。お前が今すべての財産と肩書きを捨てて、整形をし、身分も隠し、「努力だけ」でのし上がってやるよ、と言えるヤツだけ吐いておくれ。そして、実行してみておくれ。こういうことを平気で言うやつらには、財産も教育も無いところから頑張らなきゃならない層だっているということに気付かない致命的な想像力の欠如しか感じられない。■ドラえもんの一番のプレゼントのびたにとって、一番のプレゼントは、どこでもドアでも、タケコプターでもなく、ドラえもんそれ自身だ。のびたは、いじめられ、家でも相手にされず、先生にも受け入れられずという社会的弱者だ。彼を放っておいたら、間違いなくグレる。そんな弱いやつが? いや、俺もいろいろ見てきたが、グレるやつのほとんどは弱い。のびたみたいなやつが不良と呼ばれる存在になっていく。あるいは、最近では、引き篭もっていく。のびたに必要なのは、道具での仕返しではない。話し相手だ。道具での仕返しでは、いつまでたっても、根源的欲求に届かない。彼に必要なのは、ドラえもんその人だ。■こんな調子でことしも始まったわけだが、続きはおいおい書いていく文章ってことで。ただ、今年はどこかで、週2くらいのペースにせざるをえないかもしれない。いずれにしても、よろしく。
2006.01.18
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部屋は特別になって帰り途の時間が短くなり小物のひとつひとつが記憶を宿し詩を奏でる自由な空間が親密なトポスと蛋白質を黙って要求するから俺は黙って詩を書くありがとうは詩の文句だ非日常への驚きがいつしか賛辞になった日常にありがとうを見出す感謝の気持ちとは違うそれは驚きだ
2006.01.17
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