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前々々回くらいにも指摘したが、格差が広がれば、既得権益の強化が図られて、動物的世界が求められるようになる。ホッブズの「主権」は、「万人の万人に対する戦争状態」を克服するために、互いに自由を放棄しあうことで達成するものだった。そこには、社会契約という理性の産物によって、野蛮を克服する思想が含まれていた。だが今この国では、明らかに野蛮が目指されている。前々々回の指摘は、格差社会では「一夫多妻」が求められるというものだったが、それは「野蛮化」した世界においては、力弱い者たちが、道具的に動物的に扱われることと対応している。少子化対策の責任者が発した言葉は、そうした社会への動きを見事に内面化し、反映したものだったということができるように思う。「言葉に注意するように言った」とか「反省している」というものは、弁護にも弁解にもならない。そうした考えを持っているからこそ出てくる言葉だからだ。そうした考えを持っている人間を外さないとなると、安倍という人間もまた、そうした考えを心には持っていると考えて良さそうだ。前回も書いたが、政治の仕事は、常に「絶えざる問題解決」、つまり、何かの是正であって、そうした小さな努力の連続であるはずだ。だが、安倍はそうした小さな努力を放棄しようとしている。教育や憲法を変えれば、何かが完成すると信じている。これは安倍が嫌う、「革命が起これば何かが完成する」という(誤解に基づく)考えと同じではないか。「生む機械」という言葉は、少子化対策において、女性を道具として扱う思考に依存している。そうした「女性は手段」的発想においては、個人の尊厳などは軽んじられ、「一夫多妻」だって肯定されるだろう。弥生より縄文がよかった。俺はそうした保守的言説に賛成する。弥生時代、支配層では一夫多妻が行われており、また、犯罪者の処刑は皆の前でみせしめにされた。今、個人の尊厳の価値が低く見積もられる時代に入ろうとしているのかもしれない。そうした野蛮な考えの人間が政治を行う現状にNOと言えるだけの人間であるのか、われわれは試されている。
2007.01.30
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まずは、この記事。「格差が存在することは紛れもない事実だ」――。自民党の青木幹雄参院議員会長は30日の参院代表質問で、安倍晋三首相に格差問題への取り組みを迫った。民主党の攻勢に立ち向かうよう求める質問だが、首相は「努力、能力の違いに目をつぶって結果平等を目指すような社会を作ろうとは思わない」とすれちがいに終わった。参院自民のドンは、次の参院選に危機感を募らせているのだろう。そういう選挙アピールは、まあどうでもいい。ここで面白いのは、安倍の頭の悪さがわかること以外の何ものでもない。発言というのは、やはり人間の人格や染み付いたアホさが出るものなのである。■努力、能力の違いに目をつぶって結果平等を目指すような社会この男、本当に政治学科を出てるのだろうか? 一体、何を指してそんな社会を想定できるのだろう。これじゃ、ネットにウヨウヨしている、ウンコどもの完全なる誤解に基づく社会主義観と変わらないじゃないか。誰も、そんな結果平等を求めようとしているわけじゃない。端から存在している「スタート地点における不平等」を問題にしているんだ。結果平等の完成が目的なんじゃなくて、勝手に広がる格差の是正が問題なんだ。それがわからんのか、このバカ。努力、能力の違い? おいおい、お坊ちゃん育ちがよく言うよ。いざとなったときに頼れるだけの資産を持ってるお前と、違う層がいるんだよ。お前の言うチャレンジだって、いざというときに頼れるものがあるからできるものだろ。そもそも、お前が首相なんかやれてるのは、お前の能力や努力のお陰じゃねーだろ。一流大学に通ってるやつらの親の年収は、明らかに高いレベルにあるんだよ。小さい頃から、教育に金をかけて育てられた層と、そうした金がかけられなかった層を比べて、努力も能力もないだろう。ほっといても格差は広がっていくからこそ、それへの歯止めが求められるんだ。そうじゃなかったら、政治なんていらないじゃないか。勝手にやらせておけばいいじゃないか。お前は政治の役目をなんだと思ってるんだ。教育改革なんて口だけで言うんじゃなくて、教育予算を増やして、そうした層が基礎能力を蓄えられるように義務教育を充実させろ。それは結果平等でもなんでもなく、公正な機会均等のための必要条件じゃないか。本当に、お前は、頭を使う時間が足り無すぎるんだよ。お前みたいに能力が足りないやつが首相やってること自体、自民党的結果平等なんだよ。■真面目に引用口汚く罵りすぎたが、安倍の頭の悪さには本当に腹が立つ。気を落ち着けて、齋藤純一と阪口正二郎の対談を引用。・・・福祉国家というと、事後的な再分配、つまりいったん所得分配があった上で持てる者から持たざる者へ社会的資源を移転するという話が出てくるわけですが、むしろ問題は当初分配、労働における分配だと思う。これは阪口さんが以前書かれていたことですが、当初分配が非政治的で純経済的な分配かというと、そんなことはないわけですね。再分配はもちろん大事ですが、誰にどれだけの所得が分配されているかという、当初の分配状況が正当かどうかを問う視点が必要なのではないでしょうか。事後的な救済としてのセイフティネット、さっきの言葉で言えばプロテクションでは限界があります。こういうこともできる、ああいうこともできるというオプションを広げて、人々の生の見通しを広げていくプロモーションこそ大事です。そういう意味で一人ひとりが享受できる自由の範囲を拡張していくためには、事前の資源の分散、特に教育機会の格差解消がやはりポイントになるはずです。(齋藤)再チャレンジと言ったって、チャレンジするだけの力が残っているかどうかわからないですものね。それよりも、きちんとした教育を受けられる条件を保証して、そのあと自分でどうするかを考えさせるべきです。本当に自助努力というのなら、そこまでは確保しないと自助努力にならない。スタートラインに立てなければ、どうしようもないわけですから。ところが、いまそこがいちばん掘り崩されているんだと思います。教育自体が格差に染まっている。フェアな条件での競争を確保するための前提である教育の平等を奪われて「負け組」に固定され、教育を通じて権力にとって都合の良い国の愛し方だけを植えつけられるというのでは「自由」でも何でもない。(阪口)普通に頭を使えば、こういう結論になるよな。
2007.01.30
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まずは、この記事「NHKに200万円賠償命令=元幹部らの番組改変認定-東京高裁」。(こちらは更に詳しい。)従軍慰安婦問題をめぐる民間の「女性国際戦犯法廷」を取り上げたNHK番組が政治的圧力で改変されたとして、主催者の市民団体がNHKと制作会社2社に4000万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で、東京高裁(南敏文裁判長)は29日、制作会社1社に賠償を命じた一審判決を変更し、「国会議員らの発言を忖度(そんたく)して番組を改変した」と述べ、NHKと2社に総額200万円の支払いを命じた。NHKは即日、上告した。 南裁判長は改変経過について、NHKの松尾武放送総局長(当時)らが番組の放送前、安倍晋三首相(当時官房副長官)らと面会、安倍氏が「公正中立の立場で報道すべきではないかと指摘した」と認めた。 その上で、松尾氏らが国会で予算の承認を得るなどの理由で、「(安倍氏ら)相手方の発言を必要以上に重く受け止め、当たり障りのない番組にすることを考え、改変が行われた」との判断を示した。この問題は、取材情報の流出の問題に掏り返られてしまい、重要であるにもかかわらず、国民の目には、印象論的なものしか残らないように仕立て上げられたものだが、法廷で理性的議論がなされていることは留意に値する。■愚かになったNHKNHKは「きょうの判決について」でこう述べている。きょうの判決は、不当であり、極めて遺憾です。直ちに上告の手続きを取りました。 判決は、番組趣旨の説明やその後の取材活動を通じて、相手側に番組内容に対する期待権が生じるとしましたが、番組編集の自由を極度に制約するもので、到底受け入れられません。 また、判決は、政治的圧力は認められなかったとしていますが、NHKが編集の権限を濫用・逸脱した、また国会議員等の意図を忖度して編集したと一方的に断じています。NHKは放送の直前まで、放送法の趣旨に則り、政治的に公平であることや、意見が対立している問題についてできるだけ多くの論点を明らかにするために、公正な立場で編集を行ったもので、裁判所の判断は不当であり、到底承服することはできません。まず、事実として番組改編したことは間違いない。放送直前に内容を変えているわけで、その理由がいかに理解しうるものであったとしても、そこは変わるまい。争点は、その経緯を「NHKの自由」と言って、内容に踏み込まずに片付けられるか、ということである。NHKが主張するように、もし「(不可侵の)編集の自由」などということが成立すれば、すべての行為が、そうした「後付けの自由」によって正当化されることになるだろう。これは「権利」というものをわかっていない態度だ。NHKはその「権利」によって守られるべき利益が何であるのか、はっきりとさせなければなるまい。その利益に正統性があるならば、そうした議論にもなるだろうが、なぜかNHKはそこに触れない。しかし、NHKはこのあたりに関する「意思決定の経緯」を何よりもまずオープンにする義務があるのではなかろうか。もし、NHKが言うように「放送法の趣旨に則り、政治的に公平であることや、意見が対立している問題についてできるだけ多くの論点を明らかにするために、公正な立場で編集を行ったもの」だとすれば、NHK内部において合理的な理由があったはずであり、そこをこそオープンにすれば、話は終わるはずだ。だがもし、一連の流れが、松尾氏による指示という名の命令で行われたものであったならば、もはやNHKは「自由」などを主張できる組織ではない(自由を尊重しない組織である)ことを認めているわけで、もちろん、理性的な理由など出てこないだろう。それゆえ、「自由」を主張したくなる。邪推すれば、事実はこういうことではないのか。■「番組編集の自由を極度に制約するもので、到底受け入れられません」NHK、ここまで落ちたか、というのが実感だ。予告に対して国民が期待を持つことに答えないのは、普通に考えても「詐欺」に近い。それを「自由を極度に制約する」というが、約束を守るのは当然のことではないのか?「NHKは放送の直前まで」公正さを確保しようと述べたというが、安倍と会う以前には、その努力の跡が見られないのが笑えるところだ。番組に対する意見はいろんな形があり得るだろうが、真に放送機関として、またジャーナリズムとしての矜持を持っていれば、安倍のような「意見」と、市民団体からの「意見」、どちらが正当かはわかるのではないか?安倍のことは後述するが、市民団体からの「意見」は、内容に対してではなく、その不透明な「番組改編」劇について為されているわけで、それを「NHKの自由だ」で収めるとすれば、「あるある」並みの「やらせ」と言われてもおかしくないのではないか。■安倍の立ち位置今回の判決で残念な点は、安倍のやったことに対する言及がなかったことだ。最大与党の官房副長官が事前に「意見」すること自体が、「検閲」の可能性を持つことくらい言及してしかるべきであった。罪には問わないにしても、民主国家の政治家として、どのようにあるべきかをはっきりと言明するべきことであったのではないか。だって、米紙に「ソビエトスタイル」とまで言われた「タウンミーティング」を「やらせ」た安倍ですよ。この国は、旧ソビエトとか、北朝鮮とかに近づいているんじゃないですかね。まあ、アメリカもそんなに変わらないけど。
2007.01.30
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制度というのは文化的社会的必要に応じるもので、例えば、「一夫多妻」は、格差社会であったり、好戦社会であったりすれば認められるというか、むしろ奨励されたりする。好戦社会というのはもちろんジハードをちょっと皮肉っていっている。それはまあいいだろう。問題にしたいのは、格差社会の方だ。格差社会においては(なぜか、男女の役割分担も強調されるように思うのだが)、経済的社会的地位の高い人間が実質的に「一夫多妻」制を敷いているように思う。「内縁」なんてのがそうだ。「お二号さん」なんかも(しかし、格差社会を推し進めるのが常に「保守政治家」であるのは面白いことだ)。つまり、格差社会においては、色恋沙汰は、経済に従属する。結局、心は金に負ける。というわけで、もう終焉を迎えつつあるイデオロギーなのかもしれないが(バーリン流に言えば「後期資本主義文明の一時的な産物にすぎないとしても」)、「一夫一婦」制を支える条件は何なのか、考えてみる。■浮気を許さないという心性「どこからが浮気?」なんて質問が語られたのどかな時代があったが、「浮気」は何が問題なのだろう?思うに、誰も「浮気」を恐れているわけじゃないのではないか。本当のところ「浮気」が「本気」になるのを恐れているのではないか。こういう問いかけはどうだろうか?逆に言えば、あくまでも「浮気」だという確証が得られるなら、「本気」は自分に向いているという確証が得られるなら、それほど恐くないと思ったりできないだろうか?実際のところ、その「確証」が得られることは少ないわけで、こういう想定はなかなか難しいのかもしれない。■多夫多妻イデオロギーにナイーヴな層は、「もし好きな人が他に10人と付き合ってたら嫌でしょ」などという。しかし、この議論には嘘がある。この議論は、こちらはその一人しか好きでいちゃいけないということを暗黙のうちに前提している。しかし、好きな人が他に10人と付き合うのと同様に、こちらも好きな10人と付き合えるとしたらどうだろうか?そういう関係を構築できる「2人」だったらどうだろうか?■一人しか愛せない「一夫一婦」制の根拠に「一人しか愛せないのが普通」ということをいう議論がありそうだ。俺にいわせれば、「一人しか愛せない」から「一夫一婦」制なのではなく、社会的状況が要請するからこそ「一人しか愛せない」と思い込まされているのだし、「一夫一婦」制に行き着くのだと思われる。「一人しか愛せない」なんてのが本当だとしたら大変だ。その人は、今まで一人しか愛したことがないのだろうか? 愛する人が亡くなったら、次の人を愛することはできないのだろうか?それが違うことくらい皆知っている。ロマンティックな「一夫一婦」を想念する彼らには残念なことだが、人は多くを愛せる。■なぜ、愛か愛って何か。よく、「無償の愛」なんて言葉を聴く。「見返りを求めない愛」なんてのも。しかし、本当にそんなものがあるのか?人間というのは、愛に対して見返る性質を持つ(これはある種普遍的)。だから、はっきりいって想定が大変難しいのだが、もしいろんな条件が整い、全く見返りの可能性が無いとわかったものを人は愛せるのか?愛は、究極的には、見返りを求めるものではないのか?この議論は面倒臭いので、違うときに回す。■自分の愛を満たすための戦略今回は、「見返りを求める愛」に限って進めよう(これが全部じゃないにしても、こういう愛があることは認めてもらえるのじゃないかと期待する。もちろん、俺はこれが全部だと思っているが)。ひとは愛してくれるひとを愛する。この想定に乗っかれば、愛は究極のところ自己愛ということになろう。自己愛を充足するために合理的な行動を採ろうとするのが愛の行動様式であるとするならば、それにはいくつかの戦略がある。自分の愛を満たすために「ひとりと固定関係を保つ」。自分の愛を満たすために「たくさんと固定関係を保つ」。自分の愛を満たすために「たくさんと社交的関係を持つ」。■心と金ところで、「金色夜叉」である。「心より金」である。しかし、これも、本当は自己愛と考えれば、格差社会では当然の振る舞いといえまいか。愛が自己愛であれば、心は金に負ける可能性が十分に生まれる(これを「明治の《文革》」の結果と捉える視点は大変興味深い)。そしてこれは倫理上の問題としてではなく、政治・経済・社会の問題だと言って良いのではなかろうか。俺が一番言いたいことに軽く踏み込めば、安倍が言うところの「教育」の問題は、「教育=倫理」の問題などではなく、「格差社会」に必然的に内在する「immoral」の問題ではないのか、ということだ。だとすれば、安倍は自らが問題視する「状況」を自ら思いっきり推し進めていることになるまいか。■後期資本主義社会さて、考察対象は格差社会ではなく後期資本主義社会だった。そこにおいて、恋愛の戦略は先に見たとおりだ。そして、これは企業の提携関係に非常に似ていまいか。もし、ひとが他者からの愛を欲するなら、その愛をどのように調達するか。企業は、取引先を必要とする。それなら、その相手をどのように確保するのか。古典的経済学は、自由な競争の中で、相手がとっかえひっかえできるという想定に立っている。「たくさんと社交的関係を持つ」ということを前提にしている。しかし、そんな会社どこにある?普通、安定した関係を築こうとしないか。立ち上げたばかりの中小企業なら、大手と独占契約を結びたくなるのは当然じゃないか。ふつう「ひとりと固定関係を保つ」ことを求めないか。結局、「愛」も、他者からの愛を必要とする人間が、最も合理的に持続的供給を得られる方法を探している結果ではないのか。それが後期資本主義社会における「一夫一婦」なのではないか。談合なんてのもあるが。■ネオリベラルと「一夫多妻」下請け企業というのがある。これは、不況時には切って捨てられる。「一夫多妻」制。トヨタなんかまるでその「夫」である。不況期には、「一夫多妻」が多くなる。自己愛が基本なら、従属関係が出てきてしまうのだから。こうして考えれば、「一夫一婦」は、もしかすると、社会の安定があってはじめて成立する制度なのかもしれない。現状は、ネオリベラルな風潮が進み、「一夫多妻」もいいところだ。そうして考えると「一夫一婦」制は、安定社会の理念を映し出したものと言えるのかもしれない。格差を推し進めようとする人間が「愛人関係」においては、非常に「immoral」である気がするのは偶然じゃなさそうだ。■やはり「一夫一婦」制というわけで、「一夫一婦」制の存在根拠をラディカルに検討しながらも、俺はやっぱり「一夫一婦」を求めることに落ち着きそうだ。だが最後に検討しないといけないことがある。「たくさんと固定的関係を保つ」戦略が残されている。企業社会をつぶさに見れば、もしかすると「たくさんと固定的関係を保つ」戦略を採っていると見ることができるかもしれない。そして、俺はこの関係を否定する気はない。これができるなら、「愛」においても良いのではないかと考える。だが、恐らくこの戦略には決定的な弱点がある。それは、「関係」というものを「固定的」に保とうとすれば、常にアップデートしないとならないということである。「たくさんと社交的関係を新規につくり続ける」ほど大変じゃないにしても、「関係を保ち続ける」にはコストがかかる。そうした場合、やはり、資源を集中投下する必要がでてくる。たくさんの人員を抱える企業ならまだしも、「この身一つ」の個人は、自己愛を支えるのに、「一人と固定的関係を保つ」のが最も合理的なのだろう。■結論ふたつそういうわけで、俺はふたつの結論を持つ。ひとつは、経済学はマンキュー的に理解するのが正しいのじゃないかということ。もうひとつは、「一夫一婦」制を求めるのが、後期資本主義文明における「平等」や「安定」に支えられている思想だということ。そのうえで、俺はやはり、この「一夫一婦」を支持することになるわけだ。(俺はいつも結論を持たずに書き出して、書きながら考えるのだが、妻に言い訳の立つ結論になったことを今一番喜んでいる。)
2007.01.23
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家を出ると雪のような花びらが一枚ふってきて二枚目で花びらのような雪だと気づいたうれしくて走るとたくさんたくさんきのうずっと友だちでいてくださいって言おうと思って言わなかったからそんな気持ちが雪になったみたいでうれしかった
2007.01.20
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以下、非常に不快な気分になるような用語が使われています。気分が悪くなったら、読むのを中断してください(笑)。また、毎度のことですが、今回はとくに内容が無いものです。怒らないでください。■はじまりあいでんてぃてぃだなんて、若干古臭い用語を用いてしまった。そういえば、あいでんてぃてぃが忌避されるようになったのは、それが集団に対して用いられるときに妙な均質性と排他性をもっていて、しかもその語を用いる人間たちがそうした権力性の問題に対してナイーヴといっていいほど気づいていないことが明らかにされてきたからだったように思う。うんこのアイデンティティとでもいえる問題だ。今日はそれについて書く。■道徳哲学におけるうんこなるもの(笑)道徳哲学会の重鎮、プリンストン大学の名誉教授ハリー・G・フランクファートに“On Bullshit”という著作がある。これは邦訳もされていて、邦題もなかなか良い。『ウンコな議論』筑摩書房から2006年に出されている。翻訳書からちょっと引いてみよう。排泄物はいささかも設計・構築されていない。単に排出され、放出されるのみである。それなりに一貫した形を持つことも持たないこともあるが、いずれにしてもそれは仕上げられてはいない。(p.19)彼女の発言は、それが真であるという信念にも基づかず、嘘であれば必然であるような真ではないという信念にも基づいてはおらぬ。かような真実への配慮との関連欠如――物事の実態についてのこの無関心ぶり――こそまさに、吾輩がウンコ議論の本質と考えるものなのである。(p.29)だれも、出てくるうんこの形状に配慮を払うまい。そういう想像力の無い態度で臨む議論のことをフランクファート先生は「うんこ議論」と呼んでおられる。ううっ、しかし、世の中にはうんこな議論が溢れているな。■肥え=声「こえ」である。「乞え=請え=恋え」でもある。すなわち、「こえ」の本質は、他者への呼びかけであり、「こっちを向いてくれ」という訴えである。パロールのことだ。俺はデリダのことはわからんが、エクリチュールがパロールの装いを持つことが問題なんだということは俺も言いたい。この国の「保守」学者たちは、アイデンティティを言いながら、実は、パロールよりもエクリチュールを求めているという風に俺には読める。これは破綻が確実な戦略だ。まあ、つまり、彼らはアイデンティティなどというものを求めているのではなく、何か他のものを欲しているだけなんだという風に読めば、すべては氷解できてしまうのだが。「保守」学者は、「保守」らしく、アイデンティティなんて幻想だ、と言い切った方がかっこいいと思うのは俺だけじゃないはずだ。近代嫌いが、実は近代を内面化して個的欲求を持っている者たちであり、それが欲抑制を言うのだから、破綻するに決まっている。道徳を言う政治家が、道徳の無い国アメリカの言いなりなのはどうしたことなのだろう。安倍なんかが求める方向は、つまるところ、「頭が悪くてわからないのでそっちに行ってみよう」というだけのことなのかもしれない。■コエダメいらんこと書いた。とにかく、「コエダメ」である。自分の存在を認めてもらいたい人たちの溜まり場である。別にどこかの掲示板のことじゃなくてもいい。しかし、面白いのは、その「こえ」は、ただ「こえ」であって、身体=文脈から離れている。もはやアイデンティティのぐちゃぐちゃになった「こえ」である。うっ、書いてて想像してしまった。■あいでんてぃてぃ「物事の実態について」「無関心」なうんこにアイデンティティなんてあるのだろうか?隣の「こえ」とぐちゃぐちゃになりながら、自分が一体なんなのかもわからなくなって、みんな集まって「俺たちはうんこだ」と叫ぶ。しかし、ちがうぞ。君たちはかつてはうんこだった。しかし、今は違う何かだ。こうして、彼らのアイデンティティは、ぐちゃぐちゃのあいでんてぃてぃになっている。そんな彼らは、「愛うんこ心」を説く。■うんこの夢うんこはやがて畑に撒かれる。このとき、うんこはうんこでない何かなのだが、うんこはそれを指して何を夢見ることができるのだろう。混ざり合った何かを楽しくいきるのかもしれない。それならば、アイデンティティなんて言うな。野に凛としていることかもしれない。それならば、その夢に付き合おう。うんこがうんこ足りえるのは、他のうんこと形状が違うからだ。そして、他のうんこに敬譲を払うからだろう。うんこが持つ排他性は、もしかするとその出自の排泄性から導かれるのかもしれないが、混ざり合った何かが、うんこのアイデンティティを言うのはおかしい。うんこならば、野に立つうんこになろう。そして、何より大切なことだが、自分がすでにもういろいろと混じり合ったものであることを認めよう。そうすれば、肥溜めにあいでんてぃてぃを求めたりはしない。
2007.01.17
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2007年になった。シンネンを祝う気になったことは一度もない。その事情はさておき、オチュウゲンだってオセイボだってオネンガだって、結局金持ち同士の談合的風習じゃないかと疑ってる。明治から後のことでもいいよ。そんなもん、本当に「皆」がやってたもんか?なにがめでてーんじゃー、って言いながら、自転車蹴り倒して歩く酔っ払いの方が「普通」だったんじゃないかって思う俺は、弱者につきすぎ?なんかの映画で「お前は、悪さをしないで金持ちになった初めての男だって言うのか?」という台詞があったが、金持ちってのは絶対的に「悪」と切り離せない存在なんじゃないかと疑うっていうのをシンネンの疑い初めにしようか。おわり(今年はオチのない文章を究めよう)
2007.01.04
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