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このブログを始めて10年経ってしまった。ブログの存在など知らなかった10年前、ぴかママさんに教えていただいて、本の宣伝もかねて始めた。最初は結構、何もかも書いていたけれど、今は書きたい、他人に何かを知らせたい、という意欲も薄れ、ほとんど書くこともなくなった。そう言えば、写真を撮る、という行為ももうずっとしていない。写真というのは、撮った本人や撮られた人には意味があるし、思い出の手がかりになるけれど、それ以外の人にはあまり意味がないように思う。私が死んだ後には、ただのデータゴミでしかない。だから、もう残したくない。死んだ後に残されるもの、つまりは遺品は、遺された者には重荷となる場合もある。父方の祖母の死後、まだ一度も使っていない晒しの「腰巻」が見つかった。祖母は下着は最期まで和式だった。昔なら、この真っ白な晒しでオムツが作れたけれど、その必要もなくなった当時、これは無駄に捨てられた。それ以外にも、山ほどの「遺品」がむざむざと捨てられることになり、その処理だけでも大変だった。両親の死後も、同じ作業があった。けれども、母が遺してくれた洋服や食器で、今だに私が着ている物、使っている食器も多い。質の良い洋服は、時代や年月がたっても、魅力を失わない。それどころか、私の娘も、母が遺したセーターをいまでも着ている。ヴィレロイ&ボッホ社の皿やカップは、さらに同じ製品を買い足して使っている。このように、遺品にも意味がある場合もあるけれど、今の住まいに溜まった物はできるだけ整理して、去りたいものだ。20年前ぐらいまでは、写真もプリントしていたから、これらだけでも大きな引き出しにいっぱいだ。これらの写真はこの20年間、見られることもなく、引き出しに眠っているだけ。無駄な存在だったわけだ。スライドもいくつものケースに収まっている。マダガスカル、インド、アルゼンチン、ベトナム、などなど、旅行先の写真には思い出がいっぱいなはずだけれど、何年も経った今、眺めることもない。無駄だなあ。というわけで、身辺整理を思い立ち、その手始めとして、このブログも終了いたします。とは言え、別のところに引っ越して、ぼちぼち別のスタイルで、小さく書くことも考えています。長いこと、拙文を読んでくださった方、深くお礼を申し上げます。また、どこかでお会いしましょう。お元気で
2018/10/14
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とつぜん、大学一年生のときのことを思い出した。入学してすぐにコーラスのクラブに入った。たくさんの先輩の中で、とくに目立ったのは、4年生のsさんとhさんのカップル。sさんもhさんもとても魅力的で、かっこうが良くて、おとなっぽくて、18才の小娘のわたしには手が届かないような、まぶしくて遠い存在だった。hさんは、当時とても有名だった宝塚男役スターの妹さんだった。高校時代によく母と宝塚歌劇を見にいっていた頃、母もわたしもこの男役スターのファンだった。なにしろ、歌唱力が断然すぐれていたから。だから、hさんがその妹さんと聞いて、びっくりしたのは言うまでもない。hさんもちょっと女優のような風貌で、すらりと背が高くて、声に迫力があった。彼女のおはこは「サマータイム」だった。sさんは、加山雄三をちょっと思わせる顔立ちで、男っぽいのに包み込むようなやさしさのオーラがあった。あるとき、クラブのメンバーの会食(コンパと呼んでいたかな、今でもこの言葉、日本で使われているんだろうか)があった。sさんは、わたしの斜め向かいにすわっていた(どうしてこんなこと、今でも覚えているんだろう)。わたしの周囲で好きな料理だかの話題になったときに、わたしが一言コメントしたら、sさんが「ボクもそうだよ、握手」と手を差し出してきたので、わたしは一瞬、ドギマギしたけれど、もちろん手を差し出して、握手してもらった!!!会食がお開きになって、多くの学生は都の周辺部へと帰宅していったのだけれど、わたしの実家は都心なので、ひとりで帰ろうとしていたら、sさんが、「ボクが家まで届けます」と言ってくれた。sさんは実家の門の前まで送ってくれると、さっと踵を返して戻っていった。家に入って、両親にこの日のエキサイティングな出来事を口から泡をふきふき報告した。両親はほがらかに笑って、「握手してもらって良かったねえ」と言った(母親は、常日頃は「男性とは結婚するまで手を握ってもだめ、などという非現実的なことを言っていたくせに)。sさんはある大新聞社の就職試験を受けた。面接で「コーラスクラブにいます」と言ったら、面接者から「じゃ、何か唄ってみてください」と言われて、なんと、なんと大学の校歌を大声で唄ったのだそうだ。これが受けたのか、就職試験に受かった。そして、sさんとhさんはめでたく結婚した。新居に一度だけ、当時のBFと訪ねたことがある。hさんは幸せそうな奥さんだったけれど、女優みたいな人が家に留まっているというのがもったいないような感じがした。あの時から何十年がたったのだろう。とつぜん、今日、昼寝から目が覚めて、このカップルのことを思い出したのだ。sさん、hさんはまだご存命なのだろうか。日本人の平均年齢は高いから、ご存命にちがいない。インターネットで調べてみよう。けれども、最初はsさんの名前すらも思い出せなかった。hさんの名前は、お姉さんの元宝ジェンヌの名前がいまだに記憶に刻まれているので、すぐに戻ってきた。でも、記憶というのは不思議なものだ。まず、あれやこれや思い浮かべているうちに、姓が思い出され、グーグルってみると、見つかった。なんとsさんはあの大新聞社から退職されて、芸術的なお仕事をされているのだ。ホームページにイベントや活動、お仕事の略歴が出ていた。ホームページに出ているsさんの写真は、x十年前とあまり変わっていない。いまだにハンサムでやさしそうで、アトラクティブ。hさんのお顔はフェイスブックで拝見できた。彼女も当時のおもかげをのこしていて、きれい。ぜんぜん、所帯じみていない。お仕事もされているらしい。こんな遠い国から、こんな遠い昔のことを思い出しているなんて、歳をとった証拠なのかな。二度と戻らない、若い時代への憧憬なのかな。とココまで書いて、いったん「公開する」をクリックしたあと、もう一度、sさんの名前をグーグルってみた。最近の活動歴がないのが、気になったからだ。そしたら、なんと、sさんの訃報が見つかった。もう6年以上も前にsさんは亡くなっていたのだ。亡くなっても、ホームページはいつまでも遺るということか。でも、sさんはすばらしいお仕事を遺してくださった。そして、訃報に載せられていた未亡人の名前はhさんではなかった。hさんは今でも元気かな。今もサマータイムを唄うことがあるかな。
2017/02/18
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目が覚めてすぐ、窓の外を見なくても、あたりの静寂だけでわかる。雪が降っていることが。窓の向こうの景色は、テレビの音を消した画面のようだ。近年は当地では、雪が降ることはまれになったけれど、今年は何かというと降っている。子どもの頃は、東京でも雪がしょっちゅう降っていた。雪を見るたびに思い出すのは、母が雪でつくってくれたウサギ。お盆の上に雪を盛って、赤い実の目と鮮やかな葉の耳をつけただけの簡単なウサギだったけれど、幼児のわたしにはとてもうれしかった。あのウサギが融けてしまったとき、せっかく作ってくれた母に悪いことをしたような気持ちになって、哀しかった。この思い出といつもいっしょに心に浮かぶのは、学校の工作の時間に作った模型飛行機。竹ヒゴにロウソクの炎をあてながら、ゆっくりと曲げて、飛行機の翼の枠をつくり、薄い紙を貼るという、かなり手のかかる作業が必要な課題だった。学校の授業時間では作りきれなくて、宿題として家に持ち帰ったらしい。こんなことが不器用なわたしに出来るわけはなく、器用な母が苦労をして、たいへんな時間をかけて作ってくれた。感謝の気持ちと宿題をもっていける安心感でいっぱいになって、飛行機を学校に持って行ったのだけれど、登校の途中で片方の翼が壊れてしまった。あのときの悲しみ、落胆。宿題を持って行けないことが悲しかったのではなくて、母の苦労を無にしてしまったことへの悲しみ、申し訳なさだ。母は父とちがって、口うるさくはなく、子どもを叱ることも少ないが、かといって子どもを抱きしめたり、声高に大げさに可愛がることもない、物静かな人だった。母の優しさは雪のウサギや模型飛行機を通して、ほのかに伝わってきた。雪のウサギが融けたとき、飛行機の翼が壊れたときには、母のこの静かな優しさを自分が無にしたような、母の想いを裏切ったようで悲しかった。母が生きている間に、このことを話しておけばよかった。まあ、母親の立場にたって考えれば、子どもから感謝の言葉をもらいたいといった気持ちはないから、どうでもよいのかもしれない。雪はまだ降り続いている。これを書き始めたときよりも、もっと降っている。何の音も聞こえてこない。外の世界から隔離されて、まったくのひとりぼっちの世界。自分の内側の声に向かって、内側の声で話している。
2017/01/15
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父の勤め先とわたしが6年間通った中・高校はかなり近かった。だから、夕方の時頃に、務めを終えた父と四谷駅で待ち合わせて、一緒に寄り道をすることがあった。あるときには動物店で大ヘビのゴアコンストリクターをいっしょに眺めて、二人でいたく感激して帰宅し、母に「ゴアを飼おうか」と言ったら、ふだんはやさしい母がこのときだけは声を荒げて、断固反対した。ピッツァが日本に始めて「上陸」したときには、食べ物には好奇心満々の親子は、四谷駅近くに開店したレストランにすぐさま行ってみた。その結果はまるで覚えていないから、あんまり感激しなかったんだろうな。父と一緒ではなくても、たまに友だちに誘われて、ケーキ屋などを試してみることもあった。いまでも印象に残っているのは、お茶の水駅のすぐ近くの地下にあった、とてもとても小さなうどん屋だ。安いのに、食券を買ってカウンターで食べる形式ではなく、ちゃんとテーブルにすわってサービスを受ける。麺つゆはうす口醤油の上品な味。それなのにたしか、かけうどんは40円ぐらいだった。この店を教えてくれた学友が、「ここはしっぽくがおいしいのよ」と言った。それまでしっぽくを知らなかったわたしは、興味をかきたてられた。父に「お茶の水の安いうどん屋さんには、しっぽくというのがあるんだ。とってもおいしいんだって」と教えたら、ふだんは老舗(蕎麦は薮、ウナギは伊豆栄、、」にたまーに行くだけで、名もないところには行く勇気がなかった父だったのに、このときは「行ってみようか」とのってきた。しっぽくは、薄味の汁にひたる太い麺の上に、キノコ、鶏肉、野菜、かまぼこなどがきれいに盛られた一品で、これも上品でとてもおいしかった。父は若い頃は気分屋でかんしゃく持ち、いつ雷や叱責が落ちるかわからなくて、家にはあんまり居て欲しくない人だったけれど、こういうデートのときには怖いほどやさしく、機嫌が良くて、食べ物に関しても母よりも話が合った(つまりは母よりも食物に関心が強かったということ)。父の死後もう30年近くがたった。今頃になって、なんでこんなことを思い出したんだろう。
2017/01/04
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またも年が変わった。大晦日の晩を打ち上げ花火(個人が路上のあちこちで打ち上げる)で祝ったあとの正月は、祝うこともほとんどなく、人々は国内大移動をして、日常生活に戻っていく。だから、正月気分のようなものはまったくない。子ども時代の元旦も地味だった。父親が勤め先(皇居の中)に新年早々に元旦のあいさつに行かなければならなかったので、家族で雑煮と煮物(煮しめとは呼ばなかった)、ナマスなどの朝食を囲んで、おめでとうを言い合って終わり。父親が不機嫌な顔で家を出たあと、母と弟と共に根津の家から都バス、地下鉄、私バスを乗り継いで、東長崎にある母の実家に出かけるのが毎年の正月行事だった。同じ敷地内の隣の家に住む父方の祖父母は正月を特に祝うでもなかった。祖父がいつも古びた旗を門の外に出すだけだった。ベルリンでも感じるが、大都市というのは市内の移動に時間がかかる。私にとっては、東長崎の祖母の家が唯一の「いなか」だった。小学校時代、お盆や正月に級友たちの多くが「いなかに帰る」とか「いなかに行ってきた」と話しているのを聞いて、「いなか」って何の事だかわからなかった。「いなか」のイメージは田んぼや畑、山や海、そこに古い家があって、おじいちゃんやおばあちゃん、親戚がいて、やさしく迎えてくれるところらしかったが、実感がともなわなかった。わたしの祖父母たちも東京以外の出身ではあるけれど、若い時代に兄弟姉妹共々東京に出て来ていて、出身地には遠い親戚がわずかに残るばかりだった。父母は東京生まれでしかも二人とも一人っ子だったので、おじさんとかおばさんとか従姉妹というのがどんな感じのものなのかがわからなかった。遠くに「いなか」があって「いなか」に「帰って」行ける級友がうらやましかった。でも、東長崎の祖母の家(祖父はわたしが9才のときに他界した)もちょっと「いなか」らしかった。そもそも子どものわたしから見れば、東長崎はかなり「田舎」だった。家の裏の方にはお寺があり、一部はまだ畑が残っていた。池袋だって当時は「場末」などと呼ばれ、小さな店や飲食店がごちゃごちゃのひしめいていて、どこか猥雑な雰囲気を漂わせていて、子どもの目にもエキゾチックだった(東南アジアに旅行して感じるような雰囲気)。母方の祖母は、父方の祖父祖母とは違って、フツーに正月を祝った。おせち料理を作ったり買ったり(そういえば、尾頭付きの鯛を買っていたなー)、母が大好きだった鶏とネギとゴボウの煮物を鍋にたっぷり用意し、ポテトサラダとロースハムを大皿に盛った(こういうものがご馳走だった時代がなつかしい)。母方の祖母の家の雑煮は、祖父母の出身地特有のものだとかで、焼かない餅を小松菜とダイコンだけで作った汁で煮込んだものだった。煮込まれた餅がとろけて、汁がどろどろになるのがおいしいんだとか。わたしはおいしいとは思わなかった。これじゃあ、山梨のほうとうみたいじゃないか。母が作る雑煮(つまりは父方の家系の)は、炭火で焼いた餅を汁をはった椀に落とすので、食べ終わるまで汁は澄んでいた(澄んだ汁が鉄則で、決して濁らせてはならなかった)。東長崎の祖母の家の近所には、祖母の姉や妹、弟が彼らの連れ合いや子ども、孫とともに住んでいた。2日になると、これらの親戚が祖母の家に新年の挨拶にやってきた。お客さんがくるたびに、祖母は客を床の間を背に座らせ、「おせちいかがですか」と勧め、おとそを差し出した。こういう習慣は実家にはなかったので、わたしは違和感・緊張感すら覚えたが、一方では知らない世界に来たように新鮮だった。あの時にかわされていた会話を、隠れていた障子の陰からもっと注意深く盗み聞きしておけばよかった。祖母がわたしたちを連れて、親戚を訪問することもよくあった。これが、子どものわたしにはものすごくエキサイティングで緊張するイベントだった。それぞれの家の、家族の暮らし方、雰囲気はまるで違う。祖母の姉夫婦、その長女(母にとっては、姉のような存在の従姉)、その長女の夫(後に有名なギターの先生)、彼ら夫婦の息子たち(わたしにとってははとこ)は古いけれど、どこかヨーロッパっぽい家に住んでいた。絨毯敷きの居間は当時としてはモダン(わたしの実家は築後100年ものの古い家でほとんど畳敷き)で、そこで母の従姉の夫がギターを奏で、アイロニーが隠された会話がかわされる。わたしは3、4才年上のはとこたちと、お互いが読んだ岩波少年文庫の本の話をするのが楽しかった。祖母の妹も近くに住んでいたが、彼女の家の雰囲気は祖母の姉の家とはまるきり違っていた。まず、「ようこそ」の暖かさがなかった。祖母の妹は祖母の顔を見るなり、毎回、愚痴をたらたらとこぼしはじめる。子どものわたしに見せる微笑みはどこか引きつっていた。祖母の一番下の弟は、物静かで温かみのある男性で、ピアノ教師をしている夫人とともに、洋風の家に住んでいた。子どもがいなかったためか、ここの家のたたずまいは所帯染みたところがなくて、親戚というよりも、遠い知人の家にお邪魔したような雰囲気で、椅子に座るにも緊張した。祖母の弟自身はくったくがなかったのだが、彼の夫人が緊張感を内に秘めて対処していたからかもしれない。ずっと後に知ったことだが、この祖母の「弟」は実は弟ではなくて、先述の祖母の姉が若いときに産んだ子どもで、子どもの父親が亡くなったので祖母の両親が養子にして引き取り、祖母の姉はその後に現在の夫と結婚したのだそうだった。当時はこういう例はよくあったようだ。こういう関係だったから、この弟は祖母に対してやけに丁寧で、その妻もどこかで距離感を保とうとしていたのか。母方の祖母は正月以外でも、よく彼女の姉や妹の家を訪ねていた。父方の祖母はその逆で、60才を過ぎてからは、門の外を出ることは一度もなく、庭を動物園のオオカミのように行ったり来たり歩くほかは、家の窓辺で新聞や雑誌(といっても文芸春秋だけ)を読み、ラジオを聞き、歌を詠み、祖父を叱責する毎日をおくっていた。たまに、親友の娘さん(化学者として資生堂に勤めていて、来るときにはいつも化粧水やクリームをお土産にもってきてくれた。だからわたしは資生堂のファンだった)が祖母を訪ねてくるほかは、祖母を訪ねる人もなかった。親戚関係がにぎやかな母方の祖母の家から実家に戻るたびに、別の世界から帰還したような気分で、なれるまでに時間がかかった。地理的に離れた「田舎」に行くことはできなかったけれど、母方の祖母の社会にひたったこういう体験も「いなか」に行くことに含まれるのかもしれない。今の私には「帰っていくいなか」はない。数年前に、東京の実家に住む弟夫婦を訪ねたときは、子ども時代の家のあの雰囲気を共有した唯一の人と話したという意味でとても楽しかったけれど、父亡き、母亡きの家は実家とかふるさととか呼べるようなものではない。今の私の「いなか」「ふるさと」「実家」はここ、この家、このアパルトマンだ。もう26年以上も住んでいるのだから、東京の実家(建て替える前のおんぼろ)よりも長く住んでいることになる。1月2日の午後、窓の外は雪、あらゆるものが白くおおわれ、静まりかえっている。向かいの庭のモミの木が、空にむかってそびえるクリスマスツリーのようだ。
2017/01/02
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小学校一年のときにもらった通知簿の、備考欄のような囲みに、「明朗だが注意散漫、根気に欠ける」と書かれていた。他のあらゆる通知簿の記憶はまったく忘却のかなたに消えているのに、この的を得た指摘だけは、しっかり心に刻まれている。もちろん、これらの言葉の意味が小さな子どもにすぐにわかったわけではなく、母にこれらの言葉の意味を教えてもらった。親を含めて、周囲の誰もこういう指摘をした人(おとな)は他にいなかったのだから、この担任の先生の人を見抜く目は鋭かったと言わざるを得ない。これまでの長い人生、まさに注意散漫と持久力のなさで、なんとか生きてきた。いろいろなことに興味はもち、ちょっと手を出してはみるのだけれど、奥を極めるまでには絶対にいかない。こだわれない。ちゃんと出来るようになる前に、もうわかったような気分になって、それ以上は追究しようとはしない。こだわれない。つまりは飽きてしまう。パンはいまだに毎週、焼いているけれど、一定のレベルで止っている。バゲットの気泡はいまだに大穴が開かないけれど、あくまで改善を重ねていこうなどという気はまったくない。前に書いたシルクペインティングも、ブラウス二枚とスカーフ二枚でいくつかの手法を試みてみたら、もうわかったような気分になって、それ以上進もうという気になれない。編み物も縫い物も、必要にかられて、あるいは時間つぶしに手がけるけれど、いまだに必要最小限のレベルで、できあがるものは、いまだに不格好。いつまでたっても向上しないし、向上させようという意欲もない(まあ意欲だけでなく、必要なスキルがないということだけなのかも)。学業(専攻は生態学)もそう、深く追究しなかったから、専門家になど絶対にはなれない。ピアノは数十年後に再開したけれど、中学時代にできたレベルを取り戻した段階で、飽きてしまった。ショパンの曲がなんとか一曲だけ弾ける(まちがえだらけで)ことで、満足。それ以上、練習を重ねて、むずかしい曲を弾こうという欲が出てこない。あることが、どういう原則や構造でなりたっているのかが知りたくてはじめるのだが、ある程度そのなりたちがわかってしまうと、それ以上のこだわりが出てこない。興味が、知りたい、出来たい、という感心や意欲がどこかに消えてしまうのだ。歌手にしろ、料理人にしろ、研究者にしろ、アーティストや作家にしろ、名をなした人は一つのことにものすごくこだわり、そればかりを考え、寝食やキャリアを忘れて、そればかりを追究してきた人だと思う。わたしと正反対。父方の祖父はそうだった。金への欲もなく(金を数えることもできなかった、祖母にどやされていた)、家族や娯楽にも関心がなく、死ぬまでひたすら地理学・地質学の興味だけを追究し、書き、語っていた(周囲に迷惑)。この祖父のこうしたこだわりの被害者の一人だった父はその逆で、職業だけは死ぬまでまっとうしたものの、学業を奥深く追究したわけでもない。けれども始終、趣味としてとつぜん何か(大工仕事、家具作り、ラジオづくり、フィンランド語、ギリシャ語、天体観測、、)を始めては、道具や機器を買い集め、何年間または何ヶ月または何週間か夢中になってやったあと、まるで何事なかったかのように、すっと止めていた。チェロに関心をもちだした矢先に逝去し、まだ手をつけていない楽器だけが遺された。どうやら父親にわたしも似てしまったようだ。とつぜん関心がわくと、どうしてもやってみたくなって、手を出すのだけれど、ある程度やると興味の火が消えていく。一応、ライターを職業したのだから、書き物だけはもっとこだわって、追究すべきだとは思うのだが、「わたしには創作力や創造力や想像力はないわ」とすぐに断念してしまう。ある時、元夫に「小説家は小説や文章にこだわり、常に何かを書き、書く事にこだわっているのだから、そう適当にはまねできないよ」と言われ、「あ、そうなのに。そんじゃあワタシには無理」とすぐにギブアップした。わたしの関心なんて、そんな程度なのだ。こんなに注意散漫で根気がなくても、これまでなんとか生きてこられたことに感謝、感謝。ダンスだけは、トロトロの続けるつもり(努力しないで、ただ教わったことをやっているだけだから、こだわりがなくても出来るというだけの話)。
2016/12/30
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BFが近くの学校で毎週一回、放課後に難民の男の子の宿題の手助けをしている。イラクから母親と逃げてきた、4年生の子どもで、父親は「イスラム国」の集団に捕われの身らしい。この子は宿題をする気はあんまりなくて、落ち着きがなく、手にした物をこわしたり、かきなぐったり、、、。それでも、工作のような手仕事には、とてもやる気を見せて、器用だそう。「この子の将来はどうなるんだろう」と話していたら、昔、日本の公立中学の代替教員をしていた頃の経験を思い出した。中学2年生のクラスの担任を一学期だけしたときのこと。マンモス校のその中学には、いわゆる「問題児」とされる子や貧しい子、暴力をふるう子など、さまざまな生徒がいた。先生たちは若い女性も含めて、威厳があって(私の目から見てだけど)、生徒を制していた。なにかというと手もだした(ビンタとか本で頭をたたくとか、、、)。それまで主婦をしていた私には威厳のオーラもなく、人様の子どもをたたくなど、どうしてもできなかった。クラスにはひとり、学校では一言も話さずテストにも一言も書かない(つまり白紙で提出)男子生徒がいた。目がクリクリと可愛い、まだ小学生のように見える小さな男子で、いつもニコニコと笑顔なのだが、口は絶対に開かない。生活指導の先生によると、家では家族と話すことができるのだが、学校関係者(つまりクラス仲間とか先生とか)が来たとたんに、口が開かなくなるのだとか。小学校生活の間に、何か大きなトラウマとなるような出来事があったのかもしれないという。それでも、毎日学校にやってきて、一番前の席にすわって、ニコニコと先生を見上げている。休み時間に、この男子とやさしくボールなどで遊んでいる少年がいた。この少年は顔じゅうにニキビなどのあざがあり、内気なこともあり、他の生徒からいささかいじめられていたようだ。もの静かで、勉強もさえなかったが、他人への思いやりがとてもあった。放課後の掃除のとき、掃除当番の生徒たちに「逃げられて」、わたしが一人で教室を掃除していると、いつの間にかやってきて黙々と手伝ってくれた。ちょっと怖い顔をした男子もいた。この子は、ときどき窃盗などで警察にも知られているらしかった。彼は最初から、わたしの「威厳のなさ」を見抜いたようで、いつも不満そうな目でわたしを見ていた。ある時、ホームルームの時間かなにかで、先の「口を絶対に開かない」男の子を、他の生徒たちがちょっと笑い者にするようなシーンがあった。それなのに、威厳のないわたしは、これに介入することができず、黙ってやり過ごしてしまった。その日の放課後、「怖い顔の窃盗」男子がわたしのところに、怖い顔でやってきた。「先生、あの子がいじめられているのに、何も言わないなんて、きたないんじゃないか。日頃、えらそうなことを言っても、これなら先生もみんなと同じじゃないか。」というような意味の言葉をつきつけてきた。彼は物事の核心、わたしの偽善や勇気のなさを見事に見抜き、見事に言い当てていた。それなのに、わたしは適当な言葉で、その場をつくろった(もう忘れてしまったけれど、心の中ではそうだった)。学校のイベントのために、木に彫り物をして、大きな看板をつくることになった。そのとき活躍したのは、この「怖い顔の」男子と、もう一人、普段は不機嫌そうな青い顔の少年だった。ふつうの勉強の時間(わたしが教えたのは生物と英語の時間)では、まったく何もしないどころか、授業の邪魔をする彼らが、このときは人がかわったように、積極的になり、持続力を発揮した。すてきなデザインを考え、休憩もせずに、木彫をせっせとして、作品を完成させた。こうした子どもたちは、教室に無理矢理すわらされて、面白くもない教師の話をただ聞くだけの、「授業」には合わないけれど、自分のアイディアで、手をつかって何かをつくりあげる創作活動によって、自己実現ができるのかもしれない。人はそれぞれ、まったく違う。今のような教育制度や教育形態に合う人もいれば、そうでない形なら自分の能力を見つけたり、発揮できる人もいるはずだ。今のような教育の場が支配しているかぎり、少なくとも一部の子どもは、せっかくもつ自分の能力や自分がしたいことを、実現できずに終わってしまう場合が多いのは、残念なことだ。知人のお子さんで、小学校時代に何かというと警察のやっかいになった少年がいた。銀行マンを父親にもつ、とても頭が良い子だったが、学校がきらいで、態度が悪く先生とも意見が合わなかった。オトナになってから、彼がわたしに「子どものときから、学校の勉強ではなく、仕事がしたかった。職人のような仕事がしたくて、学校が嫌いだった」と言ったことがある。その後、彼は自営業で成功したが、30代なかばで亡くなってしまった。先の中学校での子どもたち、目がクリクリの「学校で口を開かない」子、ニキビ顔のやさしい無口少年、怖い顔でわたしを批判した子、彼らは今では50代になっているはずだ。みんなどこで、何をしているだろう。いいお父さんになっているかな。そういえば、この怖い顔の批判少年は、わたしが代替え教員の1学期間を終えて、クラスの子にさよならを言った日の放課後、ひとりで教員室にやってきた。わたしの机のところに来ると、「先生、これあげる」とカセットを差し出した。わたしのために、いつかわたしが好きだといっていたバンドの音楽を録音してくれたのだった。うれしくて、言葉が出なかった。本当は彼をぎっしり抱きしめて、「みんなは君を不良というけれど、君は本当はとってもやさしいんだよ。とてもすてきな才能をもっているんだよ。それを発揮して」と言いたかったのだけれど、言葉にできなかった。今頃、後悔するばかりだ。
2016/12/11
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わたしが五歳ぐらいの頃、当時住んでいた古い家の床が持ち上げられた。当時の実家は、大正時代の大震災にも耐え、二次大戦の爆撃も免れた、古い代物だった。父方の曾祖父と曾祖母が小田原からでてきて本郷のに買った家で、明治時代に建てられたという小さな家が一つの敷地内に二つならんでいた。これら二つの家は床の位置が低くて、シロアリなどの被害を受けやすかったようで、ついに土台を持ち上げるという大改築が決定されたようだ。上に建っている家はそのままにして、土台を持ち上げるのだ。わたしが覚えているのは、ちょっと怖い顔をした、筋肉もりもりの男性たちが、ねじり鉢巻きをして家の四隅に陣取り、「エーンやコーラ」とかけ声をあげながら、ジャッキだかなんだかを動かしていた風景だけだ。威勢よく肉体労働に集中する男性たちの背中から肩、腕にかけての筋肉は、ふだん見慣れている父親の、白い肌の女性のような柔らかいそれとはまったく異質で、わたしは恐怖と畏敬と混じった気持ちで、いつまでも眺めていた。土台上げ後は、村山さんという大工の棟梁がしょっちゅういらして、あちらこちらを直していた。村山さんは80才ぐらいという長老で、眼鏡の奥の目が無限にやさしく、子どものわたしたちにも「かんなや刃物のそばには近寄ってはいけないよ」という厳しい言葉のほかは、とてもやさしく声をかけて下さった。彼のいましめはまさに妥当で、いましめを守らずに手を出した女の子(幼稚園の同じクラスの女の子で、どういうわけかある日わたしについて来た)はわたしが知らない間にかんなに触れて、指から血を出していた。村山さんは紺色の袖無しシャツを着ていた。見た目は華奢で小柄な男性なのに、そのシャツの胸元からは筋肉が盛り上がっていて、まるで胸をつきだしているかのように見えた。「男の人なのに、胸が出てる」と一瞬、思ったくらいだ。村山さんのやさしい目元を見るのも好きだったし、彼が墨をつけた糸で、角材い印をつけていく精密な作業を観察するのも大好きだった。結婚して数年後に、富士山を遠くに臨み、目の前に三つ峠がそびえる地に家を建てた。建築は東京の知り合いの棟梁にお願いした。この棟梁はなにかというと、「結局、結局」という言葉を口にした。必要もなく「結局」をはさむ彼の口調にわたしは内心、「なにが結局なのよ」とイライラした。「結局」と言うとインテリっぽく聞こえると思っているのかしらと、不当な疑いすらもった。棟上げの日が来た。この棟梁も、洋服を着ている姿は小柄できゃしゃだったが、「一肌脱ぐと」肩や腕、胸に筋肉が盛り上がった姿をあらわした。棟上げの作業で、その汗ばんだ筋肉が無駄なく動く。これこそが「労働」なんだ、こうしてあらゆる筋肉を動かす作業こそが、仕事と呼べるものなのだと思った。いまでも、ゴミ収集や道路改修といった肉体労働を見るたびに、仕事をしている方への畏敬の念をおぼえる。スマートな服を着て、口先だけは巧みな銀行員や政治家などに対しては決して感じることのない念だ。洋服を着て「結局」をくりかえす棟梁はいけ好かない男性ではあったが、シャツだけになって筋肉を全力投球しているその肉体には男を感じ、その姿がいつまでも目に焼き付いた。わたしの気まぐれと見栄から、この家は二、三年後には改築・増築されることになった(元夫よ、ごめんなさい)。今回は、地元の大工さんにお願いした。そして今回も棟梁は小柄の年配のおじさんだった。頭領は、あまり役に立ちそうにも見えない、やる気のなさそうなのっぽの若増をつれてやって来た。棟梁の息子だそうで、二十歳をわずかに過ぎただけで独身だというのに、どこぞに子どもがいるという。のっぺりした顔は表情がまったく変わらず、笑い顔も怒り顔もあらわれない。休憩時もほとんど話すことはない。そういえば、声だけは低く響いて良かったな。ある時、この若僧が作業をしているのを、目の前で見る機会に出くわした。わたしの手がすぐ届きそうに間近なところで、彼のむき出しの腕が窓枠の板を打ちつけている。そのなめらかな腕に目が惹き付けられた。ふと手を出して、その腕をなでてみたい、という衝動にかられ、それをこらえるのに息苦しくなりながら、ただ腕を見つめていた。その後のいく日かは、わたしが赤ん坊のおむつを庭で干そうとすると、彼が物干棒を動かしてくれたりなど、小さな接触がちらほらとあり、その度にわたしは理由もなく、ちいさく歓喜した。一方では、この10才も年下ののっぺり男の存在のせいで、感情が動かされるのがくやしかった。やがて工事が終わって、支払いをすることになり、この若僧といっしょに町中の銀行に行くことになった。彼はスポーツタイプのシックな新車でやってきた。助手席にすわったわたしに、彼はふだんの無口には似合わず、滔々と車の話をしはじめた。車の車種などにはまったく興味のないわたしには、言われるまではこれがVW(フォルクスワーゲン)だということにも気がつかなかったし、そうだと知っても、なんら感慨はおぼえなかった。それよりも、彼の隣にすわっているということで、体が無意識に反応していた。体中がほてり、体中が息苦しくなって、とけてしまいそうに心もとなかった。「六本木のディスコに行くと、トヨタやホンダに乗ってくるような男には女の子は見向きもしないんだ。BMWやVWみたいな外車じゃないと女の子は寄ってこない」などという、彼の無駄口には軽蔑感をおぼえながらも、肉体は別の反応をしていた。この若僧は彼の子どもを産んだ女性と一度はそれでも結婚をしたそうだが、別れてしまったという(そりゃそうだろう)。「でも、金だけは払ってる」と偉そうにのたまう彼の話も、耳を通り抜けていった。やがて支払いが終わり、「無事に」家まで送りとどけてもらい、呪縛は解けた。しばらくたった頃、とつぜん夫が脈絡もなくさらりと言ったことがある。「君がどっかのいい加減な男性に惚れたなんてことを耳にしたら、やっぱりいい気持ちはしないな」と。わたしは「そうお?」とだけ答えた。「結婚しても、何かを約束するなんてことは出来ない。お互いに自由でいるべきだ」と言ったのは、どこのどいつだ?注:ドイツではフォルクスワーゲンは、名前通り国民車であって、高級車とかかっこいいとかみなされるのはやはりBMWとかアウディとかメルセデスとかポルシェ。ちなみにBFは安く中古で買ったトヨタ(今では売られていない車種)にもう8年ぐらい乗っていて、「すばらしい車だ、ぜんぜん壊れない」といまだに満足しています。車は機能さえはたしてくれれば十分なようです。
2015/02/11
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今年のドイツは冬らしい天候がほとんどくることもなく、やっと2月になって日中でも零度以下の日や雪の日がちらほら(山の上は別ですが)。冬物のバーゲンセールも終わりに近づいています。セールで元の値段の半額になったダウンコートを見ると、つい手が出てしまいます。でもね、わたしが長いダウンコート(半コートでなくてヒザまであるコート)を試着して鏡を見ると、着膨れした雪ダルマが目の前にいるようで、買う気がそがれます。体重は20代のときと同じなのに、脂肪の配分が昔とは違って、体の真ん中の部分に集中しているから、、、。店の人に「雪ダルマみたいでがっかりする」と言ったら、「雪ダルマとはね、なるほど、良い表現の仕方を教えてもらったわ。私もこの表現つかわせてもらおっと」と喜んでました。喜ばないでよね。でも、せっかく半額だから買わないのはもったいない(買わない方が本当はもっと節約になるのに)、今期は二着も買ってしまって、どちらもベルリンの娘に送ってしまいました。彼女なら雪だるまには見えない。こうやって、ブティックで服を見ると、娘に送るのが習慣になってしまいました。ちなみに、娘の職業、一応は衣服のデザイナーです。これと同じことを、東京に住んでいた母もほんのちょっと前まで、といっても17年前に他界するまで、ずっと長い間、わたしの結婚以来ずっと、わたしのためにしてくれていました。シルクのタンクトップがほしい」「カシミアのセーターがほしい」とねだると、母はいそいそとデパートに出かけては、いろいろ探して送ってくれたものです。わたしは今でもそれらを着ています。シルクのタンクトップはすり切れるまで(最後は下着として)。母が自分のために買った衣服も、ちょっと着ただけで、すぐにわたしに送ってくれました。そういう「お古」をわたしもちょっと着たあと、さらに娘に送ることがありました。娘はそれらのいくつかを、いまだに着ています。母、わたし、娘は背の高さや肩幅、靴の大きさはほぼ同じなので、お古のまわしができるのです。違うのはウエスト周りだけ。そういえば、母の死後に実家の電話のそばで見つかったメモ用紙には、「来週の月曜日にチー(わたしのこと)のためにxxを買うこと、区役所で証明書をもらうこと」などと書かれていました。日付を見ると、倒れる1日前のメモでした。そのあと意識不明になって、そのまま逝ってしまった母。最後まで、遠くに住むわたしのために、あれこれしてくれたと思うと、申し訳なくなります。でも、自分が娘のために服を買っては送る(贈る)ときの気持ちを考えてみると、贈りたくて贈っている部分が大きいことに気がつきます。別に娘に頼まれたり、乞われてしているのではなく、どこかで娘を応援したいという気持ち。こういうの、親心なのかしらね。まあ、あんまり親という意識はないんだけれど、それでも少しはあるのかな。母の遺品の中から、母の母、つまり母方の祖母が母宛に書いた手紙が出て来て、弟がこれをスキャンして送ってくれました。文面からは、わたしか弟がまだ赤ん坊だった頃のことがうかがえます。「オシメ二組、古いきれですから洗っている内にやぶれるでしせうが、まあしかたがない、ちゃんちゃんこ1枚と入れてあります」祖母もまた、母親になりたての母のために、いろいろ気遣っては、送っていたようです。戦後、数年たった頃の話で、「牛乳の配給券」とか「銘仙の布は闇で買うと2千円以上するけれど、配給切符をもっていけば千円以下で買える」とか、わたしにも想像できない生活の実態がわかって、とても面白い資料です。手紙には祖父(母の父)についても書かれていて、「お父さんは夜の九時、十時でないとかへりませんので困ります。、、、30日の日曜日にそちらから返って(原文のママ)そのばん、十時半ごろにkさんとかへって来まして(祖父が)、ああお腹がすいたと云って酒一升とウイスキー四合でとうとう午前三時まで吞んでいました」この祖父は、孫のわたしの目には、とてもおだやかなやさしい男性でしたが、昔はお酒飲みだったようです。だから、母は酒飲みがきらいで、アルコールがほとんど飲めない父と結婚した理由の一つもこれだったらしいです。とはいえ、母自体は父親ゆずりでアルコールにとても強くて、飲めないわたしはうらやましい思いをしました。祖母が母に「配給券をもらってきなさい」と手紙でやりとりしていた時代(電話は自宅にあったはずなのに)から、母がわたしの子どもたちのために、赤ん坊のおむつをさらしで100枚も縫ってくれた時代、わたしが帰省する娘の赤ん坊のためにドラッグストアでパンパースを買う今の時代まで、あっと云う間に過ぎてしまいましたが、その間に世界はなんと大きく変わったこと!それでも、人間の基本的な生活、「食べ、寝る、排泄する」は変わらないですね。Iなんたらやインターネットがどんなに普及しても、おむつは必要、人生の最初と最後に。あー。
2015/02/09
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A君は彼の姉達が嫁いでいったあとも、彼の叔母である、私の祖母の家に祖母と二人で暮らしていた。高校を出たあとに、小さな証券会社に就職したと、祖母と母が話しているのを耳にしたことがある。A君は人から聞かれれば「エー」とか「まー、そうです」ぐらいのことは言うが、自分から何か話し出すことはほとんどなかった。我が家に来てくれたときに、母がおやつに出した、夏みかんの砂糖かけを食べ終えて「マーマレードみたいで、おいしかった」と言った。彼が積極的に発言した唯一の言葉のように、私の耳には聞こえた。生の夏みかんをマーマレードにたとえる感覚が、新鮮でもあり、八才年下の私からみても、子どもじみているうようにも思えた。正月休みや夏休みに祖母の家に泊まりにいくと、A君はよく遊んでくれた。私が12才ぐらいの頃、祖母が台所で食事の用意をしている間、こたつを台にし、手をラケット代わりにして、卓上テニスのようなことをしてA君と遊んだことがある。ボールがどこかに飛んでいくたびに、A君が「アッ」と面白い仕草をするのがおかしくて、私はケラケラと笑い、とてつもなく愉しかった。いつまでも、いつまでもこの時間が続いてほしい、と思うほど、くったくなく愉しかった。ゲームを一通り終えたあと、A君が「ハイ、握手」といって手を差し出した。その手に触れた私の手に、電気が走ったような気がした。A君は台所の隣、かつて祖父が生きていた頃には茶の間に使われていた小さな畳敷きの部屋に自分の机を置いていた。夜になって、祖母が寝室に引き取ったあとも、パジャマ姿の私はA君の机のわきに立って、A君ととりとめのないおしゃべりをしていた。何の話をしたのか、まったく覚えていないが、これもなぜか愉しくて、座敷に祖母が敷いてくれた布団に行きたくなかった。良心のとがめを覚えながらもだらだらとだべっていると、ついに祖母がやってきて、いつになく厳しい顔で「チーちゃん、もう寝なさい」と言った。座敷の仏壇の隣に祖母は自作の数々の人形といっしょに、写真を飾っていた。その一枚には、A君が写っていた。公園を背にしたスーツ姿の写真を見て、アッと思った。この顔、いつか雑誌で見たアラン・ドロンとかいう俳優に似ている。彫りの深い顔立ち、大きくてくっきりした目。当時の私の目にはそう見えた。祖母の家の三つの和室はふすまで間仕切りされているだけで、昼間はこれらのふすまも、部屋と廊下を隔てる障子も開け放されていた。A君が夜眠る部屋の鴨居に、彼のワイシャツが掛かっていた。そのそばを通ると、フンワリと快い香りがした。香水のようにどぎつくもなく、石けんの香りとも違う、やさしい香り。私はその香りがかぎたくて、何度も何度もワイシャツのそばを通った。夏のある晩、座敷の布団の中で、いつまでも眠れないでいた。隣の和室にA君が眠っている。暑いので、間仕切りのふすまは開けたままだった。祖母は廊下を隔てた板の間の寝室に祖眠っていた。ふと気がつくと、暗闇の中で、A君が枕元まで来ていた。小声で「これ、貸してあげる」と言って、イヤホーンつきのラジオをくれると、自分の部屋に戻っていった。我が家に戻ると、母がいきなりこう言った。「チーちゃん、もうウナちゃんちに泊まりに行くのはやめなさい」「どうして?」「どうしても。もうあなたも中学生なんだから」ふだん、声を荒げることのない母なのに、このときの声は有無を言わさない調子があったが、こういう命令が下るのは予想がついていたような気もした。それ以後、A君を見かけるのは、正月に父母と弟と祖母の家に出かけるときだけぐらいだった。たまには、母といっしょに祖母の家に泊まる機会すらあったが、そんな折、A君のところに泊まりに来ている女性に出会うこともあって、人の良さそうなその人に挨拶すらした。彼の部屋のふすまも障子もぴったり閉じられていたのは言うまでもない。「A君、彼女がいることはあっても、結婚する気配がないんだよ」などと祖母が母に愚痴っていたこともある。私が大学生になり、祖母が他界したあとも、当時28才ぐらいになっていたA君は、一人で母の実家に住み続けていた。そのことを、当時のボーイフレンとに話したことがある。彼は彼の母親にそれを伝えたらしい。ある日、ボーイフレンドが私に「そのA君にいい見合い話があるんだけれど」と言った。両親の知り合いに埼玉出身の女性がいるんだそうだ。母にこの話をすると、「あんたたちだけで進行するなら、勝手にどうぞ。私たちはタッチしないから」。しょうがなしにA君にじかに電話をすると、相変わらず「ハー、エー」でしたいともしたくないとも言わない。だから、話はボーイフレンドの親が進めるままに進展して、いざお見合いということになった。相手の女性の側は両親が付き添い、仲介役はボーイフレンドの両親、A君の付き添い役、つまり親代わりは8才年下のワタクシが務めることになった。人生で経験する二回目で最後のお見合いだった。A君はわたしの後ろを背をかがめて付いてきた。顔の彫りはいまだに深く、目はつぶらで大きかったけれど、アラン・ドロンの面影はないように見えた。相手の女性は大柄で、もの静か、お化粧も薄く、控えめだった。「本日はお日柄もよく、、、、」というテレビのドラマの台詞のようなことをボーイフレンドの父親がつぶやき、しゃちこばった会話の少ない食事の席が展開した。食事も会話も内容はまったく覚えていない。それから日がたって、ボーイフレンドがしばしば私に聞いた。「A君の意向はどうなの?相手の女性は乗り気みたいだけれど」。相手の女性もA君にアラン・ドロンの面影を見たのだろうか。聞かれる度にA君に電話をかけて、「どうしたいの?」と聞かなければならなかったが、A君は毎回「えー、まー、別にその、なんというか。考えさせてください」ぐらいの返事しかくれなかった。一ヶ月、それとも二ヶ月以上たったある日、ボーイフレンドが私に言った。「この話はなかったことにしてくださいと、A君に伝えて」と。あ、こういうときに「この話はなかったことに」という言い回しは使うんだ、というのが私にとっては新鮮な発見だった。両親はこういう表現を一度もしたことがなかったので、実際にこの言葉が使われる例をはじめて実体験したのだ。A君にもそのまま、この言い回しを伝えた。彼は「あー、そうですか」と言っただけだ。その後、A君に会ったのは、母が逝ったときだけだ。60才に手が届こうとしていたA君は、とても小柄に見え、萎んでしまったように見えた。「お元気?」と聞いても、「はー、まあ」という言葉しか返ってこなかった。A君、いまだに独り身だったようだ。
2014/11/15
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どいういうわけか、ミーちゃんのことを思い出しました。母方の祖母は面倒見の良い人で、一人っ子だった娘(私の母)を育てただけでなく、祖母の弟とその妻の死後、遺された五人の子ども(姪4人と甥1人)も、自宅(つまり母の実家)の離れに住まわせて、親代わりをつとめていました。祖母の弟とその妻はどちらも美人美男だったので、この五人も、子どもだった私の目にもいずれおとらずきれいでした。とくに長女のケーちゃんと末娘のミーちゃんは、少なくとも若かった頃は、外でも人目を惹くほどの美形。ケーちゃんは、久我美子(私ですらあまり知らなかった古い時代の女優さんですが)に似ているなどと言われたそうです。ミーちゃんは私の目には、オードリー・ヘップバーンみたいに見えました。大きくてパッチりしたつぶらな瞳、長いまつげ、形のよい唇。ところが、ミーちゃんは母に言わせると「ちょっとパーなのよ」。子どもの私には何のことだかわかりませんでしたが、ミーちゃんはとても陽気で、我が家に来たときなど、小さな私や弟とも子どものようになって遊んでくれました。ある時、胸をがばっとはだけて、ブラジャーの上から両胸をツンツンとつっついておどけてみせてくれた光景は今でも目に焼き付いています。子どもの目にもエキサイティングだったのでしょうね。「ミーちゃんをこのままほっておいたら、どんなことになるかわからない」と祖母が母にひそひそ話していたのを耳にしたことがあります。やがて、祖母の家で「お見合い」が行なわれることになりました。ちょうど、弟と私が祖母の家に泊まっていたときのこと。ミーちゃんはふだんと違って、清楚で落ちついた青い服を着て、髪もいつもみたいに逆毛なんぞたててふくらませずに、ぴったりと頭になでつけて、お化粧も口紅だけ。おどけた仕草もしないで、もの静か。そんなミーちゃんを見るのははじめてでしたが、ふだんよりももっと美しく見えました。やってきたのは、のっぺりした顔の青年。座敷にツンとすまして座っています。その隣には、厳しそうなお母様がニコリともせずに座っていました。私は障子のかげからのぞいて見ました。彼は私を見ると、無理矢理ほほえんでみせようとして、頬がひきつって、能面のような顔がゆがみました。お見合いの席で何があったかは知る由もないのですが、やがてミーちゃんはこの能面青年の家に嫁いでいきました。しばらくして、また祖母と母がひそひそ話。ミーちゃんが家を飛び出したのだそうです。「姑さんにいじめられたと言ってるけど、あのミーちゃんだからねえ。素っ頓狂なことでもして、叱られたのかねえ」と祖母。ミーちゃんはそのまま戻っても来ないで、行方がわからなくなりました。数年後、「ミーちゃん、良い人に巡り会ったんだって。水道工事屋だそうよ」と母が教えてくれました。「ミーちゃんの素っ頓狂もパーも受け入れて、そのままでいいよって言ってくれるらしいよ」。ミーちゃんはこの水道工事屋さんにすっかり惚れて、惚れすぎて、一緒に歩いていて、彼が通りを歩く他の女性にちょっとでも目をやっただけで、焼きもちを焼いて彼を追っかけ回して傘でひっぱたくこともあるとか。ミーちゃんらしいなあ。それでも水道工事屋さんはミーちゃんを見捨てることもなく、二人の男の子をもうけました。男の子たちは、ミーちゃんの美貌と工事屋さんの気質と賢さを足して割ったような存在。幼児の頃から利口で、母親のミーちゃんと歩いていて「お母さん、その道ちがうよ、家はこっちだよ」と教えたりして、母親を諭したり、助けたそうです。一人暮らしだった祖母がベッドに寝たきりになったときには、ミーちゃんと一緒にやってきて、足をさすったり、慰めたりで、祖母がとてもうれしがっていました。祖母の死後、ミーちゃんたちと会うことは一度もなかったのですが、母によると、何年に一度かひょっこりとやって来ては、「旦那に内緒で毛皮買っちゃったの。知られたら怒られる。お願い。お金貸して」などと言って、大枚を借りていったそうです。父は「金は貸しても借りるな」「貸した金はあげたと思え」が信条で、母をとがめることもありませんでした。わたしの中学・高校や大学の入学金は共済組合で借金したくせに。母が毛皮はおろか、高級品を買ったことは一度もありませんでしたけど、母もまた、ため息こそつくことはあっても、ミーちゃんを悪く言うことはありませんでした。父も母も、もうとっくの昔に逝ってしまいました。ミーちゃん、どこで何をしているのかな。もう、80才近くになるはず。親戚付き合いをしないと、こういう面白い人との付き合いも消えてしまって、ちょっと残念な気がします。
2014/11/12
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マドレーヌ posted by (C)solar08夜中は零下の昨今。手が冷えます。貧乏性のわたしは、バゲット2本を焼くためだけにオーヴンを大量の電気をつかって熱するのがもったいなくて(20分余焼くだけなのに、温度計で測った実測温度を230度にするのには予熱が30分以上かかる)、バゲットに続けてお菓子を焼くことが多いです。だるまや。さんが毎週マドレーヌを見事に焼いていらっしゃるのを拝見して、ついに(マドレーヌが好きでもないのに)焼くことにしました。型だけは、フランスの蚤の市で買ってきたのがあるしね。で、材料をそろえたり混ぜたりしている間、久しぶりにカーペンターズのCDをかけました。古いでしょう?お若い方、カーベンターズなんてご存知?音楽を聞くと、その曲を集中的に聞いた時代にいきなり連れ戻され、その頃の生活、家、周囲の光の加減などに包まれたような、不思議な気分になります。カーペンターズを毎日のように聞いたのは、息子が幼児の頃。娘が赤ん坊のときはABBA一本やり。カーペンターズの「イエスタデイ ワンスモア」や「マスカレード」の曲に浸って、当時の心が蘇ります。あの頃は専業主婦で、お菓子やパン(今考えれば稚拙なパンだったなあ)を手作りしたり。高望みとしか思えない夫と結婚できて、うきうきした時期が通りすぎた頃。いつも心の中で夫を追っかけていた気がする。そして、追っかけることに疲れて、追っかける自分から自分を解放しに、こんな遠くまで来てしまった。その後のわたしは、娘が大学のために別の市に引っ越して以来、主に一人暮らし。他人といっしょに住むというのは、大変なことだと思うようになりました。寝食だけでなく、トイレまでも共にするわけでしょう。それに、家族や夫婦の場合はお金までも共にするから、同居者のお金の遣い方についてまでも、気にしたり、イライラしたり、時には口出ししたりしてしまう。相手や家族の気分を読み込んで、それに対応することも大切。いやー、一人暮らしに慣れすぎて、そういうのはもうできそうもないわ。これは子ども時代に、両親だけでなく、棟は別とは言え、祖父祖母とも日々接しながら、いわば「大家族」で暮らしていたことの反動なのかもしれません。人をこき使う我がままな祖母、他人のことを考えることのできない祖父、家族が大事すぎて家族をしばる口うるさい父、母だけが静かで、家族のためばかりに動いている人でした。ああいう家族と折り合いをつけるのは、人生の勉強にはなったけれど、家族のしばりから逃れたくて、いつの間にか「近寄るな」のよろいをつけてしまったような気がします。それでも、元夫とは同居がしごく当然のようにできたのは、若かったからなのか、あまりに惚れていたからなのか、、、離婚後に元夫は「最初の子どもが生まれたとき、君の気持ちが子どもに行ってしまったようで、寂しかった」と言いました。えええ???そんな、わたしは彼の気持ちがつかめなくて、彼を追っかけていたのに。若くて(23)、幼稚な時代。彼だって悩むこともある若い男性(29)だということを想像すらできないほど、愚かで独り相撲をとっていた自分。いまさら取り返しはつかないけどね。「もっと取っ組み合いの喧嘩でもすればよかったね」と彼は言いました。心の奥の言葉を口に出すのが、どんなにむずかしいことか。関係が近ければ近いほど、これはむずかしいの。そんなことを考えながら、マドレーヌの材料(いちおう、今回はフランスのレシピよ)を混ぜていたら、「あー」と気づきました。バゲットの生地に塩を入れるのを忘れたことを!せっかくふくれた生地に塩を入れて、ミキサーでかき混ぜてからベンチタイム用にたたんだ生地は、弾力も元気もありません。そして、そして、成形したバゲット生地2本をスリップピール(って日本では言うんですね。私は縦長の木製のを使っています)でオーヴンに入れようとしたときに、1本が半ばすべり落ちて、ピールの端から半分ほど垂れ下がりました。叫び声をあげながら、垂れ下がった生地をぐんにゃり戻して、オーヴンにいちおう納め、、、、。出来上がったバゲットはたれて折れ曲がったバゲット posted by (C)solar08ヘビバゲです。生地が元気がなかったにしては、気泡が開いたりして、、、、。マドレーヌはやけに膨らみましたよ。レシピのBPの量が多いとは思ったのよ。だけど、いちおうフランスのレシピだからね、信用したわけ。味はと言えば、なんだかね、パサッとしていて、ジャムをつけて食べました。思い出しました。マドレーヌが日本で知られ始めたのは子どもの頃。売られていたのは、平べったい丸形のマドレーヌで、「牛乳に浸して食べるとおいしい」などと説明がついていて、わたしは本気でミルクに浸しましたよ。まあ、こうすれば確かにパサつきはないわね。しっとりしたマドレーヌにするには、バターの量を増やしたり、BPを加減したりといった工夫が必要なのでしょうけれど、そこまで追究する気力はなくて、これにて打ち止め。盛り上がりすぎたマドレーヌ posted by (C)solar08
2013/11/26
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昔は、試着室の鏡は、客のスタイルをほっそり見せる仕掛けがあるのではないかと、本気で疑っていました。だってね、試着室で着てみて、「あら、似合う、ワタシって意外にほっそり」と気に入って買ってきた服を、自宅でもう一度着て、鏡で見ると、その姿は絶対に、毎回かならず、違うのです。「えっ、こんなはずでは。あのすらりと似合っていた姿はどこに行った?」となったのです。この現象、日本でもドイツでもそうでした。それが、近頃は、、、。衣料デパート、大きなブティック、小さなブティック、このところ立て続けに、何軒もの店でブラウス、Tシャツっぽいブラウス、ワンピースとさまざまなスタイルも色も異なるものを試してみたところ、毎回、「あっ、こんなハズでは」と驚愕するほど、鏡に映る自分のすがたは、ブクブクで寸足らずで、もう目をおおいたくなるほど。自宅の鏡で毎日、見ている姿とどこかちがというか、もっとずっとネガティブです。近頃の試着室の鏡は横に拡大するようにできているのだろうか、、、。凸レンズなのだろうか、、、、。そんなハズないのはわかってますけどね。あんまり、毎回がっかりしたので、無駄な買い物しないですんではいます。人間は自分自身について、真実よりもかならず過大評価しているのだということは昔も読んだことがあるし、つい最近もドイツの雑誌で心理学者が言っているのを読みました。そうなのよ、そうしないと、人間は楽しく生きていけないらしい。自分の姿は見えないから、少々は良く想像しているのが幸せ。そして、鏡を見るときには、心理的な色眼鏡をかけて見ているらしい。それなのに、どうして試着室の鏡を見るときには、この色眼鏡が効かないのか、そこの謎は解けません。一つにはね、周囲はドイツ人がほとんどだから、したがって、みなさんワタシよりは背だけは高いです。だから、ワタシの「目の常識」つまり、心の中で描いている姿の標準は、ワタシよりもずっと背が高い人の姿で、デパートとかブティックでは、周囲にそういう背の高い人がずらずらいるわけで、そういう人々を見たばっかりのときに、試着室で自分の姿を見ると、自宅で誰もいないところで自分の姿を見るときとは、心の中の標準が違うため、とりわけショックを受けるのかもしれません。これがワタシの独断と偏見に満ちた心理分析です。ま、周囲の人々は、背だけではなく、胴回りその他も、ワタシよりは太めである人が多いですけれど。それでも、ドイツのサイズのSが昔はワタシのサイズだったのに、近頃は太さに関してはMになりつつあって、それなのに、背丈は相変わらずS以下だから、そのバランスが悪くなってきたのです。ああ、いやだ。体重はx十年前と変わらないのに、脂肪のつく場所が移動し、集中して、、、。体重を落としても、頬だの胸元だのがこけるばかりで、余計な脂肪がついたところは最後まで残る(食料危機がきたときのための、最後のリザーブというわけらしい)。ああ、いやだ。もう洋服なんか考えないで、ウマいもんをドンドン食ってしまおうか。次回はもっと高尚なネタで何かを書けることを願って、、、。こちらも暑くなりました。今日は日中の場所によっては30度以上のようです。ドイツの東北部では、いまだに水につかっている家があります。(ワタシが住んでいる南西部ではまったく洪水なし)でも、今回の大規模な洪水で、死者は出ませんでした。それだけが幸いでした。
2013/06/17
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数日前に、遠い日本から、お客様がいらしてくださいました。夫君は大学時代に同期だった方、奥様は中学・高校で一年下で、クラブがいっしょ、大学でも一年下で(当然ですね)、またもクラブがいっしょだった方。美男美女のカップル。?十年もお会いしたことがなく、手紙などのやり取りもまったくなかったのに、わざわざ私のメールを問い合わせて、連絡をくださり、ご夫妻でヨーロッパ旅行をなさる途中で拙宅にも寄っていただくことになったのです。さすがにドキドキしますね、x十年もお会いしたことのない方に再会するのは!こちらがどれほど変わって(老いて)しまっているかは、自分ではわからないし。でも、いらしていただいたら、すぐに昔のような気分になったから不思議です。お二人とも、昔とあまり変わらない、すてきなカップルです。わたしは結婚後に東京を離れてしまったことや、ドイツに来てしまったこともあって、同窓会やクラス会には顔を出すこともなk、学校、大学時代の同期生やクラブの仲間とは、一人二人の方との交流をのぞいては、ほとんど音信の交換がなくなってしまい、記憶もほとんどなくなっていました。でも、お二人が「xxさん、覚えてる?」と聞いてくださっている内に、だんだんに、記憶がよみがえってきます。記憶というのは、どこか芋づるみたいで、一つをたどると、ずるずるとほかの想い出もつづいて出てくることがありますね。x十年も思い出すことのなかったお名前、お顔、それどころか服装の趣味までも目の前にありありと浮かんできます。学校時代の先生の中にも、90過ぎてもお元気な方がいらっしゃると聞いて、うれしくなりました。想い出話はつきることがなく続きました。リュックサック二個分ものすばらしい、おいしい(!!)おみやげの数々をいただいてしまいました(とりわけ、マルちゃんの「正麺」はきわめつき!!!、こういうものがこちらにはないのよね)。最近開かれた、大学の同期会の写真が入ったデータもいただいたので、開いてみました。あらあら、シルバーの顔がたくさん!この方達が大学時代にどのような外見であられたか、わたしには見当がつきません。まあ、同じクラスや専門学科でない方がほとんどなので、わからないのも当然ですが。胸の名札が写真にうつっていて、それでわかった方がお一人だけ。名札がなければ、わからなかったでしょう。わたしもこんなに変わったんだろうか、、、。日々、あるいは時々会っていれば、変化はそれほど目だたないし、もちろん自分の顔は毎日、鏡で見ているから、自分の老けも意識しないのですが、こうやってx十年のギャップの後に見ると、自分がもうシルバーの世代に属するのだという事実をつきつけられた思いがします。そういえば、母がまだ生きているころ、一年ぶりぐらいに会ったとき、「あなた、ほんとに老けたわねえ」と言われて、ムッとしたことを今でも覚えています。やがては私も娘に同じことを言う日がくるのでしょう。とにもかくにも、時間的にも距離的にも遠くにいたお友達が、こうして訪ねてくださって、想い出を蘇らせてくださるというのは、とってもエキサイティングですばらしいことです。このご夫妻には、また何度でもいらしていただきたいし、ほかにも、勇気を出して「x十年ぶりですが、そちらにうかがっていいですか?」とかお声をかけてくださる旧友や旧知人がいらっしゃればいいなあ、と思います。このブログを読んでくださる方の中には、たまたま同窓生という方はいらっしゃらないでしょうねえ(年代が、、、)。それに、仕事で出す名前は旧姓ではないし、、、、。このご夫妻のおかげで、本当にすてきな時間が過ごせました。
2013/05/26
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ふと想った。自分のような人間が他人の中にいたら、その人を好むかと。もちろん、好まないだろう。外見だけでなく、中身もよろしくないのは、自分でよく知っている。面白みもないし、ユーモアにも欠けるし、取り立てて親切でもなければ、とりたててやさしくもなく、かといって強くもなく。考えてみれば、人を好むというのは何なのだろう。話していて面白い?見ていてほれぼれする?やさしくしてもらえる?ひっぱってもらえる?自分の代わりに考えてくれす?このような理由では、まるで自分のために何か良いことをもたらしてくれる人が好ましいということになり、これではその人を好むことにはならないのではないか。相手が何かの利用価値あるなしに関わらず、相手を好むというのは、こうして見ると、自分の子どもとか、(場合によっては)親ぐらいにしかできないことなのかもしれない。トホホでは、自分のことは好ましいのか、、、。ぜんぜん、好ましくない。自分の中に、何か再発見できるものでも見つかれば、まだ再考の余地もあるけれど、どうやらそういうものは見つかりそうもない。ときどき、自分の中から出たくなる。自分とこれ以上、つき合うのがいやになる、もう飽きた。こういうことをこれまで何度考えただろう。それでも、自分と死ぬまでつき合わなければならないまあ、もうこれだけ長く自分とつき合っていれば、飽きるのも当然だろうが。人間はだれもがひとり、自分の中に閉じ込められているようなものだ。生まれるときも、死ぬときも一人なのはもちろん、人の頭の中には入っていけないし、だれもわたしの頭の中には入ることはできない。痛みも喜びも、その人自身だけが感じるもので、他人は想像や同情や共感はできても、人の痛みをそのままじかに感じることは決してできない。子どもが悲しんでいるとき、親はどんなに子どもを想っても、苦しみを代わって負ってあげることはできない。子どもは一人で、その苦しみに耐えるほかない。どんなに周囲にパートナーや親や子どもや友人がいても、人はみなひとり。ということは、人は大部分の時間を自分とつき合って過ごしているわけで、飽き飽きするのも当然。もしかすると、人が歌ったり、スポーツをしたり、ゲームをしたり、、、、つまり、何事かに熱中するのは、この現実を忘れることができるからかもしれない。忘我、無我夢中というのは、うまくできた言葉だ。これだけが、自分の外に出る方法なのかもしれない。子どもはそれができるのに、おとなになるとこれがむずかしくなる。けれども、これも贅沢な注文ではあるわけで、食うに困っていれば、こんなことは考えている暇もなく、それこそ無我夢中、我を忘れて働かなければならないはずだ。インドで路上で生活している人々のことを、いまでも毎日のように思い出す。あの方たちは、どのようなことを考えて生きているのだろう。どうして、自分は路上で生活しなければならない親の元から生まれ、自分も路上生活から抜け出せない運命になってしまったのかと、想うことがあるのだろうか。わたしはどうしてここにいるのだろう。この体、この頭の中に。この体とこの頭とその中の神経もろもろが、こう考える心をつくりだし、動かしていることを知りつつ、この疑問がもどってくる。眠っているときは、こんなことは考えないわね。
2013/05/08
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ドリスという十年来の友だちがいます。そう言えば、ドリスという名前の知り合いが全部で四人、みんな名前のイメージに似て、かなりまたはすごい美人です。彼女はほとんど毎週、日曜日の午後にふらりと立ち寄っては、わたしの焼いたケーキを「太るからちょっとにして」といいながらも、結局はしっかり食べてくれ、コーヒーを飲み、友だちのうわさ話などをして、帰っていきます。ところが、この二週間以上、顔を見せません。メールを出しても、音沙汰なし。共通の友人と、いささか心配していたところに、昨日、電話がありました。か弱い声で、「今、病院にいるの。救急車で運ばれて。肺炎だって」とおしえてくれました。どこの病院だか聞かないまま、電話を切り、ドクターの名前と内科というキーワードだけを頼りにインターネットで探したら、大学病院でした。こういうとき、インターネットって便利ですね。さっそく、ケーキ二切れ(冷凍しといた)をもって、訪ねました。「あら、もう来たの、早いわね」と弱々しく頬笑む彼女は、顔から色が抜けていました。自宅にいて、けだるくて、ぐったりして何もする気になれない、と思っているうちに、もう失神したそう。ちょうど、訪ねてきていた姪御さんが救急車で運んでくれたそう。ふだんは一人暮らしなので、姪御さんがいなかったら、そのままになっていたかもしれません。風邪でもないのに、とつぜん肺炎にかかるというのは、老いてくると多いことのようです。彼女の場合は、最近、転んで、関節をいためて手術をしたばかりなので、それで体力や免疫力が弱っていたのでしょうか。こういう事態に直面するたびに、いつかわたしにも、こういうことが起こるのを覚悟しておかなければ、と改めて思います。死自体はこわくはない、というよりもどうせいつかは訪れる、想像もできない事態ですけれど、そこまでの過程はいろいろ。幸運なことに、病院とはお産以外では縁がないために、たまにこうして病院に行くと、気持ちが萎縮します。父が「人が傲慢にならないために、ときどき病院に行って、自分がどれだけ恵まれているか、感謝しなければいけない」と言っていたことを思い出します。その父は最後の二年を病院で、いろいろな管につながれて過ごし、日本人としては相当若くして逝きました。わたしも、父の当時の年齢に、刻々と近づいています。近頃のドイツでは、病院が財政を救うために、必要もない手術を患者にほどこす例がきわだっています。そのために、手術の回数が、ここ数年で急増し、先進国の中では先端を切っているとか。手術ミスや、手術のさいの細菌感染も大きな問題になっています。こういうことを聞けば、ますます病院には行きたくなくなるし、手術などは絶対にしたくないと思ってしまいます。自分が「手術をしなければ、命が危ない」と宣告されたときに、手術を選ぶか、そのまま早く、速く逝く道を選ぶか、そんなことを夜中に考えていたら、眠れなくなりました。十才ぐらいのときに、「人間は生まれたら最後、死に向かう電車に乗せられたようなものなんだ。途中下車はできないんだ」と気がついて、眠れなくなったことを思い出します。あのときのわたしは、このためにやせ細ったものだけど、今のわたしは、これぐらいではやせ細りません。やっぱり年とともに、心も体も図太くなったということでしょうか。meta-tokonoma posted by (C)solar08
2013/04/10
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郵便受けに一通の封筒。開けてみると、グレーの縁取り、グレーの字で書かれた一枚のカード。真ん中の大文字の名前、そしてその下の日付と十字架。思わず、「アー」と小声で叫んでしまいました。遅かれ早かれ、やってくると思っていたこと。名前の上には、小さな文が添えられているだけ。「みんなにこれだけは言っておきたい、生と死は真剣なこと、すべてがはやく過ぎ去っていくいつも目を覚まして、いつも心を配って、決していい加減にしないで」彼女はわたしが幼い娘を連れてはじめてこの街に住み始めて、すぐに知り合った、わたしよりは十歳下の友だち。まだ若い学生で、パーティーで踊りまくったり、アバンチュールを楽しみと元気がよくて、ご両親の援助を受けずにアルバイトで生活費を自分でかせいでいました。わたしの娘をひざにのせて、まだドイツ語ができなかった娘に言葉を教えてくれたり、浴衣姿の娘を連れてヒッチハイクしたり。娘にとっては若いおばさんのような存在。彼女は生活費を稼ぐのに時間をとられたために学業がつづかなくなり、ついに文学はあきらめて簿記の資格をとり、本屋につとめ、次にはフライブルクのサッカーチーム(SCフライブルク、ブンデスリーガ、現在8位)で働いたあと、市立劇場でいそがしく活躍していました。だれにも頼らずに生き抜いてきた彼女を尊敬します。一年半前に会ったとき、「バーンアウトかと思って精神科に行ったら、脳腫瘍だからすぐに手術しろと言われて手術したの。肺が大元だから、こっちもなおさなきゃ。でも、わたしは負けないわ、生きるわよ」と、生きる意欲に燃えていた彼女。去年の夏に偶然に出会ったときには、すっかりやせて見るのが辛いほどになっていました。本当はこちらから電話をしたり、我が家の近くのお宅に訪ねるべきところを、意気地なしで怠慢なわたしはそれを一度も果たすことができませんでした。彼女のパートナーに様子を聞くのがせいぜい。電話をかけては迷惑なのではないか。たずねたりして、弱った姿を見せたくはないのではないかという心配もあって。というのは言い訳で、本当は、彼女の弱った姿を見るのが怖かったというのが正直な心情かもしれません。意気地なしの自分。そう言っている間に彼女は逝ってしまいました。彼女の元パートナーで、別れたあとも彼女ととても良い友人関係をもっていた友だちも、二年近く前にやはり同じ病気で逝ってしまいました。こうやって、周りのわたしなどよりずっと若い友だちや知人も、ひとり、またひとりといなくなっていきます。このカードの言葉のように、日々を自覚して、一瞬一瞬を意識して大切に生きよう、とは誰もが言います。これは簡単そうで、むずかしいものです。日常のごたごたや仕事に追われて、あっと気がつけば、今年ももう一ヶ月が終わってしまいました。今朝、夜明けにブラックバード(クロウタドリ)のビロードのようなさえずりが、聞こえました。まだ声は小さくて、まるでささやき唄っているようでした。あれは、この友だちの呼びかけだったのかな。「目覚めよ」と。あなたのことは忘れない。
2013/02/05
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だるまや。さんのブログに刺激されて、昨日はシュークリームを久しぶりに作りました。おいしい、おいしいと一人で食べていたら、ふと、x10年前によく行っていた「好味屋」というパン/ケーキ屋兼カフェを思い出しました。当時は阿佐ヶ谷駅近くに本店や支店があり、ほかに、通学途中の三鷹駅の線路わきにも小さな支店がありました。大学の帰りによく、この店に寄って、100円のソフトクリームとか、ふわふわのショートケーキ(これも確か100円だった)やシュークリーム(シューシャンテリーと、かっこよい名前がついていたような記憶)を食べたものです。おいしかったなあ。あるとき、一人でカフェにすわってケーキとコーヒーをぱくついていたら、店の奥に、私が授業を受けている男性の先生(非常勤講師)が、私と同学年の女学生とお茶を飲んでいるのを発見!私はわけもなくドキドキしました。別に密会とかいう雰囲気ではないのに、近寄ってあいさつするのがためらわれて、そそくさと店を出ました。その後もこの光景が心の目から離れません。なんでそんなに気になるのか、自分ではわからないのに、何度も何度もこの光景が頭の奥に写し出されて。その内、ついに悟りました。あの先生をどうやら好きになったらしいと。でもねえ、あの先生の回りには、女学生やかっこいいアメリカ帰りなんかの粋でおしゃれな助手たちがいつも群がっていて、とても近づく余地はありません。それに、彼は十才近く年上で、私なんて彼から見れば、青臭いチビだろうし。パートナーだっているかもしれないし。とびきり美人の奥さんがいたって噂もあるし、、、。ああ、どうしよう。でも、このままおとなしく引き下がったら、心が騒ぎっぱなしで落ち着かない。しょうがない、当たって砕けろ(その後もこの姿勢だけで生きてきたような気がします)。当たってったって、どうやって?色気も美顔もナイスボディーもない私には、なすすべも見つかりません。でもって、まずは卒論研究の先生になってもらって、お近づきになってみることに。すでに卒論の担当になっていただいていた初老(と当時の私の目には見えたけど、まだ40代だったかな)の教授のところに出かけて、キャンセルしてから、お若い先生の元にそそくさと頼みにいきました。「規則上それが可能なら、いいですよ」という彼の言葉に、「だいじょうぶです。何でも下仕事します、よろしく!」その後は、あこがれの「先生」といっしょに論文を読んだり、野生ネズミ捕獲やヒミズ(モグラより小型の食虫類)の飼育をしたり、毎日がルンルン。ほーんとにルンルンだった。ああいうルンルン時代は初心な若い頃にしか味わえないのかもしれませんね。それから、いくらか月日がたって、、、、、好味屋で見かけた日から1年余りたって、どうにかこうにか、この先生は夫となりました。当時の好味屋の本店は、夫の実家の近くにあって、その後もよくケーキを買ったものです。もう、あの場所には好味屋はないそうですね。五日市街道沿いに再開店したとか。まだあの味は残っているのかな。時間は、お店だけでなく、人生も心も変えてしまいます。色々な出来事を経て、いつの日か夫は元夫になりました。あ、別に元夫を嫌いになったわけではありません。「この人と血を分けた子供がほしい」と思った男性は、後にも先にも彼だけです。人生の途上で、事情や興味が変化/発展して、気がついたらドイツに来てしまっていたという成り行きになっただけ。「だけ」っていうのもおかしいけれど。あは、ブログにこんなこと書いていいのかなあ。
2012/08/09
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一昨日にとつぜん、右手の人差し指の関節が痛くなりました。微妙な痛みで、お金をつまもうとしたり、指先に力をこめようとする(たとえばお鍋のこげたのをこすり落とすとかね)と痛みます。パソコンのキーはそっと打てば大丈夫。「歳、歳だよ。痛風だから、君、ステーキ食べない方がいいんじゃない」とBFのおやさしい言葉。フン!人差し指をいたわるために、なるべく中指を一差し指代わりに使ったり、左手に活躍してもらおうと努力しています。お店で、人差し指をつかわないように、ちょっとあげて、中指と親指でお札を取ったら、レジの女性に「あらー、優雅な仕草」と言われたので、「優雅なんかじゃないのよ。人差し指がリューマチだか痛風だかで痛いから、こうやってるだけなの、ハハハ」と答えたら、彼女も笑いだしました。でも、左手はちょっとやそっとでは、右手の代用にはなりませんね。いかにふだん右手が酷使され、左手が怠けているかがわかります。両手をしみじみながめてみました。左手の指はいまだにまっすぐで、まあほっそりしているのに、右手の指は関節がごつごつして(節ばって)、とくに酷使される人差し指と中指は太くてしかもしわだらけ。これを見て思い出しました。元夫と知り合ったばかりの大昔。彼の手はほっそりしていて、指がほんとうにやさしく、優雅に見えました。「きれいな手ね」と言ったら、彼は「こういう手は自慢でもなんでもないんだ。恥じなきゃいけない。いかに体を使って働いていないかの証拠だからね。僕の母親の手は、ごつごつしている。ああいう手がすばらしいんだ」と言いました。当時の私には新鮮な物の見方に思えました。元義母さんの手はたしかに大きくて、いかにも働き者の手でした。彼女は若い頃から苦労して生きてきた人です。私の息子が赤ん坊の頃、元義母さんは孫をなでながら「ごめんなさいね。私の手はがさがさしているから、痛いでしょう」と申し訳なさそうに、語りかけました。そのときのお義母さんのやさしい顔が忘れられません。働いてきた証拠の手を恥じないで、と心の中で叫びました。元義母さんは苦労を愚痴ったり、他人の悪口を言ったことがありません。ただ一言、「ちょとたいへんだった」と言うだけ。元義母さんが彼女にとっての舅姑夫婦と同居していたときは、いじわるで気位が高い姑から、「あんたのようにどこの馬の骨だかわからない人と同じ台所を使いたくない」と言われて、家のわきの路地で炭で調理をしなければならなかったそうです。このことを私に話すときも、義母さんは「練炭を起こすのに時間がかかってねえ。面倒だったのよ」と微笑んだだけ。いじわる姑の悪口は一言も出てきませんでした。この姑が他界してからは、お義母さんは彼女の舅が高齢で亡くなるまで、何十年も世話をしました。元夫の妹があるとき話してくれました。「高校のとき夜遅く帰宅しても、おかあちゃんは叱りもしないの。でも、その顔からは、おかあちゃんがずっと寝ないで心配して待っていたことがわかるから、叱られるよりももっと辛かった」私も似たような経験をしました。半年ほど、夫の両親とこの義妹と同居していたとき、一度この義妹とちょっとした喧嘩をしました。これを察した夫が、当時赤ん坊だった息子と私を高尾山に連れ出してくれ、帰りには飲み屋にもよって、夜中に帰宅しました。私たちが家出をしたと心配したらしいお義母さんは、もちろん寝ずに待っていてくれました。私たちの姿を見ると、怒りもせず、「なぜ電話の一本もかけてくれないの」と詰問もせず、ただ一言「もうこんなことはしないでね」と息子を抱きしめただけ。曲がった(曲げていると痛まない)人差し指をながめながら、こんなことを思い出しました。元義母さんは、90歳以上まで長生きしてから静かに他界しました。元夫はいまでは岩手の山の中で自然を相手に生活しています。ツキノワグマもいる森で、クマに出会えることを期待しtながら、木を間伐したり、クマザサの茂みを手入れしたり(たぶん)。若い頃のあのほっそりした優美な手は、ごつごつした、自慢できる「労働者の手」になっているかもしれません。
2012/07/05
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Freiburg, Kappel posted by (C)solar08いろいろ落ち着かなくて、ブログにはすっかりごぶさたしています。夏のヴァカンス期間が始まる前の時期は、食事への招待とか小さな集まりが集中するみたいで、よそのお宅で「ただ飯」をご馳走になる機会が多くて・・・。ベルリンに住む娘家族がフライブルクにしばらく滞在していた機会に、娘夫の両親の家にもお呼ばれしました。娘夫の両親もフライブルク市内に住んでいますが、町の中ではなくて、東南端にあるカッペルという地区のさらに端、タクシーだと運転手さんが「この先には家はないよ」などと言いそうな、自然のまっただ中、山のふもとに住んでいます。黒い森の伝統的な農家を改造した家です。Freiburg, Kappel posted by (C)solar08家もお庭も広くて、庭は野菜や花でいっぱい。うらやましいけれど、一方では町の中心からトラムとバスを乗り継いで30分以上かかる不便さもあります。前にも書いたことがありますが、この家はアンティーク家具や食器の宝庫Freiburg, Kappel, Wohnzimmer posted by (C)solar08ご先祖から受け継いだ家具や食器を大切に使っているのがうかがえて、そういうものがない(もともとそんなにないし、そもそもドイツまでは持ってこれなかった)私は、ちょっとうらやましくなります。ランチは↑のレンズ豆のサラダに続いてKalbsbraten posted by (C)solar08子牛のローストにオリーヴ入りのソース、フェンネルとニンジンの煮物、ローストポテト娘の義父さんも、娘夫と同じくお料理がおとくい。彼の作品のようです。デザートは娘夫が、我が家で焼いてもっていったブルーベリータルト。ところで、今回はじめて、娘のスイカのようなお腹からすごい時間をかけて出てきた桃太郎に会いました。誕生から、もう二ヶ月たってしまいました。久しぶりに赤ちゃんという存在に数日間、接してみて、やっぱり感動しました。赤ちゃんの香りとか(娘が赤ん坊だった時代にそっくりな匂い)、こわれそうな心もとなさとか、一心に乳を飲み、一心に泣き、一心に体をつっぱる姿とかね。笑顔を見せられると、ついメロメロになりますね。あんまり可愛いと思うと、今度は心配ばかりがつのって、怖くなります。いやいや、こういう感情はもちたくないのに、すっかり惚れてしまったみたい。ああああ、これじゃまったくのババ馬鹿ですね。惚れるのはこの歳になっても男だけにしておきたいのに、ううう。Salomon posted by (C)solar08
2011/07/30
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DSC00122 posted by (C)solar08Roses in the garden, Fresnes in Franceある音楽を聞くたびにいつも同じ光景とか記憶とか気分がよみがえること、よくありませんか?私はカーペンターズを聞くと、息子の幼児時代を思い出し、ABBAだと娘が赤ん坊時代の姿が目の前に浮かびます。その頃の気分とか香りとかもね。私自身の子供時代には、父親がロックとかポップとかを否定していたので、弟と私は父がいないときは、寝静まったあとにこっそりラジオで聞いたものです。英語の歌詞がわからなくて、英語教師だった母に「ユキちゃん、これ何て言ってるの?」と教えてもらったことも。あの時代に流行った歌は今でもラジオからよく流れてくるので、私はいきなりここドイツから、東京の子供時代に、引きずり戻されるような気持ちになります。子供時代に親といっしょに聞く音楽はクラシック、これはこれで大好きで、とくにフォーレのレクイエムが好きでした。今でもこれを聞くと、「本当は歌いたかったんだよな」と挫折感がモゾモゾとお腹のあたりを苦しめます。今、仕事部屋の片付けをしながら、CDでDeuterのSilence is the answer(http://organicmusic.jp/?pid=27254797) の二枚目のCDを聴いています。ドイターはOshoメディテーションとともに著名になった音楽家。このCDもメディテーション音楽なのでしょうね。ギターとアジアの横笛がマッチした、心をなでるような音楽。この音楽を初めて聴いたのは25年以上前、ドイツで留学生として暮らし始めたばかりの頃。友人の友人で、ベルリンで耳鼻咽喉科の医師をしている男性の家ででした。パートナーといっしょに彼が住んでいた古いアパートは薄暗く、床には古いペルシャじゅうたんがしきつめられ、ドア代わりも重々しいじゅうたん、部屋はお香がたかれ、彼も彼女も床にすわって生活していました(二人ともドイツ人)。初対面の私を、まるで旧知の友人のように迎えてくれた彼が、当時はまっていたのが、ドイターのこの音楽。彼は、何度も何度もレコードを廻し、音楽に酔ったように微笑み、ビールを次々と飲み、音楽ではなくてアルコールによる酔いがまわると、世のはかなさ、過去の辛い恋愛の思い出などを涙をまじえてツラツラと一人語りし、夜が明けるまで、こうした時間が続きました。いったん日本に帰ったとき、頭の中をぐるぐるめぐったのは、この音楽とあのベルリンでの雰囲気。買って返ったレコードを何度も何度も聞いては、あのベルリンでの不思議な光景を頭の中で再現したものです。このレコードのCDがあるのを去年見つけて、買いました。ベルリンのあの男性のアパートは改修されて明るくなり、髪が真っ白となった彼自身はこの音楽のことはほとんど忘れたみたい。そもそも、彼は心臓を悪くして以来、酒を断ってしまいましたから、もうあんなほろ酔い気分にはなれないのでしょうね。酒が呑めない私は、この音楽だけで、夢の世界、遠い未知の世界になったような気分になれます。人間は思い出を蓄積するために生きているようなものだ、人生は思い出の積み重なりでしかないと、この頃よく思います。今、ランチに大根おろしのそばを食べようかなあ、とイメージしています。これはいいわば「未来を生きる」ことでしょう?そして、おろしそばをついに食べる瞬間は、「今を生きる」こと。でもね、おろしそばを飲み込んだとたんに、おろしそばの出来事はただの思い出になってしまうわけで。「おろしそば、うまかったなあ」と思い出すことでのみ、おろしそばが私の人生にとって意味をもつわけです。おいしいパンとか食事とか、美しい風景とか、楽しかった出来事をブログに書くのも、思い出を他の人と共有したいからでしょうね。思い出という、人生の重要な大部分をかみしめ、活性化させたい願い。歳をとることの良さは、思い出の蓄えがますます増える点かもしれません。お金は貯まらないけど、思い出だけはたまるもんね。いい思い出ばかりなら幸せですが。楽しい思い出のために、おいしい物を作ろっと。DSC00359 posted by (C)solar08タチアオイ?フランスの庭で
2011/06/21
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ドイツのラジオ・テレビでも、刻々の東北太平洋沖地震・津波その後の様子、福島原発事故の経過が刻々と発表されています。あまりの悲惨さに、言葉もありません。「家も何もなくなった。でも命が助かった。何もいらない、命だけでいい」とつぶやく男性、ブルブル震える手で受話器を握り締め、相手の方が出てくれるのを絶望的に待つ女性・・・、涙が出ます。元夫は岩手の山の中にいるので、何日も連絡がとれず心配しました。携帯も電気もつながらないところですが、物が落ちただけで、無事だったようです。ふだんから、水は山の上から出る湧き水をホースでひいているし、暖房はまきストーブという原始的な生活をしているので、こういう事態では逆に生き延びやすいようです。福島原発の状況が悪化の一方をたどっているのがとても心配です。原発推進国であるフランス(80パーセントを原発でカバー、日本は30パーセント)の原発管轄当局ですら、福島原発の危険度スケールは6から7であると発表しました。事情は異なりますが、チェルノヴイリ事故も危険度7だったそうです。現場で必死の作業にあたっている方、危険をおかしてヘリから水を投下した自衛隊の方、本当に頭が下がります。ドイツの原発専門家たちはテレビのインタビューで声をそろえて、「日本の現場の技術者たちはベストを尽くしている、現在のような措置をとるしか道はない」と言っています。そして、世界中から「こういうときにも落ち着いていて、礼儀や節度を失わず、お互いを思いやっている」と称賛を受け(今のニュースでも、ドイツ人特派員が、「ほかの国だったら、とっくにとんでもないパニックに陥っていたはず」と言っていました)る被災地や、東京を含め関東地方の方々にも、頭が下がります。祖国に戻った外国人は多いようですね。東京からこちらに戻った女性などが、テレビのトークショーで得々と話しています。特派員の多くは昨日からは東京からでなくて、大阪からリポートしています。まだ東京にふみとどまって取材をしているドイツ特派員もまだいるので、感心しましたが。すぐに生活場所を変えられる外国人はともかく、原発周辺地域および関東地方などで生活しているふつうの日本人は、危険だからといってすぐに逃げることもできません。こちらから見ると歯がゆくても、そう簡単に生活基盤を捨てることなど、人間にはできないのですね。東京にいる息子家族に「ドイツに逃げてきて」などと軽々しく説得しようとしましたが、逆に「パニックの方が怖いよ」と諭されてしまいました。放射線物質を浴びる危険と生活基盤を失う危険のどちらを選ぶか、決断はしにくいのですね。そもそもどこに、どのように避難し、どのような生活を、どれだけの間するのかすらも、わからないのですから、ただ逃げればよいというものでもないのかもしれません。ただただ、現在の措置のおかげで徐々に冷却が進むことを祈るばかりです。今は、目下は風向きだけが頼りです。ドイツのテレビ天気予報は、14日以来、ドイツ・ヨーロッパの天気予報のあとかならず、日本地図を見せて、風向きの予報を伝えてくれます。16日はいったん風向きが南向きになったので心配しました。今後はしばらく太平洋に向けて風が吹いてくれそうなので、ちょっとだけほっとしています。でも、原発周辺の住民の方々のご苦労・苦痛を思うと、胸が痛みます。一部の方が関西に移動されたというニュースも見ましたが、まだまだたくさんの方が残っておられるでしょうし、そんなに簡単には遠方の地に避難できないでしょうし。こちらからは何もお役に立てなくて、もどかしいです。自分の子どもにすら、役に立てることは何もできません。あまり心配すると、かえって彼の負担になるようなので、それも心の中に閉じ込めるだけです。正確で公正な情報が常時すみやかに公開され、市民が冷静に行動できることを願っています。もちろん、メルトダウンにならないことも。
2011/03/16
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昨日は快晴、気温も二十度近くだったので、窓を開けて、キッチンの壁のペンキ塗りをしました。こちらの住居の壁の多くは、石膏ボードに厚い壁紙が貼られており、汚れてきたらペイントします(もちろん、板張りとか壁紙の壁もありますが)。キッチンの壁、ペイント前 posted by (C)solar08わたしの住居の壁は、二十年前に購入したときに、前に住んでいた人が明け渡し時にすべて白に塗装していってくれました。白は無難ですが、たいくつでもあります。日本にいた頃は、壁のペンキ塗りなどしたこともなかったのですが、こちらでは自分で塗ってしまう人が多いんです(お金もちは違うでしょうけど)。わたしはそんなことも面倒で、十年以上の間、壁に蜘蛛の巣がかかり、汚れるままにしておいたのですが、数年前にとつぜん思い立って、玄関ホールの壁を真っ赤にペイントしました。えんじ色がかったボルドーにするつもりが、いつのまにか真っ赤になっていたのです。訪れるお客さんが思わずぎょっとします。こちらも「ここは、売春宿です」って、ポロリと言ってしまうほど(といっても、行ったことはありませんが、雑誌とかテレビで見てたぶんそうだろうと)。これはやっぱりまずいかなと、またも塗りなおし。淡いピンクにするつもりが、色をさまざまに混ぜているうちに、こんな色↓になってしまいました。玄関ホールの壁 posted by (C)solar08まだまだ派手ですが、もういいや。慣れたし。ワイマールで文豪ゲーテの書斎を見て以来、「仕事部屋はブルーだわ」と決めつけ、窓のある一面だけ、ブルー(上の紫の残りとか緑を混ぜて)にしました。仕事部屋の壁 posted by (C)solar08でもね。仕事部屋には冷凍庫まで置かれ、買いだめした各種の粉も積まれていたりと、ゲーテの書斎にはぜんぜん似なくて、ただの物置となっております。浴室の壁はタイル貼りなのですが、元のタイルはベージュ色で、すっごく退屈でダサかったんです。ブルーと白のバスルームにしたーい、とばかり、タイル用のペンキを買って、大胆に塗り替えることにしました。二年ぐらい前のことです。バスルームの壁 posted by (C)solar08ペンキ塗りでの悩みは高い天井。四段の脚立の最上段に立って、やっと天井まではけが届くのです。で、狭いバスタブの底に脚立を立てました。ちょっとゆらゆらするけれど、大丈夫そう(と思った)。半高所恐怖症なのに、慣れてくると、それなりに昇れたので、いい気になっていました。そして、「アー」ちょっと油断した瞬間に、脚立がみごとに横倒しとなり、わたしは空中にほうりだされました。悪運が強いらしくて、洗面台と二段の低い棚の間に落ちました。棚に腕が引っかかったおかげで、衝撃が緩和され、腰をしたたか打っただけで、頭は無事。腕は打撲傷を負いましたが。でも、空中に放り出されている最中に、シヌカモシレナイ、と思いました。実は階段から落ちたり、教会の塔から落ちる夢はよく見ます。落ちている最中に、「今度こそ、これは夢じゃない。本当に死ぬんだ」と思いこみます。そのときに、いつも心をよぎるのは、元夫に「ごめんなさい、ありがとう、さようなら」を言いたい、という想い。さよならを言ってから死にたいと、手を差し出すのです。その瞬間に目が覚め、「あーら、今回もまた夢だった」と我に返ります。でも、いつかは死の瞬間はやってくるはず。で、脚立転倒で落ちた瞬間も、「これは夢か現実か、元夫にさよならを言わなくちゃ」とチラッと思ったわけです。でも、実際に彼と会って話すときには、ありがとうもごめんなさいも言わないんですけどね。そんなことを思い出しながら、昨日は合計八時間、ペンキ塗りをしました。幸い、脚立は倒れず、脚立から落ちることもありませんでした。腰が痛くなっただけ。壁の一面だけを淡いグレーに、二面はグレーを「隠し味」的に混ぜた白。残り一面はシステムキッチンで隠れるので、そのまま(蜘蛛の巣をとらないとマズイ)。キッチンの壁、ペイント後 posted by (C)solar08照明はIKEAの超安ランプペンキ塗りと同時進行で、麻の実、キャラウエイ、雑穀、ヒマワリの種入りのカンパーニュを発酵させ、ペンキ終了と同時に焼きました。麻の実、雑穀など入りカンパーニュ posted by (C)solar08前回で書いたパナソニックのレンジオーブンで、ビビアンさんの本の指示どおり、ボールを最初の15分かぶせて焼いたら、ちょっとだけクープが開きました。ブラックバードの雄 posted by (C)solar08
2010/03/25
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またまた祖母の話で失礼します。もうこうなったら、祖母→食べもの→祖母→食べもので行こうかしらん。私は性格や顔の悪さの点では祖母に似たのに、祖母の肌の白さや黒髪の寿命の長さは似ませんでした。一歳下の弟は、美顔は両方の祖父からもらい、ついでに温和な性格も母からもらったみたいで、劣等感は子ども時代から続いております(まあ同性でなくてよかった。同性だったら、妬みでいっぱいになっていたであろう)。祖母は78歳で他界するまで、白髪があまり目立ちませんでした。その秘密は?これが正しいかどうかはわかりませんが、実は祖母は一年に一度しか髪を洗わなかったのです。といっても、祖母は相当の潔癖症で、金に触れたときにはすぐに石けんで手をごしごし洗い、牛乳瓶は素手でつかむことを拒みました。祖父母の風呂は薪で炊いていた(1983年に祖父が他界するまでこれは続いた。東京のど真ん中です)ので、お風呂は一週間に一度だけ。それでも祖母が不潔っぽく見えたり、汗臭かったことはありません。一日に何度も肌襦袢を取りかえたり、体を拭いていたからでしょう。で、髪なんですが、祖母は毎日、かもじ(ご存知ですか?髪を結うときに加える添え毛、入れ毛、足し毛、タボのこと)やすき毛といっしょに髪をとかしていたのです。汚れはかもじに移り、そのかもじを頻繁に取り替えるのです。丹念にとかれ、梳かれた髪は、ツヤツヤと光っていました。汗の臭いはまったくしません。そもそも、祖母が額に汗して何かしたことは、狭い庭を動物園の檻のオオカミのように、行ったり来たりする以外にはありませんでした。いつも、窓辺にすわって、巻紙に筆で、私には難解なくずし字で、さらさら書くだけ。「何書いてんの?」と聞いたら、「日記。っていっても、今日、何を食べたかってことだけ」(これは現在のブログに通じるものがあるかもしれない・・・)たまには和歌もしたためていたらしいのですが、私は習うチャンスを逃し(というか、習いたいとも思わなかった)、いまだに和歌・俳句・詩のたぐいは、まったく駄目です。さて、一年に一度、祖母はこう宣言します。「今から髪を洗うから、電気製品は使わないようにしておくれ」???祖父母の家と父母と子どもたちが住む家は、同じ庭の中にはあっても、独立した二軒の家なのですが、祖母はなんと、自分がドライヤーを使っている間に、他の人が電気製品のスイッチを入れると、感電するのではないかと思っていたのです。ふだん、ラジオ(テレビを祖父母はまったく見ませんでした)を聞いたり、照明のスイッチを入れるのは平気なのに、ドライヤーだけは、感電すると思ったようです(塗れた髪を乾かすから、わからないではありませんが)。もちろん、私はそんな祖母の言葉を「フンフン」とうなづいて聞いておくだけで、私たちの家で電気製品を使っておりました。隣の家で祖母は、そんなことも知らずに、ドライヤーと格闘していたことでしょう。感電もせずに。話が前後しますが、祖母はシャンプーとか石けんで洗髪するのではなくて、本物のフノリを溶かして丹念に髪を洗っていました。もしかして、これがあの黒髪、白髪なしの原因なのでしょうか。実験してみたことはないのですが、髪を洗わないことといい、シャンプーを使わないことといい、かなりうまい方法だったのではないかと思っています。本当はドライヤーも使わない方が髪にはよかったはずですが。私も真似をすればよかったかなあ。もう遅すぎる。
2009/10/14
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人が話すことの多くが、過去の出来事(何年も前のこととか、昨日とか、数時間前に起こったこととか)ではあるとはいえ、子ども時代の思い出ばかり話すのは、歳をとった証拠なそうですね。いやだなあ。「よし、昔の話はつつしもう、」と決心はしたのですが、また一つ、思い出してしまいました。まあ、夏だから、ちょっと恐い話を。小学校は東京の根津というところにありました(今もあります)。当時は小学校の裏の台地に空き地があり、そこが裏山と呼ばれていました。位置的にいえば、東京大学の農学部と根津神社の間ぐらいのところです。ここには、ときどきクラスみんなで出かけることがありました。草が茂り、大きな木々もあって、都会の真ん中の子どもが自然に接するには良いところでした。この空き地の隅には、古い蔵のようなものが建っていました。使われてはいないようで、半ば廃墟のような家です。この蔵のことを、学校付近に住んでいる子どもたちは「お化け屋敷」と呼んでいました。「ここにはときどき、こわーい、強盗みたいなのが来るんだよ」といった噂は、私の耳にも入りました。私自身の実家は根津ではなくて、根津から東大の方向に行った弥生というとろににあります。東京大学の本郷キャンパス(東大構内)と、その一部である浅野キャンパスの間の小さな地区です。それで、学校が終わると、私だけは根津や谷中の方向ではなくて、逆の方向に一人で歩かなければなりません。低学年の頃は、どうせ仲間はずれだったので、それはどうでもよかったのですが、高学年になって、友だちができると、友だちと学校前でわかれるのが悲しくて、ときには根津に住む子どもたちといっしょに、歩いて行くことがありました。ある日のこと。どしゃぶりの雨で、空も暗い午後でした。気がついてみると、根津神社の正面入り口の前で、かさをもって一人で立っていました。根津神社は、子どもたちの遊び場でもあり、学校から写生に行く場でもあったりして、とても身近な存在でした。ツツジ園が有名な、古くて美しい神社です。でもその日はすごい雨でしたから、根津神社で誰と何をしていたのかは、まったく記憶にありません。気がついたら、ひとりだったのです。あたりに人はいませんでした。家に帰るには、根津神社からいったん学校の方へ戻り(地下鉄根津駅の方向)、言問通りの坂を本郷通り方面へと登るのが「正規のルート」です。でも、そのときはどういうわけか、近道をしたくなったのです。近道というのは、根津神社の前の道をちょっと行ったところにある、暗くて細い石の階段をのぼって、「裏山」にのぼり、そこを斜めにつっきって、言問通りの坂の上に出る、というルートです。目の前の暗い階段を見て、気持ちがすくみました。「もし、階段を昇っている途中に、上から恐いオジサンとかが降りてきたらどうしよう」と想像して、恐くなったのです。それなのに、(これが自分でも理解できないところです、恐いのに何かしちゃうの)、かさをさしながら、そのものすごく暗くて細い階段を昇りはじめました。と、そのときです。上から暗い影が降りてきました。ぎょっとしてみると、中年(子どもの目から見たので、はっきりしませんが、三十代半ばから四〇歳ぐらい)の背が高めの男性が、やはりもちろんかさをさして、降りてきたのです。背広などは着ておらず、セーター姿(黒っぽい緑)でした。私はドキドキしました。この男性と、この狭い階段ですれちがわなければならないのです。当時というか、もうちょっと前には、まだ「人さらい」という言葉や噂がありました。おとなが子どもに「そんなことをすると、人さらいに連れていかれちゃうよ」みたいな使われ方の人さらい。実際、もっと幼い頃、家の前に立っていたら、あやしげな男性から「コッペパンあげるからついておいで」と言われて、大急ぎで家の中に飛び込んだことがあります。そんな記憶と、「お化け屋敷」の噂と、あたりの暗さなどが重なって、恐怖は頂点に達しました。それでも、引き返せば、かえって相手を刺激する(いや、相手はクマじゃないんだから、そんなことはないはずですが)という「理性」が働いたのか、気持ちが金縛りにあったのか、私は階段をそろりそろりと昇り続けました。この間、実際は数秒のことです。気持ちはスローモーションで動きますから。ついに男性と私がすれ違う接点まで来たとき、わたしは足早にすり抜けようとしました。ところが、「アッ」この声は両者から発されたものです。私の傘の先(ぽつぽつした部分)の一つが、この恐い男性のセーターに引っかかってしまったのです。足早に通りすぎるどころか、私は男性と体がすれすれのところで、立ち止まらなければなりませんでした。男性はすっごーくいやな顔をして、舌打ちしながら、セーターに引っかかった私の傘の先をはずしました。この間、数秒以上。それから、男性は無言で階段を降りていきました。「すみません」とか何とかモグモグ言って、私は大急ぎで階段を昇りました。そのあと、お化け屋敷のそばをどう歩いたかは、覚えていません。まだ心臓がドキドキしていて、あたりのものは目に入らなかったのです。あー、私が可愛い少女でなくて、よかったー!!っていうか、あの男性は無害なただの人だったという可能性が一番高いですが。あんまりスリリングな話でなくて、すみません。根津神社やこの周囲の根津・谷中・千駄木(谷根千)にはまだ昔の下町風情が残っていて、とても楽しい町。ぜひ、行ってみてください。同級生の一人はいまだにかばん職人として、この町で男性用の高級カバンを手で縫っています。
2009/08/01
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小学校の低学年のころは、自主休校ばかりしていました。登校拒否などというほどのことではなくて、暖房のない家だったために風邪をひくことが多く、それがたいしたことでなくても、例の祖母に「体が大事」と休ませられたのと、両親も子どもを学校に行かせることにそれほど関心がなかったのもあって。いずれにしろ、一年生では57日、二年生では64日という欠席日数は。ふだん物覚えが悪くて、電話番号や日付はぜったいに覚えられない(いまだに子どもの家の番号を覚えられません)わたしが、いまだに覚えている数字です。それで、学校を休んで何をしていたかというと。母が勤めていたし、祖父母は別の棟に住んでいたので、ひとりぼっち。わが家にはテレビという娯楽機器もなかったので、ラジオの学校放送や高学年になってからは、ヒットパレード(坂本九とかね、知らないでしょうねお若い方がたは)とかを聴きながら、本を読んでいたのです。母はしょっちゅう本を買ってきてくれて、若草物語とか小公子とかは暗記できるほど繰り返し読みました。当時は「岩波少年少女文庫」というのがあって、低学年用は濃いピンクのまだら模様の表紙、高学年用は青で同じ模様の表紙でした。挿絵も線画が少しあるだけの、地味な本でしたが、名作がずらりとそろっていた記憶があります。エーリッヒ・ケストナーの「点子ちゃんとアントン」(ベルリンが舞台ですが、当時は自分が将来、ドイツに行くとか住むとか帰化するなんて、夢にも思わなかったし、そもそもドイツという国が現実にあるものだという感じはしなくて、メルヘンの世界のようでした)、「二人のロッテ」「エミールと探偵たち」、デュマの「三銃士」などは、なんどもなんども読んだものです。こうやって、書いてみると、昔の児童書は翻訳物が多かったのですね。息子が読んだ児童書には、日本の作家の名著がたくさんあったのとは、対照的です。読む本がなくなってしまうと、家にある大人用の小説や推理小説、雑誌「主婦の友」も読みました。わからない漢字も単語もなんのその、すべてすっ飛ばして。ま、主婦の友は、とくに付録の料理の本が好きでしたけど。今回、思い出をたぐりよせてみて、気がつきました。高学年になって、学校を休むことがわりあい少なくなるにつれて、読む本も少なくなりました。さらに、中高つづいている女子学校に入ってからは、さらに少なくというか、ほとんどまったく本を読まなくなったのです。学校の「お勉強」とかクラブ活動とか、なんだかんだと忙しくて、本を読むゆとりがなかったのでしょう。さらに受験勉強(へへ、ちょっとはしたんです)で、本どころではなくなり、大学に入ってからは、今度はお勉強ではなくて、遊ぶのに夢中で(大学って、私にとってはまったく学びの場所ではなくて、ボーイフレンドづくりとか結婚相手発見の場所だった。ひどいもんです。ちゃんと勉強すればよかったと反省をいまごろしても、遅すぎます)、本は、試験に必要なもの以外は手にとることもしませんでした。そうやってみると、学校に行くことで、本を読むことが少なくなるってこと?実際、大学卒業して、結婚・出産してからは、また本をかなりむさぼり読んだものです。ま、これはすべて「まえがき」。ずっと探しつづけている児童書があります。上に書いた岩波少年少女文庫の中の、たしか高学年用の一冊です。ヨーロッパのどこかが舞台で、思い出せるシーンの一つは、主人公の男の子が、(たぶん)親が庭の中に隠しておいてくれた、イースターの卵を見つけるところ。当時はもちろんヨーロッパの家庭が、イースターに色塗った卵を飾ったり、卵さがしをするなんてことは知りませんでしたから、「イースターの卵」とはいったい何なんだろうと不思議でした。現在はイースターの卵代りに、卵やウサギの形をしたチョコレートを探したり、食べたりすることも多いですけどね。日本のヴァレンタインと同じように、チョコレート会社の謀略でしょうか(ドイツではヴァレンタインにチョコはあげません。男性が女性に花をあげることぐらいはあってもね)。もう一つ覚えているのは、主人公の男の子が、庭のハリネズミ(ネズミという名前が日本語ではついていますが、これは陸上生活をする食虫類、つまりモグラの仲間です。家の庭にもときどきヒタヒタと歩いて出てきます)をとらえて、焚き火だかなんだかの中に入れて、蒸し焼きして、針に刺されないようにしてから、肉を取り出すというシーン。これも、当時はハリネズミなるものを知らなかったので、どう想像してよいか、わからなかったものです。いま読めば、まだほかのシーンも理解できるだろうと思って、ぜひ、この本を読んでみたいのですが、題名も、作者もまったく思い出せないのです。岩波少年少女文庫のほとんどは、いまは姿も名前も変えて、豪華な復刻版が発行されているようです。それで、岩波書店の編集者の方に、このリストを送っていただき、「調査」もしていただいたのですが、この本だけは見つかりません。なにしろね、登場人物の名前もわからず、覚えているのが、イースターの卵とハリネズミの蒸し焼きだけですからねえ。この本が復刻版に入れられたのかどうかは不明です。そこで。もし、どなたか、この本を読んだような記憶がおありでしたら、ぜひ教えていただけませんか?もう、何年もさがしているのですが(といっても、熱心さに欠けた)、先週のイースターがきっかけで、またも記憶と願望がむくむくとわいてきたのです。当時の少年少女文庫を入手したいとも思っています。いつかね。
2009/04/19
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もう、十年近くも前のことです。心臓がふつうでない動きかたをするのに気がつきました。喉に突き上げたり、おなかをボンと押すように躍動するのです。むかしから一年に二、三度はこういうことがありましたが、突然、とてもひんぱんになって、数秒間に一度はトクトクと胸を打つのです。もう十分に生きたから、手術などで寿命をのばそうとは思わないけれど、自分の体で何が起きているのかを知りたい。そんな思いで、心臓医に電話をしました。ところが、ドイツでは体に何か問題があったら、まずホームドクター、つまりかかりつけの一般医に診断を仰がなければならないことになっています。その上で、場合によっては専門医にまわしてもらうのです。案の定、心臓医からは「ホームドクターの指示なしでは、こちらで直接受け付けることはできない」と断られてしまいました。でも、医者嫌いの私には、ホームドクターなどいませんでした。以前に娘がお世話になった小児科医がやさしい紳士だったので、あるとき「私のホームドクターになってください」と言ったら、「なってもよいけれど、あなたは子どもではないから、保険がききませんよ」と言われてしまいました。あれこれ、思案にくれて、思い出しました。九年ぐらい前、悪友Fの家にジョギングの半ズボン姿で立ち寄った男性がたしかお医者だったはず。彼については二つのことだけが印象に残っていました。一つは、初対面の私に向かって、「浮気をしてしまったので、妻にちょっと後ろめたくて」と前後の脈絡もなく、ぽろっと口にした言葉。もう一つは、「なんのお医者さんなの?」と聞いたときの答え。「一般医と運動医だよ。でも、すぐに注射や薬の処方はしないんだ。できるだけ時間をとって、患者の話を聞くような医者でありたい」眼鏡の奥でたれ気味のやさしい目がほほえんでいました。そうだ、彼なら強引に治療は勧めないだろう。さっそく予約をとって出かけました。待合い室の壁には、希望者には自然治療や心理セラピーをおこなう旨が書かれた説明書や「中国針灸師」の免状が掲げられていました。ミニ心電図を看護婦さんにとってもらって待っていると、ドクターから姓ではなくて、名前を呼ばれました。わたしを見知らぬ患者としてでなく、いわば「友だちとして知っているよ」という意味です。「友だちとして知っている」男性に、上半身とはいえ裸をさらすのはあまり気分のよいものではありませんでした。でも、医者にとっては私はただの物体にしか見えないはずですから、恥ずかしがるのも恥ずかしいですが。「久しぶりだね。いつか街角で君を見かけたよ」「私もあなたを見かけたのだけれど、きっと覚えていないだろうと思って、話しかけなかったのよ」「覚えていたよ。僕の方こそ、君が覚えていないと思ってた。Fが僕のところに行けとでも?」「まさか、自分で決めたのよ」白衣でなく、シャツ姿の彼と相対していると、お医者と話ているとは思えなくなってきます。彼は、心電図をみながら説明してくれました。「これは期外収縮といって、心臓が通常外の形で収縮するんだ。原因はいろいろある。精神的なことで起こる場合もある。たとえば仕事のストレスとか。このごろ仕事がたいへんなの?」「ストレスになるほど忙しくはないわ。肉体的には疲れてもいない」「じゃあ、悩みかなにかあるのかな?」彼が精神セラピストでもある、という先の張り紙がちらと頭をかすめて、思わず「恋の悩み」とつぶやいてしまいました。すると堰が切れたように、あとからあとから言葉が流れ出ました。「悩みなのかなんなのか。苦しいともいえるし、幸福だともいえるし。寂しくなったり、不安になったり。いろいろな想いがぐるぐる回って出口がないの。一番くやしいのは、精神的に相手に依存しているということ。こんな年齢にもなって、くやしいの」(お若いみなさん、中年女性がこんな小娘みたいなこと言って、ゲーッと思われるでしょう。でもね、そんなもんなんすよ。人間(というより私)はいくつになっても、精神的には二十歳の頃の程度のままというか、こういう感情に年齢はないというか。)ドクターはむかしより髪の毛は薄くなっっていましたが、あいかわらずやさしい目でこちらを見つめています。たしか私よりも五歳以上若いはずですが、こういうやさしいお父さんのような表情に、私は弱いのです。思わず緊張がゆるんで、これまでこらえていたもろもろの想いがあふれそうになりました。机という隔てがなかったら、その肩に寄りかかって、よよと泣きくずれたいところでした。ドクターは表情をかえることなく、ゆっくりこう言いました。「いま、話してくれたとき、君は唾を飲みこむようにしたね。君は心の苦痛を飲みこもうとしている。感情を無理やり押さえつけると、それが身体に出てくることがある。心臓の反応もそれかもしれない。悲しいときは泣けばいい。くやしかったら、あたりの物にボクシングしてもいい。気持ちを内に閉じこめないで、身体で外に出すことだ。でもうれしいこともあるんでしょ?」「うん、たまにはね。へへ」「そういうときは、その喜びも思いっきりあらわすことだ。そして、スポーツをしたり、外を散歩するといい。とにかく体を動かすんだ」結局、しばらく様子を見て、好転しなければまた診てもらう、という予想どおりの言葉をいただきました。診療所を出て、やさしい秋の光のもと、落ち葉の上をさくさくな歩くうちに、気がつきました。薄い織物でそっと包まれたようなおだやかさが胸に広がっているのです。ホームドクターの治療は有効時間は短かったにしろ、一時的には効いたのかもしれません。時の力なのか、一年もたつうちに、心臓のおかしなトクトクはなりをひそめました。それ以後、ホームドクターにお会いしたことはありません。
2008/08/15
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もう十年前のこと。一時帰国していたある日、実家で母と食事をしていて、妙なことが気になりました。母がご飯を口に入れるときに、「スーッ、スーッ」とすするような音をたてるのです。日本に住んでいたときには、母のこんな癖には気がつきませんでした。というよりも、これはごくふつうの食べ方で、自分でも無意識にしていたかもしれません。それが、習慣のちがう国で長く生活していたためか、こんな些細なことが、急にとても奇異に感じられたのです。母はくったくなく、おいしそうに食事をしています。私は気になりだすと、ますます気になってしまい、ついにとがめるような声で言ってしまいました。「ねえ、なんで音をたててご飯食べるの?」すると、母は「だって、こうやって食べるとおいしいんだもの」と申し訳なさそうな顔をすると、それからは恥ずかしそうに、えんりょがちにご飯を口に運びました。わたしは後悔しました。さっきの言葉を引っ込められるものなら、引っ込めたいと思いました。母がおいしく感じるのなら、どんな食べ方をしたってよいはず。それに、場所は彼女の家。私以外の誰も聞いているわけでも、見ているわけでもないのです。それなのに、私の低レベルのスノビズムが、こんな無神経な言葉を母に投げかけさせてしまったのです。でも、今からわざわざあやまれば、かえって母にもっと気まずい思いをさせます。とりなせるような言葉がみつからないままに、食事は終わってしまいました。そのあとも、なにかにつけてこの出来事が思い出されて、そのたびに心がチクチク痛みました。そして、母はしばらく後に、あっけなく逝ってしまいました。あやまるチャンスは永遠に閉ざされてしまったのです。
2008/08/12
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長くて短いこれまでの人生の中で、意図せずして、あるいは半ば意図して、いろいろな人を傷つけてしまいました。今となってはあやまりたくてもあやまれない。そんな自分の「罪」を公開懺悔します。懺悔したからって許されるものではないことを知りながら。今回はその第一話です。腰をおろしたネコのうしろ姿が好きだ。丸っこい小さな頭につづいて、やわらかい毛に包まれたあたたかそうなお尻がこんもりと盛り上がっていて、この姿の主が、いかにもくつろいだ生活を楽しむ正直者のように見える。ネコのうしろ姿から連想するのは、小さい頃の弟のうしろ姿だ。刈り上げた丸っこい頭の下に、さめた漬け物のナスのような色の綿いれ半纏をきて、背中を丸めてすわる弟を見ると、思わず抱きしめて、よしよしと頭をなでたくなったことがよくある。けれども、そういう衝動に駆られたのには別の理由もあった。幼い頃、私たちは毎日二人だけで家の中や庭で遊んだ。二人だけでもできるあらゆる遊びを考えて出して、飛び回った。そういうとき、私がリーダー役で、一歳年下の弟は私の指示に従うのが常だった。実家の羽目板にはキヅタがはっていた。ある時、羽目板にキヅタの吸盤の跡を見つけた。私にはいまでも、丸いポツポツしたものを見ると、鳥肌が出る一方で、それにさわり、それをかきむしってしまいたくなるおかしな癖がある。ポツポツが気持ち悪いくせに、引きつけられるのだ。キヅタのツルが一部落ちたところには、小さな動物が手形をつけたようにな丸いポツポツがならんでいた。もしキヅタ全部を取ったら、どんな光景が見られるだろう。私は弟にこう講釈した。「このツタは家をこわすから、全部これをはずすといいんだよ。」「ほんと?」「ほんと、ほんと。この葉っぱぜんぶとっちゃおうよ」「うん!」弟は羽目板にぴったりへばりつくキヅタを力をこめてはがしはじめた。私はその背後で「そのへん、そのへん」などと指示した。やがて窓の下の羽目板はすっかり赤裸になり、ポツポツとした模様を見せていた。湿疹やはしかが治る直前のかさぶたがならんだような光景だった。結果は、クリスマスが終わったあとの落胆まじりの寂しさに似ていた。私は満足のような不満足のような煮えきらない気分で、家の中に入り、しばらくのちにはもう忘れてしまった。とつぜん、玄関の戸ががらりと開き、「こんなことをしたのはだれだー?」という祖父のライオンの咆哮のような怒鳴り声がとどろいた。同じ庭の中に我が家と隣あわせでたっている家から祖父が我が家にとびこんできたのだ。「だれだ」という問いを言葉どおりにとると、犯人は弟ということになる。とまで深く考えなかったが、私はまだだまっていた。祖父は勝手に「おまえだろう」と弟に非があると決めてかかった。もともと無口な弟はなにも言わない。「なんでこんなことする!」と言いながら、祖父は弟をつかみだした。玄関から門まで、四角い敷石が二列にならんでいた。私たちがローセキで絵をかいたり、石けりをしたり、かけっこをするのにちょうどよい通路だ。この通路を祖父は弟を引きずるようにして大股に歩くと、せかせかと門の引き戸を開けた。そして弟を外につまみ出し、ぴしゃりと戸を閉めて、鍵をかけた。門の向こうから、しくしくと泣く声が聞こえた。従順な母には、狂人のように猛る舅に抗して弟を入れてやる勇気はなかったらしい。そんなことをすれば、もっとひどい罰が弟に下ると判断したのかもしれない。私はただ、びくびく震えていた。その時、門のブザーが鳴った。誰か来たらしい(弟に呼び鈴は届かない)。「こんな間の悪いときに」という面もちで母が門を開けると。祖父の教え子の学生が、泣いている弟を抱いて、にこにこしながら立っていた。ばたばたと出てきた祖父に、若者はくったくなくあいさつして門をくぐり「お孫さんをお連れしましたよ」とほほえみながら弟をおろした。祖父は若者にはあいそ笑いをつくって家に上がるようにすすめてから、弟をなぐった。弟の涙でぐしゃぐしゃになった顔は、いまだに忘れられないほど赤かった。門のとなりで満開を迎えていた乙女椿の花よりも赤かった。母は私に「ずるいよ」と一言だけたしなめた。弟はなにも言わなかった。この出来事があってからは、弟の半纏うしろ姿を見るたびに心が傷んだ。けれども、あやまる言葉もみつからず、抱きしめるというすべも知らないまま、時は過ぎてしまった。中学以後は学校が異なったこともあって、弟と遊ぶことも話すことも少なくなり、やがて彼は地方の大学で学ぶために家をあとにした。そして、そのまま地方で就職して結婚し、三人の子どもたちをもうけ、家庭中心の堅実な暮らしをしている。一方、エゴイストの私はせっかく築いた幸せな家庭を娘とともに出て、ドイツに住み着いてしまった。過去三十年に弟と顔を合わたのは、祖父母や父母の葬儀のとき以外ほとんどない。仲が悪いわけではないが、子ども時代に遊んだときのような気持ちの橋を、いまの私たちの間にかけることはできない。ツタのことを謝る機会は永遠に閉ざされてしまった。
2008/08/04
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