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京都は東山七条、智積院の脇を入って、豊国廟の下。鬱蒼とした山麓の一角に、茶室桐蔭席はある。そこで開かれる茶会にお招きを受ける以前は、その存在を知る由もなかったのだが、それは千家で最も格の高い茶席と言われている茶会。そこに身を置いた幸運なそしてサプライズな時間。その記憶を記そう。桐蔭席で釜を掛けることは、裏千家では大変名誉なことで、一生に一度でも掛けられれば茶人冥利に尽きると言われているほど。その貴重な席にお招きを受けるのも、釜掛けの席主に縁がないとその機会も無い訳で、これを逃せば次は10年後ですよと師匠に言われ、2つ返事で参加させて頂いた次第。ちょうど連休、気がつけば京都に宿は無く、琵琶湖畔の石山に宿をとり、その日の朝を迎えた。社中からは私達夫婦の他には頼もしい熟連の先輩2人。1人はこの日が記念すべき誕生日。豊国廟の下で待ち合わせると、前日京都で準備した白い靴下が誕生日プレゼントに化けてしまったのは想定外の貢献。そして、期待と楽しみ、緊張感の中、千宗室との表札の掲げられた席へとはいっていった。待合に入るにあたり、招待して頂いた師匠とも顔を合わせて緊張もほぐれる。床には富士山、土佐派の筆。江戸から箱根を越えていざ京へ、その途上に見た富士山と重ねてみる。その間、颯爽と登場された大宗匠の姿も目に入ると、席へと入られたので、待合で待つこと暫し。やがて順番となり、露地へと出ると、そこは静寂。歩を進め手水で清めると、躙り口から茶室へと入った。そしてその後はというと、、、緊張感からか、ふわーっと浮いてしまった気がする。一期一会の出会い、道具の取り合わせも一期一会。しかしその焼き付けた筈の残像も記憶ももろくも消え去ると、頼りは会記だ。竹の花入れは"相生"。そして来るソチオリンピックにかけて、五色をお道具で表現されたとのお話があったが、黒織部(アフリカ)、赤楽(オーストラリア)、黄伊羅保(アジア)、青交趾(ヨーロッパ)に、緑は青磁(アメリカ)、とあらためて会記を見てうなずいた。その後、広間で懐石。欄間には瓢だったか? 箸も進んだところで、能を嗜まれているという亭主から一曲、謡(うたい)を披露。そんなサプライズに息つく間もなく、すかさず亭主から正客へ返答のリクエスト。 するとそこで正客様が謡で返礼。その席の情景、感動を即興で詠まれたのだろうか、圧倒的な迫力。ただただびっくりさせられた私は、固唾を呑んでその場に身を置いていた。その場面に、前年の大河ドラマ"平清盛"の和歌の応酬、藤原摂関家と渡り合う平忠度(ただとき)、そのシーンが重なった。茶席で能に触れようとは思いもよらなかったが、茶の湯は日本の総合芸術。それを昇華させる上では、能への理解も重要な要素と知らされ、とても到達しえない奥の深さを感じた。お道具の記憶は薄れても、あの謡の衝撃は今になっても脳裏から消えない。(書きかけだった日記、2年の月日の後に回想して、。。。)
2013.11.02
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茶の湯の道に飛び込んでから既に5年以上。このブログにおいては、すっかり茶の湯の話題から遠ざかってしまっているが、その間、記憶に残る経験や茶会がなかったわけではない。記憶がまだ薄れないうちに、記しておこうと思う。その一つが今年4月の稽古茶事だ。振り返れば、茶の湯との出会いは、それまでの人生に新たなスパイスを加えてくれるキッカケとなった。大きな転機の一つだったと言ってもいい。新たな世界と視野の広がり、また多くの出会いや経験は、今や私の人生の財産であり、また多くの人と接することが自分自身に自信も与えてくれたと思っている。入門してからの数年、お茶会や月釜の催されている寺社を見つけては、精力的にお茶会に顔を出していた。苦い思い出もあったが、それを学びに変え、ステップにして場数を踏んでいった。茶の湯から広がる知識の連鎖は、私の歴史への関心をさらに深堀りし、多くの再発見をもたらしてくれた。稽古を殆ど休むこともなかった。しかしここ数年、仕事の多忙で出張が多くなると、稽古を休むことも増え、稽古に出ても気持ちの余裕が無くなり、状況が変わってきた。貪欲さを失い、気持ちが乗らないまま稽古している自分もいた。社中では最古参、しかし後から入ってくる人達に越えられてしまい、お点前の技術も道具への関心も当初の情熱は失せて。何とかせねばという気持ちも空回り。社中のお茶会でお点前したり、お運びしたり、水屋仕事したりするが、それらをこなすのもいっぱい、いっぱい。そういう空気を師匠も感じていたに違いない。そんな自分にチャンスを与えてくれたのが、師匠からのひとこと「稽古茶事で亭主をしてみませんか?」だった。その企画があがったのは今年の初め、社中での茶事は2度目となるが、前回の茶事の際には海外出張が入って直前でキャンセルを余儀なくされた。従って、私にとっては今回が初めての稽古茶事。そこで亭主役をしないかと師匠から声がかかったのだった。ここで首を縦に振らずしてどうするか。尤も亭主の役割全てを1人でやるわけではなく、水屋を含めて3人による分業。3人で亭主の一端を実体験して習得するのが狙いだ。私が主とあり、濃茶と点心でのお客様対応、あとの2人がサブと水屋回りで、炭点前、薄茶点前を担当してもらう。露地の手入れも何もしないし、点心の内容などは全くのお任せだ。道具も大筋のところ殆ど師匠がお膳立てしてくれる。ただせっかく亭主をさせてもらうからには、私にとっても眠っていた茶道具を表舞台に登場させる機会。席に合うかどうかの取り合わせを含めて、師匠に相談した。そしてもう1つの難関がお菓子選び。これも1度アイデアを却下され、ギリギリまで頭を悩ました。とは言え、席のテーマと深くリンクする要素であり、悩み抜くことに楽しみや充実感を覚えた。私なりに創り上げたのは、インターナショナル、そして季節の花、その移ろいだ。干菓子は、末富のうすべにと、吉野松屋本店の吉野懐古で春の装い。そして主菓子は北鎌倉の"こまき"さんに茶巾絞で"花菖蒲"(5月の端午の節句、菖蒲の節句にかけて)を作って頂いたのを朝早起きして取りに行き。薄茶には、萩の坂高麗左衛門(当代)さんの桜絵付けがされた茶碗に、ソウルで買った青磁の高麗茶碗(水鳥と花が描かれ)。長崎で購入した鼈甲茶杓には、長崎出島に縁のシーボルトが"紫陽花に名付けた"おたくさ"(お滝さん)を。煙草盆がオランダ風情。そして濃茶の茶入れに萩の吉野桃李釜の肩衝をデビューさせ、銘を'初陣'とした。思えば後から連想が繋がっていった。お客様は7人。大変だったのは1椀7人分の濃茶加減。家でも何度か練習したが、たっぷりの濃茶を1人で7回で飲み干すと目がさえて眠れなくなり、、、あとはその感覚のまま本番、1発勝負に賭けた。点心での千鳥、杯の交換7連発に立ち上がる時、ちょっとよろけるも、千鳥足の由来もこういうことか(大丈夫)。反省点は前週にご招待のお手紙を出せなかったことで、後追いで当日用意した次第。席に入って一人一人に対してご挨拶を述べて始まって3時間超の長丁場。最後の締めは、露地に設けられた特設の野点舞台!!で家内が薄茶の点前も爽やかに。 貴重な亭主体験は記憶に残る素敵な時間。前週日帰りで、京都の浄敬庵を茶時体験の訪ね、一連の流れを肌で感じ、気持ちを高めて臨んだことも自信になったと思う。充実の時間、その余韻を噛み締めた。そして1週過ぎて頂いた数々の御礼状に再び感動した。それでもこの日の亭主役はまだ一部。全てを1人で仕切ることは大変、素晴らしい。道は遥かなり。しかしこの日の記憶を決して忘れることなく、また自身の意識を高める記憶としてここに留めておきたい。
2013.10.18
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茶婚式という言葉を耳にするのも、茶の湯の世界に飛び込まなかったら、きっと無かったことだろう。この日、千利休の命日でもある3月28日、茶婚式というものを初めて体験する。その記憶をここに記しておきたい。とは言っても、私の場合、茶婚式に招待客として出席したわけではなく、お客様をもてなす立場として、参加する。それというもの、この日の新郎が、同じ社中で茶の湯を学ぶ、同じ弟子であり、また先輩であったからである。従って、この日の茶婚式も、社中を上げて、新郎新婦の門出の日を祝うという形となったのである。濃茶席と薄茶席、そして点心席の3席から成った茶婚式。濃茶席を新郎新婦自らが、亭主となり、お点前役となってもてなすと、水屋仕事とお運びとを社中でサポートした。私の家内も、その濃茶席で裏方に入った。そして、私は薄茶席の方へと入り、お点前を1回、そしてお運び、水屋での点出し茶の茶筅振り、さらには案内係、と奔走したのである。既に、ほんの3週間前に、社中でお茶会を開いたばかりのところ、1ヶ月に2度目という、自身にとっても、過去に例の無い経験である。その前回の"雛祭り茶会"で、初めてお点前デビューを果たした私(こちら)は、この日が2度目のお点前。この日の招待客の多くが、お茶関係の方であることは、ある意味、プレッシャではあったが、1度経験したことが、多少なりとも気持ちの上でゆとりを持たせてくれたのは事実である。前回よりも、落ち着いて出来たように思う。過去のお茶会においては、自らが前日の準備に借り出されることは無かったのであるが、今回は前日の準備から始まる。待合や茶室の畳や廊下、水屋の雑巾がけ、そして茶席や点心席に毛氈を敷いた後で、ローラーで埃を取る。また、立礼(りゅうれい)席となる濃茶席にテーブルと椅子を並べる。と、男性陣は身体を動かす仕事が中心となる。思えば、雑巾かけなど、一体、いつ以来のことだろうか。数十年ぶりであるのは間違いないが、最後にそれをしたのはいつのことか、もはや思い出すことは出来ない。しかし、そういう掃除こそが基本、それあってこそ、おもてなしが始まるという基本は、日々の行いにも通じることだ。尤も、ここでは、掃除ではなくて、"清める"という言葉が適切だろうか。そして、茶道具類については、師匠が万事準備を尽くすが、我々に課せられた最後の仕事が、濃茶席で使う、小茶巾(こじゃきん:濃茶を頂いた後、飲み口を清めるもの)作りだった。湿らせた小茶巾を形を整えると、トレイの上に約80個、並べた。これが、その翌日、茶巾落としの上に、人数分並べられるのだが、その作り方を体験するのも、初めてのこと。「なるほど、こうやって作るんだ」と、そんなことにも新鮮さを覚えるのであった。さて、茶婚式当日、外には桜が花を咲かせる光景を見るものの、この日は、冬に逆戻りしたような寒さだった。天気予報は雨だったが、なんとか茶席の間、持ちこたえたのは幸いだった。席を前にした、お寺での結婚式。そこでも杯を参列者に配るお手伝いをするのであるが、なかなかそんな機会もあるものではない。そして、それが終わると薄茶席に入り、おもてなしの準備。控え室で、懐石弁当を頂いて、お腹を満たすと、いよいよ本番。濃茶席での新郎新婦による華やいだ雰囲気の後を受けて、薄茶席を5席、担当する。冬の寒さが身体に応える空気は、薄暗い薄茶席に、あらたな風情ある効果を演出してくれた。釜から、グツグツ煮立つ湯気が白く立ち上り、さらには、お点前の最中にも、茶碗にお湯を注ぐ時、清めたお湯を建水に捨てる時、と湯気が白く立ち上るからだ。そのため、実際に、お点前していて、目の前に立ち上る湯気に時折、包み込まれるようになると、つい自らもそんな光景に感じ入ってしまい、お点前しながらも、そんな演出を楽しみ、陶酔したのである。それが、自らを落ち着かせ、無事、お点前を終えることが出来たのは言うまでもない。そんな演出にさらに厚みを増したのが、釣り釜である。それは3月も最後、この日は、春の訪れの前に、冬への名残りを告げる釣り釜であった、とも言えようか(関連ブログ)。さらには、釣り釜ゆえに、炉中に必要のなくなった五徳が、花入の縁に掛けられて、そこに茶花が通された。永楽和全の作による仁清写の花入に生けられた、この日の花は、その名もユニークな"あぶらちゃん(油瀝青)"と、もう一種だった。床には、新婦にゆかりの富士山が描かれた画賛(がさん:絵と同じ紙上に詩が詠まれている)が掛けられ、香合は亀之洲。会記には、長左衛門の造とあったが、それは加賀の大樋焼。簡単に復習すると、千利休から数えること3代目宗旦の息子たち、宗左、宗室、宗守がそれぞれ表千家、裏千家、武者小路千家を起こし、三千家が始まるのであるが、宗室が茶道奉行として仕官していたのが、加賀藩。そこに楽焼の系統を引く、大樋焼の起源があり、裏千家との繋がりを見るのである。そして、水指は真塗(しんぬり)の手桶。その手前半分の蓋を開けて扱うと、向こう側半分の蓋に重ねるが、その動作を覚えたのも1週間前のこと。以前にも紹介したが、当初、紹鴎棚を使ったお点前をする予定だったのが(関連ブログ)、直前になって師匠の心が変わり、手桶のお点前となる。その手桶にも、この日は特例、祝飾りが取り付けられて、祝賀の雰囲気を演出した。正客のお茶碗は、楽家12代弘入作の赤楽で立鶴が描かれる。そして、二客の茶碗は、三島模様の馬上杯だが、その響きは私には思い出深い(関連ブログ)。建水が砂張(さはり:銅、錫、鉛の合金)で、ふだん稽古で使う建水より高さがあったので、いつもの感覚で茶碗を清めたお湯をそこに捨てると、ついゴツンと当ってしまい、お点前しながら「しまった!」と心に叫んだものである。そんな建水も、後で振り返ると、千家十職の一人、金物師の中川浄益の作だったようである。と、復習すると、茶道具にも多くのことを学ばされるのである。総じて、うまくいった筈のお点前で、唯一神経質になったのが、""雪月花"と蓋に描かれた木地中棗の薄器の扱い。茶を掬う時、中の抹茶の山が崩れないようにきれいに掬わねばならないのだが、正客の抹茶を掬った際に、少し山に近いところを掬ってしまったため、二客の抹茶を掬う際に、十分な量を掬いきれなかった。茶筅で必死に攪拌させて、何とか泡立ちさせたのだが、薄くなかったろうか、それだけが心残りと言えば、心残り。まだまだ稽古不足である。一方、お点前を担当しない席においては、お運びを担当したが、それは、これまでの茶会でも慣れないこと。お茶碗の下に古帛紗(こぶくさ)を敷いて運び、呈茶すると、挨拶する際に、右手でそれを折りたたんで、畳の上、右膝少し下に置く。そして、挨拶が終わると、懐中して、流れるように、立ちあがる。そんな動作も身についておらず、最初はぎこちなかったが、回を重ねるにつれ、学習効果が出てきた。そうやって、いろいろな役回りを体験することで、私自身もまたいろいろと学ばされたのである。と、ダラダラと書き記したような感じではあるが、茶婚式での茶席の記憶、思いのままに、ここに残しておきたい。
2010.03.28
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3月6日の社中での雛祭茶会。この日、お点前のデビューを果たしたことは、私にとっては最大のイベントであったのだが、それはこの日のお茶会での役割としては、あくまでも"One of them"。引き続き、その日を振り返ってみたい。この日のお茶会で、もてなす立場として通して体験したことは、実は、仕事や日常生活を送る上での姿勢や態度、そういうことにも繋がる大切なこと。そういうことを再認識させられるのであるから、お茶会もなかなか捨てたものではない。日常、おもてなしを意識することは、なかなか少ないのであるが、実は決してそうでも無い。お茶会を通して感じること。それは、人をもてなすこととはどういうことか。お金を払ってお茶会を訪ねてくださった方々に、その時間を満足して頂くために、細やかな気配りをしているか。お茶会を成功させるという目標のために、互いに臨機応変に補い合って、気持ちを一つにしているか。等々、そういうことは日常生活にも共通するところだ。それらは、会社で言えば、顧客満足であり、また、チームワークであり、また思いやりでもあろう。それは社会生活を行う上にも共通する、ごく基本的な心構えでもある。ともすれば、個人主義がまかりとおり、自分自身を振り返っても、そんな傾向に埋れてしまっている。周囲への配慮を忘れていることも多々ある。そういう自分に、この日のお茶会は、気付きを与えてくれたような気がする。さて、点心席と薄茶席との2席からなる、今回の茶会。訪れたお客様は約70人。1席、約10人として、7回転したことになるが、場所が離れた2席にメンバが分かれて接客する。そして、社中の面々自らも、代わる代わる席に入ったので、接客の側の役割も目まぐるしく変わる。従って、この日、お点前初デビューの私も、決してそれだけに集中していればいい訳ではなく、マルチに役回りをこなすことが要求されたわけである最初は、薄茶席の裏方である水屋と、本席との間を取り持つ係り、および、待合から茶席までの誘導を受け持った。薄茶席の準備が出来ると、待合に出向き、「お席の準備が整いましたので、どうそこちらへお進み下さい」と、誘導する。露地草履に履き替え、露地の景色を右手に茶席へと進むと、沓脱石(くつぬぎいし)の上で草履を脱いで席入りして頂く。それを一人一人拾上げて、草履の裏を合わせて壁に立てかける。そして、終わったらその逆で、立てかけていた草履を並べるのである。この日は、生憎の雨模様となったため、当初は露地の緑を眺めて、席入りへと導入する予定だったのが、ルートが変わる。こういった役回りはまさに臨機応変のことで、特に練習などしていないのであるが、後で振り返ると、沓脱石の横にかがんで草履を立てる、その時の自らの立ち位置が良くなかったようである。実は、やっていて、しっくりこなかったのであるが、常にお客様に背中を向けない位置に立つべきであった。(こうやって学んでいくわけである)水屋では、菓子器に主菓子を盛り付け、点て出しの抹茶を点てる。全てはタイミングが重要だ。主菓子は当然、席が始まる前には、菓子器に盛り付けておくが、この日は一口サイズで色鮮やかなの小さめの主菓子が3種類。それを5人分つまり15個を重箱に盛り付けられた。見た目や、取りやすさを含め、それを配置するにもセンスが要求されるところであり、ここは手先が繊細な方に任せる。そして、茶席が始まると、私は茶道口から中の様子を伺い、点て出しの抹茶を点てるタイミング、そして出すタイミングを水屋へと合図をして指示する。点て出しの抹茶は、1席あたり8~10椀あったのだが、お客様に出すにあたって丁度良い服加減であることが要求される。お点前が正客の抹茶を点て始めたところで、水屋へと合図を送った私であるが、これが多少、早かった。定座に出されようというタイミングで良かった。替茶碗を亭主に渡すと、亭主は、正客の茶碗を取り込んで、替茶碗を定座に置くと、正客の前に進んで呈茶する。と、ここで三客以下の点て出しの抹茶を手にした、お運び役が茶道口まで進んできて待機した。少し早かったのもあるが、ここで運が悪いのは、正客と亭主との会話が弾んで、抹茶を手にしながらも、正客の方の最初の一口が始まらないことだった。入ろうとするお運びを、亭主が手で制すると、漸く一口、二口と正客が口にしたところで、その手も解けたのであった。早速、点て出しのタイミング、その難しさを体感させられたのであるが、それもまた勉強である。狭い茶席に、入れ替わりにお運びが入り、また先に入ったお運びに呈茶を託したりと、そのやりとりは、まさにチームワークである。飲み終わった抹茶椀を下げるのも、気付いたお運びが対応する。その間、私も、自らお運びしたりするが、それはまさに臨機応変の対応だ。気が付いた人が、その場で適切だと思うことを率先してやる。そんな当たり前の行動学、状況判断が、茶席の中にも出現するのである。茶席から下げられたお茶碗や、菓子器。それらは、すぐに清められると、次の席の準備のため並べられ、主菓子が盛り付けられ、抹茶が注がれるのを待つ。また、拝見を終わった棗が下げられると、次席のために、形良く抹茶を補充され、正客、二客の茶碗の横へと並べられ、次席を待つ。その間、水屋では静かに、席が終わるのを待つ。というのも、水屋と茶席の間は、ほんの襖1枚、あるいは押入れを挟んでいるだけなので、音や話し声が漏れてしまうからだ。そういうシーンは、過去に参加した茶会でも経験したこともあるが、謂わば舞台裏の音が聞こえてしまっては、お茶会の雰囲気にも水を差す。水屋では、笑い声などはもっての外、話し声も、静かにしかも的確にやり取りすることが重要。また、水道の蛇口をひねって水をジャーと流す音を立てることもご法度である。この日、もちろん意識して対応したわけであるが、こういう時にこそ、いかに日常、無意識であるかを感じるものである。さて、薄茶席での役割を終えたのが、家内の知人を迎えて、一緒に席に入る時間が近づいてからのこと。しかし、その知人が訪れるのを待つ間も、「ここで何をやっているんですか?」と、声が飛ぶ。待合、点心席と、その裏側では、仕事が途切れることはなく、手を休めている暇はない。そして、自らの席入りを前に、私は待合で、甘酒のもてなしを担当するのである。受付を済ませたお客様が、まず通されるのが待合。「今、〇人、入りました」という連絡を聞いて、私は、清められた椀に、鍋から熱々の甘酒を注ぐ。しかし、これが意外と思い通りにならない。人数分を用意して、盆に並べて、いざ待合へと入ると、まだお客様が居ないこともも多々。それも、庭の景色などを眺めていて、待合に進まれていないのであるが、そんな時、熱々の甘酒も冷えてしまうため、最初からやり直しとなる。鍋に甘酒を戻し、椀を洗って、拭いて清めると、様子を伺って、再び椀に甘酒を注ぐ。服加減のよい状態で、お客様に出す。それは、当たり前のことであるが、一からのやり直しを余儀なくされても、それを当たり前のこととして喜んで実践する。まさに顧客満足の実践ではないか。なかなか日常生活で意識することのない、そんな基本も、こんなところにも学ぶのである。そんなことを経て、漸く自らの席を迎えたのであった。家内の知人(実はピアノの先生だ)も、喜んで頂けたようだった。点心は、社中にお料理の先生が一人がおられて、前日から仕込み、吟味されたようで、実に繊細かつ美味なものであった。おそらく100食分ほど用意されたのであろうか、余った料理はその日の夕食として、お弁当にもなったので、申し分なかった。その日の最後の仕事の場所は、点心席の厨房だった。下げられてきた、器や皿をひたすら洗い、タオルで拭く。そこでの私の役割は、水を多く含んだタオルを洗い、硬く絞っては、それを再び皿拭きに回すということの繰り返し。家内が拭いた後のタオルを、ひたすら絞りに絞った私の手は、最後には真っ赤になり、絞る力もだいぶ無くなった。過去のお茶会において、裏方の仕事に携わることが、殆ど無かった私も、この日は、お点前の他、いろいろと体験させてもらった。お茶会でおもてなしをするということは、皆が気持ちを一つにして、補い合い、マルチに役割を果たすこと。お茶会の最後に撮った、社中の写真、そこに写った皆の表情は実に清々しかったのである。 余談だが、今回のお茶会で最も大変だったのは、厨房での料理部隊。今回、社中のお茶会では、初めて自らで点心を作ったのだが、前日からの準備、調理、そして盛付け、配膳、また下げられた膨大な器と皿を洗い清めて、また盛付け、と大車輪だったようである。食べる側としては、ハッピーだったのだが、今後のお茶会では、多少は点心の心得もいずれ必要になってくるのだろうか。。。それも悪くはない。
2010.03.07
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茶の湯を始めて、2月をもって丸2年が経過し、3年目に入った。そして、満を持して、この3月6日、初めてのお点前デビューを果たした。当初3月28日に初デビューする予定だったのが前倒しされ、この日、社中で催された雛祭り茶会でお点前をすることになったのである。私自身、もてなす立場としての、社中のお茶会は3回目となる。昨年2回経験した茶会では、いずれも半東を担当させられたこともあり、社中において1年以上のキャリアを持つ弟子の中では、私だけがまだお点前をせずに残されていた。今回も、雛祭り茶会ということもあり、当初は女性だけがお点前をすることを伝えられていたのだが、3週間前になって、師匠より、「〇〇さん、お点前しましょうか?」ということになり、実現したわけである。という訳で、初めてのお点前を振り返ってみたい。そのお点前は、徒然棚(つれづれだな)を使ったもの。それはまさに雛祭りに相応しい雅な棚であるが、菱形になっていて、手前に角がきているのが、通常の棚とは異なる。そして、上段が、袋棚となっていて、左右2枚の戸を、手前の角からまず左、そして右と小さな襖(戸)を開けると、中から棗(薄器)を取り出す。そして、それを左手に持ち替えて右の襖を閉めると、右手に棗を持ち替えて左の襖を閉め、棗を棚の右前に置くのである。それは、初めてのお点前で使う棚としては、何ともハードルが高い印象であった。実際、この日お点前をする人の中には、入門1年未満で今回デビューするという方もあったので、その方々と比べると、既に2度経験している私の方がアドバンテージがあったとも言えようか。しかし、その棚を見るのも使うのも、2週間前の稽古が初めてであり、さすがに不安もあったので、本来は稽古の無かった前週末にも、お点前担当者のみ特別に稽古が催されたわけである。不慣れな棚でのお点前、稽古を終えた後で、手順もさることながら、左右の手の運び方、例えば、『左手で取り、右手に持ち替えて、再び左手で置く』といった動作、その気になる箇所を、お点前の本に書き込んで、いざという時に忘れないようにした私である。実際、仕事のあるウィークデーは、夜も遅く、練習も殆ど出来なかったので、まさに前日の夜、自宅で最後の練習(といっても当然、棚やら釜などは無いのだが。。。)した際、そのメモが非常に役立ったのである。しかし、当日のお点前では、しっかり最初から、左右の使い方を間違ってしまっていた。まず、茶碗を持って席に入り、棚の前に座ると、茶碗を点前座の左(勝手付き)に、右左と扱って左手で仮置きする。ここまでは良かったのだが、一呼吸すると、次に袋棚の戸(襖)を右手で左、右と開けてしまったのであった。左の戸は左手で、右の戸は右手で、というのがルールであるのだが、ボーッとなってしまっていた。戸を閉める際に、「さっき間違ったかな」と自分でも認識したのだが、そこは何も無かったかのように進めるだけである。さて、この日のお点前、難関は棚だけではない。一つには棗の形、そしてもう一つには非常に小さい茶碗であった。棗は、桜の蒔絵が施された、鞠棗(まりなつめ:丸棗とも)。全体が手の平に収まるほどの、まん丸をしたその棗は、握りこむ胴が無いのが、お点前泣かせである。ツルッと滑らせでもしたら大変なことになる。まずは袋棚から取り出す時、そして点前座に置く時、さらには茶杓をその上に載せる時の安定感、この辺りがポイントであった。最初に棗を点前座に置く時、底をドンピシャで置けなかったようで、少し揺らいだ。そして、それは一旦清めて置く時にもそうであったが、全体が丸いので持った感じとして、水平の位置を認識しにくい。そういうこともあり、そこは焦らず、手の平に包みこんだまま置くと、揺れが治まるのを確認して、ゆっくりと手を離すようにした。また、茶杓をその上に載せる時なども、緊張感から茶杓の先が若干揺れて、すんなりとは載らなかったのであるが、落ち着いて、時間をかけて、揺れが止まる位置を定めたのである。そして、もう一つのお茶碗であるが、それが驚くほど小さなもの。最後の稽古で初めて、それを見せられた時、湯呑み茶碗じゃないかと思えるほどだったのだが、正真正銘の抹茶椀。小さな筒茶碗と言ってもいいのだろうが、それは湯飲み茶碗を一回り大きくしたようでもあり、また軽い。福岡の高取焼のその茶碗は、どうやら時代物。接いだような跡も見られたので、茶巾で拭くにも撫でるように扱うことが要求されたのである。さらに、茶碗の小ささゆえに、柄杓でお湯を注ぐ時に中が見えず、それを見ようと柄杓の位置をずらすと、お湯が点前座の畳を濡らしてしまう。また、茶筅を振る時にも中が見えないので、目視で泡立ちの加減を確認できない。そして、茶杓も細くて華奢なものだったので、櫂先(抹茶を掬う部分)が小さく、抹茶を多めに入れないと十分な泡立ちが期待できない。その辺りを、最後の稽古において課題として確認したのである。本番での対応では、まずは茶杓で多めに掬った抹茶。これがこぼれ落ちずに櫂先に残るので、茶碗の内側でコツンと崩すように落とし、そして本来2杯入れるところを、3杯を入れた。そしてお湯を注ぐにあたっては、茶碗の中を覗き見ることを捨て、柄杓に汲んだお湯の減り具合を見ながら、確実にお湯を注いだ。その結果、点前座を濡らすこともなく、適量注げたようである。そして、大事な茶筅振りであるが、茶碗を若干に傾けて、徐々に加速すると、一心不乱に攪拌した。傾けることで、明かりが茶碗の中にも差し、部分的ではあるが泡立ちを確認できるのである。気になる出来栄えだが、どうやらうまく点てられたようだった。稽古の時にはきれいに点たなかった抹茶も、本番では、クリーミーに仕上がった。定座に差し出した茶碗を、亭主の師匠が手にとり、正客の前に差し出されると、いよいよ、緊張の瞬間を迎える。それは、謂わば、審判の時と言ってもよかろうか。正客の方が、ひとくち、口にした直後、「嗚呼、美味しい」と、発された。と、その瞬間、胸をなでおろすと、会釈して応えた。もちろん、嬉しかったことは言うまでもない。その瞬間が、この日のお茶会での最大のクライマックスだったろうと思う。その後は、一つ一つ確かめるように、二客のお茶を点て、仕舞い茶碗を扱い、棗と茶杓を拝見に出して、道具を下げると、最後に水次(みずつぎ)で水指に水を注ぐ。水指を棚の地板手前いっぱいに引き出し、蓋を右左右と三手で扱って水差しの手前に立てかけるが、その最後の扱いも無事にこなした。と、振り返ると初めてのお点前、総じて旨くいったと、自分なりには及第点をあげたいところであるが、もちろん反省点も多い。最初の棚戸を開けるところもそうであるが、拝見の申し出があったところで、まず柄杓を取って棚に飾るところを、順番を間違って、茶碗を勝手付きに(左一手で)寄せてしまった。その動きのところで、間違いに気付いたが動いた手を戻す訳にはいかず、そのまま進めたのであった。しかも、その直前に、建水を下げる際に、勝手付きに立てかけていた水指の蓋が滑って、蓋が畳の上にパタッと平置き状態になってしまったため、建水を下げるつもりが、蓋を避けて逆に前に出る形になってしまった。そのため、勝手付けに寄せる茶碗さえ、今度は建水と近接する位置関係になり、十分に寄せ切れなかったのである。最も致命的だったのは、最後に拝見を終えた棗と茶杓を持って、茶道口のところで挨拶をするところ。建付き(柱側)に棗と茶杓を置く際に、"ト"の字になるように置くべきところを、逆に置いてしまったことだろうか(*)。最後に、ボーッと飛んでしまったようであった。しかし、当たり前のように、扱って挨拶をすると、無事、役目を終えたのであった。以上、初めてのお点前デビューは、印象的な徒然棚に、鞠棗、そして小さい茶碗、と滅多にない取り合わせでお点前させて頂いた。ここに漸く、私もお点前の第一歩を記したわけであるが、その余韻に浸っている余裕はない。次は28日、期してその日としたようであるが、千利休の命日である。その日、今度は紹鴎棚が私を待っているのである。*.後日談だが、最後の挨拶における、棗と茶杓の置き位置。実は、無意識に出来ていたようである。ここは"ト"の字になる必要はなく、自分に近い方に棗が置かれる。それまで、考えなくとも無意識に出来ていたことを、ふと冷静に考ったことで、異なる場面での置き方が頭がよぎってしまった。これで、次回からは悩むことがあっても大丈夫だ。
2010.03.06
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2月3日は節分。この日、豆撒きをし、恵方巻を食する、そんな慣習に何の疑問を持つことなく、過ごしてきた。そしてふと、「何故、この日、"福は内、鬼は外"なのか?」と、自問してみると、恥ずかしながら、その由縁さえも分かっていない、いや忘れてしまっている、自分に気付くのである。そのきっかけは、季節を表現する和菓子であった。それは、とあるブログに、"きんとん"で赤鬼を表現した和菓子の写真を見てのこと。そしてまた、その数日後、お茶の稽古で、豆撒き用の枡が表現された和菓子を見てのこと。そこで、「なぜ節分に豆撒きを?」と、遠い子供の時分、当然、親に尋ねたであろうことを、既に当時の親の年齢を越えた今、自身に問うたわけである。しかし、そんな何気ない慣習に、「はて?」と、目を向けさせてくれたのも、季節感を敏感に表現する茶の湯の世界に身を置くようになってのことだろう。お茶の稽古において、節分の和菓子について話を切り出すうち、京都の吉田神社と壬生寺(みぶでら)が節分祭で有名であることを師匠より聞かされる。因みに、吉田神社は京の都の表鬼門にあたり、壬生寺は裏鬼門にあたるらしい。壬生寺と言えば、新撰組ゆかりの寺であり、壬生狂言でも知られるところである。そして、その狂言が節分祭(節分会)にも行われるという。また、もう一つの吉田神社においては、河道屋(かわみちや)の年越し蕎麦が名物であることを聞かされる。と、そこで初めて、節分ゆえに蕎麦であることを意識させられたわけである。あらためて、"節分"という文字を見ると、まさに、季節の分かれ目。そして、翌2月4日は、立春だ。本来、節分というのは、四季の変わり目、つまり立春、立夏、立秋、立冬の前日を指していたものであり、年4回あって然るべきもの。それが時代を経て、特に立春の前日のことを指すようになったらしいのだ。そして、立春、立夏、立秋、立冬は、二十四節気の一つ。その言葉は、たまに耳にするものだが、1年を12の"中気"と12の"節気"に分類し、それぞれに季節を表す名前をつけたもの。その中で、4つの季節の始まりにあたるのが、立春、立夏、立秋、立冬ということになるわけである。そこで、1年の始まりを立春とすると、節分は謂わば、大晦日でもあり、それゆえに年越し蕎麦ということになるわけである。それゆえに、12月31日が、西暦の上での大晦日であっても、2月3日は季節の変わり目としての大晦日とでも言えようか。そういう理解無しに、「うどんは無いですか?」などと、"のれん"をくぐって尋ねようものなら、軽蔑されること請け合いである。以上、節分や立春について真面目に語るのも、いかに日常生活の中で、それら本来の意味が埋れてしまっていたか、象徴するようなものである。思い出せば、『茶摘み』に歌われる八十八夜も、その起算日は立春。さらには二百十日や二百二十日など、天候が荒れるとされるその日も、その起算日は立春。春一番にしても、立春の後で、初めて吹く南寄りの強い風。それらのことに、立春が、新しい季節の始まりであることに、あらためて気付かされたのである。さて、その立春の前日、いわば1年最後の季節の締めでもある節分。そこで行われる豆撒きとは、その年の邪気を祓うというもので、その起源は平安時代にまだ遡るというので驚かされる。悪い鬼は追い払い、新しい年には福だけを迎え入れよう、そんな気持ちがそこに込められていたわけである。そして、節分に纏わる、もう一つの恵方巻。実は、私が、それを意識するのも、ほんの5年ほど前のことだが、どうもコンビニの販促で全国的に認知度が高まったというのが、実際のようである。以来、理屈抜きに、包装に書かれた通りの方角を向いてガブリついていたものであるが、そちらも福を巻き込むとか、そういう意味が込められていたようである。今年の節分は、予め、豆撒きも恵方巻も準備をしていなかった。その夜、残業で遅くなった仕事帰り、慌てて、近所のスーパーやコンビニに足を運び、6軒目にして漸く、恵方巻にありついた次第である。しかし、豆撒き用の大豆はどこも売り切れで手に入らず、已む無くピーナッツを買ってきて、それを枡に入れると、遅れて帰宅した家内を待ったのであった。(そんなことだったとは、実は家内も知らない。)思えば、我が故郷、鹿児島では殻付き落花生を使って、豆撒きしたもので、遙か昔の事が懐かしく思い出される。そして、あらためて節分の意味を探り、その原点を振り返ることが出来たのは、嬉しいことである。来年こそは、これまでとは違った意識で、この日を迎えられるのでは、そうありたいと思う。
2010.02.03
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初釜に始まった、2010年の茶の湯(こちら)。新年1月、社中での稽古は2回であったが、その中で、早速、印象的な演出を目にしたので、ここに備忘録として記録しておきたい。題して、"絞り茶巾に蹲る(うずくまる)"である。その印象的な演出の最初が、"絞り茶巾"。その名を耳にすると、すぐに思い出されるのが、"洗い茶巾"(こちら)であるが、夏の演出である"洗い茶巾"に対して、"絞り茶巾"は冬の演出であることを、その時、知る。稽古では、私と同じ弟子の1人が、"絞り茶巾"によるお点前を実演するのを、客(客の練習)として見たのである。その"絞り茶巾"とは、1年で最も寒い時期にのみ行われるお点前。通常、茶碗の中に仕込む茶巾は、このお点前においては、熱く絞った上で茶碗の中に立てかけて入れる。それゆえに、"絞り茶巾"と言われるわけであるが、お点前する人は、茶席に運び入れてから、茶巾を取り出すと、広げて畳む。つまり、寒い茶席の中で、熱々の茶巾を取り出し、準備にかかるところが、客をもてなす演出となる。さらに、この時使われる茶碗が、筒茶碗と呼ばれる、筒のように深い茶碗。その茶碗もまた事前に温めておくのであるが、ここで筒茶碗が使われるのも、お茶が冷めないようにとの表現の一つ。そして、その前に、絞った茶巾が冷めないように、という効果もあるわけだ。"洗い茶巾"が、猛暑の中の清涼感を、平茶碗から建水(謂わば、滝壺)に流れ落ちる水で表現したのに対して、"絞り茶巾"では極寒の中の温かさを、筒茶碗から茶巾を取り出した時に立ち上る湯気で表現したとでも言えようか。そこにまた、エンターテインメント性を感じるのだが、併せて、茶の湯の心、おもてなしの心を見せてもらったのである。 そして、もう一つの印象的な演出が、花入れである。床柱に掛けられた掛花入れは、どこかの焼物。その小ぶりな形の花入れの名は、人がうずくまっているような形をしていることから、"蹲(うずくまる)"。と、そう言われると、なるほどそう見えてくるのである。寒いから、うずくまる。よって、この花入れが使われるのも、寒い冬ならではのこと。確か、1,2月にしか用いられない、と言われたように思うのだが、季節に応じた表現のバリエーションの多彩さには、あらためて驚かされる。茶室は、おもてなしの場であると共に、まさに表現するキャンバスとも言えようか。。。さて、この2月で、茶の湯を始めてから丸2年となる。そして3月、いよいよ私にもお茶会でお点前をする機会が訪れそうである。社中のお茶会で半東役が続いていた私にとっては、満を持してのお茶会。その日は、千利休の命日、3月28日。お点前の稽古にも、いよいよ熱が入ってくる、そんな予感である。
2010.01.30
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2010年の初釜。薄暗い茶席での重厚な濃茶席のあとは、露地の景色を見ながら、薄茶席へと移動する。そこは一転、外の明るさを感じる、明るい茶席。そして、そこに設けられた薄茶席のとりあわせもまた、正月を感じさせる華やかなものであった。ここに振り返ってみたい。茶席のテーマの表現でもある、床の掛軸。その薄茶席の掛軸に記された文字は『光輝』。さらに、千玄室大宗匠の書というところに、感嘆させられるのであるが、新年の茶席の掛軸としては、気持ちも晴れやかになる。そして、床柱に掛けられた、白を基調とした柔らかい印象の花入れは、どこの焼物だったか忘れてしまったが、水仙が生けられていた。床の拝見を終えて、ほどなく始まった薄茶席。お点前の女性が、まずは蓋置をそれが仕舞われた建水から取り出し、釜の傍らに置くが、その始まりの瞬間、そこにまた茶席のテーマが凝縮されていたのである。女性が置く蓋置、その瞬間、鈴の音が茶席に、華やかな音を響かせた。その音の正体たる蓋置は、三つの鈴が輪になった"三鈴" 。鈴の音は、福を招くと共に、邪を祓うという。それは、これまで幾度も出席した茶会でも、初めてのことで、思わず目が釘付けされたのである。そして、この日の茶席における亭主のもう一つのこだわりも見る。それは、今年が平城遷都1300年の年にあたることにかけた演出。年末の紅白歌合戦で、応援参加した、"せんとくん"には、思わず驚かされた、そんな記憶も新しいのであるが、煙草盆の中に仕込まれた火入れ、それが奈良絵の特徴的な赤膚焼。時代を感じさせられる風合、その胴には、鹿が描かれていたのである。さらには、茶杓が、奈良・東大寺二月堂のお水取りで用いられた松明(たいまつ)の燃え残しで作られたもの、とのこと。煤で黒くなっているところに、それを想像させられるのであるが、私にとっては、まだ見ぬもの。薄器には、繊細な御所車の蒔絵、釜は霰(あられ)、そして風炉先には、春夏秋冬の和歌が描かれ、雅な風情をまた演出していたのである。そして、初めて目にする棚は、寿棚と呼ばれる、昭和天皇即位に所縁の棚。天板が八角形で、地板が四角で、二本の柱が支える。そこに収められた水差しは、小堀遠州好みの遠州七窯の一つ、静岡県の志戸呂(しとろ)焼。菱形のような口をした、その水指しは釉薬の光沢が華やかで、まさに寿棚とベストマッチの組み合わせ。それは、掛軸の『光輝』、それを象徴するような取り合わせだったように思う。さて、お茶碗であるが、萩。それは濃茶席で見た萩焼と比較すると厚手で、また雰囲気の異なるもの。萩焼といっても、その種類は様々、それを1日に体験できるのは、また面白い。その他には、淡路島の焼物に、絵付けの繊細な薩摩焼。そこには、「難を転じる」といわれる、南天が描かれる。そして、"人形手"と呼ばれる高麗系の茶碗。胴に縦彫りの入ったその茶碗の見込(みごみ:茶碗の内側)には浮き彫りの絵が描かれていた。以上、華やかを散りばめた、お茶席であったのだが、ちょっとした裏話も聞く。お茶道具の組合せというのは、なかなか難しいもので、予め頭に描き、また実際に並べてデモンストレーションしていても、いざ、その茶席に持込んでみると、茶席の雰囲気と合わないということも多々あるらしい。記憶の新しいところでは、昨年秋の社中の茶会、当日、エントリー変更された茶道具があって、半頭の私としえは多少焦ったことも思い出すが、そんな組み合わせの妙が、亭主にとっても客にとっても、茶会の醍醐味。それを探リ、主客で謎解きを進めていく、そんな楽しみを、この初釜でも味わえたように思える。薄茶席の後での膳。この日、それを期待して、昼飯抜きで臨んでいただけに、その日の最後の席、16時に辿り着いた膳は、より一層美味であった。そして、最後、恒例のクジ引きはというと、無欲になりきれず、またしてもハズレ。昨年、当りクジを引いた家内も、今年はハズレ。約2時間半におよぶ、初釜はここに終わる。そして、いよいよ翌土曜より、今年の茶の湯の稽古も始まる。
2010.01.10
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この日は、社中での初釜。2010年、茶の湯の始まりとなる一日である。既に、年が明けて1週間以上が経つが、初釜となると、再び、お正月を迎える、そんな新鮮な面持ちにさせられる。ということで、家内は着物に、私は羽織袴に身を包み、初釜に臨んだのであった。初釜は、昨年に続いて2度目である。昨年、膳に始まった初釜(関連ブログ)も、今年は、待合で白湯を頂いた後、濃茶席、薄茶席と続き、最後に膳となる。しかし、そこに移ろう景色には、亭主の趣向が凝縮されていて、印象的であり、楽しまされる。その記憶を書き留めておきたいと思う。この日、まず、待合に入ると、床には奉納(?)された大きな稲の束が目に入り、早速、度肝を抜かれる。そして、床の掛軸には、(絵に賛の添えられた)画賛。そこには、七福神ではないのだが、お目出度い老人(神様)たちといった、雰囲気が描かれていた。そして、掛軸の上には、輪飾りがされ、注連縄(しめ縄)のように、紙垂(しで)が垂れる。そこに創られたのは、まさに新年の景色であった。そして、迎えた濃茶席。薄暗い席に、天日がさすような雰囲気、その床に掲げられたのは、漬物のたくあん(沢庵)でも有名な沢庵和尚の書。その記された禅語は、もはや定かでないが(記憶力の衰え)、沢庵和尚の生涯について初めて知ることとなる。大徳寺や堺の南宗寺(こちら)にも所縁ある和尚は、紫衣事件により出羽国上山(かみのやま)に追放されるも、その地で厚遇され、たくあんを考案。そして、2代将軍秀忠亡き後、許されると、3代将軍家光が帰依し、品川に東海寺を創建する、等々である。花入れは、竹一重切。そこに差された白い茶花。それと共に生けられたのは、羽子板でつく羽根に似た実。その名も、ツクバネ(衝羽根)と言われるものだったが、その光景はまさに正月ならでは演出で、感動である。そして香合には、池に配された石の上に姿を現したかのような亀の姿(関連ブログ)。さらには黒塗りの手桶形の水指に、建水は木地を曲げたもの(面桶(めんつう)と呼ばれるものか)と、それらも印象的である。釜は、栃木・佐野の天明(てんみょう)のもので、それは江戸時代の作という。釜の産地が、かつては天明と福岡の芦屋が2大産地であり、しかし、今では山形、高岡(富山)、京都が主産地になっていることも、ここで習う。と、初釜から、いろいろと勉強させられること、しきりであるのだが、最大の目玉は、やはり茶碗であった。正客として、その席に座った私が頂いた茶碗、それは楽家4代一入作による黒楽であった。4代一入と言えば、今から300年以上前のこと。その茶碗の黒い胴には、縦に箆(へら)で削ったような箆目があり、男性的な力強さを感じさせられる。その重みを感じながら頂く濃茶は、師匠が点てたお茶だけに、実にクリーミーでコクがあり、美味しかった。そういう師匠自慢の茶碗で頂けるのも、初釜ならではのことだろう。骨董品屋の店頭に並ぼうなら、とんでもない値段になろうこと間違いない。そして、その席で、もう1椀使われた茶碗は、大ぶりだが、線の細い萩焼。それも江戸時代に作られたという、古い萩焼で趣あるもの。つまり、『一楽、二萩、三唐津』とも言われる、一番と二番の茶碗で、濃茶席をもてなされたのであるが、そのあたりに亭主たる師匠のこだわりが感じられたのである。ところで、昨年も、初釜において、300年ほど前の茶碗で濃茶を頂いたことを、ここに記した記憶があった私は、それを振り返ってみてハッとする(関連ブログ)。その時の茶碗も実は一入。そこにまた、師匠の初釜へのこだわりを見たのである。そして、さらには茶杓の銘が、東雲(しののめ)だったことにも、そのこだわりを強く感じるのであった。時代を感じさせる茶入れは、瀬戸の肩衝(かたつき)で江戸時代のもの。そして、お仕覆の裂地(きれじ)はというと、残念ながら、説明して頂いた10秒後には私の頭の中からその名が消えてしまっていた。やはり、2010年最初の茶席は、私自身も緊張感があって、頭に入った多くの言葉が、右耳から左耳へと抜けてしまった感がある。そして最後に、寅年の今年最初の主菓子のこと。それは、"とらや"の、"きんとん"。私にとっては、パリの記憶(こちら)も懐かしい、"とらや"の"きんとん"であるが、この日のものは、求肥(ぎゅうひ)が入っているのが異なっていた。それが、いかにも正月らしかったのであるが、どうやら時節柄、それは若菜餅と言われるものであったのかもしれない。"とらや"のホームページを見ると、次のように若菜餅のことが説明されていた。『古くは正月7日に邪気を祓(はら)い、不老長寿を願って若菜を摘み、羹(あつもの) (汁物)にして食べる習慣がありました。この習慣は今日でも七草粥として受け継がれています。』と。。。以上、今年、最初の茶席は、またまた多くのことを私に教えてくれたのである。そして、多くのことを吸収する時間は、薄茶席へと引き継がれるのであるが、それも追って、記すことにする。
2010.01.09
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歳月人を待たず(歳月不待人)。この一年もあっという間に年末を迎え、まさにその言葉どおりの印象である。その言葉を目にするのは、12月19日、今年最後の茶の湯の稽古。その日の床を飾る掛軸にそれを見る。しかし、そんな言葉も、旅蛙としての立場にたつと、”歳月日記を待たず”と言い換えた方が適切かもしれない。頭の中に温めている記事は増えるものの、まだここでは11月のお茶会の記憶を辿る途中だ。それでも、時計の針は、それらを書き終えることを待ってはくれず、とうとう年末。まだ記されることのない旅の記憶を振返るのも年明けに持ち越し、ひとまず今年を締めくくりたい。この1年の旅蛙の記憶を振返ってみると、やはりその中心にあったのは茶の湯だったろうと思う。初物尽くしの経験は、初釜に始まり、初めての茶事、そして茶会での半東体験。その間、毎月の北鎌倉通いを経て、秋には、再びの半東体験、茶事と続く。そして、年末、最後の稽古は、茶会形式での納会で締め括ったのである。そこで、2009年のブログも納会で締め括りたい。茶筅供養に始まった納会。薄茶席と濃茶席と2席が設けられ、私達弟子達が交替でお点前をし、また客となる。尤も、この日のお点前は、これまでの社中の茶会でお点前する機会の無かった人が優先され、私のそのうちの一人としてお点前させて頂いたのである。今年、社中の茶会を2度経験し、来年2月には茶の湯暦2年となる私も、未だにお点前をする機会はなかったのだが、その日、5人の客に抹茶を点てる。いつも見る顔ばかりとは言え、客の視線と、それを囲む7,8人の視線を集めると、茶会の緊張した雰囲気を擬似体験させてもらったようである。通常、正客の茶碗だけ清めるところ、二客、三客の茶碗と、繰り返し茶巾で清めていたのも緊張感ゆえだったのだろうか。ほんの少し前には色づいていた、紅葉や銀杏の葉もすっかり落ちた露地の景色、その雰囲気に合わせたように、薄茶席の干菓子は、落ち葉の吹き寄せ。そこに、1ケ月前の紅葉茶会に取り合わされた色鮮やかな吹き寄せ(伊織製)が甦る。その1ケ月の景色の変化を、干菓子に対比させるところに、まだ紅葉茶会が引き継がれているような、そんな感覚を味わう。そして、点前に置かれたのは、寒雲棚と呼ばれる棚。それは、まさに晩秋の侘びた雰囲気にピッタリの棚。底板が無いその棚は、水指を飾らないところが、それまで扱ってきた棚とも異なるところ。この1年、多くの種類の棚を目にしてきたが、最後にまた新しいものを見せてもらい、また学ばせてもらったのである。しかし、この日、納会と呼ぶに相応しい演出は、何と言っても濃茶席の主菓子。それは、夕暮れ時の露地の腰掛待合に設けられた、火鉢(?)。網の上、茶筅供養に出された茶筅を燃やした火で、軽く焼くのは、蕎麦饅頭(そばまんじゅう)。年越し蕎麦には早いところ、熱々の蕎麦饅頭で暖をとり、年の最後を締めるというのも、また乙なものである。躙口(にじりぐち)から席入りした濃茶席には、床の掛軸に「無」の一文字。そして、香合には、今年の初釜でも見た、丑(牛)。丑年の1年、無事に過ごせたことへの感謝の気持ちをそこに感じたのである。そして、気がつけば茶室の外は既に陽が落ち、夜咄(よばなし)の雰囲気が漂う。それは偶然にしては、1年を締め括るには出来すぎのような演出だったとも言えようか。最後に、この1年間、訪れて頂いた皆様、どうもありがとうございました。
2009.12.31
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半東として臨んだ、秋の日の茶会。入念に準備して臨んだつもりでも、振り返ってみると、結構、間違いだらけだったものである。そこがまだ未熟なところでもあるのだが、それはそれでいい思い出となり、次に繋がるものであろう。というわけで、それを書き留めておこうと思う。その日、午前に始まった茶会は、最終的には10席をこなすのであるが、半東に指名されたのが、私ともう一人の男性の方。基本的には、二人で分担して席を担当し、片方(以下、半東1)が席中に入る時には、もう片方(以下、半東2)は茶道口でサポートする。この日、半東1の役割は、亭主としてお客様とお話をすること、そして正客、二客への呈茶、および替茶碗(二客への茶碗)、仕舞茶碗を点前座に差し出すこと。そして半東2は、茶席の進行を見なが、タイミングよく茶道口から替茶碗、仕舞茶碗を半東1に手渡し、また水屋に指示を出して、三客以降への抹茶の運び入れを指示したり、過不足を確認したりする。最初の挨拶をこなした半東1が、次にする仕事が、正客への呈茶であるが、ここがこの日のポイントとなった。抹茶の点てられた正客の茶碗が、点前座より蓋置の隣に差し出されるタイミングで、半東1は替茶碗を持って進み出ると、正客の茶碗を手前に取り込んで、替茶碗と置き換える。そして、正客の茶碗を持って、正客の前へと進み出ると、一礼して呈茶するのである。それは、二客のお茶碗についても同様で、仕舞い茶碗を持って進み出ると、同様の手順でもって、二客へ呈茶する。しかし、そのように頭に叩き込んだ筈の手順が崩れてしまう。ことの始まりは、最初の席だった。それは私達に雰囲気慣れさせる意味合いもあったのだろうが、最初から師匠が亭主として席入りする。そして、私は茶道口に控え、純粋に半東としての役割に徹したのである。それは半東2の役割と、客とのお話を除く半東1の役割。ところが、この時の役回りが、事前に身体に覚えこませていた筈のリズムを狂わせることになる。その最初の席で、私は、半東として、茶道口から替茶碗を持って席に入リ、そのまま点前座の横に座ると、お茶碗を交換して持ち替え、正客の前に進み呈茶する。そして、二客に対しても同じように対する。そして、その感覚が抜け切れぬまま、次の席では、私は半東1として臨むのである。最初の挨拶、そこで正客に座られていた方は、偶然にも、4月の茶会で私が初めて半東として臨んだ際、最初の席で正客に座られていた方であった。その方がそれを覚えていたかどうかは定かではないが、私は何か安堵した気持ちになり、落ち着いて話が出来たのである。そして、いよいよ、点前座からお茶が差し出されようとする時、それは起こる。替茶碗を取り寄せようと、茶道口に目をやると、そこに半東2の姿はない。しかも、半東1として座る位置が茶道口から半畳分、中に入っていたので、その奥を伺うことも出来ない。実は、この時、半東2を担当される方は、(交替で)お客に入っており、それを意識することなく、その席に臨んでいたのが事の発端である。しかし、それも後の祭りで、間髪入れずに、お茶が蓋置の隣に置かれたのである。そこへ、たまたま茶道口から様子を覗く家内の顔が目に入ったので、すかさず、「替茶碗を持ってきてください」と、私は半畳の畳越しに囁く。しかし、突然のことに家内も理解できず、数回囁いて、やりとりする。しかし、埒が明かないので、自らが立ち上がり、茶道口に消えると、替茶碗を持って席に入ったのである。それが、私が犯した過ちであった。茶碗を置き換えるべく、点前座の横に座ろうとした時、既に正客の茶碗はそこになかった。正客がにじり出て、茶碗が取り込まれたのは明らかで、既に正客の手に茶碗は収まっていたのである。つい手順に縛られたドタバタ劇は、大事なことを忘れていたことを私に気付かせる。この場面、点てたばかりの、お服加減のいいお茶を、まず正客に飲んでいただくことが先決だった筈である。まずは、お客様第一。しかし、手順を守ることを重視したのは、余裕のないことの裏返し。お客様よりも自分を第一に考えていたと言えよう。替茶碗がなくとも、そこは臨機応変に、まずは出された茶碗を取り込んで、正客に呈茶し、その後で、そのまま茶道口に消えて、替茶碗を手に入ってくればよかったのである。さて、この日の間違いは、それだけではない。替茶碗を持って点前座の横に座り、正客の茶碗を取り込むと、そのままその茶碗を手に立ち上り、正客の前に進み、呈茶したこともある。その時、振り返って定位置に戻ろうとした視線の先、畳の上に替茶碗が1つ残っていたのであるが、それは滑稽でもあった。もっとも、そこは慌てることなく、再び替茶碗の前に座ると、それを扱って、蓋置の隣に差し出し、二客へのお点前へと無事、引き渡される。そして、何事もなかったかのように、またそれが当たり前の動きであったかのように、定位置へと戻る。そして、繰り返し間違ったことがもう一つ。それは半東2として茶道口に控えての役回りのこと。本来、半東1の補佐として、替茶碗、そして仕舞茶碗を差し出すべきところ、自らが席に入って茶碗を交換すると、呈茶までしてしまったのである。しかも、その間違いに、その日、気付くことはなかったので、自然にやっていたのだが、それは何かのマジックにかかったとも言えそうである。そのマジックの伏線にあったのが、上にも述べた、最初の席にあったのは疑いようもない。というのも、この日、半東1として席にいた時にも、茶道口の半東2から「お願いします」と、茶碗を差し出されることに、実は違和感を感じていたからである。しかし、マジックにかかったお陰で、間違いを意識することがなかったのは、却って幸運だったのかもしれない。半東として臨んだこの日の茶会、間違いも多かったのだが、それもいい経験。仮に間違ったとしても、大切なのは、その手順を考えるより先に、おもてなしの心。そこにまた、茶席での主客の姿を学ばせてもらうのである。
2009.12.14
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お茶席の空気が心地よいものであったかどうか、その成否を左右する最大の要素が、亭主と正客との問答であることは言うまでもないだろう。4月に催された社中の茶会で、半東として亭主の代わりを務めた経験、そして臨時参加した幾多の大寄せ茶会で、正客となって亭主と語った経験から、強くそのことを意識する。そして、今回のお茶会に際しても、その点を考えながら当日を迎える。茶の湯を始めてまだまだ経験が浅い私には、心構えなくして、突如、そういう立場に立たされると、ただ居るだけの存在と化したりもするが、何度かこのブログにも記してきたように、そんな経験は多い。さらに、期待されることを果たせなかった結果、茶席が盛り上がらず、責任の重さを痛感することもある。それは、正客の座に初めて座らされた水戸偕楽園での野点席(こちら)に始まり、昨年夏の箱根強羅での茶会で、決定的に思い知らされるのである(こちら)。しかし、そんなシーンは相伴の客となった時にも見ることもある。それは、不幸にも心得のない方が、正客席に座らされた場合のこと。亭主と正客との問答が成り立たない時、正客に座らされた本人の気持ちも察せられるところだが、相伴客として、お道具のことを聞き出せないもどかしさを感じることもある。そんな時、亭主が一人で話を引っ張ってくれるといいのであるが、あまり語ってくれない亭主の場合には、沈黙が続いたりもする。よく茶会に参加すると、亭主と面識のある方が客として参加されているケースが多い。そういう方が正客に座られると、茶席はコミュニーティ的な雰囲気となり、主客の話も自然と弾む。しかし、一方で、私達夫婦のように、臨時参加した茶会において、正客に抜擢されると、主客はまさに初顔合せとなる。しかし、そんな自然に話が弾むことが期待できない状況でも、亭主と正客はうまく話を展開させねばならず、また、相伴客に対しても、初顔ながらも気配りできることが重要となる。尤も、そんなことばかり考えていると、話が難しくなってくるのだが、そういった体験も、全ては勉強。また、日常の人との関わり方にも共通することであると気付く。そして、私なりに到達した正客としての心得は、あくまでも自然体で、その席を楽しみしていること、あるいは緊張していること、また教えてほしいこと、等、素直な気持ちを表現することである。それが、結果として、場の雰囲気を良くすることにも繋がる、と思う。実際には、思い通りにいかないものだが、。。。一方、今回の茶会、半東ながらも亭主としての立場に立つと、また別の戦略を考えておくことが必要になる。というのも、正客に座る方にも色々なタイプがあるわけで、何も言わずとも、次々と語りかけてくれる方もあり、また自らあまり言葉を発せない方もおられる(私もこの部類)。しかも、席主たる師匠との面識はあっても、私にとっては、初めての方ばかり。そこで、後者のタイプの方と接する場合には、自らが牽引する気持ちで展開していかねば成功は難しい。床の間の構成、そして道具類を語ることは必要不可欠。それらは、師匠が全て考えて取り合わせたものであるが、亭主の立場を任されるとなると、まるで自分が取り合わせたかのように語る。そこに、自分のもつ知識や、調べる上での発見が組み合わされると、益々、その語りも深いものとなる。そのあたりは、その茶席の主題となるところなので、出来るだけ厚くしたい。しかし、その核となる部分にスムーズに導くには、何かイントロダクションとなる文言を、最初の正客との挨拶の中に是非、盛り込みたいと思ったのである。そして、4月のお茶会の時に作った原稿(関連ブログ)を参考に考えるのであるが、結局、「これぞ!」という案を自分の中で纏めることが出来ないまま、当日の朝を迎える。当日の早朝、髪をセットするため家内を美容院に残すと、集合時間より1時間以上早く、お茶会の場所に入る。ぶっちぎりの一番乗りであった。朝の爽やかな空気の中で目にした、周りの景色や、茶室の露地の景色。そこには赤く色付き始めた葉を目にもするが、まだまだ緑が多い。しかし、お茶会のタイトルは紅葉茶会である。と、その時、それまで悩んでいた文言が、自然と浮かんできたのであったこの日、私が半東として正客と相対した席は4席。それを乗り越えるポイントともなったイントロダクション。それは、次のような文言で始まったのである。「紅葉茶会というには、まだまだ緑の多い感があります。そこで、一足早く、秋のとり合わせで、紅葉気分を楽しんで頂ければと思います。。。。」と。
2009.12.13
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茶の湯の世界で口切(くちきり)と呼ばれる11月は、いわば正月。そのスタートを、龍野・衆遠亭で迎えようとは、全く予期していなかったことであるが、そのお茶会も、今年、茶の湯の秋を語る上では、ほんの序章に過ぎない。その後、有馬大茶会に始まり、幾多の茶会が続くのである。しかし、それらお茶会の記憶を時系列に記していては、年も明けてしまいそうである。そこで、まずは節目となるお茶会の記憶を記しておこうと思う。それは11月後半、秋分の日を含む3連休の初日、都内某所で催された、社中のお茶会である。社中のお茶会としては、4月の花見茶会以来のこと(関連ブログ)。前回、半東を仰せつかった私も、今回は、別の社中との合同茶会となったこともあり、裏方に徹するものと思っていたのだが、再び、半東を仰せつかる。それを言い渡されたのが当日3週間前。それは、ちょうど姫路(こちら)に旅立つ前日のことであったため、龍野、有馬温泉、...と続いたお茶会は、謂わば実戦に向けて、意識を高める機会にもなったのである。さて、4月の茶会で半東を務めた時は、もう一つの席で師匠が亭主を務めていたため、半東と言えども亭主の役割も求められていたのである。そして、今回は社中で担当するのが1席だったため、席の途中で、師匠も挨拶に顔を出す。しかし、そのタイミングはケース・バイ・ケースとのこと。そのため、4月同様、半東ながらも亭主の役割を務めることを求められた次第である。ということもあり、茶会当日までの3週間で経験した幾度かの茶会には、亭主たるものどうあるべきかを強く意識しながら参加する。そして、実際、亭主の方の話に耳を傾け、また時に正客の立場として参加して、問答したりする中で、亭主の大きさを感じさせられるのである。「一期一会」たるお茶会を盛り上げ、「一座建立」に導くのは、まずは亭主に他ならい。そして、正客もまた、その雰囲気作りに大きな役割を果たす、という当然のことを再認識する。しかし、亭主としての真価が発揮されるのは、不慮の事態への対応力であろう。あるお茶会で、そんな瞬間を目の当たりにして、それを強く意識するのである。それは、お点前の最中に起こった絶体絶命の状況。緊張に震えるお点前の女性の手から、棗が転げ落ちると、点前畳に抹茶がバーッと広がったのである。それは、まさに主客が最初の挨拶を交わした直後のことで、一瞬、席の雰囲気が凍ったのであるが、そこで亭主が進み出ると、堰を切ったようにトークが炸裂する。そこに、場を立て直そうとされる亭主の気持ちが凝集し、あっという間に主客の一体感を生み出す。そのユーモアを混じえたお話に加え、お点前の女性へのフォローも怠らず、それはまさに心をつかむ話術の妙だったと言えよう。その間、途切れることのない亭主のお話の傍らで、ハンディクリーナーがバキューム音を響かせて、点前座を清めるという、奇想天外さ。しかし、それまでもが、茶席の演出であるかのように、その場の空気に溶け込むので不思議だ。そして、温かくリラックスした空気に包み込まれた、お点前の女性もしっかりと役割を果たしたのであった。お茶を始めてから、来年の2月に丸2年を迎える私には、亭主の役割を考えた時、道具の説明や手順がまずは先に立ってしまうのだが、臨機応変に気を回せる心持ちの重要さをその貴重な体験から感じたのである。とは言え、実際の茶会では、手順が先立って、臨機応変な対応も出来なかったのであるが、この時の記憶は何らかのプラス面を私に植えつけてくれたのは間違いないのである。 一方、立場変わって正客として、こういう場面に遭遇したら、どうすべきだったのか。実を言えば、その時、私は正客の位置に座っていて、お点前の方が緊張されていることも見てとれていたのである。後に思えば、声かけして、気持ちを和らげてあげるべきだったのかもしれない。そのあたり、フレキシブルに対応して、張り詰めた雰囲気を和らげてやる、そういう配慮も正客には必要だったのだろう。これまで多くのお茶会に参加してきたが、お点前やお運びされる方にとっては、ある意味、発表会的な意味合いも感じる。そして、その中には、その日、初めてデビューされる方もいたりして、緊張した雰囲気を感じさせられることもある。お点前する方の手が震えているのを目にすることも珍しくはない。その意味では、何か予期せぬことが起こる危険性はあり、一方でそんな空気を和ませることが出来るのも亭主と正客と言えるだろう。思えば、私の家内も、4月のお茶会の時が、お点前初デビュー。その時の家内も、かなり手が震えていたようであるが、半東として、その後方に座っていた私は気が付かなかったのである。そして、その震えは最後まで収まらず、仕舞う茶筅が盆の上に跳ねたりもしたのだが、取りあえずは事なきを得る。そして、その家内も、今回、再びお点前をすることになったのだが、前回の盆略点前から、今回は炉の棚点前へとレベルアップ。それでも、お点前をすることを師匠から言われたのは、私が半東を仰せつかったのと同じ3週間前。私が半東たるものを考える一方で、家内の方はというと、お点前の練習に毎夜、励む日々が続いたのである。そういう準備期間を経て迎えたお茶会の記憶。そんな中から、またいくつか拾い出し、引き続き、書き記してみようと思う。
2009.12.12
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五節句(関連ブログ)の一つ、七夕(しちせき・たなばた)。短冊に願いをかけて、七夕飾りをしたという幼い日の記憶も、遠い彼方に行ってしまい、最近では、その時期が訪れても、殆ど意識することがない。しかし、最近のお茶会で、七夕に触れることがあり、後で振り返ると、新しい発見もあった。それらは、七夕の記憶を失っていた私には、とても新鮮なものであった。それを、ここに記しておきたい。そのお茶会が開かれたのは、8月に入って最初の土曜日。通常、お茶の稽古日であるが、この日は、稽古の代わりに、内輪でのお茶会が開催されたのである。そして、この日は、私達弟子が、師匠にもてなされる。内輪でもあり、また盛夏でもある。参加する人々は、浴衣に着物にと、思い思いの衣装を纏う。そして私も、夏着物を身につけ、下駄を履いて、訪れたのであった。七夕茶会と銘打たれた、この日の茶会。しかし、七夕というと、7月7日。そのことに何の疑問をもつこともなく、また意味を考えることもなく、ステレオタイプ的に認識していた私にとっては、最初、少し時期がずれているのが気になった。が、それでも、やはり夏の風物詩。待合に置かれた、七夕の飾り付けに目がいくと、そんなこともすぐに忘れてしまったのである。七夕祭りにも縁がなく、仙台までそれを見に行くことも無い(20年ほど前、飾り付けられているのを見た記憶も微かにあるが、定かではない)。そんな私には、間近に見る飾り付けは、ある意味、新鮮だった。笹竹に華やかに飾り付けられた短冊の願い事、そこには『結婚したい』といった文字も躍る。用意されていた短冊とペン、しかし、ちょっと照れくささもあり、懸けられている短冊を見て楽しませてもらった。そして席に入ると、まず目に入るのが、床の間の装いである。掛け軸に書かれた文字は『竹』、軸の上(何と呼ぶのか?)には実際に竹が使われている。そして、天井から吊られた花入れが目を引く。それは、"釣り舟"ならぬ、竹で出来た"吊り舟"。そこに生けられた花は、鷺草(さぎそう)。それは、私も初めて見た花であったが、その白い花はまさに鷺が羽を広げたように美しく、感動した。さて、ここに記すのも恥ずかしくはあるのだが、私は茶席の中に表現されている竹に、それが意味するところを理解していなかった。そして、後になって、七夕が"竹の節句"と呼ばれることを知り、初めてうなずくのである。二客の茶碗に使われていた虫明焼。それは、昨秋の三溪園での茶会(関連ブログ)以来であるが、この日の虫明焼には七夕の絵が描かれ、願い事の書かれた短冊をそこに見るのである。その願い事を叶えるのは、流れ星。それは、棚に表現されていたのであるが、まさに謎解きである。その棚は、溜精棚(りゅうせいだな)と呼ばれるもの。勝手付に柄杓が刺し通されて、格子状に組まれているその棚は、私も初めて見るものであったが、その名に流れ星が隠されていようとは、思いもよらない。そこを見抜けると、願いも叶いそうである。その棚の名は、裏千家の茶室、溜精軒に由来し、その窓が柄杓の柄で組まれていることによるという。柄を組んだ紐には、時節柄、朝顔や夕顔のつるをイメージさせられた。お茶会が終わってから、七夕について復習してみた。子供心に知らされていたのは、織姫星と彦星(牽牛星)とが年に1回出会う日。そして、織姫星と彦星との間を天の川が流れるが、その川を渡って、二人は出会う。と、ここで初めて、茶室の床に懸けられた"吊り舟"の意味を理解する。茶席でそれに気付いていたら、感動していた筈だが、遅すぎた。そして、短冊にかける願い。この日、待合で見た『結婚したい』という願いは、まさに織姫星と彦星とが出会いを成就させる七夕には、ぴったりの願いではないか。七夕を身近なものと感じることのない年月を送ってきた私だが、こうして書きながら、あまりの鈍感さに自身に呆れてしまった。その織姫星と彦星との出会いが実現するのが、七夕、7月7日の夕刻。この時刻、上弦の月(半月)が西の空に、舟のような形をして傾いているという。そして、その小舟に織姫が乗って、天の川を渡り、彦星に会いに行くという、一大ファンタジーが展開するのである。しかし、それも旧暦のことであって、現在の暦とは合致しない。明治以降、太陽暦が採用されると共に七夕も、7月7日に設定されたそうであるが、それは、七夕の重要な舞台セットが反故にされてしまったとも言えよう。ということで、天文学的には、旧正月がそうであるように、七夕も、毎年違う日に行われる類のものなのかもしれない。そして、今年は、旧暦の7月7日は、8月26日だそうである。その日に、一大ファンタジーが展開されるのだろうか。8月に開かれた七夕の茶会。しかし、そこに演出されていたものは、7月7日に見ることのない、七夕のファンタジー。まだまだ私が気がつかない演出もあったのかもしれないが、この日の茶会は、私の中に、日本古来の風物詩、七夕を蘇らせてくれた。余談である。この日、生けられていた、鷺草。それは、姫路市の市花でもあるそうである。そして姫路と言えば姫路城、それは別名、白鷺城だ。その当りの関連性が見えてくると面白い。その姫路城、平成の大修理のため、天守閣が工事用建屋ですっぽり覆われ2014年までその雄姿を拝めなくなるという。来年の花見シーズンの後で、その建屋の建設が始まるらしい。もう一度、見納めしておきたいところである。
2009.08.08
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この日、5月のお茶の稽古も終わる。月3回の稽古、今月は炉から風炉のお点前に変わり、いよいよ夏も間近といった感じである。ところが、実際には、連日の暑い陽気に、一体、春は何処に行ったの?という感じではある。それでも、お茶席では、その春の風情に触れることが出来るのが、嬉しいところだ。5月の稽古では、この時期ならではの印象に残ったことがある。とは言っても、2回目と3回目の稽古からである。最初の稽古については、オランダから帰国したばかりで、頭もボーッとしていたのだろう。何も思い出せない。強いてあげれば、正座がいつも以上に堪えて、膝の痛みが翌日まで続いていたことくらいである。昨年、気が付くことのなかった季節感、それを書き留めておきたい。稽古では、まず床の間の拝見から始まるが、掛軸に記された禅語に季節感を感じさせられると、また楽しい。1つは『薫風自南来(くんぷうじなんらい)』。薫風が南からやってくるとは、新緑の薫りを運ぶ南風の意か?夕暮れにかけ、日中の暑さも和らぐと、緑に囲まれた茶席に吹く風も心地よい。それがまさに薫風なのだろう。それは、三千家の墓所でもある大徳寺・聚光院の住職の筆と言われたろうか。そして、もう1つには、『閑坐聴松風(かんざしてしょうふくをきく)』。閑かに(静かに)に茶室に座していると、釜が煮え立つ音、松風が聴こえる。と、そこに描かれた光景のように、グツグツと煮え立つ音が本当に聞こえてくるのは、まるで演出のようだ。その心地よさは、少しリラックスした中で聞くからだろうか。なかなか緊張したお茶会では、気がつかない。そんな言葉をしたためたのは、広島・三原の仏通寺の住職という。薫風の中、出された主菓子はビワ(枇杷)だった。それは精巧に再現された、一見、本物のビワ。この日、稽古場を前に、ふと上を見上げると、ビワの黄色い実が実っているのを発見したのだが、それが5月の果物であることを改めて認識させられたのである。そして、それと同時に、遠い昔、幼少期から小中高と過ごした鹿児島の田舎の日々を思い出した。庭にあったビワの木、その高いところに、たわわに実ったビワ、それを落として食べた日々が懐かしい。そして、この松風の日に出された主菓子は、初鰹(はつがつお)だった。名古屋から取り寄せたというそのお菓子は、一見、ピンク色をした"ういろう"。食べるともちもちしている。しかし、初鰹というネーミングの意外性は、この季節ゆえのこと。それは表面(切った面?)に現れる縞模様が特徴とのことで、それが鰹の切り身を連想させるらしいのである。初鰹という言葉時代は、勿論、初めて聞くものではないが、その意味を意識したことはなかった。それは、夏の到来を告げる、その年初めてのカツオの水揚げのことで、初夏、5月の風物詩とのこと。よって、初鰹というお菓子も、5月限定のものであるらしい。そして、初鰹とくれば、それが詠われた有名な詩があることを、この日、知る。知らなかったと言うもの恥ずかしいかもしれないが、それは、”目には青葉 山ほととぎす 初鰹"(山口素堂)という詩。初鰹が初夏なら、ほととぎすも初夏の季語という。この日の稽古で使われていたお茶碗に、もみじの青葉の描かれた茶碗も置かれてあったのだが、そこに師匠の狙いもあったようである。稽古では、お点前する順番が来た人は、まず水屋で準備をするのだが、いくつか置かれたお茶碗の中から、自分の好みのお茶碗を選ぶ。ここでお菓子との取り合わせを考えて、お茶碗を選び、そして茶杓の銘(これも自分で考えて拝見の練習の際に披露する)まで考えて準備できると、私達のレベルとしては、かなりのものではなかろうか。この日のベストパフォーマンス、それは茶碗は、もみじの青葉。そして、和菓子が初鰹とくれば、茶杓の銘は"ほととぎす"である。茶席の取り合わせで、何と、"目には青葉 山ほととぎす 初鰹"が表現されるではないか。掛軸を見、花を見、主菓子を見、それから茶道具の取り合わせを考える。そんな頭で、水屋の準備をすると、水屋仕事もこれまで以上に楽しくなりそうである。考えるヒントは、常に転がっており、季節感も意識的に作り上げることが出来る。茶の湯の表現力の豊かさには、本当に驚かされるのである。
2009.05.23
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私が半東としてデビューしたお茶会から、もう1週間がたった。1週間前、花見茶会という名に相応しく、まさに満開だった寺の桜も、大部分の花びらが落ち、桜の絨毯を形成しており、また風にも舞っている。何度思い出しても、本当に貴重な体験をさせて頂いたと思う。その続編を記したい。4月4日の花見茶会、この日、私達が担当した野点席は、最終的に合計5席。それぞれ、12~18人のお客様を迎えることになった。そして、そのうち3席について、私は半東として、お客様と相対したのである。その3席を通して、トークの難しさを感じたのであるが、トークを繰り返す中で、そこで触れる茶道具について、だんだん強い愛着が湧いてきたのが、また不思議でもあった。愛着や思い入れがあってこそ、説明にも心が入る。それは当たり前のことであるのだが、「そうだったのか」と、あらためてその心構えにも気付かされたのである。この日、お客様が席に入ってすぐ目に入る野点傘と屏風、そして我が師匠である亭主が知恵を絞って用意した茶道具の取り合わせ。それら、素晴らしい演出の妙を、いかにお客様に感じ入ってもらえるか、そして楽しんでもらえるか、それを脚色するのが半東としての私に課せられた役割だったろうと思う。事前に調べたことを原稿に詰め込み、そして頭に叩き込み、この日に臨んだのであるが、意外とそれらをタイミングよく話すことは難しい。茶席では、この時にこそ、その話をしないといけない、というタイミングがあるのだが、その話をしようとした時に、対象物が席になければ、折角準備した話も使えない。本番直前、社中の人達を相手に一席もった時のことであるが、このいわばデモンストレーションの場で、私は見事に、薄器と茶杓について話し損ねる。薄器と茶杓は、この茶席のテーマである花見、そして都をどりを表現する、重要な助演俳優だ。桐と菊の紋の描かれた時代物の薄器は鼓形、そして茶杓は桜の木で出来たものである。この日の野点席では、お点前したお茶が出されるのは正客に対してのみ。二客以降は、点出し(水屋で点てたものを出す)となる。正客が最初の一口を飲んだところで、お点前する人は、仕舞い茶碗をとり、「お早めですが、お仕舞いにさせていただきます」と発し、一連のお仕舞いの動作に入る。そして、それが終わると、お盆、引き続き建水をもって下がるのである。その最初のデモンストレーションでは、話をする前に、薄器と茶杓はお盆と共に退場してしまい、お客様にそのことを述べることが出来なかったわけである。そんな実際のシチュエーションで行われた事前体験が、私に軌道修正の時間を与えてくれた。とは言っても、なかなかシナリオ通りに上手く運ぶものではない。各席ともなんとか、薄器と茶杓について、しっかり伝えることが出来たのだが、なかなかそのタイミングは微妙であった。最初の席では、お点前していた家内が、一連のお仕舞いが終え、もうすぐお盆を持って下がろうかというほんの少し前のタイミングで口に出した。この時は、家内もそれに応えて、動きを遅くしてくれた。2席目では、正客との話が長くなり、下げた後でそれに触れることになるのだが、拝見の声がかかったため、幸いお客様にはゆっくり見て頂いた。一方、トークに気をとられ、また正客さんの問いに応えているうち、それ以外の仕事を忘れることもしばしばあった。既にお菓子を手にしているお客様を前に、「どうそお菓子をお召し上がりください」の声が遅れたのは、最初の回と3回目。特に、3回目では、正客さんが楽しいお方で、最初から活発にお話されるので私もそれにつられているうち、お菓子のタイミングを忘れてしまう。たまらず、茶道口に座る半東さんに促されて気付く。さらには、お点前の人が茶筅でお茶を点てる動作に入ったのが目に入らず、仕舞い茶碗を取り込むタイミングを逸してしまった。そして、点てられたお茶が先に出された。しかもこの時は、出されたお茶に先に気付いた正客さんが、「先手必勝!」と言われて、お茶をとりに立ち上がったのである。当然、「申し訳ありません」と、私も立ち上がるのだが、それを制した正客さんは大先生と思しき年上の女性の元へとそのお茶を運ばれたのである。この席で正客に点てられたお茶は、形式上の正客の手によって、先に正客を固辞されたその大先生のもとへと捧げられたのである。そして、点出しとなる二客様の茶碗もその方の連れの方へと運ばれたのであった。そのような奇想天外な展開もあり、また奇想天外な質問なども飛び出したりもして、茶席の雰囲気は大いに和むのであったが、そこには楽しい茶会にしようという正客さんの意図も見え隠れしていた。とにかく、見落としも多かったし、ぎこちなさもあったのではあるが、お客様の温かい目に包まれ、なんとか3席、半東をやり遂げたのである。さて、この日の茶会、助演俳優を薄器と茶杓とすれば、主演俳優はやはり正客様に出した茶碗、馬上杯(ばじょうはい)であろうか。私自身、このお茶碗については回を重ねる毎に、話をしながら、すっかり愛着を感じるようになっていた。この茶碗のことは、決して忘れることはないだろう。馬上杯は、高台が高いのが特徴的である。このような語りを用意した。「ご正客様のお茶碗は楽茶碗で、馬上杯と呼ばれるものです。高台が高くて、穴が開いておりますが、そこから紐を通して首に吊るし、馬上でも盃を飲めるように、ということで馬上杯と呼ばれているようであります。茶碗の胴には団子の絵と桜が描かれております。」と。あるお客様からは、「なぜ、馬上杯なのか?」という質問も出たが、「馬のお肉のことを”さくら”と言いますし、それにかけて用いさせて頂きました。」と、このあたりはシナリオ通りである。そして、馬上杯と言えば、忘れえぬシーンがある。それは一昨年の大河ドラマ「風林火山」、ガクト演じる上杉謙信が北条の小田原城を前にした戦場で、あぐらをかいて、悠々と酒を飲むシーンだ。そこで、酒の入った瓢箪(ひょうたん)と共に手にしていたのが、まさに馬上杯である。残念ながら、この話を語ることはなかったが、過去の記憶と繋がるとなかなか楽しい。ちなみに二客の茶碗は京焼で、秀吉の醍醐寺の花見をイメージ。醍醐寺・三宝院の唐門には豊臣の桐の紋と、天皇家の菊の紋とがあることを事前に知るのだが、この日の薄器にも桐と菊の紋があり連想を膨らます。そして、瓶掛(小さい風炉)は赤膚焼。それは、秀吉の弟、秀長が奈良・赤膚山に開窯したとされる焼物。「なぜ、赤膚焼?」という質問には、花見団子から、団子三兄弟と連想して、「秀吉の弟に縁のある焼物なので」と結んだのであるが、この当りは私自身の解釈。まさに連想ゲームである。主演の馬上杯と、助演の薄器と茶杓、それが再び顔を合わせるのが最後の拝見。この場は、各々のお客様と話を交わせる場でもあり、半東冥利に尽きるひと時でもある。そして点前座の前にそれを並べるのは半東の仕事だ。思い返すと並べ方はともあれ、並べるまでの足の運びや仮置きの仕方など、正しかったのか怪しい。座る向きを間違えて、向きを変えて座りなおしたことも覚えているが、それさえもまるで正しいかのように行うのである。その時は、殆どそんなことを考えることはなかったのだが、きっと初めての方には正しく見えたに違いない。今回の茶席で心残りだったことと言えば、最初の席で拝見を行わなかったことである。尤も、拝見の声もかからなかったのではあるが、最後の挨拶を終えた後で、拝見に導く言葉をかけられなかったので、ちょっとした間が生じてしまった。挨拶の後、立ち上がって頂けないお客様に、再び今度は椅子から立ち上がって挨拶したのだが、初めての方も多かったせいか、皆様なかなか動かれない。そして、「お出口はあちらです」と苦し紛れに言った私である。この時、「拝見なさいますか?」という声かけをする余裕があればよかったかもしれないのだが、後の祭りである。しかし、これも初めてゆえの苦い経験、そしてまた勉強である。細かいことまで思い出せば、キリがないのであるが、初めて半東としてデビューした茶会は、お客様方の優しい目に見守られて、無事に終わった。家内も最初のお点前は緊張で手が震えたそうであるが、なんとか頑張ってやり遂げた。そして裏方にお運びにと頑張ったようである。私が招待した7人の方々も、とても喜んで下さっていたので、ホッとした。しかし、そんな一方で、お茶席が5回に終わったため、お点前の当番が回って来なかった気の毒な方がいたことも忘れてはならない。お客様の前で初めてお点前をするつもりで緊張して頑張っていた姿を見ていただけに可哀想な気がしたものである。また、最初から最後まで、裏方に徹していた方もおられた。いい経験をさせてもらった茶会も、そういう方々の支えあってこその結晶、感謝したいと思う。
2009.04.11
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この日の夕方、私は家内と、都内のとあるイタリアンレストランで、スパークリングワインのグラスを交わしていた。その時、私達は、一仕事やり終えたという安堵感と充足感とに支配され、その余韻に浸っていたのである。この日、私達は記念すべきお茶会デビューを果たした。それは、もてなす側としてのデビューである。茶の湯を始めて1年2ケ月、これほどまで早く、自らがこの日を迎えるとは、実は夢にも思っていなかった。それは、社中のメンバによる初めてのお茶会。そして、それが茶の湯の師匠からアナウンスされたのは2ケ月ほど前のことである。少し振り返ってみたい。この日、用意されたお茶席は、本席と野点席の2席。結果的には、それぞれ5席、お客様をもてなしたのであるが、本席の方は、棚を用いたお点前で、こちらは経験者を中心に構成された。そして私達が参加する野点席の方は、稽古を始めて1年未満の人たちで構成された。ここで、私達弟子は、お点前、お運び、裏方、と一通りの役回りを体験するのである。お茶会開催のお知らせがあって以来、私自身もそういう役回りをするのだろうと思っていた。そのため、暫く稽古でもお点前に力を入れていた私である。しかし、4週間前の稽古で、自身の役割が半東(はんとう)であることを知らされ、驚く。それは亭主の補佐役であるのだが、実は、その野点席には亭主はおらず、半東自身が亭主の役割を期待されることを知らされるからである。亭主である我が師匠は、本席での亭主を務めるため、「誰が野点席の亭主を務めるのですか?」と師匠に問うと、「いませんよ」と却ってくる。「では誰が説明するのですか?」と聞くと、「○○さんですよ」と。「えっ、マジですか?」と言う私に、師匠は、「○○さんはよくお茶会に出かけているから大丈夫かな?頑張って下さい」と仰られたのである。かくして、初めてのもてなす側に立つお茶会。お点前デビューのつもりが、いきなりの半東デビューとなったわけである。そして、その日以来、半東としての稽古も始まった。席への入り方、最初の挨拶、お菓子を勧め、仕舞い茶碗を出すタイミング、点出しのアナウンス、最後のあいさつ、といったところである。また、合わせて、当日行う、盆略点前の稽古も始めまった。それは、万が一、点前する人が真っ白になってしまった場合に、しっかりフォローするためでもある。稽古の機会は合計3回、そして当日1週間前の最後の稽古において、当日使用する茶碗や道具を知ることとなったのである。最後の稽古で、当日使用する茶碗、そして薄器を用いて点前が行われた。そして私の方も、「これは何と言えばいいのでしょうかね?」と師匠に助言を伺いながら、道具についての知識を吸収し、説明のしかたなどについてもレクチャを受けたのである。私は、この時の稽古を通して、どのタイミングでどの内容まで話をすべきなのか、考えさせられた。稽古において、「なぜこの日の床にそれがあるのか?」について、最初、自らが説明し始めたのだが、それではまずい。「それを言ってはいけません」と、師匠より指摘される。主客が席の空気を楽しむ上では、客とのキャッチボールを楽しみながら、徐々に席に込められた種明かしをしていく。それは、いわば連想ゲームであリ、そこが茶席の楽しみの一つでもあろう。その大切さを胸に、直前の1週間、道具やテーマに纏わる内容を調べ、いかにトークに盛り込めるかを考え続けたのである。 とは言っても、神様の試練だろうか、この週、顧客の緊急案件が重なり、ここ半年では最も忙しい週となったのである。昼休みなどに調べたものを漸く原稿に纏め上げたのは、前日夜のこと。あとは何度か声に出して読み、また何度も原稿を眺めた。前夜、時計の針が進むにつれ、さすがに焦りと共に、緊張感も高まるのであったが、それは、私だけではなかった。いち早く床に入った家内も、本番を翌日に控えた前夜、寝付けなかったようである。家内は、その日のために、この1ケ月、毎晩、仕事から帰ると盆略点前の練習をし、そして、仕事場にもそれを持っていき、時間があれば練習して同僚にもてなしたり、自分で飲んだりしていたようである。この1ケ月間で、台所には抹茶の空き缶が転がった。その野点席のテーマは、都をどり。それは、京都の春の風物詩の一つである。以前、このブログで京都の花街について記したことがあるが(関連ブログ)、それも実は、このお茶会のテーマに関連して、調べたアウトップが多く含まれていたのである。花見茶会の一席として用意された野点席、それは祇園の花見小路を通って訪れた、(都をどりの行われる)祇園甲部歌舞練場の野点席とも言えようか?外の明かりが一杯に入る、寺の室内に、設けられた野点席。その中央には、大きな野点傘が立てられ、点前座には赤い毛氈(もうせん)。その端に炭の燃える瓶掛、その上に銀の瓶が置かれる。その傍らには、時代物の桜の屏風に、壁には扇。それを取り囲むように、赤い毛氈の掛けられたお客様の席が配置されていた。当日の朝、その光景をまず目にした私は、自ずと気持ちがピンと張り詰める思いがしたものである。そして水屋の方に目を向けると、道具や茶碗が並べられ、既に臨戦態勢が整っていた。お茶会の始まりは、午後0時30分から。あとは、お客様を待つのみ、そんな状況であった。当日の朝の時間は、あっと言う間に流れていった。弟子一同が集まったところで、師匠の挨拶となる。初めての茶会、『一期一会』の気持ち、そして美味しいお茶を頂いてもらおうという気持ちを忘れないで、お客様と接することを全員で確認したのである。そして、実際の進行や裏方作業の確認も含めて、弟子だけで、2席、稽古を行い、お茶が振舞われると、全員で早めの昼食をとったのである。この日の朝、着物の着付けにバタバタして、口に物を入れることなく飛び出してきた私達であったが、昼食のお弁当はなかなかノドを通らなかった。それは、家内も同じで、高まる緊張感になかなか食欲も湧いてこなかったのである。この日、最初の席では、私の知人が訪れることも予測されていたので、私の半東と共に、家内もお点前のトップバッターとしてデビューすることになったのである。その最初の席、お客様は私の知人5人を含めて計18人。先行して始まった本席、その裏方の様子を目にし、漏れてくる亭主の声を聞くと、緊張感は高まるのであったが、もう逃げも隠れも出来ない。茶の湯を志す以上、必ず通る道である。そう思うと、意を決してやるだけであった。半東の私は、本席を終えたお客様を野点席に誘導する役割も担わされたのであるが、席入りの前に、お客様の表情を見ることが出来たことは、幾分、緊張感を和らげられる効果になったようである。また、野点席に足を踏み入れた瞬間、その演出に、サプライズするお客様の声も聞こえてきたりもしたので、逆に私がリラックスさせられた気もするのである。そして、全てのお客様が着座したことを確認すると、いよいよ野点席もスタートをきる。最初にお菓子が運ばれる。それは、二人一組で整然と、お客様の前に進み、順番に手渡された。お菓子は、都をどりに因んだ、花見団子である。それは、花見小路の軒先にかけられた、『つなぎ団子』の赤い提灯の演出でもある。お運びの人達が戻ってくると、いよいよお点前、家内の席入りとなる。緊張の面持ち、一礼して戻ると、茶巾、茶筅、茶杓の仕込まれた茶碗と薄器の載せられたお盆を運ぶ。茶碗は馬上杯(ばじょうはい)、茶杓は桜の木から作った『春の宴』、そして薄器は鼓形である。そして再び下って、建水を運ぶと、いよいよお点前である。そして座って、居前を正したタイミンブを見計らって、私も席入りとなる。「失礼します」と、一礼して入り、半東の椅子に座ると、正客様に向って挨拶をした。「本日はようこそお出でくださり、ありがとうございます。ささやかな茶席ではございますが、ごゆっくりお楽しみくださいませ。(そして全体を見渡し)皆様もようこそお出でくださり、ありがとうございます。」と。そして、さらに続ける。「本日の茶会は、お花見茶会と銘打っております。本日は、天気にも恵まれ、本来であれば外に席を設けてお楽しみ頂けるとよかったのですが、花粉も飛んでいる時節でもあります。そこで、室内ではありますが、野点席の雰囲気を味わって頂こうと思いまして、このように席を設けさせて頂きました。」と、その時だったか、もう少し話をした後だったろうか、茶道口に控える、もう一人の半東さん(この日、助っ人として、私と共に野点席を担当する)から、ささやき声がかかる。「お菓子を勧めて下さい」と。お菓子を手にしたままの、お客様方を前に、慌てて、「どうぞお菓子をお召し上がりください」と、発した私であった。こうして、初めての茶会、私の半東デビュー、そして家内のお点前デビューが始まったのである。
2009.04.04
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この日、2月25日は、菅原道真の命日。そのことを知らされたのは、週末のお茶の稽古においてである。その日、床の間に置かれた香合は牛を形どったもの。それこそが"天神様のお遣い"というわけである。菅原道真を祀る北野天満宮では、この日、梅花祭(ばいかさい)というお祭りが開かれ、道真の遺徳を偲ぶそうである。菅原道真は梅を愛したそうだが、境内の梅がちょうど見ごろとなる時期ゆえに、梅花祭と名付けられたのだろうか?今年は7分咲きだったそうである。境内には、茶席が開かれ、そこで芸舞妓さんたちが、お点前を披露し、そして呈茶してくれるそうである。この日が平日ではどうしようもないのだが、梅の花の下、芸舞妓さんに呈茶して頂けるのは、気分が良いに違いない。と、その場にいる自分を想像してしまうのである。 そういうことで、残念ながら、梅花祭に行くことは出来なかったのであるが、週末の土曜、その梅花祭を茶室にて、先取りさせていただいた。そのことについて書き記しておこうと思う。冬から春にかけての気候の変化を表現する言葉として、三寒四温という言葉も使われるが、その規則性を傍に置いて話すならば、このところの天気は、まさにその言葉通りに、暖かくなったり、寒くなったりを繰り返しているようである。そして週末は、晴天。風は強かったものの、普段厚手のセータを内に着ているところを、薄手のカーディガンに着替え、ほど良い気候だったように思う。最近、駅の構内にも、梅まつりと謳った観光ポスターが踊っているが、まさに梅が咲き誇っている季節である。梅は冬の季節を表す花でもあるが、梅が満開になると、もうそのまま春に突入という気分である。そして、その日、庭に咲く梅を眺めた後で、入っていった稽古場、その床の間には、今の景色そのままに、この日のテーマが表現されていたのである。まず目に入った掛軸は、ずばり「梅」の一文字。そして、花入れにも、もちろん梅である。そこに香合の牛がいるわけなので、それはまさに北野天満宮の梅花祭というわけである。ここに芸舞妓さんは居ないが、その掛軸の前で、お点前の稽古をし、お茶をいただいたのである。掛軸の「梅」の文字の左横には、何か難解な3文字が書かれていた。聞くと、それは、「雪裏春」と書かれている。雪の裏、雪のその下には、もう春が来ているという。それが梅という主題を説明するように書かれているからには、まさに「梅」イコール、「雪裏春」ということだろう。雪が残る景色に梅が咲く、まさにそれは今の北国にぴったりの景色だろう。しかし、雪こそないものの、それはまさに今の季節をピッタリと表現しているようである。そして、さらに、その茶席のテーマに応えてくれたのが、主菓子であった。緑の地に、薄っすらと粉雪を被ったようなそのお菓子の銘は、「下萌(したもえ)」。雪の下には、すでに芽生えが始まっている。春はもうすぐそこに来ているという光景。そのなんとも言いようのない、和文化の感性、その表現力に感嘆すると共に、春の訪れを噛みしめた私である。そして気がつけば、もう2月も殆ど終わり。正真正銘の春、3月に突入だ。季節の移ろいは早いが、そこに生きていて、それを感じながら新しい季節を迎えるというのは、我ながら贅沢だなあと感じるのである。まさに、"今の時に感謝"の心境である。最後に余談である。正月のTV番組で知ったことだが、富山県では、お正月に菅原道真公の掛軸を飾るのが習わしであるそうである。この日のお茶室、床の間に、もし道真公の掛軸が飾られていればどうだったろう?と、ふと思い浮かべた私である。
2009.02.25
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私の茶の湯人生も2年目に突入した。そして、早速、4月にお花見の茶会を、社中で催すとのアナウンスがあった。つまり、私達のお点前デビューが予想していたよりも早く、現実のものとして訪れることとなるのだ。その緊張感を感じながら臨んだ週末の稽古。ここで、珍しいものを体験したので、備忘録として記録しておきたい。それは、「花月(かげつ)」と呼ばれるものである。この日の稽古には、短い時間に多くの弟子(私達生徒)が集まり、さらに通常金曜のクラスの方も何人か訪れたため、いつもにない混雑ぶりであった。一人一人順番にお点前を稽古するには、時間がだいぶかかる状況が続いており、私も他の方のお点前を2時間ほど見ていたほどである。そこで、私を含め、お点前をしていない5人が残ったところで、先生が取り入れた稽古、それが「花月」だったわけである。それは、ちょっと見、ゲームのような感覚である。ざっくりと言えば、5人一組で、クジを引いて、お点前する人、お茶を頂く人が決まり、それを続けていくのである。極端な話、クジ運が悪ければ、お茶を頂くことも出来ないし、何度もお点前をすることにもなる。クジは花月札と呼ばれるもので、表面が松の絵、そして裏面には、月、花、一、二、三のいずれかの文字が書かれている。それが、「折据(おりすえ)」と呼ばれる折箱に入って、順番に回され、一つずつ引いていくのである。もちろん、その折据の開き方、閉じ方、隣への回し方には決まりがあるのだが、この日だけの体験ではなかなか覚えられない。が、ともかく引いた1枚を、全員が引き終わった後で、同時に札を裏返すのである。まず、それは席入りする前に行われ、そこで花を引いた人が亭主、月を引いた人が正客、以下、一、二、三の順番に座る。その席入りの足運びにも、決まりがあって、先生に言われるままに、おぼつかない足を進め、所定の位置に座るのである。席入りが終わると、亭主がお点前道具を運び入れるのだが、そこでまたクジ、いや花月札を引くのである。その前に、亭主のもつ花の札を数字の札と入れ替え、4人でひいたのか、そのまま5つの札を5人で引いたのか定かでない(要学習)。が、前者だったように思う。そして、同様に、全員が花月札を引き終わった後で、同時に札を裏返す。そこで花を引いた人が、お点前をすることになるのだが、この時、「松!」という掛け声を亭主がかけ、花を引いた人が「花!」、月を引いた人が「月!」と応えたように思う。そして、引いた札を定められた作法で、順番に箱に戻すと、席の移動となり、花を引いた人が点前座、月を引いた人が正客席へと移動するのである。そして、一通りのお点前がなされるわけである。正客がお茶を服して、茶碗が返されると、再び、花月札を引く。ここから先は同じ手順であり、同様に、花を引いた人がお点前、月を引いた人が正客の位置につくのである。それが4回だったか(?)、繰り返されて終わる。この一連の稽古で、私はお点前を1回、しかし月を引くことがなかったので、お茶を頂くことは出来なかった。(その後に来た方のお点前で、お茶を頂くことは出来た)クジ引きという行為自体が、ゲーム感覚なので、当たりハズレのような楽しい感覚ではある。実際に、初めて体験してみて、新鮮で楽しく感じたものである。しかし、その一連の動きには決まりがあり、席のスムーズな入れかわりや、札を同時に裏返し、掛け声に対しての応答を返すリズム、等々、座の呼吸が重要であることを感じ、そして学んだ。「花月」の真髄、それは自分の呼吸だけで行うお点前とは異なり、相伴する人との和、その人々と呼吸を合わせ、互いに配慮する心、それを鍛錬するための稽古だと気付かされた。それは茶の湯に留まるものでなく、日々の生活や行いにも通じる。周囲との和、配慮、心配り、そして礼儀や道徳全般にも通じる、と言っても過言ではなかろう。ゲームのつもりが、実は、その奥は深いのである。さて、「花月」の由来、それは、江戸時代中期、如心斎千宗左(表千家)、一灯千宗室(裏千家)、川上不白(武家茶人:如心斎に師事、のち江戸千家の流祖)などが協力して考案したもので、「七事式(しちじしき)」と呼ばれる集団で行う稽古法の一つである。よって、この作法には、表と裏の区別は無いそうである。そして、「花月」と言ってもその種類は多く、平花月、炭付花月、濃茶付花月、....と、聞いているだけで気が遠くなるのである(この日、稽古したのは、平花月というものであった)。「七事式」とは、「花月」、「且座(さざ)」、「廻り花」、「廻り炭」、「茶カブキ」、「一二三」、「数茶」の七つの稽古のことを言うそうである。その概要については、ウェブや教本に譲ることにしたい。しかし、その真髄は、茶道の本意を悟るための手助けである、ということを知る。それにしても、茶の湯の世界は、稽古一つとっても、果てしなく、果てしなく広く、そして深い。
2009.02.16
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この日、2月に入って最初の茶の湯の稽古を迎える。昨年2月に茶の湯を始めて、ちょうど1年の節目である。振り返ると、この1年、私の週末の暮らしや関心は劇的に変化したように思える。その節目となる稽古の日、前日が「初午(はつうま)」の日ということで、この日の茶席でも、それに因んだ演出が施されていた。初午とは何ぞや?と考えたり、またそれを口にすることも、過去の人生では考えられないことである。1年を締めくくる稽古で、そういう日に巡り合うのも、この1年間、多くを学んだことを想うと、相応しい。しかし、「初午祭」という響きだけは、何気に耳にしたことがことがある。それは京都の歳時記を記したガイドブックか何かで見たのだろうか?そう思い、ウェブを検索してみたのである。そして、それが、私が子供の時分より、ニュースで接していた、我が故郷の歳時記であったことを突き止めるのである。それは、鹿児島神宮に伝わり460年以上の歴史を持つ「初午祭」。鈴や花などで華やかに飾りつけられた馬「鈴かけ馬」が練り歩き、お囃子にあわせて踊る。その背には米俵を背負っていて、五穀豊穣と牛馬の安全を祈願しているという。そのイメージは脳裏に残っていて、懐かしく思い出されるのである。さて、初午とは2月最初の午の日。初午は、その年の豊作祈願が原型で、それに稲荷信仰が結びついたものであるという。 全国の稲荷社の総本社である京都・伏見稲荷神社には、神が降りた日で、初午の日には、「初午大祭」が開かれる。伏見稲荷と言えば、狐ということで、この日稽古で使われたお菓子は、狐の顔をしたものだったのである。そして、掛軸には、伏見稲荷の灯篭と、神聖なる山域をイメージした水墨画。香合の鈴は、拝殿にかかる鈴だろうか?そして、花入れは赤楽。それは、伏見稲荷の鳥居をイメージしたという。なかなか凝った演出である。伏見稲荷を訪れたことのない私としても、そのイメージを結びつけるべく、訪れてみたくなる。しかし、伏見稲荷と狐という関連性が気になった私は、片手間ながら、少し調べてみたのだ。それを簡単に整理してみると、稲荷神とは、「宇迦之御魂神(うかのみたま)」、別名「御饌津神(みけつのかみ)」、穀物の神の総称である。そして、狐の古名「けつ」が、「御饌津神」を「三狐神」と解されて、狐は稲荷神の使いとなった。そういう関連性のようである。振り返ってみるに、稲荷神社というところを訪れた、確固たる記憶はない。しかし、狛犬の代わりに狐が鎮座している姿は何度か見たことはある。それがどこの神社だったかというと不明であり、また、当時、そこに狐がいることについて特に意識することもなかった。今思うと、それこそが稲荷社だったのだろう。 では、我が故郷の鹿児島神宮はどうだったのか?「初午祭」と稲荷社との関係は?との疑問が湧いてきた。そしてあらためて調べて見ると、初午祭の祭神は、鹿児島神宮の末社、稲荷神社の大祭であることが分かった。これで辻褄が合った。ついでに、その由来も探ってみると、また面白いことを発見する。一つには、関が原の合戦で、島津義弘が敵陣突破をしたおり、道先案内をしたのが狐。それにあやかって、島津の守護神として祀ったという由来。そしてもう一つが、島津家始祖となる忠久の母、丹後局にまつわる由来。それは、鎌倉時代、比企能員(よしかず)の妹で源頼朝の側室となった丹後局が、北条政子に追放され西国に下る途中、産気づいたところ、狐が現れて灯りを燈し、無事に出産したというものである。さて、稲荷社の狐、じっくりその表情を観察したことはないのだが、今からそれを見るのが興味深い。というのも、神社でよく目にする狛犬、その左右、対になって鎮座する狛犬の表情が、「阿吽(あうん)」を表しているが、稲荷社の狐もきっとそういう表情を見せているのだろう。それを、確かめてみたくなるのである。万物の始めと終わりを表す「阿吽」。実は、私がそれを知るのも、ほんの数ヶ月前、知人のブログを通してのことである。人は、口を開けて生まれ、口を閉じて死ぬ。そして、狛犬も一方が口を開け、片方が口を閉じているのは、そういう万有の原理を表現しているからに他ならない。そして、これまで気付かなかったのだが、対で立つ仁王像や、金剛力士像なども、実は「阿吽」の表情になっているらしいのだ。「初午」の狐のお菓子に始まり、稲荷社と狐の関係、そして阿吽にまで辿りついた。新しい発見の連続、だから茶の湯はやめられない。私の茶の湯人生も、いよいよ2年目に入る。
2009.02.07
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引続き、初めての初釜の報告である。待合でお腹も気持ちも豊かになった後で向かうのが本席。その前に、外露地にある腰掛待合に座り、暫し待つ。露地とはお茶席での庭のことであるが、中門を境に本席のある内露地、そして寄付のある外露地とに分かれる。この日、爽やかな晴天ではあったが、やはり冬、外で待つのは寒い。その間、手焙(てあぶり)という、小さな火鉢が私と次客である家内との間に置かれ、手の平の暖を取る。その緑色の風合いは、典型的な織部焼である。やがて、茶室の準備が出来ると、半東(はんとう:補佐役)がお出迎えにやってくる。半東に導かれて、日差しを浴びた苔の絨毯に配された飛石を踏みしめ、本席の前に至ると、手水(ちょうず)で手と口、そして最後に柄杓を清める。そして、躙口(にじりぐち)から席に上がった。本席の床の間には、"安眠"と書かれた掛軸。そこには、ゆっくり寛いで下さいとの気持ちが込められていた。待合での食事と酒のおもてなしに、すっかり極楽気分になった私には、有難いお言葉である。そして、香合には亀。"亀之洲"という銘が示すように、それは池の洲に上がって、まさに甲羅干しをしている亀のようでもある。亀も安眠しているイメージが、呼び起こされる。そして、亀と来れば、鶴であるが、後でしっかり登場するのである。花入に挿された花の名前は、右耳から入り左耳から出てしまった。後で会記を見ると、"加茂本阿弥"(かもほんなみ)とある。実は、これが花の名前で、白椿の一種のようである。初めて聞いたが、白い椿といっても、いろいろとあるものである。そこに紅梅が色を添える。この席では、いつも稽古をつけてもらっている先生が亭主となり、お点前をして頂く。新年初めての問答は何かと緊張するもので、始めのうち、お話し頂いた内容が頭に定着しないのである。しかし、徐々に落ち着いてくると、そこに使われている茶道具、そして茶碗に感動を覚えるのであった。それらは、正月ならではの華やかなもの。すっかり目も楽しませてもらった。ちょうど目の前にあった釜には、海老の鐶付(かんつき:釜の左右の肩にある装飾。釜の上げ下ろしに用いる金属製の輪(=鐶)を通す)。そして、建水も、金色に近い、華やかな光沢を醸し出していた。それは砂張(すなばり)と呼ばれるもので、銅と錫の合金であるらしい。調べてみると、それは、金属鋳物の中でも最も高度な技術が必要であるとの記述があった。そして濃茶を頂く段になるが、まだまだぎこちない作法である。良くぞ、昨夏、箱根大文字焼茶会の濃茶席で、正客に座っていたものだと思う(関連ブログ)。一口頂いたところで、亭主からお服加減を尋ねられる。教科書通りに応える。そして、次客に茶碗を渡し、次客がそれを口にしたところで、待ってましたとばかりに、「お茶の御銘は?」と質問を発した。しかし、この日はそれが早すぎたのである(いや、遅すぎたのか?)。濃茶は、全部で6人いる客に対して、3人一組で振舞われたのであるが、私が質問を発した時には、亭主は後半3人分のお点前の真っ最中であった。この席の始め、茶碗を2個重ねて点前座に就いた亭主。それ故のお点前だったのだろうか、私の問いは早すぎた。四客に濃茶が出された後で、「今言って下さい」と合図が入った。毎回、毎回が勉強になる。さて、濃茶に用いられた茶碗であるが、楽茶碗(黒楽)。そして、その作は何と楽家四代、一入によるもの。つまり約300年ほども前の作ということになる。昨年5月、京都の楽美術館での茶会(関連ブログ)で、150年以上前の茶碗で飲んで感激したものだが、こんな身近なところで、300年前の時代物で飲ませて頂けるとは、ただただ感激するばかりであった。さらには、薄茶の赤楽は、楽家12代弘入作。その趣ある風合いの茶碗の胴から腰にかけては、鶴が3羽。その立った姿が、軽妙な筆遣いで描かれていて、癒された。ここで鶴と亀が揃うのである。そして、唐津焼の替茶碗は、天神牛。天神様のお使いである牛は、北野天満宮や山口の防府天満宮でも見たが、今年は牛(丑)の年。それらは、まさに丑年の正月らしい演出である。織田貞置作という茶杓の銘は、"東雲(しののめ)"。信長の弟で、茶人、織田有楽斎は有楽流の創始者として有名だが、貞置というのは、この時、初めて聞く名前。しかし、実は信長の孫で、有楽流を継承した方であることを知る。つまり茶杓も時代物である。東雲とは、夜明けの頃、東の空が薄明るくなってくる頃のことを、この時、教わる。それは、まさに、新年の初日の出にかけるに相応しい。茶道具の拝見を終え、それらが下げられると、本席も終わりである。と思った瞬間、さらに福引が待っていて驚く。まさに、至れり尽くせりである。福引は松竹梅の3種。欲を出した私は梅、そして無欲の家内は松を引いた。今年、年女となる家内は、古帛紗をゲットし、嬉しいスタートとなった。私には新年らしい懐紙、そして中に入っていたおみくじは大吉だった。新年最初の初釜は、サプライズの連続。すっかり幸せな気分にさせられたのである。もし、我が師匠がこれを読むとすれば、手の内を明かし過ぎではないか、と言われるかもしれない。しかし、どうしても感動を書き留めたいという気持ちが、ここまで書かせてしまった。気が早いのであるが、来年の初釜がまた楽しみである。一方で、来年の初釜は、もてなす側に立たされるかもしれないのであるが、それもまた、違う楽しみをもたらしてくれるに違いない。その日のために、今年も茶の湯にどっぷりと浸かっていこうかと思う。お茶会の後で、記憶のかけらを拾い上げ、それを形にしていく作業は今年も続きそうである。
2009.01.11
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この日の朝、羽織袴に身を包み、電車に揺られること約30分。茶の湯の稽古場に向かう。袴を穿くのも、昨秋の"後の月"観月茶会(こちら)以来のこと。この日は、1年の始めを飾る、初釜にお招きされたのである。前夜の荒れた天気が嘘のように晴れ上がり、冷たい空気が身をピリッとさせ、それがまた清清しい朝であった。「初釜」というのは、11月の炉開き、つまり茶の湯の世界でいう"正月"に行われる「口切(くちきり)」に続き、2番目に重要な行事であることを知る。普段通う稽古場とは言え、初釜というのは初めての体験。期待は大きいが、予め正客を仰せつかっていた手前、ほどよい緊張感も覚えるのである。稽古場の初釜は、予め1席6人のグループに分けられ、1日かけて何席も行われる。おもてなしする側は、一日かがりの大行事であるが、いざ参加してみて、その演出を感じれば感じるほど、そこに込められた亭主の思いや、その準備など、おもてなしとは大変なことだと改めて感じさせられるのである。お茶席でまず通された待合。そこで見る床の間の装いは、私には初めて見るもので、新鮮であった。富士山の描かれた画賛(絵に賛辞が書き添えられたもの)の掛軸のすぐ目の前には、「結び柳」と呼ばれるものが長く垂れていた。それは、柳の枝をたわめ曲げて輪に結び、床に掛けた花入から長く垂らしたもので、初釜には欠かせないものだという。それは年始にあたり、この一年が無事に過ごせますようにといった願いが込められているようである。そして下座の方には、歴史を感じさせる、華やかな屏風も置かれ、否が応にも新春気分が盛り上がるのである。本席を前に、ここで3人ずつが向かい合うように座り、初釜の膳を戴く。別室に懐石料理屋のケータリングが陣取り、箱(何と呼べばいいのか?)に美しく盛り付けられ、折敷(おしき・膳)に載せられ運ばれる。それは、実に華やかな膳であった。引き続き、煮物椀が運ばれ受取るが、この時の箸の扱いもあわせて教わる。食べかけの箸を、その端が折敷の外に出るように置いてから、碗を受取る。とにかく、食器の扱い方や食べ方まで、全てが初めての体験である。碗の蓋を外すと、その中はホタテの"しんじょう"だったか?そして、一番上に柚子が載っている。まずは一口、汁を食すると、次に上に載った柚子を汁に浸し、柚子風味を舌に感じるのである。実に美味しい。そして、ここでも箸の扱い方を学ぶ。碗を取り左手に持ち替えると、箸を取るのであるが、それは菓子器から箸を取り上げるのと同じ要領である。箸を折敷から持ち上げると、その端を、碗を持つ左手の空いた指(おそらく中指と薬指の間)に挟み、その状態で右手の指は箸を滑らせて、持ちかえるのである。(このあたり、私自身の復習も兼ねて詳述させて頂いた)そして一人一人にお酒も振舞われる。そのお酒は、一般には手に入らないという貴重なお酒。「これぞ日本酒の旨さ極めたり!」と言っても過言ではない。そのまろやかで透き通った味とでも言おうか、自然と酒が進み、空腹の胃に染みるのであるが、それが実に心地よく、つい3杯も頂いてしまったのである。そして食事の後には、花びら餅が、縁高(ふちだか:重箱の菓子器)に入れて出される。正客に出された縁高には、お菓子が一つに黒文字(黒文字の木を削って作られた箸)が一本添えられ、次客以降は、複数個が入った縁高に二本の黒文字が添えられ出された。通常、二本の黒文字でお菓子を挟んで取るところであるが、一本の場合は左手を添えて取り上げるということである。初釜には、お決まりというこの和菓子も、初釜が初めての私にとっては、初めてのものではなかったか、と思う。白餅に紅の菱餅をのせ、白味噌を挟んで半円状に折りたたまれたお菓子の中に入っているのは、甘く煮た牛蒡(ごぼう)。そう言われて、初めて気が付かされる。そういう初めて尽くしの記憶のカケラを、後から拾い集めて、意味や背景が見えてくると、また楽しみは倍増する。花びら餅とは、本来、宮中や公家などの正月行事に使われた菱葩(ひしはなびら)に由来しているらしいが、それは新年を迎えて長寿を祝うための「歯固め」という行事において食べられたものという。歯固めとは、堅いものを食べて歯をじょうぶにし、そして長寿を願うことという。餅の中の牛蒡は押鮎の見立て、味噌は雑煮の意味が込められているらしいのであるが、奥が深いものである。それが初釜に使われるようになったのも、その歴史は明治時代に始まるとのこと。裏千家11代玄々斎が、宮中より菱葩を使うことを許されたことに始まったらしい。玄々斎は立礼式の点前を考案した人でもあり、それらを取っても、時代を経ながら、新しい茶の湯文化が形成されていることを実感するのである。美味しい料理に美味しいお酒、そして花びら餅。まさに、極楽気分であった。この日、新年が明けて10日にもなるが、再び正月を迎えたような気分にさせられたのである。いや、正月でもここまで極楽な気分にはさせられまい。全員が食べ終わったところで、外露地に出ると、腰掛待合で本席を待つのであった。(つづく)
2009.01.10
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11月は、茶人にとっては正月ということである。風炉から、(畳に掘られた)炉へと季節が変わる大切な時期。2月に茶の湯を始めた私にとっては、そういうことも新鮮なものとして映る。11月1日に始まった三連休、東京で静かに、茶の湯の文化と歴史に触れた。そんな中、思わぬサプライズにも出会うのである。連休の初日、茶の湯の稽古は休みであったが、おもてなしがあり、招かれる。炉開きの日、粟ぜんざいというものを頂いて祝うのが、ならわしだそうで、私も生まれて初めて頂いた(おいしい)。そして、この日のために熟成されていたお茶を頂く。棗の蓋を開けると同時に漂ってきた新茶の香り、それは嗅覚を心地よく刺激した。花入れには硬い蕾の白玉椿、そして織部の香合。それらも、この時期を象徴する取り合わせであることを学んだのである。この時期に相応しい体験で始まった連休中、日本橋で開催されていた、2つの展覧会に出かけた。いずれも茶の湯に関するものである。一つは、三井記念美術館で開催されていた『茶人のまなざし森川如春庵の世界』、もう一つは日本橋高島屋で開催されていた『江戸・東京の茶の湯展』である。ここでまた、私の知らない世界が展開する。趣ある茶碗、そして茶道具の数々に、見とれた私である。しかし、来場者の多さには、驚いたものである。特に、会期の短い後者の展覧会は、人気の美術展をも越えるような混雑ぶりだった。これほどまでに茶の湯人口は多いものか、と驚かされた。2つの展覧会を通して、江戸時代、そして明治以降、大正から昭和にかけての、東都(江戸、東京)の茶の湯の歴史を見たのであるが、もちろん、私にとっては、初めて知ることばかりである。江戸時代、徳川幕府の下、小堀遠州にはじまり、山田宗偏、川上不白、と武家を中心とした茶の湯の潮流が育まれ、受け継がれていく。遠州流とか、宗偏流といった流派の起源もそこに見る。松江藩の松平不昧公も、品川の御殿山に壮大な茶室群を作っていたというが、それがCGで再現されていて目を引いた。やがて、明治、大正、昭和となると、高橋箒庵(そうあん)が、音羽の護国寺を東京の抹茶文化の中心とすべく発展させる。護国寺に茶室が多い理由はそういうことのようである(まだ私自身、訪れたことはない)。そして、近代三茶人と呼ばれる益田鈍翁、原三渓、松永耳庵(関連ブログ)も登場する。森川如春庵(にょしゅんあん)は、益田鈍翁との交友が深い茶人だったようであるが、その書のやりとりや作品には、39歳という年齢差を越えた親密さを見た。原三渓が三渓園で開いた茶会の記録があり、そこで如春庵や鈍翁について、感想を述べていて、その当時の茶人の繋がりが見えておもしろい。その場所の茶会に、先日、自身も参加したことを思うと、また感慨深くもなるのであった。しかし、展覧会を通して、自身が最も印象的だったこと、それは茶の湯と赤穂浪士との繋がりをそこに見たことであった。宗偏流を興した茶人、山田宗偏が、吉良邸の討入りに関係していたというのだから、思わず目が点になったものである。赤穂四十七士の一人、大高源五。脇坂新兵衛という商人に身を偽って、山田宗偏に弟子入りしたという。そして、12月14日に吉良邸で茶会があるとの情報を聞きだし、その情報をもって大石内蔵助が討入り日と決定したというのである。展示されている品々の中に、その脇坂新兵衛が彫った茶杓があり、また吉良上野介の首級にカモフラージュされたという花篭(本物の首級を奪われないように隠し持ち、花篭を白い布で縛って竹槍の先につけたらしい)もあって、実に印象的であった。大佛次郎の歴史小説『赤穂浪士』を読んだのは、数年前であるが、当時、茶の湯に興味を持っていなかった私には、そのような記憶は残っていない。しかし、また読み返してみたい気にさせられるのである。茶の湯から、歴史を勉強させられ、発見させられる日々は、永遠に続くかのようである。
2008.11.03
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週末11日の、十三夜の観月茶会。月明かりの下、秋の虫の鳴き声が響く茶室内は暗く、蝋燭の火と短檠(たんけい)の火に照らされ、幽玄そのものである。その雰囲気で進められる茶会は、まるで離れの密会のようでもある。それは、大石内蔵助が泉涌寺(こちら)の茶室で吉良上野介を討つべく密会しているのか、あるいは幕末の京で繰り広げられた倒幕の密会か。それを思うと、月明かりの中の雁行さえも、離れの秘密の座敷に案内されているようで楽しい。想像は限りなく広がる。その幽玄は、赤い絨毯の敷かれた待合から始まる。その中央には行灯の火が灯り、煙草盆が置かれる。そして、床の間の掛け軸には月の絵に加えて「玉兎走浪.....」と書かれているようであった。そして、月の灯りだろう、蝋燭の火がそれを表現していた(右写真)。玉兎とは、月に住むとされる兎から、月自身の異称となっているようである。この日、正客の練習ということで、正客を仰せつかった私である。待合においても、煙草盆の正面が正客の位置と決まっていることを教えられる。毎回が勉強である。この日、正客の心得を一読して、茶席に臨んだ私であったが、いつもと異なる幽玄な雰囲気に、それもあまり役立つことはなかった。本席の始まりは、盃であった。最初に、枝豆と小魚(名前は分からないが)を懐紙に押し戴いたのだが、これが所謂、八寸(はっすん)であろう。海の幸1品と山の幸1品である。引き続いて、亭主が客一人一人に酒を注いで挨拶して回るが、その手には、銚子と、引盃(ひきさかずき)を載せた盃台(はいだい)があった。一人一人、引盃を受取り、亭主が酒を注いで一巡した(結局、二巡した)のだが、この盃のスタートには全く意表を衝かれた格好である。その後で、薄茶のお点前が始まる。それは、床の間を背に座った私の正面であったのだが、正客のプレッシャを感じていた私の頭の中は、質問ネタ探しに一生懸命だったようである。茶会の後で、家内から、お点前の所作の美しさを聞かされるのだが、私にはその印象が残っていなかった。そうかと言って、質問の内容についても、その時、亭主の説明になるほどと頷きながらも、すぐに忘れ去ってしまっている。その場で、消化しきれなかった記憶の断片を家に持ち帰り、連想されることをヒントに調べるうち、それらが繋がることも度々である。前回、書いた「月に雁」も然りである。釜のすぐ横、私のすぐ目の前、茶室を照らす行灯、短檠(たんけい)が目に留まった。私にとっては、初めて目にするものである。そして、亭主から、その短檠に加え、手燭、膳燭といった、幽玄空間を作り出している照明器具について、説明があった。実は、それらの名前も、茶席を出る時には頭から消え去っていたのであるが、復習して確認した。短檠の作りは興味深い。その上部には、雀土器(雀瓦:すずめかわらけ)と呼ばれる美しい緑色をした陶器(どこの焼き物だったのか)が載せられていたのだが、それが油皿である。頭を出した灯芯の先端には火が灯っていた。一方、蓋のある雀土器の後ろには穴が開いており、そこから白く長い灯芯が後に垂らされていた。そこには皿の油が吸い上がらないような工夫がされているようである。その灯芯を後ろに垂らした短檠からは、高い所に留まっている白い尾長鶏を連想させられたものである。さて、秋の茶会である。鎌倉彫の香合には菊の花が大きく描かれ、唐津焼の円筒形の水差にはススキがたなびいていた。お菓子はとらや製で栗を使ったもの、それは十三夜が「栗明月」と言われるからだろう。そして私が戴いた茶碗は、楽家先代の作による赤楽の俵茶碗。秋は米の収穫期というわけである。俵の紋が彫られているその茶碗は、色合いも手触りもいい感じで、飲み口の形までもが俵の形をしていたのが、興味深かった。そして、山口県出身の家内の茶碗が、薩摩焼だったのは、また亭主(師匠)の心遣いだったのだろうか。幽玄の中にも、秋満載の十三夜の観月茶会であった。
2008.10.13
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「月に雁(かり)」という安藤広重が描いた絵がある。切手収集家にとっては、切手趣味週間の切手として、「見返り美人(菱川師宣画)」と共に、その名は良く知られている(右)。小中学生の頃、切手収集を趣味としていた私にとっても、当時より、この2枚の切手は手の届きようのない垂涎の的であった。"後の月"と呼ばれる十三夜にあたった11日、茶の湯教室での観月茶会が行われた。いつものように発見や学ばされることの多い茶会であったが、「月に雁」もその一つである。私にとっては、京都大覚寺(こちら)での中秋の名月(十五夜)に続く、晩秋の十三夜の月を愛でる茶会。夕刻、一瞬、黒い雲が通り過ぎで雨が落ちることもあったが、陽が落ちて、茶会が始まるころには、薄雲の切れ間から月が顔を出し始めた。いろいろ調べると、「十五夜をしたなら、必ず十三夜もしなければいけない」という言伝えもあるようで、今年、両方の月を拝むことが出来た私は幸運と言ってもいいだろう。 さて、この日の茶席で用いられていた棗、その蓋に描かれた鳥、それは二季鳥(にきどり)と言われるものであった。初めて聞く言葉であったが、その意味するところは、秋から冬(つまり二つの季節)にかけて北方から渡ってきて、春の訪れと共に帰り去っていく鳥のことであり、それが雁の異称であるという。まさに、この季節に相応しい題材であるが、この日は十三夜の月が輝いている。亭主から、棗の説明の後で「月に雁」の言葉が出たのであるが、これはこの茶会の一つの演出であったことに気付く。(実はその場で解釈出来なかったのだが、帰ってから復習しているうち、そうだと確信する。)それは、既に席入りの時に始まっていたのである。まず、待合で白湯を頂いた後、露地草履に履き替え、腰掛待合へ移動して待つ。暗い露地(茶庭)には、行灯が風情を醸し出しており、見上げれば十三夜の月が空高く輝いているが、庭を照らし出すほどではない。やがて、手燭(てしょく)と呼ばれる灯りを手にした亭主(師匠である)自ら現れ、いよいよ席入りとなる。亭主を先頭に、正客、次客と順番に連なって、露地の中を進んでいく。露地は低い塀で、外露地と内露地とに分けられていて、そこに設けられている中潜(なかくぐり)と呼ばれる中門を通り抜けると、本席のある内露地へと至るのである。月明かりの露地は、足元がおぼつかない。しかも苔の絨毯となっているので、飛石を踏み外さないように、手燭の灯りに導かれ、前の人との距離を空けないように連なって進む。これこそが、雁行(がんこう)と呼ばれるのである。それは、まさに「月に雁」を体現したと言ってもよかろう。茶室内は、短檠(たんけい:席中を照らす灯具)と蝋燭の灯り(手燭、膳燭)、つまり火の灯りだけに照らされ、幽玄そのものである。そして、掛け軸には月の文字。それは、棗に描かれた二季鳥が月灯りの下、雁行する光景を演出しているようにも思えるのであった。
2008.10.12
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9月9日が、『重陽(ちょうよう)の節句』と呼ばれることを、この年にして初めて知る。『端午の節句』とは良く聞くが、『重陽の節句』とは初耳である。これを教えてもらうのも、先週末、茶の湯の稽古からである。『重陽の節句』は、五節句の一つであり、『菊の節句』とも言われるという。その日の稽古場の床の間には、菊の花の描かれた掛け軸、そして古瀬戸の花瓶に活けられたのは、まだ小さな蕾の秋明菊(しゅうめいぎく)であった。ところで五節句と言われても、「はて?」という感じの私であったが、これを機に学習させてもらった。順番に、人日(じんじつ:1月7日、七草)、上巳(じょうし/じょうみ:3月3日、桃の節句、雛祭り)、端午(たんご:5月5日、菖蒲の節句)、七夕(しちせき/たなばた:7月7日)、そして重陽(9月9日)である。重陽とは、旧暦9月9日が、陽数(奇数)の最大値である9が重なるというのが語源のようである。節句の中でももっとも重んじられてきた日であるというが、皇室や公家を中心に重んじられてきたようである。菊が咲く時期でもあり、それが『菊の節句』とも言われる由縁でもあろうか。皇室の花も菊の紋様だ。その日、茶の湯で用いられたお菓子も、菊を模ったもので、質感のある菊の紋様という感じであったが、その上に白い紐のような塊が載っていた。両口屋是清さんが、この時期のために作った和菓子が表現していたのが、”着せ綿(きせわた)”であると言う。”着せ綿”とは、『重陽の節句』に因んだ風習であるという。9月9日の前日、菊の花に真綿をかぶせ、 翌朝、菊の露を含んだ真綿で身体を拭くと、千年も長生きする、という言い伝えによる。今の時代でも、そういうことが行われているのだろうか?宇治・平等院鳳凰堂の近く、宇治橋の袂に紫式部の像を見たばかりだが、その紫式部も、自身の歌集で、着せ綿を贈られた喜びを詠っている。「菊の花 若ゆばかりに袖ふれて 花のあるじに 千代はゆづらむ」と。その意味は、「着せ綿の菊の露には、私は若返る程度にちょっと袖を触れさせていただき、千年の寿命は、(花の持ち主である)あなたにお譲りしましょう。」というものである。さて、この日の水屋には、『重陽の節句』を意識して、菊が描かれた茶碗も用意されていた。着せ綿のお菓子のあとの抹茶である。私は、自身のお点前で、この菊の茶碗を選び、お茶を点てたのであった。この日、菊づくしの稽古であったが、それも『菊の節句』ゆえのこと。茶の湯を追究することは、まさに日本の文化、伝統の発見。また、それを肌で感じさせてもらった。
2008.09.09
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先週末の茶の湯の教室。そこで夏ならではの"洗い茶巾"を体験したことは、ブログでも述べたところであるが、もう一つ、夏ならではの一風変わった演出があった。それは掛け軸に隠されていたのだが、ここで紹介してみたい。茶の湯教室は、まず茶室に入る前の挨拶に始まる。「こんにちは。お稽古お願いします。」と挨拶し、畳の茶室(稽古場)に入っていくのであるが、そこでまず最初に行うのが床の間拝見である。床の間まで足を進めて正座すると、扇子を前に置いて一礼し、掛け軸、茶花、香合に目をやる。その日の床の間に込められたメッセージを読み取ろうとするが、まだまだその域には及ばない。この日の床の間の掛け軸は、一風変わったもので、横長の紙に書かれた文(ふみ)であった。しかし、昔の文であり、何が書かれているのかまるで読めない。暫くの間、そのことが気になっていたが、稽古の途中で、その文が、松平不昧(ふまい)公が、あるお寺の和尚に宛てたものだと知らされる。松平不昧公こと松平治郷(はるさと)は、山陰の小京都、松江藩の7代藩主。松江に茶の湯文化を育み、今なお松江に息づく和菓子文化の産みの親と言ってもいいかもしれない。私が不昧公の名を初めて知ったのは、昨年6月、松江を訪れた時であるが、茶の湯を始めてからというもの、その名を耳にすることも多くなった。畠山記念館で不昧公も手にしたという細川井戸に接した記憶もまだ新しい(こちら)。その不昧公の文の内容であるが、生徒さんの中に古文書に造詣ある方がいて、その生徒さんの解読により、そこに書かれた全体像が見えてくる。それを知ると、不思議なもので、それまで受け付けなかった文の中に、読める文字が認められるようになってくるのである。それは200年ほど昔の文でありながら、"涼しい"といった今でも使われる言い回しや、熟語も随所に目につき、驚かされた。そして、古い文によくある、"候(そうろう)"という言い回しは、省略形で文中に"、(てん)"で表記されていることを、その生徒さんに教わる。さて、その掛け軸に使われた文は、不昧公が和尚へ届けた、お菓子に添えられたものであった。"大暑"、"土用"という文字から、お菓子は暑中お見舞いのようなものだったのであろう。そして、それは"涼しくなったら、また茶事にお招きしたい"と言った意味の文章で締めくくられていた。一見して、藩主の書にしては、達筆ではない。各地の歴史博物館やお城の展示などで目にする書状などと比べると、文字の大きさに統一がとれていなかったり、行が曲がっていたりと、くだけた感じがある。そこから思い浮かべる情景は自由だ。こんなことだったかもしれない、と勝手に想像してみる。お菓子を持って和尚を訪ねた不昧公、しかし和尚が不在だったので、その場で、さらさらと置き手紙をしたため、菓子に添えておいた。そこに、猛暑の盛り、普段着のままの不昧公の温かさがあり、茶事を愛する不昧公の姿を見るような気がしたのである。そんな不昧公の思いを感じながら、夏の茶の湯を楽しむのも、粋なものである。
2008.07.30
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茶の湯教室の楽しみは、お点前を見たり体験したりすること以上に、新たな知識や発見を得ることである。殊に、新たに得たことが、それまで自分の中にあった知識や経験と絡み合う瞬間があるとなおさらである。この週末の教室においても、そんなことがあった。季節感をも表現する茶の湯には、夏ならではの演出もある。この日、初めて体験したものが、"洗い茶巾"と言われるものである。茶碗を清める茶巾は、通常、茶室に入る前の水屋において、桶の中に洗い、絞った後、茶碗の中に畳み込まれる。しかし、"洗い茶巾"とは、茶巾を洗う所作をお点前として見せるのである。このお点前で使われる茶碗は、浅くて口の広い平茶碗となるが、その訳は水屋の桶の役割を果たすため、それをイメージした茶碗を用いるのだという。"洗い茶巾"では、まずは桶に見立てた茶碗の中に仕込まれた茶巾を持ち上げ、そこで軽く絞る。茶碗に入った水に、絞った水が滴る。そして、建水(けんすい)の上で、固く絞り込み、畳み込み、釜の蓋の上に置く。そして最後に、茶碗に残った水を建水の上から、一気に流し込むのだが、これこそが流れ落ちる滝を表現し、清涼感を表しているというのだ。私は、その演出に、エンターテインメントを見た気がしたものである。この演出を考案したのが、利休七哲の一人、瀬田掃部(せたかもん)。これまで私の中でも全く印象になかった人物であるが、ウェブを調べてみても極めて情報が少ない。近江国の瀬田に生まれたとも、武蔵国に生まれ小田原北条氏に仕えたとも言われているが、高山右近の推挙で秀吉に仕えていたらしい。しかし、秀頼が生まれた後に起きる豊臣秀次事件に連座して、秀吉に切腹を命じられる。それにしても秀吉には、千利休、山上宗二(関連ブログ)、そして瀬田掃部と、後世に名を残す茶人が葬られているのに気づかされる。さて、"洗い茶巾"に使われる、口の広い平茶碗、その上に載せて運ばれるのが茶杓である。瀬田掃部の頼みで、千利休が長い茶杓を削ったというが、その銘が"瀬田"である。それは、瀬田掃部だからというわけではない。水を湛えた茶碗の口を琵琶湖に見立て、その右側に載せられた茶杓が、琵琶湖に架かる橋、瀬田唐橋(せたのからはし)ということである。その情景から、"瀬田"と命名されたというのである。 これほどのヒットがあろうか、さすがは千利休!、と思わずにんまりした私である。瀬田唐橋は、琵琶湖の端、瀬田川に架かる橋である。瀬田川は、やがて宇治川、淀川と名を変えて大阪湾に注ぐのであるが、瀬田唐橋は、歴史上、古代より、重要な戦略拠点であった。信長の時代には、安土城と都とを結ぶ幹線道路として現在の場所に移されるが、本能寺の変の直後には、織田方にこの橋を落とされる。そのため、橋の修復で、光秀の安土入城が遅れてしまうのだが、このことも光秀の運命に多少の影響を与えたやもしれない。言い換えると、信長と秀吉の時代の架け橋の役割を果たしたのでは、とも思う。この時代、信長、秀吉の下で生きた利休が、茶杓に"瀬田"と命名したのには、いろいろと連想させられるものがあり、面白い。 瀬田唐橋の近くには、源氏物語を書いた紫式部に縁ある、石山寺も近い。石山寺にある多宝塔は、4円切手の図柄として、幼少時より目にしていた。大学2年の秋には、石山寺を訪れた後で、瀬田唐橋に立ち寄り、橋を渡ってもみた(下写真:1982年)。当時、コンクリート橋だったのに期待外れもしたのだが、擬宝珠や橋の装飾に雅を感じたのも事実だった。新幹線の車窓からも見えるので、京都が近づくか、京都を発って東京に戻る時には、今でも何気に瀬田唐橋を探したりするのである。 この日、"洗い茶巾"から、瀬田唐橋まで連想されられたのであるが、こういう展開を重ねると、ますます茶の湯に、はまってしまうのである。-------------最後に余談である。瀬田唐橋は、琵琶湖マラソンのコースにもなっている。琵琶湖マラソンは、小学校低学年のころからテレビで見ていたので、瀬田唐橋のことも、当時より実況で何度となく目にし耳にしていたものである。しかし、琵琶湖マラソンというと、今から30年以上前に起きた印象的な出来事が忘れられない。それを、ここに書き留めておきたい。主人公は、1972年のミュンヘン・オリンピックのマラソンの金メダリスト、アメリカのショーター。琵琶湖マラソンにおいても、招待選手として、走っては優勝していたと記憶している。そのうちの1回だった。先頭を独走していたショーターであるが、突然、沿道で声援する人々が振る小旗をもぎとり、コースから外れて畑の中に消えてしまったのであった。所謂、野糞であった。その間、レースの方は、先頭が入れ替わってしまうのであるが、復活したショーターは、再び抜き去り、優勝してしまうのである。私の中で琵琶湖マラソンと言えば、このシーンが目に焼きついて離れない。
2008.07.27
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酷暑の3連休となったが、その初日の土曜、月3回の茶の湯教室に行く。さすがの連休とあってか、極端に生徒さんが少なく、私達夫婦のほかには2人しかいない。約3時間の間、普段体験することのない、炭手前(すみてまえ)なども見せてもらったりと、ゆったりとした時間を過ごした。夏の茶室は、簀(すだれ)を入れた戸、簀戸(すど)で囲まれ、涼しげである。庭の苔も青々としており、その中をたまに我が物顔の猫が庭の石の上を悠然と歩いていたりする。庭は緑と石の組み合わせと言っていい。そこには、華やかさはないが、それこそが禅宗の侘び寂びでもあるのだろうか。庭に花が無いのは、茶室に置かれた茶花を引き立てる役割もあるらしい。まさに庭も茶の湯の一つの構成要素ということである。この日、お盆を前にして、床の間の掛け軸は、”夢”であった。黄梅の朱印から、きっと大徳寺黄梅院の住職の書なのだろう、と想像させられた。その文字の意味するところは、仏の教えにも通じるものにも思われた。つまり、「人の人生は夢のようなもの。我々は、つまらないこと、どうでもいいことに気をとられることが多い。そういうものに囚われずに、短い人生をしっかり生きるように。」ということを意味しているらしい。そして、床の間に置かれた香合には、黒地に蓮の絵と般若心経の一部が書かれたもの。これは極楽浄土を表しているのだろうか。いかにも、お盆という季節を感じさせられる。花器には、"むくげ"が活けられていたのだが、その茶器として使われていたのが、本来、お経を入れるためにある経筒であった。青銅色をした筒であり、活けられた花の傍らに、その蓋も並べて置かれていたが、この日の床の間のテーマが感じられた。"むくげ"という花の名前を聞くのは初めてであったが、この季節の花であるという。実は、身の回りにもさりげなく咲いていいるというが、気にしたことがなかった。朝、花を咲かせるが、夕方には萎んでしまうらしい。それは、まるで朝顔と同じだが、夏の花はそういうものが多いのだろうか。作家、林芙美子が詠っているのを思い出すが、花の命の短さに、人の命の短さを重ね合わせているかのようでもある。この日、床の間に込められたメッセージには、それぞれの要素が意味をもち、その場に居るものに、語りかけているかのようである。 そういうメッセージを詠み取ることで、茶席も味わい深くなってくる。それら細部に至るまでの奥の深さに、茶の湯を始めての約半年間、頷かされるばかりである。ところで、家内に勧められ、前回と今回の2回、着物を身につけて、茶の湯教室に臨んでみた。ただ自分の装いが変わっただけではあるが、お点前の所作にも、気持ちにも、芯が通ったように感じるのが不思議である。自ずと、歩き方や手の位置なども、着物にあわせてかわってきて、その場の空気に一歩踏み込み、溶け込んだような錯覚に陥るのである。ここ最近のお点前の練習では、拝見の問答する練習もある。それは、棗(なつめ)、茶杓の拝見を申し出、問答するというものであるが、この手順にも作法がある。そんな中で、創造力を発揮すべき場面が一つだけ与えられる。それは、問答の中で、茶杓の銘を答える瞬間であるが、練習用の茶杓に自分のインスピレーションで名前をつけて答えるのである。その場のテーマや情景を浮かべて、名を考えるのは楽しくもあるが、これまでのところ、いい名前が思い浮かばずに、先生の助けを得ている。しかし、次回は、"夏草"とでも命名しようか、と考えている。始めにも述べたが、この日の練習では、初めて、炭手前も見せてもらった。それは、釜に炭を入れ火を熾すまでの一連の動作であるが、そこにも整然とした作法が存在する。まずは、炭にも種々の形があり、それらが決まった順序で、釜の中の決まった場所に置かれるのに驚かされる。そして、一連の動作の最後に香が焚かれることも、この時、初めて知る。そしてそこに使われる灰の重要性。これは、代々受け継がれてきた、いわば秘伝のタレとでも言うべきもであるらしい。とにかく、茶の湯では、それら一つ一つの動作や、床の間、そして使われる茶道具、それらが全て、侘び寂びの表現であり、茶席はその集大成の場ということである。それらは、季節感の表現でもあり、もてなしの表現でもある。日々、新しい発見があり、学ぶことにはキリがないのである。さて、この日、茶室に掲げられた掛け軸、"夢"についてである。この数日前、六本木にある国立新美術館でウィーン美術史美術館展で静物画を観たことは、前回のブログにも述べたが、そこに表現されていたのが、まさに"人の世の儚さ"だった。その印象と、この日の掛け軸の"夢"とが、だぶる思いがしたものである。この日、床の間に込められたメッセージには、大事なことを思い知らされる。短い人生である。つまらないこと、大して意味のないことに囚われることなく、自分自身を見つめて生きていくこと、それが重要であるということだ。残念なことに、私達のごく身近なところには、風説を垂れては、陥れようと画策する人がいる。それが義母であるだけに、度々、頭を悩まされ、疲弊するのである。しかし、短い人生、それは、頭を悩ますには、あまりにも価値のないことである。それを思うと、気持ちもいくらか楽になった。お盆の時期を前にして、この日の茶の湯空間には、身も心も、雑念から開放されたものだが、人生の道筋をも与えられた気もしたのであった。人生は短いのだ。
2008.07.20
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