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地下鉄の駅のプラットフォームで、一匹の紋白蝶が飛んでいる。ここには一本の花もありはしない。慌てる風もなくひらひらと飛んでいるように見えるが、実際のところ、紋白蝶は焦っていた。今朝方は、確かに菜の花畑にいた。線路をはさんで反対側にも広大な菜の花畑があって、そちらに行こうと、線路を横切って飛んでいた時に、巨大な鉄の塊がやってきたというわけである。何かの超常現象が起きて、時空を超えてしまったのだ。紋白蝶は自分の身に起きた大事件に驚きながらも、諦めることはしなかった。こうなれば、もう一度あの超常現象に身を委ねるしかない。紋白蝶は覚悟を決めた。鉄の塊が再びやってきて、紋白蝶の目の前で止まり、ドアが開いたが、紋白蝶はわずかに開いていた窓からその中に乗り込んだのである。不幸なことは、その鉄の塊は紋白蝶が住んでいた菜の花畑の近くの駅の方からやってきた電車で、紋白蝶は自分の住処からますます離れて行く。しかし、幸いなことは、その線の終着駅は海のそばで、その辺りにも沢山の菜の花が咲いているということである。
Aug 27, 2006
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「この国では、優秀な新しい人は古い人の肉を食って成長していく。」いきなり結論を切り出されて、私はびくっとした。「あなたの息子が成長していくために必要なことはもうおわかりでしょう。」私は心の準備ができていて、息子のためであれば、もちろん快諾するはずだった。しかし、自分の半世紀に及ぶ存在が、20歳に満たない息子の台頭によっていざ否定されると、如何に息子の能力が優れているからとは言え簡単には承服できなかった。「あなたは戦うということですか。子供のために死ねない腰抜けの親として恥をさらすのですか。そもそもあなたの能力では既にかないませんよ。」そして、闘技場だ。ああ、息子はこんなにふてぶてしいやつだったのか。私に向けて振り下ろしてくる最後の一撃に何のためらいもない。その瞬間である。私の内部で閉ざされていた堅い殻がカチンとひび割れ、そこから大きな意志や意欲が湧き上がってくる。勝負は既についているというのに、私は今だ私を支えている強いものがあることを意識している。もっとも、大量の出血で生きのびることはできそうもないが。
Aug 19, 2006
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真夏の熱射にいらだちながらも、病院を出てとぼとぼと歩き続けていた。今歩いている公園の手すりの向こう側は高い崖になっていて、その少し先に鉄道が走っている。 確かこの辺りで、花見の夜にその事件が起きた。酒を飲みすぎたのであろう。その男が手すりを越えて転落した。その直前に、この男と私の眼が一瞬出会ったのである。 一度、どしんと鈍い音がしたと思ったが、それっきりである。崖の下は闇が支配していて、何も見えない。私以外にその事故を見た者はいないようである。 私には、足の骨を折ってうんうんと唸っている男の姿が思い浮かんだ。転落の瞬間、眼を会わせた私が誰か救助の人を連れてきてくれると信じて、痛みに耐えている男の姿が感じられたのである。 しかし、私は何事もなかったかのように、その場を離れた。その男の運命を決する事件を私だけが知っているという優越感に胸を高鳴らせ、とても愉快なものを見た時のように心の奥底から湧き出てくる、ケラケラという笑いに近い感情を必死で抑えつつ、私は立ち去ったのである。 この感情をあの医師と看護婦が私に対して抱いているのであろう。他人に対する哀れみや同情の下に潜むものをどうしても押し殺せなくて、あの医師と看護婦は顔を見合わせながら、別の言葉で表現して喜んでいるのに違いない。 病院を出てから私が呆然としていたのは、残り少ない命に対する恐怖ではなく、それを彼らに知られてしまったことに対する屈辱のためなのである。病そのものではなく、その医者と看護婦の優越が私を押し潰そうとしていた。
Aug 12, 2006
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少年は少し泳ぎ疲れたと思ったが、もう一度水の中に滑り込むと、ドルフィンキックを強く打ってバタフライで泳ぎ始めた。 クロール程には早く泳げなかったが、強く逞しいこの泳ぎを少年は好んだ。バタフライよりもっともっと強そうな動物の名前をこの泳ぎにつけたかった。 明日、入院したらもう泳ぎにこれないだろう。 今あるすべての力を誰かに見せつけるためかのように、少年は後ろに押し出した両腕をすばやく前に戻して、水面を激しく叩くようにして水中に再び入っていく。 涙が出てきたように少年は思ったが、水中に一度頭から突っ込むとそれはきれいに洗い流された。 人々に弱みを一切見せなかったことを少年は誇らしく思った。そんなことがまだできる自分が嬉しかった。 生命というのは各個体で閉じた化学反応系だと化学科を志望していたその少年は考えた。生命でなくなることは、この化学反応系が外界の系と融合することだと思った。この水と融合できるのだと思うと、少年は何とか耐えられるような気がした。
Aug 6, 2006
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