お散歩 。。。 0
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にほんブログ村 NHKBSプレミアムで、ヨーロッパ大陸横断リバークルーズの再放送が ありました。豪華なクルーズ船で、ライン川、マイン川、ドナウ川から黒海まで、 3週間をかけて総距離3,500キロ・9ケ国を巡る旅。 現役の時、東欧担当ウイーン駐在経験があるだけに、見慣れた景色・ 街並みが次々と現れ、想い出深く楽しめました。 西欧陶磁器に興味があった皇子は、有名な窯元を訪れていくつか商品を 買い求めました。 ハンガリーの三大名陶といえば、ヘレンド・ホロハーザそして、 ジョルナイ。 ヘレンドで最も有名なパターンは、< インドの華 >。日本の柿右衛門の 影響を受けており、1840年代に誕生して以来、ヘレンドのシリーズの中では、 最も長命なものです。 < インドの華 > < インドの華 >の後継として、19世紀の後半ハンガリーの名門貴族アポニー 伯爵が、註文したデイナーセットの為にデザインされた、パターンが< アポニー グリーン >。ヘレンドでは最高のベストセラー・パターンです。 < アポニー・グリーン > ホロハーザは、日本であまり知られていないブランドです。 この番組で、駐在時に結局訪れる事が出来なかった、ペーチにあるジョルナイ が取り上げられたのでした。 ジョルナイは磁器というより、建築用タイルの方が有名で、ウイーンのシンボル の一つである、シュテファン大聖堂の屋根が、同社のタイルで作られて います。 ジョルナイの磁器は、特別な釉薬を使う事によって、金属製のような外観を 作り上げることにあります。 また、彩色にエナメルを混ぜることによって、パターンにふくらみを もたしています。 最近高齢者の間では、ホテルを変える必要がなく、寝ている間に次の訪問地に 連れていってくれることから、クルーズによる旅が流行っているそうですね。 うん・・・??? 私は、まだ若いから、トム・クルーズに狂~ず、ってか・・・ ブログ村ランキング参加しています。 下の画像を応援クリックしてね。 ↓ にほんブログ村
2021.06.25
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にほんブログ村 このまま皇子を駐在させておくと、何が起こるかわからない。皇子のあの性格 だからキレテ、所長のドタマをぶち割ると、本部は考えたのでした。また、 もともとが東欧取引には関心が薄く、1年で派遣を見直す方針でしたから、 これは渡りに船と皇子の召還を決めました。 東欧経済市場はいまだ混乱の中にあり、外貨不足などで取引実現は時期早尚。 高い海外駐在員経費をかけても、効率的に合わないとの結論に達し、巡回駐在員 三人全員を引き上げる全社的な決断 も、時同じくしてなされたの でした。 駐在した吾々は5年滞在をベースにして、住居などの生活設計をたてた わけですから、1年で帰国とは納得出来るものではありません。しかし、 サラリーマンなんて、所詮将棋の駒。経営陣の思った通りに動かされる わけで、自分の意志や希望などそこには反映されないのですから・・ 初めての海外駐在が不完全燃焼に終わり、傷心の中で皇子は帰国したのでした。 短期間の滞在でしたが、東欧民主化混乱期に一人の歴史の証人として、そこに いたという有意義な体験とはなりましが・・・ そしてウイーンは、この歌曲のように皇子にとって、やはり <わが夢の街 >なのです。 リサイタルでは1番しか歌われない事が多いのですが、2番の歌詞 この世を去れば、恋やワインともお別れ。しかし、天国からウィーンを見おろすと シュテファンの塔が挨拶してくれるだろう。その時、遠くから歌が聞こえてくる‥ が、やけに悲しく聞こえたのでした。 Ob ich will oder net Nur hoff' ich recht spät Muß ich einmal fort von der Welt. Geschieden muß sein Von Liebe und Wein, Weil alles,wie's kommt auch vergeht. Ah,das wird ganz schön Ich brauch' ja nicht z'gehn, Ich flieg' doch in' Himmel hinauf, Dort se tz' ich mich hin Schau runter auf Wien, Der Steffel,der grüßt ja herauf. Dann hört' ich aus weiter Ferne ein Lied, Das klingt und singt,das lockt und zieht: それでは、この回想録も下の歌をもって、終わりとさせて戴きます。 サウンド・オブ・ミュージックから< so long,farewell >。 うん・・ それでは、悪代官の所長はその後、どうなったのか?ってか・・ いじめの対象がいなくなったわけで、矛先は現地スタッフに当然むかった はずです。 パワハラの告訴が、ロンドン独法社長に現地スタッフからなされ、 彼はウイーン事務所長を罷免となったそうです。 ロンドン塔に幽閉の上、ピカデリー広場で処刑されたとの話を、風の便りに 聞きましたが・・・ 真偽のほどはわかりましぇ~~~ん。 == これでおちまいなのだ、ワン == アウフ・ビーダー・ゼーエン ブログ村ランキング参加しています。 下の画像を応援クリックしてね ↓ にほんブログ村
2019.07.30
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にほんブログ村 上司であるウイーン事務所所長の、粘液質な性格そしてパワハラについては、 例をあげれば数知れません。 社員のだれよりも早く出社し、総てのテレックスに目を通し、気にいらない ものを見れば、コメントをつけて当事者の机の上に、これみよがしに置いて あります。 例えば、化学品本部から派遣されたK君が、秘書を使って休暇のホテル予約を とった事に、彼が激怒した事件。まあ~皇子以外の派遣者は、30代の前半で考え 方がドライというか、吾々の年代の人間とは違っています。 公私混同といえばそうですが、自分で注意すればいいものを、わての監督が悪い からだと、まず怒りの矛先を皇子に向けてきました。 K君はお金持ちのおぼっちゃんらしく、着任すると BMWを即購入し、休みに はゴルフや観光などに興じ、それが所長としては常日頃面白くなかったよう でした。 誰かをいじめてないと気が済まない、所長の怒りは初め彼に向かっていましたが、 着任後の後半では皇子へと矛先が変わってきました。 本社から、東欧ミッションとして担当副社長の視察が、組まれました。 副社長のお出ましですから、各本部とも本部長やそれなりの重鎮がメンバー なのに、皇子の出身本部では営業と無関係、審査のK課長。 この人選を見て、資材本部が東欧取引に力を入れていないかが、よくわかると 所長は怒るわけです。確かに、皇子の駐在は1年をもって見直すとの、本部 基本方針が後でわかったことから、このミッションメンバーを見ても、確かに そういうことなのかと、がっかりしたものでしたが・・・ 本店在勤中は嫌な上司に対して、絶対に服従しなかった皇子。 でも、海外場所ではそうもいかないとして、ただただ堪える日々が続き ました。 それは、ローカル・スタッフも同じ思いで、所長がいると誰もしゃべらず、 黙々と業務をこなします。しかし彼が出張で不在だと、冗談を飛びかわしながら、 和気あいあいの雰囲気。 ところが、その所長と決定的な心の亀裂が生じた、事件が発生しました。 取引先社長一行など VIP の接待は、所長宅で行われる事が多いのです。 そのため、海外場所長宅は大使公邸など目じゃない広さと豪華さの、 住宅を供与されます。 接待準備と接待の為に、海外駐在員の奥さま連中が、駆り出されます。この時、 旦那の会社での階級がそのまま奥様連中のランクになり、下っ端のおくさまは あごでこきつかわれるわけです。海外場所の奥様の最も嫌な事として、この 場所長宅での客先接待をあげています。 ある重要接待が社宅であり、7時頃に来るようにと所長から、我々に指示が ありました。 皇子は約束の時間より早く行くのが信条なので、6時30分ごろには所長宅に 着きました。したら、所長の奥さんが出てきて、早すぎるので出直してくれと。 戻ろうとすると、化学品のK君も来てインタフォンを、押したのです。 帰ってきた所長の声は、 ( 早すぎるだろう・・7時に来いと言ったのだから、7時にくれば いいんだ~!! ) と、けんもほろろ・・・ この件を、翌日の昼食時現地日本人スタッフのNさんと、鉄鋼本部のKくんに 話したのでした。 ( 30分ぐらいなら、遠距離を運転してわざわざきたのだから、あがって 待ってなさいというのが、普通の対応だよね・・ ) と。 ところが翌日、所長に呼ばれたのでした。 鉄鋼本部のKくんは、前から所長の腰巾着だったのですが、皇子の総ての話を 所長に御注進として、告げ口していたのですよ。 ( 7時と言えば、7時に来ればいいんだ。君なんか来ても何の役に立たないん だから・・ 重要な客を接待したことのない君なんかに、その準備で家の中が戦争状態に あることなど、わからないだろう。) あげくのはてには、 ( みんな奥さんを連れてこうようとしているのに、君はいまだ単身で来て・・ 何を考えているんだ、このバカ者が!!! ) と、罵詈雑言を浴びされました。 それ以後、皇子を貶めるようなないことないことを、資材本部へ 電話やテレックスで秘かに報じていたのでした。こんなひどい奴も我社には いるもんだと、帰国後その詳細を上司から聴かされたのでした。 == 続く == ブログ村ランキング参加しています。 下の画像を応援クリックしてね ↓ にほんブログ村
2019.07.29
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にほんブログ村 ウイーン在勤中最も驚愕した事件が、湾岸戦争でした。 皇子が赴任した同年同月、1990年8月2日のイラクによるクウエート侵攻を きっかけに、国連が多国籍軍の派遣を決定し、1991年1月17日にイラクを空爆 したことから、始まりました。 日本も、機雷除去の為の海上自衛隊の掃海部隊の派遣、そして135億ドルの 戦費を負担するなどで、実質的に参戦。 翌年1991年2月27日にクウエート市を解放し、多国籍軍は敗走するイラク軍を 迫撃。翌日28日の朝に戦闘は終結し、3月3日には暫定の停戦協定が締結され ました。 この間、イラクに撃墜される危険性があるとして、飛行機での東欧への出張 禁止の通達が、本社からありました。実際、幣事務所があったヒルトン・ホテルの 駐車場でも、爆弾騒ぎがありました。皇子はたまたまこの時、プラハに出張中 で難を逃れたのですが・・ 湾岸戦争の期間中でも、我々駐在員は無為に過ごすことも出来ず、飛行機の 代わりに車や電車という移動手段で、出張を続行したのでした。 2月にポーランドのワルシャワに行かなければならなくなり、往復列車を起用する こととしました。ウイーン~ワルシャワ間を走る列車名は、ショパン号と いうなんともロマンチックお名前。 一等車に乗車したのですが、対面式の 6人掛けコンパートメントで、二等車は それが8人掛けになるだけの違いです。車両はポーランド製だけあって、 ひどいガタがきているもの。 しばらく車窓の景色を見ていたら、頭が痛くなりました。要は、ガラス窓が 平滑でなく、凹凸がある代物なのです。 それでも、ポーランドに入るまでは、コンパートメントに乗客は皇子だけ だったので、快適な旅でした。ところが、わてより大きなシェパードを連れた、 変なおばさんが乗りこんで来たのですよ。 このワンコが下に寝そべり、恒にわてをジロジロ監視しているんですわ。 お手洗いに行きたくなっても、この犬を跨がなくてはならず、ガブット わての大事な所を、噛まれるのではないかと我慢。( もう~~~、フランソワ、モレシャン~~!! ) そのうち、ワンコも寝てしまったのですが、そのいびきのすごいのなんて・・ グワア~、グワア~~!! 対面のおばちゃんは、スースーとかろやかな寝息だっただけに、これには びっくらこきましただ。 帰りはホテル代を節約する意味でも、夜行列車を利用しました。 これもポーランド製の列車で、窓に隙間がありそこからピューピュウと、 マイナス25度の風が吹き込んできます。 加えて、暖房が全く効いておらず、ベッドに入っても寒くて、寝付けません。 自分の体温でトロトロしてきたとき、ドンドンとドアを叩く音。 ( パスポート・プリーズ!!) ポーランドの国境を越えてチェコに入るので、ポーランドの検察官が乗りこんで きたのでした。 そして、チェコに入境するとチェコの検察官が、ドンドコドン。越境時にまた、 チェコの検察官がドンドコドン。オーストリアに入境すれば、オーストリアの 検察官がドンドコドン。 12:00~7:30まで4回も叩き起こされ、寒さもあって寝る事が 出来ません。 やっと、眠りに入ったと思ったら、ドンドコドン。 ウイーンに着いたと、車掌さんが起こしにきたのでした。 一睡も出来ない状態で、ウイーン事務所に出社して仕事。 列車での出張はもう二度としたくありません。それ以後はイラクに撃墜されても 構わないからとして、以前通り飛行機での出張としたのでした。 == 続く == ブログ村ランキング参加しています。 下の画像を応援クリックしてね ↓ にほんブログ村
2019.07.28
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にほんブログ村 弊社では、イギリスロンドンの独法が欧州全店を統括し、ウイーンを含む東欧 場所はドイツデュセルドルフの独法が管轄していました。デュセルドルフは大場所 で、資材本部からも4名の駐在員が派遣されていて、そのうちの一人は同期 でした。 打ち合わせも兼ねて当店を訪問した時に、いい機会なのでかって東ドイツの 中心であった、ベルリンに行ってみました。 第二次大戦後から40年にわたって分断されていたドイツは、ベルリンの 壁の崩壊によって東西ドイツの統合へと向かいました。しかし共産主義体制下 にあった東ドイツと、自由主義経済の西ドイツとでは、大きな経済格差があり ました。 社会主義国の中では優等生であった旧東独の企業でも、1000社のうちまともな ものはわずかに 200社。その内、西ドイツと合弁可能なものは30社程度で、 ほとんどの企業が倒産の見込み。既に、旧東ドイツの失業率が、20%を超えて いると、その時の手紙には書いてありました。 また旧西ドイツは同じドイツ国家として、今後再建にあたるわけですが、この為に ドイツ経済は2~3年は低迷することは必至と。実際統一後のドイツは、深刻な 不況に襲われ、2006年ごろまで苦しんだわけでした。 ベルリンでは、GRAND HOTEL に宿泊し、ベルリンの壁があったところ まで、歩いてみました。 壁はほとんど取り除かれ、一部が観光用として保存されていました。その前で、 これがベルリンの壁の欠片だと、コンクリートの破片を売っている輩が相当数 いましたが、ほとんどは観光客目当ての偽物だそうです。 ブランデルブルク門までの大通りの街路樹、菩提樹の落ち葉が皇子の 手紙には同封されていましたよん。 ところが、以下のものを送ってくれとも書いてあり、落ち葉を見てロマンチック な気持ちに浸っていたおくさまも、これではずっこけてしまったでしょうね・・・ 1)ハウスカンタンブランチ たらこスパゲッティ ソース焼きそば 2)山海ブシ 磯じまん(株) 3)鮭フレーク 4)なめたけ茶漬 5)まぐろフレーク味付け 6)カツオふりかけ 7)和菓子 キミシグレ 8)サンマの蒲焼 本当の鰻の蒲焼がたべた~~~い!!と・・・・ == 続く == ブログ村ランキング参加しています。 下の画像を応援クリックしてね ↓ にほんブログ村
2019.07.27
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にほんブログ村 当時の東欧6ケ国には、ユーゴスラビアが含まれていて、首都 ベオグラードに弊社の駐在員事務所もありました。 多民族国家であるユーゴスラビアを評し、 七つの国境 (イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、 ギリシャ、アルバニア) 六つの共和国 (スロベニア、クロアチア、セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ ヘルツェゴビナ、マケドニア) 五つの民族 (スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、 マケドニア人) 四つの言語 (スロベニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語) 三つの宗教 (カトリック、セルビア正教、イスラム教) 二つの文字 (ラテン文字、キリル文字) 一つの国家 (ユーゴスラビア) 共産主義のタガが外れると、コソボがまず1990年7月に独立を宣言し、これを 契機にユーゴスラビアは民族紛争の内戦状態となったのです。東欧巡回 駐在員3人がウイーンに着任したのは同年の8月ですから、内乱状態の兆しがあった わけで、我々の定期的な訪問地からは外されました。 その後、クロアチア紛争、ボスニア・ヘルツエゴビナ紛争、コソボ紛争、マケドニア 紛争などを経て、最終的にはスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツエゴビナ、 セルビア、コソボ、モンテネグロの7ケ国に分裂・独立しました。 ウイーン赴任前、ユーゴスラビアの代表的なスポーツ用品メーカーである、エラン 製品の日本輸入総代理店となることを上司が企画発案し、そのプロジェクトメンバー として、皇子も本案件に携わりました。 1970年代スウエーデンのアルペンスキー選手インゲマル・ステンマルクが アルペンスキー・ワールドカップで、エランのスキー板を使用して3連覇を 果たしたことで、その名は一躍有名になりました。 また、スキージャンプでも長年板を提供し、あの高梨沙羅ちゃんも愛用の ブランド。2015~2016年シーズンのワールド・カップでは、プレヴツと高梨が エランのスキーで、男女それぞれ総合優勝を果たしたのです。 エランの副社長ポランシェックが独立し、RAINBOW と言う会社を設立。 ステンマルクとクリジャイというブランド名のスキー板を エランでOEM生産し、それを日本で販売したいと、弊社に案件が持ちこまれた由。 ボーセン・クリジャイは、1987年のワールドカップで優勝するなど、 過去8回のタイトル・ホールダーでユーゴスラビア内では有名人です。 本店から、ポランシェックに逢うよう指示があり、ベオグラードを訪問しました。 彼との会食にはクリジャイも参加したので、記念として彼の名刺にサインを もらってしまいましたがな・・・・ == 続く == ブログ村ランキング参加しています。 下の画像を応援クリックしてね ↓ にほんブログ村
2019.07.26
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にほんブログ村 ヨーロッパでガラス工芸品といえば、イタリアのヴェネチアン・ガラス と、チェコのボヘミアン・ガラス。チェコからの代表的なお土産品と しても有名です。 ボヘミア地方に豊富にあるブナの木を燃やして、得られる炭酸カリウムを原料に 使うことで、カリウム酸化物の含有量が多くなります。その結果ガラスの透明度と 硬度が高い工芸品の製造が、可能となりました。 皇子がウイーン在勤中に、父がたまたま秋の叙勲を受けたので、そのお祝い の品としてボヘミアン・クリスタルガラスの花瓶を購入して、届けました。 その父も母も亡くなったことから、その花瓶はわての手元に遺品として今は あります。 グラインダーでガラス表面に文様を削りだす、伝統的な職人の技が特徴です。 500PKとは、 1923年にL・プロストジェドニークが、500番目に考案した カットデザイン。 レースカットコレクションの中で、ボヘミアクリスタルを一躍有名にしたデザイン で、光の反射が美しく繊細なレース模様は、クリスタルガラスの中でも最も 美しいと言われています。 日本大手磁器メーカーの N社が、クリスタルガラス製品を東欧の何処かの メーカーで OEM生産させたいとして、プラハに入ってきました。 チェコのあるメーカーを紹介し、彼等に同行して通訳を行いました。 ( 現在販売されている、N社のOEM クリスタルガラス製品 ) 相手の女性( 東欧では男女均等の労働条件ですから、対面する相手は女性の 場合が多いのです )が、ソーダライムから生産するガラス食器と、クリスタル ガラス食器を並べ乍ら、その違いや商品の特製について説明。 ( このクリスタル・ガラスは素晴らしいでしょう?! ) と、自画自賛するので、 ( いやあ~~、このクリスタルガラスは、確かに素晴らしい!! でも、 貴方の美しさの足元にも及びませんよ・・・) と、わてが言ったのだす。 勿論英語でですよ。こんな歯の浮くようなセリフは、日本語ではよういえまへん。 したら、喜ぶこと、喜ぶこと・・・帰りはエレベーター・ホールまで、見送り してくれました。 N社の人は、アウガルテンやヘレンドの食器の品質を、くそみそにこきおろして いました。N社のごとく機械生産マスプロの商品と、手作りの工芸美術品と 比較することが、そもそもお門違いとは思いませんか?! そういえば、知ってましたか???? ハンガリーの首都ブタペストって、ブタ地区(高台で王宮がある、高級 住宅街)と、ペスト地区(平地で商業地域)が合併して、出来たんだって・・ ブタ地区から眺めるドナウ川の流れは素晴らしく、< 東欧のパリ >と 呼ばれているそうです。 プラハでもブタペストでも、宿泊したホテルには日本人のツアー 団体客、ジジババがワンサカワンサカ。彼等は、ヘレンドの食器や ボヘミアンガラスを、バンバン買いまくっていくそうです。 中国人の瀑買いを我々は冷ややかに見ていますが、30年前は日本人も 海外で同じことを、やっていたわけですよ。 == 続く == ブログ村ランキング参加しています。 下の画像を応援クリックしてね ↓ にほんブログ村
2019.07.24
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にほんブログ村 ヨーロッパ伝統的磁器のパターンに、ブルーオニオン( ツヴィーベル ムスター )があります。 1739年、マイセンのクレッチマーによって、 中国のざくろ文様をデザインした絵付けが発表され ました。 ところが、ざくろを知らないドイツの人々は、それを「ブルーオニオン ( 青いたまねぎ)」と間違えたことから、その呼び名がついたと伝えら れています。 世界三大ブルーオニオンと呼ばれているのが、このマイセンと、フッチェン ロイターとチェコのカールスバード。 カールスバードのブルー オニオンは、マイセンの十分の一以下の価格で求められるので、気軽な普段 使いとして人気を集めています。 左がマイセン 右がカールスバード・DUBI カールスバードは、チェコのボヘミア地方、カルロ・ヴァリ地域から生まれ ました。そこには多くの磁器会社がありましたが、その中のドウビー社が 会社設立から21年後の1885年に、ボヘミア地方で初めてカールスバード・ ブルーオニオンを製造。 その後、いくつものチェコの会社から、カルースバードブランドやブルー オニオンシリーズが作られています。しかし、世界三大ブルーオニオンといえば、 ドウビー社のブルーオニオンの事を言います。 弊社の子会社がカールスバードの輸入総代理店で、仙台東北支社にその ショールームがあり、展示販売をしていました。期末になると展示品処分と いうことで、安値で購入する事が出来ました。 普段使い出来る価格でしたので、仙台・郡山在勤中は、カールスバードの食器を 愛用していましたが。 ところが・・・ 郡山で2011年3月11日、東日本大震災を経験し、この災害でこの ほとんどがお亡くなりになってしまったのです。 生存者はわずかに、スープカップと皿が2客・・・ ところで、3月11日夜の10時頃に、このような記事を全国に発信して ましたねん。 電話は不通となりましたが、どういうわけか、ネットはつながったの ですよ。 携帯電話がつながらず、東京でおいらの安否を心配していた、おくさま。 もしかしたらとパソコンを開け、わてのブログを読み生きてて よかったあ~~!!====================================== きゃあ~~、死ぬう~~!!死ぬう~~!! こんな怖い思いは、初めてだす。。 家の中は、めちゃめちゃ。。 食器は、ほとんど壊れました。。 悠々愛々は、なんとか・・ 皆様の、義援金を募集しておりやす。。 やっと、パソコンが、繋がりましたので、 報告致します。 きゃあ~~、また、余震・・ よしんてえ~~!! みてくださいな。。 <食器>がほとんど、めちゃくちゃ・・ <これは、ショッキ!!> ヘレンド、マイセン、ロイヤル・ コペンハーゲンなどなど、ヨーロッパの 陶器でっせ。。 < ショッキ!! > あ~、また、余震。。。 完全に、船酔い状態。。。====================================== どんな時にも、平常心・不屈の男・・・悠愛皇子!!! って、いうか・・あんた、アホと違うやんけ?! と、おくさまから馬鹿にされましただ。 == 続く == ブログ村ランキング参加しています。 下の画像を応援クリックしてね ↓ にほんブログ村
2019.07.23
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にほんブログ村 ブタペストから車で2時間のところに、ハンガリーの名陶ヘレンドがあり ます。 1826年創業、1842年ヘレンド磁器製造所として、ハプスブルク家御用達の窯 となり、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の庇護を受けました。 1851年のロンドン万国博覧会に出品時、ヴィクトリア女王がデイナーセットを ヘレンドに注文し、その名を世に知らしめました。この絵柄は、クイーン・ ヴィクトリアシリーズと呼ばれ、一般にも販売され大流行となりました。 1867年のパリ万国博覧会で、ナポレオン3世の皇妃ウジェニーが<インドの華>の デイナー・セットを購入し、ヨーロッパ貴族の間でヘレンドの作品が、一流 ブランドとして広まりました。 代表的なデザインとして、ヴィクトリアシリーズ、インドの華、ウイーンの薔薇、 アポニー・シリーズがありますが、総じてパターンがはでっちく皇子の 好みではありません。 その中でまあ~いいかなと思って購入したのが、このインデイアン・バスケット というパターン。 ハンガリーには、日本のJAIDO という国際開発機構が、資金援助をする計画が 持ち上がっていた、ホロハーザという陶磁器メーカーがあります。 ブタペストから車で1時間ぐらいというので、ヘレンドのついでに見学しようと 思ったら、所長の勘違いでハンガリーとチェコの国境の近くにあり、5時間 もかかるというのです。早起きして、朝6時には出発しましたがな。 ハンガリー内を山越え、谷越えて走る事5時間、やっとホロハーザ村に 11時頃到着。 ホロハーザは1,777年ガラス工房として設立されましたが、燃料となる薪と 原料となる良質な土に恵まれていることから、19世紀初頭に陶器製造に事業転換。 20世紀半ばには磁器の製造を開始して、現在に至っています。 『ホロハーザ』とは、ハンガリー語で『カラスの家』。自然に恵まれた 広大な樹林にはたくさんのカラスが生息していたので、ホロハーザ社のロゴマーク の中央にも、カラスがあしらわれています。 従業員が1000人で、この村の人口も1000人と。 それでは、ホロハーザ村全員が同社に勤めているのか?と聞くと、 村の人口には、ジジババ・子供が入っているから500人ぐらいで、残りは近くの 村からの出稼ぎだそうです。 朝6:00~14:00までが工場での勤務。ホロハーザの工賃だけでは暮らして いけないので、その後は畑仕事をするんだと。純朴な人達で、可愛そうに 思った皇子は、コーヒーセットを帰りに買い求めました。6脚で125ドルは 安い!!! デザインが一見、イタリアのリチャード・ジノリ風ですが、よく見て みるとダサイ。そして、蓋などがピッタリ収まらない、雑なつくり。日本が 技術援助してあげれば、立派なブランド品に育つ可能性はあるのにね・・ 日本の技術援助は、その後どうなったのでしょうね・・・・ == 続く == ブログ村ランキング参加しています。 下の画像を応援クリックしてね ↓ にほんブログ村
2019.07.22
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にほんブログ村 当時東欧の三大磁器メーカーといわれていたのが、東ドイツの マイセン、オーストリアのアウガルテン、ハンガリーのヘレンド。 マイセンは、高級美術工芸品としてのステータスを確立し、高額でとても 庶民が手を出せる磁器ではありません。もともと、皇子は陶磁器に興味があった ので、商売の可能性探求も兼ねこの分野の市場調査に入りました。 先ずは、ウイーン地元のアウガルテンを訪問。 同社は、マイセン磁器工房に継ぐヨーロッパ第二の磁器工房として、1718年に 創設されました。1744年、マリア・テレジアによって、皇室直属の磁器釜と なり、ハプスブルク家の盾形の紋章を商標として使用する事が許され、 その後同社の製品にはすべてこの紋章が刻印されています。 同社の工場は、ウイーン市内北部アウガルテンの、アウガルテン宮殿内に工房が あります。案内してくれたマネージャーが、1990年秋篠宮親王妃と なられた紀子さまが、アウガルテンの食器を40セット程買い上げ、日本の ロイヤル・ファミリーが使用しているのだ!!と、自慢げに話していました。 製品はすべて職人による、手作り及び手書きで、代表的な絵柄にマリア・ テレジア、ウインナー・ローズ、ビーダーマイヤーなどがあります。総て品の いい絵柄ですが、皇子的にはビーダーマイヤーが好きで、お小遣いをためて 少しづつ買い求めました。 こちらでもアウガルテンは高級品で、コーヒー・カップ一脚が2~3万円しま した。 興味半分でネットで検索してみると、ビーダー・マイヤーの絵柄がなかなか 手に入らないのか、このセットが、25%オフでなんと 1,069,200円で販売 されているのは、ビックリポン!! 地震がきてもしっかり抱えて、壊れないようにしなきゃあ・・・ これは、アウガルテンのマリア・テレジアのパターン。 現地日本人スタッフ Nさんの自宅で、使われていた食器(陶器)がとても可愛い かったので、銘柄を聴くとオーストリアのメーカーで、グムンデンである ことがわかりました。 早速、ウイーンから西に200キロ離れたザルツブルクに近い、トラウンゼ湖畔に 位置する同社を訪問しました。 グムンデン陶器は1903年に創設され、中央ヨーロッパ最大の陶器製造会社。 オーストリアではほぼすべての家庭が、なにかしらの同社の食器を使っていると いう、メージャーなブランドだそうです。 ラインナップの中でもっとも人気のある絵柄は、Grüngeflammtと名づけ られている白地に緑の渦巻きの図柄で、17世紀以来この地域に伝わる伝統的な ものだそうです。 数ある絵柄で、皇子が気に入ったものは、花々がデザインされた< シュトロイ ブルーメン >。 担当マネージャーは、わての目利きのよさに驚き、これは上のグリュンゲフラムト と販売高で拮抗している、人気の絵柄だと。 日本に総代理店が未だないというので本店に紹介しましたが、かようなものに 興味を示す人間がおらず、案件自体はボツとなってしまいました。今、ネットで 検索してみたら総代理店は、 【グムンドナー陶器 日本総代理店】shop.schuco.co.jp 東京シュコ・インタナショナル株式会社 小林和雄 〒103-0013東京都中央区日本橋人形町1-6-2安井ビル1F 03-6206-2353 ただ、販売価格が高すぎる!! 輸入陶器にこれだけの金を払うなら、 ロイヤル・コペンハーゲンなどの磁器がもう少し足せば買えるわけで、拡販は 無理と思える価格戦略ではないのでしょうか?! == 続く == ブログ村ランキング参加しています。 下の画像を応援クリックしてね ↓ にほんブログ村
2019.07.21
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にほんブログ村 ウイーンに赴任すると言うと、観光出来ていいわねえ~~!!と、誰もが 羨ましがりました。 しかし、ウイーンをベースにした東欧巡回駐在員で、平日は東欧各国を 訪問。そして週末はウイーンにいても、訪問客の接待に忙殺され、自由気ままな 時間など、ほとんどありません。 たとえあったところで、1~2週間たまったものの洗濯や、買い物などの 家事に時間をとられるわけです・・・ コベンツを購入した後では、そんな中でも地図をみながら、ウイーン郊外に 出かけ気分転換を図りました。 メジャーな観光地は、みなさんもガイドブックを見ればいいわけで、マイナーな ちょっと変わった観光スポットを、今回は紹介致します。(1)EISENSTADT アイゼンシュタット ブルゲンランドの州都アイゼンシュタットは、ハイドンの主君として知られる 大貴族エスターハージィー侯の城下町。エスターハージィー宮殿、ハイドンハウス 、ハイドン教会とも言われているベルク教会、マルティン聖堂が見どころ。(2)RUST ルスト ハンガリーとの国境の湖、世界遺産ノイジードラー湖のほとりにある、ルネッ サンスやバロック時代の建物が残る、パステルカラーの可愛い街並みです。 絵葉書の左上にあるように、この町はコウノトリが子育てをする町として、 知られています。4月頃に飛来してきたコウノトリはここで卵を産み、子供を 育てて8月中旬に南アフリカへと、子供を連れて飛んでいくのです。 あっちの屋根にもこっちの屋根にも、たくさんのコウノトリがいました。 コウノトリは赤ちゃんを運んでくるイメージなのですが、現物はそんなロマン チックな鳥さんではありませんでした。(3)FORCHENTENSTEIN フォ‐ヘンシュタイン オーストリアで最も美しい城と紹介されていましたが、ドイツのノイシュヴァン シュタイン城を知っているだけに、どこがあ~~~???という感じ・・ 中は博物館になっていますが、ガイドがドイツ語のみで、説明されてもチンプン カンプン。 (4)SEEGROTTE ゼーグロッテ ウィーンの南西17kmにある、ヨーロッパ最大の地底湖。 もともとは石灰岩の地下採掘場で、洞窟の中の湖は広さが6,200M2も あります。絵葉書のごとく、小さな船で中を観光します。 (5)デユルンシュタイン ドナウ川クルーズでは、ここで途中下車するという観光があります。 皇子は、ドナウ川のバッハウ渓谷沿いを、運転しながら行ってみました。 デユルンシュタインの街中を抜け、急な坂道を息をきらしながら登ると、 ケーンリンガー城址に到達します。 頂上からは、滔々と流れるドナウ川が、一望できます。ここで、撮影した のがこの1枚。20~30歳台でイケメンであった皇子も、かなり形状変化 しはじめて、きましたね・・ しょんぼりのしょんぼり・・・ ウイーン駐在が長くなるほど、このように観光する気は、次第に失せてきました。 休みがあったらともかく、気の済むまで寝ていたいという気持ちが、 勝ってしまいましたので・・ == 続く == ブログ村ランキング参加しています。 下の画像を応援クリックしてね ↓ にほんブログ村
2019.07.20
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にほんブログ村 日本人の習慣として、誰かに逢う時に手土産を用意します。 皇子がウイーン駐在時、来客からいろいろなものを戴きました。彼等が用意 したものの中で、現地駐在員に不評なものが、羊羹と佃煮。 ある、駐在員のおくさまによると、 もらって嬉しかったもの8選 1位:明太子 2位:茅乃舎のおだし 3位:ヨックモック等の繊細なお菓子 4位:日本の雑誌 5位:赤福、八つ橋、カステラ等 6位:高菜等の漬物 7位:鍋キューブ 8位:デパート系調味料 貰って持て余してしまったもの3選 ふりかけ類 お茶っぱ 羊羹 本店在勤時、取引先の部長に同行し海外出張をした際、弊社の駐在員向け お土産として彼が用意したのは、佐藤養助の稲庭うどん。 駐在員は喜んだとは思いますが、自分で持たずにわてに運ばさせるわけです。 数もありましたので、その重い事といったら・・ それでは、ウイーンからのお土産と言ったら、どんなものがあるのでしょうか?? 無難にいけば、食べ物としてはモーツアルトチョコとか、ザッハトルテ。 ホテル・ザッハー及び洋菓子店デメルで提供されるチョコレートケーキだけが、 ザッハトルテと称せられます。チョコレートケーキの王様と言われますが、 甘さを抑えたスイーツに慣れ親しんでいる、日本人の口には甘すぎます!!! 皇子がお薦めは、チロル民族衣装模様のテーブルセンターとランチョン・マット。 大切な人には、アウガルテンやグムンデンの、陶磁器製品を・・・ リーデルのワイン・グラスもありますよ。 スワロフスキーのクリスタル雑貨も、いいかもね・・ 同社のクリスタル・ガラスは酸化鉛の含有比が通常の24%に比べ32%と 多い事から、光の反射加減によって虹色に輝いて見えます。 == 続く == ブログ村ランキング参加しています。 下の画像を応援クリックしてね ↓ にほんブログ村
2019.07.19
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にほんブログ村 ウィーンには、200軒以上のカフェがあり、カフェハウス(Kaffeehaus) は、2011年にユネスコ無形文化遺産に指定され、一つの文化を形成しています。 コーヒーがウィーンにもたらされたのは、17世紀オスマントルコ軍に包囲された 頃とされています。その後コーヒーとカフェ文化は、ハプスブルク帝国の栄華の もとで花開きます。 カフェは19世紀には「ウィーン人のリビングルーム」として、文化人たちの交流の 場となり、様々な芸術活動の場ともなりました。 今でもウィーン市民だけでなく、観光客にとっても憩いの場。高級感あふれる インテリアに囲まれ、コーヒー一杯で何時間でもゆっくりでき、気兼ねなく仕事や 読書にふけることができます。 暖かいコーヒーの代表的なものが、コーヒーメランジェ。 エスプレッソにスチームミルクの泡が乗ったもので、ミルクのふんわり感と濃い コーヒーの味わいはコーヒー好きにはこたえられません。ウィーンのカフェハウス では、必ずコーヒーと水がセットでサーブされます。 欧州では水は有料でしか提供されませんので、これもウイーンコーヒー文化の 特徴でしょうか・・ 冷たいコーヒーとしては、ダブルのエスプレッソにホイップクリームを乗せた、 アインシュペナー。 アインシュペンナーとは、「一頭立て馬車」の意で、御者がこのコーヒーを好ん で、よく手に持っていたことが名前の由来。 オーストリアの料理では、あまり記憶に残っているものが、多くありません。 ウイーンで現地の人が好む牛肉料理として、牛肉の煮込みターフェル シュピッツがあります。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の好物と知られて おり、ウイーンの高級料理の代表格。 むしろ日本人の口にあうのは仔牛肉のカツレツ、ヴィーナー・シュニッ ツエル。 薄い牛肉を衣で包んで揚げたものですから、トンカツとはちがい脂分が少なく、 食べやすい。 デザートとして、皇子の一押しは、アプフェルシュトウルーデル( アップル・パイ )。実際は、ハンガリー起源のお菓子だそうです。 東欧の中で、美味しかったとの記憶の料理は、ハンガリーのグヤーシュ。 グヤーシュとは牛飼いを意味している言葉で、牛肉とじゃがいもと数種の野菜を 煮込み、パプリカで赤い色に色付けされています。 レストラン等ではメイン料理の前のスープとして扱われています。しかし、本来は 屋外で焚き火を使い、大鍋でたくさん作って食べるものでした。家庭でもメイン 料理として出され、山形の芋煮みたいなものですね。 == 続く == ブログ村ランキング参加しています。 下の画像を応援クリックしてね ↓ にほんブログ村
2019.07.18
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にほんブログ村 弊社の海外人事制度に、チャレンジ・ポストというのが、ありました。 環境が劣悪で誰もが行きたがらない一人場所については、社内で手をあげた人間を 優先し、適任との結果が出れば派遣するというもの。 民主化以前の東欧場所は人気もなく、チャレンジ・ポストで着任した所長も多く、 チェコのプラハ事務所M所長も自ら志願したのだと。お逢いして話を すると、おいらの大学の先輩であることが、わかりました。 クラシック音楽が大好きで、ウイーン・フィルやチェコ・フィルのコンサートを 聴きたいが為に、チャレンジポストに手を挙げたそうです。 時々ウイーンにオペラを見に入ってきて、食事のお誘いの電話がありました。 所長にその旨報告し定時退社の許可をもらおうとすると、 ( 非常に不愉快だ!!Mはオペラを見に行くに決まっている。) と、怒りだしたのです。 確かに、食事後オペラ鑑賞となりましたので、朝一番で ( はい、オペラを見に行きました。) と報告すると、 ( ウイーンに来たら、まず私に挨拶するのが、普通じゃないの?! 君は 彼にそう言わなかったのか?! ) と、また怒りだすわけです。 こいつほんま、アホと違うやんけ・・・・ 仕事でプラハに入ると、チェコフィルのコンサートが開催される日にあたること もあり、M所長と共に夜はコンサート会場へと。切符もUS 2$ と信じられない 安さで、これなら毎日でも聴きにいける料金です。 チェコ・フィルの得意な曲は、勿論スメタナの我が祖国。 クーベリックがチェコフィルを指揮した、我が祖国のCDを所長がお土産で くれました。わずか28歳でチェコ・フィルの音楽監督に就任したクーベリック。 しかし1948年に政変が起き、共産党政権が樹立されました。共産党政権は 人民の名を借りた独裁政権であること見抜いた彼は、イギリスへ亡命しその音楽 活動の基盤を西側へ移したのでした。 その後、シカゴ交響楽団の音楽監督、ドイツのバイエルン放送交響楽団の音楽 監督に就任。1989年チェコスロバキアでも、「民主化革命」が起き共産党政権は 崩壊、ハーヴェルを大統領とする民主国家となります。 チェコスロバキア民主化の翌年、1990年の「プラハの春」音楽祭 に、ラファエル・クーベリックは祖国に戻り、チェコ・フィルを率いて我が祖国 を、演奏したのでした。 これが、そのスメタナ・ホールです。 皇子は、2002年ひょんなことから、プラの春のオープニング演奏曲我が祖国を、 スメタナ・ホールで再び聴くことになったのです。 というのは、東北在勤時福島県いわき市のお取引先の社長が、国際的なマエストロ コバケンこと小林研一郎の同級生で、友達であることがわかりました。 2002年プラハの音楽祭オープニングコンサートで、彼が東洋人として初めて チェコフィルを指揮して我が祖国を演奏するので、一緒に行かないかと誘われた のでした。 こんな機会はめったにないので、いわきの後援会の方々とチェコまで、応援に 駆けつけました。この演奏会の模様は、全世界に中継放映されましたので、 観客席にいた皇子の顔を見た方も少なくはないと思います。 演奏後の懇親会にコバケンも参加して、楽しいひと時を過ごした想い出が あります。 == 続く == ブログ村ランキング参加しています。 下の画像を応援クリックしてね ↓ にほんブログ村
2019.07.16
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にほんブログ村 音楽ファンにとって、オペラ座同様にウイーンに来たら、是非行ってみたい 場所が、ムジーク・フェライン。 ウィーン楽友協会は、1812年に設立された、クラシック音楽関係者に よる団体名。 この大ホールは、通称< 黄金のホール >と呼ばれ、ウイーン・フィル ハーモニー管絃楽団の本拠地です。 クラシック音楽好きの皇子。是非一度行ってみたいとおもいながらも、超多忙で プライベートな時間がなかなかとれません。 それが、日本人現地スタッフのNさんが、チケットをとってくれたのです。これは 何を置いても、行かなくてはなりません。 料金は、二階のバルコニー席で440AS ( 5,870円 )。日本のコンサート ホールの S席に相当するわけで、信じられない安さ!! しかも指揮者が、あのアバド。 1986年にウイーン国立歌劇場音楽監督に就任し1991年に辞任しましたから、 音楽監督としてウイーンフィルと共演した最後の年に、たまたま結果的に聴く 機会を得たことになったのです。 曲目は、ブルックナーの交響曲 4番という、極めて難解な曲で、CDで聴いた 限りは好きくない範疇のもの。しかし、ウイーンフィルの生演奏、そして ムジーク・フェラインという世界一の音響効果のコンサートホールで聴くと、 身を浸してブルックナーの世界を彷徨うような、素晴らしいものでした。 ウイーン駐在員ならではの、このような楽しみがたまにはなければ、仕事なんて やってられへん!!! == 続く == ブログ村ランキング参加しています。 下の画像を応援クリックしてね ↓ にほんブログ村
2019.07.15
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にほんブログ村 皇子の趣味の一つが、オペラ鑑賞。クラシックは以前から好きでしたが、 オペラの面白さがわかったのは、ウイーン駐在時でした。 といってもオペラハウスでの観賞は、日本では料金が高すぎて無理です。 そこで、過去の名演と言われている作品を、もっぱらDVDで見ています。 なにせ、200枚以上を収集しましたからね。 ブロ友さんの中でもオペラに通じている人はほとんどいません。それほど、 日本人には縁の薄い芸術かもしれません。 オペラの基本は音楽ですが、歌と台詞が付いて演じられることから、演劇の要素 もあります。 上演で重要な要素と考えられる、視覚的な舞台効果を得るための芸術もあって、 リヒャルト・ワグナーはオペラを< 総合芸術 >と呼びました。 初心者の方へのお勧めオペラとして、このようなランキングの記事がありました。1 第10位 イル・トロヴァトーレ(Il Trovatore)2 第9位 ウェルテル(Wertber)3 第8位 蝶々夫人(Madama Butterfly)4 第7位 アイーダ(Aida)5 第6位 魔笛(Die Zauberflote)6 第5位 カルメン(Carmen)7 第4位 トゥーランドット(Turandot)8 第3位 道化師(Pagliacci)9 第2位 トスカ(Tosca)10 第1位 椿姫(La Traviata) しかし初心者へのお勧めの作品は、皇子は全く違います。なんといっても ドニゼッテイの、< 愛の妙薬 >。 オペラはドロドロした愛憎劇、最後はヒロインの死という悲劇ものが多い のです。愛の妙薬は、喜劇的要素を含む恋愛ドタバタ劇で、第二幕の冒頭に 歌われる人知れぬ涙というアリアが、皇子は大好き!!!! 愛の妙薬の公演でお勧めは、アンナ・ネトレプコとヴィラゾンの共演。 ネトレプコは皇子のお気に入りのデーヴァーでしたが、結婚後激太り。 いくら歌が上手でもねえ~~・腐っても鯛、太ってもネトレプコ との声もありますが。 BEFORE AFTER オペラより軽いものとして、オペレッタがあります。 オペラとは違い喜劇が主体で、軽妙な筋と歌をもつ娯楽的な作品が多く、 ハッピーエンドで終わるのも、いいですねえ~!! オペレッタの中で皇子一押しが、カールマンのチャールダッシュの 女王。 メルビッシュ湖上音楽祭での2002年収録したものがベストですが、このDVD 今は手に入るのかしら???? この二つを鑑賞して、面白かったらオペラの道へ・・・ 面白くなかったら、オペラは時間の無駄ですので、この領域には足を踏み入れ ないことだすな。(笑い) == 続く == ブログ村ランキング参加しています。 下の画像を応援クリックしてね ↓ にほんブログ村
2019.07.14
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にほんブログ村 海外駐在員の主要業務が、日本から来た取引先の接待。 その方法は会食・ゴルフなど、場所によって千差万別ですが、東南アジアでは どうしても客先が、夜のお遊びのアレンジを要求します。 タイの駐在員が、( 俺は、ポンビキかよ~~~!! )と、嘆いて いました。 しかし、エイズ問題が脚光を浴びている時に、出張でバンコックを訪問 すると、 ( 歓楽街に連れていけと、誰も言わなくなったので、とても楽になりましたよ。 でもね、本店からの若い出張者は、行こう~~~!!行こう~~~!!と 騒ぐのですから・・あいつら、エイズの免疫があるのかもね・・) と、苦笑いしていました。 音楽の都ウイーンまで来て、夜の歓楽街に連れていけとは、さすがに誰も いいません。文化的にオペラかクラシック音楽鑑賞となり、その ようなアテンド依頼が本店から予めあります。 オペラ座二階のバルコン席で2万円のところ、プレミアムをつけて5万円で、 JTBに手配を依頼しておきます。 オペラ通ならいざしらず、初めての人が筋を知らずにオペラを鑑賞することは、 苦痛以外のなにものでもありません。ウイーンに行くなら、話のネタに オペラでも見てみるべ・・という客が、ほとんど。 そこで、ウイーン事務所には全てのオペラの解釈本があって、当日の演目の ストーリーを鑑賞前に、読んでもらう事にしています。 オペラは通常3~5時間の、長丁場の舞台。途中に20分ほどの休憩時間が 入りますが・・ 旅の疲れで、大体のお客さんは、寝てしまいます。いびきをかいて、周囲から 顰蹙をかった事も、幾度となくありました。 会食は、訪問客の重要度によって、所長宅での宴席、一流レストランでの接待 など、細かく別れていて、その接待内容や費用( 付け替え )につき、本店から 連絡が入ります。 気楽にワイン居酒屋( ホイリゲ )で、接待する場合もありました。 ホイリゲと呼ばれるワイン居酒屋の歴史は、今から 220年以上も前にさかのぼり ます。皇帝ヨーゼフ2世は1789年、ウィーンのぶどう農家に、年間 300日以内 に限り自家製ワインを小売りし、簡単な食事を供してもよい、という特別許可を 与えたのが始まり。 気楽に楽しめる場所として、ウイーンに行った場合には、是非寄ってみて ください。 == 続く == ブログ村ランキング参加しています。 下の画像を応援クリックしてね ↓ にほんブログ村
2019.07.13
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にほんブログ村 所変われば品変わるという言葉のように、土地々で風俗・習慣・考え方 が全く違う事に、驚かされたことがよくありました。 4月のわての誕生日に、オフィスの女性から花束を戴くという、サプライズが ありました。 即、総務のNさんが、 ( こちらでは、誕生日を迎えた本人がバースデーケーキを振る舞い、みんなから 祝福してもらうのが、オーストリア流の祝い方なのですよ。) と、耳打ちしてくれました。 誕生日パーテイーも本人が企画し、誕生会の食事代などは誕生日の人が払うと いうのですから、もう~~びっくりです。 事務所がヒルトン・ホテル内にありますので、ケーキショップに行ってホール ケーキを購入して、Nさんに預けました。ところが、午後からわては東欧への 出張が入っていましたので、このケーキを食べる事が出来ず・・・ なんやねん?!!! ホテルや会社内のトイレット・ペーパーが、黒くてごわごわな紙質。 まるでソ連と同じような商品で、お尻にやさしくない!!! たまたま、 ポーランドワルシャワに出張時、ホテルのトイレットペーパーが白く・柔らかい 紙質で、日本の商品と同じことに、皇子はいたく感激。 ウイーンに戻ると、 ( ワルシャワのトイレット・ペーパーは、日本と同じように白くて柔らかい ものでしたよ。なしてオーストリアは一流国なのに、ソ連のような悪い 紙質なのよ? ) と、事務所のスタッフに問いかけました。 すると、オーストリアのトイレット・ペーパーは総て再生紙のもので、森林 保護や地球温暖化対策の一環として政策的にやっているものだと・・・ ほえ~~~~!! 因みに価格comで、日本で人気売れ筋のランキングを見ても、再生紙製品は 入っていませんね。(2018年1月5日時点の上位4製品)。 日本人は環境保護より、お尻に優しくて安いペーパーが、優先するのよね・・ という意識があると思えば、交通道徳や公衆道徳については、いかがな ものかと思える点が、多々ありました。 運転マナーの悪さは東南アジア並で、割り込みや無理な車線変更は日常茶飯事。 こちとら、左ハンドルのコベンツを、そうでなくても恐る恐る運転している わけで、怖くてたまったもんではありません。 また、パリと同じように、歩道には犬のうんちが、ゴロゴロ。 下を見て歩かないと、運がついてしまうんですわ。日本のように、シャベルや ビニー袋を持参で、ワンコを連れて歩いている人などは、皆無でした。 東欧6ケ国は、共産主義から自由解放の経済体制になったことから、 混乱の極みにありました。また、外貨・物資不足の中で注射針の 廻し打ちをせざるをえない状況で、エイズが何処でも蔓延していました。 そこで、ワルシャワに行った時、聞いた面白い話を・・・ エイズに罹患した人間は、( 私はエイズです。どうぞお恵みを!!) と書かれた看板を首に下げ、お金をせびりに寄ってくると。 お金を恵まないと、注射をもって追いかけてまわすそうです。エイズ患者の 注射針でブスリと刺されたら・・・ 怖いですね~~~~、怖いですね~~~~~!!! == 続く == ブログ村ランキング参加しています。 下の画像を応援クリックしてね ↓ にほんブログ村
2019.07.12
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にほんブログ村 ドイツ語がよくわからない皇子は、街中の理容室に入る時間も勇気も、あり ませんでした。 英語の通じる、ヒルトンホテル内にある、理容室を予約して・・・ ところが、英語が通じるのはいいのですが、そのヘアーカットのお粗末さ!!! こきたないインド人がカットしてくれ、トラガリもいいところ・・・ 左右のもみあげは長さが違い、それなのにそれなのに、15分という短時間の カットだけで、250AS ( 3,400 円 )。 髭剃りは、当時エイズが流行していたのでやらない方がいいと、事務所の スタッフから注意されていたので、パス。 なんでしょう????この頭・・・・ 折角のイケメン皇子が、台無しです!!! 事務所がある同じヒルトン・ホテル内の美容室ですから、執務時間内に抜け出して 行きました。 たった15分ほどのことなのに、戻るとデスクの上に所長のメモが・・・ ( 勤務中に床屋なんて・・君は一体何を考えて、仕事をしているんだ!! ) と。 彼はメモ魔で、テレックスでもなんでもかんでも、そこにメモが書かれて います。直接話せばいいものを、注意・叱責もまずメモで・・・・ 所長の部下いじめ( 要は今でいう、パワハラ )は有名で、出張先の 弊社事務所では、君も大変だな・・・と、必ず慰められました。 そういえば、こんなこともありました。 ホテルに戻ると、メイルボックスに電話代の請求書が入っていました。 そこに、3AS ( 40円 )・5AS( 67円 )というのが、山ほどついているの です。 フロントに行き、 ( これはなんぞや?? ) と聞くと、 ( 電話がつながらなくても、リーン・リーンとコールした時間から、電話代は かかるのよ。) ( えっ・・・そんなアホな!!電話というものは、つながってなんぼでしょう が。こんな話はおかしいと思わない? ) ( たしかに、不条理だとは思うけど・・そういうシステムだから、しょうが ないじゃん。公衆電話だってそうなんよ!! ) と。 確かに、出張者が公衆電話をかけた時、つながらなかったのにどんどんお金が 落ちていくと、怒り狂っていたことを思い出しました。 これは、おくさまの誕生日に送った、バースデー・カード。 ショップにあったのが、総てドイツ語のカードなので、何が書いてあるのか とっさには理解できましぇん。 店員に、単身赴任なんだけど、日本にいる家内に送るバースデーカードは、 どれを選んだらいいのか?聞いてみました。 彼が選んだのがこれ。 ( わてのワイフにこれを送ったら、すんごく喜んだぜ!! ) と言いながら・・ 表には、貴方のお誕生日がよい日で楽しい日でありますように!と、書かれて います。 中には、どうしてそんな悲しい顔をしているのと? 離れ離れで祝う事になる、二人の悲しみを言っているのでしょうね・・ 確かに、的を得たカードだと、その意味が後でわかって、感心 しましただ・・ほえ~~~!!! == 続く == ブログ村ランキング参加しています。 下の画像を応援クリックしてね ↓ にほんブログ村
2019.07.11
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にほんブログ村 何にもまして困ったことは、自炊。 接待が多かったので美味しいただ飯にありつける機会も多く、また出張中は 宿泊先のホテルで食事を済ませますので、問題はありません。 しかし、ウイーンにいて接待もなければ、ホテルでの自炊となります。 ホテルにはレストランはなく、自分の部屋にあるキッチンで、料理する以外 ありません。 しかし、日本で上げ善据え膳で過ごした皇子さまは、自分で料理したこと など一度もおまへん。それが、生き延びるためには何か、食べるものを自分で 作らなければならない。男ヤモメのクッキングは、試行錯誤・・・ 目玉焼きを作ろうとしたら、フライパンに白身がくっつて、離れなかったり・・ 茹で卵を作ろうとして冷蔵庫から出した卵を、沸騰したヤカンの中に入れたら、 白身がフア~~と噴き出してきたり・・・ ともかく何かを作る意欲も時間もないわけで、ご飯を炊いて缶詰を あけて食べる、キャンプでの食事のようなスタイルとなってしまいました。 ある日の手紙には、 ( さ~て、これから夕飯の支度でも、しましょうかね・・今日のメニューは、 カップラーメン、パン、ソーセージ、トマト・・・デザートにブドウが つきます。 ) かような粗末な食事事情を可愛そうに思って、現地日本人スタッフの N さん が、何かにつけて自宅に呼んでくれて、ご馳走してくれました。奥様は声楽家で、 ウイーンに音楽を学びにきている学生を、3人面倒見ているそうです。 彼は本当に面倒見のよい心の優しい方で、ウイーン滞在中は何かとお世話に なりました。この紙面を借りて、改めてお礼を申し上げたいと、思います。 但し、自宅に招かれると食事後、歌謡DVDを一緒に見させられました。 クラシックならいいのですが、必ず都はるみ・・・ 彼女の歌を聴きながら、望郷の念にかられ涙ぐんでいるのですよ。 そういえば帰国後、こんなエッセイを応募して、読売新聞社賞を受賞した ことがあります。 == 続く == ブログ村ランキング参加しています。 下の画像を応援クリックしてね ↓ にほんブログ村
2019.07.10
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にほんブログ村 ウイーンは観光都市だけに、パリやジュネーブのように、物価が想像以上に 高い!! 事務所でこの話題になった時、パンツが1枚2,000円と聞かされました。実際 街中の店舗でみると、パンツが1枚3,000円、肌着が5,000円の値段がついて います。シルクのブランド品ではありまへんでえ~!!単なる木綿のデカパン が・・・ 缶入りコーラ180円、タバコが400円。今や日本でも値上げされ同じような 価格となっていますが、30年前の1990年当時は、もっと安かった はずです。 これが皇子にとって、初めての単身赴任経験です。 男子厨房に入るべからずとの皇子家家訓を守り、これまで家事など何もやった ことのない男が、中年になって初めてこの分野に挑戦するのですから、その 戸惑いと混乱は容易に想像出来ると思います。 ホテルの近くに、スーパー・マーケットはありました。 しかし、土曜日の午後、祝祭日は閉店。平日は、東欧への出張で 飛び回り、またウイーンにいても、接待や夜9時頃まで事務所で仕事に追い まくられるわけですから、平日に買い物などする時間はありません。 要は、買い物が出来るのは、土曜の午前中だけとなるわけです。 ところが、週末は日本の重要取引先の偉いさんが、ウイーンに観光で入ってくる ので、その接待で潰されてしまう事が多いのです。 月、月、火、水、木、金、金という過酷な労働条件。たまに 休みがとれた土曜の午前中に、スーパーへ買いだしに行きました。 オーストリアはドイツ語圏ですが、事務所や東欧での商売相手は英語で 用が足りますので、ドイツ語が喋れなくても痛痒を感じません。しかし、街中に 出ればドイツ語でしか話が通じず、これには頭を抱えました。 ドイツ語で書かれた商品名はなんだかわからず、靴磨きのチューブなのか それとも歯磨きなのか???? レジで勘定時、ドイツ語でベラベラと料金を言われても、わからない。 ともかく、大きなお札を出すことで、これに対処。 ということは、皇子のポッケにはいつも、釣り銭の小銭と不幸せが ジャラジャラ。。 ホテルですから、ランドリー・サービスはあります。しかし、一度ワイシャツを 出したら、襟の汚れは落ちてない、ボタンは取れているし、それで一枚AS 50 ( 670円 )もチャージされたので、出すことはやめました。 ホテルの地下に、コインランドリーがあったので、1週間分をまとめて、 週末に洗濯物をぶっこみます。1枚260円のコインを2枚投入して・・・ ところが、1回いくらでなく、時間制のシステムであることが、 しばらくしてわかりました。洗濯ものが少なければ、時間満了まで使用せず、 途中でやめてしまう人もいるわけです。 ですから、メーターでまだ時間が残っている洗濯機を探し出し、これを使わせて もらえばタダ・・ まあ~~、せこいこと!! あはっ・・・これを、生活の知恵というのでしょうね。 == 続く == ブログ村ランキング参加しています。 下の画像を応援クリックしてね ↓ にほんブログ村
2019.07.09
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にほんブログ村 住まいの問題が解決しましたので、次は車。 海外駐在では、東南アジアのように運転手付きの社有車が、与えられる地域も ありますが、欧米では自己負担で車を調達しなければなりません。住宅とは 違い、車には会社の補助は一切ありません。 オーストリアというドイツ経済圏に赴任したのだから、日本では乗れないドイツ車 ベンツを、予てから買いたいと思っていました。ところが、オーストリアでも ベンツは高級車で、一般大衆はゴルフなどの安価な小型車に乗っていること がわかりました。 因みに、ベンツのショールームに行って覗いてみると、その価格は日本円換算 300SE 840万円 230E 560万円 と、日本と同様にべらぼうに高い価格。これでは、とても新車には手が出せ ません。 種々検討した結果、コベンツと言われている190E、走行距離25,000KM、 AT、 SUN-ROOF、 パイオニアのカーステレオ付き、の中古を買うことと しました。 価格は、AS 288,000( 約384万円 )で、交渉してもびた一文 値引きしません。 購入時のおまけの品々もなく、ガソリンも入れてはくれなく 、まあ~~~ベンツは 殿様商売。 総務の日本人Nさんに同行願い、販売店まで車の引き取りに行きました。 オーストリアでは車の購入者が、取得したナンバー・プレートを持参します。 そばのスタンドでガソリンを満タンにし、ホテルまで約10キロの道のりを、 自分で運転して帰りました。左ハンドルの外車などこれまで運転した ことはなく、この緊張感はハンパでにゃ~~い!! やっとの思いでホテルの地下駐車場に入庫し、車のドアーを開けて外に出た途端、 緊張感から解放されたのか、足がつってしまったのですよ。 190Eは、80年代に一世を風靡した小型のメルセデスサルーンです が、日本車に比べアクセルが重い感じがします。車体が重厚なだけに、底板まで 踏み込まないと発車せず、まあ~~それだけ、事故の時に車体がペシャンコに、 ならないということでしょうが・・・・ 購入時、ベンツの償却は年15,000AS ( 約20万円 )なので、売るときも値下 がりしないと聞かされました。しかし、この話は嘘っぱちで、買う時は高く売る ときは安い事が、後でわかりました。 というのも、東欧巡回ウイーン駐在員は、経費の割に見合いの利益が上がらない という結論で、1年たらずで 3人とも総引き揚げの結論が、全社的に 出たのでした。 住宅は、ホテルとの月決め契約なので、問題はありませんでしたが、ベンツ の処分に頭を悩ませました。 日本へ持って帰ることも検討しましたが、船賃や日本での排ガス規制に合致 させる改良など、諸々の費用を勘案するとこれは得策でなく、ウイーンで 処分せざるをえない。最終的にローカルスタッフの友人に売却しましたが、 差損が200万円以上発生。 頭に来た皇子は、本店の人事部に差損補填の交渉を、行いました。 ( 本邦への帰任って、会社命令でしょう?! 会社事由による帰国である なら、それに伴う車の転売損は会社が負担すべきものでは、ないの でしょうか? ) と。 ところが、人事部の回答が全く可愛くない!!! ( 会社は自動車を買えと言いましたでしょうか? ベンツを買いなさいと 言ったでしょうか? 車の購入はあくまで、皇子の個人的な趣味の範疇の判断。その差損が でたからと言って、どうして会社が負担しなければ、ならないので しょうか? ) と。 くう~~~~~~!!! ぐやじい~~~~!! ベンツなら いつもあります トイレでは == 続く == ブログ村ランキング参加しています。 下の画像を応援クリックしてね ↓ にほんブログ村
2019.07.08
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にほんブログ村 海外駐在でまずやらなければならないことが、住居の手配と車の調達。 まずは住居。 ウィーンは23の行政区 (Gemeindebezirk)より構成され、中心部1区が観光地、 商業地で各企業の事務所が軒を並べています。一方居住地は郊外となり、緑が 豊かで多くの日本人が住んでいる19区を、事務所から薦められました。 ところがこの地区は、家具付き、広さが80~90M2のアパートの相場が約24~ 25万円。しかも、権利金・敷金がなんと各3ケ月で計6ケ月の前払い。 会社の住宅手当が195,000円なので、これでは個人負担が毎月5万円程度の、 持ち出しになってしまいます。 種々事情でしばらく単身赴任生活を余儀なくされることもあり、Hotel Kaiser Franz Josephの長期滞在者用の部屋を、月決めで借りることとしました。 家賃はAS 15,200/MONTH日本円で\212,800 で、約2万円の持ち出しと なってしまいますが・・・ 前述の家賃は、1週間に1回の掃除、シーツ・タオルの交換、水・電気など の光熱費込みです。またホテルの部屋を借りることから、一般のアパートを借用 する場合の、計6ケ月の敷金・礼金を払う必要がありません。 1LDKのメゾネットタイプの部屋で、2階が寝室でツイン・ベッドがあります。 しかし、ダブルベッドを半分にしたようなツインで、日本人でも小さいサイズ。 元来寝相の悪い皇子の事、寝た時のベッドと起きた時のベッドが、必ず違って いる現象が毎日起こりました。 東京から航空便で送られてきた9カートン、そして船便の12カートンの私物を 収容するだけの部屋の広さはありません。トイレが1階と2階にありましたので、 1階のトイレを物置小屋代わりとして、ここにぶっこんだ次第です。 ともかくこれで生活基盤が、一応出来たことになりました。 == 続く == ブログ村ランキング参加しています。 下の画像を応援クリックしてね ↓ にほんブログ村
2019.07.07
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にほんブログ村 ウイーンはオーストリアの首都。 オーストリア総人口の22%、1,867千人がウイーンに住んでいます。 第一次世界大戦までは、オーストリア・ハンガリー帝国の首都として、ドイツを 除く中東欧の中心をなしていました。 かってハプスブルク家の帝都であったという史実よりも、 モーツアルト・ベートーベン・シューベルトなど、多くの作曲家が活躍した街、 音楽の都・楽都という方が、なじみがあると思います。 弊社は、東欧5ケ国に駐在員事務所を置いていましたので、< 東欧の臍 > というウイーンの地理的な面から、各場所への金銭・物資の供給基地、統括場所と して、ウイーン駐在員事務所があったのです。 また戦後永世中立国として、ニューヨーク・ジュネーブに次ぐ第三の国連都市 となったことや、国連ウイーン事務局など数々の国際機関がウイーンにある ことから、定期的に開催される国際会議に出席する、日本経済界要人の アテンドが主業務となっていました。 商社の重要な業務の一つに、客先の接待があります。 本社勤務時客先との関係は、ビジネスライクなものであっただけに、男芸者の ようなウイーン事務所長の振る舞いに、まず驚きを禁じえませんでした。 ある手紙にこのような事が、書かれていました。 ( おべんちゃらを言う。水割りを作る。タバコの火をつける。帰りには上着を 着せ、頭を深々下げてお見送りをする。などなど、バーのホステスと同じ。 こんなアホなこと、わてが出来るわけおまへん !!) 事務所は、ヒルトンホテルの16階にあり、スタッフはオーストリア人男性一人、 女性三人、そして総務関係を現地採用日本人が一人。 三人の巡回駐在員の中でわてが一番年上ということで、所長代理のタイトルは もらいました。 しかし、椅子に座って ( KOFFE BITTE !! ) と叫んでも、誰もいれてくれません。 お~~い、お茶 叫んで自分で いれにいく まさに、この世界です。 ファイル、コピー取りも総てセルフが、この事務所の掟。 事務所までは、バスとU-バン(鉄道)を利用して40分ほど。 通勤に使ったのが、この8-TAGE KARTE という、8枚綴りの一日 乗り放題の乗車券。一枚一日当たり 約400円ですから、これはお得です。 == 続く == ブログ村ランキング参加しています。 下の画像を応援クリックしてね ↓ にほんブログ村
2019.07.06
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にほんブログ村 断捨離の一環作業として、押し入れの中を整理していたら、こんなものがでて きました。 皇子が、オーストリア・ウイーン駐在時、おくさま宛に送った手紙の数々。 読み返すと当時の状況がよくわかり、これは回想録として纏めなければと・・ そもそも、皇子がなぜウイーンに派遣されたのか?から、解き明かさなければ なりません。それは、ベルリンの壁の崩壊という、歴史的な事件から 始まりました。 ソ連傘下にあった東欧諸国は、1980年代後半になるとハンガリーや ポーランドで、自由解放の動きが見られるようになりました。1985年にソ連の 書記長に就任したゴルバチョフの、解放改革政策「ペレストロイカ」を きっかけに、自由化を求める声が東欧諸国で、ますます高まっていきました。 1989年にハンガリーとオーストリアの国境が解放されると、東ドイツからチェコ スロバキア、ハンガリーを経由して西ドイツへ渡る人が増加。同時に東ドイツでは 自由を求めるデモへの参加者が増え、燎原の火のごとく拡大していったのです。 1989年11月9日、東ドイツ政府は「旅行の自由化」を発表。報道を 知った東ベルリン市民が大挙して壁に押し寄せ、国境が解放されました。 28年間存在し続けた「越えられないもの、変えられないもの」の象徴だった 巨大な壁は、こうしてついに崩壊したのでした。 商社というのは、時代の先を読み、未来に先行投資するのも経営戦略の一つ。 当時の東欧6ケ国( ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキア、ブルガリア、 ユーゴスラビア、アルバニア)が民主化すれば、そこに必ず商機があると考えた のです。 鉄鋼・化学品・資材本部から、東欧巡回駐在員として各一人ずつを 派遣するよう、経営トップから指示がありました。それで、資材本部代表 として、わてが選抜されたのでした。 しかし、ウイーンからのわての手紙を読み進んでいくと、資材本部としては この施策に賛同していたわけでなく、トップに忖度した派遣だったのです。 海外駐在期間は平均5年間といわれていますが、資材本部として東欧向け 既存取引もないことから、派遣期間を取り敢えず1年とする。 そしてこれを随時見直すべきというのが、本部の基本方針であることがウイーン 在任中にわかり、ショックを受けた事を手紙には綴ってありました。 そんな内情も知らずに、やっと海外雄飛の夢が実現したと、皇子は 意気揚々とウイーンへ、1990年8月に赴任したのでした。 == つづく == ブログ村ランキング参加しています。 下の画像を応援クリックしてね ↓ にほんブログ村
2019.07.05
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