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人間には、人を馬鹿にして面白がるという残酷な一面があります。「ただの冗談だよ。冗談も解からないの?」こう言われてしまえば、馬鹿にされた人はそれ以上返す言葉がありません。何を言っても無駄です。言い返せば、まうます馬鹿にされてしまうからです。かといって、黙ってしまえばプライドは傷ついたままです。特に幼い子供は、馬鹿にされるとどうしていいのか分からなくなります。そのまま我慢するべきかそれとも相手を避けるべきか判断できないからです。これは、ブレーキを踏んだままアクセルを吹かすようなにっちもさっちもいかない状態です。子供はジレンマに陥ります。そして、おどおどして、なるべく目立たないように陰に隠れるようになります。このような子供の場合は、親が話を聞き手を差し延べなくてはなりません。
February 28, 2006
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子供は親に構って欲しくて、同情を引こうとすることがあります。「おなかが痛い」4歳の子供が言いました。朝、保育園へ行く間じかになって、こんなことを言い出したのです。「行きたくない」と子供はおなかを押さえます。こんな時迷います。この子は本当におなかが痛いのか?家で寝かせておくべきなのか。医者に連れて行くべきなのか。もしかしたら、保育園に行きたくなくて言っているのか。それとも親に甘えたいのか。家でのんびりさせておくべきなのか。どうなんでしょう。親の同情を引けば、わがままが通せるとのだと子供に思わせたくない。仮病を使っているなら、聞いてみようか。「このまま、出かけたらどうなるのかな?」「家で何どうしたいの?」「本当は、どうだったら一番いいのだろう」「どうすれば、そういうふうに出来ると思う?」こんな問いかけに答えていくうちに子供が、自分がどうしたいのかが自覚できるようになります。対話を通して、子供の状態をつかむことが出来ます。
February 22, 2006
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今までの生活様式ががらりと変わってしまったとしたらそれは子供には、とても耐え難いことです。子供の成長には安定した日常生活が不可欠です。そんな日常生活が崩れてしまう出来事が起こると子供は、世界が崩壊したように感じてしまうのです。親が死に別れるという悲劇は別としても両親の離婚は子供にとって最も辛い事件になります。子供と言うものはいつも心のどこかでもし両親がしたらどうしようと思っています。親が配偶者の悪口を言うのを聞くと子供は不安になります。親が離婚したら自分は捨てられるのではないかと思うからです。
February 21, 2006
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人に対する怒りや敵意の感情は黒雲のように私たちの心を覆ったかと思うとまたすっと消えてゆくのです。だからといって感情は天気みたいなもので自分ではどうしようもないものだと責任逃れすることは出来ません。自分がどんな時に、どんなふうに癇癪を起こしているかこれはよく考えてみれば解かる事です。感情をうまくコントロール出来れば、人に喧嘩売るような事態は避けられるでしょう。一度喧嘩を始めてしまえば感情はエスカレートしてしまうばかりです。そんな事態は出来ることなら避けたいものです。皮肉なことに私たちは好きな人に対してよけい腹が立ちます。だからこそ、感情的にならないように日頃から注意する必要があります。怒り狂ってしまったら、自分でも手が着けられなくなってしまうからです。そうならないように常に気よつけたいものです。怒りの感情は心の敵ではなくうまく処理すべきエネルギーなのだということもできます。怒りのエネルギーは上手に使うと良いのです。これは私たち自身にとってだけでなく家族全員のためにも大切なことです。親の日頃の態度を見習って子供は育ってゆきそれが孫の代まで受け継がれてゆくのです。
February 20, 2006
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子供も私たち大人と同じように、感情を自由に表現する権利があります。だからと言って、人や物に当たり散らしてもいいかといったらもちろんそんなことはありません。子供が人をぶつ、蹴る、突き飛ばす、あるいは人に噛み付くなどしたらその場で厳しく反省させなくてはなりません。特に幼い子供は手が先に出てしまいがちです。ですから、言葉で気持ちを表すことができるように親がしつけてゆかなくてはならないのです。けれど、子供が感情を押し殺すようになるのは良くないことです。親は、怒りや欲求不満といった子供のマイナス感情も受け止めなくてはなりません。何事もバランスが大切なのです。大人に感情があるように、子供にも感情があります。子供が自分の感情をきちんと言葉で表現できるように親は導いてゆきたいものです。たとえば、「怒っているんでしょう」と先回りして言ってしまわずに「どうしたの?」と尋ね「どうしたらいいかな?」と子供に考えさせるようにします。そうすれば、子供は自分が今どんな気持ちなのかが解かります。そしてどうすればいいのか考えられるようになります。
February 19, 2006
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私たちは、敵意や憎しみを抱いたとしてもなかなかそれを意識できないものです。新聞の社会面で子供を虐待し殺してしまった親について書かれた記事を目にすることがあります。けれど多くの人はそれを自分とは別世界の出来事だと感じるはずです。しかし、私たちも家庭生活の中で恨みや怒りの感情を鬱屈させてしまうことがあります。それが親子関係や夫婦関係に影を落としたり大きなトラブルに発展しないとも限らないのです。悲しいことに現代社会は、敵意と暴力にあふれた社会でもあります。この地球上では、常にどこかで戦争が起こっています。私たちの住む社会でも凶悪な犯罪や親子や夫婦間での暴力や殺人が起きています。暴力団の抗争など、恐ろしい出来事が起こることもあります。子供たちは、毎日のように暴力的なシーンを目にしています。家で兄妹にいじめられたり学校でいじめを受けたり町で喧嘩を目撃したり。お父さんとお母さんが言い争っているのを目の当たりすることもあるでしょう。子供は敵意や憎しみの中で育つと、精神が不安になります。子供によっては、不安から逃れるために乱暴になる子もいます。自分自身が強くなることで、不安に打ち勝とうとするのです。また、引っ込みじあんになる子もいます。いつも不安な気持ちでいるので、他人との対立や葛藤を極度に恐れ自分の殻に閉じこもるのです。そんな引っ込みじあんな子子供は、学校でいじめの標的になり乱暴な子供の餌食になってしまうこともあります。
February 17, 2006
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子供に小言を言い、やることなすことにいちいち文句をつけるのも子供の意欲を挫きます。それは、頭ごなしに叱り付けるのと同じくらい子供にとって嫌なことだからです。子供は「駄目な子だ。何もきちんとできない」と言われているように感じるのです。これでは、子供はヤル気を失ってしまいます。そして親はますます小言を言うようになる・・・・こういう悪循環に陥ってしまいます。まだ小さな子供でも文句ばかり言う親にうんざりして聞こえないふりをするようになります。思春期に入った子供なら完全に無視をするという反抗的な態度に出るかもしれません。では、親はどうするべきでしょうか。「きっと出来るはずだ」という固定的な言い方をすることです。「どうせ出来ないはずだ」という否定的な言い方は避けて欲しい。たとえば「また、おもちゃ、だしぱっなしなんだから」ではなく「おもちゃ、入れておいてね」「また、ソックス脱ぎっぱなしなんだから」ではなく「ソックス、洗濯籠に入れておいてね」と言うほうが良いのです。そうすれば受ける印象は大違いで、子供は気持ちよく聞けます。子供のやったことに、いちいちケチつけるのは、逆効果です。文句を言いたくなるのは、その子供がどれだけ出来たかではなくどれだけ出来なかったかを見てしまうからです。こんな否定的なものの見方は、大人だって嫌だと思う。どうすれば文句を言わなくてすむかその対策を考えて行動に移すべきではないでしょうか。子供も、そんな親の姿を見れば手を貸したいと思うでしょう。文句ばかり言って何もしないような人間に子供を育てたくないものです。今日もトイレでうんちできない息子。息子がうんちでたよと言ってきた。姑がオムツのうんちを取り替えてくれたのですがため息。いつも、うんちはトイレでしようねと言っているのに・・・。姑もトイレトレーニングに協力してくれていますが、なかなかうまくいかないものだなー。高い買い物したんだよね。トイレを新幹線のグッズで揃えたりしたのにな。小言言いたくなるんだよね。くさいウンチを拭くのは、もう嫌なのだよ息子よ。
February 16, 2006
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親が子供を叱るのは、たいてい子供のためを思ってのことです。私たちの親も今思えばそうだったに違いありません。(虫の居所が悪い時には、どうしてもきつい言葉で叱ってしまうものではありますが・・・)しかし、子供には親が子供のためを思って叱っているのだということがわかりません。子供は、叱られると頑張ろうと思うよりもがっくりしてしまいます。とくに幼い子供は叱られると自分が嫌われているのだと思ってしまいます。自分のやったことを正されているだけなのだとは思えないのです。では、上手な叱り方とは、どのようなものなのでしょうか。まず、叱る前に言葉を選ぶことです。子供の心を傷つけるようなことは言ってはいけません。その子のやったことつまりその子の行動を正すような言葉を使ってほしいのです。子供の反応を見ながら叱る言葉を選ぶのです。その子のやったことは間違っているがその子を嫌いだから叱っているのではないということを伝えて欲しいと思います。子供をいつまでも叱るのは逆効果です。人間は誰しも間違いを犯すものです。それに避けられない事故もあります。そういう時頭ごなしに子供をしかりつけないようにしましょう。大切なのは、子供が失敗から学べるように導くことです。なぜこういう結果になってしまったのかを理解させきちんと後始末が出来るようにリードしてゆければよいのです。長男3歳なったばかりトイレトレーニング中叱ってもだめだしたまに出来るトイレのおしっこに褒めてみるけどおむつ取れない。このまま4月幼稚園に行くのかな?疲れた。2ヶ月の長女がいるし、自分でトイレ行くと言えないのかな。
February 15, 2006
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子供は、スポンジのように親の言葉や行動のすべてを吸収し学びます。真似て欲しくないと思っていることも覚えてしまいます。ですからもし親がわが子のことだけでなく他人や世の中にも不満だらけでいつも文句ばかり覚えてしまうでしょう。そして、自分自身のこともせめるようになってしまいます。物事のいい面をではなく悪い面を見て生きて行けと子供は教わってしまうのです。不満だらけの親の気持ちはものの言い方やちょっとした仕草や目つきに表れます。相手に不満があるときには、自然に目つきや物言いがきつくなるものです。小さな子供はこういう親の態度にとても敏感で傷つきやすいものです。もちろん、私たちは誰でもときには不機嫌になることがあります。つい小言や文句をいいたい時もあるものです。けれどもいつも不平不満を口にし人の欠点をあげつらっているとしたら、話は別です。いつもそんなふうだとしたら家の中は暗くとげとげしくなってしまうでしょう。子供が思春期に入った時ものを言うのです。子供が自分の親は気持ちを受け止めてくれる親だ信頼できる親だと思っていれば将来、何か問題が持ち上がった時にも親に相談し一緒に解決してゆこうと思うようになるのです。
February 14, 2006
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最初の子が男の子でした。二人目は女の子とてもかわいい。大人しいし、泣いても大きな声でなくなにか遠慮がちに泣いているような感じ。ますますかわいい。まだ、二ヶ月。日に日にかわいさがましてくる。もうすでに、あーとかうーとか言う。初めての子が男だったので、子供はみんなこうなのだと思っていたから、女の子はこんなに違うのかと思いました。今だけかもしれないが、女の子産めてよかった。旦那に感謝です。初節句とか、色々やることがあって大変だな。顔がお兄ちゃんに似ているので、ときどきお兄ちゃんを呼んでしまう。せっかく女の子なのに、どうして旦那に似ているのだろう。二人も檀那似なんだよね。ため息・・・。
February 13, 2006
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すべての人が、一つの同じ真理に目を向ければお互いを理解し合うことは簡単です。たとえ宗教的価値観が違っていてもそのもとは全く同じ霊的真理だといことが解かっていればそして人として尊重し合う気持ちがあれば悲惨な宗教戦争は食止めていけるはずなのです。しかし異なる宗教観世界観を持つ者同士がそれぞれに自分たちのそれを唯一正しいものとして固執した状態では今の政界情勢を見ても解かるように理解し合うことは難しいでしょう。さらに大きな問題は宗教の中に人間が混在されている物質主義的価値観です。「神」を語る人の視点が結局物質主義的価値観にあったときに重大な間違いが起こります。どの宗教も本来の霊的価値観のみから成立している状態であればたましいのあり方しか問題にはしないはずです。しかし「神の教えを広める」という大義名分のもとに一人でも多くの信者少しでも多くの領土を得ようとしているのが現実の宗教の姿ではないでしょうか。分量を多くすることを望むのも物質主義的価値観の表れなのです。現世においては、傲慢という影をどんなになくそうとしてもなくならない。そして、少しでも隙があれば大きくなってしまう。「神」「真理」を語る宗教も同じ。物質主義的価値観が混入しているからこそ「神」が肯定するはずのない、戦争まで起きてしまうのです。
February 11, 2006
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戦争がいけないことだといのは、子供でもわかることです。ではなぜ大人になると戦争を正当化するようなことを語りだす人が出てくるのでしょうか。それは結局この物質界をすべてとする「現世至上主義」が原因でしょう。人間の本質は霊的存在でありすべての人は類魂であるという「霊的価値観」からは戦争は起きません。「現世至上主義」ゆえにこそ人は「物質主義的価値観」に陥り領土や資源や人命の奪い合いに血道をあげてしまうのです。「現世至上主義」のもとでは人は「小我の愛」に走ります。わが国、わが民族、わが宗教は愛するけれどそれ以外は無関心。そして自分のいる側と少しでも利害が対立すれば他を否定し、憎しみを持ちます。しかし霊的価値観では国や民族宗教が違う同士であってもすべては同じ類魂です。類魂である以上、人が人を裁くことは出来ません。戦争につきものの「やられたらやり返す」という考えは野蛮そのもので何の解決にもならないのです。戦争を平気で正当化する人は戦争はいけないことだと本心から思っていません。差別にしても同じです。人間は、それほど無智で無関心なのです。すべての人が霊的真理をしっかりと理解していれば戦争も差別もおきようがありません。
February 9, 2006
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平和に寄与する行動をとること、平和を祈ることは大事なことです。しかし、身近なところに目を向けることもとても大切です。自分の家庭、職場、友人関係、そして自分の心の状態。これらのすべてに平和のない人がいきなり大きな平和を願うのは矛盾しています。一人ひとりの平和こそが世界平和の基盤ですから。家庭の平和も世界の平和も「類魂を理解すること」によって真に実現します。相手は自分であり自分は相手である。相手を愛することは自分を愛すること。相手を傷つけることは自分を傷つけること。霊的価値観によりそれが理解できた時おのずと平和は訪れます。別の言い方をすれば霊的価値観によってしか、本当の平和は訪れないのです。
February 7, 2006
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これは質問自体が傲慢です。愛する人であろうとその人には自分とは別のその人自身の人生があるはずです。自分の進みたい方向がみずからの夢や理想にありその選択が愛する人に迷惑をかけそうであるならその人を巻き添えにすべきではないでしょう。別れてもその相手にはいずれ新しい出会いがあるでしょう。それなのに相手の責任をあくまでも自分がとらねばと考えるのは「背負っている」としか言いようがありません。また、相手が夢を理解してくれず「貴方がいなければ駄目」と無理に引き留めるのだとしたらその相手の愛もまた「小我の愛」だと言えるでしょう。
February 5, 2006
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自分自身にとっての過去の意味が解かっていないから愛せない肯定できないということになるのです。いいことも悪いことも失敗もそれが自分を成長させてくれるのだと解かれば愛せるはずだと思います。人生に自分にとって不要なことは絶対に起きません。過去に経験したことにも必ず意味と学びがあるのです。それを受け容れられないのはその経験が自分にもたらしてくれた成長に気づいていないため。あるいは、そのカリキュラムを精一杯こなさなかったために不完全燃焼になってしまっているからです。また、過去を真に受け容れるにはつねに物事を霊的視点で受けとめなければなりません。たとえば世の中には受験の失敗を機に挫折してしまった人は多いものです。子供の頃からずっお出来が良くてまわりに「おまえは大した子だ」と褒められながら育ってきた人に特に多いようです。不合格というたった一つの失敗を機に突然「今までの自分は何だったのだろう」と思い始めすべてを否定された気になり自分の中に閉じこもってしまうのです。しかし、そこで「受験の失敗」自体にこだわり続けるのは物質的な視点。そうではなく、その経験が自分に教えてくれたこと目覚めさせてくれたことを大切にするべきです。さらに「自分も間違うことのある一人の人間なんだ」と肩の力を抜くことが出来たならそれによって大きく柔らかくなった心がその後の人生をどれだけ豊かにしてくれるか解かりません。誰にとっても自分の過去は霊的視点での意味を真に理解できれば必ず感謝すべき、ありがたいものなのです。
February 4, 2006
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自分を甘やかし続けていれば、この世では必ず弊害がおきます。他人との衝突であったり、自分のわがままが通らなくなるような逆境に陥ったりとさまざまな経験をすることになるでしょう。そのつど「なぜこうなったかのか」と悩み自分勝手な生き方を軌道修正する必要に迫られるようになるはずです。そのとき気がつかなければ次の出来事で気がつかされるでしょう。「カルマの法則」は、まるで「過保護なお母さん」のように本人が真に気がつくまで手を替え品を替えシグナルを送ってきます。守護霊が成長を見守ってくださっている限り自分の小我(狭い自己愛)を少しでも大我(他人への広い愛)へと変えていかなければならなくなるような出来事が必要なくなるまでいつまでも次々と用意されるのです。そうした経験のバリエーションを重ねていく中で自分自身だけでなく他人をも愛すること思いやること調和していくことの大切さが解かってくるのです。
February 3, 2006
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育ってきた過程の中で、親などの愛をあまり受けられず健全なプライドを持たされなかった人は確かにいます。でも、一人前の大人になってもそこで停滞してしまっているのは本人に感性の無いことの表れです。私はいつも「10パーセントの愛に気づけない人は100パーセントの愛にも気づけない」と話しています。今生きているということ自体数々の人に愛されてきたことの何よりの証拠です。赤ん坊の時は、おしめを替えてくれた人がいたことでしょう。ぎゃあぎゃあ泣き喚いてもまわりの大人はたちはみんな笑って我慢してくれたでしょう。抱き上げてあやしてくれた人もいたはずです。それ自体、たくさんの人たちに受け容れられ愛されて生きてきたということなのです。また、いかに愛されずに育った人でもその埋め合わせは大人になってから必ずできます。現実の生活の中では、誰かと愛のある関係をみずからの意志で築くことができます。精神面においても、霊的真理を学んでいけば、いつでも守護霊や類魂といった霊的存在、ひいては神に愛されているという叡智を得ることが出来ます。自分から心を閉ざさない限り孤独で寂しい人など一人としていないのです。
February 2, 2006
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こういう人は、本当はそう思っていないことがほとんどです。実は、自分をもっと解かって欲しい、認めて欲しいという気持ちでそのように愚痴っているのです。誰かに「そんなことはないよ。あなたは立派にやっているよ」と言って欲しくて、甘えてだだをこねているのです。特に口に出して言ってしまう人はそうでしょう。しかし、心の中でそう決め込み口にも出さない人は自己卑下もやや重症になってしまっています。霊的視点で見ると自分を卑下するのは他人を卑下するのと全く同じことです。ひいては神を非難することにもつながります。すべてのたましいは類魂であり神の一部。ですから自己否定は他人の否定、神の否定とイコールなのです。
February 1, 2006
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