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私の事務所へ行くと、事務員がいます。繁華街に行くと暴力団がおり、山に行くとマムシがいて、海に行くとサメがいるのと同じです。(これ以上の適切な比喩が思いつきません)(以前から読んでいない方のために解説すると、彼女は私の中学高校の二年先輩なので、双方が敬語で話していますが、実在の事務員の女性とは同一人物ではないかも知れません)(同一人物かも知れません)事務所に入ると緊張のあまり、何を言おうとしたのか忘れてしまいました。「たった今、中田さんに何か言おうと思ったのですが、忘れてしまいました」「私に百万円あげよう、と思ったんじゃないですか」「中田さんにそれだけの値打ちが無いことから、違うと断言できます」「あっ、思い出しました。請求書が届いています」「そんなことは支払日まで、中田さん一人の胸の中にしまって置いてください。 そうだ!思い出しました。『こんにちは』と言おうとしてたんだった。なんて私は礼儀正しいんだ」「挨拶を忘れるのが礼儀正しいんですか!?」「そういう中田さんは、そもそも私に挨拶をしましたか?」「しましたよ。思い出せないんですか?!」挨拶のような、ちょっとしたことを忘れるのは、成熟した人間によくあることです。成熟のしるしだと言っていいでしょう。許せないのは、度忘れにつけこんで過去を作り変えようとする行為です。数ヶ月前、会社を経営している友人が、自分の発見したビジネスのアイデアを、得々と私に語って聞かせたことがあります。彼が得意気に語っているのは、私がかつて彼に教えたことでした。彼にはアイデアを盗んだという意識はなく、心の底から自分が発見したと思い込んでいたのです。これほど始末の悪いことがあるでしょうか。私の発見したアイデアで、新しいビジネスを展開しようと目論んでいるのです。私の着想や、私の発見するアイデアが、いつも下らないものなのが不幸中の幸いでした。しかし、それ以来、優れたアイデアやビジネスモデルを聞いたりするたびに、「これは私が考えたことではないか」と疑うようになりました。楽天の三木谷社長やライブドアの堀江社長なども油断できません。安心できるのは、カーネギーや松下幸之助のビジネスモデルのような、私が生まれる前に存在したものだけです。考えてみると、記憶を都合よく作り変えるという現象は、珍しいことではありません。ギャンブルや釣りを考えてみれば明白です。たいていの人は、うまくいかなかった時のことは忘れて、成果をあげたことだけを深く記憶にとどめて、自分は勝てると思い込んでいるのです。私のように、幼稚園の女の子の奪い合いに始まり、負けた記憶しかない、という異常に謙虚な記憶の持ち主は、まずいません。(私ほど負け続ける人もいませんが)過去の出来事には、多くの場合、指紋や公正証書などの客観的証拠がありません。当事者の記憶だけが頼りだという事をいいことに、人間は、記憶を作り変え、過去を捏造し、自分を優れた者だと思いたがる傾向があります。「君はこう言った」と言われた場合、愚にもつかない内容なら「そんなことは言っていない」と否定し、自分には考えつかないような卓見だったら「そう言われれば、そんなことを言ったかも知れない」と認めるのです。おそらく私の周囲の人たちも、不幸な出来事は私のせいだと記憶し、幸運な出来事は自分の力だと記憶しているのでしょう。この事実は、私に恩返しをする人間が一人もいないのをみれば明らかです。私がしたことを事細かに覚えていろ、とは言いません。私自身、どんな有益なことをしてあげたか、をまったく覚えていないのです。私に何か有益なことをしてもらった、という記憶だけでいいのです。実際に、私がしてあげたことは有益なことばかりです。その証拠に、私には「有益なことをしてあげた」という記憶だけは、鮮明に残っています。過去は、自分の都合に合わせて作られるものです。もし、事務員の中田さんに、「一万円借りていましたよね」と尋ねたら、平然と肯定するに違いありません。ためしに、そう言ってみたら、中田さんは、こう答えました。「いいえ、二万円でした」
January 23, 2005
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今日、当社の事務員の中田さんに「コピーを製本して下さい」と頼んだら、「今、手首を痛めているからできない」と言われました。この説明がインチキであることは、彼女が大盛りラーメンのどんぶりを、片手で軽々と持っているのを見れば明らかです。このように、説明は、頼みごとを断ったり、自分のやりたいことをするためにも使われます。こういう人は、何事につけても、説明に困るということがありません。最悪でも、「そんなこと、したくない」とか、「ご自分でどうぞ」と言えば、充分な説明になると考えています。説明までを武器にして、やりたい放題です。私はこのような説明に対する不信感をつのらせた結果、説明全般を疑わしいと感じるようになりました。例えば、日本人の行動が「島国の農耕民族だから」と説明されることがあります。この説明は便利だから、私も使っていますが、もしこの説明が正しいなら、何代かの祖先が島国でひとたび農耕を営んだが最後、子孫は一定の行動パターンに支配されることになります。人間の行動のうち、因果関係が明らかな場合というのは、数少ないものです。私などは、今夜の私の行動すら予想もできません。(万が一、女性と二人きりだと、何をするか解かったものではありません)私の行動のうちで、因果関係が明らかな事柄は、せいぜい、私が金を使うと妻が怒るとか、気前よく金を使うと妻以外の女性が喜ぶとか、仕事が遅れると佐々木さんが催促する、くらいのものです。つまるところ、因果論は結果論に過ぎないのです。人間の行動の大部分は説明不可能に思えますが、文科系の学問は、あえて人間行動の説明に挑み、何でも説明できる理論が数限りなく登場しています。例えばフロイトは、ちょっとした言い間違いから宗教儀式にいたるあらゆる人間の行動を、性衝動によって説明しました。驚いたことに、性行動さえ、性衝動によって起こるというのです。しかし、フロイトの理論によっても、他のどんな理論によっても、人間の行動を正確に予測することはできません。すでに起きた事については(「なぜバブル景気を妄信したか」とか「なぜ少女への暴行殺人事件が起きたのか」)、専門家の説明は雄弁で説得力がありますが、その説明を未来に適用して、人間の行動を予測することはできません。地震の終息宣言や、梅雨明け宣言が、事後になって宣言されるのと同じです。経済学も例外ではありません。もし確実な予測が可能なら、万人が裕福になれるでしょう。少なくとも経済学者は、その著作やテレビで、もっともらしい説明をしなくても金持ちになっているはずです。(ちなみに、経済の語源は「経世済民」に由来するそうです。経済学者は結果説明ではなく、民衆を救う世の中の仕組みを説明して欲しいものです)無理に未来を予測しようとすると、「Xが起きる条件が整えば、Xが起きるだろう」とか、「Xが起きるだろう。さもなければ、Xは起きないだろう」といった言い方しかできません。この点では、オリンピック中継の解説者が、「どちらが勝つでしょうか」と質問されて、「日本に頑張ってもらいたいものです」と答えるのに似ています。人間の行動は予測が出来ないだけではなく、絶対こうだ、と断定することができません。仮に中学生の重大犯罪を根絶する方法を、断定的に(「中学校を全廃して中学生をなくせばいい」とか、「重大犯罪を合法化して、重大犯罪をなくせばいい」など)主張したら、かえって方法の説明が意味を失います。その一方で、断定を避けて説明しようとすると、こうなります。「AとBとCの条件が重なると、数十万人に一人の少年が重大犯罪を犯す可能性がある(ただし、誰かが重大犯罪を犯す気になり、かつ、それを実行に移すのを妨げるものが何も無いと仮定する)」説明の困難さは、説明される側になってみれば明らかです。我々の行動の大部分は、「成り行き」とか、「なんとなく」としか言えない行動ですし、これから何をするか、本人にも完全には予測できません。誰が、自分は絶対に恋に落ちないと断言できるでしょうか。そう断言できるのは、瀕死の重態患者か、私くらいのものでしょう。断言する元気もない人か、うそつきにしか断言できないのです。人間の行動は、本人でさえも予測も理解もできないのです。他人に解かるはずがありません。余りにも不可解だからこそ、人は何らかの説明が欲しいのですが、私にはそうやって作られる説明そのものが不可解に思われます。説明をつけると、説明の分だけ余計に不可解になるように思うのです。そして、そういう説明に満足している人間が、いっそう私には不可解に思われます。そう思うのは、私が、島国の農耕民族だからでしょうか。
January 19, 2005
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私は説明が嫌いです。よく説明を求められますが、説明を求められる状況というものが、一度として楽しかったためしがありません。第一、説明を求められることが、「何をしていたか」とか、「誰と会っていたか」など、説明に窮することばかりなのです。何とか説明しても、楽しい結果になることは絶対ありません。不十分な説明では怒られるし、十分に説明すると、もっと怒られるのです。もともと相手は、何かが気に入らなくて説明を求めているのですから、楽しくなる訳がありません。しかし、どうして自分が嬉しい時には説明を求めないのに、気に入らないことがあると説明を求めるのか、説明を求めたいところです。私は説明を聞くのも嫌いです。こちらが説明を要求していないのに、「一言説明させて頂きますと」という発言があると、その後には決まって退屈な話がきます。(その発言の前にも退屈な話がきます)説明の最も悪いところは、信用できないということです。信用できないのは私の説明だけではありません。ほとんどすべての説明がインチキくさい。現在、一般的に受け入れられている説明によれば、あらゆる出来事は、人心の荒廃か、環境の悪化か、運命のいたずらのせいだとされています。しかるに、私の周りの人に、いくらこの三つを使って、じゅんじゅんと説明しても絶対に通用しないのです。これだけでも説明というものの胡散臭さが想像できますが、それにしても納得できない説明が多すぎます。たとえば「若いうちしかできないから」という説明などはその典型です。このように説明されるのは、深夜に家を抜け出してバイクを走らせるとか、体にスミを彫るとか、軽率で愚かな行為に限られるのです。確かに、これらは若いうちしか出来ないことかも知れませんが、若いうちしか出来ないのはこれだけではありません。歴史の年号を覚えるとか、親孝行するとか、若死にするなど、他にもあるのに、そういうことは積極的にしようとはしません。「私は愚かだから」と説明した方が、よっぽどすっきりします。年をとった者の説明もインチキです。「もう年だから」と説明して、体力を要求する仕事を拒否したり、町内運動会に出るのを断るくせに、深夜まで遊び歩いたり、買春ツアーに出かけたりしているのです。こんなインチキな説明がまかり通っているのに、どうして同じくらいインチキな私の説明が通らないのか、謎としか言いようがありません。物理学や数学のように厳密な説明もありますが、一般人の理解を超えているし、私の理解をも超えていて使い物になりません。このように、説明は、納得できないか、理解できないか、苦しいかのどれかです。それなのに今の世の中は、説明すべき人が説明しない一方で、天気や経済から、スポーツの勝敗、芸能人の離婚にいたるまで、あらゆる現象に説明がつけられ、それを評論する人まで存在します。科学的に説明できない現象さえ、カーテンの色などで説明されるのです。なぜ、ここまで説明がはびこるのか、こういう事態こそ、説明が必要です。たぶん、人心の荒廃か、環境の悪化か、運命のいたずらのせいでしょう。
January 18, 2005
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今年も年明け早々から、凄惨なニュースが多いようですが、悲しい気分はこのページの趣旨にそぐわないので、多くは語らないことにしましょう。それにしても、誰もが自分の利益しか考えない世の中です。こう思われていますが、しかし一方で、私のような者の利益を考えてくれる人もいます。楽天からのメールでは、「お得ですよ」とか、「残りわずか」と教えてもらえるし、道を歩いていても、「魂を救ってやる」と言われたり、「金を貸してやる」と書いたティッシュをくれたりします。私が、魂の救いを求めており、金が無いことを、どうやって知るのか不思議です。なかには、私の自宅や事務所に電話を掛けてきて、「お前だけに儲け話がある」とか、「いい節税法がある」とか、「今がチャンスだ」と教えてくれる人がいます。私は、ファイナンシャル・プランナーでもあります。ハイ・リターンには、ハイ・リスクがつきものだという事を知っています。それに長年の経験から、「自分だけ大きな利益を得ようとすると、必ず損をする」という法則が成り立っていると確信するようになり、最近では、「私だけは、何をしなくても損をする」という法則も成り立っていると感じているのです。このようなセールスの電話は、大事な時を狙ったかのように掛かってきます。お好み焼きの最初の一口を味わっている最中とか、唐揚げ弁当の最後の唐揚げを口に入れた瞬間という、最も大事な時に掛かってくるのです。電話を掛けるなら、佐々木さんから仕事の催促をされている最中とか、事務員の中田さんに叱られている最中にして欲しい。そこまで都合のよい時でなくても、数年に一度訪れる、暇を持て余して人恋しい時とか、数百年に一度訪れるであろう、金の使い道に困っている時とか、あるいは、せめて私が留守の時にして欲しいと思います。最近の電話セールスの話法は巧妙で、本当に旨い話に思えます。しかも、かなりの情報を握っています。(そのわりに、私が貧乏だという情報は握っていない)なかには私を「センセイ」と呼ぶ人間もいて、こういう人間は、私の情報を的確に握っていると言えます。少なくとも、私が政治家、教師、医者、弁護士、作家などのように、尊敬を要求する、愚かな種類の人間であることを知っています。(私の名前が「センセイ」だと思っている可能性もあるが)そもそも資格や免許などは、その試験に合格すればいいのであって、合格者を尊称の対象とするかどうかは、個人の判断に委ねるべきものです。しかし、「センセイ」と呼ばれると、無下に電話を切れないのは、我ながら情けないところです。私の性格までも把握されているのです。こういう事実から判断して、何者かが名簿を売ったに違いありません。私と関係ある者が売ったために、私の周囲で何人もの人が迷惑をこうむっているのです。非常に嘆かわしく、残念なことです。こんなことなら、私が先に売っておけば良かった。最近の電話には、受信したくない電話番号を登録しておくと、着信音を鳴らさない機能があります。これなら、電話に出たくない相手からの電話に、悩まされることも減るでしょう。そこで、着信拒否機能のついた新しい電話機を買ったという友人に、使い心地を訊ねようと、数日前から電話していますが、ずっとつながりません。
January 11, 2005
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今年の正月は、ほぼ例年通りでした。いつものように、正月を返上して酒を飲み、昼寝し、雑煮を食べ、年賀状を読みながら寝ていました。もらった年賀状の多くは、デザインや色使いなどに趣向を凝らしています。しかしその中で、ひときわ異彩を放つ年賀状が一通ありました。これをくれたのは、本人の名誉のために名前は伏せておきますが、風変わりな私の友人です。(正月ボケの人がいると困るので、断っておきますが、“風変わりな”は、“友人”を形容しているものです)無地のハガキの中央に、ボールペンで几帳面に「賀正」と1センチ角の小さな文字で書いてあり、その脇に簿記などで金額訂正に使う小さな印鑑で、「斉藤」と本人の印を押しています。なぜ押印しているのか不明ですが、たぶん「賀正」を訂正しているのでしょう。その年賀状に書いているのはそれだけです。近況、所信表明、決意、家族の紹介はもちろん、年号も書いていません。(考えてみれば、年号は今年に決まっているのだから不要です。来年や去年の年賀状を出す人はいません)余白があれば、それを埋めようとするのが普通の心理ですが、空白を恐れる様子が全くありません。他の年賀状と比べて、異常に文字が少ない。行きつけのうどん屋の肉うどんの牛肉ぐらい少ない。これ以上省くとしたら、捺印か年賀状そのものくらいしか無いでしょう。私はこれほど、シンプルかつ大胆な年賀状を見たことがありません。そして反省しました。私の年賀状の何とつまらないことでしょう。比較にならないほど手間を掛けたのが無駄だったように思えました。パソコンで印刷したので、手が掛かっているようには見えないでしょうが、実際には長い時間を費やしているのです。まず、インクジェットプリンター用の年賀状を買い求めたのが十二月の初旬です。それからほどなくして、年賀状のソフトを買いました。新しいソフトに宛名用のデータを入力するのが大変でした。私のアドレスデータは、Palmの電子手帳を使用しているので、そのデータを移さなければならないのです。そのデータの校正に一日をかけ、インクを買いに行くのに一日かけました。インクを買いに行ったのに、東急ハンズとパルコに寄っていたら、インクを買うのを忘れるのに一日かかりました。その他にも、さまざまな障害が私を襲い(忘年会など)、手書きの何倍もの時間をかけて送ったにも関わらず、私の年賀状は元旦に到着しないばかりか、効果は簡素な年賀状には及ばないのです。何のために年賀状を出すのか、疑問に思えてきました。年賀状に労力を傾けるには、人生は短すぎます。(年賀状を書くだけのためには、人生は長すぎますが)多くの人は、年賀状を出さないと不利な扱いを受けるのではないか、という漠然とした不安から出していると思いますが、効果のほどは疑わしいものです。私は、百数十人に年賀状を出し続けていますが、私に食事を奢ってくれたのは十人だけです。損得じゃなく、礼儀の問題だ、と言う人がいるかも知れませんが、「パソコンで簡単に済ませたな。無礼な野郎だ」、「こんな趣味のいい年賀状を送りつけて、自分の才能を見せびらかしたいのか。失礼なヤツだ」と逆効果になることがあります。むしろ、年賀状を出さない方が危険は少ないと思います。かといって、年賀状を一切出さないという勇気もありません。今でも、食事を奢ってくれる人は少ないのです。年賀状を出さないと、これ以上どんな目に遭うか分かったものではありません。妻にも出した方がいいかも知れません。考えた挙句、来年の年賀状は、次のようにすることに決めました。賀正これまで、お世話になりました。これからの百年間も宜しくお願いします。2006年元旦~2106年元旦
January 7, 2005
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