心の健康
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生き方の哲学ー9 ulalan@ 浦蘭 嶋多朗「みおつくし」11月号より昨今、欧米などでも見直され、注目されている東洋思想は、昔から伝えられている内容で、奥深く意味深い、そして神秘的にも映る考え方が色々あるようです。その東洋思想のひとつに、すべては因果関係、縁起によってなりたっていると説いているものがあります。たとえば、強いものは弱い存在があるから、比較して強いと判断できて、弱いものの存在のお陰で際立つことができる。お金持ちは、貧乏として生きている多くの人のお陰でお金持ちとして安住していられる。賢い人も、愚かな人たちの存在によって優越感を味わえる。権力者も、多くの服従する民衆のお陰で威厳を何とか保てるわけだから、この世的強者は弱者に「お陰さま」と感謝して生きなくてはならない。老子風な言い回しをすると、優とされる人は劣とされる人に対して常に感謝して、徳の道を生きなくてはならないわけです。強い者も金持ちも、賢い者も、能力や才能、権力や財力を前面に出して派手に振る舞えば長続きはしない、などと資産家や権力者を皮肉った様な言葉も残しています。老子の言う「徳」は無心、無欲、柔軟、謙虚、素朴、控え目、などで、本来は厳しく険しい時代を弱者が生き延びるための智慧とも捉えることが出来るでしょう。ちなみに、理想的な生き方をしたければ「水」に学べとも言っています。水や川は柔軟性と謙虚さ、秘めたエネルギーとパワーがあり、上手に世渡りができると伝えたいのでしょう。ところが、現代社会では、いつの間にか逆転にすり替えられ、錯覚を信じ込まされた関係がまかり通っています。とは言っても複雑怪奇な現代社会では理屈通りにはなかなかいかないのが常でしょう。善人が悪人や犯罪者に対して、お陰さまで善人で居られますと感謝して生活はできないわけです。昔流に言えば、「悉有仏性」と「五性各別」という説があり、悉有仏性というのはすべての人は仏に救われる、どんな悪人や犯罪者でも少なからず良心や仏心があり、誰でも極楽へ行けるという考えです。その反面、五性各別とは人間を仏、菩薩、声聞、縁覚、無仏性の五つにわけて、最後の無仏性の人間は死刑にしてもよいという考えです。これらの相対立する考え方も、平安時代から議論が繰り返され、結論は出なかったようです。禅僧の沢庵や中国禅宗などの東洋思想では草や樹木、石や瓦にさえ魂が宿り、成仏すると言われていました。スピーディーに変化する現代社会で生活をしていると、氾濫する情報やマスコミに翻弄され、錯覚を植え付けられるようなメディアに振り回され、いつの間にか、昔から伝えられている大切な何かを見落としてしまいます。最近のテレビやニュースを見ていて、私なりに感じた古い言葉があります、それは「功遂げ身退くは、天の道なり」という言葉で、大きな活躍をしたり仕事を成し遂げた人は退け際が肝心だというものです。しぶとく地位や名誉にしがみつき、まとわり付いていると、そのうち醜態をさらし、ろくな事は無いと言っているように聞こえます。これは老子が残した言葉で、まるで政治家や財界人を皮肉ったように感じます。まさに現代社会の政治家や財界人などの、権力や金銭欲への執拗な執着心を表しているようで、いつの世も変わる事の無い恥ずかしい一面を見るようで、裸の王様的な情けない話しです。ただ、本編で最初に述べたような言い方を当てはめますと、このような方々の存在があるために、私の存在があるわけですから、今回はあえて否定もしませんし肯定も致しません。すべてのあらゆる事物は他との比較や交わり、関連付けなどによって相対的にあるというに過ぎず、本当のことや本質などということも無いに等しいわけですから、諸法無我ということになります。そして、身の回りで起きている様々な出来事は過去、現在、未来に想いを馳せない、今ここの積み重ねで、常に変化している流動的で実体の無い映像に過ぎないわけですから、諸行無常ということになります。ですから何事も全ての物事は「空」だと、お釈迦さんは説いたのかも知れません。仏教で言われている「不生不滅」は、この世の万物は現象に過ぎず、生まれるも無い、滅するも無い、生死に執着すれば煩わされると説いています。何事にも執着し過ぎれば悩みが生じるでしょう、生、老、病、死。愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦。などで四苦八苦しなければならなくなります。それらの執着心や欲望が渦巻いた社会から解放されるひと時を日常生活の中に取り入れ、穏やかな心で過ごせる至福の時間を持ちたいものです。煩悩から解放された世界と時間を過ごすためには、悟りという大きな川を渡り、真理という向こう岸に行かなくてはなりません。その川を無事に渡り切るためには、欲望という荷物を捨て、身軽にしなくては途中で力尽きて渡れません。「自分は・・・」とか「自分の・・・」などを考える思い、自我意識の心、魂、霊、精神にとりつかれているから悩みが生まれ、苦しむと新田氏も言われています。自他の区分け、善悪の区分けなどが差別や不条理、果ては戦争などを発生させるというわけです。少し話しに宗教色が強くでてきてしまいましたが、宗教を肯定しているものではありません。生き方を考えていると、話しの流れで宗教が切り離せない場合があるというだけの事です。太陽や月を神として崇拝したり、海や山に精霊が宿るとして信仰したり、世界の宗教的な信仰の対象は宇宙や自然界の何かを対象に神として崇拝信仰していることが多いようです。宇宙や自然界と一体になれることが神に近付けるということでしょう。無意識で生きている自然界のあらゆる植物や動物などの生き物は常に宇宙や自然界と一体で生き続けています。ところが邪気邪念の多い人間だけが宇宙や自然界と一体になれないわけです。宇宙や自然界が手を広げて受け入れようとしていても、科学や知性、邪気邪念に縛られ、錯覚を信じ続けてきた人間の方が拒否しているのでしょう。死について考えるとは、いかによりよく生きるかを考えるきっかけであって、恐れたり怖がるものではなく、まして死後の世界はどうなるとか、霊や魂はどうなるとか、などと非科学的なことをこうして記述すること自体はばかる事でしょう。世間では人工授精や体外授精で生命が誕生するご時世に、いまだに霊の存在を信じる人が多くいます。日本における宗教儀礼として日常生活に溶け込んでいる仏壇、位牌、葬儀、法事、盆、彼岸なども、仏教と日本古来の神道の神仏習合の曖昧なものもあり、死後の世界や極楽、地獄というものも、人それぞれの心の持ち方として、心の中の極楽、地獄、浄土などを心理効果として捉えるべきもので、霊や魂の存在などは古来の原始信仰の名ごりであり、神社仏閣、宗教団体などの維持存続のために持ち出されることはあっても、元来の根本仏教に霊の存在を認めるような教えは無いのでしょう。
2007年10月31日
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