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国道がアーケード商店街になっている処がある。 ブロ友の英坊3氏は富山県高岡市の珍百景をご紹介されているが、わが街の東大阪市にも珍しいものがあるので、ご紹介しておきましょう。珍百景とは少し違いますが・・(笑)。 近鉄瓢箪山駅の北側と南側に延びているアーケード商店街。実はれっきとした国道(170号線)なのである。 駅の北側にあるのが瓢箪山中央商店街(通称:サンロード瓢箪山)で、南側にあるのがイナリ前商店街(通称:ジンジャモール瓢箪山)。 この道は高野山へと通じる東高野街道という道であった。近鉄奈良線がこの道と交差して敷設され、大正3年(1914年)にその交差する場所に瓢箪山駅が設置された。以後、この駅を中心として街道に沿って南北に商店街が形成されることになる。 また、旧外環(旧外環状線)道路の整備が進められるが、その路線は東高野街道と平行したり、一部重なったりしたものとなる。瓢箪山駅周辺は、旧外環と東高野街道とが重なる形で路線整備が進められた。 昭和36年(1961年)に商店街に手動で開閉する簡易式アーケードが設置される。この道(旧外環)は昭和40年代にバイパスとして新国道170号線(外環状線)が出来るまでは、この地域の南北を結ぶ唯一の幹線道路であり、路線バスも走っていたことも相俟って、車両の通行制限は無理。アーケード設置後もそのまま、車両の通行が制限されることはなかった。かくてアーケード商店街の中を路線バスが走るという珍風景も現出したのであった。 昭和38年(1963年)になって、この道は国道170号線に指定されることになる。日本初の国道商店街の誕生となったのである。 国道にアーケードを掛けたのではなく、アーケードを掛けた商店街の道が国道になったのである。順序が逆だったらこういうことにはならなかったことでしょうね。 新しい国道、170号線(外環状線)が完成して、路線バスは、瓢箪山駅南側からこの新170号線・外環状道路に迂回して走り、今はアーケードの下をバスが走るという妙な光景は見られない。そして、午前7時から午後8時までは車両の通行は禁止となり、歩行者天国となっている。最近は、自転車に乗っての通行も禁止となっている。 <参考>国道170号線・Wikipedia(サンロード瓢箪山・北詰め) <参考>瓢箪山中央商店街(通称「サンロード瓢箪山」) イナリ前商店街(通称「ジンジャモール瓢箪山」) 上の写真は商店街の北端の出入口。ここで左側からの東高野街道と国道170号線(旧)とが合流してアーケードの下へと続いている。(同上・自転車に乗っての通行禁止の標識)(同上南詰め・瓢箪山駅前) 上の写真と下の写真は同じ位置から撮ったもので、上は北を向いて撮影、下は南を向いて撮影したものです。 まあ、この道が国道だと言われても「?」でしょうね。(瓢箪山駅前踏切・右側が瓢箪山駅)(ジンジャモール瓢箪山北詰め・瓢箪山駅前)(ジンジャモール瓢箪山南詰め) 上の写真の右手に見えている鳥居は瓢箪山稲荷神社の鳥居です。江戸時代は稲荷神社の門前町として栄えたようです。 今は暗渠になっていますが、道の右側には小川(水路)が流れていて、鳥居の下には石橋が残っています。橋は秀吉に因んで太閤橋と呼ばれています。 <参考>太閤橋に関しては下記の記事にて説明しています。 石切・額田・瓢箪山近隣散歩(下)2010.05.04. 余談ですが、国道上のアーケード商店街というのは、もう一つ長崎市内にもあるようです。 <参考>浜町アーケード・Wikipedia(国道324号)付録1:せのぶらin瓢箪山前編 付録2:せのぶらin瓢箪山後編1 付録3:せのぶらin瓢箪山後編2
2013.08.29
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蜘蛛が嫌いという人は多い。 そういうお方は写真はパスして下さいませ。 銀輪散歩の途中の何処かで身体に付いたものか。 昼食の店の中で右腕を何やらが這う感じ。見ると小振りの蜘蛛であった。掌に這わせてタオルの上に移動させて、撮影したのが下の写真。(蜘蛛) ジョロウグモ・Wikipedia これは多分女郎蜘蛛かと。成虫はもっと大きく体の虎模様も鮮明であるから、これは亜成体、まだ成虫になり切っていない若い女郎蜘蛛なんだろう。まあ、蜘蛛のことはよくは存じ上げませんので、別の種類の蜘蛛である可能性も否定できません。 何れにしても、動き回るので撮影は困難。ピントの甘い写真になってしまいました。(同上) 万葉集には1首だけ蜘蛛が登場する歌があるが、これも蜘蛛そのものではなく、蜘蛛の巣である。風まじり 雨降る夜(よ)の 雨まじり 雪降る夜(よ)は 術(すべ)もなく (中略)伏廬(ふせいほ)の 曲廬(まげいほ)の内に 直土(ひたつち)に 藁(わら)解き敷きて 父母(ちちはは)は 枕の方に妻子(めこ)どもは 足(あと)の方に 囲(かく)みゐて 憂へ吟(さまよ)ひ かまどには火気(けぶり)吹き立てず 甑(こしき)には 蜘蛛の巣かきて 飯炊(いひかし)くことも忘れて(後略) (山上憶良「貧窮問答歌」 万葉集巻5-892) さて、蜘蛛に関するエピソードが日本書紀允恭天皇8年2月の条に出てくる。八年の春二月に、藤原に幸(いでま)す。密(しのび)に衣通郎姫(そとほしのいらつめ)の消息(あるかたち)を察(み)たまふ。是夕(こよひ)、衣通郎姫、天皇を恋(しの)びたてまつりて独居(ひとりはべ)り。其れ天皇の臨(いでま)せることを知らずして、歌(うたよみ)して曰はく、我が夫子(せこ)が 来べき夕(よひ)なり ささがねの 蜘蛛の行ひ 是夕(こよひ)著(しる)しも(歌意)私の夫の訪れそうな夕である。笹の根元の蜘蛛の巣をかける様子が、今、はっきり見える。 この歌は少し形を変えて古今集にも登場している。 衣通姫の、独り居て、帝を恋ひ奉りてわが背子が 来べきよひ也 さゝがにの 蜘蛛の振舞ひ かねてしるしも (古今集巻14-1110)(歌意) わたくしのいとしい夫がきっといらっしゃる夕暮だわ。蜘蛛の動作が前もってはっきりそれを示していますもの。 蜘蛛が巣を張る動きをすると、恋しい人の訪問がある、という俗信があったよう。古代中国でも蜘蛛が衣につくと親客の来訪があると信じられていて、蜘蛛のことを「喜母」とも呼んだそうな。 従って、体に付いた蜘蛛は邪険にしてはならないのである。 ということで、写真撮影の後は手に乗せて庭の植え込みの方に遷坐賜ることと致しました。 さて、ヤカモチには如何なる親客の訪問がありますのやら(笑)。 蜘蛛に噛まれた人は少ないと思うがヤカモチは子供の頃、自宅近くの小川に入って、魚かザリガニかを獲っていた時に大きな蜘蛛に突然右手人差し指を噛まれるということがありました。強烈な痛みと大きな蜘蛛が指に喰らいついているという状況に相当慌てふためいたものか、蜘蛛を掴んで引き剥がそうとしたら、頭部分だけが指に喰いついたまま残ってしまうということがありました。 蜘蛛にまつわるこのような話も歌も知らない子供の頃のことでありますが、仮に喜母のこと知っていたとしても噛みつかれたら「わが背子が来べき宵なり」なんぞとは言っていられない。引きちぎるしかないでしょう。 どうも不粋な話になってしまいました。 本日の記事は、昨年11月5日の記事へふぁみり~キャンパーさんが下さったコメントに対しての返事コメントで書いた内容を少し膨らませたものであります。当該コメントを読まれた方には先刻ご承知ということになりますが、悪しからず、です(笑)。
2013.08.28
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久し振りに銀輪花逍遥です。 銀輪散歩の道すがらに見掛けた花などを・・・。 昼間の暑さは相変わらずですが、朝晩にはそこはかとなき秋の気配も感じられるようになりました。夏から秋へ季節は変ろうとしています。秋きぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる (藤原敏行 古今集169)(睡蓮の花 未草) ヒツジグサ・Wikipedia 未(み)の刻を 待たず咲くなる 未草(ひつじぐさ) 吾が恋ひ来るを 知りてやあらむ (偐家持) 未の刻(午後2時頃)に咲くので未草と名付けられたらしいが、実際には朝の内から咲くのであれば、午草でも巳草でも辰草でもいいことになる。 この写真も午前11時過ぎの撮影である。別にヤカモチ君のために特別に早く咲いてくれたというのではないのでありました。(ガマの穂) ガマ・Wikipedia 睡蓮・ヒツジグサは美しく、モネでなくとも、思わず見惚れてしまう花であるが、同じ水辺の草でもガマは対照的。「美しい」と言う人は先ず居ない。そもそもこれが花だと思う人も先ず居ない。ソーセージだと思う人は居るとしてもである。愛嬌のない仏頂面であるが、風が吹くとユラリと不器用に揺れて、己が花穂であることを示す所作をする。風吹けば 仏頂面なる 蒲(がま)の穂も ゆらぎて少し ものや言ふらし (偐家持)(向日葵) ヒマワリ・Wikipedia 炎天下、猛暑と来れば、この花が一番の似合いでしょうか。しかし、花としては大き過ぎて、ゴッホでもないヤカモチにはちょっと・・という花ではある。しかし、向日葵の夏ももう終りですな。花姿も少し、元気というか勢いが見られなくなっています。晩年の向日葵夫婦のツーショットです。寄り添ひて 二人影見つ 向日葵の 過ぎにし夏の 日々の惜しかり (偐家持)(キツネノカミソリ) キツネノカミソリ・Wikipedia ヒガンバナはもう少し先ですが、ヒガンバナ科のキツネノカミソリはひと足早く咲き出しました。銀輪ヤカモチもキツネノカミソリに負けず、炎天ものかは走り続けることと致しましょう。銀輪は 炎天ものかは 道の辺の 狐の剃刀 燃えてぞ咲かな (偐家持)(ノブドウ) ノブドウ・Wikipedia 人こそ知らね秋は来にけり、で日が暮れると草叢からは虫の声も聞こえて来るようになりました。 万葉人は「野辺見ればなでしこの花咲きにけりわが待つ秋は近づくらしも」(万葉集10-1972)と詠いましたが、ヤカモチはノブドウが実をつけ始めているのを見て「秋近づくらしも」と感じた次第。野葡萄の 葉うらに青き 実のあれば わが待つ秋も 近くやあらむ (偐家持)(葱畑) ネギ・Wikipedia 葱畑もこうして見ると美しい。畝と畝の間の土を葱の根元に被せて行くので、畝がどんどん高くなり独特の景観となるのですな。白葱の ときは冬なり 葱畑 夏はひたすら 土盛るらむか (偐家持)
2013.08.27
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偐万葉・英坊篇(その23) 本日も偐万葉です。シリーズ第180弾。英坊篇(その23)です。英坊3氏のブログに書き込んだ歌や同氏から贈られて来た歌を集めています。 <参考>過去の偐万葉・英坊篇はコチラからどうぞ。 英坊3氏のブログはコチラからどうぞ。 偐家持が英麻呂に贈りて詠める歌15首併せ俳句 並びに英麻呂が作れる歌11首併せ俳句 英麻呂が贈り来れる歌1首並びに偐家持が返せる歌1首日当たりの 柘榴撮ろうと 馳せ行くも 実は薄べにで 熟は暫しよ (注)英坊3氏のブログではこの歌は下記の通り。 日が照りて 柘榴撮るとて カメラ手に 行くも実は未だ 薄い紅色蝉しぐれ 降りゆく中を いざ行かな 実なる柘榴の 色づくも見む (本歌) この雪の 消のこる時に いざ行かな 山橘の 実の照るも見む (大伴家持 万葉集巻19-4226) (柘榴・英麻呂画)遊びをせんとや つくりけむ 戯れせんとや 詠ひけん遊ぶ子供の ごとつくる わが歌もとより ものならじ (両人卑小) (本歌)遊びをせんとや 生まれけむ 戯れせんとや 生まれけん 遊ぶ子供の 声きけば わが身さへこそ ゆるがるれ(梁塵秘抄) 英麻呂が贈り来れる歌1首並びに偐家持が返せる歌2首夕映えに 四天の甍 あかね色 高くいろ映え 見ゆるハルカスゆる打つを 忘れゆるべみ 英麻呂に われもの申す ゆるり打たませわれもまた たがへて打てる ことあれば ゆるなきことも ゆるすほかなき (ゆるキャラ) (注)上の英麻呂歌は当初「見ハルカス」と字足らずで送られて来たの だが、後で「ゆる」が抜けていたと言って来られたので、それを茶 化したのが下2首である。ランタナは 黄に咲きやがて 桃色に なりて夕日の 色にし散れる (ランタナ・英麻呂画) 英麻呂が贈り来れる句に偐家持が付けたる脇句 揖保の糸 疣を切る糸 絹の糸 (英麻呂) いといとをかし 英麻呂の意図 (偐家持) 英麻呂が贈り来れる歌2首並びに偐家持が返せる歌3首七化けの 花を眺めて お茶を食む 碗も名だたる 萩の七化け窯変は 異様(ことやう)なりと ときふりて 茶渋ぞかもす 萩の七化けわが妻も しかもやあるか ながらへば 萩の七化け 渋みぞ増しぬ来年の 24時間 マラソンに 俺を出せよと 勇み満々100キロを 駆けるはかたし 銀輪に 乗りて行かまし ヤカモチわれはわれもまた 吹かれみたくも 高岡の 古城の森の 緑の風に (注)上の歌は偐万葉掲載に当り語順など修正を加えました。 (高岡古城公園) 英麻呂が贈り来れる歌1首並びに偐家持が返せる歌1首カップをば 奪還逸し いと悔し 懇親会の 茶のほろ苦し返したる ものは返すと 言はれても 受け取らざるが をのこなりけり (返家持) 英麻呂が贈り来れる歌1首並びに偐家持が返せる歌1首ハンドルを 握る手に汗 顔に汗 ナウい氷菓子(ひがし)を ガリガリと噛みコンビニの あればうれしみ 氷菓子(こほりがし) 持ちてガリガリ くはぬ手はなし (夏家持) 英麻呂が贈り来れる歌1首並びに偐家持が返せる歌1首健脚も はじめヨイヨイ あと疲れ 見る目聴く耳 頭も空ろそらアカン 床の山にて 昼寝でも してから行くの ほか中山道 (偐曽良) 英麻呂が贈り来れる歌1首並びに偐家持が返せる歌1首四方山(よもやま)の 話(わ)と和(わ)で楽し 集い場は 酒肴盛りて 懇(こん)が話(わ)に勝ちわれは下戸 茶話山(さわやま)なれど ささの席 少しは呑みても 石田三成 (下戸家持) 英麻呂が作りたる句に偐家持が付けたる脇句 朝顔に見栄えとられしなまこ壁 (英麻呂) つるべいづこや 血まなこなまこ (筆蕪蕉) (なまこ壁) 英麻呂が贈り来れる歌2首並びに偐家持が返せる歌2首脚信じ 頭を上向け 登れしも 時は束の間 足笑いしも神前の 茶店の飯の 柿葉寿司 三輪の素麺 想い味深し身は山に 登る心の よかれども 悪しきは足か 嗤ふてござる (口八丁足八寸)柿の葉の 寿司に手延べの 三輪素麺 召されよ古き 大和の味ぞ (茶店の主人) 英麻呂が贈り来れる上3句に偐家持が付けたる下2句 蝶とんぼ あまりリアルに 肝とられ (英麻呂) そぞろ抜き足 差し足の君 (偐家持) ネパールの 仏荘厳 加護如何に (英麻呂) 知るも知らぬも 照らす月影 (偐家持)(注)掲載の写真は全て英坊3氏のブログからの転載です。
2013.08.25
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偐万葉・ビッグジョン篇(その19) 本日は偐万葉シリーズ第179弾、ビッグジョン篇(その19)であります。ブロ友のビッグジョン氏のブログに書き込んだコメントに添えた歌を集めたものです。 この偐万葉シリーズでは同氏は「交野歩麻呂(かたののほまろ)」と勝手に命名させて戴いて居ります。 <参考>過去の偐万葉・ビッグジョン篇はコチラからどうぞ。 ビッグジョン氏のブログはコチラからどうぞ。 偐家持が歩麻呂に贈りて詠める歌17首併せ俳句1句水清み 山青垣に 瑞穂なす 豊葦原の 大和しうるはし (ネパールのホテルの貯水槽) (後姿の歩麻呂) うしろすがたもきまっているか (元句) うしろすがたのしぐれてゆくか (種田山頭火)勝山の 水菜は見ずて 聞かざれば 菊菜と言はずも その名知らずも (見ず菜言はず菜聞く菜) (勝山水菜の種取り)恥知るを 知ると言ふなり 恥知れば 知らぬと言ふを 恥とするものをすみれにも 似たれトレニア コンコロル 歌にしならぬ 長き名ぞ惜しあしひきの 山橘の 葉隠(はがく)りに 花は咲けども 見る人ぞなきしくしくに 雨は降るとも いざ行かな 山橘の 花咲くも見む (本歌)この雪の 消(け)残る時に いざ行かな 山橘の 実の照るも見む (大伴家持 万葉集巻19-4226) (ヤブコウジの花) (ノウゼンカズラの花)家持の 花にはあらね 凌霄(のうぜん)は 魔女にしなけど 扱ひ兼ねつ来ぬひとを 待兼山に 待たざれば 身を焼くこひも ありかつましじ (偐定家) (本歌) こぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに やくやもしほの 身もこがれつつ (藤原定家 新勅撰集851 小倉百人一首97)咲く花は メリケンムグラ 鳰(にほ)の海 夏こそ盛り 秋は見えざる (注)鳰の海=琵琶湖のこと。鳰はカイツブリのこと。 (本歌) 八重むぐら しげれる宿の さびしさに 人こそ見えね 秋は来にけり (恵慶法師 拾遺集140 小倉百人一首47) (メリケンムグラ) (パプリカ)三十日(みそか)待ち 黄にも赤にも いちしろく 色こそ出づる パプリカの実は (ハンガリアン・ヤカモチ) (注)パプリカはハンガリーが原産地である。 (本歌) 恋転(まろ)び 恋ひは死ぬとも いちしろく 色には出でじ 朝顔の花 (万葉集巻10-2274)岩牡蠣の 子規にはあらね わが背子の うまいうまいは 栄螺なるらむ (注)正岡子規は秋田県の象潟を訪ねた際に大須郷の宿で岩牡蠣を食べ、 余程に美味かったらしく、後日「仰臥漫録」に「ウマイ ウマイ 非常ニ ウマイ」と書いている。 (サザエ)万全も まんぜんとよむ 朦朧体 われ家持の 裔にしあれば百合の花 後(ゆり)とは言はず 今見よと 垣の内より 顔ぞ出しける垣の内に 知らえぬ花も 苦しきと 外に出す顔 高砂の百合 (垣内郎女) (本歌) 夏の野の 繁みに咲ける 姫百合の 知らえぬ恋は 苦しきものぞ (坂上郎女 万葉集8-1500) (垣根から顔出す高砂百合) (ゴーヤのカーテン)余り苗 吾子にしやれば なりたるを うれしとあらし にがうり持ち来 (苦笑歩麻呂)にがうりは なりあまれるも もちきたる 吾子のにがうり つまとしゑみぬ (微笑歩麻呂)外回り 油売らむと するわれは 湯をば買はむや ひと風呂浴びむ (サボ麻呂) (温泉スタンド)(注)掲載の写真は全てビッグジョン氏のブログからの転載です。
2013.08.24
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第125回智麻呂絵画展 本日は智麻呂絵画展であります。 本日出展の絵は先日20日(火)に智麻呂邸を訪問した折に撮影させて戴いたものであります。その前の智麻呂邸訪問は4日(日)。お盆の期間中でもあったので16日間のご無沙汰となりましたが、この間に月曜日は3回、金曜日は2回ありました。月曜日と金曜日は智麻呂氏がデイサービスに行かれる日ですが、智麻呂氏は描いた絵をデイサービスにお持ちになり、そこにお通いの皆さんにも見て戴くようにして居られるようです。 智麻呂氏が持参される絵を見るのを楽しみにして居られる方も多いようで、その中のお一人のご婦人が「最近は新作の絵がありませんが、絵の方はお休みですか」と仰ったそうな。これに対して、智麻呂氏は「絵は描き上っているのだが、ヤカモチ君が来てくれないもので・・・。」と説明されたそうな。ヤカモチがブログに載せるための写真撮影の済むまでは絵を持ち出せない、ということの事情をご理解できないご婦人には、何のことやら分かる筈もない、と恒郎女さんは笑って居られました。 デイサービスに通って居られて智麻呂氏の絵を見るのを楽しみにされている方々のためにも、ヤカモチはせっせと智麻呂邸に通い、仕上がった絵は速やかに写真撮影するということに努めなければならない、という訳ですな(笑)。 では、皆さまも智麻呂絵画、ごゆるりとお楽しみ下さいませ。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~(キアゲハ) 蝶の絵は第62回展にあるのみで、これが2作目になります。とても精緻に描かれています。 下のヤンマもいいですね。前回の蝉に続いて蝶とトンボの絵。花の智麻呂もこの夏は虫麻呂に変身のようです。 因みにトンボの絵も2作目にて第5回展以来です。(オニヤンマとギンヤンマ)(アトリエのテーブル) こちらは、アトリエのテーブル。キャスター付きで移動は自在。読書会には若草ホールに移動して補助のテーブルともなれば、ワゴンサービスにも使えるという便利な、多目的テーブルであります。 基本的にはこのテーブルの上にて智麻呂氏は絵を描かれるのですが、今回は若草ホールにこれを持ち出してモデルとし、若草ホールのテーブルでこの絵を描かれたのでしょう。(揖保の糸) これは偐山頭火氏の播州赤穂の旅のお土産。小生も頂戴し、ブログにその写真を掲載しましたのでご記憶の方も居られるかと存じますが、やはり絵には叶いませんね。 <参考>揖保の糸の写真掲載記事 偐山頭火氏の播州赤穂の旅は同氏ブログの下記頁で ご覧になれます。 播州赤穂「かんぽの宿赤穂 その前に雪彦温泉行」 播州赤穂「かんぽの宿赤穂 万葉岬」 播州宍粟「山崎 よい温泉と揖保の糸」(蜜っこ) これはご近所の美人の奥様からの戴きもの。紀州石神邑の「蜜っこ」です。南高梅を蜂蜜で漬けた甘口の梅干しです。ご興味のある方は下のホームページからお買い求め下さい(笑)。まあ、ヤカモチ的には、梅干しよりも、恒郎女様が仰る「美人の奥様」の方に興味がありますが・・(笑)。 <参考>紀州石神邑のホームページ(エノコログサ) 智麻呂氏が絵の題材に窮した場合に登場するのがエノコログサ。こちらは、第18回、第42回、第60回、第83回、第106回と登場して居り、これが6作目になります。 題材に窮した場合の・・、と言うのはこの草が手に入り易いから申し上げたまでで、風に靡く様などはなかなかに風情もあり、その造形は絵の題材としても面白いものがあるようですから、智麻呂氏もこれを絵にされるのかも。 エノコログサは猫じゃらしとも言いますが、上の意味では「智じゃらし」でもありますな。(薊) これはノアザミ。小万知写真集のアザミの写真から絵にされました。 犬養先生がアザミは食べられると仰っていたように記憶するが、東北地方の一部や長野県の一部ではアザミの若芽が食用として売られ、主に味噌汁の具などとして利用されるそうだから、確かに食べられるのですな。 ところで、アザミの語源ですが、あざむ草が訛ってアザミになったとか。あざむ、というのは傷む、痛むという意味らしいですが、痣(あざ)という言葉はその名残りでしょうか。アザミには棘があるので触ると痛い、それで「あざむ草」となり、アザミになったという次第。 アザミには「山には山の愁ひあり、海には海の悲しみや・・」という素敵な「あざみの歌」というのがありますが、アザミの万葉歌はありません。「あざ」には「あざとい」、「あざむく」、「あざける・あざわらう」、「あさましい」など否定的なニュアンスの言葉が多いから「あざむ草・あざみ」では歌にはならぬ・・ですかね。恋ひ来れば 野辺にし咲きぬ 夏薊 風もな触れそ こころのうちは (偐家持) <参考> あざみの歌・賠償千恵子(三輪山) 最後は奥様の恒郎女様の絵です。「落書きだから」と渋る恒郎女様を説き伏せて無理矢理撮影。ヤカモチ館長による勝手公開であります。 恒郎女様の絵は第49回展でのカラスウリの絵以来でしょうか。恒郎女様のお母様だったかお祖母様だったかが三輪山の近くの大福という地のご出自であったかと記憶しますので、耳成山や三輪山は葛城山同様に子供の頃から馴れ親しんだ懐かしい山であるのでしょう。 ということで、第125回展も恙無くお開き。本日もご覧戴き有難うございました。
2013.08.22
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<承前> 彦根駅前から城方向へと引き返す。 駅から城への通りは「駅前お城通り」という名が付いている。突き当りが滋賀県護国神社。神社の前で左に行くと彦根城の佐和口、右に行くと船町交差点。ヤカモチが目指すのは彦根港。右に行く。 その前にやはり「ひこにゃん」にもご登場戴くことと致しましょう。お城通りに鎮座まします石のひこにゃんです。角兜 かぶりましてや 坐りましし ひこにゃんありて 彦根はなりぬ (偐家持)(ひこにゃん) 島左近の「島さこにゃん」も人気上昇中らしいが今回は見掛けませんでしたね。その親分の「石田みつにゃん」にもご登場願いたき処なれど、そのようなゆるキャラは未だ存在しないようですにゃあ。 さて、護国神社前で右に行き、船町交差点で左折、彦根城のお堀に沿って琵琶湖へと向かう。前頁に掲載の彦根城天守の写真はこの道筋から撮ったものです。何となくアヒル顔である。(彦根港) 彦根港に着くと観光客を乗せたチャーター船が出港して行く処。 竹生島に行くのでもあるか。それとも多景島に向かうのか。 ♪瑠璃の花園、珊瑚の宮、古き伝への竹生島♪ 竹生島への定期観光船が此処からも出ている。 <参考>彦根・竹生運航時刻表 彦根・多景島運航時刻表 琵琶湖周航歌の碑が港への進入路脇にあるのだが、撮影するのを失念。次回繰越しです。(本番の時の記事ネタも残して置かなくては・・ヤカモチ流弁解です。)(同上) 湖岸に沿って「湖辺の道」を北へと走る。9月の本番で読書会の皆さんと宿泊するホテル、「かんぽの宿」の前を通過。(かんぽの宿) かんぽの宿の北側は松原水泳場になっていて、海水浴ならぬ湖水浴を楽しむ人たちで賑っていました。(松原水泳場) 松原水泳場が途切れる処に流れ込んでいる川が矢倉川。(その2)の摺針峠への上り口の手前にある川として写真掲載した川であるが、それがここに流れ込んでいる。 湖辺の道は矢倉川に架かる松原橋で湖周道路と合流する。(矢倉川河口) (その4)でご紹介した万葉歌の不知哉川がこの矢倉川だという説のあることは既に述べました。この川の上流、JR琵琶湖線が渡っている手前で右(南)側から流れ込んでいる支流の小野川がそれだという説のあることも述べました。(矢倉川・松原橋上から上流を望む。)(湖辺の道) 矢倉川を越えて湖周道路と別れ、再び湖岸の「湖辺の道」を行く。何となく「ひこにゃん」に似ていなくもない建物、彦根ビューホテル(旧彦根プリンスホテル)の裏を過ぎた処で、湖辺の道は湖周道路に合流する。ここからは米原市になる。 琵琶湖一周の湖周道路は「さざなみ街道」と名付けられているが、何度も琵琶湖畔を銀輪散歩しているうちに、気付けばほぼ一周走破に近くなっている。湖東では彦根~長浜間が未走。湖西では近江舞子~堅田間が未走なので、一周完了まではあと少しであるが、元々一周に関心がある訳でもないので、いつになることやら・・です。 それはともかく、彦根港から、万葉歌碑のある米原市磯地区への道は今回初めて走るので、未走距離が少し減った計算にはなりますかな(笑)。 万葉歌碑は岬を廻る湖周道路の曲がり角にある。 高市黒人の歌である。(万葉歌碑)磯の崎 こぎたみ行けば 近江(あふみ)の海(み) 八十(やそ)の湊(みなと)に 鶴(たづ)多(さは)に鳴く (高市黒人 万葉集巻3-273) 上の歌は、万葉集巻3にある「高市黒人の羇旅の歌八首」の内の1首である。他の7首は下記(注)に記載の通りであるが、275の「高島の勝野の原」の歌や巻9-1718の「あともひてこぎ行く船は高島の阿渡のみなとに泊てにけるかも」の歌などを考え合せると、この歌も琵琶湖西岸を旅している時の歌ではないかとも考えられる。この場合は「磯の崎」というのは固有名詞・地名ではなく、岩が多く陸地の突き出た場所をいう普通名詞と理解することになる。 これに対して、「磯の崎」を固有名詞・地名と見て、此処米原市磯のこととする解釈に立って、此処に歌碑が建てられているのであろう。 (注)高市黒人の他の7首 旅にして物恋(ものこほ)しきに山下(やました)の赤(あけ)のそぼ船沖へ漕ぐ見ゆ(巻3-270) 桜田へ鶴(たづ)鳴きわたる年市魚潟(あゆちがた)潮干(しほひ)にけらし鶴(たづ)鳴きわたる(同271) 四極山(しはつやま)うち越え見れば笠縫(かさぬひ)の島漕ぎかくる棚無し小舟(をぶね)(同272) わが船は比良の港に漕ぎ泊(は)てむ沖へな離(さか)りさ夜更けにけり(同274) いづくにかわれは宿らむ高島の勝野(かちの)の原にこの日暮れなば(同275) 妹もわれも一つなれかも三河なる二見の道ゆ別れかねつる(同276) 一本に云はく 三河の二見の道ゆ別れなばわが背もわれもひとりかも行かむ とく来ても見てましものを山背(やましろ)の高の槻群(つきむら)散りにけるかも(同277) 高市黒人の歌は万葉集に19首(異伝歌1首を加えて)ある。その何れもが旅の歌である。旅愁の歌人とでも呼びましょうか。一人旅のヤカモチの気分にマッチする歌も多く、日焼けついでに偐家持を改名して偐黒人にするか、という気分にもさせてくれるいい歌が多い。下級役人であったという点なども好ましい(笑)が、それだけにどのような生涯を送った人物であるのかはよくは分らない。 以上で彦根銀輪散歩終了です。 長らくのお付き合い有難うございました。 =完=
2013.08.20
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<承前> 芹川べりの道。 右岸を走るか左岸を走るかが問題。 今回の下見では、西沼波(にしのなみ)橋から後三条橋まで右岸を走り、後三条橋から池州(いけす)橋までは左岸を走りましたが、左岸は途中から歩行者・自転車専用道となっているので、こちらをずっと走る方がいいのかも。ただ、アスファルト舗装ではなく石タイル敷きなので、自転車の走り心地は必ずしもよくはない。 では、暫く、芹川べりの風景をお楽しみ下さいませ。 桜並木の道があり、JR線を越えるとケヤキ並木の道となる。(芹川右岸・ケヤキ並木の道、上芹橋付近) (同上) 芹川は彦根城築城の際に、川筋の付け替えが行われた。城の南の守りとしての防護堤にしたのである。この時に新しい川筋の土手に植えられたケヤキ並木が今日まで残ったとのこと。樹齢は400年。(芹川左岸) ケヤキの道とは言うなれど、左岸には楡の木もありました。(芹川左岸・アキニレの木陰) 「楡の木陰」は高校三年生ですが、「欅の木陰」に居たのは麦藁帽子のおじさんでした。(同上) そのおじさんは芹川の流れの中に立って何やらしてござる。芹川なれば芹を摘むのが相場だが、今はその季節に非ず。芹川とは名ばかりにて芹の姿は見当たらぬ。落ち鮎を狙った仕掛けでもして居られるか。神(かむ)さぶる 槻の木陰の 芹の川 芹は摘まずて 鮎獲(と)るらむか (偐家持)なにすとも 尋(と)はず来にけり 不知哉(いさや)川 いさやと聞こす 川とし聞けば (偐家持)(芹川左岸・ケヤキの木陰)(池州橋南詰にある石碑) サイクリングとしては河口まで芹川沿いを走り、琵琶湖を見つつ湖岸の道を行くのが理想だが、彦根城も外せまいと彦根城に向かう。池州橋から北へ。突き当りを右に行くと直ぐに夢京橋キャッスルロードの入口。(キャッスルロード) さすがにキャッスルロードは観光客で賑やか。歩行者に注意して自転車を走らせる。白壁に黒格子の洒落たお店が並んでいるが、それを紹介するはヤカモチにとって「非吾事」で省略です。 宗安寺に立ち寄ったのみにて足早に通り抜ける。(宗安寺・山門) この門は佐和山城の大手門を移築したものと伝えられている。(同上・本堂) お盆とあって、境内は提灯の列。しかし、行燈のみならず、昼間の提灯も何やら間が抜けて居る。(同上)(同上・伝佐和山城門の碑) キャッスルロードの突き当りが彦根城の京橋口。城内へと進む。(京橋口・中堀)(彦根城博物館・表御門) 彦根城は、姫路城、松本城、犬山城と並ぶ国宝四城の一角。それで人気なのか、「ひこにゃん」人気もあってかは知らぬことなれど、天守への入場は30分待ち、という表示。銀輪の こほろぎわれは 松虫に あらねば待たじ 夏草の下 (偐家持) とて、城の内堀沿いをざっと走る。駐車場脇の広場に井伊大老銅像と花の生涯記念碑があった。(花の生涯記念碑)(花の生涯記念碑説明板日本語部分) <参考>井伊直弼・Wikipedia(井伊大老銅像)(同上)(銅像の説明板日本語部分)(井伊大老銅像副碑の歌碑)一身に 責負ひまして 立ちましし 大老ありてこそ 開港はなりぬ (井伊文子)(注)井伊文子氏(1917~2004)は、直弼の曾孫で彦根市長を務めた井伊直愛氏(1910~1993)の夫人である。(遠城謙道碑) 銅像の脇には、僧となって井伊直弼の墓守として生涯を送った彦根藩士遠城平右衛門こと遠城謙道の碑も。(同上) 彦根城内を半周して護国神社の前に来るとご覧のような様子にて、ちと入り難い。境内には井伊直弼の歌碑があるのだが、撮影は次の機会に譲ることとする。(滋賀県護国神社)(彦根城) ひとまず駅前に取って返す。(その1)で記したように駅前帰着が13時50分。サイクリング予定コースの下見は終了。後はヤカモチのフリータイム。 これより、彦根港に出て湖岸を北へ、米原市に入った処にある万葉歌碑へと参りますが、それは次回とします。(つづく)
2013.08.19
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<承前> 小野小町塚から1kmばかり南に行った処、名神高速道路彦根ICの近くにあるのが原八幡神社。(原八幡神社)(同上・拝殿) この神社の境内には、芭蕉の句碑がある。(芭蕉句碑) ご覧のように二つ並んでいますが、右が芭蕉の句碑で、ひるね塚。左が祇川居士という人の句碑で、白髪塚。 祇川居士については、蕉門四世(陸奥の人)とあるが、初めて聞く名前、如何なる御仁か存じ上げませぬ。 ひるがほに昼寐せうもの床の山 (芭蕉) 恥ながら残す白髪や秋の風 (祇川居士) 上の芭蕉の句は「東武吟行のころ、美濃路より李由が許へ文のをとづれに」という詞書きが添えられて居り、大津から岐阜に向かう途中、立ち寄らずに過ぎることを李由に言い送った句である。李由(りゆう)とは彦根の蕉門俳人で光明遍照寺十四世住職の亮隅のこと。「床の山にちなみ、そちらの昼顔をめでながら昼寝でもしたい処なんだが・・」というほどの挨拶の一句。 で、不肖、筆蕪蕉も一句。 昼顔に不精髭かな床の山 (筆蕪蕉)(注)この裏に蕉門十哲の一人、森川許六の句碑もあったが、写真が失敗。 本番のサイクリングの折に撮り直します。(鳥籠の山? 正法寺の山々。) ところで、床(とこ)の山については、既に7月29日の下見記事で説明済みですが話の展開上、再度取り上げることとします。 万葉集に2首「とこの山」が登場する歌がある。近江路(あふみぢ)の 鳥籠(とこ)の山なる 不知哉川(いさやがは) 日( け)のこの頃は 恋ひつつもあらむ (万葉集巻4-487)犬上の 鳥籠の山なる 不知哉川 いさとを聞こせ 我が名のらすな (万葉集巻11-2710) 古来から「鳥籠の山」は歌枕となって来たが、その所在については諸説あり、何処とも定まらない。 1.正法寺の山説 2.小野付近の山説 3.大堀山(鞍掛山)説 4.佐和山・里根山説 5.鍋尻山説 壬申の乱では、この付近に於いても戦闘が繰り広げられたようで、犬上川や鳥籠山の名が日本書紀に見える。<参考>日本書紀・天武天皇上、元年7月の条時に近江、山部王(やまべのおほきみ)、蘇賀臣果安(そがのおみはたやす)、巨勢臣比等(こせのおみひと)に命(おほ)せて、数万(よろづあまり)の衆(いくさ)を率て、不破を襲はむとして、犬上川(いぬかみのかは)の浜(ほとり)に軍(いくさだち)す。山部王、蘇賀臣果安、巨勢臣比等の為に殺されぬ。是の乱(みだれ)に由りて、軍(いくさ)進まず。乃ち蘇賀臣果安、犬上より返りて、頸(くび)を刺して死(みう)す。(7月2日)戊戌(つちのえいぬのひ)に、男依(をより)等、近江の将(いくさのきみ)秦友足(はだのともたり)を鳥籠山(とこのやま)に討ちて斬りつ。(7月9日)(日本一太鼓) ここには日本一大きな太鼓があるようです。 先の下見では、昼食の用意をせずに中山道に入ってしまい、コンビニ弁当で遅い昼食としましたが、今回は、昼食の店の無いことは折り込み済み。近江牛弁当を買い込んでやって来ました。で、この太鼓収納庫の陰でお弁当タイムとした次第。原八幡だけに腹八分目で。(同上) 芹川に出る手前に聖徳太子ゆかりという地蔵がありました。(矢除地蔵)(同上) ようやく芹川に到着。 上の万葉歌の「不知哉川」も諸説あるのだが、この芹川だという説もある。他には、犬上川説や矢倉川説、矢倉川の支流である小野川説などがある。(芹川・大堀橋上から上流を見る。)(同上・大堀橋上から下流を見る。) 芹川に架かる橋が大堀橋。橋を渡って振り返ると鳥籠山の有力候補の一つ、大堀山がよく見える。(大堀山<鞍掛山>、手前が大堀橋) (床の山の碑) ここにも芭蕉の句が刻まれていました。 余りに暑いので、橋の前にあったコンビニで「ガリガリくん」を買って、それを齧りながら走りました。(芹川・西沼波橋付近)(西沼波橋上から白鷺を撮る。)(同上) 芹川沿いの道を池州橋まで走り、彦根城へと向かいます。 が、本日はここまで。続きは次回とします。(つづく)
2013.08.18
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<承前> 中山道を南下します。 中山道というのは、江戸を中心として整備された五街道(東海道、日光街道、奥州街道、中山道、甲州街道)の一つで、木曾街道とか木曽路などと異称される他、中仙道と表記されたりもする道であるが、ヤカモチ的には東山道と呼ぶ方がしっくり来ると言うべきか。それを言うなら、「宿場」もヤカモチ的には「うまや(駅)」なのであるが。 東山道とは京都や奈良を中心とした律令制に基づく行政区画・五畿七道の一つ。七道とは、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道である。東山道に区分される国は、近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、出羽、陸奥など。道としての東山道はこれら東山道諸国の国府と京とを結ぶ幹線道路の呼称である。 江戸時代になって、東山道は中山道、日光街道、奥州街道に再編されたのである。 芹川に出会うまで、この中山道をひたすら南下する。(中山道を南へ) 古い道標があった。 「右 彦根道、左 中山道 京いせ道」とある。「文政十亥秋建立」と刻されている。文政10年(1827年)、江戸時代末期に建てられた道標である。ここで右に分岐する道は彦根城下へとつながる彦根道であるが将軍専用の道で大名の参勤交代に使用することは許されていなかった。将軍以外では朝鮮通信使のみがその使用を許されていたということから、朝鮮人街道とも呼ばれた。(道標)(中山道と彦根道<通称、朝鮮人街道>との分岐) こちらは中山道。(同上説明板)(彦根道・朝鮮人街道) こちらは彦根道。 大伴家持の最晩年は陸奥按察使鎮守将軍兼持節征討将軍であり、その後に設けられた征夷大将軍の前身のような身分であったが、銀輪ヤカモチは将軍でも朝鮮通信使でもなければ、彦根道はご遠慮申し上げて、中山道を南進である。(木楽亭) 話は前後するが、彦根道分岐の少し手前に「木楽亭」なる工房がありました。木の枝と布切れを組み合わせたランプシェードでしょうか、素朴なアート作品が飾られていました。 やがて町並が途切れて、水田の広がる道に出る。 右に東海道新幹線、左に名神高速道が迫る、されど長閑な道。 「古宿」という地名であるから、鳥居本宿が出来る前の小野宿のあった地区なのか、もっと古く、小野宿が出来る前の旧の宿場のあった地区なのか。 何れにせよ、鳥居本地区から小野町の地区に入ったようである。 古宿や 銀輪家持 はしる音 (筆蕪蕉)(小野町古宿) 程なく小野町の集落に入る。 そこで面白いものを発見した。 昔ながらの便所である。水路の上に便所が設けられている。天然の水洗便所であるか。便所は「かわや」と言うが、まさにこれは「川屋」である。現役なのかどうかは分からないが、現役のものもあるのかも。当初は便所とは気付かなかったが、それと気付いたので、向かい側の地蔵堂の清掃をなさっている男性に、「これは便所ですか。誰でも使えるのですか?」とお尋ねすると、それは個人所有のもので、他人が使っていいものではない、とのこと。(昔ながらの便所)(同上) 小野町の集落を出た処に八幡神社があった。神社の参道を東海道新幹線が横切っている。群馬県高崎の山名八幡宮では上信電鉄の線路が参道を横切っているのを見ました。奈良薬師寺の隣にある八幡神社では近鉄線が参道を横切っています。そして、ブロ友の英坊3氏がご紹介されていたのでは、高岡にも城端線が参道を横切っている神社があるようです。ここのは新幹線が横切っているのだから半端ではない。(小野町の八幡神社)(同上)(同上・参道を横切る東海道新幹線) そして、次は小町塚。まあ、小野という「地名から或る程度は予測していましたが、その予測通りに、小町様のご登場でありました。(小町塚と小野小町地蔵)(小町塚)(歌碑?)(小野小町地蔵) お堂の中を覗くと殆ど摩耗して何とも判別しかねる石仏が。阿弥陀如来像らしいが、小野小町地蔵と呼ばれている。 中山道を行き交う旅人に触られているうちに摩滅してしまったのだろう。摺針峠(磨針峠)に置いてもみたい。鼻も目も すりへりにけりな だれかれの ふれるがままに わが身せしまに (磨減小町) (元歌) 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに (小野小町 古今集113 小倉百人一首9) この石仏は15世紀後半頃の造仏とされているから、奥の細道の旅で、多賀大社へ詣でた芭蕉と曽良もこの前を通っていることになる。ご両人も小町地蔵を撫でて行っただろうか。(小町前茶屋跡) 未だ芹川には着きませんな。今暫く中山道を南下しますが、本日はここまでとします。この後、原町八幡神社に立ち寄り芭蕉句碑など見て行きますが、それは明日とします。(つづく)
2013.08.17
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<承前> 佐和山トンネルを出ると道は長い下り坂。やがて歩道が無くなり、車道を走ることとなる。東海道新幹線を潜り、最初の信号で右に入ると中山道。鳥居本宿である。 先ず、北に向かう。 鳥居本宿は番場宿(米原市)と高宮宿との間に位置し、北国街道との分岐点となる交通の要衝である。 鳥居本宿の名物は、赤玉神教丸、合羽、西瓜で「鳥居本宿の三赤」と呼ばれていた。今は合羽も製造されなくなり、鳥居本西瓜も皮が厚いことが不評で姿を消し、胃腸薬の赤玉神教丸のみが健在。(中山道・北方向) 先ず目に入ったのは合羽の看板。 街道筋には10軒もの合羽屋があったとか。 鳥居本の合羽製造は、享保5年(1720年)の番場弥五郎の創業に始まるという。柿渋を用い保湿性と防水性に富んだ鳥居本合羽は人気で、旅人はこぞってこの合羽を買い求めたという。 写真の看板は黄色だが、鳥居本合羽は柿渋を塗る際にベンガラを入れたので赤い色をしていた。(合羽所)(鳥居本宿・脇本陣跡)(同上) 鳥居本宿が置かれたのは、慶長8年(1603年)のこと。江戸からやって来た奉行の嶋角左衛門の命で、小野宿をこの地に移したことによる。 小野で本陣を勤めていた寺村庄兵衛が鳥居本宿の本陣を務めた。(本陣跡) 本陣跡の建物はヴォーリス設計によるもの。それ自体も近代化遺産として高く評価されている。(合羽所・木綿屋) 本陣跡の向かいも合羽屋さん。こちらの看板は軒下に吊り下げられているが、本来は屋根の上に掲げるのが正しい。(同上)(同上)(旧鳥集会所・湖東焼自然斎住居跡) 此処は湖東焼の自然斎の住居跡。 湖東焼は、彦根藩の保護の下で生まれた焼物。幕末期の安政3年(1856年)には、原村の右平次、高宮村の善次郎らと鳥居本村の米屋・治平(自然斎と号した)が株仲間を結成して、湖東焼の土産物販売を積極的に展開している。(デイサービスセンター「鈴の音」) 中山道となるとデイサービスセンターもこのような建物となる。鈴の音に 聞かばや風の 夕まぐれ わがまつ虫の 秋はいづちと (偐家持) (赤玉神教丸有川家) 「鳥居本宿三赤」のうち、唯一今も健在という赤玉神教丸であるが、その有川家建物も亦このように今も健在なるはご同慶にて候。(同上)(同上)(同上・明治天皇鳥居本御小休所碑)(中山道・矢倉付近)(同上)(矢倉川 右は国道8号線) <参考>矢倉川 矢倉川を渡り国道8号線を北に少し行くと摺針峠への登り口。今回は峠まで向かう。(摺針峠への鳥居本側登り口) 峠は思ったより近い。 摺針峠の名の由来となった伝説があります。 「道はなほ学ぶることの難(かた)からむ斧を針とせし人もこそあれ」 その昔、また諸国を修行して歩いていた青年僧が、挫折しそうになっ て、この峠にさしかかったとき、白髪の老婆が石で斧を磨ぐのに出会 います。 聞くと、一本きりの大切な針を折ってしまったので、斧をこうして磨い て針にするといいます。そのとき、ハッと悟った青年僧は、自分の修 行の未熟さを恥じ、修行に励み、後に、弘法大師になったと伝えられ ています。 その後、再びこの峠を訪れた大師は、摺針明神宮に栃餅を供え、杉 の若木を植え、この一首を詠んだと伝えます。 この後、峠は「摺針峠(磨針峠)」と呼ばれるようになりました。 (彦根観光協会「観光情報」中山道擂針峠より転載)(摺針峠・鳥居本方向)(同上・番場方向)(神明宮)(望湖堂跡・明治天皇磨針峠御小休所碑)(望湖堂跡碑) 江戸時代には望湖堂という大きな茶屋があり、平成3年(1991年)まで保存されていたが火災で焼失したとのこと。 現在の建物は焼失後に建設されたもので、望湖堂を復元したものではないというのが残念。(旧の峠道) 旧の峠道は上のような道にて、荒れ放題。とても登る気にはならぬ。 実際のサイクリングでは摺針峠には参りませんので、これは道草。往復のロスタイムは僅か21分。 「摺針峠の山の宿場で番場というところがござんす。」番場の忠太郎に因んで、瞼の母の歌を下にリンクして置きます(笑)。 <参考> 番場の忠太郎 島津亜矢 瞼の母 中村美津子 では、今日は此処まで。つづきは明日です。(つづく)
2013.08.16
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本日は彦根銀輪散歩。 先月28日に続き2回目の下見に行って参りました。 今回は、9月の若草読書会サイクリングの変更後のコースを回って参りました。 10:37彦根駅前出発。 (佐和山公園内トイレ有り) 10:45龍潭寺・井伊神社(10分滞在)。 11:07佐和山トンネル。 11:14鳥居本宿・中山道。 11:20矢倉川・摺針峠入口 (11:33摺針峠 11:41矢倉川に戻る・ロスタイム21分) <摺針峠は当日はカット。> 12:10原八幡神社(芭蕉句碑)(20分滞在・お弁当タイム) (神社内・原町会館にトイレ有り) 12:38芹川・大堀橋 (大堀橋畔・旭森公園内にトイレ有り) 13:10芹川・池州橋 13:15彦根キャッスルロード入口 (キャッスルロード入口駐車場にトイレ有り) 13:23彦根城京橋口(城内半周) 13:43護国神社前 13:50彦根駅前 3時間13分で回れました。当日は行かない摺針峠立ち寄り分のロスタイム21分と滞在時間30分を差し引くと実質2時間22分です。 4時間10分がサイクリング予定時間ですから、1時間48分の余裕があります。途中での立ち寄り時間やトイレ休憩・写真撮影の時間をこの範囲で取ることになりますが、これなら楽々でしょう。 以上、当日、サイクリングに参加される皆さまに向けの情報提供でありました(笑)。 では、これより駅前を出発です。 なお、以下の写真は、7月28日に撮影したものと本日8月15日に撮影したものとが混在して居ります。(JR彦根駅前)(地下道入り口) ちょっと分かり難い地下道入り口。先月の下見では気付かず通り過ぎてしまいましたが、ここを潜ってJR線の東側に出ます。(佐和山公園への近道) これも分かり難いのですが、佐和山公園、龍潭寺への近道がJR線に沿ってあります。(佐和山公園・佐和山城跡) ほどなく佐和山公園に出ます。佐和山を見上げると大きな「佐和山城跡」の看板。これはJR線乗客に向けて設置されているのでしょう。 先月の下見では看板の下に見える道を走ったのですが、その折に見掛けた石田三成屋敷跡碑は写真の右手の方にあります。(佐和山会館) 佐和山会館の前には陶板で復元された佐和山城天守閣が置かれています。佐和山会館から先は広い道。直ぐに井伊家菩提寺の清涼寺。(清涼寺)(同上) 清涼寺の続きにあるのが龍潭寺。井伊家は井伊谷(現、浜松市引佐町)の出自。井伊谷にある龍潭寺を招聘して建立されたのが彦根の龍潭寺で、井伊家はこれを厚く保護した。(龍潭寺) 龍潭寺の境内奥に佐和山への登山口がある。佐和山は清涼寺と龍潭寺が所有する山とのこと。 佐和山城は関ヶ原合戦の論功行賞として井伊直政に与えられた城であるが、それまでは石田三成の居城であった。直政は佐和山城に入城後間もなく病死してしまうが、直政死後に城は取り壊され彦根城が建設される。佐和山城の建物や石垣は、その多くが彦根城の建設に流用されたと言われている。(石田三成像) 龍潭寺境内には石田三成の像も設置されている。(龍潭寺山門)(同上)(大洞観音堂) 観音堂の右裏手から佐和山へと登る道がある。 佐和山山頂の様子は先月28日の下見の日記(7.29.)をご覧戴くこととし、北隣にある井伊神社を訪ねることとする。(井伊神社)(同上) 本殿は板囲いがされていて施錠されている。彦根市の重要文化財に指定され、修復保存工事がなされるよう。間近に見ると塗料が剥げ落ちてかなり傷んでいる。修復工事中は神様もお引っ越し戴かねばならないとあって、本殿脇に、小さな新本殿と言うか仮本殿が設置されている。既にご遷坐遊ばされたようにて、参拝はそちらでと案内板には記されている。(同上)(同上・新本殿)(同上) 井伊神社にお別れし、来た道を引き返す。近道の入口まで戻り、左(東)に行くと国道8号線にぶつかる。 そこに佐和山美術館という、ものものしい建物がある。多くの石造などの仏像が林立し、異様な雰囲気であるが、「おとなふ人影」もなく閉館したのか営業しているのかも定かではなく、門前雀羅である。(佐和山美術館) 美術館前から国道を渡って向かいの歩道に移らなくてはならないのだが、車の途切れるのを待って、横断するという、コース最大の難所(笑)である。(佐和山歩道トンネル)(同上) 佐和山歩道トンネルを潜って中山道・鳥居本宿へと向かいますが、本日はここまで。続きは明日にします。(つづく)<関連記事>彦根小旅行銀輪散歩下見(その1)彦根小旅行銀輪散歩下見(その2)彦根小旅行銀輪散歩下見(その3)
2013.08.15
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第124回智麻呂絵画展 毎日暑い日が続いています。皆さまに於かれましては、お元気にお過ごしのこととお喜び申し上げます。 本日は、智麻呂さんからの暑中見舞いも兼ねての絵画展と致します。もっともはや立秋も過ぎたれば「残暑お見舞い」ということとなりますかな。絵を撮影したのは立秋になる前。ヤカモチ館長がモタモタしている間に、暦の方が秋になってしまい、お盆に突入してしまいました。 もう少し絵画点数がたまってからの開催を、と考えていましたが、お盆を過ぎてからの暑中見舞いでは、「夏炉冬扇」とまでは参らぬものの、些か時期外れ、「ときじく」の感も否めませんので、急遽開催であります。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~(暑中見舞い 1) 残暑お見舞い申し上げます 日頃より智麻呂絵画展をご覧下さり有難うございます。 立秋も過ぎお盆を迎えますが、暑い日が続いて居りますれば、 ご自愛専一。どうぞ、皆さま、お元気にお過ごし下さいませ。 智麻呂 恒郎女(暑中見舞い 2)(暑中見舞い 3) 夏はやはり西瓜ですね。 シンプルな絵。涼しさも感じさせます。 どうぞ、そのままガブリとお召し上がり下さいませ。(西瓜)(ミンミンゼミとアブラゼミ) 朝には喧しく鳴いていたクマゼミの声も聞かなくなりました。 先日(11日)夕刻の墓参の折にはアブラゼミの声に交じってツクツクボウシが鳴いていました。 ツクツクボウシが其処此処で鳴き始めると夏も終る・・というのがヤカモチの季節感でありますが、今年の夏はツクツクボウシの声くらいでは立ち去ってくれそうにもありませんですかね。(千鳥屋さんのミニ保冷バッグ) これは和菓子屋さんの商品がセットで入っていたミニ保冷バッグ。ヤカモチが手土産代わりに智麻呂邸にお持ちしたものであります。 以前に朝顔の花をあしらった同様のバッグのものをお持ちしたことがありましたが、お孫さんのナナちゃんのお弁当入れに丁度良いとて、ナナちゃんが持ち帰られたとのことなので、そのことなどを思い出して、店頭で見掛け買い求めたのでありました(笑)。(アンデスのトマト) 今回は絵が6点と少ないので、智麻呂氏が週1回通って居られるデイサービス施設の「アンデスのトマト」をご紹介して置きます。 この施設はヤカモチの自宅から智麻呂邸に行く道すがらにありますので、智麻呂邸訪問の際には殆ど毎回、この建物の前を自転車で走り抜けています。 もう一つ、これも週1回通って居られる施設「福寿苑」というのがありますが、これは以前にその建物写真を掲載して居りますので、今回は省略です。 どちらの施設の方も智麻呂氏の絵にはご理解とご支援をして下さっていて、とても有難く思って居ります。 <参考>福寿苑の写真はコチラのページに掲載されています。 「桜めぐり」 2013.3.30.
2013.08.13
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本日は墓参。 パソコンのキーボードのいくつかのキー(uiojklmなど)が故障して、正しい文字が表示されません。 (注) ということでブログの休止を宣言しましたが、本日の分は取り敢えず掲載します。 キーボードを叩く方法では文章が書けませんので、裏ワザと言うか迂回路を使ってのアップです。これは面倒な作業となりますので、いつもこんな風にしてという訳には参りませんが、ちょっと思い付いたので試しに記事をアップしてみようという次第(笑)。 そんな訳でさしたる記事ネタもないのでありますが、お盆を控えて墓掃除も兼ねての今月二度目の墓参をして参りましたので、そのことでも書いてみることとします。 墓参の時には、必ずその前を通る、道すがらのいつものお寺の門前の今日の言葉です。(今日の言葉) 「一番あてにならぬのはわが心です。」 ごもっともです。 これの出典は「7月・今月の言葉-真宗大谷派大阪教区・銀杏通信」のようです。 墓に花と線香を手向けて立ち去ろうとしたら足元から何かが飛び去った。その方の草群を覗くとバッタでありました。大型のショウリョウバッタ(精霊飛蝗)。お盆、お墓には似合いの名前を持つバッタであるのも何やら面白い。 (ショウリョウバッタ)盂蘭盆へ 墓前の三日月 やや西に 向けて飛び出す 精霊飛蝗 (蝗家持)(注) 上の故障と思われた現象は、キーボード最上部列にある「NumLK」というキーを知らぬ間に押していて、ロックがかかった状態になっていたことによるもので、故障ではなかったことが分かりました。再度ナンバーロックキーを押してこれを解除すると正常に復しました。 これは、本日(12日)パソコンに貼り付けられているラベルに表示の故障修理受付センターに電話して教えて戴いて分かったことでありました。 キーボードにたまった埃をブラシで掃除した時に、当該キーに圧力がかかりロックされた状態に知らぬ間になっていたようです。 このようなキーは使ったこともなく、その機能についての知識もなかったので、故障と早合点してしまったのでありました。同趣旨の問い合わせがよくあるとセンター係員の方が仰っていましたから、小生同様にこのキーのことを知らない方が多いのでしょう。一番あてにならぬのは、わがパソコンの知識です。(8月12日午前9時57分追記)
2013.08.11
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本日は大学同窓会囲碁サークルの囲碁大会。 会場はマイドームおおさか8階サロン。午後1時集合。 会場には小生が一番乗りであったようで、未だ誰の姿も見えず。 ご覧のように碁盤と碁笥が並んでいるだけ。程なくお世話役をして下さっている山◎氏がお見えになりました。小生は前年度優勝であったので、持ち回りの優勝カップを返還。(囲碁大会の会場) 会場は8階にあるサロンであるが、テラスには庭園になっていて植え込みもあるので、下の写真の通りビルの8階にいるとは思えない風景である。(会場から外を眺めると) 部屋には、宮本順三氏の楽しい絵画が飾られている。(宮本順三氏の絵画)(会場のマイドームおおさかの8階サロンには宮本順三氏の絵画が・・)(「ネパールの踊」)(「マオリ族の踊」) この部屋で囲碁大会をするのは3回目であるから、宮本氏の「踊り」の絵は、これまでにも見ているのであるが、碁が始まってしまうと、「絵」どころではないので、これまでじっくり眺めることもありませんでした。今回は随分早くに来たものだから、眺める余裕があったという次第(笑)。宮本氏はグリコの「おまけ」をデザインされていた方であったことも初めて知りました。 山◎氏とお話しながら、トーナメント表の貼り出しなどの準備のお手伝いをしていると、参加者の皆さんが順次お見えになりました。総勢24名中16名が参加。山◎氏のほか、田◎、三◎、神◎、中◎、岩◎、新◎、五◎、若◎、金◎、藤◎、安◎、望◎、廣◎、藤□の各氏と小生の16名である。 抽選の結果、トーナメントの対戦相手が決定。小生は1回戦は安◎氏との対戦となったが、これに勝ち、2回戦では三◎氏にも勝ち、準決勝に進出しましたが、ここで田◎氏に敗れ、3・4位決定戦へ。 3・4位決定戦は初顔合わせとなる若◎氏との対戦でしたが、10目余の大差で負け、結局4位。会社OB囲碁サークルの例会では11連敗中の身の小生にしては上出来の成績でした。 決勝戦は田◎氏と中◎氏の対戦となりましたが、小生は3・4位決定戦を戦っていて観戦できず。小生達が終る前に、決勝戦は終了したようで、優勝者は田◎氏となりました。(優勝者田◎氏<右>、左は贈呈者の廣◎氏) 対局終了後の表彰式と懇親会は例年通りマイドームおおさか1階のレストランにて。諸氏との楽しいひと時を過ごさせていただきました。 3・4位決定戦の相手の若◎氏は小生より10年先輩で、万葉歌碑を廻るなどのウォークの旅をされ、万葉にも興味をお持ちであることが分かる楽しい発見もありました。 同氏は、来週には諏訪湖一周のウォーク旅にお出掛けになるとか仰っていましたが、猛暑の中、お気をつけてお出掛けになられますよう、そしていい旅をお祈り申し上げます(笑)。<関連記事>青雲会・第9回囲碁大会 2012.8.11.第8回青雲会囲碁大会 2011.8.13.青雲会囲碁大会で優勝 2010.8.14.<追記 2013.8.13.> 上の優勝者の田◎氏の写真<原画サイズのもの。上はサイズ縮小しています。>をメール送信申し上げた処、同氏より対局中の様子を撮影した写真3枚がメールに添付されて返信されて参りました。 対局中の雰囲気がよく分かるいい写真なのですが、皆さまのお顔が鮮明に写っていますれば、インターネットに公開することを望まない方も居られるかと存じますので、その中の1枚をトリミングして、小生の後姿と対局者・安◎氏の胸元から下だけを残した写真に加工して、下に掲載して置きます。(対局風景・田◎氏撮影写真<部分>) 上の写真はトーナメント1回戦のヤカモチ(右・後姿)と安◎氏(左)と終盤の盤面の図であります。小生・白が上辺にハネたのに対して黒が下から受けた処です。上辺の黒模様をどう消すかが勝負の分かれ目でありましたが、これがそこそこ上手く行き、また、左辺の黒の弱点をついて左辺に白が勢力を伸ばすことが出来たことと右辺から下辺右にかけての白地が結構あったことで、勝たせて戴いた1戦でありました。 これを俳句で解説すれば下のような句になりますかな。 うしろすがたの 思案にくれて (偐海足水) (元句)うしろすがたのしぐれてゆくか (種田山頭火)
2013.08.10
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本日は囲碁例会の日。例によってMTBで梅田まで銀輪散歩。猛暑の中、汗だくの銀輪散歩でありました。 本日の出席者は青◎氏、竹◎氏、福◎氏、村◎氏、平◎氏と小生の6名。この処ずっと負けが続いている絶不調のヤカモチでありますが、今日も青◎氏に2敗、村◎氏に1敗で3戦全敗。ついに11連敗となりました。 こうなるともう不調などではなく実力がないということでありますな。最後の村◎氏との1局などは楽に勝てている展開にて漸く連敗を脱出できるかと思っていたのでありましたが、終盤に掛けて緩み過ぎたのか、〆て見ると1目半の負け。もう勝てる気がしなくなって来ましたですな(笑)。これで年初には214点あった持ち点も遂に198点と200点を割ってしまいました。 今日は立秋。秋は立ちぬれどヤカモチの碁は立つ瀬もなしであります。 囲碁会場に入る前に暫し「梅田の里山・花野」を散策。ハクサンボクの実が色付き始めていました。ツリバナの実は未だ青く、秋は暦の上だけのことのようにて、残暑はまだまだ夏だと言っているようであります。(ハクサンボクの実)(同上)里山の 白山木の 実の照りて はつかに赤し 秋立つらしも (偐家持)吊花の 実の赤々と 木(こ)の暗(くれ)に 色づく秋は いつとや待たむ (偐家持)(ツリバナ) 本日は、往路も復路も大阪城公園経由でしたが、さしたる写真もなければ、大阪城公園駅の写真でも掲載して置くこととします。 往路の大阪城公園で、大手門近くの茶店でソフトクリームを注文している自転車の男性が居られた。それに誘われて小生もソフトクリームを。男性はこれから天王寺まで行くという。何処から来られたのかとお聞きすると、京都の宇治からだと言う。年齢は70才。マラソンもされるらしい。100キロ・マラソンに挑戦していると仰るから、スゴイ。11年前に奥様を亡くされて、独り身。勝手気ままにお過ごしのよう。近くモロッコへ旅行する予定だとか。 知合いから貰ったのだと仰るクロスバイクはかなり使い込まれている自転車。ハンドルに保冷バッグが掛けられている。中に氷が入っているのだと仰る。先程コンビニで買ったのだとのこと。氷を買ったのか、氷も保冷バッグも共に買ったのかは定かではない。その時は両方を買ったのだと仰っているものとヤカモチは理解したのであるが、ひょっとすると氷を買ったのだと仰っていたのかも知れない(笑)。なるほどそういう手もあったか・・とヤカモチは思ったのでありました。(大阪城公園駅・大阪環状線) さて、話は前後しますが、先日(4日)、智麻呂邸を訪ねると先客で偐山頭火さんが来て居られました。 赤穂へ銀輪散歩兼温泉廻りの一泊旅行をされたようだが、その折のお土産ということで、素麺を頂戴いたしました(写真下)。 薬味の茗荷も添えられていました。と言っても、これは偐山頭火流の茗荷にて、茗荷の写真でありました(笑)。小生は智麻呂さんのように絵は画かないから、「画材」にせよ、との意図ではないでしょう。薬味の茗荷は自前で手配せよ、茗荷とはこのようなものであるから間違えるな、という意味であったのかも知れませんですな。 「食べる」ということに関しては全く無関心、腹が膨れれば何でもいい、というのがヤカモチの揺るがざるイメージになっているので、偐山頭火さんも、ヤカモチは「茗荷」のことも知らない可能性があると思われたのかも知れませんですな(笑)。ならば、先日の智麻呂絵画展で茗荷は既にヤカモチ学習済みであるということをお忘れであるということになります。きっと茗荷の喰い過ぎでありますな。 冗談はさて置き、遅ればせながら茲に素麺をアップして、偐山頭火さんへのお礼とさせて戴きます。何しろ、智麻呂さんのようには、ヤカモチは素麺の絵手紙は描けませんので・・。(素麺・揖保の糸)(茗荷・偐山頭火氏撮影)<追記> 本日より、コメント画像認証を使用することとしました。 本日8件もの宣伝目的と見られるスパムコメントが入って居りました。 これまでは多くても2件か3件、それもたまに記入される程度でありましたので、その都度削除して居りましたが、8件も一度に入ると削除も面倒な作業になります。 よって、画像認証を使用させて戴くこととしたものであります。 コメントされる方に於かれましては、ご面倒ですが、コメント記入ページに表示される数字を所定欄に半角でご記入の上、コメントをお書き下さい。
2013.08.07
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本日はSS会の日。 SS会というのは当ブログで便宜的に付けた名前であるが、小生が勤めていた会社と同じ資本系列の企業4社の総務・法務・広報などの業務を担当していた仕事仲間の有志OBの会である。 年に2回集って旧交を温めている。直近では今年の1月25日に集っているが、それ以来の集りである。まだ、現役の方も居られるのだが、多くはサンデー毎日の身分。それぞれに自分スタイルの人生を楽しんで居られる。 若い頃から仕事を共にしてきた仲間でもあれば、気ごころの知れた者同志。何とてもなけれど、共に飲み、共に喰い、語らえば自ずからに楽しく、愉快。心地良い時間となるのであります。 今回の出席者は福◎氏、福□氏、山◎氏、川◎氏、古◎氏、松◎氏、石◎氏、早◎氏、辻◎氏、草麻呂氏と小生の11名。 会場は大阪駅前第一ビル内にある「老房(ラオファン)」というお店。(老房) 会場の手配やメンバーへの連絡などは福◎氏がやって下さっている。この方は、小生の上司でもあった方であり、小生よりは少し年長。月2回の梅田での囲碁の会でもご一緒させて戴いているのであるが、同氏は絵もお描きになる。 ということで、同氏の絵を2点ばかりご紹介申し上げることとします。本日の会合で、同氏よりブログに掲載してもよいとのご承諾を得ましたので、掲載するのでありますが、絵は今年の5月に開催された会社OB会の展覧会に出展されたもので、その際に会場にて小生が撮影したものであります。 同氏はこの処、ずっと猿を描いて居られる。動物園に出掛けて行き写生されるようだ。(猿1)(猿2) 出展作品のタイトル一覧表が手元にあったのだが、何処に紛れ込んだか見当たらない。「猿1」「猿2」は偐家持の付けた当ブログ上での仮のタイトルであり、本来のタイトルではありませんので悪しからず。<追記>タイトル一覧表が出て参りました。「猿1」が「至福の時」、「猿2」が「一休み」というタイトルのようです。
2013.08.05
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本日は墓参。クマゼミのせわしなく鳴く中を生駒山麓の高みにある先祖代々墓に参ってまいりました。先祖代々墓と言っても小生の曽祖父が建てたものにてあれば、そんなに古いものではありませぬ。 大伴家持の曽祖父は大伴長徳。別名、大伴馬飼(馬養)とも言う。大化5年(649年)には右大臣になっている。長徳の弟の馬来田や吹負は壬申の乱で活躍するが、長徳は651年に亡くなって居り、壬申の乱の当時は息子の安麻呂(家持の祖父)の時代。家持は718年生まれであるから、曽祖父は勿論、祖父の安麻呂(714年没)の顔も知らない。そもそも家持は父旅人が54才の時の子供であるから、仕方がない。 偐家持の曽祖父は梅吉。偐家持が生まれる前に既に故人であった。曽祖母はノブ。彼女は偐家持が3~4才の頃まで存命であったのでぼんやりと記憶にある。(カンナ) 墓への道の辺にカンナが咲いていました。 小生が子供の頃、裏庭の片隅にカンナが咲いていたのを記憶している。 それででもあるか、小生にとって夏の花と言えばカンナである。 墓は山麓の高みにあるので、大阪平野が一望である。 日本一高いビル、アベノ・ハルカスが見えている。 下の写真では分かり難いかも知れませんが、左寄り遠くに、ひと際高いビルが写っている。それがハルカスである。今日は空気が澄んでいるのかよく見通せる。 大阪城も見える。下の写真では、中央やや右寄り奥にOBPのビルに囲まれるようにして大阪城が写っています。まあ、クリックして、フォト蔵写真の拡大版(元画像)で見ないとそれとは分りませんが(笑)。(墓所から大阪市街遠望) アベノ・ハルカスの直ぐ近くに四天王寺がある。わが家の墓所から南へ数百メートル行った処にある往生院からは、古来、春分・秋分の日には太陽が四天王寺の五重塔の上に沈むのが見えるとされている。 おそらく我が家の墓から見てもそのように見えるのだろうと思うが、まだ確かめたことがない。高いビルが建ち四天王寺の五重塔そのものが、よくは見えなくなっているが、ハルカスが出来たので、その場所がひと目で見てとれるようになった。 今度秋分の日に、ハルカスに沈む夕日でも写真に撮ってみることとしましょうかね。
2013.08.03
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友あり、紫陽花・タオル・旅便り来たる。何のこっちゃ、ですね。 本日は、友人3人から寄せられたもののご紹介であります。 先ず最初は紫陽花の写真。 これは、ちょっと古い話となりますが、5月末の大学同期の集りを「同期の紫陽花」と洒落てみたこともあってか、その中の一人である、前◎君が小生宛のメールに添付してくれた紫陽花の写真です。(湯布院のヤマアジサイ 友人・前◎氏の撮影による。) なかなか素敵な写真であったので、ブログに取り上げようと思いつつ、徒過して今日まで来てしまいました。遅ればせながら、友ありアジサイの花来たる、また楽しからずや、でありました。 次はタオルであります。 先日の秋田県は象潟の銀輪散歩では、タオルを失くしたことを書きましたが、そのタオルがやって来たのでありました。(河内温泉大学のタオル) タオル紛失の経緯は「象潟銀輪散歩(その7) 2013.7.25.」を、河内温泉大学が何であるか、失くしたタオルはどんなタオルかについては「河内温泉大学 2012.8.27.」を、ご参照戴くとして、そのタオルが再びヤカモチのもとにやって来たのであります。 同大学の学長だか、名誉教授だかは存じ上げませぬが、わが友人でもある酒呑みの偐山頭火氏は、今年も新しいタオルをお作りになったようで、先のブログ記事で小生が河内温泉大学タオルを失くしたことをお知りになり、ならばと、焼酎と交換して下さいました(笑)。いや、違いました。焼酎とは関係なく、タオルを下さったという次第。 友あり、紛失タオル帰り来たる、また楽しからずや、であります。 そして、最後は旅便り。居ながらに北海道旅行をさせて戴いたようなものにて、これまた、楽しからずや、であります。 旅の写真を送って下さったのは岬麻呂氏。 では、その写真を以下にご紹介して、皆さまにも北海道気分を味わって戴くことと致しましょう。礼文島(レブンウスユキソウ)(同上)(猫岩) 猫岩は岬の先にあるこの岩です ▲(地蔵岩) ▲地蔵岩はこの岩です。稚内(北防波堤と稚内全日空ホテル)(北防波堤ドーム)(納沙布岬灯台)美瑛(四季の丘)(同上)(新栄の丘、背後は大雪山旭岳)富良野(風のガーデン)
2013.08.02
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偐万葉・英坊篇(その22) 8月最初の記事は偐万葉シリーズ第178弾、偐万葉・英坊篇(その22)と致します。 <参考> 過去の偐万葉・英坊篇はコチラからどうぞ。 偐家持が英麻呂に贈りて詠める歌16首併せ俳句6句 並びに英麻呂が詠める歌10首併せ俳句5句 英麻呂が贈り来れる歌2首並びに偐家持が追和せる歌2首歌らしき 歌のつもりで したり顔 だが知る歌の 語彙のふかさよ (英麻呂)歌を詠み 悦に入る顔 したりがお 恥ずかしうれし 鏡に映し (厚顔爺麻呂)わが作る 歌のこころを ひととはば ひごとよごとの ひがごとねごとうたかたの うたにしあれり したりがほ などてかがみに うつさうべしや 英麻呂が贈り来れる句に偐家持が付けたる脇句尻無の 水のとどめは 溜池か まだ見ずあれば 知りもせぬ我 (注)尻無は尻無川のこと。「見ず」は「水」、「知り」は「尻」。 英麻呂が贈り来れる歌1首並びに偐家持が追和せる歌1首銀輪で 八百八橋 渡るのは やっぱし足が 疲れるのだ (野田藤麻呂) (注)やっぱし=八橋偐万葉 嘘は八百 やばしとも 思へど懲りず これでいい野田 (バカボン) (注)やばし=八橋星の降る 音も聞かばや 五箇山の 寒夜の囲炉裏 ひとりしあればなめり川 行田(ぎやうでん)の道 とほければ まだ行きもみず あやめ花かも (小菖蒲内侍(こしょうぶのないし))なめり川 上小泉の 道遠み まだのみもみず 行田(ぎやうでん)の水 (小泉式部(こいづみしきぶ)) (本歌)大江山 いく野の道の とほければ まだふみもみず 天の橋立 (小式部内侍(こしきぶのないし) 金葉集586 小倉百人一首60) 行田や 雨に西施が あやめ花 (筆蕪蕉) (元句)象潟や 雨に西施が ねぶの花 (芭蕉) 英麻呂が贈り来れる歌1首並びに偐家持が返せる歌1首年金の くすねの金で 寄り集い 共に苦楽を 語りて遊ぶ (英麻呂)昨日(きそ)までは ホモ・ラボーレム なりしかど 目覚めて今は ホモ・ルーデンス (ホモ・デタラメンシス・偐家持) (注)ラボーレム=laborem(労働) Homo laborem(働く人) ルーデンス=ludens(遊び) Homo ludens(遊ぶ人) 英麻呂が贈り来れる歌1首並びに偐家持が返せる歌1首小阪町 熱き焼き品 香ばしく 味とデカさで 勝負のゆり家 (英麻呂)ゆり家よし お好み焼きも 司馬遼の 町にしあれば 酒の上の事 (小阪郎女) (注)東大阪市小阪は司馬遼太郎氏邸のあった地。 「酒の上の事」は「坂の上の雲」を意識した言葉 「ゆり家」は東大阪市の近鉄小阪駅前にあるお好み焼き屋。 英麻呂が贈り来れる歌1首並びに偐家持が返せる歌1首熟れし茱萸(ぐみ) ここぞとばかり 頬ばるも 渋き甘さで 口も戸惑い (渋爺麻呂)ぐみの実は 喰(く)はず置くべし 遠き日の 甘くもかなしき 味にしあればあした咲き ゆふべは消(け)ぬる つき草の 露の命の 惜しくもあるか (本歌)朝(あした)咲き 夕(ゆふべ)は消(け)ぬる 鴨頭草(つきくさ)の 消(け)ぬべき恋も われはするかも (万葉集巻10-2291) 英麻呂が贈り来れる上3句に偐家持が付けたる下2句 ランタナの 咲く里山は 勝負師の (英麻呂) 頭冷やせと さや風吹き来(く) (偐家持) 英麻呂が贈り来れる歌1首並びに偐家持が返せる歌1首陽が暮れた 柘榴とろうと 狙いしも まだ熟れもなし タヌキの気落ち熟れもせぬ 柘榴にあれば とれもせで とらぬたぬきの なにとや言はむ (狸家持)越人(こしびと)が 木屑(こづみ)集めて なす鳥の 鳴かざる声を 聞く人もがも (本歌)宇治人の 譬(たとへ)の網代(あじろ) 吾(われ)ならば 今は依らまし 木屑(こづみ)来ずとも (万葉集巻7-1137) 英麻呂が贈り来れる句に偐家持が付けたる脇句 花のいろ 時ごとにかはる 酔芙蓉 (偽英芭蕉) 酔生夢死の われにしあるか (筆蕪蕉) (元句) 枝ぶりの 日ごとにかはる 芙蓉かな (芭蕉) 英麻呂が贈り来れる句に偐家持が付けたる脇句 象潟や キーを失せずに よ潟ったね (英芭蕉) 錠(情)に棹さし 流されもせじ (筆蕪蕉) 英麻呂が贈り来れる歌1首並びに偐家持が返せる歌1首船橋に ママチャリ乗って 行ったんだ くち出る言葉 グット封印行きずりの 人の話も 聞かばやと 思へど難(かた)し 炎天の下(もと) 筆蕪蕉こと偐家持の句に英蕪蕉こと英麻呂が追和せる句 落陽や ひとり西施が ねむの丘 (筆蕪蕉) 陽が昇る ひとり家持 ねむの中 (英蕪蕉) 英麻呂が贈り来れる歌1首並びに偐家持が返せる歌1首この浦に かっては金が 採れたから この名が付いた のではないかなこのうらの エホバのをとめ 名のいはれ 語らずあれり 道は示せど (注)この浦、このうら=金浦。秋田県にかほ市金浦のこと。 英麻呂が贈り来れる歌1首並びに偐家持が返せる歌2首百日紅 満開花で 幹見えず 猿は滑れず 名前返上佐和山に 猿は出づるも 彦根道 ひこにゃんさこにゃん 猫ばかりなり (偐猫丸大夫)犬噛みの 川の辺の道 百日紅 花咲き過ぎて われさは山へ (偐猿丸大夫)(注)掲載の写真は英坊3氏のブログからの転載です。
2013.08.01
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