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本日(30日)は銀輪散歩のついでに智麻呂邸を訪問し、新作絵画を仕入れて参りましたが、もう少し点数が増えてから、絵画展開催と致しますので、もう暫くお待ち下さい。(智麻呂邸では偐山頭火氏も先客で来られていました。) 銀輪散歩はこの処、近隣を走っているばかりで、さしたる記事ネタもありませんので、本日の記事は「言葉遊び」といたします。 先人の名言をネタにした「名言篇」とNHK大河ドラマ「八重の桜」をネタにした「八重の桜」篇を、お楽しみ下さいませ。 名言篇ーシェークスピアとカエサルとゲーテ◎シェークスピア生きるか死ぬかそれが問題だ。 (「ハムレット」)To be, or not to be, that is the question.炒るか煮るかソラマメが問題だ (「焼くレット」)To be, or not to be, that is the question.直訳:トンビおらのトンビ、どっちか区別つかん (「間抜ケット」)世の中には幸も不幸もない。ただ、考え方ひとつだ (「ハムレット」)There is nothing either good or bad but thinking makes it so.賽銭には硬貨も札もない。ただ、額は多いほうがいい。 (ハムレット神社社務所)愚者は己が賢いと考えるが、賢者は己が愚かなことを知っている (「お気に召すまま」)A fool thinks himself to be wise, but a wise man knows himself to be a fool. 馬鹿は己が馬鹿だとは考えないが、カバは己がカバであることを知っている。 (「お気に召さるな」)臆病者は死ぬまでに何度でも死ぬが、勇者が死を経験するのは一度きりである。 (「ジュリアス・シーザー」)Cowards die many times before their deaths; the valiant nevertaste of death but once. 威厳のない話し手は聴衆を黙らせるため何度も咳をするが、威厳のある話し手が咳をするのは1回きりである。(「黙らす・シーザー」)「今が最悪の状態」と言える間は、 まだ最悪の状態ではない (「リア王」)The worst is not, So long as we can say, 'This is the worst.'「これが最後の一杯」と言って呑む奴は、その後もまた「最後の一杯」を何回か呑む。 (「のんべんだらリア王」)神は、我々を人間にするために、何らかの欠点を与える。 (「アントニーとクレオパトラ」)You gods, will give us, some faults to make us men.駄目な教師は、生徒を指導するという名目の下に、何度も体罰を与える。 (「アントニー先生とグレ男パー徒ら」)楽しんでやる苦労は、苦痛を癒すものだ。 (「マクベス」)The labor we delight in cures pain.楽しんでやる碁でも、負けたら苦痛だ。 (「負けベス」)愚かな知恵者になるよりも、利口な馬鹿になりなさい。 (「十二夜」)Better a witty fool than a foolish wit.馬鹿な知恵者になるくらいなら、猪口で馬鹿酒を呑みなさい。 (「それで十分や」)◎カエサルルビコン川を渡れレンコンの皮も食べろ (タベタル)賽は投げられた野菜は値上げされた (スーパー・カエサル)(注)カエサル著「内乱記」には、ルビコン川の北の都市ラウェンナで軍 隊を前に行った演説の記述はあるが、「賽は投げられた(Jacta alea est)」という言葉の記述はない。スエトニウス著「皇帝伝」に は、演説はルビコン川の南の都市アリミヌムで行われたとして「さ あ、進もう。神々の示現と卑劣な政敵が呼んでいる方へ。賽は投 げられた。」とある。来た、見た、勝った(Veni, vidi, vici)来た、逃げろ、助かった (戦わないカエサル)こけた、打った、腫れた (転んだカエサル)踏まれた、痛っ、怒った (踏まれたカエサル)呑んだ、酔った、吐いた (下戸のカエサル)しまった、寝過ごした、遅刻した (タルンデル・カエサル)北、南だ、西だ (右往左往してるカエサル)切手、貼った、出した (ポスト・カエサル)貸した、返した、どっちだ (水掛け論のカエサル)(注)BC47年のゼラの戦いでカエサルが勝利をローマにいるガイウス ・マティウスに知らせた手紙の言葉とされる。◎ゲーテもっと光を!(Mehr Licht!)もっと怒りを (賃下ゲーテ&値上ゲーテ)もっとテカリを (禿ゲーテ)もっと毛蟹を (漁業エテ)もっとタカリを (ユスラレーテ)もっとニガリを (ゲーテ豆腐店)もっとハカリを (計測不得ー手)もっとポカリを (スエッテ)もっとユーカリを (コアラの嘆エテ)八重の桜篇八重の桜と八重のザクロ、 八重の桜と八重の枕、八重の桜と八重のイクラ、 八重の桜と八重のモグラ、八重の桜と八重のマグロ、八重の桜と桜の苗、 八重の桜と真っ暗の部屋、八重の桜と三重の桜、 八重の桜と野洲の桜、八重の桜と八尾の酒屋、 八重の桜と八女の茶、八重の桜と七尾の魚、八重の桜と八重洲の肉屋、 八重の桜と八重山のサンゴ、八重の桜と九重部屋の桜鍋、八重の桜と野菜のサラダ、 八重の桜と痩せの肋(あばら)、八重の桜と前の魚屋、 八重の桜とクエの刺身、八重の桜と針のムシロ、 八重の桜と自棄(やけ)の輩(やから)、八重の桜と止めろセクハラ、 八重の桜と痩せろ豚腹、八重の桜と当てろ宝、八重の桜とハエの企み、 八重の桜と耶蘇の祈り、八重の桜と野暮のドテラ、 八重の桜と宿の払い山椒も入れてくなんしょ~ (八重の七味)、舐めぬものは舐めぬものです (ハエの一味)、彼女はハンサム・ウーマンです。彼はハムサンド食う前です。(琵琶湖)
2013.01.30
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本日(29日)はヤカモチの誕生日。 大伴家持は養老2年(718年)生まれとされていますので、偐家持こと「けん家持」もそれに倣って居りますれば、本日を以って1295歳に相なりましてございます。 (養老元年生まれという説もありますので、それによれば1296歳と いうことになりますが、偐万葉田舎家持歌集は養老2年説に依って います。) 昨日(28日)は健人会の新年会でありました。 会場は大阪市北区の中之島フェスティバルプラザ2階の「中国料理大湖コントンポラン」という店。フェスティバルホールのある建物が高層ビルに建て替えられ、昨年の11月頃にフェスティバル・プラザとしてオープン致しましたが、その建物の2階にある中国料理の店である。 出席者は、杉◎氏、只麻呂氏、木◎氏、平◎氏、近◎氏、山◎氏、鯨麻呂氏、田◎氏、小◎氏、岡◎氏、徳◎氏、草麻呂氏、森◎氏、今◎氏、正◎氏、古◎氏、由◎氏、竹◎氏、川◎氏と小生の20名。今までで最多の参加者となり、盛会でありました。担当や部署は違えど、かつて同じ会社で一緒に仕事をした仲間であり、いつもながらの楽しく愉快なひと時となりました。 少し早く着き過ぎたので、土佐堀川に架かる錦橋を写真に撮ったりしてから会場へ。フェスティバルホールは未だ工事中でもあるのかオープンは先とのことであるが、エントランスはもうしっかり出来上がっていて、赤い絨毯の階段が豪華な雰囲気を醸している。 会場の店は2階、フェスティバルホールの入口と、広い吹き抜け空間を挟んで、向き合うようにしてある。このレストランの店長と正◎氏は懇意にされているらしく、店の予約などの段取りは正◎氏が手配下さったようだ。 店の前まで来たら、只麻呂氏とばったり。どうやら我々が一番乗りのよう。通された部屋で待つこととし、只麻呂氏と閑談していると、草麻呂氏が到着、その後、次々と参加者が集まり、定刻の5時半には全員が集合。 草麻呂氏の司会で会は始まり、先ず、只麻呂氏の開会の挨拶。その中で、「T.E.氏」が我々のこの会を「喧爺会」だろうと冷やかして居られた、というようなお話もありましたが、「喧」の方に反発を覚えるか「爺」の方に反発を覚えるかは、人それぞれに任せるとして、小生としては、まあ、当たっていなくもないかと、面々のご尊顔を拝しつつ、納得してもいたのでありました。 次に杉◎氏の発声で乾杯。後はもうグジャグジャ、好き勝手の吞み食い閑談となり、侃々顎々。T.E.氏評の通り、喧しいこと(笑)。瞬く間に時間は過ぎて、午後8時過ぎに、恒例により平◎氏の「一本締め」で散会となりました。(錦橋)※土佐堀川に架かる橋。肥後橋から撮影。(フェスティバルプラザ)※右がフェスティバルプラザの建物。左が朝日新聞社の建物(フェスティバルホール正面階段)※正面奥がホールのエントランス(中国料理大湖コントンポラン)※店の写真は少しピントが合っていませんでした。
2013.01.29
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偐万葉・ビッグジョン篇(その16) 本日は、偐万葉・ビッグジョン篇をお楽しみ戴きましょう。 <参考>過去の偐万葉・ビッグジョン篇はコチラからどうぞ。 ビッグジョン氏のブログはコチラからどうぞ。 偐家持が歩麻呂に贈りて詠める歌15首 併せ俳句1句替え歌1編 並びに歩麻呂が返せる歌2首併せ替え歌1編もみぢ葉の 秋山よしと 人は言へ 野辺の竜胆(りんだう) 背子愛(め)づらむか秋の野に 競(きほ)ひ咲きぬる りんだうの 花にもあらむ それぞれの日々 (リンドウ) (ヤブコウジ<山橘>)赤き実の 山橘の ふたつ添ひ 妹と迎へな あらたまの年弾けたる ツルウメモドキ トベラの実 まだ弾けざり ヤカモチモドキ (蔓家持) (ツルウメモドキ) (トベラ) お遍路に 接待せばや つはの花 (筆蕪蕉) (注)つは=ツワブキ(石蕗)のことかぼちゃ喰ひ 柚子湯つかひて いにしへゆ かくにあるらし 季節の底は (冬至家持) (柚子湯) (大根)もろ肌を 脱いでこちとらぁ 清白(すずしろ)と 切ってもみせろ たんかのひとつ (大根役者)しあはせは ズンと大根 抜くときの 土の手ごたへ われに来るとき (畑麻呂) 歩麻呂が返せる歌2首たのしみは 思いのままに 大根が 畝より背伸び してくれるとき(歩楽吟)たのしみは 畑の野菜 食卓に 並べて今宵の 肴とするとき(歩楽吟)ひばり聴き 極(は)つるや今年 万葉の 歌も友なり 美酒(うまざけ)呑めば(偐酒麻呂)年暮れて 雨は降りつつ しかすがに 年の迎への 松整ひぬ (年迎松麻呂(としむかへのまつまろ)) (門松)よきことや 願ひ叶はば 富士山(ふじやま)の 日にも登らや ふたたびの山 (サンドイッチマン)市ヶ原 此処ぞ昼餉の 場所とせば 猪(しし)やこの場の あるじならまし (枚忠登(ひらのただのぼり)) (本歌) 行(ゆき)くれて 木(こ)の下かげを やどとせば 花やこよひの あるじならまし (平忠度(たひらのただのり)) (市ヶ原) (市比賣神社)宗像(むなかた)の 神も守るは をみなにて をのこわれらを たれや守らむ (弱形男神(よはかたのをかみ))氷室には 桜似合へば 大根も 桜島にて 似合ふと言へり (大根家持) (桜島大根)流氷が 来たると書けば なにしかも スパムのコメント 汝(いまし)も来たる (画像認証の数麻呂)世は捨つも 新年なりて よきどちの 集ふとあれば 行かざるは得じ 替え歌「六甲の笛」 麻耶の山の 掬星台(きくせいだい)ゆ 記念碑台へと 友とし辿る はるかに神戸の 街並見つつ をのこやも四人(よたり) 六甲(むこ)の山路 元歌「青葉の笛」 一の谷の 戦(いくさ)敗れ 討たれし平家の 公達(きんだち)あはれ 暁(あかつき)寒き 須磨の嵐に 聞こえしはこれか 青葉の笛 (麻耶山掬星台から神戸市街を望む。) 歩麻呂の追和せる歌 「歩人の笛」 市ケ原の 茶屋よりスタート 向かうは麻耶山 菊星台 寒風吹くや アゴニー坂 眺めしはこれや 眼下の街 高齢の 男4人(をのこよたり) 語るは日ごろの 憂さなら哀れ 望みは高く 果てなき夢を 寒風の中熱き 血のたぎるか(注)掲載写真は全てビッグジョン氏のブログからの転載です。
2013.01.28
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第113回智麻呂絵画展 本日は智麻呂絵画展であります。智麻呂絵画ファンの皆さま、長らくのお待たせでございました。どうぞごゆるりと智麻呂絵画をお楽しみ下さいませ。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ 先ずは大津絵から。 前回、恒郎女さまが琵琶湖旅行で買い求められた大津絵を智麻呂氏が模写された、鬼の絵のことはご記憶の方も多いかと思いますが、これをご覧になった恒郎女さまのお友達が「そんなに大津絵がお好きなら」と色んな大津絵のお写真を送って来て下さいました。 その中から2点が「智麻呂絵」となりました。(大津絵・藤娘) 誤解なきよう念のため申し上げて置きますが、恒郎女さまの肖像画ではありませぬ。大津絵の「藤娘」であります。(大津絵・瓢箪鯰) そして、これも大津絵の「瓢箪鯰」。呑まず食わずのナマズではありませぬ。なお、大津絵に関しての恒郎女様とお嬢様との愉快な会話もあるのですが、これはヤカモチだけが面白がって置きます。 次は正月花2点であります。智麻呂・恒郎女ご夫妻のお嬢様が、お正月にとお持ち下さったものであります。Aが一の姫さま、Bが二の姫さまからのものであります。(正月花A)(正月花B) 次は、東大阪市六万寺町にある往生院の六地蔵であります。けん家持が墓参のついでの散歩で撮った写真(昨年12月29日の日記「墓参・往生院など廻りつつ」に掲載)がお気に召したようにて、このような絵にされました。(往生院の六地蔵) 次は下仁田葱です。智麻呂氏の学生時代からの親友のK氏は既にお亡くなりになられましたが、同氏は群馬県の下仁田のキリスト教会で牧師をされていました。生前にはその地区名産のこの葱を智麻呂さんの許に毎年送って来られていました。今は奥様がそれを継いで送って来て下さるのだそうです。 この展覧会でも「やあやあ」の君として同氏のことはご紹介済みなので詳しくは触れません。 (参照:第69回智麻呂絵画展)(下仁田葱)(ショートケーキ) これは、けん家持が、いつであったかは忘れましたが、手土産と言うか、ティータイムの茶菓子と言うか、智麻呂邸訪問の際にお持ちしたケーキです。読書会の折はフルーツ、その他の折は和菓子かケーキというのが、この処の定着したけん家持の手土産のパターン。お陰で果物屋さんとも和菓子屋さんとも随分と親しくなってしまいました(笑)。智麻呂氏は我が師。さりとて和菓子ばかりでは駄洒落になってしまうので、時々はケーキ屋さんなのであります。更くる夜半に 門をたたき 我が師に託せし 言の葉あはれいまはの際まで 持ちしえびらに 残れるは「花や今宵」の歌 ご存じ唱歌「青葉の笛」の2番の歌詞。清盛の末の弟、平忠度の故事を歌ったものです。この歌は恒郎女さまがお好きな歌ですが、先日の若草読書会でのお話では、景郎女さんのお母様もよくこの歌を歌って居られたとか。面白かったのは、その景郎女さんのお姉様の敦郎女さんが「聞いたことがない」と仰っていたこと。同じ姉妹でもそれぞれの関心に応じて記憶が形成されるのであれば、記憶に残る風景も亦違ったものになる、ということでありますな。 それにしても、なんで、ショートケーキから「青葉の笛」なのだ? 「我が師」「和菓子」「洋菓子」「ケーキ」の連想と「菓子」「歌詞」の連想です。「おかし」な奴と思われていますかな? 変人ついでに、替え歌を・・。「青葉の笛」のメロディで歌えるように作ってみました。 「若草の笛」 一の絵画 花の絵なり うたれし心の それとは言はずひたすら飽かず 見つめつぶさに 描かれしはこれか 若草の絵 時にケーキ 時に和菓子 我が師に持ち行き カメラを構え今描くばかりも 撮りて残らず ブログにぞ載せむ 智麻呂絵画 さて、その読書会では、和郎女さんが可愛い作品を沢山お持ち下さいましたが、智麻呂・恒郎女ご夫妻がご近所の可愛いお友達に、その作品中のストラップのいくつかと巳の押し絵を差し上げた処、次のようなお礼状が届きました。そのお友達というのは「みずき&さき」姉妹、既にバレンタインチョコなどでこの絵画展にはご登場済みの幼稚園児姉妹であります。 真ん中に描かれているのが智麻呂さん。車椅子の姿を上手に描いておられますね。花◎をあげましょう(笑)。(みずきちゃん・さきちゃんからの「おれいじょう」) はなみづき さきぬるはるを みずきさき まさきくあれや わかくさのさと (にせやかもち) 花水木 咲きぬる春を みずきさき ま幸きくあれや 若草の里 (偐家持)さけやかし みずきはえひめ おとひめは さきにしあれば ともにしさかむ (にせやかもち) 咲けやかし みずきは甲姫 乙姫は さきにしあれば 共にし咲かむ (偐家持) みずきちゃん、さきちゃんの名を折り込んで2首。ヤカモチ館長も協賛であります(笑)。どうぞお元気にすくすく育ち、その名の通り美しい花を咲かされますように。 ここで花水木の絵があればピタリ収まるのだが、世の中、いつもそのように段取りが上手くは行かぬ。(クレマチス) では、クレマチスの絵にて今回の絵画展はお開きとさせて戴きます。本日もご覧下さり有難うございました。
2013.01.27
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昨日(25日)は小生の元勤務先の会社が属する企業グループの4社の総務・法務・広報などの担当者OBの任意の集りであるS.S.会の新年会でありました。 会場は阪急グランドビル27階の「咲くら」という店。出席者は、福◎氏、川◎氏、早◎氏、古◎氏、松◎氏、石◎氏、山◎氏、中◎氏、草麻呂氏と小生の10名。旧交を温めて参りました。特に、古◎氏は今回からの初参加にて、同氏とは12~3年振りの再会。懐かしいお顔が拝見できて嬉しいことでありました。(咲くら)新(あらた)しき 年の始に 思ふどち い群れてをれば うれしくもあるか (道祖王 万葉集巻19-4284)あらたしき としのはじめに どちつどひ かたらひのめば はなしも咲くら (偐家持) このS.S.会が今年の新年会としては4回目。あと28日の健人会の新年会の他、来月早々に2件予定が入っているが、今年は何やら新年会が多い。 しかし、新年会と呼んでいいのはいつ位までなんでしょう?琵琶湖と瀬田川の境目ではないが、つまらぬことが気になったりもするのは閑人ゆゑか変人ゆゑか(笑)。「偐家持」ではなく、「閑家持」とか「変家持」とかに改名しなくてはなりませぬかな。
2013.01.26
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第12回和郎女作品展 本日は久々の和郎女作品展であります。先日1月20日の若草読書会にお持ち下さった、今年の干支の巳に関する作品を中心にした作品展であります。 <参考>過去の和郎女作品展はコチラからどうぞ。 何れも楽しい作品。読書会出席メンバーは、それぞれ抽選で当たった作品をお土産に頂戴して帰りました。 今回はちょっと趣向を変えまして、以下、和郎女作品と偐家持美術館長の駄洒落とのコラボと致します。 先ずはお正月らしく紅白の千両・万両の巳であります。(千両・万両<赤>) 一攫千金もあれば二蛇万金も・・・ないか(笑)。 地道に暮らすのじゃ(蛇)、巳なの衆。(千両・万両<白>) 千両役者と千両白蛇。万両の実と万両の巳。 蛇蛇蛇蛇~ン、蛇蛇蛇蛇~ンはベートーベンの「運命」、 巳~ン巳~ン巳~ン巳ィ~ンはミンミンゼミ。 蛇ンバル蛇ンは、ああ巳情。レ・巳蛇ラブルだなし。(蛇重の桜) 次のオリンピックはリオデ蛇ねえ~の? ソチは知らアナコンダったか? <この辺まで来るとかなり苦しいですな(笑)。>(紅梅白蛇) 上は、「紅梅白梅」ならぬ「紅梅白蛇」でありますな。 類語を探すと、 精米白蛇(精米白米)、金波銀蛇(金波銀波)、青天白蛇(青天白日)、白蛇青松(白砂青松)などと色々ある。 「青天白蛇」とは、青空に白い蛇が現れること。この現象が現れると濡れ衣が晴れるとして、これを人々は青天白日の「巳」と呼んだ。そこから転訛したのが「青天白日の身」なのである(笑)。 「白砂青松」とは美しい海辺の景色を褒める言葉であるが、「白蛇青松」は、青い松に白い大蛇が絡みついてその美しい景色が台無しになっていること、またはそのような邪魔物のことを意味するのですな。こういうのを、「蛇に交われば邪魔になる。」と言う。「朱に交われば赤くなる。」はこれから派生したのである(笑)。 因みに、これに似た言葉で「白蛇赤松」というのがある。これは、赤松林に侵入して松茸泥棒をすることを言う。また「白蛇黒松」は、松茸の生えない黒松林に侵入して松茸を盗もうとする馬鹿のことを言うのである。 以上を纏めると「荒唐無稽」又は「口頭巳形」ということになる。(松と蛇で待つだけ蛇) 松と青い蛇。青での言い替えで浮かぶのは、 あったら怖い、 青雲の志=青蛇の串刺し 青天の霹靂=青蛇の悪癖 幸せの青い鳥=詰合せの青い蛇 ジャスミン茶=蛇酢味噌茶 ジャズダンス=蛇頭箪笥(蛇も巻物) 巻物と蛇ですな。 とぐろ巻くヘビは普通。 舌巻くヘビはちょっと珍しい。 ハチ巻、首巻、腰巻してるヘビはいまい。いたらジャマイカ? 「う呑み」はしても「ウ巻き」は食わないヘビ。(新年だから宝船じゃ<蛇>)(コマが回ってもコマらないのじゃ<蛇>) またまた、白蛇。 白蛇委任(白紙委任)、白蛇撤回(白紙撤回)、明々白蛇(明々白々)や白蛇三千匹(白髪三千丈)などが思い浮かぶが、こんなのはどうでしょう。朝には厚顔ありて夕には白蛇となれる巳なれり (蓮蛇「白蛇の御文章」) (原文) 朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なれり (蓮如「白骨の御文章」) (宝福絶頂) (朝顔も吊るして見れば・・) 上左は宝と福の二字の蛇。二字と言えば虹。 「虹」は、古代中国の人は、天に昇った蛇と考えました。それで虫篇が付いている。 それはさて置き、この二字(虹)で、「抱腹絶倒」ならぬ「宝福絶頂」で今年もめでたし、めでたし、なのであります。 右の朝顔は、今回撮影したものではなく、昨年の夏に撮影したものの未掲載のまま小生のパソコンに眠っていたものです。場違いな感は否めませんが、掲載することとしました。こういうのを「夏炉冬扇」と言いますが、季節外れに引っ張り出された朝顔さん、少しもめげず、「朝顔当然」という顔をしているのは立派なものです(笑)。 次はストラップです。 和郎女さんは何でも器用に作ってしまわれますな。(まあ、ストラップも色々じゃ<蛇>) ストラップにも蛇が付いているので、蛇の「駄洒落」ならぬ「駄蛇列」を。 茶番劇=蛇番劇 今年はヘビ年だと巳年生まれがしゃしゃり出て、おか しなことになることを言う。 目茶苦茶(滅茶苦茶)=目蛇苦蛇(滅蛇苦蛇) 呑み過ぎてへべれけになったヘビが悪酔いで悶え苦 しむこと。転じて支離滅裂な様を言う。 ゴチャゴチャ=御蛇御蛇 偉そうにした蛇がやって来て、まとまりかかった議論 を混乱させてしまうこと。または要らぬ口出しをするこ とを言う。 いちゃつく=猪蛇つく 猪に蛇が絡み付くと猪は驚いて暴れまくる、そのよう に見苦しいまでに慌て狼狽することを言う。 以上、偐家持監修「偐代閑話辞典」<かどわかし書店発行>より。 なお、この辞典は「慎重社」や「言うなり書店」では取り扱っていない。(趣味じみと蜆) 上のストラップの中味は蜆?蜆の上には鈴も付いている。 鈴見てるシジミ、指示待ちのシジミ、支持者にはシジミじゃ しみじみと身にしむ秋知るシジミ汁、シジミの一味に軋み 趣味地味なシジミ、夜のしじま朝のシジミ、沈むのにシジミ 縮み上ってもシジミ、知事見るシジミ、シジミの味見 シジミも夕涼み 和郎女さんの作品で少し遊び過ぎましたでスネーク。 ではまた、作品写真が溜まりましたら次回和郎女作品展にてお会い致しましょう。ご来場どうも有難うございました。
2013.01.25
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<承前> やっと目指す笹尾山にやって来ました。石田三成が陣を置いた処です。矢来が組まれて、それらしい表情なのがいいですな。(笹尾山)(石田三成・島左近陣跡)(島左近陣跡説明板) 笹尾山の裾には石田三成の腹心・島左近が陣を置き、奥の頂上部には三成が陣を置いた。山頂まで行って、三成が眺めたであろう、関ヶ原戦場の全景を眺めてみることとしよう。(矢来・馬防柵)(同上) 頂上に来ると、うら若き女性がお一人で居られました。「こんにちわ」と話し掛けると、隣の大垣市からやって来られた「歴女」氏でありました。関ヶ原が好きで、何度も来ているのだという。「歴女」と自称されるだけあって、関ヶ原合戦にはお詳しくて、色々とご説明下さいました。壬申の乱の関連でやって来たのだと言うと、壬申の乱にも興味を持っていると、先述した松尾地区と藤下・山中地区との対立の話などをして下さったという次第。 頂上には展望台があって、関ヶ原決戦場が一望である。南には寝返った小早川の松尾山が見え、南東方向には家康が当初陣を置いた桃配山が見える。(笹尾山からの眺め) ま東方向から南、西方向へとカメラを動かしながら写真に撮ると以下の通り。小早川の寝返りや脇坂らの裏切りも、ここからは手に取るように見えたことでしょうな。優勢に運んでいたのに、裏切りで南側戦線が崩壊、それをどんな思いで三成は見ていたことか。小早川 松尾の山の 裏切りに 泣くや笹尾の 治部怒りつつ (偐定家) (本歌) 来ぬ人を 松帆の浦の 夕凪に 焼くや藻塩の 身も焦がれつつ (藤原定家 新勅撰集 小倉百人一首97)(同上・東方向)(同上・南方向)(南西方向)(石田三成陣地跡説明板)(石田三成陣地跡碑)(笹尾山山頂)(決戦場付近の田園風景) 壬申の乱で大海人皇子が陣を置いた野上行宮跡は家康が陣を置いた桃配山の東方にあるが、前線の指揮を取った、大海人の長子・高市皇子の軍が集結した和蹔(わざみ)の地が何処かは定かではない。関ヶ原のこの辺りだという説もあるようだ。 島津の「敵中突破」ではないが、決戦場付近を突き抜け、南に進路を取ると、家康床几場に来た。(徳川家康最後の陣地跡・床几場) 戦況が芳しくないため、家康は本隊を前進させ桃配山から此処まで陣地を進め、東軍の士気を鼓舞すると共に、小早川へ寝返りを催促する砲弾を撃ち込む。遂に正午頃に小早川が山を下り、大谷隊の側面を衝く。かくて戦況は一気に東軍側に傾く。午後2時頃、大谷吉継自害。午後2時過ぎには概ね勝負は決し、3時頃から西軍の敗走が始まる。午前8時過ぎに始まった関ヶ原の戦は6時間後の午後2時過ぎには決着をみたのでありました。(同上) 家康は、この床几場で、部下が討ち取って来た敵の首実検をしたそうな。 壬申の乱でも、大海人皇子は大友皇子の首実検をしているが、ひょっとすると、首実検された最初の人物は大友であったかも知れない。大友は我が国最初の太政大臣となった人物であり、我が国最古の漢詩の作者でもあるが、もう一つの「最初」があったかも・・ですな。(説明板)(東首塚) 合戦後、家康の命によりこの地の領主の竹中重門が東西2カ所に戦死した兵士を埋葬したのが首塚。写真は東首塚。西首塚は、井上神社から旧中山道へと戻る道の途中に右側に入る道があり、そこに「この先西首塚」と示す案内表示がありましたが、立ち寄らずでした。(同上)(首洗いの井戸) 東首塚は関ヶ原駅の直ぐ近く。駅前に戻り時間を見るともう4時半。野上行宮まで行って戻って来るとなると、帰途には暗くなってしまう可能性もある。ということで、またしても、一つ残して「行く児かな」で、これは次の機会に譲ることとし、米原へと引き返すこととしました。 これにて、関ヶ原銀輪散歩の日記、完結であります。長らくのお付き合い有難うございました。 首洗い井戸の写真で終るのも申し訳ないので、もう1枚の未掲載の伊吹山写真を最後に掲載して置きます。首ではなく、これでお目を洗って戴ければ幸甚に存じ上げます(笑)。(そして、最後にまた伊吹山) ‐完‐
2013.01.24
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<承前> さて、大友皇子、大海人皇子関係の史蹟は野上行宮跡を除き一通り回ったこととなるので、壬申の乱から928年コチラ側へタイムスリップして、もう一つの天下分け目の東西対決、関ヶ原合戦の史蹟を少し廻ってみることとしました。 特にこれを目当てに来たのでもないので、どう回っていいのかが、よく分からない。で、先ず、石田三成が陣を置いた、笹尾山に向かうこととした。 天武天皇を祀る松尾地区の井上神社からは、ほぼ真北の方向にあるので、とにかく山に向かって走ることとする。 その前に、これまでの壬申の乱関連の銀輪散歩の傍ら、既に立ち寄った関ヶ原合戦関係の史蹟があるので、先ずそれからご紹介することとします。 最初に立ち寄ったのは東軍先鋒の福島正則が陣を置いた春日神社・月見宮。これは不破関東城門跡の前から数十米南に入った処にある。 関ヶ原の戦いそのものについては断片的にしか知識がありませんので、書き過ぎると間違いのもと。説明は、説明板の写真で極力代用させて戴きます(笑)。(福島正則陣跡) (月見宮大杉) (春日神社・月見宮・福島正則陣跡)(福島正則陣跡説明板)(月見宮大杉説明板) 次に立ち寄ったのが大谷吉継の墓。 山中地区に入って、中山道からJR線を越えて山の中に入って行くと、それはある。「山中の中山道から山の中に入る」ヤカモチ流言葉遊びのようなルートであります(笑)。(大谷吉継墓への道) 此処から600mと表示されていたので入って行くと途中から山道、トレンクルを担いで上るしかない。思ったよりも遠く、手間取り、汗をかきました。(大谷吉継墓) 石田三成の盟友であった大谷吉継は、三成の決起については自重するように説得したらしいが、三成決起となると、病を押して出陣、死に装束にて奮戦する。しかし、寝返った小早川軍に側面から襲いかかられた上、この裏切りに便乗した配下の脇坂・朽木・小川・赤座の4隊までもが寝返って攻撃をしかけて来たので、戦列は大混乱、壮絶な死闘の末、力尽き、敵にこの首を渡すな、と言い残して自害して果てた、という。三成への友情を貫きこれに殉じた姿には心を打つものがある。 この墓は敵方の藤堂家が建てたものという。敵から見ても天晴れな戦いぶり、もののふらしき戦いぶりであったということであろう。(同上) 墓には真新しい花が供えられていた。日和見を決め込む武将が多かった西軍にあって、吉継の潔さは目を引き、お参りする人も多いのであろう。 小生も、関ヶ原合戦の史蹟そのものには、さしたる関心はなかったのであるが、吉継の墓だけは、立ち寄ってみようと思っていたのでありました。(同上) 次は、脇坂安治の陣跡。上の大谷に襲いかかった裏切り派の一人であります。藤下の若宮八幡神社から井上神社へ向かう途中、名神高速道の南側に回った処にそれはありました。彼は賤ヶ岳七本槍の一人。この人物に由来して京都伏見の京阪中書島駅の「中書島」の名が付けられているということを知ったのは昨年のこと(参考:2012.9.23.伏見散歩参照)。それを思い出して立ち寄ったのでありました。(脇坂安治陣跡) 脇坂安治陣跡の碑が北東の東軍側の方向ではなく、南側、つまり小早川が陣取った松尾山の方を向いて建っているのも面白い。(同上) 脇坂陣跡から井上神社を経て、北へ。国道21号線を渡り、JR線を渡ると広々とした田園が広がる。(開戦地付近) 正面に白く見えている林が「関ヶ原合戦400年記念平和の杜」という公園で、開戦地は写真画面からはみ出すがそのずっと左側になる。この公園にはフランスの彫刻家の作品など、アート作品、オブジェがいくつか置かれているが、余り意味がよく分らない。まあ、邪魔にもならぬが、関ヶ原合戦のイメージ喚起とは些かも繋がらず、むしろ不似合いで、企画した人の自己満足ですかな。この奥に島津の陣跡があり、更に北に上ると笹尾山である。(小池神明神社)(神社の由来)(島津義弘陣跡)(説明板) さて、そろそろ石田三成の笹尾山ですが、字数もそろそろ一杯です。続きは次回ということで、ひとまず終ります。(つづく) (関ヶ原町観光案内図)(関ヶ原合戦のあらまし)
2013.01.23
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<承前> 藤下若宮八幡神社を出て、新幹線高架下を潜り、更に南へ。名神高速の下を潜ってから、名神沿いにある細い道を辿り東へ。藤古川を渡った処で方向を転じ、名神の下を潜って北側に出る。それまで名神高速で遮られていた北方向の景色が一気に開ける。新幹線の向こうに関ヶ原の山々が黒々とあり、その奥に真白き雪の伊吹山が神々しく輝いている。(藤古川と伊吹山) 上の写真は名神高速の下から撮影したもの。手前の黒い影は名神高速の土手のなせる影である。前方には新幹線が通っている。伊吹山にズームインしてみると、下の写真となる。(伊吹山) 伊吹山という名は万葉には登場しない。万葉に出て来る「おきそ山」が伊吹山のことだという説があるということは、先に記したが、「伊吹山」という名が出て来る歌を1首掲載して置きましょう。あぢきなや 伊吹の山の さしも草 おのがおもひに 身をこがしつつ(古今六帖) 雪の伊吹山は美しい。しかし、見惚れて身を焦がしている暇はない。先を急ぎます。藤古川から離れ北上するとやがて左手に社が見える。井上神社である。藤古川の東岸になるこの辺りは松尾地区。壬申の乱の時に大海人側についた地区である。(井上神社) この神社は天武天皇(大海人皇子)を祭神とし、皇后の持統天皇も合祀されている。藤古川を挟んで弘文天皇(大友皇子)を祭神とする藤下地区の若宮八幡神社とは距離にして400m余の至近にて今も対峙しているという訳である。今年が2013年、壬申の乱が672年であるから、1341年経っても尚対峙したままなのでありますな。(同上) (同上・本殿) (同上・天武天皇顕彰碑) 川向こうの若宮八幡神社の大友皇子詩碑に対抗してか、こちらは天武天皇顕彰碑。まだ新しい立派な石碑である。 壬申の王業斯の湄(ほとり)に始まり 天武の英魂(えいこん)此の祠(ほこら)に鎮まる 藤水(とうすい)連綿として皇統久しく 神を奉じて氏子感恩滋(しげ)し 当神社の氏子の三輪重之氏の作・筆による詩碑で平成12年10月建立とある。井上神社を出て、再び伊吹山に見惚れながら、緩やかな坂を上って行く。(またまた伊吹山) アトは、大海人が布陣した野上行宮跡であるが、是は少し離れているので、その前に関ヶ原合戦の陣跡なども見て置こうと北上することに。 関ヶ原合戦関連はページを改めてご紹介することとし、本ページは未だ少し字数枠が残っているので、山中地区で立ち寄った常盤御前の墓などを付録としてご紹介して置きます。説明はそれぞれの説明板でお読み下さいませ。(写真をクリックすると「フォト蔵」の写真に移動し、もう一度クリックすると写真サイズ選択画面に移動しますので、より大きい字でお読みになりたい方は、その方法をお取り下さい。)(鶯の滝)(鶯の滝説明板)(鶯の滝の前の地蔵堂) これは何と言って説明表示もなく由緒などは知るよしもないのでありましたが、三つ並んでいるのが何やらゆかしく、また珍しくもあり、いとひなびたる風情でもありましたので、撮影致しました。(常盤御前の墓)(常盤御前の墓説明板)(芭蕉句碑・左側) 左表面 義ともの心耳 似多里秋乃 可世 者世越翁 義ともの心に似たり秋の風 芭蕉翁 これは「野ざらし紀行」の中の句ですな。 左裏面 希尓風の 音も春み介李 阿支乃松 春香園 げに風の音も春みけり秋の松 春香園 右 その幹尓牛も かくれて佐くら哉 化月坊 その幹に牛もかくれてさくらかな 化月坊(芭蕉句碑説明板)(芭蕉句碑裏面) では今回はここまで。次回またお付き合い下さいませ。(つづく)
2013.01.22
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関ヶ原 暫し席替へ 若草の どちとや遊ぶ 睦月の二十日 (偐家持) 日記の上では、関ヶ原銀輪散歩の途中でありますが、ここで銀輪散歩はひと休みして、若草読書会の皆さんとの新年会の記事をアップします。 先の大津歌碑散歩(1月6日)と今回の関ヶ原銀輪散歩(1月16・17日)は、この新年会のための「取材?」も兼ねてのものでありました。毎年、新年会は万葉関連のテーマで小生が発表するというのがこの処の恒例となっていますので、今年は大友皇子にするか、ということで、大津・関ヶ原の散歩となったものであります。 発表の内容は、ブログ記事ともほぼ重なりますので省略。後は、余興として、神武から桓武までの50代の天皇の謚号の言われを駄洒落で捏造してみるという、ヤカモチ流駄洒落集をサブ資料として配布いたしました。資料のサブタイトルは「世が世なら余は不敬罪」としましたが、その通り、内容についてはブログで公開すべきものではありませぬ。もっとも、今は「不敬罪」は死語にて、パソコンでも「ふけいざい」を変換すると「不経済」となりますな。まあ、小生の駄洒落はバカバカしいだけの不経済なことであるには違いないので、ここでもパソコンの変換は正しいのでありました。 ところで、新年会は智麻呂邸に集合して行われました。出席者は智麻呂・恒郎女ご夫妻、凡鬼・景郎女ご夫妻、小万知さん、祥麻呂さん、和郎女さん、偐山頭火さんと偐家持の9名でしたが、遅れて謙麻呂・恵郎女ご夫妻と景郎女のお姉さまの敦郎女さんもお見えになり、総勢12名。賑やかで楽しい新年会となりました。常連の槇麻呂さん、和麻呂さん、リチ女さん、香代女さんはご欠席でありました。 新年会恒例の歌会でありますが、今回提出の歌・俳句は下記の通り、追って、その後に寄せられるかも知れぬ歌なども加え「若草歌壇・2013年初春編」として、河内温泉大学図書館にて公開する予定ですが、ひと足早く当ブログにてご紹介することと致します。 祥麻呂が作れる歌5首睦月(むつき)立ち うからはらから 幸(さ)きかれと 小(ち)さき神社(もり)にも ひとは数多(さは)なり初詣 白き膏薬 痛む足 されど妹行く 清水(きよみづ)の坂通し矢の 的射る乙女 凛々しくも あるや晴れ着に 春日(はるひ)は光る りち女が作れる歌3首ノーサイド 芝蹴り球追ひ 身体はり 君はくれにし ドキドキクスンバランスは 悪くないよに 背を押され 髪型リセット わが春来たる連休に 備へしマスク をこなるや 朝ゆ出ぬ声 隠(こも)りつつぞ居り 偐山頭火が作れる歌3首、俳句2句やっと来た 大宰府にあって 知った道 旅人も我も 同じ道行き (偐旅人) 龍田川・三室山探索にて千早また 神代も振った 龍田川 おからごときで 水くくらぬも (河内山錦秋) ときそばに倣っておい親父 もう来ないのか へい!秋です 平群の里にてふるきこと たづね疲れて 秋櫻(はな)わらふ 弘川寺にて願はくは 花山が上に 酒呑まん その杯に 散りも来るうち 凡鬼が作れる歌3首、俳句6句胸中に 狼を抱き 去年(こぞ)今年(ことし)変はりなき 瓦礫の山や 去年今年手を放れ 倒れるまでは 独楽の自由空爆も テロもなき世の 大旦(おほあした)古き良き 正月想ふ 三日かな米俵 飛び来る社 初御空 (信貴山縁起より)歌留多取り キングクイーンの 争ひは 遊戯にあらず 格闘技なりかるた取り 十八番(おはこ)取られて 泣く幼 初泣き儀式 親初わらひ元旦の 朝を浄めし 風花に 事なき年を 祈りてやまむ 小万知が作れる歌5首春祝ひ 千両箱は あらざれど たわわ実れる 千両の笑み冬空の 三日月とらば 太刀なりて スパッと悪政 断ち切るならむロウバイの 花のひとひら 鏡とし 映さば心 にごりてあらむさねかづら 石垣つたふ 日だまりを 行きつもどりつ またもや逢はむ蛇カエル 虫も冬眠 むさぼれば われの頭も ネジ動かざる 景郎女が作れる歌6首山賊の ようなブーツに マタギなる ボレロで街ゆく やまんば娘散りぎわの 着地は自分で 決めたしと 思ってるだろう 伐られ街路樹裸足にて水汲みに行く少年の瞳に見つめらる国際協力カレンダーそれぞれが ひとつ言葉を のみこみて 流れし笹舟 戻ることなし「なんにもご用はないけれど」と歌うよに「おかあさん」と呼んでみる 秋まあまあの越し方だったろうか晦日湯にくるまり柚子につぶやいてみる 恒郎女が作れる俳句1句念仏鬼 足温めたや 寒修行 (注)恒郎女さんは、歌を作る暇がなかったと、第112回智麻呂 絵画展でご紹介済みの句を流用されました。追って、歌集編 纂の折には、追加の歌などをご提出戴くこととしましょう。 偐家持が作れる歌13首よき人に よしとよき年 よく明けて よしとよく生く よき人よく生く (若草天皇)ねもやらず ねたみひがごと ねちねちと ねのみしなかゆ ねにもつねづみうしろから うしとみしうし うしうしと こしうしむしも ならぬはうしかとらのこは とらぬがとらと きどらねば とらはれまひに とらはれのとらいさぎよし うさぎとみしに うだうだと うるさきうさぎ うたてきうさぎたつたてば たちまちたちぬ たつまきの かぜなちらしそ たつたのもみぢみのほどは へびにしあれば あしはなし さればいもにも あふよしもなしうまうまと うまきはなしに のせられて いまいましきは したにつくしかひつじぐさ ごごのにじには さくなれど さんじかくなり ひつじぞわれはさるさるを さるはおはざる さるままに まかせなかざる わすれさるなりとりどりに とりはあれども とりあへず とりたるとりは このとりことりゐるいぬも いぬるいぬなら いぬゐぬと なんぞかはらず いらぬいぬなりかのししは ししにはあれど かのししに あらぬししなり いのししなれり(千両役者・万両へび蛇)これは和郎女さんの作品。追って、近々、同氏の作品展を久々に開催する予定です。
2013.01.21
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<承前> 中山道を西へ、山中地区に入る。此処は間(あい)の宿・山中と呼ばれる中山道の宿場町であったようだが、先にも述べた通り、東の藤下地区の住民と共に大友皇子側についた地区。ここにある若宮八幡神社も大友皇子を祀っている。(山中地区・若宮八幡神社) JRの線路を越えて更に上ると、神社であるが、此処は関ヶ原合戦で西軍の大谷吉継が陣を構えた処でもある。山の中には、吉継の墓もある。 中山道の南側には黒血川がほぼ並行して流れている。街道沿いの民家の裏が黒血川という訳である。(間の宿・山中)(山中宿高札場跡)(黒血川から大谷吉継の墓への道)(黒血川、山中地区) 黒血川を渡って更に西へと行くと、常盤御前の墓があるというのでそれに立ち寄ってから引き返すことにしましたが、それは今は省略、藤古川を渡って直ぐの処にあった藤下の若宮八幡神社の石碑の位置まで戻り、同神社へと向かう。石碑の場所から300m程南に下った処にある。(藤下地区の若宮八幡神社) 社殿の裏手が自害峯である。自害峯の南東裾に神社は位置している。自害峯を挟んで反対側(西側)を黒血川が流れて居り、150m程東に行くと藤古川が流れている。境内地に接するようにして直ぐ南側に東海道新幹線が走っている。時々ゴオーッという音と共に新幹線が走り抜け、空気が振動する。新幹線は自害峯の丘の南端を切り裂くようにして敷設されたようであります。(同上)(同上) (同上・遷座碑と大友皇子詩碑) 境内には「奉遷鎮座碑」と刻された碑と大友皇子の漢詩2篇が刻まれた詩碑とが建っている。1月6日の大津歌碑散歩の折もお弁当は大友皇子の詩碑の近くで食べたのであるが、今回も気付けば此処で12時半になっていたので、走り掛けに通りかかったコンビニで買い求めたお弁当で昼食となった。 大友皇子の漢詩はお弁当タイムに似合ったものとは言い難いが、早食いヤカモチ、ほんの数分もあれば済んでしまうので、そんな事はどうであってもいいのでありますな。そんな短い間にも新幹線は轟音を轟かせ、空気をビリビリと切り裂いて疾走して行くのでありました。 こちらの詩碑は、長等公園のそれとは違い「懐風藻」に掲載の全2首が刻されているし、形も大きく立派である。ただ、少し苔が生えかかって古色蒼然の風体でもあります。詩は下記の通りです。訳も付けて置きます。 侍宴 宴に侍す皇明光日月 皇(くわう)明(めい) 日月と光(て)り 天子の威光は日月の如く輝き帝徳載天地 帝徳 天地に載(み)つ 天子の聖徳は天地に満ち溢る三才並泰昌 三才 並びに泰(たい)昌(しやう) 天地人ともに太平で栄え萬國表臣義 万国 臣義を表(あらは)す 四方の国は臣下の礼をつくす 述懐 懐ひを述ぶ道徳承天訓 道徳 天訓を承(う)け 天の教えを戴いてこの世の教えとし鹽梅寄眞宰 鹽梅(えんばい) 眞宰(しんさい)に寄す 天の教えに基づき正しく国家を運営する羞無監撫術 羞(は)ずらくは監撫(かんぶ)の術なきことを 恥ずかしい事だが私は大臣の器ではない安能臨四海 安(いづく)んぞ能(よ)く四海に臨まん どのように天下に臨めばよいのだろう 昼食は終りましたが、字数制限です。 続きは次回とします。(つづく)
2013.01.20
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<承前> 不破関資料館を出て、関守屋敷跡の辻に戻り、旧中山道の坂道を下る。下り切った処が藤古川である。下り切る手前に戸佐々神社というのがある。(戸佐々神社) この神社の辺りが不破関西城門のあった場所。古い石組みが僅かに残る。裏の竹藪の向こうは藤古川である。(同上) 戸佐々神社を出て、藤古川へ。 藤古川は伊吹山麓から流れ出し、不破関に沿って南西に流れ、名神高速の南側で黒血川が合流し大垣市上石津町牧田で牧田川に合流する木曽川水系の川である。 不破関の傍を流れることから「関の藤川」と呼ばれて古今集の歌などにも登場する。壬申の乱では、この川を挟んで両軍が戦った。この時、西岸の山中・藤下地区の住民は大友側につき、東岸の松尾地区の住民は大海人側についた。 ついでにと後ほど訪ねた笹尾山(石田三成が陣を置いた山)で出会った、隣の大垣市から来たという「歴女」の若い女性からお聞きしたお話でありますが、この両地区は今も仲が良くないらしく、祭も別々の日に行う、相手側地区に対しては、嫁にやらぬ、嫁はとらぬという関係だそうな。(藤古川) 古今集にある「関の藤川」の歌を掲載して置きます。美濃の国 関の藤河(ふじかは) たえずして 君につかへむ よろづ世までに (古今集巻20-1084) 左注に「これは、元慶(ぐわんぎやう)の御嘗(おほむべ)の、美濃の歌」とある。陽成天皇の大嘗祭に当り、美濃の国から捧げられた歌、ということである。 天皇即位の時に行う大嘗祭には、卜占によって、悠紀の国と主基の国が定められ、この二国が天皇を讃美する歌を捧げることになっていた。「藤河」には、文徳・清和・陽成と三代にわたって続く母方の藤原氏への賛美を潜ませているとみる見解もある。 またまた話が脱線。元に戻します。 両軍が衝突したという藤古川。飛鳥川、小生の地元で言えば恩智川程度の狭い川。対峙するには狭すぎる川だ。壬申の乱の頃にはもっと広い川であったのだろうか。(同上) 藤古川を渡ると直ぐに急な上り坂。坂の手前に左(南)に入る道があり、若宮八幡神社と刻された大きな石碑が建っている。これを行くと藤下の若宮八幡神社なのだが、先ずは坂道を上って直進である。苦しい坂道。紫式部なら「からき坂道」と言うのであろうが、偐は付いても家持、頑張るしかない(笑)。(矢尻の池<矢尻の井>) 幸いに坂を上り切る手前に遺跡があった。うまい口実が出来たとストップ。矢尻の池(井)である。壬申の乱の時に兵士が飲料水を求めて矢尻で掘った池だと伝えられる。その傍らにある地蔵堂が箭先地蔵堂。明治11年坂を開削した時に出土した地蔵と自害峯の傍らにあった地蔵堂の地蔵を此処に合祀したのだという。 上の写真で言えば地蔵堂の前でカーブして右へと上っているのが中山道。中山道の坂を上り切ると左手の丘が自害峯である。 最終決戦の瀬田川での戦いにも敗れた大友皇子は「山前」で自害した、というのであるが、山前については諸説ある。大津の長等とする説、大山崎の天王山麓とする説、河内の枚方や交野とする説などであるが、天王山辺りというのが有力説らしい。 で、大海人皇子配下の将、村国雄依が大友の首を刎ね、ここ関ヶ原の野上行宮の大海人の許に運んだという。首実検をして、大友が確実に死亡したということを確認した訳ですね。 用無しとなった首を大友側を支援したこの地の住民が貰い受け丘に葬った。しるしに3本の杉を植え、丘の名を自害峯と名付けたのだそうな。 (自害峯の三本杉) 三本杉の案内表示板の示す通りに行くと、道が工事中を示す柵で塞がれていて、上り口らしきものも見当たらない。引き返してみると反対側に山に入る通路らしきものがある。これかと上って行く。すると直ぐに道はなくなり杉の木立の下、一面のクマザサを踏みならしながらの探索となる。 程なく三本杉を発見するのだが、反対側から来てしまったらしく、正しいルートは先程の工事中を示す柵の向こう側にあったよう。またしても裏口から入って玄関から出て行くという空き巣的ルートになってしまった次第。(自害峯のクマザサ)(黒血川・自害峯付近) 自害峯の南側に回ると川が流れている。黒血川である。元は山中川と呼ばれていたが、壬申の乱で流した兵士の夥しい血によって、水が黒ずんでしまった、それで黒血川と呼ばれるようになった、という川である。 花も紅葉もないこの季節の故か、その名による先入観の所為か、何やら陰鬱な雰囲気の川である。 中山道に戻り、更に西へと行く。 国道21号線に架かる横断橋の上で振り返ると自害峯の全景が見えた。(自害峯全景・西方向から) 横断橋を渡ると山中地区に入る。石の道標にそう書いてある。(中山道の道標)(国道21号線)(左:国道21号線、右:旧中山道 山中宿付近) 横断橋を渡り、上の写真の右下の階段を下って、角の民家の前から、またトレンクルで走り出す。ところが、階段を降り切った処で躓き、転倒しそうに。 倒れなかったが「あっ」と大きな声を出した。加えて、それがこの角の家のワンちゃんの小屋の直ぐ前であったからいけません。 ウトウトと昼寝していたワンちゃんをすっかり驚かせてしまった。激しく吠え立てられる。すると隣の家のワンちゃんも吠え立てる。すっかり「怪しい奴」になって、山中地区へと入って行きました(笑)。 ここで今日はおしまい、また明日です。(つづく)
2013.01.19
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一昨日16日の記事です。 先日(1月6日)の大津歌碑散歩の流れで、大友皇子関連で関ヶ原までやって参りました。関ヶ原と言えば天下分け目の戦い、関ヶ原合戦であるが、今回はもっと昔の天下分け目の戦い、壬申の乱(672年)の開戦の地としての関ヶ原である。 天智天皇崩御後、その後継をめぐって天智の息子、大友皇子と天智の弟、大海人皇子との間で戦われたのが壬申の乱。 天智崩御後大友皇子は天皇に即位したとみるか、即位していないとみるかは意見の分かれる処であるが、現在の歴史学会では非即位説が定説のよう。しかし、幕末から明治にかけては大友即位説が常識化していたようで、明治3年に大友皇子は弘文天皇と追号され、第39代天皇とされ、今日に至っている。大友が天皇に即位したかしなかったかで、今上天皇の代数も変って来るが、古代の天皇にはその実在の怪しいのがいくらもあるし、南北朝時代の天皇並立もあり、今は南朝を正統として代数を数えているが、北朝を正統として数えれば違った代数になる。ということで、その辺は歴史学としては立ち入らないという立場のようで、年表や代数表記では弘文天皇がそのまま第39代ということになっている。 まあ、何れであれ、天智亡き後の近江朝廷を率いていたのは大友であり、それに反旗を翻したのが大海人皇子であることに変りはない。 病床の天智に面会し皇太弟の地位を返上して吉野に隠遁した大海人は、天智が死ぬと東国に逃れ、この地で兵力を集め、大和で大海人に呼応する勢力と連携し、近江朝廷を滅ぼした。今風に言えば軍事クーデターによって権力を掌握したということになりますな。 その最初の戦いがこの関ヶ原の地で繰り広げられ、大友軍を打ち破った大海人軍はその勢いで近江へとなだれ込み、瀬田の唐橋の戦いに勝って、最終的な勝利を収める。ここに近江朝廷は滅ぶこととなった。 後の関ヶ原と同様、ここでも西軍は東軍に敗れて居ります。大友は石田三成、大海人は徳川家康といった処でしょうか。それかあらぬか、大海人皇子が陣を置いた野上行宮と家康が当初に陣を張った桃配山はほぼ同じ位置である。もっとも、大友は三成と違って遠く大津の宮に居たのでしょうが。 関ヶ原駅前でトレンクルを組み立て、駅前を南に下り、国道21号線に出て右折。西へと走る。紫井公民館の処で旧中山道(東山道)に入る。 150m程進むと出会うのが不破関東城門跡。 ここは関ヶ原合戦の地、その陣跡遺跡などが随所にあって、頭の中は1000年近くのタイムラグの狭間を行ったり来たりと混乱するのであるが、日記の構成上、関ヶ原合戦の跡地はひとまず省略して進めます。(国道21号線 旧中山道との分岐付近)(不破の関、東城門跡) 上の写真で言うと、左が西。左から先が不破関の域内ということになる。では関所内に入って行きましょう。 東城門跡から100m西に行くと「兜掛石・沓脱石」の案内表示板があった。その示す処に従って脇に入って行くが、何やら民家の軒先を伝って、裏の畑に侵入して行くような気分。(不破関・関庁舎跡 右奥の木立の処が兜掛石、左の木柵が沓脱石) この付近に不破関の中心的な建物があったらしいが、今は花や野菜の畑である。その一角に兜掛石と沓脱石がある。兜掛石は壬申の乱の時に大海人皇子が兜を掛けた石で、沓脱石は沓を脱いだり履いたりする際に大海人が利用した石だと伝承されている。 不破関は壬申の乱の後に天武天皇によって設置されたものであるから、これらの石が当初から此処にあったのなら、庁舎の建物はこれらの石を外して建っていたことになりますな。(兜掛石)(沓脱石) 更に数十米西に行くと不破関守跡である。関守の屋敷がこの一帯にあったらしい。(不破関守跡)(同上) 裏に回るとちょっとした空地があり、歌碑や句碑などが建っているが、特段の説明もなく、石碑の文言も古くて判読が困難。(不破関守屋敷跡)(芭蕉句碑) 芭蕉の句碑は 秋風や藪も畠も不破の関 というもの。「野ざらし紀行」に出て来る句であります。 この句碑は此処にあるよりも、先程立ち寄った兜掛石などのあった、民家の裏の畑に建っている方がしっくりする。 冬空や 裏の畑も 不破の関 (筆蕪蕉) である。 ついでにもう1句。寒空や 関跡めぐり 不破で咳 (筆蕪蕉)(旧中仙道の道標) 左の坂道、つまり中山道ですな。これを下った処が壬申の乱の最初の戦闘の場となる藤古川である。その前に右の道を行くこととする。直ぐに不破関資料館がある。見学して行く。(不破関資料館) 不破に因む万葉歌を1首。関無くは 還(かへ)りにだにも うち行きて 妹が手枕(たまくら) まきて宿(ね)ましを (大伴家持 万葉集巻6-1036) この歌は題詞に「不破行宮にして、大伴宿禰家持の作れる歌1首」とあるように、天平12年(740年)聖武天皇の伊勢・美濃巡行に随行した時にこの地で家持が作った歌である。 時に家持23才。この年9月に藤原広嗣の乱が起り、天皇は10月29日から東国行幸の旅に出る。この東国への行幸は乱に動揺してのもの、大和で乱に呼応する勢力のあったことを警戒してのもの、曾祖父天武の壬申の乱の足跡を辿りその威光を高めようとしたものとか色々の見方があるようですが、若き家持も颯爽とこれにつき従ったものと思われます。それにしては歌が何ともであります。まあ、旧暦の11月、真冬の関ヶ原は寒かったのでしょうな(笑)。(注)9月3日乱を起こした藤原広嗣は10月23日に捕縛されている。 しかし、その知らせが天皇のもとに届くのは東国の旅に発った後 の11月3日。その前の11月1日には処刑されているのでありま した。若し乱を恐れての東国行であったのなら、あっけなく広嗣が 捕縛されてしまったことを知らされた聖武はきっと「これでは恰好 がつかん。」と直ぐに京へ帰りたいのだが、それもならず、不必要 に長くあちこちと回ることになったのやも(笑)。 話が脱線しました。壬申の乱に戻します。しかし、字数制限一杯です。今日はここまでとします。(つづく)
2013.01.18
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昨日16日は、関ヶ原を銀輪散歩して参りました。テーマは先般の大津歌碑散歩で大友皇子所縁の地を訪ねたことの続きとして、関ヶ原にある大友所縁の場所を訪ねてみようというもの、でありました。この銀輪散歩は追って記事にすることとし、今日はその帰途の銀輪散歩のご報告とします。 関ヶ原ですから日帰りで十分であったのですが、米原のビジネスホテルに一泊して、翌日(つまり今日17日)は前回失念した大津市大江地区の御霊神社を訪ねる傍ら大津をもう一度銀輪散歩してみようというものでありました。 出直すことも考えましたが、往復の交通費に少し足せば宿泊費、時間の節約にもなる、という訳で一泊することとしました。 朝9時頃に米原駅に。(米原駅)(同上 遠くには雪の伊吹山が見える。) 伊吹山という名は万葉集には見えない。奥十山(おきそやま)(巻13-3242)が伊吹山だという説(中西進氏)もあるが、奥十山は、犬養孝先生が大木曽山で木曽の山だとされた他、岐阜県可児市の浅間山説、多治見市の高社山説などもあって一定しない。米原に うち出でて見れば 伊吹山 雪置き奥十の 山とや言へる (偐家持)<参考> 百岐年(ももきね) 美濃の国の 高北の 八十一隣(くくり)の宮に 日向ひに 行きなびかくを ありと聞きて わが通ふ道の 於吉蘇(おきそ)山 美濃の山 なびけど 人は踏めども かく依れど 人はつけども 心なき山の 於吉蘇(おきそ)山 美濃の山 (万葉集巻13-3242) 目指す御霊神社は瀬田駅からが一番近いのであるが、新快速は停車しない。一つ手前の南草津駅で下車。そこからトレンクルで走ることとした。(大津市月輪の八坂神社) 大津市に入った処で八坂神社があったので、立ち寄ってみた。(同上)(同上 神社由来) 瀬田の駅前通りを過ぎて大江4丁目の信号で左に入り、ひたすら直進すると、御霊神社である。(大津市大江地区の御霊神社)(同上)(同上 神社由緒) 由緒書きにある通り、此処も大友皇子を祭神としている。 前回の歌碑散歩で立ち寄ることを忘れて帰宅してしまった宿題をこれで果たしたことになる。 後は石山駅まで走るだけ。急がない旅であるが瀬田の唐橋を回って行くことにします。(瀬田川 唐橋遠望) さて、瀬田川と琵琶湖の境目は何処なんでしょうね。 そんなことはユリカモメにしろ。 この意味が直ぐに分かる方は万葉通ですな。 万葉歌では「後」を「ゆり」と訓んでいたりしますから、上は「そんなことは後にしろ」と「そんなことはイイカゲンにしろ」をくっつけた心算です(笑)。(瀬田の唐橋)(同上 ユリカモメ) 伊勢物語など古典に出て来る「都鳥」はこのユリカモメであるというのが定説になっていますな。まあ、「思ふ人」のことをきかれたり、瀬田川と琵琶湖の境目をきかれたり、都鳥も「往生しまっせ」。(芭蕉句碑)五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋 橋の近くに芭蕉の句碑がある。(同上 副碑)(句碑から唐橋) 先日の「大津歌碑散歩」の日記の瀬田の唐橋の写真を見て、友人の只麻呂氏からメールを頂戴した。元々が赤い色の橋であったのが、白い色に塗り変えられた。それに対して市民から色々と意見が出て、総じて不評であったことから、現在の黄色というか黄土色というか、このような色に塗り替えられたのだという。只麻呂氏も「白い唐橋」には違和感を持たれたお一人のようにて、以前に小生が白い色の唐橋の写真を掲載した折にも「色」について何やら苦言めいたことをいち早く仰っていたかと記憶しますが、今回の黄土色についてはご異論はない雰囲気でありました。 まあ、近江の人にとっては、瀬田の唐橋はそれだけ思い入れの深い橋であるということでもあるのでしょうな。色々と もめて黄色の 瀬田の橋 (筆蕪蕉) では、あっちこっちから、から橋をどうぞ。(南から唐橋)(東詰めから唐橋)(もっと南の方から唐橋) この碑の隣の土手にタイル・モザイクで俵藤太(藤原秀郷)が描かれた大きな絵が嵌め込まれている。 その背後に小さな神社がある。竜王宮秀郷社という、藤原秀郷を祀る神社である。折角なので立ち寄ってみた。(竜王宮秀郷社)(同上)(同上) 瀬田川畔や琵琶湖畔を銀輪散歩したる後、石山駅前で昼食。早々に帰途につきました。石山駅(京阪側)の2階広場の一角に芭蕉さんの像。 行く春を近江の人と惜しんでいるうちに、どうやらすっかり居付いてしまわれたようでありますな。鴨も白鳥も渡りを忘れて居付くのが居ますから、居付く芭蕉も亦有りであります。それなりに馴染んで居ります(笑)。石山の 上にも三年 経しからは 駅前広場 芭蕉の居場所 (お伴の旅人)(芭蕉像)
2013.01.17
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偐万葉・英坊篇(その16) 本日は偐万葉シリーズ第162弾、英坊篇(その16)であります。 <参考>過去の偐万葉・英坊篇はコチラからどうぞ。 その他の偐万葉リストは下記からどうぞ。 リスト1. リスト2. 英坊氏のブログはコチラからどうぞ。 偐家持が英麻呂に贈りて詠める歌16首 並びに英麻呂が作れる歌10首 英麻呂が贈り来れる歌2首手にとどく ザボンが欲しい 大和みち 秋の三日月 暮れの河内路思い出し 布勢の湖辺に さがす実の マユミは木々に 実のひとつなき 偐家持が返せる歌2首望月の ごとやザボンの 齧られて 河内の空の 三日月となり真弓の実 早や落ちぬれば 影もなき 布勢の水海 冬立つらむか日の照れば 燃ゆるもみぢ葉 赤々と 京都の秋は 見らくしよしも (詩仙堂の紅葉) (雄琴温泉)風に揺れ 置くや置かぬや 道の守 歩道も揺れぬ 湊大橋 英麻呂が贈り来れる歌1首なんやこれ 前も見えへん 迷枠な ちょい悪呼びは 沽犬ものだな 偐家持が返せる歌1首これやこの するもせざるも 伊達めがね 張るも張らぬも 見栄の江戸犬 (偐犬丸) (本歌)これやこの ゆくもかへるも わかれては しるもしらぬも 逢坂の関 (蝉丸 後撰集1090 小倉百人一首10) 英麻呂が贈り来れる歌1首酔いな客 ネオン明りに 目がくらみ 舟の渡しの 板を踏み抜く 偐家持が追和せる歌1首夕闇に もがり船かも 金色(こんじき)の 光帯(お)ばせる 船の過ぎ行くさすらひの 人にしもあれ さざなみの 志賀の辛崎 過ぎ行くときは 英麻呂が贈り来れる歌1首野ぶどうの 実の色珠の 首飾り つけてやりたや マドンナ何処(いづこ) 偐家持が返せる歌1首野葡萄の 実は摘まず置け 野にありて こそ美しき 色にしあれば 英麻呂が贈り来れる歌1首輪背負い 竹馬のりて 渡りたや 黄葉の路が こがねに見えて 偐家持が返せる歌1首銀杏の葉 すべて黄金(こがね)に ありしかば デフレたちまち 止むにはあれど (日本銀杏総裁)立山(たちやま)は 見らくしよしも 常夏(とこなつ)に 雪ふり敷ける 神の坐(ま)す山 (万葉ロードと立山連峰) 英麻呂が贈り来れる歌2首称されし 黄色いちょう葉 散り溜めの dead stock 行き方知らず紅芋の 家持みやげ 黄金の季 甘みあじ冴え お薄茶すすむ 英麻呂が贈り来れる発句に偐家持が付けたる脇句 厚葉蕗( あつはぶき) 困難に克つ 勇み花 (英麻呂) 民主の野田も 摘みて行くかも (偐家持)睦月立ち 雪は降りつつ しかすがに 背子がかたへに 梅の花咲く (本歌)風まじり 雪は降りつつ しかすがに 霞たなびき 春さりにけり(万葉集巻10-1836) (謹賀新年) 英麻呂が贈り来れる歌1首恋をした 相手の芋は 座頭市 その気をそらし 葉なかに頓挫 偐家持が追和せる歌1首恋すてふ その名は立ちき 里芋の 目立たぬ皮に 思ひ隠せど (里芋只煮) (本歌)恋すてふ わが名はまだき たちにけり 人しれずこそ おもひそめしか(壬生忠見 小倉百人一首41)ほのほのと 年明けぬれば 我が背子に 今か咲きぬる さざんかの花 (山茶花) 英麻呂が贈り来れる歌1首我ならば 祝盃重ね 酒呑童 赤ら顔にて 法螺撒き散し 偐家持が追和せる歌1首我ならば 一杯のみで 酒呑童 頼光待たず 昇天すなり (大江家持)高岡の 駅の広場に うち出でて ひとは緑の ラーメン食ひつつ (山富緑人) (本歌)田兒(たご)の浦ゆ うち出でてみれば 真白(ましろ)にぞ 不盡(ふじ)の高嶺に 雪は降りける(山部赤人 万葉集巻3-318) (高岡のグリーンラーメン)駅の人出 消(け)のこる時に いざ行かな 緑ラーメンの 汁の色見む (鍋祭家持) (本歌)この雪の 消遺(けのこ)る時に いざゆかな 山たちばなの 実の照るも見む (大伴家持 万葉集巻19-4226)<注>掲載の写真は英坊氏のブログからの転載です。
2013.01.15
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本日は雨。 首都圏の方は大雪であったようですが、こちらは、雨。 家で終日ゴロゴロして居りましたので、書くこともありませぬ。 で、雨のすさびの言葉遊びであります。虫の駄洒落。 このような愚にもつかぬものは、 というお方は「ムシ」して下さいませ。蜻蛉五十歩百歩トンボ、トンボの散歩、飛ばぬトンボはボトンと落ちるボストンのトンボとトンブクツーのトンボに道頓堀のトンボとんでもないですととぼけるトンボボンネットに寝てるトンボはトンマなトンボトンボの楽器トロンボーン蟋蟀凍るコオロギ、オロオロコオロギコロコロ鳴きぬ「花は香炉に打薫じ、そこはかとないコオロギです」(中原虫也)松虫待つだけは待とうマツムシ煮ても焼いても食えぬマツムシ蒸してはどうか陸奥のマツムシ、コツを掴んだマツムシ、真夏のマツムシ秋待つやヤツハシは齧ってもマツムシキリギリスキルギスから来たキリギリス、イギリスからも来たキリギリスギリギリで生きてこそキリギリス(裏磐梯のキリギリス・2012年10月5日の日記掲載写真の再掲)蟷螂なまくらカマキリが鎌倉なら、締切守らぬカマキリが島倉で、腑抜けたカマキリはフマキラーハマキやるカマキリとハラマキしてるカマキリ処構わず霧吹きするな、カマキリ寝巻のまま種蒔きするな、カマキリカマキリは居らんじゃろキリマンジャロカマキリいそうじゃ石切もうこれっきりですか。いえ、カマキリです。ピンからキリまでみなカマキリ、カマボコ切るカマキリキリなくカマを掛けるからカマキリ飛蝗威張ったバッタは張っ倒せ、でしゃばったバッタはぶっ倒せ口はばったいこと言うなバッタ、ばったり出会ったのはバッタ似たり寄ったりバッタのはったり、のこったのこったバッタの突っ張りまたまた待ったか勝手なバッタ、負けても勝ったとうがったバッタでしゃばったバッタがはまったところ、縛ったところでしがないバッタ立ったバッタ頭打った「いったあ~」と言ったわっと来てさっと去った雑多なバッタ、勿体ぶったらバッタになったなんてこったバッタンキューのバッタ欲張ったバッタと頑張ったバッタはちょっと違うだけだった、バット持って振ったバッタ三振バッターアウト蝉隅に居ても蝉、墨を塗られても蝉、いつもの笑みのいつもの蝉手短に言えばセミ、蝉が2匹でセミダブル、手ぶれの写真セミだぶる (ついでに回文を一つ・・夜店の前の絵馬の蝉よ)詰まらぬ駄洒落でお目汚しでございました。では、本日はこれにて。
2013.01.14
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先日9日の囲碁例会の記事です。大津歌碑散歩の記事のアップが続いていたので、今頃になっての掲載です。 今年初めての囲碁例会。出席者は青◎氏、福◎氏、竹◎氏、村◎氏、荻◎氏と小生の6名。荻◎氏は今回から参加の新顔。昨年に電話で小生に参加したいとの連絡があった人物。先ず荻◎氏と対局。完敗でした。次に、福◎氏と対局、またまた持碁にてルール上小生の勝ちとなり、今年の初白星。最後に青◎氏と対局して、これも負けて、今年の滑り出しは1勝2敗となりました。 午後4時頃に帰途に。例によってMTBでの銀輪往復でありました。多くは、天神橋か天満橋を渡って帰るのであるが、信号の成り行きで、この日は大川沿いを一つ上流まで走る。 大川は下流で中之島で堂島川と土佐堀川に分れ、中之島の西端で合流、一方は安治川、他方は木津川となって大阪湾に流れ込んでいる。上流は毛馬閘門で、そこで淀川から流れ込んでいる川である。かつての淀川本流。淀川はかつては下流で中津川、神崎川、大川(淀川)の3川に分流して大阪湾に注いでいたが、中津川流水路を開削して淀川放水路に一本化された。淀川放水路の工事は明治43年(1910年)に完成している。当初淀川放水路は新淀川と呼ばれ、毛馬閘門から分流の淀川本流(大川)を淀川と称していたが、次第に新淀川を淀川と呼ぶようになり、大川は旧淀川と呼ばれるようになったとのことである。 天満橋の先、寝屋川が流れ込んでいる合流点の辺りから上流の大川は大きく北方向に蛇行して毛馬閘門へと至るのであるが、小生の帰る方向は南東方向。そのまま川沿いを走ると随分の遠回りになってしまう。で、川沿いの桜之宮公園に入って、川崎橋という人道橋を渡り、大阪城方向へと向かうこととする。久し振りにこの橋を渡る。この橋から眺める大川両岸の桜之宮公園の桜はなかなかなものであるのだが、今は葉をすっかり落とした桜並木が見えるだけ。橋の先には遠く大阪城の天守が冬の夕日に照らされていた。(川崎橋) そして、本日13日は懐かしい面々との久し振りの再会となる、新年会で難波へ。3日に小生宅に訪ねて来た野◎氏からの話で、室◎氏、西◎氏、黒◎氏と新年会をやるが参加しないかということで、小生も参加させて戴くことになったもの。この3氏は、小生が勤務していた会社と同業ライバル会社の社員・役員であった方々であるが、若い頃から面識と交流のあった方たちで、久々の再会となり、旧交を温めることとなりました。 場所は難波の月日亭の一室。5時半に野◎氏と旧歌舞伎座の前で待ち合わせて会場に向かいました。室◎氏とは数年振り、西◎氏とは10年振り位か、黒◎氏に至ってはウン十年振りの再会でありました。皆さん変らずお元気なご様子。年代もほぼ同じとあって、何やら同窓会に似た雰囲気にて愉快で楽しいひと時を過ごすことが出来ました。7時過ぎには閉会。もう一軒行くという野◎氏と西◎氏を残し、室◎、黒◎両氏と小生は雨が降りそうな空模様と夜遅くには雨という天気予報も気になって、二次会は返上、帰途に着きました。(難波高島屋・南海難波駅 ) 明後日15日は小学校の級友の北◎君と新年会をやることになっている他、20日が若草読書会の新年会、25日がグループ企業総務・法務担当OB会の新年会、28日が健人会の新年会、2月6日が会社の後輩の畑◎氏、高◎氏、荻◎氏との新年会の予定が入っていて、ここ暫くは新年会が続くことになっている。 この中でもとりわけ愉快なのが北◎君との新年会。同君は小学校・中学・高校・大学と同じ学校に学んだものの、彼は理工系、小生は文科系に進んだこともあって、いつしか疎遠となり、大学時代に一度顔を合せて言葉を交わして以来会っていないという、まことに久々の再会となるものなのである。 先日、北◎君から突然に電話があった。最初は誰だかよく分からなかったが、彼だと分かってからは、こちらも懐かしさ一杯、再会を約したものなのである。同君は現在は奈良県に在住であるが、今年の初詣で久々に枚岡神社にやって来て、神社から近い処に住んでいる小生のことを懐かしく思い出して会ってみたくなり、電話をして来たのだと言う。電話番号は同窓会名簿で調べたよう。 中学の級友からの年賀状でも久し振りに会いたいから集まる機会を作って欲しい、というような添え書きのしてあるものもあったが、そろそろ旧友が懐かしくなって会ってみたくなる「年頃?」のようでありますかな(笑)。会ふといふも 会へぬときあり 会ふをうるを 会はぬは悔いを 残すなりけり (偐家持) (本歌) 来むと言ふも 来ぬときあるを 来じと言ふを 来むとは待たじ 来じと言ふものを (坂上郎女 万葉集巻4-527)
2013.01.13
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<承前> 長らくお付き合い戴きました大津歌碑散歩、途中から神社散歩となり、何やら訳の分からぬこととなりましたが、今回で最終回となりそうです。 そして、今回は歌碑も神社もない、何もないのであります(笑)。 建部大社の東側に田上山から瀬田川へと流れ込んでいる高橋川という小さな川がある。その川を渡って、住宅団地の中の道を少し東へ行くと近江国庁跡がある。 琵琶湖の排水は瀬田川1本がこれを担っている。瀬田川は京都府宇治へと流れて行き、宇治川と名を変え、石清水八幡宮の辺りで木津川、桂川と合流し、淀川となって大阪湾へと注ぐ。 芭蕉の句に「獺の祭見て来よ瀬田の奥」というのがあったかと思うが、瀬田川の奥へと下って行くと左岸方向にある山が田上山(太神山)である。ニホンカワウソは既に絶滅。カワウソの祭は見るよしもない。 (注)獺(かわうそ)の祭=カワウソは捕えた魚を並べる習性があり、それが お供えをしているのに似ていることから、獺祭(だっさい)と呼 ぶようになった。 ところで、獺祭忌(だっさいき)というのは、正岡子規の忌日(9月 19日)のことである。これは友人の凡鬼さんから以 前に読書会で教わりました。子規が獺祭書屋主人 と号したことに由来するという。 一方、田上山は名を太神山と変えてはいるが今も健在である。湖南アルプスとも呼ばれる山々の一つであり、随分の昔に自転車(トレンクル)で登ったことがある。万葉にも詠われている山である。万葉集巻1-50の「藤原宮の役の民の作れる歌」に「・・淡海の国の 衣手の 田上山の 眞木さく・・」と出ている。また、次の作者不詳歌にも登場する。 木綿(ゆふ)だたみ 田上山(たなかみやま)の さなかづら ありさりてしも 今ならずとも (万葉集巻12-3070) 唐橋を渡って東へと走って来てしまったので、カワウソの祭は芭蕉さんにお任せ、田上山は「今ならずとも」そのうちに逢いましょう、ということで、近江国庁跡に到着であります。 小生も今回が初訪問であるが、芒芒たる感じにてなかなかによろしい。近江国衙跡と刻された碑が建っている。国衙の主たる建物の基壇とそれを取り巻いていたであろう土塀の一部の復元物があるばかりにて、他には何も無い。何も無いからいいのである。古跡はやたらに復元したりしない方がいい、というのが小生の感覚であり、意見でありますな。(近江国衙跡の碑)(近江国庁跡説明板)(近江国庁跡見取り図)(国庁跡・北方向を望む。) 復元物が出来てしまうと、確かに過去の建物を目にして正確なイメージが描けるというものではあるが、それは少しも詩的でも文学的でもありませぬ。茫洋とした何も残っていない中で在りし日の様を想像するという方がはるかに豊かなイメージが描けるというものである。(同上・北東方向を望む。)(同上・南東方向を望む。) 先に訪ねた大津京跡地の錦織遺跡は住宅がしみみに建て込んだせせこましい一角にあったので、人麻呂の近江荒都歌のイメージとはうまくつながらなかったが、この近江国庁跡に立つと、たまだすき うねびのやまの かしはらの ひじりのみよゆ・・と近江荒都歌も自然に口をついて出るのである。(同上・復元された土塀の一部)(主屋建物の基壇) 奥の森が多分御霊神社(大江地区)であろう。(同上・説明板)(同上・土塀跡)(同上) で、日も傾き、影が長く伸びて参りました。影持君が登場しそうな時刻だと思いきや、果たして、その通りとなりました(笑)。(近江影持殿ご登場です。) 土地柄か「偐影持」ではなく「近江影持」君のようであります。 影持君登場で気持ちが他所見をしたか、それとも気持ち焦ったか、国庁の北東に隣接しているもう一つの御霊神社(大江地区)に立ち寄るのを忘れて帰途に着いてしまいました。 まあ、何か一つは忘れた方が再度来るための口実になる、という小生の論理からすれば、これでこそ「完璧」な散歩であったということになりますが(笑)。 大津歌碑散歩、可否を問うまでもなく、これにて完結不可避。可も不可も これなくあれば 鹿もまた 見ざるの鴨の 冬の旅かも (鴨短命) さて鴨は何羽?最後は「駄洒落」散歩にて完結と致します(笑)。 懲りもせず、長らくのお付き合いを賜りました皆々さま、どうも有難うございました。 因みに鴨は、短命の鴨も入れて、6羽かも? そして、鹿1頭、猿1匹でござる。 <完>
2013.01.12
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<承前> 茶臼山古墳の前の休憩所からの眺めもなかなかいい。 正面に近江富士の三上山。手前の橋は近江大橋である。(茶臼山古墳の前から琵琶湖を望む) 国道1号線に戻り、南へと走る。JR・京阪石山駅の少し手前の三叉路を右に入って300m程行くと、御霊神社がある。 大友皇子が祭神である。壬申の乱の頃のこの地域の人々にとっては大海人皇子軍は侵略軍・反乱軍、近江朝廷・大友皇子に心を寄せていたに違いない。大海人軍に滅ぼされ、大友が自害した後も、ひそかにその霊を祀ったりもしたであろう。この地域に大友皇子を祀る神社が多いのも、そういうことかも知れない。御霊神社というと、祟り神を鎮めるという怨霊信仰によるものや祖先神の「み魂」を祀るもの、五柱の神(五霊)を祀るもの、など性格も色々あるようですが、大友皇子の場合は怨霊信仰に依るものと考えてもいいような気もします。 天災や疫病など凶事が発生した際に、何の祟りかと思いめぐらして、この地の人々が先ず思い浮かべたのが、無念のうちに死んだ大友皇子であり、その祟りだと考えたとしても不思議はない。 大友皇子の子孫が今も居られて、茶臼山古墳の上に大友の墓だという「葬り塚」があり、少し先には、近江朝廷が滅ぶこととなった最後の戦いの場、瀬田の唐橋があるのだから、大友皇子にまつわる神社が多いのも納得というもの。(御霊神社<北大路地区>) 上の写真の鳥居の内側には沢山の自転車。これは境内で「隠れんぼ」だったか「鬼ごっこ」だったかをしていた小学生たちの自転車。(同上)(同上)(同上) 上の御霊神社から500m程南の鳥居川町にも御霊神社がある。京阪線唐橋前駅の直ぐ裏手(西側)になる。 北大路の御霊神社から南へ、最初の辻で左(東)に入るのだが、何を勘違いしたか、右(西)に入ってしまった。本人は東に向いて走っている心算だからいけません。何か変だと気が付いた時には新幹線の前まで来ていた。方向感覚がここでやっと正常に回復し、南に来過ぎていることに気付く。 そんなロスを経て辿り着いたのが鳥居川町にある、もう一つの御霊神社。(御霊神社<鳥居川地区>) 鳥居前にトレンクルを駐輪(写真上)して、社殿へと向かう。ここの祭神も大友皇子である。(同上)(神社由緒) 御霊神社を出て、京阪石山坂本線・唐橋前駅に出る。(唐橋前駅) ここまで来れば、瀬田の唐橋を渡る他ありませぬ。 瀬田川には中の島がある。従って、瀬田の唐橋は、西岸と中の島に架かる短い橋と東岸へと架かる長い橋という二つの橋で構成される。どっちからも「から橋」です。(瀬田の唐橋・短い方)(同上・長い方) 中の島の高みから撮影した長い方の唐橋が上の写真。撮影して振り返ると何やら像がある。三上山の大ムカデ退治伝説で有名な俵藤太こと藤原秀郷の像だ。 ムカデの話まで書くとページが尽きてしまう。それは何じゃ?というお方は下記をご参照下さい(笑)。 <参考>藤原秀郷・Wikipedia(俵の藤太こと藤原秀郷の像) 唐橋には、日本武尊を祀る建部大社の幟が翻っている。 ならば、と建部大社まで足を延ばすことに。いつの間にやら歌碑散歩が神社散歩になっている(笑)。 「かひなくたたむ名こそをしけれ」ではありませぬが、「歌碑なく行かむ神のみやしろ」でありますな(笑)。 唐橋を渡って400m程行くと建部大社の一の鳥居である。建部大社の説明は下記に譲りましょう。 <参考>建部大社ホームページ(近江一之宮・建部神社・一の鳥居)(同上・二の鳥居)(神社由緒) さすがに近江国の一之宮である。参拝の方が多い。(同上)(同上・拝殿と神木の三本杉)(同上・本殿、ヤマトタケルを祀る) 本殿脇にはヤマトタケルに所縁の方々を祀る祠が沢山並んでいるが、目に付いたのを二つばかり。 一つはその父・景行天皇の祠で、他の一つが大伴武日の祠。(景行天皇祠)(大伴武日・吉備武彦祠) 大伴武日と吉備武彦はヤマトタケルの東征に随った家来。武日は家持から見れば9代前のご先祖様。武日の息子の武持(武以)の時に「大伴」の姓を賜っているから、武日は正確には「大伴」という姓ではないが、そういうことは、まあどうでもいいでしょう。 本日はここまでとします。(つづく)
2013.01.11
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<承前> 長等公園から更に坂道を上って行くと小関越えで、京都府に入る。一昨年の9月に京都駅から小関越えで近江へと自転車でやって来たことがあるが、その折には長等公園(京都側から見て、右)の方には下らず、(京都側から見て、左)長等神社の方に下りました。 <参考>京都から唐崎へ(3) 2011.9.12. 京都から唐崎へ(4) 2011.9.12. どんどん上って行くとその小関越えの道に出るのでしょうが、今回は桜広場から山を下ることとし、逢坂方向への道を行くことに。国道1号線に出て、唐橋方向へ走るためである。 その前に、展望台から琵琶湖を眺めて置きましょう。(長等公園桜広場展望台からの眺め) 写真の左に突き出しているのが柳が崎である。先程までそこに居たのであるから、かなり上って来たことになる。その更に左側奥に遠く見えているのが「さざなみの志賀の辛崎さきくあれど・・(万葉集巻1-30)」の唐崎であろう。(桜広場から上栄町駅・逢坂方面への下り道) この山道を下ると山裾を廻る舗装道路に出る。その道を右に進むと逢坂。浜大津から上って来る道と国道1号線が出会う地点に出る。そのまま国道1号線を辿れば逢坂の関跡を経て京都・山科へと至るのであるが、ゆくもかへるも、しるもしらぬも、は蝉丸さんに任せて、ヤカモチは逢坂の関とは反対方向、東へと国道1号線を下る。 JR膳所駅の先の西の庄地区にある石坐神社と法傳寺を目指して走る。道はゆるやかにカーブして膳所駅の先辺りからはほぼ南向きに進むこととなるが、その辺りで左に入り、JR線を渡り、西の庄地区に入る。 先ず見付けたのが石坐神社。(石坐神社) (石坐(いわい)神社) 神社の祭神は、湖国らしく主神は綿津見であるが、大友皇子とその両親である天智天皇、伊賀采女宅子娘も祭神になっている。下掲の由緒にある通り、当社にはこの3人の平安期制作の木像坐像が神像として伝わっているのでありますな。((石坐神社由緒)(同上)(本殿)(本殿)(本殿説明板) 石坐神社から100mほど西に法傳寺という寺がある。 この寺の住職さんは大友姓で大友皇子の子孫だそうな。 大友皇子の子の与多王は、大宝元年(701年)に出家し、法傳寺の前身である一乗院円明寺の第5世住職になったのだという。法傳寺の山号は粟陵山であり、その意味はこの地・粟津の御陵という意味で、寺の南方1km程の位置にある茶臼山古墳が大友皇子の御陵で、それを指しているのだそうな。 明治政府は、長等山麓の塚を大友の墓(弘文天皇長等山陵)としたが、地元では茶臼山古墳を大友の墓としていたようだ。まあ、墓は遺体が埋葬されていようがいまいが、そこを墓と考える人がいれば、そこが墓である、という小生の考え方に従えば、長等山でも茶臼山でもどちらでもいいし、両方とも墓であってもいい、ということになるから、この問題には立ち入らないこととします(笑)。(法傳寺)(法傳寺) ということで、次の行き先は茶臼山古墳ということになりました。再び国道1号線に戻り、国道を渡って坂を上って行くと茶臼山古墳という石碑が目に入りました。(茶臼山古墳) 古墳の墳丘上には神社があるらしく、鳥居がある。秋葉神社とある。大友皇子とは関係がないですな。 秋葉神社の社殿の奥、前方後円墳の後円部の墳丘上に5つの塚があり、その一つが大友皇子の塚であると伝えられている、と「葬り塚」と題した説明板には書いてある。 もっとも、教育委員会作成の説明板では4世紀末~5世紀頃に築造の古墳とあるから、この古墳が大友の墓である訳はない。この古墳の墳丘上に村人達が大友皇子たちの亡骸をひそかに葬った、ということなら、話として矛盾はないこととなる。しかし、どなたかは存じ上げぬが、この古墳に眠っている墓の主からすれば、「何をしてくれるのだ。」でしょうな。(茶臼山古墳平面図)(茶臼山古墳説明板)(茶臼山古墳・秋葉神社参道)(葬り塚説明板)(秋葉神社) 上の写真の秋葉神社の社殿の横を通って奥に進むと塚がある。塚と言っても、大きな木の回りに石が正方形に並べられているだけのものである。(大友皇子の墓と伝えられる塚) これが大友皇子の墓。その右後に見えているのが与多王の墓。墓の前に立っている白い棒状のものには「法傳寺」と記してある。法傳寺さんが供養されているのですな。まあ、ご住職の大友さんが大友皇子の子孫なら御先祖の墓ですから、当然のことではあります。 大友皇子の首は、切り取られ、大海人側の将、村国男依によって、関ヶ原の野上行宮の大海人皇子の許に運ばれ、首実検の後、その地に葬られたという話もあるから、それが事実なら、ここが墓だとしても首から下の胴体だけが葬られているということになる。 首の方は関ヶ原の藤下地区の若宮八幡宮の裏山の自害峯に葬られているというから、次回は関ヶ原に銀輪散歩に出掛けるか、など思いつつ、墓を後にしたのでした(笑)。(与多王の墓と伝えられる塚<左側>) 本日はここまでとします。 次回は、大友皇子を祀る御霊神社へと参ります。(つづく)
2013.01.10
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<承前> 柳が崎湖畔公園に到着。ここはかつて琵琶湖ホテルであった処。琵琶湖ホテルが浜大津に移転した後、大津市が敷地・建物を買い取り、2002年に親水公園としてリニューアル開園したもの。 先ず出迎えてくれるのが、びわ湖大津館の独特の建物。琵琶湖ホテルであった頃は「湖国の迎賓館」とも呼ばれ、昭和天皇、ヘレンケラー、ジョンウェインなども宿泊したという建物、市の有形文化財に指定され、現在は、レストラン、喫茶店、貸会議室、多目的ホール、琵琶湖ホテル博物館などを備えた文化施設となっている。(びわ湖大津館) 小生の敬愛する友人、鯨麻呂氏(「くじらまろ」と読まないで下さい。万葉風に「いさなまろ」と読みます。)は、この近くにお住まいである。同氏から頂戴したヨットハーバーの絵は、今も部屋を飾ってくれているが、その絵に描かれたヨットハーバーがこの公園に隣接している。 <参考> 絵画その2 2008.6.13. 近江鯨麻呂絵画展(県営ヨットハーバー) イングリッシュ・ガーデン外周の湖岸遊歩道を行くと犬養孝先生揮毫の人麻呂歌碑がある。(犬養万葉歌碑)淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努尓 古所念 (柿本人麻呂 万葉集巻3-266) この歌の歌碑は大津京シンボル緑地(「その2」参照)にもありましたが、この歌に相応しい歌碑の場所は、やはり湖岸だ。夕浪千鳥の姿はなくも湖面に揺れる光は「古思ほゆ」の気分とうまく溶け合う。 この歌は(その1)で紹介の近江荒都歌に続けて作ったものであるかどうかは別にして、近江の荒れたる都を目にした後の歌であるに違いない。壬申の乱の折には人麻呂は12~3才位であったかと思う。そうなら彼は大津京の栄えていた光景も目にしていた筈。荒れた廃都の様子に心萎れて思いも複雑であっただろう。その思いはこの歌にも繋がっている。 琵琶湖から瀬田川(下流が宇治川)を下り、宇治川畔で彼が詠んだ次の歌も、その後の旅がこの歌の気持ちを引きずったままであったことを覗わせる。もののふの 八十氏河(やそうぢがは)の 網代木(あじろぎ)に いさよふ波の 行方(ゆくへ)知らずも (柿本人麻呂 万葉集巻3-264) 柳が崎を後にし、国道161号線を南へ。2km位で浜大津。そこから西へ坂道を上る。北国街道を右に入ると長等公園である。少し南へ来過ぎたようだ。地理に詳しくない土地、どの辺で道を入るのかがよく分からなかったのだ。(北国街道) 長等公園は、琵琶湖疏水沿いに京都・山科へと至る小関越えの山道のとっかかりにある山腹の公園。ギアのないトレンクルで上るのはかなり苦しい。途中からは押して行く羽目に。 三橋節子美術館への進入路前の広場にミツマタ(多分)の木があった。春さればまづ三枝のさきくあらば・・(万葉集10-1895)のサキクサ(三枝)である。 ミツハシの前にミツマタ。まるで駄洒落。これでヤツハシを齧ったら嫌味ですかな(笑)。さりとてミツマメはご免です。(長等公園のミツマタ) その広場の奥に、大友皇子の詩碑があった。(大友皇子詩碑)皇明光日月 帝徳載天地 三才並泰昌 萬國表臣義 (大友皇子 懐風藻1)皇(くわう)明(めい) 日月と光(て)り 帝徳 天地に載(み)つ 三才 並びに泰(たい)昌(しやう) 万国 臣義を表(あらは)す (訳) 天子の威光は日月の如く輝き 天子の聖徳は天地に満ち溢る 天地人ともに太平で栄え 四方の国は臣下の礼をつくす 大友皇子は天智天皇の子。天智崩御後、皇太子として亡き天皇に代わって近江朝廷の政務を執っていた(これを「称制」という)が、大海人皇子の挙兵により、近江朝廷軍は敗北。大友皇子は山前の地で自害し果てる(672年)。24才であった。 懐風藻は我が国最初の漢詩集。編者が誰であるかは不詳であるが、大友皇子の子孫になる淡海三船だとする説もある。その懐風藻の冒頭の漢詩がこの詩である。現存する我が国最初の漢詩の作者は大友皇子なのである。 彼の子の与多王は父・大友の菩提を弔うため自分の身代を投げうって寺を建てる。長等山園城寺(通称、三井寺)である。 大友は天皇に即位しなかったと考えられるが、江戸時代になって、大友天皇即位説が力を持ち、明治政府の公式見解も即位説を採用、明治3年(1870年)に弘文天皇と追号され、この公園の北方1km程の処(大津市役所の裏)にある塚が弘文天皇陵とされた。 さて、時刻も正午過ぎ。詩碑近くの広場でお弁当タイムとする。来る時に乗り換えの近鉄西大寺駅で仕入れた「おむすびセット」である。その場で温かいご飯をおむすびにしてくれるのであるが、さすがにもう温かくはない(笑)。 昼食後、更に坂道を上り桜広場へ。そこに平忠度の歌碑がある。それを撮影して置こうというもの。階段の道。例によってトレンクルは肩に担いで行く。(長等公園桜広場への道) 上り切ると、その名の通り、桜の木が多く植えられている広場になっていて、木製の展望デッキもある。(平忠度歌碑) 歌碑の歌は、(その2)で紹介した忠度の歌碑と同じ、「昔長等の山桜かな」の歌であり、重複するので、ここでは「青葉の笛」に出て来る、箙に結び付けられていたという「花や今宵」の歌の方を掲載して置きます。行(ゆき)くれて 木(こ)の下かげを やどとせば 花やこよひの あるじならまし (平忠度) どうやら、文字制限数一杯のよう、小生もしばし木の下かげに休むこととし、続きは次回と致しましょう(笑)。(つづく)
2013.01.09
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<承前> 大津京シンボル緑地にある歌碑は次の通りである。(天智天皇歌碑)秋の田の かりほのいほの 苫を荒み わが衣手は 露に濡れつゝ (天智天皇 古今六帖2 小倉百人一首1) この歌は、万葉集の作者不詳歌「秋田刈る刈廬(かりほ)を作りわがをれば衣手寒く露ぞ置きにける(万葉集巻10-2174)」の改作であり、天智天皇の作ではないとされているが、小倉百人一首の冒頭の歌であり、藤原定家さんが天智天皇の歌と認め、競技カルタの名人戦・クイーン決定戦が行われる近江神宮には天智天皇御製歌として巨大なこの歌の碑が建てられているのであってみれば、その「可否(歌碑)」を問うまでもなく、ここにこの歌碑があることも亦よしとすべきものでありましょう。 次は額田王の歌碑。(額田王歌碑)君待つと わが恋ひ居れば わが宿の すだれ動かし 秋の風吹く (額田王 万葉集巻4-488) この歌は、額田王が天智天皇を「思ひて作れる」歌と万葉集の題詞にありますから、天智天皇の上の歌碑の隣にあるのも亦「よし」でありますかな。大津京駅前で天武天皇と恋の歌をやり取りした額田王、1km離れた近江神宮前では、天智天皇に心を寄せて居りますか(笑)。 (注)題詞の「近江天皇を思ひて」の近江は後年に紛れ込んだもので、元は「天皇を 思ひて」であり、この天皇は、天智ではなく天武だという説もあります。自転車で 5分走らば 気の変る 女心は いかにとやせん (変田王)世の中に 変らぬものの 何やある つねはかたかり をのこもしかり (変家持) 次は藤原鎌足の歌碑。(藤原鎌足歌碑) 吾者毛也 安見児得有 皆人乃 得難尓為云 安見児衣多利吾はもや 安見児得たり 皆人の 得かてにすとふ 安見児得たり (藤原鎌足 万葉集巻2-95) まあ、何という無邪気な喜びようでしょう。 天皇に仕える采女という身分の女性にチョッカイを出すことは禁じられている。その采女の一人であるヤスミコちゃんを天智天皇から賜った、というので手放しで喜んでいる歌であります。 しかし、いいオッサンで且つシタタカな内大臣鎌足のこと、これも額面通りに受け取るべきではないでしょう。このように喜んで見せて、天皇のご機嫌を取り、同時に他者に対して天皇との強い絆を見せつけ牽制するという計算も働いての歌かも。これも亦宴会での戯れ歌であると考えるのがしっくり来るようですな。 次は、柿本人麻呂の歌碑。これも有名な歌。(人麻呂歌碑)近江の海 夕浪千鳥 汝が鳴けば 心もしのに 古思ほゆ (柿本人麻呂 万葉集巻3-266) 「心もしのに」は「心乱れて」という解釈もあるようですが、ここは「心しおれて」と解釈する方が歌の雰囲気とマッチするでしょう。「琵琶湖の夕波のうえに鳴き騒ぐ千鳥よ。お前が鳴くと、私は心もしおれて昔のことが思われるよ」と人麻呂さんは詠っていますが、時刻は未だ朝、此処からは琵琶湖も見えない、ということで、歌碑の立地条件も立ち寄った時間環境も残念ながらミスマッチでありました(笑)。 次は、ぐんと時代が下がって、平安末期の平忠度の歌碑。(平忠度歌碑)さざ浪や 志賀のみやこは あれにしを むかしながらの 山ざくらかな (平忠度 千載集) 平忠度( たひらのただのり)は伊勢平氏平忠盛の六男。清盛から見れば一番下の弟ということになる。熊野育ちで体格もよく身のこなしも俊敏、和歌も得意という文武に秀でた人物であったようだ。 咋年の大河ドラマでは、ヒゲもじゃで剽軽な人物で登場して居りましたが、反平家の藤原基房・兼実らとの歌の掛け合いでは次々と見事な歌を返して、清盛ほか平氏一門の体面を守るというか、面目を施すという場面がありましたが、その忠度の歌碑であります。 この後行くことになっている長等公園にも以前から平忠度のこの歌の碑があるのだが、ひと足早く此処で対面してしまいました。 唱歌「青葉の笛」の1番の歌詞は平敦盛のことを歌ったものだが、2番の歌詞「更くる夜半に門(かど)を敲(たた)き わが師に託せし言の葉あわれ いまわの際(きは)まで持ちし箙(えびら)に 残れるは『花や今宵』のうた」は、この忠度のことを歌ったものである。 藤原俊成を歌の師としていたのでもありますれば、偐定家をも名乗ることある偐家持、彼には親近感を抱かざるを得ない(笑)。歌詞にもある通り、平家都落ちの際に師の俊成を訪ね、自作の和歌集を託し、俊成が編纂中であった千載集に1首だけでも自分の歌を採用して欲しいとお願いするのでありますな。で、俊成が千載集に採用した1首が、この歌であったという次第。 この歌の本歌は高市黒人の「さざ浪の国つみ神のうらさびて荒れたる京見れば悲しも」(万葉集巻1-33)とされるが、人麻呂の近江荒都歌をも踏まえたものであろう。滅んで行こうとする平家と壬申の乱で敗れ去った近江朝廷側とを重ねてみると、哀れさもひとしお。俊成もそんな思いでこの歌を撰んだのであるか。(近江神宮) 近江神宮境内には、天智天皇の「秋の田」の歌碑のほか、上述の高市黒人の歌碑や「夕浪千鳥」の人麻呂の歌碑もあるのだが、過去に紹介済みなので、今回は立ち寄らず、鳥居前を通過、神宮道を下り、柳が崎湖畔公園へと向かう。 <参考>百穴古墳群から近江神宮・弘文天皇陵へ 2012.1.27. 広い神宮道をひたすら湖畔に向かって下ると、国道161号線に出る。柳が崎交差点である。傍らにこのような道標がありました。(神宮道の道標) 国道161号線を渡り直進。直ぐに湖畔緑地公園入口である。 しかし、そろそろ字数制限です。続きは次回です。(つづく)
2013.01.08
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昨日6日は大津を銀輪散歩して参りました。 テーマは歌碑廻り。 湖西線の大津京駅で下車。トレンクルを組み立てて出発。 先ず、駅前にある万葉歌碑にご挨拶。(大津京駅前の万葉歌碑) 歌は、ご存じ、額田王と大海人皇子(後の天武天皇)の歌。天智天皇7年(668年)5月5日の蒲生野遊猟の際に額田王と大海人皇子とが交わした歌である。 蒲生野は琵琶湖の東岸、近江八幡市の東方旧八日市市(現東近江市)から旧蒲生町(同)にかけて広がっていた原野であったのだろうと思われるが、昔、若草読書会のメンバーとも行ったことのある近江鉄道八日市線の市辺駅前にある船岡山万葉公園には古くからこの歌の歌碑がある(下掲写真)。あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る (額田王 万葉集巻1-20)紫草(むらさき)の にほへる妹を にくくあらば 人嬬(ひとづま)故に 吾(あれ)恋ひめやも (大海人皇子 万葉集巻1-21)(東近江市の船岡山万葉公園にある歌碑) 高校で習ったのは大海人と額田とが交わした恋の歌、相聞歌としてであったが、最近は、宴会での戯れ歌と考えられているようでありますな。 この時の大海人は37才、額田は年齢不詳であるが40才前後か、二人の間の娘、十市皇女は既に15才位。天智は42才。今更、天智・天武・額田の三角関係でもあるまいから、宴会の戯れ歌というのは納得でありますな。 JR湖西線・京阪石山坂本線を越えて県道に出る。これを右に取って北へと走る。この辺りは、駅名「大津京(旧名「西大津」)が示す通り、天智天皇の大津京のあった場所。錦織地区にはその遺跡が点在している。その内の一つ第1地点には人麻呂の近江荒都歌の歌碑がある。(錦織遺跡第1地点)(人麻呂歌碑・近江荒都歌) 近江の荒れたる都を過ぎし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌玉だすき 畝火の山の 橿原の 日知(ひじり)の御代ゆ 生(あ)れましし 神のことごと つがの木の いやつぎつぎに 天(あめ)の下 知らしめししを 天(そら)にみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え いかさまに おもほしめせか 天(あま)ざかる 夷(ひな)にはあれど 石走(いはばし)る 淡海(あふみ)の国の ささなみの 大津の宮に 天(あめ)の下 知らしめしけむ 天皇(すめろぎ)の 神の尊(みこと)の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる かすみたつ 春日(はるひ)の霧(き)れる ももしきの 大宮処(どころ) 見れば悲しも (柿本人麻呂 万葉集巻1-29) この歌は、万葉集には制作時期の記載がないので、いつの作なのかは分からないが、一説では持統天皇2年(688年)の作だとする。天智天皇の菩提寺である崇福寺という寺があった。その跡とされる崇福寺跡が近江神宮の北方1.5km位の山中にある。持統天皇の使いで人麻呂が崇福寺を訪ねたというのである。その折に、672年の壬申の乱で焼け落ち、すっかり荒れ果ててしまったこの辺りを、その12年後に通った折に詠んだ歌ということになる。諸行無常・盛者必衰という仏教の無常観がこの時代どれほど一般的なものとなっていたかは分りませぬが、荒れ果てた都の跡地に立てば、仏教の無常観に関係なく「かなし」という茫漠たる寂寥感に包まれるというものであっただろう。 現地は住宅街の一角にて、茫漠たる寂寥感とは程遠いが、「大宮はここと聞けども大殿はここと言へども」の感は同じである。違いは「春草の茂く生ひたる」ではなく、「住宅の繁く建ちたる」であることだ(笑)。 錦織遺跡についての説明は、下の写真でご覧下さい。(錦織遺跡案内板)(内裏の回廊の一部を示す柱列)(注)この場所は、大津宮内裏の南東の隅に当り、柱 列は門からのびる回廊の一部を示している。 数十メートル北に行くと遺跡第2地点がある。天智天皇が政務を執った内裏正殿跡と見られている。(錦織遺跡第2地点)(内裏正殿跡の一部) 更に北に100mほど行くと近江神宮である。その手前に大津京シンボル緑地というちょっとしたスペースがある。まだ出来て新しいものであるが、色々と歌碑が並んでいる。(大津京シンボル緑地) ここの歌碑全てを紹介していると字数制限をオーバーしそうです。よって、キリのいいこの辺りで今回の記事は打ち止めとし、歌碑のご紹介は次回とします。(つづく)
2013.01.07
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本日6日は滋賀県大津を銀輪散歩して参りましたが、その写真の整理などで時間を取られ、智麻呂絵画展開催が日付をまたぐこととなってしまいました。今年も智麻呂絵画展ご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ 今年最初の智麻呂絵画展にてありますれば、先ずは智麻呂氏の新年のご挨拶の絵から。(巳の絵馬) 上の絵馬は、デイサービスでお作りになられたもの。毛糸を貼り付けヘビに見立てたるなど、いとをかし・・でありますかな。その心は「なが~いお付き合いを」であります。 <おまけ>タバコするヘビ、ヘビースモーカー(大津絵) 上は、ご存じ大津絵であります。昨年の琵琶湖旅行の折に恒郎女様が長等神社の門前にある大津絵のお店で買い求められましたものです。その1枚を模写されました。 念仏鬼 足温めたや 寒修行 (恒郎女) 絵に添えられていた恒郎女様作の俳句であります。 <おまけ>鬼とあったら返れ、漢文の教師に教えられた。未だに 鬼とは会ったことないが、多分、鬼と会ったら帰れない。 さて、お正月でもありますれば、めでたく紅白と参りましょうか。 先ずは、白い椿と紅い山茶花です。(寒椿) 上の椿は、星野富弘氏の画集からの模写であります。 下の山茶花は、実物からの写生であります。(山茶花) 山茶花繋がりで、偐山頭火さん絡みの紅白です。 山頭火 茶化して見れば 山茶花に (筆蕪蕉) 山茶花に 似て非なるかな 山頭火 (筆蕪蕉)(相揃いまして) 上は、偐山頭火さんからの和菓子。 雪兎も青林檎も柿も、みなをかし(お菓子)。 <おまけ>お茶沸かしてお菓子、明石のお菓子、泣かした後でお菓子 置かしてもらったお菓子、春日神社に菓子がある、 昔のお菓子、菓子欲しがるカシュガルの子 下は、偐山頭火さんご持参の紅白のお餅。(餅) 次も偐山頭火氏絡みですな。昨年暮れに当日記でもご紹介しました、同氏撮影の例のNHK入選写真を絵にされたものであります。(ハルカスと五重塔) 次は凡鬼さんの野菜たち。いつもながら元気一杯の野菜です。(大根・蕪・里芋) <おまけ>大根のこん負け、大言壮語・大根小心 アブラカタブラ・カブラウマヅラ、蕪の銀ブラ 座頭市の里芋、恋もする里芋 次は蜜柑シリーズ。(蜜柑「小原紅早生」) 上は偐家持の知人が香川で作っているちょっと変わり種の蜜柑であります。下は槇麻呂氏からの熊野の蜜柑。「花や今宵の」ならぬ「蜜柑や今年の」であります。(熊野の蜜柑) 次は蜜柑ならぬ柚子であります。 よく噛んでミカン、譲り合ってユズ。 ヤカモチ館長も疲れて来ました(笑)。(柚子)(フルーツケーキ) はい、世界一美味しいケーキは鎌倉の五◎さんからのもの。 そして、下は、世界一可愛いみずきちゃん・さきちゃん姉妹からのクッキーであります。智麻呂邸のご近所の幼い姉妹お二人は智麻呂さんのよきお友達でもあります。(みずきちゃんとさきちゃんのクッキー) 次は、和郎女さんからのクッキーです。(和郎女さんからのクッキー) ちょっと皆さん食べ過ぎになられたようですから、食べ物から離れることとします。(チューリップ) 上は、デイサービスで描かれたもの。下は、昨年お嬢様達と行かれた神戸花鳥園のオオハシ君。(オオハシ) そして最後は、沖縄で自主トレを始めたチッチであります。 チッチは第11回展と第32回展に登場して居りますので、詳しいご紹介は省略させて戴きます。上のお嬢様ご家族の沖縄旅行でのお写真からの絵です。(沖縄のチッチ)
2013.01.06
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暫くブログから離れていました。 元旦早々に年賀の記事更新をした後、ご無沙汰でした。余り休んでいると正月早々に風邪でも引いたかと思われそうですから、この辺で記事を更新することとします。 2週間ほど後に迫った若草読書会の資料作りをしていました。新年会を兼ねた正月の読書会は、小生が担当で万葉関連の話をすることになっている。しかし、今回はなかなかテーマが決まらず、年が明けて、エイクソ(失礼)と決めて資料作りに取り掛かりました。 で、我が国最初の漢詩集である「懐風藻」を参照する必要が生じたのでありましたが、この本は生憎と持ち合わせていない。それで、昨日4日に近鉄布施駅前にある「ひばりや書店」までMTBで買いに出掛けました。今年初めての銀輪散歩となりましたが、その書店には置いていませんでした。 講談社学術文庫の中の1冊なので、置いてあるかと思いましたが在庫切れでした。空振りは潔しとしないヤカモチ、そのまま、梅田まで走り、紀伊国屋書店まで行ってゲットして参りました。(懐風藻) 寒い日であったが、自転車で走ると汗ばむ位。 冷たい風も心地良い。本が「懐風藻」なら銀輪は「快風走」だ。 帰途は囲碁例会の際に走る中央大通りを走ることに。JR環状線森ノ宮駅近くまで来ると、既に傾いている日に照らされて大阪城の天守が輝いていました。(大阪城) 今日、5日は午後から智麻呂邸へ年賀のご挨拶。新作絵画を沢山仕入れて参りましたが、まだ、整理が出来ていませんので、智麻呂絵画展開催は今しばらくお待ち下さいませ。 ということで、手っ取り早く記事にするとなれば、やはり「言葉遊び」でしょうか。和歌と行きたい処ですが、もっと手早いのは「駄洒落」ですな(笑)。で、本日は駄洒落・魚篇であります。 「サバ読むサバと振りするブリ」は、昔、「お蔵百人一首」を作った時に使用した駄洒落であるが、今回の駄洒落もこの類である。バカバカしいとお思いの方はパスして下さいませ。鯖 束になってもサバ 娑婆が恋しいサバ サボるなサバ はばをきかすサバ さばけたサバ やばいサバ そばに居ないからサバ鰤 知らんぷりのブリ 屁をひるブリ カンブリア紀から来た寒ブリ鮪 お歯黒しててもマグロ 羽黒山のマグロ 真っ黒なマグロ 愚弄されたマグロ マグロのマグレ当たり鮒 ハナからフナです鯉 恋するコイ せこいコイ 甲斐のコイ 薄い色でもコイ鮎 歩めアユ 眉ひそめアユアマゴ 雨乞いするアマゴ アマゴの卵 マゴつくアマゴメダカ 目立つメダカ だめだメダカ 見たかメダカ鰻 渚のウナギ 朝凪夕凪ただのウナギ 顔つなぎのウナギ 僕ウナギカツオ(中学3年生)鱒 何とかしますと言うマス 三時に来たニジマス 益々元気なマス鯰 怠けてもナマズ 呑まず食わずのナマズ鰌 土壌改良するドジョウ どうしよう、どうしよう、落ち着けドジョウ鮭 酒呑みのサケ 避けるのが上手いサケ 裂けたサケ鱈 食ったらタラ 嫌みたらたらのタラ 泣いタラあかんボウダラ ボウダラだらけ だらしないからボウダラ鮫 冷めてるサメ 五月の雨はサメだれ 興醒めのサメ鰯 イワシは癒し系 言わして置けば図に乗るイワシ鰹 松帆の浦のカツオ 負けたカツオのタタキうち(ワカメ)鯛 だいたいがタイです 義理がたいタイ 口が固いタイ 片腹痛いタイ たいがいにせいタイ 大したことしなくてもタイ 歌いたいタイ ノーネクタイでもタイ 見たい聞きたいタイ 勿体ないけどタイ 屋台引くタイ 平清盛・タイらの大盛り 額に汗して働き、額にタイして遊ぶ鰆 さわらぬ方がいいサワラ 皿割るサワラ鱶 深く考え過ぎのフカ 不可能知らぬフカ 可も不可もないフカ カフカ読むフカ 夜更かしのフカ ふかし芋食うフカ秋刀魚 按摩するサンマ とんまなサンマ 三枚目のサンマ鰊 自信満々のニシン 無心のニシン 以心伝心ニシン 保身に走るニシン 野心家のニシン 苦心するニシン 三振してもニシン 疑心暗鬼・ニシンアン肝 妊娠したニシン鮃 平にご容赦のヒラメ 裏目裏目のヒラメ 孕めばヒラメ 干すとヒラメンコ ひらめいたヒラメ鰈 きれいなカレイ 華麗なるカレイ 加齢気になるカレイ 保冷してるカレイ 例のカレイは異例のカレイ鱸 酢漬けのスズキ 好きずきスズキ ススキ刈るスズキ 隙だらけのスズキ鰡 薔薇持つボラ ビラ配るボラ ブラつくボラ ホラ吹くボラ ほらほらボラです河豚 服従するフグ 不倶戴天のフグ ハグするフグ 気分がほぐれてフグ 日暮れのフグ はぐれフグ すぐにフグ 武具馬具フグ 口つむぐフグ ふくれっ面のフグ烏賊 如何にもイカだ 筏の上にもイカだ イカは黒いか白いか イカは軽いか? いがみ合ってもイカ 何処にも行かないイカ蛸 寝タコを起こす ならぬタコはならぬ イイダコの伊太郎 床につくタコ タバコ吸うタコ 下駄箱にタコ テコの原理タコの料理 四股踏むタコ踏む 双子のタコ 過去のタコ 箱の中のタコ タコラマカン砂漠魚類ではないが、ついでに・・。鯱 にっちもさっちも行かぬシャチ 処置なしのシャチ 拉致されたシャチ 周知のシャチ 窮地のシャチ 此処にシャチあり 車中泊のシャチ しょっちゅう吐くシャチ しゃきっとしないシャチ海豚 イルカによる福音書 (弱音吐くヨハネによる福音書、マタイによる福音書跨いだ ちびマルコによる福音書) 見るからにイルカ 要らぬイルカ イライラしてイルカ海驢 明日香のアシカ 明日からアシカ 良かアシカ アシカが尊氏オットセイ ひょっとしてオットセイ? ほっとしてるオットセイ ほっとけオットセイアザラシ わざとらしいアザラシ 嵐の前のアザラシ 車上荒らしのアザラシセイウチ 頭打ちのセイウチ むちうちのセイウチ <関連記事> 十二支笑 2012.12.21.
2013.01.05
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謹賀新年新年が皆さまにどうぞよき年でありますように。皆さまのご健勝、ご多幸心よりお祈り申し上げます。あしひきの 山の木末(こぬれ)の 寄生(ほよ)取りて插頭(かざ)しつらくは 千歳(ちとせ)寿(ほ)ぐとぞ(大伴家持 万葉集巻18-4136) (注) ほよ=保与、寄生。ヤドリギのこと。古来ヤドリギは生命の 木とされ、万葉人もこれをかざしてその生命をわが身 に取り入れようとしたようだ。この歌は、天平勝宝2年 (750年)越中国守であった大伴家持が国庁での新年 の宴で詠んだ歌である。(ヤドリギ) 当ブログ「偐万葉田舎家持歌集」へのご訪問・コメントなど、 旧年中のご交誼有難く感謝申し上げます。 本年もご高配の程どうぞ宜しくお願い申し上げます。 平成25年元旦 けん家持(偐家持)偐万葉田舎家持歌集目次(それぞれの項目をクリックするとその項目の記事をまとめて見ることが出来ます。)絵画展ほか智麻呂絵画展和郎女作品展近江鯨麻呂絵画展偐万葉シリーズ松風篇 大和はまほろば篇 ビターc篇ひろろ篇 カコちゃん08篇 真澄篇木の花桜篇 るるら篇 nanasugu篇カマトポチ篇 くまんパパ篇 ビッグジョン篇童子森の母篇 半兵衛篇 マダム・ゴージャス篇英坊篇 アメキヨ篇 オガクニ篇ふぁみキャンパー篇 若草篇 その他銀輪万葉シリーズ大阪府篇 奈良県篇 兵庫県篇京都府・滋賀県篇 和歌山県・三重県篇 北陸篇関東篇 中四国篇 その他その他近隣散歩花(1)・2007~2011 花(2)・2012~ 万葉短歌・俳句・詩・戯れ歌その他のカテゴリー若草読書会 自転車 絵画 能・狂言 友人ほか ブログの歩み 虫 カテゴリー未分類
2013.01.01
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