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本日は今年最後の若草読書会例会の日。 午後1時半、智麻呂邸の若草ホールに集合。本日の講師は凡鬼さん。出席者は、智麻呂・恒郎女ご夫妻、謙麻呂さん、祥麻呂さん、偐山頭火さん、小万知さんと小生・偐家持と全8名。いつになく少なめの出席となりました。 講話のタイトルは「中国古代史」。 中国の古代史にお詳しい凡鬼さんの解説で、夏、殷(商)、西周、東周、春秋・戦国時代を経て秦の中国統一、前漢、新、後漢までの2000年余の歴史を駆け足で概観して学ぶ共に、凡鬼さんが中国古代史では一番興味深いと仰る春秋時代を中心に様々なエピソードをまじえた興味深い解説を楽しませて戴きました。 お勉強の後は、飲んだり、食ったりしながらの歓談、雑談。気が付けば午後7時を過ぎていて、解散となりました。 そんなことで、今回は何といって写真もありませんので、小万知さんが松ぼっくりで作って下さり、メンバーの皆さんにとお持ち下さった「ミニ・クリスマスツリー」の写真を掲載して置くことと致します。 写真は、偐家持が戴いて持ち帰ったものを帰宅後に撮影したものであります。(Xマス・ツリー) 今日で11月も終り、明日から12月。 Xmas、お正月へと進んで参りますが、まことに1年は速いです。 師走は、師も走る月にて何かと慌しくなるというのが世間の相場でありますが、偐家持は年中銀輪で走り回っていますから、まあ、いつもの月と変わらないのでありますな。(同上) 今年もアト1カ月。どうぞ皆さまもお身体ご自愛下さってお元気にお過ごしになられますように。短歌ほどの 日を残すのみ この年も よしと思へば よき年なるか (偐家持)もみぢ照る ときにこの身は なりぬれど 気のみはなほし 若草の里 (偐家持)
2013.11.30
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本日は大学同期の在阪組を中心とした有志の会の例会。 この会は毎年5月と11月の最終金曜日の夕刻に開催しているもので、今回の出席者は17名。 岡◎君、黒◎君、小◎君、佐◎君、谷◎君、道◎君、中◎君、枦◎君、古◎君、堀◎君、前◎君、水◎君、守◎君、山D君、山G君、油◎君と小生の17名。 話題は毎度似たり寄ったり、さしたる変りもないのであるが、学生時代を共に過ごした仲にてもあれば、一緒に飲み食いするだけで、十分に楽しく心地良い時間が流れるのである。(会場の心斎橋・大成閣) いつの頃よりか会場はずっとこの店である。まあ、年2回であるから、同じ店でも差支えがない。次は何処にするかと悩むこともない。第一、案内メールも簡略で済む。食に無頓着なヤカモチは毎日同じ店でも構わないという類の人間であるから、尚のこと一向に差し支えないのである。 ということで、もし、同期のお方でこの記事をご覧になった方が居られたならば、次回は来年5月30日(金)午後6時から、ここでやりますので、是非ご出席下さい(笑)。今日(けふ)のごと あふはうれしみ どちぞみな ま幸(さ)きくあれや またも相見む (偐家持)(道頓堀) 川というものは昼間に見るもので、夜に川辺を歩いていたり、川を眺めていたりすると「怪しい人」になるというものだが、この川は夜こそが賑い、夜こそが似合う川である。 これは御堂筋に架かる道頓堀橋から上流側(東方向)を眺めたもので、正面に見えている橋が戎橋。その通りが、左へ行くと心斎橋筋商店街、右へ行くと戎橋筋商店街である。もうクリスマス商戦のさ中、人、人、人である。 自転車ヤカモチは夜の街に繰り出すということも殆ど無くなっているので、久々の人混みの中のそぞろ歩きでありましたが、何やら違和感というか、ちぐはぐなものを感じてしまうのでありました。だんだん俗世間が遠くなりますな(笑)。と言いつつ、来月は2件、忘年会が入って居るのでありますが・・。
2013.11.29
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第131回智麻呂絵画展 本日は智麻呂絵画展と致します。智麻呂絵画ファンの皆さま、どうぞごゆるりとご入場、ご覧下さいませ。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~(アケビ) 先ずは、アケビです。 このアケビは、智麻呂さんが通っておられるデイサービス施設「アンデスのトマト」に、同様に通っておられる坂◎さんというお方が、智麻呂さんの絵の題材にとお持ち下さったものだそうです。 智麻呂さんのお話では、この施設の一角にて智麻呂さんが描かれた絵が掲出されているそうなので、ヤカモチも機会があれば一度それらを拝見したいものと思って居ります。(ナンテン) これは智麻呂邸のお庭のナンテンでしょうか。(果物) 上の果物は中◎◎氏が手土産にお持ち下さったものです。 同氏は、智麻呂さんがまだ牧師をなさっていた昔のことになりますが、その折に教会学校に通って居られたかして、智麻呂さんご夫妻と交流のあったお方で、最近、学校の教師を定年退職して時間の余裕もでき、智麻呂さんのことを懐かしく思い出されて、お訪ね下さったとのこと。 若草読書会のことを知り、ご自身も参加したい、というようなことを仰って居られたそうですが、まあ、この読書会は来る者拒まず、去る者追わず、の自由なる会でありますので、我々としては、いつでも歓迎といった処であります。(柿A) 上の果物の中にも柿がありましたが、此処から柿の絵が3点続きます。 柿、牡蠣、花器、垣、と「カキ」にも色々ありますが、先般、恒郎女さんと宮島旅行のお話をしていた際に、ヤカモチは牡蠣が駄目であることをお話していたら、恒郎女さんは、智麻呂さんも牡蠣が駄目だと仰る。ところが、それを聞いていた智麻呂さんは、自分は「カキは大丈夫」とのこと。何のことはない、智麻呂さんは「柿」のことだと思って居られたという次第。やはり、ヤカモチ同様に「牡蠣」は駄目だそうです。 丁度、柿の絵を描き続けて居られた時期であったので、「カキ」は「柿」に聞こえたのでしょうね。因みに、関西弁ではアクセントなしで平板に発音すると「柿」となり、後の「キ」を強く発音すると「牡蠣」となり、前の「カ」にアクセントを置いて発音すると「花器」とか「垣」になります。 さて、柿Aは、前述の「アンデスのトマト」の皆さんにと、同施設に通って居られる川◎さんというお方がお持ち下さった柿の一部を絵の題材にと智麻呂さんにご提供戴いたもののようです。(柿B) こちらの柿Bは、ご近所の東◎さんからの戴き物の柿です。 そして、下の柿Cは、もう一つのデイサービス施設の「福寿苑」で、ご提供戴いた画材を、同施設にてお過ごしの間に、絵にされたものです。 まあ、このように「柿」続きであったのであれば、「牡蠣」も「柿」に聞こえてしまうのもムべなるかな、でありますな(笑)。 因みに、ムべはアケビに似た実を付けるそうですが、アケビは熟すると実が割れるのに対して、ムべの実は割れることがないそうな。 「むべ山風を嵐といふらむ(文屋康秀)」ならぬ「ムべ割れる実はアケビといふらむ」であります。(柿C)万葉に 牡蠣も柿さへ なかりせば 芭蕉の柿の 句など書き置け (偐家持) 芭蕉の柿の句は2句あります。ついでに牡蠣の句は1句です。祖父(おほぢ)親(おや)其子(そのこ)の庭や柿(かき)蜜柑(みかん) (松尾芭蕉)里ふりて柿の木もたぬ家もなし (松尾芭蕉)蠣(かき)よりは海苔(のり)をば老(おい)の売(うり)もせで (松尾芭蕉) 以下のツワブキとオキザリスは当ブログ掲載(11月6日の記事参照)の写真から絵にされたものであります。(ツワブキ)(オキザリス) このオキザリスは、梅田スカイビルの里山に咲いていたものですが、別の植物の葉の間から顔を出していた花で、迂闊ヤカモチはその別の植物の葉がこの花のものと早合点して、「何の花か分からない」としていたら、ひろろさんが、隙間から少し見えているクローバーに似た形の三つ葉にお気付きになり、オキザリスだと教えて下さった花でありました。 智麻呂さんは、その別の植物の葉はカットし、オキザリス特有の葉を沢山描き加えて下さり、いかにもオキザリスらしい絵に仕上げて下さいました。
2013.11.27
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<承前> もみぢの万葉歌、第10巻の途中までという中途半端な形になりましたので、第20巻までの残り41首を掲載して置きます。(但し、文字数制限の関係で3首はコメント欄に掲載してあります。)大坂を わが越え来れば 二上(ふたがみ)に もみち葉流る 時雨ふりつつ (万葉集巻10-2185)妹が袖 巻来(まきき)の山の 朝露に にほふもみちの 散らまく惜しも (同巻10-2187)もみち葉の にほひは繁し しかれども 妻梨(つまなし)の木を 手折りかざさむ (同巻10-2188)露霜の 寒き夕の 秋風に もみちにけりも 妻梨の木は (同巻10-2189)わが門の 浅茅(あさぢ)いろづく 吉隠(よなばり)の 浪柴(なみしば)の野の もみち散るらし (同巻10-2190)吾背子が 白たへ衣 往き触れば 染(にほ)ひぬべくも もみつ山かも (同巻10-2192)雁がねの 来鳴きしなへに 韓衣(からころも) 立田の山は もみち始(そ)めたり (同巻10-2194)雁がねの 声聞くなへに 明日よりは 春日の山は もみち始(そ)めなむ (同巻10-2195)風ふけば もみち散りつつ すくなくも 吾の松原 清からなくに (同巻10-2198)九月(ながつき)の 白露負ひて あしひきの 山のもみたむ 見まくしも良し (同巻10-2200)妹がりと 馬に鞍置きて 生駒山 うち越え来れば もみち散りつつ (同巻10-2201)もみちする 時になるらし 月人の かつらの枝の 色づく見れば (同巻10-2202)秋萩の 下葉もみちぬ あらたまの 月の経去(へゆ)けば 風を疾(いた)みかも (同巻10-2205)まそかがみ 南淵山は 今日もかも 白露おきて もみち散るらむ (同巻10-2206)秋萩の 下葉のもみち 花に継ぐ 時過ぎ行かば 後(のち)恋ひむかも (同巻10-2209)明日香川 もみち葉ながる 葛城(かづらき)の 山の木葉(このは)は 今し散るらむ (同巻10-2210)妹が紐 解くと結びて 立田山 今こそもみち 始(はじ)めてありけれ (同巻10-2211)さ夜ふけて 時雨なふりそ 秋萩の 本葉(もとは)のもみち 散らまく惜しも (同巻10-2215)ふるさとの 初もみち葉を 手(た)折り持ち 今日ぞわが来(こ)し 見ぬ人のため (同巻10-2216)君が家の 初もみち葉は 早くふる 時雨の雨に ぬれにけらしも (同巻10-2217)秋山の 木葉(このは)もいまだ もみたねば 今朝吹く風は 霜もおきぬべく (同巻10-2232)もみち葉を 散らす時雨の ふるなへに 夜(よ)さへぞ寒き 一人し寐(ぬ)れば (同巻10-2237)あしひきの 山さな葛(かづら) もみつまで 妹にあはずや わが恋ひをらむ (同巻10-2296)もみち葉の 過ぎかてぬ兒を 人妻と 見つつやあらむ 恋(こほ)しきものを (同巻10-2297)もみち葉に おく白露の 色葉(いろは)にも 出でじと思へば ことの繁けく (同巻10-2307)祝部(はふり)らが 斎(いは)ふ社(やしろ)の もみち葉も 標縄(しめなは)越えて 散るといふものを (同巻10-2309)ひとりのみ 見れば恋(こほ)しみ 神名火(かむなび)の 山のもみち葉 手(た)折りけり君 (同巻11-3224)兒毛知(こもち)山 若かへるでの もみつまで 寝(ね)もと吾(わ)は思(も)ふ 汝(な)はあどか思(も)ふ (同巻14-3494)もみち葉の 散りなむ山に 宿りぬる 君を待つらむ 人し悲しも (葛井子老 同巻15-3693)あしひきの 山した光る もみち葉の 散りの乱(まがひ)は 今日にもあるかも (阿倍継麻呂 同巻15-3700)竹敷(たかしき)の もみちを見れば 吾妹子が 待たむといひし 時ぞ来にける (大伴三中 同巻15-3701)竹敷の 浦廻(み)のもみち 吾(われ)行きて 帰り来るまで 散りこすなゆめ (遣新羅使人 同巻15-3702)もみち葉の 散(ち)らふ山べゆ こぐ船の にほひに愛(め)でて 出でて来にけり (対馬娘子玉槻 同巻15-3704)秋山の もみちを挿頭し わがをれば 浦潮満ち来 いまだ飽かなくに (大伴三中 同巻15-3707)もみち葉は 今はうつろふ 吾妹子が 待たむといひし 時の経ゆけば (遣新羅使人 同巻15-3713)この時雨 いたくなふりそ 吾妹子に 見せむがために 黄葉(もみぢ)採りてむ (久米広縄 同巻19-4222)あをによし 奈良人見むと 吾背子が 標(し)めけむもみち 地(つち)に落ちめやも (大伴家持 同巻19-4223)あしひきの 山のもみちに しづくあひて 散らむ山道(やまぢ)を 君が越えまく (大伴家持 同巻19-4225)
2013.11.26
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本日は雨。 雨障み(雨つつみ)とは、男が女の許へ行けぬ口実に使う常套句らしいですが、銀輪散歩にとっては、口実ではなく雨は実際の障りにて候。 と言うことで、もみぢ散歩の付録にと、万葉集から「もみち」(名詞)「もみつ」(動詞)という言葉が出て来る歌を拾い出してみました。掲載文字数制限の関係で第1巻から第10巻の途中までの歌(但し、短歌に限りました。)30首です。(もみち葉)秋山の もみちを茂み 迷(まど)ひぬる 妹を求めむ 山道(やまぢ)知らずも (柿本人麻呂 万葉集巻2-208)もみち葉の ちりぬるなへに 玉づさの 使(つかひ)を見れば あひし日思ほゆ (柿本人麻呂 同巻2-209)秋山の もみちあはれと うらぶれて 入りにし妹は 待てど来まさず (同巻7-1409)今朝(けさ)の朝け 雁が音(ね)聞きつ 春日山 もみちにけらし わが情(こころ)痛し (穂積皇子 同巻8-1513)秋山に もみつ木(こ)の葉の うつりなば 更にや秋を 見まく欲(ほ)りせむ (山部王 同巻8-1516)味酒(うまさけ) 三輪の祝(はふり)が 山照らす 秋のもみちの 散らまく惜しも (長屋王 同巻8-1517)暮(よひ)にあひて 朝(あした)面(おも)無(な)み 隠野(なばりの)の 萩は散りにき もみち早(はや)続(つ)げ (縁達師(えにたちし) 同巻8-1536)時待ちて 降りし時雨(しぐれ)の 雨やみぬ 明けむ朝(あした)か 山のもみちむ (市原王 同巻8-1551)皇(おほきみ)の 三笠の山の もみち葉は 今日の時雨に 散りか過ぎなむ (大伴家持 同巻8-1554)春日野に 時雨降る見ゆ 明日よりは もみちかざさむ 高円の山 (藤原八束 同巻8-1571)雲の上に 鳴きつる雁の 寒きなへ 萩の下葉は もみちせるかも (高橋安麻呂 同巻8-1575)手(た)折らずて 散りなば惜しと わが思(も)ひし 秋のもみちを かざしつるかも (橘奈良麻呂 同巻8-1581)めづらしき 人に見せむと もみち葉を 手(た)折りぞわが来(こ)し 雨のふらくに (同上 同巻8-1582)もみち葉を 散らす時雨に ぬれて来て 君がもみちを かざしつるかも (久米女王 同巻8-1583)めづらしと わが思(も)ふ君は 秋山の 初黄葉(はつもみぢば)に 似てこそありけれ (長忌寸の娘 同巻8-1584)奈良山の 峯のもみち葉 取れば散る 時雨の雨し 間無く降るらし (犬養吉男 同巻8-1585)もみち葉を 散らまく惜しみ 手(た)折り来て 今夜(こよひ)かざしつ 何か思はむ (県犬養持男 同巻8-1586)あしひきの 山のもみち葉 今夜(こよひ)もか 浮(うか)び去(ゆ)くらむ 山川の瀬に (大伴書持 同巻8-1587)奈良山を にほはすもみち 手折り来て 今夜かざしつ 散らば散るとも (三手代人名 同巻8-1588)露霜に あへるもみちを 手折り来て 妹とかざしつ 後(のち)は散るとも (秦許遍麻呂 同巻8-1589)十月(かむなづき) 時雨に逢へる もみち葉の 吹かば散りなむ 風のまにまに (大伴池主 同巻8-1590)もみち葉の 過ぎまく惜しみ 思ふどち 遊ぶ今夜は 明けずもあらぬか (大伴家持 同巻8-1591)秋されば 春日の山の もみち見る 寧楽(なら)の京師(みやこ)の 荒るらく惜しも (大原今城 同巻8-1604)わが屋前(には)の 萩の下葉は 秋風も いまだ吹かねば かくぞもみてる (大伴家持 同巻8-1628)背の山に もみち常(つね)敷(し)く 神岳(かみをか)の 山のもみちは 今日か散るらむ (長意吉麻呂 同巻9-1676)雲隠(がく)り 雁鳴く時に 秋山の もみち片待つ 時は過ぎねど (柿本人麻呂 同巻9-1703)筑波嶺(ね)の 裾廻(すそみ)の田井に 秋田刈る 妹がりやらむ もみち手折らな (高橋虫麻呂 同巻9-1758)もみち葉の 過ぎにし子らと たづさはり 遊びし磯を 見れば悲しも (柿本人麻呂 同巻9-1796)雁がねは 今は来(き)鳴きぬ わが待ちし もみち早(はや)継(つ)げ 待たば苦しも (柿本人麻呂歌集 同巻10-2183)秋山を ゆめ人懸(か)くな 忘れにし そのもみち葉の 思ほゆらくに (柿本人麻呂歌集 同巻10-2184)
2013.11.25
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さて、本日も銀輪もみぢ散歩であります。奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき (猿丸太夫 古今集215 小倉百人一首5) まあ、銀輪散歩でありますから、奥山とは参りませぬが、従って鹿の鳴く声なんぞも聞こえませぬが、道の辺、山の辺のもみぢは、なかなかなものにて、森閑とした中に、独りもみぢなんぞを眺めて居りますと、やはり何やら「かなし」となるのは日本人であるということです。鹿の鳴く 声は聞こえね もみぢ葉の 下照る道も 秋はかなしき (偐家持)(紅葉) では、しばし美しき紅葉をじっくりご覧下さいませ。(同上)(同上)(同上)生けるもの かなしからずや 秋山の いづれ散り行く もみぢなりせば (偐家持) ちょっと、歌がいけませんですな。どうも「散る」方に思考回路が繋がってしまったようです(笑)。(同上)散る時し 今とぞ知りて 輝ける もみぢこそよし 人もかくあれ (偐家持) やっぱり、これもいけません(笑)。 こういう日は、歌を作らない方がよさそうです。 ということで、下手な歌はここまで。 お口直しに、未だ散らずある美しい紅葉の写真をもう一枚どうぞ、であります。(同上) ちょっと、網膜が夕焼色になってしまいましたので、「お色直し」に青い実をどうぞ、であります。(ノブドウ) (同上) (名は知らね、赤き実のなる木) 青い実で少し網膜を休めていただきましたので、再び赤い色・・と言っても紅葉ではなく「赤い実」であります。 この実は以前のブログに「不明」として掲載しましたが、未だ名前が判明していません。以前(9月30日掲載)は未だ緑色だった実でしたが、2カ月程でこのように赤くなりました。 <参考> 銀輪花逍遥・穂向きの寄れる 2013.9.30.(同上)
2013.11.23
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今日は妙な天気。晴れていたかと思うと、いつの間にやら雲が空を覆い、パラパラと雨が降ったりも。「しぐれ」と「もみぢ」で思い浮かぶ歌と言えばこれであるが、これは大和川の支流の石川に二上山の方から流れ込んでいる河内の飛鳥川での歌である。大坂を わが越え来れば 二上に もみぢ葉流る 時雨ふりつつ (柿本人麻呂歌集 万葉集巻10-2185) 河内飛鳥川を遡って二上山へ、というのも、怪しげなお天気とあって、躊躇われ、近くを午後から少し銀輪散歩。 先ず、小生お気に入りの紅葉スポットに向かう。二上の 道はた遠み もみぢ葉の 近つ山辺の 路をぞとはな (偐家持) 小生が「もみぢスポット」と名付けて毎年この頃になると訪れている場所は、生駒山麓の西裾の高みにある。(下記参考1.参照) 銀輪散歩と名乗る手前、MTB(マウンテンバイク)で坂道を上るのであるが、途中からはもう押して上るしかない急坂となる。今日も喘ぎ喘ぎ上るが、やがて限界。ハーハー言いながら行く(笑)。 しかし、残念。その「もみぢスポット」は、未だ十分に色づいては居らず、少し早過ぎたようでした。 桜の花ほどではないにしても、年ごとにその時期がずれるので、紅葉の見頃というものもなかなかにタイミングを見定めるのが難しいようです。<参考>1.銀輪もみぢ散歩 2011.12.5. 2.秋の葉の匂へる時に、いざ行かな 2012.11.23.(カエデ) 上のような状態で、はつかに色付き始めた、という感じ。 まあ、これはこれで美しいのではあるが。(黄葉) こちらは別の場所の黄葉。 下は、花園中央公園のハナミズキの紅葉です。 今年は、去年や一昨年に比べて、紅葉がもひとつのような気が致しますな。まあ、もう少し日が経てば感じが違ってくるのかも知れませんが。(ハナミズキの紅葉)(同上) それで、という訳でもありませんが、地面に落ちているハナミズキの実を拾い集めて一箇所にまとめて置いてみました。葉の赤さの足らざるを実の赤さで補おうという次第。(ハナミズキの実) 何だか美味しそうですね。 しかし、この実を齧ってはいけません。猛烈に苦い。それに有毒です。以前、ヤカモチは齧ったことがあります。その時は有毒だとは知らなかったのです。まあ、猛毒ではないようで、特にどうということもなかったのは幸いでありました(笑)。 さて、これは「もみぢ」とは無関係ですが、見慣れない木の花が咲いていました。何という名の木でしょうね。(この木何の木)(同上)<追記>この木はシロダモという木だそうです。 ブロ友のビッグジョンさんが調べて下さり、下記コメント欄にて シロダモと判明したことをお知らせ下さいました。 感謝、感謝です。(シロダモ・Wikipedia)
2013.11.20
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偐万葉・ビッグジョン篇(その20) 本日は、シリーズ第189弾、偐万葉・ビッグジョン篇(その20)であります。 <参考>過去の偐万葉・ビッグジョン篇はコチラからどうぞ。 ビッグジョン氏のブログはコチラからどうぞ。 偐家持が交野歩麻呂に贈りて詠める歌15首併せ俳句2句 並びに歩麻呂が返せる歌1首いとをしと こしみちそれと みえしとき ひとはかみにし あひてやあらし (にせやかもち)もどきなる 名にしはあれど 敷島の 大和の冬の 木の実ぞわれは (ヤカモチモドキ) (注)ウメモドキは別名がジャパニーズ・ウインター・ベリーとのこと。 (ウメモドキ)蚊の消えて 蝙蝠増える 野分かな (偐蝙蝠傘)裏磐梯 花も実もよし 秋山を これと見せつや きみが羨(とも)しも (サワフタギ) (シラタマ)みちのくの 秋にしあひつ わかまつの きみがブログは 見らくしよしも (注)あひつわかまつ=「会津若松」と「会ひつ、我が待つ」の掛詞。 (ミヤコグサ) (ヤマハハコグサ)夏過ぎて 秋になるらし 畝傍山 ほていあふひの 花越しに見ゆ (ホテイアオイと畝傍山) (本歌)春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣ほしたり 天の香具山 (持統天皇 万葉集巻1-28) 歩麻呂が追和せる歌1首夏過ぎて 秋になるらし コンビニの おにぎり越しの 天の香久山おきくさん 恨みは棘に な触れそ 青山播磨に あらぬ人はも (赤坂いらが)われはわれ 青山播磨に あらざるを などてや買ひぬ 菊が恨みを (青虫針魔) (注)オキクサン=蛾の一種、イラガの幼虫のこと。棘に触れると蜂に 刺されたような痛みを生じる。ハチクマ、シバムシな ど色々な呼び名がある。わが行くは 恩智の方向 道たがへ 迷へばこれぞ 方向音痴 (偐島左近) (注)恩智=大阪府八尾市恩智。建武年間に左近将監恩智満一(楠木 正成八臣の一人)が築城した恩智城跡がある。ならび咲く 白き壱師の 花笑みの ブログのえにし うれしとぞ見ゆ (注)壱師=彼岸花のこと。 (白彼岸花) (同・智麻呂氏画)めれんげと おもひてとへば つめれんげ さらにをかしも なくてはななり (偐菓子持) ヤカモチは ツメが甘くて 見落としつ (筆蕪蕉) (注) ツメレンゲの「ツ」を見落として「メレンゲ」の記事、つまりお菓子 の記事かと思ったらツメレンゲ、つまりお花の記事であったとい う次第。 ツメレンゲ=爪蓮華。ベンケイソウ科の多年生の多肉植物 メレンゲ=卵白を泡立てて作った食材、又はそれで作ったお菓子 さらにをかしも=「更にをかしも」と「皿にお菓子も」を掛けている。 ツメが甘くて=ツメは「爪」と「詰め」の掛詞。 (ツメレンゲ)大岩の 山ゆ下れば 千刈(せんがり)の 堰堤(せきてい)とどろ 落つる水音(みなおと) (千刈ダム)また来むと 言ひてなぐさむ うかつ道 素通りばかり 憂きものはなし (素通法師) (本歌)いまこむと いひしばかりに 長月の ありあけの月を まちいでつるかな (素性法師 古今集691 小倉百人一首21) ありあけの つれなくみえし わかれより あかつきばかり うきものはなし (壬生忠岑 古今集625 小倉百人一首30)めんどくさ 手入れも難(かた)し わが庭の 松の面倒 ひとに任せつ (大伴家松)松の木の 姿もうつろふ 時々に 写真にそれを われは写さな (大伴撮松) (本歌)八千種(やちぐさ)の 花はうつろふ 常盤なる 松の小枝(さえだ)を 吾(われ)は結ばな (大伴家持 万葉集巻20-4501)ネロなれど 寝ろとは言はぬ ネロなれば 歌つまらねど い寝かてぬかも (バカネロ)<脚注>掲載の写真はビッグジョン氏のブログからの転載です。
2013.11.18
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<承前> 自転車は送り返してしまいましたので、前ページの後半からは徒歩であります。銀輪散歩というタイトルは、事実に反しますが、これは銀輪散歩の付録のような散歩にてあれば、まあ、何とか許容範囲であるかと。 さて、未だ平和記念公園の中に居ます。(動員学徒慰霊塔)<参考>動員学徒慰霊塔(同上)(平和の鐘)<参考>平和の鐘(広島市)・Wikipedia(原爆慰霊碑)<参考>原爆死没者慰霊碑・Wikipedia 平和の灯・Wikipedia 上の写真の右奥、下の写真の正面奥に燃えている火が「平和の灯」です。全国12宗派からの「宗教の火」と全国の工場地帯からの「産業の火」を種火として灯され、燃え続けている火である。核廃絶と恒久平和実現の日まで燃やされ続ける。弥山の霊火堂の消えずの火もこの種火の一つとなっている。(同上)(原爆資料館)<参考>広島平和記念資料館ホームページ 広島平和記念資料館・Wikipedia(赤い鳥の像) 広島出身の童話作家、鈴木三重吉の記念碑が原爆ドームと相生橋の間に建っている。碑文は次の通り。 私は永久に夢を持つ。 たゞ少年時のごとく、 ために悩むこと浅きのみ 三重吉(相生橋)(同上) 相生橋から300m程、東、紙屋町交差点を左に400m余行くと広島城である。広島にやって来たのは随分と久し振りであるが、広島城はこれまで訪ねたことはなく、今回が初めてとなる。 <参考>広島城のホームページ 広島城・Wikipedia(広島城・二の丸御門)(同上・内部)(平櫓と二の丸御門の連接部から多聞櫓、太鼓櫓を見る。)(平櫓、多聞櫓、太鼓櫓)(太鼓櫓)(本丸と二の丸との間の堀、本丸の石垣)(天守閣) 広島城から広島駅までは1.5km程度。歩いて駅に向かう。既に12時を過ぎていたので、途中で見つけた潮家京口庵という店で昼食とする。塩で包んで蒸し焼きにした魚がメインの塩釜御膳を注文。店だかメニューだかをリニューアルして、初めての塩釜御前の注文客です、と店のお兄さんが言って居られましたが、なかなかに美味でありました(笑)。(広島市街、上柳橋上から上流を見る。正面の橋は栄橋)(JR広島駅) はい、広島駅に到着。やって来た新幹線のぞみで大阪へ。 これにて、宮島・広島散歩終了であります。長らくのお付き合い有難うございました。
2013.11.17
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<承前> ハマゴウと池塘の浜を過ぎると道は再び上りとなる。そして下り。(鷹ノ巣浦への道) 海岸線まで下って来ると海辺の平坦な道となるが、それ以外は上の写真のような木立の中の道となる。時々、鹿に出遭う。(鷹巣浦神社) 宮島七浦めぐり、と言って、宮島の周囲の海辺にある神社を廻るクルーズもあるようですが、多くの神社は道が通じていないか、道があっても高い位置に通っていて、祠への道がなく、海からしかお参りができないそうな。 入浜のこの鷹巣浦神社は道の脇にあるので、陸上からのアクセスが可能であるという次第。 入浜を過ぎるとまたしても上り坂。来る途中の上り坂で追い抜かれた郵便配達の軽自動車がこちらにやって来る。大砂利にある民家に郵便物を届けて来たのであろう。(大砂利への道)(大砂利への道)(大砂利への道 正面の山が獅子岩、ロープウェイのゴンドラが見える。) 海辺の舗装道路はこの辺りで行き止まりのよう。獅子岩に向かって坂道は延びているが悪路。何と言って目的もない銀輪散歩ゆゑ、この辺が潮時と引き返すこととする。 上ったり、下ったりしながら来た道を引き返す。包ヶ浦公園のバス停で先に記した男性に出会うまで、鹿3頭に出遭ったのみ。筏作りの男性3人は未だ作業中でありました。長濱神社まで来た処で竹を積載したトラックとすれ違いましたが、先程の男達の処に運ぶのであろうか。(長濱神社の鳥居の先を行く鹿) 宮島桟橋まで戻って来たが未だ日没前なので、向かいの要害山に登ってみる。ここは、毛利元就が厳島合戦で陶晴賢をおびき寄せるために造ったとされる宮尾城のあった場所。 今は、山頂に東屋と今伊勢神社という小さな祠があるばかり。カサッと音がして紅葉した木の葉が散り落ちる。(要害山から厳島神社方面を見る。)(要害山から東方向を見る。)(今伊勢神社)(要害山頂上) これにて宮島銀輪散歩は終了です。 翌3日目は、旅館から自転車を宅配便で自宅に送り返し、広島に戻り、もう一つの世界遺産の原爆ドームにご挨拶。ついでに広島城に立ち寄って帰阪という段取りに。(広島電鉄・宮島口駅) 来る時はJRで宮島口までやって来たが、帰途は、原爆ドーム前駅のある広電に乗って行くこととする。(同上) 太田川に架かる相生橋を渡ると直ぐに原爆ドーム前駅である。路面電車の場合は駅と言うよりも停留所と言った方が似合う気もするが、停留所と駅との境目は何か?まあ、そんなことはどうでもいいのではあるが。(原爆ドーム) <参考>原爆ドームホームページ 原爆ドーム・Wikipedia(同上)原爆に 焼かれし人の 叫びをぞ 継ぎて語れと きみは立ちける (ドーム家持)(同上・元安川を挟んで対岸から見る。)(原爆供養塔)(同上)<参考>原爆供養塔・Wikipedia(原爆の子の像)(同上・折鶴置き場) 祈りの折鶴がたびたび放火されて焼かれるという事件があって、このようなブースが設けられたのだが、祈るのも人の心、悲しいかな、それを踏みにじるのも人の心。(同上・石碑)<参考>広島市ホームページ・原爆の子の像 原爆・平和 原爆の子の像・Wikipedia 平和記念公園散策の途中ですが、そろそろ字数制限です。 本日はここまでとします。(つづく)
2013.11.16
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<承前> 厳島神社は昨年の大河ドラマ「平清盛」放映中はきっと多くの観光客が訪れたのであろうが、そういうブームの時を外して訪れるというのが、「花は盛りを、月は隈なきをのみ・・」のヤカモチ流なのである。 それでも、日本三景、ユネスコ世界遺産とあって、修学旅行か遠足かは存じ上げぬが小中学生や高校生の団体、その他一般の団体旅行の人々など、観光客の人波は絶えぬようである。外国人の姿も多い。 <参考>厳島神社・Wikipedia 厳島神社ホームページ 日本三景の松島、天の橋立は小倉百人一首に登場するが、宮島は登場しない。で、ヤカモチが1首したため候。神いつく 島の潮干(しほひ)に みせんとや 鳥居の袖も もみぢ濡れつつ (偐家持) (注)神いつく島=「神を斎(いつ)く島」又は「神が居着く島」と「厳島」を掛ける。 みせんとや=「見せんとや」と「弥山とや」とを掛ける。 (本歌) 見せばやな 雄島(をじま)のあまの 袖だにも ぬれにぞぬれし 色はかはらず (殷富門院大輔 千載集884 小倉百人一首90) (注)雄島=宮城県松島にある小島(厳島神社)(同上)(同上)(同上)(同上)(同上)(同上) 厳島神社を出て表参道商店街へ。この通り、「清盛通り」とも言うそうな。商店街のお好み焼き屋さんで広島焼きの昼食。(日本一の大杓子) 昼食後は、宮島桟橋から北へ走る。今度は島の裏側(東岸)を走ってみようというもの。(長濱神社) 直ぐに小さな祠。厳島神社の摂社・長濱神社である。 トレンクルというのは、上の写真の通りの小型軽量の折りたたみ自転車。MTBと違って変速ギアは付いていないので、スピードは出ない。(宮島シーサイドホテル 杉ノ浦地区)(杉ノ浦漁港) 県道を外れて脇道を海側に入ると小さな漁港があった。 県道に戻る。坂を上って行くとトンネル。鹿がこちらを見ている。 宮島もこの辺まで来ると人影は殆どない。宮島桟橋から厳島神社に掛けての一角の賑いが嘘のような静けさである。(杉ノ浦から包ヶ浦への道) トンネルを越えると下り坂。 海岸に出ると、包ヶ浦桟橋という、今は使われていないのか、打ち捨てられた雰囲気のそれがあり、其処から少し先に行った浜辺で大きな竹を並べている男が3人。 針金を均等な長さに切断している年配の男性に質問すると、果たして予想通り、牡蠣の養殖用の筏を作っているのであった。(包ヶ浦桟橋の先では牡蠣筏を作っている3人の男性が居ました。) 直ぐに包ヶ浦公園に到着。海水浴場、キャンプ場、貸別荘、テニスコートなどがある広い公園である。バス停がある。路線バスはここまでは走っているよう。帰途にこのバス停で出遭った一人歩きの男性は、小生もバスに乗るとでも思ったか「バスは15分待ちですよ。」と教えて下さいました。(包ヶ浦公園) 宮島は毛利元就と陶晴賢とが戦った地。元就は宮島桟橋の向かいにある要害山に囮の城(宮尾城)を築き、晴賢の大軍を島におびき寄せ、これを奇襲して打ち破ったというのが厳島の戦いである。 この時に、元就が上陸したのがこの包ヶ浦の浜であったらしい。(同上・厳島合戦要図)(厳島合戦跡・包ヶ浦説明板)(包ヶ浦公園・野営場) ブロ友のふぁみり~キャンパーさんなら興味を示されそうなキャンプ場もありました。 公園を抜けると九十九折りの上り坂となる。喘ぎつつ上る。それでも無理な急坂は押して行く。 木立の間に包ヶ浦公園の景が美しい。(包ヶ浦公園全景) 獅子岩展望台から眺めた小黒神島が見える。 小船が行く。(鷹巣浦への道) 海が光る。(同上) (同上・鷹巣砲台跡か) これは、宮島の鷹ノ巣に設置されたという砲台の跡であろうか。 ここから下りに入り、再び浜辺に出る。 道の右手は「池塘」と呼ぶのが似合いそうな池があり、左手はハマゴウの生い茂る砂浜である。(同上)(同上) 本日はここまで。続きは明日とします。(つづく)
2013.11.15
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<承前> 二日目はトレンクルで宮島銀輪散歩です。島を周回する道路はなく、山越えをするか、潮の引いている間に岩場を伝って反対側の道のある処まで回り込むかしないと一周は出来ない。 で、宮島桟橋からは、時計回りで杉ノ浦で島の東岸に回り込み、包ヶ浦、大砂利方面へ行くコースと、それとは反対回りで厳島神社経由、広島大学自然植物研究所方面へ行くコースとに分れることになるが、先ず、反対回りを選択し、西岸を南へと走る。 こちらは、厳島神社へと行く道なので、観光客が一杯。 厳島神社の裏手の高みにある千畳閣と五重塔に立ち寄って行く。千畳閣は豊臣秀吉が戦没将兵の慰霊のために建立したものであるが、工事途中で秀吉が死んだため、未完成のまま放置、明治になって本尊の釈迦如来坐像は大願寺に移され、秀吉と加藤清正を祀る神社(豊国神社)とされ、厳島神社の末社に列せられることとなったとのこと。(豊国神社本殿<通称千畳閣>) <参考>千畳閣・Wikipedia(同上・西側から)(同上・東側から)(五重塔) 厳島神社の裏手で道を左にとると紅葉谷公園への道、直進すると、紅葉谷公園から流れて来る紅葉谷川に架かる筋違橋。この川は地図で見ると下流は御手洗川となっている。何処で名前が変るのかは定かではないが、この筋違橋から下で名を変えているのかも。川筋の眺めは何やら京都か奈良の風情である。(紅葉谷川・御手洗川 筋違橋の上から下流を見る。)(宝蔵) 橋のたもとにあるのが宝蔵。校倉造りの室町時代の建物である。 橋を渡って直進すると突き当りが大聖院である。 大聖院は、空海が宮島に渡って弥山で修行して開いた寺と伝えられる。昨日訪ねた弥山山頂の堂宇も、この大聖院に属する堂宇ということになる。 <参考>宮島弥山大本山大聖院ホームページ(大聖院・仁王門) <参考>大聖院(宮島)・Wikipedia(同上・仁王門から御成門への石段)(同上・観音堂)(同上・釈迦涅槃堂)(同上・摩尼殿) 仁王門から石段を行かず、左側の小道を上って行くと五百羅漢の庭になっていて、様々な羅漢さんが・・ほのぼのとした空気を醸している。(五百羅漢)(同上)(大願寺) <参考>大願寺(廿日市市)・Wikipedia 手前の松が伊藤博文によって植えられたという、根元から9本に分れている九本松である。(清盛神社)(室浜への道 宮島水族館西付近のトンネル)(室浜への道 多々良潟付近) 何度かアップダウンを繰り返しながら海沿いの道を行くと、やがて、広島大学自然植物研究所の前に出る。 舗装道路はそこまでで、研究所から先はオフロード。行ける処までともかくも行ってみるというのが、今回のサイクリングの目的。すると室浜砲台跡というのに出くわした。そこで道は行き止まり。(室浜砲台跡) <参考>広島宮島・室浜砲台跡(同上)(同上) 宮島に建設された3砲台の一つ。東岸の鷹ノ巣に高砲台と低砲台の二つがある。(同上・説明板) 原生林の中の小道を下り、浜に出てみる。(室浜砲台跡付近の浜辺)(同上) 浜辺を暫し散策の後、来た道を引き返す。 やはり、宮島に来て、厳島神社に参拝(小生の場合は、参拝と言うよりも単なる入場に近いのかも知れないが)、ご挨拶をしないで帰る訳にも参りませぬ。(厳島神社西回廊・参拝出口) 厳島神社の前まで戻って来ました。しかし、こちらの西回廊は裏口と言うか出口である。裏から入ることの多いヤカモチなるも、ここは拝観料を取るので、正面(北側)の入場口に回らねばならない。(後白河法皇お手植えの松の残骸)(厳島神社・東側道路から) さて、入場ですが、本日はここまで。厳島神社の詳細は次回と致しましょう。(つづく)
2013.11.14
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安芸の宮島を銀輪散歩して来ました。 初日は弥山に登って来ました。これは勿論自転車は無理。ロープウェイがあるので、山頂近くまで一気に登れてしまう。 厳島神社の裏からもみじ谷公園まで坂道を上って行くとロープウェイ乗り場がある。本来は下から徒歩で登ってこそ山登りというのだろうが、宮島に到着したのが12時過ぎ、昼食を済ませて、旅館に荷物を預けて出発した時にはもう午後1時を過ぎていましたから、日没までに下山するとなると、やはりロープウェイです。(宮島口桟橋方面) JR広島駅からJR宮島口までは25分程度。宮島口からフェリー乗り場までは徒歩6分。フェリーで約10分宮島桟橋到着です。(JRフェリーみやじま丸・宮島桟橋)(宮島桟橋・フェリー乗り場)(厳島神社参道の鹿) 参道などには鹿が。奈良公園と同じ雰囲気。奈良公園の鹿のフンは丸いが宮島の鹿のそれは細長い、そんなことをTVで言っていたそうだが、小生の見る限りでは大差ないような気がします。フンの話だけに胡散臭い(笑)。 厳島神社には後刻ご挨拶することとし、大鳥居や社殿を横目に紅葉谷公園へと向かう。(もみじ谷公園) <参考>紅葉谷公園 紅葉谷公園は宮島桟橋から徒歩15分位でしょうか。みやげもの屋の並ぶ商店街などを冷やかしながら歩いたので20分以上はかかったようで、ロープウェイ乗り場の紅葉谷駅に着いた時には午後1時半になっていました。(もみじ谷公園の茶屋) ロープウェイは紅葉谷駅からかや谷駅までは6人乗りゴンドラで、かや谷駅から終点の獅子岩駅へは30人乗りの大型のゴンドラとなる。 下の写真は6人乗りのゴンドラです。岡山からやって来たという3人組の女子大生のお譲さん達と同乗する。就職も内定したので日帰りで宮島にやって来たとのこと。(ロープウェイ)(同上)(同上)(眼下の紅葉) 獅子岩駅に着く。山頂近くかと思えば、さに非ず。いったん下って、再び向かいの峰に登るというコースになっている。まあ、軽く山登り気分を味わえるようになっているということでは、山上まで行ってしまう生駒山のケーブルとは異なる。 弥山山頂への道とは反対側に獅子岩展望台というのがあるので、先ず、そこに登ってみる。なかなかの眺めである。 <参考>弥山・Wikipedia(獅子岩展望台からの眺め・阿多田島)(同上・絵の島<手前>と似島<奥>)(同上・能美島、江田島。右は小黒神島)(同上・広島市街地方面) 紅葉谷公園へと下る道の分岐地点に、「天然記念物弥山原生林」の石碑が立っている。獅子岩駅からその分岐までは下り坂。それを過ぎると上り坂となる。そして、弥山本堂到着。(弥山・本堂)(同・霊火堂) 霊火堂内では、弘法大師が炊いた護摩の火が今も消えずに燃え続けているという。広島平和公園の「平和の灯」の種火になったのが、この火である。最近は、パワースポットブームで、此処が恋人たちの聖地の一つになっているそうな。「わすれじのゆくすゑまではかたければ・・」が恋というものなれど、千年の恋を願って、ということでしょうか。(三鬼堂)(同・観音堂<手前>と文殊堂<奥>)(くぐり岩) 岩をくぐると間もなく山頂です。狭い山頂には大勢の人。傍らの山頂展望台が工事中でその周辺が立ち入り禁止となっている所為でもあるのでしょう。(弥山・山頂)(同上)(山頂からの眺め)(厳島神社・大鳥居<夕方>) 下山して来ると、大鳥居は潮が満ちて来て、海の中に・・。出発の折の光景は下の写真の通りでしたが。(厳島神社大鳥居<昼頃>) そして、夜はライトアップされて下の写真の通り。それを船上から楽しむクルーズもあるようで、遊覧船がやって来ていました。(同上・夜景)(厳島神社・夜景) (つづく)
2013.11.13
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偐万葉・英坊篇(その25) 本日は、シリーズ第188弾、偐万葉・英坊篇(その25)です。 では、英坊3氏と偐家持との「掛け合い漫才」的相聞をお楽しみ下さいませ。まあ、お暇なお方は(笑)。 <参考>過去の偐万葉・英坊篇はコチラからどうぞ。 英坊3氏のブログはコチラからどうぞ。 偐家持が英麻呂に贈りて詠める歌17首 並びに英麻呂が贈り来れる歌9首 英麻呂が贈り来れる歌1首に偐家持が返せる歌1首我が詠みの 歌は意の実の 深さなし 戯(ざ)れの歌にて 身も縮(ちぢま)りし (英麻呂)絵も歌も 虚にしぞあれば 実(じつ)問はじ 戯(ざ)れの秋の実(み) 虚にて実(じつ)なれなにごとも おのづからなる くぎりあり みだりになすは みちにもたがふ (宇奈月麻呂) (注)権利濫用についての大審院判例となった宇奈月温泉事件を 踏まえての歌 (宇奈月温泉行き電車)来し道も よしと見つつや 我が背子は 黒部の川を 今渡るらむ (黒部川) 英麻呂が贈り来れる歌1首並びに偐家持が返せる歌1首水面に 相手探して 立つ鷺は 辺り見渡す lonely bird (英麻呂)白露の 消(け)ぬべき恋の 鳥なれど 今は花より 小魚ならむ 英麻呂が贈り来れる句に偐家持が付けたる脇句 鷺を見て 詐欺を反省 四詐欺師 (英麻呂) いまだ足らぬは アカサギならむ (偐家持) 英麻呂が作れる上3句に偐家持が下2句を付けたる歌1首 柘榴の実 気儘に生(な)るも 実(巳)の勝手 (英麻呂) うま(午)けりゃうめえと ひつじ(未)も鳴くや (偐家持) (注)うまけりゃ=「美味けりゃ」と「馬蹴りゃ」を掛けている。 英麻呂が贈り来れる歌2首に偐家持が追和せる歌2首今の代は 寝屋で安眠 まゝならず 通(とほり)の騒音 耳に障りて(英麻呂)いにしへの 人もしかなり のみしらみ 馬のしとする 枕もとなり (偐芭蕉)家持が 愛(め)でし流れの 射水川 無粋な障(さはり)に 民は怒りて (英爺)守山ゆ 眺めはるけし 射水川 遮り立つや 鈍(おそ)のアンテナ 英麻呂が贈り来れる歌2首並びに偐家持が返せる歌2首紅のいろ ざくろと競う 相思花 実の一つだに なきぞかなしき (道潅伝説パロディの歌)うつし世は ひと夜の夢よ 咲きて散る 花またよけれ 実ならずともブログより 起こす力絵の 繊細に 感服しきり ビックジョンの絵 (英麻呂)どの絵にも つばらに見れば 智麻呂が 芯も折れよと こめたる力林檎にて 始めし旅も 観音に あらねお切り込み にて終るかな (注)お切り込み=おっきりこみ。煮込み麺料理の一種で、群馬県や秩 父地方の郷土料理。 にて終る=「煮て終る」と掛けている。 (おっきりこみ定食)柿盗るは 猿にあるらし 足つきて これぞ猿足(えんそく) 動かぬ証拠 (偐猿丸) (注) 猿足=遠足と掛けている。冤罪(えんざい)と 言ふことなかれ 猿罪(えんざい)は 明々白々 猿島(えんたう)に処せ (猿ガ島刑法) (注) 猿罪=冤罪と掛けている 猿島=遠島と猿ヶ島とを掛けている。 (猿の足跡)城山ゆ 見ればはるけし 射水川 えっちらペダル 漕ぎつつぞ来(こ)し (本歌) 朝床(あさどこ)に 聞けば遥(はる)けし 射水川(いみづがは) 朝漕ぎしつつ 唱(うた)ふ船人 (大伴家持 万葉集巻19-4150)万葉の 里の泣くやと アンテナの 不粋(ぶすい)払へる 心根よしも (守山城跡より眺める小矢部川) 英麻呂が贈り来れる歌1首並びに偐家持が追和せる歌2首里山の 花のにぎわい 秋の景 こころ癒さる 蔦の茶店も (英麻呂)奥山は 道たづたづし 梅田より 徒歩10分の 里山ぞよし (里山頭火)埋め田なる 梅田いにしへ かくしかと 今のうつつに かけて偲はめ (梅田肥人(うめだのうまひと)) 英麻呂が贈り来れる歌2首並びに偐家持が返せる歌2首ハロウインの ミニのカボチャは 歯をたてる ことも出来ない ドラキュラ(英爺)哀れ (英麻呂)降りしなか 荊波の歌 諳んじる だが春雨で なくて可笑しき (英麻呂)ドラキュラは 血を吸ふものぞ ハロウィンの カボチャ齧るは ダレキュラなるや雨(あま)つつみ せじ英麻呂の いそいそと いづく行くらむ 荊波(やぶなみ)の里 (注)雨つつみ=雨が障りになること。男性が女性のもとに行けぬことの 口実に使う。 (本歌) 荊波(やぶなみ)の 里に宿借り 春雨に 隠(こも)り障(つつ)むと 妹に告げつや (大伴家持 万葉集巻18-4138)<脚注>掲載の写真は英坊3氏のブログからの転載です。
2013.11.11
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第130回智麻呂絵画展 本日は智麻呂絵画展です。 既に立冬も過ぎて、暦の上では冬なのでありますが、大阪周辺は、これからが秋本番。もみぢ染む季節へと入って参ります。 智麻呂絵画展も秋の色やうやう濃くなりゆく気配でございますれば、どうぞごゆるりと「智麻呂の秋」をお楽しみ下さいませ。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ 秋は何と言っても「もみぢ」ですね。 春山の万花の艶と秋山の千葉の彩とのどちらがいいかと聞かれて、「秋山われは」と「秋の山がいいと思いますことよ。わたくしは。」とのたまひしは額田王。その理由は、春は草木が生い茂って立ち入ることも叶わないが秋はそういうこともないから手に取って見ることができる、というもの。 この「万花千葉」から「万葉集」と名付けられたという説もある位の有名な話であるが、秋山に軍配を上げた根拠はまことに他愛もないもの。何やら「ブリッ子」めいた額田王の姿も浮かぶというものであるが、智麻呂展も「もみぢ」で「ブリッ子」ぶってみることと致しまする。(紅葉) この「もみぢ」(紅葉とも黄葉とも表記するが、万葉では「黄葉」とする方が圧倒的に多い。)は、小万知さんが、智麻呂さんの絵の画材にと錦織公園で採集して下さったもの。この秋も 小万知がくれぬ もみぢ葉は 絵に画くからに 匂ふ葉の色 (偐智麻呂) (本歌) 初春の 初子(はつね)の今日(けふ)の 玉箒(たまばはき) 手に執るからに ゆらぐ玉の緒 (大伴家持 万葉集巻20-4493)(赤い実 ウメモドキ) 上の赤い実のウメモドキも下のミニカボチャも、小万知さんからの戴きもの。ミニカボチャについて、小万知さんは恒郎女さんに「くれぐれもお召し上がりになりませぬように」と付言されたそうな。それが効いてか、未だに食べられることもなく智麻呂氏のアトリエに健在であります(笑)。 食えぬカボチャは言わば「カボチャモドキ」。ヤカモチモドキの偐家持としてはウメモドキもカボチャモドキも親戚モドキのようなものと言うべきでありますかな。ウメモドキ カボチャモドキも 持ち来たる 小万知も小町の モドキにあらむ (ヤカモチモドキ)(ミニカボチャ) ということで、ご来場の皆さまも、このカボチャはお召し上がりになりませぬように。小万知さんからのお達っしでございますれば。(トルコキキョウ) 上のトルコキキョウも下のグロりオサも万葉調の歌にはしにくい名前であります。両者についての情報、取材不足にて持ち合わせません。グロリオサについては、デイサービスの施設に咲いていたものであったといようなことをお聞きした気もしますが、定かではありません。(グロリオサ) グロリオサはもっと赤っぽい色という風に思っていましたが、咲き始めはこのように黄色で、やがて赤くなるのだそうな。(エゴノキの実) これは、お気付きの方も居られるかと思いますが、花園中央公園のエゴノキの実であります。先月24日の当ブログ記事に掲載の写真から絵にされたものです。(参考:「チサの実のさはにぞなれる」)(コスモス) このコスモスは小万知写真集のコスモスから絵にされました。 いつぞやの記事ではコスモスを藤原氏、ケイトウを大伴氏になぞらえた偐家持でありましたが、このコスモスは藤原氏とは無関係です(笑)。(ツワブキ) 先日、梅田スカイビルで撮ったツワブキの写真を智麻呂さんにお届け致しましたが、その時には既にこの絵が完成して居り、ひと足遅れた形となりました。小生のお持ちしたツワブキの写真も絵にすると仰っていましたので、何れこの展覧会でそれもお見せできるものと存じます。 このツワブキは何処のものか存じ上げませぬ。 最近は絵にまつわる情報をお聞きしても、アップまでの期間が少し長いと、もうあやふやになって、忘却の彼方、霞か雲かになってしまいます。そのような場合は、話の軸足を少しずらしたり、よしなし事をそこはかとなく記したりして誤魔化すのでありますな。最近はこの手法を濫用致して居ります(笑)。(柿) これは、偐家持が訪問の手土産にお持ちしたものですから、失念というようなことはありません。お持ちした折に、1個を皆で分けて食べましたので、智麻呂さんが絵を描かれる段階では4個になっていた筈なのですが、絵では5個になっています。智麻呂さんが1個を描き足して下さったようです。さて、それはどれか、それが問題であります。 これは柿モドキではありませんので、どうぞ皆さま、ご自由にお召し上がり下さいませ。但し、智麻呂さんが描き足された柿を不運にも選択された方は、それは「虚」でありますので、お食べになることはできません。悪しからず。 偐家持美術館では、このように正確且つ真実の表示を徹底致して居りますれば、いささかの不当表示も誇大表示も、そして、勿論、偽装もありませぬ(笑)。
2013.11.10
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偐万葉・ウーテイス篇(その1) 本日は偐万葉・ウーテイス篇です(シリーズ第187弾)。 ウーテイスさんは偐万葉、初登場です。 例によって、ここでは万葉風に「ウテ麻呂」とお呼びすることとします。 ウーテイスさんは日本人ですがタイ国に移住されています。 今年の3月8日に当ブログをお気に入りにご登録下さり、そのお礼に小生もご訪問し、ブログ上の交流が始まりました。 とても読書家で博識。ご関心の領域は死後の世界にも及んで居り、1965歳までも長生きしてしまって、未だ死ねないでいるヤカモチなどは、死んだら「ジ・エンド」「無」と申し上げて、お叱りを受けて居りますが、それはそれとして、楽しくお付き合い下さって居ります。 <参考>ウーテイスさんのブログはコチラからどうぞ。 偐家持がウテ麻呂に贈りて詠める歌16首 並びにウテ麻呂が返せる歌3首あらたしき ひととひ来れば うれしみと わぎへの梅に 月はも照れる (注) わぎへ=わが家 (本歌) しきしまの やまとごころを ひととはば あさひににほふ やまざくらばな (本居宣長)チシャなるは レタスにありや グシャわれは 知らずありけり 喰(くら)ひてあれど (チシャ)塵泥(ちりひぢ)の 数もなき身に 数のニム 身には添はぬが 理(ことはり)ならむ (注)二ム=インド発祥のゲーム。 石コロなどを任意の数で三つの山を作り交互に好きな数 だけ何れか一つの山から取り合い、相手に最後の1個を 取らせるようにすれば、勝ちとするゲーム。あの世ありと 目にはさやかに 見えねども たたみてあれば それと知るべし (本歌) 秋きぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる ( 藤原敏行 古今集169) たたまれて あれるあの世を 見えぬとて なきとは烏滸(をこ)と 背子言ふらむか (注)烏滸=おろか、バカ。 ウテ麻呂が返せる歌3首飽ききぬと 目には清(さや)かに みえねども 時の流(ながれ)に あきれ果てぬる人の世に 飽きてはいても 時期来ねば 日暮れ惜しみて 啼くはヒグラシたたみかけ 不遜な行為 許す君 伏して恥じ入る 一輪の木瓜(ぼけ)夜半に吹く 嵐あらむと 若草の ホールのたこ焼 かねて備へし (本歌) 明日ありと 思ふ心の あだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは (親鸞) ウテ麻呂が贈り来れる小泉八雲・KWAIDANの「十六桜」 の句に偐家持が付けたる脇句1句うそのよな 十六桜 咲きにけり 隠(こも)れる魂(たま)の あくがれ出づや (偐家持)うつろはぬ ものはなかりき うつろはず つねにしあるは うつろひなりき (うつろひ麻呂)今日もまた よき日なるらむ 紫の けむりの先に 秋の日だまりリリパット 大小前後の いさかひを 愚かと知るや 横より割れる (ガリ麻呂) (注) リリパット=リリパット国。ガリバー旅行記に登場する小人国。 卵の割り方をめぐって隣国ブレフスキュ国と対立し ている。 月々に ツケする月は 多けれど ツケせぬ月の この月のツケ (師走の月麻呂) (本歌) 月々に 月見る月は おほけれど 月見る月は この月の月 (作者不詳)銀輪は 己が力で 漕ぐものぞ 電動アシスト 伝道邪道 (銀輪家持) (注) 伝道邪道=「電動じゃぞ」という駄洒落も兼ねている。茶葉もとめ われは来にけり 国境の 北の果てなる メサイの町に (注) メサイ=タイ北部、ミャンマーとの国境の町国境の ゲート開(あ)くらし 六時半 人も車も ざわめき立てば山と積む 野菜はいづく 持ち行くや 小型トラック 国境越えぬミャンマーの 人にしあらむ 今日もかも 小さき川の 橋渡り来る家づとを 買はむとすかや 群れなすは レッドチャイナの 人にあるらし (注) 家づと=家へのお土産。(脚注) 掲載の写真はウーテイスさんのブログからの転載です。
2013.11.09
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本日は囲碁例会。お天気もよしで、MTB(マウンテンバイク)で梅田へ。 中央大通りで信号待ちをしていたら、後からやって来たロードバイクの若い女性が信号無視でスイスイと小生を追い抜いて先へと走って行きました。女性に追い抜かれては・・と思った訳ではありませんが、彼女の後を追いかける。彼女は結構スピードを上げているようで、なかなか追いつかない。少しづつ差が縮まり、上りの坂道に差し掛かった処で一気に彼女を追い抜く。環状線森ノ宮駅近くで赤信号となり停車していると彼女が追い付いて来て小生と並ぶ。少し言葉を交わす。 小生は森ノ宮駅に用事があったので、直ぐに別れましたが、同じ自転車族ということで親近感も湧き、信号待ちなどで並ぶことがあると言葉を交わすことがままある。しかし、山歩きなどと違って、走行中に言葉を交わすことは元より無理とあって、ウォークほどには見知らぬ者同士が言葉を交わすというのは、自転車族については少ないように思う。(難波宮跡) 久し振りに難波宮跡に立ち寄って行く。最近設置されたのだろう、入口にイラストの案内標識があり、「難波宮たんけん隊」というパンフレットが透明プラスチック・ケースに入れられていて無料配布。小生も1部頂戴しました。 楽しく、分かり易く書かれているので、皆さまにもご紹介して置きましょう。 パンフレットの発行は難波宮・ルネッサンス実行委員会、企画はNPO法人大阪府高齢者大学校、作画は京都精華大学マンガ学部。(同・案内標識) パンフレットを開くと下のような「たんけんマップ」になっています。 難波宮に関する年表も記載されていて参考になるので、転載して置きます。 6~7世紀 外交のための建物が造られる。 645年 蘇我氏が滅亡(乙巳の変)する、都を難波(前期難波 宮<孝徳天皇>)に移す。 646年 大化の改新・・天皇中心の新しい国つくりをはじめる。 650年 難波長柄豊碕宮(前期難波宮)を造りはじめる。 652年 難波長柄豊碕宮、完成する。 654年 孝徳天皇死去。 655年 都が飛鳥に移る。 686年 難波宮が火事で燃える。 726年 難波宮(後期難波宮)再建が開始される。 744年 都を恭仁より難波(後期難波宮<聖武天皇>)に移し、 さらに難波から紫香楽に移す。 784年 平城から長岡に都を移す。 難波宮が解体され長岡に運ばれる。 793年 難波宮が廃止される。 小中学生向けのパンフレットのようですな(笑)。 (難波宮たんけんマップ) 天神橋筋商店街で昼食。梅田スカイビル到着は12時半。(新梅田シティの緑の壁) これは、建築家安藤忠雄氏の呼びかけで作られたもの。昨日完成の式典が行われたようでTVのニュースで紹介されていました。それもあってか、これを見学に来て居られる方もチラホラ。梅田の里山はいつもよりも人出が多いように感じました。 その並びにある、里山のカフェテリア。アポロカフェが閉店してからお決まりの昼食場所がなくなったヤカモチですが、この喫茶店を利用することもあります。それが、このように緑のお化粧をしていて、いい風情になっていました。(里山の喫茶店、高速バスWILLER EXPRESSの経営のようですな。) さて、囲碁例会。今日は、青◎、福◎、荒◎、竹◎、村◎各氏と小生の6名の出席。小生は荒◎氏と2局して1勝1敗。青◎氏と1局して敗れ、1勝2敗の成績。荒◎氏との2局目対局中に偐山頭火氏から携帯に着信。対局中の旨伝えると、では後で、ということになる。 用件は労働法関係のこととのことでありましたが、ヤカモチは企業法務の仕事をしていた関係もあって今でも時折このような法務関係の相談電話が入る。もう娑婆のこととは無縁の生活を送っているのに(笑)であります。 偐山頭火氏は「碁に負けた場合の口実になる電話をして申し訳ない」と訳の分からぬ弁解をして居られましたが、この対局は小生が勝ちましたので、口実の必要がなかったのでありますな(笑)。 囲碁会場に入る前と休憩時間とに、暫し梅田スカイビルの里山を散策。紅葉には少し早いのですが、木の実や花は秋のそれにて、目を楽しませてくれました。(梅田の柿)(藤袴)(同上) 藤袴やススキについては万葉歌を添えたき処ですが、字数がもう限度のようで、その余裕がありません。写真のみで失礼します。(ススキ)(同上)(ムラサキシキブ)(ハクサンボク)(ナナカマド)(ツリバナ) ツリバナの実はすっかり弾けて、果皮のみぞ残れる、です。(ツワブキ)(同上) ツワブキは今が盛りのよう。(名は知らぬ白い小さな花) この花はゲンノショウコくらいの小さな花なのですが、名前は存じ上げません。(早くもクリスマスツリーの準備が・・) 中庭では、15日から始まるXmasマーケットの準備が始まっていました。1年はまことにはやい。
2013.11.06
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偐万葉・ふぁみキャンパー篇(その7) 本日は、偐万葉シリーズ第186弾、ふぁみキャンパー篇(その7)と致します。 <参考>過去の偐万葉・ふぁみキャンパー篇はコチラからどうぞ。 ふぁみり~キャンパー氏のブログはコチラからどうぞ。 偐家持が越後湯麻呂に贈りて詠める歌17首併せ俳句1句仕事にし あれば術(すべ)なみ 我が背子は いそぎ大仏 のみをぞ見しか (偐奈良麻呂)八千種(やちぐさ)に 花は咲けども あぢさゐは がくあぢさゐぞ たちまさりける (集真藍諸兄(あつさゐのもろえ)) (ガクアジサイ) (ジェラート)酒もよし 大福もよし わが背子は 月の丘にし ジェラート食(は)むや (じぇじぇ麻呂)鉋かと 思ひしカンナ 花なれば さく木もなかり 木も削れまじ (神奈川カンナ) (注)さく=「咲く」と「裂く」の掛け詞。 上記歌は偐万葉掲載に当たり一部修正しました。五月蝿(さばへ)なす スパムコメント 堪へ兼ねて われも今日より 画像認証 (除虫菊家持)背子が家(や)の エノコログサを われは知る しか言ふ背子の ブログ見たれば (本歌) 勝間田の 池はわれ知る 蓮(はちす)なし しか言ふ君が 髭なきごとし (万葉集巻16-3835)湯めぐりの 旅も果てむや お帰りと 越後の夕日 われにしいへる (偐湯麻呂) 蚊の馳走 だけは変らぬ 幻住庵 (筆蕪蕉) (元句)わが宿は蚊のちいさきを馳走也 (芭蕉)能なしを 案山子と呼ぶは 誰やらむ 鳥追ひ町を 起こすはわれぞ (山田案山子麻呂(やまだのかかしまろ)) (注)「かかし」は元々は「かがし」即ち「嗅がし」で、獣肉を焼き焦がした ものを串に刺して田圃に立て、鳥追いに使ったのがその原形。 「案山子」は、北にあって一番高い山を「主山」と呼び、その左右に 連なる山を「輔山」と呼び、主山から離れてその南側にあり、山頂 部が机のように平になっている低山を「案山」と呼び、低山の間に は田畑が耕作されるのが通常で、鳥追いの人形が立てられるの はこの低山の麓ということになるので、その人形を、「案山の子」 という意味で案山子と呼んだことに由来する。 わがブログの 三朝(みささ)温泉 見しきみの コメはかくしか 湯のことなれる (本歌)わが屋戸(やど)の いささ群竹(むらたけ) ふく風の 音のかそけき この夕(ゆふべ)かも (大伴家持 万葉集巻19-4291)有馬山 猪名の笹原 風吹かば 出で湯のことは 忘れやすらむ (藤原愚子) (本歌)ありま山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする (大弐三位 小倉百人一首58) (注)大弐三位=紫式部の娘、藤原賢子のこと。正三位太宰大弐 高階成章の妻となったことから大弐三位と呼ばれ た。 「ありま山猪名の笹原風吹けば」は「そよ」を言い起こすため の序。 (有馬温泉)うつろひを とどめばやとて ひとはみな うたよみゑなど かきもするなれ (にせやかもち)うつろひて こそうつくしき ものはみな あきこそまされ もみぢもひとも (にせやかもち)名は裏見 なれど裏行く 道のなき 裏見の滝の ここだ恨めし (面見の滝) (裏見の滝)コスモスの 楚々たる花に 囲まれて わが鶏頭は 四面楚花なり (注)1.鶏頭は「系統」とも掛けている。ここでは「わが系統」は大伴 氏。コスモスは藤原氏。 2.「四面楚花」は「四面楚歌」の駄洒落。清正の 槍にやらるは 是非なけど 鯉にやられし 我が虎無様(ぶざま) (虎キチ) (熊本城)はち(鉢)あはせ はち(8)とはち(8)とで むし(64)なれば むし(虫)ははち(蜂)なり はち(蜂)のはちまき(鉢巻) (蜂の鉢麻呂)高松の 苔に残せる 名はそれと 知るも浮世を まだ渡りかね (本歌)浮世をば 今こそ渡れ もののふの 名を高松の 苔に残して (清水宗治・辞世)<脚注>掲載の写真は全てふぁみり~キャンパー氏のブログからの 転載です。
2013.11.05
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一昨日2日は朝の散歩を兼ねてのお墓参り。 墓へと行く坂道の途中にあるお寺の門前の言葉を写真に撮るのが最近の行動パターンとなっていますが、この日は蓮如さんのお言葉でありました。(11月の言葉)<参考>蓮如・Wikipedia 蓮如御文 これは、蓮如上人「五帖御文」からの出典ですな。 分かったつもり、悟ったつもりでいてはいけない。念には念を入れて、これでいいのかと深く検証し、正しい教えを聞き、常にメンテナンスしなければ、信仰心もやがては消えてしまう、という教えでしょうか。 <参考> 「そもそも、今度一七箇日報恩講のあひだにおいて、多屋内方もその ほかの人も、大略信心を決定したまへるよしきこえたり。めでたく本 望これにすぐべからず。さりながら、そのままうちすて候へば、信心 もうせ候ふべし。細々に信心の溝をさらへて、弥陀の法水を流せと いへることあり、げに候ふ。」(連如・御文・二帖「御浚え」の章より) (10月の言葉) こちらは、先月・10月の墓参の折のもの。 さて、墓参の道では、色んな花を見掛けましたが、コマツヨイグサが印象的でありましたので、掲載して置きます。 待宵草と言えば夏の花のイメージなのだが、11月になっても咲きのこっているのですな。まあ、9月、10月の芋名月、豆名月の時期なら、月見草という名もあるので、咲いていて不思議もない、と言うか、まあ、似合ってもいるが、11月となると霜月、いささか「ときじく」の感も否めない。(コマツヨイグサ) 背丈が低く、地を這うように茎を延ばしているから、これは、待宵草の中でも一番小振りのコマツヨイグサでしょう。 待てど暮らせど来ぬ人を・・というには、未だ幼くて、恋も知らぬ少女の風情のコマツヨイグサ。月の出る前に「子供は寝なさい」と言われてもいるような(笑)。(同上)霜月の 朝の道の辺 我妹子の 小待宵草(こまつよひぐさ) 咲きのこりたる (偐家持)道の辺に 小待宵草(こまつよひぐさ) 霜月の 朝の花笑(はなゑ)み 吾子(あこ)とや呼ばむ (偐家持)(同上)(同上)
2013.11.04
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吉備路自転車散歩の記事が長引いてアップが遅れましたが、本日は僧正遍昭のお墓参りの記事であります。(JR山科駅) 僧正遍昭の墓は山科にある。地図を見て居てたまたま目についたので訪ねてみることにしたもの。(阿弥陀寺の右上の黒く塗りつぶされた処が元慶寺) 遍昭墓は、山科駅から2.5km位の距離にある。 山科駅から南に延びている道(外環状道路)を南下、三条通りの交差点の一つ南の外環渋谷交差点で右折、府道116号(渋谷街道)を西へ行く。北花山交差点(角に阿弥陀寺がある。)を左に入る。120m位で道の左側、奥まった処に墓がある。住宅の立ち並ぶ一角なので、注意していないと通り過ぎてしまう。小生も実は通り過ぎてしまい、引き返して見つけた次第。(僧正遍昭の墓) 墓は宮内庁の管理のようだが、草茫々。天皇陵と違って手入れは行き届かないということでしょうか。 遍昭さんと言えば、先ず小倉百人一首のこの歌でしょうな。天つ風 雲のかよひ路 ふきとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ (古今集巻17-872 小倉百人一首12)<空吹く風よ、天女が通る天上への通路をお前の力で雲を吹き寄せて閉ざしてくれ。この美しいおとめの舞姿をもうしばらく地上にとどめて置きたいから。> この歌は仁明天皇の時代、遍昭がまだ良岑宗貞(よしみねのむねさだ)という名で仁明天皇に仕えていた時に作った歌。古今集の詞書に「五節舞姫を見てよめる」とある通り、宮中での新嘗祭に際して舞われる少女達の舞を見て詠んだ歌である。 古今集仮名序で「僧正遍昭は歌のさまは得たれどもまこと少なし。たとへば、絵にかける女を見て、いたづらに心動かすがごとし」とこきおろされている遍昭であるが、名を上げてこきおろされたことで六歌仙になっているのだから、これもよしとしなくてはなるまい。 名を上げて言及されるということのなかった六歌仙以外の人々については「この外の人は・・・歌とのみ思ひて、その様知らぬなるべし。」とバッサリ切り捨てられているのだから(笑)。 さて、話は変るが一昨年の冬に銀輪散歩で奈良県天理市を訪れた際に、遍昭と小野小町が交わした歌を刻んだ歌碑を目にしたが、それはこのようなもの。いそのかみ 旅寝をすれば いと寒し 苔の衣を われにかさなむ (小町)世をそむく 苔の衣は ただ一重 かさねばうとし いざふたり寝む (遍昭) 墓の前での話題としては適切を欠く気もするが、小町さんのもとへの百日通いの深草の少将は遍昭がモデルだとの伝説もあるようなのは、このような歌がのこされているからでしょうか。 <参考>「天理から奈良へ銀輪散歩(その1)」 2011.1.15.(同上) なんで坊主の墓を宮内庁が管理しているのだとお思いかも知れませぬが、彼は桓武天皇の孫に当るということでもあるからでしょう。 <参考>遍昭・Wikipedia(同上) 遍昭の墓から北花山交差点に戻り、角の阿弥陀寺から東へ120m程、府道116号を戻った処で左に入ると元慶寺という寺がある。 境内に遍昭の歌碑があるので立ち寄ってみる。 この寺は遍昭開基の寺。花山天皇が此の寺で出家したと伝えられる。「大鏡」では花山院の出家した寺は花山寺と記されているが、この辺りの地名が花山であるから、当時は「花山寺」と一般には呼ばれていたのだろう。 <参考>元慶寺・Wikipedia(元慶寺・山門)(同・境内)(同・本堂)(同・花山天皇御落飾道場)(同上碑)<参考>花山天皇・Wikipedia(遍昭歌碑、右は素性法師歌碑) 遍昭の歌碑の歌は上の「天つ風・・」の歌なので、隣にある遍昭の息子の素性法師の歌碑の歌を紹介して置きましょう。 こちらも百人一首でお馴染の歌ですな。(素性法師歌碑)いまこむと いひしばかりに 長月の ありあけの月を まちいでつるかな (古今集巻14-691 小倉百人一首21)<もうすぐ行くと仰ったので、秋の夜長を待ち続けて、九月の長い夜のありあけの月が出るまでお待ちしてしまいました。> この歌は女性の立場に立って作られた恋歌ですな。 この歌は父親の遍昭の次の歌を本歌としている。今こむと いひてわかれし 朝(あした)より 思ひくらしの 音(ね)をのみぞなく (遍昭 古今集巻15-771) 素性法師の俗名は良岑玄利(よしみねのはるとし)。遍昭が在俗の時にもうけた子供である。三十六歌仙の一人。 <参考>素性・Wikipedia遍昭を たづねしぐれぬ 秋の道 (筆蕪蕉) 本日は遍昭遍路の記事でありました。
2013.11.03
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<承前> さて、最終日28日は岡山城、後楽園を軽く銀輪散歩して、新幹線で帰阪ということにしました。これは、まあオマケのようなものです。 今回は総社駅前のビジネスホテルを拠点としましたので、出発点は毎度総社駅であります。(総社駅) 総社駅から岡山駅に出るには吉備線回りと伯備線回りとがある。これは吉備線回りの電車。伯備線回りの播州赤穂行きの方が早く着くというので、それに乗車。(岡山駅) 岡山駅到着。駅前にはやはり桃太郎像ですな。駅前から桃太郎通りを東へ自転車を走らせる。数百メートルで岡山城。 (岡山市はマンホールも桃太郎。但し、右の消火栓は吉備津神社付近で撮影)(岡山城案内板)<参考>岡山城・Wikipedia(岡山城・廊下門横から) 廊下門から城内へ。(岡山城案内板・廊下門前)(宇喜多氏顕彰之碑) 岡山城は宇喜多秀家の城。廊下門外に顕彰碑もありました。(廊下門)(同上説明板)(同上・内側から) 廊下門を入って右手にあるのが月見櫓。(月見櫓)(同上説明板)(築城当時の石垣)(同上説明板)(同上) 不明門を入ると天守閣がある。(不明門)(同上説明板)(不明門)(天守閣)(同上) 岡山城の川向かいが後楽園。まあ、これも城の一部。(後楽園入口)<参考>後楽園・Wikipedia(後楽園)(同上)(同上・唯心山から1)(同上・唯心山から2)(同上・唯心山から3)(後楽園東門付近から見る岡山城天守閣) この日の後楽園は、幼稚園児の遠足でしょうか、多くの可愛いグループがぞろぞろ。芝生広場では元気な声を上げて、賑やかなことでした。(茶祖堂) 後楽園散策後、岡山駅へと引き返すことに。 後楽園を出ると、瀬田の唐橋であった(笑)。 何となく瀬田の唐橋を思い起こさせる鶴見橋でありました。 急がば回れ瀬田の唐橋、ですが、急ぐ旅でもなければ鶴見橋を渡って行くこととする。暇つぶし あてもなき旅 急がねば ゆるりぞ渡れ 鶴見橋これ (偐家持)(旭川に架かる鶴見橋) 橋を渡って路地を左に入り、岡山神社の前を過ぎ、桃太郎通りへと戻る。(路面電車・桃太郎通り) 桃太郎通りは路面電車も走っているのがいい。 駅前に戻って、見付けたコンビニ店で自転車を宅配便で送る。 サンクスでは重量がオーバーで受付できない、と言われる。送ることができたのに、送り返せないとは、クロネコさんは何を考えているのやら。道路向かいのローソンでゆうパック便で送ることとしました。 駅構内のレストランで昼食。やって来た新幹線のぞみで新大阪へ。これにて吉備路自転車散歩の旅、終了です。長らくのお付き合い有難うございました。(完)
2013.11.02
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<承前> 鬼ノ城をぐるり一周します。前ページでも記載しましたが、再度同じ参考ページを下記に記載して置きます。鬼ノ城についての説明省略の魂胆です(笑)。 <参考>鬼ノ城・Wikipedia 鬼ノ城ホームページ キビツヒコの温羅退治(吉備津神社ホームページより) (鬼ノ城・角楼、第1展望) 角楼・西門から、皆さん左に坂を上って 時計回りに行かれる。それで、小生は時計と反対回りに回ってみることとしました。 従って、以下の写真は左巻き、つまり時計と逆回りに撮影したものを撮影順に並べています。(角楼から西門を望む。)(角楼の北側の石積み)(西門)(西門から南東に延びる城壁)(西門復元の説明板)(西門を南東側から見る。城壁の外側)(西門を南東側から見る。城壁の内側)(南門跡)(南門跡説明板)(岩切観音から南を見る。岡山国際ゴルフ場が眼下に。) 鬼ノ城のあるこの山(鬼城山)の標高は396.2mに過ぎないが、南に向かって高い山はなく、眺望はまことに素晴らしい。 山上であるにも拘わらず、湿地もあり水が各所でちょろちょろと流れている。食糧さえ運び込めば長らく此処に籠城できそうであるから、古代にあっては難攻不落の堅固な山城であったのだろうと推察される。(岩切観音付近から東門跡を見る。)(東門跡)(第2展望)(鬼ノ城碑と第2展望)(鬼ノ城碑の台石の上から第2展望所を見る。)(第2展望・石碑付近から北北東方向を見る。)(温羅舊跡碑)(北門跡とその付近の石積み)(北門跡説明板)(鬼城山山頂) 山頂の下は出発点の西門である。これで一回りしたことになる。 皆さんが時計回りに回られる意味がここに来て分かりました。最初に山頂まで来てしまえば、後は概ね下り坂、後半ずっと上り坂となる逆回りよりは楽だということであるのでしょう。(山頂から西門を見る。) 最後に鬼ノ城を一周する間に見掛けた草木を三つばかり掲載して置きます。(羊歯の群生) これはウラジロでしょうか。シダが多く、そこここに群生していました。 そして、コウヤボウキの花。(コウヤボウキ) コウヤボウキは万葉の花でもあります。初春の 初子(はつね)の今日(けふ)の 玉箒(たまばはき) 手に執るからに ゆらぐ玉の緒 (大伴家持 万葉集巻20-4493)<初春の初子の今日の玉箒は手に取ると玉の緒が鳴ってすがすがしく美しいことです。> (注)天平宝字2年(758年)正月3日に内裏で宴が催され、天皇から 玉箒(枝ごとに玉を付けた手箒)が下され、参会者が歌を詠んだ。 初子は月の最初の子の日のこと。なを、「たまばはき」については メドハギ、ホウキギ、ヤハズソウ、クサネムとする説もある。 コウヤボウキの名は、高野山ではこの枝で箒を作ったことに由来するという。先日は来年の年賀はがきの発売が開始されましたが、この歌などは年賀状向きの目出度い歌でもあります。(同上)(サルトリイバラの実) これは赤く色付く前のサルトリイバラの実かと思います。 さて、ビジターセンター前の駐輪してある場所に戻り、いざ帰還であります。坂道を一気に下る。苦労した上りが嘘のよう。数分で山を下ってしまいました。 本日はここまで。明日は岡山城に行くこととします。(つづく)
2013.11.01
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