全4件 (4件中 1-4件目)
1
附高への内部進学と昼休みのぼっち状態n 春の昼独りぼっちの悲哀知る 昼下がり生徒が独り藤棚の下 私は内川雅人くんを主人公とした短篇小説を書いていて、つい最近まで彼の附属生活時代を小学校時代と中高時代とに大きく分けて考え語って来ました。しかし、筆を進めていて、いやキーボードを打ち進めていると、中高時代が彼にとって全く同質のものではないことに気が付きました。 附属中学校のときは昼休み時間に語らい遊ぶ友だちが数人いました。浅野くん、吉良くん、大石くん、堀部くんなど三角ベースでゴムボールを打ったりして遊んだ仲間がいつも数人いたものでした。 しかし雅人くんが附属中に在学していた頃、同附属中から同附属高へ内部進学する中3の時点で約40名が外部進学生と入れ替わるための試験がありまし。このことの弊害について当時の同校附属学校長の杉峰英憲は以下のように指摘していました。 「中學校3年生の時點で學級集団のまとまりや人間性豊かな仲間づくりは、競争の寄る辺なき敗者への不安によって非常に困難なものとなったのである。 」(同附属中等学校研究紀要第41集) 浅野くん、吉良くんたちは附属高校への内部進学が不合格となり、大石くん、堀部くんとは別々のクラスに分かれ、内川雅人くんは昼休み時間を教室で独りぼっちで淋しく食事する悲哀を初めて味わうことになりました。 ネットで「昼休み 時間 ひとりぼっち」で検索を掛けると、昼休み時間に於ける「ぼっち」状態での苦痛が予想以上に書き込まれ、「今日初めて教室で一人でパンの袋を開けたとき屈辱、絶望、悲哀等々様々な感情が溢れ出ました」と言ったことが書いてありました。 雅人くんも昼休み時間に教室で独りぼっちで食事することが耐え難くなり、いつの間にか昼休み時間に学校を抜け出し、食事も摂らずに学校の周辺を歩き廻るようになりました。学校の近くの藤棚の下で所在無く時間を過ごすこともありました。 学校の近くの民家の人のなかには、昼下がりになると家の周辺を浮浪する怪しげな高校生の姿に不審を覚えた人もいたことでしょう。 そんな雅人くんは二年生になると、学校をお昼からそのままエスケープし、昼食代としてもらったお金を貯めて大阪まで行き、映画を観たり古書店で美術書を購入するようになりました。雅人くんの不登校時代が本格的に始まり掛けたのですが、雅人くんはすぐにそんな不登校状態に不安と焦りを感じる様になりました。 おっとここは進入禁止。進路もずっと決まらないままでいたのですが、そのことが彼にとって一番の問題だと気付き、現在の学力から判断して一年浪人する覚悟で進学先も決めました。そして三年生からは真面目に附属高校に通学するようになりましたとさ、めでたしめでたし。 川柳 ぼっちから不登校へはキープオフ
2019年04月26日
コメント(0)
武部先生の漢詩の中国語音読み 校門で新入生も花開く 内進に新入学の歓喜無し 私が火曜日のお昼に自動車で県立ナンバーワンスクールの鶴丸高校前を通過したとき、校門の前で新入生たちが笑顔で写真を撮りっこしていました。校内の桜の花が満開でしたが、新入生たちも満開の笑顔を開かせていました。 そのとき思ったんですよね。短編小説の主人公の内川雅人くんは内部進学で高校に合格したとき、こんな笑顔を見せていただろうかと。おそらく彼はホッと安堵の胸を撫で下ろしたでしょうが、またこの学校でこれからも続く息苦しい生活を思うとウンザリしたことと思います。 奈良女子大附属高校を1970年(昭和45年)に卒業された安渓遊地さんから、武部先生の漢詩の中国語音読みに関するコメントをいただきました。附属の幼稚園からの附属っ子の内川雅人くんと違って奈良女子大附属の高校から入学されており、おそらく 満面の笑みを浮かべて入学式を迎えられたことと思います。その安渓さんが 高校三年生のときに武部先生の中国語音での杜甫の漢詩「春望」の「国破山河在」の授業を受けたとされています。そうでした、内川くん同じく杜甫の「春望」の中国語音の授業の洗礼を受けたと思われます。 杜甫「春望」 國破山河在 城春草木深 感時花濺涙 恨別鳥驚心 烽火連三月 家書抵萬金 白頭掻更短 渾欲不勝簪 国破れて山河在り/城春にして草木深し/時に感じては花にも涙を濺ぎ/別 れを恨んでは鳥にも心を驚かす/烽火三月に連なり/家書萬金に抵る/白頭 掻けば更に短く/渾べて簪に勝えざらんと欲す 内川雅人くんは戦後生まれの人間ですが、戦争を体験した人たちは、この「春望」の「国破れて山河在り、城春にして草木深し」の二句になんとも言えぬ感慨を覚えたといわれます。ただし、「春望」の詩の「国破れて山河在ももり」の「國」は国家のことではなく、唐の国都長安のことを指し、「破れて」の「破」は敗戦の意味ではなく、長安の都が「破壊されて荒れ果てている」様子を表現したものですね。 しかし、「城」すなわち長安の都が戦乱で破壊され、春が来ても家の庭は手入れされず、草木が生い茂り、平和な日常が戦乱によってうち破られ、住みなれた街が無惨に破壊され、「家書万金に抵る」とあるように家人の手紙は万金にも値するような貴重で大切なものと思われます。愛する家族とも離散した人間の哀しみと不安が見事に詠われているがゆえに、この詩は時空を越えて戦後の焼け跡にたたずむ日本の人々の心に訴えかけ、またその後の人生の思い出のなかに織り込まれていったのでしょうね。 この漢詩を武部先生はいきなり中国語音読みで読み出されたのです。「クォポーサンハァザイ チョンチュンザオムーセン」と。上がったり下がったり、どすんと落ち込んだり、そうかと思うと急に浮上したり、それはまるでジェットコースターに乗って起伏の激しいレールの上を滑走しているような感じでした。いや、レールの上をゴーゴーと走るジェットコースターよりももっとなよやかでリズミカルでした。 生徒たちはあっけにとられてぽかんとしていました。雅人くんもそのなかの-人だったのです。漢詩は中国の詩であるから、この奇妙な発音も中国語読みであることくらいは推測が付きましたが、それにしてもカルチャーショックを受けました。 彼が驚いたのは、独特のイントネーションを持つ中国語の発音そのものではありません。中国音の発音はラジオやテレビでときどき耳にしていました。衝撃を受けたのは、漢詩に対する既成のイメージをこの先生の朗読がきれいさっぱり吹き飛ばしてしまったからです。漢詩や漢文といえば、ついこの間まで中学生だった彼の頭のなかにも 「国破れて山河在り」とか「虎穴に入らずんば虎児を得ず」といった類の中国の名句・名言の片言隻句が雑然と入っていましたが、それらは格調が高くどんと重々しい感じがしていました。 しかし、教室でいま中国語で朗読されたものはそれとは全く別世界のものでした。なんとも奇妙でなよやかでかつリズミカルでした。この漢文の先生が『白楽天詩集』の著者である武部利男先生でした。 こうして、彼は漢詩に非常な興味を持ち、武部先生と親しく接し、先生の薫陶を受けて漢詩の素晴らしい世界に目が開かれていった、なんてお話をつぎに展開していきたいところですが、残念ながらそんなことは全くありませんでした。大学に進学して後も、漢詩に関してそれほど強い関心を持つことはありませんでした。 それでも、高校で漢文を担当されたあの武部利男先生が中国の古典詩の優れた研究者であることぐらいは知るようになった。また、なぜ武部先生が高校生に漢詩をいきなり中国語で朗読されたのか、その理由も次第に分かるようになった。 確かに、中国の古典語で書かれた漢文や漢詩の内容を理解する上で、日本人が中国の優れた文化を吸収するために編み出した読み下し(訓読)の方法は非常に便利なものです。また、漢文の訓読は、日本の「古典語」としてそれ独自の格調の高さがあり、この漢文訓読そのものが日本語をはぐくみ育ててきたのです。 中国での漢字の発音は時代とともに変化し、現代中国語と古典詩である漢詩が詠まれた時代とでは発音が随分異なっています。しかし、漢詩を現代中国語音(現代北京音)で発音しても、押親や平灰の組み合わせから作り出されるリズムは大体つかめます。先生はおそらくこんなことを生徒たちに印象深く教えるために中国語でいきなり漢詩を朗読されたのであろう。
2019年04月19日
コメント(0)
附属小学校から附属中学校への内部進学 桜咲く小学校の投票所 麗らかや授業参観ふたむかし 雅人さん夫妻は県議会選挙の投票日、久しぶりに投票所となった町内の小学校に出かけました。校内各所に桜の木が植えられており、春の日差しを浴びて薄ピンク色の花が満開状態でした。内川雅人さんは、父親として日曜日にこの小学校の授業参観に赴いたのはもうふた昔前のことになるなと懐かしく思いました。 授業参観と言えば、内川雅人さんの子どもの頃は父兄参観日と名付けられ、彼の父親がいつも教室に顔を出していました。彼の母親は教師として平日は忙しく働いており、病弱ということもあり、日曜日には家で休んでいることが多く、 もっぱら父親が小学校の授業参観だけでなくPTA活動にも参加していました。 雅人くんのハンサムで社交的、陽気な彼の父親は、お母さんたちの間で非常な人気者だった様で、PTAの懇親会などでは中心的人物となって場を大いに盛り上げ、酔って顔を赤くして帰宅した父親は、その日の懇親会の模様をいつも機嫌よく楽しそうに語っていました。 そのように雅人くんの小学校時代のことはずっと父親任せだったのに、6年生の春の担任の先生との相談会には母親が珍しく出掛けて行きました。なぜこの時に父ではなく母が呼び出されて附属の小学校に出かけて行ったのでしょう。話の内容から考えて、父親に話しても埒が明かないと担任の先生は考えたのでしょうか。雅人くんに目を覚ましてもらうためには母親から直接キツく言わないと駄目だと思われたのかも知れませんね。 担任の先生は、「このままではお宅のお子さんの附属中学校への内部進学は無理かも知れませんよ」と指摘されたのです。この附属小学校では、五年生までずっと児童たちに成績通知票を渡して公表するようなことはありませんでした。雅人くんの母親は学校の成績抜群の才媛でしたから、自分の息子も同様に成績優秀と思い込んでいたのですから、担任の先生の話を聞いてサーッと血の気が引いたそうです。その日から毎日ずっと母の雅人くんに対する特訓が開始され、なんとか彼を附属中学に押し込むことができました。 母親の急遽の特訓の成果でなんとか附属中学に内部進学することができた雅人くんでしたが、附属中学では難関試験を乗り越えて外部進学してきた秀才たちと席を並べることになりました。これまで机に座ってじっくり勉強などしたことのない雅人くんでしたから、基礎学力が不足しており、継続して勉強する習慣もこれまでありません。親しい友だちも出来ず、息苦しい中高の附属生活を送ることになりました。 秀才たちの集団に突然投げ込まれ競争させられた雅人くんの息苦しさは、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下で』の主人公が神学校の秀才たちとの競争のなかで精神を疲弊させていく心理に通じるものがあったようです。 後、川柳を一首下記に載せておきます。 父赤く母青ざめマー黄色
2019年04月13日
コメント(0)
驟雨の放課後の思い出 菜種梅雨校舎の階下傘辞退 春驟雨濡れそぼちつつペダル踏む 内川雅人くんは戦後の昭和に産まれ、昭和に育ち、昭和に学んで、昭和に就職した団塊世代の人間です。 その雅人くんが高校生の頃の菜種梅雨の時期のなんとも侘しい思い出があります。放課後、二階の教室を降りて駐輪場に向かおうとすると、春の驟雨が突然降り出してきました。そのき、階段の下にいた同級生の橋川さんが用意してきた自分の傘を彼に差し出して「一緒に行かない」と言ってくれたのです。高校近くのバス停から一緒に帰ろうとの親切心から言ってくれたのでしょう。 しかし雅人くんはなんと彼女の親切を即座に断わり、駐輪場に駆け出して雨の降る中をペダルを校門に向かって漕ぎ出だしたのです。そのとき、彼は彼女の親切心に素直になれない自分の心に非常な引っかかりを感じたものです。 激しい驟雨の中、彼は奈良ホテルを右手に見ながら荒池沿いを濡れ鼠となって泥水を跳ね飛ばしながらペダルを漕ぎ漕ぎ自宅に向かったものです。この春雨の帰り途の思い出は、人の親切心に素直になれなかったその頃の雅人くんの心をずっと傷付け残り続けたものでした。 後、川柳を三首ほど紹介いたします。 令和とは元は張衡漢籍さ 塚田さん忖度で安倍麻生道 忖度を自慢してる政界人
2019年04月05日
コメント(0)
全4件 (4件中 1-4件目)
1