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カウンセラーのための 聞く 技術
聞き上手になることは日常生活のなかでも私が大切にしていることです。ただ中々うまくいきません。そこで聞くということをもう一度勉強しなおしてみました。
京都大学 教育学部 東山 紘久先生
聞き手になるとあまり気づかないことなのですが、相手の話を聞く態度で、たいへんなさしさわりがあることがあります。それは、相手から話を聞きだそうとする態度なのです。少し言葉が下品になりますが、私はそれを聞き手間の「助平心」と呼んでいます。プロのカウンセラーにとって、「助平心」をもつことは、カウンセラーであることを放棄しているようなものです。
事実かどうかたしかめなくて、どうして子どもの教育ができるのか、と思われるかもしれません。では逆に、事実を確認すれば教育できるのでしょうか? 事実を確認し、本人がたしかに不法行為を犯したことがわかれば、罰を与えることはできるでしょう。しかし、親や教師が子どもに罰を与えることで、行動が矯正できるかどうかは疑問です。罰を与えるのは社会正義のためには必要でしょう。親や教師は社会正義を教える人であり、そして社会的良心を形成する人なのです。良心は愛される体験から生まれます。
「社会的良心」、専門用語ではこれを趣自我というのですが、これは親の行為を見て育つのです。「愛する人の言うことばよく聞く」のです。あなたは愛する人にいやな思いをさせたくないでしょう。愛する人のためなら、言われなくてもその人が喜んでくれることをしようと思いませんか。子どもが親の言うことをきくのは、愛する人を悲しませたくない、愛する人から拒否されたくない、との思いがベースになっています。愛ではなく、罰で言うことを聞かせようとすれば、権力に頼ることになります。パトカーを見てスピードを落とすのは、交通警察官が好きなためではありません。違反切符を切られるのがいやなためです。だからパトカーが行ってしまいますと、もとのスピードに戻ります。いや、パトカーによってもたらされたストレスを開放しようとして、もっとスピードを上げるかもしれません。愛する人や大切な人を横に乗せているほうがスピードをひかえるのではないでしょうか。
子どものしつけは大切です。親が自分の都合からではなく、子どもを愛して子どもの立場に立っていることがしつけの基本です。愛されていない子どもほど非行に走りやすいのです。
もちろん、一つは知らないことを教えてあげる必要はあります。事実確認は、すでに犯してしまった非行に対してそれが事実かどうかをたしかめる行為です。親や教師に大切なことは、過去に起こったことではなく、目の前の子どもを見ていてやることです。知らずに犯した行為を見かけたら、「そうしてはいけません。このようにするのよ」とやさしく教えてやれば、子どもはじつに素直に言うことを聞いてくれます。このときに、子どもが素直でなかったら、子供に対する親の態度を見直すほうが早道です。子供たちは親の言うことを信じるのではなく、親の行為を通して学ぶからです。
教師や親には打ち明けないことを、スクール・カウンセラーに話す子どもたちはたくさんいます。スクール・カウンセラーが、事実を聞きだそうとする教師と同じ様な態度をとると、子どもはけっして話してくれません。スクール・カウンセラーでなくても、愛されている、だいじにされている、自分の味方だと思う教師には、子どもは自分から非行を認めて話すものです。
聞きだそうとしたくなる理由の第二は、聞き手自身の興味から聞きたくなることです。
話し手は話したくないのに、聞き手のほうが聞きたくなっているのです。これはある種「のぞき」に似た行為です。冒頭に「助平心」といったのが、まさにこれです。話し手の話に興味をもつことの大切さはすでに述べました。興味とは話し手の立場に立ってのことで、話し手がいやがっていることに、こちらで興味をもつのとはまったく異なります。
下品になりついでに述べますと、「痴漢と恋人の、行為そのものは似ているが、意味はまったく違う」というのと、類比できるかもしれません。プロのカウンセラーは、相手が言いたくない話を聞きだそうともしないし、それを言わせようともしません。話し手が話したいことだけをじっくり聞いていくだけです。そうすると来談者とカウンセラーの間に人間関係が生まれ、この人になら自分が誰にも言えなかった秘密を打ち明けられるかもしれないと思って話をしたくなるのです。秘密は話してしまうと風化することは述べました。
いままで心のなかでもやもやと生存しつづけていたことが、風化し、自然に帰っていき、自分もふつうになれるのです。
前節の「前置きの長い語」のときに、本題に入らない話の間き方を述べましたが、話し手が話したくない話は、前置きが長いだけではありません。「語が飛ぶ」「筋を微妙にずらす」「矛肩する話」など、いろいろな場合があります。これらの話はいずれも話し手が、意識的・無意識的に、話したくない話を含んでいる可能性があります。お年寄りなどに見られる「都合の悪い話は聞こえない」、いわゆる「選択的難聴」という現象がありますが、これは聞くことだけでなく、話すことにもある程度あてはまるのです。
聞き手にとって話を聞くときは、知らないうちに理論的な態度になっています。理論的に筋が通るように話を聞こうとするのです。このような態度はある意味で自然なことで、それでいいのですが、話し手のほうは理論的に話すとはかぎりません。
仲のよい友だち同士の話は、論理ではなく感情優先です。たとえ感情的な話でも少しは論理的に話したいという意図が働いてはいますが、聞き手からするとやはり理論の飛耀や話の筋が飛んでいるように感じます。だから、聞き手はついつい理屈のつかないところを聞きだそうとしたり、話し飛ぶとそれを指摘したりします。聞き手のほうからするとあたり前に感じるこうした態度が、話し手からすると話しにくくなる原因となります。
「飛ぶ話」は、話し手が飛ばすままに聞くことです。どんどん聞いていきますと、あまりにも話を飛ばしすぎて「いま、どんな話をしていましたか」という人もあります。その時は、最後に聞いた話をくり返しますと、話が戻ります。
最後まで話を飛ばしながら話をする人は、聞き手には飛んでいる話と聞こえても、自分のなかでは話の筋があるのです。そのまま話し合いを重ねていますと、だんだん話の筋が見えてきます。話の筋というよりは、その人自身が見えてきます。その人が見えてきますと、話の内容を理解するのは、そんなにむずかしくはありません。「肝心のデータが話されない話」は、それが出てくるまで待てばよいだけです。よく聞いていますと、話のなかにデータがかくれている場含も多いのです。ある種の上司のようにデータ、データ、とこちらがそれにこだわっていますと、かえってかくれたデータを見いだせないのです。
「理屈が合わない話」は、理屈を論理で攻めては、相手は話をやめるだけです。「ヘえ-、それで、それで」とどんどん話をしてもらいますと、話し手は自分自身で論理の矛盾に氣づき、理屈を補っていきます。
それでも理屈に合わない話は、話し手は自分の気持ちを聞いてほしいだけなのです。この点に関して既に述べました。「話に具体性がない話」は、具体的な話の内容より、気持ちを聞いて欲しいときで、これは理論にあわない話をするときよりも、話しての気持ちがさらに浮ついているときです。現実に向かう気力が落ちているといっても良いでしょう。
このようなとき具体的な話を求めると、話し手はこれもまた話しをやめてしまいます。気持ちの浮つきと、気力の落ちている相手の状態を受け入れて、そのまま聞いてあげてください。聞いてあげることが、このような状態の人には最良の藥なのです。
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