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二〇〇七(平成十九)年九月十二日、安倍首相が辞任しました。罵倒や嘲弄が安倍氏に集中しました。しかし、日本人は首相辞任をどのように理解すべきなのでしょうか。私はシドニーの日米首脳会談が発端だと推察します。伏線として、小沢一郎氏がシーファー米大使を召喚してテロ特措法反対を通告していたことが作用したと思います。ブッシュは首相にインド洋での支援活動の継続を強く要請したことでしょう。諾と首相は約束したに違いありません。拉致問題を言う首相に対して、米国大統領は北朝鮮を取り込むのは日本の利益でもあると強く説得したのではないでしょうか。背景には、北朝鮮の世界屈指の膨大なウランやレアメタル資源の存在と、その確保を狙う中露との関係が話題になったかもしれません。北朝鮮の清津港や羅津港が中国のミサイル潜水艦の基地になることの日本への脅威は決定的なものがあります。日米首脳会談のトップシークレットが漏らされることはないでしょうが、首相はかなりの衝撃を受けたものと、私は推察します。とにかく万難を排して、インド洋での活動継続は実現しなければならない……もし約束が果たせないときには……と首相の胸に去来したものは何だったのでしょうか。シドニーでの記者会見で、首相は「職責を賭して……職に恋々とするものではない」と言明したのは何故だったのでしょうか。国対委員長を通じて「……挨拶を……」と小沢氏に会談を申し入れたが断られ、辞任の記者会見でそれに触れたら「責任転換だ」と罵倒・嘲笑されました。私は首相が気の毒でなりませんでした。また、インド洋が日本の運命の海になるのかと、私は思いました。七章に「ああ、インド洋」として帝国海軍の亡国の大失敗を書いています。六カ国協議の主たる狙いのひとつは日本の核武装の阻止です。アメリカの核の傘など幻想です。アメリカは自国民の生命を日本防衛の為に大量に犠牲にしてくれるのでしょうか。そして、そんな事が可能でしょうか。安保条約のどこにもそんな約束は書かれてはいません。世界一の原子炉を作れるのが日本です。空母でも核兵器でも、その気になれば何隻でも何発でも製造できるのが日本です。こんなことは世界の常識です。アメリカ・ロシア・中国・朝鮮と核武装した国々に囲まれて、日本は生きていかねばなりません。それには、日本人は心棒となる歴史観と国家観を持たねばなりません。北朝鮮のインフラ整備・食糧支援・エネルギー支援………そのお金はどの国が出すのでしょう。日本が出さないのは確実です。日本抜きでやることです。ロシア・中国・朝鮮を合算してもGDP比で日本には遠く及びません。日本人は昴然として、核武装の可否について論議を始めようではありませんか。日本が生存する道の論議です。「三千世界の烏を殺し主と朝寝がしてみたい」と高杉晋作は歌いました。本当に鳴烏と蠅は五月蠅(うるさい)ものです。小沢一郎氏も金正日氏も六十五歳です。安倍晋三氏はまだお若い。志があるだけに「五内ために裂く」心境だと拝察します。立派な業績を残されました。朝寝して御軽快の上で、高杉晋作のように決起して下さい。 桂冠のニュースを聞くや強(こわ)残暑以上は論考ではなく俳文でしかありません。『続日本人が知ってはならない歴史』若狭和朋著(2007年)
2022.06.03
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次の言葉は誰の発言でしょうか。一九一七年のロシア革命を評した発言です。「……ここに数週間ロシアで起こっている素晴らしい、心わきたたせるような事態は、将来の世界平和に対するわれわれの希望を、さらに確かなものにしたと、すべてのアメリカ人は感じないであろうか。(中略)専制政治が長期にわたってロシア政治機構に君臨し、その実態は恐怖政治であった。しかし……いまや 、この専制政治は排除され、それに代わって寛大なロシア国民が……世界の自由、正義、平和のための戦列に加わったのである。われわれはここに誉れ高き同盟にふさわしい盟友を得たのである」(『レーニン、スターリンと西方世界』ジョージ・F・ケナン)発言の主は当時のアメリカ大統領ウィルソンです。共産主義者をデモクラシーの仲間と考えていたアメリカ人は、ウィルソン大統領ひとりに限りません。多くのアメリカ人は、君主政治を専制政治と考えていました。日本の皇室も専制政治の担い手と考えられていた一面があります。これはアメリカ建国の歴史に照らしてみれば、理解もできます。フランス革命は国王夫妻をギロチンで斬首し、数百万人の血を「供犠」しましたが、革命党派ジャコバンは独立アメリカと熱く連帯しようとしたのでした。私は皇室と書きました。普通は「天皇制度」と書く人が多いのですが、私はこの言葉は使わないようにしています。「天皇制度」という語はコミンテルン用語であり、打倒天皇制度の悪意に発する言葉ですから、私は使う気持ちになりません。一九二七(昭和二)年のコミンテルン第六回大会製造の「二十七年テーゼ」に起源を持ったものです。制度という語がどうしても必要なときは、皇室制度で充分ではないでしょうか(私は言葉狩りの徒ではありません)。ロシア革命の後、反対派や自営農民の虐殺・「抹殺」などが、アメリカ人の耳目に達しなかったのは、歴史の悲劇というしかないものです。しかし、四選目のルーズベルト大統領が第二次世界大戦中に至っても、ウィルソン大統領なみのソ連共産主義観しか持っていなかったという事実を、私たちはどのように理解すべきなのでしょうか。彼は政治的には、スターリンの親友だったのです。ただし、ルーズベルトとコミンテルンの関わりについて、史書は沈黙しています。ルーズベルトはスターリンを「共産主義者と考えるのは馬鹿気ている。彼はただロシアの愛国者であるだけだ」と公言していました。ルーズベルトは一九四五(昭和二十)年四月十二日、日本降伏の直前に死ぬのですが、この共産主義観は死ぬまで変わることはありませんでした。次の大統領トルーマンは、冷戦の激化と朝鮮戦争の勃発で脳天をしたたかになぐられた後に、初めて西側陣営の結成を固め始めたのでした。日本を満洲・朝鮮・支那大陸・アジアから追い出したら、たちまち共産党勢力の権力奪取を許す結果となり、日本がなぜ満洲や朝鮮・支那で頑張っていたかをアメリカはようやく理解したのでした。中華人民共和国や北朝鮮の「人民」は飢えと人間的悲惨の中でのたうちまわっています。「人民」とは、悲惨なものです。「人民」という日本語に一言加えないわけにはいきません。「人民」とは何なのでしょうか。ピープルを「人民」と訳すのは、底意を秘めた誤訳なのです。有名なリンカーンのゲティスバーグ演説にも、この底意を秘めたトリックが使われています。「入民の政府(政治)、人民のための政府、人民による政府」という全ての学校教科書に登場するこの演説の欺瞞に言及した政治学者は、寡聞にして私は知りません。宇宙船「ディスカバリー」の日本語訳は「発見」でしょうか。「発見」は文法的には、言うまでもありませんが名詞です。ディスカバリーの動詞形はディスカバーです。ディスカバーアメリカは「アメリカを発見」となります。「アメリカの発見」と表現したい時には「ディスカバリーオプアメリカ」となります。この「の」がトリックの鍵なのです。オプはもちろんofなのですが、この些細な言葉の手品が、日本人を大きく誤解に誘導するのです。「~の」は日本語ではまず所有の意味に使われます。「私の本」といったら所有を意味します。「人民の政府」といえば、所有の感覚が作動します。所有権は、処分権の感覚を帯同しますから、「人民」は政府の所有者であり政府の処分権(革命権)を持つのだ、との感覚連 鎖が機能するのです。民主主義(デモクラシー)という観念の欺眺にも、これは痛底しています。デモスというのは民衆であり、クラシーは政治制度の意味ですから、デモクラシーというのはせいぜい民衆参加の政治制度といった意味にすぎません。アリストクラシーは貴族政治制度というように、です。デモクラシーに民主主義と主義(イズム・思想)の意味を潜ませたのは、誰なのでしょうか。くり返しますがデモクラシーとは、民衆の政治参加の制度の意味であり、それ以上でも以下でもありません。リンカーンは「……ガバーメントオブピープル」(人々を統治する)と言った後に、この統治は「~のための、~による……」と言っているのです。南北戦争の激戦地・ゲディスバーグでの演説ですが、アメリカ大統領リンカーンは南部の分離を容認しないと演説しているのです。「分離・独立などは容認しない」、つまりは、「われわれはピープルを統治するが、この統治は、~のための、~による統治(ガバメント)」と説いているのであって、政府(政治)は人民の所有するものだ、などと演説しているのではありません。「ガバーン・~を統治する」というのは他動詞ですから、目的語を伴います。ところがガバメントと名詞にすると次のピープルも名詞ですから、「の」を使って「~を」の意味を確定するのが日本語の表現形式なのは周知のことです。ofの目的格用法という、本来は高校英語レベルの話なのです。「私はあなたを愛する」という「あなたへの私の愛」とは、愛の所有者は「私」であることは明確ですから、私「の」愛の処分については、私の意志の下に位置するものです。つまりは、日本の憲法学、政治学にはこの種の欺瞞が一杯にブレンドされているという現状への警告(?)を呈したかったのです。アメリカ人にも同種の危険な状況があります。それは人民・主権・デモクラシーの理解に関する危うさが、共通しているからです。「人民」は単なる人々ではありません。中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国の「人民」とは「正義の意思の持ち主」の指導に服することによって、自由を得て解放された人々のことなのです。不遇のユダヤ人の天オルソーは、民衆というものは所詮は多数決による「全体意思」程度の意思くらいしか形成できないのであり、社会を指導する「一般意思」を体得できるのは限られた指導者(「立法者」)のみである、と説きます。「社会契約論」の「社会契約」とは、絶対的指導者「立法者」に絶対的に服する社会の形成を意味します。この社会の民衆は「自由」を得て、「ピープル・人民」になるのです。オウム真理教の信者が、麻原某に帰依すれば、解脱して自由になると信じたように、彼ら信者がルソー風にいえば「人民」なのです。『社会契約論』の出版が一七六二年四月であり、『エミール』の刊行は翌月のことですから、この二冊は前編・後編なのです。ルソーは自由のない人々を自由な「人民」と呼ぶのですが、絶対的な「立法者」に従えば自由であり、この自由な社会の状態を「自然」といいます。この自然の中で少年エミールを教育するというのが後編なのです。ルソーの著作を読み解くには、ルソー語を弁えてかかる必要があります。ルソー語が分からないと、ルソーの描く大虚構の論理世界の虜になります。世に流通しているルソー賛美の本が多いのは、ルソー語の解読に失敗しているからです。ただ、ルソーを理解した天才の一部は大悪党になりました。マルクスもレーニンもそして毛沢東もルソーの徒です。ポルポトは、フランス帰りのかんじがらめのルソー主義者でした。レーニンの有名な「意識の持ち込み論」は、ルソーの焼き直しです。労働者階級は自分の力では社会主義の理解に到達できないから、それを理解した革命的な知識人(インテリゲンチュア)に指導されて、プロレタリア(労働者)はプロレタリアートに「自己形成」できて革命を担うことができる、というのがレーニン主義のエッセンスです。プロレタリア(労働者)を指導する「前衛党」は、ルソー語では「立法者」であり、「自由」な「自然」の世界が、共産主義の世であるわけです。プロレタリア(労働者)とプロレタリアートの違いは、人々と人民の違いに照応しています。リンカーンの演説を「人民の……」と訳すのは、意図的な目くらましにほかならないのです。ルソーがいう「自然」というのも、ルソー語のそれでしかありません。決して、天然自然の意味ではありません。「立法者」に導かれて、人々は「自由」になれるのですから、この自由の世界が「自然」なのです。「自然に帰れ」というフレーズは、寡聞にして私は確認していませんが、この意味のことを反復します。「人間解放の共産主義」の原型はルソーの「自然」であり、「プロレタリアート」とは「立法者」「前衛」に導かれる「人民」にほかならないのです。北朝鮮の人民や、中国の人民が悲惨な運命を享受しているのは、それは彼らが「人民」だからです。共産党・労働党が「指導」という名の独裁権力を手放さないのは、こうした「深遠な」「哲学的な基礎」があるからにほかなりません。「人民」という語ほど、呪いにみちた言葉はありません。「主権」も自由もないから、「人民」なのです。麻原尊師に指導されて自由自在を得た教徒たちは、麻原共産社会の人民と言い換えても、さほど間違ってはいないはずです。アメリカも危ないと、私は書きましたが、デモクラシーを民主主義と思想の次元に持ち込もうとする傾向が、アメリカの政治思想の底流に流れているからです。だから、ウィルソンもルーズベルトもスターリンや共産主義に大甘の甘で対したのでした。くり返しますがデモクラシーは民主「主義」ではありません。「民主」という語を、日本は避けていた時代がありました。「大正デモクラシー」といったのは、なぜでしょうか。それは、「主権」概念の危うさを避けていたのでした。イギリスには、憲法典はありません。イギリスの「主権者」は誰か、などということを規定した法典も存在しません。それではイギリスの「主権者」は誰かといえば沈黙があるのみです。イギリスは民主主義の国ではありません。もちろん、イギリスはデモクラシーの国です。つまり、民衆の政治参加の国家です。つまりそういう政体なのです。アメリカの憲法のどこを見ても、「主権」者を規定した文言はありません。それでも、アメリカが、デモクラシーの国であることには間違いはありません。では、アメリカの主権者は誰なのかという問いに、「人民」だと答える人は誰もいないはずです。つまり、それはアメリカ国民(ナショナルピープル)と答える人はいても(人民)だと答える人はいません。大日本帝国憲法において、日本の主権者は天皇だと答えたら、法学部の憲法の試験ではペケがつけられた(る)はずです。ほぼ明治時代から東大法学部の憲法講座では、こうした理解が普通でした。明治憲法は、国体と政体を峻別しています。周知のように、第一条の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」から、第三条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」に至るまで、そして第四条の「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総撹シ」の部分までが、日本の国体を規定したものでした。この第三条は、天皇の国政に関する無答責(政治的な責任はないということ)を宣言したものであって、天皇神権説とは関係ありません。国体と政体の峻別を確認したものでした。仮に天皇が日本の主権者なら、無答責の規定がくるはずはありません。第四条の後半「コノ憲法ノ条規二依リ之ヲ行フ」以下は、立憲君主制の政体を規定したものです。統帥権干犯問題として有名になる第十一条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」や第十二条「天皇ハ陸海軍ノ編成及常備兵額ヲ定ム」は、総理大臣の関与を排除する規定ではありませんでした。でなければ、第十条の「……官吏ヲ任免ス」や第十五条「……栄典ヲ授与ス」なども独立した任免権や授与権として、総理大臣の関与を干犯として排除したはずです。そのような騒ぎは起りませんでした。天皇機関説や統帥権干犯問題は、ともに天皇をして日本の「主権者」と擬したところが共通しています。明治憲法は国体と政体を分けて規定し、国体論として天皇を「国ノ元首」として規定し、「神聖ニシテ侵スヘカラス」と無答責を宣言しました。これは、ヨーロッバの立憲君王制国家に共通して見られるものでした。イギリスは憲法典をもちませんが、「君臨すれども統治せず」と、やはり無答責を規定しているのです。美濃部達吉博士は国家法人説に依拠して主権は国家にあると、国家主権者論を祖述してしまったのです。明治憲法は、国家主権の所在などは規定してはいないのです。国体論として「元首」「統治権」の「総撹」をいいながら 、政体論として第五十五条で「国務大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責二任ス」として第二項で「凡テ法律勅令其ノ他国務二関スル詔勅ハ国務大臣ノ副書ヲ要ス」と念を押すかのように規定しています。美濃部達吉博士の天皇機関説の非を嗚らす学説は、戦後日本では聞きませんが、私は統帥権干犯説と同種の過ちを犯していたと考えます。東大法学部の「責任」は軽くはありません。統帥権干犯問題や天皇機関説問題のようなおかしな理屈に、日本はなぜ足元をすくわれてしまったのでしょうか。東大法学部が、天皇機関説に覆われたかのような観を呈したのはなぜでしょうか。第八章で詳述したようにイエリネックの学説をユダヤ法学の本質とともに誤解したからです。だからフランクフルト学派に今日でもハイジャックされているのです。天皇機関説に対抗したかのように言われる上杉慎吉博士の神権説は、私は上杉慎吉博士の擬態に思えてなりません。それは、神権説と明治憲法解釈の無軌道ぶりがとてもまともな学説とは考え難いことと、この学説の蔭で演じられた国家社会主義者たちの活動が奇妙な調和関係を保っていたことへの疑惑に根ざしているからです。結論的にいいます。ルーズベルト政権内部のニューディーラーたちの中に、コミンテルンの要員が潜んでいたように、日本帝国でもエリートと目された人々の間にコミンテルンの影が見え隠れしています。私は「陰謀史観」を述べようとしているのではありません。支那事変の拡大には、直接に尾崎秀実たちのリーダーシップが日本側にはあり、蒔介石政権の内外にはコミンテルンの功績のあとが歴然としています。コミンテルンが、万能だったわけではありません。だが、二十世紀において 、人類は共産主義・マルクス主義の縛りから自由ではあり得なかった事実を充分に省察すべきなのだと、私は考えます。二十世紀を支配した大思想(グラントセオリー)が、マルクス主義・共産主義だったのです。今日でもそれはフランクフルトシューレ(学派)の形で生きています。日中対立と日米の死闘は、コミンテルンの媒介なしにはあり得なかった歴史を、私たちは考察せざるを得ないのです。私のような田舎教師が、そして最も得意とする分野が高校野球の指導にある者が、まさに場違いにも、こうした歴史認識の分野でものを言う風景はどこかで日本がヘンだからなのです。天皇機関説はやはりヘンなのです。日本もアメリカもそして支那もともに共同責任を負うのが、さきの大戦だったのです。中国共産党が、日本に「反省」を迫るという絵画は、遠くはない将来に珍画として高く評価されることは間違いありません。『続日本人が知ってはならない歴史』若狭和朋著(2007年)
2022.06.02
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私は現場の教師でしたから、高校教師時代には高校生から、大学教師のときには大学生から必ず質問されたのが次のことです。「先生、支那と中国とは同じなのですか」「支那と言ったら、いけないのですか」この質問に多くの先生たちは、どのように答えているのでしょうか。私は次のように、事実を指摘しています。日本の敗戦により、支那(中華民国)は日本占領に戦勝国として参加し、日本政府に対して「支那」の呼称の禁止を命令しました。一九四五(昭和二十一)年六月のことです。だから、日本の外務省は総務局長、岡崎勝男の名で、「支那の呼称を避けることに関する件」という公文書を発しています。六月六日です。文面は次の通りです。「中華民国の国名として支那という文字を使うことは過去に於いては普通行われていた処であるが、其の後之を改められ中国等の語が使われている処、支那という文字は中華民国して極度に嫌うものであり、現に終戦後同国代表が公式非公式に此の字の使用をやめて貰いたいとの要求があったので、今後は理屈は抜きにして、先方の嫌がる文字は使わぬ様にしていきたいと考へ、念のため貴意を得る次第です」(かな遣いを現代風にしました)この局長名の公文書は、都下の新聞社や出版社に対して出されたものです。翌七日には各省の次官あてに同様の公文書が送られ、七月三日には文部省次官が各大学・専門学校に通達し、内務次官通達により各県知事が全ての学校に指示したことにより、日本の学校やマスコミの世界から、「支那」の文字が消えました。局長通達の中にいう「理屈は抜きにして」というくだりに、一抹の悲哀を感じるのは私だけでしょうか。国会図書館で簡単に閲覧できます。私はコピーを手元において、今これを書いています。理屈は抜きにしても、支那の語は蔑称ではありません。あの三蔵法師たちがインドに赴き仏典の漢訳をしたときに「支那」の語を用いています。中国人たちが「支那」の語を使い始めたものです。インド人が「シナ」と発音していただけのことです。チャイナ・チノ・ヒーナなどと同じなのが支那です。これは「理屈」としても、「中国」という語は尊称であることは、日本人は気が付いているのでしょうか。「理屈」ではなく、次のことは日本人の常識であったはずです。東西南北の蕃人をそれぞれ北秋、東夷、南蛮、西戎と蔑称し、野蛮人どもを教導する(文化する)中華の国が「中国」なのです。敗戦国の日本人は敬称たる「中国」の語を用いよ、との命令なわけです。「日の本」などと尊大な呼称に対して、支那の「支え」は漢字の国の民の感覚からは、許せないという感情もあったでしょう。いずれにしても、日本人は中国と敬称し続けています。中国人にすれば、可笑しくてたまらないでしょう。日本人の中は二つに割れると思います。このまま尊称し続ける人と、なんで中国だけをそのように尊称しなければならないのかと疑問を抱く人たちの二つに、です。日本人は「支那」だけを尊称しているのです。イギリスなどと、無茶苦茶な略称です。「大ブリテン島および北部アイルランド連合王国(UK)」が正式な国名です。イギリス人がこんな略称はけしからんと抗議してきたとは、私は寡聞にして知りません。中華人民共和国の略称は、「中共」で充分ではないでしょうか。知らぬ顔の半兵衛の日本人たちは、故意なら反日本の底意を蔵しているのです。マスコミの世界にはこの手の反日本の心情を隠している人が、実に多い。大学教師・学校教師の中にも、多くの人たちが反日本の本心を隠しています。隠された底意の大部分は、隠蔽されることによって劣情と化します。だから、私はこのような人たちを反日劣情日本人と呼ぶことにしています( 詳しくは、拙書『日本人が知ってはならない歴史」(朱鳥社)を見ていただければ幸甚です)。敬称する相手には平伏するのは、ごく自然な人間風景です。「中国」(ですぞ!)に、日本が平伏するのは至極当然なわけです。そして、これにはある巨大な論理が付属しているのですから、問題が厄介なのです。巨大な論理とは、何でしょうか。それは、日本は中国を侵略した、という大論理です。中国共産党が支那を支配する正統性は、日本帝国主義の侵略から中国人民を解放した、という一点に依拠しています。「南京大虐殺」等々のストーリーや各種の虐殺記念館の類は、共産党支配の建国神話とその荘厳装置にほかなりません。見てきたように支那と日本の戦争は、日本が始めたものではありません。日本は戦争の準備も計画もないままに、ずるずると戦争に引きずりこまれていきました。支那事変の企画者はコミンテルン(世界共産党)とその指導下の中国共産党でした。これを明らかにしたいというのが、本書を書いた目的の一つです。明らかにしたいというよりは、しなければならないという義務感です。私は定年まで、高校の社会科の教師でした。大学の先生は、自分の専門というフィールドがあります。高校の教師は、縄文時代から平成バブルまで教えなければなりません。「私は鎌倉が専門だから」と、他を放り出すわけにはいかないのです。正直に言って、少なくはない歴史の先生が近現代史を逃げています。逃げない勇敢な先生の中で、少なくはない人が非常に歪んだ史観の上で勇敢な授業を展開しています。コミンテルン史観とか、講座派史観で書かれている教科書(教科書の大半がこれです)をまじめに講述しています。だから、生徒たちは日本は罪悪国家なんだとプリントされて高校に入学してきています。生徒たちは歴史の近現代史は日本の罪悪史を習う時間なのだと観念しています。そこで、私のような人物の授業に出会うと、戸惑います高校生はこう言ったものです。「先生、日本は悪い国ではないんよね………うちのおじいちゃんは中国に行ったんだって………戦争によ。日本の兵隊を中国の人たちは中国の軍人や役人より信用していたって言うけど先生、本当?」「私は終戦の時は三歳だから(笑い)、事実は見ていない。ただ 、私も同様の話は聞いたことがある。中国の民衆が一番に恐れたのは、中国の兵隊だとは聞いたし、読んだことはある………日本軍が占領すると、逃げてた村の人が戻って来たと多くの本で読んだことはある………」大学生の中には、こう言った者もいた。「あのう………先生は右翼チックなのですか?(笑い)」「私は右翼や左翼のどちらでもない。右翼も左翼も私には近づかない。私は自分では空軍のつもりだ。同じ平面だけなら、右か左もあるが、空軍なら右も左も見下ろして飛ばないと墜落するし、な(笑い)」「南京大虐殺」の虚構を詳しく説明したあと、大学生の一人は「ある派、少しある派、まぼろし派とあるそうですが、先生はどの派に近いのでしょうか」と遠慮がちに聞いてきた。私は即座に答えた。「私はでっちあげ派です」「は?」という顔をしていたので、「意識的に、ありもしないことをでっちあげたのだから、まぽろし派でもないよ。二十万人の人口を皆殺ししても三十万人にはならない。ひとつには、原爆での三十万人の日本人虐殺に数を合わせたという説もある(騒然)」満洲事変はどうなのか、との詰問があるでしょう。日本人の「満洲事変は日本の侵略」という歴史認識を、歴史を知る中国人は笑っているに違いありません。日本人の認識には大きな事実が二つ飛んでいるからです。日露戦争の前にさかのぼります。一八九六( 明治二十九)年に露清密約が成立します。日清戦争の翌年です。ひとつは、日本と開戦になれば露清は協同して日本に当たる、という同盟密約です。もうひとつは、満洲の主権の大部分はロシアが買収していたという事実です。つまり満洲はロシアのものだったのです。李鴻章の受け取った収入は膨大なものだったと諸書は伝えています。義和団事変(一九〇〇・明治三十三年)のあとは、たとえば満洲の牛荘の日本領事を日本政府が任命するにも、ロシアの同意が必要だったのです。日露戦争の開戦の前には、ロシアは満洲全土に戒厳令を布告しています。戒厳令下の満洲で、日露戦争は戦われたのです。言うまでもありませんが、日本が満洲に戒厳令を布くことはあり得ません。満洲は日本の領土ではないからです。日露戦争は、直接的にはロシアの朝鮮侵略にたまりかねた日本が開戦の火ぶたを切ったものですが、日本軍は満洲というロシアの領土の中で戦ったのです。だから、小村寿太郎外相たちの戦後処理は大きな禍根を残したのです。ポーツマスでの講和会議で、小村寿太郎日本全権はしつこく領土の割譲・賠償金を要求しますが、ロシアは峻拒します。しかし、ロシアは満洲(南満洲)を去っていくのです。買った満洲を、です(満洲買収の金額については諸説あります)。ロシアにすれば、賠償金支払いも領土割譲も承知したという意思表示だったのです。なにせ、巨額の代金を支払って得た満洲を日本に引き渡すのですから。露清密約により清国は日本の敵国だったのですから、当時の常識では日本には清国に対して正式に領土割譲・賠償金を請求する充分な理由があったのです。事実上において、清国はロシアに対して各種の協力・援助を与えています。清国の参戦を止めたのは日英同盟の存在でした。清国が参戦すれば、イギリスの参戦を招くことから、日露戦争は二国間の戦いの様相を呈したにすぎません。ロシアの側には清国・ドイツ・フランスがつき、日本の側にはイギリス・アメリカがつくという国際関係の中で戦われたのが、日露戦争でした。まさに第零次世界大戦なのでした。日本は、満洲を清国に「返却」したのです。周知の通りです。満洲を返されて、最も驚いたのは中国人たちでした。ロシアも驚きました。英米は呆れ、そして特にアメリカはかんかんに怒りました。アメリカは、もちろん物好きから日本の「味方」をしたのではありません。当時のアメリカの基幹産業は鉄道でした。鉄道王のハリマンがアメリカの特使として日本に出向き、首相の桂太郎との間に桂・ハリマン条約を結んだのでした。アメリカは決定的にアジア進出に遅れていました。日本政府発行の戦費調達の国債を買ってくれたのは、英米の銀行家・産業資本家たちでした。露戦争は、アメリカの一大商機だったのです。小村寿太郎たちは、こうしたアメリカの思いをあっさりと袖にしたのでした。その後の展開については前章までに書きました。日本は日露戦争勝利という、大安堵のなかで、国をあげてユーフォリズム(陶酔)に陥り痴れが発生したのでしょうか。この陶酔は、事情が知れ渡るにつれて落胆・怒りを日本中に充満させることになりました。情報戦と外交戦の完全な敗北でした。満洲建国は、裏切られた満洲民族の怒りと、日本人の怒りが結合した側面があります。歴史を知る中国人は、満洲事変を単に日本の侵略だったとは思ってはいますまい。彼らは日本人の「侵略反省認識」を笑っているだけです。売り払い代金を受け取った満洲を、日本人は十万人余の青年の血を流して、取り戻してくれたのですから、「謝々」です。まさに、謝々呵々大笑です。日露戦争は一九一七(大正六)年のロシア革命の遠因となり、皇帝一家は惨殺されました。日本人は戦慄しました。そしてコミンテルンが結成されました。コミンテルンとソ連の指導者たちは、列強諸国の干渉をなんとか凌いだのちは、包囲された状況の突破口を動乱の中国に求めました。泥沼の支那大陸に列強を咬み合わせるという戦術です。日本はまんまとこれにはまっていきました。日露戦争の日本勝利は、清国にも革命を呼び起こしていたのでした(辛亥革命・一九一一・明治四十四年)。日本勝利に感激した多くの中国青年たちが、東京に押し寄せてきました。彼らは多くの日本の文物、例えば日本語を持ち帰国しました。中華人民共和国といいますが、人民も共和国も日本語です。共産党も共産主義も日本語です。方程式、化学、化合……実に多くの日本語が中国語の中には含まれています。日本人の多くはこれを知りません。中国人の多くも知りません。しかし、共産党指導者のうち知性ある人々は、これを知っています。だいたい、現代の中国語の白話文は、日本語の言文一致にならったものです。魯迅たちの努力が知られています。日本人の知る漢文が現在の中国人に通じるというのは、日本人の誤解なのです。通じません。革命の指導者・孫文は「革命いまだならず」という言葉を残して死にました。当時の言葉でいうと、支那大陸はまさに「動乱の大陸」と化していきました。多くの軍閥が割拠し、支那大陸は無政府状態となっていました。破壊され尽くした自然環境と、匪賊・盗賊・軍閥の支配する世界………これが支那大陸でした。コミンテルンは、この動乱の支那大陸に共産党勢力の扶植に努力を傾注しました。ヨーロッパ諸国の革命の可能性が消えたあとは、コミンテルンの主たる標的は日本となりました。この当時のコミンテルンの戦術は、人民戦線戦術として知られています。それまでの共産党の活動は、共産党自身が表面に出て革命を説くスタイルだったのですが、これは犠牲が多くて日本共産党などは壊滅同然でした。一九三五(昭和十)年のコミンテルン第七回大会は画期的なこの人民戦術を採択したのでした。要して言えば「隠れろ・身を曝すな・エリートは国家権力の要路を握れ」ということです。日本では、コミンテルン日本支部(日本共産党)のエリート部分は政府の幹部候補生として、各要路に潜伏するようになりました。共産党の主力は、潜伏したのです。日本では治安維持法は悪法の代名詞のように言われますが、治安維持法によって死刑に処せられた日本人は一人もいません。名の高いゾルゲ・尾崎秀実事件でも、治安維持法事件ではありません。誤解が多いですから、ここで触れておきます。この重大事件については、詳しく四・五章に書いています。私がここで言っておかねばならないのは、日本は情報戦の面ではバケツの底が抜けた状態で動乱の世界に乗り出していった、という事実です。日本が情報戦の強者だったなら、支那事変はなかったし、「太平洋戦争」もなかったと断言できるでしょう。私は忍者映画を好みません。「ニンジャ」なる存在のなんとみじめなことでしょうか。インテリゼンスと言えば、日本人は知性とか訳しています。その意味もありますが、「謀略・情報戦」の意味を深く蔵しているのがこの言葉です。コミンテルンの人民戦線戦術(フロント戦術)に散々やられたのは、日本だけではありませんでした。アメリカ政府、とくにルーズベルト政権のうちのニューディーラーと呼ばれた中枢スタッフたちは多くがコミンテルンのエージェントと化していたのでした。日本に対米戦を決意させたハル・ノートを起草したハリー・ホワイトは、コミンテルンの一貝であったことが今日では確認されています。彼は戦後の冷戦激化のなかの赤狩り(マッカーシズム)のなかで摘発された後に、急死しています。一部には暗殺・自殺説などがあります。ルーズベルト大統領夫人エレノアの陰口は「ザ・レッド」でしたが、彼女も「フロント」の一員だったわけです。彼女の起草になるとされる「世界人権宣言」(一九四八年)などは、フロント文書の代表的な作品でしょう。マッカーサー司令部 のニューディーラーたちの多くが、やはりフロントの要員だったのです。日本国憲法は彼らの置き土産にほかなりません。『続日本人が知ってはならない歴史』若狭和朋著(2007年)
2022.06.01
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