全25件 (25件中 1-25件目)
1
2016年に「シンガポール国立博物館」で展示されたインカ帝国などの「世界の秘蔵品展」で1枚だけ日本の浮世絵がありました。「Takashima Ohisa Applying Lipstick(紅をさす髙島屋おひさ)」 当時は今ほど浮世絵に興味がなく、誰が描いたのかも気にせずでしたが改めて絵の下にある説明板を拡大してよく見ると「Katsukawa Shuncho」とあり検索して江戸時代に役者絵を描いていた絵師「勝川春潮」である事が分かりました。ネットの説明では生没不詳とありますが、この絵の下の説明では1770-1790年?と記載があり、若くしてこの世を去っているようです。喜多川歌麿「寛政の3美人」 ネットからの画像 この浮世絵を見た数年後にNHKの「浮世絵EDO-LIFE」で「おひさ」を含む「寛政の3美人」の解説を見てから徐々に浮世絵に関心を持つようになりました。 下記は解説の内容です。『中央に描かれているのが吉原の芸者「富本豊雛」右が「難波屋おきた」左が「高島屋おひさ」です。吉原の芸者は今でいうアイドルなのでその右と左に素人の女性が並んで描かれていること自体が凄い ことです。素人と言っても2人は当時「水茶屋」と言われる「素人の売春」を行っていたところの娘さんで、芸者と違って庶民が会いに行きたいと思えば会いに行けました』 『芸者の「富本豊雛」はぱっちりした目、筋の通った鼻など理想的な顔立ちで、「難波屋おきた」は鷲鼻や切れ上がった目からクールな女性に、一方で彼女達と比べて「高嶋屋おひさ」は小動物のような黒目がちの目、豊かな眉、丸みを帯びた鼻の形、おちょぼ口とキュートな女性に描かれています』 『規制が厳しくなり女性の名前を絵の中に書けなくなっても着物やうちわ、かんざしに家紋を描き誰なのか分かるようにしていました。因みに「三つ柏」は「高島屋おひさ」、「桐」は「難波屋おきた」です』 たった5分ほどの解説を聞くだけで「浮世絵」の知識や世界が広がった気になり、最近この放送がないのが残念です。
2023.10.24
コメント(0)
昨晩NHKの「究極 ガイド2時間でまわる大英博物館」再放送で古代エジプト時代の「ゲイヤー・アンダーソンの猫」を初めて見ました。作者不詳で紀元前664年~332年頃に作られた物で、寄贈した「ロバート・ゲイヤー・アンダーソン」の名前からこう呼ばれているそうです。 番組の中で「猫はエジプト人が最初に家畜にした動物と言われている」と説明があり、愛猫家の間では周知の事なのだと思いますが、私は初めて聞きました。 この猫は古代エジプト時代の新王国時代に「バステト神」への捧げ物として作られたそうですが、パステト神は頭が猫の「月と豊穣の神」で最初は人を罰する神として恐れられていたものが徐々に人間を病気や悪霊から守る女神へと変わっていったそうです。 写真に撮った説明の部分が小さすぎて読めないのが残念です💦 そしてこの猫の像を見て思い出したのが、数年前に「シンガポール博物館」の特別展で見たタイトルが「Wedjat-eye amulet」の猫です。改めて調べてみるとWedjatーeyeは「ホルスの目」という意味で、古代エジプトでは「太陽と月」を一対の物と考え「ホルスの目」と言っていたそうです。amuletはお守りの意味なので「ホルスの目を持つお守り」と言う事になります。大英博物館の「アンダーソン~」の展示の様子よりシンガポールの方が照明をかなり落としていてもっと猫のミステリアスな雰囲気を醸し出していた事を思い出します。この特別展はインカ帝国時代の物から日本の浮世絵に至るまで特定地域ではなく世界中の秘宝のような物を展示していたので、この猫も大英博物館所蔵なのかエジプトの美術館からの物なのか分からないのが私には更にミステリアスな感じです。
2023.09.03
コメント(0)
シンガポールで開催中の「Van Gogh:The Immersive Experience(ゴッホ:没入型展覧会)」の展示パネルにゴッホの絵画で高額で売却されたベスト5の説明がありました。説明の最初に「Van Gogh is Rock Star of the Art World (ゴッホはアート界のロック・スター)」とあり中々粋な表現だなぁと思いました。 ベスト1の価格は82,500,000USドルでゴッホをオーヴェールで看取った「医師ガシェの肖像」ですが、このパネルに載せられていた絵は第5位61,765,000USドルの「Vase AuxMaerguerites Et Coquelicots(花瓶に挿したマーガレットとコクリコ)」でした。 フランス語でコクリコだとどんな花?と思いますが、日本語のひなげしであればアグネス・チャンの歌も浮かんできます。説明では1890年6月中旬作とあり亡くなる1ヶ月ほど前に描かれた絵です。ひなげしの絵ではモネの壮大な「アルジャントゥイユのひなげし」が有名なようですが、このゴッホのひなげしは彼の人生と重なって儚さのような物を感じます(フランス国旗の赤色はこのコクリコの色だそうです) 現在のレートだと5点とも80憶円以上の価値ですが、ゴッホの絵画の多くはゴッホの死後、弟のテオと妻のヨーの所蔵となり2人が亡くなった後は1人息子の「フィンセント、ヴァン・ゴッホ(1890-1978)が引き継いでいるため、個人蔵の絵というのは数としては少ないようです。 現在ゴッホの絵画の多くが保存されているアムステルダムの「ゴッホ美術館」を調べてみると、フィンセントが両親が亡くなった後(父テオはゴッホの死の翌年、母のヨーは1925年に亡くなっています)何とか叔父の作品をきちんとした形で保存したいという思いから72歳の時(1962年)に「ファン・ゴッホ財団」を設立しこれが元となり、1973年に国立の「ゴッホ美術館」の開館となったようです。美術館としては今年で50周年という未だ新しい美術館であることに驚きます。 そして「個人蔵のゴッホの絵の売却」で思い出したのがこの一枚です。2021年に競売にかけられた時は個人蔵の絵が売りに出るのは珍しいとネットの記事にあって昨年日記に書きました。 『2021年3月25日にゴッホの「モンマルトルの通りの光景」が1300万ユーロ(約17億円)で落札されました。個人蔵で100年以上美術館で公開されなかったこと、ゴッホが2年間弟のテオと共に暮らしたモンマルトル(南仏アルルに向かう前年の1887年作)で描いた絵が市場に出ることは珍しいということで話題になりました』 アート界のロック・スター的なゴッホの絵画は彼の人生が劇的に変わるアルル、サン・レミ、オーヴェールで描いた絵によりその価値の大きさが置かれているようです。
2023.05.09
コメント(2)
「Van Gogh:The Immersive Experience(ゴッホ:没入型展覧会)」の展示パネルでゴッホの3人の妹「Anna 1855-1930」「Lies 1859-1936」「Willemien 1862-1941」の存在を初めて知りました。ゴッホと弟テオは30歳代で早世しましたが、3人は共に70年以上の生涯を送っていて彼女達の伝記を書いた作家名の紹介もありました。 パネルの説明ではゴッホが生存中に描いていた絵について3人はほとんど興味を示さなかった事、ゴッホの死後贈与等による絵画の所有権を出来る限り保持しようとした事、そして2番目の妹Liesが晩年の貧困を恐れ絵画の売却を迫られた事などが書かれています。 ウィキペデイアには特に妹Annaとの性格の違いによるぎくしゃくした関係や父親の死後ゴッホとは疎遠になった事などが書かれています。3人が未だ20代や30代の時に突然起きた兄の自殺によってある意味人生を翻弄された人達なのかとも想像します。 ゴッホが残した絵画については弟テオやテオの妻のヨーが苦心しながら展覧会を開いたり(会場提供を断られた時は自宅を使って)ゴッホとテオの書簡を公開するという努力が実り徐々に知名度と人気を得ていきました。その貢献度によっても絵画の所有権はテオの死後は妻のヨーから1人息子の「フィンセント・ヴァン・ゴッホ(1890-1978)へほぼ全部引き継がれたと思っていたので3人の妹の存在というのは私には少なからず驚きでした。 テオとヨーの一人息子で思い出すのは原田マハ著「たゆたえども沈まず」の最初の「1962年 オーヴェール~」の章にフィンセント(72歳)が登場していた事で昨日読み返してみました。 叔父ゴッホの命日にゴッホが亡くなったフランスのオーヴェールにある「ラブ―食堂」にオランダから弔いに来て、偶然そこで出会ったゴッホ研究者の日本人(シキバ)と会話を交わすことになります。その短い会話の文章の中でもフィンセントの穏やかな人柄が窺われ、フィンセントが自己紹介で職業がエンジニアである事(日本で技術指導の経験もあります)オランダのラーレンから来たこと等史実通りです。 シキバからの「何故今日この店に?」の質問にフィンセントは「この店の肉の煮込み料理が食べたくなって・・」とはぐらかすように答えた後「あなたはハヤシという人物を知っていますか?」と尋ねます。「たゆたえども~」の主人公の1人で19世紀にパリで画商として活躍した実在の人物でゴッホとの交流が実際にあったのではという想定のもとに小説は書かれています。シキバと別れた後、川辺を散策しながら父テオの遺品の中にあった手紙をポケットから取り出し読んでいるうちに突風でその手紙が宙に舞い川に流されているところでこの章は終わりです。『1890年 1月11日 パリ 親愛なるテオドルス あなたの兄さんの絵を、いずれ必ず世界が認める日が訪れます。強くなってください。私もこの街で、ジュウキチと共に闘っています。あらん限りの友情を込めて ハヤシ タダマサ』 ゴッホが自殺する6ヶ月前の手紙という設定です。そしてもう一つフィンセントと言えば1890年の誕生祝いにテオに贈られた「花咲くアーモンドの枝」です。奇しくも叔父と同じ名前を与えられ叔父の芸術に捧げた人生を思わせるような瑞々しい青色は心に沁みるものがあります。 展覧会では「花咲く~」の展示はなく「Almond Blossoms 1890」の絵が大きく映し出されていました。会場には階段も設けられていて上に上がって巨大な絵を眺める事も出来ました。
2023.05.07
コメント(2)
日本では「ゴッホ・アライブ」、シンガポールでは「The Immersive Experience」というタイトルで現在開催中の「没入型展覧会」は世界を巡回し850万人ほどの観客動員があるそうです。 右はゴッホ自ら「ひまわりでは最良の作」と自負した12本のひまわりアルテ・ピナコテーク(ミュンヘン)美術館所蔵 壁面や床に映し出されるゴッホの絵画の数々は映像技術で花びらが散ったり、鳥が飛び水が流れ落ち、またゴッホという名の電車が走り出すという豪快な映像と共にゴッホからのメッセージが文字で流れるのを床に置かれたソファやクッションに寝そべりながら観賞できるという圧巻の展覧会です。 ゴッホと言えばやはり代表作の「ひまわり」については別のコーナーでも何点か複製画の展示や説明があり、その中の一枚(左の写真)の黒い筒状花の部分を赤い丸で囲っているいる絵に目が引かれました。 12本のひまわり フィラデルフィア美術館蔵 14本のひまわり 損保ジャパン日本興亜美術館蔵 こんな赤が入っているひまわりがあったかなと家に帰ってから「週刊美術館 ゴッホ」で調べてみるとフィラデルフィア美術館所蔵の「12本のひまわり」でした。ひまわりについてはゴッホがパリから太陽の光溢れるアルルに1888年に移り、敬愛する画家「ゴーギャン」を迎える「黄色い家」の部屋の装飾画として「ゴーギャンに対する最上級のもてなし」のために描かれたと説明があります。 北米産の花であったひまわりがヨーロッパに伝わったのは16世紀で、そのため西洋美術の歴史の中で描かれた花としては新参だったようですが、17世紀にはひまわりは「太陽・愛・芸術、或いはキリスト教における聖なる人物のイメージなどの象徴」として描かれたそうです。 代表作7点のうち3点にひまわりが12本描かれている理由を「キリスト教の12使徒を表している」と説明があり、他の2点に14本描かれているこの2本の意味を「絵画の指導者として芸術共同体を導くゴーギャンの存在を表す1本」「ゴッホの最愛の弟であり画商使徒として画家達の絵を売り生活を支えたテオに捧げる1本」と説明があり、これには十分納得させられます。 ゴーギャンとのアルルでの蜜月は僅か数か月、ゴッホの耳切り事件の後サン・レミの精神療養所へ移ってからは1枚のひまわりも描いていなと言う事がゴッホの心の内を多く語っているのだと思います。
2023.05.06
コメント(2)
現在東南アジアでは唯一シンガポールで開催されている「Van Gogh:The Immersive Experience(ゴッホの没入型体験)」に昨日行って来ました。会場は島全体がテーマパークのようになっているセントーサ島の「The Forum」というモールでここにはカジノやHard Rock Hotelが入っていて、昨日は日曜のため思った以上に混雑していました。 この展示会の売りはゴッホの絵画を360度パノラマで4面の壁や床に映し出し絵画の中に自分が入り込むような体感が出来るというものです。会場の入り口からゴッホの自画像の複製画が並び、ゴッホに纏わるエピソードがパネルで多く展示され初めて知る事も多々ありました。 テオ・ヴァン・ゴッホ(1857-1891) ゴッホの数に纏わるパネルの中に手紙の説明があります。 まず目に止まったのはゴッホの弟「テオ」についてのパネルでゴッホが生まれた4年後の1857年5月1日生まれでした。パリにある画商「グーピル商会」で働き兄ゴッホの一番の理解者であり特に1880年からは生活そのものを支えたテオが存在しなければ現在残っているゴッホの絵画の数はどれくらい少なくなっているだろうと思います。 そしてゴッホが書いた現存する手紙844通のうち652通がテオに宛てた物である事もパネルで説明がありました。大切に手元に置いてある池田満寿夫著「私のピカソ 私のゴッホ」の中にも「・・18年間もテオという1人の弟に告白、すなわち完璧なまでの自己表現を続けた男の執念もさることながら、その対象にされた弟、テオの忍耐強さにも驚かされる」とあります。 そして手紙には製作中の絵画についての物もあるけれど、多くは有り余るお金があるわけでもないテオへの一切の弁明も弱気も見られない絵の具、キャンバス、絵筆の購入依頼で具体的に「僕の入用の絵の具は次の通りだ。コバルト(空色 ) 2個、ヴェール・エメロード(緑色)等など・・画布5メートル」というような内容です。 テオが1880年から生活を支える中、その8年後にゴッホが敬愛する画家「ゴーギャン」とアルルでの蜜月のような生活を始め僅か2ヵ月あまりで有名な「耳切り事件」が起こった事が1つの悲劇の始まりでした。精神療養のためゴッホは「サン・レミ療養所」から日曜画家でもあったガシェ医師を頼りオヴェールと移りそこで生涯を閉じることになります。 その訃報が元々病弱だったテオにどれほどの衝撃を与えたのか、ゴッホの死から僅か1年後にテオは衰弱死しています。そしてテオの妻「ヨー」の芸術に対する深い理解がなければ残されたゴッホの絵画は悲惨な運命を辿っていた可能性もあったと言われています。「赤い葡萄畑」1888年 プーシキン美術館蔵 ゴッホが生存中に売れた絵はたった1枚「赤い葡萄畑(350フランの入金は死後)」でテオへの手紙の中で「・・自然に対して倦まず仕事をして、あれが描きたいとかこれが描きたいとか言わず、靴を作るような調子で、何ら芸術的な配慮なしに仕事をすべきだとだんだん信じて疑わなくなった・・・」と綴り、テオも靴を作るようにという箇所に賛同していたようです。 つくづくゴッホの名画は弟テオとの共同作業で産み出した物なのだと実感します。
2023.05.01
コメント(2)
映像を見る限り床に座って観賞できるようです。 日本では「Van Gogh アライブ」というタイトルで開催されている(終了した会場もあります)「ゴッホ没入型体験(The Immersive Experience)が東南アジアでは唯一シンガポールで開催中(3月から6月まで)です。 島全体がリゾート(カジノやユニバーサルスタジオ等など)になっているセントーサ島の「The Forum」というショッピングモールのイベント会場が使われ、文字通りゴッホのアートとVR(ヴァーチャル・リアリティ)が出会う360度で展開する展示会で、やっと今月30日のチケットを購入し今からとても楽しみにしています。 ゴッホと言うと私の一押しは緑と青のコントラストが印象的な「アイリス(1889年 サン・レミの療養所で)」でしたが、アルルでのゴーギャンとの一連の出来事を知るうちに青や黄色で描かれた「星月夜 1888年」やゴーギャンがアルルにやって来るのを待ちわびる心の象徴のような鮮やかな黄色の「ひまわり」にもかなり惹かれるようになりました。 そして「ゴッホの耳切り事件」の後、弟のテオ夫婦に誕生した子供のために描いた心の平安を示すような淡い青色とピンクの「花咲くアーモンドの枝(1890年 サン・レミ療養所からオヴェールに移って)」を見る限り自殺に追い込まれるような心の状況ではなかったのではと思ってしまいます。 「ゴッホの自殺」で思い出す映画は2017年の「Loving Vincent(邦題は最期の手紙)で「ゴッホは殺されたのでは・・」という仮説の基にゴッホの絵が油絵風にアニメーションで大型スクリーンに映し出され(125人の画家によって約6万枚の油絵が描かれたと説明がありますが、実際に映像で流れた絵の数は分かりません)その迫力と共に絵画好きにとっては至福の時を過ごせる映画でした。 そして今回の「没入型」の展示は300以上のアートワークが360度のパノラマで体感できるようです。この展示を見た後に、自分の一押しが変わるような経験が出来ればとも思っています。
2023.04.14
コメント(2)
2017年に「National Gallery Singapore」で開催された「オルセー展」で2点の「BertheMorisot(ベルト・モリゾ 1841-1895)」の絵が展示されました。「ゆりかご」 1872年 1点目はベルトの姉で結婚、出産のため画家の道を断念した「エドマ」と彼女の2人目の娘「ブランシェ」を描いた作品です。ブランシェをヴェールで包み存在感を薄めることによってエドマの母性や存在感がより強調されていると説明がありますが、エドマの画家の道を諦めた心の葛藤に焦点を当てているのかもしれません。そしてヴェールに包まれることによって母親の子に対する愛情が集約され、葛藤を抱えながら幸福な結婚生活を送る姉へのエールのようにも見えます。この絵はパリ「落選展」から名前を変えた「第一回印象派展(1874年開催) 」に出品され好評を得ています。 ベルトはこの絵を描いた2年後に「マネ」の弟「ウージェーヌ・マネ」と結婚しています。マネと言えば1863年初の「落選展」で酷評を受けた「草上の昼食」や「オランピア(共に1863年制作)」がすぐ思い浮かびますが、個人的には「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ(1872年)」が気に入っています。 マネ 1872年 この絵の展示はなく会場では雑誌の中で紹介されていました。 この絵を初めて見た時、単純に「随分綺麗な人だなぁ~」と思ったのを覚えています。そして目力の強さが印象的でした。ベルトの義理の甥の「ポール・ヴァレリー」が「マネの作品ではベルト・モリゾの肖像画が一番だ・・色彩の奇妙な調和と、その色が持つ力の不均衡、何故かとても悲劇的な表情と、昔日の髪型の儚く些細なディテールの対立・・。」と絶賛しています。 絵画の師匠でもあったマネの絵のモデルも務め、2人は師弟以上の関係があったのではと言われています。マネの結婚については「ドガ」が描いた「マネとマネ夫人(1868-69)」からベルトとマネが親密だった時にはマネは既に既婚者だったので、敬愛する人の弟と結婚したことに妙に納得がいきます。 当時の風習としては結婚して子供が生まれれば「自分の道」を諦めるのは一般的だったようですが、ベルトは夫の支えもあり結婚の4年後に長女が生まれた後も順調に絵画制作を続けたようです。「ブーケ」 1894年 展示の2点目はベルトが亡くなる一年前の作品でした。「スミレ~」の絵に描かれた強い意思を持つ目力を貫き、生涯家族や友人達の肖像画を描き続けたようです。
2022.05.28
コメント(2)
先週、2017年に「National Gallery Singapore」で開催された「オルセー展」について書きましたが、その6年前に「National Museum Singapore」で「Drems Reality」と題した「オルセー展」がありました。 カタログの表紙を飾る「ドガの踊り子」と一押し展示「ゴッホの星月夜」 「アレクサンドル・カヴァネル」の「ヴィーナスの誕生」、「セザンヌ」の「トランプをする人たち」や「モネ」や「ルノワール」等の絵画が贅沢に展示される中、ゴッホ(1853-1890)の「星月夜」が「一押しの絵」として展示されました。一押しと単純に思ったのはシンガポールで初めて絵の前にガラス板が置かれていて、私の記憶では後にも先にも絵の前に設置されたガラス板を見たのはこの一枚だけです。1888年 「オルセー見学ガイド」から。 この絵についてゴッホは弟テオへの手紙に「ある晩、私は散歩していた。深い青色の空のあちこちに雲があった。コバルトブルーよりも深い明るく銀河のような青味がかった白さのような雲がある。その青い深みに星々が明るく宝石のように輝いている」と書き記しています。確かにこの絵の前に立った時に星の輝きに圧倒されたような感覚を今でも覚えています。「週刊 美術館 ゴッホ」には「星をちりばめた壮大な天空、そこにゴッホは神と永遠がいるのを見た」と書かれています。 この絵がゴッホの願いに応じた「ゴーギャン」がアルルにやって来る1888年10月の前に描かれたのか後に描かれたのかは分かりませんが、ゴーギャンと違いあくまでもスケッチを大切にし「自由な発想も色彩の使い方も、全ては現実の風景の写生があってこそ生み出すことが出来るものだ」というゴッホの絵画に対する執念を感じさせる渾身の作品なのかなと思います。想像力を駆使して描き現実の風景や人物はむしろ必要としなかったゴーギャンとの埋めることが出来ない溝のような物が最初からあったことになります。 1889-1890 「シエスタ(昼寝)ミレーの絵を基に)」ネットの画像から。 1888年10月から始めたゴーギャンとの共同生活はその2か月後にゴッホの「耳切り事件」が起きて終わりをつげます。1889年にはサン=レミの「療養所(精神病院)」に入る事を自ら決め、その後精神科医の「ガシェ」がいるオヴェールへと移り住みます。「シエスタ」はサン=レミでミレーの模写が21枚以上残っていることから、そこで描かれた一枚かなと思います。「週刊 美術館 ゴッホ」には「悲しみと深い孤独を描くために遠くまで行く必要はない・・そしてゴッホは毎日麦畑をさまよい歩いた」とあります。 ゴッホは生涯を通して「農民画家」と呼ばれた「ミレー〈1814-1875)」を賛美し「私にとってこの上なく現代的な画家と言えば、マネではなくミレーだ。彼は多くの人達に限りなく大きな展望を開いてくれた」と書いています。ミレーの絵を基に描いた「シエスタ」からはゴッホがサン=レミで束の間の心の平安を取り戻したように見えます。個人的には2006年「オルセー美術館」でこの絵の前に立ち「こんな風に気持ちよく昼寝を楽しみたいものだ・・」と思いカメラを向けると電池切れになって、それまでの写真が全て消失してしまったという思い出もある一枚です。 「アイリス」や「アーモンドの木」と同じようにこの「シエスタ」を見ると、どうしてもゴッホがこの絵を描いた同じ年に自殺をするほど人生に絶望していたとは信じがたく、事故説又は他殺説にどうしても気持ちが傾いてしまいます・・。
2022.05.21
コメント(0)
シンガポールの「National Gallery(ナショナル・ギャラリー)で2017年に開催された「オルセー展」のことを2020年に日記に書いたのですが、写真が消えているので内容を修正してアップします。この展覧会の後コロナ禍もありシンガポールではこういう大きな展覧会の開催がないのは残念です。 ルノワール、ピサロ、セザンヌ、シスレー、モリゾ等の印象派画家の展示でしたが、モネ(1840-1926)の作品が一番多く、特にモネの等身大の像と日常使っていた絵の具、絵の具箱やパレットには思わず見入ってしまいました。 そしてモネの絵の中で一番印象に残ったのは「The Magpie(かささぎ)」というタイトルの冬景色です。1868-1869 雪景色に淡いピンク色が映えるこの絵を一瞬ユトリロの絵かと思いました。写真に撮ると木の辺りのピンク色があまりよく映っていないのですが、見学ガイドには「Magpieはモネが描いた冬景色では最も野心的な絵」とあります。ピンク色や黄色以上に「青色」に重点を置き、モネはピサロなど他の印象派の画家たちも抱いていた「冬の光が雪の上で青味を帯びて反射する様を描きたい」という野心で描いた作品だそうです。 それにしても左側の柵の上に止まる鳥「かささぎ」をタイトルにする理由というのは何だったんだろうと考えて調べてみると「かささぎは鳥類の中でも大きな脳を持っていて、哺乳動物以外で初めて鏡に映った像が自分であると認識した鳥」だそうです。そんなかささぎであれば微細な冬の光をしっかりその脳で把握できるのかと想像してしまいます。 1878年 もう一枚の雪景色は「シスレー(1839-1899)」の「Snow at Louveciennes(ルーブシエンヌの雪)」です。つい冬景色に惹かれてしまうのは私の故郷が半年間は路上に雪がある雪国であるためかもしれません。「ユトリロのパレット」 1933年頃 余談ですが、モネのパレットでユトリロ(1883-1955)のパレットを思い出しました。ユトリロ展で買った画集に「・・彼のパレットにも好みの絵の具が絞り出され好みの配色に並べられている。そこにほんの僅かなイマージュが加えられればただちにその画家のものらしい作品に転化してしまう」と書かれています。このパレットはユトリロの友人でもあり深く信頼する契約画商「ポール・ペトリデス」に捧げられたそうです。
2022.05.16
コメント(0)
漫画「神の雫」ではワインだけでなく文学や絵画がワイン探しのヒントとして出てきますが、「マリアージュ 神の雫・最終章」の18巻目に「Vicente Juan Masip(ビセンテ・ファン・マシップ 1507-1579)」というスペイン人画家が描いた「最後の晩餐」が出てきました。調べてみると「プラド美術館」蔵となっています。 「レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)」と僅かですが同じ時代を生きた画家です。 漫画の中でワイン探しのヒントとしてテーブルの右側に置かれた「ガラスのデキャンターに似た器に入ったワイン」を取り上げています。キリストが自ら「これが私の血である」と弟子たちに与えた赤ワインですが、16世紀にガラスのデキャンターが本当にあったのか興味を引きます。 現在のようなガラス製のワインボトルの製造が始まったのは18世紀ぐらいで、その後海外へは「樽」ではなくボトルでワインの輸出が出来るようになって飛躍的に売り上げが伸びたと何かで読んだ記憶があります。 ところで先月原田マハ著「常設展示室」の1ページ目を開けるために行ったシンガポールの「National Gallery」の常設展示室で「最期の晩餐」を見つけました。 インドネシア人画家「Tisana Sanjaya(1958-)」のエッチングの作品です。キリストの下には檻に入れられた苦しむ人間がいて様々な顔が周りに描かれています。そして12人の使徒は野獣として描かれています。この絵を理解するにはかなり想像力を働かせなければと思いますが・・。
2022.02.24
コメント(0)
Potrait of Clara Serena Rubens(クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像) 2013年にNational Museum of Singapore(シンガポール国立博物館)で開催された「フランドル派の画家展」での一枚です。 フランドルは現在のオランダ、ベルギー、フランス北部の地方でここで15世紀から17世紀に活躍したファン・ダイクやルーベンス(1577ー1640)は忠実な自然観察を特徴とした絵を描いています。 この肖像画を描いた父であるルーベンスは宮廷画家として上流階級の注文をこなし、またフランドルの統治者であるイサベラ大公の外交官として政治的な役割も果たしスペイン王やイギリス王から「ナイト爵位」も与えれれています。 家庭では愛する妻と娘に恵まれ順風満帆な生活を送っていましたが、突然愛娘が亡くなってしまいます。この肖像画はクララ(1611-1623)が12歳で亡くなる数年前に描かれました。 『背景と同調する灰緑色の洋服に明るい白色の大きな襟、背景が小さく描かれているため強調される顔の表情。広い額に鼻と頬の部分に使われたルビー色は「生のバイタリティー」を強く感じさせ、ルーベンスの愛娘への溢れる愛情を感じることが出来ると』説明にあります。 実はこの絵の写真はブログを書くために昨年写真を整理している時に見つけたもので、その時はフランドル派画家展のこともすっかり忘れ、最初はルノワール(1841-1919)の絵だと思いました。 生き生きとした表情や頬の赤味を見て単純にそう思ったのですが、ルノワールの描く肖像画を改めて見てみるとここまで生のバイタリティーを感じるものはないのではと思いました。ネットの画像から。 愛娘クララの死から3年後には妻であるイザベラも亡くなるという悲しい出来事が続いたようですが、ルーベンス自身が亡くなる数年前に描いた「オルフェウスとエウリュディケ」の絵を見ると最後まで絵画に情熱を燃やし続けた幸せな生涯だったのかとも思います。
2021.11.25
コメント(0)
2015年に旧裁判所と旧市庁舎を改装して開館した「ナショナルギャラリー」には およそ8000点ほどの東南アジアのアート作品を常設展で展示しています。またコロナ禍前は「フランス印象派展」や「草間彌生展」など大きな展覧会も開催されていました。 シンガポールの美術館のメリットはまず特定の祭日などに「オープンハウス」と言って無料開放され、また常設展に関してはシンガポール人とPR(永住権)保持者には常時無料で開放されています。「絵画にもっと親しんで欲しい」という政府の計らいですが、私にとって嬉しいのはどんな展覧会の時も日本の美術館のように混雑しているということがありません。 昨年8月にコロナ禍の中8月中が無料開放となり2日間じっくり絵画&美術館鑑賞となり、その中で一番印象に残った絵です。 「Rama, Sita and Laksamana in the Foreset(森の中のラーマ、シーターとラクサマナ」 インドネシア人画家「Anak Agung Gede Meregeg(1912-2000)」作で題材を紀元前4~5世紀に編纂された「古代インド大長編叙事詩(ヒンズー教の聖典)ラーマーヤナ」から取っています。 ラーマ王子が誘拐された妻シーターを奪還すべく大軍を率いてラークシャサの王「ラーヴァナ」に挑んだというお話です。 絵の上部にいる3人がラーマ王子、手を引かれる妻シーター、奪還の手助けをしたラーマ王子の弟ラクサマナ、そして下部に戦いの疲れを癒している兵士達の姿があります。 絵の左上に描かれている太陽の中に女性が描かれていたり、青色の樹々の葉をオレンジ色で縁取りしていたり、動物たちの自然を享受する姿が美しく描かれていたりなかなか幻想的な一枚です。 そして説明には「ヒンズー叙事詩ラーマーヤナに登場する人物と2つの世界を一枚の絵の中に描き、様々な芸術的アプローチが統合された絵です。線の強調、平坦さと相反する濃さ、自然を享受する古典的なバリ島の絵の要素を多分に含んでいます。」とあります。確かにバリ島はイスラム教ではなくヒンズー教徒の多い地域でした。 そしてナショナルギャラリーを観光スポットとして推すのはレストランやバーなどの施設が充実していることです。特に花火等のイベントが開催されるときは館内の6階にある絶景バー「Smoke&Mirrors」やラウンジ「Aura」からベイサンズの前に上がる花火をお酒を飲みながら楽しむこともできます。 ラウンジ「Aura」の屋外席 フレンチレストラン「Otto」の入り口 今年「アジアのベストレストラン50」の1位に輝いたフレンチレストラン「Otto」は予約が取りずらいお店という評判になっています。一度入ってみたいとお店の様子を見に行くとカーテンで中が見えないようになっていました。いつか試してみたいお店です。絵画鑑賞の後にフレンチ、そしてまた絵画鑑賞の後の夜景と極上の一日が過ごせそうです。
2021.10.17
コメント(0)
今年6月のシンガポールの「アリアンス・フランセーズ」でのイベントは絵画についてのドキュメンタリー映画3本の上映でした。そのうちの1つイギリスのドキュメンタリー映画「The Impressionists and the man who made them(印象派画家達と彼らを世に知らしめた男)」を見ました。 タイトルが興味深く映画を見る前に簡単な映画紹介を読むと「Paul Durand -Ruel(ポール・デユラン・ルエル)1831-1922」という初めて聞くフランス人画商の名前が紹介されていました。 「Paul Durand -Ruel's brave decision to exhibit the Impressionists in New York in1886 introduced enlightened, wealthy Americans to modern French painting.」 「1886年啓蒙された豊かなアメリカのニューヨークでモダンアート(印象派絵画)の展覧会を開催することを決意したポール・デユラン・ルエルの勇気ある決断」とあります。 パリではポール・デユラン・ルエルが生まれた時代は「サロン」が認めた「官展」が’美術界を牛耳っていた時代で、やっと多数派を占める官展に落選した画家達のクレームを受けて「ナポレオン3世」の計らいで「落選展」の一回目が開催されたのが1863年です。ニューヨークでの展覧会の僅か23年前です。 そして一回目の落選展では「マネ」が描いた「草上の昼食」が堕落した絵画とまた酷評となり、落選展から名前を変えて印象派展としてある程度評価を得始めたのは1870年以降のことです。 映画の中ではポール・デユラン・ルエルが家業である画商を引き継いだ時はあまり絵画には興味がなかったこと、早くに妻を亡くし3人の子供を育てるために堅実な生活を心掛けながらも絵画の購入に関してはある意味博打のような投資をしたことが紹介されていました。 そのきっかけは落選展で酷評を得たマネの絵との出会いだったらしく、何度もマネのアトリエに足を運び「あなたが描いた作品はすべて購入する」と伝え、画廊の経営が危ぶまれるほどマネの絵を購入し、またルノワールやドガ等の印象派画家達から購入した絵画と売った時の値段を記した膨大なメモも映し出されました。 アメリカでの展覧会を決意したのは一枚の手紙をアメリカの美術協会から受け取ったのがきっかけでした。ニューヨークを皮切りにボストンや西海岸でも開催さた展覧会は反響を呼び、アメリカで印象派絵画人気の火付け役になりました。ニューヨークの展覧会は「メトロポリタン美術館」で開催されたのだろうかと期待してそのシーンをじっくり見ましたがたが、名前は出ず実際は小さな会場だったようです。 彼が残した言葉「アメリカはフランスと違って、彼らは絵画を見て嘲笑したりはしない。ただ買ってくれるのだ」というのは正に印象的な言葉です。 映画のポスターに使われた絵は「ルノワール」が1883年に描いた「ブージヴァルのダンス」です。「都会のダンス」「田舎のダンス」と共に「ダンス3部作」と呼ばれています。モデルをつとめたのは自身も画家であり「ユトリロ」の母でもある「シュザンヌ・ヴァラドン」です。 ポール・デュランが特に愛した絵なのか、この3部作は亡くなるまで彼の手元に置かれ、ヨーロッパ各地で展示されたようです。 日本で2足3文で売られていた浮世絵が19世紀フランスで大きな反響を呼んで一大ブームになったように、新天地でその本来の価値が見出されることがあるのだなぁと絵画の運命についてちょっと考えさせられた貴重な映画でした。
2021.10.09
コメント(0)
現在シンガポールの「サイエンス・センター」で開催中の「ダ・ヴィンチ(1452-1519)展覧会」で実物大の「最後の晩餐」の複製画の展示がありました。 460㎝x880㎝ 1495~1498年に制作 説明にはフレスコ画ではなく石の壁にテンペラ絵の具を使うという前代未聞の方法で描いたため、ダ・ヴィンチの生存中から絵の具が剥がれるという事態が発生し、19世紀の中頃にはかなり状態が悪くなったため1978年から1999年の間に修復が行われ現在に至っているとあります。 「最後の晩餐」を見て思い出すのは2006年にアメリカ人作家「ダン・ブラウン」著の「ダ・ヴィンチ・コード」を読んだすぐ後に「ルーブル美術館」を訪問したことです。本はルーブル美術館で館長の死体が発見されるというところから始まっていて、まさかとは思いながら不安な気持ちで美術館に行ったのが今は良い思い出です。その後に公開になった「ダ・ヴィンチコード」の映画も見ましたが、「キリスト」の横に女性のような姿で描かれているのが「ヨハネ」であるということを私はそれまで知りませんでした。作品や映画に合わせてヨハネを女性のように描いた贋作だと最初思ったほどです。 「ダヴィンチ・コード」は空前のタブーに挑む「神であるキリストに妻や子供がいる」という箇所もあり、ヨハネが実はマグダラのマリアで2人の子孫が現在も生存しているというシーンもありダン・ブラウンの暗殺説まで出た空前の大ヒット作品です。 本や映画が公開された時はキリスト教に纏わるいろいろな記事が出て、その中で私が一番驚いたのは「キリスト教」の世界では1859年にダーウィンが発表した「種の起源(人間は猿から進化した)」を否定しているということでした。「旧約聖書創世記」に基づく「創造論」で「神が人間を造った」と信じているからだそうです。 そして今回「最後の晩餐」を見たことがきっかけで調べてみると「カソリック」ではなく1555年に認められた新教である「プロテスタント(聖書の原点に戻る)」の信者たちに進化論を否定する人が多いということでした。 プロテスタントと言えばドイツ人「マルティン・ルター」が腐敗したカソリック教会の改革に乗り出す宗教革命は学校の教科書で何度も勉強しました。ダ・ヴィンチが亡くなる2年前に始め38年かけて新教として認められています。 アメリカはプロテスタントの比率が高く、現在でも3割~4割の人がダーウインの進化論を否定していて学校によってはこれを教えないところもあると書かれていてやはり少なからず私には驚きです。 ダ・ヴィンチが生きていた時代は様々なことに対して公に批判することが禁じられていたので、絵画の中に何か暗号のように批判を込めたとも言われています。世界的に有名な絵画でも今までさほど気に留めることは無かった絵ですが、何かもうちょっと知りたいという気持ちにさせてくれました。 ダヴィンチ自身は発明家でもあり彼自身が描いた飛行機やパラシュートなどが展示されていましたが、水上を歩くための道具も展示されていてこういうところに彼の人間味のような物を感じて少しほっとさせられました。
2021.09.18
コメント(2)
シンガポールの「サイエンス・センター」で開催中の「ダ・ヴィンチ展覧会」では「モナリザ」の複製画の展示コーナーに絵についての「10の秘密」と題された大きなパネルも展示されていました。展示の複製画 「秘密8.」は「モナリザに眉毛が描かれていないように見える」から始まっています。今までモナリザの眉毛について考えたことも無かったので家に帰って手持ちの画集をよく見てみると今まで違和感なく(特に眉毛と意識することもなく)見えた目の上の陰影部分は確かに眉毛ではなさそうです。 驚いたのはパネルの説明にはイタリアルネサンスの時代(14-16世紀)眉毛の無い女性というのは唯一「売春婦」であったとも書かれています。 モナリザのモデルは諸説あっても今はフィレンツェの裕福な商人の妻「リザ・デル・ジョコンド」が有力説で裕福な妻が売春婦であるはずはなく、ダ・ヴィンチ自身がこの絵のモデルという説も頭の中に浮かんできます(ダ・ヴィンチが売春婦というのはもっとあり得ないですが・・) そして仮説として「秘密9.」には「Pascal Lotteパスカル・ロッテ」というキャンバスの分析家が24回絵を拡大して眉毛とまつ毛の跡を発見したと書かれています。ロッテによると(ダ・ヴィンチが)絵を綺麗にしようとした時に、誤って拭い去ってしまった可能性があると書かれています。しかもモナリザの眉毛は太かったようだとも・・。何故か眉毛があったというだけでホッとしました。 こちらはダ・ヴィンチ作「Gineva de Berci(1474-1478)」で同じく複製画の展示です。眉毛はしっかり描かれていますが、細い眉毛で多分モナリザのとは随分違うだろうと推測します。しかも微笑みが全く無い「目力」と「口元」はモナリザとは真逆の見る人に強く訴えかけるものがあります。
2021.09.08
コメント(4)
来年の1月2日まで「サイエンス・センター」で開催されている「ダ・ヴィンチ展覧会」では「モナリザ」の複製画が2枚と額縁と背景が描かれたコーナーで自分がモナリザになって写真を撮るスペースがありました。 2枚のうち実物大(77㎝x53㎝)の複製画が飾られた下の方に「The Secrets of the Gioconda」というタイトルで絵に纏わる10の「秘密」の説明がありました。Giocondaというのはモナリザのイタリア語読みのようです。 「秘密1.」にはイタリア文化遺産研究者の「Silvano Vinceti(シルヴァーノ・ヴィンチェッティ)」が作品を拡大させたところモナリザの右目に「LV」の文字が、左目には「CE或いはCB」そして絵の下の方に「72或いはL2」の文字を見つけたと書かれています。「LV」はダ・ヴィンチのサイン「L da Vinci」に間違いないようですが、他の文字はお得意のダ・ヴィンチ・コードなのかどうか謎のようです。 この発見がいつなのか年代は書かれていませんが、検索すると最近の話ではないようなのでご存知の方は多いのではと思いますが、私はこの展覧会で初めて知りました。「秘密4.」には右か左か書かれていませんが肘の部分が石(Rockと書かれていますが)に当たってしまい、1956年に修復が施されたとあります。モナリザに修復箇所があるというのも初耳です。「秘密5.」は左手の指が完成されていないと書かれています。手元にある画集でよく見ると確かに左手は右手より生気がないようにも見えます。 そして「秘密10.」に「謎の微笑み」についてハーバード大学の研究者が「口元よりも目」にその「謎」が込められていることが衝撃であり、見る人の立ち位置によっても微笑みの度合いが違って見えることを発表したとあります。 秘密10.の最後に2005年にオランダの研究者が開発した感情を読み取るソフトウエアによって「モナリザ」の幸福度を測ったところ83%という数字が出たと書かれています。 自分はそこそこ幸福と思っている人も「私も幸福度を測ってもらいたい」と思ってしまうかもです。 この一枚の絵(1503-1506頃の制作)の解読のためにどれだけの月日と人達が関わっているかと思うと、それだけでも「世界一の名画」の座に君臨している意味があるのかなと思います。 そして私には衝撃的だった「他の秘密」である「眉毛」については次回に書こうと思います。
2021.09.07
コメント(0)
現在「ACM(アジア文明博物館)」で開催されている「Life in EDO 浮世絵展」で江戸時代の「時の言い方」についてのパネルが展示されていました。ちょっと難しそうと読まずにいましたが、読んでみると「謎」もあり面白そうです。 左が「夏至」で右が「冬至」の昼(オレンジ色)と夜(青色)の時間帯です。時代劇で12干支を使った時の言い方はおなじみになっていますが、円の外側に明け方「Rabbit(卯)の刻」から一周して「Tiger(寅)」、そしてその内側には干支に合わせた数字が書かれています。 卯の刻の6に始まり5→4→9→8→7→6→5→4→9→8→7でまた6に戻ります。実はこれは初めて知りました。どうして「4の次は9?」のような疑問は残りますが、説明にはこれは「ろうそくの芯の燃え方」から来ているのではとあります。うーん、やっぱり謎です。そして1~3の数字が使われていないのは「お寺でこの3つの数字が使われていたから」とあります。 検索してみるとこの数字は江戸の庶民に時間を知らせるための「鐘の音」の数のようです。大名などごく少数の人しか時計が持てなかった時代にいくつかのお寺が鐘を鳴らして庶民に時を知らせたとあります。 その鐘は江戸城に登城時に打たれた太鼓を基準にしたともあります。庶民が鐘の音を聞き逃さないために最初の鐘の音は長く響かせ徐々に短くするとかの工夫もあったようです。心憎い配慮で、本当に江戸の庶民は時間に正確だったのだと思います。 随分前の「江戸ブーム」の時に「なぜ江戸の庶民は時間に正確だったのか」という本を読んで、その時は理解したつもりでも内容をすっかり忘れていました。因みに唯一その本の中で印象に残っているのは「おにぎりの大きさ」です。現代と違っておかずが少ない時代、おにぎりはかなり大きかったとあり顔ぐらいの大きさなのかなぁと想像した記憶があります。
2021.09.05
コメント(2)
現在シンガポールの「サイエンス・センター」で開催中の「ダヴィンチ展」では彼がデザインしたパラシュートや飛行機などが展示され、今まで私が抱いていたダ・ヴィンチのイメージをある意味覆すものでした。 そして彼の「発明品」のデザインの中に「兵器」があり、説明にはイタリアの市民戦争のためにデザインされたとあります。 兵器のデザインを売り捌いたお金で購入したものは、彼が情熱を捧げていた絵を描くための「絵の具」です。特に彼が好んで使った「青色」の絵の具は当時「Semi-Precious Stone(半宝石)」の「Lapis Lazuli(ラピス・ラズリ)」を粉状に砕きそれに油を混ぜて作ったそうですが、それは非常に高価で兵器のような発明品のデザインをせざるを得なかったようです。 「リッタのマドンナ」 ダ・ヴィンチ 1480年代初頭「エルミタージュ美術館ガイド」からの画像&「ラピス・ラズリの原石」 そういう情報を基に改めて絵を見ると、マドンナが羽織っている物や背景の空の色も違った印象に見えます。 以前にイギリス映画「真珠の耳飾りの少女」を薦められてYoutubeで見ましたが、その中に青色の絵の具を作るシーンがあり、今でも私には一番印象的なシーンとなっています。オランダ人画家「フェルメール(1632-1675)」が描いた絵を基に2003年に制作された映画ですが、ダ・ヴィンチから180年後に生まれたフェルメールの時代でも青色の絵の具は希少価値があったのではと思います。 時が流れてピカソの時代にはその青色の絵の具は一番安価な色となり、極貧生活を送るピカソが「青の時代」を築くことになったのは何だか皮肉のような気もします。
2021.09.01
コメント(2)
現在「サイエンス・センター」で開催されている「ダ・ヴィンチ展覧会」の入り口すぐのところに画家としての「レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)」の説明パネルがありました。 イタリアで初めて油絵具を使って絵を描いた1人であり、それまでは油絵具ではなく「Egg Tempera(卵テンペラ)」を使用して木版に絵を描いていたとあります。卵テンペラは顔料と卵を混ぜ合わせたもので5世紀から14世紀までは主流だったようです。因みに1483年に「ボッティチェッリ」が描いた「ヴィーナスの誕生」はエッグテンペラの代表作のようです。「The Annunciation(受胎告知)」 会場に展示されていた複製画の一枚です。照明で右側上部が不鮮明ですが、ダ・ヴィンチが1472-76年に描いた作品で説明には「Oil and Tempera on Poplar Panel」とあります。油絵具とテンペラの両方を使ってポプラの木の木片に描かれたもののようです。現在の所蔵はイタリアフローレンスの「Uffizi(ウフィツー美術館)」とあります。 ダ・ヴィンチはイタリアを代表する画家なのでイタリアの美術館に所蔵されているのは当然と思うのですが、それでは何故世界的知名度NO1と言っても過言ではない「モナ・リザ」がフランスの「ルーブル美術館」所蔵なのか気になり雑誌「世界の美術館・ルーブル美術館Ⅰ」を改め読み返しました。 『1519年、フランスのロワール河畔の街アンボワーズでダ・ヴィンチは67年の生涯を閉じた。死の傍らには現在ルーブル美術館が所蔵する「モナ・リザ」「聖アンナと聖母子」「洗礼者ヨハネ」の3枚の絵が残されていた。そして死の知らせを受けて駆け付けたのは自国の芸術振興のために老画家をアンボワーズへ呼び寄せたフランス王「フランソワーズ1世」であった・・・』 なるほど、そんな流れがあったのですね。2006年にルーブル美術館で見た「モナ・リザ」はこの絵だけガラス板で仕切りがあり撮影禁止、そしてこの絵の前にだけ人だかりがあり少し離れた位置からはとても小さい絵に見えました。 ただ以前に香取慎吾さんがテレビのインタビューで『ルーブル美術館で「モナ・リザ」を見たという経験がその絵についてどうのこうのよりも自分にとっては大切』というような事を言っていて、私も全く同感です。
2021.08.31
コメント(2)
シンガポールの「サイエンス・センター」で開催中の「Da Vinci, The exhibition(ダ・ヴィンチ展覧会)」を昨日見てきました。 フリーペーパーのイベント紹介蘭には「東南アジアで最大となるレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)のコレクションの展示。ルネサンス絵画、物理学、光学、音楽、軍事、飛行、土木工学、水力など10のゾーンがあり、ダ・ヴィンチの人生、研究、芸術を知ることができる」とありました。 会場に入ると有名なダ・ヴィンチによる人体解剖図が壁一面に貼られ、複製画ですがダ・ヴィンチが描いた絵画も数点展示されていました。 絵画よりも興味を惹かれたのは現代でも広く使われているダ・ヴィンチ考案のベアリング等の仕組みを木製の道具で展示してあり、実際にハンドルを回してその仕組みを見ることが出来ることでした。 そして、この自転車の図面は16世紀の後半に発見された物で石墨で描かれているそうです。ダ・ヴィンチが生存していた時代には石墨で描くという技術は無かったけれども、元々はダ・ヴィンチが描いた図面の数枚を基に描いた可能性もあるということが説明に書かれていました。 自転車は19世紀の中頃にフランス人によって発明され、当時はチェーンが無く前輪に直接ペダルが取り付けてあったというのを読んだ記憶がありますが、この16世紀後半の図面を見る限り前輪と後輪が繋がっている感じがします。 ダ・ヴィンチが図面を描いたパラシュートで人形も取り付けた模型が天井から下げられていました。こちらは飛行機のような物で、同じく天井から下げられていました。 想像を超える好奇心や探求心、そして「稀代の天才」としかいいようがないダ・ヴィンチのまずは数点の展示品です。
2021.08.30
コメント(4)
現在ACMで開催中の「Life in 江戸 浮世絵展」で「北斎漫画」に魅せられたフランス人「Felix Bracquemond(フェリックス・ブラックモン 1833-1914)」のことを初めて知りました. ウィキペディアには画家であり銅版画家でもあった彼は、同じく画家でありリヨンで壁紙商の息子として生まれた「ジョセフ・ギシャール」が経営する版画工房で働いていた経験もあると書かれています。 左に亀、右に鳥が描かれたブラックモンの版画ですが、北斎の影響を受けたのかなぁと思わせるほどの緻密さと迫力があります。 そしてもう一つの顔としてブラックモンはフランスの陶磁器会社「SERVES(セーブル)」で陶器のデザインもしていたようです。セーブルも初めて聞く名前なので調べてみると1700年代に設立されたフランス王立のどんでもない高級陶磁器会社でした。 ブラックモンがデザインした陶磁器で、浮世絵の影響を受けていたはずと思って見ると正にそのようにも見えます。 因みにこの2客の陶磁器は19世紀様式で花柄が何とも美しいのですが、2客で4,400,000円とは何事でしょうというお値段です。これは普通の人は怖くて使えませんという感じです。 日本では二束三文のような扱いを受けていた浮世絵がヨーロッパに渡り、芸術という世界の中心のパリで見い出され花開いたことを思うと、フランス印象派の絵画が最初にアメリカで花開いたことに思い及びます。 本当に価値あるものはどこかで誰かに見い出されるものなのだという感じがします。ところで大河「青天を衝け」で1867年のパリ万博でパリに渡った「渋沢栄一」がその時もし浮世絵を見るチャンスがあったらどれほど驚いたかと思うと、吉沢亮君の驚き顔を想像してちょっとほっこりしてしまいます。
2021.08.18
コメント(2)
「ACM(アジア文明博物館)」で10月17日まで開催されている「Life in 江戸 浮世展」を先週の日曜日に見に行って来ました。 「中右 瑛(なかう えい)」氏所蔵の「葛飾北斎」「歌川広重」「歌川国貞」「鈴木春信」など154点の展示で、私はこれだけの数の浮世絵を一つの会場で見るのは初めてでした。 一つ一つの作品をじっくり時間をかけて見たかったのですがコロナ禍、展示室内にいる時間が1時間と限られ少し慌てながらも無事全作品に目を通しました。「歌川国芳」作「池の金魚とねこ」1851年 色の鮮やかさが際立っていて印象に残る一枚です。当時猫、犬、鳥、金魚などのペットや季節ごとの花々が江戸の庶民にもとても愛されていたと説明にあります。 浮世絵で城の絵というのは私は初めてだったので、説明を読むと1851年「羽柴秀吉」の命で改修工事が行われた「姫路城」の様子とあります。1862年の「歌川貞秀」の作で、面白いのはそのタイトルが「Lord Mashiba Hisayoshi builds the Castle of Himeji in Harima Province(播磨の国の姫路城を改修する真柴久吉公)」となっていることです。歌舞伎でも登場する羽柴秀吉の歌舞伎名が真柴久吉だそうです。秀吉が織田信長に仕えたことや、姫路城が徳川家康から婿殿の「池田輝政」に譲られ現在に残る規模にしたことまで説明があります。 シンガポールでも3武将の人気は高いので(ゲーム信長の野望の影響)こういう説明は喜ばれるだろうなぁと思いました。 「東海道53次」46番目の宿場「亀山」の「雪晴」 「歌川広重」作の「東海道53次」も何点か展示されていましたが、実は私が感動したのは浮世絵の実物より東海道53次の地図と53の宿場を描いた浮世絵を交互に映し出すモニターでした。日本では定番の手法なのかもしれませんが、まるでその時代に旅をしているような気分にさせてくれました。
2021.08.17
コメント(0)
昨年「唐の時代の難破船展」を見た「ACM(アジア文明博物館)」で「Life in 江戸」と題した「浮世絵展」が開催中と情報があって早速昨日見て来ました。 神戸新聞社協賛で「中右 瑛(なかう えい)」氏所蔵の浮世絵154点の開催とあって、今までそれだけの数を一堂に集めた展示を見たことがなかったので期待が膨らみました。 コロナ禍のため初めての経験ですが、展示室への入場時間が決められていて、中にいる時間も1時間と限定されています。日本語ガイドツアーも定期的に行われていますが、今月一杯はツアーも休止ということでした。2階への展示室へと上がる階段横には数枚の浮世絵の大型パネルも展示されていてなかなかいい雰囲気です。 入室まで20分ほどあったので会場の外に展示されている浮世絵などの説明パネルを時間潰しに見ていると「Felix Bracquemond(フェリックス・ブラックモン)」という初めて聞く名前が説明の中にありました。 説明の中では「1850年代に偶然ヨーロッパに伝えられた北斎の浮世絵(オランダへの陶器品等の輸出の際に包み紙として使われていた)をフランスでは「フェリックス・ブラックモン(1833-1914)」が同じく包み紙として使われていた「北斎漫画」を目にし、その迫力のあるスケッチに魅了された」とあります。 「北斎漫画 14篇」の展示です。照明のため写真がクリアーではないですが、横に添えられた説明には「左はWolf(狼)右がCat(猫)となっているが狼は野生の犬のように見える。江戸時代には現在は消滅してしまった日本狼と呼ばれる種がありそれを描いた物」とあります。 展示していた物は薄い小冊子の2ページで食い入るように見てしまいました。フェリックス・ブラックモンがこの緻密で迫力あるスケッチに魅了されたのが分かる気がします。 画家の傍ら銅版画や陶器のデザインを手掛けていたフェリックス・ブラックモンが実際に自分の版画制作に反映させ徐々に北斎や浮世絵がパリに広まっていったのかと想像します。 明治時代にパリで浮世絵を売り捌いた画商「林忠正」が1878年に渡仏した時には既にパリでは浮世絵のブームが起こっていて、日本からオランダに包み紙として送られた浮世絵がどのような経緯でフランスにと思っていたので、私の中では少し繋がった感じがします。 ところで会場の外には江戸時代の暮らしにかかるお金を今の値段に換算したらというのがあって、こういうお金に関することはシンガポールでは「受ける!」と思いました。何と言っても「華僑の国」なので。「浮世絵版画」1枚は32文で528円、「歌舞伎」の一番良い席は銀164匁で180,400円、「立ち見」は16文で264円となっています。「吉原入場料」は一両2文で100,320円となっていますが、何の料金まで含まれるのかはちょっと微妙です・・・。
2021.08.16
コメント(2)
ACMで最後に見たのは3階の展示室の「Materials and Design Galleries(素材とデザインのギャラリー)」です。 中国皇帝の鮮やかな黄色を基調とした礼服が展示されていて、映画「ラストエンペラー」を思い出しました。映画の中でまだ若い清朝最後の皇帝「溥儀」が弟「溥傑」が黄色の礼服を着ているのを見て、「黄色は皇帝の色だからあなたが着てはいけない」というシーンです。 その時までは何となく「紫禁城」のイメージもあって、皇帝が身に付ける最も高貴な色は「紫色」と思っていました。何故「黄色」なのかと調べてみると中国最初の皇帝が「黄帝」、文化発祥が「黄土高原」、中華民族のゆりかごが「黄河」と中国と「黄」の文字が切り離せないからということが分かりました。 「紫色」も中国の伝統文化の中で重要な役割を示しているようですが、唐代の「敦煌壁画」の中で黄色が多く用いられているようにやはり中国にとって黄色は唯一無二の色のようです。 こちらは女性用の礼服ですが、紫を基調とした華やかなデザインの礼服も素敵でした。ACM館内 展示の案内-1ACM館内 展示案内-2 旧正月祭日の特別料金 6ドル(500円ほど)で「海のシルクロード」に思いを馳せたり、日本、インド、スリランカの宝物を見たり、中国王朝の様子を垣間見たりと贅沢な世界旅行気分を味わいました。
2021.02.18
コメント(0)
全25件 (25件中 1-25件目)
1