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みなさんおはようございます
昨日アップした42-5の冒頭で 連載の間隔が開いちゃってるって書いたように途絶える期間が長くなってます なので今日は無理やりもう一つ進めておくことにします
前回の42-5は外国人選手3名だったよね 今回6回目は3名のうち2名が外国人選手 そういう意味合いの番号になってきたかな?と感じるよね
背番号42(その6)
2代目タイガース非公式サイトです
背番号42の第6回目です
前回は3名とも外国人の選手が着けたんだったよね そして今回の3名も2名は外国人選手 でも真ん中に下柳投手が9年間着けてくれてるから救いかな
でも「42」を着けるのが外国人選手が多いという傾向は徐々に定着してきた感じがするわね
それでは 背番号42の第6回目を始めますよ
グレッグ・ハンセル 投手(再掲)
ハンセル投手は阪神に3年間在籍し 1年目が背番号「49」 2年目に「14」に変え 3年目には今回の「42」を着けてるのよ しかもしばらく前には「猛虎異人伝60」でも紹介してるんだよなあ
ということで今回は「背番号史14-6」を少しだけアレンジして転載します もっと詳しいことを知りたい方は 次のURLから「猛虎異人伝60」で確認してね!
猛虎異人伝60 グレッグ・ハンセル | 2代目タイガース非公式サイト - 楽天ブログ
アメリカ合衆国カリフォルニア州の出身で1989(平成元)年のドラフトでプロ入りしている。
アメリカでは10年間で9球団を渡り歩いており どの球団でも長続きしていない。メジャー出場は4シーズンしかなく、通算成績は106試合に登板、4勝4敗3セーブ、防御率5 .
56という並以下の数字だった。
アメリカでは行くところが無くなったのか、2000(平成12)年に阪神タイガースと契約して日本にやって来る。
ハンセルはタイガースに3年間在籍したが毎年背番号が変わっている。最初の背番号は「49」、2001(平成13)に「14」を着け、2002(平成14)年には「42」に変えている。
196センチの長身で見るからに「本格派」とわかる投手。投げてみれば常時150キロを超える角度あるストレートを連発する。ローテーション投手として活躍してくれる期待は大きかった。
1年目は、シーズンに入った途端ビビアン夫人の出産に立ち会うため4月から6月にかけて帰国しており、約1か月半のブランクがあったものの、再来日すると20試合に先発して114回を投げ7勝8敗、防御率は4 .
34の数字を残す。残すかどうか微妙な数字には違いないが、1か月半のブランクもあったなかで、後半戦ではローテを守っていることが評価されて残留する。

2年目は背番号を「14」に変えて試合に先発 し、ほぼ1年間ローテを担ったが27試合5勝13敗と大きく負け越した。
しかし勝敗の数字は極端に悪いが 13敗のうちに味方が完封されたのが3試合、ハンセルが投げている間に2点以上の援護があったのはたった1試合と同情すべきところもある。この年の防御率は162回1 / 3を投げて3 . 49と前年より1点近く向上しているので勝敗の差ほど悪くはなかった。
背番号を「42」に変えた3年目にはリリーフに転向。春先のウェスタンで11セーブを挙げて期待が高まったが、5月にヘルニアを発症して手術を受ける。
結局8月27日にようやく一軍登録されることになるも先発で使われることはなく、リリーフで5試合に登板しただけで0勝0敗。去就が決まらないうちに帰国し、10月16日に戦力外通告されて退団。
野村監督もある程度実力は認めており、「近鉄いてまえ打線をバックに投げたら20勝」だと嘆いていた。引き継いだ星野監督も「使い道はあるけど … 」という表現をしている。
ストライク・ボールの判定にイラついたりすると、好投していても突然大乱調に豹変するなどつかみどころがなくなってしまうメンタルに問題があり、監督から信頼される投手ではなかったようだ。ポテンシャルは十分に持っていたが、発揮できないままタイガースを去ることになった。
下柳 剛 投手
長崎県長崎市出身で高校は瓊浦高等学校。高校時代からスタミナのある好投手で知られてはいたがもう少しのところで甲子園大会へは出場できずに終わる。
高校野球の指導者になることを意識して八幡大学(現:九州国際大学)に進学したものの、急に気が変わったのか中退して大洋ホエールズのテストを受けに行く。内容的には合格だったが大学進学後1年未満のものは入団できないという決まりがあるためプロ入りは実現せず、フリーターのような生活になってしまう。
素質を惜しんだ高校時代の監督が新日鉄君津を紹介してくれて入部すると道が拓けていく。1988(昭和63)年にはエースとなってチームを初の本大会出場に導いた。
さらに1990(平成2)年には地元予選のすべてに登板して3完投勝利を挙げて本戦に進出する。本戦では惜しくも初戦敗退したが同年のドラフト会議では福岡ダイエーホークスから4巡目に指名されてプロ入りを果たしている。
ダイエー時代は入団後2年間は自らファームでみっちり経験を積みたいと志願して、ほぼ二軍で生活し一軍では1試合しか投げていない。そして3年目の1993(平成5)年にいきなり一軍で50試合に投げ4勝8敗5セーブの数字を残す。
4年目にはリーグ最多の62試合(先発1)に登板し、ほぼリリーフ専門ながら二けたの11勝5敗4セーブ、防御率4 . 51の好成績をマークした。
ところが5年目の1995(平成7)「年が拙かった。4月10日に自家用車で制限速度を大幅に超える暴走運転をした上に民家の塀に激突する事故を起こし、上顎骨骨折などの重傷を負って、長期離脱を余儀なくしてしまう。
球団は年俸の1割という罰金を科し、怪我が癒えてもシーズン2勝3敗と振るわなかった下柳は「問題児」と見做されてオフの11月16日、武田一浩・松田慎司との交換トレードで、安田秀之と共に日本ハムファイターズに放出されてしまった。
日本ハムには2002(平成14)年まで7年間在籍し、自慢のスタミナを生かして先発・中継ぎ・抑えと何でもこなしてチームに貢献、在籍中に290試合(先発45)32勝32敗13セーブを記録している。
しかし2000(平成12)年オフに年俸への不満から契約更改交渉が決裂、調停にまで持ち込んでの争いがあった。この時は下柳側の主張が通ったかたちで決着したが球団とのしこりが残り、2002年オフのトレードにつながったと言われている。
2002年11月22日、中村豊と共に、山田勝彦・伊達昌司との複数トレードで阪神タイガースに移籍、12月18日には星野仙一の阪神監督就任が発表されて、下柳にとっては環境がガラリと変わる。

星野監督はキャンプから下柳を「先発ローテーションでいける」と見ており、実際にシーズンでは26試合で24回が先発だった。しかも自身二度目となる二けたの10勝5敗と5つの貯金を稼ぎ、防御率3 . 73という成績を残してリーグ優勝に大きく貢献している。
日本シリーズでは2勝2敗で迎えた第5戦の先発に抜擢されて6回2失点と好投して勝利投手になり、3勝2敗と王手をかける重要な働きをした。残念ながら第6戦~第7戦を連敗し敗退してしまうが・・・。
下柳は移籍2年目から岡田彰布監督が就任しても先発で使われ続ける。岡田監督在任中の5年間は次のような数字を残す。
2004年 22試合(先発21) 7勝 5敗 防御率5 . 12
2005年 24試合(先発24) 15勝 3敗 防御率2 . 99
2006年 25試合(先発25) 12勝11敗 防御率3 . 17
2007年 25試合(先発25) 10勝 8敗 防御率4 . 11
2008年 27試合(先発27) 11勝 6敗 防御率2 . 99
岡田監督時代のエースと呼んでいい数字が並ぶ。しかし、この5年間で完投数は3、完封勝利は1、無四球試合も1しかない。これは他球団にないすさまじいばかりのリリーフ陣がいたから必要がなかったからに過ぎない。下柳の身体能力やスタミナがあればもっと可能だったはずだ。
2009(平成21)年に真弓明信監督に代わっても先発投手として22試合8勝8敗、19試合7勝8敗と貢献した。
ところが2011(平成23)年は統一球が導入されて投手有利と言われたが、43歳になる下柳自体には顕著に衰えがみられ、6試合0勝5敗で6月中旬に登録抹消されてしまった。その後は一軍で投げる機会はなく、9月12日には各スポーツ紙で「事実上の戦力外」という報道がなされる。9月23日のウェスタンのゲームがタイガースで投げる最後の姿となり 試合後は一人でグラウンドを去った。
若手へのチーム編成切り替えを理由に10月9日に正式に戦力外が通告され、11月23日に自由契約選手として公示された。
しかし下柳は完全にあきらめたわけではなく、現役の資格を持ったまま年が明けた2012(平成24)年には、東北楽天ゴールデンイーグルスのキャンプに参加し入団テストを受ける。

2011年に楽天監督に就任していた星野仙一のある意味「温情」でもあったかもしれないが、テストは合格。シーズンでも18試合に起用され、そのうち10試合は先発だった。
しかし力と気持ちの衰えは隠せず、3勝5敗、防御率5 . 32の成績に終わり、さすがにオフに戦力外通告を受ける。
もう現役を退くだろうと誰もが思ったが、下柳は2013(平成25)年2月になんとロサンゼルス・ドジャースの入団テストを受けたのには驚いた。最終選考のところまで残ったが合格とは成らず、ようやく引退を表明している。
高校時代から非常に身体の強い選手で、大きな故障などの経験がない。監督や首脳陣にとっては頼もしい選手だった。大怪我と言えば一度だけ・・・あの交通事故だけだった。
下柳は2007年10月1日の「グラブ叩きつけ事件」が有名。ゲッツー狙いでショートの田中秀太選手のところへ2度続けておあつらえ向きの打球を打たせたのに2度ともエラーされ、最後にマウンドへグラブを叩きつけた一件だ。
秀太の自信喪失にもつながったが、一般のファンから「道具を大事にしない」と批判を浴びたことで反省し、以後は「あんなことはしちゃいけない 道具を大事にしよう」と子供たちにも教えている。もちろん下柳はもともと道具を大切にしていた選手であり、あまりの怒りに我を忘れての出来事だったようだ。
下柳のプロ通算成績は627試合(先発258)、129勝106敗22セーブ、1970回2 / 3を投げ1418奪三振、744四球、自責点859、防御率3 . 92。
ブルッグス・コンラッド 内野手
コンラッド選手はまだ「異人伝」に出てくるまで相当かかるのよ 多分100人目くらいの助っ人だから 詳細はその時に紹介しようと思うので 今回は簡易版でとどめておくのでご容赦くださいね
下柳が戦力外で退団したあと翌2012(平成24)年は、「42」は1年間空き番になった。2013(平成25)年にこの番号を着けたのがコンラッドだった。
右投げのスイッチヒッターで、アメリカでの主なポジションはサード。今岡選手をトレードで出し、サードは新井兄弟がポジション争いをしていた。前年限りで解雇したクレイグ・ブラゼルに変わる大砲が欲しいという意味での補強だったかもしれないがポジションについて熟慮されていたのか疑わしい。
ウィキペディアでの記載などの情報では、当時の中村勝広GMが僅か2分ほどビデオを見ただけで「これに決めよう」となったらしい。本当の話ならちょっと待てよと言いたくなる。
コンラッドは2001(平成13)年にヒューストン・アストロズからの指名でプロ入り。その後オークランド・アスレチックス、アトランタ・ブレーブス、ミルウォーキー・ブルワーズと移籍している。

ちなみに当時の先代非公式サイトのブログには次の様に書いてあるので引用すると・・・
「チーム内での当面のライバルはサードの定位置を争う新井良太選手になります。良太も昨年ようやく開花して、今年はレギュラーにと張り切っているだけに熾烈な競争です。コンラッドがどこを守ることになるかによって内外野の陣容にも少なからず影響を与えるだけに注目です。自分はサード・コンラッドなら良太・ファースト、新井兄・ベンチとなる可能性が高いと見ますがいかがでしょう?」
かなりいい加減な分析だが、実際「なぜサードの選手を?」という疑問はあったらしい。ところがオープン戦で好いところでホームランを打ち、開幕一軍入りを果たしている。
しかし、開幕から58打席連続無打点、守備では打球への反応が遅く失策も多かったため1ヶ月で見切りをつけられてしまい、5月中旬にファーム行きとなって二度と一軍へ戻ってこなかった。
バッティングフォームには特に悪い癖はないのになぜか打てなかった
公式戦に出場したのは24試合で、わずか57打数10安打、ホームラン0、打点も0という結果しか残せなかった。
ファームでは真夏の炎天下でもプレーを続けていて、当時先代が観戦に行った7月下旬でも「元気よくサードを守っていたよ」と証言している。
しかしこの成績では居場所がなくなり、シーズン終了を待たずに9月24日に自主的に帰国、そのまま退団となった。
まとめ
今回はなかなか面白い取り合わせになったかな?
ハンセル投手は前に「異人伝」でも紹介してるけど 体格的にも素晴らしく投球フォームも速球派そのもので なんで勝てないのか?と不思議な投手だったみたい やっぱメンタルがイマイチだったのかな?
下柳さんは好く活躍してくれたんだよね タイガース時代が一番勝利数も多いし個性派で人気があったんだってね 今もたまにテレビに出てるのを見るけど面白い人ね 秀太さんのことはやっぱり頭に来たんだって 今では笑い話だけどね
コンラッド選手は 日本の野球になじめなかったのかなあ 先代の話を聞くとキャンプのころからクセのないスイングでバッティングは好さそうに見えたって言うのよ それがシーズンに入ってさっぱり 炎天下のファームの話は「異人伝」でお伝えしますね
では第6回は終わって 次回7回目は日本人選手3名を紹介します。もう誰だか判んないでしょ?
背番号42-7へつづく

タイガース背番号史 42-5 2026.07.23
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