ラッコの映画生活

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2007.08.21
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カテゴリ: カナダ映画
THE LITTLE GIRL WHO LIVES DOWN THE LANE

Nicolas Gessner
92min
(DISCASでレンタル)

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この映画は20年くらい前にテレビ放送かレンタルビデオで見て、またいずれ見たいとずっと気になっている作品でした。この映画カナダとフランス(そして米国)の合作映画ということになるのでしょうか。言葉は英語だけれど、カナダはもともとフランス語圏もある国で、クレジットロール見ていてもフランス人やフランス系の名前が多いですね。13か14のジョディ・フォスターの演技には脱帽ものです。最後のカットはジョディのアップで、なんと3分以上もある。この映画のことかどうかは知りませんが、当時「私は子役じゃなくって女優よ」と生意気な発言をインタビューでしているらしいですが、それも当然といった堂々とした演技です。映画の雰囲気も上記のような理由もあってややヨーロピアン・テイストですが、それがそう成り切っていない中途半端さが映画の弱さかも知れません。それでもボクの好きな映画です。レンタルしてしまいましたが、千円以下の廉価盤もあり、DVDを買ってしまうべきだったかも知れません。

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場所は米国ニューイングランドなのでしょうか?。海岸に近い村外れの家に13才のリン(ジョディ・フォスター)が詩人の父と一緒に暮らしている。もともとイギリス人で、夏頃父と娘はこの家を家賃3年分前払いで借りて越してきたらしい。映画はハロウィンの夜で始まり、地方の名士であり家主でもあるハレット夫人の息子、ロリコン変質者のフランクが訪ねてくる。ちょうどリンの誕生日らしく、リンはバースデーケーキに立てた13本のローソクに独り火を点したところだった。しつこくまとわりつくフランクに、母は既になく父と二人暮らしで、父は今書斎で仕事中だとリンは言う。しかしこの後も父親は書斎に籠っていると言い、疲れて既に寝たと言い、ニューヨークに行っていると言い、決して姿を現さない。彼女はひとりで住んでいるのだろうか?。父親っていうのは本当に存在するのだろうか。

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この映画は1976年12月が初公開。雪のシーンもあるが、撮影されたのは1976年秋冬だろうか。1962年11月生まれのジョディが14才の誕生日をむかえた頃だ。はっきりとした価値観を持ち、頭が良い聡明なリンの物語なのだけれど、早熟な聡明さを持ち頭が良く、大人顔負けの演技をするジョディ・フォスター自身がどうもリンの役と重なって見えてしまう。それがこの映画の魅力の一つでもある。父親と共同名義だという銀行の貸し金庫に入れてあるトラヴェラーズチェックを独り出して現金に換えに行くのだけれど、サインの確認のために別紙にしたサインを、確認が済むと返してくれと言って受け取って破り捨てる。決して13才の子供とは思えない行動だ。余談ながら、海外旅行で詐欺やトラブルに合うことの多い日本人観光客だが、こういう映画を見ると西洋的に慎重な大人の行動(笑)を学ぶことができる。

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(以下少しネタバレ)
詩人の父とリンは2人暮らし。ところが父は病気で先が長くないことを知る。たぶん離婚した詩人の妻が俗物の性悪女で、自分が死ねばこの妻が母親としてリンのもとにやってきてリンを虐待し、また金をいいように自分のものにするだろうこと、そうなれば娘リンは苦しめられ、またせっかくの才能や個性のある娘が潰されてしまうと危惧する。でも娘はやっと13才で成人にはまだまだ。その状況で父親が一計を案じる。つまり自分が死んでも生きていると世間には見せかけ、娘が大きくなるまで一人で暮らせるようにすること。それがこの物語の背景。そこにこの計画を邪魔する状況や人々が出てきて、それがこの物語のサスペンスになっている。娘が18か20才くらいならきっと何も問題はない。まだ子供で精神的成長が不十分ならしょうがないとして、リンの場合は早熟でもう既に独りで自分の価値観で生きていくことができる。なのに実際に13とか14とかの年令では何故自己決定権がないのか?。この映画の原作&脚本のレアード・コーニッグ、あるいは監督のニコラス・ジェスネールにそういいう意図があったのか無かったのかは分からないが、そういいうことを考えさせらる。

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(以下完全ネタバレ)
13才であるゆえに母親が迫って来たときに抗する術はない。だからこうなることを父親が予想して用意しておいた青酸カリで母を抹殺する以外に方法はない。2人目のハレット夫人の死は事故死。しかし自分を守るためには隠すしかない。そして最後はそのことを知ってロリコンとしてリンに迫るフランク。これも抹殺する以外に方法はない。リンは2件の殺人・死体遺棄と1件の死体遺棄という犯罪を犯すことになるのだけれど、1件は事故死で、2件の殺人は彼女に危害を加える2人であって、大人になってないゆえに殺すことでしか対応はできないのだから、一種の正当防衛として犯罪性は無いと言ってもいい。そういう状況に追い込まれたリンの孤独な人生が痛くも美しい。父親の価値観を押し付けられたリンの不幸と見る向きもあるようだけれど、それは少し違う。それは対するものとして描かれる社会はハレット母・息子やそれを許容する欺瞞の社会なのだし、利己的で性悪なリンの母親であり、一方リンの父親の価値観は個性の全うにある。リンの物語を離れても、ここには欺瞞の社会糾弾という雰囲気さえ見てとれる。そこに染まることを良しとしない少数者の苦悩を物語的に体現したのがリンの孤独であるような気がする。

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深読みと言えばその通りだけれど、そういいう背景を感じさせる中での13才のジョディの演技が魅力的な映画だ。無関係な人々の死はなく、派手な殺害シーンなどもない。どちらかと言うと静かなサスペンス性が良い。死の恐怖が迫るようなサスペンスではなく、状況のサスペンスの物語だ。最後のシーンでフランクはシルクハットにマントというマジシャンの服装で、びっこをひくマリオに自分を見せかけていて、また懸賞の賞品を届けるのを電話でリンが断ったのを誉めるが、どちらも結局自分のためではなく実はリンのためになっているという落ちなど、脚本も良く練られている。(ボクの好き度90点。)

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Last updated  2007.09.17 22:59:24
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