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VISKNINGAR OCH ROPIngmar Bergman87minこの作品は随分昔、たぶん中学生の頃に、ただ1度だけ映画館で見た映画です。大好きな映画ですが、以後見る気は起こりませんでした。同じベルイマン監督の作品でも『ペルソナ』などは7~8回は見ています。1回切りで十分味わい尽くしてしまった感動を薄めたくなかったと言うのでしょうか。先月末にベルイマン監督が(アントニオーニ監督と同じ日に)他界し、俄にまた見てみたくなり、価格など気にせずにDVDを買ってしまいました。監督が死んでからDVDを購入しても現世的に監督には何ももたらしはしませんね(イングマール、生前に購入しないでゴメン!)。一種の回顧・追悼鑑賞です。ベルイマンと言うと、50年代60年代には『ペルソナ』であるとか『鏡の中にある如く』『沈黙』『狼の時刻』など、病的精神や形而上学を扱った難解と言うか「尖った」映画も多いけれど、世界、自然、宗教、他者といったものとのかかわりから現代の人間の条件を考察するのが基本的テーマだ。そしてこの『叫びとささやき』以降『ある結婚の風景』『秋のソナタ』『サラバンド』など人間間の愛情や憎悪などを描いているのだけれど、この『叫びとささやき』は彼の後期の作品への橋渡し的作品に思えてならない。そういう意味で作る彼も力が入っているし、出来上がった映画も彼の作品を代表する一つの傑作ではないだろうか。『狼の時刻』でちょっと使われたモーツァルトのオペラ『魔笛』は後年オペラ映画の傑作『(ベルイマンの)魔笛』となるが、この映画中に使われたバッハ無伴奏チェロ組曲第5番のサラバンドは彼の遺作となってしまった『サラバンド』でまた取り上げられている。そういう意味でも彼にとって特別な作品だったのではないだろうか。物語は19世紀末、スウェーデンの領主の館といったところだろうか。ベルイマン組とでも言うのか彼の映画の昔からの馴染みの女優イングリッド・チューリン、ハリエット・アンデルソン、リヴ・ウルマンが演じる3姉妹カーリン、アグネス、マリア。両親は既に死しておらず、長女カーリンと三女マリアは結婚している。女中アンナ(カリ・シルヴァン)と今も屋敷に暮らす次女アグネスが末期ガンで、最後の看病と死を看取るために姉カーリンと妹マリアが屋敷を訪れている。映画の現在時は病床のアグネスの死と葬儀が終わり、残ったカーリンとマリア(と女中アンナ)が別れていくまでを描いている。そこに子供時代の回想が入り、かつてこの屋敷を訪れたカーリンやマリアの夫との関係などが回想される。それによってこの3姉妹の不幸や互いの愛憎混じった人間関係が明らかにされていく。以下ネタバレ末娘のマリアは子供の頃から親に気に入られる術を知っていて、甘やかされて育ったが、そのせいで今も子供のままで成長が出来ていない。かつて屋敷に泊まっていたとき、女中マリアの娘が病気になり、往診に来た医師を誘惑して関係を持つ。誰からも愛されていなければ満足できない彼女なのだ。翌朝商用から戻った夫はそのことに勘付き自殺未遂を計った。一方長女カーリンは歳の離れた外交官と結婚していた。ある晩この屋敷に泊まったときのこと、食事を終えると夫が口にするのは「もう遅い、ベッドに入ろう」という言葉だったが、夫が大切にするのは外交官夫妻としての格式であり、プライベートでの妻への期待は性的欲望の解消相手としてだけだった。そこに愛はない。日本語字幕は上記のようになっていたが、スウェーデン語ではたぶんもっと直接的に「さあ早くセックスだ」ぐらいに聞こえる。そんな外面だけの格式と愛情のない夫婦関係にカーリンは悩んでいた。そして割れたグラスの破片で彼女は性器を傷つけ、好色な表情の夫にその傷と血を示すのだった。幼い頃次女アグネスは素直に母親に甘えられなかった。母親を演じるのは三女マリアと同じリヴ・ウルマンの二役だが、彼女も幸せではなかった。ある日母親は幼いアグネスを呼び止めた。アグネスはまた小言を言われるかと恐れたが、そうではなかった。母は憂いに満ちていた。アグネスは母に触れ、きっと母の憂いを理解した。医学的なことはよく解らないがたぶん子宮ガンだろうか。アグネスは肉体的苦しみの末に死ぬ。牧師は「アグネスは自分よりも信仰があつかった」と言い涙も流すが、死んだ彼女の魂を静めることは出来ない。ベルイマンのそれまでの映画で再三描かれているようにこの牧師も「神の沈黙」に苦しみ、結果牧師としては無能な存在でしかない。アグネスの死で残された長女カーリンと三女マリア。誰からも愛されたい願望のマリアは、心の交流を拒絶する姉カーリンとの対話を試みる。心を閉ざすことでアイデンティティーを保っているカーリンは冷たく、そして恐れから拒否しようとするが、アグネスの死という非日常の中でマリアを受け入れる。語り合う2人の会話は聞こえないが、ここでバッハのサラバンドが美しく響きわたる。ここからやや幻想的なシーンとなる。死んだアグネスが姉カーリン、妹マリアを1人ずつ呼ぶ。カーリンやマリアの愛を確認して魂の安らぎを得たいのだ。しかしもともと愛の不在に苦しみ、愛など考えないように生きているカーリンは冷たく彼女を拒否をする。マリアは子供的優しさでアグネスの願いを受け入れようとはするが、やはり成長不全で我がままな彼女であり、現世的自分の幸せ、あるいは自分が誰からも愛されることだけを求めているだけなので、姉への愛のために自分を差し出すことなどできない。そして最後は女中のアンナが幼子イエスを抱く聖母マリアのような図像の構図でアグネスを抱き、彼女の魂を慰めるのだった。葬儀も終わりそれぞれの夫と屋敷を去っていくカーリンとマリア。互いに心を開き理解し合ったと思えたあの瞬間、それは現実の日常に戻った2人にはなかったかのようだ。再び互いに心を閉ざして2人は別れる。慇懃に「ありがとう」と言って解雇したアンナを去っていく2組夫婦。マリアだけは少しだけ心があるのか?。夫にお金を要求してそれをアンナに渡して去っていく。やがて出ていかなければならない屋敷に1人残った女中アンナ。彼女は秘かにアグネスの日記帳を隠し持っていた。「久しぶりに体の調子もよく、子供の頃のように庭をみんなで散歩した。姉と妹とアンナ、好きな人がみんなそばにいる。これが幸せだ。」アンナが優しく揺らすブランコに3人姉妹は乗り、一時の幸せを噛み締めるように穏やかに微笑むアグネス。そんな美しくも苦い回想シーンで映画は閉じられる。ベルイマンの再三の中心テーマであった神の沈黙。それはようするに愛の不在だ。この映画の時代設定は19世紀末だけれど、描いているのは現代の人間の条件だろう。たぶん高位の外交官のカーリーン夫妻、今風に呼べばたぶんビジネスマンのマリア夫妻、この2組の裕福なカップルを現代人の象徴として位置付け、子供の頃は親に愛されず、その後も病弱であるがために現世的普通の幸福から疎外されたアグネスと、恐らく貧しい農家か何かの出身であるアンナ、この両者に心や愛、ひいては信仰の可能性を託したのだと思います。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.03
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VARGTIMMENIngmar Bergman人格崩壊の物語。『ペルソナ』(1966)と対をなす作品でしょう。主人公の相手はどちらもアルマです。『ペルソナ』では舞台で『エレクトラ』上演中に突然笑いに襲われ、翌日起きると声の出なくなった女優役のリヴ・ウルマンは最後には回復しますが、この『狼の時刻』は悲劇的な最後です。生の不安と、子供時代のトラウマと、画家としての無能感から、ユーハンの人格は崩壊してしまいます。『ペルソナ』では容貌の似たリヴ・ウルマンとビビ・アンデルソンの人格が重なり合いますが、ここでは「長く連れ添った夫婦は容姿も考えも似てくる」という思いの妻アルマの人格の融合が見られます。この作品、個人的には思い出のあるものです。まだレンタルビデオも登場する前のことですが、この『狼の時刻』と『恥』が地方UHF局で放映されました。吹替え&短縮版ですが。で学生だったボクはこの2本を録画するために当時まだ25万円以上したβのビデオデッキを2年ローンぐらいで買いました。テープも当時は2時間のが1本2500円くらいでした。『狼の時刻』は劇場未公開なので何度も録画を見ていましたが、今回レンタルDVDで初めて完全版を見たわけです。映画は「数年前、北海に浮かぶ小島から、画家ユーハン・ボイルが突然姿を消した。彼の日記帳を保管する妻アルマが、当時の事情について語ってくれた。この映画は彼女の話と日記にもとづいている。」というテロップが出た後、物語を語る妻アルマで始まります。絵を描きに行っている夫ユーハンが不在の家に白い服の謎の老婆がやってきて、ベッドの下のカバンに隠したユーハンの日記を読むようアルマをそそのかします。日記にはユーハンの妄想や不安や苦悩が綴られています。そしてかつての愛人ヴェロニカ・フォーゲルを夫がまだ忘れられずにいることをアルマは知ります。(以下そろそろネタバレ)2人は島の所有者のメルケンス男爵の城に招かれますが、アルマは無視され、ユーハンは奇妙な怪物のごとく好奇・嘲笑の対象として翻弄されます。そこで簡単な人形芝居のようなものが上演されます。モーツァルトの『魔笛』の1シーン、タミーノがパミーナを探してザラストロの城の門で追い返され、絶望するシーンです。ちなみに小さな人形芝居のセットなのですが、タミーノの人形は巧みに実際の人間がはめ込まれていて、表情などが動くのが面白い。上演者は「金のための依頼仕事ではあるが、モーツァルトは立派な芸術を作りあげている。」と解説します。食卓で手のつけようのないほどバカ騒ぎをしていた有閑の貴族たちですが、この『魔笛』だけは静かに、うっとりと鑑賞をしています。ユーハンの絵の行き詰まりと、モーツァルトの真の芸術が対比されているのかも知れません。帰り道、白夜の太陽が水平線に輝く中、アルマは夫の悩みや孤独を分かち合いたいと話しますが、ユーハンは頑なに心を許しません。そして狼の時刻。古来から言われている夜明け前の数時です。子供が生まれるのも、病人が死ぬのもこの時間。不吉な力がパワーを増す時刻。ユーハンは不安で夜が明けるまで眠れません。ユーハンは話します。「子供の頃悪さをして父親にクローゼットに閉じ込められた。真っ暗な闇。中には子供の足を食べる怪物がいるという。恐くて逃げようとするが上手くいかない。必死に「ごめんなさい」と繰り返した。父親は反省したかと訊いたが、ただ「ごめんなさい」を繰り返していた。ソファーに臀を出してうずくまり、父が笞で何度も臀を叩いた。痛かったが我慢した。母親に許してくれるか問うと「もちろんでしょ」と母は言った。」そしてユーハンはある日海岸で釣りをしていたらまとわりつく子供がじっと見つめていて、襲われたので殺して海に落としたと、告白します。夜が明けると、ユーハンがホモセクシュアルだと恐れている心理学者が来て、城への再度の招待を伝え、かつての愛人ヴェロニカ・フォーゲルも来るといいます。そしてピストルを置いて帰ります。アルマは真剣に話そうと日記を取り出しますが、既にユーハンの精神は錯乱していて、アルマに向けてピストルを発砲します。そして再度の城訪問とヴェロニカ・フォーゲルとの逢瀬、既にユーハンは錯乱の中の妄想の世界にいます。アルマが森の中へユーハンを探しに行きます。森の中で貴族連中が彼の恐れる鳥、いや鳥男になって彼を襲います。アルマは呼びますが、彼はそのまま森の中に消えてしまいます。最後にまた冒頭のアルマの述懐の最後に戻り、「私はユーハンと悩みを共有しようとしたけれど、それが間違っていたのでしょうか?。」と語ります。この映画の物語はユーハンの妄想、幻影が中心に描かれますが、ユーハンの芸術創造がモーツァルトに対比されていることは既でに書きましたが、ユーハンの恐れる鳥男は『魔笛』のパパゲーノの変形なわけです。パパゲーノをモーツァルト、つまり芸術創造の象徴とすれば、芸術創造に行き詰まるユーハンはパパゲーノを恐れるわけです。最初のタイトルロールのとき、まさにこの映画を撮影するスタッフたちの声が聞こえ、「はい、静に!、スタート」とか言う声で映画が始まります。これは映画作品を作ることがこの映画のテーマともなっているわけです。そして画家ユーハンの芸術創造と重ね合わせれば、ベルイマンにとっての映画を作ることの疑問というものと結びつきます。『ペルソナ』ではタイトルの前の最初の部分で、本編の筋とは無関係の映像、映写機のアーク灯が点いて、アニメーションフィルムが映写される映像があります。これも映画とは何か、というベルイマンの問いなわけです。アジアのどこかの国のマニフェストで坊主が焼身自殺をしている映像をテレビで見て『ペルソナ』のウルマンは怯えますが、この世界を前にして映画で何を語り得るのか、あるいは得ないのか。この世界の不安と、画家の個人的不安が重ね合わされ、その中で映画を作ることの意味は何かという問いも描かれているのだと思います。最後になりましたが、『ペルソナ』とともに、「完璧」と言いたくなるほどの美しい白黒画面です。監督別作品リストはここから
2006.12.13
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THE SERPENT'S EGG/DAS SCHLANGENEIIngmar Bergman 脱税容疑で本国スウェーデンに嫌気のさしたイングマール・ベルイマンがドイツでアメリカ資本で撮った作品。ベルイマンと言えばそれまで、スタッフもキャストも小規模で、人の心理的葛藤を扱った室内劇。それが多額の予算を得て1920年代のベルリンの街を再現。路面電車まで走っている。スウェーデン語でなく英語というのも、スウェーデン語がわかるかどうかは別にして違和感がある。一般に評判もあまり芳しくなく、見落とされがちな作品だ。レンタルDVDで鑑賞した。米国ではもともとベルイマン作品は一般には人気がないし、ベルイマン・ファンにとっては毛色が違うし、そういう意味で過小評価されているのではないか。誰の作品か考えずに見ると、なかなか名作だ。そして見ていると、やはりベルイマンらしさも見えてくる。1923年ベルリン。多額の賠償金を要求された敗戦後のベルサイユ体制で、ドイツの不況は1923年ピークにあった。タバコ1箱40億マルク。当時はパピエスマルクという紙幣だけの通貨で、翌1924年に発行のライヒスマルクとの交換レートは1ライヒスマルクに対して1兆パピエスマルク、1米ドルが4.30ライヒスマルク。市民は紙幣を手押し車で運び、額面ではなく重さで取引きした。作品は不況の中で生きる希望もない社会、そうした社会の中で反ユダヤ主義が広がり、やがて人々の憎悪がヒットラーの極右政権を生む、ワイマール共和国末期の無気味な社会を描いている。1923年11月3日土曜夜、アベル・ローゼンベルグ(デイビット・キャラダイン)が宿泊中の安宿に戻ると、広間では結婚のパーティーが楽しく行われていた。それを横目に、女将に渡された2人分の食事のトレーを持って2階の部屋に行くと、兄マックスが銃で自殺していた。アベルはアメリカ国籍、両親はラトビアのリガ出身。翌日警察での事情聴取で「ユダヤ人か?」とバウアー警視に尋ねられたのが気になった。その夜アベルは兄の2年前に別れた妻マヌエラ(リヴ・ウルマン)に会いにいく。かつてアベルと兄マックスとマヌエラはサーカスの空中ブランコの名3人組だった。彼女が出演しているキャバレーで訃報を知らせる。兄の残したドル札と手紙の入った封筒をマヌエラに渡すが、乱筆でほとんど読めない。「毒が盛られつつある」とだけ読めた。アベルはマヌエラの部屋に転がり込むが、その後意外な展開が2人を待っていた。(以下ネタバレ)アベルの周囲の人が7人も変死していた。兄や兄の婚約者もそうだ。バウアー警視は謎めいた言葉を残す。部屋でアベルはマヌエラにハンスが子供のときから冷徹な科学者だったことを語る。アベルはハンスを憎んでいた。街は不穏な空気が充満していて、右翼的不良集団は暴力でユダヤ人に歩道を洗わせている。マヌエラがショーに出ているキャバレーは「ドイツ人を堕落させようというユダヤ人の陰謀だ」と愛国青年集団に襲われ、店主のユダヤ人はテーブルに顔を何度も打ち付けられてユダヤ鼻を血だらけにへし折られ、店には火が放たれる。 家主に義弟アベルとの同居は困ると言われたマヌエラは部屋を出ていく。彼女は実は関係のあったハンスに、聖アンナ病院内の部屋とアベルの病院資料室での仕事を世話してもらう。アベルは最初断るが、自分を助けたいというマヌエラの気持ちを察して同意する。アベルの仕事は病院での資料整理だが、そこでハンスが秘密の人体実験をしていることを聞かされる。部屋に帰るとガス漏れやモーターの音が聞こえる、とアベルは気にしている。ある晩マヌエラと静かに食事をしていると、突然彼女が興奮して怒り出し、でもその直後ではまた2人優しく抱く合う。2人の感情の起伏は異常に激しい。 ある日アベルが部屋に戻るとベッドでマヌエラが死んでいる。そのとき鏡の裏が光った。アベルが鏡を割ると隠しカメラがあり、男が逃げた。他の鏡を割ると、そこにも隠しカメラが。翌日病院の資料庫の一角、ハンスと鍵で閉じこもった一室でアベルは様々な人体実験の記録フィルムを見せられる。中には神経麻痺ガスで感情の起伏を激しくさせられたカップルの映像もあり、アベルは自分とマヌエラを見ているようで愕然とする。アベルの兄は自分の助手で、止めたけれども神経麻痺薬を試し、その結果自殺した、とハンスは語る。謎の変死はハンスの人体実験の結果だったのだ。 ハンスは語る。「未来のために必要な研究だ。警察が踏み込むだろう。その前に私は死ぬ。政府は資料を押収・封印するだろうが、学会の要求でやがて封印は解かれ、実験は再開されるだろう。時代に先んじた者は犠牲となる。数日中に南ドイツでヒットラー指導の過激派が一揆を起こすが失敗するだろう。」 群衆の群れを撮ったフィルムを見せながらハンスは続ける。「この無気力な群衆に革命はできない。でも10歳、15歳の子供は10年後には20歳、25歳となる。親の憎悪を受け継ぎ、理想と怒りを持つ。代弁者として出てきた者が輝かしい未来を約束し、若者は賛同する。革命が起こって世界は血と炎。遅くとも10年以内だ。今までの人間性善説のまやかしの社会でなく、人間の欠点を認めた上での新たな社会が生まれる。だから欠点をコントロールして長所だけを持つ人間を作り出すために、私はこの実験をした。」「君とマヌエラを私は好きだった。助けようとしたが思い違いだったようだ。」「この未来は少し考えれば誰にもわかる。蛇の卵のように膜を通して蛇の姿は丸見えだ。」そう言うと青酸のカプセルを飲み、鏡で自分の死ぬ様子を観察しながら、最後まで冷徹な科学者として息絶える。外には警官隊がやってきていた。 病院のベッドで目を覚ましたアベルにバウアー警視が言う。ヒットラーが一揆を起こして失敗した。ドイツ民主主義は死んでいない。費用を負担するからスイスに行ってサーカス団に合流しなさい。アベルは同意するが、駅に向かう途中逃げ、その後の消息はわからない。ベルイマンが描いてきた神の沈黙も、人格の崩壊も、世界観を破壊した第2次世界大戦後の人々の不安が根底にある。この映画で、既に過去のこととして我々が知っているナチ極右政権の誕生や、理想(?)の社会構築のためのナチの人体実験などが行われることを、その道程として描いている。ベルイマンの描いてきた世界は「社会の中の」ではあっても「個人の」不安だった。しかしここでは「社会の」不安がどういう経緯でどういう結果に繋がるかを、社会の心理として描いたのではないだろうか。そのように見てくると、1977年という明るい時代ではあっても、米ソの核による不安はあった時期であり、物質的には恵まれてきても精神的に目的を失った時代に人々は潜在的不安をもっていた。また2006年の今、高い失業率の中で移民排斥などネオナチやフランスのFN等極右思想の拡大、共謀罪に見る国家主義、全体主義化への傾向の中で、決して現在的意味も欠いてはいないような気がする。作品作りとしては、フリッツ・ラングへのオマージュが感じられた。というよりも、全体がドイツの20年代、30年代の映画の再現的なものだ。キャバレーのステージなど。また作中「ローマン警視」とセリフにでてくるが、これはラングの映画の登場人物の名だ。何という形式かは知らないが、旧式の映写機を詳細に観客は見せられるが、映画ファンには興味深いし、ベルイマン自身これを見せたかったのだろう。 同じ英語を話してはいるが、リヴ・ウルマンやドイツ人俳優の中で、アベルを演じたデイビット・キャラダインがやはり演技・ディクションがハリウッド的で、妙なチグハグ感もないではない。しかし、最初に書いたようにベルイマンだと思わなければ、かなり上質の映画ではないだろうか。ある種のサスペンスで、最後に全体の謎が解き明かされる脚本もよく出来ている。監督別作品リストはここから
2006.12.12
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