全175件 (175件中 1-50件目)
NE TOUCHEZ PAS LA HACHEJacques Rivette137min(1:1.85 フランス語)(桜坂劇場 ホールBにて)さっき見てきました。久方ぶりのフランス映画、しかもジャック・リヴェットの新作。傑作とは言い難いけれど、大いに堪能しました。色々な意味で面白かったです。でもどうなんでしょうか?、この映画は日本でどれだけ受けているのでしょう。日本では受け入れられにくい要素が多いような気がなんとなくしますが。フランスでも、批評家評は良いものの、観客評は賛否2分状態。アロシネのサイトの観客評も、最高点から最低点の5段階評価の分布が 30-20-10-17-23(%)で、好きか嫌いですね。前にもリヴェットの作品のことで書いたような記憶があるのだけれど、彼の作品は多重性が強い。それは映画に特に可能な性格でもあるけれど、その意味でとても映画的な映画(テイストは芝居的でもありますが)。単純には、そう表層的には男女の恋愛の物語だけれど、政治的な含みもあるし、社会の中での個人の問題もあるし、映画の可能性論・手法論もある。バルザックの原作は読んだことがなかったのですが、中編小説でもあり、ただで読めるフランス国立図書館の gallica のページでざっと斜め読みしてきました。映画の構成、最初と最後の映画的現在時の枠の間に5年前の物語を挿入した構成、物語の推移やセリフ、映画はほぼ原作に忠実なようです。久しぶりにバルザックを読んだら引き込まれてしまって、書き始めたこのレビューそっちのけで読んでしまっていました。それで書きかけのまま日を越してしまい、今また原作ちらちら読んでいたら、またまた読んでしまっていました。リヴェット監督には申し訳ないけれど、原作小説は映画よりはるかに面白いかも知れません。さてその物語ですが、ルイ18世の復古王政の末期1923年、地中海に浮かぶ小島マヨルカのカルメル会女子修道院を、モンリヴォー将軍が配下の軍団を連れて訪れる場面で始まる。アルマン・ド・モンリヴォー公爵は5年前にパリの社交界(フォーブール・サンジェルマン)で時の花形アントワネット・ド・ランジェ公爵夫人に激しい恋をした。夫人にとっては最初は単なる恋愛ゲームであり、自分を社交界で輝かせることにもなる虚栄のゲームであった。社交界のなんたるかなど知らぬアルマンはアントワネットをマジで追い求めたが、彼女は彼の感情を煽るだけで、上手くかわしていた。しかし彼が彼女を無視し続けることを始めると、今度は夫人の情熱に火が点る。そして偶然も作用して破局を迎え、結局アントワネットは姿を消して修道院に入ってしまった。そんなアントワネットをアルマンはこの5年間世界中を探し回っていたのだ。そしてここマヨルカ島の修道院でテレーズ修道女となった彼女にアルマンは再会する。しかし彼女(テレーズ修道女)は、還俗して一緒になろうというアルマンの要求を拒否した。そこでアルマンは一計を案じることになるのだが、映画は(小説は)、ここで5年前に戻って2人の出会いから別れまでを描く。映画の中には社交界の人のセリフとして「彼(モンリヴォー将軍)は、ナポレオンの生徒だから」というのがあった。時代は1789年のフランス革命から、ナポレオンの帝政、王政復古、1820年、1848年の革命、そして第二帝政を経て共和制へと向う社会変動、そしてそれに伴う社会思想の変動の時期だ。『人間喜劇』のバルザックの小説は、19世紀の社会の風俗や思想を体系的に描写しようというものだった。だからフランツ・リストに捧げられたこの小説でも、冒頭からこの修道院や教会の社会的現況を詳しく説明し、また第二章(物語としては5年前のパリの部分)の冒頭では当時の貴族社会や社交界の分析、そしてそんな中のランジェ公爵夫人のことなどを詳しく説明している。またモンリヴォー将軍の生い立ちから現在までを、その社会的身分の持つ性格や心性として説明している。フォーブール・サンジェルマンとナポレオンの生徒たるモンリヴォーは、歴史の変動における旧と新のそれぞれを象徴するものであり、その間に置かれたランジェ公爵夫人の物語は、旧から新への移行の流れと、そして結局は旧に留まるというものだ。映画を見ているとある程度この辺の事情が解らないではないけれど、社会史としての知識がないと良く理解できないかも知れない。最初に書いたようにリヴェットの映画には重層性があり、表層の男女の恋のかけひきの物語としても十分に賞味できるのだけれど、フランスの歴史的知識があると、見える部分(層)が広がる。日本で受け入れられにくい要素と書いたのはそういう意味だ。 (左:修道女、右:ランジェ公爵夫人)リヴェットは今回主演のジャンヌ・バリバールとギヨーム・ドパルデューを使って、バリバールが主演した『恋ごころ』系の作品を撮る予定だった。たまたまバルザックのこの小説を読んで、その映画化に変更したらしい。ところで、リヴェットには40年前1966年、アンナ・カリーナ主演の『修道女』という映画がある。これは18世紀半ば、時代は革命前だけれど、意に反して修道院に入れられた娘の物語。その中で、修道院内で、内部者(修道女)と外部者(弁護士や聴聞僧などの男性)が鉄格子を隔てて面会する場面が何度か出てくる。これと、今回の『ランジェ公爵夫人』の最初のテレーズ修道女(アントワネット)とモンリヴォーの会見のシーンは酷似した情景だ。バルザックの小説を読み直してリヴェットが関心を持ったのは、そこに時代の変動の中での新旧、そして社会の状況がいかに人の心性を規定(あるいは制約)するか、恋愛という個人的心情のことが如何に政治的状況に支配されるか、影響されるか、自由ではいられないかというテーマを、再び描きたかったからではないだろうか。『修道女』の場合は1966年であり、きたるべき1968年の五月革命の心性を先取りするものであったかも知れない。そういう意味で、2006年のリヴェットにとっての現代的関心とは何だったのだろう。いずれにせよ『修道女』もそうだったが、この『ランジェ公爵夫人』も、時代設定や衣装、社会等は200年前だけれど、時代劇が苦手なボクにも抵抗感がなかった。それはリヴェットの映画作りが、時代劇ではなく、結局は現代劇だからなのだと思う。『美しき諍い女』でリヴェットはバルザックの小説を、設定を現代に移して描いたけれど、これら時代物2作も実は同じなのだ。だいたいが、そういう時代劇に抵抗感のある自分なのだけれど、200年とか250年前の時代をただ忠実にそのまま再現して描いたところで何になるだろうか。ボクにとっては、映画は歴史の教科書ではなく、現代的な意味がなければつまらない。映画の物語に戻ると、途中と最後は省略するけれど、破局後にまた冒頭の5年後マヨルカ島に戻り、モンリヴォーが仲間たちとある計画を実行し、その顛末が描かれて終わる。少しネタバレになるけれど、こちらは革命後の物語。最後に新勢力であり、世俗勢力であるモンリヴォー一味が修道院内に侵入するという物語の展開が、革命前の物語である『修道女』とは社会が変化していることを表現している。たいていの解説やレビューにアントワネットとアルマンの男女の恋の駆け引きを中心にしているので、ここでは省くことにした。もちろんそれはこの映画の一つの見どころだ。ジャンヌ・バリバールは、フォーブール・サンジェルマンの花形として描かれるわけだけれど、『恋ごころ』の彼女ほどには魅力的ではなかった。もしかしたらミスキャストかも知れない。プルーストの『失われた時を求めて』のゲルマント公爵夫人のモデルの1人で、その肖像画に見るグレフュール伯爵夫人のような美しさがあったらな、と感じられた。 (グレフュール伯爵夫人 アレクシス・ド・ラズロ筆)作品の時代設定に於ける様式設定は帝政調で、ランジェ公爵夫人他社交界の女性たちの服装は、胸のすぐ下までのハイウエストで胸を強調した、また薄地の布のスリップドレスのようなもの。これはレカミエ夫人の肖像画等を連想させるもので、事実映画の画面はこうした絵画の複製的なものがあって、それは魅力的だった。ジュリー・ジュッド演じる若い小間使いのリゼットもこのタイプのハイウエストのお仕着せを着ていたけれど、このファッションのプロポーションは女性を美しく見せますね。 (レカミエ夫人 左:ジェラール男爵筆、右:ダヴィッド筆)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.10.16
コメント(0)
CRIN BLANC le cheval sauvageLE BALLON ROUGEAlbert Lamorisse白黒40min(1 : 1.37、フランス語)カラー34min(1 : 1.37、フランス語)(桜坂劇場 ホールCにて)2008年、待ち望まれた映画がスクリーンで息を吹き返す1956年に生まれたアルベール・ラモリスの『赤い風船』は、その年のカンヌ国際映画祭パルム・ドールをはじめ数々の映画賞に輝きました。日本ではいわさきちひろさんが熱望し絵本化するなど、そのオリジナリティ溢れる物語は世紀を越え、多くの人々を魅了してきました。しかし、不朽の名作の地位を得ながらも映画そのものは観る機会が限られ、その存在だけが語り継がれる伝説の映画であったのです。2007年カンヌ国際映画祭。長年の権利問題が解決し、デジタル・リマスターによって鮮やかに甦った『赤い風船』は、1953年カンヌ国際映画祭でグランプリに輝いた同監督のもう一つの傑作『白い馬』と共に再び出品されました。同じ作品の二度の正式出品自体、映画祭史上初の事件でしたが、なにより話題をさらったのはその少しも色あせない映画の力だったのです。シンプルなストーリーとわずかなセリフにも関わらず、そこに描かれる愛、友情、喜び、切なさが心に強く迫ってきます。そして導かれる奇跡のラストシーンには感動し、心揺さぶられることでしょう。『赤い風船』Le Ballon Rouge監督・脚本:アルベール・ラモリス出演:パスカル・ラモリス1956/フランス/36分 きっと、また会える。語り継がれてきた伝説の映画が、ついにスクリーンで鮮やかに甦る。永遠に心に刻まれる、奇跡のラストシーン。ある朝、少年パスカルは、一個の赤い風船が街灯に引っ掛かっているのを見つける。街灯によじ登って風船を取ると、どうやらその風船には意志があるようだ。手を離しても、風船はパスカルの行く先々に付いて来るのである。ある日、パスカルと風船の仲の良さを妬んだいたずらっ子たちが、風船を自分たちのものにしようと追い掛けて来て…。『白い馬』Crin Blanc監督・脚本:アルベール・ラモリス出演:アラン・エムリー1953/フランス/40分孤高の魂が響きあう。南仏の湿原を駆ける野生の馬とそれを追う少年。命の躍動に心が震える。南仏カマルグの荒地に野生馬の一群が棲息していた。群れのリーダーは、“白いたてがみ”と呼ばれる美しい荒馬だ。地元の牧童たちはこの馬を何とかして捕らえようとしていたが、逃げられてばかりいた。しかし、少年フォルコだけは、“白いたてがみ”と心を通わせ次第に強い絆で結ばれるようになる。そして、馬を狙う牧童たちから必死に守ろうとする。(以上AMUSE cinequanonのサイトより)上の引用部分からもわかるように、今回の上映はデジタル・リマスター版によるリバイバル上映。正直、これらの作品を昔、何時・何処で見たのか、あまり憶えがありません。それでも『白い馬』の方はかなり映像の記憶が残っている。もしかしたらフランスで小学校で(2本とも?)観せられたのかも知れない。『赤い風船』の方は、本当にかつて何十年か前に見たのかどうかもわからないぐらい記憶はおぼろ。そんな作品なんですが、劇場で予告編を見せられたとき、物凄い懐かしさのようなものを感じた。映画関連の書籍などで紹介や批評されているのを読んだ記憶もないのだけれど、それでも何か特殊な感慨のようなものがボクの中にある作品だった。これら2本の作品、フランスでの公開が1953・1956年頃で、引用資料にもあるように権利問題があっていつまでどういう形で観ることが出来たのかは分からないけれど、おそれく四十代以上の人々、特にフランス人にはなにがしかの同じような感慨を持った人も多いのではないだろうか。フランス版DVDの特典映像には、実際に見たわけではなくキャプチャー画像を見ただけだけれど、ジュリエット・ビノシュがDVDを観ている等の映像が入っている。この2本の作品、あるいはラモリスの作品は、映像詩などと言われることが多い。なるほどセリフがほとんどないし、大きく展開する物語があるわけでもなく、映像は美しいのだけれど、特に『白い馬』の方など、散文的で動きのある画像も多い。牧童、引用文に合わせてこう書くけれど、そして牧童と呼ぶとほのぼのとした感じだが、実際にはもっと動物や自然を征服しようという人間たち。あるいは野生の馬のボス争いの壮烈な闘争場面などがある。そして少年が野うさぎと戯れている映像、それは実はマジに追っているのであって、次の場面ではさばいたその兎を焚き火で焼いて食べている。そういう意味ではかなり現実的な映像だ。そして風船は無生物だからポエムの世界になるけれど、少年と馬の友情にしても、少年のやろうとしたことは、馬を捕らえて、家に作った柵の中に入れ、縄で縛ろうというもので、実は野生の馬を捕らえて屈服させようとする牧童と本質同じか、あるいは同じところから出発している。現実的といえばその通りなのだけれど、この辺の発想の平凡さ、あるいは素朴さが、今回なんとなく気になってしまった。ややネタバレにはなるけれど、2つの作品は、ほぼ相似な物語構成だ。『白い馬』では少年・白馬 vs 牧童、『赤い風船』では少年・風船 vs 無理解な大人・普通の悪ガキという2項対立であり、理想論的人間を象徴する少年プラス白馬または風船は、この世界ではない何処かアナザー・ワールドに旅立っていくしかない。そういう意味では描かれている内容は非常に辛辣なものだ。白い馬は何ものにも屈服しない孤高な精神の自由を象徴しているのだろう。あるいは赤い風船は少年の友だちでもあるけれど、他と相容れない少年の分身的存在とも考えられる。『赤い風船』で描かれる大人たちや悪ガキの集団は、世界の主流、徒党を組む人々、つまりは個人の自由を屈服させようとする社会や政治でもあるわけで、風船は彼らに殺されることになる。色とりどりの風船が集まって少年をつり下げて空の彼方に連れ去るけれど、美しいけれどもハッピーであるよりは辛辣でペシミスティックなラストだ。同じように少年と白い馬も海の彼方に去っていくしかない。青空の彼方や海の彼方が象徴するのは、決して存在はしない理想郷でしかない。しかし、『白い馬』では能動的に、『赤い風船』では受動的にではあるが、そうした世界を選ぼうという少年の意志にこそ価値があるのだ。これはラモリスの理想なのだろうけれど、もし普通に言われるようにこれらの映画が子供向けに作られたものであるならば、理想主義者ラモリスの、子供たちに対する感動的とも感じられる深いメッセージだ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.09.21
コメント(4)
LADY CHATTERLEYPascale Ferran135min(1 : 1.66、フランス語)(桜坂劇場 ホールAにて)この映画、本国のフランスではセザール賞5部門受賞、ルイ・デリュック賞受賞、『カイエ・デュ・シネマ』誌は2006年最優秀作品に選出、と高い評価なんですが、日本でのウケはいまいちな感じですね。ブログや映画サイトの不評の観客レビューをちらちら見てきた印象では、フランスと日本の社会的コンテクストや、映画の見方の違いに起因している感じ。日本文化の中では、案外と作品の真意を汲むのが難しい作品なのかも知れません。そしてそれには予告編やチラシ等の解説も寄与しているかも知れません。それは「チャタレー裁判から50周年を迎える今年」といったものです。これは単に日本に於ける猥褻と表現の自由の訴訟事件であって、この映画には何の関係もないこと。でもこういうことを書かれてしまうと、観客の関心はロレンスの小説に必要以上に向いてしまいます。でも今我々がこの映画に見るべきなのは、ロレンスの『チャタレー夫人の恋人』ではなく、パスカル・フェランの『レディー・チャタレー』という2006年のフランス映画なんですね。別の映画を見にいったとき何度も予告編を見せられ、実は自分の中にも、理由は少し違いますが、この作品に対する抵抗感や警戒感がありました。あまりに森の自然、木立や若葉や花々や小鳥のさえずりなどが描かれていて、人間のセックス、ここではコンスタンスとパーキンの性の営みを自然との対比で美化しようという雰囲気が感じられたからです。こういうことを無反省、あるいは低レベルの哲学でやられると、たいてい興醒めします。監督が女性であることもあって、それに対する警戒感も強かった。でも実際に見たら、ギリギリのところで安っぽい世界に堕せずに踏み止まっていました。このパスカル・フェランという監督さん、詳しいことはあまり知らないのだけれど、唯一見ている『a.b.c.の可能性』はなかなか良い映画だった。それ以来10年ぶりの彼女の長編劇映画です。その『a.b.c.の可能性』を見て感じたことの一つは観念的で、頭でかなり論理的に考えていることを映画にしていたこと。でもちゃんと映画らしい映画になっている。今回の自然描写云々のこともそうだけれど、この人はなかなか映画に対する感覚を的確に持っているのではないでしょうか。この映画の見方で一つ重要だとボクが思うのは、上に書いた「ロレンスの『チャタレー夫人の恋人』ではなく、パスカル・フェランの『レディー・チャタレー』」ということ。そして映画の二重構造。監督フェランは、ロレンスの原作に含まれていたことを、21世紀現代のフランス的コンテクスト(これは日本にも共通する)で読み直した。その意味ではロレンスの小説の現代的翻案。しかし物語自体は1920年代のイギリスのものとして描いている。物語の背景になる社会環境とか登場人物の心性・価値観はあくまでも1920年代のイギリスのものとして観なければならない。コンスタンスの性知識の無さや二人のセックスの稚拙さを現代的視点で批判するのは見当違いだ。この現代性と時代性を混同して観てはならないのだと思う。こんなことを書くのは、その混同による作品への無理解や批判を少なからず目にしたからだ。だから表面的には1920年代のイギリスの物語だけれど、実は21世紀現代のフランスの物語でもあるのだ。フランス人がフランス語で演じるイギリスといったあり方に普段なら抵抗感を感じる自分だけれど、今回それがなかったのもそういう理由からだろう。ちなみにコンスタンスを演じたマリナ・ハンズという女優さんは、フランス人の母とイギリス人の父をもった、フランスの女優さんだ。もちろん映画全体の流れすべてが中心テーマであることを語ってはいるけれど、その中で重要な会話が2つある。一つはコンスタンスと夫クリフォードの会話。クリフォード・チャタレー卿は炭坑会社の経営者。妻コンスタンスのいわば社会主義的な疑問に対して、労働者はストをするかも知れないが仕事がなければ生きていけないし、彼らには支配者が必要であるといったことを語る。コンスタンスと森番パーキンの愛を中心に据えた作品にどうしてこの場面(会話)が必要だったのか。ここではクリフォードの階級的考え方が示されるわけだけれど、それは実はそのまま彼の女性観でもあるからだ。ちょっと単純化して言ってしまえば、男性優位社会という体制による、あるいは金による女性支配であると言えるかも知れない。その意味で、そういう体制・思想・金で妻として囲っておきながら、戦争で下半身不随となり、その女性支配を全う出来ないという設定自体をロレンスは意図的に設定したのだろう。なるほど彼の境遇は悲惨なものだけれど、妻とのセックスそのものではなく、彼にとっては実はそのことの本質であるこの「女性支配」を全うできないことが、クリフォードの苛立ちなのだ。そしてこの会話で労働者として語られたことが、実は女性であり妻である自分のことでもあると感じたとき、コンスタンスは夫クリフォードに見切りをつける。そして物語全体としては、見ようによっては単なる不貞妻であるコンスタンスの行動を正当化するのだ。もう一つの重要な会話は、映画最後のパーキンとコンスタンスのもの。コンスタンスは有産階級の出身だから、祖母の遺産か何かを、毎年500ポンドという年金として受け取っていた。500ポンドというのがどれほどの金額なのかはわからないが、パーキンは100ポンド貯金があることも稀であるようなことを言っていた。パーキンは独りを好むタイプの男。仲間と一緒といったことは苦手だ。この設定の裏には普通の男、階級こそ違え女性を支配しようとする男性ではないという含みがあるかも知れない。森番を続けることが出来なくなり、彼の性格には合わない工場や炭坑での仕事をするしかなくなったパーキンに、コンスタンスは自分のお金で小さな農場を買って一緒に暮らそうと提案する。しかし彼の意識、あるいはプライドは、女の金を頼りにするわけにはいかないというものだった。男性優位であろうとするとか、金で女を支配するという意図がなくても、こういう感覚を男性は棄て切れない。もちろん女性にもその意識が残る。これは21世紀的現代のことだ。気が合ってデートをすることになった男女。それは例えば映画を観て、食事をして、その後場合によっては・・・、というのでも良いけれど、男は自分が映画代・食事代・ホテル代を出さなければいけないと思い、女は相手の男性が出してくれるものと思っている。経済活動をして金銭的収入があるのは主に男だけという社会体制なら当然だとしても(しかしその社会を支えているのはクリフォード的思想だ)、女も相手の男のように仕事をもって自活して生活している現代。何故に男だけが費用負担をするのか。それでは結局男は女の性を金で買い、女は自分の性を金で売っていることになるのではないか。コンスタンスの500ポンドの年金は彼女の労働による収入ではなく、単なる生まれの偶然による不労所得だから、仮にパーキンが彼女の提案を受け入れたとしても、ヒモというのとは本質的に意味が違う。そしてそういう支配とか売買とかいったものから離れて、男だけが金を払っても手に入れようとする女の性ではなく、対等である男と女が、互いの拘束や支配もなく、互いに求め合う性の当然性を描いたのが、作品全体のパーキン/コンスタンスの関係なのだ。セックスは男だけのためのものでもなければ、女だけのためのものでもない。両方にとって同じように必要なものだということだ。こういう風に見ると、女性であるフェラン監督による一種のフェミニズム映画、あるいはジェンダー論映画であると言っても良いだろう。女性も男性と同じように働いて自活し、法律など制度的にも男女平等が推進されている21世紀の現代、心理的深層に残る旧制度(男女不平等社会)のしこりのよなもの、その存在による不自由を指摘しているのだと思う。あるいは男女という階級闘争、あるいは性解放、そういうことを美しい純愛物語(コンスタンスの不倫の正当性は既に指摘した)の中に見せてくれた作品だ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.09.11
コメント(6)
2 DAYS IN PARISJulie Delpy101min(1:1.85、フランス語/英語)(桜坂劇場 ホールBにて)女優ジュリー・デルピーの脚本・製作・主演・音楽・編集&初監督作品、面白かったです。表面的にはスケッチが連続するような軽快に進むラブ・コメディーですが、二重構造の作品だと思います。一方では「アメリカ/フランス」というカルチャーギャップがテーマであり、それと重なる形で「男性/女性」と、その愛の可能性/不可能性がテーマ。ここでは男性はジャックというアメリカ人で、女性はマリオンというフランス人だけれど、だからと言ってどちらがどっちということではないと思います。デルピー自身がパリとロスに暮らすフランス女性で、またもちろん男性との恋愛もあるのだから、自身で演じるマリオンという人物は、非常にラフな意味では自伝的人物でもあるのでしょう。マリオンとジャック(アダム・ゴールドバーグ)はニューヨークに暮らすカップル。マリオンは写真家で、ジャックは建築家。2人はある意味倦怠期とでも言うか、ちょっと難しい局面にあったのでしょう。甘~い恋と言えばヴェネチア。そこにリフレッシュのラブラブ旅行を試みる。実際にはピューリタン的潔癖主義のジャックには旧世界たるイタリアでは食事も合わず、ずっとお腹を壊していたらしい。2人はアメリカに帰る前にマリオンの両親の住むパリに、両親に預けてあった猫を引き取るという用事もあって、2日間ほど滞在することにすることにしてやってくる。列車でやってきた2人だけれど、リヨン駅に着いた早々タクシーは行列だし、「テロが危ない」と言ってジャックはメトロもバスも乗りたがらない。タクシーに乗れば窓の外に見えるのはエッフェル塔など絵葉書のパリだけれど、運転手とマリオンのフランス語での会話はジャックには解らない。そう、ここはパリ。中華思想のフランス・パリだから、フランス語を話せば人間。話さなければエイリアンなのだ。いやあ、良くも悪くもこれが一種フランスやパリの現実。フランス語を話せば人々との交流は広がるけれど、話せなければ部外者であって、人間ですらないかも知れない。パリやフランスに旅行してフランスやフランス人に馴染めなかったという日本人観光客も少なくないようだけれど、それはフランス語を話せないからなんですね。2人がやってきたのはマリオンがパリに持つアパルトマン。便利だからと両親の住むアパルトマンの上の部屋をマリオンは買っていたんですね。部屋に入るや雑然としたマリオンの部屋、古い建物で浴室にはカビが生えてたりして、「清潔過ぎるからアレルギーにもなるのよ。昔は寄生虫だらけだったけれどアレルギーなんてなかった」と平気なマリオンだけれど、潔癖過ぎる清潔好きのジャックには耐えられない。「浴室は封印だ」とまで言い出す。ちょうど2人がベッドインしていたとき、管理のために鍵を預けられている母親が、「洗濯物はない?」って部屋に入ってくる。「今着替中だから」とか部屋の奥まで母親が入ってくることは差し止めるけれど、マリオンはもともと別に動じてもいないんですね。一方のジャックは焦っていて、プライバシーがないとこぼす。セックスというのは他人に見せるものではないし、逆にしげしげと観察・覗き見るものでもないけれど、当然の行為だということでしょう。別の映画の中で、父だけかと思って朝子供が父の部屋のドアを開けたら父が母とベッドで抱き合っていた。子供(少女)は「あっ、失礼」って言って、悪びれもせずすぐドアを閉めて去る。そして両親の関係が危ういことを危惧していたその子供は、お父さんとお母さんがベッドで抱き合っていた、って喜んで兄に報告に行く。見るものでもなく、見せるものでもないけれど、当然の行為だという認識ですね。もちろんその行為が単に性欲だけのものではないという前提があるわけです。ある知人(日本人)が、フランス映画とかのラブシーンだと、何の恥じらいもなく女が服を脱いで裸になってしまって、色気もへったくれもなくってつまらないと言うのですが、裸になることを恥ずかしがるというこの色気というのは、実はイヤらしい性欲的要素ではないでしょうか。脱線してしまいましたが、ここでジャックはかなり男性中心主義者として描かれてもいます。その気になった2人がベッドで抱き合い始めるのだけれど、マリオンが上になりたいというのを、ジャックが頑に自分が上だと言い張って、マリオンは「その気がなくなった」ってやめてしまうシーンは笑わせられました。ジャックがアメリカ人であるとかいうこととは無関係に、男女間に存在する究極的行き違いの象徴でもあるように感じられます。この映画に登場するマリオンやその両親、彼女の多数の元カレ、それが多くのフランス人の典型像ではないし、ジャックがアメリカ人の典型像というわけでもない。多分に戯画化、カリカチュアライズされてはいます。でもそんな姿やセリフからは、やはり大西洋を隔てたフランスとアメリカの人々の実像というものが浮かび上がってくる。決して親切に説明的には語られないけれど、その辺を見るのが面白い。最初に書いたようにこの映画では「男性/女性」と「アメリカ/フランス」という2つの2項対立が重なっているのだけれど、ジャックがマリオン→フランス(人)を理解出来ず、マリオンがジャック→アメリカ(人)を理解出来ないとすれば、それはすなわち男性が女性を、女性が男性を理解出来ないという構図でもあるわけです。もちろん舞台はパリであり、デルピーの演じるマリオンというフランス人で女性である人物から見たアメリカや男性なわけだけれど、あるがままの欲求や気持ちを外に出してしまおうというフランスと、潔癖に、ピューリタン的に、何かを決めてしまってそれに従おうとするアメリカの対立かも知れない。マリオンと外出したジャックは、彼女の元カレと次から次へと出会う。ジャックは一度別れた元カノとは決して会わないという。マリオンは既に別れてしまっていても友達づき合いは続けるのは当然だと言う。もちろんそうやってつき合っていれば、今は友人とは言っても、過去形ではなく現在形として一人の男と一人の女であることも事実だ。ジャックのようなあり方をボクはかつて「遮眼帯の貞操」と名付けたのだけれど、自分以外の異性を相手に見せずに自分を選ばせ続けること、あるいは相手以外の異性を見ることなしに相手のみを異性として選んでいること、そこには欺瞞に満ちた安定があるだけなのではないだろうか。それは他国の状況を国民に見せることなく国民を自国の体制に従わせようという何処かの国と同だ。少なくともここでは男と女や、その愛における本質の追求において、マリオンの方がより成熟していることは確かで、ジャックの姿が子供に見えてしまう。冒頭からスノーボールを画面いっぱいに大写ししたのは名画『市民ケーン』のオーソン・ウェルズへのオマージュ。あるいは愛の一つの究極を描いたベルトルッチの『ラストタンゴ・イン・パリ』の引用。それのわかる映画好きをある程度観客に想定してもいるだろうし、また誤解を恐れず思っていることを説明的ではなくどんどんセリフで言ってしまうといいう作り。そこには解ってくれるであろう観客に対する信頼のようなものがあって、あるいは解られなければそれでも良いという潔さが感じられるのだけれど、それもこの映画の魅力かも知れない。映画館でドカ~ンと一発全体を見せられたのは良かったと思っているけれど、今度は(時間があれば)DVDで詳細にセリフなどを検討してみたい作品だ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.07.03
コメント(0)
LA TOURNEUSE DE PAGESDenis Dercourt85min(那覇 リウボウホールにて)クロード・シャブロルにも通じる、伝統的フランスの心理サスペンス映画の佳作。悪口を言うつもりなら突っ込みどころは多々あり、物語的には大きなものは後に残さないけれど、85分の濃密な時間とその余韻は心地よく、またデボラ・フランソワ(『ある子供』)の魅力を満喫した。映画はまず10数年前、本編物語の発端となる状況を描く。メラニーはピアニストを目指していた。寡黙だけれど、情念の少女といった感じだ。この子供時代の主人公をジュリー・リシャレという子役さんが好演している。ピアニストになるべくコンセルヴァトワール(国立音楽学校)の入学試験を母親に連れられて受けに行く。廊下ですれ違った審査委員長で、憧れのピアニストでもあるアリアーヌ・フーシェクール(カトリーヌ・フロ、『地上5センチの恋心』)。メラニーの母親だったか、あるいは別の婦人だったかは見逃してしまったのだけれど、このアリアーヌにサインを求める。でも彼女は「そういう場ではない」と断った。やがてメラニーが試験官の前で一人実技のピアノを弾く。緊張する中、彼女は快調に弾き始めるが、途中で誰かが部屋に入ってくる。本人なのか、誰かに頼まれたのか、アリアーヌに写真を渡して耳打ちし、アリアーヌはそれにサインをする。その様子に演奏を中断してしまうメラニー。サインの女性が出ていくと、アリアーヌは「何で途中でやめたの?」と非難するような言葉。メラニーは演奏を再開するのだけれど、もう心理的に動揺していて、演奏はしどろもどろだ。結果を聞くまでもなく彼女には落選であることが明白だ。練習室のピアノで試験前の練習をする別の少女の手にピアノの蓋を落とそうとする。少女は手を引っ込めるが、ここにメラニーの情念の強さが示される。汚い行為ではあるのだけれど、メラニーは不当に心の動揺を与えられたわけであり、彼女もまたその少女に不当に動揺を与えたに過ぎない。心の動揺と演奏、これは本編の伏線でもある。泣きながら家に戻った彼女だけれど、それは試験に落ちた悲しさからであるよりも、自分に対する悔しさからであり、またアリアーヌに対する恨みからだろう。試験の前日父親、たぶん音楽には無知な肉屋の父親なのだけれど、その父は「試験に落ちても個人レッスンを続けよう」と言っていた。この父は娘が喜びとして弾くピアノが好きだと言う。しかし娘にとってはピアノは喜びであると同時に、そして何よりもピアニストになることは、自己アイデンティティーそのものだったと言っても良い。挫かれた彼女はピアノに鍵をかけ封印する。この辺のメラニーの心理の「何故」は、わかるようでもあり、わからないようでもある。そのことは取り立てて強調されてはいないが、社会の階層区分とか、暗黙の文化的差別のようなものも背景にある感じだ。後半の舞台や彼女が相手とするのは、郊外に大邸宅を構える有名弁護士とピアニストの家庭だ。試験で試験官に傷つけられ、ピアニストになるのを断念したという物語ならば、主人公が文化的階層でも有産の階層でも同じストーリーは可能だ。それを庶民階層、中でも場合によっては蔑視の対象にもなりうる肉屋(同じ自営業でも本屋でも、洋服屋でも、化粧品店でも、美容院でもなく、他ならぬ肉屋)が選ばれている。アリアーヌは少女メラニーを傷つけたことなど気付いてもいないのだけれど、ここには文化的階層差別のメタファーが含まれている気がする。メラニーが大人になってからの話だけれど、三重奏団のチェリストが彼女に無理矢理迫ろうとしたのも、階層的に彼女を軽視しているからではないだろうか。もし彼女がバイオリニストでもピアニストでも、あるいは小説家ででもあったなら、チェリストの男も強・姦まがいに彼女に迫ったりはしなかったのではないかと思うのだ。そして10年だか10数年だかたって、妖艶な魅力を持つ女性へと成長したメラニー(デボラ・フランソワ)。自分の夢を破壊したピアニスト・アリアーヌに近付いていく。最初は研修生として夫ジャン・フーシェクール(パスカル・グレゴリー、『いつか、きっと』)の弁護士事務所に入り、そこでジャンの信頼を得ると、休暇で不在となるメイドの代わりの息子トリスタンの子守りとして、アリアーヌの住む郊外の大邸宅に住み込むことになる。この時点で彼女がアリアーヌに復讐する意図が「本当に」あったのかどうかははっきりとはしない。少なくともその復讐のやり方は、偶然が作用しているし、また物事の進展とともに進んでいく。息子トリスタンが家のプールで何秒間息を止めて潜っていられるかに挑戦しているのを見て、その性格を利用してトリスタンに難曲の無理な速弾きをさせて手を痛めさせようとする。あるいはアリアーヌの同性愛的趣向を知ってそれを利用する。アリアーヌは数年前の交通事故以来、自信を喪失していて、演奏の際に「あがる」ようになっていた。そんなことだってたぶんメラニーは知らなかったはずだ。それを知って彼女は、譜めくりとして彼女を心理的に支えるという役の自分として、アリアーヌの信頼を獲得する。10年前少女のメラニーは心理的動揺でまともに演奏できなくなったのだけれど、まさしく心理的動揺で演奏が出来ないのが現在のアリアーヌだ。それを譜めくりとして横に座るメラニーが支えるという皮肉。つまり彼女のアリアーヌに対する第一段の復讐は、まさに自分が10年前にアリアーヌにされた仕打ちと相似なのだ。物語の筋の不確定性、ここにこの映画の面白さがある。良くある復讐劇のように、最初から復讐者が決まった計画を持っていて、それを実現するという物語ではない。どこまでが計画で、どこからがアドリブで、そしてまた本当に復讐の意志があったのかどうか、恨みを持ちながらも憧れを持ち続けている面もあるのではないか。そういう愛と憎のアンビバランス、あるいは意志と偶然の関係、その不確かさの中で主人公が、結果としてある復讐を実現していくところを描いたのが、この映画の成功なのだと思う。実際に復讐するかどうかは、たぶん最初はメラニー自身にもわかっていなかったのではないだろうか。みなさんにオススメの映画なので、これ以上のネタバレはしないでおく。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.06.27
コメント(2)
HORS DE PRIXPierre Salvadori105min(リウボウホールにて)良く出来た映画で、まああまり関心はない女優さんながらオドレイ・トトゥも素敵で、楽しませてももらったけれど、こんな映画作っていて、あるいは観ていて良いのかな?、って疑問も感じた。タイトルが示す通り、あるいは日本での「お金じゃ買えない恋がある」というコピーが示すように、基本の物語は「お金じゃなくって、愛する気持ちでしょ」ってものなのだけれど、映画自体は一方でお金のあるリッチな生活を、礼讃しているとは言わないまでも、憧れさせるものだ。『モンテーニュ通りのカフェ』でも高級店のショーウインドーの9万円の手袋のことや、クリスチャン・ディオール・パリ・モンテーニュ店のことを書いたけれど、本当のお金持ちの世界が描かれる。それが自分の才能で、努力して、たとえばオゾンの『エンジェル』の主人公のように小説書いて金持ちになったのなら良いけれど、そういう機会均等ではなくって、多くは金持ちの子は金持ちで、生まれた環境で金持ちは金持ちになる場合の方がほとんど。50年ぐらい前のハリウッド映画ならば、憧れを持ってそういう世界を見ることも出来たのだろうけれど、富の極端な不均衡な分配の上になりたったこういうリッチな階級の世界をこんな風に描いていて良いのかな?、と自分は感じないわけには行かなかった。南フランス大西洋岸の高級保養地ビアリッツの高級ホテル、たぶんオテル・デュ・パレだろうか、そこのバーのバーテンのジャン(ガド・エルマレ)。女の魅力で好きでもない年輩の金持ちとつき合い、アワよくば玉の輿の妻に収まろうとしているイレーヌ(トトゥ)。ひょんなことからジャンはイレーヌに金持ちと勘違いされて一夜を過ごした。彼女のことが忘れられないジャンはイレーヌが行ったニースへ向かう。そこでジャンは彼女につきまとうが、無産のジャンになどに彼女は関心がない。それでも全財産をはたいて彼女と一時つき合うが、すぐに文無しになってしまう。そんなジャンにイレーヌが指南するのは、金持ちの年増女の愛人になって優雅な毎日を過ごすすべだった。ジャンの首尾も順調だけれど、2人の気持ちは愛し合うようになっていた。たぶんイレーヌも実は最初のビアリッツでの一夜から。隠れて会う2人だったが、どちらも相手にばれてしまい追い出される。それでも2人は幸せだった。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.06.15
コメント(2)
CHOSES SECRETESJean-Claude Brisseau117min(DISCASにてレンタル)フランスの『カイエ・デュ・シネマ』の2002年ベスト1だが日本観客にはあまり評価されていないようだ。人々がハリウッド映画の見方に染まっているからだと思います。この映画はカウチポテトしながらテキトウに見ては駄目で、じっくり画面や音声に集中して見る必要がある。ある人物からもう一人のリバースショットになって、そして元の人物に戻るとき、前後でのほんの微細な表情の変化などを見落として駄目。まあベスト1が適切かどうかはともかく、入念に作られた映画であることは確か。裸の女がベッドで身悶えしている場面で始まる。画面隅にマントを着たシルエットの人物が暗く写っていて、鷹だか鷲だかを手にしている。ベッドの女の吐息が微かに聞こえ、やがて時計のチクタクという音が支配する。ベッドから起きピンヒールサンダルを履く。流れるのはチクタクに重なってバッハの受難曲の前奏。椅子に行き座る女。突然音楽が途切れ鷹が放たれる羽音。受難曲の合唱が再開され、カメラがパンしてテーブルの客を写し、ストリップの舞台だとわかる。それをバーカウンターの中で見つめるもう一人の女のモノローグ。「私サンドリーヌは新入りのバーテン。この仕事を好きではないが生きて行くため。ナタリーのステージを見ている。彼女に憧れる。自分もああして男たち、そして世界を支配してみたい」。店がひけ残った客の一人がサンドリーヌを買いたいと店主に交渉している。離れて窺っているナタリー。控え室のドアを店主が開けると着替中で下着姿のサンドリーヌ。怒って介入するナタリー。2人とも店主の不興を買い解雇される。給金を貰わないと部屋代がたまっていて帰る家もないサンドリーヌに、ナタリーは家にくることを提案する。こうして2人の共犯のゲームが始まる。ゲームとはナタリーが提示したもので、まずは普通に女が越えようとしない性的タブーを犯そうというもの。ナタリーに勧められてサンドリーヌは翌日から職探しをするが、コネもない彼女は仕事にありつけない。ここのモノローグを聞き逃しててはならない。「ナタリーが私を職探しに放り出したのは、後で回想してみると彼女の計画だったのだ」。この言葉は実は2段階の伏線。一つは女の性を使って男を操り、社会的に伸し上がることにサンドリーヌを誘うため。2人はある会社の採用面接を受けにいく。廊下に何人も面接を受けにきた女がいる。しかし担当者はナタリーを呼ぶ。何故彼女が?、と疑問に感じ、きっと視線のあり方なんだと考えていると、サンドリーヌも呼ばれた。2人は採用となる。ナタリーはシャンゼリゼ本社勤務、サンドリーヌは実務本部のようなところ。ナタリーが指南するのは決して相手に恋をしないこと。映画はサンドリーヌが職場責任者のカデンヌを誘惑し、さらに病気の創業社長の腹心ドラクロワを攻略していく様が描かれる。サンドリーヌは逐一ナタリーに報告するが、ナタリーは何も話さない。一続きの物語だけれど、おおよそ3つの部分に分けられる。第一は普通の女が越えようとしない一線を越えようとナタリーがサンドリーヌを指南し実践する部分。クラブを追い出されてナタリーの家にやってきたサンドリーヌは彼女に以前の恋人のことなどを尋ねられ話す。性は自分の悦びのためにあるとナタリーは言い、最初はベッドのシーツの下で、やがてシーツを剥いで、彼女の見ている前でサンドリーヌに自分でイカせる。翌日から一緒に外出し、人がたくさんいるメトロのホームで気付かれないように下着を脱いだり、コートの下は全裸で街を歩き回ったりするが、後でわかるのはこれはナタリーがある目的にサンドリーヌを使うために彼女の性を解放ないし逸脱させるためだった。第二の部分ではサンドリーヌが職場の上司たちを女の魅力で攻略していく。ややコミカルに描かれる。サンドリーヌは社長の腹心ドラクロワを完璧に弄ぶようになり、自分とナタリーの2人が彼の秘書におさまる。人気もなくなったオフィスで2人がドラクロワと性の行為に耽っていると、社長の息子クリストフが現場を襲う。この辺から先が第三の部分となるが、どうしても以下はネタバレとなってしまう。クリストフはドラクロワを専務室に呼び、「性的不祥事のため辞職し、退職金も辞退する」という書類にサインさせ、それを預かる。会社のためには有益な人材だが、まだ権力を持つ父の腹心であり、クリストフにとっては目の上のたん瘤。彼はドラクロワを意のままにすることができるようになった。ドラクロワがサンドリーヌに語ったようにクリストフは問題性格。会社の創業期まだクリストフが10才ぐらいのとき、父・社長は妻とクリストフと幼いシャルロットを残し1ヶ月アメリカ出張に行った。2週間目に母が急死。クリストフは妹シャルロットの面倒をみることもなく、何も食べず、電話で助けを呼ぶこともなく、ただ母が朽ちていく傍らにいた。それ以来、愛の対象である人(母)が一塊の物であることを思い知った。愛というような精神性、あるいは幻想を持つことが出来なくなった。愛した女を彼は苦しめようとするだけで、これまでに2人の女性が彼の目の前で焼身自殺をした。でもそんなことは彼を動揺させることではない。こんな息子を父は信頼出来ず、また恐れさえ感じていた。クリストフは父の信用を得るための擬装結婚をサンドリーヌに求めた。擬装と言っても正式に。父が死んだら離婚する。レストランでのこの話が済むと、クリストフは2人にトイレの個室で愛し合うよう命じた。5分後に合流すると言ってやってきた彼は抱き合う2人の間に分け入り、ナタリーは無視し、サンドリーヌを激しく突いた。サンドリーヌははじめて男との交合でイッた。無視されたナタリーはもちろん苦しんでいた。こうして最初に女2人が目論んだことはすべて失敗する。感情を相手に持たないこと、イッたふりで男を手玉に取ろうとしたわけだが、今は感情のないクリストフに完全に支配されていた。これは支配・所有の道具として男が目論んだ性的行為であり、形勢は逆転したのだ。ナタリーはドラクロワの秘書として彼の行状をチェックするだけの役割しか与えられなかった。一方サンドリーヌは本社に豪華な執務室を与えられた。ある日執務室の彼女にドラクロワからの電話。彼はサンドリーヌの腕の中で味わった幸せを語り、感情に生きることの幸せを味わわせてくれたと言う。この告白に感情的感動を持てない自分にサンドリーヌは空虚感を感じる。クリストフから電話があり彼女は城に行く。妹シャルロットと3人のディナー。食事の後3人は性の行為を始めるが、シャルロットの後ろにサンドリーヌ、その後ろにクリストフ。クリストフが直前のサンドリーヌを愛撫し、全く同じことをサンドリーヌはシャルロットにする。兄妹の間接的な行為であり、間のサンドリーヌは単なる媒介に過ぎない。ナタリーが侵入して現れ背後からクリストフに迫るが、彼は彼女を突き飛ばし、はね除けるだけだ。教会での2人の結婚式。式を終えて出てくるサンドリーヌは嬉しそうだが、リバースショットで物陰から失意の内に見つめるナタリーの姿がある。彼女は自分に対する制御も、他人の支配もすべて失ってしまった。第二の部分でナタリーが御法度である恋で悩んでいるらしい様子が描かれていたが、観客はこの辺までには最初からナタリーがクリストフを愛してしまい、実は彼女がクリストフに操られていたということに気付くはずだ。彼女はサンドリーヌを使ってこの形勢の逆転を計ろうとしたのだろう。「競争者の中で何故この2人が面接で採用されたのかが不自然」といったレビューも目にするが、それは既にあの時点で(あるいは映画冒頭から)ナタリーがクリストフに操られていたということを見落とした感想だ。この映画の根幹自体を見れていないことになる。説明過剰のハリウッド映画を見るように見ていてはこの映画はわからない。しかしじっくり細部まで注意して見ていると、必要な情報はすべて提示されている。死の象徴である鷲(鷹?)が登場し、サンドリーヌにベッドで自分でさせるナタリーの表情には何かの思惑があることが見え、職探しについては「回想するとナタリーの計画だった」とサンドリーヌに言わせている。オフィスには顔を出さないクリストフがドラクロワと2人の現場に踏込むことだって偶然ではない。城でクリストフは性の饗宴を催した。この場面はちょっとチープだけれど、多数の裸の男女がもつれ合う。レースの幕を隔てた向こうにはシャルロットがいた。クリストフはその側に進むが、サンドリーヌはこちら側に取り残される。そのとき父が死んだ連絡が入る。クリストフを拘束するものはなくなり、サンドリーヌは用済みだ。クリストフはシャルロットを導き愛の行為を始める。彼の合図でサンドリーヌは2人の男に囚われ、地下の部屋に投げ込まれる。淫猥な男たちが多数で彼女を捕らえる。映像は示さないが彼女の激しい叫びが聞こえる。社会的に、人間的に、階層の転落であり、彼女は人でもない無にまで還元されてしまう。人が越えてはならない一線を完全に越えてしまい、クリストフの同類になったのかも知れない。離婚の書類が出来たら送ると言ってクリストフは呼んであったタクシーに彼女を投げ出す。そこに現れたのはナタリー。全身にガソリンをかけ、ライターを手にした。「お前はもともと無だから、死んでも同じことだ」とクリストフが言うと、彼女はポケットからピストルを出して彼を撃った。続けて自殺しようとした彼女に瀕死のクリストフが言う。「死んであの世でまでお前に会いたくないから死ぬな」と。何かを理解したナタリーは残りの銃弾をクリストフに向けて発砲した。ナタリーは死という救済を彼に与えたのであり、また人として生き直すことの可能性を彼は彼女に示唆したのだ。何年かが過ぎたある日、サンドリーヌは夫の財産(つまりはその父の財産)を相続し、巨大なリムジンに乗り込もうとしていた。そのとき近くのメトロの入り口に出所して刑務官と結婚し、子供を連れたナタリーがいた。2人は近付いてキスを交わした。本当の勝者はこうして「人として」幸せに生きるナタリーだった。一方のサンドリーヌは棺か霊柩車を連想させるリムジンに無感動に乗り込むだけだった。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.06.13
コメント(4)
BOY MEETS GIRLLeos Carax100min(所有VHS)この映画ははじめて見たカラックス作品で、この作品自体がカラックスの初長編。たぶん公開からそれほど何年もたっていない頃パリで見ました。『汚れた血』は既に出来ていたけれど『ポンヌフ』はまだだったから1987年か1988年頃で、だから約20年前のことです。それ以来一度も見ることはなかったけれど、いつでも見られるようにビデオを買ってありました。それを今回見たくなって見ました。それにしてもこの映画が好きだという、特別熱心な映画ファンではない女性にこれまで何人か会いました。ボクはこの映画が好きなので、20年ぶりに見るのはやや不安があったほどだけれど、こういう女性たちをボクは実は好きになれなかった。だからこの映画が好きだそういう女性たちが言っても、ボクはどちらかと言えばなるべく話題を逸らそうとした。それは彼女たちの中に一種のスノビズムを感じるからで、そんな人とこの映画について話すのは嫌だった。自分にとってはそんな思いのある映画です。書いている元気はないので、あらすじは含むネタバレでgoo 映画から引用してしまいます。アレックス(ドニ・ラヴァン)は失恋したばかり。恋人フロランス(アンナ・バルダチーニ)は親友のトマ(クリスチャン・クロアレック)のもとに去った。アレックスは壁の絵の裏の「自分史」に新たに書き入れる。「最初の殺人未遂、83年5月25日。グロ・カユーの河岸にて」。一方、ミレイユ(ミレイユ・ペリエ)も恋人ベルナール(エリー・ポワカール)と喧嘩別れした。外に出たベルナールがインターフォンで中のミレイユと話すのを聞きとめたアレックスは、ベルナールの後をつけてカフェで彼のメモを拾う。ミレイユとベルナールにあてたパーティへの誘いだった。アレックスはそのパーティにベルナールの友人と称して入り込み、ミレイヌの姿を追う。すでに彼は彼女に恋してる。キッチンで出会った二人は、とりとめなく話し続ける。ミレイユのアパート。ドアから水がもれている。部屋の中に飛び込んだアレックスが床にうずくまったミレイユの背中を抱きかかえたとたん、ミレイユのセーターの胸に赤いシミが拡がる。ミレイユはその手にハサミを持っていたのだ。この映画を鑑賞するのに映画や文学等の知識はなくても良いけれど、でも実際には引用や暗示の嵐ですね。それはゴダールあり、フィリップ・ガレルあり、コクトーあり、(ルイ=フェルディナン)セリーヌあり、ランボーあり、ヴェルレーヌあり、そしてドライヤーあり、アントニオーニあり、オーソン・ウェルズあり。具体的には例えば、映画ではゴダールの『気狂いピエロ』のシーン。ウェルズの市民ケーン・グローブ(スノーボール)、そして最後の場面はアントニオーニの『さすらいの二人』のあの有名な技巧的な長回しの引用だし。それをやるためにもミレーユの部屋はガラス張りだったんですね。ミレーユのガラス張りの部屋から外を見ているという視線のカメラが前に進んで行って、向かいの家の窓を写し、横にパンしていって、回転して向きを変え、最後は外からミレーユの部屋を見ている視線になる。そして室内では同じように死が描かれている。アントニオーニのような大仰な機材は使えないから、あたかも何もないような全面ガラス張りにしておけば、この場面ではガラスなしで撮ればカメラは自在に外に出られるわけだ。この映画はカラックスのはじめての長編映画なのだけれど、主人公は壁に描いたパリの地図に、○月○日はじめての万引き、○月○日はじめてのキッス、○月○日はじめての殺人未遂等々、人生の「はじめて」を書き記してこだわっている。でも「はじめて」っていったい何なのか。映画的にはゴダールがチャップリンやヒッチコックを引用したシーンを撮り、それをまたここでカラックスが引用する。逆にカラックスの映画から辿っていけば、永遠に最初には行き当たらないかも知れない。この作品は16才ぐらいのときに書いた『デジャ・ヴュ』(既視)というシナリオが元になっているらしいけれど、主人公のアレックス(ドニ・ラヴァン)はミレイユに実際に会う前からインターフォンの会話の立ち聞きという形でミレイユを知っている。つまりパーティーでの出会いは「はじめて」であって「はじめて」でない。そして実はミレイユはアレックスの分身でもある。出会うべくして出会った精神の兄弟ですね。それをゴダールがアンナ・カリーナを撮るごとく、愛を込めてカラックスがミレイユ・ペリエを撮った映画。映画的引用のことを書いたけれど、この映画好きのカラックス青年にとっては、ランボーやヴェルレーヌの詩と同様に、色々な映画も彼の精神を形作る大きな存在。そんなすべてを23才にして全部表現したのがこの映画なのだと思う。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.06.12
コメント(4)
VIVRE SA VIEJean-Luc Godard白黒80min(所有DVD)映画の内容とか原題とかとの関係は考えないとして、タイトルそのものとしては、『女と男のいる舗道』はなかなかの良いタイトルですね。でもやはりこの映画のタイトルは『VIVRE SA VIE』です。「自分の人生を生きる」とか訳されるけれど、「与えられた自らの生を生きる」といった感じです。フランス語の VIE(とか英語 LIFE、独語 LEBEN )を含むタイトルの直訳は難しいですね。生活、人生、生涯、生命等々の意味すべてを合わせた日本語単語ってないんですね。 かつて監督のゴダールは「好きな映画作家を3人挙げて下さい」というインタビューで、「ミゾグチ、ミゾグチ、ミゾグチ」と答えています。今でもそう答えるかどうかはわかりませんが、少なくとも昔は溝口健二が好きだったようです。その溝口健二の1948年の作品に『夜の女たち』というのがあります。ここでは戦後の貧困が原因ですが、もともと堅気の女性が貧困ゆえに娼婦(夜の女)になっていくという物語。病気の小さな子供を抱え、戦死した夫の実家では邪険にされるし、事務員をする会社社長の二号さんになり、やがて街娼となっていく。彼女の場合も与えられた境遇・条件の中で、でもその与えられた「自分の生を生きて」いくしかないわけです。細部を大胆に無視すれば、ゴダールのこの『女と男のいる舗道』と同じだとも言えます。1962年当時にゴダールが溝口のこの作品を観ていたかどうかはわかりませんが、観ていたにせよ観ていなかったにせよ、この『VIVRE SA VIE』はゴダール版「夜の女たち」であり、ゴダールのミゾグチに対するオマージュ的作品になっていると思います。色々なところで「好きな映画ベスト10」とかが話題になります。自分には10本を決定する決断力がないといつも思うのですが、この『女と男のいる舗道』を見ると、いつもこの作品はベスト3に入れて良いなと思います。少し前にオムニバス映画『10ミニッツ・オールダー』を見て、その中のゴダール作品『時間の闇の中で』にこの『女と男のいる舗道』からの引用があり、それでまた見たくなりました(なのでこの文はその感想のようなもので、映画全体のレビューではありません)。決して、全然、明るい物語ではないし、暗いと言った方が良いのですが、でも何度も見たい作品です。(ネタバレになりますが、有名な古典だから良いでしょう)、離婚し、女優志望ながらそれもままならず、レコード店の店員の給料だけでは生活費にも事欠くアンナ・カリーナが、ひょんなことから娼婦になり、最後はヒモであるヤクザのいざこざで死んでしまうという物語。この映画が好きなところは、もちろんアンナ・カリーナの魅力もありますが、やはり内容で、彼女と自分は与えられた境遇が全く異なってはいるけれど、生きるというのは畢竟こういうことだ、ということが描かれた作品だからです。そしてゴダールがカリーナに言わせているセリフが良いんですね。 私はすべてに責任があると思う。自由だから。手をあげるのも私の責任。右を向くのも私の責任。不幸になるのも私の責任。タバコを吸うのも私の責任。目をつぶるのも私の責任。責任を忘れるのも私の責任。逃げたいのもそうだと思う。すべてが素敵なのよ。素敵だと思えばいいのよ。あるがままに見ればいいのよ。顔は顔。お皿はお皿。人間は人間。人生は人生。 監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.06.07
コメント(2)
LA SALLE DE BAINJohn Lvoff白黒91min(所有VHS)ベルギー出身の作家ジャン=フィリップ・トゥーサンが自作を監督した一風変わった映画『ムッシュー』(1990)を以前とりあげました。そこでも書いたように、同じトゥーサンの小説をジョン・ルヴォフという監督が映画化したのがこの『浴室』です。15年くらい前に見て妙に印象に残っていたのですが、安い中古ビデオが見つかったので買いました。監督のルヴォフという人は LVOFF とちょっと変わって名前ですが、ロシア人を父、アメリカ人を母に、レバノンで生まれた人で、アメリカで哲学を学んだ後フランスに渡ってアラン・レネやポランスキーの助監督をやっています。最近作(2005)の『L'oeuil de l'autre 別の人の眼』を見たいと思っていますが、まだ果たせないでいます。この映画には筋といったものは、まったくなくはないにしても、ほとんどありません。『ムッシュー』の主人公はムッシューで、その名前は特に示されてなかったけれど、この『浴室』ではボクで、やはり特に名前はない(演じるのはトム・ノヴァンブル)。原作のトゥーサンは、自伝的的要素がどうのということではなく、ムッシューもボクもそれぞれ小説を書いた時の自分の心象の反映だと言っています。ムッシューがどういう人物なのか良くわからなかったけれど、でもとりあえず職探しをしていた。でもこの『浴室』のボクになるとさらに謎。二人で住むにはかなりリッチな広いアパルトマンに住んでいて、本人にも理由はよく解らないながらもオーストリア大使館のレセプションの招待状が届いたり。でも仕事らしきはしていない。そしてあるときバスルームが快適なことに気付いて、そこに椅子や書物を持ち込み、服を着たままバスタブの中で日がな読書をしたりして過ごすようになる。アパルトマンには画廊勤めらしい美しい恋人エドモンドソン(グニラ・カールセン)と二人で暮らしている。ほとんど会話らしき会話もないけれど、彼女も表面的には不満はなさそう。もうそういう生活が当たり前とでも言うのか。で突然服を脱ぎ始めて「ねえ、今しましょ」って言い出したり、彼女は「ボク」を愛しているようだ。アパルトマンの内装は白で、画面は白く飛ばしたハイキートーンの白黒映像。そんな不思議な静かな世界にいつの間にか見えいる自分は引き込まれている。一種の引きこもりと言って間違いではないのだけれど、外と好んで交流しようとしないだけだ。最初の方で母親が訪ねてきて、やはり浴室のバスタブの中で迎えるのだけれど、いわゆるマザコンというようなことではなく、やはり心理的には甘えに近いものがあるかも知れない。恋人エドモンドソンとの関係にしてもそうだけれど、自分がしたいことだけをして、あとはしようとしない。二人が朝まだベッドにいるときにベルが鳴るのだけれど、玄関に出ようとはしない。彼女がそうしたいなら「ボクもお伴をするよ」と言う。いつも自分が何かをするのではなく彼女のすることの「お伴」をするのだ。バスタブというのは周囲を囲まれた籠りの空間であり、まら直線や角などのない曲線に囲まれた空間だ。2人は入れないから自分一人だけの親密な籠り場所。もちろん子宮へのアナロジーもあるだろう。そんな生活なのだが、エドモンドソンが画廊で知り合ったのか、彼女に台所のペイントを頼まれたと称した2人のポーランド人画家がやってくる。そのなんとも気遣いのない傍若無人なふるまいに生活のリズムを乱されたボクはある日一人パリ・リヨン駅から南に向かう。イタリアらしいある町のホテルでの独り暮らしを始める。やがてそこがヴェネチアであることがわかるのだけれど、彼は美術館にも街並にも興味はない。ホテルに籠ってロビーのテレビでサッカー中継を見たり、部屋でダーツをしたり、読書をしたりの日々。何日かしてエドモンドソンが恋しくなり、ヴェネチアにいると電報を打つ。やがて彼女からかかってくる電話を毎日待つ日々となる。毎日電話で彼女の声を身近に感じることが必要なのだ。やがてヴェネチアにやってくるエドモンドソン。彼女はヴェネチア訪問で美術館やらムラーノ島を観光したりするのだけれど、ボクは最初は彼女につき合っているものの、やがて疲れて一人ホテルに帰ってしまう。ボクの求めるのは彼女の存在を側に感じていることであり、彼女と何かをすることではない。この映画の設定自体はやや非現実的でもあるのだけれど、何かを考えるにはそういう設定も必要である場合がある。人間には生存本能があるから、普通我々は雨風や寒さから身を守るための家、快適な柔らかいベッド、空腹を満たす可能なら美味しい食物、寂しさを紛らしてくれる近しい人、性的欲求を満たしてくれる恋人や配偶者、そういうものを必要とし、その実現のために仕事をして金を稼ぐ。普通はそういうことが現実的に映画の背景として描かれるけれど、そしてそのような人の生を描くことが映画自体だったりするのだけれど、この『浴室』のボクはそのすべてが既に満たされている。金を稼ぐための労働の葛藤もなければ、二人の関係を維持するための彼女との気苦労が描かれることもない。その上で人が生きるとはいったいどういうことなのか。これは現実的な日常の気苦労があったとしても、根底には人がみんな持っている問題なのだけれど、それを考察するために、その部分だけを純粋培養した映画とも言えるわけで、その意味で哲学的な映画でもある。普通の映画では人との関係性が大きなテーマとしてあるから、描かれるのは個人の孤独の問題だったりする。しかしこの映画で感じたのは孤独よしも、生きることの不条理であったり、寂しさのようなものだ。先に挙げたような生活の諸条件に我々は汲々としているけれど、それ以前に、あるいはそれを考えなくてよいとき、いったい人は何故生きるのか?、という問題だ。こんな映画だからと言って、小難しいわけではない。感じることの一つは、人々が普段当たり前と思って行動していることに対する疑問のようなものだ。そして妙にコミカルであったりもする。ボクはある本の一節を英語で朗読する。エドモンドソンは「それ誰?」と尋ねると、「パスカルだ」とボクが答える。フランス人がフランス人にフランスの思想家の本の英語訳を読んで聞かせていたのだ。あるいは笑ったのは、パジャマのシーンだ。エドモンドソンが風呂から裸で出てくると、ボクは既に寝室のベッドにいた。エドモンドソンはボクのパジャマのズボンを見つけ、「ズボンはかなかったのね」と言って、ボクのパジャマのズボンをはいてベッドのボクの横に入る。ボクは毛布の下だから上半身しか見えないが、彼女がはいたパジャマのズボンのシャツの方を着ている。ベッドに入った彼女は毛布を持ち上げてボクの下半身部分を覗きこむのだ。ヴェネチアでのその後の出来事と、またパリに戻ってからの部分は書かないでおく。そう言えば映画中程でボクは夜中に一人でライターの火の明かりを頼りにホテルの中をさまよい、そして最後に運河べりに出る。白基調の映画の中で唯一黒が基調のシーンだ。ボクの髪型が短い髪をきっちりとなで付けたものであることは引用写真からもわかると思うが、痩せた体型といい、その姿はベルイマン映画のマックス・フォン・シドーをちょっと思わせるのだけれど、このライターの火でホテルをさまよう映像は、ベルイマンの『狼の時刻』の明らかな引用ないしオマージュではないだろうか?。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.06.06
コメント(0)
FAUTE A FIDELJulie Gavras99min(桜坂劇場 ホールBにて)主人公が9才の少女というのもあるけれど、愛らしい作品。2人のジュリーのこの映画、とっても良かったです。2人のジュリーとは監督のジュリー・ガヴラスと主演格の女優ジュリー・ドパルデュー。1人はフランスの名優ないしフランス映画界を牛耳る俳優ジェラール・ドパルデューの娘。監督の方は1970年前後に『Z氏』、『告白』、『戒厳令』の政治三部作を撮り、その後の『ミッシング』で今の日本の観客にも少し有名なギリシア出身のフランスの映画監督コスタ・ガヴラスの娘。父コスタの作品の優れているところは、政治性のある社会派の映画なのだけれど、非常にエンターテーメント性があって、一般観客が十分に楽しめる作品であること。その意味ではサスペンス性があってストーリー展開から目を離せない『Z氏』はやはり傑作でしょう。イヴ・モンタン、ジャン=ルイ・トランティニャン、ジャック・ペランの名演に加えてラウル・クタールのカメラも素晴らしい。アメリカの(特に南部の)人種差別問題を扱った『背信の日々』というのも良い映画ですね。デブラ・ウィンガー、トム・ベレンジャー主演の米映画で、黒人狩り(黒人を森に逃がして白人が銃で撃つゲーム)など南部アメリカの暗い実態を描いているけれど、ロマンスがらみの物語となっている。娘ジュリー・ガヴラスのこの『ぜんぶ、フィデルのせい』は、扱っているテーマや切り口が違うけれど、やはりエンターテーメント性のある(父以上に)中に社会問題を描いていて、37才という年齢差と男女の違い、そしてギリシア生まれとフランス生まれの差はあるけれど、娘ジュリーは父コスタの跡を継いでいるかも知れない。そしてそのことが、実は結果として、この映画のテーマの一つとも深く関わっていると感じました。実はボクはこのコスタ・ガヴラスの最近の作品は見ていないのだけれど、それは一種の世代感覚の問題かも知れない。『Z氏』等政治三部作は1969~1973年で、だからリヴェットやゴダールの作品なんかもそうだけれど、時代に一種政治的雰囲気があった。時代が変化してしまい、だから『Z氏』等の三部作も今観るには、いわば時代遅れ感があるのかも知れない。なのでDVD等も現行盤がなかったりでレアものでプレミアがついてしまっている。例えば2001年の『アーメン』(ホロコースト/アドルフ・ヒットラーの洗礼)など、見れば良い作品なのだろうけれど、ナチによるユダヤ人ショアに対するバチカンの日和見を批判した映画にはあまり積極的に食指が湧かない。真面目な映画だろうけれど、やはり1933年ギリシア生まれで、それこそアンゲロプーロスの『旅芸人の記録』の時代をギリシアで生きてきた人の感覚なんですね。そう思っています。その点で娘は1970年パリ生まれで、ボクよりは少し若いけれど、父コスタよりは時代感覚を共有できる。この『ぜんぶ、フィデルのせい』も1970年頃が舞台だけれど、社会に対する視点は21世紀のジュリーのものなんですね。9才のアンナ、父はスペイン貴族出身の弁護士、母はボルドーのワイン農園主のブルジョワの娘で、雑誌『マリークレール』の記者。パリで庭付の家に住んでいるのだから、とっても裕福ですね。通っているのはカトリック系ミッションスクールのお嬢様学校。家にはもちろん住み込みのお手伝いさんがいて、アンナは9才ながらデザートのリンゴやオレンジの1個まるまる皮付きのを、ちゃんとナイフとフォークで皮を剥いて食べる。こういうい「優雅な」生活はアンナにとって当たり前で、彼女はそれを愛し、誇りにも感じている。ところがスペインで反フランコの活動をしていた叔父が殺され、叔母と従姉妹がフランスへ逃げてきた。そんな叔母と従姉妹がアンナは疎ましいのだけれど、叔母の話を聞いた父(ステファノ・アコルシ)は、自分が政治や社会に無関心で過ごしてきたことに自戒の念を持ち、母(ジュリー・ドパルデュー)と民主化で揺れるチリに旅行に出る。そして帰ってきた両親は共産主義者になっていた。17才とか18才の若者が正義に燃えて政治的活動にかぶれるというのはよくあるけれど、この2人にはそれがなかった。2年前の五月革命のときも傍観していただけなのだろう。辛辣に言えば、そういう「経ないできて」大人になってしまった2人の、遅ればせながらの政治かぶれと言っても良いかも知れない。両親は反政府民主化運動で揺れるチリの「同志」への支援の活動に身を投じ始める。家族はもっと質素な家に移り、革命でキューバにいられなくなってフランスに逃げてきた反共のお手伝いさんは解雇し、家は活動家・革命家の活動の場になった。アンナにとっては、今までの弟を含めた家族4人の愛していた生活がなくなってしまう。ミッキーマウスさえアメリカ資本主義の産物として奪われてしまう。解雇される前の会話からアンナが理解したのは、この受け入れ難き状況は「すべて、フィデル(カストロ)のせい」だということだ。自分に突き付けられる両親(大人)の理不尽に対する反抗と、だんだんに色々理解して成長していくアンナを映画は描いているのだけれど、その辺のことはたくさん書かれてもいるようだから、少し別のことを書いてみたい。一つは上の方で書いたこと。ジュリー・ガヴラスがこの映画を作ったこと自体がこの映画のテーマと関係しているということだ。1970年生まれのジュリーにとって、『Z氏』等三部作は生まれた頃の過去の父の作品だった。彼女は1982年に『ミッシング』ではじめて父の映画の意味がわかり、インパクトを受けたと言っている。そのとき彼女は11才だった。映画のアンナの物語は監督の物語かと問われた彼女は否定している。家に父が人を匿うことはあったらしいが、家や生活はむしろ良くなったと言っている。しかし彼女は11才でチリのクーデターを描いた父の『ミッシング』を観てインパクトを受け、やがて大人になった彼女は原作小説にはなかったチリ問題を自分の映画に入れることになる。普通の家庭に育てば、11才で『ミッシング』を観るということも稀であろうし、もちろん『ミッシング』という映画を父の生き方との関連で観ることはない。直接、間接、場合によっては逆接的に、子供は一緒に住んだ親の影響を受けるということですね。この映画のアンナのあり方は、理解しようとし、納得できないことには反発をする。しかしだんだんに彼女なりの理解をするようになり、学校での従順な羊さん云々のやり取りでシスターの先生の言うことに反発を感じたアンナは退校して普通の小学校に転校することを選ぶ。両親が政治活動を始めていなかったとしたら、そういうアンナはいなかっただろう。同じように父にコスタ・ガヴラスを持たなかったら、こういう映画を作るジュリーはいなかっただろう。だから、ジュリーとアンナの何処が散文的事実として共通しているという意味ではなく、やはりアンナはジュリーの分身でもあると感じる。ミッションスクールでシスターの言うこと、政治運動家の両親が言うこと、そういうことに影響されながらも、自分でものごとを判断していくべきことを語っているように思う。父の出自を知るべくスペインの父の伯爵家への旅行を希望し、アンナは自分の目で見て確かめようとする。そしてそれとも関係することだけれど、21世紀の現代に生きる我々にとっての意味だ。このアンナの両親のあり方っていうのは、まあわかるのだけれど、一面中途半端でもある。小さな家に住むようになったとはいえ、でもスペインにあるであろう資産はそのままだし、車も高級車だし、人助け的面はあっても女中使っているし。共産主義だ、富の公平な分配だと言っても、基本はブルジョワの生活を完全に捨てるものではない。この辺は21世紀に生きる我々の問題でもある。世界の貧困や飢餓の問題を云々しても、毎日の生活では快適な家に住んで、美味しいものを食べている。そしてその背景には、『ダーウィンの悪夢』のような問題がある(この映画を素直に受け取るとして)。それはハネケの映画の多くに含意されていることでもあるのだけれど。究極を追求すればパゾリーニの『テオレマ』の父親のようになってしまうのだろうし・・・。全くの余談だけれど、桜坂劇場にボクは平日の昼間行くことが多い。それもお客さんが少ないであろうからの会員割り引きデーである月曜日や、スタンプ倍押しデーの水曜日になるべく行く。だから、首都圏のように人口がひしめいている那覇ではないし、たいてい空いていることが多い。ボクの指定席は大中小3つあるどのホールでも最前列の中央の座席。この映画館は最前列からスクリーンまである程度距離があるので、観るにさほど不都合はない。でも最前一列目に相客がいることはほとんどない。ところがこの映画を見たとき、ボクは上映開始ギリギリに行ったのだけれど、最前列中央の席の一つ左隣に先客がいた。ボクは1席空けて中央座席の一つ右隣に座った。帰りに良くその人を見たら25才くらいの小太りのオタッキーな感じの男性だった。これってきっとロリコン系の観客だったんでしょうね。撮影当時8才か9才のニナ・ケルヴェル嬢、そういう目で見てもなかなか魅力的な少女でした。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.06.03
コメント(4)
ODETTE TOULEMONDEEric-Emmanuel Schmitt100min(桜坂劇場 ホールAにて)一昨日の日記にも書いたように6月、7月の桜坂劇場は見たい作品がめじろ押しなのですが、たまたま空いた時間に見られたのがこれなので見ました。『ラスト、コーション』も見たかったけれど、15分ぐらい開始時刻に間に合いませんでした。この映画は一見たわいもない素朴な娯楽映画なんですが、監督(脚本)がエリック=エマニュエル・シュミット。この人はフランスでも重要な作家・劇作家・舞台演出家なのだけれど、出身はかのエコール・ノルマル・シューペリユールで、哲学のアグレジェ(高等教育教授資格取得者)でもある。つまりアンリ・ベルグソン、エミール・デュルケーム、サルトル、メルロー=ポンティ、ルイ・アルチュセール、ジャック・デリダ等錚々たるたる学者・思想家と同じ経歴を持つ大秀才なわけだ。ちなみに学位論文は「ディドロと形而上学」で、偶然にも先日のリヴェットの『修道女』のディドロです。舞台はベルギーのシャルルロワ。シャルルロワと言えば1~2年前に荒木経惟の写真展のポスターが事件になった、ベルギー南部ワロン地方の20万都市で、言葉はフランス語。監督のシュミットはリヨン生まれのフランス人だけれど、現在はベルギーのブリュッセルに住んでいるんですね。フランス語圏のベルギーというのは、やはりフランスとは雰囲気が少し違っていて、だからただ住んでいるからというだけではなく、あえてこの地を監督は舞台に選んだのだと思います。やや古風な人々を主人公にしたかったのかも知れません。主人公のオデットを演じるのはパリ生まれの女優カトリーヌ・フロだけれど、仮に地方住まいにするとしてもフランス人としてしまってはやや純朴過ぎるか、田舎臭過ぎるのでしょう(荒木の写真がスキャンダルになるというのも、都会的に擦れてないということでもあります)。そのオデットは10年前ぐらいに愛する夫アントワーヌ(だったかな?)が死に、今はデパートの化粧品売り場で店員をしている。映画のチラシ等の解説には「(オデットは)ささいな事からも幸せを見付ける天才だ。」とか「何が幸せかを知っているからこそ欲張らなくても生活を喜びで満たせるオデット。」とかあったのだけれど、それを読んで想像していたのとは、自分としてはかなり印象が違った。そうした解説が間違いだとは言わないけれど、彼女の幸せとは、ボクの目には甘受・忍従・逃避の上に築いた幸せのように見えた。そういう意味で、この映画は人生の精神的指針を見失っていた作家バルタザールの、オデットとの交流による再生の物語であると同時に、オデットの心の解放の物語でもある。最初から幸せだったオデットが、更なる幸せを得る物語として見てしまうと、作品を浅薄なものにしてしまう気がする。オデットの最大の楽しみはバルタザール・バルザン(アルベール・デュポンデル)の小説を読むこと。映画のズルいところはこの作家の作品がどんなものであるかは映画の観客にはわからない。ただオデットがその代表である、無教養で無学な庶民の女性にばかり受けるものらしいとわかるだけだ。原題は彼女の名前「オデット・トゥールモンド」なのだけれど、トゥールモンド Toulemonde とは tout le monde で、フランス語で「みんな everybody」という意味だ。ちなみにオデットの方は、映画の中でバルタザールが「オデットって、プルーストの作中人物オデット・ド・クレシーの名だから、良い名前ではないですか。」っというセリフのための命名だろう。そういう意味ではアルベルティーヌでも良かったのかも知れない。でもトゥールモンドとつなげると語呂が悪過ぎますね。映画のオデットはプルーストって言われても知らない。マルセル・プルーストっていうのは、20世紀前半、あるいは20世紀全体での最大の文学的作品である『失われた時を求めて』を書いた人。でも彼の『失われた時を求めて』は知識層やインテリぶりっこにとってこそ高い意味のある作品とも言える。そういう意味で、トゥールモンドという彼女の名前は普通の大多数の「みんな」である大衆を象徴するものであり、一方バルタザールがプルーストに価値を置くというのは、バルタザールに代表されるインテリ・知識層の象徴でもあるわけです。このバルタザールは監督シュミットの分身的ところもあり、この物語にはそういう(かなり脚色はあるものの)監督シュミットの人生をモデルにもしているらしい。最初の方に書いたようにシュミットという人は、エコール・ノルマル・シューペリユール出の哲学アグレジェというインテリ中のインテリ。そんな彼は劇作とその上演が中心なのだろうけれど、大衆から離れた知識層のための芸術の意味とか、逆に大衆的なものをやれば知識層である批評家からは低く見られるということ、そういうことに疑問を感じて悩んだのではないでしょうか。そういう葛藤が作中のバルタザールの悩みなのだと思います。インテリは大衆の知的程度や知的関心の低さを(内心)バカにしているけれど、大衆の方はそんなことを気にもせずに黙々と自らの人生に幸せを見付けてそれを享受しようと生きている。この対比が、この映画のメインテーマの一つなのだと思います。オデットの方のことを書くと、彼女の最大の幸せは、実人生ではなくて、バルタザールの本の世界。つまりは本の世界に逃避しているんですね。バルタザールを好きだとか、愛しているとか言っても、もともとは本の著者としての見知らぬ、あるいはサイン会でほんのちょっと接するだけの人。そんなバルタザールに書いたファンレターがキッカケで、指針を失い自殺未遂までした作家本人と知り合うことになって、そんな彼が彼女に迫ったときも、「10年前に死んだ夫がまだ心にいる」とか、「しょせんは住む世界の違う人(知識層と大衆)」と言って拒否するわけだけれど、これも逃避ですね。10年前に死んだ夫をまだ愛しているというのは、その逃避を正当化するための「美しい口実」になるわけです。上に書いたように逃避であり、甘受・忍従が基礎にあると言ってもよい。ジョゼフィン・ベーカーの歌をいつも楽し気に歌っているオデット、あるいはふわふわと舞い上がってしまうオデット。後者は芝居の人であるシュミットが監督初作品として芝居では出来ない表現を用いたのだろうけれど、どちらもオデットの幸せそうに生きる様子を表すと同時に、逃避や地に足の付いていないことの表現でもある。またジョゼフィン・ベーカーという人はフランスで活躍したアメリカ黒人(ハーフ)出身の歌手だけれど、彼女は「私は舞台で野蛮人をやらされたから、私生活では文明人であろうとした。」という有名な言葉を残した人であり、この「野蛮人」を「無学な大衆」、「文明人」を「知識層」と読み代えれば、シュミット監督にとっては映画の内容をも象徴するとは言えないだろうか。映画の中に、本題とは無関係にキリストもどきが登場する。姿・容貌はまさにイエスその人のようであり、オデットも御近所さんとして「キリストさん」とあたりまえのように呼んでいる。近所の子供(だったかな?)の足を洗い、水面を歩いたり(実は水面と言っても深さが数センチしかない)、ゴルゴタへの道を彷佛させるように十字架ならぬ巨大な角材を背負って歩いていたり、イエス・キリストへの暗示であることは誰の目にも明らかだ。監督シュミットの著作を読んだことも、芝居を観たこともないが、解説によれば彼の宗教観は、以前の不可知論からキリスト信仰に変化したらしい。大仰な信仰心とか教会とかいうことではなく、人々の世界の中にキリストは存在するというような感覚なのかも知れない。色々な意味で何処となくアンバランスな映画だけれど、なかなか味のある作品だった。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.05.29
コメント(2)
FAUTEUILS D'ORCHESTREDaniele Thompson106min(那覇・桜坂劇場にて)自分は単なる映画ファンで、映画評論家やライターではありません。でももし自分がそういう職業だとしたら、そして特にパリに住むフランス人だとしたら、この映画を酷評すると思います。内容があまりに皆無ですね。フランス語で言うところのいわゆる cliche(紋切り型)以外に何の表現もありません。でもまあ日本に住むフランス(特にパリ)好きの自分は、そこそこ楽しませてもらいました。この映画を見終わって、「これって何かに似てるな?!」って印象がありました。何だろうなと帰り道歩きながら思いあたったのは、テレビの連続ドラマの最終回です。1クール12回のドラマがあると、いちばんの山って11回目であることが多い。せいぜいが第12回最終回の前半でしょうか。その後は、ドラマ(劇的展開)は終了してしまっていて、脇に登場した人物たちも含めて、その後彼らはこうなりました(こうなります)よ~、ってのを親切に視聴者に教えてくれる。女主人公に振られたあのお人好しの男はどうなったの?って疑問に、結局あっちの女性とくっついて幸せにしています、みたいな感じの アレ です。わかっていただけますよね。この映画は群像劇で、何人かの人物が描かれるのだけれど、連続テレビドラマなら最初の11回で描かれることと、最終回ラストの後日談的ことを、106分に入れてしまったという感じです。最終回をメインに据えた総集編と言っても良いかも知れません。1人や1カップルの物語ならば良いけれど、ピアニスト夫妻、老蒐集家親子やその愛人、テレビドラマ女優、主人公と祖母、劇場の老係員等々、そんな10人もの人々を描こうとすれば、これはもう観客誰でも観る前から知り尽くしている人生の感慨とか、つまりは cliche(=紋切り型)に頼るしかない。監督のダニエル・トンプソンという人は脚本家としては有名・有能で、タケラ、ピノトー、ドレー、シェロー等有名監督とも仕事している女性で、『ラ・ブーム』なんかも書いてます。だからと言うのも妙だけれど、この映画の本も良く出来ている。地方都市マコンからパリに出て来た主人公ジェシカ(セシール・ド・フランス)を、彼女の祖母の語るかつての物語とダブらせておいて、彼女が働くことになるカフェ・デ・テアートルに集まる人々の人生を言わばジェシカを狂言回し役として描き、そして彼女をその中の1人物である蒐集家の息子とくっつける、その構成は本当にお見事。でもそれは構成についてであって、内容は既に書いたように希薄。しきたりではなく本当に音楽を聴いてくれる人のために演奏したいと思って病院で慰問演奏するピアニスト。彼はコンサートで突然ベートーベンの『皇帝』を中断して燕尾服を脱いでTシャツ姿で演奏を続ける。終わって大喝采の会場。おい、おい、おい、おい、安っぽ過ぎるだろう、この展開!!!!。(夫ピアニストのマネージャーをする奥さん役のローラ・モラントという人、美しかったな~、特に目が!)。テレビドラマ女優で満足し切れていない女優が、サルトルとボーヴォワールについて陳腐なことをシドニー・ポラック演じる映画監督に熱く語って、それで彼女をボーヴォワール役兼共同脚本家としてスカウトする展開。あれ、あれ、あれ、あれ、ちょっとやめてよ!、観ている方が恥ずかしくなる。わかり切った人生の喜怒哀楽を群像劇だから深く考察することなしに描き、その内容の浅さは味のある名役者をたくさん登場させることで誤魔化す。そんな名役者としてクロード・ブラッスールやヴァレリー・ルメルシエが共通しているけれど、『輝ける女たち』にも似た作りかも知れない。この映画の中でも地方都市から出て来たジェシカが高級店のショーウインドー見て歩くシーンで、手袋550ユーロ(約9万円)なんて表示されていた。シャンゼリゼのロンポワンからこのモンテーニュ通りをアルマ広場に向かって下りて行くと、ちょうど中程フランソワ・プルミエ街を越えた辺りの左側にディオールのブティックがある。そこはある意味世界のファッションの中心と言ってもよい。そんな場所に「やむなく」一度だけ足を踏み入れたことがある。ディオール製品を置いている何軒かの店にはないもので、「それは Chez Dior に行かないと」と言われたのだ。店内は正に映画の世界。映画に出てくるようなホンモノのお金持ちの方々が御買い物。季節はちょうど春前でまだ寒かったのだけれど1千万は下らないだろうフォックスのコートをお召しの高級蓮っ葉お姉様、直径2cm近くあるから20カラットはあるだろうダイヤの指輪をされた奥様、制服を着た運転手さん運転の高級車で御来店のお客さま。そういう世界だ。そんなお金持ちの世界とは自分は無縁なのだけれど、それはそれとして、冒頭に書いたことだ。そんな駄作映画を何故に楽しむことが出来たか。平凡な、無内容の、 cliche(=紋切り型)ばかりの、名役者の存在自体に頼った映画であるからこそ、逆にフランス人の、あるいはパリの生活感のようなものが感じられるのだ。それが描かれているというのではなく、それを知っていると懐かしく思えるのだ。だから現在パリに住んでいないからこその郷愁だ。そういう意味で楽しませてもらった。主に外国人の描いた『パリ、ジュテーム』などより、もちろんデフォルメされていて本当にリアルな世界ではないけれど、パリが本当にパリらしかった。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.05.25
コメント(6)
SUZANNE SIMONIN LA RELIGIEUSE DE DIDEROTJacques Rivette141min(所有VHS)以下は前日の日記からの続きです。そちらから先にお読み下さい。時代物は苦手な自分です。何故なら何かしらの嘘っぽさを感じてしまうからです。SFはイマジネーションの世界だから可です。そういう意味で篠田正浩の『卑弥呼』は、作品の好き嫌いや評価とは別に、違和感がありませんでした。考古学的歴史学的見地から(時代考証的に)卑弥呼の時代を描こうというよりも、SFにも近いイマジネーションの世界でした。でこのリヴェットのこの『修道女』なんですが、18世紀革命前のフランスが舞台ですが、苦手な違和感を感じなかった。でどうしてかな?、って考えてみたら、この映画は実は現代劇だったんですね。リヴェットの作品に良くあるように、最初に「トントントントントントン・・・、トン・・、トン・・、トン・・」という、フランスの劇場で幕が上がる前に舞台を棒や槌で叩く音が入っていて、お芝居でもある(もともとこの脚本の原形自体が戯曲)。そしてほとんどが室内で、馬車の走る街の様子とかは出てこない。修道会というのは21世紀の現代(あるいは映画製作当時の1965年)にも存在しており、そこでの生活や衣装(法衣)は250年前も今もほとんど変わっていない。法制度、社会環境、信仰のあり方に違いはあっても、現代の修道院を舞台にした映画を作っても見かけもほとんど変わらない。その意味でもこの映画は現代劇として受け入れやすい。諏訪敦彦の『H story』という映画もあったけれど、2000年前後の我々には、たかだか半世紀前終戦直後の心性を演じることすら困難なのだから、何世紀も前の心性を演じたり、演出などできはしないということだ。だからこの映画は、時代設定は(製作時に)200年前だけれど、1965年の現代の物語として見られるし、見るべきものだ。(そろそろ以下少しネタバレ)シュザンヌは敗訴したものの、弁護士マヌリや事態収拾にやってきたセルファン神父も、彼女のあり方に共鳴をしていた。同情ということもできるし、それはある。しかしただ体制の現状に安住しているのではなく、そこに欺瞞や疑問を感じている2人らにとって、シュザンヌの行動はそれらへの戦いなのだ。決して簡単に勝つことは無理な戦いだけれど、だから自分の現在を守るために自分は卑怯にも、あるいはより現実的に、行動には移さないけれど、そんな彼女にかかわることになれば、ただ見殺しにはできない。だから、その辺の誰彼や経緯は詳述されないが、たぶんこうした有志たちの応援で、彼女が別の修道院に移るための持参金を調達したのだろう。彼女は宿敵クリスティーヌ新院長のもとを離れ、別の修道院に移ることになる。クリスティーヌは肉体的苦行の復活、聖書を読むことの禁止など、独善的なやり方、今風に言えば原理主義をふりかざすような形で修道院をやっていこうとした。(ちなみにカトリックの信者指導というのは、聖書を読むのは教会が独占し、信者には聖書は読ませず、勝手な解釈をさせないというものだ。聖書は教会が「正しく」(都合良く?!)解釈し、その結果を公共要理(カテシスム)や説教で信者に強要する。ルターが宗教改革で聖書のドイツ語訳をしたのもそういう意味があった。ラテン語では一般の信者は聖書を読むことはできない)。まあクリスティーヌの独善的なやり方は、そういうことよりも、器の小さな彼女が全修道女を支配するための方法だったのだけれど。ところが新しく移った修道院でシュザンヌを待っていたのは全く違う環境だった。到着したシュザンヌを笑顔で嬉しそうに迎えた修道院長は「とっても綺麗な人ね」と洩らす。そこは若い修道女たちが「きゃっきゃっ」騒ぐような明るい雰囲気だった。連れて来た親父など無視して、院長はシュザンヌをテーブルに着かせ、御馳走に招く。シュザンヌにクラヴサン(=チェンバロ=ハープシコード)を弾かせ、歌声を披露させ、院長はシュザンヌに優しくする。自分にクラヴサンのレッスンをして、と彼女に妙に近付いてくる。そんなシュザンヌに若い別の修道女は嫉妬の感情をあらわにする。彼女は院長の寵愛を受けていた修道女で、実はここは同性愛の世界だったのだ。(女子修道院における同性愛の批判は、そういえば『小さな悪の華』にも描かれていて、そしてこの映画も上映禁止になった作品だった。ちなみにこの『修道女』では同性愛は仄めかされるだけで実際には何の性的シーンもない)。そんなことには気付かない純情なシュザンヌなのだけれど、ある日告悔(懺悔)を聞きにきたルモワーヌ親父は彼女の話からそれを察し、彼女に院長を避けるようにと忠告する。しかしそのことでルモワーヌ神父は院長の不興を買い、担当を外されてしまう。新しくやってきた聴罪親父モレル。モレルは自分も召命を持たずに聖職につかされたことなどを語るが、シュザンヌがここで言うのは、知らない方が良かったかも知れないことに気付いてしまったといいうことだ。この「知らない方が良かったかも知れないこと」とはいったい何のことであろうか。この新しい修道院は、シュザンヌの求めた「外の」「自由の」世界ではないけれど、快適な環境だった。しかしその快適な世界とは、罪なしではいられない世界だった(とりあえず同性愛=悪としておこう)。また愛情の三角関係として描かれてはいるけれど、院長の寵愛を失ったかつての愛人である若い修道女の不幸の上にしか、シュザンヌの幸福は成り立たない。そしてそれは、例えば植民地との関係、ベトナム戦争、そういう20世紀世界の中の西欧人というメタファーではないだろうか。つまり理不尽な支配に屈した不幸か(最初の修道院:ベトナム人、アルジェリア人)、他者の不幸の上にしか成立しない幸福(2番目の修道院:アメリカ人、フランス人)しかこの世界にはあり得ない。そのどちらでもない世界を求めて彼女は修道院を脱走することになるけれど、彼女がそこで接するのは、洗濯屋での人々の社会に対する無関心(体制に対する妄信)か、金の支配する欲望の世界なのだ。ディドロの原作がフランス革命前の気分を秘めているとするならば、この映画は数年後に勃発することになる五月革命の気分を孕んでいるのかも知れない。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.05.23
コメント(3)
SUZANNE SIMONIN LA RELIGIEUSE DE DIDEROTJacques Rivette141min(所有VHS)というわけでジャック・リヴェットの『修道女』ですが、この作品の製作・成立と公開禁止処分にまつわることは、5月6日の日記に書きましたので、そちらもご参考になさって下さい。確かに修道院が舞台のこの作品が宗教界からの反発にあうのは理解できますが、マルローも言ったように「誰も映画を観る前から」公開禁止への動きが始まった。実際に見ると、内容的には1960年代に教会が目くじらをたてるようなものではない感じです。1960年代的な意味の教会批判が皆無だとは言わないけれど、そういう意図はリヴェットにもそれほどなかったと思います。それをしたければもっと別の作品になっていたはずです。で原題が「シュザンヌ・シモナン ディドロの修道女」っていうのが良いですね。フランス共和国的思想から言っても既成の価値として認められている百科全書派のドゥニ・ディドロの名を入れてあります。公開禁止騒動当時の首相であったジョルジュ・ポンピドゥーの名を冠したパリの文化施設ポンピドゥー・センターで、例えば昨年のリヴェット特集でこの『修道女』が上映されているのは、なんとも皮肉なものです。映画の重層性についてボクは良く書きますが、リヴェットの作品にはその傾向が強いと思います。そしてこの人は、何かのテーマをそのまま解りやすく直裁には描かないですね。解りにくくしようというわけではなくって、直裁に描いたのでは伝わらない「含み」を、映画の持っている性格を利用して表現しようというのだと思います。フランス革命を歴史で勉強したときに「三部会」とか出てきましたね。三部会の三部というのは、フランス版「士農工商」とでも言うか、第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)、第三身分(平民)の3つの身分で、もちろん社会は第一と第二身分が牛耳っていた。そして貴族社会にとって修道院はある意味世俗権力の届きにくい場所でもあり、貴族社会の補完施設や貴族社会からあぶれた人の収容施設という性格を持っていた。子供の教育は面倒、特に結婚前の思春期の娘の管理は面倒だから修道院に入れる。世俗世界で失敗したり、居場所がないから修道院に入る。そして地獄の沙汰も、いや天国の沙汰もと言うべきか、金次第だから、修道院長なんて職も金で買うことも出来た。まあそんなわけだから、自分の意志で入るのは勝手だけれど、邪魔者だからと強制的に入れられてしまってはたまらない。本来カトリックの聖職者というのは「神の召命」を受けて感じている者が誓願をたててなるもの。その辺はアントニオーニのオムニバス『愛のめぐりあい』の最終話のイレーヌ・ジャコブを見て欲しいけれど、修道僧になるということは神と結婚して世俗の一切を捨てるということだから、そんな召命(仏語・英語 vocation )を持たない者が無理矢理誓願をたてさせられて修道僧になるというのは地獄そのもの。この映画の主人公シュザンヌ・シモナン(アンナ・カリーナ)は正にその悲劇の人物。時代は18世紀半ば。姉娘2人には持参金つけて結婚させようとしているシュザンヌの両親なのだけれど、修道院に入れる持参金はたぶん結婚のための持参金よりかなり少なく、シモナン家の経済事情もあって、シュザンヌを修道院に入れてしまおうとする。修道僧も修道尼も薬指には指輪をしている。修道僧(尼)になるということは、神と結婚することなんですね。だから誓願たてて修道尼になる儀式では白いウェディングドレスを着ています。彼女は神の召命を持たないから、一度は儀式で誓願を拒否してスキャンダルとなる。でも実はシュザンヌが母の不実の子だということを明かされて、しぶしぶ彼女は説得される。そして別の修道院での誓願。それは彼女の悩みを理解して導いてくれた修道院長モニへの信頼があったからなのでしょう。しかしそのモニが死に、後任の修道院長となったのがクリスティーヌ。度量の狭い彼女は独裁的な支配を始める。モニへの信頼があってこそなんとか修道生活を送ろうとしていたシュザンヌは、新院長への反発をあらわにする。ここで描かれるクリスティーヌは、女の女に対するシュザンヌへの対抗意識だ。シュザンヌは記憶にもない誓願の無効を主張し、誓願取消しの訴訟を起こす意図を秘かに弁護士マヌリに書き送る。面会に来たマヌリは、この訴訟が含む色々な困難を彼女に告げる。身を持ち崩すのでなければ女が結婚もせず一人で生きていくのは難しい社会。彼女には両親も2人の姉もおり、姉にはやがて子供もできるだろう。シュザンヌ自身が彼らに何も求めなくとも、彼らの対面としてはそれは出来ないだろうから、必死の反発をするだろう。もちろん教会もスキャンダルを回避しようとする。そんな中でクリスティーヌは彼女を悪魔憑きと断じ、食物も与えずに監禁する。事態の進展を憂慮した教会はセルファン神父を派遣する。セルファンは2人それぞれを問いただし、事態の真相を理解した。彼はクリスティーヌを嫌うと同時に、無垢で真摯なシュザンヌのあり方に共感した。枢機卿(赤い法衣だからたぶん)に相談もするが、クリスティーヌは有力者の娘であり、誓願取消しの判決が出れば教会にとってはスキャンダルだ。教会は先手をとって事態を有利に進め、結局シュザンヌは敗訴する。この辺を見ていると、この映画に込めたリヴェットの1965年的テーマの一つがあるのではないだろうか。政治の世界のメタファーとしてだ。リヴェットという人の映画を見ていると、中心的女性登場人物の、人生のある時点での出来事による変化の過程のようなものが描かれることが多いような気がする。ここではシュザンヌが修道院に入れられ、そこでは色々な人や事態と遭遇する中で、段々に自分にも目覚め、人をも知るという過程だ。そして残念ながら最後はああなる彼女なのだけれど、それがディドロの原作にあるものなのかどうかは、読んでないのでわからない。リヴェットの場合には、対社会的(政治的)にも、個人的にも、決して純粋無垢には生きられないという世界へのペシミズムだろうか。画像引用のタグを入れると10,000字はオーバーしそうだし、この辺から先はネタバレになることでもあるので、次日記に続きます。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.05.22
コメント(4)
LEMMINGDominik Moll129min(DISCASにてレンタル)この映画の監督さんがドミニク・モルで、以前見た『ハリー、見知らぬ友人』の監督さんだと、見始める直前には意識があったはずなのに、そういう意識がなくなってしまっていて、エンドロールの最初に Dominik Moll ってあって、そうだよな~『ハリー』と同じ監督だよな~・・・、何なんでしょうこの感覚。主演は同じローラン・リュカで、共通点も多く、まぎれもなく同じ筆致の映画なのに。現実と夢などの非現実が交錯して、どこからどこまでが現実なのかが不明確な作りで、あるキッカケ、『ハリー』では突然現れた友人だというハリー、ここではレミングと社長の謎めいた妻アリスだけれど、その登場で主人公の内に潜んでいた欲望、隠されていた意識などを顕現化してしまい、平穏だった夫婦の日常を精神的に一度解体に追い込む。その過程をサスペンスタッチで描く。そうどちらも2組の夫婦を登場させる。そして最後は、表面的には何もなかったかのように終わる。しかし最初とは何か変質してしまっていることに人物たちは気付いているのかいないのか、少なくとも見ている観客はその変質を映画で見せられる。ではそこにはどんなテーマがあるのか。社長夫婦リシャール(アンドレ・デュソリエ)とアリス(シャーロット・ランプリング)は、最後の方で古い写真で示されるように、かつて若い頃は幸せなカップルだった。しかし現在リシャールは商売女を買って遊ぶ夫であり、「夫がくたばるのを見届けたい」と語る妻アリスだ。一方アラン(ローラン・リュカ)と妻ベネディクト(シャルロット・ゲンズブール)は結婚3年の若いラブラブのカップル。いつかこの二人にも社長夫妻のような不幸は訪れるのか?。アランは有能な技師で、(リシャールの経営する)南仏ガロンヌ県にあるポロック社に転職してきた。社長には信頼され、仕事は順調。それなりの高給取りでもあろう。妻と住む郊外の住宅街の家も快適。子供はまだいないが、互いに互いの愛を信じ切っている。つまり現世的にはこれ以上望むべきものはない程に幸せなカップルなのだ。しかしたぶん、そうした状況としての幸福を支える信仰、別に宗教的なという意味ではなく、揺るがない絶対の価値観、ある絶対(昔ならそれは神だった)に対する信仰、信仰というと宗教じみて聞こえるなら、信じ込み・思い込みと言ってもよいようなものを欠いている。それが現代人の不幸、あるいは不安なのだ。映画の中のセリフで言うならば、アリスは自分の誘いを拒絶するアランに、「性的関係に結婚という枠は必要なのか?」と問う。あるいはリシャールは妻アリスがアランを誘惑しようとしたことに関して、「アリスが誘い、君(アラン)もそうしたいと思ったのなら、なぜ寝なかったのか?」と問う。もちろんアランが答える論拠は、愛する妻がいるからの「自制」なのだけれど、100年前ならば何の疑問もなかったこの価値も、当たり前に共有できたこの価値も、いま面と向かって問われると、言っているアラン本人自身が確信を持てないのだ。サスペンスタッチの作品だから、詳しくネタバレをすることは避けたい。超簡潔に書いてしまえば、幸せそのもののアランとベネディクト、→社長夫妻の登場で2人の幸せな状況がベネディクトの心理の変化という形で解体される、→途中のドラマが一件落着し、表面的には幸せな状況が回復される、というものだろう。そしてメインのドラマの部分は現実と夢の非現実が交錯した形のサスペンスとして描かれるが、1匹のレミングが配水管からみつかり、治療を頼んだ獣医からそのレミングが返却され、アランが噛まれたこと。社長夫人アリスが二人の家の部屋で***したこと。アランが交通事故で負傷したこと。社長リシャールが最後に※※※したこと。これ以外はすべて非現実と考えてもよく、どれがどれだけ現実であるかはわからない。もちろんその最後の社長の※※※に対するアランの関与もである。「ベネディクトはいつの間にか社長の○○○になってるし、でも最後にはああなって・・・」とまったく訳がわからない、というナイーブなレビューがDISCASのレビュー欄にあった。映画というのはもともと作り話以外の何ものでもない。1時間半なり2時間の間観る者を引き付けるものがあって、それによって人間というものを描いて見せてくれれば、必ずしも辻褄など合わなくても良いのだ。幽霊やゴジラ、超能力が描かれるのだって、現実的でなどもともとない。アクション映画での車の爆発だって、車はあんな風に爆発するものではない。非現実を用いて現実を描こうとするのが映画だと言ってもよい。そして映画とは役者に演技の場を与えるものでもある。イギリスのシャーロットのドスの効いた迫力はいつものこととして、フランスのシャルロットの変貌ぶりはとても名演だった。また映画そのものとしては、前の『ハリー、見知らぬ友人』ほどの出来ではないけれど、十分楽しませてもらった。及第点だ。シャルロットの演技を見るだけでも価値はある。最後に題名のレミングについてだが、レミングとは北欧に生息するネズミのような生物で、一種の神話でもあるのだろうがその「集団自殺」で有名だ。映画の中ではドラマを進行させるキッカケとして使われている。アリスの分身でもあるようだし、アリスの病んだ精神を象徴するものでもあり、アランとベネディクトの不安を形にしたものでもある。ヒッチコック好きの監督が『鳥』へのオマージュを表す小道具でもある。モル監督は子供の頃からこの不思議な生き物に興味を持っていたらしい。映画の重層性についてボクは時々触れているが、その意味ではレミングを映画に使ってみたいという監督の思いの現れなのであって、レミングであることにそれほど深い意味はないと思う。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.05.18
コメント(2)
LA VIE PROMISEOlivier Dahan93min(DISCASにてレンタル)この監督さんの作品は見たことがありませんでした(たぶん)。大好きなマリオン・コティヤールが約半世紀ぶりに、フランス女優として2人目のアカデミー主演女優賞を獲得した『エディット・ピアフ 愛の賛歌』の監督さんですが、まだ見てません。見たいのはやまやまなんですが、歴史物・原作物など、イメージを既に持っている人物を描いた作品はあまり見ない自分です。主演がイザベル・ユペールというのもあってそれなりに期待もありましたが、見終わってビックリ。実に良い作品でした。今「見終わって」とわざわざ書いたのは、最初は一種の胡散臭さを感じていたのが、段々にそれがなくなっていったからです。似ているとか、真似だとか、リメイクだとか、そういう意味ではまったくありませんが、この映画はジャン=リュック・ゴダールの Vivre sa vie の2002年オリヴィエ・ダアン版だと思います。ゴダールの映画、邦題は「女と男のいる舗道」ですが、原題は「自分の人生を生きる」と普通訳され、その通りですが、やや意訳させてもらうと「与えられた生を生きる」ぐらいの感じです。ゴダールの映画の主人公ナナ(アンナ・カリーナ)が娼婦であったように、ここでもユペール演じるシルヴィアは娼婦です。映画は色々な花が接写で写される画面に、少女の声で「アドニッド(白のフクジュソウ)は白い花。花言葉は閉ざされた心。アザレアは黄色。花言葉は・・・」と始まる。続いて落書きのある汚く綺麗な高い塀の前に群がる街娼たち。なんだこのファッション雑誌かミュージック・クリップのような画像は!!。この辺の始まり方に胡散臭さを感じてしまう。雰囲気だけで内容の薄い映画にあり勝ちな作りだからだ。娼婦たちの中にシルヴィアもいる。彼女は南仏ニースの街娼。そんなシルヴィアが昼スーパーから出てくると14才の娘ロランスが外にいた。面倒臭さそうなシルヴィア。迷惑そうに「今日は面会日じゃないでしょうっ!」と言って、買い物袋からお菓子か何かの箱を取り出して娘に投げるだけだ。周囲に対して「そうよ、これは私の娘よっ!」と逆切れしたようにわめいている。しかし娘ロランスは母親の愛情を求めていた。夜シルヴィアの住むアパルトマンに忍び込んで彼女は母を待った。娘が隠れて待っていると母は帰ってきたが、2人の女衒が一緒で、上納金を誤魔化したのか言いがかりか、金をちゃんと払えとシルヴィアに暴行し始めた。いたたまれず包丁を手に現れたロランスは、経緯で1人の男を刺してしまい、それを見てもう1人は逃走した。こうして母娘は、まだ具体性はないが、警察とヤクザから追われる(追われていると思う)ことになる。でもこれは母娘2人を旅に出させる契機なのでしょう。そして後で出会ってこの旅をともにすることになるジョシュアも含めて3人が皆、外からではなく内からの罪意識を持った存在にする必要もあったのだと思う。(以下ネタバレ含む)だんだんにわかってくるのだけれど、シルヴィアは生まれてすぐぐらいに両親を失い、祖母に育てられ、その時に花のことを色々教えられるのだけれど、その祖母も8才で失う。幼い頃からそういう喪失の人生で、親によって育まれる「約束された人生」(←原題)を知らない。たぶん彼女の成長は8才で止まってしまっている。捨てた頃、あるいは友人を通じて受け取った手紙に入っていた写真の幼い息子、そんなイメージの息子のために盗もうとしたクマのぬいぐるみを抱く彼女は子供でもあるのだ。子供だから自分が愛を与え、保護する親にはなれない。途中でロランスとはぐれてしまう。田舎道や田園の中でもシルヴィアが高いヒールのミュールを履いて歩き難そうにしているのは、地に足のつかない彼女の象徴なのだろうけれど、彼女がホテルの部屋で娘いないことを嘆くとき、ベッドからはみ出た彼女の足はばたばたと動かされるが、決して地面(床)につくことはない。でも娘を探そうと、つまり母親になりたいと思ってもいる。一時は列車でニースに戻ろうともするけれど、結局娘を探し続ける。親の愛を知らないという意味で、ロランスというのはある意味でシルヴィアの分身でもあるわけだから、子供である自分を放っておけないということでもある。こんな風に彼女の人生を語っている自分ではあるのだけれど、この映画は普通の映画のように人物の「何故」は語らない。物語よりも感覚や気分のようなものを描こうとしている感じ。でももちろん背後にはそれなりに理屈の通った「何故」は存在するはずだ。ロランスはヒキツケようなものを起こして倒れるのだけれど、それも良くはわからない。臨床医学に詳しい方がいらしたら説明していただけると嬉しい。シルヴィアに無理矢理車に乗られ、バッグを忘れられ、偶然にもロランスが危ないところを助け、はぐれた母シルヴィアを一緒に探すジョシュアという男。彼についてもほとんど「何故」は語られない。ロランスが盗み見た書類では、刑務所に服役中で、24時間の外出許可を得たらしいが、刑務所には戻らずにオランダか何処かに逃走する計画のようだ。シルヴィアは彼女を愛し、理解しようとした別れた夫ピヨトルと息子を訪ねることを旅の目的としていた。ピヨトルは音信不通になったシルヴィアの友人の住所に手紙を送っていたのだ。彼女にとっては記憶を失ってしまった過去を取り戻す旅にもなっていた。そんな彼女を見つけたジョシュアは、彼女の行動を励ます。かつて結婚したピヨトルは優しかったが、子供が生まれ、妻であること、母親であることを要求されたシルヴィアは精神のバランスを崩してしまったのだろう。一緒に住んだ草原の中の一軒家を訪れるが廃屋となっていた。記憶を取り戻しもするが、彼女の過去は廃屋のように既に壊れ去ったものだった。ピヨトルと息子に会いにいくが、既に別の女性と再婚していて、その新しい妻のお腹は大きかった。息子との対面のシーンで、息子はもうサッカーボールで遊ぶ少年となっていて、シルヴィアの手にしたぬいぐるみを見て「赤ちゃんのためなの?」と尋ねるが、これは子供なのが息子ではなくシルヴィアだという含みだろう。ジョシュアは犯罪と脱走の過去を持ち、シルヴィアは夫や息子を捨て、今もロランスの母親でいられないでいる。そのロランスも冒頭で殺人を犯している。過去というのはもう変えられない。それでもそれぞれの人は生きていくしかない。この3人に限らず、それが vivre sa vie 与えられた生を生きるということだ。二人が川辺でダンスをするシーンがあった。彼女がジョシュアをダンスに誘うが、ジョシュアは踊れないと答える。そんなジョシュアにシルヴィアも「私も踊れない」と言う。でも二人は踊る。踊れないというのは「生き方がわからない」という意味であり、それでも踊るというのは「生き方がわからなくても生きなければならない」ということだ。いつもながら日本語字幕の誤訳を指摘したい。なぜならその誤訳が内容理解に大きく関わるからだ。シルヴィアはジョシュアに「子供はいるの?」と尋ねる。もちろんここでは単なる好奇心ではない。シルヴィアにとっては子供がいること、つまりは親であること、それは重大な関心事なのだから。この「Vous avez des enfants? 子供はいるの?」という質問にジョシュアは「J' en ai une. 娘が1人いる」と答える。これは初級フランス語会話にもたぶん出てくる代名詞 en の使い方だ。なぜそれを文字通りに訳してくれないのか。字幕はなんと「1人いた」となっていた。字数だって「娘が1人」とすれば同じ4字だ。この「娘が1人」というのは、もちろんロランスのことを言っているとも取れるのでである。最初は母娘と別れて1人で国外逃亡するつもりだったジョシュアは、戻ってきて2人を車に乗せ、国境を越えていく。地域的に考えてそれはイタリア(かスイス)だろう。ここに擬似的に3人の家族が構成されている。笑顔のシルヴィアを写した希望的なラストだ。ここまでの文に上手く折り込めなかったので最後にひとつ付け加えると、(母親とは)喧嘩できるほど知合っていないと言っていたロランスなのだけれど、彼女は決して母親を責めても、嫌ってもいないという、そういう子供の心理が印象的だった。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.05.17
コメント(2)
ジャック・リヴェット監督『修道女』(1966)に関して 映画『修道女』ポスター昨日の『メイド・イン・USA』(J-L・ゴダール監督1966)は、ジャック・リヴェットの『修道女』(Suzanne Simonin, LA RELIGIEUSE de Diderot)が公開禁止の処分を受けたために資金難になったフランスの映画プロデューサーで、『勝手にしやがれ』や『軽蔑』『気狂いピエロ』などゴダール初期作品を製作したジョルジュ・ド・ボールガールを経済的に援助するために作られた作品でした。昨日もちょっと触れたように、リヴェットの映画の原作であるドゥニ・ディドロ(1713~1784)の小説には映画以前からゴダールも関係していました。そのことなど調べたことを、自分のための整理の目的も兼ねて、ここにご紹介させていただこうと思います。リヴェットの映画自体は残念ながらまだ見ていませんが、フランス版DVD(たぶん廃盤)の入手はそれほど困難でもないので、ちょっとお金にゆとりが出来たら買おうと思っています。(追記:まさかそんなものはないと思っていた日本版のビデオやDVDがあったので、中古ビデオを購入しました)。ちなみにドゥニ・ディドロの原作は、LIBRAIRIE ALPHONSE LEMERRE(PARIS1925)の全287ページのPDF版を、フランス国立図書館のサイト gallica で読むことが出来ます(http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k80835g)。 ジャック・リヴェットディドロ、ダランベールというと18世紀フランス百科全書派の啓蒙思想家。彼が1760年に執筆を始めた『修道女』は、修道院を逃げ出した1人の修道女がクロワマール侯爵に助けを求めるという形式だが、実のところ、ノルマンディーに引き蘢ってしまった侯爵をパリに引き戻をうという友人たちのジョークだったらしい。1780年にディドロは続きの執筆を始めるが、その各挿話は1782年に連載という形でグリムの『文芸通信』に発表された。1749年出版した『盲人に関する手紙(盲人書簡)』が反宗教的・唯物論的だという理由でディドロはヴァンセンヌ城に3ヵ月投獄された苦い過去があり、生前にまとめての出版はせず、死後1796年(つまりは革命後)に遺稿をもとに出版された。両親に無理矢理入れられた修道院からの解放を求めるロンシャンの修道女マルグリット・ドラマールの物語。マルグリットは母の不倫の子だったが、母親は地獄落ちをひきあいに出して、愛情を装った駆引をし、娘を無理矢理修道院に入れてしまったのだ。子供が親の罪を負うという聖書の教えをディドロは批判する。また強制的な修道制度をディドロは批判し、本来あるべき宗教の姿から離れて、人に地上での苦しみと、死後の永遠の劫罰を与えるものだとする。そして閉鎖的世界は、人間精神の荒廃を引き起こす。有閑、社会的無価値性、雑居等は、そこに幽閉される者を不健全ないし狂信的夢想へ少しずつ追い込み、それはやがて狂気、そして時には自殺まで発展すると。 ドゥニ・ディドロ(ルイ・ミッシェル・ヴァン・ロー筆1767)さてリヴェットによるその映画化のプロットを見ると、「18世紀。シュザンヌ・シモナンは、2人の姉(妹)が多額の持参金をもらい結婚したのに対して、修道院に入れられた。彼女には、修道生活を送ろうという神による召命はなかった。修道院で1人の上位の修道女の存在に彼女は慰められるが、その修道女が死んで代わりにやってきたのはサディックな修道女で、彼女を残虐にいじめた。また別の修道女のセクハラに苦しめられる。神に請願をたてることを拒否する彼女は、悪霊に憑かれているとされてアルパジョンに送られ幽閉されることになるが、危うく逃げ出すのだった・・・。」とある(いくつかの短文のあらすじ紹介を編集)。 映画『修道女』のアンナ・カリーナ1950年代末プロデューサーのボールガールはディドロの小説を読み、ジャック・リヴェット監督に話をもちかける。(現在どうなっているかはまだ調べていないのだけれど)フランスには脚本段階での事前検閲があり、リヴェットとジャン・グリュオーの書いた脚本は1962年にその事前審査で「不可」とされた。1963年戯曲に脚色し、主役のシュザンヌ役アンナ・カリーナでゴダールがステュディオ・デ・シャンゼリゼ劇場の舞台にのせた。しかしまったく当たらず、スキャンダルになることもなかった。 フランソワ・モーリアック映画の撮影は始まる。時はちょうど第2次バチカン公会議が行われており(カトリックの世界化が主要テーマ)、宗教界にはスキャンダルは避けたいという空気があった。そして当時作家フランソワ・モーリアックが『ル・フィガロ』紙に寄稿したように、まだ誰も映画をみたことがない時点で、既に公開禁止に向けて事態は進展していた。カトリック系のミッションスクールの親たちが当局に働きかけ、情報担当大臣アラン・ペイルフィットが公開禁止に尽力した。ドミニコ派系ミッションスクール出身の大統領夫人イヴォンヌ・ド・ゴールの介入が原因であったとも言われている。 ジャン=リュック・ゴダール1966年3月22日検閲委員会は18禁指定での公開を認可。しかし一週間後に情報担当政務次官イヴォン・ブールジュは検閲委員会を再度開き、公安委員会会長モーリス・グリモーを呼んでこの映画が社会にもたらすと予想される混乱を陳述させた。検閲委員会は認可の決定を覆しはしなかったが、委員会にはあくまで諮問の権限しかなく、4月1日イヴォン・ブールジュは映画の公開と製作の禁止を命じた。 アンドレ・マルローゴダールは、文化大臣アンドレ・マルロー(『人間の条件』でゴンクール賞を受賞した作家であり、スペイン内乱では義勇兵として参戦し、対独レジスタンス活動もした人)を、Culture大臣とフランス語ではなくドイツ語でKultur大臣と名指し、批判・挑発した。これはもちろんナチドイツのゲシュタポへの暗示だ。マルローは1944年レジスタンス活動でゲシュタポにに捕まり、危うく処刑されかけている。映画の禁止処分には各界に反発を巻き起こし、そこには教会関係者も含まれていた。カトリック作家のフランソワ・モーリアック(ちなみにゴダールの2人目の妻となるアンヌ・ヴィアゼムスキーはこのモーリアックの外孫)も、この映画がカンヌ映画祭の公式出品作品に選定・上映されることに反対はしなかった。プロデューサーのボールガールは法廷での闘争に持ち込み、1967年行政裁判所は手続の不備を理由に禁止の取消し判決を下す。新しい情報担当大臣ジョルジュ・ゴルスは、18禁指定での製作・公開を認可する。作品の検閲の無効が最終的に下されたのは、1975年国事院の決定による。 アンヌ・ヴィアゼムスキー(『豚小屋』)1966年、文化大臣アンドレ・マルローは情報担当政務次官イヴォン・ブールジュから映画『修道女』の禁止処分を知らされたわけだが、そのときゴダールはマルローに書簡を送っている。以下がおおよその訳文だ。あなたの上司は上手くやった。すべてが低俗に、水面下で推移している。幸いにも我々は、だって貴公もディドロも私も文化人だから、もっと高い次元の話が出来る。ユダヤ人や黒人が彼らであるように、私は映画作家だけれど、毎度毎度貴公に会いに行き、精神のゲシュタポたる検閲によって死刑を宣告された1本の映画に恩赦を与えてくれるようにと、貴公の友人のロジェ・フレー(ポンピドゥー内閣の内務大臣)やジョルジュ・ポンピドゥー(首相)へのとりなしを頼みに行くのはもうウンザリしてしまった。しかし天の神よ、貴公と同じようじジャーナリストであり作家である貴公の兄ディドロに対して、また我が妹たる『修道女』に対して、それがなされるはずはないと私は思っていた。私は盲だった。ドゥニ(ディドロ)がバスティーユの牢獄につながれることになったあの『書簡』のことを思い出すべきだった。私の「結婚した妻」(邦題『恋人のいる時間』)をペイルフィット(情報相)の斧の一撃から救ったときに私が貴公の勇気や知性と思ったことが実は何であったかが今はわかった。寛容と抵抗という、互いに切り離すことの出来ない2つの概念の正確な意味を貴公がそれで知ったであるはずの作品の禁止を、貴公が軽い気持ちで容認するのだから。つまりは単なる卑怯であったのだと。でもこれが驚く程に暗いばかりでないのは、1966年に新共和国連合の大臣が、1789年の百科全書派の精神に恐れをなしているのを見られることが、驚く程美しく感動的だからだ。「シュザンヌ・シモナン、ディドロの修道女」(映画『修道女』のフルタイトル)の禁止の件で、それが殺人だと私が貴公に語るとき、もはや貴公が私の声だと解らなかったとしても何の不思議もない。全く。この卑怯は何ら驚くことではない。貴公は貴公の内心の記憶を見ようとしないだけだ。アンドレ・マルローよ、どうして貴公に私の声が聞こえるだろうか。遠い外の世界、自由フランスから私は貴公に電話をしているのだから。PS:以上は、『華氏451』、それは本が燃え始める温度だけれど、それを遠くパリから離れロンドンで撮影しなければならないフランソワ・トリュフォーが読んで同意。 『華氏451』撮影中のフランソワ・トリュフォー追記:この映画のレビューは5月22日(と23日)の日記にアップしました。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.05.06
コメント(0)
MADE IN U.S.AJean-Luc Godard82min(所有DVD)ゴダールの『勝手にしやがれ』『女は女である』『小さな兵隊』『カラビニエ』『軽蔑』『気狂いピエロ』やメルヴィル、ヴァルダ、シャブロル等の作品を製作してきたプロデューサーのジョルジュ・ド・ボールガールは、1966年に製作したジャック・リヴェットの『修道女』が公開禁止の処置を受け、資金繰りに困っていた。そこでゴダールが安い製作費で売れる作品を1本撮ったのがこの映画だ。ちょうど撮影中の『彼女について私が知っている二、三の事柄』と平行して非常に短期間で撮られた。そういう意味で最初から商業映画だと言える。だからゴダールの人気作『気狂いピエロ』に似せた路線の作品。ゴダールはたいてい自作映画の予告編も作っているが、サイレントという恐らくこの予告編だけではないかと思われる、なかなか優れものの予告編がある。 Un fiim po... Un film poetique Un film po... Un film policier Un film po... Un film politique de Jean-Luc Godardと手書きの文字が画面に表われるように、公称はゴダールの詩的(poetique)、探偵(policier)、政治(politique)映画というわけだ。(余談だけれど予告編と言えば、ロベール・ブレッソンの『少女ムシェット』の予告編もゴダール作らしい。どんな予告編だったかな?、見たことあったかな?)。さてと、そういうわけで友人プロデューサーの経済的救済が目的で作られたわけだけれど(実はリヴェットの作ったディドロ原作の『修道女』はゴダール自身その前に舞台に乗せてみるなどの関わりを持っていた作品)、ゴダールという人の映画作家としての能力からすれば、この映画よりももっともっとキャッチーな作品は作れたはずだから、商業目的と言っても、そこはやはりゴダールのゴダール的映画だ。好意的に深読みする批評は2年後の五月革命を先取りする作品とかと、賞賛する向きもある。その当否は問わないとして、製作された1966年のフランスの時代の雰囲気、あるいは心性が反映されていることだけは事実かも知れない。ところが問題はその時代的雰囲気や心性だ。それを知らない人が、この映画を観ることによって、その時代を知ったり、感じたりすることは、たぶんあまり出来ないだろう。それを既に知っている人にとって感じられるということだ。だから今日2008年の日本の普通の観客にとっては、1930年代生まれでフランスの事情にも詳しい人、例えば渡邊守章氏とか蓮實重彦氏がこの映画を観るのとは、根本的に意味が違ってくる。五月革命の1968年に15才だった人は1953年生まれということになるから、現在2008年には55才ということだ。55才以上でフランスの事情に詳しいという条件からは、ボク自身も外れてしまう。 1966年1月10日付 L'EXPRESS 誌表紙 私はベン・バルカが殺されるのを見た ある目撃者の証言大体が、最初は誰が間違ったのか、この映画の基本プロット(アンナ・カリーナの恋人リシャール・ポ・・・が政治的に暗殺されたらしいこと)が、ベン・バルカ事件を連想させるものであるのだけれど、日本の解説では「ベン・メルカ事件」となっていて、大手ポータルサイトの映画ページでも、ブログ等の個人のレビューも、堂々と「ベン・メルカ事件」と書いているのだから、フランスでは政治的陰謀暗殺事件の代名詞であり、またマスコミ報道の無機能性の象徴でもあるこのベン・バルカ事件を知らずに日本の観客はこの映画を観たり、語ったりしているのだ。そう言えば、映画のタイトルロールの文字は、ゴダール作品お得意の、黒のバックに白抜き等の大きな活字なのだけれど、ここでは青と白と赤抜きになっている。映画は "MADE IN USA" なのだから、これは当然の話としてアメリカ国旗の3色だ。結果としてはフランスの三色旗の色でもイギリス国旗の色でもある(イギリス空軍のマークは青い丸の中に白い丸で、そのまた中が赤い丸という青白赤の三色同心円)が、まずはアメリカ色だろう。これをも「フランス三色旗の色」と多くの方が書いておられる。映画の解釈に要する知識というのは難しいものだ。フランス映画であっても、それを日本人として観ることに色々と意味はあるわけだけれど、まずは直接の対象観客がどう観るか、あるいは監督自身にどういう意識があるかということを、なるべく捉えるようにしなければならないと思う。さてそこで、そういう困難な前提のもとで、今日2008年の日本人観客としてこの作品を見るとどうなるか。そうすると、内容は希薄なのだけれど、意外とただ楽しめる。要は解ろうとか、解釈しようとか、批評しようとかしないことだ。時期的にはゴダールがアンナ・カリーナと別れてアンヌ・ヴィアゼムスキーと結婚しようという頃で、アンナ・カリーナは少し疲れたようなけだるい感じではあるけれど(彼女はまだ25才)、ここでもやはり映画に撮られているのはアンナ・カリーナが演ずるポーラ・ネルソンではなく、ポーラ・ネルソンを演じるアンナ・カリーナだ。(余談だけれどゴダールの伴侶はアンナ・カリーナ→アンヌ・ヴィアゼムスキー→アンヌ=マリー・ミエヴィルで、3人とも同じ名前を持っている!!)。ジャン=ピエール・レオもレオだし、「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」を歌う若きマリアンヌ・フェイスフルもいいし、ラウル・クータールのカメラを見ているのも気持ちが良いし・・・。と言うわけで、ストーリーも何も書かなかったけれど、上に紹介した公称の3つの形容詞の内で、最初の「詩的」という映画として見ると、なかなか楽しい。ゴダール作品は1回だけ見ても簡単に解らなかったりするのでDVDを買ったわけだけれど、そういうことではなく、楽しみとして何度も気軽に見られそうな作品だ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.05.05
コメント(2)
CACHEMichael Haneke119min(以前DISCASにてレンタル)この作品は昨年の3月(つまり1年以上前)に初めて、レンタルDVDで、たぶん2日続けて3回くらい見たと記憶しています。そのときの日記では、体調等の理由で「寸評」のみしか書きませんでした。その後書き始めたレビューを補足しながら、今回感想を書きたいと思います。先日同じハネケ監督の『カフカの「城」』と『タイム・オブ・ザ・ウルフ』を見て色々考えていたら、この作品のことも書きたいと思ったのです。本当はもう一度見てから書くべきかも知れませんが、書きかけのレビューがあり、また細部までかなりはっきり記憶が残っています。考えれば考えるほど感じるのは、この映画が非常に重層的だということです。基本的な読みはそう難解なものではない。1961年10月17日虐殺事件(アルジェリア独立を求めるパリでの非暴力のデモを警視総監パポンが暴力で鎮圧しようとし、アルジェリア系の300名ぐらいがセーヌ河に投げ込まれるなどで犠牲になった事件)で、アルジェリア人の少年マジッドは両親を失った。その孤児マジッドを映画の主人公ジョルジュの両親は引き取って育てようとするが、少年ジョルジュはそれを嫌がり策略を弄して阻止する。嫌がるマジッドは施設に入れられる。結果として、テレビの人気書評番組の司会をするなど文芸評論家として成功し、閑静なパリ13区の高級一軒家(←一軒家はパリでは相当の贅沢)に妻子と幸せに暮らすジョルジュに対して、施設育ちでまともに高等教育等を受ける機会も失ってしまったマジッドは、貧乏で低家賃団地住まいだ。ある日ジョルジュ(ダニエル・オートゥイユ)のもとに、その一軒家をただ固定画面で撮影した1本のビデオが送られてくる。その映像で映画は始まる。ジョルジュと妻アン(ジュリエット・ビノシュ)の声が背後に微かに聞こえ、画面が変わってそのビデオを2人で見ているシーンになる。その後も匿名でビデオは送られてくるが、いったい誰がこのビデオを送ってきているのかという疑問が、観客を引き付けるサスペンスとなる。後続のビデオはジョルジュが問題の少年時代を過ごした田舎の家への道を示すものであったり、現在マジッドが住む低家賃アパートへの道を示すようなものだ。原題は「隠れた」とか「隠された」とか「見えない」ぐらいの意味の形容詞だが、日本語タイトル『隠された記憶』が示すように、ジョルジュが妻にも語らず、たぶん自分でも封印しようとしていた少年時代の「罪」の記憶が、このビデオをキッカケにジョルジュを苦しめ始める。そこでも妻にすべてを語ろうとせず、妻のジョルジュに対する不信感が強くなっていく。たぶんこの不信感はビデオ以前から既にあり、それが原因で妻は別の男性に精神的に頼り、不貞関係があるらしい。ジョルジュはビデオに導かれてマジッドを訪ねる。マジッドは友好的で、ビデオの件は否定するが、幼少期のことを恨んでビデオを送りつけているのだと思い苛立つジョルジュは攻撃的だ。自転車の「黒人」青年とぶつかりそうになったときジョルジュは異常な程に青年をなじった。あるいはジョルジュの息子ピエロの誘拐の件で警察沙汰になったとき、警察は最初からジョルジュを被害者、「アルジェリア人」のマジッドと息子を犯人扱いする。明らかにここで社会やジョルジュの差別意識が描写されている。そして次にジョルジュがマジッドを訪れたとき、マジッドはカミソリで自らの喉を切ってジョルジュの目の前で自殺する。いちばん上に掲載したポスターの赤いのが、壁に飛んだ血の痕だ。誰もジョルジュの少年期の「罪」を非難する者は出てこない。平穏に暮らしていたはずのジョルジュは、ビデオがキッカケで悩み始めるのだけれど、だからそれは外部からの非難ではなく、自分内部からのもの。そもそもこの少年期の「罪」にしても、たぶん6才のときという設定だったと思うけれど、マジッドを嫌って遠ざけたことがどれ程の罪だろうか。マジッドがアルジェリア人だから嫌ったとするならば、それだって少年の考えではなく大人の意識の反映でしかない。だから問題は、自転車の黒人青年との一件でも描かれていたように、その後現在までジョルジュが差別意識を持ち続けていること、あるいはそういうフランス社会に安住していること、その後ろめたさなのではないだろうか。このまずは一義的な解釈で残るのは、いったい誰がビデオを?、という疑問だ。そしてこれには明確な解答が示されているようで、実はそこに更なる解釈の入り口が見えてくる。水泳大会のシーンで、ピエロが失踪したときに実はいたという友人がビデオカメラを持っている。このヒントから解るのは、最初の(家を固定画面で写した)ビデオは、おそらく息子ピエロの仕業ではないかということだ。ピエロは最近両親に対して心を閉ざしているけれど、両親の冷めた関係や母の浮気に対する意志表明がこのビデオだったのではないだろうか。では2本目以降は?。ピエロとマジッドの息子が何かを話している様子が遠景の固定画面(冒頭の画面に類似)で写されるのが映画のラストなので、ピエロとマジッドの息子の共犯説を主張する人がいる。しかしそれは違うのではないだろうか。確かマジッドの息子はビデオへの関与を否定していたと思うし、それがウソだとは考えにくい。そうすると、2本目以降に写された内容(ジョルジュの幼少期等を知っている)から考えて、とりあえず仮に言うのだけれど、犯人の可能性はジョルジュ本人しかいない。ジョルジュの母親は老齢で寝たきりに近いし、マジッドは文化的に考えても経済的に考えてもビデオ操作云々には不適格だし、そもそもマジッドやその息子を「悪者」にしてしまっては映画の主旨に反する。少年の「罪」に関して上に書いたように、ジョルジュの現在の焦燥は外からではなく内から来ているものなのだ。そうすると息子ピエロによる1本目に触発されたとしても、何故ジョルジュ本人がという疑問だ。この映画で特に気になる点が実はいくつかあった。一つはジョルジュが母親を訪ねるシーン。この場面への転換が、実に脈絡がなく、非常に唐突で、またこのシーンから次への転換にも脈絡がないということ。もう一つは友人を招いてのジョルジュ家の晩餐で、一人の友人が語る「犬の生まれかわり」の話で、ここでなぜこの話なのかという疑問。3つ目は最後の方で疲れたジョルジュがカーテンを閉じ、ベッドで寝ようとするシーンと、そこからの場面転換の唐突さ。そして4番目は問題とされる最後の学校正面を固定画面で捉えた映像と、それが冒頭画面に酷似していること。もう一つ付け加えるならジョルジュ家のテレビ写っていたニュース映像。犬の生まれかわりの話は、ごく平凡な出来事として語られ始め、その話の内容に段々に聞いている者を引き込み、しかし単なる作り話で、最後はアンをビックリさせるという展開だ。実はこの挿話はこの映画を説明しているのではないだろうか。ニュース映像は我々がそういうメディアの報道に接するあり方を象徴していると考えられる。始まりの映像は、ジョルジュの家を物語が描写していると観客を勘違いさせられるが、実は夫婦が見ているビデオ映像だと明かされる。映像の類似性から、ラストの学校の固定映像も、映画の物語の描写映像ではなく、別のビデオ映像だとは考えられないだろうか。犬の話で聞き手が作り話のウソを信じる方向に導かれ、そしてそれを否定されたように、映画の中でも意図的な導かれと否定の場面がいくつかあった。息子ピエロが帰ってこなければ誘拐された(それもマジッドらに)とジョルジュやアンは疑い、観客もそう予想するが、実は何でもなかった(詳細は明かされないが)。マジッドがカミソリを取り出したとき、ジョルジュも観客もマジッドがジョルジュに切り付けるとは想像しなかったろうか。そんなことを考えてくると、アルジェリア人差別の問題や、内からくるジョルジュの消せない罪意識が一つのテーマではあるのだけれど、それと同時に、我々がメディアを受け入れる際に安易に送り手の策略に引き込まれてしまうことへの警告をも描いているのだと思う。そしてハネケの関心は後者の方に強いのではないだろうか。一種のメディアリテラシーの問題であるけれど、内容がどうのというリテラシーであるよりもっと本質的な、我々がメディアに接するあり方自体の構造の問題だ。母親訪問シーンと最後で寝入るシーンを挙げたが、場面転換の唐突さや寝入るという事実を考えると、2本目以降のビデオの送り主がジョルジュなのではなく、マジッドの自殺まで含めてすべてはジョルジュの悪夢なのかも知れない。犬の話と同じように「誰がビデオを?」という謎解きに観客を引き込むこと自体が、ハネケの仕掛けた罠なのだ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.05.03
コメント(8)
Les Contes des quatre saisonsCONTE D'HIVEREric Rohmer114min(所有VHS)以下の文は昨日5月1日付の日記の続きなので、そちらから読んで下さい。昨日付の日記に書いたように、この作品は「本当は」あるいは「本当の」ハッピーエンドではなくって、実に懐疑的なラストです。シェイクスピアの『冬物語』にかけてあるから冬の物語ですが、ここでクリスマスという時期が選ばれているのには色々含意があると思います。そもそも、すれ違いカップルの再会のハッピーエンドの物語ならば、クリスマスに再会する方がロマンティックです。しかしここでは大晦日の再会です。新年から何かが始まるという意味でもあるのでしょうが、昨日書いたように、その新しい門出は必ずしも明るくは感じられません。日本ではクリスマスはとうの昔に宗教性を離れてしまいました。(ちょっと余談ですが、ボクが子供の頃は、クリスマスカードと言えば、半分以上が宗教的図柄でしたが、今ではそんなものを探す方が困難です。一方では飲んだくれお父さんの「パー券」とかいう非宗教的な世界も既にあったけれど、街の小さなルター派教会とかでのクリスマス会へ非信者が行くなんてのもありました)。余談はさて置き、クリスマスというのはそれでも1年のうちでいちばん宗教を感じる時期です。必ずしも抹香臭い意味での宗教(キリスト教)というわけではないけれど、この映画は宗教を扱ってもいます。それは文字通りカトリック信仰でもあり、もっと一般化して信じる何かとか価値観ということでもあり、あるいは超自然的直感とかいうようなことでもあります。フェリシーが別れを告げにいったロイックの家に来ていた客との会話(議論)も、超自然や信仰の問題が話題でした。ロイックという人物自体が観念的カトリック信者のインテリとして描かれています。そんな会話の中に「あなたはルルドを信じるの?」というのがありました。ルルドというのはスペインとの国境に近い南フランスの小さな町。1858年、ここでベルナデットという当時14才の少女に聖母マリアが出現したとされる。そこから湧き出た水は奇跡の水とされ、難病を治癒するものとして多数の巡礼者や観光客が訪れている。ボクも実際に行ったけれど、洞窟の上の方には治癒して不用となったという松葉杖がたくさん吊るされていた。ベルナデットは騒がれることを嫌い、8年後にある修道院に入って静かに余生を送った。そしてこの修道院のある地こそ、映画の舞台の一つであるヌヴェールなのだ。彼女は後に列聖され、聖ベルナデットとなるが、彼女の遺体は防腐処理をしていないにもかかわらず現在まで腐敗せず、ガラスの箱の中で眠るその姿を我々は見ることができる。週末にヌヴェールを訪れたフェリシーもマクサンスに案内されてその聖ベルナデットを見に行く。(実際に間近で見ると、死んだばかりの遺体というよりも、厚化粧を施されている感じだった)。マクサンスの故郷がヌヴェールで、そこに美容室を開く。しかしこれはヌヴェールでなくても、パリから直通の幹線列車で2~3時間で行ける場所なら何処でも良かったはずだ。そんな都市は他にもある。その意味でこのヌヴェールも意図的に選ばれた都市なのである。(ヌヴェールと言えばデュラス/レネの傑作『二十四時間の情事』が思い出される。ちなみにデュラスは英語の never を連想する都市として無意識のうちにヌヴェール( Nevers )使っていたと回想している)。映画の冒頭で5年前夏のフェリシーとシャルルの幸福が描かれる。このほとんどサイレントに近い映像は、ロメールには珍しく(と言ってもロメールだから控え目で上品な描写だけれど)ベッドでのシーンも描かれていた。そして「冬」物語として5年後の世界は灰色を中心とした暗い色調で、屋外撮影ではたぶん人口的補助照明の使用もほとんどない。それと比べれば、冒頭のシーンは夏の光と色彩が美しい。(映画のラストでこの輝かしい色調が戻ってこないことも、このラストが決してハッピーエンドでないことを暗示している)。この光り輝く世界(映像)は天国、あるいは神の象徴であるとも捉えることができる。映画の大部分にシャルルは登場しないが、常に存在している。娘の部屋には会ったことはない父親シャルルの写真が飾られているし、フェリシーの行動を規定し、あるいはロイックやマクサンスの運命を規定しているのも、不在であるシャルルだ。フェリシーにとって毎日娘エリーズを見ることは、その背後にシャルルを見ることでもある。例えば姉が言うように「決して再会などあり得ないシャルル」を追い求めることは、神の存在・不存在という信仰の問題でもある。そしてフェリシーはいみじくもヌヴェールの教会で「再会を信じる」(=神を信じる)啓示を受けるわけだ。この映画のフェリシーは、本人も言うようにインテリ(知識階層)ではない。しかしロイックが分析するように、フェリシーが無学ながら自分の言葉で語ることは、パスカルの思想であり、プラトンの思想だった。(『春のソナタ』ではカントが一つのテーマとなっていた)。直感でものを理解する女性と、言葉というロジックで理解する男性(ここではロイックがその象徴)という男女の違いを、ロメールは描いている。「気分屋」という言い方で表現しては女性に失礼かも知れないけれど、まさに気分ないし直感で男を振り回すのが女だ。やや誇張はされているけれど、その辺の女性観を良く表現した映画であるとも言える。そしてその女性を演じたシャルロット・ヴェリーは素敵に名演だ。ロメール映画で彼女に近いのは『緑の光線』のデルフィーヌだろう。そのデルフィーヌをやはり素敵に名演したのはマリー・リヴィエールなのだけれど、この『冬物語』の中でもほんのちょい役として、ロメールはちゃんとこのマリー・リヴィエールを登場させ、バスの中でこの姉妹を出会わせていた。以上は昨日5月1日付の日記からの続きです。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.05.02
コメント(0)
Les Contes des quatre saisonsCONTE D'HIVEREric Rohmer114min(所有VHS)久しぶりに見たのですが、数のある似たようなロメール作品の中では傑作の1本だと思います。最近知ったのですがエリック・ロメールは、この『四季の物語』という4部作、まずこの「冬」を構想して作りたいと思い、それが4部作に発展したらしい。だからこの「冬」には力が入っている感じです。「春」の方が先に作られたのは、前座的に親しみやすい作品として「春」をまず公開しようという作戦だったのでしょう。制限字数を超えてしまいそうな予想なので、2回に分けてアップするつもりで書きます。まずストーリーなんですが、もともとこの映画は予告編やビデオ/DVDのジャケット解説を見ただけでラストの予想はおおかたついてしまうと思います。なのでネタバレを恐れずあらすじを書いてしまいます。持っているVHSジャケットには「ロメールがナイーブに綴る現代のお伽話」とあります。たしかにお伽話、あるいは少女マンガ、ないしはハーレクインロマンスのプロットかも知れません。でも実はそれほど単純ではないし、含意は多いですね。5年前のひと夏の思い出、ないし経験として、主人公のフェリシー(シャルロット・ヴェリー)は運命の男性シャルルとブルターニュの海岸で知り合い、熱烈な恋愛をする。しかしちょっとした行き違い(実はこれにも意味はある)から再会出来なくなってしまう。そして5年後の現在、フェリシーはシャルルとの間の娘エリーズを未婚の母として抱え、パリ20区ベルヴィルのマクサンス美容室で美容師をしている。彼女には 愛情関係のある異性の友達 (←後で解説)が2人いた。1人は図書館司書のロイック。もう1人は勤務する美容室の主人マクサンス。マクサンスは妻との離婚を口にしつつも話はなかなか進まなかったが12月のある金曜日、パリのこの店は売り払って、故郷ヌヴェール(パリ南方約2百キロの中都市)に開業するので一緒に来て欲しい、と突然フェリシーに言い出した。彼女は承諾し、既に出発したマクサンスをヌヴェールに訪ねる。パリに戻りロイックに別れを告げると、クリスマス直後に娘エリーズを伴ってヌヴェールの店に引越した。そこでの生活を始めたものの、マクサンスが生活を共にする男ではないことに気付き、別れて早々にパリに戻ってしまう。シャルルとの運命的再会の希望に生きることにした彼女は、大晦日にバスの車内で偶然の再会をするのだった。主人公のフェリシーを中心に考えれば、物凄い偶然のハッピーエンドと感じられがちだけれど、実はそれほど単純な物語でもない。二股かけた上に簡単に別れて運命の人を待つという自己中で無責任とも思われる彼女を最初に弁護しておきたい。すぐ上に 愛情関係のある異性の友達 と書いた。この感覚が日本人には理解が難しいのではないだろうか。単純に言うとここでは男3人と女1人の4角関係なのだけれど、ロイックもマクサンスも彼女が思い続けている特別な存在であるシャルルのことを知っている。またロイックはもう1人の男マクサンスがいることを、マクサンスはもう1人の男ロイックがいることを「知って」いる。「知っている」上でどちらの男性もフェリシーとつき合っているのだ。そして彼女がその両方と同時進行的に関係を持つからといって、それは必ずしも「ふしだら」でもない。5年前のブルターニュでの別れ際に彼女が誤った住所をシャルルに渡してしまって、それが原因で2人は再会できなくなってしまった。ロイックとフェリシーの出会いは語られないが、ロイックはシャルル探し、具体的にはシャルルからの行方知れずになってしまった手紙探しに協力したらしい。もちろんロイックには女としてのフェリシーに恋したであろうけれど、基本関係は「男と女の友人関係」なのだ。友情関係というのは同性間であっても異性間であっても、親密になればなるほど相手の感情問題に関心を持ち、互いに慰めたりもする。寂しいときのそんな1つの形態がセックスになることもあるということだ。 愛情関係のある異性の友達 と呼んだのはそういう関係だ。しかしこれは日本で言ういわゆる「割り切った関係」とか「セックス*フレンド」というのとはまったく別のこと。集団に埋没し、他者との各種の関係性の中に自分のアイデンティティーを持つ日本人の文化とは違い、それぞれ1人ひとりが個人として自分だけでアイデンティティーを持たなければならない、西欧文化の個人が必然的持たされている「孤独」があるからこその関係のあり方だ。だからと言ってそこに性欲とか肉欲とかが無関係であると言うつもりはもちろんない。しかしかつて伊丹十三氏が言っていたことを敷衍して引用するならば、たとえステディーな関係ではあっても「実存的孤独を伴わない日本人の恋愛ごっこの、快楽へ流れがちなセックスよりも、遥かに切実で真面目な」ものなのだ。もちろん「実存的孤独」が日本人に皆無だと言うつもりは毛頭もないし、それどころかそれは人間存在の本質ではあるのだけれど、少なくも日本人はそれを日々強く意識してはいない。ロメールの映画というと、言葉、言葉、言葉、という印象があって皆よくしゃべる。ここでも例えばロイックの家に来ていたカップルも議論、議論、議論だ。しかしフェリシーはその議論には加わらない(もちろんロイックに別れ話をしに来ているという心理もあるが)。彼女は言葉少なだし、「フランス語もろくにしゃべれない」と本人が言うように、言い間違いばかりしている。シャルルとのすれ違いの発端であるのも、彼女が住所のルヴァロワとクールブヴォワ(互いに隣接するどちらもパリ近郊の都市名)を間違ってシャルルに教えたのが原因だ。彼女の言葉はすべて無垢だ。2人の男に対しても、母親や姉や娘に対しても、駆引や策略とかはなく、思った正直なままを口にするだけだ。言葉にウェイトの大きいロメール作品でのこのようなフェリシーという人物は、言葉(=論理)以前の無垢な存在なのかも知れない。自分の住んでいる母親の家の住所を間違ったのが再会できなくなった理由だけれど、自分の住所を間違えたこの言い違いは不自然ですらある。離れ離れになってしまうもっと別の理由など他にもいくらでも考えられる。つまりこの脚本は意図的にこうなのだ。言い違いの心理的根底には、再会を恐れる無意識があるということだ。だからこの物語は、偶然によって再会できなくなった2人が再会を果たすといった単純なものではないことがわかる。5年前に別れるとき、コック研修だかなんだかでその後アメリカに行くシャルルがフランスに戻ってきたら再会したい、ともちろんフェリシーは思っていた。しかしそれはある種の人生の決定にもつながる。たとえばそれはこの映画のラストが示唆するように、シャルルが店を開いて、そこの女主人となり、もちろんプライベートではシャルルの妻になって、といったものだ。しかしそういう「人生の確定」に抵抗を持つフェリシーなのだと思います。彼女が「自分の定住居」を持たないというのも、そういうフェリシーを象徴しているかも知れない。幼い娘を母親の家に預けて、そこに暮らしているようでありながら、時には一人(あるいは娘を連れて)ロイックの家にも寝泊まりするし、明示されないがマクサンスといる日々もあるだろう。マクサンスに突然ヌヴェール行きを告げられたときの彼女の態度は、唐突で独断なマクサンスへの怒りのような形で表現されているけれど、これは自分が決定を迫られたことに対する当惑なのだと思う。彼女は結局承諾するが、どこかで言っていたように「選択のための選択」なのだ。「こうしたい!」とか「こうするぞ!」といった意志的選択ではなく、どちらかを選ばなければならないから選ぶ。フェリシーは週末にヌヴェールに行く。週末だから(あるいはまだ開業前で)店の営業はない。マクサンスは店鋪を見せたが立地も良い立派な店を彼女は気に入った。古都ヌヴェールを案内されると、フェリシーにはすべてが美しく見えた。そしてヌヴェールに来ることを最終的に決断する。しかしそれは日常を欠いたものでしかない。ロイックには別れを告げ、クリスマスが終わってヌヴェールに彼女は娘エリーズを連れてやってくる。しかし彼女を待っていたのはある「決定された人生の日常」だった。店の2階には3人の住居があり、マクサンスとの夫婦の寝室もあった。店で期待されるのもマクサンスの妻として「マダム」という女主人の彼女だ。店員に「マダム」と呼ばれて彼女は「フェリシーでいいのよ」と言うが、マクサンスは「けじめはつけなければならない」と言う。そんな「妻の座」「女主人の座」への人生決定に彼女は違和感を感じた。娘が(クリスマス飾りを見に)行きたいといった教会で彼女は啓示を受ける。彼女はカトリック信仰を持つわけではないし、後でロイックにこのときのことを説明するように、それはあくまでも宗教的(キリスト教的)こととは無関係だ。教会という場は、ここでは超理性的直感の環境ということだろう。彼女はシャルルとの奇跡的再会を待つことにする。それでマクサンスには別れを告げてパリ郊外の母親の家に戻ってしまう。そこでロイックと一緒に観に行く芝居がシェイクスピアの『冬物語』。信じることで亡きはずの妻が再生する物語を自分とシャルルに重ね、フェリシーはここで2度目の啓示を受ける。それでシャルルを待つ人生を送ることに彼女はするわけだけれど、実はこれはあり得ないことに生きるということで、人生決定の回避でもある。最後に奇跡が起こってフェリシーは、まだ彼女を思い続け、しかも独り身のシャルル再会する。これは一見ハッピーエンドだ。シャルルが提案するのはマクサンスの場合と同じ。2人は結婚し、ブルターニュにレストランを開業し、そこのマダム(=女主人)の座に収まることだ。彼女は今度は快くそれを受け入れる。場面は大晦日に母親の家にやってきた姉夫婦と子供たち、フェリシーとシャルル。しかしバスでの再会からこの最後の場面まで、冒頭で美しく描かれた5年前の夏のような天国的至福感はない。声だけは聞こえるが画面から大人達の姿が消え、子供達の様子だけが静かに写される。再会を喜び、「これから」の幸せに浸る2人の姿は何処にもない。以下明日5月2日付の日記に続く監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.05.01
コメント(0)
LE TEMPS DU LOUPMichael Haneke109min(DISCASにてレンタル) 1台の乗用車に乗った家族4人が田舎の別荘らしきちいさな家にやってくる。食料等を買い込んできたらしい。小学生の息子ベニーは鳥かごを持っている。「濡れるから下に置かないで」というセリフが聞こえる。家族が家の中に入ると、見知らぬ家族が家を占拠していた。その家族も4人。末子の赤ん坊が泣いている。男は入ってきた家族にいきなり猟銃を向けた。「食料は持ってきたのか?。車のガソリンはまだあるか?。」家の本来の持ち主の夫は銃を向けられ「食料も分けてやるから」と交渉をするが、猟銃は発砲される。夫を失い、家から放り出された母アンヌ(イザベル・ユペール)中学ぐらいの姉エヴァ、弟ベン(愛称ベニー)の3人は霧の中を自転車を押してさまようことになる。この映画に出てくる具体的地名はポーランド人移民という「ポーランド」以外にはほとんどない。日本でのレビュー等では場所も時代も解らないと書いている方が多い。しかしこの映画をフランス映画とするならば、フランス人観客には色々な理解が既に出来てしまう。役者がユペール、ダル、ベニシュー、シェローといったフランスの役者がフランス語を話している。もっともハネケの映画ではこれはあてにならない。『ピアニスト』ではユペールやジラルドはオーストリア人役で、ウイーンが舞台なのにフランス語を話していた。この『タイム・オブ・ザ・ウルフ』はオーストリアで撮影されたが、冒頭に出てくる乗用車はプジョーで、ナンバープレートはフランス・パリのもの。年式も今(2003年に)当たり前に走っているものだ。映画の主な舞台が田舎なのに対して、この家族等は「街から来た」という。ただ「街」としか言われないが、セリフの一つに「11区」というのがある。フランス人ならパリの11区を連想することは確かだ。そして段々にわかってくる「どうも地下汚染や異常気象で食料も不足する異常事態にあるらしい」というのは、冒頭の「床に置くと湿る」というセリフとつながるはずだ。この映画は2003年のものだが、その少し前からフランスをはじめヨーロッパ諸国は猛暑と長雨・洪水という異常気象に遭遇している。だからフランス人観客にとっては身近な終末的世界に感じられるように作品は作られている。ハネケは元祖オーストリア版『ファニーゲーム』をまったく何も変えずに、舞台だけアメリカに移したアメリカ版『ファニーゲーム US』を自ら作ったが、それは観客に映画世界が自分に身近と感じさせたいからだ。ハネケは「フランス版、日本版・・・等々各国版を作るのも良いかも知れない。」と言っている。そういう意味でこの『タイム・オブ・ザ・ウルフ』は"フランス版"としてフランス人観客にとって身近と感じられるように作られていることを理解して見ると良いのかも知れない。父を殺され、母、娘、息子はサバイバルを求めてさまよう。警察を訪れるが警官は「今のような状況では・・」と取り合ってくれない。知人を訪ねると「むかしあなたがしてくれた親切へのお返しよ」とわずかながらの食料を恵んでくれる。このセリフも少し意味深だ。そしてやっと辿り着いたのは農家の納屋か何か。母が不在のとき納屋の中に弟の飼っていたインコ(←たぶん)を逃がしてしまう。納屋の中を逃げるインコを姉と弟は追う。やっと姉が捕まえると、弟は鳥を胸に抱き、愛おしそうに着ているジャンパーの胸元に入れて寝る。しかし当然のこととして鳥は圧迫・窒息死してしまう。このエピソードはこの息子と母の(あるいは娘と母のでもある)関係性の象徴らしい。母はこの後も息子や娘を保護しようとするけれど、その保護とは支配でもある。このテーマは『ピアニスト』にもつながるかも知れない。夜息子が納屋から失踪するのは、インコが鳥カゴ(あるいはベンの保護)から逃げようとしたのと同じなのだ。納屋を火事で燃やしてしまった3人は見知らぬ少年と出会い、道中を共にすることになる。貨物列車を止めて乗せてもらおうとして失敗する。列車には難民が乗っていた。線路づたいに歩く4人が目指すは鉄道の貨物駅であり、そこを通過する列車に乗ってどこか生きられる地へ行くことだ。貨物駅に着くと、そこには既に何組かの難民が列車を待っていた。駅舎での共同生活が始まる。ルールはあってなきに等しい。銃や食料を持った者が強者として支配している。強者に体を提供して食料を得ている女もいた。出会って道中を共にしてきた少年は最初から盗みを働いて追放される。エヴァ(姉)が手紙に書くように、つっぱって他人に心を開こうとしない少年だが、彼にそうさせるのは倫理観ゆえだと思う。欲望丸出しの大人への反抗なのだ。少年がわずかに心を開くのはエヴァに対してだけれど、エヴァが野犬に噛まれた少年の手を治療することがキッカケとなる。何があったのか、たぶん大人への不信から傷ついた少年の心を癒すということの比喩なのだろう。エヴァという名前自体がアダムを癒すべく創造された女の名だ。最初はアンヌ(母)も少年の手を治療するが、長続きはしない。大人では彼の心を癒すことはできない。ハネケの映画では子供が重要な役を果たす作品が少なくない。『隠された記憶』では少年時代のダニエル・オートゥイユの罪は子供の罪ではなく大人の偏見の反映であり、その偏見を解消せず持ち続けたのが彼の罪だ。物語を動かし始めるのはたぶん息子ピエロの親への不信だし、ラストはこのピエロとマジッドの息子に託された希望だった。『コード・アンノウン』でもビノシュの恋人の弟の少年や黒人の子供、聾唖の子供たちが大きな意味を持たされていた。『カフカの"城"』でも善意の進言者として子供を描いた。この映画でも色々な意味が3人子供(ベン、エヴァ、少年)に託されており、ネタバレになるので書かないが最後にはベンのある行動が描かれる。どの映画も、子供、つまりは人の未来への、性善説としての希望なのだと思う。ハネケの映画は独自のスタイルを持つ。まずは「観客への身近化」という性格。飢餓・貧困はニュースで見る世界のどこかの実情なのに、我々は傍観者、野次馬でしかない。それは事態を憂慮して真面目に考える者にとっても同じことだ。その者も快適な都市生活を送り、美食も楽しんでいることに変わりはないからだ。それを傍観者としてではなく自分のこととして感じさせることだ。そしてその性格と関係した実験室的映画という性格。それは前衛的というような創作の実験という意味ではない。映画自体が実験室なのだ。それには二重の面がある。この映画では、食料も不足した終末的世界を仮定し(実験室に作り出し)、そこでの人間を考察する。そしてもう一つの面は、観客自体を実験動物としてモルモットにしてしまうこと。それを仕掛けるのはハネケだけれど、それを観察するのはハネケではなく、見ている観客自体である。究極の問いかけ映画であると言えるかも知れない。だからそんな問いかけを考えたくない観客や、どうしてハネケに偉そうにそんな問いかけをされなければならないかという反感を持つ観客は彼の映画を嫌う。この映画の中でとりわけ好きな美しいシーンが一つある。途中から大勢の難民集団が貨物駅にやきた。当然狭い駅舎の中での共同生活が始まる。夜みんなが寝ようとしていると、新しくやってきた人々の一人の男がカセットテープをかける。音楽のないこの映画で音楽が流れる唯一(唯二)のシーンだ。流れてくるのはベートーベンのバイオリンソナタ『春』の第2楽章。静かで美しい音楽だけれど、ベートーベンの理想主義的世界の美しさは、殺伐とした物語の状況とは不似合いだ。精神的に狂気を孕んだ音楽にさえ聞こえてしまう。そんなベートーベンを耳にしたエヴァは聞き惚れた。で翌日エヴァはあれをまた聞かせてくれと男に頼む。ベートーベンが作った理想の世界の音楽。それを聞いて感動するエヴァ。どちらも人間の希望だ。この1シーンだけでこの映画をボクは好きだ。ここにハネケの思いも託されているのではないだろうか。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.04.28
コメント(0)
LA VALLEEBarbet Schroeder100min(DISCASにてレンタル)バルベ・シュレデール(aka バーベット・シュローダー)というとエリック・ロメールと映画会社 レ・フィルム・デュ・ロザンジュ を設立した人で、1969年の『モア』が有名。その後アメリカに渡って、このブログでも取り上げた『ルームメイト』なんかを作ってます。最近では『パリ、ジュテーム』の第6話、クリストファー・ドイルの「ショワジー門」に主演してました。そしたらたぶん日本未公開だったこの『ラ・ヴァレ』がDISCASに入ったので、早速借りました。『モア』の3年後で同系列の映画ではありますが、もっと重層的とでも言うのか、色々な要素からなっていて、見方も多様です。ある意味時代色の濃厚な40年近く前の作品をどう観るかというのはありますが、2008年の時点で観るにはこちらの方が面白いかも知れません。主人公ヴィヴィアーヌ(ビュル・オジエ)はフランス人で、オーストラリア・メルボルンのフランス領事夫人。電話で夫と話す彼女を聞いていると夫婦仲が悪いわけではなさそうだし、領事夫人という役をもこなしているようだけれど、どこかそれにはまり切れてない。後半には「夫と同じ考え方ね。」って、不満・批判を交えて男に言うセリフもあります。それでパリに装粧品店を持っているか、手伝っているかしていて、ニューギニアに原住民の民俗品なんかを買い付けに来ている。彼女が欲しいのは狩猟禁止になっている極楽鳥の羽。そこで知り合ったのが男女2人ずつと、その1人の女の子供の計5人のヒッピーグループ。男はオリヴィエと、グループの精神的指導者のようなガエタンの2人。ジャングルの奥地にあって、道もなく前人未到、いつも霧がかかっているゆえに空からも見ることが出来ず地図上でも空白となった地域にある 谷(タイトルのラ・ヴァレ=LA VALLEE=谷)にある地上の楽園、楽園であるがゆえに行った人は帰ってこないという 谷 に行く準備をしていた。オリヴィエを愛するようになっていたというのもあるけれど、最初は極楽鳥の羽を手に入れるという目的でグループに同行していたヴィヴィアーヌ。森林での文明を排した自然に回帰した生活、原住民との交流の中で、最初は苦しみもするものの男女5人でのセックスの共有をも受け入れるほどに心が解放されていく。最初はジープで、次は馬に乗って、最後は食料も尽きた中を徒歩で山を登り、グループは目指した谷を目の前にした。一つの見方は主人公ヴィヴィアーヌが西欧文明的精神の拘束から解放されていくのを追うこと。『モア』と比べればピンク・フロイドの音楽は控え目。自然の音や原住民の祭礼の音楽など。緑のジャングルの中で自然と一体になって心を解放していく様子は美しく描かれている。ちなみに性描写はほとんどない。しかし(まあ自分が男だというのもあるかも知れないけれど)彼女に自分を同化させて世界に入って見ることはあまりできないのではないだろうか。描写の視点は主観的であるより冷徹な客観に近い気がする。そして彼女の解放というのはもちろん映画の物語の主軸である「谷=楽園」を目指すということでもあるのだけれど、これはいわば現代(製作当時の)の社会に対する批判かも知れない。極楽鳥の羽ということとの関連などで「金」への言及が少なくない。すべてを金銭に還元する社会だ。彼女がやっと羽を入手するのは金による購入ではなく、「気にいられたからもらう」のだ。そして現代社会の側にいる密猟者から馬を購入するとき、彼女は持っていた法外な所持金をすべて放棄する。馬は本来1頭100ドルくらいと言っていたから、必要な馬は5頭で500ドル。プレミアをつけて5倍を払っても1500ドル。それに彼女は10倍近い1万2千ドルを放棄する。金は所有の世界をも意味する。男女が互いに相手に忠実であるというのは、相互的所有ということでもある。ヴィヴィアーヌは最初オリヴィエを愛したので、オリヴィエがグループの別の女性とも関係していることを知ってショックを受ける。しかし後にはそれをも受け入れられるようになり、自分ももう一人のガエタンにも自然に身を任せることになる。共有とは所有の破壊なのだ。前作『モア』は1969年の作だが、具体的構想はいつからあったのだろう。こちら『ラ・ヴァレ』は1972年だから、明らかにポスト・五月革命の作品だ。ヒッピーが現代文明に反抗したのと同じ根を持つ知識層の反乱(労働者階級へも波及)が五月革命だとすれば、その挫折の後に作られた作品だ。『モア』は必ずしもヒッピーを描いただけの作品ではなく、弱い個性の青年が自己の深層を支配的女の中に見るという一つの普遍的愛の構造の物語でもあり、ドイツ青年ステファンは自己破壊に向かって進んでいく。しかし西欧現代文明の否定を象徴するガエタンたちグループが行きついたところ、谷とは何なのだろう。彼らは戻ることもたぶん出来ない。しかしそれはそこが楽園だから帰らないのだろうか。戻れないから帰らないのではないだろうか。最後は夜が明けて谷を彼らが見つめている後ろ姿の美しいシーンだけれど、彼らが目にしていたものは何なのだったのか?。恐らくはただの谷以外の何ものでもない無ではなかったろうか。自分たちの出自である西欧文明を否定しての旅も行く先には何もなかった。この映画には原住民の祭礼が出てくる。彼らに何をどう説明して、西洋人出演者に現地人の化粧を施し、祭礼に参加させてもらい、それを撮影したのかはわからない。しかし彼らの酋長らしき人物が言った言葉から理解できるのは(字幕翻訳が正しいとして)、彼らは撮影隊の西洋人と交流を持ち、(たぶん自分でもどんなものか良くわかっていない)映画のためのヤラセや演技ではなく、実際に彼らの信じる文化の祭礼を執り行っているらしいということだ。だからその意味ではこの部分はドキュメンタリーに他ならない。しかしオリヴィエが辛辣にもヴィヴィアーヌに言うように、そこに参加する西洋人の姿勢は「あくまで西洋の自分の文化を持った」ままでの観光客に過ぎない。物質や所有の西欧文明のアンチテーゼとして未開部族の世界を持ち出そうとしても、決して自分たちがそこに同化することなどではないのだ。この部族社会ではたんなる野次馬で、一方出自の西欧文明を批判して何かを求めて旅しようが、行く先の谷には楽園はなかった。西洋近代文明の行き詰まりの象徴でもあり、五月革命の挫折のそれでもある。バルベ・シュレデールはスイス人の両親を持ち、イランのテヘランに生まれた。子供の頃は地質学者であった父にともなって南米コロンビアで過ごし、中等教育以降は希望してフランス・パリで教育を受ける。フランス等西欧文化がどのように非西欧の文化と接触し、それを捉えているか。彼の経歴が彼にこの視点を持たせたのかも知れない。この視点で言えば、西欧文明が未開文明を好きなように理解し、支配し、利用し、搾取しているかの批判が込められているかも知れない。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.04.26
コメント(0)
GROSSE FATIGUEMichel Blanc84min(所有VHS)昨日の日記の『他人のそら似』なんですが、ちょっと加筆します。まだ見てない方にはネタバレしない方が良いことが多くてあまり書けなかったので、ここでは完全ネタバレで面白かったことなど書かせていただきます。一応背景と似た文字色にして読みにくくしてありますので、選択反転して見て下さい。以下完全ネタバレ面白かったことの一つは構成なのですが、主人公とそっくりさんの関係です。本物ミッシェルは映画俳優&脚本家。偽者パトリックはミッシェルに成りすましている。偽者に迷惑をかけられた本物が友人女優のキャロル・ブーケと偽者を追いつめる。そして偽者の故郷の小さな町に本物が行くと、町の人は偽者の方だと思う。偽者と言ってもここの町の人、それには母親や学校の恩師も含まれるのだけれど、その人たちには偽者も本物もない。自分たちの良く知っているパトリック(偽者)がミッシェル・ブラン(本物)だと思ってるわけです。それでその町で経緯上、本物は偽者を演じることになってしまう。この逆転が巧みな構成です。そして本物ミッシェルが偽者パトリックだと思われて、そのふりをすると言っても、町の人が思っているパトリックは映画界のミッシェルでもあるわけだから、その部分は地でいってるわけで偽者のふりをしているわけではない。本物ミッシェルは知らない人のいない人気喜劇俳優なのだけれど、偽者はスーパーでのイヴェントなんかの営業を勝手にやったりしている。そんな会場に本物は行くのだけれど、だからそこで本物の自分をも公衆の目に偽者と同時にさらしてしまえば、「何だ?、何だ?」ということになって、本物ミッシェルにとっては誤解も解けて一件落着するはず。でもそれをしてしまっては偽者パトリックを罪に落しめ、母親や彼の故郷の人たちを悲しませることになるとキャロルが止める。そして偽者と本物の対決になったときに、偽者は本物の心をくすぐるような提案をする。わずらわしい営業活動やCM出演や金のための出たくもない駄作映画は自分が引き受けるから、本物は価値の高い映画製作や出演をして、分業しようというのだ。これは喜劇上の物語の話なのだけれど、実は昨日のレビュー本文にも書いたようにこの映画は最後である枠にはめられた物語であることが明かされる。そうするとすべて比喩としてとれるようになっている。偽者の甘い誘いに乗って本物は提案を受け入れるのだけれど、実は一種の罠だったんですね。偽者が本物に成り代わってしまう。つまり本物であるはずのミッシェルが、偽者パトリックにされてしまう。それで本物は騒動を起こすけれど、偽者としか思われない。映画冒頭であった本物の知らない自分のやったとされる不祥事は偽者がいてやったことだとわかるのは良いけれど、本物はその偽者にされてしまったわけです。それで本物が偽者として、と言っても最後の騒動は信じてもらえない本物がやっているわけだけれど、刑務所に入れられてしまう。出所してきて途方に暮れる本物は名優フィリップ・ノワレのそっくりさんに出会う。そしてそのそっくりさんは、自分も同じで、偽者に本物の立場を奪われてしまった本物のノワレだけれだと言う。んん~、なかなかの作りと思っていたら、大きな落ちとして「枠」があった。早朝に二人はパリのシャンゼリゼを歩くのだけれど、ノワレが言う。「ここは昔映画館があったけれど、今はない。ここも映画館だった。」今でもまだ映画館があるじゃないかと反論するミッシェルにノワレは、アメリカ映画の汚い英語のセリフを真似して、そしてバキューン、バキューンとピストルが乱射されるのを真似た後、「こればかりじゃないか!。」そして凱旋門まで来たところで無名戦士の墓を指差しながら、「フランス映画はこれだよ。死んだ今は眠るかつての勇敢な戦士だ」と。ここでこの映画の枠である比喩の構造がはじめてわかる。本物のミッシェル・ブランやフィリップ・ノワレとはフランス映画のことであり、彼らを乗っ取った偽者とはアメリカ映画のことだ、と。原題は「大きな疲れ」という意味で、もちろん偽者に悩まされ、最後には入れ代られてしまう主人公の疲れのことだけれど、低迷していてパッとしないフランス映画界の疲れのことなんですね。そんな二人は「エキストラでも良いから」と映画出演の仕事を探すのだけれど、ポランスキーのオーディション受けて、カフェ(有名なル・フーケッツがロケ地)のボーイというちょい役で出演することになる。ここに込められているのは、フランス映画のことで、小さなことから再スタートしようではないか、という希望なのだと思います。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.04.25
コメント(0)
GROSSE FATIGUEMichel Blanc84min(所有VHS)この映画はミッシェル・ブランとキャロル・ブーケが主演で、脚本・監督がミッシェル・ブラン。この二人は嫌いではないけれど、特別好きなわけでもない。それで中古ビデオ買ってあったものの見ないでいた。でもキャストは豪華、豪華。フィリップ・ノワレ、シャルロット・ゲンズブール、ロマン・ポランスキー、ティエリー・レルミット、ジョジアーヌ・バラスコ、マチルダ・メイに加え、カンヌ映画祭会長のジル・ジャコブも出演し、原案はベルトラン・ブリエだ。でもたんなる軽いコメディーと思いきや、そこはフランス映画でなかなか含みもある面白い映画だった。 この映画は映画界を素材にした作品で、上のどの役者も自分自身を演じている。監督&主演のミッシェル・ブランは、有名な喜劇役者・脚本家のミッシェル・ブランを演じる。ところがそのミッシェル・ブランの周囲で騒々しいことが色々と起こる。そしてある朝友人である女優ジョジアーヌ・バラスコをレイプした疑いで警察に踏込まれて逮捕されてしまう。告訴は取り下げられて釈放されるものの、自分では身におぼえのないことだった。過労で精神がおかしくなったのか。訪れた精神科の医師に田舎での休息をすすめられ、キャロル・ブーケ演じる女優キャロル・ブーケが提供してくれた彼女の別荘で療養しながら脚本を書くことにする。 そんな中わかったのは、日本題の「他人のそら似」が示すように、パトリック・オリヴィエなる瓜二つのソックリさんがいて、彼ミッシェル・ブランになりすましていたことだった。まあ普通の映画ならそんなドタバタ喜劇なのだろうけれど、二転三転の筋はよくできているし、映画最後にはそのすべてを飲み込んでしまう「ある枠」が用意されている。実によく出来た脚本構成だ。あまりネタバレしてしまっては新規に観られる方の邪魔になってしまうだろうから控えるけれど、実は書きたくて書きたくてウズウズしている。それで当たり障りのないことを少しだけ。 実際にそんなソックリさんがいたら迷惑もありうるだろうけれど、そこは映画でなく現実なら多少の混乱で済むだろう。しかしそれでも面白いと思ったのは、自分が誰でも知っている有名人にソックリだった場合の悲劇だ。映画の中でミッシェル・ブランが二役で演じるパトリック・オリヴィエがそれだ。まあそういうことはそうはないだろうが、でもここに一つの現実味を感じた。 あと細部を書けば、キャロルが奇跡を起こした聖女にされてしまうギャグも面白いし、「神秘は楽しいじゃないの」と言うキャロル・ブーケにミッシェル・ブランが「ブニュエルの映画に出てるからそんなこと言うんだ」と言うセリフとか、ジェラール・ドパルデューの名前の出され方とか、含みのある洒落たセリフが映画ファンの心をくすぐる。・・・ 何を書いてもネタバレできないもどかしさを感じるのみ。んん~辛い!。出演陣もみんな良かった。キャロル・ブーケ以外は皆ちょい役だけれど、なかではシャルロットが良かった。もちろん「その枠」で最後を閉じるフィリップ・ノワレも。早朝のシャンゼリゼ歩きながら彼が語るフランス映画についての話は、ノワレがノワレとして語るからジーンともくる。そして女優キャロル・ブーケが、映画の中で女優キャロル・ブーケを演じ、その彼女がさらにキャロル・ブーケを演じた部分の彼女の演技は素晴らしかった。明日の日記に完全ネタバレの加筆をしておきました。 監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.04.24
コメント(0)
1 CHANCE SUR 2Patrice Leconte109min(所有VHS)純粋に1本の映画として見れば大した作品ではなくって、いくらでも批判は書ける。でも好きな作品です。パトリス・ルコントはいまいち苦手な自分だけれど、いちばん好きな作品かも知れない。今の若い人にジャン=ポール・ベルモンドとかアラン・ドロンって言っても、相当なシネフィルでもないかぎり、ほとんど誰も知りません。ブリジット・バルドーなんかは引退も早かったから知る人はもっと少ない。いずれも1934年前後の生まれだから現在75才ぐらい。フランスの、あるいは世界的な巨大スターだった役者さんたちです。この映画のベルモンドとドロンは、日本ではドロンの方に人気があったけれど(紳士服ダーバンやマツダ・カペラのテレビCMとか)、本国フランスではベルモンドの方が人気も評価も高かったようです。でもいずれにしても60年代、70年代の大スターだった2人。この映画の製作は1997年だから、ドロンが62才でベルモンド64才。もちろんまだまだ若かったけれど、ベルモンドはいつの頃からかアクション映画が中心になり、今で言えばジャッキー・チェン(そのジャッキーも今や54才だけれど)のように、スタントなしの自演のアクション俳優。一方ドロンはカッコイイ美男の二枚目役だから、ジジイの役もイメージではない。そうすると、この映画は2人にとってはいわば引退宣言のような映画なんですね。映画の中のベルモンドの役は、かつて外人部隊で活躍し、今は高級自動車のディーラーをするレオ・ブラサック。一方のドロンはかつて知能犯的金庫破りの一度も捕まったことのない泥棒で、今は高級レストランのオーナーのジュリアン・ヴィニャル。でもそれは実は違うのかも知れない。ベルモンドの演じるのはジャン=ポール・ベルモンドであり、ドロンの演じるのもアラン・ドロンなんですね。それぞれの俳優が俳優ベルモンドや俳優ドロンを演じるために用意されたのが作中のブラサックやヴィニャルというわけです。自分はアクション映画やギャング映画はあまり見ないけれど、それでもいつの間にか2人の作品はいくつも見ていて、ある時代のスターとして脳裏にイメージが焼きつけられている。ヴァネッサ・パラディは当時25才で、やはり彼女の演じるのはヴァネッサ・パラディという1990年代末の時代の若いスターの役。物語は母親の遺言テープでレオとジュリアンの2人のうちのどちらかがヴァネッサ演じるアリスの父親だという設定。テープで母親は同時に2人を深く愛してしまったと語る。母親に愛されたレオとジュリアンというのは、国民(あるいは世界)に愛された人気映画スターベルモンドとドロンということでもあり、2人の俳優が当時のフランス映画を象徴すると見れば、そんなかつてのフランス映画を父に持って、今のフランス映画(ヴァネッサ)が生まれてきたとも解釈できる。もちろん時代の新旧交代の象徴ともとれる。そういう目で見ると実に感慨の深い映画です。2人の俳優自体もレオやジュリアンであるよりは、その2つの役に象徴されるベルモンドやドロンを演じています。ヴァネッサの演じるアリスが2人を見る目も、役のレオやジュリアンではなくベルモンドやドロンのようでもあります。ひょんなことからアリスが、そしてその結果レオとジュリアンの3人、ロシア・マフィアに狙われるというお話なんですが、元外人部隊と元金庫破りという役の設定だから、ロシア・マフィアと3人の大アクションが展開される映画です。アリスの母親がベルモンドやドロンのかつての観客の象徴であるとするなら、ただ成りゆきを見つめているだけのロシア・マフィアのボスの息子は、現代の、そして将来の観客を象徴しているのかも知れません。監督のルコントは当時50才で、2人の俳優の活躍の始まる1960年初頭にはすでに映画監督をやっていた人だけれど、彼はもともと過去への執着が強いタイプのように思えます。それでこういう映画を撮ったのでしょう。原題は「確率1/2」とも「チャンスは半々」とも、幸運の意味を込めても込めなくも解釈出来る意味ですが、もちろんどちらが父親であるかは確率は1/2という意味でもあり、窮地から脱出できるかその幸運は1/2ということでもあります。2人とも娘の父親でありたがっているから「自分が父親である幸運は1/2」ともとれます。いずれにせよそのどちらの1/2も、最初から結果の見当はつきますが、ラストはやはりああでなければいけません。最初にも書いたようにただのアクション映画として見たら名作とは言えないかも知れないけれど、書いてきたような含みで見ると、3人の役者の演技にもしみじみとした味わいが感じられて、そういう意味で良い映画でした。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.04.21
コメント(2)
UN INDIEN DANS LA VILLEHerve Palud86min(所有VHS)監督ジョン・パスキン&主演ティム・アレンのコンビによるディズニー映画『ジャングル2ジャングル』のリメイク元のフランス映画。この映画に主演のティエリー・レルミットという人の名を最初に記憶したのは、ちょうどパリで公開されたばかりの『フレンチ・コップ』(1984) だったんですが、この人は多作な人で、35年ほどの俳優生活の中で既に200本ぐらいの作品に出ているのではないでしょうか。その上この映画では原案・脚本にも係わり、自らプロデュースもしています。自らアメリカに乗り込んでの営業の結果がディズニーでのリメイクですね。ちょい役では先日見た『バルスーズ』にも出てました。この人の映画にはヒット作が多く、『フレンチ・コップ』が約6百万人、『奇人たちの晩餐会』は9百万人の観客動員をフランスで記録しています。この映画でも、先日の『妻への恋文』でもそうですが、コミカルとシリアスの同居したような役が多いでしょうか。役柄も営業も、自ら信じる道を突き進むといった感じがある人です。物語自体はたわいないものですが、難しいことを言わずに気楽に楽しむ作品です。先物取引の仕事をするステファン(レルミット)は新しい恋人シャルロット(アリエル・ドンバール)と再婚するために、14年前に突然失踪した妻パトリシア(ミウ・ミウ)と正式に離婚するためベネズエラの奥地の未開の村リポリポを訪れる。そこは正に先日の『10ミニッツ・オールダー』の中のヘルツォーク作品「失われた一万年」の20年前の方の世界だ。離婚届への署名をパトリシアは承諾するが、そこには失踪した時に妻が妊娠していた息子ミミ・シクがいた。もちろんステファンは息子の存在など知らなかった。そしてうっかり息子ミミ・シクと約束してしまい、すぐにも息子をパリに連れていかなければならなくなってしまう。ステファンはミミ・シクを連れてパリに戻ったが、リポリポ村での衛星携帯電話を使った大豆の先物取引でミスをしていて、会社に大損をさせてしまっていた。責任を取るために相棒リシャールと二人、ロシア・マフィアと係わりを持ってしまう中、現代文明を知らないミミ・シクがエッフェル塔によじ登るなど数々の陳騒動を巻き起こし、翻弄されるステファンを描いたコメディーだ。それぞれの場面や、映画全体に込められた諷刺や社会批判もあるけれど、それも軽くコメディーの素材にしているに過ぎないかも知れない。だからそういうことはマジに考察するべきものではないと思う。パリの普通の人の視点から見るからミミ・シクの行動は突飛で迷惑なものなわけだ。だけれど観客の笑いとなるのは、作中のパリの人々と実は同じ位置にいるはずの観客の視点をそこから外して、外部からの視点でパリの人々とミミ・シクの衝突を見せられることだ。これは観客が自らを対象化して笑っているという構造だ。リポリポ村の男女の風習に従って成立する相棒リシャールの娘とミミ・シクの恋にしても、自分たちの規範とは違う愛の本質を見せられるようでもある。もっともこの映画で描かれているリポリポ村の生活や慣習にどれだけリアリティーがあるのかは疑問ではある。ハッピーエンドが用意されているが、その後はどうなるの?、なんてことを考えるのは野暮というものだ。映画はそこで終わるのだから「その後」など存在しないのだ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.04.20
コメント(0)
LOUISE (TAKE 2)Siegfried110min(DISCASにてレンタル)この作品、予想を超える良作で楽しませてもらいました。ジグフリードという1973年生まれのフランスの若い映画音楽作曲家&映画監督についてはよく知りません。脚本、監督、音楽、撮影(一部)の4役をこなしています。主演女優がエロディ・ブシェ-ズというので見ました。彼女の映画はそんなに見ていませんが、『日曜日の恋人たち』、『ラヴァーズ』、『CQ』等の作品、どれも良いです。独特の雰囲気があります。どこの国にも個性的で、独特の雰囲気を持った役者さんがいます。そういう役者さんと同じように独自の個性を持っているんですが、この人の場合は、他人と違う独自性が、かえってフランス人(女性)の特徴を強く感じさせます。そこが彼女の魅力です。『CQ』でローマン・コッポラがフランス人女性のいわば代表として彼女を使ったのもそういう理由かも知れません。タイトルなんですが珍しく原題のまま『Louise (Take 2)』。「ルイ-ズ」はエロディ演ずる主人公女性の名前ですが、「テイク2」は何でしょうね。テイクと言えば映画なら同じシーンの撮影を1度、2度、3度・・・と撮り直すのがテイク1、テイク2、テイク3です。CDなんかレコードの録り直しもテイクって言う。ジャズの「テイク・ファイブ」が有名です(この命名は5拍子だからでもあるのですが・・)。それで気になるのが監督の芸名ジグフリード。これは日本ではドイツ語読みでジークフリート。ドイツ中世の叙事詩『ニ-ベルンゲンの歌』の英雄で、ボクにとっては同時にワーグナーの楽劇『ニーベルングの指輪』の登場人物(や楽劇のタイトル)でもあります。ジグフリードというこの芸名にはそんな含みがあるのではないでしょうか、作曲家でもありますし。テイク2の方はテイク・ファイブへの含みもありそう。で連想されるのはフランスの作曲家ギュスターヴ・シャルパンティエの大ヒットオペラ『ルイーズ』。このオペラは主人公ルイーズとボヘミアン詩人の恋人、2人の仲に反対するルイーズの父の物語で、この映画と同じようにパリが舞台。そこでの貧しい民衆や芸術家や夢遊病者とか、そういう人々の自由に生きる姿が描かれています。この映画の最後には「すべての放浪者たちへ」とテロップも出ます。映画の中の彼女の部屋にはヒッチコックの『鳥』の大きなポスターが貼ってあって、そういうオマージュのようなものも出てきますが、このシャルパンティエのオペラ『ルイーズ』は1939年に『ナポレオン』で有名なアベル・ガンスが映画化しています。そんなことを考え合わせると、ジャズの「テイク・ファイブ」もちょっと念頭に置きつつの、「現代版ルイーズ」くらいの意味なのではないでしょうか。この映画の時エロディは二十六ですが、役のルイーズはもう少し若い設定でしょうか。二十そこそこといった感じです。家庭(つまり両親)は悪くはなかったような感じで、今も父親とそこそこ普通のアパルトマン(たぶん父所有の)に住んでる。父親は小説家か劇作家か、とにかく文筆系の仕事をしています。インテリアなんか見てもいわゆる「良識的」ゴリゴリのブルジョワではありませんね。こういうボヘミアン的、でもしっかとアパルトマンに住んでいるんですが、そういう自由思想家的芸術家っていうのがパリにはいますね。自分が小学生でパリに住んでいた頃にもそういう親の子が友達にいて、よく遊びに行きましたが、そんな家庭を思い出しました。いわゆるブルジョワ家庭では親と小学生の子供っていうのは別者として親は考えている。だからそういう家庭に行っても自分がその母親と会話をしたり、何か一緒にしたりというのはほとんどありませんでした。しかしその友達の家は違いました。母親と話をしたり、一緒にチェッカーをやったりもしました。やっぱり物凄くリベラルな雰囲気でした。この映画の親もそうなのでしょう。でも妻(ルイーズの母)に死なれてからおかしくなってしまった。いわゆるブルジョワならば子供に期待する「良い子像」や「良い将来像」があるからそれに従って子供を育てれば、悪い言葉を使うなら調教すれば良い。自分自身妻に死なれたとしても生きる価値観には変わりはない。しかしリベラルな生き方というのは「決まったあり方」がないわけで、妻との共生で成立していた生き方や秩序をこの父は見失ってしまった。自身の確固とした哲学がなかったのかも知れない。結果単に娘を愛していることと、あとは仕事の創作だけの人生になってしまう。それで娘をただ放任し、また自分には自ら娘に示す何かの確信はなかった。そんな寂しさの中でルイーズは成長したのではないかと感じられた。ルイーズは定職も持たず、学校に行ってるって言うけれどそれもホントだかウソだか。無宿の若いチンピラ連中とつき合い、その一人の通称ヤヤが恋人で、万引きをしたりの毎日。彼女はメトロの地下道で浮浪者の男に小銭を恵むのだけれど、男は「要らんから持って帰れ」っていう。その男と話になり、男は息子に会いたいと言う。下校時間に小学校に行って、先生には上手いこと言ってギャビーという9才半の少年を連れ帰る。ちょうどメトロで出会っていたアラブ系のレミーという浮浪者(ロシュディ・ゼム)が彼女を追いかけてきたので3人で地下道の少年の父親の所に向かう。メトロの中で少年ギャビーはレミーにだけ耳打ちするが少年の母は娼婦で、あまり家に帰ってこないという。地下道の父親の直前まで来て、ルイーズは少年を男に会わすのをやめる。彼女はラリったこの人生の廃人に、既に仲良くなっていた少年を渡したくなかった。もしかしたら彼女はそこに自分の父の姿を見たのかも知れないし、自分がそうであったように少年の求めるのは母親(ないしは年令的には姉)であると感じのかも知れない。と言うよりも自分が母親的(ないし姉的)に子供に接し、保護し、愛情を持つことで、自分の満たされなかった何かを実現したかったのかも知れない。新しく出会ったレミーにルイーズはどこか惹かれた。レミーは彼女を好きらしいが、無理に何の要求もせず、ただつき合って優しくしてくれる。恋人ヤヤ とは違って犯罪的なこともしない。寒い中でねぐらがなければ公設の浮浪者宿泊施設で寝る。でもヤヤやその悪ガキ仲間とルイーズは一緒だから、ギャビーの服をデパートで万引きするのにも巻き込まれてしまう。捕まりそうになって彼の手引きで逃げた先はパリ・オペラ座。知り合いの女の子のいるバレー練習室に逃げ込む。そう言えばこれもオペラ(『ルイーズ』)への含みかも知れない。そんなこんな若いチンピラ・ヤヤと、浮浪者レミーと、少年ギャビーとのルイーズを描いたのが前半だとすると、後半は少し趣きが違ってくる。最初に書いてしまった父親との関係が浮上してくるのも、実はこの後半でだ。心変わりではなく、ヤヤだけではなく、別のものとしてレミーをも愛し始めるルイーズ。(以下少しネタバレ)それまで万引きはしても、強盗的な犯罪には手を染めなかった彼女なのだけれど、ヤヤにそそのかされてメトロで金持ちの黒人にたかり、途中からヤヤ達がナイフで脅しに入ってしまい、強盗犯の共犯となってしまっていた。そして彼女だけが警官に捕まってしまう。一緒にいたレミーはその場にいず、はぐれたギャビーも警官に保護されてしまう。ルイーズは取調べの結果精神不安定でソーシャル・ワーカーの面接を受け、鎮静剤をうたれて病院に入れられる。面会に来た父親からギャビーが施設に入れられたことを聞き、夜彼女はネグリジェ一枚で冬空の下病院を脱走する。行き先はギャビーの入れられている施設。彼女は忍び込んでギャビーと再会を喜ぶ。手引きをしてくれたのはギャビーに気のある黒人の少女ジョアンナ(←だったと思う)だ。ジョアンナをも施設から連れ出し、海が見たいと言っていたギャビーとジョアンナを列車に乗せる。(以下ネタバレ)ここからはルイーズを探し求めるレミーと、レミーを(そしてもしかしたらヤヤをも?)探し求めるルイーズの、メトロを中心とした徘徊だ。映像の編集的にはすれ違っているようにも感じられる描き方でもある。その喪失感、あるいはそれしか自分にはないという、相手を求める(特にルイーズの)感情が巧みに伝わってくる。そしてどのシーンも非常に良く撮られているので、編集でカットし切れなかった監督の気持ちもよくわかる。でも多くの批評にあるようにやや長く、冗漫な感じもないではない。最後の最後のネタバレはしないでおこう。まだ9才の子供だけれど、海についた子供2人は、海と愛を噛みしめていた。ルイーズに言わせれば無味乾燥に社会に統合されたソーシャル・ワーカーの人生をルイーズは本人に批判した。若さゆえの純粋さと社会制度への統合の拒否という、若者のハシカを描いただけの、ありがちな作品と切り捨てる批評もあるけれど、制度のために自由を失った生き方への拒否をも描けていたように感じた。それはラストのテロップにも示されているし、人の生などつまるところはすべて放浪者なのではないだろうか。海岸の少年と少女を美しいラストシーンとして描いていた。大作でも傑作でもないが、好きな映画だ。エロディ・ブシェーズの独特の存在感が寄するものが大きい。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.04.19
コメント(0)
L' HEURE ZEROPascal Thomas108min(桜坂劇場Cホールにて)歩いて6~7分の所にある桜坂劇場という映画館、会員になってるんですが、バースデー・マンスには無料招待券が送られてきます。この映画館はA、B、C3つのホールがあって、毎月20~30本ぐらいの作品を上映している。以前は見たい映画が毎月4~5本、見ても良い映画が10本はあったのですが、最近番組編成担当が変わったのか、方針の変更か、あるいは何らかの事情か、見たい映画をあまり上映してくれません。でも招待券があるから4月中に何か見ないといけない。で自分の時間の都合なども考慮して、「とりあえずはフランス映画か!」ってわけでこの『ゼロ時間の謎』を見てきました。原作はアガサ・クリスティーで、彼女が10冊の自信作にも入れている作品だから、物語は良く出来ているし、フランス・ブルターニュへの場所の脚色も自然だし、出演陣もそこそこ良いし・・・、でも物足りなかったです。ボクは推理小説の熱烈な読者ではないけれど、推理小説というのは、そして特にクリスティーのものは、語られる犯罪動機の人間ドラマの内容や、犯罪の謎とかトリックとか、そういうことは素材に過ぎないと思う。それを使って読者を牽引する力に最大の魅力があるのだと思う。明日学校があるのに、あるいは仕事があるのに、もう午前2時で、でもあと10ページだけ、と読み進める衝動を断ち切れず、そのまま夜明けまで読んでしまう、そういう牽引力が良い推理小説の条件なのだと思う。ボクが始めてクリスティーを読んだのは『オリエント急行』だった。まだ小学生で、フランス語で読んだので1/5ぐらいはわからなかったのだけれど、そういう熱に魘されるような読書体験だった。推理サスペンス映画には名作もあるけれど、それは映画に適した手法で作られた場合であって、小説を忠実に映画化しただけではこの牽引力がないのではないかと思う。映画と小説の牽引力の形態は同じではないということですね。そういう意味でこの映画、「はい、そうですか」って感じで、ワクワクもドキドキもすることなく終わってしまった(原作は読んだことはありませんでした)。ある時点でほとんど犯人をバラしてしまって、犯人がその殺人をするに至る心理のようなものをもっと追求したら、映画としては面白かったかも知れない。推理ドラマであり、また有名作品でもあるので、あらすじは書かないことにします。キアラ・マストロヤンニ見てると、どことなくマルチェロにもカトリーヌにも似ていて。彼女も良かったけれど、ローラ・スメットが良かったです。悪女っぽい役だから分が悪いけれど、好演です。そう言えばこの人もジョニ-・アリデーとナタリー・バイの娘でしたね。アレッサンドラ・マルティネスもよし、フランソワ・モレルよし。ダニエル・ダリューはちょっともう見飽きたという感じ。主人公でもあるメルヴィル・プポーはややオーバーアクションな感じでした。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.04.17
コメント(0)
UNE EPOQUE FORMIDABLEGerard Jugnot96min(所有VHS)SDF、Sans Domicile Fixe、定住居無し、つまりホームレスの物語。従来クロシャール(clochard=浮浪者)と呼ばれたホームレスがこのSDF(エス・デー・エフ)と言われるようになったのが1980年代頃でしょうか。日本でもそうだけれど、新しいタイプのホームレスが加わったことによるのだと思います。主人公のミッシェル・ベルティエ(監督ジェラール・ジュニョの自演)は寝具メーカーの管理職で、小学生の2人の連れ子のいる航空会社勤務の美人ジュリエット(ビクトリア・アブリル)と結婚して幸せな日々を送っていた。ところがある日彼は会社をリストラされてしまう。そんなことを妻には言えず、最初は会社の同僚に口裏合わせてもらって秘密に新しい仕事を探すのだけれど、っていうか反対に昇進したなんて妻を喜ばせ、高価なプレゼントしたりするのだけれど、当然の話そんなことやってるからすぐにお金は尽きてしまう。この辺の男の心理って、女性の中には理解しない人もいるけれど、なぜって女性は男性よりもより「冷たく現実的」なところがあるから。男っていうのは女に対する場合、一方では奢ったところと言うか、性的優越感持ったりしているけれど、それをも含めて女に対して虚勢張って自分を保っているところがある。だからちゃんとした仕事があるという(妻に誇れる)自分を失った時、かえってそれを補完するために、昇進したと嘘ついたり、高価なプレゼントしたりするんですね。愚かなことだとはわかってはいても、なんと言うか女に対して勢力の弱さが根源的にある。女は表面的には弱そうに見えても、実は一人で完結した存在であるのに対して、男はそうではない。アダムが一人で寂しそうだから神はイヴを造ったんですね。ちょっと脱線し過ぎたけれど、そんなわけで事実は妻にバレてしまい、そこでも女に虚勢張って売り言葉に買い言葉で喧嘩しちゃうから、家を出て(追い出されて)しまう。もちろん待っているのはSDFの生活。そこで出会ったのがこの道も長いトゥービブ(元軍医、リシャール・ボーランジェ)、クレヨン(ティッキー・オルガド)、ミモザ(チック・オルテガ)のSDF三人トリオ。この道でしたたかに生きるトゥービブにひっついた2人の子分のようだけれど、そこはフランス人というか、自分勝手な個人主義であることはちょっと日本の雰囲気とは違う。ミッシェルはオンボロながら車を持っていたし、トゥービブも最初はこの寝具メーカーの元管理職を上手いこと利用しようとするけれど、4人の間には男の友情が生まれる。ミッシェルがまだ持って倉庫の鍵使って毛布を盗みに入ったり。ミッシェルが空港に妻の姿を隠れて見にいくと妻がパイロットか何かの男と親しそうにしているし・・・。(以下ややネタバレ)ある日路上で物乞いしていて、息子に出会うのだけれど、息子は父に帰ってきて欲しいと言う。これが実の息子ではなく妻の連れ子という設定が上手いですね。実の、血縁の父だから慕っているのではないってことで、ここにミッシェルの人としての価値があるということです。トゥービブというのはSDF生活しているけれど、(あるいはだからこそ?)人というのを見抜く、洞察する能力は高い。彼はそのミッシェルと息子の様子を見ていて、ミッシェルは根っからSDFになるタイプではなく、妻にもその連れ子にも価値を持った人間であることを見抜く。だから妻のもとに彼が戻るべきだと思う。ミモザも死に、クレヨンも夜警の仕事を得たりする中で、ミッシェルと妻ジュリエットの再会をお膳立てする。まあたわいのないお話で、SDFの生活などのリアリティーは必ずしもないかも知れないけれど、ちょっとホロリとさせる、人情もののフランスコメディーと言うかで、なかなか楽しめました。こういうコメディーの伝統というか、系譜がフランス映画にはありますが、そんな1本。うるさいことを言わずに楽しむには良いです。永遠の名助演俳優と言われるリシャール・ボーランジェが物凄く良かったですね。彼の最高の役なんて言う人もいます。日本に移し変えても同じドラマは描けるかも知れないけれど、自分は自分、他人は他人といいう個人主義があるからこそ、そういう者同志が友情等で結ばれたとき、相手の善かれと援助をする。これがフランス国旗の「赤」、友愛って感じがやはりありますね。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.04.14
コメント(8)
LE BRASIEREric Barbier124min(所有VHS) 暗そう・重そうでもあり、自分好みの作品でないことは百も承知だったけれど、主演のジャン=マルク・バールとマリュシュカ・デトメール(aka マルーシュカ・デートメルス)の名に惹かれて買ってあったビデオ。1991年作品だけれど、フランス映画ではじめて製作費が1億フラン(当時のレートで約23億円)を超えた作品。ビデオジャケットの裏には「フランス興行収入 No.1 記録大作」とあるが、これは意図的嘘ではないにしても、翻訳か何かの誤りだと思う。1億フラン、1万4千人のエクストラを費やしながらフランスでは興行的失敗作だった。パリ地区での観客動員数は4万人にも満たなかったという。この数字がどういう数字なのかちょっと調べてみたが、超大ヒットだった『アメリ』は最初の1週間で30万人、半年で170万人、ハネケの『隠された記憶』は1週目6万、2週目4万、1ヵ月で15万。ルコントの『親密すぎるうちあけ話』が1週目10万、2週目5万、3週間で20万人を動員している(←いずれもパリ地区の数字)。多くの人は心からの本心では、決して暗い作品、重いテーマの作品を見たくはないのだと思う。だからそういうテーマの作品には、それでも観客を惹き付ける求心力のようなものが、あるいは何らかの表面的な娯楽性が必要だ。5千万円ぐらいの製作費の映画ならよいが、23億円の映画としては失敗作と言わざるを得ないだろう。(ちなみに映画を産業とは全く考えずに、自分で何十億でも出して採算度外視の映画を作るなら話はまた別だ。)フランス北部の炭坑の町トリウー。世界恐慌の不況下の時代1931年。普仏戦争敗戦1871年から第一次世界大戦戦勝1918年までアルザスとロレーヌ地方の一部をフランスはドイツに割譲していたが、その頃このトリウーはドイツとの国境の町であった。そんな地理的環境もあって、ここの炭坑には多くのポーランド人移民労働者がいた。炭坑で働く労働者は、フランス人を含め貧しく、また仕事はきつかった。勢いフランス人労働者の不満はポーランド人に対する差別という形で現れる。主人公ヴィクトール(ジャン=マルク・バール)とボクサーの父パヴラクもポーランドからの移民労働者だった。炭鉱夫の給料だけでは生活もままならず、父はボクシングもやっていた。パヴラクは故国に残してきた母親と妻と下の子供を呼び寄せる。そんな頃ヴィクトールはフランス女性アリス(マリュシュカ・デトメール)と出会い、互いに恋に落ちる。しかしアリスに言い寄っていた差別主義者の炭鉱夫エミールはもちろん嬉しくない。またヴィクトールにはポーランド人女性クリスティナという許嫁に近い恋人がいて、彼女は妊娠もしていた。そんなクリスティナを見捨てようとしたこともあって、ヴィクトールはフランス人社会からの差別と同時にポーランド人社会からも疎まれ、孤立していく。ここまでのストーリーでも既にシナリオとしての破綻が感じられる。その後の展開のためにも主人公をポーランド人社会で孤立させる必要はあったかも知れないし、苦難・悪条件はあっても愛し合うカップルを描きたかったのかも知れない。はたまた綺麗事ではない、より現実的な男女を描きたかったのかも知れない。しかし彼一途で、彼の子を妊ってさえいるクリスティナを簡単に捨ててしまうヴィクトールには、つまりはアリスとの純愛にも、観客はいまいち共感ができないのだ。そう感じながらこの映画を見ていくと、実は、もしかしたら、アリスとヴィクトールの差別を乗り越えた愛というのは、この映画の中心的テーマでもなんでもないのではないのかと思われてくる。邦題の「接吻」から想定されるラブロマンスではないということだ。この映画にはべテックスという地方紙の主幹で市長の座を狙う男が出てくる。腐敗した政治を改革しようという気概があることは事実なのだが、当選のためには反ポーランド人感情を煽ろうとしている。ポーランド移民にはもちろん選挙権は与えられていない。映画の最後に「べテックスは当選して改革も行ったが、それも第二次世界大戦の勃発を阻止することは出来なかった」と後日談のテロップが出る。(以下かなりネタバレ)2人の恋のその後の進展のあり方、幼いながらも炭鉱で働いていた弟の落盤事故等があって、ヴィクトールは社会に対する反逆精神を持つようになり、首謀者としてストに突入することになる。しかし事態を憂慮した経営者や当局の罠に上手くはめられてしまう。20世紀後半の世界の大巨匠と、31才で長編の監督がたぶん初めてのこのエリック・バルビエを比較するのは無理があるけれど、不況下で反民族(ユダヤ)感情が強まり、人々の中に芽生えていく憎悪が、やがてナチズムを生み、大戦へ突入していくという不穏な空気を、『蛇の卵』の中でベルイマンは見事に描いていた。『蛇の卵』は1920年代のドイツだったが、バルビエは同じような1930年代のフランス社会の病的心性を描きたかったのかも知れない。不況下での移民排斥というのはフランスのアクチュアルな問題でもある。しかし結果としてはそれを理解は出来るものの、映画全体としてはピントがはっきりしていなかった。脚本の完全なる構成上の破綻だ。「これを描きたかった」という監督の意図が不明確で、描かれるすべてが中途半端だ。中途半端というのは量的問題ではなく、質的問題で、すべてについて考えが浅い感じが否めない。全体のテーマ自体は悪くないだけに、実にもったいない映画だ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.04.13
コメント(3)
MILOU EN MAILouisMalle107min(所有VHS)ルイ・マルという監督には興味があるのだけれど、日本版ビデオも上の写真と同じジャケットで、表には 忘れていたやさしさを見つけてください 、裏には 自然を愛するミルと都会からの闖入者たちが奏でる "田園ラプソディ" とコピーがある。そして解説には 『さよなら子供たち』で世界中を涙させた名匠ルイ・マルが、美しい自然に上質のエスプリを効かせ、人々をやさしく包み込む円熟期の傑作 とある。マルという人は人間をもっとシニカルに辛辣に描くという印象なのでちょっと違和感を持ったまま見ないでいた。見てわかったのは、表面的にはそういう体裁をとっていて、一つのシーンさえなかったらそういう映画として見ることも可能だったろう。しかしそのシーン、一見なんてことないシーンなのだけれど、これがある以上はそんなにオメデタくこの作品を見ているわけには行かない。ボルドーよりまだ少し南、スペインとの国境にも近い内陸のジェール県の田園の中の大きなお屋敷。そこには六十くらいの独り身のミルー(以下 ミル ではなく ミルー と書かせていただきます)が、老齢の母親と暮らしている。冒頭には蜜蜂の飼育のシーンが、途中には川での巧みなエクルヴィス(食用にする小さなザリガニ)捕りのシーンがあるように、自然の中での生活を楽しんでいる。がある日母親が死に、一族の者たちが葬儀と遺産分配のために屋敷にやってくる。ミルー(ミッシェル・ピコリ)の娘カミーユ(ミュウ・ミュウ)は夫ポールと3人の子供連れ、死んだ妹の娘クレールは同性愛の相手らしき若いバレリーナのマリー=ロールと一緒に、『ル・モンド』紙のロンドン駐在員の弟ジョルジュはイギリス人の恋人と同伴で、ポールは医者で忙しく一時屋敷を去ってしまうが、通いの家政婦アデル、公証人でカミーユの愛人ダニエル、ジョルジュの息子とヒッチハイクの彼を乗せて来たトラックの運転手グリマルディ、そんな人々が集まってくる。時は1968年5月で、学生運動から始まった紛争は労働運動をも巻き込み、あらゆる分野でのスト、商店も閉まり、フランスは麻痺状態にあった。五月革命とも日本で呼ばれるこの出来事、フランス語では単に "Mai 68"(68年5月)と言う。タイトルにある mai(五月)とはまさにこの5月なのだ。もちろんこの五月闘争は映画の背景になっている。ジョルジュは『ル・モンド』紙の記者だから当然のこと事態の進展に強い関心を持ってラジオを聞いているし、その若い息子ピエール=アランは実際に闘争に参加してきていて、暴力的警官隊に警棒で殴られたアザを誇らし気に見せる。もちろん食卓での話題にもなるわけだけれど、ここに集まった人々は基本がすべてブルジョワ階級の一族だ。中ではカミーユがいちばん保守的。しかしそうした背景以上に五月闘争はこの映画の根幹をも成している。学生や労働者の闘争は結局大きな成果を上げられずに挫折するわけだが、それはしっかりと根付いた資本主義的経済構造は簡単には変わらないということであり、また闘争してきたことを自慢するピエール=アランが象徴するように、闘争に参加した学生の多くは結局大小のブルジョワの子弟であり、革命思想は流行とまでは言わないまでも、社会の歪みに対する不満の爆発であり、革命思想よりもその幻想であったとも言える。そしてミルーという人物設定は、その信条をミルー主義とでも呼ぶなら、ミルー主義と革命の物語なのである。ミルーはこの屋敷と領地での今の生活を死ぬまで続けたいと思っているが、弟や娘や姪はすべて売って現金にしたいと思っている。公証人ダニエルが、ミルー、ジョルジュ、死んだ娘の継承者としてマリー=ロールの3人に均等分配するという、死んだヴューザック夫人の遺言を伝える。補足の遺書を開封すると生涯最後の日々の良き友であったアデルに 1/4 を遺贈するとあった。つまりは4者で四等分だ。ミルーの希望は叶いそうもない。娘と姪とアデルは既に動産の分配を始める始末だ。しかし外の世界は紛争で混乱していて、葬儀屋もストで埋葬もできない。そのまま遺体を放置するわけにもいかず、敷地内に埋葬することに決める。墓を掘るのはもう年老いた下男か庭師だ。フランスの5月は気持ちの良い季節。そんな中敷地内でみんなで草上の昼食だ。御馳走を食べ、ワインを飲み、人々の気持ちがほぐれる。まさにミルー主義の謳歌と言ってもよい。夜は屋敷で楽しく乱痴気騒ぎ。ところが突然そこに友人の企業家夫婦が労働者に工場を占拠され、ソ連軍がフランス国境の近くまで迫っていると逃げ込んでくるのだが・・・。さて冒頭に書いた問題のシーン。下男がやや苦しそうに埋葬のための墓穴を掘っている。それに気付きもせずにその後ろを散策してゆく人々。たしか暗くなってからのシーンがもう一つあって、やはり人々は下男には無関心だが下男はまだ掘り続けている。その映像は、単に敷地内に死んだ母親を埋めることにしたということの喚起ではなく、労働する人と、それに無関心で享楽する人々の対比を強調するものだ。ミルーという人物設定は優しい好人物なのだけれど、実は何もしない人でもある。娘たちが希望するように土地・屋敷を売れば、企業による開発がなされるわけで、それに反対するミルーに観客が自己同化をすれば美しい物語ではあっても、それは持てるブルジョワの贅沢でもある。監督のマル自身68年5月闘争に参加したけれど、彼ももともと砂糖企業家の大金持ちの息子だった。そんな彼が68年5月を振り返った物語なのだと思う。しかしそれは自己批判であるよりも、そういう自分の立場を甘やかすようなものに感じられ、ナチズムを扱った『ルシアンの青春』や『さよなら子供たち』とは違い、何か生温さ、歯切れの悪さを感じた。冒頭に引用したコピーや解説の線で見れば心暖まりもする物語で、そういう見方をするのも良いけれど、上述したような(例えば墓掘り下男など)そうではない面があることを見落とすべきではないと思う。付記しておくと、ミルーになついている孫娘フランソワーズという子供の視点、ミルーと母親との親密な関係など、ルイ・マルの映画にお馴染みの要素がここにもあった。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.04.12
コメント(0)
LE ZEBREJean Poiret95min(所有VHS)この監督ジャン・ポワレ名を知っている方は少ないかも知れません。日本ではあまり馴染みはないのですが、フランスでは俳優・劇作家として有名な人でした。映画『Mr.レディ Mr.マダム』はもともと舞台劇で、その作者であり、もともと名コンビを組んでいたミッシェル・セローと二人で自ら演じ、5年・900公演・総観客数180万人を記録するロングランの大ヒットでした。彼は女優・小説家・劇作家・シャンソン作家として有名なフランソワーズ・ドランと結婚し娘が一人ありますが、その後70年代に女優カロリーヌ・セリエと暮らすようになり、1978年二人の間に息子が誕生、1989年に正式に結婚しました。この映画はそんなポワレの初監督作品であるとともに、遺作となってしまいました。映画の公開は1992年6月だったのですが、その3ヵ月前に映画のヒットを見ることもなく亡くなっています。自分の妻カロリーヌ・セリエを主演にに据え、自分の妻への愛を語ったような作品のような気がします。なので男性主人公イポリット(ラストから考えてもラシーヌの『フェードル』からの命名だろう)という、あるいは監督という 男の心理 から見た愛や女への期待の物語なのだが、こういう愛の物語としては珍しく目頭が熱くなりました。この映画の原題は「シマウマ」。フランス語では「変わった奴」「変な奴」くらいの意味があり、公証人をする主人公イポリットのことで、たぶん1回だけ妻カミーユが口にした言葉だと思います。解説などでは結婚15年で倦怠気味の夫婦って書かれていたりするけれど、倦怠って言えば倦怠でないことはないかも知れないけれど、けっこう仲睦まじい。むしろイポリットがやや異常で、出会って熱烈に燃えた頃の愛の情念を持続させたいと、もしかしたら無理なことを偏執的に求めている。「別れて出ていく」と妻に言って妻の反応を見たり、車に妻を乗せて暴走し、狂言心中のようなことをして妻の反応を見たり、自分が妻を愛し、妻も自分を愛していると分かっていながら、それが最初の熱烈な情熱ではなく、日常の習慣的日々に弱まってしまっていると感じてしまっているのだ。大人であることを受け入れられない、「大人の愛などない」と彼が言うように、現実的社会の中での醒めた愛では満足できない。夫を愛しながらも、その奇行にややウンザリの妻カミーユ。そんなカミーユに愛を告白する匿名の手紙が毎日届くようになる。手紙の内容は日ごとに過激になる、一種のストーカー的手紙だ。妻は夫にその手紙を隠すわけではなくオープンなのだが、いつの間にか毎日手紙が来るのを心待ちするようになる。彼女は高校の文学教師なのだけれど、男子生徒や同僚の男性教師の誰かではないかと疑いの目で見たりする。「6時に市庁舎広場に来てくれ」という手紙を受け取り、彼女は車の運転席から秘かに観察するのだけれど、彼女が疑いの目で見ていた男性3人全員が通りがかる。そして突然彼女の車の助手席に乗り込んできたのは夫イポリットだった。やがて「ホテルで会おう」という手紙を受け取り、彼女は指定されたホテルに行くことになる。一日目は「まだ時期尚早」とじらされた二日目、彼女は見知らぬ手紙の主に目隠しをされ、官能のひとときを過ごす。そして「自分が誰であるか明かす。カフェで赤いマフラーをしているのが自分だ。」という手紙を受け取り、指定の時間に彼女は行く。でタイトルの「シマウマ」だけれど、この映画にはネタバレになってしまうことが2つあって、その一つ目は『妻への恋文』という邦題がバラしてしまっている。迷惑千万な訳題だ。もちろん赤いマフラーの男は夫イポリットだった。(以下ちょっとネタバレ)その後二人の間には色々なことがあり、しばらくの別居もするが、思い詰め過ぎるイポリットは心労から心臓発作を起こし、妻のもとに戻る。妻は優しく夫を迎え、癒そうとする。そして二人の出会いからの物語を最初から生き直そうと、二人はかつての新婚旅行と同じ旅に出かける。カミーユも幸せそうだ。しかしこれは二人の愛の情念を永遠化しようというイポリットの計画だった・・・。兎に角エキセントリックなイポリットで、だから体裁はややコメディータッチだけれど、そこで描かれるのはひたむきな彼の妻への愛だ。そんな彼を愛し、受け入れようとする妻カミーユの姿が美しい。現実を無視した男のロマンの世界なのだけれど、ほろりとさせられる。イポリットは監督の分身であり、監督は妻への愛を描き、カロリーヌ・セリエも監督である夫ポワレを想う気持ちを表現している感じだ。まるで撮影後ほどなくこの世を去ることを知っていたかのような、二人(セリエとポワレ)の愛の記念碑であり、ポワレの妻への愛の遺言のように感じられてならない。余談なのだけれど、作中のイポリット&カミーユには息子と娘がいる。息子の方が上だが、2人とも小学生ぐらいだ。二人の子供は両親を愛しており、父イポリットが別居している状態に不安を感じていた。映画の途中から夫婦は緊張とスリルを保つためと別々の寝室に寝ていたが、心臓発作を起こして父が帰ってきた翌朝、母親の寝室で両親が同じベッドで抱き合って眠っているのを見た娘は大喜び。走っていって兄にも知らせ、二人の子供は大喜びで抱き合っていた。日本なら親は自分達が愛の行為をするのを子供に秘密にしたがり、少なからぬ子供も両親が裸で抱き合う姿を想像したがらないのと比べて、あまりにも違っている。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.04.11
コメント(4)
DANS LE NOIR DU TEMPSJean-Luc Godard(所有DVD)DANS LE NOIR DU TEMPS(時間の闇の中で)Jean-Luc Godard大トリは巨匠ジャン=リュック・ゴダール。10分の短編という依頼に「1分の短編10本」と答えたらしいけれど、実際にはこの1分は10本で一つですね。観る方によってはいちばんつまらない、わけのわからないものかも知れないけれど、他の14本が、出来不出来、好き嫌いはあっても、やはりどれも平凡な作品である中で、ひときわ異彩を放った傑作です。このDVD、数千円の衝動買いをしてしまったけれど、ゴダールのこの10分で元を取った感じです。一回見て、2度目にメモ取りながら見ただけで、まだ不明なことはあるし、これから何度かまた見ることになりそう。普通2時間の映画でもメモは多くてノート1ページなのですが、この10分で既にノート2ページのメモになりました。邦題は『時間の闇の中で』となっているけれど、始まるとまず黒い画面に白抜きの文字で DANS LE NOIR と出て、次に DU TEMPS と出ます。「暗闇に中で」→「時間の」です。この暗闇というのは、一つには観客が今いるはずの映画館の暗闇のことで、時間というのは(まずは)映画という含意があると思います。つまりこの作品は一つには映画について語っているということです。そのテロップと重なる形で第一の引用映画から若い女のセリフ。老年の男がそれに答えます。 「なぜ夜は暗いの?。」 「昔は空も君のように若くて、 明るく光り輝いていた。 だが時と共に暗くなっていった。 夜空に輝く星々の間には、 失われたものしか見えない。」これは映画のことを言っている。と言うより映画のことを言っているというコンテクストでゴダールが引用している。この作品はほんの一部を除いて自作や他作の映画の一場面、あるいはアウシュビッツ等の記録映像のコラージュで作られている。しかし単にフィルム to フィルムの引用ではなく、一度デジタル化され、多少ゴダールが画質をいじっている。結果として(DVDをテレビ画面で見ているので曖昧だがたぶん)画質的にデジタルであることがわかる。続く1分作品の題名テロップは「最後の瞬間」→「若さの」だ。引用映像は自作『メイド・イン・USA』のラストの方でジャン=ピエール・レオが撃たれるシーン。最後の瞬間とは映画の「ラスト」でもあり、レオの最後でもあり、また若さの最後とは「映画が若かりし頃の最後」でもある。引用映画の映像をわざとデジタル風に見せているように、デジタルの普及によって、フィルムによる映画という一時代が終焉することを言っている。他のゴダールの作品、例えば『ゴダールのマリア』も『ゴダールの決別』もそうだけれど、音楽は突然中断し、情緒の流れが続かない。しかしここではアウシュビッツか何かのフィルムの部分での数秒間を除いて、ベートーベンの『月光』を思わせるピアノの旋律が常時続いていて、ノスタルジックな気分も持続していて、もの凄く叙情的な気分がある。布のスクリーンを広げたり畳んだりのアート・ロボットが最後の方に写されるが、これも従来の映画館のスクリーンのフィルム映画の終焉の象徴でもあるのだろう。ラストのみカラーの使われたエイゼンシュテインの『イワン雷帝』からの引用もあるが、エイゼンシュエテインと言えば近代映画の創始者のような存在でもある。アンナ・カリーナの引用映像は、自作『女と男のいる舗道』でカリーナがドライヤーの無声映画『裁かるるジャンヌ』を見て涙を流すシーンだけれど、ここでは映画はまだ映画は生きていたということでしょう。あとは涙は作品全体の映画を弔う気分でもあり、自らの生を生きる Vivre sa vie(女と男のいる舗道の原題)という生の哀しみにもつながる気もします。途中「語れないことは、沈黙に任せるしかない。」というセリフもあったが、上に書いたように虐殺死体が片付けられるシーンの数秒だけが無音になる。無音と言えば『はなればなれに』を思い出しもしますね。ピアノの旋律がこのように雰囲気を持続するのはゴダールの作品としては珍しいわけだけれど、音楽は音楽でもって映画の気分を規定してしまう。一方には言葉の無力があり、他方音楽は安易に気分を規定するから、無音によって映像と沈黙に語らせるということでしょうか。中断したピアノをまた直接再開するのではなく、沈黙の後に別の歌で音声を再開し、いつの間にかまたピアノに戻すというやり方なども実に巧みです。そして途中に引用画像ではなく出てくる、本をゴミ袋に入れて捨て、トラックにゴミとして収集される映像。これは語りの終焉だ。『メイド・イン・USA』の引用部分でも語ることの意味を問うのがカリーナのセリフだった。そして映画よりももっと前に、あるいは同時に過去のものとなって行った書物、あるいはそういう思考スタイルの終焉をも描いている。最後の方でロウソクの炎がゆらめき、後ろに古い書物のような絵のようなものが見える映像があったが、それは何百年も前の書を暗い古文書館で見ているような趣きだ。書物も、ゴダールが慣れ親しんできた20世紀後半の知や映画が古文書の類になってしまった象徴だろうか。最後の方のテロップは、 「夕暮れ」と彼は言う。 「夕暮れ」と彼女は言う。 「夕暮れ」と彼らは言う。まるでマルグリット・デュラスの小説を読んでいるかのようなのだが、デュラスに代表されるヌーヴォー・ロマンという20世紀後半フランスの実験的・前衛的文学が物語の解体や言語の解体を行ったように、ゴダールは映画の物語性の解体を行った人だ。そして夕暮れとはまた、映画や知の黄昏れだ。夕暮れ(le soir)であって夜(la nuit)ではない。失われていく中の最後の時にまだあるということだろうか。一見自作映画や、ドライヤー、パゾリーニ、記録フィルム等他作をコラージュしただけではあるようでも、こんなコラージュは並み大抵の才能では出来ないでしょう。考えに考え抜かれています。映画に関する豊富な知識と、自らの思索・思想の深さがなければ、こういうものは作れませんね。感服しました。10ミニッツ・オールダー ~人生のメビウス~ 第1話『結婚は10分で決める』(カウリスマキ) 第2話『ライフライン』(エリセ) 第3話『失われた一万年』(ヘルツォーク) 第4話『女優のブレイクタイム』(ジャームッシュ) 第5話『トローナからの12マイル』(ヴェンダース) 第6話『ゴアvsブッシュ』(リー) 第7話『夢幻百花』(陳凱歌 チェン・カイコー)10ミニッツ・オールダー ~イデアの森~ 第1話『水の寓話』(ベルトルッチ) 第2話『時代×4』(フィッギス) 第3話『老優の一瞬』(メンツェル) 第4話『10分後』(サボー) 第5話『ジャン=リュック・ナンシーとの対話』(ドゥニ) 第6話『啓示されし者』(シュレンドルフ) 第7話『星に魅せられて』(ラドフォード) 第8話『時間の闇の中で』(ゴダール)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.04.08
コメント(4)
LA FILLE DE L' AIRMaroun Bagdadi103min(所有VHS)たぶん日本では劇場未公開で、だからビデオタイトルだけだろうけれど悲しいほどひどい邦題。でも直訳風も難しい原題。「空の娘」では何が何だかわかりませんね。テーマは「おすすめ映画」を選びましたが、「是非ご覧になって下さい」ではなく、「機会があったら観てみて下さい」ぐらいの気持ちです。パリのサンテ刑務所から囚人の妻が自ら操縦するヘリコプターで夫を脱獄させるという、1986年5月26日に実際にあった事件を扱った、ナディーヌ・ヴォージュールの本の映画化。ベアトリス・ダル主演ということで中古ビデオを買ってあったが、これまで見るに至らなかった。最近別の映画のビデオに入っていた宣伝・予告編を見て、想像よりは良さそうだと感じて見ることにした。もっとアメリカ映画チックに、ヘリによるアクション・スペクタクルを想像していたのだが、そこはやはりフランス映画で、最後はなるほどヘリ脱獄アクションだが、そこに至る妻の心理と計画への情熱、夫への愛、家族愛、そして再犯犯罪者・脱獄常習犯の夫の人となりなど、人間がなかなか的確に描かれていた。ちなみに作品のモデルとなった犯罪者ミッシェル・ヴォージュールは54才で条件付仮釈放されるんですが、通算27年間刑務所にいた人です。ある心理系サイトの分析には、恐怖症とその裏返しの大胆さを同時に持つ性格で、女性を惹き付ける要素が多いとのことでした。事実この映画で描かれた脱獄のあとまた捕まるのだけれど、彼に興味を持ち文通をした若い女子法学生が、その後2度にわたり彼の脱獄を手伝って逮捕され、出所後獄中の彼と結婚している。ブリジット(ベアトリス・ダル)の兄はやはり犯罪者で、この兄フィリップに会いに来たダニエルに惚れてしまう。映画はその1年後から始まる。ハンターに追われ逃げる野うさぎ。やがて射止められる。同じ草原を走っているのはブリジットの前の男性との連れ娘、8才のセリーヌとダニエル。ダニエルとブリジットの夢は乗馬クラブを開くことだ。ブリジットはダニエルの子を妊娠していた。ブリジットは、母と娘セリーヌとダニエルの4人で暮らしていたが、ダニエルが不在のある日、警察が乱暴に家を襲った。ダニエルがスーパーを襲い、バイクで相棒と逃亡中に警官を射殺したのだ。撃ったのは相棒の方らしかったが、その死んだ相棒の罪を告発する気はダニエルにはなかった。もともとダニエルは脱走中の身だったから、脱走者隠匿の罪でブリジットも監獄行きとなる。獄中で出産、そして数十年出られないからと思い直すよう弁護士に説得を頼んだがブリジットは入れず、2人は獄中結婚をする。彼女は面会での夫の指示に従い脱獄を手引きしてくれる友人に接触するが、資金作りのためにやった強盗でこの友人は射殺されてしまう。絶望する夫を見て、彼女は雑誌で見た「ヘリコプターの免許をあなたも取りませんか?」という広告を思い出した。そして彼女はヘリコプター免許取得の教習に通うようになる・・・。(以下完全ネタバレ)彼女は夫に計画を明かし、計画が実行される日がやってくる。娘とそれとなく別れをし、母親に2~3日娘たちの世話を託し、家を後にする。その姿を母親は窓から見つめていた。脱獄作戦が実行に移され、見事に成功させる。国際大学都市の庭にヘリは着陸し、ブリジットとダニエル、そして協力者の3名が走り去る。無人となったヘリのローターが段々とゆっくりになり、やがて静かに停止する。映画はここで終わるが、「4ヵ月後に2人は逮捕された。」というテロップ。ブリジットは面会で夫ダニエルに「おとなしく刑期を務めて減刑を求めては」と言うんですが、ダニエルは「自分は脱走も何度もしてるし、減刑って言っても数十年は出られない。自分にとっては死も同然だ」と言い、「毒薬を秘かに持ち込めないないか」と妻に言う。こういう姿を見た女(妻)は自分が脱走させようと思う。女に対して支配的であり、女も男の優位を認めていて、というか一般論として女性の中には男性に頼っていたいという心理がもともとあるわけで、それが状況で男が自暴自棄を、さも女には関係ない自分のこととして語るとき、女は「それなら私が」っていう気になる。こういう男女の心理関係はありますね。計算ずくで女を誑かしているわけでもないのだろうけれど、上にも書いたように後年女子法学生をも同じように巻き込むわけで、ここにこの男の ある種の魅力 があるんですね。この男は上手いこと大胆な強盗などを成功し、捕まっても脱走を試み、成功もする。そういう意味で同業のチンピラ(男)にとってはヒーローであり、強いオーラを持っている。しかしそんな彼が女に見せる弱さ、こういうのに弱い女がいるということです。フランスにはこの手の犯罪映画の伝統があるのではないかと思いますが、このダニエルにしても、こういう生き方しかできない人間がいるということです。いわゆる意味で真っ当な社会があったとして、そこには収まらない。それは社会の側から見れば(社会人として)失敗作なわけだけれど、別の視点で見れば、そういう人間を吸収し切れない不完全な社会でもあり、社会がそういう人間を育てたとも言えるわけです。そういう人間考察があります。そしてどちらが良い/悪いというのではなく、日本人が権力に従順で、多少の我慢はしてもその権力に庇護されて、日々の小さな平穏を志向するのに対して、フランス人は基本姿勢が違う気がします。もちろん犯罪は誰にとっても迷惑ではあるんですが、権力というのは個人を規制する悪でもあるんですね。前にも何処かで引用した歌詞で言えば、「鳥かごの中の幸せ」か「泥沼の中の自由」かという違いで、日本人が前者を良しとするのに対して、フランス的には後者により価値があるのでしょう。日本の新聞社が日本人とフランス人に行ったアンケートに「平凡でも幸せな生活」という選択肢があって、日本人の過半数がこれを選んだのに対して、フランスでは「平凡と幸せは両立しない」というコメントが多数書かれたそうです。犯罪自体はフランス人にとっても迷惑だけれども、犯罪者vs警察という抗争は、個人と権力の抗争の象徴でもあって、社会諷刺を内容とする小咄や人形劇(子供向けでさえ)でも、悪党が警官を翻弄する形で、観客を悪党の側に同化させる体のものが伝統的にあります。日本で言えばルパン3世、アメリカならトムとジェリーがそうかも知れません。つまらないかも知れないこの映画の中古ビデオを買ってあったのはベアトリス・ダルが出ているからでした。ここではエロティックなシーンは皆無ですが、ベアトリス・ダルはいつものように魅力的です。周囲の人間とは無関係に、自分だけの情念の世界にある女性を演じるのが上手い。自分勝手ではなく、自分にあくまで忠実な女性。その情念追求がピュアで、でも他人や一般社会から必ずしも容認されるものではない彼女だけの追求だから、自信満々というのではなく内に大きな不安を合わせ持っている。この弱さを秘めた強さが魅力的です。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.04.05
コメント(2)
L'ETAT DE GRACEJacques Rouffio88min(所有VHS)午後4時か4時半頃からの3時間はボクの一日の第二の睡眠タイムなのだけれど、ここのところ隣の改装工事の音で眠れない。それで寝不足なのだけれど、どうせ眠れないならと思い、映画を見ている。騒音はうるさいく、ときたま超騒音もあるけれど、映画を見ていると気もまぎれるし、洋画だと字幕が出るのでセリフを聞きそびれてもかまわない。それで今日見たのがこの作品。名作と言うよりは駄作に近いかも知れないけれど、ボクとしてはそこそこ楽しむことが出来た。まったくオススメはしないが、テレビとかでやって、暇なら見てもいいんじゃないの、といった感じ。ストーリーの骨子は、大企業経営の女性社長で家庭を持つ女性と若手大臣のラブストーリー。(ネタバレになってしまうけれど)「接近→離反→再接近」という恋愛物語の常套的プロット。しかし上に載せたフランス版ビデオのジャケット(劇場用ポスターと同じ)にフランス三色旗がデザインされているように、フランスの現代政治史が背景のテーマにある。フランス好きのボクとしては、そんな時代性を懐かしく振り返ることが出来、その意味で楽しかった。製作当時的には、ナウな社会の政治的気分にラブストーリーを重ねたのだろう。1981年に社会党のフランソワ・ミッテランが共和国大統領に就任したが、社会主義的改革の結果はインフレや失業を増大させ、ミッテランが妥協して資本主義的方向に転換を余儀なくされた頃の物語であり、映画の製作年である1986年は議会議員選挙で保守派が勝利して組閣し、社会党大統領と保守派首相という保革共存政治(コアビタッション)が始まる。そんな社会の動きが、資本主義的企業家の女性社長と社会党原理主義的大臣の恋という形で表現されている。だからと言って、いわゆる政治映画では全くなく、基本はラブストーリーだ。ちなみに原題「L' ETAT DE GRACE」とは、新しい政権等が誕生した時に、人々の期待を担って、周囲から好意的な目で見られる期間、新政権と社会との蜜月期間のことを言う。そんな日本人の大多数には無縁な背景に関わる原題だから、邦題が「フィレンツェに燃えて」はまだ良かろう。しかしビデオタイトルだけなのかも知れないが「ワーキング・ガールの恋」という副題は不適切だ。「ワーキング・マダム」であって「ガール」はおかしい。物語は男がシングルで、女が妻子持ちならぬ夫&子持ち。夫に浮気ではなく本気であるとバレて、仕事も子供も捨てられずに(彼女は企業経営者で夫の銀行家に頼ってもいる)、男に別れを告げるというものだ。妻より愛人を愛していながら、家庭を捨てられずに愛人を捨てるという良くある話の男女を入れ換えたような物語なのが面白い。このブログで取り上げた作品では(まだ寸評のみ)、『愛のはじまり』がそうであったけれど、サミー・フレイという人は陰りがあったり、恋に悩むとか苦悩する姿が似合う人ですね。女性社長を演じたのはニコル・ガルシア、その他ピエール・アルディティ、フィリップ・レオタール、ドミニック・ラブリエ、マルク・ベルマン、ジャン・ルージュリー等、大俳優・大女優とまで言えないにしてもフランスの名優が多数出演していました。上にも書き、昨日『チョコレート』でもちょっと触れた恋愛物語の「接近→離反→再接近」という構成なのだけれど、最初の接近が、試練とも言える離反を経て、最後の再接近でどれだけ変化したか(たとえば人物が成長したとか)、それが豊かだと映画は深くなりますね。単に外的障壁が取り除かれたとか、誤解が解けるとか、最初と最後で関係そのものに変化がないのはつまらないと思います。ここにどれだけ人間を描けているかが問題です。余談で、この映画からは離れるのですが、ちょっと似たアメリカ映画を見たことがあります。舞台はNY・マンハッタンだと思うけれど、大企業の美人女性社長と、労働者の権利を守るといったことに情熱を燃やす弁護士の恋の物語。大した映画ではないけれど、遥か昔テレビで見て、何故かずっと気になっている作品。どなたか題名など御存知の方がいらしたら、是非教えて下さい。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.04.04
コメント(4)
LA BELLE NOISEUSE DivertimentoJacques Rivette131min(所有VHS)リヴェット監督作品を見ずにいた経緯は『セリーヌとジュリーは舟でゆく』のところに書いたけれど、去年の8月に『恋ごころ』を見て気に入って、『北の橋』、『彼女たちの舞台』、『地に堕ちた愛』等を立続けに見てきた。どれも良かった。そして入手しやすい作品としてこの『美しき諍い女』が残った。実はこの作品の4時間版ではなく、2時間に再編集された「ディヴェルテイメント」のビデオは持っていた。DISCASにある作品はすべて見てしまい、あとは少々高いお金を払ってDVDやビデオを買うしかない。でとりあえず短縮版『美しき諍い女』を見ることにした。印象はややがっかり。好きな&面白い作品かも知れないが、他の5本の方が面白かった。オリジナル4時間版ではないけれど、それを言えば『地に堕ちた愛』も同じことだ。いつもは劇中劇という作りで、それは舞台演出家でもあるリヴェットにとってはお手のものだ。しかしやはり画家の世界を本当に描くことは出来なかったのではないだろうか。画家フレンホーフェルを演じたミッシェル・ピコリを賞賛する人も少なくないが、ボクには彼が画家にも見えなかったし、作画創作過程もまったく画家のそれには見えなかった。やはりこういう世界は映画のものではなく小説に向いたものなのかも知れない。画家としての演技、というよりも演出は、このピコリよりも『ミナ』のロマーヌ・ボーランジェの方が上とさえ言いたくなる。もちろんこれはピコリの責任ではなくリヴェットの責任だ。さてそのピコリなのだけれど、あまり人は言わないけれど、この映画の大きな部分は実はゴダールの名作『軽蔑』のリメイクなのではないだろうか。まずはバルドーやベアールが惜しげもなくヌードを晒す点が似ている。『軽蔑』の中でピコリとバルドーは愛し合う仲だったけれど、脚本家のピコリが、アメリカのプロデューサーのプロコシュにラングの撮っている作品の脚本の手直しを依頼され、単純化して言ってしまえばプロコシュの金の前に屈してプロコシュに対して卑屈になる。それは本当は意に反してプロコシュの要求に芸術を曲げることだけではなく、愛する女バルドーをも差し出すようなことまでである。もちろんピコリは表立ってそうするわけではないけれど、自分は介入しないという卑怯な態度をとる。それゆえにバルドーはピコリを軽蔑するようになるのだ。そこでフリッツ・ラングが撮っていた映画中映画はオデュセウスの物語だ。妻ペネロペの要求は彼女を狙うすべての求愛者をオデュセウスが皆殺しにすることだった。しかしピコリは逆に別の男に妻を提供しかねない勢いなのだ。このブログにはまだ『軽蔑』のレビューは書いてないので少しだけ続けると、ピコリが屈して卑屈である対象は、生活であれ、映画作りの予算であれ、金という権力を持った人物であり、この映画は男女の機微の物語であると同時に、その背後にある、あるいは人を規定する資本(金)という、ゴダールに親しいテーマが読みとれる。この映画ではピコリとバルドーの家を赤、プロコシュの別荘を青、と色の描き分けをしている。もしかしたら赤は労働者階級の象徴なのかも知れない。 (↑ゴダール『軽蔑』)そのミッシェル・ピコリが、今度はプロコシュの側に回ったののがこの『美しき諍い女』だ。ベアールの恋人の若い画家ブルツタインは金の前に屈っするのではないけれど、隠とんしてしまっている天才画家ピコリに対して卑屈になり、本当は晒したくない恋人ベアールの裸体をモデルとしてピコリに差し出す。そのことでベアールは恋人ブルツタインに苛立ちを覚える。軽蔑したと言っても良いのかも知れない。最初は嫌がっていたベアールだけれど、バルドーがそうであったように、自らピコリに近付くようになる。この映画を労働を考察した作品であるというどなたかが書かれたレビューを読んだけれど、ゴダールの映画と重なっているとすれば、この説もあながち間違いではないかも知れない。さてこの映画の中ではモデルと画家の格闘が始まる。気付いたのは画家がモデルに取らせるポーズが、ある時は腕を上げた絞首にでもなる人の姿であり、またある時は磔刑のキリストのポーズだ。そしてそれを命ずるのは画家だ。ここに関係の非対等性がある。画家とは映画監督の比喩であり、モデルが裸体を画家に晒すように、監督は役者が裸になってその人間を出して演技することを求める。そして実はその求めのためには監督はやはり自らを晒す。役者とは他の人物のふりをするのではない。劇中の人物を演じることによって、自らのすべてを曝け出すのだ。精神分析の患者と医師の関係に似ているかも知れない。だからいずれの場合も、役者やモデルが自分を裸にしたとき、それを作品にしたとき、傑作が成立する。しかしその作品はモデルそのものであり、画家そのものでもある。この関係は通常のセックスをも越えた親密な関係であり、ベアールをモデルに画家が完成させる未完だった傑作の元のモデルである妻ジェーン・バーキンとの関係も複雑だ。それゆえに完成された傑作はこの3名の暗黙の当然の秘密として壁の中に封印される。(今回はこれぐらいで、他は4時間版を見てからと言うことで。)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.27
コメント(3)
Les Contes des quatre saisonsCONTE DE PRINTEMPSEric Rohmer107min(所有VHS)春だからと言うこともないのでしょうが、かなりかなり久しぶりにエリック・ロメールの『春のソナタ』にビデオを引っぱりだしてきて見ました。ロメール好きの映画ファンはいるけれど、彼のいくつかの作品は認めながらも、「また同じロメールか、もういいよ!」とうんざりな人も批評家の中には少なくないようです。前回に見てからもう15年はたっているのではないかと思いますが、内容の細部はほとんど憶えていませんでした。このあたりにロメールの特徴があるのかも知れません。言ってみればほとんど何も起きない映画なんですね。そしてそれを支えているのは会話です。この映画の中でも、最初の女2名のパーティーでの出会い/知り合うシーンでも、4名の主要人物の食事のシーンの哲学談義にしても、まあ良くしゃべるしゃべる。フランス人の会話のあり方を知っているとさほど不自然なことはないけれど、でも言葉による人間の関係のあり方が中心にあることは確かだ。パリ郊外の学校から出て来てパリに向かうジャンヌ。彼女は高校の哲学の教師だ。いきなり余談だけれど、ボクの知る限り日本の高校には哲学の授業などない。倫理社会という科目があるぐらいではないだろうか。大人になって社会人となり、家庭の平凡な父や母になってしまえば、高校で習った哲学など忘れてしまうだろうが、ある程度の高等教育を受けた者が哲学を学び、一定の思想(思索)の訓練を受けているという事実、これは人間や社会の形成に大きな特徴付けをもたらしていると思う。そしてそれは例えばごく普通の娯楽映画のあり方(創作と受容)にも影響していて、それが日本人がフランス映画をつまらないとか、わからないとか言う原因でもある気がする。それが深いものであっても、実は浅いものであっても、何かを思索して映画を作ろうとし、その思索の結果を思索しながら見るというのが、フランス映画なのだと思う。いきなり映画から脱線してしまったが、ここでこんなことを書き始めたのも、主人公のジャンヌが哲学教師だからだ。内なる欲動や情動と、その哲学的分析と解釈、その2つのバランスを保つことが彼女の生であり、それは必ずしも容易ではない(ロメール自身そういう傾向の強い人なのではないだろうか)。こう言うと何かこ難しいようだが、程度の差こそあれ、大多数の人はこの葛藤の中に生を送っているはずだ。「四季の物語」という4作からなるシリーズの第1編のこの作品、冒頭からベートーベンのバイオリン・ソナタ『春』が流れ(ここから日本語タイトルか!。できれば「春のソナタ」「恋の秋」とかでなく『春の物語』『夏の物語』『秋の物語』『冬の物語』、そして全体は『四つの季節の物語』にして欲しかった)、映画は明るい花咲く春を強調する。寒さの厳しいドイツが観念論哲学であるように、冬の暗さと寒さは人を思索的にするが、そんな冬が終わり、明るく、暖かくなり始め、花の咲く春。ジャンヌは、自分の部屋は田舎から試験でパリに出て来ている従姉妹に貸していて、従姉妹が兵役中の恋人と過ごしていることを知り、カップルの邪魔はしたくないと思う。(他でも同じようなことがジャンヌの口から語られるが、自分の必要より他人の良かれを優先しようとする態度は、実は一つの奢りかも知れない。)一方同居中の彼氏は旅行中で、不在の彼の部屋に一人でいるのも気が進まず、結果行き場を失ったジャンヌ。たまたま行った大学時代の友だちの家でのパーティーで、ピアノ科の学生のナターシャと知り合い、彼女が一人で住む父の広いアパートメントに寝泊まりすることになる。ナターシャの父イゴールは6年前に妻(ナターシャの母)と離婚し、今はナターシャとあまり歳の変わらない愛人エーヴと暮らしていたのだ。ナターシャはエーヴを嫌っていた。そしてジャンヌを父イゴールに近付けようとするのだが・・・。ナターシャの住むこのパリのアパルトマンと、イゴールがフォンテンブローに持つ別荘とを舞台にした、女3人(ジャンヌ、ナターシャ、エーヴ)と男1人(イゴール)のそれぞれの思惑、気持ち、恋情、そういったものが基本言葉でぶつかり合う物語。人はそれぞれ自分の考えや気持ちが既に決定していて誰かと関係するわけではない。他人に本心を語り、あるいは嘘を言い、はたまた駆引きとして相手を(そして自分をも)誤魔化すために戦略的な言葉を発する。そしてそれに対する相手の反応があり、そこには同じように真実も嘘もあり、そういうやり取りの相互作用から人は自分の考えや気持ちが自分でもわかり・・・、というのが人と人の関係だ。上の方にも書いたように欲動と理性の葛藤があり、そのバランスを保つことも難しい。そんな人間の有り様を、春の気分の中に描いた作品。ことさら「何か」が起こるのでもなく、ただ人のそういう姿を、心理を扱った作品。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.24
コメント(2)
LE SALAIRE DE LA PEURHenri-Georges Creuzot白黒148min(レンタルDVD) 気になっていた名作の誉れ高いこの作品、しかし1952年製作というとどうしても近付き難い。この時代の映画には、名作でることはわかっても、現代の自分としては生では楽しめない作品も多々あるからだ。今回友人がレンタルしてきたのを見たが、たいへん面白かった。 中米メキシコの近くという設定だろうか(撮影は南フランス)、ラス・ピエドラスという町。ヨーロッパ本国を何かの理由で逃げてきた人生の失敗者たちの吹きだまりの町。石油発掘に進出してきたアメリカの石油会社関連以外は仕事もなく、飢餓・害虫・猛暑・悪疫・失業で人々は死んでいく。アメリカの石油会社もアメリカ本国から来ているアメリカ人以外の人材は営利のために使い捨てで、その生命など虫けらほどにも思っていない。町を出るには旅費やビザも必要だが、仕事もないのでそんな金はない。モンタンが言うように「入るのは簡単だが、なかなか出ることの出来ない監獄のような」町なのだ。2時間半の映画だが、町のバーに集まるそんな男たちの倦怠、焦燥感、希望のなさ、諦念、そうしたものをクルーゾー監督は最初の1時間でしっかりと描く。 後半はニトログリセリンを、トラックで悪路500キロ先の山中まで運ぶという命を賭けた一獲千金のサスペンス&パニックが、極限状況下で人間の本性が露になる男のドラマとして描かれる。最初の1時間で描かれた4人の男たちの性格描写や人間関係の描写、これがこのサスペンス部分に血と肉を与えており、それがなければ昨今のアメリカ映画的パニック映画でしかない。そしてラストはさすがにクルーゾー監督。人間を洞察した辛辣なものだ。 やや以下ネタバレになるけれど、ラストに至る流れについて感想を書こう。2台のトラックに各2名の運転手、計4名が成功報酬1名2,000ドルで危険な旅にでる。ちなみに1ドル360円の時代だから単純計算で72万円であり、1日程度の仕事だろうから物価を考えればかなりの大金だ。マリオとコンビを組むジョー(シャルル・ヴァネル)は落ちぶれたかつてのヤクザの大物。マリオが何故この地にいるかははっきり説明されないが、逃げてきたことだけは確かだ。マリオはジョーに町のことを説明するのに「監獄」という比喩を使うが、彼は(本物の)監獄にいてしかるべき過去を持つとも言えるのではないだろうか。つまりこの一獲千金の危険な旅とは脱獄に他ならない。そしてそれに彼は命を賭けたのだ。もともと事故で燃え続ける油田を救おうなどという気持ちなど決してない。また彼を愛するゆえにマリアに祈り、出発を断念させようとするリンダ(ヴェラ・クルーゾー)をも振り切って出発する。町(=監獄)に幽閉されていることは当然の身であり、そんな中で彼を真実熱愛する女を与えられていながら、それをモ捨てての脱獄だ。彼は過去と現在の罪を精算しなければならないのであり、簡単なハッピーエンドが彼を待っていたのでは絵空事のサスペンス物語に堕してしまう。ルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』もそうだったが、人間の行動に対する当然の、あるべき報い、根底にそういう哲学のあるラストなのだ。 監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.23
コメント(2)
PARIS, JE T'AIME120min(所有DVD)この『パリ、ジュテーム』というオムニバス映画は、もともとはパリの1区から20区までの20の区を20人の監督がそれぞれ5分のショートとして撮り、それをまとめたものになるはずだったらしい。しかしそのうち2編「11区」と「15区」は本編から外されてしまい、結局18話だけが採用されました。特典DVDにその除外された2編が入っています。出来もいまいちというのもあるかも知れませんが、出来てみたら各作品は必ずしもその区をその区らしく描いてはいないので20すべての区にこだわることはなくなったのと、20編すべてを見て並べ変える段になったとき、なかなかこの2編を入れて一つの全体の流れを作ることが難しかったからなのだと思います。番外編1『11区』ラファエル・ナジャリ監督11E ARRONDISSEMENT Raphael Nadjariこれはある既婚女性のなんてことない朝の風景を描いたものです。主演はジュリー・ドパルデューで、見ようによっては彼女のアイドルビデオのようでもあり、ジュリーが好きな自分にとっては番外編としてでも見られるのは嬉しい一編です。ジュリーは夫アンドレ、中学生(小学校高学年?)の娘クララ、小学生の息子ジュリアンと暮らしている。仕事に出るのに彼女がいちばん早い。で子供起こして、夫起こして、身支度して、出来るだけの準備をしてあとは夫に託し、3人に別れのキスをして出勤していく。夫を起こしているのが7時23分でした。夫が子供たちに学校の用意させて朝食食べさせて、娘を見送り、息子を学校へ送っていく。ただそれだけの物語。手持ちカメラでアップで写されるジュリーの姿はその辺にいるであろうパリの共稼ぎ夫婦の妻の姿なのでしょう。でも平凡でありながら、また平凡であるからこそ、細々としたドラマのかけらが描かれている。子供部屋に息子を起こしにいくと、娘は既に起きているのですが、その娘には「5分でいいから朝食に時間をとってちゃんと食べてね」ってうるさく言うのだけれど、寝ている息子には「ジュジュ、さあ起きてー」って優しいんですね。それをなんとなく嫉妬を含むような目で娘がちらっと見る。次に夫婦の寝室にいくと夫はまだ寝ている。最初は寄り添うようにしてキスなんかしながら愛情たっぷりに起こすのだけれど、夫はなかなか起きない。しまいに持っている洋服か何かを激しく床に叩き付ける3歩手前のような動作をしかけたり。最後は円満に家族3人に別れのキスをして出勤してはいくのだけれど、仕事の事情などはわからないけれど、結局妻に多くの負担がかかっている感じも描かれている。これが似たような女性にごく当たり前の姿だということでしょうか。でもこの映画で、よく西洋人の生活(実際や映画)を見ながら感じることをここでも感じました。一見ほんの微かに微かに描かれた娘の寂しさがあるけれど、母親と出がけにキスをする。この行為には双方の愛情の確認が、相手に対しても自分に対してもある。あるいは忙しいときに起きなくてちょっとイライラした夫ではあるけれど、子供たちとはちがって頬ではなく口と口の、ほんの軽い短いものではあっても目を見つめ合ってのキス。ここでも自分はやっぱり相手をかけがいがないと思っていることを伝え合って、愛の更新行為をしているんですね。形が重要とは言わないけれど、肌と肌を触れ合うこうしたフランス人の行為は大切だと思います。逆に愛情が冷めていれば、その行為のあり方で冷めていることも相手に伝わってしまうのかも知れないわけです。番外編2『15区』クリストファー・ボー監督15E ARRONDISSEMENT Christoffer Boeデンマークのクリストファー・ボー監督の『恋に落ちる確率』という作品は好きな映画です。主演女優マリア・ボネヴィーが素敵な、雰囲気のある映画でしたが、同時に物語を語るとはどういうことかという疑問も考察されていました。この「パリ15区」はその『恋に落ちる確率』の超縮小版といった体裁の作品。5分という制約では無理だろうけれど、もう少し縮小度の少ない短編だったらもっと面白かったと思います。アランは空港へ行こうとしていて映画監督か脚本家の友人ヴィコンが車で通るのに拾われる。車内で新作映画の構想を語り合うのだけれど、ヴィコンはその主人公がアランのような男だと言い、アランはある男と女の出会いの物語を語って提案する。そしてアランの語る物語の構想は実際にアランが演じる形で映像として見せられる。そこでの女アンナとの出会い、超アップの愛の行為は『恋に落ちる確率』のアレックスとアイメのロマンティックな映像に酷似している。それはちょっと違うとヴィコンに言われて、アランの語る少し違ったバージョンが映像で見せられる。アランの語るアランを主人公としたアンナとの物語では、アンナが別れようとしている恋人がアランの友人だという設定だった。やがて車はヴィコンの目的地に到着し、この後車を自由に使っていいとヴィコンがアランに言う。そこにはヴィコンの恋人が待っていたのだが、ヴィコンは彼女に友人アランが車にいるから挨拶だけしておくことを勧める(以下省略)。最後のネタバレはしなかったものの、恐らく大方の方には想像がつくだろう。ここでも『恋に落ちる確率』同様、語られる物語(あるいは映画の物語)と現実の境が曖昧であり、語ることの意味、映画の映画たるゆえん、役を演じることの意味、そういうことが問われてもいる。どうしても5分は短い。しかし結局これももう一つの除外作品も2作とも完成された『パリ,ジュテーム』の他の作品とは馴染まない、毛色のちょっと作品だったのかも知れない。この作品が『恋に落ちる確率』の小型短縮版のようであるのは、ボー監督の個性・筆致と言うべきなのか、それとも想像(創造)力の限界と解釈するべきか。ボー監督の別の長編を見てみたい衝動にかられる。余談ではあるけれど、ある監督(でも作家でも、作曲家でも・・)、ただ一つの良い作品を作ってくれれば、後が続かなくてもそれはそれで、その一作だけで価値はあるとは思うけれど・・・。第1話~第3話第4話、第5話第6話、第7話第8話~第10話第11話、第12話第13話、第14話第15話、第16話第17話、第18話監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.20
コメント(2)
PARIS, JE T'AIME120min(所有DVD)第17話『カルチェラタン』フレデリック・オービュルタン & ジェラール・ドパルデュー監督QUARTIER LATIN Frederic Auburtin & Gerard Depardieuベン・ギャザラとジーナ・ローランズというジョン・カサヴェテス監督にゆかりのある2人の名優を使ってのジェラール・ドパルデューのカサヴェテスへのオマージュということらしいけれど、その辺のことは至って無知な自分なのでよくわかりません。正式な手続はしていないけれどもう何年(いや何十年)も前に別れてしまっているベンが正式な手続のためにジーナの住むパリにアメリカからやってくる。約束のキャルティエ・ラタンのジーナの行きつけのカフェ。迎えるのはオーナーのジェラール。このようにあくまでフィクションなのだけれど、役の名は3人とも役者のファーストネーム。ギャザラとローランズの関係にしても夫婦ではないけれど長年の親しい仲で、ドパルデューも2人の友人だろうし、フィクションであってリアルでもある。役者と演技という映画の基本的姿がここに強調されているかも知れない。ベンとジーナは近況を話し合って、翌日の弁護士を交えての手続を約束して別れる。見ていて感じたのは、なんかこのフィクション自体、このフィクションの中で2人が「ごっこ」をしている感じ。つまり実は今も夫婦で別れるつもりや予定はないのに、そういう設定でカフェで会って離婚ごっこを演じているとでも言うのか。夫婦であろうがなかろうが、互いに相手のことを良く知り合った、その人間としてのすべてを受け入れ合ったような2人の関係が良い感じでした。第18話『14区』アレクサンダー・ペイン監督14E ARRONDISSEMENT Alexander Payne最後らしい作品で、これがなければ最後は第13話『ピガール』ぐらいにするしかなかったのでは。でもペインのこの『14区』があったことで上手く作品全体をしめた感じです。それは特殊から一般化したということです。ここまでの17話はどれも映画の世界だった。そこに描かれた出合いや物語は実際にあり得ることかも知れないけれど、やはり映画の世界。例えば第1話『モンマルトル』や第2話『セーヌ河岸』の男女の出会いは、あるかも知れないけれど、そう毎日のこととして転がっていて、観客が自分のこととしてそう簡単に遭遇するようなことではない。つまり映画の世界。それに対してこの第18話は、フィクションではあるけれどドキュメンタリー的で、マーゴ・マーエィンデール演ずるデンバーから一人でパリにやってきた観光客に、観客は自分を置き換えることが可能なのだ。観客は第1話から第19話までの登場人物にはなれない。類似の経験ができる機会はほとんどない。しかし第20話のキャロルには誰でもなれるのだ。デンバーで郵便配達人をするキャロルはパリに旅行することが夢で、お金をためて一人でやってきた。周りにはパリに住む人々の生活があり、人々は喜怒哀楽の中で生き、愛を語り合うカップルもいる。しかしこの異国の地で彼女は孤独で一人だ。人は生き、そして死ぬ。愛し合った二人の実存主義者サルトルとボーヴォワールも今はただ一緒に眠る。35年間メキシコの独裁者だったポルフィリオ・ディアスも今はここモンパルナスの墓地に眠る。喜び、悲しみ、愛し、憎み、人の一生とはそんな儚い夢。だからその生を精一杯自分らしく生きる。そう人々に感じさせる街、それがパリなのだ。パリというのは不思議な街だ。常識や世間の流行に流されるのではなく、自分らしくあればあるほどこの街での生活(短くとも)は充実し楽しくなる。その人にその人らしさを開花させるよう誘う街、それがパリの魅力だ。そして監督のペインもそのことを知っている。第1話~第3話第4話、第5話第6話、第7話第8話~第10話第11話、第12話第13話、第14話第15話、第16話監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.19
コメント(2)
LES VALSEUSESBertrand Blier118min(DISCASにてレンタル)何がDISCASから送られてくるか、なかなか完全には読めません。いくら自分がずっと前から予約リストの上の方に入れておいても、自分も常時2枚借りてしまっているわけで、それを返却した時にちょうどその作品が誰かから返却されて来なければ、結局別のDVDが送られてくることになるわけです。そういうわけで今回も「あれれん!」ってものが2枚送られてきて、でもそれが2作品とも期待を遥かに超える良作(傑作?)でした。その一つがベルトラン・ブリエの『バルスーズ』。ブリエ監督はやや関心のある監督ではあるのだけれど、この初期作品はあまり良い予感はありませんでした。何がDVDになっているかは知らないけれど、新作の『ダニエラという女』と『私の男』とこの『バルスーズ』の3枚を選んでいるDISCASさんの選択は的確かも知れません。1974年3月20日のこの映画の封切はフランスではセンセーションを巻き起こした。人口約5千万のフランスで6百万人弱の動員を記録。10人に1人以上が観たことになる。時代は1968年の五月革命の実質的失敗の後で、改革を含みながらも大統領がポンピドゥ-からジスカール・デスタンに代わる頃の保守反動の時代。そんな時代に社会を挑発することも目的にあった映画ではないだろうか。タイトルのフランス語は「ワルツを踊る女たち」だが、スラングとして英語の「balls」つまり男性の「タマタ*」の意味がある(最初に掲載したポスターに2個のタマゴを両手でお手玉のようにしてるイラスト)。主人公ピエロ(パトリック・ドベール)とジャン=クロード(ジェラ-ル・ドパルデュ-)はカッパライなんかして自分勝手に無軌道に生きる若者2人で、行動自体は犯罪的だから肯定できる2人ではないけれど、これは自分だけが運良く手にした現在の安定を社会の弱者を無視しても守ろうとする体制順応主義者たちとの対比としての人物設定でしょう。映画の最初の方には、そういう人たちを眺め渡してドパルデュ-が「これでもフランスかよ」って叫ぶシーンがある(原語では「間違いないんだよな、これでオレたち本当にフランスにいるんだよな」ぐらい)。表面的にはちょっとエッチなコメディー仕立てで、オッパ*丸出しのミウ・ミウやブリジット・フォセー、若き日のイザベル・ユペールを見ているのも楽しいけれど、実は社会派の映画でもある。見ていると、大人だからエッチな面もあるけれど、子供のいたずらの延長のように生きる彼らの方が、周囲の常識的(?)人々よりも、自由に人間らしく生きていることが感じられてくる。そして悪さをしているようでありながら、順応主義者たちよりも他人に対して優しくさえあることも感じられる。順応主義者たちは自分の欲望を誤魔化して殺してバランスを保っているから、その欲望を思い出させるような者たちは圧殺するしかないわけだ。それは自分たちの生の根拠や今の生活を根底から覆すことになる。だから自分たちとは違う地平に立つ者は排除しようとする。もちろん他者に対する本当の優しさもない。一方無軌道な主人公たちは表面的にはカッパライとかで犯罪は犯すけれど、自分の欲望充足を第一にしようとするから、他者の欲求とか不幸も見えるわけで、結果的には他者に対して(潜在的に)優しいわけだ。兵役中の夫の休暇に乳飲み子つれて会いにいく若妻(B・フォセ-)に列車の中で迫る(イタズラする)2人は、セクハラだって言ってしまえばそうでないこともないけれど、最終的に強く無理強いしてはいないし、ちょっとセクシャルなことをさせる(してもらう)ためにお金を出すのも、自分らの欲求がまずはあるものの、ドパルデュ-のセリフはあながち嘘ではない。久しぶり(2ヵ月)ぶりに会う夫と、安ホテルじゃなくって高級ホテルの広いベッドで、シャンパン付きで愛の一夜を過ごして過ごして欲しいってこと。自分ならそう願う幸せを彼女にもして欲しいっていうジャン=クロードの優しさである気がする。そうでなければ他に乗客のいないあの列車内ではレイプだって彼らには可能だったろうし。そしてジャンヌ・モローとの挿話。女子刑務所に行けば、服役中にずっとセックスできなかった飢えた女がいるだろうって、実に短絡的な発想をするのだけれど、刑期を終えて出てきたジャンヌ・モローを追い回す。彼女は暗い様子で、もちろん追い回す2人を最初は迷惑がっているけれど、ある意味あまりの無邪気さにはじめてモローが笑う。このシーンは良いですね。彼女には2人の目的はお見通しなのだろうけれど、人間同志理解が成立した瞬間とでも言うか。季節は冬で寒いけれどモローは刑務所から出てきたままの薄着。で暖かい服を買ってくると良いって、ドパルデュ-がお金渡す。海岸のレストランに行って生牡蠣とかの海の幸を食べる(食べさせる)。余談だけれどこのシーン、最初窓の外からテーブルの3人が写され、トーストか黒パンか、とにかくフランスパンではない薄切りのパンにバターのようなものを塗ってるのが見え、緑色の細長いワインのビンも見える。これだけで海の幸にアルザスワインだな、ちょっとリッチな食事ってわけだな、ってわかる。ジャンヌ・モローっていうと『死刑台のエレベーター』が有名だけれど、やっと朝エレベーターから出られたモ-リス・ロネが朝食にカフェでクロワッサンをパクつくシーンがあって、この映画では海岸での食事の前にカフェでやはり朝食にクロワッサンをパクつく。これって一種の引用なの(?)って思った。そもそも男2人とジャンヌ・モローという3人関係自体『突然炎のごこく』の引用かも知れない。映画に戻って、洋服や食事、これだって目的のための投資ではあるかも知れないけれど、やっぱり彼女に幸せを与えたいという気持ちもあるように感じられる。そして高級ホテルで3人で過ごした一夜の果に、思わぬ事態が2人を待っていたけれど、2人が良く理解しないままではあるものの彼女に一時の幸福を与えたのだと思う。そして最初だけかと思っていたら最後まで物語の中心人物だったミウ・ミウ。ちょっと男には都合の良すぎる女の描かれ方ではあったけれど、ミウ・ミウは全身曝け出しての名演。彼女の役名はマリ・アンジュ(Marie-Ange)。マリは聖母やマグダラのマリアだし、アンジュは天使の意味だ。語呂としてはフランス共和国の象徴マリアンヌ(Marianne)に酷似。カタカナ書きで最後の「ジュ」と「ヌ」の差、さらにローマ字で言えば ju と nu だからたったの「j」と「n」の差しかない。上にドパルデュ-のセリフ「これでもフランスかよ」に触れたが、マリアンヌに象徴される現状のフランスではなく、マリ・アンジュに象徴される世界の標榜ではないだろうか。この映画は今のフランス人にとっては35年前の一時代を反映するものなのだろうけれど、性解放(あるいは挑発に使われた性)に関して付記すると、社会・文化・歴史の違う日本とフランスとの単純比較は出来ないけれど、援助交際も当たり前になったような日本の性解放の歴史(つまり人間不在)の中で日本人が見落としてきたことをも読み取ることも出来、そういう意味では現在の日本にアクチュアルなテーマを見て取ることも可能かも知れない。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.17
コメント(6)
MALADIE D'AMOURJacques Deray118min(所有VHS)ジャック・ドレ-というとドロン/ロネ/ロミ-・シュナイダ-の『太陽が知っている』(1968) をまず思い浮かべるのだけれど、あとは『パリ警視J』(1973)、『フリック・ストーリー』(1975) 等で、サスペンス、刑事物、アクション物の印象が強い。そんな彼が『恋の病い』(??!)です。共演はミッシェル・ピコリにジャン=ユーグ・アングラード。もともとナスターシャ・キンスキーはどちらかというと苦手で(この映画を見たらなかなか良かったけれど)、なのでこの妙なとり合わせの映画、50円ぐらいでビデオ買ってあったけれど、なかなか見るに至らなかった。でもこの作品は88年度フランスで興行 N0.1 だったらしい。DISCAS切れだったので見てみようかと、かなりいい加減な気持ちで見始めた。なにげなくタイトルロール見てたら ANDRZEJ ZULAWSKI と目に入ってくる。「あれっ!?」と思ってリモコンで戻して止めたら確かに「ストーリー原作アンジェイ・ズラウスキー」とあった。なるほどズラウスキーとナスタ-シャは不思議はないけれど、ズラウスキーとドレ-は不可解。謎は深まるもののズラウスキーの名を見て俄然興味が深まった。結局最後まで見てこの映画を一言にすると純愛メロドラマだ。舞台はボルドー市。新進気鋭の若い有能な癌専門医クレマン(アングラード)と美容室で働くジュリエット(キンスキー)は深く愛し合うようになるけれど、ジュリエットは医学界の重鎮で、病院ではクレマンの上司のラウール(ピコリ)の愛人だった。クレマンはエリートコースを諦めて田舎町の診療所の医師となり、仕事は大変だがジュリエットとの愛の暮らしを送る。しかし先端の医療ではなく一介の診療所医であることに悩むクレマンを見て、ジュリエットは秘かに去ってボルドーに戻り、クレマンには「もう愛してない」と電話で告げた。彼女は本当の愛はないラウールのもとに戻り、しかし愛してくれる彼のもとで贅沢な暮らしを送っていた。クレマンはパリに出て専門研究医として大学で講議も持つなど、エリートコースに再び戻る。ある晩ラウールとオペラを鑑賞していたジュリエットは気分が悪くなり、劇場から出ると突然倒れてしまった。病院で検査を受けると癌の一種ホジキン病だった・・・。(ラストへ向けてのストーリーは書かないが、上で純愛メロドラマと言ったことでおおかたの想像はつくことと思う。)んんん~、何ともな~、そうですか、でもまあ男2人は好演してたし、ナスターシャも良い雰囲気出してた映画かな?、って言いたいところなのだけれど、この原作ストーリーがズラウスキーだということを知っているとそう簡単ではない。細部のどこまでがズラウスキーの原作にあることかはわからないけれど、随所にズラウスキー的なものが垣間見られるのだ。ズラウスキーの他の映画のところでも書いたが、『ワルシャワの柔肌』も『私生活のない女』も、早足に闊歩したり、何かに向かって急ぐように走る主人公の女性のシーンで始まる。後者でエテル(ヴァレリー・カプリスキー)が急いでいるのは、たぶん決して(時計的)時間に追われているのではない。心理的に追いつめられている。『私の夜はあなたの昼より美しい』ではリュカ(ジャック・デュトロン)は謎のウィルスに脳を冒されて失語症へと向かったいた。彼には「言葉を失う前に」という追いつめられた気持ちがある。この『恋の病い』でもジュリエットはホジキン病の既に第3病期にある。病気で先がないというのは残された短い時間で「密度の濃い」生を生きることに主人公を誘う。そういう差し迫った、追いつめられた心理が、忙しなく動きまわる落着かない映像構成で描かれる。この2例のようにいつも実際に病気で先がない話であるわけではないけれど、ズラウスキーの映画には「究極に濃度の濃い生」を生きる人物を通して人間の普遍が考察される。そういう目でこの映画の作りを見ていると、そういう緊迫感が全くない緩慢なメロドラマでしかない。ドレ-らしく男たちの心理を重厚に描いているかと言えば、そうでもない。地位も名誉も金もあるラウールが、愛されているのではないと知りながらジュリエットを失いたくないという、老年へ向かう男性の若さを求める心理、そういうものもはっきりしない。キャリアを捨てて一介の診療所医であることに対するクレマンの焦燥感も強くは描かれない。この3人の心理をもっと追いつめられた狂気として描いていたらさぞ面白かっただろう。そういう意味でズラウスキー本人の監督で見たかった、とどうしても感じてしまった。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.16
コメント(4)
PARIS, JE T'AIME120min(所有DVD)第15話『ペール・ラシェーズ墓地』ウェス・クレイヴン監督PERE-LACHAISE Wes Craven前第14話がドラキュラもので、その暗い夜が明けた真昼の世界。しかし舞台は墓場です。ウェス・クレイヴンと言えば『エルム街の悪夢』や『スクリーム』などホラーの監督。なかなか粋な構成です。第1話から第18話までただ羅列したのではなく、こういう全体構成が考えられている。そのためにナジャリの「11区」とボーの「15区」が本編から外されてしまったのでしょう。監督はアメリカの人ですが、演じるのはクレイヴン監督の『スクリーム3』に出ているエミリー・モーティマーと、ルーファス・シーウェルで、2人ともイギリスの俳優さん。あとオスカー・ワイルドの亡霊役は最後の第18話の監督アレクサンダ-・ペインです。なるほど西洋でも、例えばゴシック・ホラー映画などで、人里離れた教会に付設の墓地があって、そこには朽ちた金属の十字架の墓標などがあって、夜稲妻が光り、一陣の強風が流れ・・・といった恐怖場面はあります。でもこの映画のペール・ラシェ-ズや、モンマルトル、モンパルナスの墓地にしても、日本の墓地のような薄気味悪さは少ないですね。宗教の違いもあるだろうけれど、きっと生者と死者の境界が日本よりも明確なのだと思います。なので観光や散歩のコースにもなるわけです。結婚を控えてスケジュールの都合で結婚前ハネムーンでパリにやってきたフランシスとウィリアムのイギリス人カップル。彼女はサラ・ベルナールやショパンやプルーストの墓があるって言うけれど、ウィリアムの方は墓地なんてきっと興味ない。この3名の有名故人、イギリス人やたぶんアメリカ人のちょっと教養のある人がきっと関心を持つであろう人物たちなのではないでしょうか。この辺のセリフの選択にちょっとニヤっとしてしまう自分です。たぶん日本人ならショパンはともかく、プルーストやサラ・ベールとは言わないでしょう。ちなみにこのペール・ラシェ-ズには他にジム・モリソン、ピアフ、モンタン/シニョレ、モリエール、バルザック、ビゼー、カラス(後に海に散骨)、アベラ-ルとエロイーズ・・・等の墓があります。ここに葬られている人すべての伝記とその人の関連人物を知れば、西欧の、少なくともフランス近現代の政治史、文学・芸術史、思想史、科学史を網羅出来るのではないでしょうか。映画に戻って、フランシスの最大のお目当てはオスカー・ワイルドの墓。やっと見つけて彼女は墓石にキスをする。彼女にとってワイルドは彼一流のユーモアを与えた作家。でもウィリアムにはそれが理解できない。ユーモア(なにせユーモアの好きなイギリス人ですから)を解さないウィリアムに「そんなあなたとはやっていけない」って怒って行ってしまう。そこにワイルドの亡霊が出現する。彼女を失ったらそれは心の死だとウィリアムに忠言する。彼はフランシスを追うとキスをし、「君を正常な人間のように扱う男といて幸せか?」ってワイルドの言葉を言うと彼女もにっこり。めでたく2人が仲睦まじく墓地を去っていく。第16話『フォーブール・サン・ドニ』トム・ティクヴァ監督FAUBOURG SAINT-DENIS Tom Tykwerこの第16話はなかなか素敵な一編です。作りも見事で、色々な要素をこの短い5分間に表現しています。単独の5分のショートということではなく、この『パリ、ジュテーム』というオムニバスの一編として考えると、的確な構想とその実現ではないでしょうか。実際にトム・ティクヴァがどのようにこのショートの発想をしたかはわかりません。でもたったの5分をどうするか。そこでビデオを見るときのピクチャーサーチっていうのでしょうか、ああいうコマ落としにしたらどうなるか。早送りだから10倍速なら5分で50分が描ける。じゃあそれをどういう枠にはめるか。そこで死際に見る人生の走馬灯では暗いから、別れを告げられた男が出会いからの彼女との日々を走馬灯のように回想するのはどうか。更にその主人公を目の不自由な障害者にすれば、見えない人が見るというひねりが加わる。そんなわけで、物語は目の見えないトマ(メルキオール・ベスロン)が家でパソコンに向かって仕事をしていると電話が鳴る。受話器を取ると恋人フランシーヌ(ナタリー・ポートマン)からで、妙に大袈裟で文学めいた長い別れのセリフを語るのだった。ショックで返す言葉もなく受話器を置いたトマは、フランシーヌとの出会いからの日々を走馬灯のように見るのだった。5月15日のこと、トマが街を歩いていると、通りに面した一階の部屋の開け放たれた窓から若い女が助けを願う言葉が聞こえてきた。窓辺から室内を窺うトマだが、目が見えないので女が芝居のセリフを稽古しているとはわからなかった。女優志望の彼女はこれから演劇学校のオーディションで、かつて出たB級映画の中の場面の練習していたのだ。遠くから10時を告げる教会の鐘が聞こえる。オーディションは10時からで慌てる彼女。そんな彼女をトマが近道で演劇学校まで導く。「盲が盲の手を引けば共に穴に落ちる」という聖書の言葉を連想したりしたけれど、彼女は盲でないから2人は穴には落ちない。でも目の見えない者が見える者を導くというのが良い。 全編を通してのことでもあるのだが、この物語は障害者の普通人としての社会参加の物語でもある。そしてそれは単に物語がそうであるだけではなく、ボクの勘違いでなければ、トマを演じた役者メルキオール・ベスロン自身が目の見えない障害者なのだ。演劇学校に合格したフランシーヌはボストンからパリに移り住み、トマと仲良くなる。デートをし、一緒に暮らし、結ばれ・・・、と次から次へと色々な短いシーンが早送りでトマのナレーションの下に繰り広げられる。喧嘩をすればトマは一人最初の出合い時の例の映画を映画館に観にゆき、と言っても彼の目は見えないのだけれど、そして冒頭でフランシーヌが稽古していたセリフのシーンを見ながら(聞きながら)「ゴメン」と独白する。そして映画冒頭の電話を切ったシーンに戻ってくる。再び鳴る電話はまた彼女からだ。難しいセリフをトマ相手に言ってみてリアリティーのある演技が出来たかを確かめたかったのだった。「ボクには君のことが見える」というのが最後のセリフだ。 コマ落としの超短いシーンの連続だから、撮影そのものは大変だったろう。なにしろたった1秒、2秒、10秒のために一つのロケが必要だ。そのためにカフェでも通りでもロケ現場にいた人をエキストラに使い、遠景から望遠で撮影された駅のシーン等では何も知らずにフレームに入っている通行人もいるだろうし、結果パリの人々の生活を生で捉えることになっている。これはパリをテーマにした映画としては適切なことではないだろうか。人生に前向きな活力を表現したナタリー・ポートマンは素敵だったし、実際に目が不自由なメルキオール・ベスロンの役どころは現実の彼と交差するもので良かった。余談だが、普通男の役は男優が演じ、女の役は女優が演じ、子供の役は子役が演じる。ならば目の見えない人物の役を演じる本当に目の不自由な役者がもっといても良いのではないだろうか。第1話~第3話第4話、第5話第6話、第7話第8話~第10話第11話、第12話第13話、第14話監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.14
コメント(4)
L'AMOUR PAR TERREJacques Rivette129min(所有VHS)この映画、『地に堕ちた愛』ってタイトルはいかがなものでしょうか?。なにか「堕落した愛」って感じがしますが、原題にそういう負の意味合いをはたしてリヴェットは込めたかどうか大いに疑問です。この映画はリヴェット監督の作品によくあるように(『セリーヌとジュリーは舟でゆく』、『彼女たちの舞台』、『恋ごころ』など)、映画中芝居の物語です。「PAR TERRE」とフランス語で言うと「地面に」という意味なんですが、西洋の劇場建築の一階平土間をも意味する、あるいは連想させる語だと思います。映画冒頭に出てくるアパルトマンでの芝居上演にしても、この映画のメインストーリーであるリハーサルを重ねて最後に上演される芝居も、アパルトマンや屋敷の部屋での上演で、決して床面=「平土間」から一段高くなったステージ上では演じられません。原題は「平土間の愛」とか「平土間に下ろした愛」という意味で、決して完成したものとしてではなく、芝居というものを地に下ろして分析・考察しようということだと思います。そしてもちろん愛を考察する物語でもあるわけです。映画はエミリー(ジェーン・バーキン)とシャルロット(ジェラルディン・チャップリン)の2人の舞台役者が、一風変わった劇作家・演出家クレマン・ロックモール(ジャン=ピエール・カルフォン)の大邸宅に移り住んで、シルヴァーノともども一週間という短い期間で、まだ最終幕の台本は明かされぬある芝居を仕上げて、最後に上演するというものだ。屋敷には開かずの間があって、そこから不思議な物音(あるいは幻聴)が聞こえてくる。フランス語でピエス piece と言うと、英語のワン・ピース、トゥー・ピーシーズというような意味で、さしずめ日本語では個とか枚いった単位を表す語だ。そしてユヌ・ピエス une piece は家について言う場合の1部屋、芝居について言うと1編の戯曲ないし1つの出し物を指す。つまり開かずの間(piece)というのはドアの背後に隠された1つの芝居(piece)でもある。タイトルにも、作中のこの一語にも、フランス語でなければわからないダブルミ-ニングが隠されている。それを知らずとも映画は十分鑑賞できるが、知っていると映画の内容を理解する大きな指針となる。映画は、なんだかわからないけれど何人もの人が夕暮れのパリの街のとあるアパルトマンの一室に案内されるシーンで始まる。そこには1人の男と2人の女がいる。女2人は上手いこと顔を合わせない。でもその様子を案内された人々は見ていて、当の男と女の3人はその人々の存在に気付かない様子。始まりから何か狐につままれたような訳の解らぬシーンなのだが、これは実はアパルトマンを使った芝居上演だった。リヴェット監督は、冒頭から映画を見ている観客を、現実と芝居の虚構の混交した世界に誘い込む。そしてこの3人の役者エミリー、シャルロット、シルヴァーノはクレマン・ロックモールに雇われ、彼の屋敷で稽古をし、上演することになる。そのキッカケとなるのは3人が勝手に改作して上演していたのはロックモールの戯曲だったこと。創作して戯曲を書く劇作家、それを上演する際に役者が勝手にもたらす変更。上演される舞台というのは一体誰が作るものなのか?。屋敷にはクレマンの友人でライバル(?)のポール(アンドレ・デュソリエ)、クレマンの現在のパートナー(?)のエレオノール、足音をたてずに歩くので「狼足」と呼ばれる使用人のヴィルジル(ラズロ・サボ)等がいた。このヴィルジルは Virgil となっているが Virgile と書いてもほぼ発音は同じで、これは『アエネイス』を書いた古代ローマの詩人ウェルギリウスのことだ。執事のようでありながら、部屋ではシェークスピアをフィンランド語に翻訳してタイプしている。エミリーは自分が死ぬ場面を幻視したりで、それは現実の予知なのか芝居のシーンの一部なのか、どこまでが現実で虚構なのかがわからない物語なのだが、足音をたてずにどこへでも出没する狼足ことヴィルジルはすべての観察者でもあり、一見単なる使用人のようで、実はすべての仕掛人かも知れず、彼がタイプしている原稿こそが芝居(あるいは映画)の全貌なのかも知れない。こうした中でシャルロットとエミリーはクレマンやポールに惹かれていく。最初のアパルトマン上演では男1人に女2人の三角関係だったが、ここでも現実(?)にクレマンやポールをめぐるシャルロットとエミリーの複雑な関係が進行する。そして彼女たちが演ずる芝居には女性役は一つしかなく、最初にそれを得るのはシャルロットで、エミリーはズボン役に甘んじるが、セリフを憶えられないシャルロットに代わってエミリーが彼女の役で稽古したりもする。ポールはマジシャン(ちなみに『セリーヌとジュリー・・』のセリーヌもマジシャンだった)だが、クレマンとポールの対抗関係は芝居とマジックのそれでもある。開かずの扉の中にある隠されたピエス piece(部屋=芝居)とは何か。そこは居なくなったクレマンの元妻ベアトリスの部屋だった。そして上演に向けてシャルロットたちが稽古している芝居とは、このベアトリスをめぐるクレマンとポールの抗争の実話の物語であることがわかってくる。クレマンから鍵を渡されたシャルロットは部屋に入るが、もちろんベアトリスはいない。探究される真理、芝居かマジックか、何重もの三角関係や愛の行方は、そして芝居の最終幕は、すべては空の部屋に象徴されるように謎のままだ。上演の日がやってきて観客が招かれ芝居が上演され、最終幕の原稿が役者に渡される。そして赤い服の女ベアトリスが屋敷にやってくる・・・。ジャック・リヴェットの映画、今まで見た中ではいちばん古い1974年の『セリーヌとジュリーは舟でゆく』と、いちばん新しい2001年の『恋ごころ』の完成度が高く、ボクもより好きな作品だが、彼の迷宮のような世界に身をまかせるのはいつも楽しい。映画、演劇、そして時代のせいかときにやや政治的な気分、そういうものを扱ったリヴェットだけれど、もう一つ彼は女あるいは女優を美しく魅力的に登場させる。『セリーヌとジュリー・・』ではラブリエ、ベルトとオジエ、ピジェ、『恋ごころ』ではバリバール、バスレール、フージェロルだったが、『北の橋』(1981)のオジエ母娘、この『地に堕ちた愛』(1984)のバーキンとチャップリン、『彼女たちの舞台』(1988)のオジエと他の4人、『美しき諍い女』(1991)のベアール、映画が現実の虚構の迷宮なら、女優たちについては、現実の役者と彼女たちが演じる役という虚構、この映画における役者の不思議を堪能させてくれる。この作品はもともと170分と長~い映画のいつものリヴェットだが、2時間に短縮することで公開に漕ぎ着けたらしい。オリジナル170分版もあるとのこと、そちらも見てみたい。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.13
コメント(0)
PARIS, JE T'AIME120min(所有DVD) 第13話『ピガール』リチャード・ラグラヴェネーズ監督PIGALLE Richard Lagraveneseこの第13話は、味わいの深い一編ではあり、主演の二人名優ファニー・アルダンとボブ・ホスキンスの演技も良く、楽しめる一編ですね。二人が夜の街に出てきて歩く背後に芝居のポスターが貼られていて、「ラグラヴェネーズ劇場、本日最終。ファニー・フォレスティエ、ボブ・レアンダー主演、『愛と偶然の戯れ』(マリヴォー)、ボブ・レアンダー演出」(←多少誤りがあるかも)とある。老年にさしかかった夫婦を演じた芝居がこのショートでもあるわけだ。背の高い威圧的なアルダンとはげ頭で背の低い道化のようなホスキンス、夫婦漫才のようでもある。でもこの映画はボクにとってはそれだけですね。たぶんアメリカ人監督ラグラヴェネーズの古きフランス映画への憧れの世界なのだろうけれど、やや映画世界として作り上げられた男女を、しかし奥深く描いたという感じです。ファニー・アルダンという女優さんは昔は苦手でした。トリュフォーの作品の彼女など、ボクは映画界のゴシップとかに詳しくないのでわかりませんが、ある種の無理か不満が口の両脇に出ているような感じで、あまり好きではありませんでしたが、最近の彼女は良いですね。いいおんなになった感じで、魅力的です。第14話『マドレーヌ界隈』ヴィンチェンゾ・ナタリ監督QUARTIER DE LA MADELEINE Vincenzo Natali夜の話が増えてきて、前の第13話が夜の静かな人気の少ない街で終わり、そろそろ一種のメリハリとして本当に夜の世界、つまりヴァンパイアものホラー映画ですね。ネタバレってほどのストーリーでもないので書いてしまいましょう。リュックを背負った若い男が地図で迷いながら寝静まって人気のない夜の寂しい街を歩いている。リュックと地図とアメリカ人(と言ってもヨーロッパ系の血をひくようですが)イライジャ・ウッドが演じているから旅行客なのでしょうが、ベトリと靴底が血のりを踏み付ける。見ると女(ヴァンパイア)が死体の首もとにかがんでいる。ちなみにこの死体を演じるのは次第15話の監督ウェス・クレイヴン。そんな彼女に気付かれた彼は、一瞬女と見つめ合うが、次の瞬間彼は首に噛みつかれてしまう。去っていく女。彼は彼女に恋をしたのか、近くに捨てられていたワインのビンを拾って割ると自らの手首を切って流れる血を彼女に差し出す。しかし彼女は去っていってしまう。彼は出血多量で転倒して階段を転げ落ちる。最後に後頭部を地面に打ち付けて赤い血が流れ出す。そこにやって来た女は尖った犬歯で自分の手首を刺すと、流れ出る血を倒れている彼の口の中に落とす。気付くと彼の犬歯も吸血鬼のそれになっていた。最後に愛おしそうに互いに見つめ合う二人。女が男の首に噛み付くと思いきや、激しく犬歯を女の首に刺したのは男の方だった。突然の驚きと苦痛に顔をゆがめる女だったが、それは恍惚の表情と変わり、女も男の首に噛み付いて、互いに深く抱き合う姿がハート形の中にフェードアウト。出会いと愛の成就というハッピーエンドの物語。このオムニバス映画全体はパリを舞台にして色々な出会いや愛を描いているのだけれど、セックスシーンらしきは一つもない中で、この第14話が唯一エロティックな1編かも知れません。男性が女性の首から血を吸うというドラキュラの物語自体がもともと性的な比喩の物語なわけだけれど、このショートの最後のシーンは、男を愛した乙女が初めて男に身を委ねる情景の比喩であることは明白で、非常にエロティックなシーンだと思います。それをヴァンパイアの物語として実にロマンティックに描いているのではないでしょうか。吸血鬼として恐ろしい存在でありながら、華麗で、特にその少女として持つ無垢な雰囲気をオルガ・キュリレンコが好演していました。このキュリレンコは『薬指の標本』の女優さんで、この映画自体は『O嬢の物語』や『イマージュ』を今さら焼き直した従属愛の作品であまり感心しなかったけれど、彼女自体は好演してました。雰囲気を持った良い女優ですね。色を抜いた白黒に近い画面に血の色だけが赤く、でもリアルではない赤で、映像も綺麗でした。羽飾りがひらひらとしたドレスを風になびかせながら音もなく動き回るヴァンパイアの姿も美しい。一瞬だけ血ではなく、画面全体が赤くなる映像の使い方も効果的。効果音やCGなんかも使い放題だから、ドグマ95なんていうのとは正反対な映画作りだけれど、こういう映画(映像)の楽しみがあることは事実ですね。第1話~第3話第4話、第5話第6話、第7話第8話~第10話第11話、第12話監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.12
コメント(2)
MES NUITS SONT PLUS BELLES QUE VOS JOURS.Andrzej Zulawski110min(所有VHS)最初のソフィー・マルソーとジャック・デュトロンのパリのカフェでの出会いから、既にズラウスキーの世界。神経症的にゆとりを排した語法。映画は常にせわしなく動いていて、落着きや安らぎはない。語られる言葉は、リアリティーがあるようで抽象的だ。あるいは暗喩をも含む。その暗喩とは言葉を口にする人物が何かを隠し、あるいは婉曲化し、あるいは飾り立てているのではない。逆にすべての虚飾を排して語られる生の言葉。そこには話者がその言葉を発する意味のすべてが内包されている。そのすべてが暗喩だ。謎のウィルスに脳を冒されて言葉を失いかけているリュカ(ジャック・デュトロン)。言葉を失うまいと発語し続ける。言葉遊びでもあり、フロイトの自由連想でもあり、ローマン・ヤーコブソンの失語症と言語学でもある。metaphoreとmetonymie(註)。 映画にはストーリーはあってなきに等しいものだが、バックグラウンドとして必要なストーリーないし設定がある。リュカはコンピューター言語の開発者。C言語などコンピューター言語とは人間の思考と "0" と "1" のみからなるコンピューターの思考の橋渡しをするものだ。そんな彼は脳を冒され失語症に向かっている。言葉との格闘。そのウィルスとは生物的存在ではなく心理的存在かも知れない。池での優雅な船遊びの折に少年リュカが岸から見つめていた美しい母と愛人と父の異様な光景のトラウマ。ウィルスとは人の精神に作用する誰か別の人の存在や行動なのかも知れない。一方マルソー演じるブランシュはトランス状態で人の思いや運命を透視する超能力者。彼女を見せ物としてその汁に群がる母や夫や雑多な取り巻き。どちらも他者から逃れられない存在。畢竟多かれ少なかれ人とはそういうものだ。そんな二人の世間的虚飾を排したなまの愛。大西洋岸南フランスの保養地ビアリッツのホテルへ巡業に行かされるブランシュ。後を追うリュカ。過去・現在・未来という時系列とは相容れない、とにかくも今だけの生で真実の愛。 なんと詩的な映画か!。映像詩などではなく映画詩、あるいは映画による詩だ。そもそもブランシュという白を意味するマルソーに与えられた名前は、それだけでもなんと美しいことか。この映画が作られた頃マルソーは26才年長のズラウスキーのパートナーだった。ある女優の美しさがこれほどまでに見事に映像化されたことはあったろうか。少なくともごく稀であることは確かだし、ここでのマルソーは本当に美しい。映画とはストーリーを語って聞かせることだけが目的ではなく、役者にとっては自己表現の媒体であり、監督にとっては役者を描くための場でもある。ストーリー性の高い映画が散文(小説)なら、この映画は韻文(詩)の世界だ。解ろうとせず身を任せて感じるように見れば、そう言葉遊びのようなリュカの単語の連発にしてもその言葉に身を任せ、あるいはとりとめもなく連鎖するシーンやセリフに身を任せ、またマルソーとデュトロンの演技に身を任せ、美しい映像を目にしながら感性で捉えるとき、本当に素晴らしい作品だ。難解だ、わからないと言われるこの作品の鑑賞のポイント、それはここで描かれているちょっと特殊な二人やその物語、その中にどれだけ自分の生と同じものがあるか、愛や孤独の本質を見て感じとれるかどうかだ。(註)metaphore(隠喩):共通の観念による比喩。「あの雌狐」というとき、その女の狡猾さと狐の狡猾さが共通する観念であり、それゆえ女を指すのに狐と言っている。metonymie(換喩):部分で全体、容器で内容、原因で結果を表す比喩。「赤帽に頼もう」と言うとき、駅のポーターが赤い帽子を冠っているので、その外見の一部でポーターという職種の人間を示している。失語症には2つのタイプがあり、飛行機の絵を見せられて「飛行機」と言えずに、空を飛ぶという共通の観念から「鳥」と答えてしまうのがmetaphore的失語症であり、「プロペラ」と答えて一部で全体を意味してしまうのがmetonymie的失語症で、人間の脳の言語的観念連合にはこの2タイプがあるということ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.11
コメント(5)
PARIS, JE T'AIME120min(所有DVD)第11話『デ・ザンファン・ルージュ地区』オリヴィエ・アサヤス監督QUARTIER DES ENFANTS ROUGES Olivier Assayasこの第11話は、主人公は映画出演のためにパリに来ているという設定のアメリカの女優リズだけれど、全18話の中で、ボクの印象としてはいちばんありのままのパリって雰囲気があります。出演者もすべてフランス人の第1話『モンマルトル』よりも現代のフランス映画の一コマを見ている感じが強いです。ちょっと思い出したのはフィリップ・ガレルの『白と黒の恋人たち』。『白と黒』のリュシーの苦悩ほどではないけれど、一人でパリに来て孤独なリズ(マギー・ギレンホール)はドラッグに浸っている。で売人としてやってきたケンはそんな彼女にちょっと惹かれ、また会いたいと電話番号交換するけれどそれっきり、というお話。彼女の弱々しそうな、孤独で、誰か男を求めている雰囲気が、ケンの心を惹いたのだろうけれど、実はこのリズっていうのはもっと冷たいと言うか、男にしたたかな女のような気がする。したたかが言い過ぎなら、ずるい、あるいは自己中心と言い換えてもよい。ケンはちょっとイケメンということなのだろうけれど、地元で普段の日常があり、知っている店があり、親しい人々がいて、恋人がいないとしても恋人未満の男友だちがいて、そういう環境にいたらきっとケンには目もくれない彼女なのではないだろうか。旅先の孤独の中で知り合って、一時2人の関係熱烈に成立したとしても、アメリカに帰れば、仮に男が追いかけてもそれっきりの女のような気がする。そういうちょっと蓮っ葉な女をマギー・ギレンホールは上手く演じてました。撮影を終えた彼女のトレーラーに、ケンは上得意客への仕事が出来たって別の下っ端がドラッグ持ってきて、リズが待っていたケンは来ない。もしかしたらケンは来られるのに敢えて来なかったのかも知れないけれど、気の抜けたようにがっかりするリズ。この孤独感は彼女にとっても真実の孤独なんですね。第12話『お祭り広場』オリヴァー・シュミッツ監督PLACE DES FETES Oliver Schmitzこの監督は名前からも想像できるようにドイツ人の両親を持ち、アパルトヘイト下の南アフリカで生まれ育った人。その差別社会が嫌でドイツに渡った人のようで、そういう映画も撮っているようです。この映画決して明るい作品ではなけれど、と言うか暗くもあるけれど、ショートながら長編1本にも相当する恋愛物語が語られ、また差別とか暴力という問題をも、決して誰がことさら悪いわけではないけれど存在するものとして描いているのが良いと思います。明るくないから「好き」とは言い難いけれど、全18ないし20編の中でも出色の出来だと思います。ちょっと脱線して余談。ボクは父親の仕事の関係で小学生の時にパリに移り住んだのだけれど、当時は日本には今ほど外国人は多くなかったし、テレビで非西洋圏の映像が流れることだって少なかった。だからパリに行って、固有フランス人、アメリカ人、そして初めてに近い出合いだけれどアルジェリア等のコーカソイド、そして中国人、顔は色々だけれど比較的馴染みやすかった。さらに余談に流れると、白人の皮膚って本当に白いんですね。子供にクレヨンとかで人の顔描かせると、日本人は肌色クレヨンがあればそれで顔を塗るけれど、ないと黄色かオレンジか黄土色を使う。でもフランスの子供はピンクを使う。顔が紅潮すると日本人は黄色と赤が混ざって赤めの肌色になるけれど、西洋人は白と赤が混ざって本当にピンクなんですね。で第一の余談に話を戻すと、ブラックアフリカの人々って、本当に漆黒に黒光りするような肌に歯と白目だけが真っ白で、無気味で恐かった。この映画の主人公ハッサンは地下駐車場の掃除人をやっているのだけれど、ボクがパリに行った頃も、もちろんごく一部金持ちの人もいたけれど、痩せて背の高いブラックアフリカンのお兄さんたちは、道路清掃とかゴミ収集とか、そういう3K労働に主に従事していた。と言うか自分が目にし、接するブラックアフリカンはそういう人だった。そんなことを思い出しました。歴史的に考えればヨーロッパ人がアフリカ植民地を搾取してきたのは確かなのだけれど、普段パリに暮らす人々は、白人にしても黒人にしても、いつもいつもそのことばかり考えて生きているわけではない。特に被差別の側にいて、生活条件も良くないアフリカンはそういうことを考える、身にしみて感じる機会は多いだろうけれど、その彼らだって今成立している生活のあれこれ、喜怒哀楽、そういうことの方が重要で、それが人の日々の生活というものだ。この映画の中で描かれるちょっとしたいざこざ、そこにもちろん差別はあるのだけれど、それ自体も既に日常の一部なのだ。主人公の黒人ハッサンが何故パリにいるのか、それはわからない。家を追い出されてギターとカバンを持って広場に座る彼。そういうつもりではなかったろうが、ギターを奏でて歌を歌っていると小銭を置いていく人がいる。きっと自分の生活に一応満足した、あるいは満足を知る余裕を持てる人なのだろう。しかし自分たちも失業に汲々ととし、あるいはちょっとヤクザな世界で上手いことやっている族にとっては、自分の実入りとかち合うか、あるいは不満から誰かを虐めたい心理があって、ハッサンはその犠牲となるわけだ。掃除人として働いていた地下駐車場で一度会ったソフィー。彼女もブラックだったが、医者だか救命士の資格取得を目指していて、自分の車も持つ成功者でもある。そんな彼女に惹かれたハッサンだったが、チンピラに腹を刺されて倒れたとき救急医として駆け付けたのは皮肉にも、あるいは幸いそのソフィーだった。駐車場の出会いでなし得なかったこと、一緒にコーヒーを飲もうという彼に、彼女は近くのカフェからのコーヒー2つの出前を人に頼む。しかし到着した救急車に瀕死の状態で乗せられ、運ばれ去るハッサン。涙を流す彼女に運ばれてきたのは2つのコーヒーだった。救命という使命感に生きようとしているソフィーの初仕事は、こうして挫折に終わる。何かの希望を抱いてパリにやってきたハッサンも挫折の(恐らく)死だ。これは誰がことさら良い、誰がことさら悪いという個別問題を越えた社会の真実なのだ。第1話~第3話第4話、第5話第6話、第7話第8話~第10話監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.10
コメント(4)
MAIS NE NOUS DELIVREZ PAS DU MALJoel Seria103min(DISCASにてレンタル)はる*37さんの『小さな恋のメロディ』のレビューを読ませていただきましたが、自分の個人的感慨としては偶然にも同じ頃、また自分の感想としてはこの『メロディ』に似た作品『小さな悪の華』を見ました(はる*37さんの日記を読んで『メロディ』を思い出していなければ2つの類似性に気付かなかったかも知れないという意味での偶然です)。はる*37さんのところにコメントしたように『メロディ』は好きな映画なんですが、この2つの映画を似ていると言ったら多くの『メロディ』ファンには怒られそうです。なにせこちらはフランスでしばらく上映禁止になったような作品です(カトリック教会の圧力でしょう)。でも既成社会の矛盾や欺瞞を子供の視点で諷刺した構造は同じで、どちらも1970年頃の作品。一つの共通の時代性を感じます。 映画の構造もラストから先のことは考えられないような作りで、そこで完結しています。『小さな恋のメロディ』がイギリス版白い『小さな*の*』なら、こちらはフランス版黒い『小さな*の*』と言えるのではないでしょうか。と言ってもこの題はどちらも日本公開の意訳タイトル。原題の直訳は「我らを悪からお救いにならないで下さい」ぐらいで、神への祈りの文を逆にしたようなタイトルです。ついでに言うと1976年のブレイヤの『本当に若い娘』(1976)につながる作品かも知れません。ずっと時代を経てソロンズの『ウェルカム・ドールハウス』(1996)への系譜でしょうか。1968年というのは世界的学生紛争の年で、フランスではそれが五月革命へと大規模化し、結果いくつかの変革はあったものの社会の構造は根本的に変わらなかった。1970年頃というのは、そういう挫折感の中で、でもなお社会の不正義に対して目が向いていた時期なのだと思います。 16~7才の少女アンヌ・ド・ボワッシー(ジャンヌ・グーピル)はカトリックの寄宿学校に入れられていた。そこで彼女にくっついている仲の良いただ一人の友達がロール(カトリーヌ・ヴァジュネール)。プライドが高く、賢く、個性も強いアンヌに、より個性の弱いロールがくっついているといった良くあるパターンかも知れない。親分・子分の関係と言ってもよいのだろうが、アンヌは一人で自分の思い通りにするにはまだ弱さも残る年令で、逆に色々思いはありながらも一人では何も出来ない弱い個性のロールがアンヌにくっついている。依存を含んだ支配と、自発的被支配の関係。自己愛的な意味での同性愛的感情もないではないだろうけれど、そこは具体的行動としてははっきりは描かれない。 2人は権威主義で規律のみを押し付ける学校(カトリック教会)に反発していて、また実のところ本当の意味で子供を愛していない親、それらを含めた大人の社会に反抗する2人。アンヌは悪に身を捧げることを自らに誓っていた。ヘビにそそのかされたアダムとイヴの原罪による楽園追放に象徴されるカトリック教義は性の禁忌。モーセ十戒の第6「姦淫してはならない」と第9「隣人の妻を欲してはならない」だ。左右二列にベッドが並ぶ寄宿舎の寝室。カーテンで仕切られた奥は監督のシスターのベッドがある。最後の見回りを終えてカーテンの向こうで着替えるシスター。僧服を脱いだ彼女の長い髪や女の体が灯を背にしてカーテンにシルエットとして映るのを憎悪の目で見つめるアンヌ。また別の日、部屋で2人のシスターが僧服のまま、十字架をバックに、同性愛の行為に及んでいるのを鍵穴から覗き見たこともあった。 夏休み、二人は互いに遠からぬそれぞれの家で過ごすことになる。アンヌ・ド・ボワッシーは名前の「ド」が示すように貴族の出で城のような屋敷に住んでいたが、アンヌを一人残して(執事・庭師など使用人はいる)両親は旅行に出かけてしまう。親と過ごすよりもロールと過ごす方が嬉しいアンヌではあるけれど、実のところこれは親の子供に対する愛情の欠如を示している。普段も週末の帰宅以外は娘を寄宿学校に追い払い、2ヵ月のバカンスは「普段学校に拘束されているのに、休みまで親に拘束されては可哀想だ」などという理論で子供を残して出かけてしまう。出かける時に娘に言うのも「他家にお呼ばれしたら、くれぐれも粗相のないようにね」という世間体を気にした言葉だけで、娘を案じる言葉はない。このような状況はロールも同じだった。 年令的に2人の中にあるのは性の芽生えでもあるのだけれど、2人は周囲の男を若い肢体で挑発する。たまたま夜車の故障で困っている中年男性を助けて彼女たちの部屋(城の別邸を改装したもの)に引き込むが、そこでも2人は濡れた服を暖炉の火で乾かすために下着姿になり、男を挑発する。男は身なりもよく、紳士に振る舞っていたが、挑発に負けてロールが一人になったとき彼女に襲いかかる。もちろんアンヌがロールを一人にしたのも彼女の更なる挑発だったのだろう。学校のシスターも、親の愛情も、何事も表面の体裁だけで実態は汚れているということだ。ロールが2週間不在のときにアンヌはその前にも2人でしたあることを一人で、もっと過激に直接的なやり方で実行する。しかしいたたまれなくなった彼女は今は使われていない城のチャペルに走ってゆき、祭壇に跪いて涙を流す。これは彼女が自分の行為が悪いと知っていて行動しているということを示している。 2人は黒ミサを敢行して互いに血で結ばれ合っていた。そんな2人が最後にどうなっていくか、それは書かないでおくが、上に書いたように『メロディ』同様映画の世界だけで完結した物語の美しいラストだ。途中2人が干し草の山に放火するシーンがあって、夜の闇の中にいくつもの干し草の山が燃えているのは美しい映像だったが、これはこの世界ではない、彼女たちが作り上げた、彼女たちの欲した別の世界の美しさであるかのようだった。2人は汚れたこの世界ではなく、もっと別の美しい世界を求めたのだ。 監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.07
コメント(8)
全175件 (175件中 1-50件目)