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『トリコロール 青の愛』におけるクシシュトフ・キェシロフスキ監督の編集製作者マラン・カルミッツ氏への手紙からハリウッドでは、基本的に監督と編集は分業で、監督には編集権がない。それゆえに監督の意に反した編集が行われる場合もあるわけだ。そんな作品の監督自身によるディレクターズ・カットなるものが後日劇場公開されたり、DVD等で発売されることがある。でもこのディレクターズ・カット、たいていは最初に劇場公開されたものより長い。最初の劇場公開版が2時間で、ディレクターズ・カット版が2時間20分とかいった具合だ。完全オリジナル版というのも同様だ。つまりは監督としては2時間20分のものとしたかったのが、他人に削られ、削られ、2時間にされてしまったということだ。ところでこうした長いバージョンは本当に映画として短いものより優れているだろうか?。余計な水増しではないか?。他人ではなく監督本人が編集をしたという意味は大きいけれど、なぜ使うシーンやその長さ、配列を変えるて監督が自分の意に沿ったものにするのではなく、カットされた部分を追加するのだろうか?。こんなことを書き始めたのは、個別の作品のレビュー等で良く書いているように、最近いたずらに長過ぎる作品があるような気が少なからずするからだ。この傾向は世界的でもあるけれど、特に日本映画には顕著な感じがする。仮に40のシーンからなる95分の映画があったとする。各シーンを10秒ずつのばすと全体で400秒(=約7分)増える。2分のシーンを5つ追加すると10分増える。結果95分だった映画は112分となる。一口に映画と言っても色々な表現様式のものがあるから一概には言えないが、この内容なら95分ぐらい、これなら105分ぐらい、これだと140分、といったプロポーションの必然性があるように思う。95分が適切なものを112分にしてしまっては、やはり密度が薄くなってしまうように思うのだ。それで一例として、キェシロフスキ監督の自伝(仏訳版)に掲載されている、同監督が『トリコロール 青の愛』の編集に関して製作者のマラン・カルミッツに送った手紙をご紹介したいと思う。 (マラン・カルミッツ Marin Karmitz)キェシロフスキという監督/編集者は、撮影後に第1、第2、第3バージョン・・・と編集をくり返し、最終バージョンを作るというスタイルの人だった。『青の愛』の初期第2編集バージョンを見た製作者カルミッツは、その感想を監督に(ファックスで)書き送った。カルミッツは映画を第1部「破壊」、第2部「再生」、第3部「人生、愛、創造」に分け、それぞれの部分に関して感想を述べた。それに対するキェシロフスキの返事、1992年12月2日(ワルシャワ)付の手紙を要約訳で以下にご紹介します。新しい(第3)編集バージョンは、ジュリーという人物に関する貴殿の考察にも合致すると思います。これまでのバージョンでは彼女はやや雲の上の人物でした。新しいバージョンでは彼女はより地に足がついています。でも十分に彼女の神秘性は残っています。彼女の現実的面と神秘的面のバランスはまだ修正します。彼女が診察のために病院に行くシーンと、その直後にあるべきアントワーヌとの会見を、著しく後にもっていきました。かなり明確なカットを入れ、現在全体は1時間55分です。たぶんまだ15分ほど長過ぎます。貴殿が「破壊」と呼ばれた部分は7分ぐらい長過ぎます(オリヴィエとの一夜の後、郊外の家を去るまで)。第2部はシーンの順番をまだ入れ換える必要があると思いますが、現在45分です(テレビでジュリーがニュースを見るまで)。第3部は6分ないし7分長過ぎます。ここでは最後の部分が音楽の長さで決まっているために、シーンの適切な長さのバランスを構成するのがなかなか困難です。我々の映画はまだ編集が完成していない状態なので、まだリズムがありません。第7か、第8バージョンぐらいで良くなりそうです。そうすればしかるべきリズムを持つと思います。このリズムの完成にはまだ1週間ほどかかるでしょうが、それが終われば音に移れます。(・・・)アントワーヌとの会見と、その直前の病院での診療シーンの削除に関しては、まだ検討中です。(・・・)このシーンはジュリーが映画の中で唯一笑うシーンなので、残すべきだと思います。オリヴィエに関しては、観客が気持ちも知っている人物に対してジュリーが呼び掛ける機会を与えたいと思います。このシーンを短くし過ぎると、彼女が誰に、何のために呼び掛けるのかが不明になってしまいます。オリヴィエがテレビを買うシーンの削除は貴殿と同意見です。その他の部分も短縮しました。貴殿のファックスに関しては以上です。映写前に貴殿と十分討議するようジャック(編集者のJacques Witta)に頼みました。今回の第3バージョンに関する貴殿のご意見もお待ちしています。キェシロフスキという人はもちろん編集権を与えてくれることを、そして撮影はしても使わないシーンがあっても良いことを要求したわけですが、これが彼流の映画作りだったわけです。脚本、つまり撮影以前の段階に作られるものでは、シーンの配列自体も明確には決まっていないということです。最終的にこの作品は100分(日本版は94分?)になるわけですが、引用した手紙にもあるように全体のバランスやリズムを大切にしているわけで、別のところで言っていますが、「これで映画になった」ということの重視です。もう大昔にテレビで何人かの映画監督が日本のある有名編集者について話していて、「あの人、まあ、あれあれってほど、容赦なく切るんだよね。でもそれで良くなるんだ。」って言っていました。映画というのは全体として1つの作品で、それを一続きに観客は観るわけだから、バランスやリズムは不可欠であって、未練がましく何でも残そうというのでは、タイトな作品にはならないということです。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.10.10
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TROIS COULEURS: BLEU/BLANC/ROUGEKrzysztof Kieslowski(所有VHS)このブログを開設して約20ヵ月。350本ぐらいの映画作品についてレビューめいたものを書いてきた。映画にも色々な作品があるから、すべてに同じというわけではないけれど、自分の感じたこと、解釈したこと、調べたこと、それらを織り混ぜながら、ストーリーを追っていくというのが、ボクの基本スタイルかも知れない。映画鑑賞記録としての備忘録を兼ねつつ、読んで下さる方にご紹介できれば、と思っている。今回キェシロフスキの三部作『トリコロール 青の愛・白の愛・赤の愛』という、かなり好きな映画について書いていたら、三部作で互いの関連性があることもあって、ここまでに既に6ページを費やしてしまったが、本腰を入れて文章を構築しているわけではないから、色々と書きたいのに触れられなかったことがある。それらを、あまり脈絡など考えずに「蛇足」としてここに書いてみたい。この三部作を、つまりは最後の『赤』を見終わって、非常に気になってしかたのないことがあった。それは恋人に裏切られた失意の中で若い判事オーギュストが一度は捨てようとして、でもフェリーに乗るときには胸に抱えていた犬の運命だ。フェリー事故で救助されたのは三部作の登場人物6名と、乗員でバーテンの計7名。いったいあの可愛い犬はどうなってしまったのか。そのことに関して今回見て気付いた。『赤』の老判事(トランティニャン)と若い判事オーギュストは35年の時間を越えた生まれ代わりであり、分身でもある。過去を振り返ったフラッシュバックというのは映画によく描かれるが、そうではなくフラッシュフォワードなんてどうかなと思ったと監督はどこかで言っていた。主人公の過去の回想ではなく、若い方の判事オーギュストの物語として見れば、すでに老判事が過去として彼の人生を生きている(これは『ふたりのベロニカ』も同じ)。ヴァランティーヌに出会うことで最後だけは変わるのだけれど。犬を飼っていることも、ズボン吊りをしていることも、偶然開いた本の1ページと司法試験のことも、裏切る金髪の恋人にしても、その彼女にお祝に万年筆をもらうことも、すべてを監督は共通させている。ヴァランティーヌは時空を越えて、過去に老判事が出会ったはずで今は50才になった姿で老判事の夢に登場もし、映画の現在進行形の現在にオーギュストの出会うべき恋人としても登場する。ヴァランティーヌに出会ったことで人間不信の殻を割って老判事が最後に解放されるのは、割れたガラスから老判事が外の世界を見ているラストに象徴される。ガラスという殻は壊れた。ちなみに『デカローグ6』(愛に関する短いフィルム)ではそのガラス(殻)は破られなかった。判事の変化を期する出来事はヴァランティーヌを求めての自分自身での密告であり、それは殻の中から外界の人々を盗聴することをやめることでもあるのだけれど、その密告の手紙を近隣住民に書くとき、彼がかつて裏切りの恋人にもらい、終世使い続けてきた万年筆が使えず、鉛筆を使う。それはこの万年筆に象徴される裏切りの恋人からの自分が解放されたことの象徴ともとれるのだ。そしてリタの生んだ7匹の子犬。その1匹をヴァランティーヌに贈る。子犬とは新しい生命なのだけれど、これが実は若いオーギュストが飼っていた犬の代わりなのではないかということだ。つまりこの子犬が、若いオーギュストという老判事の分身と老判事自体を、同一の一人の人物に統合するのだ。こんな行き過ぎた深読みをすることで、オーギュストの犬の遭難したらしいことは納得しよう。赤の冒頭の電話でミッシェルはポーランドでカロルに助けられたことをヴァランティーヌに話す。かつて『白』の中では、パリのカロルは自分が不幸だから空ビン回収ボックスに上手くビンを入れられずに苦労する老婆を、いわばせせら笑う。しかしポーランドで実業家となったカロルは、かつて自分がパリの寒空の下で味わわされた境遇と同じ境遇のミッシェルを助けるゆとりを持っている。くどくど説明すれば、季節は春前らしいから、ポーランドはまだ極寒だろう。そこで自由化されたとは言っても旧共産国のポーランド。パスポートがなければホテルにも泊れないだろう。夜でフランス領事館も閉まってしまっている。だから寒空の下で一夜を明かさなければならないのは同じなのだ。キェシロフスキはこの三部作、順番通りに見てもよいし、1作だけ見ても良いし、順不同に見ても良いと言っている。しかしやはり三部作で、既に書いたように人物再登場の手法を用いた一種の『人間喜劇』(バルザック)で、だから『赤』なら『赤』を知った上でまた『白』を見るとまた新たに面白い。『白』のカロルのポーランドでの状況が、最初からドミニックへの復讐に燃える男ではなかったことが、この『赤』で知らされるエピソードからわかるのだ。ミッシェルを助けるという『赤』の象徴たる「友愛」を持てるほどにカロルが成長していたことがわかる。そしてそういう目で『白』を改めて見られるのだ。同様に既にどこかに書いたと思うが、赤い物や赤い光で映画全体を赤で統一した『赤』を見て知っていると、『青』を見ながらジュリーがリュシールの心の叫びに応じてピガールに出かけていくシーンの赤い色彩は、赤の気分、「友愛」の気分を観る者に想起させてくれる。そういう意味で、この三部作はあちらこちらと3作品を見返すと面白い映画だ。いちどきにというのではなくても、久しぶりに『白』だけ見るとか、『青』を見るとか、そういうことだ。どんな見方でも良いという監督の言葉を引用したが、でも短期間に3作品を見る順序としてのオススメは、『赤』→『白』→『青』→『白』→『赤』という順番かも知れない。『デカローグ』(『殺人に関する短いフィルム』や『愛に関する短いフィルム』を含む)以降の彼の作品を見ると、女性の髪の色には使いわけがされているように感じる。金髪の女性は軽薄であったり、真実の愛をあまり持っていなかったり、人間としての成長の程度がまだ低かったりだ。『青』と『赤』の主人公ジュリーもヴァランティーヌも(ふたりのベロニカも)金髪ではないが、『白』のドミニックは金髪だ。『青』の若い弁護士見習いは妻子ある男の愛人だけれど、彼女は金髪だし、『赤』の裏切り者の恋人は、現在時制のカリンも老判事の語るのも金髪だ。『赤』で老判事が盗聴しているホモの男の妻も金髪。老判事は「献身的に妻」と言ってはいるが、ヴァランティーヌが訪ねていったときに彼女を見る目は、夫への愛からではなく嫉妬の目として鋭く冷たい。(どこまでキェシロフスキの遺稿かはわからないが)『美しき運命の傷痕』の三姉妹のいちばん下のアンヌ(マリー・ジラン)の愛人の教授の妻も確か金髪だった。彼女も夫を愛しているというよりも、良き夫として確保するのが目的のようであり、だからこそ教授も若い愛人を作ったのだろう。『デカローグ2』と『9』の不倫妻、『7』のエゴな母親、『6』(愛に関する短いフィルム)のマグダも金髪だったと思う。一方『4』の娘アンカは金髪ではない。細部のことで言えば『赤』のボーリングのシーン。なぜこのことを書くかと言えば、「あの割れたグラスと吸いかけのタバコの映像が意味不明」と書いているブログを目にしたからだ。誘われて気分転換にボーリングに行ったヴァランティーヌ。観客は老判事の盗聴でその晩オーギュストとカリンもボーリングに行くことを知らされている。また赤と白のパッケージのタバコ・マールボロが言わばオーギュストを象徴していることも気付いているはずだ。ヴァランティーヌのレーンからカメラは横にパンして数レーン先の小テーブルで止まる。そこには飲みかけのビールの入った割れたグラス、吸いかけで灰皿から煙の立ちのぼるタバコ、握り潰されたマールボロの箱、この荒んだ(?)ような小物による情景は、まだ実際には映画では描かれてはいないが、カリンとオーギュストの破局を暗示しているのだ。ちょうどそこに流される音楽も「他人の妻を盗ってはならない」のテーマだ。音楽と言えば『赤』で獣医費用の精算金をヴァランティーヌが受け取るとき、お金はブッデンマイヤーのLPの上に置かれていた。彼女はレコード店で同じCDを視聴して買おうとするが、これは偶然(つまりは必然)の一つと捉えることも出来るが、ヴァランティーヌが老判事に関心を持って同じ音楽を聴こうとしたということかも知れない。この会見の後ヴァランティーヌは「哀れな人」と言って去るけれど、その帰り道涙を流す彼女はこの哀れで孤独な老判事に何かを感じているから、そんな老判事がいったいどんな音楽を聴いているのか知りたいと思うのは当然だろう。こんな風ふ細部に注目して鑑賞するのは面白いし、深読みも楽しい作品なのだけれど、この辺でそろそろやめましょうね。三部作『トリコロール』まえがき『トリコロール 青の愛』『トリコロール 白の愛』『トリコロール 赤の愛』監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.05.13
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TROIS COULEURS: ROUGEKrzysztof Kieslowski96min(所有VHS)以下は昨日のページからの続きです。『赤の愛』その1から先にお読み下さい。(以下たぶんネタバレ)かつて法学生だったジョゼフは、2才年長の金髪の女性と恋愛関係にあった。たまたま劇場で休憩時間に2階席から持っていた法学書の一冊を下に落とした。拾いに行って、開いているページをなんとなく読む。するとそれが司法試験で出題され、彼はめでたく合格した。恋人も喜んでくれ、万年筆を贈ってくれた(その万年筆は今も使っている)。しかしある日彼が彼女の部屋を訪れたとき、入り口の鏡の中に見たのは、恋人がベッドで別の男と激しく燃えている様子だった。失意と屈辱の中、彼はスイスからフランスを越え、ドーバー海峡を渡ってイギリスへと、恋人とユーゴー・ヘルブリングという男を追った。そしてある日恋人は事故で亡くなった。彼は判事となり、そして恐らく有能で高位の判事となった。しかし心は人間不信になり、それを癒してくれる真実の愛を持った女性に出会うこともなく、法廷では人々の自分勝手なエゴを思い知らされるばかり。真犯人に無罪の判決を下すという間違いも犯した。ある裁判でユーゴー・ヘルブリングの業務上重過失致死の裁判を担当することになり、彼はヘルブリング、かつて恋人を持てる金による贅沢で奪った恋敵に(もちろん正当な判断であったが)「有罪」の判決を下した。この裁判を期に彼は定年前に判事職を辞した。レマン湖(舞台はジュネーブ)の畔の丘の上の静かな高級住宅街にある家に引き蘢った生活を始める。伴侶は雌のシェパードのリタ。その犬を助けたことについてヴァランティーヌに問うように、人というのは結局は自分のためだけに生きているということを確信するためであるかのように、近隣の電話を盗聴していた。プライベートな電話の会話は法廷でより人間の真実がよく見えた。自分の人生を狂わせた恋人の裏切り、それが人間の性であると確認するのが慰めだったのかも知れない。判事の名前はジョゼフだが、街のカフェ「親愛なるジョゼフ」(Cher Joseph)の2階にはヴァランティーヌが部屋を借りていた。その近くに法学生オーギュストが犬と暮らしていた。彼の2才年長の金髪の恋人カリンはジョゼフの家の近くの高級マンションに住んでいて、その電話もジョゼフは盗聴していた。オーギュストは持っていた本を道で落とし、たまたま開いたページを読んだ。それは司法試験に出題され、彼は合格して判事となる。お祝にカリン(カランと書かれることが多いがカリンとロリは発音していた)は万年筆をプレゼントしてくれた。しかしその後、電話で私設天気情報をやっているカリンなのに、電話には出なくなるし、オーギュストに電話をかけてこなくなる。思い余って彼女のマンションの部屋を窓から覗くと、そこには別の男とベッドで燃えている彼女の姿があった。彼が街に彼女を探すと、彼女は金持ちの男とレストランにいた。二人はヨットでのクルージングの計画を楽しそうに話していた。彼がガラス張りのレストランの窓を万年筆で叩くと彼女はオーギュストに気付く。店を出て「オーギュスト!」と彼の名を呼びながら追ってくるカランだったが、隠れてその声を聞くだけで、オーギュストはそれ以上彼女を追いかけなかった。落胆の彼は飼っていた犬を捨てるために湖畔のポールに縛り車で去る。そして傷心の旅だろうか、フランスを横断してカレーに行き、そこからフェリーでイギリスに渡る。胸には捨てたはずの犬を抱いていた。このオーギュストの物語は、主人公ヴァランティーヌの物語と平行して描かれる。ジュネーブ大学の学生であり、モデルのバイトもしているヴァランティーヌには、今はロンドンに住む恋人のミッシェルがいた。彼はしばしばヴァランティーヌに電話をしてきたが、それは愛からであるよりも、彼女が貞節であるかどうかを確認するためのようだ。彼女がミッシェルに「愛してる Je t'aime?」と言っても「ボクもだ Moi aussi.」と言うだけで、決して自分から「Je t'aime.」とは言わない。「私を愛してる?」と彼女がきいても「そう思うよ Je crois que oui.」だ。そして近くに肌を感じることも出来ない。たまたまある日、休憩時間に外に出たという偶然が、ヴァランティーヌとミッシェルを出会わせ、二人は恋人になった。真実の愛を見つけたいというヴァランティーヌなのだけれど、この偶然、あるいは選択、それはあるべき運命に収斂されるものではない、間違ったものなのかも知れない。そして彼女に言い寄る写真家ジャンも決して彼女の求める真の愛の人ではない。ある夜ヴァランティーヌは1匹の犬を撥ねてしまい、首輪にあった住所にリタというその犬を連れて行く。怪我をした犬に無関心な飼い主(J=L・トランティニャン、後で退官した判事とわかる)の様子に怒りを覚えた彼女は、その犬リタを自分で獣医に連れていく。幸いリタの怪我は大したことはなかったが、そこで知らされたのはリタが新しい生命を宿していることだった。彼女はリタを連れて帰って面倒をみ始める。ある日カフェ Cher Joseph で新聞を買うと、そこには麻薬で補導された彼女の弟マルクの写真が載っていた。中に入ってスロットのレバーを引くと、見事チェリーが3つ揃ってコインがじゃらじゃらと出てくる。「悪い予兆か?」と問うカフェの主人に「ええ、理由はわかっている」と答えた。気を紛らすためでもあるかのようにヴァランティーヌは傷も良くなったリタを公園に連れて出る。しかし逃げないと思ってヒモを解くと、リタはいきなり走り去った。しかし見つけることは出来ず、やむなく彼女は飼い主の家を訪ねる。呼鈴を鳴らすとリタが走り出てきた。遅れて出てきた飼い主。ここでのリタがらみでの彼女の笑顔は美しい。飼い主は送った治療費の精算のため小銭を家の中に入ったまま出て来ない。ヴァランティーヌが家に入ると何やら電話の会話らしきがスピーカーから流れていた。この第2回目のヴァランティーヌと老判事の接見は、神である老判事がヴァランティーヌに試練を与えるという体のものだ。人に善意のあることを信じようとするヴァランティーヌを挫こうというのだ。リタを助けた彼女の動機も、後悔したくないとか、夢で犬に化けて出られて苦しむのが嫌だからとか、結局は自分のためではないか、と問いかける。妻子がありながらホモの愛人を持つ夫、このいずれは起こるであろう家庭崩壊に一体他人は何をすることができるか。ここで前回紹介したのとは別のもう一つのキェシロフスキの親子観も語られる。盗聴した電話での、心臓発作と偽って娘を5度も来させようとした母親のエピソードだ。キェシロフスキが自伝で言うには、親は子供をいつまでも自分が保護したいものとして支配しようとする。しかし子供はそれから逃れようとし、それは子供の当然の権利なのだ。だから親子の関係というのは常に不公正であると言う。なぜ不公正かというのをボク的に敷衍すれば、親はそれが当然の権利だとして子供を支配しようとするが、本来子供の権利であるはず独立をしようとするとき、子供はそこに罪意識を持たされてしまうということだ。そして重要なのは、キェシロフスキが続けて言っているように、そのことを理性で知ることなのである。人の善意、ちょっと言い換えれば隣人愛、ようするには「友愛」、それを信じたいヴァランティーヌは、それの出来ない老判事を「あわれだ」と言い残して去る。その老判事は自分を密告して近隣住民から民事訴訟を起こされる。新聞でそれを知ったヴァランティーヌは老判事を訪れる。それは彼女を呼び寄せるためでもあった。「私に何かを求めているの?」というヴァランティーヌの問いに老判事は頷く。人の善意を信じられなくなった判事はヴァランティーヌに救いを求めたと言ってもよい。最後の劇場での対話で判事が語るように、信じていた恋人の裏切り以来、彼は人を信じること、人を愛することをやめてしまった。そして何よりも彼の気持ちを変えてくれるような、ヴァランティーヌ(のような人)に出会わなかった。彼女は善意(愛)を信じ、善意(愛)に生きようと努力する人だ。ここで老判事が語る人間に対する懐疑というのは、キェシロフスキ自身のものだろう。その自分を老判事という分身としてトランティニャンに演じさせ、その懐疑でヴァランティーヌを攻め立てる。そしてそれを否定する善意のヴァランティーヌとして、イレーヌ・ジャコブにその否定をさせる。物語的にはトランティニャン演じる老判事とジャコブ演じるヴァランティーヌだけれど、監督にとっては自分とジャコブの物語なのだ。老判事がヴァランティーヌに求めたものというのは、キェシロフスキがジャコブに求めたものに他ならない。(この映画の終結部分に関してはまえがきに書いたので省略する。また三部作『トリコロール』蛇足に続く。)三部作『トリコロール』まえがき『トリコロール 青の愛』『トリコロール 白の愛』監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.05.12
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TROIS COULEURS: ROUGEKrzysztof Kieslowski96min(所有VHS)この『赤』とは無関係そうな、脈絡のないようなことから書き始めさせていただきます。『赤』ではなく『青』に主演したジュリエット・ビノシュ。この人の両親は彼女が幼い頃に離婚しているのですが、お父さんはジャン=マリー・ビノシュで、お母さんがモニック・スタランス。実はこのお母さんはポーランド生まれで、その両親はフランス(あるいはベルギー)からポーランドに移住したらしい企業家の父と、女優か何かをしていたらしいポーランド人女性。つまりは単純に考えてもジュリエットの血の1/4はキェシロフスキと同じポーランドです。実際には彼女にはフランス、フラマン(ベルギーの一部)、ブラジル、モロッコの血が混ざっているらしい。ところでその母方の祖父母なんですが、ポーランドがナチドイツに侵攻され、1939年にフランスへ向けて逃げようとした。しかしその途中、カトリックで知識階層だというのが理由ということなんですが、逮捕されウッチの強制収容所に半年ぐらい拘束される。ビノシュがパリで生まれたということは、子供だった母親がパリに逃れられたということだから、家族はフランスに行けたのでしょう。ちなみにジュリエットの姉はマリオン・スタランスで、この『赤』で獣医役で出ています。またちなみにカラックスの『ポンヌフの恋人』では主演ジュリエット・ビノシュの姉役でちょっと出ています。そしてジュリエットの役名もこの『ポンヌフ』ではミッシェル・スタランスでした。ウッチと言えば、戦争で破壊された首都ワルシャワに代わり、戦後ポーランドの首都にするという案もあった都市で、国立(共産国だから当然だが)の映画学校はこのウッチにあり、キェシロフスキはそこで映画を学んだ。そのウッチにジュリエット・ビノシュの母や祖父母が拘束されていたこと、あるいはもともとビノシュがポーランド系であること、そういうことをどれだけ知っていたのでしょうね、『ふたりのベロニカ』以前に。とにかくキェシロフスキは1991年にフランスで『ふたりのベロニカ』を撮るわけですが、主演はジュリエット・ビノシュを想定していたらしい。でもそれは実現しなかった。『ふたりのベロニカ』でフランスのベロニカ(ヴェロニック)の恋人役のアレクサンドルは、童話作家で、自ら人形も作るマリオネット(人形劇)つかいだけれど、ジュリエット・ビノシュの父親ジャン=マリー・ビノシュも似たような仕事をしていたらしい。だからやっぱりジュリエットを想定していたのでしょう。そのジュリエットの出演が実現しなかったので、キェシロフスキは代役を探すのだけれど、ルイ・マルの『さよなら子供たち』にちょい役で出ていたイレーヌ・ジャコブに目をつけた。そうしたらこのイレーヌ・ジャコブが思った以上に好演で、映画も成功する。(私見ではジャコブでなくビノシュのベロニカは想像もつかない)。そしてキェシロフスキはジャコブに惚れた。まあそれは親の娘に対する感情と、男の女に対する感情の混ざったものだったろう。その二人(自分とジャコブ)をキェシロフスキは描きたかった。そして実現したのがこの『赤』で、トランティニャンの演じる退官老判事はキェシロフスキの分身であり、映画のヴァランティーヌはイレーヌ・ジャコブそのものだ。もちろん『ベロニカ』で果たせなかったジュリエット・ビノシュとも仕事がしたかったから『青』が必要となり、途中に『白』を挟んで三部作にした。そして本来は女優がメインな仕事ではないマリオン・スタランスも出演させたかったのでしょう。そういう映画の構想過程(だとボクは想像する)ので、当然内容は『ベロニカ』の続き的になるし、単に『赤』の最後のフェリー事故で救出された3カップル6名の男女のシーンがこの三部作のスタート地点だというだけではなく、『赤』そのものが三部作のスタート地点であるわけです。では『ベロニカ』のテーマは何だったか。それは人が正しい選択をして、あるべき運命を獲得していくという、この三部作と共通するものだし、またその選択には他者(ヴェロニックにとってのウェロニカ)の知恵の啓示を受けるというもの。キェシロフスキの父親は結核で、たぶんキェシロフスキが15~16才の頃に死んでいるのだけれど、親子のことについて言っている。子供がある程度人生経験を積んで物事が解る年齢になったとき、親は既に老齢で、若き日のような生きる活力を失い始めている。だから望まれるような対話は成立しない。子供が若すぎるか、親が年老い過ぎてしまっている。つまり40才の親と40才の子供の対話は不可能だということだ。そのような不可能な対話をある意味で可能に描いたのが、老判事と若いヴァランティーヌの対話であり、老判事の若い頃の分身として法学生のオーギュストという人物を登場させる。フランスのヴェロニックは、ちょっと人生を先に進んで死んでしまったポーランドの分身ウェロニカの知恵の啓示を受けて、正しい人生を歩んでいく。老判事は選択を過ったために人生を失敗し、人間不信の孤独な余生を歩むことになったのだが、オーギュストという35才ぐらい若い分身に身を託して人生をやり直すのだ。老判事はヴァランティーヌが40才だか50才だかで幸せな人生を送っているという夢を見たと話す。具体的には朝目覚めたヴァランティーヌの隣にいる誰とはわからない伴侶とはオーギュストであるのだろうが、実はそれは判事自身でもあり、50才のヴァランティーヌとは判事の妻なのだ。しかし最後の方の劇場のシーンで語られるように、判事は恋人に裏切られて人間不信になった。それはヴァランティーヌ(のような女性)に出会わなかったからだ。でも同じ境遇のオーギュストにはフェリー事故でのヴァランティーヌとの出会いが用意されている。ヴァランティーヌ(のような女性)に出会えたか、出会えなかったか、人生とはそんなものなのである。キェシロフスキの分身たる男性主人公の老判事(ジャン=ルイ・トランティニャン)の名はジョゼフ。日本語ではヨゼフないしヨセフであり、聖書的には旧約のヤコブの子のヨセフか、新約では聖母マリアの夫でありイエスの養父のナザレのヨセフだ。飲食店やレストランの名にフランス語ではよく「Chez ○○」というのがある。「○○家」といった意味だ。それを文字って、ヴァランティーヌの部屋の下にあるカフェ、ヴァランティーヌが毎朝スロットマシーンでその日の運を占いに行き、オーギュスト(ジャン=ピエール・ロリ)がマールボロをカートンで買いに行くカフェ、その名は「Cher Joseph」となっている。「Cher」は「親愛なる」ぐらいの意味だ。ナザレのヨセフは、婚約者のマリアが自分のでない子供を妊娠したにもかかわらず、天使の受胎告知を信じてマリアを妻にし、イエスを育てた。いわば他者のために自分を犠牲にした人物だとも言える。ここでの判事ジョゼフも、分身ではあっても自分でないオーギュストとヴァランティーヌを結び付ける役を担っている。そろそろネタバレになりそうなのだけれど、字数も1ページの限界に近付いてきたので、以下は次の日記にで続けます。『赤の愛』その2 へ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.05.11
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TROIS COULEURS: BLANCKrzysztof Kieslowski89min(所有VHS)キェシロフスキの「自由、平等、友愛」三部作『3つの色』の第2編『白』。テーマは「平等」だ。映画というのは時として、あるいはかなり頻繁に、その作りは複層的だ。この映画での「不」平等とは、まず最初は愛情関係におけるカロル(ズビグニエフ・ザマホフスキ)とドミニック(ジュリー・デルピー)間の不平等だ。しかしそれはパリ(あるいは西欧社会)でのポーランド等東欧系移民の置かれた不平等な立場でもあり、あるいはもっと広くフランス等の西側先進国と戦後ソ連体制下で苦しんだ東欧諸国の不平等でもある。そういう含意をはっきりとした象徴として描いた映画もあるが、多くは漠然と色々な層の内容が混ざっている。それは脚本家や監督の映画の構想から実現というのは、彼らの色々な思いの錯綜の結果だからだ。そういう意味で3作の中でこの『白』には監督の複雑な思いが色々込められているのかも知れない。この『白』は3作の中でやや毛色が違う。他の2作がフランスやスイスを舞台として、フランスの役者がフランス語で演じているのに対して、ここでの主要な部分はポーランドでのポーランド語だ。また『青』と『赤』がビノシュやジャコブという女性が主人公でほぼ出ずっぱりなのに対して、『白』ではデルピーは最初と最後に出てくるだけで男性ザマホフスキが主人公。その彼もカロル・カロルという名前で、チャーリー・チャップリンを文字ったもの。大真面目な他の2作に比べてややコミカルなテイスト。キェシロフスキはこうして三部作にメリハリを与えているのだろう。そんなことから、この『白』は一部では『青』や『赤』より人気がないが、ボクは『青』以上の名作だと思うけれど・・・。カロル・カロルは、風采こそ冴えないが有能な美容師。各地の美容コンテストで優勝を重ねてきた。あるコンテストで彼の実技を見つめていたのはパリの美容師ドミニック。二人はやがて恋に落ち、激しく愛し合うようになる。二人は結婚をしてパリに美容室を開店(あるいは既にドミニックが経営していた店かも知れない)。フランス語しか話せないドミニックとフランス語はほとんどわからず、ポーランド語しか出来ないカロル。異郷のパリに住むとあればカロルには不利な条件だ。結婚し、共に美容院で働き、生活をともにするという安定的環境になったとき、二人に必要なのは肉体的愛だけではなく、言葉で気持ちを伝え合うことで精神的に愛を深めることだった。しかしアイデンティティーを失ってしまったカロルは、その肉体的愛をも満たすことが出来なくなったしまう。もちろん論理的に考えれば、ポーランド語の出来ないドミニックにも責任の半分はある。しかし女の心理とは、少なくともドミニックの心理はそんなに論理的なものではない。場所はパリからフランス語の方が当然だ。しかも実際にカロルはドミニックに対して性的不能なわけだから、肉体の愛をもドミニックに与えることが出来ないのだ。ゴダールの名作映画のポスターが暗示するように、ドミニックのカロルへの愛は『軽蔑』へと変化する。しかしその嫌悪に近い感情は、恐らくドミニックがカロルを愛さなくなったのではなく、カロルの愛への期待がそうさせていたのだ。ここまでが映画が始まるまでの経緯だ。「結婚が完成する」とでも訳すことのできるフランス語の表現があって、心・肉ともに結婚が完成するという意味だ。だから反対に「結婚が完成していない」というのは、肉体的に結ばれていないという意味で、それを理由にドミニックは離婚訴訟を起こす。裁判所にやってきて玄関の階段を登る途中のカロルの肩に、空を舞う鳩の糞が落とされる。ここでも、悪い予兆をキェシロフスキは描いている。離婚訴訟の法廷では通訳がつけられていたが、カロルは思いのたけを十分に伝えられないという悲哀を味わされる。ことの事実関係が問題となる殺人事件の裁判とは違い、ここでは感情の機微を思い通り伝えられなければならないのだ。それはフランス語が出来ないということによる一種の差別なのかも知れない。少なくともカロルはそこに「平等」のないと感じる。カバンひとつでパリの街に放り出されたカロル。キャッシュカードで現金を下ろそうとするが、離婚訴訟中で口座は凍結されていた。寒空の下、カロルは地下鉄に暖を求めた。そこで偶然知合うことになるのが、ポーランド人のプロのカード・プレーヤーのミコワイ(ヤヌシュ・ガヨス)。優秀なゲーム師だったが、生きることに絶望した男であることが後でわかる。カロルはなんとかポーランドに戻ることになるが、この人生の酸いも甘いも知り尽くしたミコワイと深く友情で結ばれることになる。ポーランドに戻ったカロルはある計画を持った。しかしその経緯に関するボクの見方は、多くの方がレビュー等に書かれておられるのとはちょっと違う。(この辺からやや、少しずつネタバレ)、カロルは最初からドミニックに復讐しようと考えたのではないのだと思う。カロルが必死になってやるのは、金を稼ぐことと、フランス語の勉強だ。周到な計画でドミニックに復讐をするだけならフランス語は不必要だ。その地がポーランドであれフランスであれ、フランス語でドミニックと意志の疏通ができるようになった上で、稼いだ金でドミニックとの幸せな愛の生活をやり直すという計画なのだと思う。しかしそれを狂わせたのは、かなりフランス語ができるようになったカロルが、思い余ってした電話でのドミニックの反応だった。しっかりフランス語で話したにもかかわらず、カロルからだとわかるとドミニックは聞く耳を持たず、最初の応答の「もしもし」を言っただけで、何も言わずに一方的に電話を切ってしまった。カロルとの接触をこれほどまでに嫌うドミニックの心理の背後に、ドミニックのカロルに対する気持ちがあることまで理解出来るカロルでは、まだなかった。(以下完全ネタバレ)そしてカロルは残酷な計画へと心変わりする。一計を案じてドミニックをポーランドへ呼び寄せ、彼女をカロル殺しの殺人犯とすることだ。計画は半ば成功するが、半ば失敗に終わる。それはカロルのドミニックに対する捨て切れない思いが原因だ。死んだことになったカロルの葬儀が行われる頃には、予定では偽造パスポートで海外に高飛びしてポーランドを離れているはずだったが、カロルはドミニック見たさにその自分の擬装葬式の様子を隠れて双眼鏡で見ていた。そしてカロルが目にしたのは涙を流し、崩折れんばかりに悲しむドミニックの姿だった。そしてこのとき、たぶん二人は互いの愛をはっきりと知った。いたたまれなくなったカロルはホテルのドミニックの部屋に忍び込んでベッドで彼女を待った。驚く彼女だが、もちろん本物のカロルであるとドミニックにはすぐわかった。二人は激しく燃えた。しかし変更された計画は着実に進んでいた。カロルは充実した愛の一夜の余韻に浸り眠るドミニックを残して部屋を去った。カロル殺しの容疑で警察がやってくるはずだからだ。生きている自分をその場で現してしまえば、自分はもとより、計画遂行に尽力してくれたミコワイ等をも罪に落とすことになる。だから自分の身分回復とドミニックの無罪証明は改めて別の形でする他なかった。ドミニックを逮捕に警官がやってくる。通訳も同行し、やがてフランス領事館の職員もやってくる。カロルを殺した容疑がかけられ、そのカロルは死んだものとして葬儀にも参列したのに、そのカロルが生きていて昨夜ベッドをともにしたと、わけのわからないことでしか身の潔白を証明できないのだ。しかも言葉もわからず通訳を介してだ。カロルがドミニックの愛を疑って案じた計画が皮肉にも成功してしまい、ここに、冒頭でカロルが置かれたのと同じ状況に彼女は置かれる。「平等」の成立。カロルは高飛びせずポーランドに残り、兄との「弁護料は高くつく」という会話で仄めかされるように、これから自分の身分回復とドミニックの無罪釈放に尽力することになるのだろう。そしてそれが成功したらしいことは『赤』の最後で示される。カロルは身分を偽って、監獄の看守を買収し、遠く窓越しにドミニックに会いに行く。平等ということを知り、互いの愛を知り、あるべき愛とは何かを知って成長した二人、ドミニックとカロルは互いの愛をもう疑っていなかった。そしてその愛をもっと成長させ本物とするべく、「愛の可能性」のある二人として、運命(あるいは神?)は二人を難船したドーバー海峡の方舟から救ったのだ。(関連の記述があるので、まえがき、『青の愛』もお読み下さい。)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.05.10
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TROIS COULEURS: BLEUKrzysztof Kieslowski95min(所有VHS)以下は昨日のページからの続きです。『青の愛』その1から先にお読み下さい。ある深夜ジュリーが寝ていると、リュシールが職場のストリップ劇場から電話をかけてきた。どうしてもジュリーに会いたいから今すぐ来て欲しいと彼女は言う。最初は断るジュリーだけれど、「一生のお願い」だからと言われて、ジュリーはパリの歓楽街ピガールにある、本番ショーをやるいかがわしいストリップ劇場に出かけていく。楽屋に行くとリュシールの目は涙を流した後だった。リュシールがステージで股間を開いて演じる目の前最前列に彼女の父親がいた。出張か何かの用事でパリに出てきたのだろう。父親は疲れた様子だったけれど、女の股間だけは食い入るようにしっかりと見ていた。彼女にとってはそんな父親を見るのが辛かったのだろう。でもここでは誰も彼女の悲しみを理解してくれない。誰かに気持ちを聞いて欲しくてジュリーを呼んだのだという。何もしていないというジュリーに、彼女は「あなたは私の命の恩人だわ」と、来てくれたことを感謝した。全編が「青」で統一されたこの映画、このピガールのシーンだけが「赤」に染まる。それは第3編『赤の愛』を連想させるものであり、『赤の愛』のテーマである「友愛」の象徴でもある。『赤』の中で老判事はヴァランティーヌに言う。屈折して悩める弟に対して「ただ存在する(君がいる)だけで良い」と。人と人の係わりとはそんなものだ。何をするでもない、ただ存在するだけで意味があるのだ、と。他者との心的係わりを持てば、夫や娘が死んだときのように、苦しみを持たなければならない。だからそういうことから「自由」になって、関係を持たずにしようとジュリーはしていた。しかし人はやはり一人では生きられなかった。リュシールの願いを入れてこうしてピガールにやってきたこと、それだけでジュリーはリュシールの人生と深く係わりを持ったのだ。そしてそれはまえがきに引用した運命の形成に繋がる可能性の選択でもあった。偶然にも楽屋のテレビは、オリヴィエがパトリスの未完の「祝祭コンチェルト」を補筆完成するという特集番組をやっていた。そこではパトリスの生前の写真も紹介され、その1枚は愛人らしき若い女性と一緒の写真だった。テレビを見ない彼女は、もしここに来ていなければこの番組を見ることもなかっただろうから、彼女の知らなかったこの愛人の存在を知ることもなかったわけだ。少し上に「偶然にも」と書いたが、キェシロフスキが言いたかったのは、それは偶然ではなく必然だということだ。ジュリーがリュシールの立ち退きに賛成の署名をしなかったことは、理由が何であれ正しい選択だった。それでリュシールはジュリーに親しみを感じた。だから取り乱したジュリーをバスから見かけたとき、追ってきてジュリーを慰め、助けた。これはリュシールの正しい選択であった。この件があったからこそリュシールも深夜にジュリーを呼び出すことが出来たのだろうし、ジュリーもやってくることになる。やってきたのはジュリーの正しい選択だ。その結果として生前のパトリスの愛人の存在そ知り、映画のラストへ向けてのジュリーの行動、それも恐らく正しい選択で、こうしてジュリーの運命が必然として作られていく。最初に書いたようにここから先、ラストへ向けての映画の作りはどうも苦手なので、ネタバレになることでもあり書かないことにする。ずっと飛んで、三部作最後の『赤』のラスト。ネタバレになるかも知れないが、この『青』の物語の後、ドーバー海峡の事故で生存者のほとんどいないフェリーに乗っていたジュリーとオリヴィエは救助される。キェシロフスキの『神曲』三部作「天国」「煉獄」「地獄」の脚本の遺稿をもとに、ダニス・タノヴィッチ監督は「地獄」を映画化した(日本語タイトルは『美しき運命の傷痕』)。どれだけの遺稿が残っていたかはわからないし、タノヴィッチの映画自体をボクは駄作だと思うのだけれど、それでもこの映画と他のわずかな資料から想像するのは、レビューにも書いたように、キェシロフスキが描きたかった地獄とは「愛の不在地獄」だ。愛の可能性のある人々が絶望して死んでいく。一方この『青』では最後に、パトリスが祝祭コンチェルトに入れることにしていた聖パウロの『コリント人への手紙』の「愛の賛歌」が合唱がで延々と歌われる。『美しき運命の傷痕』が「愛の可能性のある人々が死んでいくという地獄」であるならば、ドーバー海峡の方舟は「愛の可能性のある人々」としてこのオリヴィエとジュリーを救ったということだ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.05.09
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TROIS COULEURS: BLEUKrzysztof Kieslowski95min(所有VHS)おことわり:今以下の文を途中まで書いたところでこの冒頭に戻って来てこの「おことわり」を書いているのだけれど、何故か以下の文、レビューと言うより感想を交えたあらすじ解説になってしまっています。この作品に関する文は何故かそうなってしまいます。昨日のまえがきに書いたように、(そう、できればこの まえがき も読んで下さい)、この三部作の第1編『青』はちょっと苦手です。でも見始めると観てしまいます。三部作の全体のテーマはフランス共和国のモットー「自由、平等、友愛」で、この『青』は「自由」です。ここではこの「自由」は、簡単に言えば、人は他者との関係や、自分の中の思い込みから「自由」に生きられるか、という問いとして描かれます。キェシロフスキは運命論者です。それは昨日のまえがきでご紹介したように、人が一瞬一瞬に自ら選択をすることが、運命を形作るというもので、なのでその運命には各自自分に責任があるわけです。そしてその選択や運命の形成において、何らかの予兆や予感が与えられるという感覚をキェシロフスキはたぶん感じていました。運命に対する自らの責任と、そんな超理性的感覚を描いたのが『ふたりのベロニカ』でした。そして一度人が何らかの運命の選択をしてしまうと、もう後には戻れないという一瞬(何らかの選択)があります。三部作の冒頭は、ある運命に突き進むのを象徴するかのように、事故に向かって猛スピードで走る車が描かれ、三部作の最後では、やはり事故に向かって出航したフェリーの後ろでゲートがゆっくりと閉じられるのが無気味に描かれていました。嫌でも運命に人は突き進み、運命の扉が閉ざさればもう後には戻れないという恐さです。ここで予兆の一つとして描かれたのは(本人のことではないけれど)、事故を目撃する青年の剣玉。映画冒頭田舎道の傍らで青年が大して真剣でもなく剣玉で遊んでいる。すると本体の棒に玉の穴が見事刺さる。出来はしないと思っていたのか青年もビックリ。その一瞬間後、大きな物音。青年が振向くとカーブの木にアルファが激突して大破していた。『赤』ではヴァランティーヌは毎朝カフェに置かれたスロットマシーンを1回だけやっていたが、はずれならいつも通り、当たってコインがじゃらじゃら出てくるのは不吉な予兆だった。木にぶつかった車内から落ちたビーチボールが地面を音もなくゆっくり転がる(これはフェリーニへのオマージュ)。手当てを受け、病院のベッドで意識をやっと回復するジュリー(ジュリエット・ビノシュ)に、医師は事故で彼女の夫と5才の娘が死んだことを告げる。そしてたぶんある夜明けに、彼女は睡眠薬も置いてある病院のナース・ステーションかどこかに忍び込んで、薬ビン1本の睡眠薬を口に入れる。でも彼女には死ぬことはできなかった。口に入れた錠剤をすべて吐き出してしまう。ジュリーは廊下の窓ガラスを割って、それに当直の看護婦の気を引かせている間にこの自殺未遂そするのだけれど、戻ってきた看護婦は恐らくその様子を途中からガラス越しに見ていた。そしてジュリーもそれに気付く。「死ぬことは出来なかった。ガラスを割ってごめんなさい。」と、か細く言うジュリー。「いいのよ、また新しいガラスを入れるから。」と言う看護婦。ここでの看護婦が、仕事としての看護婦が患者に接することより以前の、一瞬にして夫と子供を失い自殺しようとして果たせなかった女を前にしての、人としての彼女として描かれていたのがいい。この映画でジュリエット・ビノシュはほとんど出ずっぱりだけれど、ここでのビノシュの演技がいちばん良かった。(ちなみにボクの持っているビデオでは「別のガラスを(入れる)」と言っているのに「別の薬を」という珍訳の字幕が入っていた。一度で聞き取れる、難しくもないフランス語なのだけれど・・・)。そんな彼女は自分を苦しめる過去(思い出)から自由になろうと決心したのだろうか。彼女の夫パトリス・ド・クールシーは世界的に有名な作曲家という設定だ。欧州統合の記念祝典で演奏される「祝祭コンチェルト」を作曲中だった。しかしジュリーは単にその作曲家パトリスの妻ではなかった。名前は伏されていたが実は、パトリスの曲にジュリーが手を入れという形で、パトリスの曲はいわば夫婦の共作だったのだ。その意味でただ夫(や子供)を失ったのではなく、共同での音楽創作活動という彼女のアイデンティティーも崩壊し、そういう意味で人生の多くを失ったわけだ。この彼女の喪失感の設定は上手いが、さらに彼女には一生生活に困らないだけの資産があるという設定が重要だ。普通なら(もちろん自動車保険には入っているだろうから、夫と娘の搭乗者障害の死亡保険金は手にするだろうが)自分が食っていくための仕事に就く必要がある。しかしそういう現実的雑事は彼女の気を紛らしてはくれないという設定だ。また彼女は独りでも創作意欲があったのではなく、夫との共作としての創作活動で、だから作曲家としての活動を1人でする気持ちもないわけだ。パトリス・ド・クールシー、名前に「ド」がついていることからも解るように、彼は旧貴族出身だ。一族がパリ郊外に持っていた狩猟のための別荘だろうか、パトリスとジュリーはそこに暮らしていた。ジュリーはこの家を処分するためにやってくる。家には庭師と女中の2人の使用人がいた。すべての家具を運び出すようにと彼女が庭師ベルナールに命じておいた「青の部屋」に行く彼女。そこは娘アンナの部屋だったのだろう。壁が青く塗られたその部屋には生前の娘を思い出させる何物も既になかった。ただ部屋の青いシャンデリアだけが残るのみだった。思わずそれを引きちぎるジュリー。階下に降りると台所で女中の老アンナが泣いていた。「なぜ泣くの?」と問われたマリーは「奥様がお泣きになられないからです」と答えるのでけれど、ジュリーにとって必要だったのは感情に押し流されないことだったのだ。ジュリーは夫の助手オリヴィエが前から自分に恋情を持っていることにたぶん気付いていた。彼女は夜そのオリヴィエを電話でよんだ。そして何もなくなった屋敷に残るマットレスの上で一夜をともにした。そして朝、1人身支度を済ませていたジュリーは、昨夜のことはありがとうと言って、別れを告げ去っていく。彼女の行動は、自分も普通の女なのだと自分に言い聞かせ、また心理的にオリヴィエをその証人にするためだった。オリヴィエは三十三の彼女よりかなり年上だったが、少年のように純真で純情だった。そんな彼の心を弄び、利用した自分に嫌悪し、屋敷の石塀に拳を擦って血を流し、痛みを噛みしめながら去っていく。もう一方の手には青の部屋のシャンデリアを入れた箱があった。パリに戻ると彼女は写譜屋に行き、預けてあった「祝祭コンチェルト」の完成部分の楽譜を受け取り、外に出ると、ちょうどいたゴミ収集トラックに投げ捨てた。自分を縛る過去の思い出にかかわるものはすべて消滅させたかった。彼女は姿をくらましてパリの庶民的地区にアパルトマンを借りて住み始める。このアパルトマンを借りるときに行った不動産屋。そこで彼女は不動産屋の男に身上等を尋ねられる。名前は?、と問われてつい「ジュリー・ド・クールシー」と答えるが、「いいえ、ジュリー・ヴィニョン、旧姓に戻ったから」と続けた。名前と顔から不動産屋の男は彼女が亡くなった著明なパトリス・ド・クールシーの夫人とわかったはずだ。この不動産屋の男を演じたのは『ふたりのベロニカ』でアレクサンドルを演じたフィリップ・ヴォルテール。事情を知りながら黙って部屋を提供する男の微妙な心理を好演していた。(キェシロフスキの2作品で好演したこのベルギーの役者が約10年後に自殺してしまったのが惜しまれる)。捨て切れなかった唯一の品、青の部屋のシャンデリアをアパルトマンの一室に吊るした。彼女の過去を見知った者のいないここでの生活は彼女にとって快適だった。ある日階下に住むリュシールが花束を持ってジュリーに礼を言いに来た。彼女がアパルトマンに男を連れ込んで売春しているというので、住人から立ち退き請求の署名が回ってきたとき、ジュリーは署名を断ったのだ。結果としてリュシールをジュリーは助けたことになったが、彼女には他人の生活がどうのということに関心がなかった。そもそも他人の生き方をとやかく言う権利など人にはない。それに署名をすれば名前から素性が知れ渡ることにもなっただろう。ある日物置き部屋でネズミが出産したのにジュリーは気付く。ジュリーは子供の頃からネズミ恐怖症だった。まだ毛も生えぬ小さな赤ん坊ネズミに甲斐甲斐しくエサを運ぶ大きな母ネズミ。そこにはネズミの人生(鼠生?)、生活があった。娘アンナを失ったジュリーにはなおさらその様子が絶えられなかったのかも知れない。(余談だけれど、キェシロフスキはネズミが好きだ。『デカローグ5』およびその長尺版『殺人に関する短いフィルム』で殺人罪で絞首刑となる青年を予兆するように冒頭で描かれていたのはネズミを殺したらしい猫の絞首刑だった。また原案小説『デカローグ』の翻訳者には(←たぶん)、やはりネズミのコミュニケーションの話をしている。人間界の人間を相似的に象徴しているのが鼠界のネズミであるのかも知れない)。ジュリーは近所の人から猫を借りて物置き部屋に放つ。しかし彼女には絶えられなかった。いつものようにプールに向かうジュリーをバスの中から見つけて、その尋常でない様子に気付いたリュシールは彼女の泳ぐプールにやってきた。プールサイドからリュシールはジュリーの頭を抱き、彼女を慰める。そして処理は自分がしてあげる、とジュリーの部屋の鍵を預かって帰った。こうして、他者との関係を絶とうとしたジュリーなのですが、生きているということは、他者との関係なしには済まなくなっていきます。だらだらと書いてしまっていますが、結果1ページの字数をオーバーしてしまいました。次のページに続きます。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.05.08
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TROIS COULEURS: BLEU/BLANC/ROUGEKrzysztof Kieslowskiこのブログを書き始めるキッカケとなったのはキェシロフスキ監督のテレビ映画シリーズ『デカローグ』で、ブログのアドレスにも「KarolKarol」と、『トリコロール 白の愛』からとりました(ポーランド語のKarol = 英語のCharlieで、実は自分のニックネームがCharlieだというのもあるのですが)。そして恐らく日本で普通に接することのできるキェシロフスキ作品は(彼の遺稿による2本も含め)すべてレビューを書いてきました。でもある意味でこの監督の代表作である『トリコロール』三部作については書けないでいました。その理由は第1編『青の愛』にあります。それはこの『青』が少々苦手だからです。順番を無視すれば良いのだけれど、やはり1→2→3の順に書きたいと思うと、最初からこの『青』で躓いてしまうわけです。先日ある友人が観たいというので『赤』と『白』を一緒に見て、でもその友人はジュリエット・ビノシュ嫌いというのもあるけれど、ビデオジャケットの解説読んで「これは観ない」という。それで良い機会だと思い、今回この『青』を1人で見ました。嫌なら途中でやめるつもりでしたが、見始めてみると、それはやはりキェシロフスキ監督で、なかなか見せてくれます。最後まで見ました。それでこの『青』に対する抵抗感を中心に、この三部作全体とキェシロフスキについて書いてみることにします。この『青』、前半はかなり良い。対して後半がつまらない。ラスト付近が最悪。安っぽいハリウッド映画にも見えてしまう。監督自身脚本の持っていき方(や編集)に苦労したのかも知れません。他のキェシロフスキ作品を見ていて時々感じる、ボクがこの監督についていけない点、それが集約されている感じです。たぶんボクの持つ映画観といちばんズレる面が露になっている。世間はこの人を鬼才とか巨匠と呼んだりもするけれど、この人は映画作家であるより基本は映画職人なんですね。しかし類稀な人間に対する洞察や哲学がある。それを的確に表現できる脚本を書き、役者に適切に演じさせ、上手く編集して1本の作品に仕上げる。その能力は確かに天下一品かも知れません。この三部作にはそれぞれある別の監督の作品からの引用(オマージュ)があります。『青』の最初のシーンで樹木に激突した車からビーチボールが転がり出るのは『世にも怪奇な物語』のフェリーニ。『白』ではゴダールの『軽蔑』のポスター。『赤』では主人公のヴァランティーヌが観たと電話で話すピーター・ウェアーの『いまを生きる』です。キェシロフスキは自伝でもこの『いまを生きる』を誉めています。この自伝で、他には映画作りとしてはオーソン・ウェルズの『市民ケーン』に言及(『デカローグ6』およびその長尺版『愛に関する短いフィルム』ではスノーボールを使ってオマージュ)。そして『ケス』のケン・ローチが好きなようです(初期の『アマチュア』に映画史の本の1ページとして大写ししている)。そこで『いまを生きる』だけれど、テーマはとても良いとは思うものの、中味はキェシロフスキほどの重みのある演技や作りではなく、上っ面的にわかりやすい大衆受けしやすい作品。ケン・ローチの『ケス』はもう少し重厚だけれど、やはりローチという人も職人的ですね。そういう意味で、『ふたりのベロニカ』なんていうのは少し難解に感じる人もいるだろうけれど、「物語を語る」というのがキェシロフスキの基本姿勢で、「その物語を語るのにどういう映画的表現を使うか」という世界であって、「こういう映画的表現でしか語られない何かを語る」というのではないんですね。ただ上にも書いたようにキェシロフスキが類稀なる人間洞察力や哲学を持っていて、また彼の関心が偶然性や神秘主義にあるために、それを語ろうとしたときにあの魅力的な映画になるということなのだと思います。キェシロフスキが一般論として言っている映画作りのある難しさがあります。それは「らしさ」の問題です。例えば医者を描けば、普通の大多数の観客が医者らしいと感じても、医学の世界に生きる人々が見ると、医者はああいうことはしない、とかなんとかで医者らしくないと感じてしまうということです。そういう意味で、リヴェットが『美しき諍い女』で天才画家フレンホーフェルの描いた絵を画面に実際に出さなければならないように、『青』でキェシロフスキは作中の大作曲家パトリス・ド・クールシーの「欧州統合祝祭コンチェルト」を曲として流さなければならない。ズビグニエフ・プレイスネルという映画音楽作曲家をボクは高く評価しているけれど、やはりこのコンチェルトはそれほどの曲ではない。『ふたりのベロニカ』でのアレクサンデル・バルディーニの指揮者ぶりといい、イレーヌ・ジャコブの歌いっぷりといい、クラシック・コンサート通いをしていたボクの目から見るとあまりにも不自然だ。そういう意味で映画中映画は何の問題もないのだけれど、この『青』のコンチェルトはやはりいただけない。この三部作ではそれぞれ1組のカップルが登場する。『青』の主人公ジュリーと死んだ彼女の夫の助手オリヴィエ、『白』の別れた夫婦カロルとドミニック、『赤』ではカップル成立直前までだがヴァランティーヌとオーギュスト。三部作最後の『赤』のラストでドーバー海峡のフェリー事故が描かれる。そこで救出されたのは1435名の乗員・乗客のうちたった7名で、その1人はフェリーのバーテン、残りの6人はこの3組のカップルの6人だ。三部作を通して観てくるとそこに御都合主義を感じるかも知れないが、それはちょっと違う。救出された3組6名が、この事故で救出されるに至るまでの物語を語ったのが、それぞれ『青』『白』『赤』だったのだ。監督と脚本のピェシェヴィチによる映画の原案小説の最終章「エピローグ/方舟」の最後の部分を引用しよう。判事は思った。神は、将来愛しあう者たちをこのようにして助け、誇り高い愛の誕生を願ったのだ、と。ジュリーとオリヴィエは『青の愛』で、カロルとドミニクは『白の愛』で、オーギュストとヴァランティーヌは『赤の愛』で、やがて魂に到達する愛の姿を示してくれることになる。だが傍観者たちの中には、このできすぎた偶然をいぶかる者がいるかもしれない。しかし、この世に偶然などという運命はありえない。人が未知の人生に一歩を踏みだす、その時、人はあらゆる可能性の中から、無意識のうちにたった一つの可能性を選びとっているのである。その連続がいつしか人生を収斂させて、一つの必然、運命を生み落とす。つまり、生きているということは、否応なくある運命への道を辿ることなのである。いま、真の愛に到達しようとしているヴァランティーヌにしても、彼女は、結局は自分の力でオーギュストと出会う運命をかち取ったのだ。ここで語られた物語を読む読者は、その運命がどのように生まれたかを知ることができたであろう。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.05.07
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別の日記にいただいたコメントへのレスを書いていたら長くなったので、ここに独立した文として掲載させていただきました。Nさん、天国はティクヴァ監督の『ヘヴン』(リビシが出てます)、地獄はタノヴィッチ監督の『美しき運命の傷痕』(原題は「地獄」)、煉獄はまだ予定なし。「まだ」と言ってもどれだけの遺構があるかはわかりません。キェシロフスキという人は、いつの頃からかは知らないけれど『デカローグ』の時は既に、まず「原案小説」のようなものをピェシェヴィッチと一緒に書く。これは「小説」と言っても、独立した小説として読めるようなものでもない。あくまでセリフも入った映画の詳しい筋書と言えるかも知れない。そしてそれをもとに映画脚本を書いていく。そういう意味でいちばん形を成していたのはたぶん『天国』で、『煉獄』は「原案小説」プラスα程度かも知れません。共同脚本家ピェシェヴィッチとの間のメモとか。キェシロフスキは『トリコロール』三部作を終えて、「もう監督はしないっ!」って宣言した。そして若手の監督のための脚本としてこのダンテ『神曲』三部作を書き始め、完成前にベロニカのように心臓病で急逝してしまった。もし生存して脚本を完成していたら、『デカローグ』のときのように愛着が湧いて自分で監督したかも知れない。表現者の「もう映画は作らない!」等といったことは、そのときの偽らざる気持ちではあっても、生涯変わらないという保証などありはしない。キェシロフスキ存命中に完成された脚本を渡されて映画を作る監督は、大監督の脚本というプレッシャーはあるだろうけれど、これは通常の映画作り。でも死後に遺構を演出するとなると、キェシロフスキの「代役」というプレッシャーがあったと思う。そんな状況で中途半端な映画作りをしてしまったのがダニス・タノヴィッチの場合だったのではないかと思います。キェシロフスキの名前を外してタノヴィッチの『美しき運命の傷痕』を見たらどうかというと、妻と3人の娘の物語を統合する要素、あるいは4人それぞれの物語の何故などの描き方が、希薄でリアリティーを欠く三文ドラマになってしまってますし、キェシロフスキの映画からの引用があまりにも多過ぎます。それでもまあ、『美しき豪華なる駄作』としてそこそこ楽しんで見ることはできますが・・・。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.06.22
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HEAVENTom Tykwer寸評:本人以外が作り上げたキェシロフスキの世界。やや不十分な面もあるが、立派な出来。主演の2人もよい。好きな映画。キェシロフスキ監督は『トリコロール』三部作を終えた後「もう監督はしない」と言った。その後『デカローグ』のときと同じように「若い監督のために」とダンテの『神曲』に着想を得た新しい三部作『天国』『地獄』『煉獄』の脚本を共同脚本家のピェシェヴィッチと書き始め、未完のまま世を去った。もし死んでいなければ『デカローグ』のときと同じように完成した脚本に愛着が湧いて自分で監督したかも知れない。彼が嘘つきだと言うのではなく、表現者というのはそうしたものだ。その時の気持ちとしてはもう「監督はしたくない」というのは本心だったのだ。もし彼が生きていて、彼が最初に計画したように3人の若いヨーロッパの監督に撮らせるというような状況だったら、仮にその一人がティクヴァだったとして、ティクヴァはもっと自由に、そしてある種の重圧感なしに映画を作れただろう。キェシロフスキは単なる脚本家ではない。脚本を自分で書いて、それを監督して映画を作ってきた人だ。そして好みは別として高い評価も得ている。そんな監督の遺稿を監督するとき、ティクヴァにはキェシロフスキならどんな映画を作ったかなという問いもあったろうし、観客が期待するキェシロフスキの世界を考えないことも出来なかったと思う。そんな条件の下で、エピゴーネンに堕することなく、いい具合にキェシロフスキの世界を映画にしたティクヴァに拍手を贈りたい。イタリアに住むイギリス人フィリッパ(ケイト・ブランシェット)は英語教師だ。彼女の夫は麻薬のオーバードーズで死んだ。それに関係したのは夫の知人でもあった大企業の社長ヴェンディーチェ。彼のためにフィリッパの学校の生徒も麻薬の犠牲になっていた。フィリッパはこのヴェンディーチェを殺害しようとする。夫が死んだときフィリッパは離婚手続き中だったが、それは彼女の愛が醒めたからではない。麻薬にはまって生活の乱れた夫との結婚生活の継続ができなかったのだ。だから彼女にとって夫を奪い、また教え子までも犠牲にしているヴェンディーチェを憎んでいた。離婚係争中だった夫の復讐のためにヴェンディーチェを殺そうとするのはおかしい、とする感想を持つ観客もいるようだが、それは浅薄な解釈だ。愛し合っている夫を麻薬で奪ったのはヴェンディーチェなのだ。彼が2人の幸せを壊したことに変わりはない。彼女は警察にヴェンディーチェの捜査などを陳情したがことごとく無視されてきた。そこで周到に計画を練って自ら彼を亡き者にしようとする。高層ビルの彼のオフィスに時限爆弾をセットし、秘書には「駐車場の車のアラームが鳴っている」と電話をして爆弾を仕掛けたオフィスから避難させる。彼女の目的はヴェンディーチェだけを抹殺することであり、他の者に危害を加えたくはないのだ。しかし運命の偶然。爆弾をセットしたオフィスのゴミ箱は清掃係の女性に持ち去られ、同じエレベーターに乗った善良そうな父子3人と清掃婦の合わせて4名の無関係な人を殺してしまうことになる。目的のヴェンディーチェは無傷だ。彼女はテロリストとして逮捕されるが、尋問に立ち会った若い警官フィリッポ(ジャヴァンニ・リビシ)は彼女を逃がそうとする。(以下ネタバレ)フィリッパは計画が成功したと思っていたんだろうが、尋問の過程でヴェンディーチェは無事で、善良そうな父親と幼い子供2人、それと清掃婦を誤って殺してしまったことを知って失神してしまう。警察は実はヴェンディーチェと癒着していて、本部長は彼女の陳情とかの証拠もすべて抹消する。別にテロ捜査の係官も来てるのだけれど、こちらはもちろんテロ集団の解明をしたい。だからフィリッパがヴェンディーチェを狙ったなんていうのはないことにして、彼女をテロ犯として捜査を継続することで、ヴェンディーチェとの癒着を隠したい警察(本部長ら)とテロ捜査官の利害が一致しているわけだ。本部長は彼女がヴェンディーチェを狙ったのであってテロリストでないことを知っていると言ってもいい。この辺、警官がイタリアの制度では憲兵隊で軍服着てることもあって、無実を知りながらスパイ容疑で尋問するといったスターリン時代のポーランドの雰囲気と相通ずる。例えばブガイスキーの『尋問』なんかとつながる。無実だと知りつつ役目がら自白させようという制服の軍人。尋問される女主人公の毅然とした態度に尋問官のタデウシュは彼女に惚れてしまう。それでここではフィリッパは爆弾殺人に関しては無実ではないのだけれど、夫や教え子の復讐をしようとした純粋さ、そして無関係の4人を殺してしまったことを心から悔いる彼女の無垢な姿に恋をしてしまう。だいたい事実から言っても、本部長らはヴェンディーチェと癒着して甘い汁を吸っていて、結果としてフィリッパの夫だけでなく子供とかも多数死に至らしめていて、それを自分の権限で覆い隠しているわけだから、同じように人を殺しているわけで、なら人としてどっちが憎むべきかって言えばフィリッパよりも本部長の方。フィリッパの4人殺人は偶然の結果でしかない。キェシロフスキ的世界は、善は最初から善として存在するのではなく、悪こそ善を生む可能性のあるものだ。キリスト的世界とも言えるかも知れないが、人の弱さを否定しない考え方だ。そのためにもフィリッパを現世的弱い人物と描く必要がある。だから彼女に「愚かなことをたくさんしてきたし、一度は夫を裏切ったこともある」と語らせている。そういう過ちを経て、今彼女の魂は浄化されているのであり、天国へ入る資格を得たと言える。フィリッポの計画が成功してフィリッパはヴェンディーチェを撃ち殺し、2人はトスカナへと逃亡する。このとき警察署に配達に来た牛乳屋のトラックに隠れて脱出するのだが、これが牛乳屋であったことはキェシロフスキ・ピェシェヴィッチの原案小説にすでに書かれており、キェシロフスキが人々の日々の生活を象徴する牛乳がここでも使われているのは面白い。フィリッパの女友達がいると知ってか知らずか、2人はモンテプルチアーノに。女友達は最初「何てことしたのよ」と言ってひっぱたくが、直ぐに抱き合い、彼女は危険を犯して一夜の宿をも提供する。かつて憲兵隊本部長だった父に連絡して郊外のサン・ビアッジオ教会で会う。父親として息子に言いたいことはたくさんあるだろうが、とやかくは言わない。ただそれぞれに愛しているかを問うのみだ。父親は金を渡し、抱き合って永久の別れをし、静かに去る。もちろん映画の世界のことではあるが、女友達や父親の考え方は、フィリッパなりフィリッポなりの人生であり、止むに止まれない人生の事情で自ら選択した行動であり、とやかく責めたり止めたりするのではなくそれぞれの意志を尊重し、できる協力はするという友情や愛情だ。「人間は最も大切なとき何故無力なのだろう」という父親の言葉も重い。フィリッパとフィリッポの誕生日は同じ。フィリッポが生まれたのは1978年5月23日午前8時。その日をフィリッパはよく憶えていた。初聖体拝領で、白いドレスを着ていた。その日生まれたフィリッポとのウェディングドレスだったのかも知れない。偶然の一致。あるいは必然。2人は同じフィリップという名前の各国語男女名であり、最初から出会うべく出会って、一つであるべき2人だったのか。夕映えの美しい空の下の大きな木の下で初めて結ばれ一つとなる。キェシロフスキにとって、愛することの不在がこの世の地獄ならば、無私に他者を愛することこそが天国への扉だ。2人を捕らえるために来た警官隊のヘリコプターを奪った2人、フィリッポは操縦桿を引き、2人を乗せたヘリはどんどん上昇していき、やがて青い空に消える。映画冒頭でシミュレーターでフィリッポはヘリ操縦を習っているが、そこで語られたようにどこまでヘリは上昇できるのだろう。そんな散文的なことを考えるよりも、2人は天国へ旅立ったと捉えるべきだろう。ダンテの『神曲』自体が、魂の浄化と天国の物語でもある。最初にも書いたように、大監督の遺稿を死後監督する重圧は大きかっただろう。シンプルなピアノの音楽など『デカローグ』を思わせるものがある。キェシロフスキと比べてしまえば人物描写に不十分さ、またそのテンポの早過ぎるところもあるが、逆に冒頭のサスペンスタッチの描き方や、全体のカメラの動きなどキェシロフスキとは違った雰囲気もあり、上手くバランスを取って作られていると思う。本人以外が脚本のキェシロフスキの世界を実現した映画としては、不満がないわけではないが、かなり優れた出来だと思う。残る『煉獄』の原案は誰かによって映画化される可能性はあるのだろうか。結果的に失敗作となっても誰かに実現して欲しいものだ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.11
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LA DOUBLE VIE DE VERONIQUEPODWOJNE ZYCIE WERONIKIKrzysztof Kieslowski(92min)那覇・桜坂劇場にて(& DVD)寸評:人によって好き嫌い、解釈は色々ある映画だろうが、自分にとっては最も好きな映画の1つ。危うくも微妙に完璧なバランスを保った作品。イレーヌ・ジャコブが魅力的。イングマール・ベルイマンは、ボクが映画好きになるキッカケの一つだったかも知れない。そのベルイマンとこのキェシロフスキ、年代(1918と1941生まれ)は違うし、育った環境も、作風も違う。キェシロフスキがウッチの映画学校に在籍していた60年代には、『第七の封印』(1956)は既に世に出ていたし、60年代に公開されたベルイマンの『鏡の中にある如く』『沈黙』『ペルソナ』等はキェシロフスキにとっては研究の対象だったろう。結果としての作風は違っているが、この2人の底に流れるものにある種の共通性を感じる。どちらも人間関係のドラマを描き、非現実、直感、神秘性がどこかにある。スウェーデンとポーランド、たぶん暗く寒い冬が人の目を内面に向けさせるということかも知れない。明るい太陽のイタリアのフェリーニ(パゾリーニやベルトルッチさえ含め)とは明らかに違う心性だ。2人の女性の同一性というとベルイマンの『ペルソナ』を思い浮かべるが、この『ふたりのベロニカ』は全く違う映画でありながら、こういうテーマに気がいくというのは、どこかにつながるものを感じる。『ペルソナ』は結果としてはああいう形而上学的映画にはなったけれど、これだってキッカケはビビとリヴが似ているということだった。物語は同じ日に生まれたポーランドのウェロニカとフランスのヴェロニック。互いに血縁など何の関係もないが、瓜二つで、歌の才能や金の指輪で眼の淵をなぞるクセなど共通性も多く、まるで同じ人物の2つの人格のよう。そう言えばウェロニカはピアノを勉強していたが、ピアノ科の大学入学資格試験に合格した日に、ドアに左薬指を挟まれてケガをし、ピアノを断念しなければならなくなった。指には傷跡が残っているが、その同じ指にヴェロニックはいつも指輪をはめている。そしてどちらももう一人の自分がいるような気がしている。ここまでは多少ネタバレでも書いてしまっていいと思うが、映画の最初30分くらいでポーランドのウェロニカは死んでしまう。残りの70分はフランスのヴェロニックの物語だが、ヴェロニックはウェロニカの失敗を教訓とするかのように、自分がどうすれば良いかを知っている。無理な高音の歌を歌ったために心臓発作で死んだウェロニカの教訓なのか、理由は解らないながらも歌をやめるべきだということは知っていて、まるでウェロニカに導かれるように歌手の道をあきらめ、病院で心臓の検診も受ける。ウェロニカとヴェロニックはどちらも幼く母を失い父に育てられるのだけれど、映画はタイトルロールの前に、まだ母の生きていた頃のクリスマス・イヴの夜、母親が幼い娘に語る会話で始まる。まずはポーランドのウェロニカ。彼女はたぶん母親に抱かれ、頭を後ろにのけぞらしていて、逆さに夜の星空を見ている。映画のカメラも夜の風景を上下逆にとらえている。画面の上が建物群、下が夜空だ。建物群には窓に明かりが点っていて、下の空はぼんやりしているので、あたかも街の明かりが夜空に輝く星々に見える。ここで世界を転倒させたのは、ウェロニカがヴェロニックと鏡像を成していることを表そうとしたのだと思う。次のフランスの幼いヴェロニック。幼いヴェロニックは一枚の木の葉を手にしている。そして母親が娘に喚起するのは「見てごらんなさい、葉脈を」なのだが、この葉脈という語はフランス語でveine。葉脈も意味するが、もともとの意味は静脈(血管)のことだ。気付かれてはいないが先天的心臓病を持った2人に対する暗示か?。母親は「やがて春になって若葉が茂り」とも言い、こちらは生命を象徴する言葉だ。逆さ向きに映されるウェロニカと正の向きに映されるヴェロニック、2人は鏡像の2人なのだが、ポーランドのウェロニカが逆さであることは、フランスのヴェロニックをメインと考えるための暗示であろうか。(以下少しネタバレ)この映画には特に美しい美しいシーンが3つある。ヴェロニックはクレルモン・フェランの自宅の椅子で昼寝をしているが、ケガの療養中か何かで退屈している向かいの若い男性が鏡で夕日を反射させて寝ているヴェロニックの顔にあて、それで彼女は目を覚ます。そして窓越しに男に気付く。しかし彼がすでに鏡のイタズラをやめた後、ほの暗い室内にまたちらちらと鏡の反射のような光があたる。彼女は窓から男が既にいないことを確認する。光は心臓の張りつめた糸を象徴する楽譜バインダーのヒモを照らす。さっき彼女が帰ってきたときにゴミ箱に捨ててしまった、手紙で送られてきたヒモを喚起するためだ。それに気付いてヴェロニックは天井の方へ視線をあげる。姿は見えないがそれは天のウェロニカが指示しているのだ。ヴェロニックが音楽教師として勤める学校で移動人形劇公演が行われ、公演をおこなったアレクサンドル・ファブリなる人物が色々な謎掛けの手紙やカセットテープをヴェロニックに送ってくる。その謎を解いたヴェロニックはパリに行き、謎解き通りにアレクサンドルを駅のカフェに見つけ、色々あった後2人はホテルの一室で愛し合う。そのときバッグの中に彼女がポーランドに観光旅行した折に彼女の撮った写真があって、それまで彼女は気付いていなかったが、アレクサンドルに指摘されて、その写真の中にポーランドの自分の分身ウェロニカが写っているのを知る。自分が一人ではなく、どこかに分身のような存在がいると感じていたヴェロニックは、言い様のない悲しみに襲われ涙するのだが、そのときにアレクサンドルが彼女を抱きしめるラブシーン。映画に撮られた肉体的愛のシーンとしては、ボクの知る限りでは最も美しいシーンだ。そして何よりも美しいシーンは、前半ポーランド編で、ポーランドのクラクフの中央広場で、ちょうど学生デモが行われ、警官隊などがいて騒然とした状況の中で、観光旅行中のフランスのヴェロニックをポーランドのウェロニカが遠くから見つけるシーン。なまじの映画を100本くらい持ってきてもこの数分のシーンの美しさには太刀打ちできないと思う。感覚的ことだから説明は難しいけれど、予感していたもう一人の自分をそこで実際に見、この瞬間にウェロニカは自分の生きている意味を感じて至福感を持ったのだ。自分の生の意味の確認といってもいい。全くの個人的余談だが、ボクが遥か昔この映画を最初にレンタルビデオで見たとき、キェシロフスキの名はまだ知らなかった。そして1日3時間睡眠という超睡眠不足的生活を当時送っていたボクは、この映画の再生を始めて間もなく寝入ってしまった。そしてほぼ最後まで寝続けてしまったのだが、3つのシーンだけが記憶に残っていたらしい。ただ何の映画のシーンであったのかも、『ふたりのベロニカ』という題名も忘れてしまっていた。そして何年もしてニュープリントを劇場公開で見たとき、まさに上の3つのシーンだけを記憶していた。明確な記憶として強く強く焼きつけられていた。寝入ってしまった最初の観賞後、他のことは、ウェロニカが歌手であったことも、それぞれの父親の存在も、人形劇のシーンも、何も記憶していなかったのに。(以下ネタバレ)いちおうストーリーらしきを書いておこう。ワルシャワに父と住むウェロニカにはアンテクという恋人がいて雨に降られて軒下で抱き合うなどのシーンもあるが、実のところ運命の人として愛してはいないようだ。彼を置いてクラクフの叔母さんの家に行ってしまう。そこで歌手として大抜擢されて、ブッデンマイヤーのカンタータを歌うことになるが、自分自身でも知らなかった先天的心臓異常のためにステージ上で発作を起こし死んでしまう。ちなみに心臓が悪くてブッデンマイヤーが歌えないというテーマは、『デカローグ 9』にも登場する。ちょうどその頃フランスのヴェロニックは久しぶりに会った男友達とベッドで抱き合っていたが、分身ウェロニカの死を感じとったのか、突然悲しみに襲われ涙を流す。彼女は理由はわからずに、でもただそうしなければいけないと知っていて、歌をやめると声楽教師のところに行き、また心臓専門科で診察を受ける。学校ではブッデンマイヤーの曲を生徒たちに教えている。人形芝居の移動公演をしに来たアレクサンドル・ファブリを運命の男性だと感じた彼女はウェロニカの導きや、アレクサンドルの著書、また彼が謎掛けとして送ってきた品々から彼の所在をつきとめ、パリで再会する。その直前、何故かワルシャワでのウェロニカがオーディションを受けたときにいた帽子の女が怪訝そうにヴェロニックを見ていた。アレクサンドルが自分のことを好きだと思っていた彼女はそれを否定され、彼から去ってホテルに泊まる。部屋番号はクラクフのウェロニカを訪ねてきたアンテクが泊まっていたのと同じ287号室。追ってきたアレクサンドル。和解し部屋で愛の一時。その後ヴェロニックはアレクサンドルの家で目を覚ますが、作業部屋でアレクサンドルが二つのベロニカ人形を作り、彼女にとって親密で大切な自分とウェロニカの物語を作品の題材にしたことを知って幻滅する。彼女は自分を再び見つめ直し、これからの人生を考えるべく、自分にとっての心の原点である父親の住む家を訪ねる。自分が生まれ育った原点としての「家」をイメージできないアメリカ人用の別バージョンでは、最後に父親と抱き合うらしい。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.10
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AMATORKrzysztof Kieslowskiキェシロフスキの初の長編劇映画『傷跡』(1976)から3年後1979年の長編劇映画第2作。と言っても『傷跡』の前年の『スタッフ』が(残念ながらまだ見たことありません)彼の長編劇映画第1作だし、『傷跡』と同じ年に『平穏』という44分の中編劇映画等も作っています(これも未見)。『傷跡』が監督本人が言うように失敗作だとしても、この『アマチュア』は堂々とした立派な長編劇映画だと思います。首尾一貫とした流れがあり、その意味で曖昧な所はない作品です。各役者の演技も良いし、編集も優れています。ときどき入る叙情的な映像と音楽が美しく、監督が後にフランスで撮った4本の作品につながります。しかしその中に描かれていること、作者が提示したかったことは多岐に渡っていると思います。主人公フィリップは娘の誕生を期に8ミリ映画カメラを買って娘の成長記録を撮ろうとします。孤児院出身で、まともな仕事、相思相愛の妻、念願の娘、そして住宅難の中でのアパートへの入居、そうしたものはすべて手に入れたはずなのに、それでは飽き足らずに、工場長の依頼で工場の式典の記録を撮ったことから、カメラの目を通して現実の真実を捉えようと映画制作にはまっていき、周囲からも反発も招き始める。ポーランドの体制の中では描いてはいけないことも多々ある。一方妻との関係では映画熱で家庭を顧みなくなり・・・、といった物語。キェシロフスキの自伝的要素(事実関係というより映画作りというものに関して)が多分に含まれていると思います。工場長に祝典の記録映画を撮るように依頼されるわけですが、フィリップの関心は舞台裏に向かう。これはキェシロフスキのドキュメンタリーのあり方と同じですね。表に隠れた裏がある。象徴として描かれていたのが奇麗に改装された表と汚いままの銀行の裏ですか。裏はすべての表を生じさせているものでもあり、何かを問えばいちばん重要なこと。そしてこの部分にこそキェシロフスキの関心は強い。しかしこれは個人生活であれ、国家といった体制であれ、多くの場合当事者はあからさまに晒されたくないもの。個人の場合には映画作家がそこに踏み込んでよいのかという倫理の問題があり、体制について言えば共産体制のポーランドではもともと不自由が多い。そうすると中途半端に現実・真実を写したドキュメンタリーよりも、その裏の本質を巧みにフィクション化して描く方が表現力は強いのではないか。そう考えてキェシロフスキはフィクションに転向したのだと思う。そしてこの作品はその過程を描いているだと感じました。演出が良い、と言ってしまえばそれまでだけれど、ポーランドの役者さんたちは本当にいい演技しますね。役者であるという以前に実存的に生きるって根本があるからなのでしょう。役作りがしっかりとしている。一人の同じ役者が別の映画で色々な役を演じるわけですが、我々が映画を見ているとき、たとえばイェジ・シュトゥールなら、ここではフィリップに、別の映画ではユレクに、別の映画ではアルトゥルの兄に見えなければならない。これは役者の演技(役づくり)だけの問題ではなく、映画全体の出来にも関係することですが、俳優イェジ・シュトゥールに見えていたらダメなんですね。観客はフィリップを見ていてそのフィリップをシュトゥールが演じていのであって、シュトゥールを見ていてそのシュトゥールがフィリップを演じているんではないんですね。あくまで普通の映画の場合は、ですが。そういう意味で各役者の演技に安心して身を任せていられる。『カムフラージュ』の上映会と監督との語らいの会が描かれ、クシシュトフ・ザヌーシ監督が本人役で登場。評論家のタデウシュ・ソボレフスキも。ザヌーシに関しては、実際に色々所に行って上演・講演・討論などをやっていた本人を本人として登場させることでドキュメンタリー的にリアリティーを持たせるためなのでしょうか。ソボレフスキに関しては業界人的雰囲気を出せるので役者よりやはり真実味がある。この2人や映画コンクールの様子などから当時のポーランドのこの種の世界がどんなであったかがかいま見られるのも面白かった。あと作中フィリップが見ている映画の本のページが写る。ケネス・ローチの『Kes』とか。キェシロフスキは他の作品の中でも他の映画からの引用やオマージュを何気なく入れているけれど、こういうのもキェシロフスキ・ファンにとっては興味深いですね。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.11
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L'ENFER Danis Tanovicこの映画、一言にすると『美しき豪華なる駄作』とよべるような気がする。「美しい」し「豪華」だから、その部分で観れば見る価値はあるかも知れない。予告編でもチラシでも明示されるように3人の姉妹を中心とする物語。もしかしたら3人が姉妹であることは見ている観客が段々に理解する方がよいのかも知れない。同じパリに住みながらほとんど会うことはない。長女ソフィ(エマニュエル・べアール)は結婚9年で子供が2人。夫ピエールの浮気に悩んでいる。次女セリーヌ(カリン・ヴィアール)は一人、郊外の老人ホームか何かにいる母マリー(キャロル・ブーケ)に定期的に会いに行っている。過去のトラウマで男性不信だが、セバスチャンという謎の男性が現れ心ときめかせている。三女アンヌ(マリー・ジラン)は父親のような年齢の、妻子ある大学教授のフレデリックと不倫関係。三人姉妹が子供だった頃のトラウマ、父アントワーヌをめぐる事件が、冒頭でほのめかされ、サスペンスタッチでそれが段々と明かになり、それに対する母の一言で映画が締めくくられる。ぐるぐる回る万華鏡が映像的にも全体を統一していて、三人姉妹や周辺の人物たちの、同じような不幸な人間関係が円環のように連鎖していている。1996年に急逝したポーランドの監督クシシュトフ・キェシロフスキが共同脚本家クシシュトフ・ピェシェヴィッチと書き始めていた、ダンテの『神曲』に着想を得た新しい三部作『地獄』・『煉獄』・『天国』の遺稿・原案による。万華鏡を回転させながら覗く、美しくも無気味な世界が、そしてその筒の中から決して出られない、そんな世界がこの世という地獄だ、とでも解釈すればいいだろうか。まず気付くのは、手法も素材もキェシロフスキの引用・援用・真似の多用(引用写真に類似作品名を付記)。エンドロールには「K.K.に捧ぐ」とは確かにあるが、ファンサービスやオマージュの域を超えている。観葉植物の葉を全部むしったり、コップに落ちて溺れそうなハエがマドラーづたいに登ってきたり、覗きの視線で夜の室内を窓越しに写したり、長女の夫を写真家にして撮影風景を描くとか、新聞で知る事件とか、車の窓を通した視線や窓に映る影、鏡などの反映の多用、意味あり気な数字、等々とウンザリ。どうせなら列車のセリーヌにマジックボールを通して風景眺めさせるとか、牛乳ビン出すとか、それもすれば良かったのに、なんて皮肉も言いたくなる。もちろん他映画へのオマージュはキェシロフスキだってやっている。『デカローグ6』のスノーボール(オーソン・ウェルズ『市民ケーン』)とか、『青の愛』の事故車から転がるボール(フェリーニ『悪魔の首飾り』)とか。しかしほんのわずかであり、映画の根幹には関わっていない。オマージュやファンサービスなら1、2ヶ所で密やかにやればいい。仮にピェシェヴィッチの脚本にあったとしても、タノヴィッチは自分で脚色・監督しているのだから責任がある。彼はもっと「彼の映画」を作るべきだったと思う。(↑『デカローグ2』) (↑『デカローグ2』)(↑『デカローグ6』)(↑『デカローグ6』)(↑『デカローグ6』)(↑『デカローグ8』)(↑『トリコロール』)(↑『トリコロール/青の愛・白の愛』)(↑『トリコロール/赤の愛』)(↑『トリコロール/赤の愛』)(↑『トリコロール/赤の愛』?)(以下ネタバレ)この三部作の遺稿をもとに『天国』はトム・ティクヴァが『ヘヴン』にしたが、出版されている原案小説の訳者後記に、この『地獄』の要約が紹介されている。タノヴィッチの『美しき運命の傷痕』との違いは、1970年代半ばで、ゾフィア、ピョートルという名から想像するに舞台はポーランド、父の容疑は未青年者への性的イタズラではなく政治犯だということ。生徒だったセバスチャンの悪ふざけの嘘を真に受けた妻の告発となっている。また最後に真相を知って彼女は涙を流すとある。この2つの相違点の意味は大きい。最後に母(妻)が涙を流すのと、「後悔していない」とでは、映画全体の意味は激変する。また政治犯は思想上の体制に対する罪であって、未青年者性的虐待かつ妻への一種の不貞のように人格的・人間的罪ではない。それなのに告発し、出所した夫を受け入れない妻の態度の意味は大きく違ってくる。タノヴィッチの映画とこの要約から想像・解釈するに、キェシロフスキの『地獄』とは「愛の不在」だったのではないだろうか。この映画でただ一人「愛」を体現しているのは父アントワーヌだ。セバスチャンの告白などから想像するに、父は事件当時自己弁護をしなかった。セバスチャンの人としての弱さをかばった愛だ。自己弁護をしていれば、判決がどうなったかは別として、まだ子供のセバスチャンに嘘か、恥ずかしい自分の告白を強要することになった。父のその優しさは鳥のヒナを巣に戻す映像で映画冒頭に紹介されている。そして愛ある人物は絶望の自殺に追いやられる。政治犯であればとくにそうだが、母が夫を告発、拒否したことは、人(しかも夫)に対する愛の欠如。つまり三人姉妹は愛の不在を事件で思い知って大人になった。残りの人物の行動には「愛」がない。長女ソフィにしても、浮気の夫を愛で許すかどうか以前に、求める愛で、与える愛を欠いている。だから夫婦関係も上手くいかなかった。この夫ピエールに愛人のジュリーが「あなたは自分だけが大切なのよ」と言うが、これが全人物の「愛」を象徴している。3人の中で望みがあるのは次女セリーヌ。それとセバスチャン。原案では2人は同じ誕生日ということになっている。キェシロフスキなら長女と三女を金髪、次女のみ黒か茶髪にしたのではないだろうか。愛からであるかどうかは疑問だとしても母親の世話をする。男性恐怖症にありながら愛を求め、受け入れようとする。相互的に愛をもたない三人姉妹の愛の回復も望む。しかし真実を告白したセバスチャンに愛で接することはできなかった。冷たく去っていくだけだ。セバスチャンも告白はしたものの、自分の過去の嘘の結果で傷付いているセリーヌには冷静なだけだ。彼は「どうしてお母さんはお父さんを告発したの」と問い、セリーヌは「わからない」と答える。真実は「母は父をもともと愛してなかったから」ではなかったろうか。こうして愛の可能性をもった2人も結局は「愛することの不在」地獄から出られない。三女アンヌはいちばん年少で父の愛に接する機会が少なく、そのために父を求めての教授との不倫だろう。でも、だから、子供っぽい一方的に求めるだけの愛。陽性の妊娠検査薬を送りつけられた彼は事故死するが、原案では雪山で遭難とあり、自殺ではないにしても生きる気力をなくしての死として描かれる。妻子と愛人に対する中途半端な愛の結果とも解釈でき、愛の可能性を持っていたのかも知れない。だがそういう彼は死ぬ。つまり夫も教授も、愛のある人物は生きられないという地獄かも知れない。(余談だが、アンヌが走るシーンが何度か長々と写されるが、これは『天国』を監督したテクヴァの『ラン・ローラ・ラン』へのオマージュか?。)ちなみに『トリコロール/赤の愛』の中で、老判事は電話盗聴している隣家のホモ不倫夫のことについて言う。「遅かれ早かれ彼は窓から飛び下りることになる。あるいは妻が事実を突き止めるのかも知れない。小さな娘の耳にも入るだろう。そうなれば地獄だ。」と。ホモの事実関係の有無はあるが、まさしくこの地獄はこの映画の20数年前の事件そのものではないだろうか。ピェシェヴィッチの脚本が政治犯としていたならば、これもタノヴィッチの安易な援用だ。そして最後に母は後悔はないと言うか、涙を流すか。口頭試問のアンヌの口から語られるように、信仰のない現代には(古代ギリシャ的意味での)悲劇は存在せず、あるのはせいぜいドラマだ。だから母の態度を王女メディアと同類に見ることなどできない。信仰もなく、愛する愛もなく、そのことがこの世界の地獄なのだ。この映画は、そのことをしっかりと描いていない。表層的なドラマ、よくありそうなドラマの羅列でしかない。後悔はないという母にはこの世界は地獄ではない。涙を流さなければならない世界だかれこそ、この母にとっても地獄なのではないだろうか。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2006.12.23
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BEZ KONCAKrzysztof Kieslowski 監督のキェシロフスキが言っています。 「私は地方的映画監督で、作品はポーランドに強く根ざしているから、国外では決して上映されないものと思っていた。でもポーランドで作った映画にも普遍性があって、誰でも同化できるものだった。必要なのは同じように愛や、苦しみや、憎しみや、死の恐怖を感じることだ。」 というようなことです。これは真実だと思いますが、『殺人に関する短いフィルム』、そして『デカローグ』がカンヌをはじめとして、西ヨーロッパで高く評価されたことで言ったのだと思います。より古く、ポーランドの政治状況がテーマの一部となっているこの『終わりなし』にも、もちろん彼のこの考えはあてはまるでしょう。彼がポーランドで撮った長編は、テーマに政治性を帯びてはいますが、「人」に対する関心がもともと強かったと思います。しかしこの『終わりなし』にはやはり「地方的映画」の側面が強く、予備知識を持って見た方がわかりやすいと思います。特に墓地のシーンの意味などは知っていた方がいいと思います。 ポーランドは、自ら望んでではなく、歴史の流れの中で、戦後ソ連・東欧体制下におかれました。そんな社会主義体制の中で、1980年8月、国家経済の悪化と食料品価格の高騰に端を発し、グダニスクのレーニン造船所で労働者のストが始まり、その波が全国に広がって、レフ・ワレサを中心に反共産党的な自主管理労組「連帯」が創設され、自由化への流れとなります。これを扱ってその時期に撮られた映画がアンジェイ・ワイダ監督の『鉄の男』(1981)で、同監督の『大理石の男』(1977)の続編という形をとっています。 しかし翌1981年ヤルゼルスキ将軍が2月に首相就任、10月には党第一書記も兼任、早くもその年半ばには政権は連帯に対する圧力を強め、12月12日~13日の深夜、戒厳令が敷かれます。労働者と知識階層の共闘もなり、一度自由化の流れを手にしたポーランド国民にとっては絶望的な出来事でした。映画館は閉鎖され、もちろんその年の12月に公開予定だったキェシロフスキの『偶然』の上演は中止、さらに上映禁止作品になってしまいます。戒厳令下では集会・結社の自由はなく、非合法の結社・集会であったり、さすがに政権も文句のつけようのない、墓地で死者を弔うという形での、無言の集会などが行われました。これらの非合法反政府活動は、前者は『終わりなし』の中では逮捕・拘留中の被告の妻の活動や家での集会として描かれ、後者のロウソクを灯した墓地の風景から映画は始まります。 1980年の連帯創設後の一時期の自由な流れ、これを象徴するのがワイダの『鉄の男』のマチェックであり、イェジー・ラジヴィオヴィッチが演じています。そしてこのマチェックの死んだ父親役を前作『大理石の男』で演じたのも同じイェジー・ラジヴィオヴィッチでした。いうなればイェジー・ラジヴィオヴィッチという俳優自体が、戦後から連帯に至るポーランドで労働者が置かれた歴史や自由化の流れの象徴でもあるわけです。キェシロフスキはこのイェジー・ラジヴィオヴィッチを自由化を支持する知識階層の代表として、スト首謀容疑の被告の弁護士役に起用しました。アンテク・ゼロです。しかし彼は冒頭から死者として登場します。死者として「登場する」のです。犬にはその存在が感じられますが、生きた人には見えません。また彼には生者の世界の出来事を左右することはできません。後任のラブラドル弁護士がふさわしくないとして弁護士名簿に「?」マークを書き込んだり、ラブラドル弁護士が裁判所でカバンの上に置いておいた新聞を無くすとか、妻の車を原因不明の走行不能状態にしてバスとの衝突事故を避けさせるとか、その程度しかできません。 (以下ネタバレ)彼が生きていてやろうとしていた信念に反した弁護活動が後任ラブラドルにより行われ、その流れで裁判は結審します。その過程で被告、その妻、妻の父、彼女の家に集まる活動家、後任ラブラドル弁護士、その若い弁護士助手、死んだアンテクの妻、アンテクの息子、妻に言い寄る古くからの友人、等々の人物の自由化や反政府活動に対するそれぞれの考え方が交錯します。ワイダの2本の映画により、戦後の労働者、そしてとりわけ自由化の象徴でもある俳優イェジー・ラジヴィオヴィッチを心臓発作で「死なせ」、しかし「死者として無力に」登場させることで、この映画では連帯に始まる大きな自由化への期待が戒厳令により閉ざされてしまったこと、しかしこの流れが完全に死んでしまったのではない状況、あるいは期待が、そしてとりあえずの絶望が描かれているわけです。 以上がこの『終わりなし』のストーリーの一つの流れです。そしてこれに重ねて、心臓発作で死んだはずの夫アンテクへの愛を死後改めて強く感じ、また弁護士名簿に「?」を赤で書き込んだらしいことや、車を止めて事故から救ったこと、催眠治療の途中で夫を見て、指を1本、3本と立てたり曲げたりすることで死んだ夫と交信し、死んだ夫の存在、あるいは愛を確認し、被告の妻に「あなたは冷たい人で、自分の不幸しか考えていない」と言われる彼女は、息子を祖母に託して愛の成就に向かう、という人の心や愛のストーリーがあるわけです。 後に『デカローグ』でキェシロフスキが描いた、愛、憎しみ、孤独、死、倫理、等々の問題、『ふたりのベロニカ』で描いた非合理の直感の世界、『トリコロール』三部作を含めた後の作品におけるキェシロフスキの世界がここにもあります。主演のポーランドの有名女優グラジーナ・シャポロフスカが美しく魅力的でした。 付記:この映画は1984年制作。1989年にポーランドには自由な体制ができ、今はNATOや欧州連合に加盟しています。以前にレビューを書いた『尋問』は1982年に制作されながら上映は禁止され、公開は1989年でした。監督別作品リストはここから
2006.12.17
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BLIZNAKrzysztof Kieslowski ドキュメンタリーの限界を感じたキェシロフスキがフィクション長編映画に転向した頃の作品。 この『傷跡』の前年に『スタッフ』という劇場衣装係ロメクを主人公とする72分の作品を作っている。建築技師のステファンはかつての故郷ポーランド北部のオレツコの化学肥料大コンビナートの建設とその後の運営の監督官に任命される。妻は20年前に政治的な問題で仲間だったレフを辞職させたというシコリがあり、娘エヴァも正論だけで人の心を蔑ろにする父とは心の離反があり、ステファンは一人オレツコに赴任する。 化学肥料生産による国の繁栄のため、地域の経済繁栄のため、地域の住民の幸福のため、と理想論で仕事を進めるが、やがて政治上層部からも、住民からも批判を浴び、そして家族からも離反し、だんだんに孤立していく。娘エヴァが言うように「お父さんは有能な技師であっても、人の心は扱えない」。主人公のステファンが善意の人なだけに、結果的に良心に痛みを感じなければならない事態になっていくのが見ていて寂しく、痛々しい。 この映画、あるジャーナリストのルポをもとにフィクションに仕上げられたらしいが、半ばドキュメンタリーになっていて、物語映画になり切っていないのが中途半端。後年『デカローグ』以降最後の『トリコロール』まで政治や社会から離れて人間を描いたキェシロフスキだが、ここでももっと主人公のステファンや妻、娘、といった人間のドラマとして作られていたらもっと面白かったと思う。監督自身が失敗作と言っている。しかし後年の諸作品をよりよく理解する上で、また『アマチュア』『偶然』『終わりなし』などのポーランド時代の長編映画の社会背景を知るためにも、キェシロフスキファンにとっては必見かも知れない。見ていてイヤになる駄作でもないし、眠くなることもない。 妊娠してもタバコをやめない秘書役で友情出演している映画監督のアグニェシュカ・ホランドがチャーミング。監督別作品リストはここから
2006.12.16
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PRZYPADEKKrzysztof Kieslowski 医学生のヴィテクは、息子が医者になることを欲していた父が死に、人生の目的を見失う。学校を休学してワルシャワに向かおうとして発車時刻ギリギリに駅に行くが・・・。間に合って列車に乗れた場合、駅員に静止されて乗れなかった場合、間に合わずやはり乗れなかった場合、ヴィテクのその後の人生の3つのストーリーがオムニバスで描かれる。 キェシロフスキは映画学校の教師のとき学生に、「今工場の前に一人の男がいる。これからどういう物語が展開されるか。」等と問い、答える者がいないと教室を出ていってしまったという。普段から人間観察をし、イマジネーションを働かせるられなければ映画等作れないということだろう。主人公のヴィテクが列車に間に合ったか合わなかったで、彼は3通りの人生を描いたわけだ。それぞれのケースでヴィテクの人生を左右するのは人との出逢いだ。スターリン時代を生き抜いてきた共産党幹部ヴェルネル、反体制地下活動をする若者や神父、彼を追って駅にやってきたかつての恋人。同じヴィテクが体制側の党員、反体制活動家、ノンポリとなる。それ自体違い過ぎると感じられるかも知れないが、望んだのではなくソ連支配下に置かれたポーランド人が、祖国に感じている思いは同じであり、どういう立場からその問題を解決するかという差があっただけではないだろうか。その意味でいかなるあり方であれ信念を持っている人物との出会いが、生きる指針をなくしたヴィテクに影響を与えたのだ。人生は生来の性格や人種など生まれの条件、あるいは単なる偶然事で左右される。 遺作となった『トリコロール/赤の愛』の最後の方で、ヴァランティーヌらを乗せたフェリーが出港し、金属の渡し板が、機械的に、ゆっくりと、しかし容赦なく閉じられる映像は、これから沈没という運命が待ち受けているわけだけれど、もうどうにも取り返しのつかない運命を暗示していて、無気味な恐い映像だったのを思い出した。第1話にでてくる「希望をもって人生を始めるが、結局望みは達成されずに人生は終わる」というヴェルネルの言葉。第2話で「人生の目的が欲しい」と言ってカトリックの洗礼を受け、「ただ存在だけしていて下さい」と神に祈るヴィテク。同じく第2話で語られる「死んでいく人に与えられるのは、一人ではないという思い」というマザー・テレサの言葉。第3話でヴィテクが目にする、何の具体的目的もなしに、ただただ世界最高の球投げの技に10年以上も精進している2人の男性。 何故我々は生きているのか、人生の目的とは、そして人生における偶然の作用とは何か。スターリン時代からの弾圧と自由化の歴史と現状もテーマにはなっているけれども、むしろ『デカローグ』や『トリコロール』三部作につながる、人の生き方と運命の物語だ。また偶然なり必然として我々が感じる人生の出来事を自分の側から見るのではなく、自分自身の行動自体が多くの他者の人生に影響を与えているという逆の立場から見れば、これは『ふたりのベロニカ』の世界でもある。 3話とも決して明るい話ではないけれど、同じ主人公ヴィテクの3つの話があり、どれかが決定論として描かれていないためか、つまり列車に乗れるかどうかにまつわる偶然の結果の3の仮定として見られるためか、見た後に気分がどうしようもなく暗くなることはない。自分や人一般の人生のあり方を見直すだけだ。 ヴォイチェフ・キラル(『戦場のピアニスト』)の音楽も美しかった。 監督別作品リストはここから
2006.12.15
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