あま野球日記@大学野球

あま野球日記@大学野球

2009.07.18
XML
カテゴリ: 大学野球

終戦直後の1945年(昭和20年)11月23日、早くも職業(プロ)野球が
「東西対抗戦」といった形で再開した(於、後楽園球場)。


ただ昭和20年代当時、野球を職業とする選手(プロ野球選手)は、現在の
ような「憧れの職業」ではなかった。いや逆に、世間からは卑下して見られる
ことが多かったし、その職業を得た選手たち本人からして、あまり気の
進まない「就職」のようだった。


いくつかの文献で、往年の名選手たちが、自身の職業野球への「就職」当時
について心情を語っていた。

■「職業野球選手になった頃」第1回は、 西本幸雄 氏。
(元・近鉄監督、和歌山中-立教大-別府星野組ほか-大毎オリオンズほか)

「当時、六大学からプロの道に進んだ者は、卒業生の名前を掲げられる
ところから名札を外されていた。野球で金を稼ぐとはもってのほかだ。そんな
時代だったな。プロ野球の世界に入ることなんかは想像できなかったね」


ところが1949年(昭和24年)頃、都市対抗(主催=毎日新聞)の強豪・別府
星野組に就職し、監督兼任の選手として活躍していたが、会社の経営状態が
悪化。給料もろくにもらえない状態に陥った。


ちょうどその頃、毎日新聞がプロ野球に参加を表明、全国のめぼしい選手たち
の勧誘を始めていた。ただ一人ひとり選手を集めるのが面倒だった毎日は、
別府星野組のめぼしい複数人の選手たちを中心に、まるごと選手を集めようと
した。


西本さん、監督という立場もあって、好むと好まざるとにかかわらず、その
交渉役をやるハメになる。


「俺は(指名されなかった他の選手も抱えておくことができんから)全部の選手を
引き取ってくれるか?と言った。みんながそれほど安定した生活はしていない
わけや。野球を頼りにして就職しているような選手ばかり。そしたら、毎日が
了承してくれた。みんながみんな、プロに入れるような選手ばかりじゃなかった
けどな」


「当時俺はもう29歳やったから、『いつまでも野球してられへんから毎日新聞で
雇ってくれるか?』と言って、そういう約束ができた。選手を10人ほど連れて、
毎日に入ることになったんや」


(以上、『悲運の闘将 西本幸雄』(ぴあ刊)より一部を引用)


西本幸雄 の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。
「2人の正捕手、梨田昌孝と有田修三」  (2009.4.18) → 
こちら へ。
「西本幸雄の監督信任投票!」  (2007.1.23) → 
こちら へ。
「ボクの選んだ歴代近鉄ベストナイン」  (2008.10.19) → 
こちら へ。
「西本幸雄の立教大時代」  (2009.3.22) → 
こちら へ。

職業野球選手 の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。
「職業野球選手の社会的地位」  (2009.7.8) → 
こちら

この記事は『ボクにとっての日本野球史』の中で、次の期に属します。→  (第5期) 1946年(昭和21年)、戦後、東京六大学リーグ・職業野球が復活した時以降


(第5期)に属する他の記事は以下のとおり。

「ボクの日本野球史」 (2009.7.1) →  こちら へ。


大笑い今日も1クリックお願いしますウィンク

人気ブログランキングへ にほんブログ村 野球ブログ 大学野球へ






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2009.07.19 21:36:40
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

Archives

2025.11
2025.10
2025.09
2025.08
2025.07
2025.06
2025.05
2025.04
2025.03
2025.02

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: