その昔、野球を職業とする選手(プロ野球選手)は、現在のように子供たちの
「憧れの職業」ではなかった。いやそれどころか、野球が職業になることさえ
懐疑的に見ている人も多く、世間からは卑下して見られることも多かった。
今回、特集「職業野球選手になった頃」(第4回)で紹介する 三原脩
氏は、
創設当時の「職業野球」を懐疑的に見る急先鋒的な存在だった。
※ 三原脩
氏。
巨人・西鉄・大洋・近鉄などの監督を歴任。高松中・丸亀中-早稲田大中退。
だが懐疑的だったにもかかわらず、プロ野球契約選手第一号になったのは、
なぜか三原だった。理由は早稲田大の選手時代に監督であった 市岡忠男
(当時、読売新聞社運動部部長)からの頼みだったから。市岡は全米軍が
来日するプランの仕掛け人の一人だった。
「今秋(1934年、昭和9年)、ベーブ・ルースなどのスター選手たちが全米軍と
して来日するため、対戦する全日本軍を急きょ作らなければならない。
(なぜ、私を勧誘するのですか? という三原の問いに)君の判は、社会に
対する信用状だ。その契約書が他の選手を勧誘する際の決め手となるからだ」
その言葉を聞き、職業野球の将来には疑問を残しつつも、三原はいわば
『名義貸し』のつもりで判を押し、契約選手第一号となった。その効果はテキメン。
当時、慶應義塾大が執拗にアプローチしていた京都商高の 沢村栄治
は
「あの三原さんも契約したのなら」
と、進路を変更してプロ入りを決めたという。
ただ、これはそのずっと後になるのだけど、三原は球団のありかたについて
現代でも教訓となる根本的な疑問を呈している(1947年、昭和22年頃)。
※要約すると、以下のとおり(と言っても、少し長くなるが)。
戦前・戦後を通じて独立会社の形態をとっていた巨人軍だったが、1947年頃
に資本的にも組織的にも読売新聞社の傘下に入ることとなった。
その途端、東京の一地方紙に過ぎなかった読売新聞を朝日新聞や毎日新聞に
並ぶ全国紙にするため、 巨人軍を拡販の宣伝道具として便利使いするように
なった。例えば、全国各地でオープン戦を開催し、その入場券を拡販の材料に
使ったりしていた。
「自由と自立」を失った会社(球団)ほど、失速するのははやいもの。
巨人軍に限らず、そのような球団経営が続けば、日本のプロ野球に未来はない
と、三原は危機感を募らせた。
※当時、野球解説者だった 小西得郎
は専門紙『スポーツ・ジャーナル』でこう
書き、側面から三原を支援した。
「現在の8球団中その6球団は新聞社と電車会社がこれを経営している。そして
それ等の会社が、その宣伝広告の一端として球団を手先に使い、利用せんと
するならば野球界の将来の大発展は到底望めるものではない」
(以上、『魔術師 三原脩と西鉄ライオンズ』立石泰則著、小学館刊より一部を引用)
この記事は『ボクにとっての日本野球史』の中で、次の期に属します。
→ (第4期)1925年(大正14年)、東京六大学リーグが成立し、早慶戦が復活した時以降
→ (第5期) 1946年(昭和21年)、戦後、東京六大学リーグ・職業野球が復活した時以降
(第4期)に属する他の記事は以下のとおり。
◇ 「ボクの日本野球史」
(2009.7.1) → こちら
へ。
「プロ野球、創設プラン」
(2009.7.5) → こちら
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「職業野球選手の社会的地位」
(2009.7.8) → こちら
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「米国遠征の夢と財布の中身」
(2009.7.9) → こちら
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(第5期)に属する他の記事は以下のとおり。
◇ 「ボクの日本野球史」
(2009.7.1) → こちら
へ。
「西本幸雄、職業野球選手になった頃」
(2009.7.18) → こちら
へ。
「関根潤三、職業野球選手になった頃」
(2009.7.18) → こちら
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「豊田泰光、職業野球選手になった頃」
(2009.7.19) → こちら
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