あま野球日記@大学野球

あま野球日記@大学野球

2009.07.24
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カテゴリ: プロ野球

『最後の早慶戦』が戸塚球場で行われたのは1943年(昭和18年)
10月16日のこと。当時は東京六大学野球こそが野球の「花形」であり、
常に注目の的だった。一方の職業野球といえば、あくまでマイナーな
スポーツであって、そのファンの数は、ほんの微々たるものだった。でも
職業野球は、その『最後の早慶戦』が行われた後も1944年(昭和19年)
9月まで続いていた。


野球連盟の名称を「日本野球連盟」から「日本野球報国会」に変え、
最後の試合の大会名を「総進軍優勝大会」(同年9月17日から3日間、
於・後楽園球場)と世情に迎合した ふり をしながら、細々と生き永らえて
いたのだ。「総進軍」という名前こそ勇ましいものの、実情は寂しいもの
だった。


なにせ選手たちの多くは戦場にかりだされ、残っている選手は少なかった。
当時残っていたチームは巨人、阪神、阪急、産業、朝日、近畿日本の6
チーム。ところが、
(阪神を除き) どのチームも9人のメンバーすら揃って
いなかった。やむなく、「阪神・産業」「阪急・近畿日本」「巨人・朝日」と2つ
のチームが合体して3チームを作り2回戦総当たり12ゲームを行った。


この年の6月15日には米軍がサイパン島へ攻撃を開始。3週間後には
3万1629名の日本軍が、嵐のような米軍の攻撃の前に死んでいった。
(『昭和20年11月23日のプレイボール』鈴木明著、光人社刊より引用)


そんな大混乱を極めた時代だった。なのに東京のど真ん中(後楽園)で
職業野球は行われていた。いつ爆撃されるかわからない、そんな状況下
での強硬開催だった。


なぜ強硬開催されたのか。それは何人かの男たちの「職業野球を続けたい、
いや、続けなければならない」といった意地が支えたものだということを
前出の『プレイボール』でボクは知った。 市岡忠男 小西得郎 鈴木竜ニ
・・・。


※ただ、なぜ『職業野球』に彼らがそれほどまでにこだわったのか。前出の
書籍を読んでも、その理由をボクは知ることができなかった。少なくても金儲け
目当てではないだろうし、有り体の『男のロマン』などと呼んでも、ちょっと違う
気がするし。


いずれ、その点についてはもっと調べてみたいと思う。 

 この記事は『ボクにとっての日本野球史』の中で、次の期に属します。
→ (第4期)1925年(大正14年)、東京六大学リーグが成立し、早慶戦が復活した時以降


◇  「ボクの日本野球史」  (2009.7.1) →  こちら へ。
「プロ野球、創設プラン」  (2009.7.5) →  こちら へ。
「職業野球選手の社会的地位」  (2009.7.8) →  こちら へ。
「米国遠征の夢と財布の中身」  (2009.7.9) →  こちら へ。
「三原脩、職業野球選手になった頃」  (2009.7.19) →  こちら へ。

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Last updated  2009.08.02 02:22:05
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