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節分前後は例年なら一番寒い頃だが、今年は3月下旬頃の陽気が続きます。今年は、久しぶりに以前住んでいた岡崎辺りの節分でもハシゴをしようかと思います。表鬼門の吉田神社、平安神宮から懸想文売りのでる須賀神社、その向かいの聖護院、川を渡って御所前の廬山寺、これ位廻れば心の中の三毒(貪欲・嫉妬・愚痴)を1日くらいなら追い出せるだろうか?皆さんもいかがですか?◆嵯峨面(京都三大狂言の一つ嵯峨念仏狂言の面を模した土産物)
2007.01.31
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私たちが一番生き甲斐を感じ、楽しく、命輝いて生きているのは、どんなに些細なことでもいいから、自分が誰かのお役に立っていると感じられる時です。子供でも3つ4つになると、両親のお手伝いをしたがります。何かを頼んで「ありがとう」と言うと、顔を輝かせ、他にも何かお手伝いをすることがないかと待ち構えています。ボランティアに励む若者たちの顔を見ても、そのイキイキとした顔にホッとします。大人になっても、一生懸命に仕事をしている時の顔は輝いています。ところが、サラリーマンの中には、定年退職した途端に、「あれほど溌剌としていた人が」と思うほど精気を失う人がときたまいます。それは、社会での自分の役割を失ってしまったからです。役割が無くなると、人間は途端に精彩を欠いてしまいます。長寿社会になって、お年寄りの生き甲斐ということがよく議論になるが、お年寄りにボケずに元気に過ごしてほしければ、何か役割を与えることです。そして、「おばあちゃん(おじいちゃん)がいないとダメなのよ」と追い回すことです。すると、「私がいないとこの家はダメなんだ」と思って、いつまでもボケずに元気です。ところが最近では、お年寄りを大切にするあまり何もさせません。これでは生き甲斐を奪って、わざわざ「ボケてくれ」と言っているようなものです。老人ホームに入所しても、自ら花壇の世話をしたりする人はボケません。それは、自分がほんのわずかでも人さまのお役に立っていると感じられるからです。阪神淡路大震災の時にテレビを見ていたら、茶髪の若者たちが「生きていたら声を出せ」と一軒一軒崩れた家の戸を叩き、声のする瓦礫の中から人を助けだしていました。その顔は、何もすることがなく地べた座りをしていた時とは違い、イキイキと輝いていました。このように、人間は生まれながらにして、「自分は有用な人間で人の役に立っている」と思える時に、命が輝くようにできています。特に、自分自身の特性を生かして人のお役に立つことができる時、一番命が輝きます。ですから、明るく、楽しく生きていくには、それぞれの持って生まれた特性を活かして生きていくことが大切なのです。
2007.01.31
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100万世帯を越える生活保護、生活保護者よりも低い収入しか得られないワーキングプアやニート、何処の都市にもみられるホームレス・・・、ついこの間まで国民総中流意識といわれていた日本で、持てる者と持たざる者の格差が広がっています。200万人を超えるフリーターの生涯賃金は約5600万円という一方、3.6億円近い大企業サラリーマンとの差はなんと3億円前後にもなります。こんな日本にしてしまった倫理観もないお粗末な政治家たちは言葉を練ったり咀嚼することもなく暴言を繰り返し、官吏は官吏で裏金や天下りで甘い汁を吸っています。なんか、「美しい国」創り、教育再生と言われても虚しいばかりですね!御手洗さんに代わった経団連も、社員の幸せなんか少しも慮る気配もなく企業至上主義で、一体日本はどうなるのでしょうか?とんだ愚痴が出てしまったが、もうすぐ節分。誰の心の中に棲む赤鬼(貪欲)・青鬼(嫉妬)黄or黒鬼(愚痴)を追い出して幸せな社会を創りたいものです。◆キンカチャ(ベトナムに近い中国原産の黄色の椿 植物園にて)
2007.01.30
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やり甲斐はコインの裏表のように、生き甲斐と働き甲斐が背中合わせになっています。表面が生を楽しむ人生の顔なら、裏面は喰うために働く生活の顔です。ほんのこの間まで、大部分の人にとって生き甲斐とか働き甲斐などとは無縁に、生活のために働いてお金を稼ぐのが人生の全てでした。未だに後進国では、食うために子供の人身売買まで盛んです。そんな時代には、労働は苦役以外のなにものでもありませんでした。だが、物質的に豊かになった今日の日本では、働くことにどんな意味があるのだろうか?プロ野球の新庄選手は日本での5年間12億円という高額の年俸を蹴って、20万ドルを提示したメッツに夢を求めた。田口選手にしても同じだ。現代においては、仕事はその人をその人たらしめ、自分の生き様を表現する一つの手段だと思います。そして、最も愉快で、最も報いられることの多い、お金のかからない時間の消費方法でもあります。そもそも、私たちの一番貴重な時期の大部分を仕事に費やすのだから、仕事を自分の夢の実現や価値観の表現手段として生かすことで、働き甲斐の中に生き甲斐を見つけていかないと、なかなか心豊かで日々充実した人生を歩いていくことは難しい。それは、大人たちを観察してみればよく分かります。仕事に燃えている時はイキイキと顔も輝いているが、仕事が上手くいかなかったり職を失った途端に自信も顔の輝きも失ってしまいます。つまり、自己実現が可能な仕事について働き甲斐が感じられない限り、毎日を張りと充実感を持って生きていくことは難しい。だから、好きなことやよくできることを見極めて、それを天職として励み、一隅を照らす存在となって自己実現を図ることが大切なのです。◆イチロー選手がアメリカ大リーグに挑戦するとき、「僕はロングヒッターではないので、ヒットを量産し、足を生かす一番打者こそ天職だと思っている。トップ・バッターとしてのイチローを完成させたい。『生きる、生かされる、生かす』、これができる選手です。大リーグの道を選んだのは、まず自分を生かすためです。そして、自分の存在が他の選手との関係に広がって、お互いに生き生かされるようになることです。それがベンチの采配の幅を広げさせ、チームを生かすことにあれば最高です」と言いました。彼はまさに、究極の一番打者こそが自分が一隅を照らす存在になれる場だと確信して働く場を選択したのです。その選択に間違いはなく、彼はいまイキイキと輝いています。
2007.01.30
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松山市に隣接する旧重信町で60~84才男女3100人に配偶者の有無や喫煙習慣、糖尿病や高血圧の治療歴など17項目を調べ、5年後に対象者の生死を確認し、調査中に死亡した男女約200人と生存者約2900人を比べ、配偶者の有無が死亡に与えた影響を60~74才と75~84才で分析した。75~84才では、女性は夫がいる方が死亡リスクが2.02倍に高まり、逆に男性は妻がいる方が0.46倍に下がっていた。60~74才でも同様の傾向が見られた。調査した愛媛県総合保険協会の藤本弘一郎医長は「夫の依存が妻に負担をかけている一方で、妻に先立たれると夫は身の回りのことを助けてくれる依存を失い死ぬ確立が高まる。夫はカジなどを覚えて自立することが大切だ」と言う。これからは、年金の分割もされるようになり、妻に負担をかける夫は益々離婚される確率が高まりそうだ。何時も午前様を貫いていた知り合いの教授など、定年と同時に奥様が家を売って出て行ってしまったが、保険をやっている知人の話でもお金の切れ目が縁の切れ目で、リストラ離婚や定年離婚が増えているようです。我が嵯峨野庵に来る老若男女を観察してみると、総じて後片付けもせずに食べ散らかして帰る人が大部分で、家で家事手伝いをしていないことが想像されます。その点、食器などを綺麗に洗って帰る中国からの留学生には感心します。また、夫を亡くしたり離婚したシングルマザーは元気で、60才からスキューバーを始めたり短期ホームステイに出掛けたりとイキイキとされています。団塊の世代の皆さん、いまから一人でも生きられる準備を始められては如何ですか?
2007.01.29
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花屋の店先に並んだ いろんな花を見ていた 人それぞれ好みはあるけど どれもみんなきれいだね この中の誰が一番なんて 争うこともしないで バケツの中で誇らしげに シャンと胸を張っている それなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる? そうさ僕らは世界に一つだけの花 一人ひとり違う種を持つ その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい 困ったように笑いながらずっと迷っている人がいる頑張って咲いた花はどれもきれいだから仕方がないねやっと店から出てきた その人が抱えていた色とりどりの花束と うれしそうな顔名前も知らなかったけれどあの日ぼくに笑顔をくれた誰も気づかないような場所で 咲いた花のようにそうさ僕らも世界に一つだけの花一人ひとり違う種を持つその花を咲かせる事だけに 一生懸命になればいい小さい花や大きな花一つとして同じものはないからナンバーワンにならなくてもいいもともと特別なオンリーワンさて、あなたの咲かせたい花はどんな花ですか?
2007.01.29
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『竹取物語』は日本文学の元祖とされています。竹取の翁が竹の中から小さな女の子を見つけて大切に育てる。やがて彼女は美しい姫となり、かぐや姫と呼ばれる。多くの男たちがかぐや姫に求婚し、帝も姫を求めて勅使を遣わすが、姫はそれを拒否する。八月十五夜、養い親の翁や嫗の嘆きを後に、天人に迎えられて月の世界へと昇天していく。この話をどう解釈するかは人によって違うが、ひろさちやさんは「子供は天からの預かりもの」だと解釈できると言われます。私たちは結婚すると、しばらくは子供をつくらずにおこう、もうそろそろ子供をつくろう・・・などと考えたりするが、それは間違いです。本当は子供は仏様から授けていただき、お預かりするだけのものです。そして大切に育てても、仏様がお呼び戻しになるときは、どんなに辛くても親は子供を仏様にお返しするべきだ、とも言われます。現代にあっては、親は臓器移植までして子供の延命を図ったりもするが、子供の寿命は仏様が決めているだから、辛いけども時が来れば素直にお返しするのがいいのかもしれません。また、子供が大きくなったら、親の手を離れて育っていくものでもあります。
2007.01.28
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今日は8才下の甥と東海自然歩道を歩いて高雄まで行き、往復5時間ばかり散策しました。冬と思えない暖かさで、楽しい1日でした。帰ってから温泉に行き体重を量ったら、昨日飲み過ぎたこともあってダイエット効果が少し薄れ、年末からみれば1.5キロ減になってしまいました。◆神護寺門前の偈
2007.01.27
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人は自ら自分の世界をつくり、その中でもがき苦しんでいる。愚かな人が自分で描いた夜叉の絵に、自ら脅えているようなものである。心の清らかなときは極楽、心の汚れたときは地獄。近くのお寺にこんな偈があったが、まさにこの世の地獄極楽は自分の心次第です。阪神大震災の時にも、こんな光景に出会いました。避難所に夜の一一時をとうに過ぎたころ、やっと一個のおにぎりが届られた。まだ火災が続いている中を、市役所の方が必死で届けてくれたのです。一人のお婆さんが、「おじいさん、おにぎりをいただきました。一つですから半分ずついただきましょう。ありがたいことです。すみませんね」と押し頂いています。ところが、その隣のおじいさんは、「いま何時だと思うとるんや。夜中の一一時過ぎやぞ。わしら朝から何も食べとらんし、水も飲んどらんのや。それなのに、こんな冷たい握り飯一個か。お前ら、わしに死ねというのか」と、もの凄い剣幕で噛みついています。おにぎり一個という現実は同じでも、その人の心の持ち方一つで、ほのぼのとした暖かさを感じさせる人もいれば、怒りをぶちまける心寒い人もいます。こんな話もあります。ある日、同じ時刻に、二人の急性心筋梗塞の患者が病院に運ばれてきました。幸いにも二人とも軽症で、ともに三週間後に退院しました。一人は、病気のことが不安で仕事が手につかず、自暴自棄になって酒浸りになり、半年後に再発して入院し、仕事に復帰できなくなりました。もう一人は、このときから生活態度をガラッと変えて、退院後も健康に十分に気を配って規則正しい生活を送り、一〇年たったいまでも再発していません。すべてにおいて、心の持ち方一つで地獄にも極楽にもなります。この世の中、辛いことや嫌なことを探せば辛いことや嫌なことばかりだが、嬉しい事や有り難いことを探せば嬉しいことや有り難いことばかりです。何事においても、明るく前向きに対処すれば、どんな困難な障害も乗り越えていくことができます。逆に、いまに感謝することもなく後ろ向きに対処すれば、自分の本来持っている力を発揮する機会もないままに破滅の大穴へと転落してはい上がれなくなりがちです。その大穴は、実は自分の心が掘ったものなのです。
2007.01.27
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今日も3月の陽気と言っているが、例年より早く蕗の薹も出まわっています。飲み助には、天ぷらだけでなくフキ味噌がたまらないですね。作り方1.フキノトウをあまり細かく切らずに、1センチ角くらいにざくざく切るのがこつ。2.適量の味噌、お酒、みりん、砂糖を加えて、小鍋で混ぜながら炒ります。このとき、あまり炒りすぎず、長く加熱しないのがこつ(3、4分見当)一通り熱がとおったら、火から下して保存しておき、豆腐田楽やコンニャクのおでんにも良い。豆腐田楽 豆腐にフキ味噌をのせてオーブンで焼くおでん コンニャクを茹でフキ味噌をのせるモモ焼き 鳥のもも肉に酒で溶いたフキ味噌を塗り焼き上げる
2007.01.26
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いまの自分の幸せが見えないというのは不幸なことです。ところが、世の中には案外そういう人が多いように思います。そういう人は、人のことばかりがよく見えて、自分は不幸だと思いこんでいる傾向があります。だが、そういう人に限って、はたから見ると結構な身分であることが多く、愚かにも自分で自分を無理に不幸にしてしまっています。せっかく幸せを享受できる立場にありながら、それを評価する目がないために、あたら幸せを無駄にしてしまっています。それは、狭い視野からしかものを見ない心の貧しさというか、満ち足りることを知らない貧しい心しか持っていないからだと思います。いくら人から見れば客観的に幸せな条件が備わっていても、当人がそれを幸せだと思わなければ、それはやっぱり不幸です。ようは幸せ、幸せは自分の心の持ち方の問題です。この世の中に50%の不幸はあっても、100%の不幸などありません。裏返せば、世の中には100%の幸せというものも存在しないということです。それに気づくことです。ある奥さんは、定年後、寂しそうに独りで晩酌をしている夫の姿が、最初のうちは嫌で嫌でしょうがありませんでした。あるとき、たまたま聞いた倫理の話がきっかけで、楽しい飲み相手になってやろうと決心し、「少々くたびれた居眠り芸者でございますが、ハートでサービスさせていただきます」と相手をするようにした。すると、後片付けは俺に任せておけとなるし、酒飲みのお父さんを嫌っていた娘もその姿を見て、「結婚相手は、お父さんとお酒を飲んでいてくれる人がいいな」と嬉しいことを言うようになったそうです。この頃は、定年離婚とかリストラ離婚、家庭内別居という話をよく聞きます。それを聞いて感じるのは、お互いに自分のことばかり考えて、相手を不満に思い、相手の良い面や気持ちを思いやることに欠けているのではないかということです。幸せも不幸せも、突き詰めれば自分の心一つの置き所次第です。角度を変えて同じ我が家、我が身を見直してみれば、幸せの青い鳥は、山の彼方にではなく、平凡な我が家の中に、つまり現状に感謝する自分自身の心の中にいるはずです。生まれたばかりの赤ちゃんは、おっぱいをお腹一杯飲めば、後は何もいらないとばかりに幸せ一杯の顔をします。ところが、何時しか、あれも欲しい、これも欲しい、ああもしたい、こうもしたいと、欲望ばかりが次々と湧いてきます。そして、それがなかなか叶えられないので、「自分はなんと不幸なんだろう」と不満で一杯になっていませんか?
2007.01.26
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笑いは健康に良いだけでなく、笑う人の周りには自然と人が集まってきます。動物の雄は雌のフェロモンにひかれて集まってくるが、人間は笑顔のいい人のそばに集まってきます。笑顔が次から次へと伝播していけば、この世は楽しくなってきます。本当に人をひきつける人は、姿形にかかわらず、明るくて表情がイキイキとしています。菩薩さまは、心の修行をされた最後に微笑みの修行をされるそうです。手元に何一つ布施する財貨がなくても、ただニッコリと微笑むだけで、周りの人を明るく楽しくすることができます。絶えず微笑む努力をしていると、心も自然と温かくなってきます。怒りっぽい人は、見るもの聞くものすべてが気に入らず、いつもイライラしています。怒ることによって、ますます世の中が面白くなくなっていきます。そして、自分でも気がつかないうちに大きなストレスが溜まります。周りは、そんな人を敬遠します。この世には、不安や怒りの種は尽きることなく、微笑みも凍りつきがちです。でも、不安などというものは、現実に起きている問題ではありません。自分の頭が創り出した妄想の影にすぎないのです。どんな不安も笑い飛ばしてしまいましょう。江戸時代の話です。元日の朝、大店の主人が床の間に雑巾が置き忘れてあるのを見つけて、「元旦だというのに、こんな汚らしい物を床の間に置き忘れるなんてとんでもない」とカンカンになって女中を叱っていました。そこへ蜀山人(江戸時代の狂歌師、大田南畝)がぶらりとやって来て「雑巾を 当て字で書けば 蔵と金 あちら福々 こちら福々」と詠んで聞かせました。これを聞いた主人は、コロッと恵比寿顔に変わり、さっそく雑巾をもって来させて、わざわざ床の間に飾ったということです。要は、モノの考えようです。どうせこの世はままならないものと腹をくくって、年中物事の悪い面ばかり見て愚痴を言ったり腹を立てたりして過ごすのではなく、すべてを良い方に解釈し、ニコニコ過ごそうと努めることです。病は気からと言うが、笑いも同じで、笑うから楽しくなるのです。無理してでも笑っていると、この世が自然と楽しくなってきます。そして、顔が内側から綺麗になってきます。劇作家、真山美保さんの作品に『泥かぶら』があります。醜いがゆえに村の人々から嘲られ、子供たちからは石を投げかけられたり、唾をかけられたりする女の子がいました。「泥かぶら」と呼ばれたその少女は、悔しがって怒るほどに心が益々荒れ、顔は醜くなっていきます。そんな時、たまたま通り掛かった旅の老人が、竹の棒を振り回して怒り狂う泥かぶらに向かって、次の3つのことを守れば村一番の美人になれると諭します。・いつもニッコリ笑うこと・自分の醜さを恥じないこと・人の身になって思うこと少女は美しくなりたい一心で、その日から血のにじむような努力を始めました。何度も挫けそうになりながらも、また気を取り直して始めます。いつしか泥かぶらの顔からは憎しみが去り、その心は穏やかになってきました。ある日、村に人買いがやって来ました。彼女と同じ年頃の娘が買われていくことになっていました。その時、泥かぶらは、自らその娘の身代わりになることを申し出て、買われていくことなりました。しかし道々楽しげに村や子供たちのことを語る泥かぶらに、いつしか人買いの心は動かされました。そして、「ありがとう、仏のように美しい子よ」と、置き手紙を残して去っていきます。笑顔が自分だけでなく、他人をも救うのです。
2007.01.25
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精神状態が身体に与える影響には計り知れないものがあります。生物はストレッサー(ストレスを引き起こす肉体的、精神的要因)にさらされると、身を守るために自律神経の一つである交感神経が活発に働き、アドレナリンや副腎皮質ホルモンを分泌させて防御態勢をつくります。ストレッサーの数が多くなればなるほど病気に罹りやすくなり、イライラが続くと、血液の中の血小板を凝固させて血栓症を起こしたり、時にはストレッサーに対抗しきれなくて死に至ることもあります。人生の三大栄養素は、「愛と笑いと感動」だと言った人がいます。また、昔から「一怒一老、一笑一若」と言い、笑いは健康のバロメーターです。筑波大学の小田晋先生は、「よく笑う人は健康で長生きができる」と言っています。笑うと血液の循環が良くなり、ジョギングと同じ効果があるのだそうです。1日に100回から200回笑うと、ボートを10分漕ぐのと同じ効果を心臓に与えます。アメリカのウィリアム・ジェームズという哲学者は、「人は悲しいから泣くのではない。泣くから悲しくなるのだ」と言ったが、これを応用してストレスを発散させましょう。つまり、何事も笑い飛ばしてしまうのです。楽しいから笑うのではなく、笑っているうちに本当に楽しい気分になってきて、ストレスも吹き飛んでしまいます。作家の遠藤周作さんも、「長い病床にある人は、気持ちが暗くなってどうしようもない。まず笑ってみる、何もなくても笑う真似をしてみるのである。僕は入院中、療友たちと模型飛行機を作ったり、悪戯道具を使って随分と笑いあったものだ。こうした児戯的な行為でさえも、とかくウジウジしがちな病人にとっては、日常の明るさを引き起こすために決して無駄ではなかった」と、闘病生活中は努めて笑うようにしていたとのことです。「生きがい療法実践会」で有名な医師、伊丹仁朗さんは、吉本の漫才を見せた後のナチュラル・キラー細胞の活性度(この細胞の活性度が低すぎる人はガンに対する抵抗力が弱く、高過ぎる人は膠原病になりやすい)を調べました。すると、漫才を見て笑った後では、活性度が高過ぎた人は低くなり、低過ぎた人は高くなり、もともと正常な人は横ばいだったそうです。つまり、すべての人が正常値に向かっていたのです。気分が楽しくなれば、食事が美味しくなります。食事が美味しければ、グッスリと眠れます。グッスリ眠って目覚めが快適ならば、意欲もわいてきます。笑いは、心にも体にも良いリズムをもたらせてくれます。まさに、「笑う門には福来る」です。
2007.01.24
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納豆はどうでしたか?昨日も知り合いの大学教授の女性が「冷蔵庫に10個あるのよ」と言っていたが、皆さんテレビに結構踊らされているようですね。ある意味では、それだけ関心が高いとも言えます。私は年末年始にかけて3日断食を行いましたが、1週間目は500グラム減っていただけだが、昨日(3週間目)温泉で測ったら2.5キロも減っていました。伸びきっていた胃が元に戻って、自然と知らぬ間に小食になったのでしょうね。どうです、皆さんもやってみられては。一切お金もかからず、いや食費代まで浮きますね。◆写真は福寿草(正月にでているのは温室モノです)
2007.01.23
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幸せというものは、必ずしも高い地位や権力、お金などを得たり、その象徴としての大きな屋敷に住んだりすることではなく、顧みて悔いのない生活、確かな手触りをもった人生など、自分をよりよく発揮できたときに味わうものだと思います。だから、60億人の人がいれば、60億通りの幸せの形があるはずです。それを自分自身が納得して心から受け入れたとき、あなたは安らかで幸せな人生を送れるはずです。人間は意思の動物で、結局は「自分がなろうとした人間」にしかなりえないと思います。あなたも、筋書きのない、しかもやり直しのきかない人生のドラマを、ハッピー・エンドにするためのシナリオを作り、どう演じるかを真剣に考えてみてください。1.どういう人間になりたいのか2.どういう生活をしたいのか3.どういう仕事をしたいのかこの三点を自分なりに考え、後は「この道しかない」と自分自信が信じ、大きな自分なりの花を咲かせるまで執念深く続けられるか否かだけです。それにはまず、自分に備わっているもの、与えられているものを見いだして、それを最大限に発揮できる場を見つけることです。それが、あなたの居場所です。そして、そのことが好きで好きでたまらないと思えるか否かです。好きであれば苦労もまた楽しいと思え、執念深く続けていくための活力になるはずです。自分の好きなこと、自分の特性に合っていると思えること、時には今目の前に与えられていること、何でもいいから何か一つのことに全身全霊を打ち込み、自らの命をアカアカと燃やすことです。すると、内面から光り輝くものが出てくるはずです。そうやって、自分にしかできない生き方、人の真似のできない生き方を貫き通すことです。それが、SMAPではないが『世界に一つだけの花』を咲かせるということです。
2007.01.23
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人生は、筋書きのないドラマだとよく言われます。そのドラマにおける主役は、どんな役であろうと自分自身です。その主役を、いかによりよく演じきるかということが、与えられた自分の人生をよりよく生きることにつながります。ドラマには、殿様の役もあれば草履取りの役もあります。人生のドラマにおいても、それぞれの職業や地位などは実にさまざまだが、それは芝居の役割のようなものであって、重い役とか軽い役という区別はありません。人は顔も気性も違い、好みも違い、素質や能力も違います。人生の役割が違って当たり前です。「この世に雑用という用はなく、それを雑にしたときに雑用になる」と松下幸之助さんは言われたが、人生のドラマで役に軽重が生じるとすれば、その役を自分自身が納得して受け入れ、真剣に演じているか否かによるだけだと思います。大事なことは、自分にとってのはまり役を見つけ、その役の心をよくつかんで真剣に演じきることです。その時、その役者は人生のドラマにおける主人公となります。◆ジェームス三木さんは、ドラマの主人公には共通する二つの条件があるといいます。一つは、ドラマはもめ事から成り立っているので、トラブルを解決する能力がない者は主人公にはなれません。実社会でも同じです。私生活や仕事でも、うまくいっている間は能力や人間性はあまり問題にされないが、トラブルや失敗したときにどう対応し解決していくかで、その人の能力や人間性などの本性が試されます。そこで、生きる力を磨く必要があります。一つは、ドラマの主人公は、個性を生かしているからこそ魅力的に見えます。独自の人間観を持っていない者は、ドラマの主人公にはなれません。これも、実社会でも全く同じです。その他の人と同じなら、あなたがそこに存在しなければならない必要性はなく、居場所を確保することは難しいと言えます。私たちには、持って生まれた個性や天分があります。残念ながら、それを変えることはできません。他人の役割を羨ましがり、自分にないものを欲しがって嘆いたり、無理にそれを得ようとして無益な努力を費やしたりするよりも、自分ならではの特徴を見つけ出し、自分ならではの役割に全力投球することが大切なのです。とくに、これからの差別化の時代には、自分にしかできない能力、自分が生まれてきた役割は何かを見極めて、それを磨いていくことが大切です。この世には、さまざまな花が咲き、草木が萌え、鳥や虫が舞うから豊かな自然がうまれます。人もまたさまざまだからこそ、豊かな働きを生み出していきます。豊かな進んだ社会とは、画一的な鋳型にはめ込まれたような人間がひしめいている社会ではないはずです。多様性を温かく包み込み、さまざまパーソナリティーが、それぞれの持ち味を生かして百花繚乱と咲き乱れることのできる社会であると思います。そして、それらがお互いを傷つけたりすることなしに共存でき、どのような人間にでも存在理由が認められ、自らの命をアカアカと燃やすことのできる社会です。とかく私たちは、「役に立つか、役に立たないか」(もっと端的に言えば「お金が有るか無いか」)という一律的な尺度で人の価値を測りがちだが、人はそれぞれに深い使命を持って生まれてきていると信じることです。それが、誰もが幸せになる唯一の道だと思います。◆以下 次回に続く
2007.01.22
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以前にTV等に踊らされる愚を指摘しましたが、やっぱりねつ造でしたね。それで「騙された」という声が出ているが、そんなものに騙されて踊った自分の不明を恥じるべきで、声を大にして言うほうが恥ずかしいと思う。今までにも、ココア・黒酢・ブルーベリー・赤ワイン・青魚・海洋深海水・にがり・寒天など様々な食品が取り上げられたが、その後どうなったのでしょうね?納豆に限らず、食品に微量に含まれる特定要素だけで何事にも効果があるはずがないことは子供にでも分かるはずです。何事も、「当たり前のことを、ごく当たり前に、執念深く実践し続ける」しかありません。ダイエットでいえば、インとアウトのバランスの問題で、インである食べる量を減らし、アウトである運動量を増やせば自ずと減ります。それ以外の道はありません。食べ歩き番組やお店紹介にしても同じで、味なんて半分以上は「誰と、どんな話」をして食べたかで決まります。昔よく行っていた寿司屋も雑誌に載った途端にエセグルメ属が食い散らし、値段だけが5割近く高くなっていて苦い思いをし、二度と行かなくなりました。焼酎の魔王にしても、私がよく行く安い飲み屋(毎回2千円ですむ)のカウンター席で普通に出されていました。人の意見に惑わされることなく、もっと自分の責任で考え行動して欲しいモノです。◆写真はホトケノザ(例年より1ヶ月は早いですね)
2007.01.21
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この頃はアレルギー疾患が増えているが、小学校六年生のA子もアトピー性皮膚炎に悩んでいました。彼女は間食が多く、就寝時間も遅い、両親は、そのことをいつも厳しく注意していたが、叱れば叱るほど隠れて買ったり、友達から貰ったりして食べていました。相談を受けた心療内科の先生は、両親と同じアドバイスを繰り返したところで結果は見えているので一工夫する必要性を感じました。本人の生活だけでなく、両親と妹の生活の様子も詳しく尋ねたところ、家族皆がそれぞれに生活改善を望んでいることがありました。お父さんは、胃潰瘍の経歴があるのに酒を飲み過ぎること。お母さんは、友達との長電話、しかも遠距離電話のために電話代が数万円かかること。小学校四年生の妹は、テレビマンの見過ぎで宿題を忘れることが度々あること。そこで、家族皆で話し合って、「夏休みの間、長女は禁隠れ間食を、お父さんは禁酒を、お母さんは禁長電話を、妹は禁テレビを実行すること」と取り決めました。疑問半分で始めたところ効果は抜群、翌日から長女の食生活は改善され、菓子類を食べなくなって皮膚炎も快方に向かいました。要は、家族皆で力を合わせて取り組むことです。
2007.01.21
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なぎらさんが次のようなことを書いてみえました。近所の酒屋で店主とたわいもない話で盛り上がっていると、一人の紳士が現れて、「ウインドーに飾ってあるお酒を売っていただきたい」と声をかけた。幻の日本酒と誉れの高い例の酒だが、店主は「あれは売り物ではないんですよ。あのお酒より、中にはずっといいお酒がありますから、どうぞ見ていって下さい」と申し訳なさそうに言うと、「そこを何とか売っていただけないでしょうか。お金はいくらでもだしますから」と客は嘆願する。その人は銀座で商売をやっていて、その酒を店に是非出したいという。それを置いておけば店に箔が付くし、「銀座でしたら、1杯2万円でも3万円でも売れるという。その言葉にカチンと来た店主は、「いくら高く売れても、この酒はそんな値段を出す酒ではありませんから」と断り、客が帰った後、店主は「こんな酒を店頭に出した私がバカだった」と、その封を開けて飲んでしまったが、確かにそんなに旨い酒ではなかった・・・。テレビや雑誌でチョット話題になると、近頃の納豆ではないがいつの間にかなんと言うこともない酒や食品、店が持て囃されることになる。テレビに何時もでている傲慢な占い師を持ち上げる取り巻き、見るだけで反吐がでるようで直ぐに消してしまう。世の中には自分の物差しや選択眼がないために、すぐに人の意見に左右される人たちが多いことは、選挙の度に吹く風も同じである。「皆で渡れば恐くない」的な付和雷同的行動は、いじめにも現れています。この世の中で最も大切なのは選択眼、鑑識眼だと思います。その証拠に、利休は茶器は作れなかったが、彼が選んだ茶器は未だに揺るぎない価値を持っています。芸術家も、何点か描いた絵の中から選びに選んで、自分が納得した絵は展覧会でも評判が良いが、「まあいいか」と選んだ絵は評判がもう一つだと言います。創造性にしてもそうで、幾つかでたアイデアや課題などの選択肢の中からどれを選ぶかが大切で、何を選択したかで成果が決まると言います。何かを選択するとき、確たる根拠なしに選ぶのではなく、「なぜ」それを選ぶのかという自分なりの価値観の基準をしっかりと持って欲しいと思います。それでないと、選んだことに責任を持てないと思います。プロというのは、そんな責任を取れる人だと思います。企業で多発する問題にしても、その辺りに根元的な問題があるように思います。どうか、自分なりのしっかりとした価値観に基づいて、何を選び、何を捨てるかを自分の目で見極めて生きていって欲しいと思います。
2007.01.20
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小さな八百屋の「通用口」と書いたドアが開いて、黒いスーツ姿の女性が二人出てきた。「晩酌をして、お風呂に入って・・・」「なかなか出てこないんで、息子さんがのぞいたんですってね」二人の会話の断片から、店の主人が亡くなったらしい。初老の男が出てきて話に加わる。「復員してから死に物狂いで働いてさ。汗と涙の結晶がこれだけさ。店を閉めて、一杯やって風呂につかって。こんなものかね、人の一生なんて」「まあ、ぜいたく言ったらきりがないけど、時々イヤになるわねえ」「でも、ぜいたくいえばきりがない。同じようなものさ、誰だって。三度のご飯が食べられりゃ、それでいいんじゃないの。出世とか肩書なんて、肩に止まった枯れ葉みたいなもんだ。次の風がひと吹きすりゃ、どこかに飛んでいってしまう・・・」人の幸せの条件はそれぞれであり、「これさえあったら自分は幸せだ」という条件は人それぞれに、またその時々の置かれた状況によって違います。例えば、病床にある人は健康を、生活に不安のある人は財産を、健康も財産もある人は地位や権力を、また子宝や配偶者に恵まれるなどと十人十色だと思います。幸せとは、辞書を見ると『心が満ち足りていること』とあります。心が満ち足りるには豊かさが必要だが、豊かさには、収入や資産、地位など目に見える豊かさと、精神や人と人との関係、時間など目に見えない豊かさがあります。戦後の私たちは、目に見える豊かさを求めて一生懸命に身を粉にして働いてきたが、目に見える外的な豊かさには上には上があり、絶えず『もっと、もっと』と求めてきりがなく、永遠に心が満ち足りることがありません。その挙げ句がバブルです。だから、本当に心を満ち足りたりた状態にするには、精神的、内面的なものの豊かさ、つまり、心豊かに、ゆったりとした時間を過ごすことが大切だと思います。そんななかでも、最も重要なものは心の安らぎではないでしょうか?心が安らかでなければ、どれだけ健康であっても、どれだけ財産があっても幸せではありません。逆に、健康が衰えて、いつも床に伏していなければならないとしても、心が安らかで、心さえ豊かであれば幸せな気分でいられます。心の安らぎがあれば、どんな状態であろうとも幸せというものを自分で見つけていくことができるはずです。
2007.01.20
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嵯峨野の道端で農家の方が出している野菜の直売所に、大分前から菜の花がでています。時々買ってきておひたしにすると、心なしか春の息吹が感じられ心もウキウキとしてきます。「今年は早いですね」と挨拶をすると、農家の方は「化けていますのや」と言いました。菜の花ばたけに 入り日うすれ 見わたす山のは かすみ深し 春風そよ吹く 空を見れば 夕月かかりて においあわし
2007.01.19
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私たちは、自分の心の中に赤鬼(貪欲)青鬼(嫉妬)、黄鬼(愚痴)という三匹の鬼を飼っています。この鬼を心から追い出すには、不如意(思うようにならないこと)を楽しむ心を持つことです。日本の伝統的な思想に、千利休や松尾芭蕉に代表される「わび・さび」があります。これは、不如意な時に、そのことを苦痛と感じないで、「あるがまま」を「そのまま」に肯定して、焦らず、イライラせず、乗り越えていく心であると聞きました。私たちは、健康や家庭生活、仕事においても、いつも一番いい状態でいたいと願います。でも現実は、一生ずっといい状態でいけることはなく、突然、不如意なことが起きます。そういう時に、どういうふうに心を整理して強く生きていけるかです。過去の栄光や良い時と比べたり、他人を基準にして考えたりすると苦しくなります。そんな時、生きているだけで楽しいという知足の精神というか、「月も雲間のなきは嫌にて候」の精神で生きていけば、人生はいつも楽しいはずです。そうは言っても、それができなくて苦しむのが人間です。人が自分よりも先に昇進した、病気になって人生の貴重な時間を無駄にした、などと焦りがちです。しかし、高層ビルで先に来たエレベーターに乗った人が、必ずしも最上階に早く着くとは限りません。人生の長いマラソンでも同じです。あなたにとって人生の一大事と感じられることも、もし自分が明日死んだら何ほどのことがあるかを想像してみてください。生きていること、それだけで十分と思えてくるはずです。私たちが普段意識しないで、空気のように当たり前に感じていること、例えば、・体のどこそこが痛いということもなく健康でいられること・家族が毎日元気に顔を合わせて食卓を囲めること・多少の不満はあるにしても月末にはきちんとお金が入ってくることなどは、実は「有り難い」ことで、これが当たり前でなくなったときは大変です。例えば、肩こりがしたり腰が痛むのを意識するだけでも大変な苦痛です。家族の誰かが病気やケガをしたら心配でしょうがないはずです。仕事がなく、毎月のお金をどうしようと思い始めたら、心配で寝てもいられなくなります。毎日をイライラ、クヨクヨせずに過ごすには、当たり前に生活できる素晴らしさに気付き、当たり前の「今」に感謝する生き方を貫くことです。お辞儀婆さんと呼ばれていたご婦人は、「どんなものにも存在する理由があり、何かの役に立っているはずです。路傍の小石にも、夜空に輝く星にだって。私たちがその理由を知らないだけです。だから自然と頭が下がってしまうんです」と言って、何にでもお辞儀をして過ごし、90歳で大往生を遂げました。自分が今、こうして生きているというのは、それだけで十分に「有り難い」ことです。そう思うところからスタートすると、大抵のものに感謝することができるはずです。そんな感謝の気持ちが心の中にあれば、どんな不如意も乗り切れるはずです。極論を言うと、病気になっても、不運になっても、感謝することです。「冗談じゃない」、と思われるかもしれないが、「このままではダメになるよ。生き方を変えなさい」という啓示だと思えば感謝できるはずです。「おかげさま」と「ありがとう」という報恩感謝の気持ちで生きるなら、争うこともなく、何事にも満足して生きていけます。
2007.01.19
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八坂の塔の手前に八坂庚申堂があるが、門の上にも3猿(見ざる・言わざる・聞かざる)がのっていす。お守りもくくり猿で面白いですよ。昨日は旅行者が舞子に変身した変身舞子もいたが、東京から来た編集者が舞子にあったと感激していました。昨日は、その編集者たちに原稿を渡しがてら八坂の塔前の料理屋でスッポンを食べたせいか、今日も肌がツルツルした感じです。身体も温まるし一度如何ですか?ホッとしたせいか、今日の予定をすっかり失念してしまい迷惑をかけてしまいました。まあ歳のせいで痴呆症が出始めたのですかね?
2007.01.18
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この頃では、「ありがとう」「すみません」という言葉を聞くことが少なくなったが、どんな時でも「ありがとう」の一言を言うだけで、自分も周りの人も明るくなります。「エクスキューズ・ミー」「アイム・ソーリー」「プリーズ」「パードン」「サンキュー」欧米では、この五つの言葉を「言葉の王様」と言って、子供の頃から厳しく躾ます。「勉強、勉強」と言うよりも、子供の頃から、この五つの言葉の王様が自然と口に出るように躾ることが、末永く誰からも愛される人に育てるコツです。人と人とが付き合っていくというのは、言ってみれば「心と心のおすそ分け」です。心のおすそ分けとは、突き詰めれば、心から溢れる感謝の言葉だと思います。このおすそ分けの数が多ければ多いほど、私たちはお互いに幸せになれます。「ありがとう」「すみません」「はい」の三つが、この世を楽しく生きていく原点です。「心のおすそ分けは感謝の言葉なのだ」と考えて、言葉の衣替えをしてみてはどうですか?どんな簡単な会話でも、その前後に相手の名前を呼ぶのも効果的です。自分の名前を呼ばれて悪い気がする人はいません。「○○さん、お元気ですか」と話しかければ、相手が自分を覚えていてくれた、自分に関心を持ってくれた、自分を認めてくれたと思って、自然と笑顔が浮かび、仲良くなれるから不思議です。また、相手の話を黙って聞いてあげるのも効果的です。人は自分のことに最も関心があるので、話を聞いてくれる人に好意を持ちます。親や先生、上司、セールスマンにとって大切なことは、話すことではなく実は聞くことなのです。さらに、相手の関心事を話題にしてみましょう。Aさんはとりわけお酒が好きで、しばしば酔っ払って帰るのだが、それでいて奥さんとたいへん仲がいいのです。その秘訣はと聞いてみると、熱烈な阪神ファンの奥さんに、どんなに遅く帰っても、「今日は阪神どうだった」と一声かかける。すると、会話が10分ほど続く。ただそれだけだそうです。縁を結ぶきっかけは、誰でも、その気になれば今日からでも実行できる簡単なことです。
2007.01.18
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あの日 高校生の次女の弁当を作っていた。その娘も今は30才。年月の経つのは早いものです。神戸に3社クライアントを持っていた私は、翌日カセットフーと大判焼きを携えて神戸の街に入り、そのもの凄さに圧倒されたものです。自然の驚異の前に人間の無力さを思い知らされもしました。思い起こせば、あれを境にモノに対する執着心がなくなったように思います。なんでもない なんでもない なんでもないなんでもないことが こんなにうれしい北海道斜里町の鈴木章子さんが、肺癌で亡くなられる前に北国新聞に投書された詩です。 寝起きする家がある スイッチをひねれば電気がつく蛇口をひねれば水が出る コックをひねればガスが出る食卓には食べるのもが並んでいる 元気に挨拶を交わす家族が揃っている乗り物で自由に何処へでも行ける お店に行けば何でも買える・・・何でもないことです。でも、そんななんでもないことの幸せを、阪神大震災は教えてくれました。何でもないことの一つひとつに感謝し、何時までもそうあるように願いたいものです。
2007.01.17
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縁を生かす道は、まず人と仲良くすることから始まります。それには、まず自分から挨拶をすることです。出会った時に一声掛ける挨拶は相手を無視していないことの証です。京都の街を歩いていると、「こんにちは、どちらまで」「へえ、そこまで」などと、意味のない会話が飛び交っているのを耳にするが、これは狭い地域で楽しく生きるための智慧だと思います。知り合いの短歌の先生は、「わあ、お会いできて嬉しいわ」といつも明るい声で仰います。その声を聞いた途端に、こちらも心の中が明るくなり、ほのぼのとしてきます。見知らぬ人と隣り合わせになったら、座った瞬間に話しかけることです。例えば、新幹線や結婚式、パーティーなどで初めての人と同席した時には、目を合わせた瞬間に、「ご出張ですか」「新郎のお友達ですか」「私、こういうものですが」と声をかけてみましょう。きっとそこから楽しい会話が始まるはずです。ただし、座って一〇秒以内に声をかけるのがコツで、それを過ぎると話しかける切っ掛けを失ってしまいます。永六輔さんのあだ名は「電報ハガキ」だそうです。短い文章だが、人に会ったら、直ぐにハガキを書いて出すのがそうです。誰でも、手紙やハガキを受け取るのを嬉しく心ときめくものだが、自分から書く人は少ないものです。永さんのように、ハガキを書く癖を身につければ、きっとあなたは印象的な人になるはずです。ものを頼んだり、用事を頼んでは、「ありがとう」を繰り返すのも簡単な方法です。たった一言の「ありがとう」が、人の心を晴れやかにします。奥さんや子供、会社の人に、「新聞取って」「お茶入れて」「コピーして」などと簡単なことを頼んでは、「ありがとう」を繰り返せば、会話不足も解消されます。言われた本人も楽しくなって、周りに善意を施し、安らぎの輪が広がっていきます。喫茶店や食堂、飲み屋でも、水やお茶を注いでくれた時、料理を出してくれた時、会計の時などに、一言「ありがとう」と言ってみてください。きっと相手の顔が輝いて、応対が良くなるはずです。それが、ギスギスしがちな今の世を楽しく暮らすコツです。どこに勤めでも、すぐに辞めさせられてしまう少し知恵遅れの子を見かねたお坊さんが、「なあお前、何の役にも立たんでいいから、仕事場に戻って『ありがとうございます』と言って頭を下げてみい。皆が喜んでくれるはずや。そうしたら、必ず自分も光るようになるはずや」と諭しました。その子は仕事場に戻ると、言われた通り、いきなり大きな声で「ありがとうございます」と言ったが、そう簡単に通じるはずがありません。「何を突然言い出すんや、こいつは」と、周りの人たちは冷たい反応でした。しかし、そんな周囲の反応も気にかけず、阿呆の一徹で朝と退社時には玄関に立って「ありがとうございます」を続けていると、やがて社長も一緒になって「ありがとうございます」と、皆を送り迎えし始めました。そうするうちに社員にも一人二人と浸透していき、社内が明るくなっていきました。喜んだ社長は、「お前は会社の宝や。その『ありがとう』だけでいいから、心配せずに働けよ。お前を一生食べさせてやるからな」と約束したと言うことです。
2007.01.17
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「自分が何をしたいのかよく分からない。でも、このままの生き方には不満がある」という小さな不満を抱えて、ワクワクドキドキすることもなく何となく毎日を過ごしている若者は多いが、彼らに共通するのは、自分の人生の目的が決まっていないことです。あるタクシーの運転手が、真夜中に行き先も告げずに、「道なりに真っ直ぐ」と言われて一時間近くも走らされたときは、もう不安で、不安で疲れましたと言っていたが、ゴールや目的が分からないと不安になるのが人間です。「世の中は、喰うて稼いで、寝て起きて、さてその後は死ぬばかりぞ」という戯れ歌ではないが、犬猫のように人生に目的も持たずに、その日その日をなんとなく過ごしていても生きていくことはできます。だが、人間というのは厄介な生き物で、人生に目的がないと、なんとなく不安で頼りなく、生きていく張りがなくなりがちです。時には、無意識のうちに「死んだ方が楽だ」とばかりに自殺をしたりします。そんな人が年間三万人以上もいるし、二〇代後半の人の死亡原因の一位で三割を占めています。◆だが、ヨットで太平洋を単独横断するとき、風や潮流に流されて一時的にコースを外れることがあっても、ゴールが明確で自ら進路が修正できれば安心して航海できます。人生の旅路も同じです。自分が「何のために生きるのか」という目的さえ明確に持っていったら、途中でいろんな事情から一時的に進路を外れて遠回りしたとしても、軌道修正して最後には幸せな一生を終えることができるはずです。村山由佳さんなどは、営業職を皮切りに転職を重ね、結婚を機に子供の頃からの作家志望を思い出して公募雑誌を買って応募を続け、三九才で直木賞を受賞しました。「人生に喜びを見いだすかどうかは、その身の上話(境遇)にあるのではなく、心の持ち方(価値観)で決まる」とモンテーニュも言っているように、人間が他の動物と違うのは、どんな境遇にあろうとも、自分自身の夢や価値観の持ち方と行動によって、自分なりに人生を意義あるものへと転換させ、心輝かせて生きることができることです。人生に張りを持たせるためには、まず「自分は、どのような花をこの世に咲かせるために生まれてきたのか」という自分なりの意味づけをし、その実現に向かって「どのような価値観を大切にして対応したらいいのか」を心静かに自問自答してみることです。それさえ明確になれば、やるべきことも自ずと見えてきて、生き甲斐や働き甲斐を何に求めるかも明らかになり、ワクワクドキドキしながら幸せな毎日を過ごせるはずです。
2007.01.16
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そんなふうに嘆くこともなく、いつまでもワクワクドキドキしながら生きたかったら、自分のたった一回限りの晴れ舞台に於いて、自分は何に打ち込んだらいいか、つまり、『自分の一生をかけて悔いのないものとは何か』ということを、若いうちに真剣に考えておくことだと思います。(私の自戒を込めて)そのとき、お金、子供、仕事(音楽、研究開発、医者など職種を含めて)、趣味、ボランティアなどといった具体的な生き甲斐の対象を見つけることも大切だが、それはあくまでも生き甲斐を感じるための一つの手段にしか過ぎません。その具体的なことを通して、どのような生き甲斐感(精神的に)を得たいと思っているのか、つまり真の目的をまず掘り下げてみることが大切だと思います。そうしないと、生き甲斐のある幸せな生活を送るためだという本来の目的を忘れてしまって、たとえば仕事一筋なのはいいが、その裏で家庭は崩壊し、鬱病になって自殺したり病気になったりしがちです。それでは、何のために働いているのかわかりません。ですから、君たちのような若い人たちには、自分は『何のために生まれてきたのか』という本質的な問いかけをまず大切にして欲しいと思います。「求める心は淋しい。捧げる心は豊かである」と、無一物と捧げる生活を志して京都山科で共同生活をしている一燈園の西田天香さんは、「生きるとは、ただ単に生き長らえることではなく、『何のためにこの命をかけるか、何のために自分の死をかけるか』ということである。つまり、天が私に期待しているものは何かという、その使命を知り、それを実践し続けることが生きるということである。生きる目標をハッキリ持つことが命を知ると言うことだ。その命が、自己中心になると苦しくなる」とは言われました。「何のために生まれてきたのか、人はそれを考えるために生まれてきたのだと思う」と、宮沢賢治も言ったが、人生とは自分は何者で、どうすれば幸せになれるのか、充足感をもてるのか、それを見つけ出す終わりなき自己発見の旅でもあろうと思います。「人生って、死ぬまでの時間をどう過ごすかってことなのね。そのために何かに夢中になる。何もしないでじっと死ぬのを待っているのって、ちょっと耐えられないよね。でも、何かをしていれば、その間に命が燃え尽きる。問題は何で燃え尽きるか。自分に適したものは何か。それが人の使命でしょ。その与えられた目的に夢中になっていれば、死ぬなんて恐くない」と、歌舞伎役者の坂東玉三郎さんも語ってみえました。理想的な人生とは、坂東さんではないが、死ぬまでの一瞬一瞬を夢中になって燃焼させられるものを持ち、毎日ワクワクドキドキしながら生きていくことだと思います。結局、一生夢中になれて自分の命を燃焼し尽くして悔いのないものとは何か、つまり「自分の人生には生きる価値がある」と自ら思える最大のものとは何かを突き止め、後は、蓮如が「幸せとは、実際に財産や名誉を獲得することではなく、実現を夢見ることにある」言ったように、自己実現を夢みて楽しく歩き続ければいいのではないでしょうか?
2007.01.15
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三十三間堂:通し矢は、江戸時代初期(慶長年間)から三十三間堂の120メートル(軒の端から端まで118メートを通す)の距離で行われていたが、現在は、半分の60メートルの距離で行われています。振り袖の新成人や大学の弓道部員が、弓の引き初め行事として行われています。この日は、お堂が無料開放されるので一度如何ですか?
2007.01.14
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子供の前で平気で喧嘩をする人や、夫の悪口を子供にさんざんに言う妻がいます。子供がどういう気持ちで母親の言葉を聞いているか、父親を誤解してどんな感情を抱くようになるかを考えることもないようです。こういう感情に流されやすい妻は、周りへの感謝、目に見えない大きな存在への感謝の念もなく、不満ばかり絶えず抱いています。自分の望み通りにはいかない、自己主張が通らないから不満でいっぱいで、不満=不幸だと思い込んでいます。そして、すべてを周りの人のせいにします。このような、不満だから不幸だという考え方は、現代の日本人に多いような気がします。自分の思い通りにいかないからと、子供を道連れに無理心中する人もいます。不満が苦悩になり、自分は日本一不幸だと思い込み、このままでは不幸なので死にますと勝手に決め込んでいるが、それは不幸なのではなく、自分の不満に耐えられないだけのことです。自分の思う通りにいかないからと、母親に暴力を振るう少年の理屈と非常によく似ています。見方によっては、親のそんな感情が子供に反映されただけにすぎません。不満と不幸を一つにしてしまった親を持った子供は、全く災難なことだと思います。
2007.01.14
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今年は例年よりも2ヶ月も早くタンポポが咲き始めました。坂村真民さんの「タンポポ」の詩をどうぞ踏みにじられても食いちぎられても死にもしない枯れもしないその根強さそしてつねに太陽に向かって咲くその明るさわたしはそれをわたしの魂とする
2007.01.13
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いつもニコニコと楽しそうにしている人に、その秘訣を聞いたところ、「涙を一杯こぼしたからですよ」という答が返ってきました。あの涙をこぼした経験に比べれば、今の状況などは何ともないというわけです。「一日一生日々元旦」という言葉のように、今日が人生の最初の日と希望を持ち、今日を人生の最後の日と思って努力する。そうやって、降っても照っても、今日を最高の一日としたいものです。心を明るく楽しく保つための、朝、昼、夜、それぞれの簡単なコツを伝授します。朝、起きたら、ヒゲを剃ったり化粧をしたりする前に、鏡に向かってニッコリ笑って、「今日一日、この笑顔を崩すまいぞ」と自分に誓いましょう。笑顔になると、内面からイキイキとした活力が湧いてきて、顔に艶も出てきます。若さを保つ秘訣は、外面の化粧ではなく、心の化粧です。こうして笑顔を絶やさない努力をしていれば、良いことが向こうからすり寄ってくるはずです。日中は、どんなことがあっても良い面だけを見て、ニコニコと笑って過ごしましょう。例えば、上司に叱られても、落ち込んだり恨んだりするのではなく、自分が成長するために励ましてくれたのだと思えば、やる気もわいてくるはずです。お客さまから苦情をもらっても、シュンとしてしまうのではなく、まず「すみません」とお客さまに心から謝罪し、それを機会に改善に取り組ましょう。そうすることで、お客様に信用されるようになった例は数多くあります。どんなに悪く思えることにも、見方を変えれば、プラスになる面がきっとあるはずです。夜には、その日出会った楽しかったこと、嬉しかったことなどを思い出し、日記に書きとめたりしましょう。楽しかったことがどうしてもなければ、「だからよくなる」と一言つけ加えます。一日の終わりをいかに楽しく終わるかは、とても大切なことです。ベッドにまでストレスや暗い気持ちを持ち込んでは、よく眠れるはずがありません。今日一日の中で楽しかったことを思いだし、それを心の中で膨らませてから休むようにしてください。この三つを毎日実践すれば、あなたは一生、楽しく、心豊かに生きていけるはずです。
2007.01.13
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TVで納豆に含まれるイソフラボンにダイエット効果があり、朝晩1パックずつ食べた男女が減量に成功したという眉唾物の放送されたせいで、関西でも納豆が店頭で品切れ状態。関係者からは「納豆だけでダイエットができるわけがない」という戸惑いの声や、普段の2.5倍も売上が増えたチェーン店でも「過去にもテレビ放映後に急激に売れた商品があったが、今回も1週間程度で収束するでしょう」という冷めた見方もあります。ダイエットなら断食でもしたら如何ですか?私の年末年始にかけての断食効果は、10日経っても500グラムありましたよ。断食で胃が正常に戻ったせいで、少し食べるだけでも満腹になりますからね。テレビの無責任な放送も何だが、それに踊らされる人たちもどんあものですかね?近くのお寺に「自分に信念がないと人の意見に踊らされる」とあったが、まさにその通りですね。こんなことならご愛敬だが、このところの切断事件の連鎖は願い下げたいものですね。
2007.01.12
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新羅の学僧元暁は、中国留学の夢を抱いて旅に出たある夜、山中の洞窟に泊まりました。夜中に喉が渇いて目を覚ますと、入口に月を映した美しい清水があるのが目に入ったので、これ幸いと一気に飲み干したところ、まさに甘露の水でした。ところが、翌朝になって清水を探すと、それはサレコウベにたまった汚水だった。その時、元暁は、「あらゆるものは己の心の影に過ぎぬ」と悟り、故郷へと帰っていきました。この世に初めから美しいものや楽しいことがあるのではなく、その時々の自分の心が美しいと感じ、楽しいと感じるだけなのです。同様に、初めから辛いことや悲しいこと、苦しいことがあるのではありません。すべて、自分の心の表れです。もし、この世が愚劣にしか見えなかったり、辛いことばかりに思えたりするなら、それは自分の心が愚劣だったり、マイナス思考ばかりしている結果にすぎません。自分の心が新鮮で豊かで、前途に希望の光が赤々と輝いていれば、過去にどのようなことがあろうとも、現在がどんなに苦しいものであっても、「すべてはこれからだ」という期待と意気込みで心に張りをもって生きることができるはずです。状況は同じでも、自分の心の持ち方を少し変えるだけで、気持ちは180度違ってきます。何事も悪く考えたり、悪い面ばかりを見たりするのではなく、良い方に考えたり、良い面だけを見るようにしていると、毎日が楽しく、積極的になってきます。良いことばかりも、悪いことばかりも続かないのがこの世の中です。笑って生きても、しかめ面で生きても、一生は一生です。辛いことがあっても、「ああ嬉しい、今日もこうして元気に生きていられる」と思うなら、ニコニコ暮らしていけるはずです。病気に罹ったとき、「痛い」と言えば治るわけではありません。「熱がある」と言って熱が下がるわけでもなく、ますます嫌な気分になるだけです。また、「明日はどうなるだろう」と心配したからといって、明日が良くなるわけでもありません。心配は、周りの人まで知らず知らずのうちに暗くしてしまいます。それが自分に跳ね返ってきて、一層惨めで暗い気持ちになるだけです。この世は、辛いことを探せば辛いことばかり、嫌なことを探せば嫌なことばかりです。でも、嬉しいことを探せば嬉しいことばかり、楽しいことを探せば楽しいことばかりのはずです。
2007.01.12
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今年の年賀状を見ると、もうすぐ定年ですという団塊の世代が多い。皆、退職したら旅や趣味を楽しみたいと書いているが、そんなのは1,2年もすれば飽きるはずで、本当の生き甲斐探しをしてほしいと返事を書いています。団塊世代は680万人、そのうち仕事をしている人は521万人で、その前3年間の世代317万人、その後3年間のせ代が488万人に比べて突出しています。この世代がごっそりと抜けると、企業には良いにつけ悪いにつけ、様々な問題が起きます。「危機感がある」という企業が3割ある一方で、消費増による経済効果も15兆円との試算もあるとかで、いろいろとにぎやかなことです。でも、最も大切なことは、生き甲斐をどう見つけるかということではないでしょうか?生き甲斐は誰も他人が用意してくれないので、今からしっかりと準備をして欲しいと思います。ところで、もう紅梅が咲き始めました。
2007.01.11
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人と人との付き合いには、損得抜きの裸の付き合いと、何か見返りを期待した儀礼的な付き合いがあります。昔の人は、前者を「素交」、後者を「利交」と言っています。「素」の語源は、白い生地という意味です。ですから素交とは、地位や名誉といった、自分のためにするのではない交わり、一人の人間としての自然な付き合いのことです。いわゆる、裸の付き合いのことです。一方、何かを求めるところがある交わりが利交です。出世をしたいために上司におべっかを使ったり、権力者にすり寄ったりすることで、贈収賄はその最たるものです。利交はその人に財産や地位、権力がなくなった途端に破綻してしまいます。よく定年退職した途端に、年賀状も訪れてくる人もいなくなったと嘆く人が多いが、それは素交を心がけてこなかった報いです。権力や地位が高くなればなるほど、財貨を持てば持つほど、人は利交を求めて寄ってくるものです。中国の古書『分選』の中に「絶交論」という項目があり、次のような五つの交わりを諫めています。・勢力のある人と交わる「勢交」・目的達成のために金品を贈って交わっていく「賄交」・語り合うために交わる「談交」・窮乏、同情のために交わる「窮交」・打算的なもので交わる「量交」利益を期待して擦り寄ってくる交わりは、表面的には甘美なものだが、その裏には醜い打算があります。そんな友が何十人、何百人いようとも何にもなりません。何もなくなった時には、蜘蛛の子を散らすように去っていきます。順調な時には遠くから見守っているだけで、逆境になった時にサッと心から手を差し伸べてくれる友が本当の友達です。一人でもいいから、そんな君子の交わりができる友達を持った人は幸せです。私も、二度ばかり人生のどん底に落ちたことがあるが、そんな逆境になっても挫けずに立ち直れたのは、幸いにも真の友がいてくれたからです。誰でも真の友を持ちたいと思うはずだが、それは相手に求めるものではなく、自らが自分自身の深い悲しみを忘れずに、人に優しく接することから生まれるものだと思います。
2007.01.11
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とにかく若い頃は、人生に怖いものはなく、自分の力で何でもできると思いがちです。しかし、人の生涯は、誰と出会ったかで決まります。バブル期に成功したある若い経営者が、「自分は高卒だけれども、人の何倍も一生懸命に努力したから成功した。成功したのは、99%以上が努力で、運は1%もない」と傲慢に言い切ったが、私はそれを聞きながら危険なものを感じました。案の定、バブルの崩壊とともに、誰も親身になって助けてくれる人がいなくて倒産してしまいました。若くして成功すると、チヤホヤされて知らず知らずのうちにいい気になったり、傲慢になったり、感謝を忘れたりして、いつしか人心が離れてしまうものです。この世は、努力だけで成功するのなら簡単です。努力したという原因と、成功したという結果の間には、多くの人さまとの良い縁があったはずです。つまり、因果の中間に「縁」が介在するので、どんな縁に出合ったかで、万華鏡のようにいろんな違った結果が出るのです。因果関係だけでは割り切れないところが、人生の面白いところです。柳生家の家訓に、小才は、縁に出会って、その縁に気づかず。中才は、縁に気づいて、その縁を生かさず。大才は、袖すりあう縁をも生かす。とあるが、私の近くのお寺の掲示板にも、「恩を受けることは多く、恩を知る人は少なし」と書かれていました。私たち凡人は、人に受けた縁や恩は忘れやすいものです。いや、人から受けている恩さえも知らないことが多く、したがって感謝することもありません。だが、大人物で呼ばれる人たちは、人と人との縁の大切さを知り、その縁をどのように活かすかを考えます。これが、長い目で見た成功と失敗の分かれ目になります。本当の成功者は、一つひとつの縁を大切にし、縁に感謝するからこそ、成功できたのだと思います。でも、縁というものは一方的なものではなく、まず自分自身に気力があり、彼といるととにかく楽しい、彼と付き合っているとためになるなどと、相手にも何らかの魅力があって初めて長続きします。だから、常に切磋琢磨して自分を磨き、相手にとって魅力のある人物になり、付き合うに足る奴だと思われなければなりません。若いと自分には魅力など何も無いと思いがちだが、心の若さ、情熱、夢、素朴な心、無心な心、素直さ、ひたむきさ、明るさ、そして責任感、そういうものを持つ人には誰もが心惹かれるものです。
2007.01.10
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皆さんも今日辺りから正月モードも終わり仕事も本番ですかね。昨日からゑべっさんも始まりました。相変わらず暗い話が多い世の中ですが皆様に幸多かれと祈念致します。
2007.01.09
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あなたは、先祖の命のバトンを受け継いで「いま」を生きています。その先祖をたどれば、あなたの両親が2人、そのまた両親が2人ずつで4人・・・、30代遡るだけでも10億7374万1824人。その合計は21億4748万3646人。どの一人が欠けていても、いまのあなたはいなかったわけです。また、人間誰しも、生まれたくて生まれてきた人もいなければ、いくら生きていたいと思っても時が来れば命が尽きる儚い存在です。だからこそ、山本有三著『路傍の石』の一節にも、たった一人しかない自分をたった一度しかない人生を本当に生かされなかったら人間に生まれてきた甲斐がないじゃないか・・・とあるように、たった一回しかない自分の短い人生を、悔いなく明るく楽しくイキイキと生ききらなければ、人間として生まれてきた甲斐がないと思います。「皆の衆、お互いの顔をちょっと見られよ。一つとして同じ顔はない。この世は、このように不揃いに創られておる。不揃いがよいのじゃ・・・。悟りとは、生きていることを真に実感することなのだ。この生きている命の歓びを多くの人に伝える方法としてさまざまな芸術が必要なのだ。それぞれの人が、それぞれのやり方で不揃いに命の輝きを表現すれば、全体として一つの大きな仏の秩序が生まれるはずだ」と一休禅師は諭されたが、人は皆、自分なりの幸せを求めて旅をします。勉強することも、金を儲けることも、恋をすることも、音楽を奏でることも、ボランティアさえ、すべては幸せを感じ、生き甲斐を求めての不揃いな一つの人生の旅姿だと思います。その旅も、「私は、よくこんなことを考えます。もし、生活をもう一度始めから、しかもちゃんと意識してやり直せたらね。すでに費やしてしまった生活はいわば下書きで、もう一つほかに清書があるとしたらとね」とチェーホフ著『三人姉妹』にあるように、やり直しのきかない『たった一回きりの旅』です。そんな最も大切な人生の旅において、「いかに生き、いかに死すべきか」に心を傾けることもなくうかうかと老い、ふと人生を振り返って「自分の人生は何だったのだろう? もうやり無しもできない。生き甲斐を見つけることもできずに人生を終わるのか」と嘆く人は多いものです。◆以下 明日に続く
2007.01.09
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2.自分が誰かの役に立ち、必要とされていると感じるとき人は生き甲斐を感じます。人間にとって最大の不幸は、飢えている、貧困だ、病気や障害があるなどといったことではなく、自分は誰からも必要とされていないと感じること、見捨てられた存在であると感じるときだとマザーテレサは言いました。逆に、ここに君の手を、君の存在を必要とする人がいる、君にいてもらわなくては困るという人が一人でもいれば、生き甲斐を感じることができるのが人間です。スエーデンは世界一の福祉国家として知られているが、なぜかお年寄りの自殺者も一番多い国だということです。当局の人たちは、「福祉施設が整い過ぎて、何もしなくても生活していけるため、生き甲斐を無くしているのはないか」と考えました。そこで、何か仕事があればいいのではないかと考え、南国から蔦をたくさん取り寄せ、老人ホームの人たちに何か作ることを提案しました、やがて椅子とか籠、敷物などを作るようになるにつれて、彼らはイキイキとしてきました。手を動かして物を作る喜びを覚え、やがてバザーをしたり学校に寄付したりし始めました。人のために働くことでやり甲斐が生まれ、自殺する人も少なくなったということです。これは老人福祉だけの問題ではなく、すべての人に当てはまることです。3.自分のしていることが、人のためになっているというと聞こえはいいが、それよりも他の人にそれを認めてもらいたいという気持ちが多かれ少なかれあるものです。したがって、自己満足と他者の評価という両面が揃うとき、やり甲斐はより大きくなります。たとえば、趣味の写真や絵にしても自分一人で満足しているだけではもの足りず、ある程度の腕前になると人に見せたがり、個展などを開きたがるのもその表れだと思います。お年寄りが名誉職に就きたがったり、勲章を欲しがるのも同じようなものだと思います。マズローは、人間の欲求は、第1段階 生理的(食欲、睡眠など生存への最低条件)欲求、第2段階 安全(現在から将来にわたる)の欲求、第3段階 愛情と所属(仲間として受け入れられる)の欲求、第4段階 承認と尊敬(認められ尊敬されたい)の欲求、第5段階 知的達成(知識を理解し利用することで物事を処理し達成する)の欲求、第6段階 審美的欲求(美意識を満たす)、第7段階 自己実現の欲求(自分の特性を生かして自分ならではの花を咲かせる)へと高次元化していくと言ったが、「夢や目標」と「役立ち感」が一致し、一隅を照らす人、つまりその場になくてはならない存在と人から「認められる」とき、人間は一番生き甲斐を感じるものです。それが、究極の自己実現の姿であると思います。結局、真の生き甲斐は、自分の将来を視野に入れて、自己を充実させ頂点を極めようと自主的、能動的に挑戦し努力し続ける過程で感じる「希望」の中にあると思います。
2007.01.08
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全国的に寒波が来ているようでここ嵐山でも時折雪が舞っています。雪の風情もまたいいもので、昨日の金杯は取り損ねたが、今日は雪見酒と行きますか。ところで、人類が8千年ほど前に初めて金と出会ってから、これまでに手にした金は五輪プール何杯分位と思われますか?ツタンカーメンの黄金のマスクや秀吉の純金の茶室、身近な装飾品から金歯まで、随分とあるように思いがちですが何と3杯分の約15万トンということです。人類が魅せられ続ける黄金も意外と少ないものですね。昨日は5万人目を越えましたが、お名前が皇太子様の息女と同じ「愛子」様とは縁起が良いですね。今後ともご愛読賜れば幸いです。京都嵯峨野の夢前案内人
2007.01.07
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掲(ギャ)諦(テイ) 掲諦 波(ハ)羅(ラ)掲諦 波羅僧掲諦 菩(ボウ)提(ジ)薩(ソ)姿(ワ)訶(カ)と般若心経の終わりにあるが、ある葬式の帰り道、前を歩いていた子ども連れの夫婦の会話を聞くともなく聞いていたら、小さな子どもが「薩姿詞って一体何」と聞きました。するとお母さんは、「知らないわよ」と素っ気なく言いました。すると今度は、子どもはお父さんに聞きます。「お経だよ」とお父さんは一言返事をしました。般若心経だけでなく、お経の文句の意味なんて一般の人なら知らないのが普通です。だから、知らなければ「知らない」でいいのだが、答え方が問題だと思います。「お父さんも知らないが、後で一緒に調べてみようか。良いことに気がついたな」などと言ってやれば子どもは満足するはずです。子どもはいろんなことに興味を持って聞くが、このお母さんやお父さんのように、煩そうに「知らない」とか「お経だよ」などといい加減な答え方をしていませんか?そんな姿勢が、子どもの自発的に勉強する気持に水を指しているのです。
2007.01.07
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このブログも遂に延べ5万名の方にお読み頂いたことになります。624日間、1日も休まずに続けてきた結果です。続けることの凄さを感じています。お約束通り5万人目の方にはささやかなプレゼントを差し上げますのでご連絡下さい。積み重ねられないときも、積み重ねなさい。挫けるときも、積み重ねなさい。死にたいと思うときも、積み重ねなさい。どんなことに出会っても、積み重ねることでしか活路は開かれない。積み重ねなければならないときに、積み重ねられないのは、人に感謝することのできない、自分の高ぶりにあるのです。両手のない大石順教尼は、訪ねてくる体の不自由な人たちに向かって、「どんなにわずかであっても、1日、1日、積み重ねなくてはならない」と厳しく諭されました。どんなことを成し遂げるにしても、1つ1つの積み重ねなくしては不可能です。ともすれば、その努力を怠って、自分には運がないとか、自分には能力がない、金がない、暇がない、権限がないなどと、逃げがちになるのが私たち凡人です。毎日1つでも、毎日10分でも、これと思ったことを積み重ねれば道は自ずと開けます。
2007.01.06
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やっていることは大同小異なのに、世の中には何かと悩み多き人と、とにかく鼻歌まじりで極楽とんぼのように呑気に生きている人とがいます。その違いは、どこから生まれるのでしょうか?悩みにくい人の特徴は、何事もプロセスそのものを楽しみ、成果は二の次のようなところがあります。だから、同じ求めるにしても、成果があれば申し分ないが、最終的に求めているものが得られなかったとしても、「求めることを通じて、そのプロセス(過程)で十分にエンジョイしたから」と、それほど不満を感じないようです。ところが、悩み多き人は、責任や義務や我慢の下に苦労したのだから、何らかの見返りがなければ損得勘定が合わないと、その期待が外れると強い不満や落胆がおきます。辻邦生著『西行花伝』の一節に、源重実が佐藤義清(後の西行)に諭す場面があります。「何かをしようとする人は、その目的を達しようとする。大事なのは目的を達することだ。その目的を達したとき、人は初めてほっとし、自分や自分の周囲を見渡す余裕ができる。もはやがつがつしないで済む。おしゃれもしたくなる。おいしい物も食べる気になる。花見にも行ってみようと思う。だが、がつがつしていたら、こうはならない。余裕があったとき初めて、この世を楽しもうという気になる。この楽しもうという心が雅なのだ。だが、目的を達して満足した人が、必ずしも花を楽しみ、雅であるわけにもいかない。目的を達しても、またすぐに次の目的ができる。こうして常に目的に向かって息せき切って走っていて、決して満足することがない。満足するとは留まることだ。自分の居場所に気付くことだ。この世を楽しむには、まず留まることが必要なのだ。矢を射るとき、的に当てることだけを考える人は、目的を追う人だ。だが、矢を射ることそのことが好きな人、当たれば嬉しいが、当たらなくても嬉しい人、そういう人こそが、留まる人、つまり雅である人だ」私たちはとかく事の成就に一喜一憂しがちだが、そんな気持を捨てたとき、緑の山川、花鳥風月のすべてがたまらなく愛おしく懐かしく、この世の花を楽しむ空間が広がってくるはずです。それは、浮世のしがらみから切り離された私たち老年者の特権でもあります。今を楽しむ心、それこそ雅であり、人生の達人になれる道だと思います。残り少ない人生、「今、ここ」しかないと心に決め、事が成るか成らぬかに一喜一憂することなく、そのプロセスを心から楽しんでいきたいものです。
2007.01.06
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今年はどんなお正月でしたか?初詣では何をお願いされましたか?神様にお願いするだけでは何も成就しません。1.お願いしたことを情念まで高める2.それに至る課題を明確にする3.課題をできるだけ細分化する4.細分化した課題毎に目標とする日付を入れる5.今日から一歩を踏み出す6.実現するまで諦めずに毎日実践し続けるこれで貴方の願いは必ず実現します昨日 下鴨神社で蹴鞠始めが行われました。600年代に仏教などとともに中国より伝来し、中大兄皇子と藤原鎌足が蹴鞠をきっかけに親しくなり、大化の改新が起きたと言われています。
2007.01.05
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人跡絶えた山中に隠遁した老人は、初めのころは谷川の水が出て橋が流されてしまったら、村に行って食べ物を得ることができなくなると心配ばかりしていた。ところが、今では、命のある間は食べ物が得られるだろうし、食べ物が尽きたときは命が終わるときだと悟った。そう考えたら、悩むこともなくなり生きるのが楽になった。こんなエピソードが、伴蒿渓著『近世畸人』に出てくるが、私たちは、この老人のように洪水が起きたら、大地震が起きたら、火事になったら、交通事故にあったら、病気になったらなどと、さまざまなことを憶測して心配しがちです。けれども、時には諦めることも大事ではないかと思います。過度の心配や不安はストレスをもたらし、人間をノイローゼにするだけです。こんな昔話があります。四国の私井の信仰を確立した妙好人と呼ばれる人が、仲間とともに京都の浄土宗の本山へ参拝した帰り、大阪から船に乗って播磨灘にさしかかったとき嵐に遭遇した。船は木の葉のように揺れ、人々はオロオロして神仏に必死に加護を祈ったが、妙好人だけは船の底でグッスリと眠っている。仲間たちが、今にも船が転覆しそうだというので、寝ている彼を起こした。すると、彼は平然として、「ここは、まだ娑婆か」言った・・・。彼は、死ねば仏の国に生まれると信じていたので、死んで仏の国に行ければそれでいいし、助かって娑婆に残ったのなら娑婆で一生懸命に努力して生きていけばいいと悟っていたので、「ここは娑婆か」と確認したのだと思います。嵐の船の中で、乗客がいくらジタバタしても何にもなりません。努力すれば助かるのであれば、一生懸命に努力すべきだが、努力が何の役にも立たないところで努力する必要はありません。ましてや、クヨクヨ、イライラは何の役にもたちません。それよりは、任せきってグッスリと眠っている方がいいと思います。世の中のたいていの心配ごとは、心配してもどうにもならないことが多いものです。それならいっそ、彼のように諦めてしまってノンビリとすればいいのです。『あきらめる』という言葉の語源は、「物事の本質を明らかにする」という意味です。「どうにもならないことを、どうにもならない」と諦めるのが、仏教でいう「あきらめ」です。あなたも、もっと潔く諦め、運命の神に任せきって生きてみませんか?
2007.01.05
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本堂から崖の先に突き出ている清水の舞台は、江戸初期の1633年に再建(778年開基)され、直径1メートルもの柱約150本で支えられているが、その柱も後400年ほどで寿命が来ると言われ、それに備えて清水寺では植林を始めています。では、400年先はどんな世の中になっているのでしょうか?政府の人口推計では、現在1億3千万人弱の人口が100年後には4500万人程度までに減ってしまうそうです。明治維新直後に3500万人だった人口が140年で現在まで増えたわけだが、同じようなスピードで元に戻ると考えたらいいわけです。このまままのスピードで減り続ければ、400年先には縄文・弥生時代の30万人レベルになるとか。一方で、政府は経済成長率実質3%程度を掲げているが、その勢いで伸び続ければ経済規模は100年で19倍、400年では13万倍にも拡大することになります。長いスパンでモノを見たとき、人口が100年で約3分の1になるのに、経済が19倍になるという矛盾が見えてきます。一方、世界的に見れば、第3世界では平均4%強の成長が続き、50年後には現在65億人の人口が90億人になると言われています。このまま突き進めば、資源もそこをつき、地球環境もとても耐えられないということは素人でも分かります。そんなことを初夢がてらに夢想してみると、子孫のために「いま」何をすべきかを真剣に考える必要性が見えてきます。それはそれで、日だまりの道端でもうスミレが花を咲かせていました。
2007.01.04
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若い人たちの中には、「自分は、こんな仕事をするために会社に入ったのではない」と感じている人も多いのではないでしょうか? 若い人たちだけではなく、中年になった人たちや定年間近になった人たちも、フッと感じることがあるかもしれません。隣の芝生が青々と綺麗に見えるのは、自分の気持ちが萎えている時です。自分が仕事に燃えていれば、絶対にそんなことはないはずです。隣の芝生が青々と綺麗に見たら、「自分の芝生も人が羨むほど綺麗にしよう」という前向きの発想を持つことが大切です。今の仕事を「嫌いだ」「つまらない」とぼやいたり、困難な仕事を命じられて「自分の手に余ります」と逃げたりしていては、いつまでたっても進歩しないし、仕事も面白くなくなってきます。仕事を楽しいものにするには、とにかく前向きの姿勢を持って、楽しそうなふりをして取り組んでみることです。アメリカの実業家、カーネギーも次のように言っています。「楽しいことを考えれば楽しいものだし、惨めなことを考えれば惨めになる。恐ろしいことを考えれば恐怖にうち震えることになるし、不健康なことを考えれば病気にもなるものだ。失敗するかもしれないと思い込むから失敗するのだ」自分の思った通りになるのが人間の不思議さです。ですから、自分自身に言い聞かせたり、人に話をしたりする時にも、悪い状況をイメージしないように、良いイメージの情報だけを意識することが大切です。例えば、ゴルフ中にキャディーに、「このホールは左に池があるので、左に打ってはいけませんよ」と言われて、つい左に行かないように意識しすぎて、かえってボールが左の方に飛んで行ったという経験はありませんか。こんな場合にはマイナス情報は与えないで、「お客さん、あのやや右前方に見える一本杉の方向を狙って下さい。あの方向がベストです」と言うべきだと、あるプロゴルファーの方が言っていました。ポーツ選手は、試合の前になると最高の状態を一心にイメージして試合に臨むといいます。たちも、いつも良いこと、楽しいことをイメージして、前向きにチャレンジし続けたいものです。うすれば、人生がもっと楽しく、イキイキとしてくるはずです。
2007.01.04
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暮れからの断食中、久しぶりにやって来た息子とじっくりと話し、昨日は化野を一望できる料理屋で酒を飲んで分かれました。息子の成長が嬉しく、断食明け初めての酒というせいもあるが、2合徳利2本でほんとに良い気持ちになりました。息子に贈った言葉は、「一歩を踏み出す勇気を持とう。一歩を踏み出せば新しい何かが始める」でした。大リーグ初挑戦の野茂英雄投手に未だ勝ち星がないとき、ケンタッキーダービーに敗退した武豊騎手が野茂さんを激励に訪れました。「僕だって、(アメリカに)来たから負けたんです。来なくては負けることもできないんです。野茂さんだってここに来て投げたから打たれたんです。投げない人は打たれませんよ」と激励したそうだが、それからの活躍はご存じの通りです。私たちは、ともすると何もしないで、始める前から「これはできない」「そんなこと無理だよ」などと言って、いろんなことを避けて通る傾向があります。でも、動かなければ何も始まらず、何も生まれません。何かに感動したり、いい話を聞いたときもそうです。「感動しました」「大変感銘しました」「いい話を聞きました」などと言うだけで、その後の動きがありません。「感動」とは、「感じたら動く」ことです。動くことによって現実になり、さらに感動の輪が広がります。「何かに感じたら即行動する」ことを心がけたいものです。写真は酒の神様を祀る松尾大社です
2007.01.03
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昔、ある家のお嫁さんが、どうしても姑さんの意に沿うことができないでいました。なにしろ昔のことなので、実家へ帰ることもできず、もう死ぬよりは他に道がないと決心し、どうせ死ぬのなら、檀那寺の和尚さんに話を聞いてもらってから死のうと、お寺に出掛けて一部始終を話しました。すると、和尚さんはこう言いました。「そらもっともや、そら死ぬしか他に道はない。早う家に帰って死になはれ」「そんならそうします」とお嫁さんが山門の出口まで来たところで、和尚さんが声をかけました。「今日死ぬのも、明日死ぬのも同じや。今日一日、鬼婆の言うこと、お前聞かへんか」「そら明日死ぬのややったら、今日一日くらいは辛抱します」彼女は、そう言って帰りました。そして、その日1日、死んだと思ってお姑さんの言う通りに素直に従いました。日が暮れて天井を眺めて寝ていると、どうしても明日死のうという気にもなれないので、「それならもう1日やってみよう」と朝早く起きてタスキがけで働き出しました。翌3日目もそうやって過ごしました。何日かそんな日が過ぎて、やがてお姑さんの気持ちも和やかになってきて、「やれ嫁よ」「お茶でも飲めや」「ダンゴ食え」と嫁をかわいがり出し、とうとう仲直りして仲睦まじい姑と嫁になったということです。「あんたなんか嫌いよ」と言えば「私もあんたなんか嫌いよ」と、「あなたが好きよ」と言えば「私もあなたが好きよ」と、コダマのように返ってくるのが人間関係の不思議さです。相手の心は、自分の心が投影されて映った姿なのです。相手を責めるだけでは、何一つ解決しません。あなたの気持ちを180度変えてみることです。人は、自分の心にないものを感じることはできません。自らの内に善なるものがない者は、人の心の善を感じることはできません。自らの内に偉大さを持たない者は、偉大なものにも無感動です。他人の至らなさ、嫌らしさばかりが目につく人は、自分の心がそうなのかもしれません。自らの内が、豊潤、清雅でなく、人間に対して愛情をもてない人には、人の優しさや良さがわかるはずがなく、人の信望を得ることはできません。自分が変われば相手が変わり、相手が変われば周りが変わります。周りが変われば集団が変わり、集団が変われば世界が変わります。まず、自分が最初の一人になって、自分のできる小さなことから変えていくことが大切ではないでしょうか?
2007.01.03
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