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人間の世界は心を中心に廻っていて、心の持ち方次第で自らの環境や運命までもが様々に変わってきます。例えば、「今日は何処へ行こう」とか「これから何々をしよう」などと思うから身体が動くのであって、そう思わないのに身体が動くことはありません。「学校へ行くのは嫌だ」「勉強は嫌いだ」と思えば、それでお終いで新しい知識との出会いも生まれません。どう思うかは自分の心次第だから、人間の心というものはとても重要です。その心を、仏教では升とか蔵としてとらえています。人間は毎日の生活の中で、様々なことを学び、様々な人に出会い、様々な出来事を経験して、見たり、聞いたり、感じたりしたこと総てを心の蔵に蓄えていきます。そうやって自分の心の蔵に蓄えたもの以上のことを、私たちは認識することはできません。例えば、一人ひとり、ものの見方や考え方も違い、対応の仕方も違うのが普通です。それは、今日までの人生で自分が学び、体験して心の蔵に蓄積してきたものに照らし合わせて判断し、見たり、聞いたり、考えたりしているからです。各人が蓄えているものの質も量も違うわけだから、同じ現象に直面しても違った見方や考え方をして当たり前です。だから、何を蓄えるかが大切です。
2013.01.31
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孔子は「人生の達人と言われる人は、性格が素朴で、正直の上に正義を好み、人と接するときには相手の言葉の意味や声の調子もよく吟味している。そして、相手の顔の表情や色つやから敏感に相手の気持ちをくみ取り、十二分に考えたうえで謙虚に行動するように心掛けている」と言っているが、相田みつおの詩のように、損得、勝ち負けという人間の物差しを捨てて身を清くし、徳性を磨いて、見返りを期待せずにひたすら行い続けることです。すると、法句経第五四番に「華の香は風に逆らいてはいかず。栴檀も多掲羅も末利迦(みな香木の名前)もまた然り。されど良き人の香は風に逆らいつつもいく。良き人の力はすべての方に薫る」とあるように、薫風が吹くはずです。徳性とは心の明るさ・清さ・人を助ける心・人を愛する気持ち・人に尽くす・恩に報いる・正直・勇気・忍耐などの総合したものです。この短い人生を有意義に生きるためには、そういう徳性を磨き、せめて嘘は言わない・人には媚びない・人の陰口は言わないを心掛けることです。それには、普段から、善い物・善い人・真理・善い教え・善い書物・何でも善いもの・勝れているもの・尊いものには、できるだけ積極的に縁を結び、全人格を少しでも磨きたいものです。
2013.01.30
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人のために時間を使うとは、ある意味では陰徳を積むことです。司馬光は「金を子孫に遺しても子孫は必ずしも守らず、書物を子孫に残しても子孫は必ずしも読まず。陰徳を冥々の中に積み、以て子孫の長久の計とせよ」と説き、道元も「人は必ず陰徳を修すべし。隠徳を修すれば、冥加顕益あるなり」と説いています。陰徳を積むというのは、人の知らないところで徳を積むことです。どんな立派なことをしても、周りの人に知られるようにやったり、人を助けるにしてもそれを相手に分かるようにするのでは陰徳とはいえません。善いことをすれば「善いことをした」という執念がつきまとい、悪いことしたら「罪なことをした」という執念がつきまとうのが人間です。「悪いことをしたな」という執念の方は、「これからは、悪いことをしないようにしよう」という方向に向かう可能性があるからまだいい。ところが、良いことをしたときに、「自分は良いことをした」という自己満足を抱くと、これはなかなか厄介です。まず、人に知ってもらいたいと思う顕示欲が起きます。また、「善いことをしてやったのに」と、相手に見返りを求めたり、それがないと不満にも思います。善いことをするときは、「恥ずかしいな」と思いながら人知れずすることです。
2013.01.29
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戦前までは、「恥じを知る」という言葉が生きていました。それは、何よりも名を重んじる武士道からきた言葉で、お金がなくても、出世できなくてもいいから、人から後ろ指をさされることだけは、人間として恥じであり名を汚すことだからしないという考え方です。「武士は食わねど高楊枝(食べる物がなくても、いかにも御馳走を食べたばかりのような顔をして爪楊枝を使う様子)」とか「武士に二言はない(約束を守ることに命を賭ける)」という言葉に、昔の日本人が理想としていた品格のある生き方がうかがえます。ところが戦後は、豊かさを求めた代償として品格のある生き方は忘れ去られてしまいました。連合軍司令官としてやって来たマッカーサーの父親も将軍だったが、その父から日露戦争当時の日本の将軍たちが立派な人物ぞろいなのに感心したという話を聞いていた。ところが、実際に日本の将軍たちに接してみると、父親から聞いたほどのことはない。そこで吉田茂に聞いてみると、「明治の将軍たちは、古典の勉強をしていた。だから、人間として守るべき道を心得ていた、昭和の軍人たちにそれがない」と答えたという。21世紀に日本が立ち直るには、人間の守るべき道=正しい志を持つことであると思います。(退職金が減ると駆け込み退職をした先生や公務員がいましたね)
2013.01.28
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常に自分を目立たせようとしたり、他人の目を気にするようでは、大きな集団を動かすことはできません。それは、心の中に自分のことしかない証拠です。そんな人は、配下を掌握しきって「例え火の中、水の中でも」と飛び込ませるほどの人望を得ることは難しいと思います。大木になるには根を張るのに時間が掛かるように、人に仰がれる人物になるにも時間が掛かります。16世紀中国の『呻吟語』(呂新吾)に、「貧しいとか地位がないということは、恥じたり卑下したりするものではない。恥じたり卑下しなければならないのは、貧しいとか地位がないからといって志がなかったり能力がないことである。年老いたからといって嘆くことはない。嘆くべきことは、年老いて目的もなく漫然と生きることである・・・。上士(優れた人物)は道徳を重んず。中士は功名を重んず。下士は辞章(弁舌)を重んず」とあり、自分の内に満足を持たない者ほど、財産だの地位だの弁舌などといった外物にあこがれるものだとも諭しています。金を使う人、地位を行使する人、頭脳を使う人が、人間ができていなければ、それらを使いこなすことができず、かえって周囲に害悪を垂れ流すことになります。まず、自分を律するものを心の中に持つことです。
2013.01.27
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前記三つが基本的な要素であり、それを支えるのが以下の三つです。4.成長意欲に溢れ、積極的な人生態度を持っている中途半端な人間ほど、自分をよく見せよう、見られようとして鼻持ちならないものです。本当にできた人は、人と競うようなことはしません。謙虚に自分は不完全な存在であると自省して、より完全を目指して積極的に能力を伸ばし、人間性を高め、何らかの価値を創りだしていこうと努力し続けます。そして、志と信念に溢れ、小さなことにも手を抜かず、粘り強く一生懸命に勤めます。5.知的な好奇心に溢れ、無邪気なロマンチスト精神を持っている。興味や好奇心は真実を探すための必須条件、野次馬根性と天真爛漫さが大切。6.言行一致、すなわち言っていることと行動が一致している。人格者と言われる人でも、普段言っていることと行動が一致している人は少ない。何を言うかよりも、背中で引っ張る実践行動こそが大切です。人を納得させる哲学を持つだけでなく、利己心が薄く、言行が一致することで人は信用します。論語にも、「其の身正しければ令せずして行われ、其の身正しいからざれば令すと雖も従わず」とあるが、口先や権力、利益だけでは人は動きません。
2013.01.26
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昔からいろんな人物論があるが、概ね次のような条件が挙げられています。1.正しい志を持っている志の高さが己を自省させ、絶えざる修練を自分に課します。その行いが、人を美しく見せ、人を引きつけ、大きな集団をも動かす原動力となります。2.人のために自分の貴重な時間を惜しげ無く使い、人の役に立つ存在である。「自分はこんなに能力がある、こんなに素晴らしい人間である」といくら言っても、他人がそれを認めてくれなければ何の意味もありません。自分の価値は他人が決定します。では、他人は何によって価値を認めるのかというと、その人の能力を含めた人間性の総体が、他人の役に立つときだと思います。そんな人は、誰とでも気軽に接し、愛想がよく、相手の心を読み取るのも早い。3.人間として一番大切な本質は徳性です。肩書や地位、財産、名声などは、すべてはかなく消えていきます。レッテルがその人を輝かせるのではありません。本質が問題です。人はあるところまで行くと、利得や恐怖、権力だけでは付いてはいきません。人に教えるものもなくなります。それでも人は付いてきます。それは、その人の徳ゆえです。
2013.01.25
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息子に「善い人間になれ」が口癖だった父親は、「善い人間とは、善い業をする、つまり人を生かすこと。悪いことは、人を傷つけ、痛め、殺すことだ。正しいことを行うには強く、人に対しては優しい、そんな人間が善い人間だろう」と言った。仏教でも、「正しいこと」とは自他を活かし、共に喜ぶことであり、「悪いことと」とは自他を殺し、悲しませることだと諭します。でも、実行となるととても難しいことです。儲けや効率だけで世の中を渡ろうとしたり、目先の都合や自分のことだけを考えていては、善い人間にはなれません。善い人間になるには、心の余裕と、人の痛みが分かる必要があります。もっとも、能力が乏しければ仕事の成功は覚束ないし、軽く見るわけにはいきません。また、無能無策の善人というだけや馬鹿正直というだけでは、ものの的確な判断や処理を誤って、自他の損失を招くことにもなりかねません。しかし、人柄を磨くことをないがしろにした能力一点張りは危険を伴います。折角の能力が仇となって、他を傷つけてしまうからです。切れよ、切れよとのみ一心に鍛えた村正は、身を守るという大切な面よりも、相手を殺傷する面に力を入れ過ぎた結果、妖刀といわれ、人から恐れられたが、それと同じです。
2013.01.24
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有名だから、肩書きが立派だからといって、その人が必ずしもホンモノとは限りません。知能や財貨をいくら蓄えても、それだけではホンモノにはなれません。金や地位などは天下の回りもので泡沫に過ぎず、そんなものを見せびらかす顕示欲の強い人は野暮で尊大です。「自分が、自分が」と常に前面に出てくる人・自分は偉いと見せたがる人・生活が派手で華美を好む人・表面的な見栄を重視する人・他人の話や意見を聞かない人・くどくどと説教する人・従わない者には脅し文句を浴びせ恫喝する人・著名な人物や社会的実力者にはへつらい、一般の人には冷たくする人・金銭に執着する人・権威やブランドへの無批判な信仰と依存をする人・・・は、ニセモノで野暮そのものです。IQ=知能指数が高いからと、それだけでは立派な人とはいえません。何かを成し遂げるには頭の良いことも大切だが、その知能を何に使うかが問題です。それを、人のために生かしてこそホンモノになります。より大切なのは、人との関係を保つEQ=感情的知性です。この世には、命よりも大切なもの、金や地位よりも大切なものがあります。ホンモノには品があり、渋いものです。品とは、知性であり、情です。知性を深めて、初めてホンモノになります。
2013.01.23
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難局にぶつかったときに、自分の利益や評判などを気にすることもなく、哲学や志の基に冷静に対応し、実行できる人が人物だと思います。それには、日々素養を積み、人格を磨き極める相当な平素の心がけが必要だが、安岡正篤は「原理は極めて簡単で、第一に人物に学ぶことであり、第二に人物学に伴う実践、すなわち人物修練の根本的条件に怯えず臆せず、勇敢に、そして己を空しうして、あらゆる人生の経験をなめ尽くすこと」と言っています。つまり、私淑する人物を持ち(現在では、これがいないのが問題)、愛読書(原理を尋ねる経学=四書五経;生の尊い記録である史学と自分に共鳴できる優れた一個の人格を通じてなされた子学=孟子や荀子などの諸子百家の考えを書いたもの;集学=個人個人の考えを吐露した詩とか散文、私淑する人物の研究の三つの方面から勉強する)を得て自分を磨き、それを実践することだという。同時に、次のことを心掛けるとよいと言っています。1.どんなに苦しいことにあっても常に心のどこかに喜びをもつ2.何かにつけて感謝感恩の気持ちを持つ3.常に陰徳を志す
2013.01.22
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1962年にD・J・ブーアンスティンは『幻影の時代』で、現実を見ずに幻影を追い求め、英雄は失われ有名人という新しい人物がそれに取って代わられたと指摘しています。今の世の中、真に賢い人間が消えて金のあるものが有名人となり、真に美しいものが見失われてケバケバしいものが幅を利かせ、真に愛し合う人がいなくなり愛欲だけが渦巻いています。そもそも虚しい人生にギリギリの寄る辺があるとすれば、それはやはり「役目」に殉じることかもしれない。しかし、カネはすべての人から「身分相応の役目」という概念を消し去る。カネさえ持っていれば何をしてもよく、カネさえあればできないことはない、カネがあるものが有名人で偉いという発想は、人間がこの世に何かの意味を負わされて存在しているという、根本としての役目を忘れさせてしまうのである。できるだけ自分を偽物から遠ざけ、かろうじて自分を恥じずに済む拠点があるとすれば、金銭から身を遠ざけ、売名を卑しみ、孤高を尊び、殉じることを潔しとする。それしか方法がないのではあるまいか、と日本での生活に絶望してオーストラリアに移住した元売れっ子シナリオライターの林秀彦さんは言っています。
2013.01.21
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経済官僚のエリートが裏金の公金を流用して株式取引をし、これといった仕事もなく週1回程度の出勤で1800万円もの年俸をもらっていた道路公団から天下りした人たちが橋梁工事の談合を繰り返して税金を食い散らかし、公務員が手厚い福利厚生という名目で税金を無駄遣いし、警官や教師の不祥事・・・、社会の良識や志を体現すると思われてきたエリート官僚をはじめ、大企業経営者の不祥事など、何ともやりきれない思いの行いが目につくこの頃です。この間報道された、放射能除染問題でも、その使命感の無さはあきれるばかりです。公私ともに金儲け優先の経済性を最優先してきた戦後社会の中で、「人間は金儲けのためにどう役立つか」という手段としてのみ位置づけられ、仕事を通して社会にどう役立つかとか、仕事を通して人間としてどう成長するか、という観点が忘れられてきました。経済や経営のために役立つかどうかだけで人間が評価されるのは一見合理的なように見えるが、本質から外れています。志や誠実さや思いやりなど人間としての成長に係わる大切な資質を養うことが土台となって初めて、良い仕事や創造的な仕事もできるようになります。嘗てのリーダーたちには、陽明学や禅などで心を磨き、試練に立ち向かうための不動心を求める気風があったが、今はそんなものは見向きもされません。
2013.01.20
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赤穂浪士裁判のときに「法は法、義ではあるが私」だとして厳罰を主張した江戸時代の儒学者太宰春台は『聖学問答』の一節で、「風俗に品格があればその国の勢いは盛んになるが、低俗になれば衰運に向かう。世の盛衰は、その社会の風俗にかかっている。その風俗を高きものに保つものこそ礼節である・・・。人間は動物であるから、心もまた動物、即ち動くものである。つまり、常に欲望に左右されており、自分に損になることは避け、利になることを求めるは自然の情というべきなり。この点においては、君子も小人も何ら変わるところがない」と述べ、「義をもって事を制し、礼をもって心を制す」と結論付けました。万延元年に江戸幕府が初めて外国へ派遣した遣米使節団の一行を見た米国人は、顔を正面に向け、背筋をピンと伸ばした毅然たる日本人の姿に、他の外国人とは比べることのできない高貴さを発見したというが、美しい日本人に立ち返るよう礼節を磨きたいものです。ところが、現在は政治家から官僚、経済人から一般の人々まで全ての人が、人間の本性である自らの欲望のおもむくままに不作法に振る舞っています。それが、日本の社会を閉塞状況に追い込んでいる元凶のような気がします。
2013.01.19
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私たちは、先祖の命を受け継いで今を生きています。そして、やがて自分も次の世代に命をバトンタッチして消えていきます。そんな命の不思議なつながりを考えたとき、あなたは後世の人たちに何を遺すために精進しますか?内村鑑三は『後世に残す遺物』として、1.金(子孫だけでなく社会に遺していくこと)2.事業3.思想4.高尚な生涯を挙げています。高尚な生涯、それは池宮彰一郎が『四七人の刺客』で大石内蔵助に語らせる生き方そのものです。人の命は何ものにも代え難く尊いという。相手方の命を奪い、味方を死に追いやる。それが悪というなら、わしは悪に甘んじ、悪に徹しよう。それが私の侍の道だ。世の善悪とは何であろう。それは立場の違いだけではないか。世に絶対の善もなければ、絶対の悪というものもない。例え今の世に認められずとも、後世はどのように変わるか、それに委ねるしかない。人には命よりも大切なものがある。人の命は、いつかは終わる、どれほど惜しんでも必ず終わる。終わって後の世に残るものは何だ、金か、物か。そのようなものは、時の流れの中に儚く消えうせよう。百年、人が記憶し、語り継ぐのは、何を志し、惜しきいのちを費やして遂げんとしたか、その行跡しかないのだ・・・。
2013.01.18
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誰もが、生まれたくて生まれてきたわけではありません。親にしても、こんな子供が欲しいと思っても、思い通りにはなりません。そして、人は生まれた瞬間から死に向かって歩き始めます。その死もいつ来るか分からず、何時までも生きたいと思っても適うものではありません。つまり、私たちにとって一番大切な生死さえもままならないということは、何かしら目にはみえない力が働いて、この世に送り出され、その役割が終われば一切皆苦のこの世からあの世に帰れるのかもしれません。だとしたら、誰も知る由のないその終わりまで、自分の命をどう使うか・・・。その人の生き様こそ、命の意味なのかもしれません。自分という命の意味をつかみ、その命の役目を果たすこと、それが生きるということだと思います。自分へ与えられた命(=本当の自分)というものが見えなくなることが、人にとっての一番の哀れな姿であるように思います。そう考えると、生きる意味を自分自身の中に確かめ、それを磨いていくことが、「命に意味を吹き込む」ということになります。「人生はその人だけの芸術作品」ととらえて励む、それを修行といいます。あなたは、どんな芸術作品を作り上げるために精進しますか?
2013.01.17
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柳生家の家訓に「小才は縁に出会って、その縁に気づかず。中才は縁に気付いて、その縁を生かさず。大才は袖すりあう縁をも生かす」とあるが、成功者は普段のたゆまない努力で一つひとつの縁を大切にして生かし、縁に感謝するから長続きするのだと思います。この世は、自分一人では何もできません。共に生きる友が必要です。でも、人と人との付き合いには「素交」と「利交」とがあります。素交とは、「素=白い生地」という意味で、地位だの名誉だのといった、いわゆる為にするところのない交わり、人間そのものの自然な裸の付き合いを言います。これに対して、何かを求めるところがある交わりを利交といいます。『文選』という古い書物の中に「絶交論」があり、勢力のある人と交わっていく勢交、目的達成のために金品を贈って交わっていく賄交、語り合うために交わる談交、窮乏や同情のために交わされる窮交、打算的な目的で交わる量交の五つを諫めています。「誰の援助もいらない。独りで生きていく」と言いがちだが、無意識のうちに他人の恩を受けています。その恩を知り、何時までも恩を忘れずに素交を続けるだけでなく、自らも周りの人たちを手助けしていきたいものです。
2013.01.16
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私たちは何をするにしても、人知れず他人の恩を受けています。その人から受けた恩を忘れないことが、更なる大きな成功をもたらします。恩などと言うと古いと思われるかも知れないが、「恩」という字は「因」と「心」から成り立っているように、「何がなされ、今日の状態の原因が何であるか」を知る心です。この世は一人では生きていけず、沢山の人の恩を受けた結果として、今ここに生かされているといえます。古代インドの仏教学者は、「世間には得難い二人がいる。一人は先に恩を施す人、もう一人は恩を知り、恩に感じる人である」と言っているが、人の恩を感じて、どんなお返しをしていくかが大切です。幼いときに母を亡くしたある女性は、高校三年生のときに父までが危篤になった。いまわの際に父は娘を枕元に呼んで、「お前に残してやるものはないが、村の人々を頼って生きていけ。その時、心の中で手を合わせ、『お陰様です。ありがとうございます』と唱え続けるのだよ。そうすれば、必ず村の人たちがお前を助けてくれる。これがお父さんの遺言だ」と言って亡くなられたそうです。この世は、「お蔭様です。ありがとうございます」の報恩感謝の心で生きていけば、争うこともなく、何事にも満足して生きていけるのではないでしょうか?
2013.01.15
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「人生ではいろいろな人から恩を受ける。恩を受けたことは絶対に忘れてはならん。これだけは守ってくれ。そうすれば君は必ず志しを達することができる」と、西濃運輸を興した田口利八は郷土の代議士大野伴睦から言われ、この教えを終生忘れることがなかったそうです。一方、バブル期にある成功した青年経営者が、「自分が高卒だけれども、人よりも一生懸命に努力したから成功した。大卒の大会社の皆さん(年配の経営者の方々の参加者が多かった)よりも良い生活をしている。それは皆さんよりも努力したからです。成功するか否かは99%以上が努力で、運は1%以下もない」と得意げに話していました。でも、私はその話を聞きながら危険なものを感じました。案の定、バブル崩壊と共に会社は潰れてしまいました。確かに、努力したから成功したというのも一面だが、努力するだけで成功するなら簡単です。その努力したという原因と、成功したという結果の間に、多くの人さまとの善い縁があったからこそ成功したのだと思います。この世のことには総て原因があり、ある縁に触れて初めて結果がでます。因果の中間に縁があるから、どんな縁に出会ったかで万華鏡のように結果が違ってきます。
2013.01.14
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いま、部活での体罰が話題になっているが、そこに見えるのは「目的を忘れて、勝つという目標だけに向かって邁進する」姿です。それは今、私が京都市の教師塾で教えていることにも共通します。市本来の教師塾では、学級運営や学習指導技術のノウハウばかりで、教師という人格の養成は行われていません。私たち日本人の大部分は、「何のために生きるのか「どんな幸せの姿を実現したのか」「その仕事を通して何を実現したいのか」などの目的も不明確なままに、目の前の「良い学校に入る」「良い会社に就職する」などという目標の成就だけに一喜一憂しています。スポーツなどでも、結果だけに一喜一憂したり、一握りのできる人だけが持て囃されるのではなく、それを通して成長する喜びや強い心、優しい心を培うことこそが本来の目的のはずです。例えば、学校での部活の目的は、単に技能だけを高める場ではなく、余暇の善用、趣味や個性の発露への切っ掛けを創り、身体的、及び精神的にも強い意志のある人間を育成するとともに、規則を守り、礼儀正しい人間を育成し(挨拶、返事、後始末=掃除の仕方・靴を揃える・衣服を畳むなど、言葉遣い等)、お互い協力し助け合い、社会的にも豊かな性格をつくる場でもある(団体行動のなかで、協調性、社会性を養い、自立できるよう指導していく )と思います。だが、目的を忘れて勝つという目標の達成だけを目指すと体罰やしごきが起きます。歴史の先生で高校野球部の監督でもあった入江吉晴さんは、「勝つことも大切だが、それ以上に野球を通して得た自信とか連帯感を糧に、後の人生を歩んでいくことが最も大事だ」と言われた。進学校なので、ボールに触れたこともない初心者も入部してくる。そういう子には、「一番うまくなる可能性があるのはおまえたちだ」とまず言う。最初はノックも受けられない。硬球なので技術がなければ危険だから、「こういう練習をして、これがうまくできたらノックに混ぜてやるから」と目標を与える。グラウンドの隅でやっている練習にも意識を注ぎ、課題ができたら、間髪を入れずにその子をほめてやってノックに混ぜる。ビギナーの子にとっては、ノックを受けることが試合でヒットを打つのと同じ喜びになる。喜びを通して、試合には出られなくても、選手と一緒にプレーしているような連帯感が培われる。それこそが、高校野球の魅力であるとも言う。
2013.01.13
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かっての旅は、道中を楽しんだものです。弥次さん喜多さんの東海道中も、水戸黄門さんの諸国漫遊も、目的地よりも道中そのものに意義があったように思います。ところが、新幹線や飛行機の旅が中心になって、道中は退屈なものになってしまいました。バスの旅でも、目的地に到達するまでの移動時間は、無駄で苦痛な時間と感じるようになり、それをなんとか楽しくしようとカラオケ大会やゲームに興じる。旅の意識が変わるだけならまだいいが、私たちの人生に対する態度までが、目的地主義になってしまっているように思われます。人生の旅は道中が大切です。幼稚園、小学校、中学校、高校は決して大学を目的地とした中間点ではなく、大学も良い会社に就職するための単なる中継地ではありません。平社員や課長も、より上のポストに行くための単なる中継地ではありません。それぞれの年代を大切に、それぞれの置かれた場所でしっかりと生き、充実したものとして楽しむことが大切です。それが、時分の花を楽しむということです。夢を追求するにしても、夢の実現だけを目指すのではなく、そのプロセスを楽しむことです。そうすれば、たとえ夢が叶わなくても、「道中を楽しんだからいいや」と笑って死んでいけるはずです。
2013.01.13
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桑田真澄さんが、早大大学院時代にプロ野球選手と東京六大学野球部員約550人に体罰についてアンケートを採ったところ、「指導者から受けた」中学で45%、高校で46%、「先輩から受けた」中学で36%、高校で51%、体罰の容認83%だったそうです。体育系のクラブでは、体罰を容認する雰囲気があるといえます。確かに勇気を持って叱らなければは強い組織は作れないし、人を動かすことはできません。叱られた部下が「なにくそ、これくらいのことで負けてたまるか」と発奮し、後々に「あの時に叱ってもらったおかげで」というように叱ってこそ意味があります。叱ると怒るは違います。叱るというのは、相手に優しい気持ちがあって、その者の過ちを改めさせようとする行為です。しかし、怒るというのは、その者に憎しみがあって、怒る側がその憎しみを叩きつけようとする行為です。同じように思えるだろうが、叱ると怒るは違います。丁度、ケチと倹約の違いのようなものでしょうか。感情に任せて叱りつけるだけなら教育ではないし、誰もついてきません。他人を叱ろうと思えば、相手のプライバシーはもちろん、家庭の状況、性格、本人の長所、弱点もすべて知り尽くしておく必要があります。また、叱った後でどういったアフターケアをすれば叱ったことが生きるのかも、正確につかんでおかなければなりません。学校の顧問達は、教育者の割には人の使い方を知らないように思います。その点、企業経営者達は人間の機微に通じています。日本電産の永守重信さんは、「一人ひとりに合わせた10通りの叱り方を身につけ、使い分けなくてはならない。これができないのなら、部下を叱るとか、人を動かそうなんてハナから考えないことである。相手のことを理解しないで叱りつけ、アフターケアもろくにやらないというのであれば、叱った相手は自信を喪失し、二度と立ち直れないことだって起こりうるし、最後に残るのは相手からの恨みだけだ。相手が新入社員ならば、最初は10回褒めて1回叱るぐらいから始めて、少しずつ褒める回数を減らしてゆき、叱る回数を増やしていく。こうした過程で、叱った相手の反応を注意深く観察する。叱るにしても、褒めるにしても、相手にこちらの気持ちや心が伝わらなければ意味がないし、逆効果であれば反省して叱り方や褒め方を変える必要がある。粘り強くこれを繰り返すしかないが、叱り方も始めはゆるめに叱り、段々と厳しくしていく。同時に、自分自身のプライベートもさらけ出し、相手のプライベートも話題にしてドンドン取り上げる。要するに、両者の間に隠し事をしないという暗黙のルールを作ること。プライベートの話題になると口を閉ざしてしまうような部下を叱ると、次の日には会社に出てこなくなったり、却って反抗的な態度を取ることもある。やがて、叱る回数と褒める回数を逆転させる。このあたりになると、多少強く叱っても、その時は神妙な顔をしているが、次の日はケロッとしているようになる。そして、叱る毎に目に見えて効果も出てくる。ここまで来るのに、最短で3年位はかかる・・・」と言ってみえました。本田宗一郎さんも、次のように述懐していた。俺は短気でいかん。大勢の社員がいる前で部下を叱り飛ばす。こいつが憎いのではなく、社員たちに聞かせるために、こいつに犠牲になってもらう。俺の気持ちが分かってくれるやつは黙って耐えてくれるが、中にはわからん奴がいて俺を恨む。こうなったら経営者失格だから、ここの気配りが難しい。そこで、人前で部下を批判し、コテンコテンに叱りつけた後で、ひそかに呼んで謝る。悪かったな、おい。お前が憎くて怒ったわけじゃないが、ついお前をやり玉にあげてしまった。悪く思わないでくれ。お前なら、俺の気持ちが分かってくると思ってな。俺の甘えでお前に辛く当たって、本当に悪かった。機嫌を直してくれや。これからも頼りにしとるで、頼むぞ・・・。本多さんのような名経営者にしてこの心遣いです。人を批判することの危なさをわきまえていたからこそ、名経営者と言われたのであろう。叱り上手の共通点1.最低でも、叱った三倍はアフターケアをする。(「三つ叱って、七つ褒め」が原則)叱った部下には、後で褒めちぎりの手紙を書いたり、奥さんに電話してフォローを頼む経営者もいます。褒めたことは、紙に書いて何時までも残るようにするのはさすがです。相手に色々と褒めるところがあればこそ、思い切った叱り方ができます。「もっと頑張ってほしい」「成長してほしい」という気持ちがあるからこそ叱るのです。叱る前に褒めることを探すことです。松下幸之助さんもそうだった。2.叱ったことはすぐに忘れる叱るのはその場だけで、叱ってもトイレに行けば忘れるぐらいがいい。本田さんは典型でした。3.「辞めろ」「辞めます」という言葉だけは禁句で、感情的にならないことです。4.叱るときは、一対一、つまり個別に叱るのが原則。皆の前で叱れば、プライド、面子丸つぶれで立ち直れない。とくに、現代の若者はそうです。チームを管理するのではなく、一人ひとりをタイプ別に個別に管理することです。それが、本当の管理、平等な管理といえます。
2013.01.12
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ウサギとカメのおとぎ話で、あなたはどちらが理想だと思いますか? ほとんどの方は、ウサギ的な生き方をしていませんか?ウサギとカメとが同じ時間だけ走るとしたら、ウサギはずっと遠くまで行けるのは明らかです。ところがウサギの足は速いが、それは短い時間をとってみたときのことで、ずっと走り続けることはできません。カメは休まないでひたすら歩き続けることができ、ウサギよりもうんと長生きします。そうすると、一生に歩く距離は、カメの方が長いかもしれません。私たちは目先だけに忙しく走り回りがちだが、それでは長い目で見たときに大きな成果を得ることはできません。そこで昔から「急がば廻れ」の諺が世界的にあります。・「ゆっくり行く者が遠くまで行く」(イタリア)・「ゆっくり行く者は確実に行く」(仏)・「遅くても全然しないよりは良い」(独)・・・。別にノロノロしろということではなく、良い結果を得るには「慌てず、じっくり、腰を落ち着けて」段取りをし、一つ一つ確実に片付けていけという教訓だと思います。20代(高齢化の今日では30代)に自分の進むべき道を見つけ、30代に磨き、40代に立つぐらいの気持ちで死ぬまで歩き続けたいものです。
2013.01.12
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◆上手な叱り方のポイント五ヵ条1.子どもと同じ目線で、子どもの目を見て、愛情を持って叱る。「あなたが好きだから叱るのよ」ということを伝えるため、普段からのスキンシップも大切です。クラブ活動などでも、普段から部員と共感、共鳴する関係さえあれば、いいプレーには「ナイス・プレー」、ミスした時には「おい、どこを見ている」などという言葉が自然とでるし、相手もそれを素直に受け入れます。2.理由をきちんと説明して叱る「いじめを止めよう」「人の話は静かに聞こう」と叱るだけでなく、「なぜ、いじめがダメなのか。それが、自分にどうはね返ってくるのか」などを、噛んで含めるように言い聞かせることです。親が躾ける場合でも、「誰々におこられるでしょう」とか「あの人がにらんでいるでしょう」などと、他人のせいにする親が多いが、例えば「スーパーの中を走り回るのは、お店の人が怒るからダメ」と他人の生にするのではなく、「他の人にぶつかって迷惑をかけるから」とか、「積んである商品にぶつかって、お店に迷惑をかけるから」、「ショーケースにぶつかってケガをすると危ないから」など、きちんと理由を説明することが大切です。学校で生徒を叱る場合も同じです。3.直ぐにその場で叱り、自尊心を傷つけない。叱責は、本人が「しまったなあ」と思っているときに叱るから効果があります。時間をおいて叱ると、叱られた方は「何をいまさら」と感情的なしこりを残すだけです。また、子どもにだって自尊心があるので、人前で叱って恥をかかせることは避けなければなりません。そんな場合はすぐにやめさせて、少し人気の少ないところに移動するなどして叱るほうが効果的です。4.子ども自身の言葉で反省させる子どもに「なぜ、したのか」、「なぜ、しなかったのか」を説明させ、それがなぜいけないのか、これからどうするのかを、子ども自身の言葉で語らせると効果的です。子どもが自分なりの考えを示したときは、まずは「よく考えることができたね」とほめ言葉をかけ、肩を叩いて激励するなどのスキンシップが大切です。例え、その考えが間違っていたとしても、否定せずに、その考えをまずは受け入れ、「○○くんは、そういう風に考えたんだね。もっと他の考え方はないかな?」というように、子どもが自分の考えを話しやすい雰囲気を作り、じっくり聞いてあげることです。この場合も、手を握って話を聞くなどのスキンシップは効果的です。5.叱った後のフォローも重要です企業でも、できた上司は叱った後のフォローをしっかりとしています。それで、愛情が伝わり、かえって慕われています。叱ったのは、「あなたの行動に対してであって、あなたの全人格を叱っているのではない」ということを伝えるためにも、叱ったことを引きずることなく、カラッと忘れて普通に接することが大切です。また、注意したことが改善されていたときはちゃんとほめてやることです。 何時も愛情を持って見守っているということが相手にも伝わり、一度叱ったことが二倍、三倍の効果になって現れます。 上手に叱ることは難しいことだが、だからといって叱ることを避けないでください。溺愛され、我慢することを知らずに育った子どもは、自主性が育ちません。また本気で叱られないことに不満を感じる場合もあります。叱られないことが、逆に愛されていないと感じるのです。子どもは無意識に、叱られたいという思いから、非行に走る場合もあります。一番大切なのは、普段からの信頼関係と、愛情を持って叱るということです。◆叱るときにやってはいけない10ケ条1.感情的に叱らない感情的に叱っては、何の効果もないばかりか、かえって逆効果です。感情的にならないように、一度、深呼吸をして、気持ちを落ち着けてから叱るといいでしょう。2.子どもの言い分を聞かずに叱らない 子どもの話を聞かずに、頭ごなしに叱ってはいけません。まず、冷静に、子どもの話を聞いてあげることです。3.くどくどといつまでも叱り続けないくどくどといつまでも叱り続けていると、かえって先生や親の意図が伝わりません。伝えたい内容は心に残らずに、怒られているという印象だけが強く残ってしまい逆効果です。4.自分の都合で叱らない忙しいから、疲れているからなどといって、つい八つ当り的に叱ってしまうことはありませんか。それは、叱るではなく怒るです。5.誰かと比べて叱らない「○○さんは上手なのに」、「○○君を見習いなさい」などと、誰かと比較して叱ると、ひがみやすい子どもになってしまいます。また、いつも同じ子どもと比較していると、その子どものことが嫌いになったり、いじめたりする場合もあるので、気をつける必要があります。それは、兄弟間でも言えることです。6.昨日と今日で言うことが違ってはいけない 一貫性を持って叱らないと、子どもは親や先生に不信感を抱きます。また、父親と母親もしつけに関して話し合い、統一性を持たせることが大切です。人によって言うことが違うと、子どもは迷ってしまいます。7.以前のことまで引っ張り出して叱らない叱っているうちに、過去の過ちまで思い出し、つい昔のことまで叱ってしまう人もいます。終わってしまったことを言っても意味が無い上に、子どもが嫌な思いをするだけです。8.全人格を否定する言葉や子どもを突き放す言葉は絶対に使わない「生まれてこなければよかったのに」など全人格を否定する言葉や、「もう、知らない! 勝手にすれば」、「出て行きなさい」など、子どもを突き放す言葉は心に深い傷となって残るので、絶対に使ってはいけません。9.愛情のない体罰はダメ体罰がダメと言われるのは、昔の軍隊や運動部などで行われたような、陰湿ないじめが多いからです。殴る、蹴る、道具を使うは問題外です。ピンタにしても、せいぜい軽い往復ピンタ程度で、何度も繰り返しピンタをするのは体罰そのものです。体罰を与えることによって、意図が伝わりにくくなるだけでなく、子どもの心にトラウマとなって深い傷を残します。さらに、その恐怖から、嘘や隠し事などで自分を守ろうとしたり、友達に乱暴を働くようになる場合もあります。やむを得なく体罰を施す場合には、憎くて体罰をしたのではなく、「君にならできるのに惜しいじゃないか」という愛情を込めて、しっかりとフォローをすることが大切です。10.最もいけないのは言葉の体罰ですたった一つの言葉が、相手の心を閉ざしたり、傷つける凶器にもなります。時には、自殺さえ起きます。身体の傷は癒えても、言葉の暴力は深く心の中に沈殿し、いつまでも治らないことが多いものです。どんなことがあっても、人を傷つける言葉、勇気を挫く言葉、人を失望させる言葉、憎しみ悲しみ、妬みの言葉などを吐いて、自他の運命を破壊しないように注意したいものです。「言葉というものはカミソリの刃のようなものでございますね。使い方を誤ると、自分を傷つけたり、人様を傷つけたりすることがあるのですから」とある歌舞伎役者は言う。ある人は、中学一年生の音楽の時間に、教師が何気なく言った「調子のはずれた、間の抜けた歌だね」という言葉で、一生歌を歌うことをしなくなりました。小さい時に、いつも母親から「お前は不器用だから」と言われ続けて育ったある人は、大人になっても釘一本打てず、ネジ回しも使えず、靴ひもも満足に結べません。言葉は口の端から出た途端に飛び散ってしまうはかないものと思われがちだが、それが一度人の心のすき間に入り込むと、そこに根を張って、人の一生を左右するほどの恐ろしい力を発揮することがあります。古代の人々は、言葉に霊が籠もっていて、その霊が人間に働き掛けると信じていたが、それはこの言葉の恐ろしさをよく知っていたからだと思います。特に、小さい頃に、親や先生から受ける言葉のボディーブローの破壊力には大きいものがあります。悪い言葉を慎み、良い言葉を投げかけたいものです。高校OBたちからの報道に対する意義の書き込みもあるが、なんといいい繕おうと、人を死なせてはならないのです。それを容認する風土こそ問題です。
2013.01.11
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体罰による自殺を知って、教師塾の受講生達に書いた文章です。長いけれども読んで下さい。教育は親や教師次第だが、真に使命感を持った教師に出会えた子どもは幸せです。教育は、字の如く「教える」ことと「育む」ことの二つの機能から成り立っています。子どもは、初めは何も知らないし、従って出来ないのが普通で、自分のことも決められないし、当然責任も取れません。それ故に、「養育」は保護と指導、躾から始まり、大部分の事は教えなければ出来ません。自主性に任すと言って放任するのは、躾の放棄ともいえます。躾には叱ることも必要だが、「叱る」と「怒る」は違います。怒るのは自分の感情であって、相手から反発も受け逆効果にもなりがちです。叱るのは、相手に善くなって欲しいためにするのであって、その根底に普段からの信頼関係と愛情がかかせません。叱る場合には、「なぜ、したらいけないのか」「なぜ、しなければならないのか」を丁寧に伝え、理解させることが大切です。命にかかわることなどで急を要する時などは例外だが、大抵の場合は冷静に話した方が効果があります。感情をぶつけるのではなく(体罰の多くは感情だけ)、冷静に話さなければなりません。指導にしても、知識や技術に留まらず、学び方も、感じ方も、努力の仕方も、教わらなければ言葉の意味するところすら分るようにはなりません。言葉の意味するところが分かっても、それが確実に実行できるか否かは別問題です。「わかる」とは、行動や思考が「かわる」ことで、反復と練習抜きに決して身につかず、地道な反復練習が不可欠なのはそのためです。そのためには、指導する側にも根気が欠かせません。職業としての教師は、まず「教えてこそ」初めて教師であり、絶対の必要条件です。だから、「教えること」の責任を回避することはできません。教えようとすれば自ずと気合いも入り、学ぼうとしない者がいたら放っておけません。だから、自然と態度が厳しくなりもします。物わかりのいい、甘いだけで恐くもない先生は、やる気のない子供には教えられません。教えることの中には、学ぶ態度もあります。学ぶには、緊張感も必要です。「共育」という表現には、師弟や親子の間の「緊張感」が欠如しているように思います。教える者と教えられる者との間には、自ずと尊敬と緊張が大切だが、共育には指導する者と学ぶ者の心理的距離も緊張感もありません。友だち先生や友達親子がダメなのは、学びの場の緊張感を持続できないからです。それは、ある意味では「言いにくいこと」を言う責任からの逃避とも言えます。緊張感なしに、人生の火事場は切り抜けられません。厳しくても、その根底に愛情と信頼があれば人はついてくるし、かえって信頼するようにもなります。 ◆「自由な教育」と「自由への教育」1.善悪も和からない子供を、放任することが真の自由ではありません。「自由な教育」とは、放任することではありません。自分に自由があるように、自分以外の人にも自由があります。だから、この世の中は自利(自分の自由)と他利(相手の自由)がぶつかり合って、紀元前の昔から小は「わたし」と「あなた」、大は国家と国家が争い合っています。その両者の自由を調整し合って、仲良く生きていくために社会のルールがあります。誰もがより自由であるために、ルールを教え躾ける、それが「自由への教育」です。自転車に乗るのだってルールがあり練習したように、誰もが「明るく、楽しく」生きてゆく為にもルールを学び、それが自然とできるように躾けることが大切です。2.自分のやりたいようにやることが、自由ではありません。人間の本性である貪欲,怒り,嫉妬,冷酷,残忍さなどから自由であることが、本当の自由だと思います。自分の貪欲を見つめ,なぜ自分が欲張りなのかと,その性質や構造を理解するに従って,人は貪欲から自由になれます。それは,無欲になろうと心掛けることとは全く別のことです。人間は,自分だけでは生きられないのだから,自由になりたいと願っている他の人のことを忘れてはなりません。自由は、秩序なしには存在しません。他人に対する思慮深さと,内面外面両面の注意深さから秩序が生まれ,秩序と共に自由が生まれます。3.重要な刺激は躾です。乳幼児期から自我に目覚める頃に正しく躾けられずに甘やかされて育った子供は,将来,道徳観の優れた自立した成人にはならないはずです。「乳幼児には理屈が分からない」「理屈も分からない子供だから」などというのは、やりたいようにやっても善いという理由になりません。まだルールも分からず、物事の善悪も分かっていない子供には、理解させる必要はなく,時には体罰も辞せずに体に染み込ませることも大切です。何も分からないときに自由という名の下に放任されて甘やかされた子供は、大人になってから極めて不自由な人生を強いられることになります。いじめを責任回避や面倒だからと見過ごしたために、自殺などが起きて、いじめた側も後で不自由な目にあい、一生を棒に振ることさえあります。どちらが、本当の愛情でしょうか?欧米では、何も分からない小さな間は厳しく躾けて、大きくなれば自主性に任せるのが普通のようです。だが、日本では逆で、何も知らない小さな間は叱らずに甘やかしておいて、大きくなると何もできないと言って小言ばかり言うケースが多いように思います。だから、子どもたちがダメになるのです。4.かわるまで言い続ける。シュタイナー学校では,弁当を食べた後,食器を自分で洗って拭いて片付けることになっています。ところが,食べ散らかしたまま遊び始める子がいると、先生は「テーブルを片付けてね」と優しく注意する。子供が聞き流して遊びを続けても,先生は優しく注意をし続ける。そうすると,何回かの注意の後,子供は言うことを聞く。子供に注意するときは,何度でも静かに言い続ける。決して声を荒げて怒ったりしません。「怒る」とは、自利が侵された時に「自分可愛さ」ゆえに起きる感情の爆発です。「叱る」は、相手に「善くなって欲しい」という愛情の籠もった叱責です。だから、声を荒げることはありません。また、「わかる」とは行動が「かわる」ことだから、「変わる」まで愛情を込めて優しく、かつ根気よく言い続けることが大切なのです。◆続く
2013.01.11
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夢を目指して邁進していても、時には楽をしたいと思うのが人間です。例えば、山で吹雪にあったとします。物凄い風速で粉雪が飛んできて、息ができなくなるほど苦しい。雪穴を掘って首を突っ込むと、呼吸が確保できるようになって、「ああ、助かった。これで生きられる」と思う。穴を大きくして、その穴の中に収まると、居心地の良い極楽のような場所になる。だがしばらくすると、上から雪が首筋に落ちてくるし尻は冷たく、地獄のように思えてきます。あくる朝、そこを脱出してテントに逃げ込む。もう、ここは天国だ。ところが一晩も過ごすと、氷がゴツゴツして寝心地が悪いとか、風が吹いてテントが騒がしいとか、いろいろな不満がでてきて地獄のような場所になります。人間は限りなく少しでも楽な方へと流れていくが、それでは大きな夢は達成できません。世阿弥は『花鏡』の中で、「是非、初心忘るべからず。時々、初心忘るべからず。老後、初心忘るべからず」と言っています。何事でも少し続けていると、慣れから慢心する気持ちがおきてきます。そんなとき、突如として襲ってくるのが壁=スランプです。それを乗り越えるには、自分の力の限界を知り、いつまでも怖さを忘れないで精進に精進を重ねるしかありません。
2013.01.11
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米沢慶応大学理学部教授は、「3人も子供を抱えながら、よく研究生活を続けられましたね」と周りの人からよく言われるそうです。「毎朝、京大へ行く時には、一番下の娘を背中にくくりつけ、その娘のための替えオムツと論文を入れたバックを抱えた左腕に真ん中の娘を抱き、右腕にはもう一人の手を引いて保育所まで届けた。夕方は買い物をして帰るので、荷物はさらに増えます。でも、いつも子供たちと大声で歌いながら保育所の行き帰りをし、子育てをとても楽しんでいました。子供を育てながら続ける研究を辛いと思ったことは一度もなく、子供を持つことによって視野が広がり、人間的にも成長できたし、それが研究にも反映しています。ただ研究者にとって最も重要なのは時間で、寸秒を惜しむというが、研究をしているときは本当に1分でも2分でも時間が惜しい。同僚の男性に比べたら、私の時間ははるかに限られています。でも、限られているからこそ、その時間に集中できるようになったのです」と語る。どんなに恵まれているように見えても、ハンディキャップの無い人はいません。何かと理由を見つけてハンディキャップとして逃げずに、そこに楽しみと意義を見いだすとき、素晴らしい成果が生まれると思います。
2013.01.10
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昔は、心臓が止まれば死ぬわけで非常に簡単でした。だから、医学的な死の定義を法律で決める必要もありませんでした。脈が無くなったり、瞳孔が開いたりといった変化を見て、人間が死を判断していました。それが、医学の進歩につれて、人間の都合で死を判断するようになり、機械が科学的に判断するようになるとともに死の枠がすごく広くなってきました。死の時間の前倒しが、今話題になっている臓器移植の問題です。心臓や肝臓などを移植するためには、心臓死を待っていては遅く、「脳死」を死としなければなりません。そのために、脳死を医学的には死と認める法律を作ることで、死ぬ時期を早める必要がおきました。逆に、死の時間軸を遅らせるのが延命治療です。でも、助かる見込みのない延命処置が、果たして治療なのでしょうか。見ていても辛いだけです。医療の世界では、延命治療はドル箱といわれているそうです。 例えば、肝硬変で食道静脈瘤が破裂して入院し、15日後に亡くなった70歳の人の場合、治療費316万円の内訳は手術費14%、中心静脈注射42%(約日9万円)だが、治る見込みのない人に注射は意味があるのでしょうか?肺に移転したガンの状態を調べるために、毎日、気管支ファイバースコープ検査をされた80代の人は、入院2週間後に亡くなられたが、このもの凄く苦しい検査をする意味など全く無意味だと思います。最後の2週間ほどを、苦しい目にあったり、無意味な治療を受けたり、菅を付けて意識もなく生きることに何の意味があるのでしょうか。私は、そんな死に際を迎えたくありません。・病気の完治ではない延命治療を希望しない 本人の場合 81%・家族の場合 希望する 33% 希望しない 51%私の高校時代の同級生と、家族には話せないことをガンで亡くなる直前まで1年ばかりメールでやりとりしたことがあります。そのなかで、治療が辛く本当はやりたくないのだが、家族の手前言い出せないとか、私の気持ちを無視して治療方法を進めるとか愚痴を言ってきました。そして、三ヶ月前に、やっとこれで治療から解放されると送ってきました。本人は大部分が延命治療を希望しないと答えているのに、家族の希望比率が高いのは悔いを残さないためとか、周りの人に悪く思われたくないという意識が働くからと思われます。奥さんを亡くされた方のこんな例があります。奥さんの姉弟妹たちが相談した結果、一致して延命治療を希望する、ということでした。私はびっくりして、祐子自身が「遺言書にかえて」の中で明言している希望を無視して、それと反対のことをしようというのか、と尋ねましたが、それに対する答えは、「実際に血を分けた肉親としては、1日でも1時間でも長く生きていてほしいと願うのは当然だ。それに、この文書は正規の遺言書ではなく、本当に祐子の意思を伝えているとは言えない」というものでした。実際には、その翌日には心電図の波が停止し、医師が駆けつけてすぐに彼女は死去し、延命治療などが行なわれる余裕もありませんでした。意識を回復できる望みがまったくなく、体のあちこちにいろいろなパイプや電線や機械をつながれた病院のベッドで、ただ呼吸をしているだけという植物人間の状態を、半年も、いや、1週間にせよ、続けさせることは、彼女の尊厳にもかかわることであり、耐え難いという思いだったのです。死去が速かったため、結果として、彼女の姉弟妹たちと私との間で、延命治療をめぐる争いが長く続くことはなかったものの、この問題はあとをひきました。彼女の死後、妹と電話で会話を交わした際に「あなたは、祐子ちゃんの生存に必要な治療さえ拒否したような人なんですから」と言われて、愕然としました。もう、反論する気もなく、「ああ、そうですか。そんな風にお考えなんですか」とだけ言って電話を切りました。彼女の姉弟妹たちへの遺産相続も、法の規定どおりに行ない、配分も終わりましたので、もう、これ以上、お付き合いをすることはお断りしたい気持ちです。感情的なしこりは残ったままです。私は、そんなこともあって、財布のなかに尊厳死宣言書を入れて持ち歩いています。
2013.01.09
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同じ1時間を使うにしても、そのことに集中できるか否かで成果に大きな差が生じます。京セラの稲盛和夫さんは、「前人未到の世界に飛び込むには、自分との戦いで、どのくらい集中力があるかで決まる。文献も何もない暗闇を航海するには、どんな騒音の中でも、針が一本落ちても気がつくぐらいの集中力と観察力がなければダメだ。そういう意味では、学歴は関係ないような気がします」と言っています。「才能は有限、努力は無限」だが、能力がいくらあっても、集中力がないと何事もうまくいきません。そのコツは、以下の通りです。1.嫌々やっていては捗らないので、そのことを好きになり楽しむことです。好きになるには、本気でそのことに取り組んで工夫してみることです。2.あれもこれもとキョロキョロしていては集中できないので、状況を良く判断して、取り組む課題や対象を絞り込むことです。それには、目的、コンセプト、目標をハッキリと定めて、思考の枠組みを絞り込みやすくします。3.雑用に気が取られていては集中できないので、まず雑用を片付けてしまうのも手です。そして、集中しやすい時間帯を決める、集中しやすい空間を整える、集中に引き込む動作など、集中を容易にする環境を整えることです。
2013.01.09
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1日は、誰にも24四時間しかありません。この誰にも平等な時間をどう使うかで、その人の一生に大きな差がつくように思います。1.毎朝、その日にすることの優先順位を考えて計画を立てる。何事も、2割が8割を制すので、毎日、毎週、毎月、優先順位と充てる時間配分を行う。ある実業家が心臓発作を起こして、医者から6カ月の自宅療養を命じられ、その後1日3時間に限って仕事をすることを許された。気がついてみると、その3時間の間に、以前には8,9時間を費やしていたのと事実上同じだけの成果を上げていることに気がついたと言います。必要に迫られて、重要でない事柄の一部を削り、重要なことをもっと沢山やるようにしただけとのことです。2.今日できることを明日に延ばさない。不得意なこと、面倒なこと、嫌なことなどは、つい先に延ばしがちです。そうすると、そのことが頭にこびりついて、他の仕事の効率を阻害することにもなります。3.他人に迎合しない。他人が自分の時間は盗もうとしたとき(=付き合い)、断固として立ち向かう勇気を持つことです。そして、自分でなくてもできることは他人に任せ、その空いた時間をもっと大切なことに使うことです。
2013.01.08
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この間の選挙を見れば明らかなように、現代は志など紙よりも薄く、自利(当選したい)のために離れたりくっついたりと見苦しい次第です。だからこそ、「次代を担う子供たちを育てる教師の卵達に、まず君たちが志を持って欲しい。何にでも師のつく時代だが(詐欺師だって)、教える師と言われるからには人から敬われる志が必要で、教えるだけで代替えがきく教員にはなるな」と言い続けています。大河ドラマは会津の武士魂を写し出すが、今ほど志のあるホンモノが少なく、自利だけがギラギラとしたニセモノが幅をきかせている世はないのではないでしょうか?ホンモノの人間とは、志のある人です。その志を磨くには、私利私欲を超えて、公のために日夜その実現に向けてコツコツと努力を積み重ねる必要があると思います。そのための条件として、次の二つがあります。一つは、少なくとも公に対する目的があることです。私利私欲を超えて、この国や地域をこうしたいとか、世の中のため人のためにこういう仕事をしたいという、自利(自愛や我欲)を超越した利他の精神(慈悲の心・公のためのもの)があることです。クラーク博士は「Boys be ambitious」に続いて、あまり知られてはいないが「志を持つということは、金や利己的な権力欲、名声というような空虚なもののためではなく、それは真理のため、人々の幸福のためで、人としてどうあるべきか、そのためのあらゆる努力をせよ」と述べています。新渡戸稲造も著書『修養』で、「功名富貴は修養の目的とすべきものではない。自ら省みて潔しとし、いかに貧乏しても心のうちには満足し、いかに誹謗を受けても自ら楽しみ、いかに逆境に陥ってもそのうちに幸福を感じ、感謝の念をもって世を渡ろうとする。それが、僕のここに説かんとする修養法の目的である」と述べています。稲盛和夫氏は、「お金を設けたいとか、格好いいことがやりたいといった不純な動機を持っている人は、状況が不利になるとすぐに諦めてしまう。ところが、“これは本当に世のため人のために必要なのだ”と信じられる人は、苦難を乗り越える戦いを続けることができ成功する」と言い、動機の純粋さの大切さを解いています。もう一つは、その志を実現するために、日夜、絶えざる努力をしているかどうかということ。宝くじが当たるような僥倖を願うのではなく、使命感を持って、自分自身が寝ても覚めてもそれに対して努力できているかどうかが問題です。ただ、空想しているのでは志とは言えません。将棋の羽生善治氏は「才能とは情熱や努力を継続できる力」と言い、イチロー選手は小学校から毎日キャッチボールとバッティングの練習を積んできたが、「高校3年間、1日10分、寝る前に必ず素振りをしました。それを1年365日、3年間続けました。これが誰よりもやった練習です」と言っています。つまり、少ない時間でも良いから、毎日継続することが大切だということです。そして、その根底に「寛容な心・素直な心・感謝の心・謙虚な心」があることが大切です。
2013.01.07
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野球で守備の名人と言われる人は他の人よりもほんの0コンマ何秒か球から目が離れないとか、ほんの数センチグローブの先が伸びるだけであろうし、打撃の名人にしても球を追う視線が0コンマ何秒か長いだけであろうと思うが、そのほんの少しの差が名人と凡人との大きな差を作り出します。何事も同じで、何かに優れている人とは、普通の人と比べてほんのわずかな差だと思います。それを創りだすのは、思考と行動と継続ではないかと思うが、稲盛和夫さんは「人間は目に見える部分の努力だけでは、人としての奥行きを作ることはできない。努力が実を結ぶかどうかの分かれ目は、一つは粘り強いということ、もう一つは動機の純粋さである。なかなか突破できない壁に突き当たった時でも、粘りに粘って目標を達成しようとする人は最後には成功する。ところが、少し試みただけで諦めてしまう人は結局成功できない。この粘りを生むのが、動機の純粋さである。お金を設けたいとか、格好いいことがやりたいといった不純な動機を持っている人は、状況が不利になるとすぐに諦めてしまう。ところが、“これは本当に世のため人のために必要なのだ”と信じられる人は、苦難を乗り越える戦いを続けることができ成功する」と言われた。
2013.01.07
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草木染め作家志村ふくみさんが悩んでいたとき、木工の黒田辰秋さんは「自分は気ままな怠け者で好き嫌いが激しいから、木工、これしかできない。だが、自分が本当に使いたいもの、人にいつも愛着を持って使ってもらえるものを作りたい。その道のりは厳しく地獄同然のときもあるが、そこにまた本当の喜びもある。工芸の仕事はひたすら“運・根・鈍”につきる。“運”は、自分にはこれしか道がない。不器用で我が儘な自分にはこれしか道がないと思い込むようなもの。“根”は、粘り強く一つのことを繰り返しやること。“鈍”とは、材質を通しての表現である工芸は、絵や文章のように直の思いをぶちまけて表現するものを鋭角とすれば、物を通しての表現だから直接ものを言うわけにもいかない鈍な仕事なのだ。しかし、そこにまた安らぎもある」とも言われたそうだ。水野源三さんは十歳頃に熱病に罹って脳性麻痺で寝たきりの身になり、手も足も利かず、おまけに口さえ利かず、瞬きだけが彼の意志を伝える手段になった。五十音表を指す母親の指先を見ながら、瞬きでつづったのが、4万にも及ぶ俳句、短歌、詩などの作品にはなりました。私たちは、何事も「できない」のではなく、黒田さんや水野さんのように「やらない」だけだと思います。
2013.01.06
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糸川秀夫先生は、45年かけて100%手作りのオリジナル・バイオリンを作られた経験から、新しいものをクリエイトするにはわりに時間がかかるので、「98プラス2」の方式を勧めてみえます。一口で言えば、1日の時間の98%は、今日、明日のために使う。あとの2%を、10年、20年先のために使うという方法です。1日のほんの2%(30分弱)であっても、チリも積もれば山となります。実際には、年500時間や1千時間くらいは何とかなるはずで、10年、20年続ければ1万時間にもなり、専門家の入口には立てるはずです。本業とは違う夢をもって、それに全力投球をするのではなく、人知れず静かにやり続けていれば、いつか花開くというわけです。一朝一夕にはできないような大きな夢を抱いて、それを本業に負担のかからない程度にやり続ければ、目の前の嫌なことに挫折したときの気分転換にもなるし、人生に目標を失うこともなく、イキイキとやっていけるのではないでしょうか?そんな大きなことでなくても、毎朝30分本を読んだり考えたりする習慣を持つだけで、毎日の仕事の成果も違ってくると思います。そんな些細なことの積み重ねが、できる男、女を創ります。
2013.01.05
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長い時間を取ろうと思うとなかなか難しく、『閑ができたら』と思う人は何もできません。どんなに忙しい人にでも、寸陰というものは必ずあり、昔から「急ぎの仕事は忙しい人に頼め」というように、ふだん忙しくしている人の方が段取りも上手くて時間の使い方もうまく、いろんなことにも挑戦しています。「忙しくて本も読めない」と嘆いている人でも、朝や昼の合間に20分や30分の時間を取れない人はいません。その時間を1年間積み重ねれば、何十時間もの貴重な時間が生まれます。ある若いサラリーマンは、昼食を15分で済ませた後の45分と、土・日曜日を司法試験の勉強に充てて、2年間で見事難関を突破しました。そのお祝いの席で、「長い人生でたったの2年間、多少変人を装って猛勉強しただけです。付き合いで義理を欠いた点はどうかお許しください。これからはまともに付き合います」と挨拶した。「半時間ぐらいでは何もできないと黙っているよりは、世の中の最もつまらないことでもする方が勝っている」とゲーテは言ったが、何かと理由を見つけて挑戦しようとしない人と、ちょっとでも時間があれば何かに挑戦しようとする人とでは、長い人生において大きな差がついてきます。
2013.01.04
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「日本を美しくする会」の鍵山秀三郎は、「何十年も継続できる秘訣を教えてほしい」という質問に、なかば冗談的に「しいて言えば、そのコツはコツコツという二つだけ」と言い、それは工夫をすることだという。誰でも単純なことは、「そんなことは分かっている」と言いがちで、工夫することもなく何時も同じやり方でやっていれば飽きてしまって続かない。続けるコツは、絶えず、使いやすい道具を探す、不便さを感じたらその不便さを解消する道具を工夫する。それから、道具の置き場所をきちっと整理する。落ちないところを、どうやったら落とすことができるだろうかと思って工夫する。そうやって絶えず工夫を繰り返していくことが、継続の秘訣でありエネルギーにもなると言う。糸川英夫さんは、還暦を過ぎてからクラシックバレエを始められたが、まずタンスの下の段の引き出しを出し、そこまで足を上げた。次の日は、引き出しに新聞紙を1枚乗せ、そこまで上げる。次の日はもう1枚重ねて高くする。毎日2時間、かくして1年後には、頭の上まで上がるようになったそうです。毎日少しずつ、休むことなく挑戦し続ければ、どんな高みにも至ることができるという見本です。考えながら、一歩、一歩を続けるのがコツのようです。
2013.01.03
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あるバレリーナが「練習を一日休めば自分に分かる。二日休めば仲間に分かる。三日休めばお客に分かる」と言ったが、何事も続けることは難しい。チェロは女性にとって扱うのは大変で、チェリスト藤原真理さんの筋肉を理想的な状態に保つための日課が凄い。5時起きも珍しくなく、朝食をキチンと食べ、急ぎのメールを送信した後、バランスボールやアクアチューブ、サイクリングマシンなどを使って1時間かけてストレッチ体操をする。その後練習。昼飯を食べたら、身体を水平にして温め筋肉を休めるために2時間くらい昼寝。おやつを食べてまた練習。夜は整体のジムに加え、加圧ジム、整体やマッサージ、針にも行く。内外での演奏会がある日以外は、60歳を過ぎてもほぼ毎日これを続けている。生まれ変われるなら、体力のある男性になりたいと言う。間寛平さんの世界一周4千キロのアースマラソンにしても、毎日50キロを走り続けた成果です。続けることが成果を生みます。だが、何ヶ月、何年と続けることは難しいことです。オリンピックのボクシングミドル級で金メダルを取った村田諒太郎さんが「努力できるのも才能であると思う」と言ったが、それができるということは、もはや一つの才能でなかろうかと思います。
2013.01.02
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昨日の続きです夢や希望の実現にしても同じだが、人間の能力など、ほんの一握りの人は別として、誰も同じようなものだと思います。それなのに、一生のうちには大きな差がつくのは、自分が選んだ仕事を天職と思って、どこまで真剣に一所懸命に掘り下げていく努力をするか否かのような気がします。朝ドラのモデルになった吉行あぐりさんは、「もし私の人生に取り柄があるとすれば、そんなに頭が良くなくとも、世間知らずでも、これだけは自信を持って言えることが一つだけある。私はいつも目の前の問題に真面目だったし、一生懸命だったということです。真面目に一生懸命にやっていれば、苦しいとか辛いとかはどこかに吹っ飛んでしまって、面白く楽しいことが次々と目の前に現れるものです。真面目で一生懸命でありさえすれば、必ずそれなりの人生に恵まれるものだということを、しみじみありがたく感じます」と言われました。石垣綾子さんは、「私が文筆や講演活動でいくらか収入が得られるようになったのは、40代の後半からですから、10年間はただ同然の仕事ばかりでした。それでも自分を生かすのはこの道しかないと思っていた私は、歯を食いしばってかじりついてきました。よく、“私には、この仕事はあわない”と言って途中で仕事を放棄する人がいますが、私はそういう人に何時も言います。“誰にでもそんなにぴったり合う仕事というものは、そうそうあるものではありません。自分が思い込んだものにどこまでも食いついて、努力し続けていくうちに適合してくるのではないかしら。努力していると、仕事のほうから貴方に近づいてきてくれますよ”と。自分にあった道、思い込んだ仕事であっても、決して楽ではなく、非常な苦労を伴うのは当然」と語る。今年79歳の長原さんは、「万年筆の神様」と愛好家の間で信頼を集めてきたが、高齢で今年一杯(2012年)で引退を決意した。万年筆修理のイベントで各地に出向き、全国にファンがいる。親の形見の万年筆が使えるようになり、涙を流す人がいる。直す万年筆が無くても会いに来てくれる人がいる。11月に神奈川であった最後のクリニックには、引退を惜しむファンが200人以上も訪れた。14歳でセーラー万年筆に就職したとき、3年間はペン先の形を整える下積みばかりで嫌気がさしたが辛抱した。徹底した基本の習得が後に生きた。現代の名工にも選ばれた。長原さんこそ、まさに一芸に全精力をつぎ込んで、一隅を照らす存在になり、自己実現を果たした人と言えます。
2013.01.01
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