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スカルノの日本贔屓は一九四二年七月に今村均中将のことを知ってからのことである。今村率いるジャワ派遣軍第一六軍が敵前上陸し、二倍以上の兵力を擁するオランダ軍(蘭印連合軍)をわずか九日で降伏させた話は、当時四一歳だったスカルノを感動させたようだ。のちに「将軍イマムラは本物のサムライだった」と述べた。実際の今村は「日本とインドネシアの同祖同族、共存共栄、同一家族・同胞主義」を声高にしたため解任され、ラバウル作戦やガダルカナル撤退の指揮にまわされていた。スカルノはきわめて独創的な政治家だった。東ジャワのスラバヤでムスリムの父とヒンドゥ教徒の母のもとに生まれ、最初から宗教と民族の多様性を身につけていた。バンドン工科大学を卒業して技術者になったが、二十歳のときにマルハエンという貧しい農民からインスピレーションを得て、のちに「マルハエニズム」と称した理想をもった。そこで一九二七年にはインドネシア国民同盟(のちに国民党)を結成、たちまち勢力を拡大してリーダーとして知られた。
2026年10月01日
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芝に萬年山青松寺という寺がある。山門を入ってしばらくすると大きな石碑がある。「市来龍夫君と吉住留五郎君へ 独立は一民族のものならず 全人類のものなり 一九五八年二月十五日 東京にて スカルノ」とある。国父、建国の父、ブン・カルノ(カルノ兄さん)と親しまれ、第三世界のリーダーとしても、また独裁者としてカリスマとして君臨したスカルノらしい碑だ。市来と吉住はともに若くしてジャワに渡り、市来は一九三六年からジャカルタの日蘭商業新聞に勤務したあと陸軍の宣伝班としてジャワ派遣軍に加わり戦死した。吉住はやはり新聞記者として市来と知り合い、海軍武官府で民族主義運動工作に従事して戦病死した。
2026年09月30日
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ピブーンは日本と組みたかったのではない。だから戦時中も日本にあからさまな協力をしなかった。けれども戦争協力はした。そのため戦後もしばらく慎重なままでいたが、一九四七年の軍部クーデターを背景にふたたび政権に復帰、親米反共路線のタイづくりに徹した。一九五四年にはSEATO(東南アジア条約機構)に加わった。ただ周辺がしだいに金権体質になって、政党も乱立、政情は安定しなくなった。一九五七年サリット将軍を中心にクーデターがおこり、ピブーンははじめアメリカに、のちに日本に亡命した。このときピブーンを導いたのは大東亜戦争期のタイ駐屯軍の司令官だった中村明人だった。ピブーンは一九六四年、相模原で亡くなった。
2026年09月28日
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一九三九年九月、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まると、タイはすぐさま中立を宣言した。翌年六月、英仏日それぞれと相互不可侵条約を締結、これでおさまるかと見えたのだが、わずか半月後、フランスがドイツに敗れ、九月に日独伊三国同盟が調印された。さあ、ここでどうするか。ピブーンはイギリスと日本を両天秤にかけるかどうか、迷っていた。イギリスの極東代表ダブ・クーパーがシンガポールに入った前後から、英米のタイ抱き込み政策が巧妙になってきた。一九四一年、日本は対米英開戦に踏み切り、真珠湾攻撃と同時にビルマ・マレー攻略のためタイ領土内に進軍した。日本軍の通過を認めるかどうか、ピブーンは日本の反欧米主義に興奮しながらも少し迷って坪上貞二大使との交渉を受けた。三〇分間の猶予しかなかった。結局日本の圧力に屈した。こうしてタイは対日協力に舵をとり、同盟条約を結んだ。四二年一月二五日、ピブーンは米英両国に宣戦布告する。親日路線はルアン・シンが仕切った。
2026年09月25日
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タイはアジア諸国のなかで、日本とともに近世近代を通してなんとか自立国家を維持できた国である。けれども欧米の経済的支配は尋常ではなかった。タイの場合、それは石油にあらわれた。ロイヤルダッチ・シェル系のアジア石油とロックフェラー系のスタンダード石油がタイの石油利権を握っていた。これに石油統制法をもって闘いを挑んだのが、首相着任早々のプレーク・ピブーンソンクラームだった。タイ経済が英米支配に冒されていることを打開したかった。ピブーンソンクラームは日本ではしばしばピブーンと略記されるが、これは本名(欽錫名)の一部だから、こんなふうに切り離せない。ただし長いのでここではピブーンとしたままにする。陸軍士官学校や参謀学校の出身で、一九二四年から三年間のフランス留学でいろいろの空気を吸った。二七年にカルチェラタンの小路ソムラール街の店で、ピブーン、パノムヨン、パモンモントリーら七人の同志が結束を誓った。
2026年09月24日
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タイはアジア諸国のなかで、日本とともに近世近代を通してなんとか自立国家を維持できた国である。けれども欧米の経済的支配は尋常ではなかった。タイの場合、それは石油にあらわれた。ロイヤルダッチ・シェル系のアジア石油とロックフェラー系のスタンダード石油がタイの石油利権を握っていた。これに石油統制法をもって闘いを挑んだのが、首相着任早々のプレーク・ピブーンソンクラームだった。タイ経済が英米支配に冒されていることを打開したかった。ピブーンソンクラームは日本ではしばしばピブーンと略記されるが、これは本名(欽錫名)の一部だから、こんなふうに切り離せない。ただし長いのでここではピブーンとしたままにする。陸軍士官学校や参謀学校の出身で、一九二四年から三年間のフランス留学でいろいろの空気を吸った。二七年にカルチェラタンの小路ソムラール街の店で、ピブーン、パノムヨン、パモンモントリーら七人の同志が結束を誓った。
2026年09月18日
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大統領アギナルド、副大統領マリアノ・トゥリアス、総司令官アルテミオ・リカルテが選出され、ボニファシオは内務大臣にとどまった。怒りを堪えきれなくなったボニファシオはカティプーナンの復活を訴えるのだが、逮捕され処刑された。その直後の一八九八年四月、アメリカがスペインと交戦状態に入った。米西戦争である。アメリカはフィリピンを領有し、多数のタガログ人が虐殺された(約六〇万人が殺された)。アメリカは「独立や分離を主張した者」を処罰するという扇動法、不法行為を摘発する山賊行為法、住民を強制移動させる集中移住法などを連発したため、フィリピン独立は一気に遠のいた。それでもサンミゲルやギリイエルらが新カティプーナンの設立をめざしたのだが、いずれも罠に堕ちるように消えた。アメリカはカティプーナン精神を途絶えさせたいのである。そこでホセ・リサール(一八九六年に銃殺)を国民的英雄に祭り上げるという巧妙な画策に出た。いっとき日本に亡命していたリカルテらはこの陰謀に対して、日本からの援助を待ち望んでいた。
2026年09月17日
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マニラのスラム街トンドに生まれたボニファシオは、そのうちのリサール主宰のフィリピン民族同盟に加わるのだが、リサールが流刑されたので、別して「カティプーナン」(祖国のための結社)を立ち上げた。多くのタガログ人が加わった。この結社はカトリシズムやコロルムやパションに裏打ちされていた。しばらく秘密の活動を続けていたのだが、官憲に動向が察知されて弾圧が始まると、一八九六年八月、蜂起に踏み切ったが、拙速と準備不足で失敗した。ここからカティプーナン内部で指導者争いが生じ、エミリオ・アギナルドとボニファシオが対立して、事態は風雲急を告げる。アギナルドは武器を日本から調達しようと試み、日本に派遣されたマリアノ・ポンセが孫文の仲介で宮崎滔天・平山周と交渉、川上操六と中村弥六が動いて、大倉喜八郎が三井物産から老朽船の布引丸を購入し武器弾薬を積み込んで出港するにまで至ったのだが、折からの台風で上海沖で難破した。対立していた両派は、合同会議によってカティプーナンに代わる臨時革命政府を樹立した。
2026年09月16日
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フィリピンの国名は、この諸島を一五四三年に制服支配したビリャロボスが、当時のスペイン皇太子フェリペ(のちの国王フェリペ二世)に因んで名付けた「イスラス・フェリピナス諸島」(フェリペの島々)にもとづいている。フィリピン近代史はこのスペイン植民地時代に、アメリカが領有者に切り替った大変化とともに始まっています。十九世紀半ばのフィリピンの民衆のあいだには千年王国思想による民衆運動が芽生えていた。一八三〇年代にはサン・ホセ信徒団が組織されて、七〇年代にはスペインの圧政を逃れるコロルム(Colorum)という地下活動がくりひろげられていた。また「パション」(Pasyon)とよばれる奇蹟劇も流行していた。八〇年代、海外の大学留学体験をもつ新たな知識階級「イルストゥラード」(ilustrado)が登場し、ホセ・リサールやデル・ピラールらは民族の自覚や独立を呼びかけるプロパガンダ運動を始めた。
2026年09月15日
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日本では平岡浩太郎や宮崎滔天が田野橘次や柏原文太郎に康有為の世話を任せ、井上雅二が同文会をつくって活動拠点を提供した。「同文」とは国や民族をこえて同じ言葉によって世界を考えようとすることをいう。こうした動向に羅孝高・梁啓超らの康有為の優秀な弟子が交じりあい、一八九八年に設立された東亜会が康有為の活動を全面支援することになった。陸羯南・三宅雪嶺・福本日南・犬養毅・平山周らが力を貸し、徐勤や唐才常が仲介をはたした。徐勤は孫文が提唱した中西学校が横浜大同学校と改称されたときに校長に就任し、唐才常は南学会をおこしている。この同文会と東亜会が合流して「東亜同文会」になったのである。かくて康有為の大同思想は日本のアジア主義の中でしだいに苛烈の度を増していった。
2026年09月14日
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康有為については、もっと深く知られたほうが良い。朱九江の礼山草堂に学んで万木草堂をおこし、大同三世説を唱えて経世済民の理想社会を展望し、日本の明治維新に倣って、西太后の専制の渦中で変法自彊運動を主導しました。政治思想的には孔子に依拠して公羊学を深めたが、その人格は清廉潔白で俗化を隔て、道教の五勝道を実践した。本格的政治活動は一八八八年、清の光緒帝に変法(維新)を上奏したことにはじまります。かつての洋務運動の限界を指摘して「戊戌の変法」の中心になるのだが、西太后のクーデター(戊戌の政変)によって失脚、光緒帝も幽閉されたため日本に亡命した。
2026年09月11日
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日本に亡命した金は小笠原に潜伏し、そこで玄洋社の来島恒喜・的野半介に守られながら捲土重来を期すものの、その後は北海道・栃木・東京などを転々とした。二松学舎で三島中洲や岡本黄石に学んだ。なかで慶応義塾で福澤に学んだ二一歳の須永元は金に私淑するほどとなり、潜伏する日々の世話を買って出た。とくに故郷の栃木県の佐野では長く匿っている。しかし、なんとか祖国の改革を実現したい金は、まわりが止めるのも聞かず、上海にわたって李鴻章と交渉しようとして、中国に密航した。けれども上海の東和洋行に寝泊まりしていたところを、金の動向をさぐっていた袁世凱の差し金で暗殺された。来島恒喜はのちに大隈重信の暗殺に臨んで自害した。佐野の妙顕寺には金玉均が揮毫した扁額「開本山」が掲げられている。金の世話をした須永元が佐野の人で、その檀那寺の縁で揮毫したのであろう。
2026年09月10日
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彼はアメリカのシャーマン号による平壌攻撃とフランス艦隊による江華島攻撃に十五歳のとき出会った。そのころの両班は対外危機に対応することなく門閥政治にあけくれ、国父の大院君は攘夷に徹していた。金玉均は実学派の朴桂寿の門に学び、二十歳のころは開化派の劉大致や呉慶錫に感化され、また駐日公使の書記官だった黄遵憲が書いた『朝鮮方策』に影響されていました。この本は「親中国・結日本・連美国」を提唱していて、ロシアを警戒していた。一八八二年(明治十五)、副島種臣が興亜会に朝鮮視察団の魚允中を招き、金はその魚に促されて同志の徐光範とともに来日することになった。福澤諭吉が連日もてなし、井上馨・大隈重信・後藤象二郎・内田良平らと親しくなった。やがて母国朝鮮の改革の必要を思って、クーデターによる政権奪取をめざし、一八八四年十二月「両班政治の打倒、大院君の復帰、事大外交の撤廃、中国への朝貢の廃止」などをスローガンに宮邸に攻め入ろうとしたのだが、閔妃一派が清国軍に護と支援を求めたため失敗した。参加した四三人の同志で生きのびたのは金ら九名だけだった。
2026年09月09日
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何千万という戦争に参加した人々にとって、大戦は人種戦争であった。むき出しの偏見をさらけ出し、それぞれの人種的プライド、倣り、怒りによってさらに激しさを増した戦いであった。それは、世界中に人種に関する認織上の革命をもたらし、現在まで引き継がれています。第二次世界大戦は様々の場所で起こった多数の戦争を含むため、それを一言で言い表わすことは不可能です。したがって人種戦争という言い方も、多岐にわたる局面の一つを表わすものにしかすぎません。しかし、それはいままでほとんど組織的検討が加えられることのなかった、重要な一面である。ユダヤ人の大量虐殺を別とすれば、人種主義は、第二次世界大戦を語る場合に主題として取り上げられることはほとんどない。しかしその重要性は、誰もが納得するはずです。いったい大戦中に人種が重要な役割を果たしたのは、いつどこにおいてであったかという問いです。質問それ自体は簡単に見えるかもしれないが、答えはユダヤ人大量虐殺に関してさえ決してやさしいものではない。西欧におけるユダヤ人の迫害それ自体は、ユダヤ人だけを対象とするものでも、ナチの非道に特有なことでもなかった。ドイツの絶滅運動はユダヤ人に限らず、その他の「好ましからぬ」人種にも及んだ。同時に、「隠れた大量虐殺」も起こった。すなわち、それは都合よく忘れ去られた形となっているが、ユダヤ人根絶は、フランスやオランダの市民、ポーランド人、ハンガリー人、ルーマニア人、スロバキア人、ウクライナ人、リトアニア人、ラトビア人によっても、積極的に支持されたのです。そして現在では、英米における反ユダヤ主義が、こうした大量虐殺について事実を公開し、救援活動を始めようとする動きを阻んだという事実も詳細に記録されている。
2026年09月08日
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ユダヤ人は国家を持たない分、国に縛られない存在です。その分個人的関係と契約を重視します。日露戦争における日本への資金提供も、自らの利益のための綿密な戦略に基ついています。彼らは日本が勝利するのを見て西欧だけが世界ではないと悟りました。欧米列強と対抗できる力を持った国がアジアに現れたことによってユダヤの世界制覇は日本を含めて戦略を考えざるを得なくなりました。日本が第二次世界大戦に繰り込まれたのも、アメリカがユダヤ人にあやつられた結果です。
2026年09月07日
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『数学原理』は存在者の間に階型の相違を認めるいわゆる階型理論に基づく公理的集合論の一種である。しかし、ラッセルがそのような解釈を認めるかどうかは、はなはだ疑わしい。ラッセルの真意はやはり、『数学原理』は近代的な存在論にあるということにある。ラッセルは単なる論理学者ではなく、存在者の構造を明らかにするために論理学を研究している哲学者にほかならない。では、このように存在論、まり、哲学の書物であると同時に技術的な論理学の書物でもある『数学原理』は、1930年ごろまでは、論理学の技術に関しても『数学原理』を繙く人が多かった。そのころ論理学の研究にはいって現在では元老と目されているタルスキー、チャーチ、クリー二ー、ゲーデル、クワインといった論理学者が、『数学原理』をなつかしげに回想するという事実もこのことを物語っている。この人たちが論理学に足をふみいれた1920年代には、『数学原理』だけが近代論理学の標準的な、ただ一つの教科書だったということである。しかし、このころからようやく『数学原理』に内在する多くの欠点が指摘されるようになったことも事実である。
2026年09月04日
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アインシュタイン方程式の特殊解としてゲーデル宇宙(回転宇宙解)を発見した、つまり「宇宙全体が回転している」モデル を提示し、この宇宙では 閉じた時間的曲線(タイムループ) が存在し、理論的には時間旅行が可能であることを発見した。時空構造の論理的・数学的性質を分析し特に「時間とは何か」「因果性とは何か」という物理学の根本問題に論理学者として切り込んだ。プリンストン高等研究所でアインシュタインと親しく交流「数学体系には必ず証明できない真理がある」という不完全性定理は、物理法則の限界 や 科学的知識の到達範囲 を考える上で重要な示唆を与えた。
2026年09月03日
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フィット・ヒルベルト(David Hilbert)は数学者だが、物理学の発展に決定的な役割を果たした。特に 一般相対性理論の数学ヒルベルト的基礎 と 量子力学の初期発展 に深く関わっている。アインシュタインと同時期に重力場の方程式を導いた一般相対性理論の数学的完成に貢献(1915)した。アインシュタインと「重力場方程式の優先権問題」で歴史的議論をかわし、両者の成果が合わさって現在の一般相対論が完成した。物理法則を「作用を最小にする原理」で統一的に記述する流れを強化した。現代の量子場理論・素粒子物理の数学的基盤に直結しヒルベルトは数学者だが、一般相対性理論の数学的完成と量子力学の数学的基礎(ヒルベルト空間) を築き、現代物理学の根幹を支える存在です。
2026年09月02日
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バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)は1872年生まれ(イギリス)で1900年代初頭〜1950年代に最も大きな業績を残す。ラッセルは科学的知識の構造を論理的に分析し、「物理学とは何を記述しているのか」という問いに体系的な答えを与えた。現代物理学の哲学的基盤 に大きな影響を与えている。また哲学的観点からその意味を整理した最初期の人物の一人です。観測問題、決定論 vs 非決定論、物理的実在とは何かなど、量子論が生む哲学的課題を深く検討し論理学・数学基礎論が物理学の数学を支えた。ラッセル=ホワイトヘッドの Principia Mathematica は、現代数学の基礎を整え、その上に構築される 量子力学・場の理論の数学的枠組みに間接的に貢献した。科学哲学・論理学・数学基礎論 を通じて現代物理学の概念的・哲学的土台 を強化した。特に相対性理論と量子力学の「意味」を整理した点で重要です。
2026年09月01日
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ゲオルク・カントール(Georg Cantor)は、 1845年生まれ(ドイツ)で1870年代〜1900年代初頭に最も重要な業績を残す数学の(集合論)を創始した人物であり、彼の数学は 現代物理学に深い影響 を与えている。カントールが作った集合論(数学の基礎をつくった理論)カントール集合はフラクタルの原型で、量子系のスペクトル、カオス系の軌道、物質の多孔質構造などの解析に使われる。無限の階層構造(可算無限・非可算無限)は量子場理論や一般相対論で「無限大」「無限小」を扱う場面が多く、カントールの無限階層の考え方が数学的基盤になっている。カントール集合(フラクタルの原型)でその数学が 量子力学・カオス・場の理論など現代物理の基礎を支えている。現代物理の数学(線形代数・解析・位相空間など)はすべて集合論の上に構築されている。
2026年08月28日
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ハイゼンベルクは量子力学を数学的に“完成”させたドイツの理論物理学者で 行列力学 と 不確定性原理 の提唱で知られる。行列力学(1925)とは量子の世界を 行列(マトリックス) を使って記述する新しい力学を構築し、これが 量子力学の最初の完成形 とされる。量子力学を「数学的に厳密な理論体系」へと押し上げた中心人物であり、彼の理論がなければ、原子の構造、半導体、レーザー、核物理、現代の素粒子物理などは成立しなかったと言っていい。行列力学で量子力学を構築し不確定性原理で量子の本質を示した。量子場理論の基礎を築き、現代物理へつながる道を開いたが後にシュレーディンガーの波動力学と同等であることが証明され、量子力学が統一された。
2026年08月27日
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物理学者アーサー・コンプトン(Arthur Compton)の業績を、最短で要点だけまとめるね。アメリカの物理学者で、X線が電子と衝突すると波長が変わる(コンプトン効果)を発見した人物。この成果で 1927年ノーベル物理学賞 を受賞した。コンプトン効果とはX線(=光)が電子にぶつかるとその後の光の 波長が長くなる(エネルギーが減る)これは光が 粒子(光子)として電子に運動量を与えた証拠です。つまり 光は波であり粒子でもあるという量子論を強力に裏付けたもので、これがなぜ重要なのかというと光子が 運動量を持つことを実験で示したことで、アインシュタインの光量子仮説を決定的に支持し量子力学の基礎を固める大きな一歩になった。
2026年08月26日
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ジェフリー・イングラム・テイラー(G. I. Taylor)は、主に流体力学の巨人として知られるイギリスの物理学者です。量子力学にも重要な足跡を残していて、特に有名なのが 単一光子による干渉実験(テイラーの実験)で、単一光子干渉を示し、量子の波・粒子二重性を実験で裏付けた。量子力学の発展はプランク → アインシュタイン → ボーア → ハイゼンベルク → シュレーディンガー → ディラック → 量子場理論 と進み、現代物理の中心理論になった。
2026年08月25日
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マックス・プランク(Max Planck)は、 量子力学の生みの親として知られるドイツの理論物理学者で黒体放射の研究から、エネルギーは連続ではなく「量子(かたまり)」として受け渡されると提唱し、この発見が 量子力学の出発点 になった。つまりプランクの「エネルギーは飛び飛びの値しか取らない」という発想は、当時の物理学の常識をひっくり返し、原子・電子・光の振る舞いを理解するための新しい物理学(量子論)を生み出した。
2026年08月24日
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とはいえ、大多数の物理学者と生理学者は、人間の脳のような通常の大きさの物体の働きに関連した物理法則をわれわれはすでに十分知っている、と判断するだろう。脳は物理的システムとしては例外的に複雑であり、その詳細な構造と重要な動作に関してまだ分かっていないことが大量にあることは疑いがないとはいえ、その振舞いの根底にある物翔的原理の理解に重大な欠落があると主張する者は少い。これとは逆に、われわれは物理学をまだ十分理解していないので、脳の機能をそれこもとづいて適切に記述することは、たとえ原理上のことに限ったとしても、まだできない。ここはニュートン力学とアインシュタインの相対論を含む。、「古典物理学」と呼ばれるものを扱う「古典的」はここでは、本質的には、(プランク,アインシュタイン,ボーア,ハイゼンベルク,シュレディンガー,ド・ブロイ,ボルン,ヨルダン,パウリ,ディラックらの物理学者の霊感に満ちた研究を通じて)1925年頃に量子論――分子,原子および素粒子を記述する,不確定性,非決定論とミステリーの理論――が登場する以前に威勢を振るっていた理論を指す。これに反して,古典的理論は決定論的であるので,未来はつねに過去によって完全に定められている。そうはいっても,古典物理学にも謎めいたものが多くつきまとっている.何世紀にもわたって理解が積み重ねられたおかげで,非常に驚異的な正確度の描像が生み出されたという事実にもかかわらず,そうなのである。わたしは量子論についても検討し帥ればならない。というのは,生理学者の多数意見らしく思われるものとは反対に,量子現象は脳の働きにとって重要であるらしい,と信じているからである。
2026年08月21日
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思考とは,「心的表象の変換を含む目標志向的活動」であり,その多くは,外界に働きかけてこれを好都合なように変化させる方法を見出す問題解決と,得られた情報から外界ないしその一部の状態を推測する理解を目標とする。心的表象とは外的環境の諸特徴を心の中で代表する情報であり,そのうち比較的安定していてかつ外界の事物・事象やそれへの活動を代表するものが知識あるいは信念であるから,多くの思考は知識の操作を含む。しかし,メモを取る,略図を措く,動作しながらイメージする,などの例から明らかなように,思考過程のすべてが心の中で行われるわけではない。また,思考が現実世界において適応的機能を持つためには,変換が窓意的でなく一定の規則.原則に従って行われる必要があり,このように制約された情報変換の過程が推論と呼ばれている。欧米人は不思議な考えをもっています。外界は五感でわからないものは無いと考えている。そして心も意識でわからないものは無いとも考えている、東洋人は五感と第六の目である意識も含めて六感でわかるものを「もの」といい、六感でわからないものを「こころ」と言って自然は物心両面からなっていると考えます。
2026年08月20日
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空軍は第一次世界大戦期に登場し、当初は偵察・空中戦・対地支援が主任務であったが、やがてそれに敵の陣地や都市への爆撃が加わった。航空攻撃の威力は第二次世界大戦では地上・海上の戦闘にとって決定的な意義をもつようになり、また敵の都市や重要施設を集中的に攻撃して相手の継戦能力を減耗させる戦略爆撃も同様である。戦略空軍の役割は核兵器の登場でさらに拡大したが、その後、戦略ミサイルが戦略爆撃機の地位を大きく奪い取った。ロケットやジェット機の登場は、戦闘機と軽爆撃機の区分を廃止させ、空中戦にも対地・対艦攻撃にも使える戦闘爆撃機が戦術面での中心になっている。また、レーダーや電子装置の発展は、空軍戦術をはるかに複雑なものにした。
2026年08月19日
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海軍は帆船時代から第一次世界大戦まで、長らく主力艦隊どうしの砲撃による決戦や敵の港湾封鎖を主要な課題としてきた。索敵・展開・戦闘・追撃という戦闘パターンが一般的であった。しかし、第一次世界大戦で潜水艦が本格的に使われると、主力艦の援護や対潜行動が比重を増し、また潜水艦による通商破壊戦とそれへの対抗策が海軍戦略の重要な1項目となった。だが、長距離砲と分厚い装甲をもった主力艦と、それを援護する補助艦を基礎とする戦略は、航空部隊の海戦への投入によって無効となり、第二次世界大戦では空母と潜水艦とが海戦の主役を占めている。他の艦船も対空・対潜戦闘を基本とするようになり、船団護衛や上陸支援が主任務となった。第二次世界大戦後も、空母と潜水艦の重要性は変わっていないが、非核・核ミサイルを搭載した水上艦艇の多面的な役割が増加しつつある。
2026年08月18日
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産業革命の進展とともに銃砲の発射速度や精度も増し、横隊はしだいに散開隊形に変わる。フランス革命は国民徴兵によって大軍隊をつくるとともに、行進を遅くしていた火砲の機動力や兵站負担を軽減した。軍隊は何列もの縦隊で急速に行進し、戦闘にあたっては散開して銃砲弾を決勝点に集中し、動揺する敵陣に白兵突撃を敢行するとともに、騎兵や予備隊による追撃で戦果を拡充した。19世紀中葉以降、銃砲の後装化や機関銃の登場で、より散開的な隊形がとられると同時に、射撃力や突撃力の不足を補うため小部隊単位での戦闘が重視される。鉄道や道路網の整備、通信技術の進歩は兵力の分散・機動・集中や統一指揮をさらに容易にし、将校教育の体系化などと相まって、戦術上の柔軟性がより増加した。他方、火力増加、塹壕(ざんごう)・鉄条網の利用は防御力をも強化し、第一次世界大戦では、野戦での短期決戦ではなく、綿密に組織された塹壕網と、拠点火力に対する大量砲撃と何波かに分かれた人海戦術との衝突が常態化した。毒ガスや戦車は陣地突破用の新兵器として登場している。第一次世界大戦後、マジノ線による固定防御を重んじたフランスを除く各国陸軍は、戦闘を再機動化させるのに意を砕き、戦車、対地支援航空機、歩兵・砲兵の車載化などを組み合わせた機動戦が第二次世界大戦では復活しました。
2026年08月17日
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二〇世紀の初め(1916年)に、アルバート・アインシュタインが相対性理論を提唱し、物的世界に対するわれわれの見方が一変した。それまで、物体の運動に関する力学と電波や光の挙動に関する電磁気学に不整合があったのを、アインシュタインは光(可視光線も電波も物理的には周波数の違う電磁波であるので、以下「光」と総称する)を絶対視することによって物理学を刷新したのである。その結果、時間の一次元と空間の三次元は、四次元の「時空間」という相対的形式に統合された。われわれは、空間はどこも一様であり時間も単調に経過すると考えているが、相対性理論によると、それは観測系(ある特定の観測者を時空間の原点においた座標系)によって異なるのだ。またアインシュタインは、物体が光速度近くまで加速すると膨大なエネルギーを持ち、それが質量に転化する(重くなる)という関係を導いた(それゆえに物体は光速度を超えられない)。相対性理論では、光速度は絶対であるので、光路はまっすぐなのに空間が太陽のほうへ歪んでいるので、光が曲がったように見えていると考える。太陽のような大質量の付近ではどこも空間が曲がっている。これが極端になった空間がブラックホールである。
2026年08月10日
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第一次世界大戦で敗戦したオスマン帝国は解体し、ヴェルサイユ講和会議で領土の西をギリシアに、東をアルメニアに、南東部をクルド人に割譲し、首都イスタンブールを国際管理にすることになった。この仕打ちに対して一九二〇年にアンカラで招集された大国民会議は、ガリポリの戦いで活躍したムスタファ・ケマルを指導者として祖国回復運動を展開していった。トルコ革命である。その成果は一九二三年のローザンヌ条約となり、エーゲ海島嶼をギリシアに渡し、トルコ領内のキリスト教徒とギリシア領内のイスラム教徒を交換するという条件を獲得して、トルコ共和国の樹立にいたった。問題は南下政策をとりつづけるロシア(ソ連)による共産化の波をどうはねのけるかだった。
2026年08月07日
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加藤内閣は首相の病歿で短命に終わり、山元権兵衛に組閣の命が下りた。1923年九月一日の正午の関東大震災による震災恐慌に対して、政府は 震災手形割引損失補償令を出して銀行救済を行ったが、この震災手形が結果的に昭和 2(1927)年の金融恐慌の直接的原因をなしたのである。国内では大戦時の過剰な投資により経済は危機に瀕するようになってい た。昭和2年(1927年)に始まった金融恐慌でそれが一気に表面化し、その後の世界恐慌の余波に巻き込まれるにあたり経済的な逼迫感はピークとなっ た。当時、列強はそれぞれ他国からの輸入品には多額の関税を課すなどの施策 により自前の経済圏を形成していくことで経済の建て直しを図っていた。資源に乏しく国内消費力が落ち込み、貿易によって経済を立て直さなくてはならない日本にとってまさに満洲が生命線であると広く認識されていった。
2026年08月06日
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第一次世界大戦による異常な物価騰貴は、1914年を100とすると4年後の1918年には230と130%も上昇した。工業の発展と人口の都市集中による消費量の増加と米の買い占め・売り惜しみが原因です。富山県下の住民が発端の米騒動は全国に広がりました。政府は治安維持のために軍隊を出動せざるを得ませんでした。この結果寺内内閣は倒れ、原内閣が誕生しました。原内閣は第一次世界大戦の終幕、ベルサイユ条約の締結、ワシントン条約の調印を行ったが、1921年にテロにより暗殺されました。原内閣の後を受けた高橋内閣は改造に失敗し瓦解し、加藤友三郎が組閣を行った、
2026年08月03日
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第一次世界大戦では西欧の列強は国力を消耗し、それに対して自らの 国土は無傷で大いなる武器などの輸出国として潤ったアメリカは、世界の中で の発言力が増した。この力を背景に自国の利益を優先させるよう国際世論をコ ントロールし、日本が孤立するように導いていった。その最たるものが大正1 0年(1921年)のワシントン会議であった。この会議においてアメリカは自国が中国に進出することを容易にするために、かねてから主張していた中国 の主権尊重、領土保全、門戸開放、機会均等、関税率の拡大などを認めさせた。 そしてそれ以降の日本の大陸進出を事あるごとに条約違反と批判するようにな った。また同時にアメリカにとってやっかいな存在だった日英同盟を破棄させた。アメリカとしては、早い時期から直接日本と戦うことも想定し仮想敵国としての研究を重ねつつ、日本との戦争も辞さずという姿勢で、その利己主義の権化たる国際正義を持ち出し挑発しつづけた。
2026年07月31日
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日本に大陸進出の好機が訪れます。大正3(1914)年に勃発した第一 次大戦により、西欧諸国は支那からの一時的後退を余儀なくされ、日本は日英同盟を名目に連合国の一員として参戦、山東半島と南洋群島のドイツ権益を手中に収め、さらに、大正4(1915)年「対華二十一カ条要求」などで支那に対する支配を強めようとした。しかし、大戦で疲弊した西欧諸国に代わって世界の主導権を握ったのはアメリカです。主動的立場になったアメリカは、大正10(1921)年に日本、イギリス、フランス、イタリア、支那、 オランダ、ポルトガル、ベルギー、アメリカの9カ国が参加したワシントン会議で九カ国条約を採択、日本は山東半島など、第一次大戦で得た権益の殆どを失うことにな る。この会議ではまた海軍軍縮条約が結ばれるとともに、日英同盟も廃棄され、日本 は列強とは独立した路線を進むことを余儀なくされることとなった。
2026年07月30日
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ボリシェヴィキ革命の成功は第一次世界大戦の欧州戦況を一変させた。1918年7月連合国(米・英など)にチェコ軍救援を要請された日本は、8月に約7万の軍勢をウラジオストクに上陸(最終的に10万規模へ拡大)させました。表向きは「チェコ軍救援」だが、実際には、反ボルシェビキ勢力の支援、沿海州での勢力拡大、共産主義の拡大阻止が目的です。日本軍はウラジオストク周辺だけでなく、シベリア内陸部(ハバロフスク・チタ方面)へ進出し、反ボルシェビキ政権(コルチャック政権)を支援しますが、コルチャック政権は崩壊し、日本の支援は成果を失い、目的が曖昧になり、撤兵のタイミングを失いました。1920年4月尼港事件(日本人多数が殺害される)が発生し軍部は「治安維持」を理由にさらに駐留を正当化しました。ソビエト政権は日本軍の撤退を強く要求しましたが日本政府は軍部の反対や国際関係の複雑化で決断できず1922年国内財政の悪化により撤兵に踏み切りました。
2026年07月27日
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皇帝の専制政治を打倒し、人民が支配する共産主義社会を目指した革命です。19世紀初頭に英国で産業革命が進みましたが、工業関係の法律は制定されておらず、資本家は低賃金で労働者を長時間酷使していました。そこで労働者を擁護するためにマルクスとエンゲルスが共産主義を提案しました。この思想を受けてロシアで、世界で初めての共産主義国家、ソビエト社会主義共和国連合が誕生しました。広義には1905年の「第一革命」と、1917年の二月革命および十月革命の「第二革命」を指し、狭義にはレーニンらボリシェヴィキが権力を奪取した十月革命(ボリシェヴィキ革命)を指します。
2026年07月24日
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初代朝鮮統監となった伊藤博文が1909年に満州ハルビンの駅で朝鮮人の安重根に暗殺されてしまうと、日本は激怒した。大国ロシアを倒した日本の元勲を暗殺してしまった朝鮮は震えあがって併合を申し出た。日本にとって朝鮮の近代化は巨額の予算が必要であったが1910年8月23日京城において統監寺内正毅と韓国首相李完用との間に併合条約が調印されました。日本はインフラの整備や教育に巨額の予算を注ぎ込みました。
2026年07月23日
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イタリアムッソリーニは「日本に加え、眠れる獅子と称されたアジアの大国中国が、日本化されて協力したらどうなるか。日本が眠れる隣人を目覚めさせ、手を携えたとき、だれがこの2国が世界のヘゲモニー(主導権)を取らないと言い切れるか」と憂慮した。日露戦争勝利は、小国(白人)や植民地や有色人の虐げられし人類の星となると同時に、白人(大国、宗主国)の標的となった。1904年8月23日第一次日韓(大韓帝国)協約を結ぶが、1905年7月大韓帝国の高宗の、ロシア帝国への密使が発覚する。1905年11月17日第二次日韓(大韓帝国)協約を結ぶ。外交権を失い、日本の保護国となる。同じころの1905年ハリマン満鉄買収計画(アメリカの鉄道王ハリマンと首相桂太郎が)で、満鉄共同経営の予備調印をしたが、外相小村寿太郎の反対で、中止となった。1905年7月29日桂・タフト協定で韓国には日本が、フィリピンにはアメリカ合衆国が影響力を持つと、相互に認め合う。
2026年07月22日
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1902年に日本は、ロシアのアジア進出を牽制する目的で締結された軍事同盟、日英同盟を締結し日露戦争に備えました。ドイツ皇帝ウィルヘルム二世は、日本の日露戦争勝利にたいして「世界に人類の運命を決する大きな危機が近づいている。その第一回の戦争は、我ら白色人種のロシア人と有色人種日本人との間で戦われ白色人種は、不幸にして破れ日本人は、白人を憎んでいる白人が悪魔を憎むように憎んでいる。しかし我等にとって日本そのものが危険な訳ではない。統一されたアジアのリーダーに日本がなることが危険なのである。日本による中国の統一、それが世界に脅威を与える最も不吉なことである」と述べました。日露戦争開戦直後の1904(明治三十七)年、アメリカでは「カラープラン」といって、ドイツは黒、イギリスは赤、日本はオレンジというように、国ごとの戦略が作られた。そして排日移民法が成立した1924年、日本を仮想敵国とする対日戦略「オレンジ計画」が確定しました。大統領政権(1901―09年)の元で対日戦争計画が作られ、それ以後入念に作られてきた対日戦争計画オレンジ・プランに従って戦争を遂行し、1945年の最終的な勝利を得た。
2026年07月21日
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1898年アメリカは、スペイン戦争(米西戦争)の結果ハワイ、グアム島、プエルトリコをアメリカ領に併合。さらに、1899年、フィリピン、サモア、ウエークを併合した。1900年にベバレッヂ上院議員は米国会で演説しました。「我々は東洋における我々の機会を放棄しない。我々は神によって世界の文明を託されたわが民族の使命を遂行するにあたってわれわれの役目を放棄しない。・・・今後我が国最大の貿易はアジアと行われるにちがいない。太平洋は我々の大洋である。・・・支那はわが国本来の消費者である。」
2026年07月17日
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1881年(明治14年)、アメリカによって独立を脅かされていたハワイ王国のカラカウワ王は、日本を訪れ、姪のカイウラニ姫の婿として山階宮定麿王をお迎えし、日本の力でハワイの独立を守ってもらいたい、と明治天皇に申し入れをした。明治天皇はアメリカとの摩擦をおもんばかって、丁重にお断りした。1894年、入植していたアメリカ人は武力でハワイ王国の支配権を奪取し、アメリカ人宣教師の息子ドールを大統領とするハワイ共和国を作った。アメリカ合衆国はこれを4年後に併合する。
2026年07月16日
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かつてテキサスはメキシコの領土であった。そこに入植したアメリカ人は1835年に独立運動を起こし、翌年、155人の守備隊がアラモ砦に立てこもったが、メキシコ軍の攻撃により全滅した。 アメリカ人達は"Remember Alamo"を合い言葉に戦いを続け、翌年、独立を勝ち取った。アメリカはこれを46年に併合し、さらにカリフォルニアを狙って、メキシコに宣戦布告、勝利を得た。 この戦争の結果、アメリカは現在のアリゾナ、カリフォルニア、コロラド、ニュー・メキシコ、ネバダ、ユタ、ワイオミング各州にあたる地域をメキシコから奪取した。この結果、メキシコは領土の半分以上を失った。
2026年07月15日
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支那は辛亥革命(1911年)によって共和国が誕生していましたが、非常に不安定な政権で混乱が続いており、大総統の袁世凱は「皇帝」になりたくてしょうがなかったので1915年12月には立憲君主制が議会で可決されると、袁は皇帝の宗教儀式を復活させるなど行って中華帝国皇帝についています。明治四十五年(1912年)、孫文が大統領となり、清朝は滅んだ。孫文は日本で覚えたらしい「革命」という言葉を使い、自分たちのやったことを辛亥革命と称した。しかし、本来は革命でなく独立である。二十一カ条は袁が皇帝、あるいは外国と交渉できる国家元首として認めてもらいたかったための譲歩であり、面子をたてるために日本に強要され仕方なかった、ということにしたのでしょう。日本の加藤高明外相は「条約の最後通牒は、譲歩する際に支那国民に対して袁の顔を立てるために、袁に懇願されたものである」と公然と認めています。さらに、アメリカ公使ポール・ラインシュの国務省への報告書には、「支那側は、譲歩すると約束したよりも要求がはるかに少なかったので、最後通牒の寛大さに驚いた」とあります。
2026年07月14日
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ハクスリー(1825-1895)は、イギリスの生物学者、科学啓蒙家で、ダーウィンの進化論を擁護した生物学者にして啓蒙主義者です。ハクスリーの影響を受けたウェルズの特徴は、初期のSF作品から、『世界史大観』に至るまで、進化論的社会主義ともいうべきユニークな思想が貫かれていたことである。イギリス生まれの社会進化論は、社会ダーウィニズムに結びつけて語られることが多い。この社会ダーウィニズムは、イギリスのゴルトンの「優生学」に結びついて、さらにドイツのプレッツらによってナチスの人種政策に利用された。また、自由競争を弱肉強食・適者生存に結びつけて、「優等人種」による帝国主義的支配を正当化するイデオロギーとして機能してきた。しかし社会進化論そのものは、帝国主義的・ナチ的であったわけではない。ダーウィンに先立って、「社会進化論」を唱えていたのがスペンサーである。スペンサーの考えた「人間社会の適者生存の法則」とは、「軍事型の社会から産業型の社会への移行」であり、そうした必然性を自由放任に任せるというものだった。クロポトキンのように、アナキズム思想に社会進化論を採用した人物もいる。進化の法則は生存競争でなく「相互扶助」にこそもとづくものであり、国家はその自然な原理に逆らう敵対物であった。
2026年07月13日
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HerbartSpencer(1820~1930)は英国の哲学者です。進化論に基づいて、星雲の生成から人間生活にいたるまで、すべてを総合的に説明しようとしました。主著「総合哲学体系」は第一原理を基礎とし、生物学、心理学、倫理学の全般にわたり、すべてを進化の原理に基づいて組織的に説明しました。それは当時の自然科学万能の思想を背景とするものでした。しかし、認識論的には不可知論に属するものでした。彼の哲学はダーウィンの進化論の普及に結びつき、国際的に大きな影響を与え、明治前半期の日本への影響も著しかった。
2026年07月10日
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1914年、第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟を理由にドイツに宣戦を布告し東アジア・西太平洋におけるドイツの軍事拠点である支那の青島や南洋群島を占領しました。この時日本は「適者生存」の理論を植民地支配の正当化に使い、ことさらに「自然淘汰」を人間の手で行おうと考えていました。日本の内部には有色人種と白色人種のはざまにあり、国際的孤立に危機を覚える人もおりました。1919年、第一次世界戦争の対独平和会議がパリで開かれた際、日本の三大要求は第一に山東省のドイツ利権の継承、第二にドイツ領南洋群島の領有、第三に人種差別の撤廃です。第三の要求は米英の反対で受け入れられませんでした。
2026年07月08日
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国内を開拓しつくしたアメリカは、新たなフロンテアを求め支那大陸に進出を求めました。しかし、支那大陸にはロシアの戦いに勝利した日本が勢力を伸ばしてきていました。1906年4月サンフランシスコを襲った地震と火事の大災難の際、彼らは東洋人を血祭りにあげ略奪と暴行を加えました。米国人は、ダーウィンの学説を自分たちの都合のいいように、もじって利用したのです。彼らは、生存競争で最適者として生き残ったのであり、こうしてかれらは「自然の選択作用」によって頂点に位置し、支配階級となったのであった。これが、あるひとつの階級がほかの階級を、またあるひとつの人種がほかの人種を支配することを根拠づける理由になり、帝国主義と白色人種の優劣の究極の証明となった。それによって、西洋の多くの人びとは、かれらが圧制をほしいままにし、乱暴で、暴力を発揮すればするほど、それだけ人間としての価値の基準からいっても、高いものであるかのように思いこんだ。
2026年07月07日
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十九世紀に入っては、西欧という一つの歴史的世界に於てドイツとフランスとが対立しましたが、更に進んで、全世界的空間に於て、ドイツとイギリスとの二大勢力が対立するに至りました。これが第一次世界大戦の原因です。十九世紀は国家的自覚の時代、所謂帝国主義の時代であった。各国家が何処までも他を従えることによって、自己自身を強大にすることが歴史的使命と考えました。そこには未だ国家の世界史的使命の自覚というものには至りませんでした。国家に世界史的使命の自覚なく、単なる帝国主義の立場に立つかぎり、階級闘争と云うものを免れません。
2026年07月06日
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1916年に政治学者の吉野作造が論文「民本主義」を発表し、学問・芸術の世界に多大な影響を及ぼしました。これを契機に日本の学問・芸術は質的に大きな発展を遂げ、国家や政府から独立し、自由と個性を追求する雰囲気が全分野にみなぎりました。この「民衆文化」の開花がいわゆる「大正デモクラシー」であり第一次世界大戦による産業の拡大と相まって本格的な労働運動・社会主義運動が展開されました。
2026年07月03日
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