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平野いづみさんのはがき絵初夏 ~ 夏ラジオ体操のお友だち、平野いづみさんの「イラスト漫画」です。たくさん頂いてあった中から夏の絵だけに絞りました。同じ花を見ても、彼女の目を通すと、こんなに愉しい画になるのが不思議です。一枚一枚眺めていると、しばし童心に帰り、ほのぼのとした気持ちになりました。彼女がご自分でブログを作られるのがいちばん良いのですが、彼女はこういうのは苦手で無理なのです。あまりにも勿体無いので、時々私がいづみさんに代わってご紹介しています。いづみさんへのメッセージがありましたら、タイトルに「いづみさんへ」と書いて、コメント欄にお書きください。必ずご本人にお伝えいたします。ただ、個々のコメントへのお返事は無理かと思います。その点はどうぞご容赦下さい。
2017.08.30
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☆すれ違う背中を・乃南アサ・新潮社(新潮文庫)・平成24年12月1日(平成22年4月 新潮社より刊行)*梅雨の晴れ間に♣︎小森谷 芭子(こもりや はこ)罪状=昏睡強盗罪、懲役7年。29才。世間知らずの女子大生だった頃に愚かな恋愛をした。相手がホストだったばかりに、彼に貢ぐために家族の財布から札を抜き取り、消費者金融で借金を重ね、挙げ句の果てに見知らぬ男をホテルに誘い出しては薬で眠らせ、財布を抜き取るという行為に出た。20代の全てを溝(ドブ)に捨てたことになる。小森谷の家からは、芭子という存在はかき消された。芭子の幼い時からのアルバムや大好きなスヌーピーの人形、文房具、アクセサリーなど、生まれ育った家から送られてきた。謝れば許されるだろうとの芭子の甘い考えは吹き飛び、戸籍からも外され、今、芭子は自分1人だけの戸籍で生ている。祖母の遺してくれた古家に住む。近所の人は、祖母の嘘を信じて海外留学していたと思っている。犯した罪は懲役という形でとっくに償いをおえている。だが「前科者」ということにかわりはなかった。だからこそ、ひたすら目立たないように、息を殺して地道に生きて行かなければならない。そういう中で自立を目指す難しさなど、「あそこ」にいるときには想像もしていなかった。♣︎大芝綾香(あやか) 罪状=殺人、懲役5年。41才。家庭内暴力の夫に長年苦しめられ続けており、心身ともに疲弊しきっていた。その上、数回の流産の末にようやく生まれた我が子にまで危害を加えられそうになったことで、どうしょうもなく追い詰められた結果として、ついに夫を殺害した。情状が酌量されての温情判決だった。いつかは自分の店を持ちたいと、毎朝夜明け前から起き出して、パン職人の修行に明け暮れている。そんな日々のなか、昨秋詐欺にあい、それまでこつこつと貯めてきたお金をすっかり持っていかれた。以来、ますます倹約家になった。2人が知り合ったのは刑務所だった。同房の受刑者の中には、実に様々な女たちがいた。シャブ中。売春婦。泥棒。放火魔。詐欺師。粗暴犯。懲りてもおらず、悔いてもいない女も少なくなかった。その一方では、心から悔いて暇さえあれば手を合わせ、黙々と写経をしている年老いた母親もいた。そんな中で、綾香と芭子は何となくウマが合った。綾香となら、何でも話し合える。人に知られたく無い体験を共有しているし、それぞれの過去と心の傷を十分に承知しているという絆がある。年は一回りも違う。育った環境も、性格も、好みも何もかも違っているが、今の芭子にとって、綾香は世界中でただ1人の心の拠り所だった。綾香が商店街の福引きで一等賞を当てた。『大阪ユニバーサル・スタジオ・ジャパンとなんば花月で吉本のお笑いを楽しむ二日間の旅、ペアでホテル一泊』だ。夜、11時過ぎに家を出て、綾香と連れ立って集合場所に歩いて行くと、深夜の不忍通りには大型のバスが3台連なって駐車していた。久し振りの遠出だった。夢のような2日間だった。一生懸命働いて、少しずつでも貯金をする。そしてまた、思う存分羽をのばせる場所に来る。芭子は考えただけで、不思議なくらいやる気が湧いてきた。ようやく小さな灯火がともったような気分だった。*毛糸玉を買って芭子はアルバイトを見つけた。「パピーカタヤマ」という総合ペットショップの仕事だ。芭子の仕事は、全ての動物の様子をチェックすることに始まる。死んでいる場合は処分するし、病気らしい場合は薬剤入りの専用水槽に移す。続いて犬や猫のショーケースのそうじだ。健康チェックをしつつ記録する。無理な交配で生まれたせいか、ひ弱な動物が多い。全ての作業を終える頃には、11時の開店時間になっている。3人いるアルバイト店員の中でも、何一つ経験も資格もない芭子は、常におろおろし、右往左往するばかりだった。それでも先輩社員に教わりながら、小鳥のヒナの餌を作って与えたり、子犬や子猫を構ってやるのは楽しかった。そうして1週間ほど過ぎた頃、たまたまブティック部門の責任者と一緒に、卸の業者から届いた洋服をチェックしていたときだった。その責任者の女性が「本当はこういう服じゃなくてさ」と呟いた。その言葉に、芭子の方が反応した。「私が作って見ましょうか」芭子の作った服は好評で、やがてどん仕事が増えていった。突如として、「わんちゃんドレス」のことばかり考える毎日が始まった。ほかに、*かぜのひと*コスモスのゆくえいつも他人の視線に怯えながらも、助け合い、支え合いながら健気に生きる2人の話。★芭子 & 綾香シリーズ1.いつか陽のあたる場所で2.すれ違う背中3.いちばん長い夜に
2017.08.30
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ー 彼岸花 ー昨日の朝、いつもと違う道を通って、ラジオ体操会場へ向かいました。途中、土手の草むらの中で、彼岸花が一本だけ咲いているのを見つけました。それにしてもこの暑さのなか、一ヶ月早いです。ー 庭の花たち ー我が家の庭はいま、ゴーヤと青紫蘇が生い茂っています。そんななかで、負けずに咲き誇っているのが、サルビアコクネシアの赤とピンク、そしてトレニア、いずれもこぼれ種が芽を出した実生です。以前は、ブルーサルビアや日々草、ベコニアなどの苗を植えたこともありました。けれど、どれも猛暑日が続くと元気が無くなってしまいました。無駄な抵抗をやめて、この子たちを育てることにしました。夏の暑さにも強い日差しにも負けず、健気によく咲いてくれます。
2017.08.27
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☆スコーレ No.4・宮下奈都・光文社・2009年11月20日 初版一刷発行 (2007年1月 光文社刊)*No.1津川麻子=長女、12歳、中学1年生=私 〃 七葉(なのは)=1学年下の妹 〃 紗英=6歳下の妹広くなったり細くなったりしながら緩やかに流れてきた川が、東に大きく西に小さく寄り道した挙句、風に煽てられて機嫌よくハミングする辺りに私の町がある。 家族は、祖母と両親、それに中学1年の私と妹2人の6人家族。家はマルツ商会という名の古道具屋である。誰もいない店に入り、澱んだ空気に身を浸すのが好きだ。窓を開けて風を通す前の埃っぽい匂いを嗅ぐと、全身の毛穴が閉じて余分なものが何一つ出ていかない、落ち着いた気持ちになれる。麻子という自分の名前は古めかしくて平凡で、麻という素材の素材の素っ気なさも好きになれない。それにひきかえ、妹の「なのは」という名も、器量の良さも可愛らしさも、自由奔放な性格も羨ましかった。それでも2人は仲が良かった。*No.2私は地元の共学の公立高校に通っている。これまでの15年間、誰とも付き合ったことがない。従兄弟の大学の修士課程に進み、我が家のそばにアパートを見つけたという。母は義理の甥にあたる愼を可愛がっていた。愼の母はイギリス人だ。高校受験を控えた七葉が愼に英語を教えてもらうことになった。私は毎週土曜の午後は愼と映画を観に行くようになった。映画が特に好きなわけではなかったが、愼と一緒にいられるだけで楽しかった。時々骨董店にも連れて行ってくれた。頭の中はいつも愼とのことでいっぱいだった。中学校の友達とは疎遠になった。家族との時間だけは極力つくるよう心がけていたし、三人姉妹の長女の役をきちんと務めているつもりだった。七葉の高校の合格発表の日、家族はお祝いの準備をして待っていた。七葉は高校に合格したと連絡したまま、9時になっても帰らない。家庭教師をしてくれていた愼も姿を現さなかった。その夜、七葉は11時過ぎになって愼に送られて帰ってきた。翌朝、母が話してくれた。「七葉がね、押しかけたらしいのよ、愼ちゃんのところへ」入ったばかりの大学の寮で、自分の実家から送った荷を解きながら、私は2年前の春を思い出していた。七葉の合格発表の晩の後、私が愼を見たのは一度きりだった。新年度からイギリスに留学することになり、挨拶に来たのだ。愼の灰色の目は、こちらに向けられていたけれど、私を見てはいなかった。愼が去ったあと、祖母は「麻子に渡してくれと頼まれた」といい、小さな包みを渡してくれた。そっと開けると、いつか愼と見た螺鈿のペンダントが出てきた。思えば、七葉と私は同じものに惹かれ、同じように欲しがった。七葉と同じものを好きになったら、最後は諦めるしかない。愼を思う気持ちが弱かったとは今でも思わない。でもそれだけでは駄目だったのだ。人生は勝ち負けじゃない。けれど私は七葉のそばにいたら、きっとずっと負け続ける気がした。家から通えない大学を選んだ。学内の女子寮に入るならと、父母や祖母は折れた。みるみる垢抜けて華やかになっていく妹と私の間には、もはや会話はほとんどなく、私たちはお互いから遠ざかった。No.33年になり就職活動をはじめた。パンフレットの綺麗な写真も、言葉も、どれもこれも絵空事のように見えて、自分がそこで働く姿をどうしても想像することができなかった。迷う私に小野寺は「仕事というのはプロセスなんだ。仕事の内容そのものが人間の中身に関わるわけじゃない。どんな仕事であれ、責任を持って働くことで成長していくんだ。だいたい自分がやれそうなことってわかるだろ。それでいいんだよ。大事なのはとにかく働くことなんだからさ」といった。小野寺とは大学へ入ってすぐに、しばらくつきあっていた。サークルで初めて顔を合わせたその日から、可愛い可愛いと私を褒めた。話題も重なることがない。だいいち、私のことを可愛いというなんて間抜けな人に違いなかった。七葉と並んだ私に向かっても躊躇なく可愛いと言い切れるだろうか。そんなことを想像すると、おかしくて、むなしかった。けれど、可愛い、とか、君をあきらめない、とか、これまで聴きなれなかった言葉が自分の中でどんどん重力を増していく。家族から、七葉から、離れたキャンパスの、やわらかな新緑が目にしみる季節。私はまだ「可愛い」が自分の弱点だなんて気づいていなかった。かつて、私に「可愛くなりたいの?」と、聞いた人がいた。今も生なましくて傷口を正視することができない。その人にこそ、可愛いと思われたかった。その人だけが可愛いと思ってくれればそれでよかった。もしそうなら、可愛すぎる妹がそばにいても、「可愛い」に、これほど囚われずに済んだはずなのに。やれそうなことを、という小野寺の助言のせいだろうか、得意な英語を、さて何に活かすのか。それは入社してから考えればいい…そんな大雑把な気持ちで、輸入貿易会社にしぼった。私が受かったのは、比較的大手の貿易会社で、お給料も悪くなかったし、私は心底ほっとした。私は靴屋にいた。靴屋でぼうっと革靴を見ていた。どうしても私がここに立っているのか、今でもよくわからないでいる。試着するお客のそばに屈んでサイズを確かめながら、私は何をやっているのだろうと思う。英語を活かせれば、と考えて入った輸入貿易会社で配属になったのは、靴を輸入する部門だった。辞令には「部付き」とあり、配属先は「靴屋」だった。私がこれまで知っていたどの靴屋とも違う、特殊な、全て輸入物で、とびきり美しく、履き心地がよく、そして高価な靴を扱う店だった。配属されて痛感したことだけれど、私は靴に関心がなかった。靴にも、服にも、化粧品にも、宝石にも。充実感も達成感もない、このままこんな日々が2年も続くなんて、とても考えられない。そんな私が、一足の靴に出会ったことから靴に対する見方が一変した。履いてみて、値段のことも吹き飛んだ。店長は「その靴を選んだっていうことは見所があると思う」といいながら楽しそうだ。初めて足にぴったりの靴が私のものになった。家に帰って新しい靴にブラシをかけ、クリームを塗り込むうちに、大事なことに気がついた。この嬉しさを私は既に知っていたのだ。すべて幼い頃に体験済みだった。川のそばの古い小さな店の情景がうかんできて、いくら振り払っても消えなかった。いま、アパートの小さな玄関に座って靴を磨きながら、自分の中の何かが流れ出すのを感じている。もしかしたら、と祈るような気持ちで左手の靴を見つめている。私にぴったりの靴が、封印を解く。たった1足の靴が、私の世界を変えた。靴をもっともっと知りたいと思うようになった。店の靴を全部覚えるのに、さして時間はかからなかった。メーカーの特徴や価格帯を把握し、靴のつくりや皮の種類についても知識を増やしていった。就職して一年が過ぎようとしていた。なぜか靴の値段を当てることができるという、自分の妙な特技に気がついた。見るだけでなく、触れば、まず間違いなく正確な値段を言えた。履かせてもらえるならさらに完璧だった。靴は正直だ。メーカーによって多少の差異はあるものの、はき心地もほぼ比例している。そういう意味では、靴の値段がわかるというのは、品質を見抜くことができるということだ。目利きってことだよ、と私は自分を励ましている。前から気になっていた店のディスプレイのことばかり考えていた。マルツ商会の店内を頭の中で何度もなんども歩き回って得た感触を思い出しながら。結論はひとつだった。ミーティングの席で発表した案に、店長は反対したが、思いがけず援護の声が上がり、提案は通った。売れ行きは好調で、自分が少しでも貢献できているのだと思えば嬉しかった。自分の仕事を見て欲しい、感想を言ってもらいたい相手がいるとすれば七葉だけだった。もう長いこと、心の通わない妹。顔を合わせても当たり障りのない話をしてさらりと笑うだけのいもうと。私は七葉を取り戻したかった。お姉ちゃん、と呼びかけるときの黒い瞳が忘れられない。思い切ってハガキを書いた。七葉からの返信はなかった。珍しく店の混んだ日だった。午後の早い時間に七葉はひとりでやってきた。ほんとうにきてくれたんだ。そこだけぱっと店内が明るくなったようだった。七葉は変わった。可憐な人形を思わせた顔立ちから頑なさが消えていた。きっと七葉は何かを乗り越えて来たのだろう。*No.42年間靴屋の販売員をして本社に戻った。最近単純なミスを、私はよくする。その上仕事も遅い。主任はわざわざ私の机に寄って、同期が活躍している噂話をしてゆく。まだ半人前にもみなされない自分が不甲斐ない。ときどき靴屋の正面の台が目に浮かんだ。月が変わるたびにディスプレイをやり直した台。その店は私が初めて仕事の手応えを得られた舞台でもあった。歓迎会の席で部長は「津川さんは2年もの間、現場で叩き上げられて来た強者だ。営業成績は常にトップ、店全体の売り上げも順調に伸ばしてくれた。その力を、わが部でも存分に引き出してもらいたい」と言った。「ほほう」、と感嘆とも嘲笑ともつかない声があちこちから漏れる。恥ずかしくて顔もあげられない。イタリア出張を命じられたのは、あまりにも唐突だった。「今回の津川さんの任務は、イタリアでの買い付けだ。靴は得意だろう」部長は、ん、と私の顔を見た。「来月早々にヨーロッパを回る連中がいるから一緒に行くといい。初めての出張だ。連れがあった方が心強いだろう」そう言って、部長は私の肩をぽんと叩いた。そう言えば2年前、入社したばかりの私に靴屋の現場へ出向する辞令を出したのはこの人だった。取引先の会社も担当者も覚えきれていないのに、出張してどうなるものかと思うけど、これも研修の一部なのだと私は考えた。先輩社員について買い付けの基本から覚えるのだ。心配しても始まらない。パスポートの取り方も知らない私に向ける部署の人たちの眼差しがおかしかった。よほど間抜けな人間だと思われているのだろう。夕方になるのを待って、懐かしい職場に電話を入れた。「今度、靴の買い付けにイタリアへ行くことになったんです」というと、「ええっ、すごいじゃない!いい靴いっぱい見られるね」元先輩は、はしゃいだ声を出した後、店長に変わってくれた。特に店長に話がある訳ではないが、声が聞きたくて忙しい時間帯を避けた積もりだった。相談したいことがあると言った私に、店長は「津川さん、あなたはもっと自分に自信を持ちなさい。大丈夫よ。あなたが見て選んだ物を買い付けてくれれば、私たちはそれを全面的に支持する。2年間一緒に働いて、私たちはあなたの目を信じてるの」。移動して、失敗ばかりして縮こまっている私を、この人は知らない。言葉を返せなかった。自分の目を信じなさい。店長の言葉はじわじわと私の身体に沁みこんできた。それがどんなにありがたい言葉だったか、電話を切った今になってようやくわかる。デュッセルドルフからドイツをまわり、ボンからシャルル・ド・ゴールへ飛んでフランスで3泊した後、陸路でミラノへ入ったのは7日目の夕刻だった。私たちはミラノ中央駅近くのホテルに泊まり、いよいよ翌朝から私は靴の会社を訪問する。他の2人のメンバーはミラノでは見本市と展示会のはしごをするらしい。最初のドイツでは私はガチガチだった。2人のアシスタントみたいな顔をして同席させてもらった。商談の進め方を忙しく観察し、形だけでもやり方を覚えておかなければと私は必死だった。同行した2人が合間を見て、一番疲れた顔をしている私を笑わせてくれた。笑っているときだけ、肩から力が抜けた。私にとっては明日からがこの出張の本番だ。そう思えばもっともっと緊張しても良さそうなものだった。意外なくらい落ち着いている。それは、同行の2人のおかげだと思う。夕食まで時間があった。街を歩くことにする。街中の靴屋という靴屋をのぞいてみたい。ここが店長をはじめとする靴屋の同僚たちの憧れの地だ。ドゥオモでもガレリアでも最後の晩餐でもなく、街の靴屋を見るために私ははるばるとこんなに遠くまでやってきた。街の靴屋をたっぷりと見て歩き、気づいたときにはもう一軒たりともドアを押す力もないほど疲れていた。ようやくホテルにたどり着いたが食欲がない。それでも明日のために少しは食べておいた方が良いだろうとエレベーターホールに向かおうとした。そのとき、階段の手すりから見慣れた顔がひょっこり現れた。目も鼻も口も涼やかでそつがない。……… その顔が私に向けてほころんだ。そこがイタリアだということを、一瞬、忘れた。「食事まだだったら一緒にどう」なんの気負いもなく、階段の上から茅野さんは話しかけてきた。嬉しかった。素直に嬉しかった。初めての海外出張がこの人と一緒でよかった。とつくづく思う。初めての訪問先に着くまでは心臓が跳ねていた。迎えに来てくれたタクシーの中で、挨拶と自己紹介を小声で何回も練習した。ところが、訪問先に足を踏み入れた途端、迷いも緊張もあっけなく消し飛んだ。商談の行われる応接室には、大きなテーブルに美しい靴が何足も並べられていた。それを見たら援軍を得たような気持ちになり、するすると気持ちが落ち着いていく。靴に吸い寄せられる私を見て、靴会社のオーナーの雰囲気も柔らかくなった。商談相手にも恵まれたと思う。靴にたいする思い入れがぴしぴしと伝わってくる。それでいて高級さを気取るわけでもなく、親切で気さくだった。彼らが胸を張って紹介する靴たちは、どれもが愛情をいっぱい受けて育った猫みたいに気高く悠々と今にも歩き出しそうに見えるのだった。美しい靴たちに見入る私の意気込みを、きっと感じ取ってくれたのだろう。ほんとうに良いものだけを薦めてくれた。やがて静かな興奮が身体中に満ちてきた。どの靴をどれくらい買うも買わぬも私1人の判断だ。責任も重い。けれど快感の方が勝った。予算の配分が瞬時に浮かび、値段が読めることも幸いし、私は淀みなく買い付けを決めていった。売れそうなものより、売りたいものを私は選び出した。幅をもたせた上で、それが一番確かだと今の私にはわかっていた。商談の後、アテンド付きのミラノ見学やランチより、工房を見せてもらえないかとたのんだ。予定を全て終えてホテルに戻ったときには足がつりそうなほどつかれていた。帰国してからは、たまっていた日常業務に加え、出張報告書をつくったり、各部署との報告会に出席したりで出発前よりはるかに忙しくなった。時差ぼけもあり、残業が続くのはこたえたけれど、私は必死だった。靴だけでなく、バックやアクセサリーの試験的な仕入れを許可されていた。繊維課で仕入れる服と合わせて卸す企画も実現させたかった。私は残業続きで企画書を作った。やっと終わったとき、茅野さんが食事に誘ってくれた。私の仕事がひと段落するのを待っていてくれていたのだ。schole(スコーレ)とは「ひま」を意味する古代ギリシャ語。単なる余暇ではなく、精神活動や自己充実にあてることのできる積極的な意味を持った時間。school(英語)=学校は、scholeの派生語。(wikipedia参照)
2017.08.27
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ノカンゾウの便り(ノカンゾウさん)が久し振りに布ぞうりを作られるというので、私の分もお願いしました。彼女が作る布ぞうりのはき心地のよさは抜群‼︎ そんじょそこらのお店で売られるているものとは比較になりません。布地をたっぷり使って打ち込みもしっかりしているため、ペタンコにならないのです。10年前の懐かしい写真が見つかりました。浜カルチャー主催の手作りマーケットの時の写真です。この時も色とりどりの布ぞうりが並んでいました。全てノカンゾウさんの作品です(o^^o)2007年11月25日 第3回浜カルマーケット風景
2017.08.26
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三渓園の朝顔展でいただいた朝顔は、毎朝、1~2輪ずつ花を咲かせてくれます。最初の一輪だけ大きめの花が咲きましたが、その後は少し小さくなりました。脇芽を伸ばそうと3本伸びた蔓の先端を摘んだら、一向に伸びてくる気配なし・・・。蕾も残り少なくなり、今年はもう咲き終わりかと諦めていたら、やっと下から蔓が伸びてきました。涼しげな色なので来年も育てたいと思うのですが、咲き終わった萼の中は空っぽ・・・、なぜかタネができないのです。
2017.08.23
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☆田舎の紳士服店のモデルの妻・宮下奈都・2012年6月10日 第1刷・文藝春秋・初出:「別冊文藝春秋」2009年7月号~2010年5月号・単行本:2010年10月 文藝春秋刊♣︎竜胆達郎♣︎竜胆梨々子(りんどう りりこ)♣︎竜胆 潤=達郎と梨々子の長男♣︎竜胆歩人(あると)= 〃 次男梨々子という名の1人の女性の、30~40歳までの10年間の日常を2年区切りで丁寧に描いた物語。ー0年、かすりの梨々子、田舎に立つー梨々子と達郎が結婚して4年。長男の潤は幼稚園の年少児クラス、次男の歩人はよく泣く子だった。一歳を過ぎても歩人の夜泣きは2時間ごとに繰り返された。ある晩、達郎が突然「会社、辞めてもいいかな」と切り出した。明日の幼稚園のバザーのことで頭がいっぱいだった梨々子の頭に、達郎の言葉が届くのに時間がかかった。「辞めてどうするの?」という問いに、達郎は「いなかへ帰ろうと思っている」という。梨々子は、まさか本気で会社を辞めるとは思っていなかった。バザーの翌週、達郎がうつだと診断されて帰って来た。「会社を辞めて田舎へ帰ろうと思うんだ」達郎は言った。それがとても素晴らしい考えでもあるかのように、梨々子が同意することを微塵も疑っていない声で。その晴れやかな声に梨々子は図らずも胸を打たれていた。こんな声を聞いたのはいつ以来だったろう。出会った頃の達郎がありありと思い出された。田舎へ帰ろう。達郎の提案を梨々子は飲んだ。梨々子と達郎は、達郎と同郷の役員の紹介で出会った。入社試験の役員面接のとき、その藤沢という役員は「ひと目見て、彼はいい、と思った」と言う。あのとき、梨々子もひと目見て「彼はいい」と思ってしまったのだ。何がこんなに好もしいのだろう。目の前の達郎は、話すだけで、笑うだけで、ぴかぴかに光って見えた。しかし、残念なことにどうやら達郎はそれほどでもなかったらしい。曲がりなりにも梨々子はもてた。自分から誰かを追いかけたことなどなかった梨々子は燃え上がった。ほとんど体当たりでなんとか捕獲した。恋愛の成就を寿ぐ気持ちより達成感の方が大きかった気がする。つきあいはじめて2年半、結婚の挨拶に出向いた彼の田舎は、北陸の一番目立たない県の県庁所在地だった。がらんとしたその町は背丈が低くて、店も車も人も少ない。ファミリーレストランもあればファーストフードのチェーンもあるが、残念なことに売りがない。特別なことがあるとすればただひとつ、そこが達郎の田舎だということだけだった。越してきた5階建てのマンションは、この辺の建物の中では頭一つ高い。4階の部屋の窓からは、町を見渡すことができる。のうのうと広がる家並みのところどころに、こんもりとした緑が見え隠れしている。日が落ちるころ、その向こうに見える山の稜線がやけにくっきりと見えて、地球の裏側まで来てしまったようで、もの悲しかった。ー2年、潤とピアノと二人三脚(2年後)ー達郎は、義父が経営する小さな会社で働いている。こちらへ来てからの方が朝の目覚めが悪くなったようで、毎朝10時半を過ぎて出勤していく。達郎には兄が1人いて父の片腕として会社を切り盛りしている。兄嫁は経理全般を任され、夫婦で義父母の家の隣に住んでいる。兄夫婦には子供がなかった。居間に黒光りがする大きなピアノがあった。達郎と兄の俊郎が弾いたピアノだ。義母がいった。「潤にどうやろ、このピアノ」いつも潤は無口だ。その潤が「弾く」とはっきり答えたので梨々子は少し驚いた。 ある日、帰宅した達郎は「そういえばさ、モデルをやってくれないかって、言われたんだ」という。平静を装っているが、なんとなく自慢そうな気配が漂ってきていた。梨々子はうつだって嬉しいのねと、内心意外だった。メンズショップ竹内は、義父の幼なじみがやっているという店だ。地元紙にだけ挟まれるチラシの束の中から、その一枚を抜いて梨々子は大事に眺める。スーツを着て微笑んでいるのは、コートを着てあらぬ方向を見つめているのは、誰あろう梨々子の夫だ。「お父さんだ。かっこいいね」と潤がいう。「そうね、かっこいいね」と小さな頭を撫でてやる。内心では、相当かっこわるいチラシだと思った。でも、ほんとうの達郎は悪くない、はずだ。あと15キロ痩せたら、そして昔の生き生きとした目を取り戻したら。ー4年、たくさんの間違い、ひとつの出会いーお隣さんから誘われたのをきっかけに、家族で小学校と自治会の合同運動会に参加するようになった。梨々子は徐々にその地に馴染んでいった。ある夜、達郎は「僕、社会の役に立っていないよね」といい、夜中に咽び泣いた。梨々子は、達郎は病気なんだと自分に言い聞かせ、夜更けまで黙って達郎の背中を撫で続けた。34回目の誕生日の晩に。 夫のこと、子供達のこと、全て1人で抱え込んでいた梨々子だったが、身体の方が悲鳴をあげた。脇腹が痺れるように痛かった。ヘルペスではないかと、痛みを訴える梨々子に達郎は「ふうん」と答えただけだった。学校に馴染めないている潤と歩人のことで、梨々子は度々学校に呼び出される。その日も担任から呼び出された。家に帰る気になれない梨々子は、通りかかったバスに乗り込み、駅前ロータリーでフラフラとバスを降りた。歩くとヘルペスが痛かった。どこか遠くへ行きたい。それでも延長保育に預けてきた子供たち2人のことが頭から離れない。ヘルペスを患いながら、自分がしていることが果たして合っているのか間違っているのかもわからない。誰にも頼れず感謝もされず、子供たちを育て上げなければならない。これからもまだこんなしんどい日々が続くのなら、頑張る自信なんかない・・・・・。ふと、視線を感じて梨々子はそちらを見た。梨々子の目はその「人」から目を離すことができなかった。彼の視線は力強く、瞳を通して梨々子の中まで入ってきそうだった。その人はよく知っているのだ。自分のファンを。自分のことを初めから全面的に受け入れてくれる存在を。「やあ」好きではなかったはずの甘い声が、鼓膜をこれほど心地よく震わせるとは。梨々子の耳にはもう他のどんな音も聞こえなかった。ー6年、歩人とたのしいかぞくー2年前のあの日、駅から電車に乗るはずだった梨々子は、その人と2人でタクシーに乗った。そこで何をしたわけでもない。お茶を飲んで、少し話して、それで帰った。そして、いつものように一日が終わった。けれど、部屋の温度が変わってしまった。梨々子には達郎の体温を感じ取ることができなくなった。達郎の匂いもしなくなった。2年前のあの日、男はタクシーを降りると先に立って歩きながら、くるりと振り返った。「おれ、本名はアサヒっていうの」その少年のような仕草が目に焼き付いている。その人といるだけで楽しい。会えるだけでいい。あれからアサヒとは2年間に7回会った。そして終わった。その夜、達郎は子供みたいにそわそわして「10年前と同じやつ、探すの大変だったよ」といいながら、紙袋からシャンパンを取り出した。今日は、梨々子の36回目の誕生日、そして10回目の結婚記念日だった。ときめくようなことなど、無くて当たり前だと思っていた梨々子は、ときめかないのは私が忘れていたのだと気づいた。ー8年、誕生日が待ち遠しいー2年ほど前から、梨々子は隣の塩原さんに誘われて週に2度、午前中の3時間だけ病院でボランティアをしている。「主役やりたい人は家にいたらつらいやろ。病院ボランティアは脇役の脇役みたいなもんやで、どんだけ竜胆さんの好みに合うかわからんけど」と、結構痛烈なことをさらりと言った。不意に涙が出たかと思えばアサヒのことを思い出していた、というころだった。歩人は三年生になっても相変わらずだ。おかえり、と声をかけても、うん、とうなづくだけで返事もしない。そんな歩人に、きよちという友達ができた。田舎へ来て8年、ご飯をつくって洗濯機を回し、掃除をし、アイロンをかけて。4人でいる。性懲りもなく、ここにいる。ー10年、とりあえず 卒業おめでとうー週に4日、病院へボランティアに通っている。簡単な仕事ばかりだが、なぜか飽きない。誘ってもらって良かった、梨々子はそう思う。達郎が10年間続けた洋品店のモデルを卒業することになった。次の撮影が最後だという。梨々子は子供たちだけでなく、彼の両親も誘って、こっそり覗きに行こうと思っている。相変わらず梨々子はしょっちゅう、小学校に呼び出される。歩人のことでだ。ついに1週間給食に手をつけなかったとか、2時間行方不明だったとか(立ち入り禁止の屋上で空を見ていたそうだ)。一日じゅうひとことも口を利かなかったとか、そんな話を聞かされる。そろそろこれが歩人だと認めてくれまいか。もう5年も似たようなことを繰り返しているのだから。多くは望まない。普通に生きられればいい。そんなつまらない、決まりきった常套句をつぶやいてみて、梨々子はひっそり微笑んだ。歩人は普通ではないかもしれない。でも、普通に生きられない子には普通に手に入れることのできない人生があるに違いない。潤のピアノの先生から電話があった。潤くんのピアノは普通ではない。もっと高度な教育を受けさせる気持ちがあれば、相応しい先生を紹介するという。東京にいるというその先生のところに通うには、交通費もいる、月謝も高額だ。潤に才能があると言われれば嬉しい。ただ将来どうなるか分からない不安感を思うと、親としては消極的になってしまう。梨々子から話を聞いた達郎は「うーん」と唸り「普通に平凡に暮らしていければ、僕はそれでいいよ」と答えた。どうしてみんなで「普通」という言葉を使って、潤を下ろし、歩人を打とうとするのか、梨々子と達郎の話は限りなく食い違う。それまで黙っていた潤が、そのとき口を開いた。「僕、東京の先生にピアノを習いたい。月に一度でもいい」その声があまりにもまっすぐで、梨々子の胸はじんわりと熱くなった。驚いたように潤を見ていた達郎も「がんばれよ」と顔をほころばせた。親が悩む必要なんてなかったのだ。潤には伝わったのだろう。父親の心からの声援が。うつの人には禁句だと教わって以来、この家ではタブーになっていた言葉を、達郎自らが易々と使った。「がんばれ」という言葉を。
2017.08.23
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↑私の空間・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・↑夢のフォルム・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・↑時・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・↑葵の咲くころ↑あっちへ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・↑ヴェズレーの朝↑赤いショールの人物・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑秋 軽井沢雲場池 ↑安曇野池田美術館から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑朝の裏通り(馬車道) ↑初夏の風(南禅寺水路閣)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑寺の見える坂 ↑農家・安曇野・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑花 ↑花・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・↑アルビの大聖堂(仏)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・↑競艶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…↑静かなひととき↑九品寺の春・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・↑待 春・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・↑府中ハケ下の家↑田貫湖・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・↑安曇野のせせらぎ ↑シンビジウム・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・↑大観山からの眺め・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…↑江の島ヨットハーバー↑横浜赤レンガ倉庫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・↑ファド酒場(リスボンにて)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・↑われは海の子・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・↑何を思う・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・↑あじさい橋↑オベリスク(鳳凰山)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・↑猫とすずめ瓜↑白妙菊昨日の続きです。作品の前で見ていらっしゃる方がいらっしゃる時は、後回しにして後刻撮らせていただいたつもりが、残念ながらかなり抜けていました。今回の絵画展のご紹介はこれで終わりです。チャーチル会ヨコハマ オフィシャルサイト
2017.08.19
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↑清里の牧場 ↑春の赤レンガ倉庫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑冬の越前 武生和紙の里 ↑冬木立 永平寺門前 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑雨上がりのチッピング・カムデン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑イタリアの田舎町 ↑黄色い服の女性・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑花束 ↑静物・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑木馬 ↑Sさん・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑ 10月・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑五月・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑雨の日 ↑グッドモーニング・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑草原の少女 ↑五竜岳遠望・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑称名寺(初夏)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑銀嶺の街 ↑刻を待つ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑六月(酒匂川土手)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑美しい建物(旧東京医学校本館) ↑美しい建物(法務省旧館)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑五月の安曇野・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑多摩川・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑旧ホテル(軽井沢) ↑8月の富良野昨日は友人を誘って、第25回チャーチル会ヨコハマの絵画展へ行ってきました。いつもの事ながら力作ぞろい。出来れば全てご紹介したかったのですが、なかなか写真を撮るのが難しく、上手く撮れた作品だけ掲載させていただきました。これで全体の半分くらい・・・、2回に分けて掲載させていただくことにしました。
2017.08.18
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横浜ピカチュー大発生チュー201713日(日)は西洋館巡りのあと、帰りに自由が丘で展覧会を観て帰りたいとのことでした。MM21でランチのあと、地下鉄みなとみらい駅から行けば良いと、港の見える丘公園から桜木町行きのバスに乗りました。15分くらいで着く筈が、赤レンガ倉庫の手前あたりからバスが動かなくなっていました (゚o゚;;知ってはいたはずなのに、うっかりピカチューのイベントのことを忘れていました。どこから湧いてきたのかと思うくらい、どこもかしこも人人人でいっぱい…。交差点は人優先らしく、信号待ちの長いこと長いこと・・・。やっとの思いで到着したのは良いのですが、お目当のイタリアンの店は1時間半待ちと言われてしまいました。ピザが食べたいと頑張っていた下の孫も、どこでも良いよと言い出しました。さりとてどこも混んでいるし、横浜で食べることにするかと思っていたら、上の子が近くのドッグヤードガーデンなら空いているかもしれないと言い出し、人の波をかき分けて行きました。孫の予想通り、地元の人しか思いつかなかったのか空いていて10分足らずの待ち時間でした。希望通りクワトロフォルマッジが食べられて、4年生の孫はご満悦。やれやれでした・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ランチを済ませ、みなとみらい駅へ向かう途中、ピカチューの行進と遭遇。又々人の波に飲み込まれてしまいました。流石にくたびれて、私は2人と別れて帰ってきました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・駅へ向かう途中、にっぽん丸の甲板も、JRの駅前広場もピカチューに占拠されていました。
2017.08.15
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☆太陽のパスタ、豆のスープ・宮下奈都・集英社 (文庫)・2013年1月25日 第一刷・2010年1月、集英社より刊行結婚式を目前に控えたある日、明日羽は婚約者から一方的に別れを告げられた。「ほんとうに悪いとは思っているんだ。でも僕はもうーーー」と。驚きと戸惑いと、それから恐怖に近いような感情と。やっとの思いで家にたどり着いた明日羽は、自分の身体を抱え込むようにしてベッドの上で丸まった。そして一晩中泣いた。並んで歩くはずの人が消えるということは、並んで歩いていくはずの道も消えるということだ。家を出て、アパートを借り一人暮らしをはじめ、会社には休暇届けを出した。叔母の六花(ロッカ)さんは、ドリフターズ・リスト(漂流する者たちの指針になるリスト)をつくれという。やりたいことや、楽しそうなこと、欲しいものを全部書き出して、一つずつ自分で叶えていくのだという。書き出したリストに従い、鍋を買った。髪を切った。エステにも行った。会社の同僚に誘われ青空マーケット(協働市場)にも参加してみた。そこには自分の知らなかった世界があり、笑顔があふれていた。家族やロッカさん、幼馴染、同僚に支えられながら、明日羽は自分自身に向き合い、自分の心を見つめ直すことで、一歩一歩立ち直っていった。胸に響くものがなくて、今回は簡単なあらすじになりました。
2017.08.15
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ー ブラフ18番館 ー関東大震災後に山手町45番地に建てられたオーストラリアの貿易商バウデン氏の住宅。戦後はカトリック山手教会の司祭館として平成3(1991)年まで使用されていた。同年、横浜市が部材の寄付を受け、山手イタリア山庭園内に移築復元し、平成5(1993)年から一般公開。館内は震災復興期(大正末期~昭和初期)の外国人住宅の暮らしを再現し、当時元町で製作されていた横浜家具を修復して展示。本館につながる付属棟は、貸しスペースとして、ギャラリー・展示会などに利用されている。(山手西洋館公式HPより)ブラフ18番館全景(模型)ー 外交官の家 ーニューヨーク総領事やトルコ特命全権大使などを務めた明治政府の外交官内田定槌氏の邸宅。明治43(1910)年に東京渋谷の南平台に建てらた。 設計者はアメリカ人建築家、J.M.ガーディ 。家具や装飾にはアール・ヌーボー風の意匠とともに、19世紀イギリスで展開された美術工芸の改革運動アーツ・アンド・クラフツのアメリカにおける影響も見られる。平成9年、孫の宮入氏からこの館の寄贈を受け、山手イタリア山庭園に移築復原し、一般公開した。(重要文化財) (HPより)玄関の扉や窓のステンドグラスが美しい。ー ベーリック・ホール ーイギリス人貿易商B.R.ベリック氏の邸宅として、第二次世界大戦前まで住宅として使用された。現存する戦前の山手外国人住宅の中では最大規模の建物で、設計はアメリカ人建築家J.H.モーガン。モーガンは、山手111番館や山手聖公会、根岸競馬場など数多くの建築物を残している。約600坪の敷地に建つべーリック・ホールは、スパニッシュスタイルを基調とし、外観は玄関の3連アーチや、小窓、瓦屋根をもつ煙突など、多彩な装飾が施されている。内部も、広いリビングルームやパームルーム、アルコーブや化粧張り組天井が特徴のダイニングルーム、白と黒のタイル張りの床、玄関や階段のアイアンワーク、また子息の部屋の壁はフレスコ技法を用いて復原されていることなど、建築学的にも価値のある建物。平成14(2002)年から、建物と庭園を一般公開。 (HPより)↑↓子供部屋↑べリック氏の家族写真山手西洋館 TOPページ上の孫が山手西洋館に行きたいというので、ゆっくり見学できるようにと、下の子のお守りがてら一緒に行ってきました。この時期は、どの西洋館も見学の人も疎らで、籐椅子に座り、ゆっくり雰囲気を堪能できました。ブラフ18番館やベーリックホールは、テーブルセッティング、レース編みのテーブルセンターなど、涼しげな夏の設えでした。それにしても、もの凄い根気と労力が要る、あの素晴らしいテーブルクロスやセンターはどなたの作品なのでしょう。いつも、クリスマスなどのイベントの時に訪れることが多く、イベントに合わせたディスプレイに目がいき、これまで目に入らなかった、外交官の家のステンドグラスなどが目に留まりました。孫は興味があるようで、次は一眼レフを持って1人で行っでみるそうです。
2017.08.14
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昨日から孫が来ています。残念ながら2番目の孫は、高校の説明会と重なり、今回も2人でやって来ました。受験生は大変です。昨日は下の孫と一緒にパンを焼いて、娘が大サービスしてくれました。家でパンを焼くのは別に珍しいことでは無いようですが、粉から手で捏ねて好きなように作らせてもらえたのは初めてで、嬉々として熱中していました。今日は上の孫の予定に合わせて、午前中、先ずは山手の西洋館へ一緒に行く予定です。
2017.08.13
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↑ただいま雨やどり中?↑エンゼルストランペット↑我が家の芙蓉↑ランタナ↑木槿今朝もいつもの時間に目が覚めてしまいました。昨日から先日来の猛暑が嘘のような涼しさです。小雨なら散歩に行こうかと思いましたが、残念ながら今朝はしっかり雨が降っています。昨日の朝は小雨が降ったり止んだりのお天気で、傘を持ってラジオ体操に行きました。木槿もランタナも水滴がいっぱい付いて重たげでした。ラジオ体操の参加者は10名。秋楡と藤棚の下に分かれて、いつもの通り体操してきました。晴れた日はうるさいくらい鳴いているセミの声もまばら、公園はひっそりと静かでした。雨が降ると蝉はどこにいるのかしら?と思っていたら、2階のベランダまで伸びたゴーヤの葉陰で、油蝉が一匹雨宿りしていました。
2017.08.12
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北海道・幌加内町の蕎麦畑(撮影:Sさん)ご近所の Sさんが、ご夫妻で旅行にいらした、幌加内町(北海道)のソバ畑の写真を送って下さいました。見渡す限り、ぜ〜〜〜んぶ蕎麦畑。こんな風景、見たことがありません。蕎麦畑の真ん中に立つと、一体どんな香りがするのでしょう? 叶うなら、この目で見てみたいものですが、いかんせん北海道は遠過ぎますね ……。幌加内町観光協会ホームページによりますと、幌加内町には、日本一が3つあるそうです。*その1=そばの作付面積(3,200ha以上)、生産量(約3,000トン)共に日本一*その2=日本最寒記録-41.2度*その3=日本最大の人造湖朱鞠内湖
2017.08.10
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台風が通り過ぎてくれたのは良かったのですが、「猛暑」というとんでも無い置きみやげを残していきました。昨日は、△○回目の birthday。息子からは「感謝」ラベルのビールとソーセージのセット。娘は帰りに買ってきてくれたアトリエうかいのケーキ+赤ワイン。誕生日なんて、自分では知ら〜んぷりして通り過ぎたい気分なのですが、やっぱり嬉しいものです。ケーキとみると、どれにしようかと、私より主人の方が目を輝かせています。
2017.08.09
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お隣さんのミニひまわりが咲いています。フェンスの高さからも分かるように、高さはせいぜい、7~80cmです。小さいけれど、堂々たる向日葵の花です。子供達が小学生の頃、我が家でも向日葵の種を蒔きました。あれは、学校で種をもらってきたのでしょうか。ぐんぐんと見上げるように大きくなり、綺麗というよりグロテスクという印象が残りました。向日葵を見て「綺麗だな」と思えるようになったのは、ごく最近です。あのころ、こんな向日葵があれば、庭いっぱいに植えたかった。そんなことを思い出しながら、楽しませてもらっています。
2017.08.08
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☆ふたつのしるし・宮下奈都・幻冬社・2014年9月20日 第一刷発行 ・「GINGER L.」09号(2012 WINTER)~15号(2014年SUMMER)に連載された作品を加筆、修正したもの♣︎ハル =柏木温之(かしわぎはるゆき)、小学校1年(1991年5月)ハルは何もしなかった。できなかった。やろうとしなかった。どのように思われても本人はかまわなかった。なにしろ彼の心はそこになかった。そこにも、ここにも、どこにもなかった。ハルの心は常にそのへんを漂っていて、たまにカチッとピントが合ったときにだけ身体に返ってくる。ハルが好きなのは地図だ。何時間でも読んでいられる。教室でいつも1人だったせいもあり、ますます地図に没頭した。隅から隅まで眺め、山の頂に立ち、やがて下り、道をたどり、川を追う。通り過ぎる町の名前、注ぐ湾のかたち、海の深さ・・・、ひとつひとつ確認しては飲み込んでいった。同じクラスの浅野健太は、ハルのことを、何だかわからないけどあいつはスゴイと思っていた。人に迷惑をかけるな、というようなことを、母の容子は息子に一度もいったことがない。迷惑をかけたくてかける人はいないのだから、そういう不本意な状態にある人のことは大目に見てもよいのではないか、というのが大まかな容子の考えであった。温之は手のかからない子だ。幼い頃からひとり遊びが好きだった。自分の好きなように時間を過ごす術に長けているように思われた。ただ、ごくたまに、石でできたお地蔵さんのように頑固になることがあった。外を歩いていても、何かに熱中するといくら呼んでも聞こえなくなってしまう。関心を持った対象との間の回線だけをつなぐために、他の一切のシャッターを閉じてしまうのだ。放っておけば、いつかは戻ってくることを、容子は理解していた。ハルが高校生のとき、母の容子が車に撥ねられて死んだ。ハルは家にこもった。高校にも行かなくなった。自分が高校生だったという事実を忘れてしまっていた。自分が容子の息子であったことの方が大事だったのに、それさえも忘れていたのだ。父の息子である事実も忘れていた。身の回りのものと、大事な地図を押し込んだバックパックを肩にかけ、父の慎一に、行って来ると告げた。雨が降っていた。行くあてはなかった。とりあえずハルは母が最後に歩いていた町のほうへ向かった。事故の現場はもうすぐそこだった。突然、何も考えられなくなり、一刻も早くその場を離れたくなった。電車を乗り継ぎ、どこにも辿り着けずに電車を降りた。海辺の町だった。あてもなく砂浜を歩いた。人の足音が近づいてきた。ハルが死のうとしていると勘違いした女が体当たりしてきた。連れていかれたのは古いアパートだった。ミナという名の女は若く、未だ少女だった。「泊まるとがこないなら、ここに泊まっていいから」といい、着替えて化粧をして出かけていった。濡れずに眠れるのがこんなにありがたいことだとは知らなかった。見ず知らずの女の部屋で、ハルはすぐに眠りにおちた。女に「働いてよ」といわれて、初めて、あーそうかと思った。コンビニに置いてある無料冊子で見つけた仕事は、電気工事会社のアルバイトだ。温之は働いてよ、といわれて応えられる自分のことが、少し嬉しかった。1ヶ月半でそこの仕事は終わり、現場は解散になった。本来なら、アルバイトはそこまでのはずだった。しかし、電気工事会社の社長が「おまえ、キャベツみたいにもくもくと働くから。よかったら、うちに来ないか」と、声をかけてくれた。本社は東京にあり、社長が安い部屋を見つけてくれた。別れの日、ミナは低い声で「ばか、ハルのばか、ばか、ハルのばか」と罵った。「ありがとう。助けてくれて」というと、ミナの顔は真っ赤になった。最初はいわれた通りに雑用をするだけだった。あるとき、コピーを頼まれて図面を預かった。きちんと順番通りに出ているか確認しているうちに、突然気がついた。よく見れば、描かれた線が続いて、つながって、一つの道を表している。目が吸い寄せられた。わかる、と思ったのだった。その図面は、温之にとっては読み慣れた地図のようなものだった。いくつかの不明の記号の意味さえ調べれば、この配電図が何をしようとしているのかわかる。言葉で説明しようとするととても面倒なことが、整然と表されている。仕事が俄然楽しくなった。温之は静かに興奮した。もっと図面について知りたい。勉強して、読めるだけでなく描けるようになりたい。生まれて初めて、自分で物事を調べよう、それを覚えよう、身につけようと思った。さいわい、職場に資料は山ほどあった。知識はするすると温之の身体に入っていった。驚いたのは、社員の人たちが普通に話しかけてくれることだ。「あっという間に仕事を覚えたな」そういわれると嬉しかった。社長がいった。「おまえは謙遜しないからいい。絶対手を抜かない。それはある種の才能だな」何十枚もの図面と首っ引きで、配電図を描いていたときだ。夜も遅かった。社長は戸締りをして、「あんまり根を詰めるなよ」といい、「はい」とうなずく温之の顔をしげしげと見た。住宅新築のための電気の配線をこなすようになると、より複雑な会社やビルの仕事に加えてもらえるようになった。温之の胸は踊った。大きな地図が描ける。長い配線、複雑な配線が好きだった。社長は温之を可愛がってくれ、仕事をたくさん与えてくれた。三年を過ぎるあたりから、社長の仕事には必ず温之が助手につくようになった。フロアを拡張して以来、電圧が不安定になっているという現場に行ったのは土曜だった。社長と2人で確認したが、それでも、翌週、また苦情が出た。やむなく社長と温之は平日の昼間に現場に出向いた。そのとき、向こうから来る女性が目に入った。温之より少し年上に見える、とても綺麗な人だった。温之たちが運んでいる脚立と工具を見て、お疲れさまです、と会釈をした。綺麗な声だった。「遥名さん」入り口のほうから若い女が呼びかけて、彼女がそちらを振り向いた。そのとき、はっとした。この人を知っている、という思いが不意に横切った。「おい、どうした、ハル」社長の声に、彼女が一瞬社長を見て、それからこちらをみた。目が合った、と思う。綺麗な目だった。♣︎はる=大野遥名(おおのはるな)、中学校1年 (1991年5月)父親は遥名に何も望んでいなかった。母親も遥名が幸せになってくれればそれでよかった中学校に入ったら、ぎゅうっと窮屈になった。近年荒れていると評判の公立中学校だ。教師たちは生徒を締め付け、生徒たちは更に反発する。遥名は勉強して、賢い学校へ行くしかないと思っていた。勉強ができても目立たなくて済む、のびのびと勉強していられる学校へ。大丈夫だ。きちんと戦略を守っていれば、大丈夫だ。遥名は考えた。どこで足をすくわれるかわからない以上、できるだけ引っかかりを出さないこと。目立たないこと。小さい頃からずっと、頭がいいと言われてきたのも、綺麗だと言われてきたのも、不幸になるためじゃない。兄と同じ東京の大学に合格し、女子寮に入った。結構な偏差値の、そう簡単に入れない難関大学だ。「あたしはとにかく地元を出たかっただけだから」と言い切る友達ほど、遥名は自由になれない。いつも、ただ地道に歩いてきた。何かを上手に避けたり、ぽんと跳び越したりする人が素直に羨ましかった。ひたすら身を潜めていた情けない思春期は、使い道がないわけじゃない。きっとその後のいざというときのためにある。これからなんだ。遥名は自分にいい聞かせる。いざというときはこれから来る。そのときに全力で迎え撃てるような準備をしていこう。大学を出て、そのまま東京で就職した。地元へ帰って来ると期待していた両親も、超氷河期といわれるこの時期に東京で大手企業から内定をもらったあたりから、何もいわなくなった。入社3年目。仕事で評価されることが増え、無理に周囲に合わせなくていいと思えるようになった。付き合いに時間を割かれるより、仕事を優先したい。ばかのふりをしなくてもいいのだ。今の遥名の人生には仕事の比重が大きい。目立ちたくなかった。まだ、まだだ。遥名は自分はまだだと思う。ふさわしいときのための準備ができていない。かわせ。どんな攻撃も「にっこり」と、よけるが勝ちだ。遥名は、医療用機械を販売する今の仕事が好きだ。営業成績も上々だった。目立つなら、優秀な営業として目立ちたい。そんな遥名が、妻子ある上司に恋をしてしまった。その恋は、海外転勤をしおに、相手が「別れたい」といい、終わった。♣︎ハル と はる・2011年3月遥名、32才。ハル=26才。揺れた。どんっと突き上げるような揺れの後、激しい横揺れが来て、立っていられない。父母に連絡を入れたかったが電話が繋がらない。とにかく無事だとメールをいれた。同僚と、クッキーと使い捨てカイロを分けあい、会社の前で別れた。会社の前の道は、歩く人でいっぱいだ。さて、と思う。歩くって本気?それもパンプスで。どれくらいの距離がある?どうやら東北が大変なことになっているらしい。遥名は自分がよほどショックを受けているらしいと気づく。この人達に混じって歩き通せる気がしない。無理だと思った。後ろから肩を押され、振り返ると、若い男の人が立っていた。「遥名さん」と呼びかけたその人の顔に見覚えはない。背が高くて細身の、やさしげな顔つきの人だった。黄緑色の作業着を着て、リュックを背負い、自転車を押している。20代の後半、自分より5歳くらい年下だろうと読んだ。その人は、とても真面目な顔で「よかったら、送ります。後ろに乗ってください」といった。遥名の問いに、電気工事を請け負った会社の技師だと名乗り、遥名のことは顔と名前しかしらないと応えた。「遥名さんが心配だったのです。無事でよかったです。近くまでお送りします。乗って下さい」青年は耳まで赤くして、遥名にいった。途中、坂道で自転車を降り、横に並んで歩いた。青年は「職場でひどく揺れて、気がついたら後先考えずに遥名さんのところへ走ってました」という。それは、取りようによっては情熱的な告白だった。でも、現実的に起こったことが大き過ぎて、とても自分にかかわる話だという気がしない。青年の行動は、自然で素直な人間らしい行為のようで羨ましかった。青年の年令は26才。柏木温之です、と名乗った。遥名のことは、2年くらい前に、電気の配線の点検に来たときに見かけた。この人だという「しるし」がついていたので、すぐにわかりました、という。♣︎柏木しるし=ハルと遥名の娘、10才今日は、お父さんの幼なじみの健太くんが、家に来る。急いで帰ったら、もう来ていて「おかえり」といい、「あれっ、しーちゃん、ちょっと見ないうちに大きくなったなあ」と、カットしたばかりのあたしの頭をぽんぽん叩く。健太くんは1人じゃなかった。お父さんが「今度、健太と結婚する人だよ」と、教えてくれた。キッチンからお母さんがお盆にお茶とお菓子を載せて運んできた。何だか嬉しそうだ。みんなニコニコ笑っているけど、私だけ笑えなかった。健太くんは、「ハルが結婚したときはほんとに驚いたけど、あれから10年も経つんだな」と、前にも何度も聞いた話をした。私は10才。学校でやる二分の一成人式のときのために、自分の生い立ちについていろんな人に話を聞いてまとめている。世田谷のおじいちゃんは、お父さんと一緒だと面白い話をしてくれない。だから1人で行った。金沢のおじいちゃんおばあちゃにも電話でいっぱい話を聞いた。夜に作文をまとめてみたけど、うまくいかない。お母さんに、「どうしてお父さんと結婚しようと思ったんですか」インタビューするみたいに聞くと、「勘ですね。人生には勘が必要です」といった。それで、どうしてお父さんだったのですかと聞くと「お母さん、お父さんを見つけたんだ」といった。あれ、たしか、お父さんがお母さんを先に好きになって、ずっとチャンスを待っていたみたいなことを聞いた。おじいちゃんがね、「よくできた遥名さんみたいな人がどうして温之と結婚したのか謎だって」お母さんをほめたというより、卑下したという感じだった。「大丈夫。おじいちゃんも、ほんとうはお父さんのいいところをわかっているんだと思うよ」そうかもしれないな、と思った。だから、私を可愛がってくれている。『生い立ちの記』を完成させたら、おじいちゃんにも読んでもらおう。もちろん、お母さん方のおじいちゃんおばあちゃんにもだ。それで、あたしは胸を張ろう。どうです、私がこのふたりのしるしです、って。読み終わった本は、確かに読んだという記録と、脳みその老化防止のために、あらすじを書くことを、自分自身に課しています。この「ふたつのしるし」は、あらすじを書き出す前に、どう纏めればよいのか途方に暮れました。タイトルと出版社などのデータだけで投げ出そうかと思ったほどでした。けれど、作者がこの小説を通して、読者に伝えたいメッセージを何とか書き留めたかったのです。仕方がないので、筋書きを一度バラして組み直しました。おかげで、良い脳みそのトレーニングにはなったとは思いますが、くたびれました。果たしてこんなまとめ方で良かったのか自信がありません。興味を持たれた方は、ぜひ原作をお読みください。もし、ここまで読んで下さった方がいらしたら、お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。
2017.08.08
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大輪朝顔 ‘碧水’三渓園・朝顔展のとき、くじ引きでいただいた朝顔が咲きました。昨夜見たとき、ほころび始めたツボミが濃いピンク(牡丹色)だったので、てっきりツボミと同じ色の花が咲くものと思い、内心ガッカリしていました。ところが、朝起きて吃驚‼︎直径=10cm。写真では色が上手く写せなかったのですが、名札の通りの爽やかな水色の花が咲いていました???ところが、先ほど見てみると、またまたブルーから紫がかったピンクに変わっていました。紫陽花の七変化なら聞いたことがありますが、朝顔でもこんなことがあるなんて初めて知りました。↑次の日の朝 (ツボミの時と同じ色でした)2017年7月27日の日記 → 三渓園朝顔展
2017.08.07
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ー 庭の花たち ー↑矢の根梵天花(ヤノネボンテンカ)一昨年、ボタニカルアートの先輩、Kさんから小さな苗をいただきました。翌年早くも花が咲き、今年は5~6月ごろ蕾がびっしりつきました。今年は早く咲いてくれるのかと喜んでいたら、全て閉鎖花でガッガリ…。びっしりついた蕾の幾つかを開いて見ると、中は種ばかりでした。やっぱり秋まで咲かないのかと諦めて、半月ほど前に伸び放題の枝を切り詰めました。すると、突然咲き出したのです。もしかして切り詰めたのが良かった???・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・↑サルビアコクネシア・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・朝顔の蔓が伸び、蕾がつきました。肥料をやろうとして、埋もれていた「碧水」という名札を発見‼︎ブルー系の花が咲くと喜んでいました。ところが、今朝見ると蕾の先端が赤っぽく見えました。さーてどちらが正しいのでしょう???
2017.08.05
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☆羊と鋼の森・宮下奈都・文藝春秋・2015年9月15日 第1刷・初出:別冊文藝春秋 2013年11月号〜2015年3月号 単行本化にあたり加筆〈あらすじ〉僕=外村(とむら )、17才、高校2年生。体育館のピアノの前に、その人を案内した。帰ろうとしたとき、背後でピアノの音がした。その人がグランドピアノの蓋を開けると、秋の夜の森の匂いがした。それも9月、夜といってもまだ入り口の、湿度の低い、晴れた日の夕方の6時ごろ・・・。山間の集落は森に遮られて太陽の最後の光が届かない。静かであたたかな、深さを含んだ音。そういう音がピアノからこぼれてくる振り向いた僕にかまわず、いくつかの音を点検するみたいに鳴らしていた。僕は何も聞かず、邪魔にならないようただ黙ってそこに立って見ていた。ピアノの音が少しずつ変わっていくのをそばで見ていた。多分2時間あまり、時が経つのも忘れて。作業があらかた終わったとき、その人はグランドピアノの蓋をあけて説明してくれた。このピアノはやさしい音がする良いピアノです。このピアノのハンマーは、いい草を食べて育ったいい羊の毛を贅沢に使って作られていて、今ではこんなにいいハンマーは作れないと。そして「ピアノ調律師 板鳥宗一郎」と書かれた名刺を僕に渡し、「良かったらピアノを見にきてください」と言って帰って行った。その日のことが忘れられなかった。一度だけ店を訪ね、弟子にして欲しいと直訴した僕に、板鳥さんは「本当に調律の勉強がしたいのなら、この学校がいいでしょう」と、校名を書いた紙片をくれた。生まれて初めて道(どう)を出て二年間、本州にある専門学校に、ひたすら調律の技術を覚えるためだけに通った。課題は厳しく、毎晩遅くまで取り組んだ。もしかしたら、迷い込んだら帰れなくなると聞かされた森に、足を踏み入れてしまったのではないか、幾度もそう思った。目の前の森は鬱蒼と茂って暗い。それでも不思議と嫌にならず、2年間の過程を終えた。無事卒業した僕は、故郷近くの町へ戻り、板鳥さんのいる楽器店に就職した。店にはピアノが6台あり、それを使っていつでも調律の練習をして良いことになっていた。練習ができるのは、通常業務のあとの夜だけだった。夜の楽器店で来る日も来る日も音叉を鳴らし、一弦ずつ音を合わせていく日が続く。板鳥さんは僕を見かけると「焦ってはいけません。こつこつ、こつこつです」と声をかけてくれた。入社して5ヶ月が過ぎ、先輩の柳さんの調律に同行させてもらえることになった。調律が終わりかけたころ、双子の姉妹の姉の和音(かずね)が帰宅、僕たちに挨拶をしたあと、壁にそっと背をつけて調律の作業を見ていた。「いかがでしょう」と聞いた調律師の求めに応え、和音がぽろぽろっと音を出した。僕は思わず椅子から腰を浮かし、耳から首筋にかけて鳥肌が立った。間も無く妹の由仁(ゆに)も帰宅。由仁の弾くピアノは、姉の和音とは全く違うピアノだった。温度が違う。湿度が違う。音が弾む。色彩にあふれていた。2人してピアノがうまくて、2人して可愛い双子だった。そんな双子の家から、ピアノの調律をキャンセルしたいと連絡があった。妹の由仁がピアノを弾けなくなったのだった・・・。時が経ち、双子の母から柳に調律の依頼があった。柳は、是非僕にも一緒に来て欲しいと、双子からの伝言があったという。調律が終わり、姉の和音が短い曲を弾いた。心配をかけたことを詫びたあと、和音は「ピアニストになりたい。ピアノで食べて行くのではなく、ピアノを食べて生きて行く」と、瞳を輝かせて言った。10日ほど経ったある日、双子が店を訪ねて来た。これからもよろしくお願いしますと挨拶をしに来たのだという。妹の由仁がまっすぐ僕を見て「調律師になって、和音のピアノを調律したいんです」と言った。「本当は、僕だ。僕が調律したい」そう思うのに、それをいうことができない。僕には力がないのだーーー。和音はうらやましいくらいの潔さで、ピアノに向かう。ピアノに向かいながら、同時に、世界と向かい合っている。僕にはするべき努力が分からない。分からないから、こつこつ、こつこつ、変わらず地道な調律の練習を続けるしかなかった。やがて、先輩から調律が変わったねと褒められたり、顧客からもお礼を言われることが、少しずつ少しずつ増えていった。♣︎宮下奈都1967年福井県生まれ。上智大学文学部哲学科卒。2004年、「静かな雨」が文学界新人賞佳作に入選、デビュー。2007年に発表された長編『スコーレNo.4』が絶賛される。2011年に刊行された『誰かが足りない』は本屋大賞にノミネートされた。その他の著書に『遠くの声に耳を澄ませて』「よろこびの歌』『太陽のパスタ、豆のスープ』「田舎の紳士服店のモデルの妻』『ふたつのしるし』『たった、それだけ』など。(カバー掲載の作者紹介文を参考にさせて頂きました)私にとって真夏は読書のシーズンなのに、このところ読みたい作者に出会わなくて困っていると嘆いていたら、katananke05さんが、この本を勧めて下さいました。この作者の本を読むのは初めてでしたが、一気に読んでしまいました。文章(言葉)がとても素敵で、読んでいて心地よいのです。この作者の本をもう少し続けて読んでみたくなりました。katananke05さん、ありがとうございました。
2017.08.04
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ー かぼちゃ団子・我が家好み ーかぼちゃ団子に再チャレンジしました。今回は生地を柔らかめにして片栗粉をほんの少し減らしました。もっちり感もバッチリ!我が家好みに美味しくできました。のっこさん、ありがとうございました ( ◠‿◠ )かぼちゃ団子・我が家好み(大きめのお団子 8ケ分)〈 材料と作り方 〉茹でたかぼちゃ 250g片栗粉 =かぼちゃの20パーセント弱(今回は45g)1.かぼちゃを茹で、マッシャーなどで潰します。 (お鍋で茹でても、蒸し器、または電子レンジでもOK)2.あら熱が取れたら片栗粉を入れて軽くまとめ、生地が固ければ水を足し耳たぶより少し柔らかめに調整します。3.生地がしっとりするまで、しっかり捏ねます。4.生地を8つに分けて丸め、火が通り易いように軽くつぶして形を整えます。5.フライパンにバターとサラダ油を半々に入れ、両面を薄く色づくまで焼きます。6.蓋をして、弱めの中火→弱火で、ときどき返しながら中まで火が通るように焼きます。7.みたらし団子のタレをかけて完成です。☆タレの材料醤油=大さじ2味醂=大さじ2砂糖=大さじ2水 =150cc片栗粉=大さじ1ダマが出来ないように片栗粉を少量の水で溶き、残りの調味料を全て合わせて小鍋に入れ、かき混ぜながら火を通します。固まってからも、しばらく練り上げたら完成です。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・甘みが少ないかぼちゃの場合、好みで生地にお砂糖を足しても良いかと思います。
2017.08.01
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