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まーた酔鯨風太と呑んじゃいました・・・・明日、長野に出張・・・・4時起きですんで、日記は明日。しゅんましぇん・・・・・・
Nov 30, 2005
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月末はお金がなーい!会社を出る前に嫁素盞嗚にTEL。「メシある?」「肉と野菜があるから何か作るよ」ほー、やるじゃないかね。んで、9時過ぎに家に帰ると、・・・・・・・なーんにも用意してないじゃん・・・・「あのぉ、メシは?」「今それどころじゃないのよ! 写真の申込書が入った封筒どこにやったの?」「・・・・ へ?何のこと?」「あー、まったく役にたたないんだから!」「・・・・・」どうも、先日行われた子素盞嗚2号のソフトの集合写真の申込書が見当たらないらしい。めっちゃイライラしとる・・・・・素盞嗚氏、そーと台所に行って肉野菜炒めを作りました・・・・「アタシはエライ!」独り言だったんですが、嫁素盞嗚の耳に入ってしまった。「自分のだけ作ってイバッてるんじゃないわよ! ワタシはいつもみんなの分作ってんのよ!」「・・・・・・」アタシ、何か悪いことした?でも、触らぬ神に祟りなし。小さくなって、肉野菜炒めをツマミに呑んでました。嫁素盞嗚、やっと、さっき寝ました。はー、平和な時間♪さて「ヤマタイコク」徹底解剖の第二章です。これまで魏志倭人伝の「共同改定」について考察を加えていきました。定説では、当たり前のように「誤り」とされてきたことも、結局は原文が正しかった。なぜか?それは資料分析においてのスタンスの違いだったんです。過去の研究史を見ると、残念ながら、客観的な資料分析がまったくなされていないんです。各研究者は、資料分析をする前に、「ヤマタイコク」の場所はここだ!ってまず決めているんです。で、その場所にもっていけるように原文を勝手に改定している。これが今までの研究史です。その最たるものが、これから紹介する「南」→「東」改定と「陸行一月」→「陸行一日」改定です。原文の読み下しはトップページに書きました。まずは読んでみてください。この改定のもつ問題点は次の3点です。1.このように改定してある三国志の版本は一切存在しない。2.後漢書や梁書のような後代資料にもこのように改定してある 資料は一切ない。3.「南」から「東」への改定は、その字形すら似ていない。ではなぜ、このような改定をしたのか?その答えは上に記した通りです。つまりこれまでの研究者は、自分の到達したいとする「予定地」にもっていくためには、「南」を「東」に、「一月」を「一日」に、このように原文を改定しないとたどり着けない、ということなんです。これはことばを変えて言うと、目的地がすでに決まっているから、この改定が必要不可欠なんです。これまでの研究者は、資料の導くところにその所在地を求めるのではなく、あらかじめ目的地を決めて、それに合うように資料を改定しているんです。ではなぜこんなに勝手な改定が許されたんでしょうか?これは「邪馬壹国」から「邪馬臺国」へと改定したことから始まる、共同改定がもたらした悪しき弊害なんです。「魏志倭人伝は間違えが多い」これです。しかし、これまで進めてきたように、陳寿の書いた魏志倭人伝は驚くほど正確なんです。だから今回の2点の問題も鵜呑みにしてはいけないんです。次回この2点の改定が、いかに脆弱な論証から成り立っているかを検証していきます。今日は薩摩白波をお湯割りで呑みました。芋焼酎、いいッスねぇ♪SEE YOU NEXT TIME
Nov 29, 2005
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シェーキーズって、知っとる?店内にデキシーランドジャズがかかってるピザの店。ランチ時にはピザ食べ放題やってるんですよね。豪飲豪食の素盞嗚、無性にシェーキーズのピザが喰いたくなった!で、わざわざ高田馬場まで行って喰ってきました♪この店、素盞嗚が高校時代には横須賀にもあって、よくガッコさぼって喰いに行きました。何枚喰えるか!なーんてよくやりました。え?最高で何枚喰ったかって?ふっふっふ・・・39ピース!パーティサイズで3枚ぐらいですかね。店の店長にもよく、「またお前かぁ、もう来んなよ!」って言われてました。そんなこと思い出して、急に食べたくなっちゃった♪20ピースぐらいはいくかなぁ、って思ってたんだけど、さすがにそうはイカンザキ!15ピースでグロッキーでした。それでも腹いっぱいで、まーだ気持ち悪いッス・・・・当分ピザはいいかな。えーと、古代史は明日からまた再開しますです・・・・
Nov 28, 2005
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バンドのレコーディングから帰ってきました。順調に1曲目を終えて、2曲目に入る時、糖尿のギタリスト、ダンナが・・・・・「ううう、血糖値が・・・・」インシュリン打ちすぎて血糖値が下がり過ぎたんだと・・・・練習中断・・・・「素盞嗚ぉ、キャラメルとチョコ勝ってきて」コンビニ行って買ってきました。ダンナ、チョコをムシャムシャ・・・見る見る元気になりました♪チャブ中がチャブ打った時のような感じなんでしょうかねぇ。練習再開。今日はなかなかいいレコーディングができました。それにしても糖尿のギタリストや、痛風のボーカリスト・・・・・いつメンバーが欠けるか・・・・みんなぁ、来年の30周年までは元気でいてよ。さて、5つの疑問です。素盞嗚氏は前述の5つの疑問にこう答えます。まず第一の帯方郡から洛陽までなぜ先導護衛をつけたのか?この遣使が景初二年六月だったなら、魏軍と公孫淵が交戦していた時ですから護衛をつけて洛陽に送り届けても、まったく自然ですね。第二、倭国の遣使の人数と奉献物が異常に少ないこと。これも当然と言えば当然ですね。大々的に行列を組んで行ったら、どこで襲われるかわかんないんですから。もしかしたら、途中で略奪されたり、殺されたとも考えられますね。第三、魏の天子がメチャクチャ喜んでくれたこと、これもよくわかりますね。「命を懸けての朝献、その志、アッパレじゃ!」ってね♪第四、五。これは魏の天子明帝の急死がキーワードですね。倭国の遣使、難升米が景初三年12月に返礼としての下賜品の目録をもらったのち、明帝はいきなり発病。しかも下賜品の現物をもらう前に明帝は死亡!魏は天子の死亡後、当然喪に服した訳です。で、魏は倭国の遣使に、「悪いなぁ、こんなつもりじゃなかったんだけど、 大将が逝っちまったもんだから、 喪に服さなきゃなんなくてさぁ。 んで、予定してた行事もすべて中止なんよ。 だから目録は書いたんだけど、 ブツを渡すことができなくなっちったんだ。 喪が明けたら必ず持ってくから、 ワリーんだけど、手ぶらで帰ってくんねーかなぁ」とまー、こんな感じになったと考えています。で、ちょうど一年後に喪が明けたら、予定されてた下賜品は、確かに倭国に届けられたんです。倭人の朝献記事が原文通り景初二年ならぜんぜん矛盾がないんです。「邪馬壹国」「邪馬臺国」「会稽東治」「会稽東冶」に続き、「景初二年」「景初三年」という共同改定の根拠も実に脆弱であったことが露呈しましたね。この事実を以って認識しなければならないことがあります。魏志倭人伝の宋の版本は驚くほど正確である。長々と書きましたが、実はこれが言いたかったんです。またこの命題は次のような帰結を生みます。倭人伝をむやみに改定すべからず!これです。この原則をベースとして次なるテーマへと進みます。「ヤマタイコク」はどこにあったのか?この疑問に答えるため、次は「各個改定」問題に取り組みます。だんだん、女王国の所在が見えてきた。さて、明日は子素盞嗚2号のソフトの試合です。この秋から連盟の選抜チーム「金沢スターズ」のメンバーとして初の公式戦です。明日は厚木まで行ってきます。ではでは、SEE YOU NEXT TIME
Nov 26, 2005
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そういえば、ダイエットしようって思ったのに、全然努力しとらん・・・・いかんいかん。チットマジメに取り組まんとね♪こんなの読んでがんばります。見てろよ、jackblue!さて「共同改定」問題。少々長くなりますが、一気にいきます。・・・・・多分一昨日書いた、魏への朝献記事についての5つの疑問について考察を加えていきます。まず前提として、この景初年間の魏の情勢を三国志の帝記から列記します。1.景初二年一月 魏の明帝は、反乱を起こした遼東の公孫淵討伐の 詔勅を発して、遼東征伐の兵を出しました。2.同年六月 魏軍は戦いを優勢に進め、軍は遼東の公孫淵の城を攻め立てました。 籠城している公孫淵軍は食料も尽き、 人肉を喰うという惨状になっていた。 この時点で勝負あった!って状況だったんでしょうね。3.同年八月 公孫淵は首を斬られ、魏軍は洛陽に凱旋しました。4.同年十二月 魏の明帝は急病で倒れ、危篤になります。5.翌景初三年一月 明帝死亡! 代わって斉王が位を継ぎました。6.同年十二月 斉王は詔勅を発し、 「この一年先帝の喪に服して、一切の諸行事を停止してたけど、 年も変わるんで、来年早々からまたもとのように いろんな行事を再開しまーす♪ で、年号も来年から『正始』にしますよー」景初二、三年の魏はこのような情勢だったんです。問題の卑弥呼の使い、難升米等が帯方郡に着いたのは六月で、下賜品の目録をもらったのは十二月です。これが景初三年だったらどうだろう。魏の明帝の喪に服している時に朝献したことになりますね。どうです、あり得ないですね。「6」で示した通り、景初三年は喪に服して諸行事をストップさせてるんですから。しかも前述した5つの疑問にもまったく答えることができない。では、原文通り景初二年としたらどうなるでしょう。二年の六月は魏軍が公孫淵をガンガン攻めてる時です。帯方郡のあった半島北部はまだまだ混沌としていたことでしょう。こんな時期にわざわざ遣使を出したのはなぜでしょうか?あり得ない!そう言ったのは新井白石でしたが、素盞嗚氏は「こんな時だから敢えて危険を冒して朝献した」そう思っています。なぜなら、倭国は従来中国に使いを出す際は、もともと公孫淵の勢力下にあったんです。しかし公孫淵は魏に反乱を起こした。そして、形勢が魏に有利と見た卑弥呼は、すかさず「倭国は今まで公孫淵を通して貢献してたけど、 公孫淵は逆賊なんで、もう公孫淵とは縁を切りますよ。 だから今回は陣中見舞いの意味も込めて 帯方郡経由で洛陽に朝献しました」 卑弥呼はこのような外交戦略をもって 魏に朝献したんだと素盞嗚氏は考えます。こう考えると、前述の5つの疑問がすべて解けるんです。ううう・・・・ダメじゃ。一気に最後まで行こうと思ったけど、呑み過ぎでカラータイマーが切れてきた・・・・いいとこで終ってすんましぇん。明日は午前はいつものソフト。午後はバンドの練習です。レコーディング・・・・・なかなか進まないんです・・・・昨日、たくさんコメントいただきました。ありがとうございます。返事を書くとまた切なくなるんで、ここでまとめて書きます。「みんなありがと。みんな大切な仲間だよね。ひとりひとりを大切にひとりひとりを愛していきたい、そう思っています。みんな大好きです♪」モーホじゃないよ・・・・SEE YOU NEXT TIME
Nov 25, 2005
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沙奈さんの通夜に行ってきました。会場に着いたら、2箇所で葬儀をしてました。・・・・・・いかん、沙奈さんの本名知らん・・・・会場整理している女性に「あのー・・・沙奈さんの・・・・」「はぁ?」・・・・・・だよね。「女性でぇ、えーと独身でぇ・・・」・・・・・・不審そうな顔してた・・・・もともと人相の悪い素盞嗚氏、んで、名前もわからんで、独身女性の葬儀に来たって言うと、普通、「こいつ絶対ヘン!」って思われますよね・・・まーそれでも調べてくれて、「2階です」って教えてくれました。で、受付。香典の名前に何て書こうか迷ったんですが、本名を書いても沙奈さんにわかってもらえないし、姓のあとに「素盞嗚」って書いたんです。で、受付に出して、そんで記名しますよね。予定では「○○素盞嗚」って書くつもりだったんだけど、普通の芳名録じゃなくて、フリガナを書くところがあったんです。・・・・・ここに「スサノオ」って書くのヘンだよなぁ、って思って、受付で神妙な顔したオジサンに「実は・・・」って事情を言って本名の後に「素盞嗚」って書きました。オジサン、思った通り不審な顔してました。会場に入って沙奈さんの遺影を見ました。初めて、沙奈さんに会いました。・・・・・・涙を堪えるのに苦労しました。読経の合間にお焼香をしました。通夜なのに「始めまして」って。「今度生まれてくる時は、もっと近くにおいでよ」焼香を終えて、係りの人に誘導されて宴席の近くまで来たけど、ひとりになりたくて、外に出ました。結局家の近くの馴染みの中華料理屋で呑みました。いつもはカウンターで呑むんだけど、今日は4人掛けの席に座った。「牡蠣じゃないけど、ここの餃子は旨いんだよ」対面に沙奈さんを呼んで、呑みました。「何落ち込んでんだー(爆)」沙奈さんに叱られました♪「そうだね、でも大丈夫! 通夜に行って、酒呑んで、 悲しいこと、全部流したから♪ そうそう、7世紀のこと、任せといてね、 jasminteaさんと研究するからさ♪」彼女が笑ったような気がしました。倭人伝、「景初二年」問題の5つの疑問・・・・原稿は書いてあるんだけど、前段が長くなったんで、今日はやめます。沙奈さん、今日でお別れだね。・・・・・おやすみSEE YOU NEXT TIME
Nov 24, 2005
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黄泉の国に旅立った沙奈さんのためにも、古代史解明を続けていかなくちゃ。明るく、元気に♪さて、魏志倭人伝に書かれた魏国への朝献の年代問題。いずれの資料にも「景初二年」と書かれているのに、新井白石、松下見林、内藤湖南らに、小ざかしくも「景初三年」と改定されてしまいました。この問題を検証していきます。前回、5つの疑問がある、と言いましたね。その第一倭国の使者、難升米等が現在のソウル当たりにあったとされる帯方郡に着いてから、魏王に謁見するためにさらに魏の都、洛陽に行ったんんです。その際に帯方郡の太守は、わざわざ付き添いの者をつけて、洛陽まで送り届けているんです。これは、ちょっと異例なことなんです。過去の朝献でも例がないし、その後も例がないんです。倭人の朝献は脈々と続いていたんだから、地理不案内ってことも考えがたいんです。これ第一の疑問。第二は、使いの数と奉献品の量の問題。この時の使いは難升米と都市牛利のたったの二人で行ったんです。で、奉献品は「生口(奴隷のようなもの)10人、と斑布2匹2丈」これって、むちゃくちゃ貧弱なんです。この100年以上前の時でも、生口160人だったし、卑弥呼の第二回の朝献の時は、使いも8人、奉献品も多種多様だったんです。まったく今回とは比較にならないほどの量なんです。なぜ、今回はこんなに貧弱だったんだろう。これが第二の疑問です。第三の疑問は、これだけ貧弱な朝献のもかかわらず、魏国の喜び方が異常なほどだったんです。この貧弱な奉献品に対し、ケタはずれの下賜品を与えてるんです。しかもこの莫大な下賜品以外にも、特別に卑弥呼個人にも豪華な「おまけ」をくれてるんです。なぜ魏はこんなにこの朝献を喜んだんでしょう。これ第三の疑問。第四の疑問。これは少しわかり難いんですが、この奉献のあった年の12月に魏の天子から卑弥呼に詔勅が出されてるんですが、その文面が三国志に長文掲載されてるんです。これ自体類を見ない例なんです。ここには下賜品の目録が記載されてるんですが、普通詔勅が出て、詔書記事があると、必ずその実行行為があるはずなんですが、今回はそれがない。要するに、たくさん品物をあげるよ、って言ったのに、その品物自体をあげた形跡がないんです。この不思議が第四の疑問です。第五の疑問。この詔書の記事には、「難升米と都市牛利にブツを渡すから、持って帰ってね。 それで、自国に帰ったら民衆に魏からもらったぞー、 って見せびらかすんだぞ」って書いてあるのに実行されずに二人は手ぶらで帰ってるんです。そして、この翌々年の正始元年にその下賜が実行されているんです。詔書の内容と、下賜の実行の矛盾、これはいったいどういうことなんでしょうか。過去の研究では、この5つの疑問については沈黙を守っています。(もちろん古田武彦氏は別)この5つの疑問を解くのに、今回の朝献年代を「景初三年」に改定してしまうとまったく解くことは不可能なんです。では原文通り「景初二年」で読むとなぜ矛盾がないのか、次回はこれについて書いていきます。・・・・・だー、呑みたかったー!これで呑める♪沙奈さん、今回はこれぐらいでいいかい?SEE YOU NEXT TIME
Nov 23, 2005
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7世紀の日本の歴史が好きで、蘇我入鹿の話しをよくしたんですよ。いつもココの日記を見に来てくれた方が、昨日、夜9時過ぎに亡くなったそうです。牡蠣が好物だって言って、今度銀座の美味しいお店でおごってあげるよって、つい最近話したばかりだったのに・・・・今年はいったい何人、オレの仲間を奪うつもりなんだよ。切ないねぇ・・・酒でも呑まなきゃ、やってらんねーよ。もう、祈ってあげる事しかできないから、目一杯、祈らせてもらいます。合掌
Nov 22, 2005
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午前中は二日酔いでコンサルティング・・・・午後は風邪でフラフラ・・・・不摂生が祟ってつらい出張になりました。んで、素盞嗚の脳みそは真面目モード♪・・・・・うう、意味通じてないけど、要するに、真面目に魏志倭人伝いってみます。まずこいつを読んでください。景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣はし、郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、吏を遣はし、もって送りて京都に詣らしむ。チット、通解しますね。魏の景初二年六月に、倭国の卑弥呼は難升米って男を使いとして、朝鮮半島の今のソウル付近にあった帯方郡という出先機関に使わした。で、魏の天子がいる中国の都に直接貢献に行きたいんですって帯方郡の太守劉夏に話したんです。で、劉夏は部下を付き添わせて天子のいる都に難升米らを連れて行った。まーこんなことが魏志倭人伝に書いてます。これは卑弥呼が魏に貢献した最初の記事で、有名な「親魏倭王」の印綬をもらった時の記事なんです。この記事で今回問題になってくるのが、「景初二年」です。魏志倭人伝の多くある版本にはすべて「景初二年」と書かれているのに、なぜか通説では「景初三年」に改定されているんです。なぜか?実はこの問題を最初に提唱したのは、江戸時代の碩学、新井白石だ。その著、「古史通或問」に以下のようなことが書かれてるんです。三国志によると景初二年の1月から8月の間は魏が遼東の公孫淵を討伐すべく、大掛かりな戦闘が行われていた。この時の朝鮮半島はまだ、公孫淵の勢力化にあったので、六月に難升米等が帯方郡に行くということはあり得ないこう書いているんです。これに対して、松下見林はこれは三年の間違えであると同調したんです。この勝手な改定を受けて、明治時代の史学界の重鎮内藤湖南が同調して現在に至っているんです。しかしこの問題、おかしな点がたくさんあるんです。次回、5点の疑問とその考察を加えていきます。かたいですね・・・・すんません、呑んだら頭回らなくなるし、呑まないとつまらんし・・・・今日はここらでごカンベンを・・・・SEE YOU NEXT TIME
Nov 21, 2005
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いいじゃーないの。好きなんだから♪やりたいようにやろうじゃないか!でもさー、・・・・・・・なんか目が回ってるけど・・・・・・・・・・どうしよ・・・・・明日は群馬でぷ♪景初二年・・・・絶対書きます。4時起きデプ・・・・おやしゅみ・・・・SEE YOU NEXT TIME
Nov 20, 2005
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今日は7時からバレー見て、そんで9時からK1見て・・・だからあんまり早くに呑むとまーた呑み過ぎて嫁素盞嗚に叱られちゃうから呑むのは7時から!そう決めてたんだけど、もー、しんぼー堪らん!「景初二年」問題は明日!すんましぇん、古代史は本日休業・・・・・がんばれ、バンナ!一度挫折したモンは強い!君の初優勝を願っとるで!SEE YOU NEXT TIME
Nov 19, 2005
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昨日は5時から12時まで呑んじゃいました・・・・横須賀の北久里浜って町で、ウチのバンドのギタリスト、ダンナ社長と2人で。最初の店ではハレーを見ながら、ビールジョッキで4杯。二件目は「豆腐の店」これが旨かった!あんまり旨かったんで、熱燗しこたま呑んで、んで3軒目は女の子ちゃんのいる店♪焼酎、いったいどれほど呑んだんやろ???ダンナ社長はこの町の住人なんで、タクシーで帰って、素盞嗚氏は電車で帰ろうとしたんです。「駅員さーん、上りまだあるよね♪」「・・・・もうないですよ」「へ?」マジ・・・・・お金全然ないし・・・・トボトボ歩いて帰りました。・・・・・2時間半かかりました・・・・・朝、死ぬほど気持ち悪かった・・・・んで、嫁素盞嗚に叱られました・・・・「バカじゃないの、タクシーなんか使わなかったでしょうね!」「・・・・・歩いて帰った」「ホントばか、信じらんない」しゅん・・・・・気ぃ取り直して、「ヤマタイコク」いきます。「会稽東治」から「「会稽東冶」に原文改定したことが誤りであったことはわかりましたよね。それなら「会稽東治」っていったいどういう意味?千数百年、誰も解明できなかった謎です。さてどうする素盞嗚!ピンチの時は現場に戻れ!これ鉄則ですね。もう一度倭人伝をジックリ読んでみました。ホントは漢文か読み下し文で書くべきなんでしょうが、難しいんで素盞嗚流超訳でいってみます。問題の「会稽東治」が出てくる文です。「倭人の男達はどんなヤツでもみんな顔に入れ墨をしている。倭人は昔から中国に貢献に来ると自分達は大夫だと言っているんです。中国の夏王朝時代に少康ってのがいたけど、その子供が会稽王になった時水辺の民がサメなんかの被害に悩んでたんで、その解決策として、髪の毛を切って、身体に入れ墨入れるといいぞ!って民に教えたんです。それで今の倭人も海に潜って魚を取るんで、入れ墨をしてるんでしょう。各地域の倭人はそれぞれ違う入れ墨をしている。右に入れたり、左に入れたり、また大きかったり小さかったり、尊卑にも差があったりします。またその道里を計るにまさに会稽東治の東に存るべし」こんな意味なんですが、わかりました?最後の会稽東治の直前に「まさに」ってありますよね。この「まさに」とは、文字通りまさに前述の「会稽王」の話しを受けて書かれてると思うんです。この意味するところとは、夏王朝の感化が倭人に及んでいて、それが風習化して、今も倭人の中に脈々と伝えられていると、陳寿は推測したんだと思うんです。だからこの「東治」の「治」は、少康の子の「会稽王」の治績を指している、そう考えられないでしょうか!会稽郡の東限の治績、これが「会稽東治」の意味だ!夏王朝の政治上の統治、感化が直接倭人に及んでいた、これが陳寿の歴史観だ!こう理解すると、ここはやっぱり「東冶」などではなく、原文通り「東治」じゃなきゃダメですよネ。さて共同改定として「壹」「臺」問題と「東治」「東冶」問題について考察してきたんだけど、自分で書いててややっこしくなってきた・・・・この共同改定問題はまだいくつかあるんだけど、最後に一つだけ、大事なところをやります。「景初二年」「景初三年」問題だ。ここはわかりやすいですから、お付き合いください。今日は昨日の名残か、まだ体調が優れないんです・・・・だからお酒抜いちゃいました。まー昨日は二日分呑んでますけど・・・・SEE YOU NEXT TIME
Nov 18, 2005
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おっしゃー!やるじゃないかね♪後半タイムアウトギリギリで松井のヘッド!ジーコジャパンの勝利だ!・・・・・今日は忙しかったねぇ、バレーの韓国戦。最後は素盞嗚氏の大好きなかおる姫のスパイクでストレート勝ち♪ううーん、快感♪んじゃ行きますか、「ヤマタイコク」徹底解剖。後漢書を書いた范曄が、「会稽東治」を「会稽東冶」と改定したこと。これは正しいのか?検証していこう。まずは三国志を調べてみた。三国志は基本的に「魏志」「蜀志」「呉志」に分かれてます。会稽は「呉」の領地ですから、「呉志」を見てみた。・・・・・・ふんふん・・・・・・・・・なんじゃこりゃー!すごい記事を発見しました。永安三年(西暦260年)の記事。「会稽南郡を以って建安郡と為す」会稽南郡とは今の福建省(台湾の対岸)、范曄が東冶と改定した、その「東冶」のある地域です。要するに西暦260年以前は「会稽東冶」だったところが、それ以降は「建安東冶」になってるんです。ここで注意していかなければならないことは、陳寿が三国志を書くにあたって、西暦260年を境に厳密に「会稽」と「建安」を書き分けているかどうか、ってことです。んで、調べてみると、・・・・・うーん、さすが陳寿君、見事なまでに書き分けてるんですね。陳寿は三世紀の末に三国志を書いた、この時期には「会稽東冶」という地名はなかったんです。だから陳寿が「会稽東冶」と書くことはあり得ないんです。ではなぜ、范曄は「治」を「冶」と改定したのか?実はこの地域は西暦260年以前は「会稽東冶」。西暦260年以降は「建安東冶」になったんだけど、范曄がいた五世紀には再び「会稽東冶」に地名に戻ってるんです。范曄は、自分が生きていた時の認識と、後漢書の年代である1~2世紀の時代がこの地域を「会稽東冶」と言われていたため、3世紀も同じであると、何の疑問もなく考えていたんです。だから、陳寿の三国志に記載された「会稽東治」を「会稽東冶」と改定してしまった・・・ある意味ではやむを得ないとも思うんですが、これが後世の「ヤマタイコク」研究にとって、大変な混乱をもたらしてしまったんです。まさに歴史家として、致命的なミスを犯してしまったんです。極論すると、現在の「ヤマタイコク」の混乱の原因は范曄の責任とも言えるんですね。しかーし!んじゃ、「原文の会稽東治が正しいっていうなら、 それはいったいどういう意味なの? そもそも東治の意味がわかんないから 東冶って改定したんじゃないの?」って声が聞こえてきますね。事実、何人かの方からそんな質問がありました。次回、この問題に取り組んでいきましょう。でもね、チット、ってよか、メッチャ難しい問題なんです。そりゃそうですよね、千何百年もの間、誰もわからなかったことなんだから・・・・でも、次回やります!ご期待あれ!そうそう、昨日行ってきた千葉のカフェ&雑貨屋さん、平日の2時ごろだっちゅーに、大盛況!驚きでした!この時の記事は素盞嗚氏の仕事用ブログのページに書きました。jukanmaster雑貨や家具の写真もすこし上げたんで見てね♪さて、明日は溜まった仕事を集中してやっつけますぜ。呑んだくれでもやる時はやるんじゃー!SEE YOU NEXT TIME
Nov 16, 2005
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「ヤマタイコク」徹底解剖の第一章は「原文改定」そのトップバッターは「邪馬壹国」「邪馬臺国」問題でした。で、次なる問題は「会稽東治」と「会稽東冶」それぞれ「カイケイトウチ」「カイケイトウヤ」と読みます。うーん、ややっこしい・・・・点一つの違いじゃ・・・・これは何かというと、作者の陳寿が卑弥呼の国の場所を示す際に用いた文章、「その道里を計るに、まさに会稽東治の東にあるべし」と書いている部分なんです。三国志には多くの版本があるんですが、そこにはすべて例外なく「会稽東治」と書かれている。にもかかわらず、これを「会稽東冶」と原文改定してるんです。「壹」「臺」改定と同じようにほとんどの研究者が「冶」と改定して読んでます。いわゆる「共同改定」です。なぜ、このような改定がなされたか?まず「会稽」とは何か、ですが、これは中国の福建省あたりの地名なんです。会稽郡というかなり大きな地域で、そこの南端、もう台湾に近いあたりに「東冶」という県があったんですね。そこで、「壹」「臺」問題でも前科がある、後漢書の作者「范曄」が小ざかしく、ここでも罪を犯してるんです。「東治」は「東冶」のあやまりである、と。范曄は倭人伝に書かれた上記の文章は、「会稽郡東冶県」だと思ったんです。だから勝手に原文改定を行ってしまった・・・・これを後世の研究者も、みーんな従っっちゃったんですね。この改定の結果、卑弥呼の国は台湾南部と同じような緯度にある!こう認識されちゃったんですね。こうなると、倭人伝は全然信用できないじゃん、そういうことになっちゃうワケです。では果たして、この原文改定は正しいのか?追求してみましょう。ところで、そんな細かいこと、どーでもいいじゃん!そー思われるでしょうか、それじゃイカンのです。なぜなら、このように安易に原文改定をすることは、「倭人伝は間違えが多い、だから他も間違えがあるはずだ」そういう帰結になるんです。その結果、研究者自身が自分の都合のいいような原文改定をやり始めちゃうんです。事実、「ヤマタイコク」の研究史を見てみると、「倭人伝」信用できず、だから「東」は「南」の誤りだ、とか「一月」は「一日」の間違いだというように原文改定をして自説に都合の良いように変えてるんです。「壹」「臺」問題もそうですが、この「治」「冶」問題も、もっと厳密に分析する必要があるんです。ではなぜ范曄の改定が間違っているのか、次回はここを検証してみます。これから千葉の雑貨屋とカフェに行ってきます。え?遊びじゃないッスよ。視察というか見学というか。人が集まる店の秘密を探りに行ってきます。まー、お酒は置いてないから、ちゃんと勉強できると思います♪SEE YOU NEXT TIME
Nov 15, 2005
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倭人伝の検証を進める中で、ふっと思ったんだけど、「ヤマタイコク」のことってなまえはみんな知ってるんだろうけど、それって、資料的には「三国志」の「魏志倭人伝」に出てるワケで、その「魏志倭人伝」って中国資料ですよね。でも日本にも古代のことの資料ってあるじゃないですか。「古事記」や「日本書紀」・・・・でもその日本の資料には「ヤマタイコク」のことがほとんど書かれてないんですよね。なんでしょう?てへへ、ホントは今日、会稽東治のことを書こうと思ったんだけど、子素盞嗚2号とソフトの話が盛り上がっちゃって、気が付いたら2合徳利で4本つけてた・・・・・指先まで酒が回っちゃったから、思考回路が止まってます・・・・「オモロ画像」もあげられなくてすんません・・・・んで、脈絡もないんだけど、酔っ払ってるんでこんなんで・・・・よろチクビ・・・・すんません、阿呆で・・・・
Nov 14, 2005
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今朝はあんなに二日酔いで気持ち悪かったのに、結局また呑んじゃう悲しい性・・・・・「邪馬壹国」問題も、まだまだやるんだけど、なんてったって徹底解剖ですから。でも体液の半分ぐらいが日本酒になっちゃってるみたいなんで、ノンビリやりましゅる・・・・学校では「邪馬台国」って習ったのに、そんな漢字表記はどこにもない、んで調べてみたら「邪馬臺国」だよー、って。でもそれは後漢書に書いてあるワケで、魏志倭人伝には書いてない。倭人伝には「邪馬壹国」って書いてあって、でもそれ、どういうことかわかんなくて、どうも真相は「邪馬倭国」みたいで・・・・うーん、よくワケわからん!みんな似たような漢字だし・・・・きっとこんな感じだよね・・・で、資料の原文改定は慎重にやらなきゃいけないんだけど、この「邪馬壹国」問題以外にも、あと2つ、公然と原文改定されてる箇所があるんです。「会稽東治」→「会稽東冶」への改定と「景初二年」→「景初三年」への改定。この2点です。この改定が正しいのか、これを検証していきます。んなことどーでもいーじゃん、そー思ってるでしょ?でもね、これ、結構大事な話なんです。あんまり詳しくやると嫌われそうなんで、ザックリやるけど、いかに今までの学説が「テキトー」だったか、それを理解してもらえるように書いていきます。あ、イカン・・・・耳から脳みそが垂れてきた・・・・耳栓、耳栓・・・・・コメントの返信は明日・・・ごみんしゃい・・・・・SEE YOU NEXT TIME
Nov 13, 2005
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おはようございます。あいにくの雨で、今日のソフトの練習は中止。明日の県大会初戦がチット不安です。さて、大好きな「あろま」さんからバトンが回ってきました。1、回してくれた人の印象をどうぞ☆ お茶目で人好きなナイスガールって感じかな。 プロフの写真がとっても素敵です。 男性諸君、是非一度寄って見るべし!2、周りから見た自分はどんな人だと思われますか?5つ述べてください 呑んだ暮れ・・・・ 歴史の話がくどい・・・・ 楽天的 モロB型 ドラムセットの前に座った時だけシャキッとする・・・3、自分の好きな人間性について5つ述べてください 仲間を大切にする 酒が好き(人間性じゃないか・・・) 一生懸命な人 人の痛みに同苦する いつでも笑顔♪4、では反対に嫌いなタイプは? 平気でウソをつくヤツ 虚栄心をはるヤツ 人を見下すヤツ5、自分がこうなりたいと思う理想像とかありますか? 呑み屋やって、気のいい仲間とワイワイやること♪ 6、自分の事を慕ってくれる人に叫んでください。 金のないヤツは俺んとこに来い! 俺もないけどなんとかなるさ♪7、そんな大好きな人にバトンタッチ15名!(印象つき) しまった・・・・ バトン、落とした・・・・ 誰か拾って!SEE YOU NEXT TIME
Nov 12, 2005
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昨日、久しぶりにリオンラッセルを聴きました。サザンロックっちゅーよりも、南部のオッサンって感じでいかったですね。さて、「壹」「臺」問題の最終回です。中国では卑弥呼の国を三世紀には「邪馬壹国」と表現し、五世紀以降には「邪馬臺国」と言いました。なぜか?すこし遠回りみたいになるけど、「壹」について考えてみますね。「臺」は前述のように、三世紀には「貴字」、貴い字でしたね。だから作者の陳寿が使うワケがなかった。では「壹」の文字を陳寿はどういう意味で使ったんでしょう?資料を調べてみると、「壹」は「二心あらず」って意味があることがわかりました。これは「弐」と対比させてるんですね。古代中国においては、「弐」という文字はあまり良い意味では使われていなかったようです。それは「二心あり」というように考えられてたからです。特に中華思想に凝り固まっていた三世紀の中国においては、他国は夷蛮な国であり、我が中国に臣下の礼をとるべきである。そう考えていたので、「二心」を持つことは最大の悪だったんですね。逆に「壹」は「二心がない」という意味になるんで、従順な臣下の国の名前に当てる文字としては誠に相応しい文字だったんですね。ところで、素盞嗚氏はこの「邪馬壹国」は、実はもともとは「邪馬倭国」だったんじゃないか、と思ってるんです。「倭」は後世「ワ」と発音されたけど、もともとは「イ」と発音されていたんです!読みは「ヤマイコク」です。同じ魏志倭人伝の中に、「狗邪韓国」という国名が出てきますが、これは朝鮮半島の最南端の国です。これは、「韓国」の中の「狗邪国」というように理解できますね。これと同じように「倭国」の中の「邪馬国」、それで「邪馬倭国」と呼んだ。そう考えています。卑弥呼が倭国の女王となる前、倭国は何十年間も戦争してたんです。まだ、銃器はなかったッスけど・・・で、乱立していた小国は、ともに疲れきっていたんです。そこでみんなで話し合いをした。「もうやめようぜ。これじゃ共倒れになるぜ。」「んだんだ、じゃー霊力があるっちゅー卑弥呼を中心に 連合国家にすんべ♪」ってなことでまとまったんですね。魏志倭人伝にもある通り、この頃の倭国は多くの小国連合国家だったんです。だからその中心国たる「邪馬国」を「倭国の中の中心である邪馬国」という意味で「邪馬倭国」と呼んだんじゃないかと睨んでます。ところで卑弥呼が魏国に朝献した景初2年は山東半島に勢力を持っていた公孫淵が反乱を起こして、朝鮮半島北部に侵攻した年なんです。この混乱した闘いの中を卑弥呼の使者は、大変な苦労をして魏の都まで朝献したんです。魏の明帝は、東の端のもっとも遠い国の使者が戦乱の中、朝献したことに感激するんです。「おぉ、お前たちはあの戦乱の中、魏に忠誠を誓いに わざわざここまで来てくれたのか! オマエはエライ! その臣下の心意気、あたしゃ感激!」っと言ったかどうかはわかんないけど、卑弥呼からの貧弱な貢物に対し、その何十倍にも当たる返礼をしているところから、相当感動したことが伺えるんです。あの有名な「親魏倭王」の印もこの時もらってるんです。後述する予定ですが、この戦乱の中の朝献はあり得ない、と言って、倭人伝に書かれた「景初2年」は実は「景初3年」の誤りである。と言って原文改定してるのが現在の定説です。素盞嗚氏はここは原文通り、景初2年が正しいと思っています。で、倭人伝を書いた陳寿もこの朝献を称え、中国から見て、最高の臣下、「二心のない臣下」という意味から、わざわざ「邪馬倭国」を「邪馬壹国」と書いたんじゃないか!これが真相だと思っています。長くなったけどもうすこし・・・・さて「邪馬倭国」が「邪馬壹国」と表記された理由がわかった。次は「邪馬壹国」から「邪馬臺国」に書き換えられた理由です。「イ」から「ダイ」への変化だ。これはそんなに難しくなかったんです。歴史上、よくある話しで、自国を誇示する理由から国名に「大」を付けることがありますよね。「大日本帝国」「大韓民国」「大英帝国」などがそれです。で、倭国も「大倭」と言って自国を誇示したんです。この「大倭」、実は倭人伝の中にも出てくるんです。だから「大倭」の中の「邪馬国」ということで、「邪馬大倭国」と呼んでいたんだと思います。「ヤマダイイコク」です。この「ダイイ」を中国人は「ダイ」と読んで、「臺」の字を当てた。これが「邪馬臺国」への変化だと思います。いやー、長くなりました。呑む前だと、熱中しますね♪この論証で、文献に対するむやみな改定は危険である、ということがよく理解してもらえたと思います。実はこれまでの魏志倭人伝研究は原文改定のオンパレードなんです。次回ももうすこし原文改定の「非」について書いていきます。さて、帰りますか。明日は午前中はソフトの練習。午後からは楽しみにしていた人たちと会います♪風太氏も一緒だけど・・・・ではでは、SEE YOU NEXT TIME
Nov 11, 2005
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うーん、今日はたいして呑んでないのに、カラダがダルい・・・頭も痛いし・・・・とにかく眠い・・・・精神的なモンかね・・・・・今日は爆睡します・・・・
Nov 10, 2005
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今日は久しぶりに風太氏と同行の仕事。アタシの担当している工務店さん8社に販促のセミナーをしてもらいます。朝、そそくさと準備をしてたら、「ねー、子素盞嗚1号の弁当作ってくれない!」「・・・・・・・ これから仕事行くんだけど・・・」「私だって仕事なの!じゃ行ってくるからお願いね」「・・・・・」しかも米炊いてないし・・・・結局メシ代渡してパンを買ってもらうことにした。なんか最近どうしちゃったの、嫁素盞嗚・・・・昔はこんなにかわいかったのに・・・・・さて、今セミナー中、風太氏、血便・・・・・もとい、熱弁♪さてセミナーの間に日記を書き上げないと、今日は間違えなく泥酔しちゃうから。陳寿の書いた魏志倭人伝。原文は間違えなく「邪馬壹国」に違いない。そう論証してきました。しかし、よく考えてみるとおかしな点が見えてくるんです。なぜ范曄は「壹」を「臺」に改定したのか?この問いだ。本来「臺」の文字が「高貴な文字」であるなら、范曄もこの字を使う訳がない。道理ですよね。ではなぜ使ったのか?んでさらに調べてみたんです。ふんふん、にゃるほど♪「臺」の意味は時代によってその使い方が変化してるんですね。三国志の三世紀には「臺」は確かに「貴字」だったけど、後漢書の五世紀には実は「臺」のオンパレードなんです。他国に対してもこの字を使っている例がいくつかあるんです。三世紀には絶対あり得ないことなんだけど、五世紀には別に不自然なことではなくなったんです。ところがここで、もう一つの問いが生まれるんです。「五世紀に『臺』の文字を使ったのはわかったけど、 これだと「ヤマダイコク」か「ヤマタイコク」と読むのであって、 陳寿が書いた「邪馬壹国」(ヤマイチコク」「ヤマイコク」) とは読めないよ」この問いです。こいつは大いに悩みました。文献資料批判から判断すると、魏志倭人伝は「邪馬壹国」と書かれて、「ヤマイチコク」か「ヤマイコク」と発音されていた。これは間違えないと思うんです。ではなぜ范曄は「邪馬臺国」と改定したのか?五世紀以降の中国資料を見てみても、漢字表記は何種類もあるけれど、その「読み方」はすべて「ヤマタイコク」!「ヤマイチコク」「ヤマイコク」とは読めないんです。これは五世紀以降中国においては、卑弥呼の国の「音」がすべて「ヤマタイコク」と認識されていたことを意味してます。でも、三世紀に陳寿は「臺」も文字を使うことはあり得ない。うーん、どうしたもんかね。マジで悩みました。・・・・・ん?ふっふっふ答えが出ました。さて、風太セミナーもあとすこし。最後だけ、ちゃんと聞きますかね♪SEE YOU NEXT TIME
Nov 9, 2005
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今日は思わぬところから思わぬ仕事が入ってきたんですよ。最近マルビな素盞嗚氏には実に美味しい話でした♪そうなったら、もー呑むしかないですよね。んで、悪友「風太」氏と4時から新橋でやっちゃいました。見つけちゃったんですよ。200円の店♪熊谷では100円、赤坂見附では300円。で、新橋では200円の呑み屋さん♪あるんですなぁ。だいだいそーいう店にはヘンなオッチャンがいるんですよ。今日もいましたよ。「俺は毎日ここで呑んでんだ、がはははは!」まーどーでもいいんだけど、フライングシード氏には馴染まんだろうなぁ・・・・で、早い時間に帰途についたんだけど、こういう時ほど油断しちゃうんです・・・・・・・・・・・・・いかーん! 乗り過ごしたー!まだ戻る電車があったからよかったけど・・・・電車の中でこんなのあるといいよね♪古代史、ゴメン・・・・意識がはっきりしてないとまともに書けないんです・・・・まーノンビリ行きますかぁ♪SEE YOU NEXT TIME
Nov 8, 2005
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今日は歯医者・・・だから朝はチットのんびりだったんです。布団でごろごろしてたら「ねー、時間あるなら会社まで送ってってよ!」「ギクッ」・・・・知らない、知らない・・・・・聞いてましぇん・・・・・結局嫁素盞嗚の職場まで送って、昨日の洗い物して、洗濯干して・・・・最近、こんなんばっか・・・・昨日のショックを乗り越え、邪馬台国、いってみます。今当たり前のように読まれている「邪馬台国」この「台」の文字は「臺」の代字だということは以前に書きましたね。本来陳寿の書いた「魏志倭人伝」の版本に書かれているのは「邪馬壹国」それなのに「壹」は「臺」の誤りだとして、「邪馬台国」として読まれ続けています。しかし前回指摘した通り、その研究史を見る限り、原文改定に足り得る論証は一切なされてないんですね。ここで古文献の研究をする際のルールを再確認すると、1.より古い文献を第一資料とすること。2.原文改定をする場合は、万人が認める理由があること。この2点です。しかーし、現実には第一資料たる「魏志倭人伝」に記載されている「邪馬壹国」より約150年あとに書かれた「後漢書」の「邪馬臺国」を採用し、いまだに何の疑いもなく研究が続けられてます。この事実、素盞嗚氏には信じられない!結果はどうあれ、学問的検証がまったくなされてないんですから・・・・では、真相は、倭人伝にある通り「邪馬壹国」なのか?それとも多くの研究者が何の疑いもなく採用している「邪馬臺国」なのか?学問的検証をしてみよう。まずは問題の2つの文字のうち、「臺」を見てみよう。古文献に記載されている各文字を検証する場合、その文字を現代の認識で分析するとこは危険なんです。意味が違うことが往々にあるからです。だからこの場合は「三世紀の認識」を探る必要があります。その方法論は?そうです。三世紀に書かれた資料から「臺」の字を抜き出し、その意味を考えること、これですね。先述の通り、三国志全巻の中には「臺」の文字は58個出てきます。それぞれの意味を調べてみました。そしたら、あっとビックリの結果が出てきました!すべてじゃないんだけど、「臺」は今で言う「殿」という意味で使われているんです。例えば「魏臺」これは魏の天子が住む宮殿を意味してるんですが、後には「魏の天子」そのものを指すようになってるんです。「殿」と一緒ですよね。「御殿」とは権力者が住む建物だったのが、後に「殿様」という権力者そのものを指すようになっってますね。要するにこの「臺」という文字はこの時代最高に「高貴な文字」だったんです。(貴字)バリバリの中華思想だったこの頃、夷蛮の国の国名を表記するのにわざわざ貴字を用いるでしょうか?しかも「臺」は天子そのものを指す最高級な文字です。他は「邪」「卑」「奴」などを表記しているのに、その文字と一緒に「臺」を使うでしょうか?もし仮に「ヤマタイコク」と発音したのなら、表記に対して非常に神経を使った陳寿が「臺」の文字を選ぶとは絶対に考えられないんです。だから少なくとも陳寿が三国志を書いた時には「邪馬壹国」と表記したことは間違えない!素盞嗚氏はそう確信します。日本における「ヤマタイコク」研究史はこの一点を履き違え、親房、見林、白石と受け継がれて現代に至ってしまったんです。ちょうど錯綜し、横溢する大河の奔流も、その水源をさかのぼれば、ただの一滴から始まっているように・・・・ふんふん♪今日は消えないように慎重に登録しまっせー♪そうそういつもPapiさんがアタシのことをバッカス教授って呼んでくれてるんですが、実は気に入ってるんです♪Papiさん、いつもあんがと♪「邪馬壹国」の場所はいかに!その論証に行くまで、もうすこし「臺」「壹」問題にお付き合いくらはい。SEE YOU NEXT TIME
Nov 7, 2005
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うぎゃー!マジかよ・・・2時間・・・力作が消えた・・・邪馬壹国・・・もう書けない・・・呑まなきゃよかったバカヤロー!しいゆうねくすとうぃぃく・・・・シクシク・・・・立ち直れない・・・・
Nov 6, 2005
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おはよッス!爽やかな長野の朝です。ホテルで、朝風呂♪なにげにヘルスメーターに乗ってみた・・・・・・マジ・・・・6キロ太ってる・・・・こんなの喰ってる場合じゃない・・・・JBよろしく、ダイエットを決意!さて、「ヤマタイコク」問題の続きです。3世紀に書かれた魏志倭人伝には「邪馬壹国」5世紀に書かれた後漢書には「邪馬臺国」と改定されてしまいました。そして現在もほとんどが「邪馬臺国が採用され定説化してます。なぜ「邪馬壹国」は抹殺されたのか?過去の「ヤマタイコク」の研究史を調べてみました。すると、日本において、卑弥呼の国をはじめて「邪馬臺国」である、と記録したのは北畠親房の「神皇正統記」なんです。それを瑞渓周鳳というオッサンが「善隣国宝記」で継承してます。ちなみにこのオッサン、「九州説」を最初に発表した人なんです。親房は卑弥呼の国を「邪麻堆」と表現してるんですが、これは後漢書と隋書を合成した形跡があるんです。親房は小ざかしくも原文改定を行ったワケですね。この男の後漢書中心主義が周鳳に受け継がれ、江戸期に入って国粋主義者である松下見林の「異称日本伝」でメジャーになったようなんです。ここには邪馬臺国は大和国なり。「壹」は「臺」の誤りなり。そう、明確に宣言してるんです。彼は彼のイデオロギーから、わが国の歴史において、天皇家以外の王朝があったわけがない、だから、中国の国史に書かれた卑弥呼の国も神武天皇以来の大和朝廷に決まっている。だから当然「邪馬臺国」も「ヤマト」と読むべきだ!この強引かつ非学問的宣言がその後の研究史を狂わせてしまったんです。江戸の碩学新井白石も何の疑いも持たずこれに追従してしまった。また尊敬してやまない「本居宣長」までもが・・・親房から始まった見林の論証は、「天皇家一元主義」の何者でもない、素盞嗚氏はそう思います。もう一度確認しますが、卑弥呼の国を魏志倭人伝ではなくて後漢書に書かれた「邪馬臺国」として採用した学問的検証は何もなされていないんです。ではなんで「邪馬臺国」ではなくて「邪馬壹国」と読むべきなのか、次回はこれを証明してみます。さてそろそろチェックアウトします。午後から地元でソフトの練習。まずはここでダイエットの一歩ですな。宿敵jackblueには負けんぞぉ!SEE YOU NEXT TIME
Nov 5, 2005
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本日長野に来てマース!え?もちろん仕事ですよ♪今日はね、いい仕事しちゃいましたよ♪いい仕事しちゃうと、やーっぱり呑んじゃうんですよね。なになに、「邪馬壹国」?・・・・なんだっけ・・・・きっと古代人もいい仕事のあとは呑んだんですよ♪うーんとね、明日の朝書きます・・・・え?ホントだってば。書くよ。班固はね、こすっからいヤツなんだよ・・・・だからおやすみ♪SEE YOU ・・・・・・
Nov 4, 2005
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嫁素盞嗚、まだ帰ってきません・・・・もちろん夕飯はアタシ、素盞嗚が作りました・・・・最近このパターンが多い・・・・スーパーでキャベツを選んでたら、となりのの奥さんがいたんで、思わず棚の影に隠れました・・・・でも、バレた・・・・・「あーら、素盞嗚さん、えらいですねぇ、買い物ですか?」こんな人相でスーパーにいると、どうしても目立っちゃうんです・・・・気を取り直して、古代史いきます。魏志倭人伝には、実は「邪馬台国」とは書かれていなかった。「邪馬壹国」と書かれていた。いったい何で「邪馬台国」と言われるようになったんでしょうか?一般に出版されている魏志倭人伝を見てみました。ほとんどすべての資料には「壹」は「臺」 の誤りである。と、あっさり書かれてるんですね。「台」は「臺」の代字なんです。当用漢字に「臺」がないんで、類似した発音の文字として代用してるんです。で、この二つの文字、確かに字は似てますね。でも単純に似てるからって言って、簡単に原文改定をすることは危険なんです。資料分析の際、原文を改定するには相当な理由がないと改定すべきではない、これが文献研究の原則なんです。では、それ相当な理由があったんでしょうか?調べてみましょう。まず第一。魏志倭人伝が書かれている、三国志全体にこの「壹」と「臺」をすべて抜き出し、書き間違えた例があるのかどうか、これを調べてみました。「壹」は86個。「臺」は58個ありました。先述の古田氏はこれを表にして、すべてを検証してみたんです。誤記をした例はひとつも見つからなかった・・・・三世紀前後に書かれた他の文献を見ても、その書き間違えは皆無です。じゃー、他にどんな理由があったのか?第二。実は陳寿が三国志を書いた約150年後、范曄と言う史官が有名な後漢書を書いたんだけど、そこに「邪馬臺国」と紹介させてるんです。「ヤマタイコク」研究は実に江戸時代からその所在地を求めて「近畿説」「九州説」と論争されていたんですが、当時の研究からなぜかすでに「邪馬臺国」とされてたんです。なぜか?古文献研究をする際、もっとも基本とされることは、より古い文献を優先するべし!という原則があるんだけど、「邪馬臺国」と書かれた後漢書は、「邪馬壹国」 と書かれた三国志より約150年もあとに書かれてるんです。なのになぜ「邪馬臺国」が採用されたんでしょうか?またなぜ、范曄は「邪馬壹国」 を「邪馬臺国」と書き換えたんでしょうか?この答えを探るには、後漢書と三国志に書かれた内容を比較吟味してみる必要がありますね。それと、「邪馬臺国」を採用した江戸時代の研究者の文献も吟味しなければならない。うーん、ここだけで随分時間がかかりそーだ。でも、大事なところなんで、きっちり解説していきます。次回、上記2点を考察していきます。
Nov 3, 2005
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おばんです。随分寄り道をしちゃいましたけど、古代史モードに戻って、「邪馬台国」について考察していきたいと思います。今回書き綴っていく「邪馬台国」については、何度も紹介している「古田武彦氏」の学説がベースです。もう20年以上前になるんですが、初めて氏の学説に触れた時の驚きといったら、そいつぁ、強烈でした!・・・・・目から鱗の「邪馬台国」!はじまりはじまりー♪「邪馬台国」や「卑弥呼」って名前は知らない人はいないと思うんですが、ではそれはどこに書かれていたんでしょうか?そうです、魏志倭人伝ですね。魏志倭人伝とは、三世紀後半、西晋朝の文官「陳寿」が書いた「三国志 魏志」の最後の「東夷伝」の、それまた最後の最後に書かれたものなんです。その中にたったの一回だけ書かれているんです。この魏志倭人伝の原文はもちろん存在していません。何度も書き写され、後世に版本となって残っています。で、通常「魏志倭人伝」というと、12世紀末の「紹き本」という版本を資料としていますが、実は12世紀中ごろに刊行された「紹興本」という版本もあるんです。この2つの資料の中に書かれた「邪馬台国」・・・・・実は邪馬台国と書かれていないんです・・・・そこには邪馬壹国って書かれてるんです!「壹」は「一」の旧字です。「台」ではないんです。もう一度言います。魏志倭人伝の2つの版本には「邪馬台国」は存在していない・・・・それは「ヤマタイコク」ではなくって、ヤマイチコク(またはヤマイコク)と書かれてるんです。これはいったいどういうことなんでしょうか?過去の歴史家はいったいこの事実をどのように解釈してるんでしょうか?いやー8時か・・・・ハラ減った・・・・今日は事務所からでした。そろそろマジで仕事やんなきゃヤバくなってきた・・・・コメントの返事もまだ書いてない・・・ごみんしゃい。もう少々お待ちを。SEE YOU NEXT TIME
Nov 1, 2005
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