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昨日の続きです。おかしい、おかしいと思いつつ、深みにはまっていく日々、そんな1985年春、桜の頃。ポチの様子がおかしい。店にあまり来なくなったんです。客は常連ばかりだから、勝手に酒を出して飲んでいた。「ねー、最近ポチ見ないけど、どうかしたの?」「あれ、知らないの?ポチの奥さんが出てったんだと。『もう、アンタにはついていけなーい』って」ポチの奥さんとは、ボクがこの店に最初に来たとき、ビール瓶を枕に床で寝ていた女である。あの女に三行半を突きつけられるとは・・・やはりポチは只者ではない。めっきり落ち込んでいたポチだったが、すこしづつ元気を取り戻していった。そんなある日、「オレ日本に未練はない、中国に行く」「・・・中国って。で、あてはあるの?」「へ?ああ、あるよ。昔インドとアフガンにいた時、 友達になった奴がいる。」ポチはインドとアフガンにもいたらしい。「で、その友達、中国のどこにいるの?」「うぅ、中国・・・」そんな訳で、ポチは中国へ行くことになった。当時ボクは旅行会社に勤めていたので、ポチのパスポートを申請することになった。最近のことはわからないが、当時は保証人が必要だった。店で申請書を作りながら、「ねぇポチ、保証人になる人いる?」「いないよ」「親は?」「勘当された」「・・・、どーすっかなぁ・・・」「アタシ親になってあげるよ」常連の「銭湯帰り女」だった。なぜかこの女、いつも銭湯帰りに寄るらしい。「ヤッホー、ママ、愛してる!」とポチは「銭湯帰り女」に抱きついていた。勝手にしろ、と思いつつ、フルネームを聞き出し、この女を保証人とした。よく申請が通ったものだ。今でも信じられん。ポチは中国まで船で行く予定だ。当時横浜から上海まで、「鑑真号」という船が出ていた。この手配もボクがした。船の切符を持っていったときのことだ。いつものように店に入ると、ポチは相変わらず浴衣姿だったが、異様なものを背負っていた。「なんだよポチ、それ?」「いいだろぉ、これで中国行くんだ♪」「どうしたんだよ、それ」「拾った、大型ごみで」ポチが背負っていたのは真っ赤なランドセル・・・「そんなんじゃ、荷物入らないぜ」「旅行なんてさぁ、タオルとシャンプーありゃいいじゃん」「・・・、そんなもんだろうか???」「そんなもんだよ、ぎゃははは」こいつ絶対中国で野垂れ死ぬ。そう確信しました。たしか6月の蒸し暑い日だったと思う。ボクはひとり、横浜の港に行った。多分これが今生の別れだろう。まさかランドセルを背負っては来ないだろうが、最悪のことを考え、影に隠れていた。ポチ登場。GパンにT-シャツ、そして真っ赤なランドセル、以上。全然平気な顔をしている。ボクは残念ながら、影から出られなかった。今でもそれを後悔している。あのランドセル姿が今でも脳裏から離れない。ポチ、どうしてる?中国人の友達には会えたかい?歩いてネパールまで行くっていってたけど、もう着いたかい?もうあの場所に「ばくしーし」はないけど、ボクの心には、いまだに深く刻まれているよ。楽しく、怪しげな日々をありがとう。今はまともな人生を歩んでいます。今、近藤房之介の「上を向いて歩こう」を聞いています。ポチへのレクイエムのように聞こえて、妙にしんみりとしてしまいました。いかがでした、「ばくしーし」な思い出。次回から再び古代への旅をお送りします。SEE YOU NEXT TIME
Jan 31, 2005
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丸1日寝てました。その間にも書き込みをいただき、感謝感謝です。今日から復帰します。ところでボクのニックネーム「素盞嗚」ですが、先日ゆかりの地でもある島根の人が、この字、読めませんでした。「スサノオ」です。ヤマタノオロチを退治した。是非覚えてください。邪馬台国近畿説の紹介、もうすこしお待ちください。世にも怪しい店「ばくしーし」の伝説にもうすこしお付合いください。 気が付くと、ボクはいつの間にか常連になっていた。注文はいつでも「電気ブラン」と「新鮮な缶詰」。ボクが店に来ると、必ずマディ・ウォーターズをかけてくれた。マスターのポチは、この頃フリージャズに凝っていて、よくオーネット・コールマンを聞いていた。 ある時ポチと二人で飲んでいたとき、「ねえ、トランコパール茶漬けって知ってる?」とポチ。「・・・、トランコパールって精神安定剤だよね。」ポチは「ばくしーし」を開店する前、新宿歌舞伎町の露天で、怪しい商品を売っていたらしい。その時の露天仲間で「ラリ健」という奴がいたという。そのラリ健が、よく食べていたのが、「トランコパール茶漬け」だとか。作り方を教えてくれた。まずはうどんのどんぶりを用意する。トランコパールをどんぶりにいっぱい入れる(約200錠)そこに「エスエスブロン液W」を入れる。そして一気に飲む・・・通常トランコパールは1回に2錠の服用だ。エスエスブロン液Wもキャップ1杯。この2種類の薬を大量に服用することで、覚醒作用を起こすという。ブロン液に含まれる、塩酸メチルエフェドリンという成分が「やばい」らしい。「ポチィ、それって死んじゃうんじゃない?」「うん、ラリ健はそれで死んじゃったよ。」「・・・」その後ポチは何もなかったように音楽の話をし始めた。違う、絶対違う、こいつおかしい。そう思いつつ、ボクはどんどん深みにはまっていった。次回、「ばくしーし」シリーズの最終回。壮絶な惜別シーンを見逃すな!SEE YOU NEXT TIME
Jan 30, 2005
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今晩日記を書く自信がないので、今書きます。(起きてすぐ日記ってヘンですけど)今は島根のホテル。じっとり汗をかいていました。まだ熱が引いた感じはしません。今日は8:30からがっちり18:00までコンサルティングです。体がもつか・・・熱のせいか、もう20年も前に通っていた飲み屋の夢を見ました。その名も「ばくしーし」中央アジアあたりの言葉で、「おめぐみを・・・」という意味らしい。・・・1985年冬。千葉県元八幡で一人暮らしをしていた素盞嗚。駅前の路地裏、人一人がやっと通れるぐらいの雑居ビルの階段。両側には70年代に活躍したロックミュージシャンのポスターが貼っていた。店の名は「ばくしーし」いと怪しげなかな。好奇心につられて2階に上がってみた。そこには木のドアがあるだけ。ちょうど目の高さには、直径5cmぐらいの覗き窓。覗いてみた。左側に女性客がひとり。髪の毛が濡れている。テーブルには怪しげなボトルとグラス。そして洗面具??銭湯帰りらしい。ふと気が付くと正面に浴衣を着流した長髪のにいちゃんと目が合ってしまった。おいでおいでをしている。「え~い、ままよ!」意を決して中に入った。「奥が空いてるよ」と浴衣のにいちゃん。「・・・」グラスをすこし上に上げてあいさつをくれた銭湯帰りの女。目で挨拶をかわして、ボクはすこし目線を下げた。「ぎょ!」銭湯帰り女の足元に人が倒れている。しかも女・・・ビール瓶を枕にしていた。絶対怪しい。足早に奥のテーブルについた。「ふー」ため息をついてすこし落ち着いた。店に入った時は気が付かなかったけど、バド・パウエルのクレオパトラの夢が流れていた。早いビートのジャズと、世にも不思議な異次元の世界。妙にマッチしていたのが今でも思い出されます。「何飲む?」「あ、ああ、メニューありますか?」「へ?メニュー?・・・チョット待ってて」この店ではメニューを見るような奴はいないらしい。「はい、メニュー」中を開いてみると、左が「飲み物」、 エビスビール 電気ブラン ジンこれだけ。右は「食べ物」、 新鮮な缶詰 やきそば以上・・・浴衣男はバドのピアノに合わせて体をゆすっている。銭湯帰りの飲んでいるのはどうやら電気ブランらしい。「え~と、電気ブランと新鮮な缶詰ください」それまで「電気ブラン」の名前は聞いたことはあったが、浅草の「神谷バー」にしかないと思っていた。しかもここではボトルで注文するしかないらしい。浴衣男がそのボトルと氷を持ってきた。「・・・あの、水は」と素盞嗚。「へ?お酒に水なんか入れるとお酒じゃなくなっちゃうよ」妙にカッコよかった。「あ、ああ、ロックで飲みますわ」「ポチ、うるさーい」さっきのビール女がいつの間にかテーブルについてビール瓶を回しながらからんできた。浴衣男は「ポチ」と言うらしい。あとで知ったんですが、このビール女、ポチの奥さんだった。次にポチは片手に皿を持って近づいてきた。「ほい」皿の上には、どこのスーパーにも置いてある「オイルサーディン」今缶を開けたばっかだよ、おいしいよ、新鮮で」「・・・」その後2日と空けず、この店に通いました。とてもこの世のこととは思えないような怪しい体験をさせてもらいました。また続きを書きます。そろそろ行かないと。SEE YOU NEXT TIME
Jan 28, 2005
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お仲間のみなさま、ご心配ありがとう。みんな良い人たちばっかりです。でも今日も絶不調。当たり前です。昨日富山から帰って、熱はかったら38.2度。今朝も38.1度。でも悲しきコンサルタントは今日も旅がらす。今島根のホテルです。早く寝ればいいのに、懲りずにキーを叩いています。さて、今日は歴史です。今回は日本に残っている文献から、2王朝並立説の検証を考えていたんですが、先日邪馬台国は博多湾岸だ!との素盞嗚説に、「お~い、近畿じゃないの?」というコメントをいくつかいただきました。そこで今回からしばらく、邪馬台国近畿説について書きます。まず近畿説を1番最初に記録したのは、結構古くて、江戸時代の医者、松下見林の「異称日本伝」です。その内容を要約すると、「わが国を治めていた王は現天皇家以外にありえない、だから「邪馬台国」は「ヤマトコク」と読む。そう書いています。ちょうどこの頃の日本では国学が盛んになり、天皇家を崇拝する兆候がでてきたんです。見林の上記の話は学説というより、イデオロギーに近いものがありますね。さて、まずこの近畿説を吟味してみましょう。問題の邪馬台国は果たしてヤマトコクと読めるか。魏志倭人伝にはどのように記載されているか。「邪馬壹国」!です。「壹」は「一」の旧字です。そのまま読むと「ヤマイチコク」!となります。知ってましたか?もう一度いいます。邪馬台国のことを紹介している魏志倭人伝では、「邪馬壹国」(ヤマイチコク)と記載されているんです。だから卑弥呼の国は、「ヤマタイコク」ではなくて「ヤマイチコク」という可能性があるんです。機会をみて、このことも詳しくふれますね。それを見林は、『「壹」は「臺」(ダイ、台の旧字)の書き間違えだ』とあっさり自分のイデオロギーに都合のいいように原文改定をしています。さらにもっとひどいことは、「臺」は「ト」と読まないんです。強引にこじつけているんです。これが邪馬台国研究史のスタートとなりました。それ以降近畿説を唱える研究者のベースになっているんです。三国志全体の中に記載される「臺」をすべて取り出してみると、すべて「ダイ」の発音です。三国志の中で「臺」を「ト」と読む例は、ひとつもありません。近畿説はまずスタートからつまずいているといえるでしょう。次回は、明治の研究者「内藤湖南」の近畿説を検証してみます。今日は出張で、ゴキゲンな音楽が聴けないんですが、テレビから「卒業写真」(っていいましたっけ?)が流れてきました。ケッコウ良い曲じゃん!島根は素盞嗚のふるさと、さきほど素盞嗚を祭神とする、須賀神社の前を通りました。ん~、感無量。では、SEE YOU NEXT TIME
Jan 27, 2005
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昨日から出張で富山に来ています。2,3日前から何となくカゼの兆候。今朝は二日酔いも手伝って、体調最悪です。昨晩は富山市内の、とある雑居ビルのB1で、ゴキゲンなお店を見つけました。その名も「蔵ぷ呑(クラプトン)」きっと楽しませてくれるだろう、そう思いながら店の中へ。いきなり流れてきた音楽は、プレスリーのバーニング・ラブ続いてT.REXイーグルスドゥービースリードッグナイトキャロルキング・・・ 2時間ぐらいいたけど、1976年以降の曲はほとんどかかりませんでした。あ、いけね、そろそろ行かなきゃ。今日は4社の工務店と面談です。体調悪~い。大丈夫かな。ちょと心配です。さて面接会場に着きました。すこし時間がありそうなので、続きを書きます。この店とこのマスター、時間が完全に1970年前半で止まってました。「ねえマスター、80年代は聴かないの?」「ひとつだけ聴くよ、スティビーレイボーン!」おっしゃ~、同じじゃん。たまらんですよ、この店。しかもなぜかバイトの女の子がかわいい♪もうひとつ、お気に入りがあるんです。カウンターだけの店なんですが、カウンターに古ーいレコジャケが何枚か立てかけてあるんです。ボクの前にはストーズ、横にはツェッペリンなどなど。手に取ってそのレコジャケを開くとメニューになってるんです。それともうひとつ。本棚。ここには70年代のミュージックライフがバサバサあるんです。富山にお立ちよりの際には、是非行ってみてください。「蔵ぷ呑(クラプトン)」の続きは昼休みにでも書き込みます。
Jan 26, 2005
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3日ぶりの古代史リポートです。今回は魏志倭人伝に出てくる邪馬台国について。近畿説・九州説を中心に多くの研究家が論陣を張っていますが、いまだ万人が認める説は出てきません。倭人伝には帯方郡から邪馬台国に至る行程記事が出ていますが、これが曲者で、そのまま読むと邪馬台国は太平洋を突っ切った洋上にあることになっちゃう、ていうんです。本当でしょうか?三国志の編者「陳寿」はその行程記事を適当に書いたんでしょうか?※魏志倭人伝は三国志の最終章である「東夷伝」の巻末に書かれています。倭人伝の行程記事とは、どのように書かれているのでしょうか。すこし見てみましょう。「・・・末廬国に至る・・・東南陸行五百里にして伊都国に到る」のようにA地点からB地点まで行くのに方向と距離が書かれています。ここで使われている距離単位の「里」を、今までの研究者は、漢代の単位であるとし、約435mとしています。その結果、倭人伝をそのまま読むと太平洋の彼方にいってしまう、といっているんです。だから、南を東に原文改定して、近畿に持っていったりしている訳です。本当に「1里」は約435mなんでしょうか?先日紹介した古田武彦氏はこの「里」問題を解決すべく、三国志に出てくる里程記事をすべて取り出し、その検証を行いました。(「邪馬台国はなかった」朝日文庫)その検証は実に科学的、実証的分析であり、古代史研究において、最高の方法論と言えるでしょう。その結果はいかに???何と約75m!「1里」を75mとして、倭人伝の行程記事を読むと、近畿方面には間違っても行かないんです。九州の北、博多湾岸にしか行き着かないんです。以前のテーマであげた「隋書」では、アメノタリシヒコの都は、九州の可能性がある、と書きました。そして魏志倭人伝でも邪馬台国は九州の博多湾岸を示唆した。隋書いわく「・・・邪馬堆に都す、則ち魏志のいわゆる邪馬台なる者なり」とあり、7世紀の中国人の認識も、倭の代表国は邪馬台国だといっているのです。3世紀から7世紀までの中国の国史を読む限り、諸外国から認識されていた「倭国」は九州にあった。こう結論付けするしかないんです。ほんとかよ、そんな声が聞こえます。では次回からは、日本の文献から検証していきます。邪馬台国九州説はあまりにもサラリと流してしまいましたが、おいおい詳細を語っていきます。今日はリオンラッセルを聴きながら朝食、「あ、この歌知ってる!でもちょっとヘン」と長男。きっとカーペンターズのカバーを聴いたことがあったんでしょうね。 この男、随分と変わったオッサンだけど、南部の匂いがプンプン。大好きなシンガーの一人です。では SEE YOU NEXT TIME
Jan 24, 2005
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今日は朝から次男坊とソフトボールの練習。途中雪が降ってえらい寒かった。今日は飲むまい、そう心に誓ってましたが、これだけ寒きゃ、飲んじゃうよね。ってなことで、昼から熱燗に鍋。バックはロバートジョンソンを聞きながら、ゴキゲンな週末でした。 ロバートのクロスロードはエリッククラプトンのカバーで有名になりましたが、レイナードスキナードもライヴでやってますよね。ノリがよくてかっこいいんですが、モロにクラプトンのコピーです・・・残念。明日はリフォーム会社の後継者3人と飲むんですが、その前に仕事ほっぽって古代史書きます。さて、もうイッパイ飲んで寝ますか。SEE YOU NEXT TIME
Jan 23, 2005
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今日午前は事務所でちょいと仕事。昼からソフトボールの練習(コーチやってます)夕方から音楽聴きながら飲んだくれ・・・二合徳利4本つけましょた。うい~♪いよいよ古代史も架橋に入ったんですが、ちょいと飲み過ぎ・・・今日は音楽の話にします。何年ぶりか頭脳警察を聞きました。 中学の時、和製ロックってことばがはやっていて、よく「頭脳警察」や「外道」を聴いていました。高校ぐらいからは上田正樹とサウストゥサウスや憂歌団でしたが。で、今日は久しぶりに頭脳警察を聴きました。結構コピーもしてたんです。音楽的には残念ながらデタラメなんですが、その熱い想いは今でもビンビン響いてきます。伝説と化したファーストアルバム(3億円犯人のモンタージュがレコジャケ)は発売直前に発禁になっていまだ世に出ていないと思います。20数年前それをおいかけて、ボーカルのパンタからじきじきにテープコピーしてもらったことは今でも勲章です。今日はそれを聴きました。「世界革命戦争宣言の歌」「赤軍兵士の歌」「銃を取れ」「彼女は革命家」タイトルだけでもすごいですよね。発禁当然って感じです。明日もソフトボールの練習です。朝からです。この時期メッチャ寒い・・・ユニホームの下は股引かな・・・か~、じじくさ。明日は飲まずに、魏志倭人伝の探求に取り組みます。では、SEE YOU NEXT TIME
Jan 22, 2005
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今日は愛車に中でジョン・リー・フッカーのブギを満喫しました。傑作ブギー・チレンを大音量で聴くと、ジョンが足を踏み鳴らすストンピングが目に浮かんできます。思わずボクも足踏み・・・あぶないって、運転中なんだから。このオッサンのセミアコから刻まれるリフがたまりましぇん。 さて、中国文献からの日本古代史の検証も後半に入ります。最後はお馴染みの魏志倭人伝です。その前におさらいをしましょう。1.旧唐書では、7世紀後半の日本には2つの王朝があったと書か れていた。2.隋書では、7世紀前半の日本の王はアメノタリシヒコと証言 しているが、大和朝廷で、それに符号する人物は見当たらな い。3.宋書では、4世紀後半から5世紀前半までの5人の日本の王 のことが記録されているが、大和朝廷の王君と符号しない。以上、3点の中国史書から考察すると、次の仮説が生まれます。「4世紀後半から7世紀後半までの300年間、中国から認められていた日本の王朝は、大和朝廷以外である。」すごいことになってきました。では宋書以前に書かれた中国史書である魏志倭人伝では、日本のことをどのように紹介しているのでしょう。ザックリ言いますと、1)帯方郡(現ソウル付近)から邪馬台国までの行程記事2)倭国の風俗や階級について3)女王卑弥呼が魏国に朝貢したことについてと 中国の返礼について ここで「親魏倭王」と刻印された印綬をもらっています。4)邪馬台国の敵国である狗奴国との紛争について5)卑弥呼の死と次の女王「壱与」についてよく巷では邪馬台国論争といいますが、1)の行程記事から、邪馬台国の位置を特定しようとすると、なぜか九州を突っ切って太平洋の彼方に出てしまうので、魏志倭人伝の原文を改定して(南は東の間違えだ、とか一ヶ月は一日の間違えだ、というように)やれ近畿だ、やれ九州だ、と言っているのです。ここでもやっぱり原文改定の罪を犯しているのです。原文改定を行う場合は徹底した資料批判をし、改定するためには充分な裏づけが必要なのですが、それをやっていない。邪馬台国はどこにあったのか、もう10年以上前ですが、私なりに研究をしましたが、どうにもわからない。そんな時に出会った本が「邪馬台国はなかった(朝日文庫)古田武彦著」でした。目からウロコとはまさにこのこと!古田氏の徹底した資料批判から、魏志倭人伝はむちゃくちゃ信用できる、と思いました。その結果、倭人伝は原文改定して読んではならない、このスタンスを崩してはならないのです。その資料批判の最大のものが「距離の単位」です。お~もう11時半だ。そろそろ帰らなければ。いいところですが、次回に「つづく」です。明日は次男坊のソフトボールの練習です。恥ずかしながら、私、コーチをしています。子供たちの上達する姿を見るのが楽しみで、最近はまってるんです。それでは、SEE YOU NEXT TIME
Jan 21, 2005
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今まで何回レコード盤を回したろうか。2枚組のレコードはあっさり溝がなくなって、もう1度同じレコードを買い直した。今はCDで聴きまくってます。オールマンブラザースバンドのフィルモアイースト。知ってますか?海賊版のビデオ。ベースのベリー・オークレイはピックで弾いてるんですね。動いてるデユアン、ウィッピンポストでどう弾いてるのかわからなかったフレーズ、やっとわかった。やっぱり、天才ですね。30年以上前にあんなことしてたなんて。 さて、18日の続きです。宋書に出てくる倭の五王、讃・珍・済・興・武。どうも大和朝廷の天皇に符号しないみたいです。それをこれまでの学者はどう解釈してきたのでしょう。解説します。まずは五人目の「武」。これは21代雄略天皇(大泊瀬幼武/オオハッセワカタケル)である、ということは間違いない。と、ほとんどの学者が言っています。だからそれからさかのぼって、「興」は21代安康(穴穂/アナホ)「済」は20代允恭(雄朝津間稚子/オアサツマノワクコ)「珍」は19代反正(瑞歯別/ミズハワケ)「讃」は18代履中(去来穂別/イサホワケ)に批准しました。ところが問題が起きます。これを再度検証してみると、宋書に書かれている年代と、日本書紀に書かれている年代が、特に「讃」について、年代が合わなくなります。そこで、次に考えられた説(那珂通世氏)は「讃」を16代仁徳に当てはめることでした。しかしこれでは系図が合わない。この事実に対する学者の言い訳は、宋書では親子と記載されているが、間違えて兄弟にしたのだろう、というように、自分の都合で原文改定をしています。最初に上げた「讃」=履中説はもっとひどい。年代が合わないことについては、もともと中国史書は当てにならないし、単純に宋書の年代明記は勘違いだと、あっさり過ごしてしまっています。やはり原文改定をしている訳です。文献の原文改定をする際は、厳密な文献批判をする必要があるのですが、それはまったくなされていない。学者にあるまじき展開です。まったくもってひどい!学者のほとんどが認めている「武」=雄略もその根拠は実に脆弱なんです。やっぱり年代が合わない。26年以上も。それを、井上光貞氏は「年代的にはだいたい一致するのである」といっています。「目が点になる」を通り越して、「天を仰ぐ」といった感じです。今までの古代史学者の方法論は、自分なりの仮説を立て、それに対する検証を各文献から分析するんですが、自分の仮説に都合が悪いと、文献が間違っている、と言っているんです。まず仮説を立て、それに対して検証する、という方法論は、本来科学的なものですが、検証結果が仮説に合わなくなると、仮説を修正するのが本来ですが、今までの古代史学者は仮説を修正するのではなく、文献資料を曲げてしまうんです。みなさんどう思います。こんなむちゃくちゃな考えで、歴史教科書はできているんです。現役高校生の皆さん、また大学生の皆さん、今の学校の教科書で、倭の五王のことは、どのように書かれているんですか?是非教えてください。さて次回はいよいよ魏志倭人伝です。いろいろな角度から検証してみます。果たしてもう一つの倭国と邪馬台国の関係は?今日は出張先の埼玉県熊谷のホテルからです。朝から3社 地元の工務店を訪問しました。ブログの話しです。みんな興味津々。明日は4社訪問です。これから工務店のHP増えるかも??SEE YOU NEXT TIME
Jan 20, 2005
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長い会議がやっと終わりました。本日のランチは海鮮丼。日本橋の居酒屋ランチだったんですが、有線放送で吉田拓郎の「春だったね」が流れてきました。一緒にいた埼玉のリフォーム会社社長と「なつかしいねえ」を皮切りに30年前の嬬恋ライブの話で大盛り上がり。私も中学生でしたが見に行った時のことが鮮明に蘇ってきました。あの時の「人間なんて」はたまらなかったなあ。ということで歴史の話しですが、今日はすこし寄り道します。わたし素盞嗚の誕生の話しです。実は素盞嗚の誕生には2説あります。今回は日本書紀に記録されている誕生を紹介します。素盞嗚の父はイザナキ尊、母はイザナミです。二人はオノゴロ島で多くの国を作りました。国生み神話です。そして日本を作ると、次に神を作りました。最初に生んだのが日神、オオヒルメムチ(一書に天照大神)。次は月神(月読尊)を生みました。次はヒルコを生んだんですが、3年たっても足が立たなかったので、捨てられてしまいました。(すごい話しですね。これ本当に日本書紀に書かれています)次はわたし素盞嗚です。私は乱暴者で泣き虫だったので、両親に嫌われてしまい、本当は宇宙の君になるはずだったのに、遠い根国に追いやられてしまいました。それでちょっとむかついて、姉の天照大神が治めていた高天原でちょっと暴れてきました。そしたら姉はモロに怒って、天の岩戸に引きこもってしまったのです。高天原は真っ暗になってしまったんですが、オモイカミ神の計略で姉を引っ張りだしてことなきを得たんですが、皆から恨まれて、髪の毛はむしられるわ、爪ははがされるわ、さんざんな目にあって出雲に追放されました。出雲ではクシイナダ姫っていい女がいて、ものにしたいと思ったんですが、ヤマタノオロチに明日人身御供として差し出されるっていうんで、姫の親にオロチをやっつけたら娘をくれる?って聞いたらいいよ、っていうんで、オロチにしこたま酒を飲ませて、酔っ払った隙に剣で殺しちゃいました。そしたらオロチの腹の中から剣が出てきました。これが後の草薙剣です。勿論姫はいただきました。まーこんな感じの波乱万丈の人生です。現代風に神話を書くと、なんか違和感ありますね。次回はまた中国史書、宋書のことを書く予定です。明日から埼玉の熊谷出張です。工務店さんに対する営業コンサルティングなんですが、今回はブログの活用をテーマに話すつもりです。では、SEE YOU NEXT TIME
Jan 19, 2005
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今朝の目覚しはジョニーウィンター。あのパワフルなギターで二日酔いもすっきり。朝一番のややっこしい打ち合せもテキパキこなせました。明日はエドガーウィターでも聴きたいと思ってます。さて古代史の話しです。どうも昔の日本には大和朝廷以外にもうひとつ王朝のあったのではないか、旧唐書と隋書を見るとそう感じます。もう一つの中国の正史、「宋書」で検証してみましょう。宋書に出てくる倭国の紹介には、有名な倭の五王があります。讃・珍・済・興・武と呼ばれた倭国の王が、西暦421年から478年まで、当時の中国との外交を記録したものです。ここには書かれていることは、「自分たちは国家統一するために、周囲の野蛮人をやっつけてきました。そして周りをだいたい平定しました。だから親分である中国から将軍の称号をください。という倭国の要望に対して、それぞれ将軍の称号を与えた」ざっとこんな内容が書かれています。それに対して日本の文献である日本書紀ではこの五世紀、どのように書かれているのでしょうか。日本書紀の五世紀の記事で、讃・珍・済・興・武となどと呼ばれた天皇はいません。この時代は仁徳天皇や雄略天皇などのことが書かれています。名前が違うばかりか、その説話にもほとんど共通点はありません。宋書を読む限りでは、当時の倭王は外に向って戦いに明け暮れていたイメージえすが、日本書紀にある天皇の説話は、内政に力を入れたり、王家内の内紛を書いています。何の先入観のなく、五世紀のことを書いた宋書と日本書紀を読み比べてみると、まったく別のことが書かれていると感じるはずです。その文献的事実を定説ではどのように解釈しているのでしょうか。実は、上記の件についてはまったく言及していません!(私が知っている限りでは)信じられません。研究者がこのことに対して語っていることは、讃・珍・済・興・武がどの天皇に当てはまるか、この議論だけです。しかもこの当てはめ方が実に悲しい・・・およそ学問とは言いがたい方法なんです。・・・ああ、酔っぱらってきた。(事務所にいるのになぜか酔っぱらいです)明日はまた朝から二本立ての会議。そろそろ帰らないと。続きは次回、学者の悲しい方法論を紹介します。レイナード・スキナードのフリーバードを聴きながら、SEE YOU NEXT TIME
Jan 18, 2005
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左の奥が私です。やっと今会議が終わりました。朝10:30から、3本立・・・上の写真は横浜のスタジオで2年前に撮ったものです。30年近くやっていると皆オッサンですね。さて二つの王朝の話です。一つはご存知大和朝廷、これは今の奈良県ですね。もう一つのアメノタリシヒコがいた王朝はどこにあったのか。そのヒントはやはり隋書に書かれています。隋書には倭国の風景描写も書かれています。ここでは特に阿蘇山のことが書かれています。もしアメノタリシヒコが大和朝廷の王様であれば、描写も琵琶湖や大和三山、またおそらく瀬戸内海を通るでしょうから、瀬戸内海の美しさなどを書きそうなものですが、どっこい、阿蘇山なんです。本州の描写は一切ないんです。勿論断定はできませんが、もう一つの王朝は九州である可能性があると思います。しかも「九州」という名前は、実は中国に由来しており、その意味は天子が統治した領域、ということなんです!だんだん見えてきましたね。どうも7世紀の日本列島には二つの王朝があり、その一つは大和朝廷、そしてもう一つの王朝は九州にあったのではないか。こうなると勘の良い人は、三国志の魏志倭人伝に出てくる邪馬台国を思い出すのではないでしょうか。喧喧諤諤と論議されている、大和説と九州説。さて次回は魏志倭人伝に行く前に、もう一つの中国文献、「宋書」からもうすこし検証してみます。なぜか事務所ではジミ・ヘンドリックスのパープルヘイズが流れています。今日は会議で疲れました。仕事は明日に回して、気のいい仲間と近くの居酒屋でイッパイひっかけてきます。SEE YOU NEXT TIME
Jan 17, 2005
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今朝中3のせがれをクルマの横に乗せて塾まで送ってやったんですが、その時ハウンドドッグテイラーのデビューアルバムを大音量で聞いてたんです。そしたらせがれが「何コレ、ヘタじゃん」と。わたし「フ、フ、おまえらチュー坊にこのヘタウマはわかるまい、10年早いワ」と言ってやりました。塾に送り届けた後、一人で聴き直していると、「ん~、やっぱりヘタかも・・・」いかんいかん、ブルースは奥が深いんだ、と言い聞かせて、クラプトンとBBキングの「RIDING WITH THE KING」に切り替えてしまった。やっぱりこの2人は落ち着く。ところで、私のSubscibeにある「Hiroshiの”生きるって何だ!?”」さんってご存知ですか?私の仕事仲間で、昨日まで2人で長野・愛知を回ってたんですが、今日の新着でウチのバンドの曲を紹介してくれています。昨日クルマの中で聴いてもらってて結構ウケたみたいです。ありがたいですね。WHOTAってバンドで来年は結成30周年。盛大なライブを予定してます。前置きが長くなりました。昨日の続きです。隋書に書かれていた倭国の王様アメノタリシヒコは誰なのか。一般に言われている聖徳太子でも、時の天皇である推古でもないとしたら・・・次に考えられたのは推古の次に天皇になった舒明天皇。彼の正式な名前は「息長足日広額/オキナガタラシヒヒロヌカ」(変な名前ですが)これがタリシヒコに似ているから、中国側が間違えたのだろう、という説があります。こうなるともう学問ではないなあ、と私は思います。日本書紀に書かれている舒明と大国隋にタイマンはって外交に挑んだタリシヒコ、全然性格が違うし、舒明が天皇になったのは西暦645年で遣隋使を遣わした年と40年近い差があるのです。こういった説を学者や研究者が真剣に考えているんです。信じられませんね。旧唐書の時にも書きましたが、古代史研究者(特にアカデミック)はまずベースに日本列島の王者は大和朝廷以外ありえない、という発想があるんです。だから中国文献に出てくる倭人のことをすべて大和朝廷の人間にあてはめてしまうんです。そして適当な人物が見つからないと、中国が間違えているとか、誤字がある、また自分の説に都合のいいような無理な解釈をするなどとして文献を改ざんしてしまうんです。信じられないかもしれませんが本当の話です。これについては今後の宋書・三国志でも取り上げたいと思います。さてでは、アメノタリシヒコは誰なのか。答えは大和朝廷の中にいない、少なくとも日本書紀に書かれている中にはいない、ということです。これは何を意味するか、7世紀初めに中国の隋が認めていた倭国の王様は、大和朝廷で書かれた日本書紀の中に出で来ない。もっと言うと大和朝廷は、隋から列島の王者と認められていなかった、ということです。よってアメノタリシヒコは隋が認めていた別の王朝の王様、という帰結にしかならざるを得ないんです。この帰結は、旧唐書に書かれた「倭国」と「日本国」は別々に並列していた、という記事と矛盾しないんです。どうですか、日本は昔2つの国に分かれていた、こんな突拍子もない話がにわかに真実味を帯びてきたのではないですか?ではその国はどこにあったのでしょうか?次回はその場所に迫ってみます。SEE YOU NEXT TIMEいかん、明日の会議資料、まだ作ってないんだ。6時からの飲み会はパスかな・・・
Jan 16, 2005
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さっき出張から帰ってきました。と言ってもまだ事務所です。今日の面談でコンサルタント契約が取れそうです。だから身体は疲れているけど(2日間で900キロの移動)、気持ちは晴れています。さて今日は隋書倭国伝のことを書きます。これは7世紀前半に中国で書かれた国史です。ここにも当時の日本のことが書かれています。その内容を現代風に書くと、倭国の王様はアメノタリシヒコ(阿毎多利思北孤)と言い、キミと言う奥さんはいるが、後宮に700人ぐらい女性を囲っている。皇太子はリカミタフリと言う。西暦607年に遣隋使小野妹子を遣わし、国書を隋の王様に渡した。その国書には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云々」と書いてあり、隋の王様はむかついている。だいだいこんなことが書かれています。では、アメノタリシヒコとは誰のことなのでしょうか。日本の正史、日本書紀にはアメノタリシヒコと呼ばれた人物はいません。しかし一般的には聖徳太子ではないか、と言われています。でもおかしいですよね。聖徳太子は生涯天皇にはなっておらず、摂政という立場で推古天皇を補佐していました。また聖徳太子はいろいろは名前を持っていましたが、アメノタリシヒトとはどこにも書かれていません。では、7世紀のこの時期の大和朝廷の天皇として認識されていたのは誰か。これは推古ですが、推古は女帝なので、妻がいる訳がないし、後宮で女性を囲っている訳もないんです。ではいったいアメノタリシヒコとは誰のことだったのでしょうか?次回その答えを検証してみます。では、自宅に帰るとしよう。やっぱり疲れた・・・SEE YOU NEXT TIME!
Jan 15, 2005
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今日は出張で長野県塩尻市に来ています。横浜から愛車のボルボでCCRを聞きながら・・・ジョン・フォガティはやっぱりかっこいいですね。明日は愛知県の渥美半島に気の置けない工務店の社長に会いに行く予定です。今日は隋書のことを書く予定でしたが、出張先で資料がないため次回にします。予定では「日出づるところの天子」は本当に聖徳太子?というテーマです。ご期待ください。
Jan 14, 2005
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昨日は夕方から酒びたり、最近は二日酔いが激しくて、午前の会議はきつかった・・・さて、昨日のつづきを書きます。中国の国史「旧唐書」には、7世紀の日本は「倭国」と「日本国」の2国が列島に存在したとあり、その記事に対して日本の学者は、旧唐書は信用できない、でたらめだ。と言っています。学校で習った歴史の授業では、当然列島の王者は大和朝廷だけですから、いきなり2つの国があったと言われても信じられないですよね。古代史を探求する際、文献学と考古学という二つのアプローチがあります。7世紀の定説はどのように作られたのでしょうか。大半は720年に完成した「日本書紀」という日本の国史によって、文献学の立場で定説は作られてきました。日本書紀では、7世紀の王者は大和朝廷のみである、と言っています。これまでの研究者は旧唐書よりも日本書紀のほうが正しい、と認識している訳です。はたしてそうでしょうか。国史の編纂とは、時の権力者が作るのですが、自分に都合の悪いことは粉飾したり、平気で抹殺してしまうんです。それは日本であれ中国であれ一緒ですが、中国の国史の中にある外国紹介で、日本が2国に分かれている、とわざわざデタラメを書くとはどうしても考えられない。逆に日本側が、2国あったものをあたかも昔から私の国しかありませんでしたよ、と他の1国を抹殺してしまう、ということは充分考えられますよね。文献学の立場で、古代史のことを研究する場合、国内文献より外国文献のほうが信憑性は高い、ということは常識なんです。もしかしたら日本の古代では、2つの国が並列して存在した可能性があるんです。そうはいってもにわかには信じがたい話しなので、他の文献からも考察してみましょう。次回は「隋書」について考えます。
Jan 13, 2005
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いきなり3日もさぼってしまいました。反省・・・気を取り直して、前回のつづきを書き込みます。岩波文庫の「旧唐書」の解説を読むと、概略以下の2点のように言っています。1)「旧唐書」は誤字が多く、あてにならない2)7世紀の日本は蘇我氏の暗殺、白村江の戦い、壬申の乱など、 混乱期であり、当時の中国は正しく日本を認識できなかった。ゆえに旧唐書の記事は信用できない。だから間違えてわが国を「倭国」と「日本国」と分けて記載してしまった。このように書いてあります。はたしてそれでいいのでしょうか。分析してみましょう。1)についてたしかに旧唐書は誤字・脱字と思われるものが多いのですが、これは原文に間違えがあるというよりは、後世書写する際に誤記・誤写したと考えられるものが多いのです。ですのでこれをもって「不信の書」のレッテルを貼ることはできません。しかも隣国の統一国家が1国だったのか2国だったかの認識は「誤記」などとはまったく次元が違うといえましょう。2)についてたしかに7世紀の日本は混乱期であり、謎の多い世紀であります。現代のような情報収集能力もなかった時代の中で外国の正しい情報をつかむことは難しかったでしょう。しかしこの時代の中国と日本は遣唐使を通じ、かなり正確な情報を交換した時代でもあります。しかも717年の遣唐使の中には阿部仲麻呂が派遣されており、彼はその後日本に帰らず、中国で政治的実力を発揮し、時の唐政府とも言うべきところで活躍していました。もし当時の日本がただ「倭」から「日本」に国号を変えただけなら、当然仲麻呂はそれを皆に語ったでしょうし、ましてや2国が存在し、征服・被征服の関係にあればそれも語っていたはずです。いかに隣国が混乱していようとも、その国が1国なのか2国なのか、まともな理性で考えれば間違えるなどありえない、と思います。いったい今までの研究者を何をしていたのでしょうか?次回は過去の研究者について書き込んでいきます。ここまでのことでご感想・ご批判等あれば是非ご連絡ください。
Jan 12, 2005
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日本古代史に興味を持ち始めたのはいつ頃だったでしょうか。高校時代にはすでに教科書や参考書をむさぼるように読んでいました。大学でも史学科に進み、古代史書ばかり読んでいました。この頃までの私は教科書に対し、何の疑問も持たず、書かれているものは当然正しい史実であると思い込んでいました。しかしある日「旧唐書」という史書を目にし、天地がひっくり返るような驚きを覚えました。「旧唐書」とは「後漢書」や「三国志」などと並ぶ中国の正史で、10世紀に書かれ、その巻末には近郊の諸外国に記事が書かれています。「倭国日本伝」の中に日本のことが紹介されているのですが、実はここに凄いことが書かれています。それまでの私の認識では、倭国とは日本の旧名だと思っていましたが、ここでは倭国と日本国と分けて書かれており、当時の中国では、それぞれ別の国として認識しているのです。例えば「日本国は倭国の別種なり」とか「日本はもと小国、倭国の地を併せたり」などと書かれています。そんな話、聞いたこともなければ、ましてや教科書にも書いていませんよね。いったいどういうことなんでしょう?学者たちはこの「旧唐書」の記事をどのように解釈しているのでしょうか?次回へつづく
Jan 8, 2005
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やってみると簡単なモンですね。今日からデビューです。30年間独学で学んできた日本の古代史研究をつらつらと書いていきたいと思います。ちなみに私はFPとして住宅関連の仕事をしておりますが、お酒とブルースをこよなく愛する44歳、古代史の話ばかりではなく、音楽の話なども書いていきたいと思っています。
Jan 7, 2005
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