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たくさんの方から、オヤジへの激励をいただきました。感謝です。NET上の仲間かもしれないけど、「血」が通ってるんですね。鳥肌がたつぐらい、感激しました。本当にありがと。みんな、大好きです!みんなの熱い想いが通じたのか、今日のオヤジは安定してました。今後、どうなるかわかんないけど、「子」として、最大限のことをしたい。オヤジが大好きだから。前回、たくさんのコメントをいただきました。本来、それぞれにお答えしなければいけないんだけど、一つにまとめて、話します。「みんな、ホントありがと! オヤジは息を吹き返しました。 今後まだわからないけど、みんなの熱い想いで、 今は安定してます。」 感謝・・・・・
Dec 27, 2005
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23日の朝、お袋から電話。オヤジがトイレで倒れたという。大量の下血。救急車を呼んだあと、ウチに電話をくれた。取りも直さず、実家に駆けつけた。お袋も弱ってるんで、俺が救急車に乗って、救急病院に向かった。9月に脳梗塞で倒れた時を思い出した。そのまま即入院。前回の脳梗塞とは違って、意識もはっきりしてたど、瞬間的に大腸がんじゃないかと思った。病室に移ってから、オヤジも落ち着いた。下血したせいか、顔色は悪かったけど、意識ははっきりしている。オヤジは自分なりに今回のことを分析していた。「素盞嗚、こりゃー多分大腸がんだな」「はん、痔じゃねーのか。 今回は頭じゃないから心配いらねーよ」「・・・・・」検査の結果を診ないとわからないけど、やっぱり心配だ。昨日は胃の検査をして、特に問題なし。今日は大腸の検査の予定だった。朝、6時45分。けたたましく電話が鳴った。お袋からだ。オヤジが病院で、また大量の下血をしたという。今日は子素盞嗚2号のソフトの試合で、嫁素盞嗚はすでに試合会場に向かっていたが、緊急の知らせで踵を返して彼女も病院に向かってくれた。7時30分、病院に着いた。病室にオヤジがいない・・・・・・・・・おい、うそだろ・・・・・ナースステーションに駆け込んで、「206号室の・・・・」「今、ICUにいます、こちらにどうぞ。」お袋と嫁素盞嗚が医師から説明を受けていた。大量の下血も問題だけど、また脳梗塞も併発したらしい。オヤジは・・・・青白い顔をしてたけど、目を開けていた。「オヤジ、気分はどうだ?」俺の顔を見て、何か話しかけた。・・・・・まるで言葉にならない。言語中枢をやられたようだった。前回の時よりひどい。まるで話すことができない。しかも右手が麻痺してるようだ・・・・その後、輸血が始まった。足から血を入れる。手には点滴、小便も管をつけて排泄することになった。体に3箇所も管を入れられて・・・・二日前にはちゃんと話ができたのに、もう何も会話ができない。長い間、オヤジのことを静かに見ていた。あの厳格でおっかなかったオヤジ。小さくなったなぁ・・・・振り向いたオヤジが俺を見つめた。「俺がわかるかい?」表情を変えずに俺を見つめている。・・・・・・切なくて・・・・・・・・・・切なくて・・・・・目を逸らして、天井を仰ぎ見た。なぁオヤジ、来年の正月に旨い酒呑もうって言ったじゃないか。元気にならんと承知しないぞ。
Dec 25, 2005
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愛車「ボロボ」の様子がおかしい・・・・ブレーキ踏むと、ヘンな音が・・・・何かからまってるのかと思ってたんだけど、だんだん音も大きくなるし、ブレーキの効きも悪い・・・・ディーラーに行って、見てもらいました。「素盞嗚さん、これ重症ですわ。」見積もり取ってもらったら、え?マジですか?やめてっ!114000円!とほほ、年末の金のいるところで、これは痛い・・・・クルマを置いて、トボトボ帰ってきました。気分が冴えないんで、その足で床屋に行ってきました。お、なかなかエエおなごジャン♪「今日はどうしますかぁ?」「スポーツ刈りね♪」「長さは・・・?」「あ、普通でいいッス」小気味いいバリカンの音に、お疲れ気味の素盞嗚氏はウトウト・・・・・「頭、洗いますので・・・」目の前にある鏡に映る素盞嗚氏・・・・・あれ・・・・チット切り過ぎちゃう・・・・バリカン女は涼しい顔しとる・・・・「はい、頭を前に出してくださーい」バシャバシャバシャ・・・・・シャンプーしてるのに、あんまり泡が立ってないのが手に取るようにわかる・・・・・これって・・・・・五分刈じゃーん!アタシの髪が・・・・アタシの髪がぁ・・・紙んばーっく!床屋を出ると、頭が寒い・・・・さんざんな一日でした。きっとこのあとも悪いことがありそう・・・・ううう、イヴだっちゅうに・・・・悲しみの中、邪馬壹国いってみます。帯方郡を出発した魏使は韓国を陸路で南下し、対馬、壱岐を通って、九州北岸に到着しました。その名は末盧国だ。「松浦」、今の唐津湾の「唐津港」のあたりだと推定させる。ここは異論のないところだ。さて、この末盧から魏使はどういう経路で邪馬壹国にいったのだろう?前回記したように、倭人伝に書かれた行路は、今の我々には難解だけど、3世紀の中国人には普通に理解されていたと思うんです。だから、「漢字」の使い方、文法上の違いを精査すれば、必ず解ける、そう確信しました。この考察はやや複雑で判りづらいんで、まず先に、自分が魏使だったら、という仮定で行路をイメージしてみました。末盧に上陸したら、そこには倭人が出迎えてきたはずですよね。そして道先案内人をつけて、目的地たる邪馬壹国まで同行していたことは間違えないでしょう。いわゆる、現地添乗員ですね。実は素盞嗚氏は、10年前までは添乗員をやってました。みなさんも、旅行に行った時の添乗員やガイドさんをイメージしてみてください。旅行は「出発地」があって「目的地」がある。当たり前ですね。んで途中、何箇所か観光名所でバスを止めて、観光をしますよね。例えば、「東京駅」→「三島秘宝館」→「沼津の干物屋」→「城ヶ崎海岸」→「バナナわに園」→「下田」とか。このルートをバスで行くとしたら、途中の経由地は4箇所だけど、バスの中でガイドさんは、「あちらに見えますのは富士山です。 富士山の麓には・・・・」とか、「海の向こうに見えますのは初島です。 ここの特産品は・・・・・」のような説明をしてくれますね。恐らく、魏使の一行を迎えた倭人の案内人は、次の逗留地に着くまでに、実際には行かないけど、「あっちに行くと○○国があるんですよ」「そこには・・・・という人たちがいて・・・・」などと、魏使の一行に話たと思うんです。どうですか?皆さんの地元に、遠方の友人が訪ねてきたら、案内する地と、案内はできないけど、説明だけする地がないですか?では、どこの地が説明だけの地だったんだろうか?「末盧」→「伊都」→「奴国」→「不弥国」→「投馬国」倭人伝には、この各地の長官名と戸数が記載されてます。長官名はヒントにはならないけど、人口はヒントになるかも・・・・「末盧」は4000余戸。「伊都」は1000余戸。「奴国」は20000余戸。「不弥国」は1000余戸。「投馬国」は50000余戸。「奴国」と「投馬国」は一桁ちがうほどの大国ですね。ちなみに邪馬壹国は70000余戸。です。推測ですが、魏使を案内した倭人は、行路には入っていないけど、「あっちに行ったら奴国っていうデッカイ国があるんスよ」「船に乗らないといけないけど、南のほうに行くと投馬国って 邪馬壹国の次に大きい国があるんですよ」そう説明したんじゃないだろうか?そう推測してみました。これを原文の文法や漢字の使い方で証明できるか、次はこれを考えていきます。ちっと苦労しました。そうそう、昨日はウチの子素盞嗚1号の16歳の誕生日。一家4人で自宅でパーティでした。チョーシこいた素盞嗚氏、ガンガン呑んで、饒舌に話をしてたら、「あんた、酒くせー」と嫁素盞嗚。いきなり歌い出しました・・・・「♪とーさん、お口がー臭いよ、 プチプチプチプチ プチダノン♪」・・・・・夫婦揃っての阿呆です・・・・SEE YOU NEXT TIME
Dec 24, 2005
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古代史に限らず、すべての研究はなぜ・・・という疑問からはじまる。今朝、前橋のホテルで、ふと思った・・・・トイレットペーパーはなぜ二重になったんだろう??疑問はさらなる疑問を呼び起こす。なぜ二重で、しかも「切り取り線」がついたんだろう???素盞嗚氏の使い方がわるいのか?二重で切り取り線が付いてると、線はズレてくるし、本来切りたいところで切れない・・・・・うーん、もどかしい・・・・ヘンなところでストレスが溜まりませんか?トイレットペーパーはやっぱりシングルの線なしじゃ!などと阿呆なことを考えながらズボンを上げて、ベルトを・・・・・ん?ベルトの穴の位置が4番目???長さにして約7cmも・・・・思わず腹を見た・・・・・・・・・・・醜ーい!うう、昔のjackblue みたいじゃ・・・オシ、決めた!カラダ鍛える!マッチョになったる! ・・・・・・さっきからスゴイ風です。雪も降ってきたし・・・・帰りが心配な素盞嗚でした・・・・SEE YOU NEXT TIME
Dec 22, 2005
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昨日まで雪の滋賀、今日は空っ風の群馬・・・・さすがに出張が続くと疲れますな。え、もちろん胃袋ですよ♪どーも消化が悪くなってます。そうそう、16日に事務所の引越しをやったんですが、渋谷の「のんべえ横丁」って辻で、面白いお店を見つけましたよ。壁にいろんな国の「お面」が掛けてあるんです。こんなんだとか、 これ、ウチの会社の社長にクリソツ・・・・知ってる人は知っている。タランチュラユッキーです。(絶対バラさないでね)んで、こんなんだとか、 こいつぁ、風太氏によく似とる、顔がツルンとした感じが・・・・うーん、頭からストッキングはいたみたいですね♪えーと、昨日の続きです。帯方郡から韓国を抜けて、狗邪韓国に到着した魏使の一行。「その北岸狗邪韓国に到る」と書かれてます。「その北岸」って、どこの北岸?ここでの登場人物は、「帯方郡」「韓国」「狗邪韓国」「倭国」の4者です。当然、当事者の狗邪韓国は違いますね。「帯方郡」の北岸は「魏」に接してますし、「韓国」の北岸は「帯方郡」に接している。とすると、ここで言う「その」は倭国の北岸と解するしかない。どういうことかというと、「狗邪韓国」は朝鮮半島の南端ですから、ここが倭国の北岸だ、って言ってるんです。倭国が、朝鮮半島南端に領土を持っていたことを陳寿が証明しているんです。しかも、陳寿は魏志倭人伝の前に出ている、「韓伝」にも、「韓は帯方の南に在り、東西海をもって限りとなし、南、倭と接す」と書いています。完全に、半島の南岸を「倭地」として認識しています。邪馬壹国への行程とは直接関係はないけど、この事実もいまだ認められていないんです。ヘンですよねぇ。こんな単純なことなのに・・・・さて、行程記事に戻ります。以前書いた榎氏の「放射状説」が発表される前までは、帯方郡→狗邪韓国→対海国→一大国→末盧国→伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬壹国というように、記載された国をすべて経由したと、考えていたんです。それで、いろいろ原文を改定して、自分の都合のいいように解釈してたんです。そので、榎氏が「伊都国」から、それ以降の国は放射状に広がっているのでは?っていう説を展開したんですね。発想はバッチグーだったんだけど、結果は、前述したようにやっぱりバツだった・・・・ではいったいどういう経路だったんでしょうか?素盞嗚氏はここで、フと思いました。「今でこそ、この行程記事はわかりにくいけど、 3世紀当時の中国人にとっては 普通に理解されてたはずだよね」と。それともうひとつ。自分が魏使として、倭国に行ったと仮定して、行路をイメージしてみよう、と。そうしたら、意外と簡単に見えてきました。むふふ、卑弥呼ちゃんに逢える日は近いかも♪・・・・・そうだ、書かなきゃなんない企画書が山ほどあるんだった・・・・うう、昔から宿題やんのキライだったんよね・・・・暗くなるとお酒呑みたくなるし・・・SEE YOU NEXT TIME
Dec 21, 2005
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昨日から滋賀にきてます。すんごい雪でしたね。名神高速や国道もビッチリ渋滞・・・・・夜は忘年会だったんだけど、この雪と渋滞で、参加は予定の半分でした。でも昨日は風太氏と一緒だったんで、結局ホテルの部屋でも呑んで、やーっぱり二日酔いッス。んで、邪馬壹国の続きです。これまでの考察から、以下の定義が確認されますね。1.魏志倭人伝の行程記事は原文通り読む。2.「水行十日・陸行一月」は帯方郡から邪馬壹国までの総日程である。これを踏まえて実際の行程記事を検証していきます。まずはじめは帯方郡から狗邪韓国まで。郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国を歴て、乍は南し、乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里。帯方郡は今のソウル付近、狗邪韓国は朝鮮半島の南東端です。この行程はどのように移動しようが、朝鮮半島内のことなので、あんまり重要視されていなかったんです。定説では、朝鮮半島の西海岸を海路で南下し、半島の南西端まで来ると、航路を半島の南岸に沿って東へ進めた。そう解釈しています。要するに、朝鮮半島の東海岸と南海岸に沿って、「L型」に移動したというんです。「海路L型行路」 (素盞嗚氏命名)です。このような解釈は、倭人伝の「海岸に循(そ)って水行し」という文と、後世の遣唐使の航路からイメージしていると考えられます。しかしこの解釈、あまりにも安易過ぎると思いませんか?まず帯方郡から海岸に沿って水行した行き先は、「韓国を歴て」とあるようにまず韓国に入ってるはずですね。おそらく、帯方郡と韓国の国境付近(韓国北西端)に着いたとおもわれますね。で、ここから「乍(あるい)は南し、乍は東し」とある。これは南に行ったり東に行ったり、小刻みに動くという意味です。海路をとった場合、このような表現になるでしょうか?海路を南に行ったり東に行ったりするでしょうか?考えられないですよね。南と東を行ったり来りする訳ですから、「L型行路」にはならない。この「乍は南し、乍は東し」は、陸路を南東に進む場合の表現としか考えられないと思います。魏使は帯方郡を海路韓国にむかい、そこから陸路、朝鮮半島を斜めに縦断するように移動して、狗邪韓国に着いた。このように読むべきだと思います。しかし、ここでひとつ疑問が湧いてきます。多くの下賜品を持って遠方に移動する際、道路事情が悪い陸路を行くより、海路の移動のほうがはるかに楽なはずなんです。しかも最初は海路で韓国まできてるんですから、尚更ですよね。ではなぜわざわざ効率の悪い陸路をとったか・・・・こいつが悩ましかったんです。実はここで悩んでいた時に、「水行十日・陸行一月」が総行程だった、ということに気が付いたんです。対馬、壱岐、九州北岸は当然陸路なんですが、これに韓国内が陸路となると、「陸行一月」がリアルになるんです。この発見で俄然勇気が湧いてきました!しかしなぜ魏使は韓国内を陸路にしたんだろうか?・・・・・・迷った時は原点に戻れ!倭人伝を何度の読み返して見ました。・・・・・・! みーつけた! 卑弥呼が使者「難升米」を魏に遣わした際、魏王から詔書をもらってるんですが、その文面が倭人伝に書かれてます。そこには、「たくさんのお土産を下賜品としてあげるから、 みーんなに見せびらかしてね」そう書いてます。確かに驚くほどの量の下賜品です。魏は自国の下賜品のすごさを倭国内だけでなく、韓国内にも知らしめるために、わざわざ効率の悪い陸路を取ったんです。なるほど、見栄っ張りの中国人らしい行動だと思いませんか。ある意味でどうでもいいと思われていた朝鮮半島内行路を考察することで、思わぬ副産物が見つかった訳です。「水行十日・陸行一月」は総行程だったと。これは大きかった・・・それと、行路とは関係ないんだけど、「その北岸狗邪韓国に到る」の「その北岸」とはどういう意味でしょうか?次回はこの問題も含めて書いていきます。おっと、8時だ。風太氏と朝飯喰ってきまーす♪SEE YOU NEXT TIME
Dec 20, 2005
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ヤーマタイコークはどーこにいったぁ♪チョイナチョイナっとくらりゃ!のーみそはどーこへいったー・・・・へっへーんだ♪うるさーい!嫁素盞嗚が横で長電話しとる・・・・・え?エロP?・・・・・ある夏の暑い日。長野県上田在住のエロP君。この男、一応結婚もしてるんですよ。んで、この日は嫁エロPが外出。家ではエロPおとーさんと子エロP・・・・「なー、メシどーする?」そーんな会話をしてたら、「リリリリリリーン」電話の主は、エロPんチの近くに住むデザイナーのQちゃん(♀)。「ねー、エロPィ! 今日、奥さんいないんでしょ? 今ウチで仲間と呑んでんだけど、遊びにおいでよ♪」普段、女性からお誘いを受けたことのないエロP君、もー完全に舞い上がってました・・・・・「いくいくいくいくいくいくいくぅ・・・・・・」Qちゃんチに登場したエロP君、中学生のセガレ君と同行!「おまたぁー! みんな呑んでるかーい!」・・・・・・20年前の「乗り」で登場したエロP君に、周りは・・・・・・・・・・・・・・・悲しいよね・・・・「まぁまぁエロさん、一気にきましょうよ♪」回りがぜーんぶ女性なんで、エロP君、チョーシに乗っちゃいました♪「そーかー。。。。。」やめりゃーいいのに、「イッキ」やっちゃいました・・・・「ンゴ・・・・・ンゴンゴンゴ・・・・」・・・・・「・・・・・・・コテ・・・・・・」本人曰く、何呑んだか覚えてないみたいなんだけど、チョーシこいて呑んだら、たったの一杯で・・・・・「コテ・・・・・」白目剥いて、後ろにひっくり返ったんだと・・・Qちゃんやその仲間たちは、「おぉ、ダイジョーブ??」エロP君はひっくり返りながらも、手を振りながらヘラヘラしてたんだと・・・・・「ねぇねぇ、エロP君、ヤバイんじゃない?」結構マジで思ってたんですと。そこで、子エロP君登場!この男、まだ中坊なんだけど、しっかりしてるんですよ。「あぁ、大丈夫です、いつもですから♪」この言葉に安心した女性陣、エロPがひっくり返って痙攣してるのを横目でいつもどーり呑んでたんですと。・・・・・・気が付くと3時間・・・・・部屋の片隅ではエロP君、いまだピクピクしてる・・・・「こ、こ、子エロPィ・・・・ あとのことは頼んだぞぉ・・・・・・・」「あれ?このオッサンまだいたの?」「ん?泡吹いてんじゃん・・・・」3時間ほっぽらかしにされたエロP君、「ああ、俺は死ぬんだろーなぁ・・・」そう思ったそうです・・・・・そこで死んでしまったほうがよかったかも・・・・・んで、Qチャンが救急車呼んで、どこぞの病院にいったそうな。酒一杯で急性アルコール中毒・・・・・安上がりな男よのぉ・・・・それにつけても、子エロP・・・・・お前はたいしたヤツだぜ!・・・・・・親に毒盛ったやろ・・・・ホントは邪馬壹国だったんだけど・・・・明日は滋賀です。風太氏も午後から乱入・・・・kimukazuも「道具」もってきそーじゃ!「おぅ、かかってこんかーい!」そうそう、昨日の渋谷の夜は面白かったぜい!「渋谷」楽しめそーですな♪えーと、難しい話しはね、ちゃーんとやりますよ。えーとね、「お酒」が悪いの・・・・・次はマジメにいきますぜ・・・・ん?22時?・・・・・・寝るで♪SEE YOU NEXT TIME
Dec 18, 2005
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金曜から事務所の移転で大騒ぎ・・・・んで今日から1泊2日で渋谷で会議・・・・なーんか忙しいッス昨日は元の事務所があった赤坂見付で荷物をまとめてたんだけど、長野分室からうっかりエロP君が長野県から応援に駆けつけてくれたんです。彼はエロビデオ事件やサインはV事件でココんとこ売り出し中のヘンなヤツです。んで、昨日もやってくれました。長野県は上田の住人のエロP君、いつ見ても垢抜けないんだけど、この日もダブダブのコーディロイのズボンにくすんだ赤のジャンバー・・・・・なで肩のペンギン歩き・・・・カバンはなぜかメッチャ「ハデ」なもん持って、髪型は、きっと小学生の時から同じでーす、って感じの、どーでもいい7・3分け♪赤坂見付の駅を降りて外に出たら、いきなり声をかけられたんだと・・・・・「もしもし、どちらにいかれるんですか?」警官の職務質問・・・・多分、日本人に見られなかったんでしょうね。まー顔はそうでもないんだけど、その格好が今の日本人には考えられないセンスのなさだったみたい・・・・今時珍しいでしょ・・・・・夏に撮った写真だけど、こんなヤツです・・・・ゴメンね、エロPぃ・・・でね、この男、まだあるんですよ、「ヘン」な話し・・・・あーイカン、邪馬壹国も書かなきゃ・・・・
Dec 17, 2005
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突然だけど、「くさや」って知っとる?アジが一般的なんだけど、サカナのはらわたに漬けてから干物にしたモンなんですけど、こいつが臭い!はっきり言って「肥溜め」の匂いッス・・・・でもね、喰うと、旨いんです♪不思議なほど旨いんス。でも、こんだけ臭いと、普通呑み屋には置いてないんだけど、あるんですよ、新橋の「おふくろ」に。そこはアジじゃなくて、トビウオなんですけどね。素盞嗚氏はいつもオーダーするんです。んで、チョット前だけど、ブログで知り合った方をお連れしたんですよ。「こいつぁ、臭いんだけど、喰ったらうんまいんですよ♪」「そうっすか・・・」「どうです?」「・・・・・・・」くさっ!結局喰ってもらえなかった・・・・旨いんスけどねぇ・・・・さて、久しぶりに「邪馬壹国」徹底解剖です。魏志倭人伝の行程記事、方向をそのまま読んで、1里を約76mにする。ここまで検証してきましたね。ここで、確認しますと、原文に書かれてる方向の「南」を「東」と改定しないで原文通り読むということは、近畿説は成り立たない、ということです。なぜなら九州に上陸した一行が近畿に行くには、「東」に行くしかないんですから・・・・では、そのまま「南」と読むと、倭人伝を信用する限りは、卑弥呼の国は九州以外はあり得ない!この帰結になります。ところがここで問題があるんです。トップページの行程記事の最後のほうを読んでください。南、「投馬国」に至る水行二十日。・・・・南、「邪馬壹国」に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。・・・・九州内で、水行(船での旅)を20日+10日+陸行一ヶ月って・・・・しかも方向は南のみ・・・・「うーん、魏志倭人伝、信用に足らず!」これまではみーんなそう思ってたんですね。でもね、チット考えてみてください。倭人伝の後半には、敵対国の狗奴国と交戦して、卑弥呼は帯方郡にヘルプを出してたんです。それで、将軍「張政」が軍を起こして「邪馬壹国」に来てます。当然、軍事報告書が書かれてるはずです。素盞嗚氏はある80代の軍人出身のご老人に聞いてみました。「軍事報告書の『キモ』はなんですか?」ご老人が言うには、「目的地がはっきりわかることですな♪」具体的に言うと、「方位」と「総合距離」そして「総合日程」だそうです。言われてみれば、その通りですね。んで、倭人伝はどうか?方位については検証しました。総合距離は「万二千里」では、「総合日程」は?・・・・・・誰もそこに注目してませんね。この総合日程こそが「水行十日陸行一月」なんです。漢文の文法上から考えてみても、それはよくわかります。郡より倭に至るには、・・・・これが「水行十日陸行一月」につながっているんです。要するに倭人伝を書いた陳寿は、帯方郡から女王の国に行くには、全行程は12000里、所要日程は「水行10日と陸行1月」かかりますよ。そう言ってるんです。軍事報告書をネタ本にしている限り、この記述がないことはあり得ない、素盞嗚氏はそう思います。そして確信を持って言います!間違えない!「水行十日陸行1月」の真相がわかった。じゃーそれだけで卑弥呼ちゃんに逢えるか?・・・・・もうチット頭を捻らなきゃなんないんです・・・・・でもね、もうチットです♪次回は「至」という漢字の用法を検証しながら行程記事の「解剖」をしていきます。おぉ、今回この内容で1時間半もかかった・・・書き出した時はシラフだったけど、今はだいぶ。イッってます・・・・明日は事務所の移転・・・・来週から「渋谷の素盞嗚」ですんで、そこんとこヨロシク!SEE YOU NEXT TIME
Dec 15, 2005
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さすがに年の瀬は忙しい・・・・今日も日帰りで長野に行ってきました。白馬の近くの大町では随分、雪が積もっていました。さて、出雲の旅の第二弾!寒風吹きすさぶ大社をあとに、一路「荒神谷」に向かいました。古代史の好きな方にとっては当たり前のように知ってる遺跡だけど、イマイチ有名じゃないですね。でも、ココだけはどーしても行きたかったんです。頃は昭和58年、農道を建設する予定地の現地調査をしていた際、ある調査員が一遍の土器のカケラを発見!「もしかしたら遺跡があるかも♪」そこで遺跡調査が始まりました。翌昭和59年夏、林の中の斜面を調査中に青銅器らしきものを発見!丹念に刷毛で泥を取っていくと、なんと、複数の銅剣が姿を現したんです。!!!いったい何本出るんだ!銅剣は整然と並べられて、出土したんです。まるで「埋葬」でもされているように・・・・「これは100本を超えるぞ!」調査隊も増員され、本格的な発掘作業が進められました。そしてついに、その全容が・・・・・その数、358本・・・・・これまでに全国で発掘された銅剣の総数は約300本程度なのに、この荒神谷遺跡だけで、その総数を上回ってしまったんです!まさに世紀の大発見!そして、約2mほど離れたところからも・・・・・銅鐸6個と銅矛16本!いったい誰が・・・・なぜ・・・・この発掘以来、「出雲」に対する考え方が大きく変わってきたんです。素盞嗚氏はどうしてもここにいってみたかったんです。そして念願叶って、行ってきました。そこは、発掘現場を中心に大きな公園になっていました。クルマを止めて外に出ると、また雪が降ってきた。月曜日の昼過ぎ・・・・公園には人っ子一人いない風の音しか聞こえない静寂の中をコートのフードを被って、一人古代蓮池のほとりを抜けて、発掘現場までたどり着いた・・・・・・・その発掘現場は当時のまま残され、銅器のレプリカがホンモノそっくりに雪を被っていた・・・・凍えるような寒さの中、いったいどれぐらいたたずんでいただろうか・・・・目を閉じると、2000年の悠久の時を超えて、その埋葬の様がイメージできた。古代出雲族が、厳粛に、そして悲しそうに静かに埋葬している・・・・・最後の358本を整然と並べ終えて、皆で土をかけていく・・・・・きっと、悲しく辛い『別れ』だったんです・・・・・・・・・・・・おお、今日は呑んでないせいか、シリアスになってしまった♪似合わないッスね。次回からまた「邪馬壹国」に戻ります。航路の徹底追求です。かーなりややっこしい話ですが、卑弥呼ちゃんに逢うためにどーしても通らなきゃなんないところなんで、じっくりいきますね。証人喚問、あの内河っておっさん、どうしてやりますか?はらわたが煮えくり返りますなぁ・・・・・では、SEE YOU NEXT TIME
Dec 14, 2005
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昨日から、我が故郷、出雲に来ています。昨日は忘年会・・・もとい、日中はお世話になってる工務店さんたちの共同イベントを見学させてもらって、夜から忘年会。日中はこーんこともやってきました♪え?もちろん、仕事ですよ♪ここはね、「カンバ建築設計」さんの新築の構造見学会のイベントで、角材切りをやったんです。素盞嗚は約1分。最高記録は24秒だったそうな。うーん、ヤッパ腰が引けてますかね・・・・夜は昨日書いたとおりだったんですが、今日は朝からレンタカーを借りて念願だった出雲大社と荒神谷遺跡を見て来ました。スーちゃん感激!お?いけねぇ、飛行機の出発時間だ。続きは家に戻ってから書きますね。SEE YOU ちょびっと・・・・あげーん---------------------はーい、帰ってきました。松江の駅前にあるホテルの隣でレンタカー借りて、まずは出雲大社に行ってきました。月曜日の昼前なのに、大型バスが10台ぐらいきてました。さすが大社やけんね。境内に入ると大社造の本殿の屋根が見えてきた。・・・・・・・2000年の悠久の歴史を一瞬に感じた瞬間でした。とは言うものの、今の大きさになったのは恐らく鎌倉時代の頃で、本来は「雲太、和二、京三」って言われるようにもともとの大社は、高さ約47mの巨大木造建築だったんですよね。その柱は直径1.4mの木を3本束ねたものだったんだって!そのすごさはシンシンと伝わってきたけど、でも、なぜか素盞嗚氏の心に「?」があったんです・・・・古代の神社らしくない・・・・観光地化されてるから、ある程度予測済みだったけど、・・・でもなぜか心が騒がなかった・・・・本殿の中には、もちろん入れないんで、側面からグルッと左回りに背面に回りました。そうすると本殿の全容が見えてくるんですね。・・・・・建造物としての「すごさ」は感じるんだけど、でも、やっぱり心は動かなかった・・・・・なぜだろう・・・・神社特有の「イヤシロチ」を感じなかったのかもしれない・・・・モヤモヤしながら、本殿の背面まできました。奥には八雲山、その山と本殿との間に、素鵞神社がひっそりたたずんでいました。本殿の正面あたりは観光客で賑わっていたけど、その裏は誰もいなくて、静かで厳かな気持ちになりました。「イヤシロチ」を感じました。「イヤシロチ」は「山」に関係するんだな、そう直感的に感じた時でした。素鵞神社の祭神はアタシ「素盞嗚」です。出雲大社は「大国主命」、素盞嗚の「末」です。出雲大社はもともと「国譲り神話」にちなんだ説話に出てくる神社なんだけど、アタシは直感的に『この地は「素盞嗚命」に関連している』そう思いました。古代史の研究は、常に実証的に、論理的に検証してるけど、現地に行くと、そんな煩わしいことはどーでもよくて、ただ、「感覚」の赴くままに「感じること」を大事にしたいと思いますね。今日の出雲大社訪問の収穫は、「ここは素盞嗚の匂いがする」そう感じたことでした♪いやいや長くなりました。でもそれほど「感じる」ものが多かった。午後は荒神谷遺跡に行きました。こいつが堪りませんでした♪「邪馬壹国」徹底解剖もやりたいんだけど、次回も「出雲三昧」の続きと行きますああぁ、あの銅剣、今思うだけで、エクスタシーを感じちゃう・・・・股間ムズムズ・・・・・SEE YOU NEXT TIME
Dec 12, 2005
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昨日の忘年会は効いた・・・・福井の大吟醸。普段安い酒に慣れちゃったモンだから、イイ酒はカラダに悪い・・・・しかーし、旨いモンだから、呑み過ぎ。量はいつも通りなんだけど、すっげー酔った。んで朝、ぐあぁーん!もう二度と「イイ酒」呑まん・・・・誓いました。今日は島根で忘年会。前日の後遺症がまーだ残ってて、なんと、ぜーんぜん呑めましぇんでした。今も具合ワル・・・・んでもって、親バカパート2でご勘弁を・・・・でへへ、卑弥呼ちゃんへの道はまた明日。SEE YOU NEXT TIME
Dec 11, 2005
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今日は日記書けんぞぉ・・・ソフトの公式戦で、準決勝・決勝があって、そのあと忘年会だったんです。・・・・・どっこい、準決勝で負けちゃいました。その後も練習がなかったんで、わずかに時間ができちゃいました。予定のとこまで書けるかわかんないけど、ササッといってみます。「邪馬台国」研究における、過去に犯してきた「原文改定」という「魔法」は、いずれも脆弱な土台の上に乗っていたことを証明してきました。では、「原文改定」をしないで、どう読むか、その出発点は「1里は何メートル?」この問いだ。現代の日本での認識は「1里=4km」ですよね。でもこれは当然、倭人伝の頃には当てはまらない。これまでの研究者は1里を何メートルと認識していたか?これ、約435メートルなんですね。誰も疑うことのなかった認識です。なぜこの認識なのかというと、三国時代に入る前の「漢代」の度量衡がこの距離なんです。魏代になっても、その度量衡が変更されるという記事は見当たらない、だから、誰もが何の疑いもなく「1里≒435m」と考えているんです。昨日も書いたように、九州説の大家、白鳥庫吉も「1里≒435m」という認識の上で、『倭人伝に書かれている距離は4~5倍の誇張がある』そう言ってるワケです。果たして陳寿は、1里を漢代の里単位で倭人伝(三国志)を書いたのか?まずはここから調べてみよう。この調査は簡単だ。三国志62巻すべての中にある、A地点からB地点までの距離を書いている記事をすべて抜き出して、その実測と比較してみる、という作業です。実際にこの作業を進めると、各定点の位置が確認できないものが多いんですが、現在でもはっきり確認できるものもかなりあります。それをすべて抜き出し、平均を出すと、「1里≒80m」という結果になりました。陳寿は1里を約80mという認識のもとに、三国志を書いたと思われます。これはいったいどういうことか?実はこの数字、深い意味があります。日本の数学研究者の谷川某が書いた「周骸算頸」(たしかこんな書名)という本があるんですが、これは中国の「周代」の距離を研究しているもので、ここに「周代の1里は76mだった!」と結論してるんです。陳寿の認識とメチャクチャ近いんです。陳寿は、周代の距離概念を採用していたと考えられるんですね。周代は76メートル、次代の漢代では約435メートル次次代の魏代で76メートルに戻した。戻した理由は不明だけど、三国志を調べてみた限りでは、このような結果になるんです。ホンマかいな!やや自信がなかったんで、三国志以外の、この時代に書かれた資料を調べてみると、なんと同じ結果が出ました。やはり、魏代では「1里=76m」という「短里」を採用してたんです!倭人伝はこの認識で読まなければならなかったんです。この意味は大きい。これまでの研究史は、「倭人伝は誤字も多いし、距離もいい加減だ」という認識だったのに、『「原文改定」に非』から、誤字はない。そして「短里」で書かれていることの認識から、距離も正しい、という結果になるんです。要するに「魏志倭人伝」は驚くべき正確である!ということになります。ここまでわかってくると、女王卑弥呼に逢える日も近い!次回から帯方郡を出発して、卑弥呼に逢いにいきましょう♪ムフ、いいオンナだったのかな・・・・卑弥呼ちゃん♪おぉ、もうこんな時間だ!忘年会いかなきゃ!なんでも福井のメッチャ旨い日本酒を仕入れてきたらしいんですわ♪明日はまた4時半起きだけど、ジャーブジャブ呑んじゃうべぇっと♪んじゃ、行ってきまーす。
Dec 10, 2005
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帰りの新幹線・・・・・こいつがくせモンなんですよ。一仕事終えるとどーしても呑みたくなっちゃうんです。♪仕事おわぁてランラン、 今日もいけるぞランラン♪駅の売店でビール、チューハイ、日本酒をしこまた買い込んで、グビグビ♪・・・・・・家に着くとグッタリ・・・・でもね、今日は古代史できるよ。新幹線で呑みながら原稿書いたぞぉ!頭から「冷え」がくる素盞嗚氏、邪馬壹国、いってみまーす。 榎氏の放射説、その前提である3つのうち、2つは破綻した。残る1つ、1500里問題、これを検証してみましょう。榎氏は帯方郡(現ソウル付近)から邪馬壹国まての総里程12000里から、その帯方郡-伊都国間10500里を引いて、伊都国-邪馬壹国までの距離を1500里としました。さらに唐代の六典の記事(歩行一日五十里)を根拠に、「1500里÷50里=30日=1月」と算出しました。倭人伝の記事、「水行十日陸行一月」については、「水行十日、又は陸行一月」と原文改定し、邪馬壹国の所在地を筑後「山門」としました。これ、どう思いますか?素盞嗚氏が最初に思った疑問、それは「倭人伝の読者にそんな計算、わざわざさせんの?」これです。そんなんだったら、最初から「伊都国から南、邪馬壹国に至る千五百余里」って書けばいいじゃん。そう思いました。でもそれは21世紀に日本に生きる素盞嗚の主観なんで、3世紀の中国人のそれとは違うかも?まー、そういうことで「矛」を納めました。で次なる疑問、これは「又」という文字を挿入するという原文改定、これは、はっきり言って苦笑せざるを得ませんでしたね。「南」→「東」や、「一月」→「一日」の改定をしないで読もう、それが榎氏の研究スタンスなのに、結局自説に都合が悪くなると、原文改定をしてしまう・・・・同じ穴のムジナですね。では「1500里÷50里=30日=1月」についてどうか?これは実に大きな問題をはらんでいるんです。倭人伝に書かれている「距離」は実測より4~5倍長い、これまでの定説ではそう言われています。この考えを発表したのは、京都大学の大家内藤湖南と双璧とされる東京大学の重鎮、白鳥庫吉だ。榎一雄の直接の師匠です。榎氏は師匠の提唱した、この「距離誇張説」を踏襲しつつ、上記の計算をしてるんです。要するに、倭人伝に書かれている「12000里」は誇張されている、という認識の上で、唐代の「実数値」の「50里」で割っている。そういう矛盾を犯しているんです。これ、まったく成立不能な計算なんです。「虚構値」÷「実数値」という計算をしてるんですから。これをなんの臆面のなく世に発表してる・・・信じられません。しかもそれが受け入れられてしまうとは・・・日本の古代史学界ははっきり言って「不毛」です。結局、画期的と思われた榎説も、静かに精査してみれば、「50歩100歩」だったんです。倭人伝を書いた陳寿は、ホントに正確にその記事を書いたんだろうか?そのヒント、ここで見つかりました♪「里」です。「1里は何mなの?」これです。まずはここから考えなくてはならない!ここまで新幹線で書きました。さて随分長い間、いままでの「批判」をしてきたけど、いよいよ素盞嗚説の展開です。最初の出発点は上記の「1里は何メートル?」この問いから始まりました。そーそー、今からいっときます。明日はソフトの公式戦の準決勝、決勝、それが終ってから忘年会ッス。多分、日記書けにゃい・・・んで、日曜日は島根行って、ここでも忘年会・・・・多分、日記書けにゃい・・・・・んで、こんなモンでカンベン丸・・・・
Dec 9, 2005
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今日は4時半に起きて、滋賀に出張に来てます。新幹線で米原で降りたら、・・・・・・し、シバレる・・・・さみー!しかも頭から冷えて来るんです。あと、5年もすれば・・・・・きっと・・・・・こんな感じになっとるんやろなぁ・・・・はー・・・・さて、昨日の続きです。榎氏の説の前提となったのは次の3点ですね。1.倭国にやってきた魏の使いは伊都国までしか来なかった。2.「伊都国」から「邪馬壹国」までは1500里で、 1日50里歩けるから「陸行1月」となる3.倭人伝に書かれた「水行十日陸行一月」は 「水行十日、又は陸行一月」と読む。これについて考えていきましょう。まず1。その根拠を「伊都国」以降の国の描写があまり書かれていない、とう言ってるんですが、調べてみました。確かに「伊都国」以前の国は風景描写や人々の暮らしぶりが描かれています。それに比べて、「奴国」や「投馬国」は詳細が書かれていません。しかし、目的地である「邪馬壹国」については、かなり詳細に風俗が描かれています。・・・・・「風俗」・・・・ピクピク・・・・悪い遊び、したかった・・・・いけねーいけねー・・・気を取り直して、しかし、よく読んでみると不思議なことがあります。「伊都国」は「郡吏の往来常に駐まる所なり」とあるように、今回の魏の使いも必ずこの「伊都国」に来たことは間違えないんですが、ここでの詳細描写はないんです。要するに詳細描写がされているのは、「伊都国」に入る以前の「末盧国」までなんです。じゃー、魏の使いは「伊都国」に行かなかったか?それは絶対にあり得ないんです。もし榎氏が前述の根拠から、「伊都国」までしか行っていない、とするならば、『それは「末盧国」までした言っていない』といいかえなければならない。そうじゃなければ整合性がないんです。まずここで「第一条件」は破綻しています。しかも倭人伝の後半を読むとよくわかるんですが、魏の使いは女王に謁見している、そう明確に記述しています。榎氏は、またはその支持者は「まー、古代人はテキトーだから、かったるいから 伊都国まできたからいいや、あとは倭人の中で うまいことやっといてよ♪ でも報告は邪馬壹国まで行ったことにするからね。 本国にチクったらアカンよ」という解釈をしてるんです。もうここまでいったら学問じゃない、素盞嗚氏はそう思います。「邪馬壹国」の詳細描写は、それはそれは詳しく倭人伝に書かれてるんですから。しかも、魏志の東夷伝には、倭人伝以外にも他国の紹介がされてますが、倭人伝ほど詳細描写されている国はないんです・・・・まず、榎説の第一前提はまったく成立しないんです。次に1500里問題。これは長くなるんで、次回にします。で、第3の前提、「又は」の挿入を先にやります。これ、どう思います?素盞嗚氏は、もう悲しむことしかできない・・・もともと榎氏は原文改定しないで読もう!そう言う思いから出発して、放射説を展開したのに、ここの部分は自説に都合が悪いから、結局は自説に都合のいいように、新たな原文改定をしているだけじゃないですか!だいたい、張政が帯方郡から邪馬壹国まで軍を派兵していて、軍事報告書が出ているはずなんですから、「水行十日陸行一月」の中に「又」を挿入して読むんだったら、最初から「又」を入れているはずじゃないですか。結局榎氏は自説に都合のいいよう、それまでと同じように原文改定をしているだけなんです。もちろん、後世の書写したモノが脱字した可能性はないでもないですが、それも次に書く「1500里」前提が正当なものなのかどうかで、結論は変わってきます。次回は、「1500里」問題の「非」を証明していきます。今日のホテル、なかなか広くてよろしい♪早くも焼酎のロング缶4本いっちゃいました。あとはデカワンカップ1本。うう、足りないじゃん。チト、買ってきまーす♪・・・・・遊べるトコあるかにゃ・・・SEE YOU NEXT TIME
Dec 8, 2005
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邪馬壹国を探せ!魏志倭人伝を巡って、様々な原文改定がなされてきたことを長々と書いてきました。しかし、どの改定もその根拠はあまりにも脆弱でしたね。そこで、原文改定をしないで読んでみよう、そう考えた研究者がいました。その名を「榎一雄」画期的な展開でした。これまでの研究者は、同一改定から似たような結論を導いていましたが、彼の説はまったく違う発想だったんです。うーん、こんな感じかな・・・・チット違うか・・・すんません・・・では、榎説とはどういうものなのかというと、それまでの邪馬壹国までの行程研究はトップページに載せた行程をそのまま連続させて読んでました。「帯方郡」→「狗邪韓国」→「対馬国」→「一大国」→「末盧国」→「伊都国」→「奴国」→「不弥国」→「投馬国」→「邪馬壹国」このような行程だと、信じて疑わなかったんですね。これを榎氏は「伊都国」から先4国は伊都国から放射線状になっている。そう言ったんです。その発想はいいですよね。では、その根拠は?榎氏は、魏の使いは実は「伊都国」までしか行っていない、あとは倭人の伝聞によった。なぜなら「伊都国」までの各国のことは細かく描写されているけど、「伊都国」以降はそれがない。そう言っています。次に距離の問題です。「帯方郡」→「女王国」まで12000里ですね。「帯方郡」→「伊都国」までは10500里です。その差、1500里。これが「伊都国」→「邪馬壹国」までの距離だと言ってます。唐代の「六典」という資料に「歩行1日50里」とあるのを根拠に、1500里÷50里=30日=1月という計算をしています。「水行十日陸行一月」の中の「一月」です。榎氏は、従来考えられていた「水行十日プラス陸行一月」ではなくて「水行十日又は陸行一月」と読んだんです。この考えでいくと、「南」→「東」、「一日」→「一月」という原文改定をしなくても辻褄があう、そう言っています。そして結論は、九州の筑後の「山門」こそが「邪馬壹国」だ。そう言っています。みなさん、どう思いますか、この榎説。素盞嗚氏は、発想はいいけど、ちょっとヘンだぞ?そう思います。次回は3点に渡る疑問を核に榎説を批判してみます。昨日は日記を書けませんでした。仕事終わってから、パチンコしちゃいました♪えーとスロットじゃないですからね。「大工の源さん」新しくなったんですねぇ。いやいや、おもしろかった♪んで、3万円勝っちゃったし、んぷぷっ!もちろん、嫁素盞嗚には内緒ですよ。「遅かったじゃない、またどっかで呑んだくれてたんでしょ?」「いやー、今日は仕事が忙しくさぁ、全然呑んでないよ♪」「・・・・・」セーフ!バレませんでした。今日は群馬、明日から滋賀です。どっか悪いことしに行っちゃおーかなぁ♪SEE YOU NEXT TIME
Dec 7, 2005
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昨日、子素盞嗚2号のソフトボールの試合があったんですが、たくさんのコメント、もらっちゃいました。ありがとです。で、きのうの試合で「クラークコーチ」がたーくさん写真を撮ってくれたんです。子素盞嗚2号のナイスプレーのあったんで、チット紹介させてくらはい♪子素盞嗚2号こと「猿飛びショーゴ」は普段はショートなんですが、昨日は久しぶりのサード。また、よーくボールがきました。ボテボテのゴロをダッシュで捕球!ファーストへ「ロックオーン」!行けぇー!「アウッ!」体は小さいんだけど、結構肩は強いんですよ♪さて、「ヤマタイコク」徹底解剖の第二章、原文改定の最終回です。トップページに書いた魏志倭人伝にある、「陸行一月」を「陸行一日」と改定している説があります。この改定を「是」とする立場は、近畿説、九州説の両陣営とも支持者が多いんです。しかも、その改定した「一日」が、どこからどこまでの行程を指すか、この点も各説まちまちなんです。いくつか例を挙げてみましょう。1.本居宣長 九州南部の地から上陸して、それから一日行程。2.三宅米吉 瀬戸内海航路の上陸地から大和まで。3.富来隆 筑後川の上流から豊前宇佐郡山戸まで。4.肥後和男 河内または摂津から大和まで。5.植村清二 筑後川河口から御井付近まで。このようにこの改定により、いろいろな説が生まれました。そりゃー、そうですよね。海や川から上陸して1日行程で行けるところって、無数にありますよね。むしろ行けないところを探すほうが難しいッスよね。つまり彼らは、あらかじめその目的地を決めてある自説にとって、一番ヤッカイだった「陸行一月」を、言わば一挙に安全・無害な一句に変えてしまったのが、この「陸行一日」なんです。多くに共同改定を行い、それでも飽き足らず、「南」を「東」にして、そしてまた「一月」を「一日」に・・・・・これでは「ヤマタイコク」の真の所在地など判る訳がない、そう思いませんか!しかも前述の「張政の証明」から考えれば、この改定も否定せざるを得ませんね。これまでの研究者はなぜここまで「恥知らず」な改定を平然と行ってきたのでしょうか?きっとそのベースにあるには、「古代人は頭が悪い」この先入観だったと思います。「倭人の報告もいい加減だっただろうし、 陳寿もどうせ夷蛮の国のことだから、 適当に書いたんだろう」と。この先入観を持っている限り、倭人伝を資料とした研究をすることは無意味だ。違う切り口から研究をしたほうがいい。少なくとも自説を倭人伝から検証するのであれば、もっと倭人伝を徹底的に分析する必要がある、そしてもっと原文に忠実にあるべきである、素盞嗚氏はそう思います。「それができないからみんな原文改定してんだろ!」そんな声が聞こえてきますが、素盞嗚氏は声を大にして言いたい!「お前ら、原文をちゃーんと読んでないじゃん」と。次回はから第三章「邪馬壹国」はここだ!に入ります。うう、またお腹が痛くなってきた。嫁素盞嗚に何か盛られてるかも・・・・・
Dec 5, 2005
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安い焼酎は、ヤッパだめやね・・・旨くないのにヨッパらう・・・・素盞嗚家、今日も野菜炒め・・・でもね、今日は嫁素盞嗚が作ってくれました。「おぉー、旨いじゃん♪ さすが嫁素盞嗚、年季が違うねぇ・・・」「まーねぁ♪」白菜と肉を炒めたんだけど、これがね、マジで旨いんですよ。嫁:「いやー、でもね、今日も忙しかったから、 白菜、洗ってないんよ♪」「・・・・・、あのさ、いつもは洗ってるんだよね」「え?洗ってないよ♪ メンド臭いから」「ううう、マジですか・・・・」(それってさー、オレだけ?)・・・・・・どうも、アタシだけみたい・・・・トリカブトならぬ、新たな「毒」かぁ・・・・・そうそう、今日はソフトの子供達、がんばったんですよ♪15対0♪次の土曜日は準決勝、ねー、勝ちたいねぇ・・・・いやいや、勝つぞ♪
Dec 4, 2005
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仕事仲間の「うっかりエロP」君、二人で外を歩いている時、「お茶でも買おうか!」って、自販機の前で立ち止まった。お金を入れて、右手は「V」の字・・・・・「ん?」2本の指で2つのボタンを押した。「何してんの?」「いやー、2本出てくるかもしらんから・・・」「・・・・・、お前、いつもそーやってんの?」「うううん、3つ押すこともあるよ♪」「・・・・・」阿呆や・・・・エロP君、45歳・・・・・悲し過ぎる・・・・・気ぃ取り直して「ヤマタイコク」問題いきます。魏志倭人伝の原文改定問題。「南」→「東」の改定は、「大家の常例」の検証で破綻したって書いたけど、実はもう1点、この改定問題で有名な説があります。これも当初は書こうと思ってたんだけど、はっしょっちゃいました。そしたら、「ple-plusさん」から、それについてのレスもらったんで、やっぱりここで紹介します。昭和31年に出された室賀信夫氏の説です。室賀氏は15世紀初頭に朝鮮で作られた地図を引っ張り出してきました。いわゆる「混一図」といわれる地図です。ここに書かれた日本列島は、なんと九州を北として、大和や東北地方を南とし、日本列島を南北につらなる形で書かれてるんです。15世紀の東アジアでは、ある程度正確に列島の位置は認識されていたはずだ。そこで室賀氏は、「これは古代地図を基に書いているのだろう」そう思い、その「身元」を調べたんですね。するとその淵源は、3世紀の「晋」の時代、地図学者の「斐愁」が書いたものではないか、と推測したんです。そしてこの「斐愁」は倭人伝の作者「陳寿」と同時代人であることから、「陳寿」もこの地図を見ている!そしてその認識で、本来大和は「東」にあるのに、「南」と書いた!そう説明してるんです。素盞嗚氏は昔この説に触れたとき、「おーおー、あり得る、アリエール!」って思いましたが、でもね、これは「×」なんですネ。ple-plusさんが言うように、ここを「南」と認識して、魏の使いが倭国に来たとしたら、卑弥呼の国「邪馬壹国」にたどり着けないんです。しかも前述した、帯方郡から派兵した張政軍も当然たどり着けない。でも張政軍はしっかり卑弥呼の国に来てるんです。この意味するところは、魏国は正確に「邪馬壹国」への道しるべを知っていた!ということです。だからこれから書く「一月」→「一日」改定も、この「張政の証明」からいうと、すでに破綻してるんですね。まーそーは言ってもこれも大きな問題なんで、次回から検証していきます。やっぱり、「大五郎」、まずい・・・・明日に残りそう・・・・・SEE YOU NEXT TIME
Dec 3, 2005
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「あんたぁ、今日弁当持ってくぃ?」何年かぶりで嫁素盞嗚が言った。「ほー、作ってくれるの?」弁当持参でクルマで千葉に行きました。海ほたるの駐車場で「愛妻弁当」♪一仕事終えて、家に帰ったら・・・・・・・・・・・お腹イタイ・・・・毒盛られたかも・・・・うう、お腹イタイ・・・・く、薬・・・・・はー、もっと悪くなりそ・・・・今日は「大五郎」のコーヒー割りでやってます♪トイレ、もう5回ぐらい入ったけど・・・・・割っちゃうと、安い酒でもOKやね。ん?また嫁素盞嗚が怒ってる・・・・・「何さっきからPCやってんのよぉ、 夕飯の手伝いぐらいしてよ!」「・・・・・はーい・・・・・」これから野菜刻んできます・・・SEE YOU NEXT TIME
Dec 2, 2005
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mikappaさんから、旅バトンを受けました♪素盞嗚氏、結構バトンが好きなんです♪1.国内で今まで一番よかったところ 宮崎の西都原古墳公園♪ こんなにたくさんの古墳を見たのは初めてだったし、 調査中の前方後円墳の墳丘の頂上から石室を覗けたんです。 うう、感激♪って感じでした。2.海外で今まで一番よかったところ ニューオーリンズのバーボンストリート 朝まで遊んでました♪3.これから行きたい国内 島根の荒神谷遺跡♪ 12日に行ってくる予定です♪4.これから行きたい海外 トルコのカッパドキヤ遺跡♪ 8層になってるという地下都市。5.ああ、いけねぇ、バトン・・・・ 呑み過ぎて電車の中に忘れてきた・・・・ 誰か取って来てぇ・・・・・そういえば、海外、しばらく出てないなぁ・・・・ううう、・・・・・遊びてー!そうそう、昨日一緒に呑んだ風太氏、「悪いことしてー!」って言ってました。48歳です・・・・・さてマジメな素盞嗚君はヤマタイコク探求の旅を続けます。魏志倭人伝、「南」から「東」への改定についてです。前回、原文改定をして読む研究者は、あらかじめ目的地を決めていた、と書きました。では「南」から「東」に改定した者たちは、その目的地をどこに求めたんでしょう?そうです。近畿大和です。松下見林以来「邪馬壹国(ヤマイコク)」を「邪馬臺国(ヤマタイコク)」と読むことで、その所在地を近畿大和にもっていこうとしたんです。その連中が倭人伝の行程記事を読む際、この「南」を「東」と改定しないと、近畿大和にもっていけないんで、無理やり「東」に読み替えたんです。・・・・・でもその根拠は?一つには、そのまま「南」と読んだなら卑弥呼の国は九州を越えて太平洋に突き抜けてしまう・・・だから「東」と改定すべきだ、というものです。一見、もっともらしい言い訳ですが、これは実は大間違えなんです。これについては、後日詳述します。そしてもう一つ根拠としたもの、これがまた、オソマツ極まりないものなんです。明治の大家「内藤湖南」(京都大学教授)の「卑弥呼考」にこうあります。「中国の古書では、「東と南」、「西と北」を相兼ねるのが「常例」だ」こう言ってるんです。(近畿説を唱える文献学者はこれを踏襲しています)常例・・・・・はたしてホントでしょうか???私は大家だから、相当な見識をもってますよぉ。その大家の私が言ってるんだから四の五の言わず信じてね♪」湖南はそう言ってるんです。???それって本来の学問?本来の学問とは、大家のことばに盲従するんじゃなくて、より精密に、かつ科学的に検証するべきですよね。まーそれでも内藤湖南がどのような検証したのか調べてみました。「卑弥呼考」には、この件について、1点だけ例を挙げていました。「後魏書」という6世紀に書かれて書物でした。そこには東南とすべき記述を東北と間違えている、と湖南はいうんです。確かにこの記述は間違っているようなんですが、問題は、この6世紀の書物の例、一点をとって、「古代中国の人は『常例』として方向観が甘い」という証明になりうるか、ということです。どう思います?「その通りだぁ!」って言う人はいませんよね。これは他の例で言うと、14世紀に書かれた「神皇正統記」の方向記事が間違っていたら、13世紀の「吾妻鏡」の方向記事も信用できない、そう言ってることと同じなんです。そんなバカなことはないですよね。仮に湖南が言うように、古代中国人は「東」を「南」と間違えるクセがあるというなら、この場合、陳寿の書いた「三国志」の中の方向記事を調べるべきでしょう。で、その数を調べてみると、以下の結果になりました。東:859回西:560回南:576回北:242回これだけの方向記事がありました。仮に明治の「大家」内藤湖南の言う如く、古代中国人は「東」を「南」と言うのであれば、上記のような結果になるとは考えられないですね。当然「南」の数が多くていいはずですね。ところが事実はちがう!しかもこの方向記事で誤記はないんです。要するに、倭人伝を書いた陳寿は「東」を「南」とは言っていないんです。それともっとも重要なことがあります。倭人伝の後半に書かれてることなんですが、卑弥呼の国は狗奴国という国と交戦状態にあったんですが、この時、魏に援軍を求めてるんです。そして、魏国は出先機関「帯方郡」にいた将軍「張政」を倭国に派遣し、かなりの長い間、この軍隊は倭国に逗留していたんです。この逗留の意味するところとは、本国からの武器や兵糧の配送のため、後方部隊が帯方郡から頻繁に卑弥呼の国に来ていたと考えられることです。どういうことかというと、軍隊が遠征に出る時は軍事行程書を必ず書く!ということです。これがないと、後方部隊からの物資が届かないからです。だから陳寿が倭人伝をかいた時、当然その軍事行程書を下敷きに書いているはず、素盞嗚氏はそれを疑うことはできないんです。その意味するところは、倭人伝の行程記事は正確であるこれです!「南」を「東」に改定する根拠はまったくないに等しいんです。この帰結は重大な意味を持ちます。「東」にもっていけないとするならば、ヤマタイコクは近畿ではあり得ない!この帰結に到達するんです。長くなりました。次回は「1月」「1日」問題です。明日は千葉です。今問題の構造計算偽造問題で新たに浮上した民間検査機関「日本ERI」に関連した話しをしに行きます。気が重いッス・・・・SEE YOU NEXT TIME
Dec 1, 2005
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