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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ゴットフリート・ライプニッツ-6(三百四十九) ライプニッツは、それ以上には分割できない究極の実体として「モナド(単子)」を想定しています。此のことは現時の時点での理論である素粒子論を想起させます。素粒子の半径を無限小として扱う理論で、粒子が動力学的な衝突を起こすためには粒子同士の間に相互作用力が働いている必要があり統一場理論の四つの力の存在です。但し、ライプニッツはモナドには一つとして同じものが無く、それぞれに視点を異にして互いを表象し合っている存在だと言います。従って、ライプニッツは「モナドだけがある」という点では一元論者であり、また「モナドには一つとして同じものがない」という点では多元論者です。またライプニッツにおいては人間や動物はもちろん、無機物も何らかの精神的存在ということを表象しています。此のことからも、世界存在全てのものに何らかの精神作用が働いていることが予想されます。ギリシャ語の monas (一つ)という語から作られた、私の意識である表象がその原型であるような、精神的「統一体」の意味において、根本的には無と有を離れた存在、何故なら、無は現代科学では存在因子として認識されているからです。大乗の祖ナーガルジュナの「空理論」の有と無を離れた「ゼロ(0)理論」を想定させ大宇宙の存在基底の根本「絶対意思」が浮上します。それ故に、思考で捉える人間には霊魂が宿ることになる成ります。人間の属する世界は「意思」に包まれた世界です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月31日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ゴットフリート・ライプニッツ-5(三百四十八) モナドはデカルトの云う「延長」、スピノザの神の様態の延長でもなく、所謂、「物体」という範疇には入らず、物質の素の因子そのものでもなく、因子の運動を促す、有でもなく無でもなくデカルトの云う「延長」、スピノザの神の様態の延長でもなく、もっと深遠でそれでいて単純で根本的で精神的な汎心論に準じた「モナド(Monades)・和名「単子」を想定します。それ故にモナドには其れ以上の因子は創造者の意思の現れの原因的材料、物質的でない意思的要素と考えて良さそうです。更に、ライプニッツは運動の起因としてのモナドを自ら開発せしめた記号論理学により、スピノザとは思考の基底は相違するものの同様の課題に適用してみせます。ハイデッガーを髣髴させる「主語にはその主語が正しく取りうる述語のすべてが意味として含まれ、モナド(単子)には、それがするあらゆる行為とそれが持つあらゆる関係が予めプログラムとして入力されているとされます。全てのモナドは人間には計り知れないプログラム通りに動くだけ、そしてこれこそが世界の運動の源、絶対者の予定説を顕かにします。ライプニッツの神とは、世界創造以前にいくつものモナドの組み合わせを無数の考えを意志し、創造者以外知ることのないモナドのプログラムを読み、凡そあらゆる可能な世界について、其のすべての歴史を計算する。そのなかで最善のものを神は創造したとライプニッツは想定します。彼の議論は現代の形式論理学や彼に始まるIT科学の二進法などに多大な影響を与え、ライプニッツは最後の万能の哲学者とも言われ現時の思想に影響を与えています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月30日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ゴットフリート・ライプニッツ-4(三百四十七) ライプニッツが21世紀の現在、17世紀の金字塔と目されるのは、20世紀の唯物主観のあまりにも外感覚的刺激からの要素に史的に限らず精神要素にまで、物質的で外感覚的な要素を人間精神の生成にまで及ばせたことに因があります。世界は試験官の内にはなく、謎に満ち溢れています。其のことを自ら解析した微積分学の記号法を,ライプニッツは論理学にも同様に記号化することを企み「モナド(monade)」論、和名「単子論」を主張します。単に人間が捉える外感覚的な、更には物質的ではなく「神的」な存在とも看做されない世界の構成の根本、思考法に相違はあれども印度大陸の大乗の祖ナーガルジュナの「空理論」を想起させます。思考過程には隔たりがあるものの、物質的ではないもの、有でもなく無でもなくデカルトの云う「延長」、スピノザの神の様態の延長でもなく、もっと根本的で精神的な汎心論に準じた思考を展開させます。とはいえ、世界の在り方全ての存在を無数に集まることで形成しています。そのライプニッツを論理を理解するには唯物論では困難で、アリストテレスやスコラ哲学を前提にすることも必要やになりかねません。ライプニッツの後継と目されるラッセルにしても「モナド論」を理解することは出来得ないと言わしめます。ライプニッツはモナドを精神的な存在と見なし、物体の運動に自ら誕生させた記号論理学を使って説明します。大乗の祖ナーガルジュナの「空理論」の有と無を離れた「ゼロ(0)理論」を呼び覚ませます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月29日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ゴットフリート・ライプニッツ-3(三百四十六) ライプニッツは、同時代の著名な著名な思想家とはすべていの交わったと考えてもよいくらい活動的であり、バールーフ・デ・スピノザを訪問したことに始まり、デカルトやマルブランシュとの文通によろり彼らの思考の影響は取捨選択はあるにしろ多分に影響を受けています。スピノザに関しては「エチカ」の草稿を見せられる程に親しく付き合いますが、スピノザの演繹的哲学に基づく必然・偶然の解釈及び絶対存在・絶対創造や意思の解釈の様相は異なり逆にスピノザに影響を与えたといえる観なきにしもあらずです。近世哲学の祖と云われるルネ・デカルトに関しては其の思想傾向が同じ大陸合理論の流れのなかにあり、強く影響を受けていたことが想像されます。但し、彼の思考はデカルトにはじまる大陸合理論の流れのなかに位置づけはされますが、ジョン・ロック(John Locke/1632年-1704年)は、イギリスの哲学者。哲学者としては、イギリス経験論の父と呼ばれる思想にも深く学び、精神と物質を二元的にとらえる存在論並びにそれから生じる認識論とはまったく異なる世界を構築することを目指します。認識を主体と客体の間に生じる作用ではなく、したがって直観でも経験でもない。自己の思想の思考をロックの思想と比較しながら明確にする試みに「人間知性新論」を執筆するも、脱稿直後にロックが死亡、公刊は死後に成ります。其の思想には認識論に無意識思想を鑑みていることからもフッサールやハイデガーなどを初めとする現象学的思想家に影響を与えます。何より彼を際立たせるのは、微分積分の発見者で動力学の創始者として彼以前のデカルトの物体すなわち延長説、スピノザの神の定義を彼流の微積分思考を反映した延長よりも原始的な力について「モナド」を主張したことです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月28日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ゴットフリート・ライプニッツ-2(三百四十五) ライプニッツはの生誕は同時代の欧州の著名な思想家の中では環境に恵まれていました。彼は独逸ライプツィヒ大学哲学教授のフリードリッヒ・ライプニッツの子としてライプツィヒに生まれ、父が6歳の時に病を得て没した後に、各地の名門大学で学び1666年にはニュルンベルク近郊にあるアルトドルフ大学に移り1667年には法学の博士となり、翌年には中世ドイツで、神聖ローマ皇帝を選挙し重要事項を討議する特権をもった世俗諸侯3人、教会諸侯3人の一人マインツ選帝侯に仕え、其の命に従い仏蘭西ルイ14世にエジプト遠征を勧めるためパリ滞在するも任果たせず、マインツ選帝侯の死によってライプニッツは職を失うはめに。その後はパリで求職活動をしながら、月のアペニン山脈にある衛星の最高峰ホイヘンス山(Mons Huygens)に名を残すクリスティアーン・ホイヘンス(Constantijn Huygens)、家は祖父も父も大臣を務めた名門であり、クリスティアーンの実父であるコンスタンティン・ホイヘンスは、オランダの詩人で作曲家でもあった程の人物や多くの学者との交流を深めています。そのかいあってか、彼の名を顕しめる微積分法を1675年に発見し、最終的には神聖ローマ皇帝カール6世によって帝国宮中顧問官に任命されています。1714年に「モナドロジー」の草稿を書きあげたが、公刊されるのは彼の死後の1720年のことです。ライプニッツは、同時代の著名な知識人とはほぼすべて交わったと考えてもよいくらい活動的であった、のですが、デカルトやスピノザを実体観念や世界観を異にすることから批判的に評価しています。然し乍ら、世界創造の絶対存在としての「神」なるものの定義は共通することは否定し難いものがあります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月27日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ゴットフリート・ライプニッツ-1(三百四十四) 自然には無機物にも感性があり、有機体であるところの人間にも同様の感性を持っていると説くディドロに影響を齎したとされるモナド論の思想家、ライプツィヒ出身でルネ・デカルトやバールーフ・デ・スピノザなどとともに近世の大陸合理主義を代表する哲学者。微分積分の発見者で動力学の創始者でもあるゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz/ 1646年-1716年) は、デカルトの物体の運動はその質量と位置移動による「延長説」を発展させ、運動はそれだけのものではなく、より根本的な力によって引き起こされている筈であり、ライプニッツはディドロの唯物論的な経験論ではなく形而上に物体の運動を捉え延長よりも動力学的に考える、より根本的で原始的な力について考察します。其処に引き出されたのが力こそが、宇宙は全て単純な実体すなわちモナド(Monades)若しくはその集合体から成り立っているとする説を動力学的に考えるライプニッツは発表します。モナドはデカルトの言う延長よりも原始的なので物体ではありません。そこでライプニッツはモナドを精神的な存在と見なし、モナドが無数に集合することで、世界のすべてのものは出来得ている。それゆえ、全てのものが唯物的ではなく、スピノザにも共通する記号倫理学、今日でも 用いられている微積分学の記号法を,ライプニッツは論理学にも同様に記号化することを企みます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月26日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ドゥニ・ディドロ-9(三百四十三) ディドロは、人間の脳髄を例えて、生きている「臘(ロウ)、つなぎあわせるという意味あいで粘体の塊を意味しているのでしょうが、此れが外感覚的刺激から感性的に働くとします。そして「実験」こそが、事物が我々の外感覚的環境を離れた時でも其の事物の存在の証となるといいます。此処でディドロが用法として用いる「実験」なる語彙ですが、ディドロによれば人間の認識過程では感覚から思考へ、更には、思考から感覚への移行が行われている。其の思考から感覚への移行に「実験」という語を用いています。更なる上に思考から感覚への移行段階を科学的方法論を取り入れて、観察・反省・実験に分別し、観察は事実を寄せ集めることをいい、反省が其れ等の統合を成し、実験は結果の真偽を検証すると仔細に述べています。所謂、凡そ我々が体験した学校の理科室の実験が、物事の変化の検証なのに対し、ディドロは「実験」とは人間の脳髄に客観的真実の存在を知らしめ、人間の認識の限界を自覚させるものであり、実験が多々詳細になるほど世界の理を主観に求めた「観念」の誤謬から離れるとします。以上のことからディドロの「実験」とは人間の観念の誤謬性を捉え、実際事実的体験からの認識こそが「理法」の真理を得る手段となる訳です。「体験」出来得ないもの、或いは「経験」でき得ないものを観想する観念論を暗に批判しますが、おそらく此の論には、宗教或いは神秘学は体験が前提に成されており「実験」は意味を成しません。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月25日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ドゥニ・ディドロ-8(三百四十二) ディドロに限らず当時の仏蘭西の唯物論の思想家は、人間の認識論の基底に人間の認識は感覚から始まり、感覚なきものは思考の中には何ものも存在せず、其のことから導き出される結論は、観念論とは相違して霊魂や生得観念は否定します。ディドロにあっての感覚は、認識の部位が問題とはなりますが、内部環境と自己の身体を取り巻く外部環境も曖昧ではあり、認識の部位が問題とはなりますが、外部環境からの客観的な物体の映像が認識に結実すると主張します。ディドロの其の映像を結実させるのは生きて活動している脳髄であり、これが外界、脳髄を内界とすれば肉体各部分も外界と解釈されますが、此れが外界から作用を受けると感性的に反応して活動すると言います。其の実経験こそが、外部の事物が離れ当座買っている時にも、其の事物が存在し続ける証だとします。ディドロの言に従えば、感覚は一定の連続性を持っており、感覚の継起は持続して、積み重ねられ、絡み合いながら統合の道へ進む。即ち、人間の判断や概念は感覚の統合だと述べます。更に、人間は経験されたものなかのある特性に注目してこれを取捨選択し、抽象化して言葉を創作するが、言葉は外感覚的刺激からは離れており、其のことにより脳髄と外部環境からの感覚の関係の絆となす積極的で能動的な役割を付与しています。人間の内部組織としての認識母体である脳髄と外部環境からの感覚の関係の絆としての言葉の能動性が強調されますが、其の起原は人間以外の何ものではなく他者からの関与は肯んじません。即ち、「旧約」の冒頭の「初めに言葉ありき」は神の認識する言語であり、こと人間の認識に関しては、先ず、世界の創造主ではなくて人間が「初めにありき」ものだということになります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月24日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ドゥニ・ディドロ-7(三百四十一) ディドロの思考は循環型世界を想定しており、全ての事物は決して孤立して在ることはなく、相互に連関して作用しあっている。新しく生起したと想われる現象も連続する変化の中の一場面にすぎない。世界は物事が連関し合い連続して変化している、後世のベルクソンの「時間と連続」を思い起こさせます。生物に関しては、当時の「種(しゅ)」が予め存在する思考には真っ向から反対します。何故なら、「種」が個体対象に外部から生命を吹き込むことになるか、本来的に物質が「種」を持つかしかありません。此処では「原子」を例に上げ、或る原子の中に既に一頭の象が生命として入るということの矛盾を強調します。其れよりは、泥の中で蠢いている目に見えぬ蛆虫が巨大な動物になる、或いは、或る巨大な獣が蛆虫にならんと励んでいるほうがまだ正当性があると看做します。詰まりは、万物は絶えず流転している、汎ゆる動物は多少の差はあれども植物であり、反対に、汎ゆる植物は多少の差はあれども動物であり、総ての生命存在が相互に内部的に循環していると主張します。ディドロは18世紀に発展した「分類法」に彼自身の思考を付け加え、無機物から有機物に至る分類を秩序ずけることを試みます。慣性的な分子、生きている分子、微視的動物、動物的植物、動物から人間(注:に至るまで)を分類しているのですが、連続性は認識していたにしろ連関性については触れず、生物の環境への適合まで進みながら進化概念はなく後世に託します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月23日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ドゥニ・ディドロ-6(三百四十) 二十世紀のミレニアム、西暦を1000年ごとに区切る千年紀を意味する英単語であり、西暦2000年前後に千年紀の終わりと新しい千年紀の始まりということで、これを意識した事象をわきまえて唯物論を掲げる思考家は、機械論的唯物論を発展性に欠損があると看做しています。17世紀から18世紀の特にフランスにおける唯物論には物質世界の概念から発展性を欠いた機械論的唯物論が主流を占めていたからです。ディドロにあっても世界は、死んだものから生きているものへ、其れは亦同等に、死んでいるものから生きているものへの相互移行を示しており、「生命の循環」を示唆します。ディドロは分子には同質的なものはなく全て異質的な要素で成り立っており、此れ等の分離・結合が世界のあらゆる現象を引き起こす。此処には、未だ素粒子論が世に現れないので致し方ない面もありますが、それでも分子の他質性と多様性を認識しています。然し乍ら、彼の思考は循環型世界を想定しています。つまり、分子の一つ一つは異質的ではあるが、其れを統合した世界全体においては、分子が結合と分離を繰り返し、幾多の形態の運動(変化)を展開するが総量は不変であって、世界は循環する。エントロピー(entropy)という不可逆的崩壊の意味付けは、未発見のため加味されてはおらず、進化論の息吹は感じるものの、現代唯物論的には不満なものもあることは認識できますが、人間生命とりわけ「霊魂」の進化においては考えさせるところがあります。何れにしても当時の哲学的世界は大宇宙を把握していた状況ではなく、思考は後世に託すことと成ります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月22日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ドゥニ・ディドロ-5(三百三十九) ディドロは物質の「感性」を明らかに、無機的感性と生物的感性に区分して考察しています。其の前提のもとに、生命とは正確に捉えるならば感性と刺激性の合致だと説き、更には感性も刺激性も運動に帰する。特に生物的感性は生命系の特殊な運動形態であり、其のことにより、生物が自己と其れを取り巻く環境に感性を持って予めに関係を知る。ディドロは此のことを発展させ「魂」に応用して考察します。ディドロにとって「魂」の定義はギリシャソクラテス・アリストテレス・プラトンの形而上学的「霊魂」とは意味合いを異にした、通常一般の魂のイメージに近しい定義、生物学的側面から「魂」は生物、なかでも動物一般を対象にして自論を展開します。此の思考はアジア系インド哲学の流れを汲む生物全般に霊性を認識する思考とは異なり、現実経験論が際立ちます。ディドロの考える「魂」は動物と共に成長し、其の肉体の衰亡と伴に老い死ぬ。「魂」とは生物である動物の生涯の統一体である。彼は魂の在処を脳髄に特定し、脳髄の働きを、外感覚的刺激からの印象を記憶し保存するものだと指摘します。思考は其れ等の印象を相互に連合し結合するものである。此の思考において、自己が反省を始めた最初の時点から現時の存在に至る自分が自己として知る自我であり「魂」を自我と同一化します。此のことを現代急速に発展するIT時代のコンピューターに当て嵌めれば、既に彼らの(デジタル脳)は「魂」をを持ち合わせていることに成ります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月21日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ドゥニ・ディドロ-4(三百三十八) ディドロの「感性」が外感覚的現実経験論に拠るところから、其れまでの唯物的機械論、人間も機械であると主張するデカルトの動物論の発展型の説を打ち破るものではありました。その人物ディドロは、ソクラテス・プラトン・アリストテレスと続く「霊魂」の定義とは多少意味合いが違いますが、通常一般的な「魂」について生物論的見解から、其の主張するところの「感性」論をを展開します。ディドロによれば「生命」とは「感性の刺激」の合致ということになる。其の感性も外覚的・内的な刺激も運動に尽きる。なかでも生きた感性は生物特有の特殊運動形態であり、人間を頂点とする生命系は、自己とその関係についての環境を本能的にしろ予め知るという点に意義を主張しています。彼の「魂」について生物論的見解では、「魂」は生物、なかでも動物と一緒に成長し、肉体の老衰にともない死する。「魂」とは生物なかでも動物一般「人間」も含有する其の主体を成らしめる根底であると述べます。「魂」は「脳髄」において現れるが、「脳髄」は特殊な感覚組織であって、現代にあってはパソコンのメモリとハード媒体(記憶装置)が表象されますが、思考はそれら印象を相互の連結しあって統合するパソコンのCPU(中央処理装置)と例えられますが、其の思考において自己が始めから現在、未来及び来世を含有させていないことには「霊魂の定義」を考察するうえでは注意が肝要です。自らの経過を「自我」と意識するとすればCPU(中央処理装置)はメモリとハード媒体(記憶装置)を統合させ有機体を導入化さえすれば「生命」を手に入れることになるからです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月20日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ドゥニ・ディドロ-3(三百三十七) ドゥニ・ディドロの特異性は、推測するにレオナルド・ダ・ヴィンチと同じく多才能であり芸術性に秀でたものがありますが、彼の小説「ラモーの甥」・戯曲「私生児」などの文芸作品を手懸けていることから考察するば、其の思考方法にも独特の感性に包まれていることを納得させてくれます。彼の思想の無機物の感性と有機物の感性の「定義」に関しては些かの相違もありません。例えばディドロは、卵から鶏が生まれることに視点を向けます。当世の生物科学が至らなかったことにも起因しますが、其の鶏卵は生命のないドロドロの液状状態のものに過ぎない。即ち、有機物と無機物を同元に述べています。少々どころか自己の主張に辻褄を強引あわせます。鶏卵は生命のない粘状に過ぎないと述べ、生命と感性とを吹き込まれるのは熱によってであると。然し乍ら、鶏卵は親鳥の体内で既に生命は活性しており、体外に産み出された時に、生命のないドロドロの液状状態であるとしたら、体内での生命は一旦死を迎え再び生命が付与され活性化することになります。其のことを強調するのは「熱」を「運動」と同置させる工夫だとも言えましょう。詰まりは、産み出されて一旦死んだ生命のない卵が、運動によって液体が変化を起こし、殻の中で自分を現すための機会を待っていた「感性」生きている形態へと転遷するとします。この「感性」という要素に関しては難解不明なところもありますが、それにしても、生命が無機物の運動に伴う熱によって生命を賦活する主張は、彼以前の形而上の神秘学的な無機物の有機物への外来性の力「作用力」に由来するとする説に比して、外感覚的現実経験主義という意味では唯物的には意義があるのでしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月19日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ドゥニ・ディドロ-2(三百三十六) 誰しも石像が生きているとは考えさえしないでしょうが、ディドロは客間にある大理石で彫像された、立像にも感性がある。しかも其れは、生きている感性を持つ物質への変化への可能性を秘めている。更には、日本のアニメ「大魔神」が如く移行し得る可能性を持つと思考します。其の根拠は、些か胡散臭い傾向はあるものの其の石像を粉砕し腐葉土や堆肥の土壌に馴染ませ練りあげて、中に含む有機的発酵生物に腐敗及び発酵させ、野菜の肥料とする。其の野菜を食すものにより、石像が腐植土の発酵菌の作用を経て、腐植土から植物、其れを食す動物界へ転遷する、謂わば、死んだものが生きているものへと転化すると主張しますが、此処にはディドロの感性と生命が混沌として明確に区別されない欠損があります。然し乍ら、ディドロの理論は感性が物質の運動の属性であることが強調され、感性とは人間を頂点に置く動物において突如生じるものではなく、無機物の運動の状態が変化変遷し、生命の源泉及び誕生の根拠を暗示します。即ち、生命は無機質の持つ運動の状態が変化したものと捉えるわけです。此処には生命の唯物主観が顕れています。然し乍ら、腐葉土の中の生命を与えた根源には至っていないことには注意が肝要です。此の「感性」の語彙をインド哲学の「空」論で考察すれば、意外な解釈が生じる要素がみえるかもしれません。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月18日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ドゥニ・ディドロ-1(三百三十五) 1772年に図版集を含む「百科全書」の完結という大事業を成し遂げたドゥニ・ディドロ(Denis Diderot/1713年-1784年)はフランスの啓蒙思想家・作家で才能は多肢に渡り、機械論的唯物論の立場に立ち、広い分野にわたって著作を行った人物です。彼の著書には、哲学的著作「自然解釈断想」はもとより、小説「ラモーの甥」・戯曲「私生児」など芸術にも才能が溢れるばかりです。「思考と直覚」的には素粒子が発見されていない当時では原子は質的に同一と考察し、異質的な要素を分子に求めます。其れ故に、世界には異質的で多様な要素に溢れ、其れ等の結合が世界を構成していると解きます。其の説くところから導かれるのは、世界の多様性であり、結合の構成により無機物から人間の様体までを生み出すとします。興味深いのは、自然には無機物にも感性があり、有機体であるところの人間にも同様の感性を持っていると説くところに独自性があります。此の思考には後段に述べるライプニッツのモナド論に影響された節が見え隠れしています。通常、我々人間の思考は、石岩や金属を生命のない死んだものと考察していますが、ディドロは石岩や金属も無機物とは云えども変化と運動に参与しており、其れ等全て感じる性質であるところの「感性」が持ち、ただ、人間などの有機体に代表される有機物に備わる感性との相違は、無機物の感性は「死んだ感性」或いは「受動的な感性」と呼称し、有機物に備わる感性を「生きている感性」乃至「能動的な感性」と定義します。此の言を受け入れると、有機体としての人間が石岩や金属の無機物から区別されるにしても、人間は「絶対的な意味での死」へは移行しないことになります。即ち、人間のサイクルが、生から「一時的な死」更には「一時的な生」への移行を繰り返すことになります。此のことをディドロは石像を例にあげて説きます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月17日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/心源の無有夢幻-五(三百三十四) 本来的に「哲学」そのものの史的課題でもある実在についての問題の重要な根本的問題と並んで重要な課題の人間が内在していると想われがちな自己や自我については、世間的傾向では「自己なる私」という主体がいて、それが空間的に広がる世界に実在しているさまざまな物事を客体を時間的、言い換えれば持続的に認識していると考えるベルクソン哲学風に認識しています。しかし、中国四川省成都市生まれのイギリスの哲学者デレク・パーフィット(Derek Parfit/1942年- )は人間の人格を同一性についての還元主義と、非還元主義に分け、前者は自己は実体ではなく、そのつど生起し消滅するクオリアなど個別的現象に過ぎないと説き、非還元主義では魂のような絶対的な主体を想定し、それが通時的に「私」の同一性を成り立たせている根拠だとします。「思考と直覚」人間的には、「夢有夢有( うつし世はゆめ、夜のゆめもゆめ)」さもありなんと納得させられます。「坐禅(ざぜん、座禅とも)でも組まないかぎり、現実的には人間は時間と空間という形式によってしか物事を認識できないし、時間や空間の実在を否定するのは困難でしょう。ルネ・デカルトの懐疑論を超えた世界の在り方は表象ではなく「覚り」でしか実現され得ない世界だとも捉えます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月16日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/心源の無有夢幻-4(三百三十三) 人間の心・身問題を世界を物質存在そのものだと考察する以上、人間に内在すると思われがちな精神の内奥に眠る存在を、外感覚的刺激からの脳内ニューロン(neuron)の合成物質の成せる技であり、精神「心」は物質化学反応が齎せる合成物質の仮想に過ぎない極端な唯物論はさておき、史的には「哲学」は「実在」と人間の持つ「自我と自己意識」に対する見解に大別されます。「実在」に関しても実在論と非実在論の立場から存在論的な位置づけと心的因果の問題を、今時は自然主義の立場から、実用的実在論を前提に論点が変化してきています。然し乍ら、現在でも現象主義や観念論などのように実在論に反対する立場もあり、其の反対に位置する非実在論の中には、時間や空間の実在性を懐疑する根源的に位相な立場もあります。此の立ち位置はコアの爆発に始まる時間や空間の発生を人間を取り巻く環境世界に持ち込むもので、空間がなければ人間は自己の身体を認識し得ないし、時間がなければ自己の持続性が認識されないことに問題が生じますが、インド仏教哲学の正祖シッダールタの思考を思い浮かべれば納得させられることになりますが、此の立場からは人間の心の問題は「夢幻」であり「錯覚」に過ぎないということになり、もう一つの課題、自己や自我について影響を与えます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月15日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/心源の無有夢幻-3(三百三十二) 感覚に伴う独特な質感を表す概念である「クオリア」を物理現象に還元できるという立場の「還元主義」と、自己や自我というものは個別の意識現象に還元できるという人格の同一性問題における物理的立場の「還元主義」と自己や自我というものは個別的な意識現象に還元できるという人格の同一性問題における「還元主義」、自我の成立には何がしかの働き掛け、自我の成立を促す精神に眠る存在を暗示する「神秘主義が」は其れ其れに主張する根拠が異なっています。現代の自然主義とは心を科学的に扱おうとする前提に「自然主義(naturalism)」を自然科学の対象にしようとする傾向にあり、其の代表的なものがツーソン会議や国際意識科学会です。現代自然主義は実用的実在論を前提に現象主義や観念論を否定し、ルネ・デカルトやジョン・ロックの経験論を承継したジョージ・バークリーも主張を説くための引用に用いられる程度です。人間の「心」は19世紀には世紀に科学分野の「心理学」の「行動主義」を前提として、観察可能な人の言動に研究対象が限定されてきますが、現在、その行動主義は多くの難点が指摘され、機能主義が主流となっており、機能主義を前提とした心の科学である「認知科学」が主流となり、人の心とは表象の計算的な処理と考える「表象主義」が前面に出されます。但し、私的概念から言えば、感覚に伴う独特な質感を表す概念や現象的意識が科学の対象にできないとする立場を取ります。「懐かしい」とか「美しい」とかいう人間特有の「懐かしい」とか「美しい」とかいう認識は科学の対象外であり、其処に人間の潜在する精神の基底である理性の根源を予期するからです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月14日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/心源の無有夢幻-2(三百三十一) 感覚に伴う独特な質感を表す概念(クオリア)を物理的な性質に還元可能か否かを巡って、還元可能とする物理主義的立場と、還元不可能とする立場は大凡のところ一元論と二元論に大別出来ます。デカルト二元論(Cartesian dualism)はデカルトの実体二元論を意味しますが、彼の説くところの根本基底は、行きつくところ、神を世界の本元・起因とする精神存在と人間の外感覚的世界である物質世界、人間の観相では対立する二つの実体を想定する二元論に帰着するとは主張しますが、ルネ・デカルトの「実体」とは「それが存在するために何等のものをも必要としないものですから、そこには、厳密な意味での「二元」はなく、行き尽くところは「神」を起源とすること一元論に帰着しています。其のことゆえに、解釈上、現代では「二元論」という場合、デカルトの二元論は本質的ではなく性質二元論を意味することが多く、これは中立一元論とほぼ同じ立場であると解釈されます。中立一元論とは(Neutral monism)とは、現代哲学の「心の哲学」の分野で、心身問題に対して取られる立場のひとつであり、世界の究極的な実在として、物理的でも心的でもない一種類の中間的なものを考える立場です。現代的には実体二元論、性質二元論、中立一元論という還元可能とする物理主義的立場での論争がされています。其の相違点は全て人間のマインド(Mind)を単に肉体的特性とする唯物主観、神からの恩寵とする神秘主義、思考する存在其のものが「神」或いは其の世界理法の根本意識である観念論という構図で論争が行われている状況なのです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月13日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/心源の無有夢幻-1(三百三十) 人間は幼児時代に言葉を認識し、其の意味を意識したことにより「心(mind)」なる自我が芽生えます。それも自己に在る筈と意識或いは認識を誰に教わることもなく認識します。自我が芽生えを考察し、心源の無有夢現を存在論的な位置づけをもって探求することは、人間の霊性の是非を考察する上で欠くべかざるものです。人間の持つ現象的意識、外感覚的で物質的な心的反応、感覚に伴う独特な質感を表す概念、心の中で起こる精神現象を結びつけようとする史的には古参の心身問題と近世哲学である心的因果は人間の霊性の有無を探るうえで非常に重要な問題です。人間の精神は外感覚的刺激から反応する「情動」即ち身体に因する心の活動と、心源の「無有夢幻」を存在論的な位置づけをもって探求する観念論的な「一元論と二元論」が浮かび上がります。更に、現代にあっては、感覚に伴う独特な質感を表す概念(クオリア)を物理的な性質に還元可能か否かを巡って、還元可能とする物理主義的立場と、還元不可能とする立場(実体二元論、性質二元論、中立一元論)に大別されることもあります。なかでも、心的現象と脳の活動の対応関係を研究すし、神経科学の問題を「イージー・プロブレム」と呼び、その脳の活動からどのようにしてクオリアなどの心的現象が生まれるのか、またその心的なものは物理的な脳とどのような因果関係(心的因果)があるのかという問題を「ハード・プロブレム」と呼び、感覚に伴う独特な質感を表す概念(Qualia)が生じるのか其の因果関係を、人間心象の理法による基底そのものから起因する「ソフト・プロブレム」と呼んでいるデイヴィッド・チャーマーズを代表に近年興隆した「心の哲学」ではその意識のハード・プロブレムが最も活発に議論されています。オーストラリアのシドニー生まれで心の哲学の分野における指導的な哲学者のひとりデイビッド・ジョン・チャーマーズ (David John Chalmers/1966年4月20日-生存)、「心の哲学」という現代的命題の分野における指導的な哲学者のひとりが「心的メカニズム」、即ち、心的なものは物理的な脳とどのような因果関係(心的因果)があるのかという問題に取り組んでおり科学と哲学の関係にどの様な影響があるのかは今後の経緯に興味津々たるものがあります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月12日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/第一原因(三百二十九) 一般に人間は第一原因を「神」と捉え認識する場合、第一原因が自由意志を持っていると考えます。即ち、第一原因以外の存在すべてを、第一原因が「神的存在」が持っている自由意志にしたがって創造したものと考察します。此の前提に立ち位置を持つと、第一原因以外にも自由意志を持っている存在があることを安易に容認してしまいます。其の根拠は、第一原因以外のすべての存在が、第一原因が持っている目的のための手段として汎ゆるものを創造したとすることから起因します。此の立ち場の思考は、「あらゆる事象の生起は、 それに先立つ時点においてあらかじめ決定されている」 という命題の「決定論」(determinism)を否定し、事象の生起が自由意志を持つ存在によって 左右される場合を想定しています。其れ故に、人間存在を含めて宇宙における事象の生起が、必ずしも其れに先立つ時点で予め決定されているわけではないこととになり、第一原因である「神」が宇宙の事象に介入すること、神の目的を宇宙が達成する上で障害となる事象が「発生」した場合、 第一原因たる神は、その障害を修復するために宇宙の事象に介入し、宇宙の目的にとって障害となる事象の「発生が予測」される場合においても、 第一原因たる神が、 その障害を未然に防ぐために宇宙の事象に介入します。人間は神が意志様態の延長たる人間意識の深層にある理性の基底に眠る霊魂との繋がりを求める思考として、「神の擬人化」が発生し「初めに言葉ありき」の「旧約」を受け入れます。然し乍ら、「神の言語」とは外感覚的聴覚器官では捉えきれない霊魂への語りかけであり、其れを聴き理解する人間がいたとしても、凡そ他の人間には発声として聞き、或いは解する言語ではないでしょう。此処に宗教上の神の言語を解する「通詞」である「預言者」が出現することは衆知の事実です。但し、それら全てを擬物と決めつけるのは問題が有ります。外感覚的器官が捕らえたものだけを現実的環境世界とする物質主義者は、科学理論では認められた「無」の「存在」することも否定する傾向があるからです。「絶対存在としての世界の有」にしても「神の創造の世界」にしても、「無」の創造も其の範疇、「理法」の中に根拠は人間が「深層の霊魂及び科学理論」の合一を成したときには「真相」が顕われるでしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月11日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/第一原因(三百二十八) 第一原因を「絶対有」或いはある意味「神」と捉えても、当たらずとも遠からずと云え、其の意味するところには相違が生じます。第一原因を「絶対有」と観相すれば、現在世界に実存する全てのものは絶対有の意思・意識である理法の範疇に在り、其の中の絶対意識の様態の延長に過ぎない人間の相対的な行動に自由意思はあるものの絶対意識の「理法」を超えた行動は許されず決定づけられたものとなり、人間存在が自身は自由意思を持ち行動していると認識していても世界そのものには変化を齎さないでしょう。「絶対有」其のものには原因がある筈もなく結果もなく、まして時間観念が入る余地はなく、世界に初めが在り、エントロピーを経て終りが来るにしても其の経緯は自らの創造の無限世界の俯瞰であり我々人間の感性が永久の時間、無限の時間の指向性を認識するにしても「絶対有」には「一瞬の理」であり「有」が「無」に変怪しない以上循環形態が予想されます。第一原因を「絶対有」と観相すれば世界は変化しているように人間の意識は捉えても「絶対有」には其れは「一丸なるもの」です。其のこと故に、どの様な時点・位置・次元に人間意識が「絶対有」の変状の様態を覚れば、其の感性に触れることは可能です。其処には「無」は「有存在」の範疇の「内存在」であり「絶対有」の対抗・対立するものではないことに第一原因を「絶対有」と捉えると解釈されます。但し、其のことを人間意識がたとえ共鳴出来得たにしても、無の存在を確認は出来ないことは、「絶対有」配下の存在である限りのの人間意識の限界だとも云えましょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月10日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/第一原因(三百二十七) 世界の創造から滅び其の後の経緯、但し、宇宙の膨張の経過を経ない以上時間そのものが存在しないので人間の思考の時間線上で世界を捉えることは不可能事です。世界は先ず科学理論や物理科学を超えた、其れ故に、哲学的理論における次元を超えた「第一原因」から始まります。其れは人間の思考からは超然とした「絶対意思・絶対意識」たる存在さえ問うことも慮しい「第一原因」たる「なにものかはハテナ(?)」ではあるものの、或る意味では、ビッグバンを引き起こした「核(コア)」でもあり、此処からは物理科学が理論上捉えるところの137億年前引き起こされた「ビッグバン(Big bang)」、大宇宙世界への膨張に先立つところの瞬間ともいえる経過の素粒子の誕生、其の後の世界のあらゆる物質に質量を齎す存在である、「神の粒子(ヒックス)」が「ビッグバン(Big bang)」誕生の時間が登場していれば、その時間誕生とともに100O億分の1秒後に其の時点の宇宙を「ヒックスの海」で満たし、其れまでの質量がなく光速で運動する素粒子に抵抗を与え、光速の速度を鈍らします。此のことが現在の宇宙の生成と成形を可能にします。現代科学は此の粒子が暗黒物質、見えない「無の粒子」とする説もあります。簡単に喩えれば、ビリヤードのハスラーが「第一原因」が自己の自由意思を持ってキューの一箇所を目的的に突きますが、玉は其の存在の意思を知り得ません。然し乍ら、其の力は自らの意思を超えて動かされます。最終的にはナインボールであれば終了位置に納まりますが再生はハスラーの自由意志です。「第一原因」を哲学的に捉えるか、宗教的に捕えるかにより結末に変化はあるでしょうが、ゲームの再開或いは人間のみならず世界の再生は、失敗を知らないハスラーの意向に従うのが常でしょう。各ナンバーボールは自己の納まり処を知らずとも再びに台上に並ぶことを期待するのが、人間精神の気魂を霊魂と捉え、絶対存在である「有」の「絶対意思・絶対意識」の様態の変状と解釈する人間は主儚き傍とはいえ、人間思考を超えた「絶対意思・絶対意識」に接する機会が与えられ人間からの一方的愛に過ぎなかったとしても其の共感は霊魂に歓喜を齎す筈です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月09日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/第一原因(三百二十六) 「核(コア)」の想像するだに出来ないエネルギー爆発からはじまるビッグバンからの宇宙空間膨張に伴う運動と時間と空間は、「究極の存在」である第一原因そのものです。其のこと故に、第一原因が時間線上のラインに則(のっと)って始まりが在り、終りがあるのは矛盾します。第一原因は究極の始まりであり終わりを完結し、自らの絶対意思が望むところがあれば、再生の段階を踏むでしょうが、其れを人間の世界理法内の限度内に於いての自由意思しか与えられない人間の限られた思考では、「究極の存在」である第一原因はあ何でも出来得ることから、あれやこれやの選択要素がありそうにも考察することもある訳ですが、初めで結果の存在は世界そのものの全体であるから場面に対応した自由意思は持ちません。何故なら、自由意思とは彼我の迷い或いは其の選択から生じる要素だからです。第一原因が自ら創生した世界内存在の死滅を齎すとすれば、其のことは第一原因の欠損を示すことになり有り得ざることであり、見掛け上の有無を次元単位で現しているに過ぎないことは語るに及ばずです。自由意志とは完全体からの様態の限度に於いて不完全体に備わった能力であり其の自由も人間の精神内の根底の理性の中に第一原因との共鳴性を抱(いだ)ける特異性ある能力を持つ人間以外には不可能事であることは明白です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月08日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/第一原因(三百二十五) 「究極の存在」である第一原因が、無限の過去から存在していて、 無限の未来に向かって存在するとする時間線を取り入れたい心境は理解できますが、「究極の存在」である第一原因は「核(コア)」の爆発からはじまるビッグバンからの宇宙空間膨張による質量子・重力子・光子に伴う時間・次元とは異相であり時間の経過は意味を成し得ず、第一原因が変幻自在でない限り時間線上を超えた、例えれば、X軸に対するY軸のように、時間線上を離れた「永遠の瞬間(Eternal moment)」として、三角錐の頂点に位置しています。其れ故に、「第一原因」言い換えれば「最終の結果」には時間は意味を成しません。神学論では第一原因の自由意志を認証していますが、「完全体」が何の不足があって絶対である意思を変更する必然性があるのでしょう。原因を知り結果を知るものが、人間の定義する自由意思とは関わりをもつ筈もなく、第一原因以外の全ての通常には存在すると表現されるものは、ビリヤードのゲームの其台を転がる球であり、球を撞くハスラーの意に背いた運動は出来得ない限定内の自由意思しか持ちえません。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月07日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/第一原因(三百二十四) ルネ・デカルトであれ、唯物主観・外感覚的経験主義・歴史的弁証法の発展型のマルクス主観を立ち位置に思考するもの、認識論・観念論に立ち位置を求める人間も二者の間の因果律の関係の成立みならず、たとえ、現代科学の云う結果が原因に影響を齎すこともあることを認証するのでない限り、二者の因果関係を否定はしません。史的唯物論は、その面では人間存在が出発点とする社会主観の立場に立つものですから人間の社会形態を前提としており、二者間の超えた第一原因なる思考方法は認めません。ヘーゲルの弁証法は二者間に現れる正否、乃至、正非或いは、ある意味、始めに人間ありきとの立場をとっている以上当然だともいえます。然し乍ら、人間に精神の深層に理性があると認識する以上は此のヘーゲルの弁証法の立場では霊魂の救済は語ることは出来得ません。つまり、霊魂存在の立場に立つ人間の思考は「第一原因」を絶対存在・絶対意思・絶対意識と捉えない限りにおいて、大宇宙や神的存在は内部的存在となります。それならば、意図的に其の存在下のものを自由意思をもって変幻自在に左右することが有り得るのかというと、「核(コア)」爆発からはじまるビッグバン(Big bang)、其れに続く空間・時間さえ自らが成し得る「有」には「自己認識」さえ必要としない「完全体」であり、例外として、絶対意思にとって障害となる事象の発生が予測されるときに、その障害を未然に防ぐために大宇宙並びに、其の他人間が其の絶対意思の延長にある限りにおいて事象に介入し得ることはあっても其れは一種のバランスの問題であり絶対存在、即ち、「究極の存在」である第一原因の預かり知らぬことです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月06日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/有の夢想(三百二十三) 一般的には小宇宙を含有した世界(大宇宙)は収縮及び膨張の如何なる方向へも進捗する無限或いはある意味、大宇宙を有限とは言い得ても膨張する巨大なバルーンの表面に張り付いた状態を想像すれば其処には果ては存在しません。一点を定めて無限に光速以上で運動する人間も世界の果てには到達できずに遂には自己の姿の背面を見ることになるでしょう。其処には有限・無限の根拠さえ見当たりません。而うして、 空間は、如何なる方向へも無限に広がっており、時間は、過去の方向へも未来の方向へも無限に続いていると人間の精神は安直に捉えています。「宇宙」(universe)は、すべての物質とエネルギー、 並びに、物質とエネルギーがその中に充満している時間と空間のことです。重力子から光子更には時間を生み出した「核(コア)」ビッグバン(Big bang)の件は別として、大宇宙が膨張収縮を時間線にそって繰り返しているということです。つまりは、宇宙には始まりと終わりとがあり、其の際は「時間」さえ意味を持たなくなっているでしょう。然し乍ら、コアからビッグバン更には大宇宙に拡がりを見せた存在にも第一原因がある筈です。其れを大宇宙そのものと見るか、偏在する「有」とみるか、大宇宙そのものとはかけ離れた何らかの「意思」と観想するかによって、物理科学・哲学・信仰と其れ其れの思考法が異なっています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月05日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/無有(三百二十二) 人間存在は胎盤から現実環境世界に接触した時を誕生と規定しますが、果たして其れが真相と言い得るかは甚だ疑問です。胎盤に吸着する以前には選ばれた精子であり卵子の結合は、たゆまぬ進化、其れを胎児は胎盤の中で体験することになるのですが、歴史のもとに育まれた生命の営みの最先端を現しています。地球、更には宇宙進化の過程において生命、とりわけ、生命の中で理性を持つ人間が生まれたのは、無から人間の生命、しいては、人間精神活動が生まれたのは、精神内活動の根底の理性が、無から存在へと変遷することは有り得よう筈もないことから、ルネ・デカルトの「方法序説」の思考法「懐疑論」を持ってしても、自己を第一原因とするとする主張は出来得ませんでした。ビッグバン(Big bang)其のものが第一原因ならば「コア(核)」には原因がないことになり、将亦、宇宙最終章のエントロピー(崩壊)或いはホワイトホールへとの道程が第一原因ならば甚だ矛盾することになります。或いはブラックホールからホワイトホールへとの新たなるとの循環が証明されれば、其の循環形態全体が第一原因と看做すことが可能かもしれませんが現時の物理学は其処までには到達していません。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月04日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/完全体(三百二十一) 完全体が宇宙、小宇宙を含有した大宇宙の存在そのものか、将亦、其の大宇宙の外存在そのものかは議論の別れるところです。仮に世界、大宇宙を創造するものをビリヤードのキューを突くハスラーとするならば大宇宙は彼を創造主と認識するでしょう。対して絶対者である存在そのものが大宇宙の其のものであり完全体とするならば、其れはビリヤードのゲームの其台そのものでとなります。其の中の運動はその基台を敷くものにはルールは設けるものの台上の自由運動には関与はしません。世界の理法としての基底はあるものの行動並びに運動は理法の範囲内では従順に従えば己の信ずる道を征けばよく、反するならば不条理として世界の均衡上、基台からはルール上、台上からは放逐処分、即ち、無かったことにされます。此のことは、世界が空間と時間を含み、 空間は、いかなる方向へも無限に広がっていて、 時間は、過去の方向へも未来の方向へも無限に続いているのを第一原因と認証すれば、人間意識の基底にある精神、とりわけ其の深層にある霊魂に関して絶対意識が灰燼に帰す意思があの有無を問わず、ともあれ、其の力を持っているのは至極当然だと捉えられるでしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月03日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/因果律の特例(三百二十) 人間の思考を持って「結果」(effect)を考証し究明すると、結果は更なる原因を要求し其の原因も、結果であれば更なるなる原因を求め、順次遡っていきますが、二者の関係ならばともかくも因果関係も無限に遡れば、いずれかには、 「すべての事象には必然的に何らかの原因が存在する」 という命題である因果律の特例、起因の第一原因(Section One: Causa Prima)に辿り着く筈です。現代物理学を除けば人間の思考は原因を持たない事象というものが、 ひとつだけ存在し、其れ故に、因果律は偽であるという課題を突き付けられます。天羅万象全ての事象には、結果には原因があり その原因にもさらに原因があるというように、 事象から構成される因果関係の系列というものを放棄せざるを得ない次元に導かれます。即ち、其れ以上の原因を持たない事象に事象に到達するるとするのが人間思考の常識的な判断でしょう。其の「因果関係」を離れた第一原因とはとは結果を齎す限りは哲学的には「無」の中でも「虚無」には分類出来得ない何らかの意思的存在、創造意識を全うする存在、絶対意識・絶対意思のみで世界を創造する「絶対有」、存在するすべてのものの全体を意味します。言い換えれば「世界全体」が其の「絶対有」に主張する説にとっては「無限次の拡大や超越拡大する完全体(Perfect)」であり、当のものが自己や我などを離れ超越した、自らを考慮することなど必要とはしないし、在る得ざることです。「完全体」は自らの行為を思考する筈もなく無縁の存在です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月02日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/哲学的因果律(三百十九) 哲学とりわけ世界の創造の起因としての起原、人間の思考する存在として在らしめる根底、ニーチェ曰く「神は死んだ」とする対極にあって同様に呼称される「虚無」即ち全てが虚報に基づくことを根底に全ての実存は仮想にすぎないという立場其れ其れの語意が異なれば相互の批判且つ理解は不可能です。今日的な物理科学はAとBが事象だとするとき、 AがBを生起させるという関係がそれらのあいだに存在するならば、 AをBの「原因(cause)」と呼称する第一原因(Section One: Causa Prima)をも否定する理論を展開しています。即ち、結果が原因の引き金になることもあるわけですが、確実な認証はされてはいません。人間の思考する素朴な精神は一般的には「結果」(effect)があれば「原因」(cause)があると思考します。詰まり、一方が他方を生起させるという関係、「因果関係」(causal relation, causation)を当然の如くに受け入れています。其の「因果律」(causality)というのは、 「すべての事象にはかならず何らかの原因が存在する」というのは真相を突いているのかと云えばそうでもなさそうです。現代物理科学理論には結果が原因を促す、更に宇宙粒子「無から存在(有)の発生」理論があります。とはいえ、哲学の骨子としての因果関係は今日にあっても覆ってはいませんので「因果律」は、哲学の存在論や霊魂観念及び神学論も因果関係を無視する段階には至ってはいないことは衆知の事実です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年01月01日
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