Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年02月06日
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カテゴリ: 霊魂論
内的霊的衝動の写しとしての美術史
 第1講 ドルナハ  1916年11月8日-4
第3講  中欧ー北方の芸術衝動を理解するための基礎
     中欧ー北方の芸術と南方の芸術の対立と関係
デューラー及びホルバインに至るドイツの彫刻と絵画
 中部ヨーロッパには常に、反抗する(revoltierend)要素、反抗する衝動があり続け、これはとりわけ芸術のなかに顕著に認められ、常に意志の要素、動きの要素、表現の要素を強く形作ることを目指している傾向があります。、そのため、南から入ってくるものも西からも入ってくるものも、多かれ少なかれ何度も押し戻されるという結果になっています。中部ヨーロッパにおいてひとは、ローマ的なものも、後にはゴシック的なものでさえも、何か疎遠なものと感じるのです。いったい何を疎遠な要素と感じるのでしょうか。個人的なものを何らかのしかたで否定しようとするものをです。ローマ的なものを個人的なものの敵と感じ、後にはゴシック的なものさえも、個人的なものをその下で呻吟させるものと感じるのです。別の分野に--宗教改革のなかに--現れてきた気分、タウラー{1300頃ー1361}あるいはヴァレンティン・ヴァイゲル{1533-1588}といったような精神のなかにすでに現れていた気分が、芸術的なもののなかにまったく特別に存在しているのです。これらすべてから明かになるのは、いかにゴシックが、ローマ主義が、中部ヨーロッパの本質のなかに滑り込み、完全にそれを覆いつくすかを見るなら、実際デューラーの数世紀前に、中部ヨーロッパ的本質そのものは、ある意味でそれ自身の衝動においては衰え、ほかのものに完全に覆いつくされたように抜け出すことができずに回復することができないということです。けれどもそれは生き続けます。思考のなかに、感覚のなかに、感情のなかに、それは生き続けているのです。それは常にあります、それをことさらに表現する芸術家はいないかもしれませんが、それは常に存在しているのです。それは、のちの自然観照、天と地を理知的に結びつけ、すなわち地上にも見出される法則を通してほかのあらゆるものを捉えようとする自然観照から語りかける要素と同じ要素です。けれどもこの内部にはさらにまったく別のものもはたらいています、そして、そこにはたらくものは、ゲーテが語り、書き留めた言葉のなかに見事に表現されうると言うことができます。書斎のなかのファウストを考えてみてください、その書斎はおそらくゴシック的に想定されている筈ですね。けれども彼はローマ主義とみなされねばならないものすべても研究しました。これに彼は人間の個(Individualitaet)を対置します、純粋に自己に立脚する(auf sich gestellt)人間の個です。けれどもこの人間の個というもの、かれはこれをどのように対置するのでしょうか。ファウストがいかに人間の個を、彼がこのときそのなかに置かれているものに対置するかを理解したいと思うなら、次のことを考慮しなければなりません、つまり私が申し上げたいのは、今日中部ヨーロッパにはほとんど気づかれることなく、中部ヨーロッパを壮大なしかたで東方に結びつけるもの、真に壮大なしかたで東方に結びつけるもの何かがはたらき続けているということです。古ペルシア文明においていかに光と闇が、オルムズドーアーリマン(*アーリマンとはゾロアスター教の創世神話に登場する神の一柱。一般的にアンリマユと呼称され、人間にとって”悪”や”苦痛”とされるのが役割)を演じていたか、今日読んだり聞いたりされるとき、それはあまりに抽象的に受け取られています。かつての時代の人々がいかに具体的なもの、リアルなもののさなかに立っていたか、考えてもみないのです。相互に働きかける真の光と真の闇というのは、ほんとうにかつての時代の人々の体験だったのです、そしてこの体験は、南方の並置するフォルム衝動、構成的な衝動よりは、運動、表現の契機、衝動に近しいものでした。光と闇が世界の活動のなかに織り交ぜられるさま、人間や動物としてこの地上を歩むものへと光と闇がその作用を投げかけるさま、それが生み出すのは、まさに光と闇のなかに感じ取られ、さらに光と闇から色彩へと上昇しつつ受け取られる関係です、人間のなかの魂的な表現であり動きのなかへと流れ込むものと、南方の芸術が表現にもたらしうるものよりは、この天的・霊的なものの動きの衝動とでも申し上げたいものに近しいもの、この両者の関係が生み出されるのです。人間は歩んでいき、人間は頭をめぐらせます。一歩あゆむたびに、頭をめぐらすたびに、異なった光ー影の衝動が現れるのです。運動と光との関係を観照することのなかにはいわば、地上的自然を元素的(エレメンタル)なものへと繋ぐ何かがあります。そして、元素的なものと、直接に地上的なものとのこの交錯のさなかに、中部ヨーロッパの人間のファンタジーは、彼がファンタジーへと上昇発展してゆくことができれば、とりわけ強く生きていたのです。したがって、これは今日までほとんど気づかれていないことですが、中部ヨーロッパにおける色彩も、南方における色彩とはまったくちがったしかたで生じるのです。南方における色彩は、自然本質の内部から浮かび出てきた色彩、表面へと浮き出てきた色彩です。けれども中部ヨーロッパでファンタジーのために生じた色彩は、明暗(Hell-Dunkel)から投げかけられた色彩、表面へと投じられた色彩、表面で戯れる色彩なのです。色彩付与において生じるこの違いを理解し、色彩がいかに表面へと”投げかけられる”か、あるいは色彩がいかに対象そのもの”から出て”、対象の内部から表面へとやってくるか、これはその後南方の芸術的な色彩となった色彩ですが、こういうことを見通してはじめて、今日まだよく理解されていない多くのことが理解できるようになるのです。投げかけられた色彩、明暗から生じた色彩、うねり波打つ明暗からきらめき出る色彩、これが中部ヨーロッパの色彩なのです。このように物事はいたるところで入り組み交錯し、多層的に重なり合っているため、この衝動は非常に観察されにくいのですが、こういう衝動はまったくたしかに存在します。よろしいですか、中部ヨーロッパにおいてこれはさらに魔術的な要素と申し上げたいものと結びついて
います、ちょうどペルシア文化そのもののなかで、明暗、光と闇が、ペルシア的マギ文化(Magiertum)と結びついていたように。魂的ー霊的存在の秘密に満ちた表出、これは同時に人間のなかでも、明暗の元素的な働きとうねりのなかでも戯れ、人間を取り巻いて漂い共に働きかけ、一方その内面は、明暗として、そして明暗からきらめき出る色彩存在としてその回りを戯れるものとの隠れた親和性に入っていくのですが、これは、自らのうちに常に意志の要素を秘めているものであり、魂が感じ取るものを魔術的なものに結びつけるものです。けれどもこれによって人間は、エレメンタルな(元素的な)存在たち、最初は元素的なもののなかに顕現するあの存在たちと関係を持つようになります。ですからファウストは、南方からやってくる哲学的、医学的、法学的、神学的要素と縁を切ってから、魔術に没頭するのです。けれども彼は自己自身に立脚しなければなりません、個人性(Persoenlichkeit)に立脚することによってひとが置かれるものを前にして、怖じ気づくことは許されないのです。彼は地獄と悪魔を前にしても恐れてはならず、明と暗を通過して歩んでいかなければなりません。けれども彼自身が--考えてもごらんなさい、なんとすばらしく息づく曙光のなかで躍動しているではありませんか。この明暗がファウスト独白のなかに入り込んでいるでいるさま、これは実に驚くべきものです。けれどもこれはまさに、中部ヨーロッパの衝動と親密に関わり合っているものであり、中部ヨーロッパの本質から描かれまた詩作されたとでも申し上げたいものなのです。これによって、人間と、自然主義的、元素的な存在との関連が生じます。そしてこの動向は、キリスト教の伝承とともにちょうど南部からやってくるものの把握のなかにも入り込み、中部ヨーロッパをアジアと関係づけるものは、古いアジア文化にまで入り込んで反抗するのです。これらの物事は入り混じって進行します。そしてこうした展開のなかに--言うなればまったく独自の人物のようにデューラーが置かれるのです、彼は1471年に生まれ、1528年に死にます。

参照画:272 デューラー-フュアレーゲリン嬢




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最終更新日  2024年02月06日 06時08分10秒
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